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科学と創世記

科学と創世記

そうぞうについてせいしょかれていることはがくてきではない,とひとすくなくありません。しかし,がくてきでないのはせいしょそのものではなく,キリストきょうこんぽんしゅしゃたちがっていることです。いちこんぽんしゅしゃは,せいしょによればぶっしつかいすべてのものはやく1まんねんまえに24かんを1にちとする6かんされた,としゅちょうしています。

せいしょはそうはっていません。もしそうっていたら,100ねんかんおおくのがくてきはっけんによって,せいしょちがっていることがしょうめいされたことになるでしょう。せいしょちゅうぶか調しらべると,じっしょうされたがくてきじつはんすることはなにかれていないことがかります。エホバのしょうにんは,おおくのキリストきょうこんぽんしゅしゃとくしゅそうぞうせつしゃおなじようにはかんがえていません。では,せいしょじっさいにはどんなことをおしえているかていきましょう。

ちゅうきゅうがわずかすうせんねんまえに,24かんを1にちとする6かんそうぞうされたというのは,せいしょおしえていることではない。

はじめ」とはいつのことか

せいしょそうせいは,「はじめに,かみてんそうぞうした」というかんけつことはじまっています。(そうせい 1:1おおくのせいしょがくしゃみとめていることですが,ここでわれているのは,3せつこうべられているそうぞうの6かんとはべつごとです。ですから,ちゅうきゅうそうぞうの6かんはじまるまえからそんざいしていた,ということをせいしょしめしているのです。

しつがくしゃきゅうねんれいやく46おくねんており,てんもんがくしゃちゅうねんれいやく140おくねんすいていしています。そうせい 1しょう1せつには「てん」がどれほどむかしそうぞうされたかがはっきりかれていないので,がくてきけんきゅうけっじゅんしてはいません。

そうぞうの6かんはどれほどのながさか

そうぞうの6かんは,それぞれどれほどのながさだったのでしょうか。24かんでしょうか。あるひとたちはそうかんがえています。そのこんきょとして,そうせいいたモーセのこといにします。モーセはしゅうごとのあんそくについて,かみそうぞうの6かんつぎやすんだことがもとになっているといました。だからそうぞうの6かんはそれぞれ24かんだったにちがいない,というわけです。(しゅつエジプト 20:11)でも,そうせいかれていることは,じっさいにはそのようなかんがえとっていません。

」とやくされているヘブライは,さまざまなながさのかんせるので,24かんとはかぎりません。たとえば,モーセはかみによるてんそうぞうについていたまとめのぶんで,そうぞうの6かんぜんたいを1にちとしています。(そうせい 2:4)さらに,そうぞうの1にちについて,「かみひかりひるび,やみよるんだ」ときました。(そうせい1:5)ここでおなじヘブライが「ひる」とやくされていますから,24かんまんながさもあいがあることがかります。ですから,そうぞうの6かんがそれぞれ24かんだったとだんていすることはできません。

では,そうぞうの6かんはどれほどのながさだったのでしょうか。せいしょからははっきりとはかりませんが,そうせい 1しょう2しょうないようからすると,かなりながかんだったとかんがえられます。

そうぞうの6かんきたこと

モーセはそうぞうについて,ヘブライで,またきゅうじょうにいるひとてんきました。この2つのじつと,そうぞうの6かんはじまるまえからちゅうそんざいしていたこととをかんがわせると,そうせいがくてきせいかくかどうかについてのもんおおくはかいけつされます。どういうことかかんがえてみましょう。

ある「」にはじまったことがのちの「」にもつづいた。

そうせいちゅうぶか調しらべると,ある「」にはじまったことがのちの「」にもつづいていることがかります。たとえば,そうぞうの「1にち」がはじまるまえたいようはすでにそんざいしていましたが,たいようひかりひょうとどいていませんでした。あつくもさえぎられていたとおもわれます。(ヨブ 38:9)「1にち」のあいだに,ひかりさえぎっていたものがなくなりはじめ,たいとおってかくさんしたひかりひょうとどくようになります。 a

2日ふつか」には,たいがさらにみ,じょうほうあつくもしたうみとのあいだくうかんができたようです。「4」には,たいがいっそうんでいき,「てんに」たいようつきあらわれるほどになりました。(そうせい 1:14-16)つまり,ひょうからたいようつきえるようになったのです。こうしたごとじょじょきました。

たいがさらにんでいくにつれて,そうせいによると,「5」にはものあらわはじめました。ものにはこんちゅうや,まくでできたつばさせいぶつふくまれます。

このように,せいしょせつめいからすると,そうぞうの6かんのそれぞれのきたおもごとたいていそくにではなくじょじょきた,とかんがえることができます。のちまでつづいていったごともあったでしょう。 b

さまざまなしゅるいどうしょくぶつ

どうしょくぶつじょじょしゅつげんしたということは,かみしんみちびくことによってしゅようせいぶつしたということでしょうか。そうではありません。そうせいには,かみどうしょくぶつほんてきな「しゅるいすべてをそうぞうしたとはっきりかれています。(そうせい 1:11,12,20-25)では,それらのどうしょくぶつかんきょうへんてきおうするのうりょくつものとしてせっけいされていたのでしょうか。どこまでが1つの「しゅるい」なのでしょうか。それはせいしょからはかりません。とはいえ,どうしょくぶつが「しゅるいしたがって」されていったということはかれています。(そうせい 1:11きゃくちゅう)そのことからすると,1つの「しゅるい」のなかしょうへんにはげんかいがあるとえるでしょう。せきろくきんねんけんきゅうからもかるとおり,どうしょくぶつほんてきなカテゴリーはじょうながねんげつけいしてもほとんどわっていません。

きんねんけんきゅうからもかっているとおり,すべてのせいぶつは「しゅるいしたがって」はんしょくする。

これまでかんがえてきたように,ちゅうきゅうきゅうじょうせいぶつすべてはそれほどとおくないむかしたんかんそうぞうされたというこんぽんしゅしゃたちのしゅちょうは,せいしょおしえていることではありません。ちゅうそうぞうきゅうじょうせいぶつしゅつげんについてそうせいかれていることは,さいきんがくてきはっけん調ちょうしています。

おおくのがくしゃぶんしんねんゆえに,かみすべてのものをそうぞうしたというせいしょおしえをれようとしません。でもきょうぶかいことに,だいにモーセがいたそうせいには,ちゅうはじまりがあることや,せいぶつだんかいてきしゅつげんしたことがかれています。モーセは3500ねんほどまえひとなのに,どうしてそのようながくてきせいかくじょうほうられたのでしょうか。てんそうぞうするちからっているかみなら,そうしたじょうほうをモーセにあたえることができたはずです。ですから,「せいしょぜんたいかみせいなるちからみちびきによってかれた」ということにはたしかにせっとくりょくがあります。 cテモテだい 3:16

そうぞうについてせいしょかれていることをしんじるかどうかは,きていくうえたいしてじゅうようなことではない」とおもひともいるかもしれません。でも,じっさいにはすべてのひとにとってじゅうようなことです。そうえるゆうかんがえてみましょう。

a 「1にち」のごとについてのせつめいなかひかりして使つかわれているヘブライはオールで,ひかりぜんぱんあらわことです。いっぽう,「4」のごとについて使つかわれているマーオールということは,こうげんします。

b たとえば,そうぞうの6かみにんげんに,「えて,じょうぜんたいひろがり……なさい」といました。(そうせい 1:28,31)でもこのことがじっさいはじまったのは,「7」になってからでした。(そうせい 2:2

c くわしくはjw.orgにある「せいしょないようしんじつであるとかくしんできるのはなぜですか」というみじかどうをごらんください。