研究記事4

「聖なる力が……証明します」

「聖なる力が……証明します」

「私たちが神の子供であることを,聖なる力が私たちの精神と共に証明します」。ローマ 8:16

147番の歌 特別な所有物

を学ぶか *

エホバはペンテコステの日に目覚ましい形で,120人ほどの弟子に聖なる力を注いだ。(1‐2節を参照。)

1‐2. 西暦33年のペンテコステの日に,どんな目覚ましいことが起きましたか。

西暦33年のペンテコステの日,エルサレムでのことです。日曜日の午前中です。イエスの120人ほどの弟子たちが,ある家の階上の部屋に集まっています。(使徒 1:13‐15; 2:1)イエスは少し前,エルサレムを離れないよう弟子たちに指示していました。弟子たちに特別なものが与えられるからです。(使徒 1:4,5)この日,何が起きましたか。

2 「突然,激しい風が吹き付けるような音が天からして」,家全体に響き渡ります。そして,「炎のような舌」が弟子たちの頭上に現れ,皆が「聖なる力に満たされ」ます。(使徒 2:2‐4)エホバはこのような目覚ましい形で,弟子たちに聖なる力を注ぎます。(使徒 1:8)弟子たちは聖なる力によって選ばれた *最初の人々となり,イエスと共に天で統治するという希望を与えられました。

聖なる力によって選ばれる時,どんなことが起きるか

3. ペンテコステの日に集まっていた人たちは,聖なる力によって選ばれたことがはっきり分かりました。なぜですか。

3 もしあなたが階上の部屋に集まっていた弟子の1人だったら,その日に起きたことを忘れないでしょう。舌のような炎が頭上にとどまり,外国語を話せるようになったからです。(使徒 2:5‐12)自分が聖なる力によって選ばれたことは明らかです。では,聖なる力によって選ばれる人は皆,このような目覚ましい形でほかの人たちと同じ時に選ばれるのでしょうか。そうではありません。なぜそういえますか。

4. 1世紀に聖なる力によって選ばれたクリスチャンは皆,同じ時点で選ばれましたか。説明してください。

4 どの時で選ばれるのか,という点を考えましょう。西暦33年のペンテコステの日に120人ほどのクリスチャンが選ばれましたが,当日選ばれたのはその人たちだけではありませんでした。同じ日の少し後,ほかにも3000人ほどが選ばれました。聖なる力を受けたのは,バプテスマを受けた時です。(使徒 2:37,38,41)しかしそれ以後にクリスチャンになった人は,必ずしもバプテスマを受けた時に聖なる力によって選ばれたわけではありません。例えば,サマリア人が聖なる力によって選ばれたのは,バプテスマの後しばらくたってからのことでした。(使徒 8:14‐17)さらに,まれなケースですが,コルネリオと家の人たちは,バプテスマを受ける前に聖なる力によって選ばれました。(使徒 10:44‐48

5. コリント第二 1章21,22節によれば,人が聖なる力によって選ばれる時,どんなことが起きますか。

5 人が聖なる力によって選ばれる時,どんなことが起きるかということも考えましょう。選ばれた人の中には,自分が選ばれたことを意外に思う人もいるかもしれません。「なぜエホバは私を選んだのだろう」と思うのです。他方,選ばれたことを自然に受け入れられる人もいます。いずれにしても,聖なる力によって選ばれる人にどんなことが起きるかを使徒パウロは次のように説明しています。「皆さんも……信じた後,キリストにより,約束されていた聖なる力で証印を押されました。 * それは私たちが財産を受けることを前もって保証するしるしで[す]」。(エフェ 1:13,14,脚注)このように,エホバは聖なる力を使い,選ばれたことを本人に非常に明確に知らせます。聖なる力はその人たちが将来地上ではなく天で永遠に生きることを保証する「しるし」,または誓約となります。コリント第 1:21,22を読む。)

6. 聖なる力によって選ばれたクリスチャンには,どんな努力が求められますか。

6 では,聖なる力によって選ばれたクリスチャンは必ず天に行けるのでしょうか。そうではありません。その人は,自分が天に行くよう選ばれたことをはっきり知っていても,次の助言を心に留めなければなりません。「兄弟たち,招かれ選ばれた者であり続けられるように,いっそう努力してください。これらのことを行い続けるなら,決して失敗には至りません」。(ペテ二 1:10)天に行くよう招かれ選ばれた人でも,忠実であり続けなければ報いを受けることはできません。(フィリ 3:12‐14。ヘブ 3:1。啓 2:10

自分が選ばれたことをどのように知るのか

7. 天に行くよう招かれた人は,そのことをどのように知りますか。

7 天に行くよう招かれた人は,そのことをどのように知るのでしょうか。答えは,パウロの手紙に明確に記されています。「招かれて聖なる人とな[った]」ローマのクリスチャンに宛てた手紙です。「皆さんは,聖なる力により奴隷とされて再び恐れを抱いたのではなく,聖なる力により養子とされたのであり,その力によって私たちは『アバ,父よ!』と叫びます。たちが神の子であることを,聖なる力が私たちの精と共に証します」。ロマ 1:7; 8:15,16)エホバは,選ばれた人が天に行くよう招かれていることを,聖なる力によって本人にはっきり示します。(テサ一 2:12

8. 天に行くよう選ばれたクリスチャンは,そのことを誰にも確かめる必要がありません。ヨハネ第一 2章20,27節には,どんな理由が書かれていますか。

8 天に行くよう招かれた人は,そのことを全く疑いません。招かれたという自覚をエホバが本人にはっきり持たせるからです。ヨハネ第 2:20,27を読む。)もちろん,選ばれたクリスチャンは他の兄弟姉妹と同じように,会衆を通してエホバに教えられる必要があります。しかし,選ばれたことを誰かに確かめないと不安になる,ということはありません。エホバはその人が選ばれていることを,宇宙で最も強い力である聖なる力によってはっきり示すからです。

天に行くのは「再び生まれ[た]」人

9. エフェソス 1章18節によると,エホバに選ばれる人は,考え方がどのように変わりますか。

9 天に行くよう選ばれる人は,どのようにそのことを知るのでしょうか。今日エホバに仕えている人の多くは,説明されても分かりにくいと感じます。選ばれていない人がそう感じるのは,当然の反応です。エホバは人間を造った時,天ではなく地上で永遠に生きるように造りました。(創 1:28。詩 37:29)しかしエホバは,一部の人間を選び,天で生活するようにしました。聖なる力によってエホバに選ばれると,その人の希望や考え方は大きく変わり,天での生活を楽しみにするようになります。エフェソス 1:18を読む。)

10. 「再び生まれ[る]」とはどういうことですか。(脚注を参照。)

10 クリスチャンは聖なる力によって選ばれると,「再び生まれ」ます。「上から生まれ[る]」と訳すこともできます。 * イエスは,「再び生まれ[た]」人,または「神の聖なる力によって生まれ[た]」人がどのように感じるかは,選ばれていない人にはどう説明しても理解できない,ということを暗に語りました。(ヨハ 3:3‐8,脚注)

11. 神から選ばれる時,考えはどのように変わりますか。

11 クリスチャンが神から選ばれる時,考えはどのように変わりますか。エホバによって選ばれる前は,地上で永遠に生きるという希望を大切にしていました。エホバが悪を全て除き,地上を楽園にする時が来るのを楽しみにしていました。生き返る家族や友人を自分が迎えるのを思い描いていたかもしれません。しかし,神から選ばれた後は,考えが変わりました。地上で生き続けることに魅力を感じなくなったからではありません。ストレスや強いショックで気持ちが変わったわけでもありません。地上でずっと生きるのは退屈だ,と急に思うようになったのでもありません。エホバからの聖なる力によって,その人の考えや大切にしている希望が変わったのです。

12. ペテロ第一 1章3,4節によると,神から選ばれたクリスチャンは自分が抱く希望についてどう感じますか。

12 神から選ばれた人の中には,自分にこれほどの栄誉が与えられてよいのだろうかと感じる人もいるでしょう。しかし,だからといって神から選ばれたことを一瞬たりとも疑ったりはしません。将来の素晴らしい機会について考え,深い喜びと感謝の気持ちに包まれます。ペテロ第 1:3,4を読む。)

13. 神から選ばれたクリスチャンは,地上での今の生活についてどう考えていますか。

13 では,神から選ばれたクリスチャンは地上での命を早く終わらせたいと思っているのでしょうか。パウロは,人間の体を天幕に例えて,次のように答えています。「この天幕にいる私たちは,重圧を感じてうめいています。これを脱ぎたいわけではありませんが,別のものを身に着けたいと思っています。そのようにして,死んでいくものが命にのみ込まれるのです」。(コリ二 5:4)神から選ばれたクリスチャンは,生きる意欲を失って早く死にたいと思っているわけではありません。生きることを喜び,家族や友人と共に日々エホバに仕えたいと考えています。しかし,何をしていても,将来の素晴らしい希望を片時も忘れません。(コリ一 15:53。ペテ二 1:4。ヨハ一 3:2,3。啓 20:6

自分は神から選ばれたのだろうか

14. どんな事柄は,自分が聖なる力によって選ばれた証拠にはなりませんか。

14 自分が聖なる力によって選ばれたのかよく分からない,という場合はどうですか。その場合,次の大切な点を考えてみてください。あなたは,エホバの望むことを行おうとする意欲にあふれていますか。伝道に際立って熱心だと感じていますか。聖書を意欲的に学び,「神の奥深い事柄」を掘り下げて考えるのが好きですか。(コリ一 2:10)伝道でエホバが大きな成果を与えてくださったと感じていますか。神と親しくなれるよう人々を助ける責務を強く意識していますか。エホバが生活の多くの面で助けてくださっている証拠を目にしていますか。全ての質問に,はいとはっきり答えることができるなら,天に招かれていることになりますか。そうではありません。なぜなら,神に仕える人は聖なる力で選ばれていてもいなくても,このように感じることがあるからです。しかも,エホバはご自分に仕える人には誰にでも同じ聖なる力を与えます。もし,自分が聖なる力によって選ばれたのか確信を持てないなら,あなたは選ばれてはいません。神によって招かれた人は,自分が選ばれたのかどうか思い悩んだりはしません。誰に言われなくても分かります。

アブラハム,サラ,ダビデ,バプテストのヨハネは,エホバから聖なる力を与えられて目覚ましい働きをした。しかし,エホバはその人たちに天に行く希望を与えるために聖なる力を送り出す,ということはしなかった。(15‐16節を参照。) *

15. エホバから聖なる力を受けた人が皆天に行くわけではありません。なぜそういえますか。

15 聖書には,聖なる力を受けて信仰を示しながらも,天に行く希望を抱かなかった人の例がたくさん挙げられています。例えば,ダビデは聖なる力に導かれていました。(サム一 16:13)そのおかげで,エホバに関する奥深い事柄を理解し,聖書の一部を書きました。(マル 12:36)それでも使徒ペテロが述べた通り,ダビデは「天に昇りませんでした」。(使徒 2:34)バプテストのヨハネも「聖なる力に満たされ」ました。(ルカ 1:13‐16)イエスは,ヨハネより偉大な人はいないと言いましたが,ヨハネは天の王国に入らない,とも述べました。(マタ 11:10,11)これらの人はエホバから聖なる力を与えられ,目覚ましい働きをしました。しかし,エホバはその人たちに天に行く希望を与えるために聖なる力を送り出す,ということはしませんでした。では,その人たちは,天に行く人ほど忠実ではなかったのでしょうか。そういうことではありません。エホバはその人たちを楽園となるこの地球に生き返らせることにしたのです。(ヨハ 5:28,29。使徒 24:15

16. 今日エホバに仕えている人の大多数は,どんな報いを与えられることを楽しみにしていますか。

16 今日エホバに仕えている人の大多数は,天で生きる希望を持っていません。アブラハム,サラ,ダビデ,バプテストのヨハネをはじめとする聖書時代の大勢の人のように,神の王国が治める時に地上で生きることを楽しみにしています。(ヘブ 11:10

17. 次の記事でどんな点を考えますか。

17 とはいえ今日,天に行く希望を持っている人たちもいます。(啓 12:17)そのため次のような疑問が生じます。天に行く希望を持つ人は自分のことをどう見るべきですか。会衆の誰かが記念式でパンを食べぶどう酒を飲むようになったら,その人にどう接するべきですか。天に行く希望を持つと言う人が増えていることを心配する必要がありますか。次の記事で考えましょう。

^ 5節 西暦33年のペンテコステの日以来,エホバは一部のクリスチャンに驚くような希望を与えました。神の子イエスと共に天で統治するという希望です。それらのクリスチャンは,選ばれて天で統治するという素晴らしい機会を得たことをどのように知るのでしょうか。天に行くよう招かれると,本人にはどんなことが起きますか。興味を引くこれらの質問について考えます。この記事は,「ものみの塔」2016年1月号の記事から取られています。

^ 2節 の説: 聖なる力によって選ばれる。エホバは聖なる力を使って人を選び,イエスと共に天で統治できるようにします。聖なる力によって将来に関する約束,もしくは「前もって保証するしるし」を人に与えます。(エフェ 1:13,14)それらのクリスチャンが天で報いを得るということを聖なる力は「証明」する,つまり明らかにします。(ロマ 8:16

^ 5節 の説: 証を押される。この時点で押される証印は仮のものです。最終的な証印が押されるのは,本人が神に忠実を保って亡くなる前のある時点か,大患難が始まる前のある時点でのことです。(エフェ 4:30。啓 7:2‐4。「ものみの塔」2016年4月号「読者からの質問」を参照。)

^ 10節 「再び生まれ[る]」とはどういうことか,詳しくは「ものみの塔」2009年4月1日号3‐12ページを参照。

9番の歌 わたしたちの神エホバを賛美しなさい!

^ 57節 や挿: エホバに仕える人の中には,投獄されている人も,自由に伝道し真理を教えることができる人もいる。いずれにしても,私たちは神の王国が治める時に地上で生きることを楽しみにしている。