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別れに際して使徒たちに心の準備をさせる

別れに際して使徒たちに心の準備をさせる

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別れに際して使徒たちに心の準備をさせる

記念式の食事は終わりましたが,イエスと使徒たちはまだ階上の部屋にいます。イエスはまもなく去ってゆかれますが,言うべきことはまだたくさん残っています。イエスは,「あなた方の心を騒がせてはなりません」と述べて使徒たちの気持ちをなだめ,『神に信仰を働かせなさい』と言われます。しかしイエスはそれに付け加えて,「またわたしにも信仰を働かせなさい」と言われます。

イエスは続けて,「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。……わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのです……わたしのいる所にあなた方もまたいるためです。そして,わたしが行こうとしている所への道をあなた方は知っています」と言われます。使徒たちには,イエスが天へ行くことについて話しておられるということが分からないので,トマスは,「主よ,わたしたちは,あなたがどこへ行こうとしておられるのか分からないのです。どうしてその道が分かるでしょうか」と尋ねます。

イエスはそれに答えて,「わたしは道であり,真理であり,命です」と言われます。そうです,イエスを受け入れ,イエスの生き方に倣うことによってのみ,天にあるみ父の家に入ることができるのです。なぜなら,イエスが言われるように,「わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることは(ない)」からです。

フィリポが,「主よ,わたしたちに父をお示しください。それで十分です」と頼みます。フィリポは,古代においてモーセやエリヤやイザヤに与えられた幻の中で示されたように,目に見える形で神が表わし示されることをイエスに願い求めていたようです。しかし使徒たちは実際に,その種の幻よりはるかに優れたものを見ています。イエスが言われる通りです。「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父をも見たのです」。

イエスはみ父の性格を完ぺきに反映しておられるので,イエスと共に生活してイエスを観察することは,要するにみ父を実際に見ているようなものです。とは言っても,み父はみ子より上位の方です。イエスもそのことを認めて,「わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません」と言われます。イエスはご自分の教えが父から出ていることを全面的に認められますが,それは妥当なことです。

使徒たちは次にイエスが言われることを聞いて大きな励みを得るに違いありません。「わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも,それより大きな業をするのです」。イエスが言おうとしておられるのは,追随者たちがご自分より偉大な奇跡的力を行使するということではなく,彼らがはるかに長い期間,はるかに広い範囲に,またはるかに大勢の人たちに対して宣教を行なうということです。

イエスは,ご自分が去った後も弟子たちを見捨てたりはされません。「あなた方がわたしの名によって求めることが何であっても,わたしはそれを行ないます」と約束し,さらに,「わたしは父にお願いし,父は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊で(す)」と言われます。後にイエスは昇天してから,この別の助け手,つまり聖霊を弟子たちの上に注がれます。

イエスの去る時が近づいてきました。イエスが言われるように,「あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ない」のです。イエスは,人間が見ることのできない霊者となられるのです。しかしイエスは,再びご自分の忠実な使徒たちに,「あなた方はわたしを見ます。わたしは生きており,あなた方も生きるからです」と約束されます。そうです,イエスは復活後に人間の姿で彼らに現われるだけでなく,しかるべき時に彼らを霊者として復活させ,天でイエスと共に生きるようにされるのです。

ここでイエスは単純明快な規則を述べられます。「わたしのおきてを持ってそれを守り行なう人,その人はわたしを愛する人です。さらに,わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。そしてわたしはその人を愛して,自分をはっきり示します」。

この時,タダイとも呼ばれている使徒ユダが,「主よ,あなたはわたしたちにはご自分をはっきり示そうとされ,世に対してはそのようにされない,これは何が起きたのですか」と,言葉をはさみます。

それに対してイエスは,「だれでもわたしを愛するなら,その人はわたしの言葉を守り行ない,わたしの父はその人を愛し(ます)。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守り行ないません」とお答えになります。イエスの忠実な追随者とは異なり,世はキリストの教えを無視します。それでイエスは,世に対してご自分を明らかにされないのです。

地上で宣教を行なっておられた間,イエスは使徒たちに多くのことを教えられました。しかし,この時になっても把握できないことがたくさんあるというのに,弟子たちはそのすべてをどのように思い出すのでしょうか。幸いなことに,イエスはこう約束してくださいます。「しかし,父がわたしの名によって遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなた方にすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事柄を思い起こさせるでしょう」。

イエスは再び彼らの気持ちをなだめ,「わたしはあなた方に平安を残し,わたしの平安を与えます。……あなた方の心を騒がせては……なりません」と言われます。確かにイエスは去ってゆかれますが,このように説明されます。「もしわたしを愛するなら,わたしが父のもとに行こうとしていることを歓ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです」。

イエスが彼らと共にいる残された時間はわずかです。「わたしはもう,あなた方と多くは語らないでしょう。世の支配者が来ようとしているからです。そして,彼はわたしに対して何の力もありません」と語られます。悪魔サタンは世の支配者なのです。この者はユダの中に入ってユダを支配することができました。しかしイエスには,サタンに付け込まれて神への奉仕をやめるよう誘惑されるような罪深い弱さはありません。

親密な関係を享受する

記念式の食事に続いてイエスは,打ち解けた態度で率直に語り,使徒たちを励ましてこられました。もう真夜中を過ぎているかもしれません。それでイエスは,「立ちなさい。ここから行きましょう」と彼らを促されます。しかし出かける前に,彼らへの愛に動かされ,動機付けを与える例えを用いて話を続けられます。

「わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です」という言葉で話を始められます。偉大な耕作者であられるエホバ神がこの象徴的なぶどうの木をお植えになったのは,西暦29年の秋のイエスのバプテスマの際に聖霊によってイエスに油をそそがれた時でした。しかしイエスは,そのぶどうの木がただ自分一人を表わすのではないことを示して,こう述べられます。「父は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます。……枝がぶどうの木にとどまっていないなら,それだけでは実を結ぶことができないのと同じように,あなた方もわたしと結びついたままでいないなら,実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木,あなた方はその枝です」。

それから51日後のペンテコステのとき,使徒たちや他の者たちは聖霊をそそがれてぶどうの木の枝になります。最終的には14万4,000人の人々が象徴的なぶどうの木の枝になります。これらの人々は,ぶどうの木の幹であるイエス・キリストと共に,神の王国の実を生み出す象徴的なぶどうの木を形成するのです。

イエスは実を生み出す秘けつを説明されます。「わたしと結びついたままでおり,わたしが結びついたままでいる人,その人は多くの実を結びます。わたしから離れては,あなた方は何も行なえないからです」。しかし,もし人が実を生み出さないなら,「その人は枝のようにほうり出されて枯れてしまいます。そして人々はそうした枝を寄せ集めて火の中に投げ込み,それは焼かれてしまいます」と,イエスは語られます。一方,「あなた方がわたしと結びついたままでおり,わたしの言ったことがあなた方のうちにとどまっているのであれば,どんなことでも自分の願うことを求めなさい。そうすれば,それはあなた方のためにそのとおりになります」と約束されます。

イエスはさらに,「あなた方が多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです」と使徒たちに言われます。神が枝に望んでおられる実とは,弟子たちがキリストのような特質,とりわけ愛を表わすことです。さらに,キリストは神の王国の宣明者でしたから,その望まれる実にはイエスがなさったような弟子を作る活動も含まれます。

ここでイエスは,「わたしの愛のうちにとどまっていなさい」とお勧めになります。しかし,使徒たちがイエスの愛のうちにとどまるにはどうしたらよいのでしょうか。「わたしのおきてを守り行なうなら,あなた方はわたしの愛のうちにとどまることになります」と,イエスは語られます。そして続けてこう説明されます。「わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛すること,これがわたしのおきてです。友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」。

これから数時間後にイエスは,使徒たちや,ご自分に信仰を働かせる人々すべてのためにご自分の命を与えることにより,卓越した愛を示されるのです。その模範は,同じ自己犠牲的な愛を互いに示し合うようイエスの追随者たちを動かすものとなるはずです。イエスが以前,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と語られたように,弟子たちはこの愛によって見分けられるのです。

イエスは,どんな人がご自分の友であるかを明らかにして,「わたしが命令していることを行なうなら,あなた方はわたしの友です。わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです」と言われます。

何と貴重な関係が持てるのでしょう。イエスの親友になれるのです! しかし,追随者たちはこの関係を享受しつづけるために「実を結びつづけ」なければなりません。もし彼らがそうするなら,『あなた方がわたしの名によって父に何を求めても,父はそれをあなた方に与えてくださるでしょう』。確かにこれは,王国の実を生み出すことに対するすばらしい報いです。「互いに愛し合う」よう再び使徒たちに勧めたあとイエスは,彼らが世から憎まれるようになることを説明されます。それでもイエスは,「もし世があなた方を憎むなら,あなた方を憎むより前にわたしを憎んだのだ,ということをあなた方は知るのです」と述べて,彼らに慰めをお与えになります。そして次に,世がご自分の追随者たちを憎む理由を明らかにし,「あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです」と言われます。

イエスはさらに世が憎む理由について説明を加え,「彼らは,わたしの名のゆえにこれらすべてのことをあなた方に敵して行なうでしょう。わたしを遣わした方[エホバ神]を知らないからです」と語られます。イエスの奇跡的な業は事実上,イエスを憎む者たちを罪に定めました。イエスはその点に触れ,「もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。しかし今,彼らはわたしもわたしの父をも見,そのうえ憎んだのです」と言われます。こうして,イエスが言われるように,「彼らはいわれなくわたしを憎んだ」という聖句が成就しているのです。

前にも話されましたが,イエスはここで再び,神からの強力な活動力である聖霊という助け手を送ることを約束し,「その者がわたしについて証しするでしょう。そして今度はあなた方が証しをするのです」と語って彼らを慰められます。

別れ際の訓戒は続く

イエスと使徒たちは階上の部屋を出るところです。イエスは続けて,「あなた方がつまずかないために,わたしはこれらのことを話しました」と語り,それから厳粛な警告をお与えになります。「人々はあなた方を会堂から追放するでしょう。事実,あなた方を殺す者がみな,自分は神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしています」。

使徒たちはこの警告を聞いて大変動揺しているようです。イエスは以前,世は彼らを憎むと言われましたが,彼らが殺されるであろうことをこのように直接に知らせることはされませんでした。イエスはそのわけを,「わたしは[このこと]を初めにはあなた方に告げませんでした。あなた方と共にいたからです」と説明されます。それでも,ご自分が去る前にこの情報を与え,彼らに備えをさせるとは,何と行き届いた取り計らいなのでしょう!

イエスの話は続きます。「しかし今,わたしは自分を遣わした方のもとに行こうとしています。それでも,あなた方のうち一人も,『どこに行くのですか』とは尋ねません」。その晩の早い時刻に,使徒たちはイエスがどこへ行こうとしておられるのか尋ねましたが,今は話された事柄に動揺してしまい,このことについてそれ以上尋ねることができません。「わたしがこれらのことを話したために,悲嘆があなた方の心を満たしています」と,イエスは言われます。使徒たちが悲嘆に暮れているのは,自分たちがいずれは恐ろしい迫害に遭って殺されるのを知ったからだけでなく,主が去ろうとしておられるからです。

それでイエスは説明されます。「わたしが去って行くことはあなた方の益になるのです。わたしが去って行かなければ,助け手は決してあなた方のもとに来ないからです。しかし,去って行けば,わたしは彼をあなた方に遣わします」。人間としてはイエスは一時に一つの場所にしかいることができませんが,天にいれば,追随者たちが地上のどこにいても,彼らに神の聖霊という助け手を送ることができます。ですからイエスが去られることは益になるのです。

聖霊は,「罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう」とイエスは語られます。世の罪,つまり神の子に信仰を働かせないという罪は暴露されるでしょう。さらに,イエスの義に関する納得のゆく証拠は,イエスがみ父のもとに昇られることによって明らかに示されるでしょう。そして,サタンとその邪悪な世がイエスの忠誠を砕けないことは,世の支配者が不利な裁きを受けてきたことの納得のゆく証拠となります。

イエスは話を続けられます。「わたしにはまだあなた方に言うべきことがたくさんありますが,あなた方は今はそれに耐えることができません」。そのようなわけでイエスは,ご自分が神の活動力である聖霊を注ぐ時に,聖霊が彼らの把握力に応じて彼らを導き,これらの事柄を理解させてゆくということを約束しておられるのです。

使徒たちが特に理解できないのは,イエスが亡くなり,そののち復活して彼らの前に現われるという点です。それで彼らは互いに,「『しばらくすればあなた方はわたしを見ない,そしてまた,しばらくすればあなた方はわたしを見る』,そして,『わたしが父のもとに行くからだ』と言われるのはどういう意味なのか」と話し合います。

イエスは彼らが自分に質問したがっているのに気づき,こう説明されます。「きわめて真実にあなた方に言いますが,あなた方は泣き悲しみ,泣き叫びますが,世は歓ぶでしょう。あなた方は悲嘆しますが,あなた方の悲嘆は喜びに変えられるのです」。その日の後刻,つまり午後にイエスが殺される時,世の宗教指導者たちは歓びますが,弟子たちは悲嘆します。しかし,彼らの悲嘆はイエスが復活させられる時に喜びに変えられるのです。そして,イエスはペンテコステの際に神の聖霊を注がれることによって彼らにご自分の証人となる権限をお与えになるので,その喜びは続きます。

イエスは使徒たちの置かれている状況を,出産の苦しみを味わう女性のそれと比較して,「女は出産に臨んで嘆きを抱きます。彼女の時が到来したからです」と言われます。しかし,その女性は我が子が産まれさえすれば,もうその患難を覚えていないとイエスは語り,使徒たちを次のように励まされます。「それで,あなた方も今は確かに悲嘆を抱いています。しかし,[わたしが復活させられる時]わたしは再びあなた方に会うので,あなた方の心は歓ぶことでしょう。そして,だれもあなた方からその喜びを奪う者はありません」。

この時まで,使徒たちがイエスの名によって何かを求めたことはありませんでした。しかし今イエスは言われます。「あなた方が父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名によって与えてくださるのです。……父ご自身があなた方に愛情を持っておられるからです。それは,あなた方がわたしに愛情を持ち,わたしが父の代理者として来たことを信じているからです。わたしは父のもとから出て世に来ました。そしてまた,世を去って父のもとに行こうとしています」。

イエスの言葉は使徒たちにとって大きな励ましです。「これによってわたしたちは,あなたが神のもとから来られたことを信じます」と彼らは言います。「あなた方は今のところ信じているのですか」とイエスはお尋ねになります。「見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです」。信じ難いように思えるかもしれませんが,このことはその夜が明ける前に起きるのです。

「あなた方がわたしによって平安を得るために,わたしはこれらのことを言いました」。イエスは最後にこう言われます。「世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。サタンとその世がイエスの忠誠を砕くために手を尽くしたにもかかわらず,イエスは神のご意志を忠実に成し遂げることによって世を征服されたのです。

階上の部屋における最後の祈り

イエスは使徒たちに対する深い愛に動かされ,別れを目前にして彼らに心の準備をさせてこられました。彼らに訓戒と慰めを十分に与えた今,イエスは目を天に向けてみ父に請願されます。「あなたの子の栄光を表わしてください。子があなたの栄光を表わすためです。それは,あなたがすべての肉なるものに対する権威を子に与え,そのお与えになった者すべてについて,子がそれらの者に永遠の命を与えるようにされたことに応じてです」。

イエスは何と感動的なテーマを持ち出されたのでしょう ― 永遠の命とは!「すべての肉なるものに対する権威」を与えられているので,イエスは死にゆく人類すべてにご自分の贖いの犠牲の益を得させることができます。とはいえ,イエスが「永遠の命」をお与えになるのは,み父が是認なさる人々だけです。イエスは永遠の命というこのテーマに基づいてさらに祈りを続けられます。

「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。そうです,救いはわたしたちが神とみ子についての知識を取り入れるか否かにかかっているのです。しかし,単に知識を頭に詰め込む以上のことが必要です。

人は神とみ子を親しく知り,お二方と気脈の通じた交友関係を築くようにしなければなりません。様々な事柄に関してお二方が感じられるように感じ,お二方の見地に立って物事を見なければなりません。そして何よりも,他の人との関係において,神とみ子の持っておられる比類のない特質を見倣うよう懸命に努力しなければなりません。

イエスは次に,「わたしは,わたしにさせるために与えてくださった業をなし終えて,地上であなたの栄光を表わしました」と祈られます。そのようにしてイエスはこの時点までのご自分の任務を果たしてこられ,またこれから先も首尾よく果たしてゆくことを確信しておられたので,「父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身の傍らにあって栄光ある者としてください」と請願されます。そうです,イエスは今や,ご自分が以前あずかっていた天的な栄光を復活によって再び得させてくださるよう求めておられるのです。

地上で行なった主要な業を要約してイエスは,「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみ言葉を守り行ないました」と言われます。イエスは宣教中エホバという神のみ名を用いて,その正確な発音を示されましたが,使徒たちに神のみ名を明らかにするため,それ以上のことを行なわれました。イエスはまた,エホバやエホバのご性格,エホバの目的などについて使徒たちが知識と認識を増し加えるようにされました。

イエスはエホバを自分より上位の方,自分が仕える方と認め,謙遜にこう祈られます。「わたしに与えてくださったことばをわたしは彼らに与え(ました)。彼らはそれを受け入れて,わたしがあなたの代理者として来たことを確かに知り,あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたのです」。

イエスは次に,ご自分の追随者とそれ以外の人々とを区別して,「わたしは彼らに関してお願いいたします。世に関してではなく,わたしに与えてくださった者たちに関してお願いするのです。……わたしは,彼らと共におりました時,……いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません」と祈られます。「滅びの子」とはユダ・イスカリオテのことです。まさにこの時,ユダは卑劣にもイエスを裏切って渡すため敵のもとへ出向いています。こうしてユダはそれとは知らずに聖句を成就してゆきます。

イエスは祈りを続け,「世は彼らを憎みました。……わたしは,彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言われます。イエスの追随者たちは世に,つまりサタンの支配するこの組織された人間社会の中にいますが,世から,そして世の邪悪な事柄から常に離れています。また離れたままでいなければなりません。

イエスは続けて,「真理によって彼らを神聖なものとしてください。あなたのみ言葉は真理です」と祈られます。イエスはここで,ご自分がひんぱんに引用された,霊感を受けたヘブライ語聖書のことを「真理」と呼んでおられます。しかし,ご自分が弟子たちに教えた事柄,また後に弟子たちがクリスチャン・ギリシャ語聖書として霊感のもとに書き記した事柄も,やはり同様に「真理」です。この真理は人を神聖なものとし,その生き方を完全に変化させ,その人を世から分けられた状態にします。

ここでイエスは,「これらの者だけでなく,彼らの言葉によって[イエス]に信仰を持つ者たちについても」祈られます。ですからイエスは,ご自分の油そそがれた追随者になる人たちのため,またやがて「一つの群れ」に集め入れられる将来の他の弟子たちのために祈っておられるのです。これらの人たちのためにイエスは何を願い求められるのでしょうか。

「それは,彼らがみな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように,……わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです」。イエスとみ父は文字通りひとりであるというのではなく,すべての事柄において一致しておられるということです。イエスは,追随者たちがこの同じ一致を享受して,「あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知る」に至るようにと祈られます。

イエスはここで油そそがれた追随者となる人たちのために,天のみ父に一つのことを願い求められます。どんなことでしょうか。「わたしのいる所に彼らも共にいて,わたしに与えてくださった栄光を見るようにと願います。あなたは世の基の置かれる前[すなわちアダムとエバが子孫をもうける前]にわたしを愛してくださったからです」。アダムとエバが子孫をもうけるよりもずっと前から,神はご自分の独り子を愛しておられました。神のその独り子がイエス・キリストになったのです。

祈りの最後にイエスは再びこう強調されます。「わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。使徒たちにとって,神のみ名を知るとは,神の愛を個人的に知るということでもあったのです。 ヨハネ 14:1-17:26; 13:27,35,36; 10:16。ルカ 22:3,4。出エジプト記 24:10。列王第一 19:9-13。イザヤ 6:1-5。ガラテア 6:16。詩編 35:19; 69:4。箴言 8:22,30

■ イエスはどこへ行こうとしておられますか。そこまでの行き方についてトマスが尋ねたとき,どんな答えが返ってきますか。

■ イエスにお願いしたフィリポは,イエスが何をしてくださることを望んでいるようですか。

■ イエスを見た人がみ父をも見たことになるのはどうしてですか。

■ イエスの追随者たちは,どのようにイエスより大きな業をすることになりますか。

■ サタンはどんな意味で,イエスに対して何の力もないのでしょうか。

■ エホバはいつ象徴的なぶどうの木をお植えになりましたか。ほかの人々はいつ,またどのようにぶどうの木の一部になりますか。

■ 象徴的なぶどうの木に,最終的にはどれほど多くの枝が付きますか。

■ 神は枝からどのような実を得ることを望まれますか。

■ どうすればわたしたちはイエスの友になれますか。

■ なぜ世はイエスの追随者たちを憎むのですか。

■ イエスのどんな警告は使徒たちの心を動揺させますか。

■ 使徒たちがイエスの行こうとしている場所についてイエスに質問できなかったのはなぜですか。

■ 使徒たちは特にどんなことが理解できませんか。

■ イエスは,使徒たちの置かれている状況が悲嘆から喜びに変わることをどんな例えで説明されますか。

■ イエスは,使徒たちがまもなくどんなことをすると言われますか。

■ イエスはどのようにして世を征服されますか。

■ どのような意味でイエスは「すべての肉なるものに対する権威」を与えられていますか。

■ 神とみ子についての知識を取り入れるとはどういう意味ですか。

■ イエスはどのような仕方で神のみ名を明らかにされますか。

■ 「真理」とは何ですか。それはどのようにクリスチャンを「神聖なものと」しますか。

■ 神とみ子,および真の崇拝者すべては,どのような意味で一つになりますか。

■ 『世の基が置かれた』のはいつですか。