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三位一体を“証明する聖句”についてはどうですか

三位一体を“証明する聖句”についてはどうですか

三位一体を“証明する聖句”についてはどうですか

三位一体を支持する証拠となる聖句が聖書には幾つかあると言われています。しかし,そのような聖句を読む場合,聖書や歴史の証拠はいずれも三位一体を支持していないことを銘記しておくべきでしょう。

証拠として挙げられる聖書の参照箇所は,どんな箇所でも,聖書全体の首尾一貫した教えという背景に照らして解釈しなければなりません。前後の節の文脈を考慮すると,そのような聖句の真の意味が明らかになる場合は少なくありません。

三つで一つ

新カトリック百科事典はそのような“証明する聖句”を三つ挙げていますが,同時に次のように認めています。「聖三位一体の教理は旧約[聖書]では教えられていない。新約[聖書]の最も古い証拠はパウロの書簡,特にコリント第二 13章13節[幾つかの聖書では14節]とコリント第一 12章4節から6節にある。三位一体の証拠がはっきりと示されているのは,福音書ではマタイ 28章19節のバプテスマに関する定式の中だけである」。

新共同訳(英文では新エルサレム聖書)のそれらの節では三つの“位格もしくは人格的存在”が次のように挙げられています。コリント第二 13章13(14)節では,その三者が一緒にされています。「主イエス・キリストの恵み,神の愛,聖霊の交わりが,あなたがた一同と共にあるように」。コリント第一 12章4節から6節はこう述べています。「賜にはいろいろありますが,それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが,それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが,すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」。そして,マタイ 28章19節にはこうあります。「だから,あなたがたは行って,すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼<バプテスマ>を授け(なさい)」。

これらの節は,神,キリスト,および聖霊が三位一体の神を構成し,その三者は実体,力,および永遠性において同等であると述べていますか。いいえ,述べていません。それは,太郎や次郎や三郎のような三人を列挙したからといって,彼らが三人で一人であることを意味していないのと同じです。

この種の参照箇所は,「言及されている三つの主体があることを証明するにすぎず……ただそれだけでは,それらの三者すべてが神性を有する者に必然的に属しており,同等の神々しい栄誉を持っていることを証明するものではない」ことを,マクリントクとストロング共編,「聖書,神学,教会に関する著作百科事典」は認めています。

この資料は三位一体を支持していますが,コリント第二 13章13(14)節について,「これら三者が同等の権威,もしくは同一の性質を有していると正しく推論できるものではない」と述べています。また,同資料はマタイ 28章18節から20節に関して,「しかしこの聖句は,それだけを取り上げたのでは,三者の人格性(もしくは位格性)も,同等性神性のいずれをも決定的に証明するものとはならないであろう」と述べています。

イエスがバプテスマをお受けになった時,やはり神,イエス,および聖霊のことが同じ文脈の中で言及されました。イエスは,「神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧にな(りまし)た」。(マタイ 3:16)しかし,この句はそれら三つが一つであるとは言っていません。アブラハム,イサク,およびヤコブのことが一緒に言及されている箇所は多数ありますが,だからといって,その三人が一人になっているわけではありません。ペテロ,ヤコブ,およびヨハネも一緒に名を挙げられていますが,だからといって,これら三人が一人になっているわけではありません。さらに,イエスがバプテスマをお受けになった際,神の霊がイエスの上に下ったことは,その時まで霊によって油そそがれていなかったことを示しています。そうであれば,イエスはどうして,常に聖霊と一つになっていたとされる三位一体の一部であり得たでしょうか。

これら三者が一緒に指摘されているもう一つの参照箇所は,一部の古い聖書翻訳のヨハネ第一 5章7節にあります。しかし学者たちは,それらの言葉が元々聖書にはなく,ずっと後代に加筆されたことを認めています。この偽筆の節が大抵の現代訳で省かれているのはもっともなことです。

他の“証明する聖句”はお二方,つまり父とイエスの関係だけを扱っています。その幾つかを考慮しましょう。

「わたしと父とは一つです」

ヨハネ 10章30節のこの句は第三の位格に言及していませんが,三位一体を支持するためにしばしば引き合いに出されます。しかし,イエスご自身,父と「一つ」であることによって何を言わんとしておられるのかを示されました。イエスはヨハネ 17章21節と22節で神に向かって,ご自分の弟子たちが「みな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように,彼らもまたわたしたちと結びついていて……わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです」と祈られました。イエスは,ご自分の弟子たちすべてが単一の実在者となるように祈っておられたのでしょうか。いいえ,そうではありません。イエスは明らかに,ご自分と神がそうであるように,弟子たちが考えや目的の点で結束するように祈っておられたのです。―コリント第一 1:10も参照。

パウロはコリント第一 3章6節と8節で,「わたしは植え,アポロは水を注ぎました。……植える者と水を注ぐ者とは一つです」と言いました。パウロは自分とアポロが二人で一人であると言っていたのではなく,二人は目的の点で一致していると言っていたのです。パウロがここで使った「一つ」という意味のギリシャ語の言葉(ヘン)は中性で,文字通りには「一つ(のもの)」という意味で,協力し合って一体となっていることを示唆しています。それは,イエスがヨハネ 10章30節で父とご自分の関係を説明するのに用いたのと同じ言葉です。それはまた,イエスがヨハネ 17章21節と22節で用いたのと同じ言葉です。ですから,これらの例で「一つ」(ヘン)という言葉を使われたイエスは,考えや目的に関する一致について語っておられたのです。

ジャン・カルバン(三位一体論者)はヨハネ 10章30節に関して,「ヨハネによる福音書に関する注解」という本の中で次のように述べました。「古代の人はこの句をキリストが……父と同一の本質を有していることを証明する句として誤って使った。というのは,キリストは実体の一致についてではなく,父との間で意見の一致を見ていることについて論じているからである」。

イエスはヨハネ 10章30節のすぐ後の数節の文脈の中で,ご自分が神であると主張する言葉を述べなかったことを強力に論じ,そのような誤った結論を出してイエスを石打ちにしようとしたユダヤ人に,「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが,『わたしは神の子である』と言ったからとて,どうして『神を冒涜している』と言うのか」とお尋ねになりました。(ヨハネ 10:31-36,新共; 新英)確かにイエスは,ご自分が子なる神ではなく,神の子であると主張されたのです。

「自分を神に等しい者としている」か

三位一体を支持する別の聖句として挙げられているのはヨハネ 5章18節です。それによれば,ユダヤ人は(ヨハネ 10:31-36の場合のように),イエスが「神を自分の父と呼んで,自分を神に等しい者としている」として,これを殺そうと考えました。

しかし,イエスがご自分を神と等しい者としたと言ったのは,だれでしたか。イエスではありませんでした。イエスは実際,次の節(19節)で,この偽りの訴えに対して,弁明されました。「そこで,イエスは彼らに言われた。『……子は,父のなさることを見なければ,自分からは何事もできない』」― 新共; エルサレム。

そのようにして,イエスは,ご自分が神と等しくないこと,したがって率先して行動できないことをユダヤ人に示されました。全能の神と等しい方が,「自分からは何事もできない」と言われるところを想像できますか。(ダニエル 4:34,35と比較。)興味深いことに,ヨハネ 5章18節と10章30節の文脈は両方とも,三位一体論者のように間違った結論を出したユダヤ人から受けた偽りの訴えに対してイエスが弁明されたことを示しています。

『神と等しい』と言えるか

1609年のカトリックのドウェー訳(ドウェー)のフィリピ 2章6節にはイエスについて,「すなわち,彼は神の形にていたまいしが,神と等しくあることを強奪とは思わず」とあります。1611年のジェームズ王欽定訳(欽定)も大体同様です。中には,イエスが神と等しいという考え方を支持するために,今でも幾つかのこのような訳を用いる人がいます。しかし,この節が他の翻訳ではどのように訳されているかに注目してください。

1869年: 「すなわち,彼は神の形にていたまいしが,神と同等であることを捕らえるべき事柄とはみなさず」。「新約聖書」,G・R・ノイズ訳。

1965年: 「彼 ― 真に神性を有する方 ― は決してうぬぼれて自らを神と等しくなさらず」。「新約聖書」,改訂版,フリードリヒ・プファッフリン訳。

1968年: 「彼は神の形でいたが,神と等しくあることを貪欲にも己のものにすべきこととは考えず」。「共同訳聖書」(イタリア語)。

1976年: 「彼は常に神の性質を持っていたが,無理に神と等しくなろうとすべきだとは考えず」。「今日の英語訳」。

1984年: 「彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした」。新世界訳聖書。

1985年: 「彼は神の形でいたが,神と同等であることを捕らえるべき事柄とはみなさず」。新エルサレム聖書。

ところが,中には,これらの,より正確な訳し方でさえ,(1)イエスはすでに同等性を有していたので,それを保持しようとは思わなかった,あるいは(2)すでに同等性を有していたので,それを捕らえる必要がなかったことを示唆していると主張する人もいます。

このことに関して,ラルフ・マーティンは「フィリピ人へのパウロの書簡」という本の中で元のギリシャ語について次のように述べています。「しかし,この動詞の意味が『捕まえる』,『乱暴に奪い去る』という,その実際の意味から,『しっかり保つ』という意味に次第に変わることがあり得るかどうかは疑問である」。「解説者のギリシャ語新約聖書」も次のように述べています。「ἁρπάζω[ハルパゾー],もしくはその派生形のいずれかが『所有している』,『保持している』という意味を持っている箇所は一つも見いだせない。その語は決まって,『捕む』あるいは『乱暴に奪い去る』という意味を表わしているように思われる。したがって,『捕らえる』というその本来の意味をそれとは全く異なった『固守する』という意味にすり替えることは許されない」。

以上の例から,ドウェー訳やジェームズ王訳などの聖書翻訳者たちは三位一体論者の目的を支持するために規則を曲げていることが,はっきり分かります。フィリピ 2章6節のギリシャ語を客観的に読めば,イエスは神と同等であることを適当だと考えられたなどと言えるどころか,全く逆のこと,つまりイエスはそれを適当だとはお考えにならなかったことが分かります。

この箇所の前後の節(3-5,7,8,新共; ドウェー)の文脈は,6節をどのように理解すべきかを明らかにしています。フィリピの人たちは,「へりくだって,互いに相手を自分よりも優れた者と考え(なさい)」と勧められました。次いで,パウロはキリストをそのような態度の際立った手本として用いて,「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と述べました。心がけるべき「このこと」とは何ですか。「神と等しくあることを強奪とは思わず」ということでしょうか。いいえ,それはここで示されている要点のまるで逆のことと言えるでしょう! そうではなく,『神を自分よりも優れた者と考えた』イエスは,決して「神と同等であることを捕らえ」ようとはせず,かえって,『へりくだって,死に至るまで従順になられました』。

確かに,それは全能の神のいずれかの一部について述べていることではないはずです。それはここでのパウロの論点,すなわち自分の上位者で創造者であられるエホバ神に対する謙遜さと従順の重要性という論点を完全に例証されたイエス・キリストに関して述べていることなのです。

「わたしはある」

エルサレム聖書も一例ですが,幾つかの翻訳のヨハネ 8章58節では,イエスは,「アブラハムがいる以前から,わたしはある」と言われたとなっています。イエスはその時,三位一体論者が主張するように,ご自分が「わたしはある」という称号で知られていたということを教えておられたのでしょうか。また,ジェームズ王欽定訳(欽定)の出エジプト記 3章14節には,「神モーセに言いたまいけるは,我は我ありという者なり」とあるので,三位一体論者が主張するように,イエスはヘブライ語聖書のエホバであったという意味でしょうか。

出エジプト記 3章14節(欽定)の「我あり」という句は,神の称号として使われており,神は実際に存在しておられ,ご自分の約束した事柄を行なわれる方であることを示唆しています。J・H・ヘルツ博士編,「五書<ペンタチューク>とハーフトーラ」は,この句について次のように述べています。「奴隷となっていたイスラエル人にとって,その意味は,『神はまだご自分の力をあなた方に対して表わしていないが,そうなさるであろう。神は永遠に存在しており,必ずあなた方を請け戻されるであろう』ということであった。現代人は大抵,[出エジプト記 3章14節を]『わたしはわたしがなるところのものになる』と訳したラシ[フランスの聖書およびタルムード注解者]の説を奉じている」。

ヨハネ 8章58節の表現は,出エジプト記 3章14節で用いられている表現とはかなり異なっています。イエスはその表現を名もしくは称号としてではなく,ご自分が人間となる前に存在していたことを説明する手段として用いられました。ですから,ほかの聖書翻訳がヨハネ 8章58節をどのように訳しているかに注目してください。

1869年: 「アブラハムのありし先より,我はあるなり」。「新約聖書」,G・R・ノイズ訳。

1935年: 「我はアブラハムの生まれし先よりありき」。「聖書 ― アメリカ訳」,J・M・P・スミスとE・J・グッドスピード訳。

1965年: 「アブラハムが生まれる前に,わたしはすでにいる者であった」。「新約聖書」,イェルク・ツィンク訳。

1981年: 「わたしはアブラハムが生まれる前に生きていた!」「簡明な英語聖書」。

1984年: 「アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。新世界訳聖書。

このように,ここで使われているギリシャ語の本当の考えは,神の創造された「初子」であるイエスは,アブラハムが生まれるよりずっと前から存在していたということです。―コロサイ 1:15。箴言 8:22,23,30。啓示 3:14

ここでもまた,文脈はこのような理解が正しいことを示しています。この時,ユダヤ人たちは,彼らが言ったように,イエスはまだ50歳にもなっていないのに,「アブラハムを見たことがある」と主張したので,彼を石打ちにしようと思いました。(57節)イエスの当然の返答は,ご自分の年齢に関する真相を告げることでした。それで,イエスが,ご自分は「アブラハムが生まれる前に生きていた!」とお告げになったのは当然なことでした。―「簡明な英語聖書」。

「言葉は神であった」

ジェームズ王欽定訳のヨハネ 1章1節は次の通りです。「初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神[God]であった」。これは,イエス・キリストとして地上に来た「言葉」(ギリシャ語,ホ ロゴス)が全能の神ご自身だったことを意味する,と三位一体論者は主張します。

しかし,ここでもまた,文脈が正確な理解を得る土台となります。ジェームズ王欽定訳でさえ,「言葉は神と共におり」(下線は本書編者。)となっています。だれかがほかの人「と共に」いるなら,その人はそのほかの人と同一人物ではあり得ません。このことと一致して,イエズス会士ジョセフ・A・フィッツメイヤー編,「聖書文献ジャーナル」は,もしヨハネ 1章1節の終わりの「神」のことをこの節の前半に出てくる神を意味すると解釈するなら,「先行する節と矛盾することになる」と述べています。その節には,言葉が神と共にあった,とあるからです。

それに,ほかの翻訳では,その節のこの部分がどう訳されているかに注目してください。

1808年: 「言葉は神[a god]であった」。ニューカム大主教の新翻訳に準拠した,新約聖書改訂版,修正本文付き。

1864年: 「言葉は,神[a god]であった」。ベンジャミン・ウィルソンによるエンファティック・ダイアグロット訳,行間の読み方。

1928年: 「言葉は神性を備えた存在であった」。「百年聖書 ― ヨハネによる福音書」,モーリス・ゴゲル訳。

1935年: 「言葉は神性を備えていた」。「聖書 ― アメリカ訳」,J・M・P・スミスとE・J・グッドスピード共訳。

1946年: 「言葉は,神性を備えたものであった」。「新約聖書」,ルートビィヒ・ティンメ訳。

1950年: 「言葉は神[a god]であった」。クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳。

1958年: 「言葉は神[a god]であった」。「新約聖書」,ジェームズ・L・トマネク訳。

1975年: 「言葉は,神[a god](すなわち神性を備えた者)であった」。「ヨハネ福音書」,ジークフリート・シュルツ訳。

1978年: 「ロゴスは,神のような者であった」。「ヨハネ福音書」,ヨハネス・シュナイダー訳。

ヨハネ 1章1節には,テオス(神)というギリシャ語の名詞が2回出てきます。最初に出てくる語は全能の神を指しており,「言葉」はその方と共におり(つまり,「言葉[ロゴス]は神[テオスの変化形]と共におり」)ました。この最初のテオスの前には,トン[英語では“the”で,「その」の意]というギリシャ語の定冠詞の変化形が付いており,この定冠詞は別個の実体,この場合には全能の神を指しています。(つまり,「言葉は[その]神と共におり」ました。)

一方,ヨハネ 1章1節の二番目のテオスの前には冠詞がありません。ですから,直訳すれば,「言葉は,神[god]であった」となるでしょう。ところが,この二番目のテオス(叙述名詞)を「神性を備えた」,「神のような」,あるいは「神[a god]」というふうに訳出している多くの翻訳を見てきました。どんな権威に基づいて,そのように訳されているのでしょうか。

コイネー・ギリシャ語には定冠詞(英語の“the”[「その」の意])がありましたが,不定冠詞(英語の“a”[「一つの」の意])はありませんでした。ですから,叙述名詞の前に定冠詞が付いていない場合,その名詞の意味はあいまいで,文脈によって左右されることがあります。

「聖書文献ジャーナル」は,「無冠詞の述語が動詞に先行している[表現]は主として限定詞的意味を持つ」と述べています。これは同「ジャーナル」が述べる通り,ロゴスを一種の神になぞらえ得ることを示しています。同「ジャーナル」はまた,ヨハネ 1章1節に関し,「述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに,その名詞[テオス]を特定されたものとみなすことはできない」と述べています。

それで,ヨハネ 1章1節は「言葉」の性質,つまりこの方は全能の神ではなく,「神性を備えた」方,「神のような」方,「神[a god]」であられたことを強調しています。このことは,神の代弁者としての役割の点で,ここで「言葉」と呼ばれているイエスが,ご自分の上位者であられる全能の神により地に遣わされた従順な従属者であることを示している,聖書の他の箇所と調和しています。

同様の構文のギリシャ語の文章を翻訳する際,ほかの言語のほとんどすべての翻訳者により,“a”という英語の冠詞に相当する語が一貫して挿入されている聖句は,ほかにもたくさんあります。例えば,ジェームズ王欽定訳のマルコ 6章49節には,弟子たちはイエスが水の上を歩くのを見た時,「彼らはそれを霊[a spirit]だと思った」とあります。コイネー・ギリシャ語では,「霊[spirit]」に相当する語の前に,英語の“a”という冠詞に相当する語はありません。しかし,ほかの言語のほとんどすべての翻訳は,訳し方を文脈に合ったものにするため,英語の“a”という冠詞に相当する語を挿入しています。同様に,ヨハネ 1章1節では,「言葉」が神[God]と共にいたことを示しているので,その「言葉」は神[God]ではあり得なかったでしょう。つまり,「神[a god]」,または「神性を備えた」方であられました。

アメリカ標準訳の仕事に参加した学者であった神学者ジョセフ・ヘンリー・セアは,「ロゴスは神性を備えていたが,神ご自身ではなかった」と簡潔に述べました。また,「聖書辞典」の編者であるイエズス会士ジョン・L・マッケンジーは,同辞典の中でこう書いています。「ヨハネ 1章1節は厳密に訳せば……『言葉は神性を備えた存在であった』となるであろう」。

規則に反しているか

しかし中には,そのような訳し方は,1933年にギリシャ語学者E・C・コルウェルが発表したコイネー・ギリシャ語の文法の規則に反すると主張する人がいます。ギリシャ語では,叙述名詞は「動詞の後に続く場合,[定]冠詞を取るが,動詞に先行する場合,[定]冠詞を取らない」と,コルウェルは主張しました。そのように主張することにより,動詞に先行する叙述名詞の前には定冠詞(英語なら,“the”)があるものと解すべきだと言っていたわけです。ヨハネ 1章1節では二番目の名詞(テオス),つまり述語が動詞に先行しています。その句は直訳すれば,「[テオス]であった,言葉は」となります。それで,ヨハネ 1章1節は,「[その]神であった,言葉は」と読むべきだと,コルウェルは主張しました。

しかし,ヨハネ 8章44節にある,ほんの二つの例を考慮してみてください。その箇所で,イエスは悪魔について,「その者は……人殺しであり」,『彼は偽り者である』と言われました。ヨハネ 1章1節の場合と同様,ギリシャ語では叙述名詞(「人殺し」と「偽り者」)が動詞(『である』)に先行しています。そして,そのいずれの名詞の前にも不定冠詞はありません。なぜなら,コイネー・ギリシャ語には不定冠詞がなかったからです。ところが,大抵の英語の翻訳者は,英語の“a”という語を挿入しています。なぜなら,それはギリシャ語の文法上,また文脈上必要だからです。―マルコ 11:32; ヨハネ 4:19; 6:70; 9:17; 10:1; 12:6も参照。

コルウェルも叙述名詞に関して,このことを認めざるを得ませんでした。ですから,「それはこの位置では文脈上必要とされる場合にのみ不定[“a”もしくは“an”]である」と述べました。それで,コルウェルさえ,文脈上必要とされる場合,英語の翻訳者がこの種の構文の名詞の前に不定冠詞を挿入できることを認めています。

英訳のヨハネ 1章1節では,文脈上,不定冠詞が必要ですか。必要です。というのは,聖書全巻の証言によれば,イエスは全能の神ではないからです。それで,このような場合,翻訳者はコルウェルの疑わしい文法規則ではなく,文脈に導かれるべきでしょう。このことはまた,そのような人為的文法に関し,多くの学者の意見が分かれていて,神のみ言葉もそうした文法と合致していない,英訳のヨハネ 1章1節や他の箇所に,英語の不定冠詞“a”を挿入している翻訳が少なくないことから考えても明らかでしょう。

矛盾していない

イエス・キリストが「神[a god]」であると言うことは,神はただひとりであるという聖書の教えと矛盾していますか。矛盾していません。聖書では,「神[a god]」という語が力ある被造物を指して何回か使われているからです。詩編 8編5節には,「あなたはまた,人を神のような者たち[ヘブライ語,エローヒーム]より少し劣る者と(された)」とあります。この「神のような者たち」とは,み使いたちのことです。イエスはご自分が神であると主張したというユダヤ人の訴えに対して弁明した際,「律法に……神の言葉を受けた人たちが,『神々[gods]』と言われている」と指摘しましたが,その神々とは人間の裁き人のことです。(ヨハネ 10:34,35,新共; エルサレム。詩編 82:1-6)サタンでさえ,コリント第二 4章4節で「この事物の体制の神[god]」と呼ばれています。

イエスはみ使いたちや不完全な人間,あるいはサタンよりもはるかに高い地位に就いておられます。それら後者が「神々[gods]」,つまり力ある者たちと呼ばれているのですから,確かにイエスは神[a god]であり得ますし,またそうであられます。イエスはエホバとの関係で特異な地位に就いておられるゆえに,「力ある神[Mighty God]」です。―ヨハネ 1:1。イザヤ 9:6

この「力ある神[Mighty God]」という語の英語の二文字は頭文字がそれぞれ大文字なので,イエスがある意味でエホバ神と同等であることを示唆していませんか。決してそうではありません。イザヤは単にこの語がイエスの四つの名称の一つとなることを預言したにすぎず,そのような名称の頭文字は英語では大文字で表記されます。なお,イエスは「力ある[Mighty]」方と呼ばれたとはいえ,「全能[Almighty]」者はただひとりしか存在し得ません。ほかにも神[god]と呼ばれながら,より重要でない,つまり劣った地位を占める者が存在しなかったなら,エホバ神を「全能」者と呼んでも,あまり意味がなかったでしょう。

カトリックの神学者カール・ラーナーによれば,テオスという語はキリストに言及しているヨハネ 1章1節のような句で使われているが,「それらの聖句の中には,新約聖書の他の箇所で『ホ テオス』,すなわち最高の神として出てくる方とイエスを同一視するような仕方で『テオス』が使われている例は一つもない」と,英国のジョン・ライランズ図書館会報は指摘し,こう付け加えています。「もし新約聖書の筆者が,信徒はイエスが『神[God]』であると告白することが肝要であると考えていたのであれば,まさにそのような形式の告白が新約聖書中にほとんどないというのは説明のつくことであろうか」。

しかし,ヨハネ 20章28節でトマスがイエスに向かって,「わたしの主,そしてわたしの神!」と言ったことについてはどうですか。トマスにとって,とりわけそう叫ばせるようにトマスを動かした奇跡的な状況では,イエスは「神[a god]」のようでした。中には,トマスが単に驚きのあまり感情的に叫んでイエスに話しかけたが,神に向かってそう語ったのだと考える学者もいます。いずれにしても,トマスはイエスが全能の神だとは考えませんでした。というのは,トマスや他の使徒たちは皆,イエスがご自分は神であると主張されたことは決してなく,エホバだけが「唯一まことの神」であると教えられたことを知っていたからです。―ヨハネ 17:3

ここでもまた,この点を理解するのに文脈が役立ちます。それより数日前のこと,イエスは,「わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る」と弟子たちに伝えるようマリア・マグダレネに命じておられました。(ヨハネ 20:17)イエスがすでに力ある霊として復活させられていたにしても,エホバは依然としてイエスの神であられました。それに,イエスは栄光を受けた後も,聖書巻末の書の中でさえ,引き続きエホバをそのような方としてお呼びになりました。―啓示 1:5,6; 3:2,12

トマスがそのように叫んだ箇所のほんの3節後のヨハネ 20章31節で,聖書は,「これらのことは,イエスが[全能の神ではなく,]神の子キリストであることをあなた方が信じるため(に)……記されたのである」と述べて,その点をさらに明らかにしています。それは,三位一体の神のある神秘的な一部ではなく,普通の父と子の場合のような文字通りの「子」を意味していました。

聖書と調和していなければならない

三位一体を支持する聖句はほかにも幾つかあると言われていますが,それらの句はこれまでに論じたものと同様で,注意深く調べてみると,実際には三位一体を支持していないことが分かります。それらの句は,三位一体を支持しているという主張のどれを考慮してみても,その解釈は聖書全巻を貫いている,エホバ神だけが最高の方であるという教えと調和しているだろうかと自問せざるを得ないことを例証するにすぎません。もし調和していないなら,その解釈は間違っているに違いありません。

また,“証明する聖句”はどれ一つとして,神,イエス,および聖霊がある神秘的な神において一つであるとは言ってさえいないということを銘記しておかなければなりません。三者がすべて,本質,力,および永遠性において同一であると言っている聖句は聖書のどこにもありません。聖書は首尾一貫して,全能の神エホバだけが最高の方で,イエスはその創造された子であられ,聖霊は神の活動する力であることを明らかにしています。

[24ページの拡大文]

「古代の人は[ヨハネ 10章30節]をキリストが……父と同一の本質を有していることを証明する句として誤って使った」― ジャン・カルバン著,「ヨハネによる福音書に関する注解」

[27ページの拡大文]

だれかがほかの人「と共に」いるなら,その人は同時にそのほかの人ではあり得ない

[28ページの拡大文]

「ロゴスは神性を備えていたが,神ご自身ではなかった」― 聖書学者ジョセフ・ヘンリー・セア

[24,25ページの図版]

イエスはご自分が父と「一つである」のと同様に,ご自分の弟子たちが『みな一つになる』ようにと祈られた

[26ページの図版]

イエスは,「父のなさることを見なければ,自分からは何事もできない」と言って,自分が神と等しくないことをユダヤ人に示された

[29ページの図版]

聖書は人間やみ使いやサタンをさえ「神[god]」,つまり強力な者と呼んでいる以上,上位の方であられる天のイエスを当然,「神[a god]」と呼ぶことができる