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意思疎通の道を開いておく

意思疎通の道を開いておく

11章

意思疎通の道を開いておく

1,2 意思の疎通とはどういうことですか。なぜそれは大切ですか。

意思の疎通とは単に会話をするということではありません。使徒パウロもその点を指摘して,あなたがたの言葉が聞き手に理解されないなら,「あなたがたは,実際には空気に話していることになるのです」と述べました。(コリント第一 14:9)親が話す事柄は子供に通じているでしょうか。また,親は子供が話そうとしている事柄を本当に理解しているでしょうか。

2 本当の意味で意思の疎通を図るには,考えや意見や気持ちが相手に伝わらなければなりません。愛を幸福な家族生活の心臓と呼べるなら,意思の疎通は血液と呼べるでしょう。夫婦間に意思の疎通がなくなると問題が生じます。親子の間で意思の疎通がなくなるときも,夫婦間の場合以上ではないにしても,同様に深刻です。

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3 親は子供がどんな時期になると意思疎通の問題が起きることを予期すべきですか。

3 親子の間の意思の疎通が最も難しくなるのは,子供が幼いときではなく,思春期,つまり“十代”です。親はそのことを認めるべきで,子供が幼いときに比較的問題がないから十代になっても大丈夫だろうと考えるのは現実的ではありません。問題は必ず生じます。意思の疎通は,もしそれがすっきりと効果的にいけば,そうした問題を解決しまた少なくするための重要な要素となります。親はそのことを認めて前途を見越し,前もって考えることが必要です。なぜなら,「事の後の終わりはその始めに勝る」からです。―伝道 7:8,新。

4 家族の意思疎通の方法は会話だけに限られますか。説明してください。

4 家族の意思疎通の道を作り,強め,維持することには多くの事柄が関係します。長い年月の間に,夫と妻は信頼や信用や互いに対する理解を深め,口に出さなくても意思を通わせることができるようになります。まなざしや,ほほえみや,また手でさわるだけで,多くのことを語り合えます。親は子供との意思の疎通に同様の強力な土台を築くことを目標にすべきです。子供がまだ言葉のわからないときに,親は安心感と愛を子供に伝えます。子供が育つ間,家族がいっしょに働き,遊び,さらには共に神を崇拝するなら,意思疎通のためのしっかりした道が確立されます。しかしその道を開いておくには真の努力と知恵が必要です。

何でも話すように子供を励ます

5-7 (イ)子供が話すのをやめることについて親が注意深いのはなぜよいことですか。(ロ)親は子供に礼節を守ることをどのように教えることができますか。

5 「子供は口を出すものではない」と古くから言われます。時にそれは真実です。子供たちは,神のみ言葉が述べるように「黙っている時と話す時」があることを学ばねばなりません。(伝道 3:7,新)しかし,子供は自分に関心を示されることを強く願うものです。それで,親は子供が自由に自分の考えを言い表わすのを不必要に抑えないように気をつけなければなりません。さまざまな経験に対して幼い子供が大人と同様の反応を示すことを期待すべきではありません。大人は一つの出来事を人生の広いパノラマの一部として見ます。しかし,子供は非常に興奮して,さしあたり関心のある事柄に夢中になり,ほかの事はほとんど忘れてしまいます。小さな子供などは部屋にとび込んで来て,何か起きたことを興奮して父親か母親に話し出すかもしれません。親がいら立った調子で“静かにしなさい”と言って子供の話をさえ切ったり,怒ったりするなら,子供の熱意はくじかれるでしょう。子供のおしゃべりはたあいがないように思えるかもしれません。しかし,自然に自分の考えを話すように子供を励ますなら,子供が大きくなったときに,親が知りたいと思い,また知る必要のある事柄を言わないでいるという事態を避けられます。

6 礼節を守ることは,意思の疎通を円滑にするのに寄与します。子供たちは礼儀正しくあることを学ばねばなりませんし,親は他の場合と同様,子供と話し合うときにも手本を示すべきです。戒めることはぜひともしなければなりません。必要ならば厳しく戒めねばなりません。(箴 3:11,12; 15:31,32。テトス 1:13)しかし,子供がいつも話をさえぎられ,絶えずきょう正され,もっと悪いことに,口を開けば親にけなされ,あざけられさえするなら,子供は内向的になるかもしれません。あるいは話をしたいときにはだれか他の人のところへ行くでしょう。男の子でも女の子でも年が大きくなればなるほど,そうしたことが起こりやすくなります。ですから一日の終わりに子供との対話を反省し,感謝や励ましや称賛となるような事柄をどのくらい言っただろうか,またそれと反対に,『子供をこきおろす』ようなことや,不満,いら立ち,憤りなどをほのめかすようなことを何度言っただろうか,自問してみるのはよいことです。その結果に自分でも驚くことがあります。―箴 12:18

7 親の辛抱強さと自制が求められることは少なくありません。子供には衝動的なところがあります。思ったことをだしぬけに話して,大人の会話の邪魔をするかもしれません。親は子供をそっけなくしかることもできます。しかし時には,ていねいに耳を傾けて自制の手本を示し,簡単に答えてやったあとで礼儀を守り思いやりを示すことの大切さを,やさしい態度で思い出させるほうが賢明な場合もあります。したがって,ここでも,「聞くことに速く,語ることに遅く,憤ることに遅く」あるべきであるという助言が当てはまるでしょう。―ヤコブ 1:19

8 親はどうすれば子供たちが導きを求めて自分たちのもとに来るよう励ませるでしょうか。

8 子供が問題をかかえているなら,自分に導きを求める気持ちになってほしいと親は思います。それで親自身が導きを求めること,また尊敬し頼っている人がいることを示すなら,自分に導きを求めるよう,子供たちを励ますことができます。子供がまだ小さいうちに意思の疎通を円滑にする方法について,ある父親は次のように語りました。

「ほとんど毎晩,わたしは寝るときに子供たちといっしょに祈りをささげます。子供たちはたいていベッドに入っており,私はそのわきにひざまずいて子供たちを腕に抱きます。そして私が祈りをささげると,子供たちはふつうそれに唱和します。また私にキスして『パパ大好き』と言ってから,自分の心にあることを話し出すことも珍しくありません。ベッドのぬくもりと,父親に抱かれた安心感とで,子供たちは助けてもらいたい個人的な問題を話すのでしょう。あるいは愛情を表現するだけなのかもしれません」。

食事の時や他の機会に,決まりきった祈りでなく,心からあふれ出る意味の深い祈りをささげるなら,子供たちとよい関係を築くうえで大いに役立ちます。―ヨハネ第一 3:21; 4:17,18

過渡期

9 幼い子供たちが持つ問題や必要と比較すると思春期の子供が持つ問題や必要についてはどんなことが言えますか。

9 思春期は,息子や娘が子供でなく,かといって大人でもない過渡期です。したがって十代は体の変化する時で,それが感情に影響します。十代の若者の問題と必要は,それ以前の時のものと異なります。ですから親は,十代の子供の問題と必要に関してはそれまでと違った取り組み方をしなければなりません。それまで効果のあった方法が思春期の子供にも効果があるとは必ずしも言えないからです。理由を話さねばならないことがさらに多くなりますから意思の疎通の必要性は少なくなるどころかいっそう大きくなります。

10 (イ)思春期の子供には,性について簡単に説明するだけではなぜ不十分ですか。(ロ)親は子供と性について話したいとき,どのように話を切り出すこともできますか。

10 例えば性に関する説明にしても,幼い子供にしていたような説明では,思春期の子供を納得させることはできません。思春期の子供は性衝動を感じますが,きまりが悪いと考えて父親や母親に質問しようとしないことが少なくありません。ですから親のほうから話を始めなければなりませんが,特に仕事や遊びで子供の親しい仲間になり,心がよく通じ合う仲になっていないと,そうすることは難しいでしょう。前もって教えられている子供は,射精や月経を初めて経験しても心を取り乱すことはあまりありません。(レビ 15:16,17; 18:19)父親は息子と散歩しているときなどに,ほとんどの若者が自涜について少なくとも何らかの悩みを持っていることを話しながら自涜の問題を持ち出し,「おまえはそれをどうしているんだい」とか,「おまえもそのことを悩んでいるかい」と尋ねてみることができるでしょう。家族の話し合いのときにも,ときどき思春期に伴う問題を取り上げ,父親と母親がくつろいだ気分で,しかし率直に助言することもできます。

十代の子供の必要を理解する

11 思春期の若い人々はどんな点で大人と違いますか。

11 『知恵を得てください。そして自分の得るすべてのものをもって理解を得てください』。(箴 4:7,新)親は若者のやり方をよく知り,また若者の感情をどう察することができなければなりません。自分が若者だったときのことを忘れないことです。また,大人はだれしもかつては若者でしたから,その年代のことがわかりますが,若い人たちはまだ大人になったことがない点も忘れないようにすることが大切です。思春期の子供はもう子供扱いされることを望みませんが,まだ大人ではないので,大人の関心事にそれほど関心がありません。まだ遊びたい気持ちが強く,そのための時間を必要としています。

12 十代の子供たちは親からどんな扱いを受けることを望んでいますか。

12 この年頃の若者が親に特に望む事柄が幾つかあります。まず理解を望みます。また一個の人間として扱われることをかつてなく強く望みます。自分が大人になりつつあることを考慮に入れた,首尾一貫した指針と指導を望みます。また自分は必要とされ感謝されているという自覚を持つことを強く願います。

13 十代の子供たちは親から課された制限にどう反応するかもしれませんか。それはなぜですか。

13 子供が思春期になって制限に対するある程度の反発が表面化し始めるからといって,驚く必要はありません。それは若い人が独立する時期に近づいているためであり,もっと自由に行動し選択したいという自然の欲求のためでもあります。何もできない赤ん坊は親の世話を絶えず必要とし,幼児は注意深い保護を必要としますが,成長するにつれて活動の分野は広がり,家族外の人々との結び付きがふえて強くなります。息子あるいは娘は,独立への道を模索しているためにやや扱いにくくなることがあります。親は,親の権威を無視することやくつがえすことを許すべきではありません。許すなら子供自身のためになりません。しかし,その穏やかでないと思える行動の背後にある動機を心に留めているなら,賢明に対処し,意思の疎通を保つことができます。

14 もっと大きな自由が欲しいという子供の願いに親はどのようにうまく対処できますか。

14 息子または娘から,もっと自由を与えてほしいとせがまれるなら,親はどうすべきでしょうか。そのむずむずした気持ちは手の中に握り締めたばねのようなものです。ぱっと手を開くなら,コントロールを失ってどちらの方向に飛んでいくか予測できません。またあまり長く握り過ぎると,握っている人は疲れますし,ばねは弱くなります。しかし,加減しながら徐々に手を開いてばねを伸ばしていくなら,ばねはあるべき位置から動きません。

15 イエスが大人になるまで親の指導に服されたことは何からわかりますか。

15 そのように子供を徐々に独立させていった例として,少年時代のイエスの例があります。史実に基づく記録であるルカ 2章40節には,十歳になるまでのイエスについて,「幼子は成長して強くなってゆき,知恵に満たされ,神の恵みが引き続きその上にあった」と述べられています。イエスの両親がイエスの成長に大切な役割を果たしたことは間違いありません。というのは,イエスは完全ではありましたが,その知恵は自動的に身に着いたわけではなかったからです。そのあとの記述に見られる通り,イエスの両親はイエスを訓練するための霊的な環境を定期的に備えました。12歳のときのこと,過ぎ越しの祭りで家族がエルサレムにいた間,イエスは神殿に行ってそこの宗教教師たちと話をしました。イエスの両親が12歳の息子にその程度の行動の自由を与えていたことは確かです。ところが彼らは,イエスがあとに残されたことに気づかずに,エルサレムを出発しました。知人や親せきの者たちといっしょに帰っていると思ったのでしょう。三日後,両親はイエスが神殿にいるのを見つけました。イエスは年長の人々を教えようとしていたのでなく,「その話すことを聴いたり質問したりして」いました。母親が,ふたりともたいへん心配したことを話すと,イエスは敬意のこもった態度で,出発の時に自分が神殿にいることをふたりとも知っているものと思っていたという意味の返事をされました。イエスは行動の自由をある程度得ておられましたが,その後も,『引き続き両親に従われた』と述べられています。イエスは十代になっても,両親から与えられる指針や制限に順応し,『知恵においても,身体的な成長においても,また神と人からの恵みの点でもさらに進んでいかれたのです』。―ルカ 2:41-52

16 思春期の子供のことで悩んでいる親は,何を思いに留めておくべきですか。

16 同様に,親は十代の息子や娘に自主的な行動をある程度許し,子供が大人になるにつれてその範囲を徐々に広げ,子供が親の指導や監督を受けながらしだいに多くの事柄を自分で決定するようにさせるべきです。問題が起きたときに親がその理由を理解していれば,ささいなことで大騒ぎをせずにすみます。十代の子供には,親に故意に反抗するのではなく,方法がわからないままにある程度の自由を得ようとしている場合がよくあります。ですから,親が誤解して何でもないことを問題にすることがあります。それほど重大なことでなければそのままにしてもよいでしょう。しかし,重大な問題の場合にはき然とした態度を取らねばなりません。『ぶよを濾し取る』ことも『らくだを飲み込む』こともしないことが大切です。―マタイ 23:24

17 思春期の子供に制限を課す際に親は何を考慮に入れるべきですか。

17 親が思春期の息子や娘に制限を課す際によく平衡を取るなら,親子の良い関係を保つ助けになります。『上からの知恵はまず第一に貞潔です』が,それはまた「道理にかない」,『あわれみに満ち』,『偽善的でない』ことも忘れないようにしましょう。(ヤコブ 3:17)聖書はいくつかの事柄を全く許容できないものとしています。盗み,姦淫,偶像崇拝およびこれに類するはなはだしい悪行がそれに含まれます。(コリント第一 6:9,10)そのほかの多くの事柄の良し悪しは,それがどの程度なされるかによって決まるでしょう。食物は良い物ですが,食べ過ぎると暴食になります。ダンス,ゲーム,パーティーその他,ある種のレクリエーションについても同じことが言えます。多くの場合問題になるのは,行なわれる事柄ではなくて,行なう方法とそれを行なうときの仲間です。実際に暴食のことを言っているときに,食べることを罪悪視したりしないのと同様に,もし問題点が,やり方や程度が極端になる者がいるとか,望ましくない事態が忍び込む恐れがあるということにあるのであれば,親は若い人々のある活動を一概に悪いときめつけるべきではないでしょう。―コロサイ 2:23

18 親はつき合う仲間について子供にどんな忠告をすることがありますか。

18 若い人々はみな友達の必要を感じます。“理想的”と思える友達はほとんどいないかもしれません。しかし,考えてみると,自分の子供にも弱点があるのではないでしょうか。もっとも相手によっては,悪い影響がありそうだと見て子供に交わらせないようにするかもしれません。(箴 13:20。テサロニケ第二 3:13,14。テモテ第二 2:20,21)ほかの子供たちにも好きな面ときらいな面があるでしょう。何かの欠点を理由にある子供を全く寄せつけないようにするよりも,その子の長所を子供たちに話し,同時に,弱点にも注意する必要のあることを指摘し,友達の永続的な益のためにその弱点を直すのを助けてあげるように子供を励ますほうがむしろ良いでしょう。

19 ルカ 12章48節に述べられている原則に従い,自由に対して正しい見方を持つように子供たちをどう援助することができますか。

19 十代の息子や娘が,大きくなった自由に対して正しい見方を持つように援助する一つの方法は,自由が大きくなればそれだけ責任も大きくなることを悟らせることです。「多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます」。(ルカ 12:48)子供たちが責任感の強いことを示せば示すほど,親は子供たちにいっそうの信頼を置くことができます。―ガラテア 5:13。ペテロ第一 2:16

助言ときょう正を与える

20 意思の疎通を保つためには子供たちに権威や力を行使する以外に何が必要ですか。

20 人から助言されても,その人がこちらの立場を理解していないなら,それは的をついた助言とは思えません。もしその人が権威をたてにむりやり命令に従わせようとするなら,不当な行為として憤りを感じるかもしれません。ですから親は,『理解のある心は知識を捜し求める心であり』,「知識を持つ者は補強する力である」ということに留意しなければなりません。(箴 15:14; 24:5,新)子供たちに対して権威があっても,知識と理解をもってそれを行使するなら,子供たちとの意思の疎通はいっそう効果的になります。若い人を正す際に理解を示さないなら,“世代の断絶”が生じて意思の疎通がうまくいかなくなる恐れがあります。

21 親は重大な悪事を行なった子供をどのように扱うべきですか。

21 子供が実際に問題を起こし,親を驚かせるような重大な間違いや悪事をしたならどうしますか。その悪行を大目に見ることは決してすべきではありません。(イザヤ 5:20。マラキ 2:17)しかし,その時こそ子供は理解ある援助と巧みな指導を必要としているということに,親は気づかねばなりません。エホバ神のように,『来なさい。問題を正そう。事は重大だが正せないことはない』とも言えるでしょう。(イザヤ 1:18,新)怒りを爆発させたり,激しく非難したりするなら,意思の疎通がそこなわれる恐れがあります。非行に走る若者の非常に多くが,『両親には話せなかった。話したら怒り狂っただろう』と言います。エフェソス 4章26節には「怒っても,怒りのために罪に陥らないようにしなさい」とあります。(新英訳聖書)子供の話を聞くときには感情を抑えることが大切です。親が公平に耳を傾けるなら,子供は親の懲らしめを受け入れやすくなります。

22 親は,子供にはさじを投げた,といった気持ちを決してほのめかすべきではありません。それはなぜですか。

22 あるいは問題は,ただ一度の事件ではなく,難しい時期で,望ましくない性向を示すといった型のものかもしれません。懲らしめは絶対に必要ですが,親は,この子にはさじを投げた,という意味のことを言ったり,そういう気持ちをほのめかしたりすべきでは決してありません。親の辛抱強さは親の愛の深さを測る尺度です。(コリント第一 13:4)悪をもって悪と戦うのでなく,善をもって悪を征服します。(ローマ 12:21)他人の面前でこの子は“怠け者だ”とか,“反抗的だ”とか“ろくでなし”,“救いようがない”などと言って辱めるなら,害があるばかりです。愛は希望を捨てません。(コリント第一 13:7)非行に走って家出までする子供もいます。それを是とすることは決してできませんが,親は子供が帰る道を常に開けておくことができます。自分たちが受け入れないのは子供そのものではなく子供の取った行為であるということを示すなら,その道を開いておくことができます。また,子供の中に良い性質があり,それが最後には勝つことを信じている,と絶えず子供に話します。そして実際にそうであれば,子供はイエスの例え話にある放とう息子のように,後悔して帰ってもやさしく温かく迎えてもらえるという確信を持って,家に足を向けることができます。―ルカ 15:11-32

個人の価値を認識する

23 自分は家族の大切な成員であると感じることは思春期の子供にとって大切ですが,それはなぜですか。

23 人間はだれでも,人から認められること,受け入れられ是認されること,なんらかのグループに属していると感じることが必要です。いうまでもなく,勝手過ぎるなら必要な支持や賛成を得ることはできません。自分の属するグループが認めている行動の限界内にとどまっていなければなりません。十代の若い人たちは家族の一員として認められる必要を感じます。ですから若い人たちが家族の貴重な構成員で家族の福祉に貢献しており,家族の計画や決定にある程度あずかることさえ許されているという気持ちを持たせることは大切です。

24 子供が他の子供をねたむことがないように,親はどんなことを避けるべきですか。

24 「自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう」と使徒は述べています。(ガラテア 5:26)子供がよくやったときに親がほめるなら,そうした精神が頭をもたげるのをくい止める助けになります。しかし,優秀だといつもほめられている他の子供と比較されてお前は劣っていると言われると,子供はねたみやうらみを持つかもしれません。人は各々,「自分自身の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう」と,使徒は言いました。(ガラテア 6:4)若い人は,自分自身の性格,自分の身分,また自分に何ができるかということで受け入れられ,そうしたことで親に愛され認められることを望んでいます。

25 子供が価値についての認識を深めるように,親は子供をどのように援助できますか。

25 親は,生活のあらゆる分野での責任を担うように子供たちを訓練して,価値についての認識を深めるように助けることができます。れん潔,正直,他の人に対する正しい振る舞いなどについて子供たちを幼いときからしつけてきていますから,そうした特質が人間社会の中でどう働くかを教えて,それまでに築いた土台の上にさらに築き上げていきます。それには,仕事の責任をどのように担い,その仕事に関して信頼できる者になるかを教えることも含まれます。イエスは『知恵においてさらに進んでいって』いた十代のときに,養父ヨセフのそばで仕事を学んでおられたに違いありません。というのは,30歳に達して王国の業を公に開始されたときでさえ,人々はイエスを「大工」と呼んでいたからです。(マルコ 6:3)お遣いに行くといった単純な仕事であっても,男の子は十代のときに労働の意味と,雇用者もしくは雇客を満足させることの意味を学ばなければなりません。また,勤勉でまじめで信頼できる働き手となるなら自尊心を得,他の人から尊敬され感謝されるということ,そういう子供は親と家族の誉れになるだけでなく『すべての事においてわたしたちの救い主なる神の教えを飾る』ことにもなるということを学べます。―テトス 2:6-10

26 娘が家族の有用な成員だったことは昔のどんな習慣からわかりますか。

26 女の子は家事や家庭管理の技術を学び,家族からも家族外の人々からも感謝や賛辞を得ることができます。聖書時代には,娘を嫁がせるときに花嫁料をもらう習慣がありましたが,それは娘が彼女の実家で役に立つと考えられたことを示しています。実家は娘に働いてもらえなくなるので,花嫁料はその代償と考えられていたに違いありません。―創世 34:11,12。出エジプト 22:16

27 教育を受ける機会をなぜ十分活用すべきですか。

27 現在の事物の体制下での生活の中で生ずる多くの挑戦に子供たちを備えさせるため,教育の機会は十分に活用すべきです。使徒の次の勧めの言葉には年若い人々も含まれています。「わたしたち一同も,自分たちの差し迫った必要を満たすためにりっぱな業[正直な勤め,「新英訳聖書」]を続けることを学ぶべきです」― テトス 3:14

聖書の道徳律は身の守り

28,29 (イ)交わりについて聖書はどんな助言を与えていますか。(ロ)親は子供たちがその助言に注意を払うようどのように助けることができますか。

28 住んでいる地域や子供が通っている学校などの関係で,子供たちが,非行少年や自暴自棄になっている子供たちとつき合わざるをえないなら,当然親は心配です。「悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」という聖書の言葉の真実さに気づくでしょう。それで,「ほかの子はみんなしているのに,どうしてわたしがしてはいけないの」と,子供が文句を言ってせがんでも許そうとはしません。必ずしもみんながそうではないでしょうが,たとえ子供の言う通りだとしても,もし間違っていることまた賢明でないことであるなら,それは子供が行なってよい理由とはなりません。『悪人[または子供]たちをうらやんではなりません。また,彼らと一緒になることを渇望してはなりません。略奪を彼らの心は思い巡らしているからです。そして難儀を彼らのくちびるは話し続けます。知恵によって一家は築き上げられ,識別力によって固く据えられます』― コリント第一 15:33。箴 24:1-3,新。

29 親は学校が終わるまで,あるいは一生の間子供のあとをついてまわることはできません。しかし,知恵で家族を築き上げるなら,立派な道徳律と導きとなる正しい原則を持たせて子供たちを社会に送り出すことができます。『賢い者たちの言葉は牛追い棒のようです』。(伝道 12:11,新)昔の牛追い棒は先のとがった長いつえで,牛をつついて正しい方向に進ませるのに用いられました。神の賢明な言葉はわたしたちが正しい道を歩み続けるように助けてくれます。また,道からさまよい出たなら,良心でわたしたちをつついて正しい道にもどしてくれます。子供の永続的な福祉のためにそうした知恵を子供に伝えてください。言葉と手本によってそれを伝えましょう。真の価値基準をしっかり教えましょう。そうすれば子供は同様の価値基準を持つ人を親友に選ぶでしょう。―詩 119:9,63

30 親は神から与えられた倫理基準を子供たちにどのように教え込むことができますか。

30 以上のことにおいて忘れてならないのは,もし家庭にそれらの行動基準を尊重し守る雰囲気があるなら,倫理的価値をしっかり教え得る可能性ははるかに大きいということです。子供にこういう態度を身につけさせたいと思うなら,親自身がそれを示すことが大切です。家庭で,家族の中で,子供たちが確かに大人としての理解や愛,許しを経験し,安全な範囲の自由と独立を得,公正や公平などを目のあたりに見,また子供たちに必要な,自分は受け入れられているという意識や親近感を持てるようにしてやらねばなりません。こうした方法で神から与えられた倫理基準を子供に伝え,子供たちが家庭外でもそれらを守れるようにしてやりましょう。親が子供に与えることのできる相続財産の中でそれに勝るものはありません。―箴 20:7

[研究用の質問]