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アッシリア人を恐れてはならない

アッシリア人を恐れてはならない

第12

アッシリア人を恐れてはならない

イザヤ 10:5-34

1,2 (イ)人間の観点からすると,ヨナが,アッシリア人に伝道する任務を受け入れようとしなかったのももっともなことと言えるのはなぜですか。(ロ)ニネベの人々はヨナの音信にどう反応しましたか。

西暦前9世紀の半ばごろ,アミタイの子であるヘブライ人の預言者ヨナは,危険を冒してアッシリア帝国の首都ニネベに入りました。ヨナには,伝えるべき重大な音信がありました。エホバから,「立って,大いなる都市ニネベに行き,彼らの悪がわたしの前に達したことをふれ告げよ」と命じられていたのです。―ヨナ 1:2,3

2 ヨナは,最初に任務を与えられた時,反対方向のタルシシュに向かって逃げました。人間の観点からすれば,ヨナが乗り気でなかったのももっともなことです。アッシリア人は残酷な民でした。アッシリアの君主の一人は,敵たちにどんな仕打ちを加えたかについて,「わたしは役人ども……の手足を切断した。彼らの中の多くの捕虜をわたしは火で焼き,多くの者を生け捕りにした。わたしはある者たちの手や指を切り取り,ほかの者たちの鼻を切り落とした」と述べています。とはいえ,ヨナがついにエホバの音信を伝えると,ニネベの人々は罪を悔い改め,エホバはその時はニネベを容赦されました。―ヨナ 3:3-10。マタイ 12:41

エホバは「むち棒」を振り上げる

3 エホバの預言者たちによって伝えられた警告に対するイスラエル人の反応は,ニネベの人々とはどのように異なっていましたか。

3 イスラエル人も同じヨナから伝道を受けましたが,こたえ応じるでしょうか。(列王第二 14:25)いいえ,清い崇拝に背を向け,実のところ,『天の全軍に身をかがめ,バアルに仕える』ことまでします。それだけでなく,「自分たちの息子や娘たちに火の中を通らせ,占いを行ない,兆しを求め,身を売ってエホバの目に悪いことを行なっては,神を怒らせ」ました。(列王第二 17:16,17)ニネベの人々とは違い,イスラエルは,エホバが警告するために預言者たちを遣わしても,こたえ応じません。そのため,エホバはもっと強硬な手段を取ることにされます。

4,5 (イ)「アッシリア人」という言葉にはどんな含みがありますか。エホバはどのようにアッシリア人を「むち棒」として用いますか。(ロ)サマリアはいつ陥落しますか。

4 ヨナがニネベを訪れた後,アッシリアによる侵略はしばらくのあいだ勢いを失います。 * しかし,西暦前8世紀の初め,アッシリアは再び軍事強国であることを明らかにし,エホバはそのアッシリアを驚くべきかたちで用います。預言者イザヤは,北のイスラエル王国に対する,エホバからの次の警告を伝えます。「ははあ,アッシリア人,わたしの怒りのためのむち棒,また,彼らの手にあるわたしの糾弾のための棒切れよ! わたしは背教の国民に向かって彼を遣わし,わたしの憤怒の民に向かって彼に命令を出す。多くの分捕り物を取り,多くの強奪物を取り,民をちまたの粘土のように踏みつける所とせよ」。―イザヤ 10:5,6

5 イスラエル人にとっては何たる屈辱でしょう。神は,異教徒である「アッシリア人」を「むち棒」として用いてイスラエル人を罰するのです。西暦前742年,アッシリアの王シャルマネセル5世は,背教の国イスラエルの首都であるサマリアを攻囲します。高さ90㍍ほどの丘の上という戦略上有利な位置にあったサマリアは,ほぼ3年にわたって敵の攻撃をしのぎます。しかし,どんな人間の戦略も神の目的を阻むことはできません。西暦前740年,サマリアは陥落し,アッシリアの足下に踏みつけられます。―列王第二 18:10

6 どんな点でアッシリア人は,エホバが意図された以上のことを行なおうとしますか。

6 アッシリア人は,神の民に教訓を与えるためにエホバに用いられているにもかかわらず,エホバを認めません。そのため,エホバは続けてこう言われます。「[アッシリア人]はそのようではないかもしれないが,その気になるであろう。その心はそのようではないかもしれないが,彼はたくらむであろう。なぜなら,滅ぼし尽くすこと,少なからぬ国の民を断ち滅ぼすことがその心の中にあるからである」。イザヤ 10:7エホバは,アッシリア人は神の手にある道具である,と述べておられるのです。しかしアッシリア人は,それ以外のものになろうという気になります。自らの心に促され,もっと壮大なこと,つまり当時知られていた世界の征服をたくらみます。

7 (イ)「わたしの君たちは王でもあるのではないか」という表現の意味を説明してください。(ロ)今日エホバを捨てる人たちは何に注目すべきですか。

7 アッシリア人に征服された,イスラエル人でない民の都市の多くは,以前は王に支配されていました。それらかつての王たちは,今や属国の君としてアッシリアの王に服従しなければなりません。それで,アッシリアの王はまさしく,「わたしの君たちは王でもあるのではないか」と誇ることができます。イザヤ 10:8諸国の有名な都市の偽りの神々は,崇拝者たちを滅びから救うことができませんでした。サマリアの住民が崇拝するバアル,モレク,金の子牛などの神々も,その都にとって保護とはなりません。エホバを捨てたサマリアには,エホバの介入を期待する権利はありません。今日エホバを捨てる人たちはみな,サマリアに臨んだ結末に留意しなければなりません。アッシリア人は,サマリアや,これまでに征服した他の都市に関して,次のように誇ることができます。「カルノはカルケミシュのようではないか。ハマトはアルパドのようではないか。サマリアはダマスカスのようではないか」。イザヤ 10:9これらはみなアッシリア人にとっては同じもの,つまりただの分捕り物です。

8,9 アッシリア人がエルサレムを狙うのは出過ぎたことである,と言えるのはなぜですか。

8 とはいえ,アッシリア人は誇りのあまりこう言います。「エルサレムやサマリアよりも多くの彫像を持つ,無価値な神の王国にわたしの手が及んだときにはいつでも,わたしはサマリアとその無価値な神々にすると同じようにエルサレムとその偶像にもするのではないか」。イザヤ 10:10,11アッシリア人がすでに打ち破った数々の王国は,エルサレム,さらにはサマリアよりもはるかに多くの偶像を有していました。それでアッシリア人は,『エルサレムをサマリアと同じ目に遭わせるのに何の妨げがあろうか』と考えているのです。

9 何と思い上がった態度でしょう。エホバは,アッシリア人がエルサレムを攻め取るのを許したりはされません。もちろん,ユダには,真の崇拝を支持する点で申し分のない記録があるわけではありません。(列王第二 16:7-9。歴代第二 28:24)エホバは,ユダはその不忠実さのゆえにアッシリアの侵入期間中,多大の苦しみを経験するであろう,と警告しておられます。それでも,エルサレムは生き延びます。(イザヤ 1:7,8)アッシリアが侵攻してくる時,エルサレムの王位にはヒゼキヤがいます。ヒゼキヤは,父アハズのようではありません。実際,その統治のまさに第一の月に,ヒゼキヤは神殿の扉を再び開き,清い崇拝を回復します。―歴代第二 29:3-5

10 エホバはアッシリア人に関して何を約束されますか。

10 それで,アッシリアのもくろむエルサレム攻撃はエホバの是認を得ません。エホバは,この不遜な世界強国との清算を行なうことを,こう約束されます。「そして,エホバがその業をシオンの山とエルサレムでことごとく終わらせるとき,わたしはアッシリアの王の心の不遜の実とその目の高ぶりのうぬぼれを清算する」。―イザヤ 10:12

ユダへ,エルサレムへ!

11 アッシリア人が,エルサレムはたやすく獲物になると思うのはなぜですか。

11 西暦前740年に北の王国が陥落してから8年後,アッシリアの新たな君主セナケリブがエルサレムに向かって進軍します。イザヤは,セナケリブの誇り高ぶった計画を,詩的にこう描写します。「わたしはもろもろの民の境界を取り除き,その蓄えられた物を必ず略奪し,その住民を強力な者のように下らせる。そして鳥の巣でもあるかのように,わたしの手はもろもろの民の資産に及ぶ。人が捨てられた卵を集めるときのように,わたしもまさに全地をかき集める。だれひとりその翼を羽ばたかせる者も,その口を開く者も,さえずる者もいない」。イザヤ 10:13,14他の諸都市は陥落し,サマリアももはや存在しないのだから,エルサレムもたやすく獲物になるだろうと,セナケリブは考えます。その都は中途半端な戦いを挑むかもしれませんが,住民はほとんどさえずることもなく速やかに征服され,住民の資産は,見捨てられた巣の卵のようにさらわれてしまうでしょう。

12 アッシリア人の誇りに関して,エホバは物事の正しい見方としてどんなことを示されますか。

12 しかし,セナケリブはあることを忘れています。背教したサマリアは,受けるべき処罰を受けたのです。しかし,ヒゼキヤ王のもとで,エルサレムは再び,清い崇拝の拠点となっています。だれであれエルサレムに手出しをしようとする者は,エホバを相手にすることを覚悟しなければなりません。イザヤは憤然としてこう問いかけます。「斧はそれを使って切る者の上に自分を高めるだろうか。のこぎりはそれを前後に動かす者の上に自分を大いなるものとするだろうか。あたかも杖がそれを高く掲げる者たちを前後に動かすかのように。あたかも棒が木でない者を高く掲げるかのように」。イザヤ 10:15アッシリア帝国はエホバの手にある道具にすぎません。それは,斧やのこぎりや杖や棒が,きこりや木びきや羊飼いに用いられるのとまさに同じです。棒が,それを使う人の上に自分を大いなるものとするなど,とんでもないことです。

13 (イ)「肥えた者たち」,(ロ)「雑草といばらの茂み」,(ハ)『森林の栄光』について,その実体と,それがどうなるかを述べてください。

13 アッシリア人はどうなるでしょうか。「まことの主,万軍のエホバはその肥えた者たちの上に身のやせ衰える病を送りつづけ,その栄光の下で燃焼は火の燃えるように燃焼しつづける。そしてイスラエルの光は必ず火となり,その聖なる方は炎となる。それは必ず燃え上がり,その雑草といばらの茂みを一日のうちに食い尽くす。そして,神はご自分の森林と果樹園の栄光を,実に魂から肉に至るまで終わらせ,それは必ず病んでいる者が溶け去るときのようになる。そしてその森林の木々の残り ― それはほんの少年が書き留めることのできる数になる」。イザヤ 10:16-19そうです,エホバは,このアッシリアの「棒」を削って小さくするのです。アッシリア軍の「肥えた者たち」,つまり頑強な兵士たちは,「身のやせ衰える病」に襲われ,あまり強そうには見えなくなるでしょう。アッシリアの地上部隊は,非常に多くの雑草やいばらの茂みのように,イスラエルの光であるエホバ神によって燃やされます。そして,『森林の栄光』であるアッシリアの士官たちも終わりに至ります。エホバがアッシリア人を処置し終えると,残された士官はあまりにも少ないため,ほんの少年でも指で数えられるほどになるのです。イザヤ 10:33,34もご覧ください。

14 西暦前732年までの,ユダの地におけるアッシリア人の前進について説明してください。

14 とはいえ,西暦前732年にエルサレムに住んでいたユダヤ人にとって,アッシリア人が敗北するとは信じがたいに違いありません。アッシリアのおびただしい軍勢は情け容赦なく進軍しています。陥落したユダの諸都市の名が挙げられるのを聴いてください。「彼はアヤト……ミグロン……ミクマシュ……ゲバ……ラマ……サウルのギベア……ガリム……ライシャ……アナトテ……マドメナ……ゲビム……ノブ(に上って来た)」。イザヤ 10:28-32前半 * ついに侵入者たちは,エルサレムからわずか50㌔のラキシュに達します。やがて,アッシリアの大軍が都を脅かすようになります。「シオンの娘の山,エルサレムの丘に向かって彼は脅しつけるようにその手を振る」のです。イザヤ 10:32後半アッシリア人を止めることなどできるでしょうか。

15,16 (イ)ヒゼキヤ王が強い信仰を必要とするのはなぜですか。(ロ)エホバが救いに来てくださるというヒゼキヤの信仰には,どんな根拠がありますか。

15 都の宮殿にいるヒゼキヤ王の不安は募ります。王は衣を引き裂き,粗布で身を覆います。(イザヤ 37:1)そして,ユダのためにエホバに問い尋ねるため,預言者イザヤのもとへ人を遣わします。しばらくして戻って来た使者たちは,『恐れてはならない。わたしは必ずこの都市を防御するであろう』というエホバの答えを伝えます。イザヤ 37:6,35)しかし,アッシリア人は自信満々で威嚇しつづけています。

16 信仰 ― それによってヒゼキヤ王はこの危機を切り抜けることになります。信仰とは,「見えない実体についての明白な論証」です。(ヘブライ 11:1)それには,見えている物事の向こうを見ることが含まれます。とはいえ,信仰は知識に基づいています。ヒゼキヤは,エホバが前もって次のような力づけとなる言葉を述べておられたのを覚えていることでしょう。「シオンに住んでいるわたしの民よ,……アッシリア人のことで恐れてはならない。ほんのもう少しすれば ― 糾弾は終わりに至る。わたしの怒りも,彼らが消滅して行くことにおいて。そして,万軍のエホバは,オレブの岩のほとりでミディアンが敗北したときのように,彼に向かって必ずむちを振り回す。その杖は海に臨み,神はエジプトに対して行なったように必ずそれを上げられる」。イザヤ 10:24-26 * そうです,神の民は困難な状況に面したことがこれまで幾度もありました。ヒゼキヤの先祖たちは紅海で,エジプト軍に対してとても勝ち目はないかに見えました。何世紀か前にギデオンは,ミディアンとアマレクがイスラエルに攻め入った時,圧倒的な数の差に直面しました。それでもエホバは,それら二つの場合に,ご自分の民を救出されました。―出エジプト記 14:7-9,13,28。裁き人 6:33; 7:21,22

17 アッシリアのくびきはどのように「壊され」ますか。なぜですか。

17 エホバは,それら以前に行なったことを再び行なわれるのでしょうか。そのとおりです。こう約束しておられます。「その日,彼の荷はあなたの肩から,彼のくびきはあなたの首から離れ,くびきは油のために必ず壊される」。イザヤ 10:27アッシリアのくびきは,神の契約の民の肩と首から外されます。実のところ,そのくびきは「壊される」ことになっているのです。そして,まさにそうなります。一晩のうちに,エホバのみ使いがアッシリア人のうち18万5,000人を殺すのです。脅威は去り,アッシリア人はユダの地から撤退して戻って来ません。(列王第二 19:35,36)なぜでしょうか。「油のために」そうなります。これは,ヒゼキヤをダビデの家系の王として油そそぐために用いられた油のことを指すのかもしれません。こうしてエホバは,次のような約束を果たされます。「わたしは自分のため,またわたしの僕ダビデのために必ずこの都市を防御して,これを救うであろう」。―列王第二 19:34

18 (イ)イザヤの預言の成就は一度だけですか。説明してください。(ロ)今日のどんな組織が古代サマリアに似ていますか。

18 この章で考慮しているイザヤの記述は,今から2,700年以上前にユダで起きた事柄に関するものです。しかし,それらの出来事は今の時代と非常に密接に関連しています。(ローマ 15:4)それは,この興奮を呼ぶ物語の主要登場人物である,サマリアとエルサレムの住民およびアッシリア人に対応するものが今の時代にいる,ということでしょうか。そのとおりです。偶像を礼拝していたサマリアと同様,キリスト教世界はエホバを崇拝していると唱えますが,実際には全くの背教者となっています。「キリスト教教理発展論」(英語)の中で,ローマ・カトリックのジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿は,キリスト教世界が何世紀にもわたって用いてきた香,ろうそく,聖水,司祭服,像などの物品は,「すべて異教に起源を持つ」ことを認めています。エホバは,サマリアの偶像礼拝と同じく,キリスト教世界の異教的な崇拝を喜ばれません。

19 キリスト教世界は何に関して,まただれから警告を受けてきましたか。

19 エホバの証人は長年にわたって,キリスト教世界にエホバの不興が臨むことを警告してきました。例えば1955年には,「キリスト教国それともキリスト教 ―『世の光』はどちらですか」と題する公開講演が全世界で行なわれました。その話は,キリスト教世界が純粋のキリスト教の教理と慣行からどのように逸脱してきたかをはっきりと説明しました。その後,この力強い講話の写しが多くの国の僧職者に郵送されました。キリスト教世界は,組織としてこの警告に留意していません。そのためエホバは,同世界に「棒」で懲罰を加えざるを得ません。

20 (イ)現代のアッシリア人として振る舞うのは何ですか。それはどのように棒として用いられますか。(ロ)キリスト教世界はどの程度まで懲罰を受けますか。

20 反逆的なキリスト教世界に懲罰を加えるため,エホバはだれを用いますか。その答えは啓示 17章にあります。そこには,キリスト教世界を含む全世界の偽りの宗教を表わす,「大いなるバビロン」という娼婦が登場します。その娼婦は,七つの頭と十本の角を持つ緋色の野獣に乗っています。(啓示 17:3,5,7-12)その野獣は国際連合機構を表わします。 * 古代アッシリア人がサマリアを滅ぼしたのと全く同様,緋色の野獣は「娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くす」でしょう。(啓示 17:16)そのようにして,現代のアッシリア人(国連に連なる諸国家)はキリスト教世界に強烈な一撃を加え,粉砕して消滅させます。

21,22 だれが,神の民を攻撃するよう野獣を動かしますか。

21 エホバの忠実な証人たちは大いなるバビロンと共に滅びうせるのでしょうか。いいえ,そうではありません。証人たちは神の不興を被ってはいません。清い崇拝は存続します。とはいえ,大いなるバビロンを滅ぼす野獣は,貪欲な目をエホバの民にも向けます。その場合,野獣は神の考えではなく,他のある者の考えを遂行します。それはだれですか。悪魔サタンです。

22 エホバはサタンの誇り高ぶった企てを暴露して,こう言われます。「その日には,あなた[サタン]の心の中に色々なことが上って来て,あなたは必ず有害な企てを考え出す。あなたは必ず言う,『わたしは……,騒乱のおそれもなく,安らかに住んでいる者たちのところに入って行く。彼らは皆,[保護となる]城壁もなく住んで(いる)』。それは多くのものを分捕り,多くのものを強奪するためであ(る)」。(エゼキエル 38:10-12)サタンはこう考えるでしょう。『そうだ,諸国家をあおってエホバの証人を攻撃させればよいのではないか。証人たちはもろくて,無防備で,政治的な影響力もない。何の抵抗もしないだろう。無防備な巣にある卵のように簡単にさらってしまえるだろう』。

23 なぜ現代のアッシリア人は,神の民をキリスト教世界と同じ目に遭わせることができませんか。

23 しかし,諸国家は心しなさい。エホバの民に手出しするなら,神ご自身を相手にしなければならなくなることを知っておくべきです。エホバはご自分の民を愛しておられ,ヒゼキヤの時代にエルサレムのために戦ったのと同様,必ずその民のためにも戦われます。現代のアッシリア人は,エホバの僕たちを根絶しようとする時,実際にはエホバ神および子羊イエス・キリストと闘っていることになるのです。それは,アッシリア人には全く勝ち目のない闘いです。「子羊は,主の主,王の王であるので,彼らを征服する」と聖書は述べています。(啓示 17:14。マタイ 25:40と比較してください。)昔のアッシリア人のように,緋色の野獣は『滅びに至り』ます。恐怖の的となることはもはやありません。―啓示 17:11

24 (イ)真のクリスチャンは将来に備えてどんな決意を抱いていますか。(ロ)イザヤはどのように,さらに先を見通していますか。(155ページの囲み記事をご覧ください。)

24 真のクリスチャンは,エホバとの関係を強く保ち,神のご意志を行なうことを生活上の主要な関心事としているなら,将来に対して恐れを抱く必要はありません。(マタイ 6:33)「何も悪いものを恐れ」なくてよいのです。(詩編 23:4)クリスチャンは,自分たちを罰するためにではなく,神の敵たちから保護するために神の力強い腕が高く上げられるのを信仰の目によって見るでしょう。そして耳には,安心感を与える「恐れてはならない」という言葉が聞こえてくるのです。―イザヤ 10:24

[脚注]

^ 14節 理解しやすくするため,イザヤ 10章20-27節より先にイザヤ 10章28-32節を考慮します。

^ 16節 イザヤ 10章20-23節の考察については,155ページの「イザヤはさらに先を見通す」をご覧ください。

^ 20節 娼婦と緋色の野獣の実体に関する付加的な情報は,ものみの塔聖書冊子協会発行の「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の34章と35章にあります。

[研究用の質問]

[155,156ページの囲み記事/図版]

イザヤはさらに先を見通す

イザヤ 10:20-23

イザヤ 10章はおもに,エホバがどのようにアッシリアの侵入を用いてイスラエルに裁きを執行するかという点と,エルサレムを守るという神の約束に焦点を合わせています。20節から23節はそうした預言の真ん中にあるので,それと同じ時期に全般的な成就を見るものとみなされがちです。(イザヤ 1:7-9と比較してください。)しかし,言葉遣いからすると,これらの節は,より厳密には後の時期に,つまりエルサレムもその住民の罪に関して申し開きをしなければならなくなる時期に当てはまると言えます。

アハズ王はアッシリアに助けを求めることによって安全を得ようとします。預言者イザヤは,将来,イスラエルの家の生存者たちはもう決してそうした無分別な道を追い求めない,と予告します。イザヤ 10章20節には,生存者たちが「エホバに,イスラエルの聖なる方に真実に寄りかかる」であろう,とあります。しかし21節は,そうするのがごく少数の人たちであることを示し,『ほんの残りの者が帰る』と述べています。このことから思い出すのは,イザヤの息子シェアル・ヤシュブです。その子はイスラエルにおけるしるしであり,その名には「ほんの残りの者が帰る」という意味があります。(イザヤ 7:310章22節は,定められている来たるべき「絶滅」について警告しています。そうした絶滅は,反逆的な民に対する当然の処罰であり,義にかなっています。結果として,「海の砂粒のように」人口密度の高い国の残りの者だけが帰って来ます。23節は,この来たるべき絶滅が全土に影響を与えると警告しています。今回は,エルサレムも容赦されません。

これらの節では,エホバがバビロニア帝国を「むち棒」として用いた西暦前607年に生じた事柄が見事に描写されています。エルサレムを含む全土が侵入者の手に落ちました。ユダヤ人はバビロンでの70年間の捕囚に処されました。しかし,その後,「ほんの残りの者」だけであるとしても,エルサレムで真の崇拝を復興するために帰る人たちがいました。

ローマ 9章27節と28節が示すとおり,イザヤ 10章20節から23節の預言は,さらに後代になって,1世紀にも成就しました。(イザヤ 1:9; ローマ 9:29と比較してください。)パウロの説明によると,西暦1世紀にユダヤ人の「残りの者」が霊的な意味でエホバのもとに『帰り』ました。そう言えるのは,少数の忠実なユダヤ人がイエス・キリストの追随者になり,「霊と真理をもって」エホバを崇拝し始めたからです。(ヨハネ 4:24)後に,それらユダヤ人に,信者となった異邦人が加わり,「神のイスラエル」という霊的な国民が作り上げられました。(ガラテア 6:16)その時,エホバに献身した国民が神に背き,人間をよりどころとして頼ることは『もう決してない』,というイザヤ 10章20節の言葉が成就しました。

[147ページの図版]

セナケリブは,諸国民をかき集めるのは卵を巣から集めるのと同じほどたやすい,と考える