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うまずめであった女は歓ぶ

うまずめであった女は歓ぶ

第15章

うまずめであった女は歓ぶ

イザヤ 54:1-17

1 サラが子供を産みたいと切望していたのはなぜですか。それに関して,どんな経験をしましたか。

サラは子供を産みたいと切望していましたが,悲しいことにうまずめであったため,深い心痛を味わっていました。その時代,うまずめであるのは不面目なこととみなされていました。しかし,サラの心痛には別の理由もありました。自分の夫に対する神の約束の成就を,何としても見たいと願っていたのです。アブラハムは,地の全家族に祝福となる胤の父祖となることになっていました。(創世記 12:1-3)ところが,神がその約束をなさってから幾十年かたっているのに,まだ子供ができませんでした。サラは年を取り,子供のないままでした。かなわぬ希望だったのだろうか,と思案することもあったかもしれません。しかしある日,彼女の落胆は喜びに変わりました!

2 イザヤ 54章の預言に興味をそそられるのはなぜですか。

2 サラの経験したつらい状況は,イザヤ 54章に記されている預言を理解する助けになります。この章は,多くの子供を持つ深い喜びを知るようになるうまずめに対するかのように,エルサレムに語りかけています。エホバは,古代のご自分の民を集合的に自分の妻として描写することによって,その民に対する優しい気持ちを表わしておられます。加えて,イザヤのこの章は,聖書が「神聖な奥義」と呼ぶものの極めて重要な一面を明らかにしてくれます。(ローマ 16:25,26)その「女」の実体,およびこの預言の中で予告されている彼女の経験は,今日の清い崇拝の重要な点を明らかにしています。

「女」の実体が明らかになる

3 うまずめである「女」が歓びの理由を持つようになるのはなぜですか。

3 54章は喜ばしい調子で始まります。「『子を産まなかったうまずめよ,喜び叫べ! 子を産む苦しみを味わったことのない者よ,歓呼して快活になれ。甲高く叫べ。荒廃させられた者の子らは,夫たる所有者を持つ女の子らよりも多いからである』と,エホバは言われた」。イザヤ 54:1イザヤは,この言葉を語るときに大きな興奮を覚えるに違いありません。そして,この言葉が成就する時,バビロンで流刑になっているユダヤ人は大いに慰められることでしょう。その時,エルサレムは依然として荒廃しています。人間の観点からすれば,エルサレムに再び人が住む望みはなさそうに見えるでしょう。それは,老齢になったうまずめが,子供を産むことを普通は望めないのと同様です。しかし,この「女」はやがて大きな祝福を受けます。多くの子を産むのです。エルサレムは喜びに我を忘れるほどになります。再び「子ら」つまり住民で満ちるようになるのです。

4 (イ)使徒パウロは,イザヤ 54章に西暦前537年の成就より大規模な成就があるに違いないことを,どのように理解させてくれますか。(ロ)「上なるエルサレム」とは何ですか。

4 本人は知らないかもしれませんが,イザヤの預言の成就は一度だけではありません。使徒パウロはイザヤ 54章を引用して,この「女」が,地上の都市エルサレムよりはるかに重要なものを意味することを説明し,「上なるエルサレムは自由であって,それがわたしたちの母です」と書いています。(ガラテア 4:26)この「上なるエルサレム」とは何でしょうか。約束の地にある都市エルサレムの都のことでないのは明らかです。その都市は地的なものであり,天の領域にある「上なる」ものではありません。「上なるエルサレム」とは,神の天的な「女」,つまり強大な霊の被造物で成る神の組織のことです。

5 ガラテア 4章22-31節に概説されている象徴的なドラマにおいて,(イ)アブラハム,(ロ)サラ,(ハ)イサク,(ニ)ハガル,(ホ)イシュマエルは,それぞれだれ,または何を表わしていますか。

5 それにしても,エホバが二人の象徴的な女を ― 一方は天に,他方は地上に ― 有するということはどうして可能なのでしょうか。矛盾があるのではないでしょうか。決してそうではありません。使徒パウロが示すとおり,その答えは,アブラハムの家族が預言的に描写した事柄から得られます。(ガラテア 4:22-31。218ページの「アブラハムの家族 ― 預言的な描写」をご覧ください。)アブラハムの妻である「自由の女」サラは,霊の被造物で成るエホバの妻のような組織を表わしています。アブラハムの第二の妻もしくはそばめである下女ハガルは,地上のエルサレムを表わしています。

6 どんな意味で,神の天の組織には長いあいだ子ができませんでしたか。

6 では,こうした背景に基づき,イザヤ 54章1節の奥深い意味を調べてゆきましょう。幾十年も子ができなかったサラは,90歳になってイサクを産みました。同様に,エホバの天の組織も長いあいだ子ができませんでした。はるか昔,エデンにおいてエホバは,ご自分の「女」が「胤」を産み出すと約束なさいました。(創世記 3:15)それから2,000年以上のち,エホバは約束の胤に関する契約をアブラハムと結ばれました。しかし,神の天的な「女」は,その胤を産み出すまで,さらに幾世紀もの間ずっと待たなければなりませんでした。とはいえ,このかつては「うまずめ」であった女の子供が,肉のイスラエルの子供よりも多くなる時が来たのです。このうまずめの例えから,予告された胤の到来をみ使いたちが是非とも目撃したいと思っていた理由も理解できます。(ペテロ第一 1:12)では,それがついに実現したのはいつのことでしょうか。

7 イザヤ 54章1節で予告されている「上なるエルサレム」の歓びの時は,いつ到来しましたか。そう言えるのはなぜですか。

7 人間の子供としてのイエスの誕生は,み使いたちにとってまさに歓びの時となりました。(ルカ 2:9-14)しかしそれは,イザヤ 54章1節で予告されていた出来事ではありませんでした。イエスは,西暦29年,聖霊によって生み出された時に初めて,「上なるエルサレム」の霊的な子となり,神ご自身によって,「わたしの子,わたしの愛する者」として公に認められました。(マルコ 1:10,11。ヘブライ 1:5; 5:4,5イザヤ 54章1節の成就として神の天的な「女」が歓びのいわれを持ったのは,その時のことでした。彼女はついに,約束の胤を,メシアを産み出していたのです。幾世紀にもわたる,子のいない状態は過ぎ去りました。とはいえ,彼女の歓びはそれだけで終わりませんでした。

うまずめであった女の多くの子ら

8 神の天的な「女」には約束の胤を産み出した後も歓びのいわれがあった,と言えるのはなぜですか。

8 イエスの死と,それに続く復活の後,神の天的な「女」は,「死人の中からの初子」として戻ってきた,このいとし子を迎えて歓びました。(コロサイ 1:18)次いで彼女は,ほかにも霊的な子らを産み出し始めました。西暦33年のペンテコステの時に,120人ほどのイエスの追随者たちは聖霊で油そそがれ,それにより,キリストと共同の相続人として養子にされました。その日の後刻,さらに3,000人が加えられました。(ヨハネ 1:12。使徒 1:13-15; 2:1-4,41。ローマ 8:14-16)子らのこの集合体は増大してゆきました。背教したキリスト教世界が誕生してからしばらくすると,増大の速度は落ちて,ほんのわずかになりました。しかし,そうした状況は20世紀において変化することになっていました。

9,10 古代の天幕生活者の女性にとって,「天幕の場所をもっと広くせよ」という指示は何を意味しますか。それが,そのような女性にとって喜びの時であるのはなぜですか。

9 イザヤは続けて,驚くべき増大の時期についてこう預言しています。「あなたの天幕の場所をもっと広くせよ。そして,彼らにあなたの壮大な幕屋の天幕布を張り伸ばさせよ。ためらうな。あなたの天幕の綱を長くし,あなたのその天幕用留め杭を強くせよ。あなたは右に左に突き進み,あなたの子孫は諸国の民をも所有し,荒廃した諸都市の中にさえ住むようになるからである。恐れてはならない。あなたが恥をかくことはないからである。屈辱を感じるな。あなたが失望させられることはないからである。あなたは自分の若い時の恥をも忘れ,ずっとやもめの身でいた時のそしりを思い出すことももはやないからである」。―イザヤ 54:2-4

10 ここでエルサレムは,天幕生活をしている,サラのような妻また母親であるかのように語りかけられています。そのような母親は,祝福されて家族が増えると,我が家を広げます。もっと長い天幕布と綱を張り,天幕用留め杭を新たな場所に固定しなければなりません。それは母親にとっては喜ばしい仕事であり,忙しさのあまり,家系を絶やさないよう子供を産めるだろうかと思い悩んだ過去の年月もつい忘れてしまうほどです。

11 (イ)神の天的な「女」は,1914年にどんな祝福を受けましたか。(脚注をご覧ください。)(ロ)1919年以来,地上にいる油そそがれた者たちはどんな祝福を経験してきましたか。

11 地上のエルサレムはバビロンへの流刑が終わった後に祝福を受け,そうした再生の時を迎えました。「上なるエルサレム」のほうは,それを上回る祝福を受けてきました。 * とりわけ1919年以降,そのエルサレムの油そそがれた「子孫」は,新たに回復した霊的な状態の中で繁栄しています。(イザヤ 61:4; 66:8)それら「子孫」は,霊的な家族に加わる人々すべてを探し出すために多くの国々に広がるという意味で,『諸国の民を所有』しました。その結果,油そそがれた子らを集める面で急激な増大が見られました。最終的に14万4,000人を数えるこの子らは,1930年代半ばには集め終えられたものと思われます。(啓示 14:3)その時,宣べ伝える業の焦点は,油そそがれた者たちを集めることではなくなりました。しかし,油そそがれた者たちを集めることが終わったからといって,拡張が終わったわけではありませんでした。

12 1930年代以来,油そそがれた者たちに加えて,どんな人々がクリスチャン会衆に集め入れられてきましたか。

12 イエス自身,自分が,油そそがれた兄弟たちの「小さな群れ」だけでなく,真のクリスチャンの羊の囲いへと導かれるべき「ほかの羊」も持つようになることを予告しました。(ルカ 12:32。ヨハネ 10:16)油そそがれた者たちの仲間である,それら忠実な人々は,「上なるエルサレム」の油そそがれた子らではありませんが,ずっと昔に預言された重要な役割を果たします。(ゼカリヤ 8:23)1930年代以降,今日に至るまで,それらの人々で成る「大群衆」が集められており,その結果,クリスチャン会衆は空前の規模で拡張しています。(啓示 7:9,10)今日,その大群衆は優に数百万という人数に達しています。そうした拡張により,もっと多くの王国会館,大会ホール,支部施設が緊急に必要とされています。いよいよイザヤの言葉どおりであると感じられます。予告されたこうした拡張の一端にあずかれるのは,なんと素晴らしい特権でしょう。

子孫を気遣う母親

13,14 (イ)神の天的な「女」に対して述べられている表現に関して,どんな点が理解しにくく思えるかもしれませんか。(ロ)神が家族関係を例として用いておられることから,どんな洞察が得られますか。

13 より大規模な成就において,この預言の「女」はエホバの天の組織を表わす,という点はすでに考慮しました。しかし,イザヤ 54章4節を読むと,霊の被造物で成るその組織が一体どのような意味で恥やそしりを味わったのだろうか,と疑問に思えるかもしれません。続きの幾つかの節は,神の「女」が退けられ,苦しみに遭い,攻撃にさらされると述べています。彼女は神の憤りをさえ引き起こしてしまいます。そうした事柄は,一度も罪をおかしたことのない完全な霊の被造物で成る組織にどのように当てはまるのでしょうか。家族とはどういうものかを考えると,答えが得られます。

14 エホバは,深遠な霊的真理を知らせるために,家族関係 ― 夫と妻,母親と子供 ― を用いておられます。そうした象徴は人間にとって意味の深いものだからです。わたしたちは,自分自身の家族体験の質や程度にかかわりなく,健全な結婚関係や親子関係のあるべき姿を知っているものです。ですからエホバは,ご自分が,おびただしい数の霊的な僕たちとの温かで親密な信頼関係を持っていることを,実に生き生きとした仕方でわたしたちに教えておられるのです。また,ご自分の天の組織が,地上にいる霊によって油そそがれた子らを気遣っていることも,実に印象的な仕方で教えておられるのです。僕である人々が苦しみに遭うとき,忠実な天の僕たち,つまり「上なるエルサレム」も苦しみます。イエスも同様のことを述べ,「これら[霊によって油そそがれた]わたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです」と言いました。―マタイ 25:40

15,16 イザヤ 54章5,6節の最初の成就はどのようなものですか。より大規模な成就はどのようなものですか。

15 ですから,エホバの天的な「女」に対して述べられている事柄の多くが,その「女」の地上の子供たちの経験する事柄を表わしているのも意外なことではありません。次の言葉に注目してください。「『あなたの偉大な造り主はあなたの夫たる所有者,その名は万軍のエホバである。イスラエルの聖なる方はあなたを買い戻す方。その方は全地の神と呼ばれるであろう。エホバはあなたを,あたかも完全に捨てられ,霊の傷ついた妻であるかのように,また,若い時の妻でありながら,やがて退けられた者のように呼ばれたからである』と,あなたの神は言われた」。―イザヤ 54:5,6

16 ここで語りかけられている妻とはだれですか。最初の成就においては,それはエルサレムであり,神の民を表わしています。バビロンでの70年間の流刑期間中,その民は,あたかもエホバから退けられ,完全に捨てられたかのように感じます。より大規模な成就においては,この言葉は「上なるエルサレム」に,またそのエルサレムが創世記 3章15節の成就として,ついに「胤」を産み出すという経験をすることに関連があります。

一時的な懲らしめ,とこしえの祝福

17 (イ)地上のエルサレムはどのように,神の「あふれる」憤りを経験しますか。(ロ)「上なるエルサレム」の子らは,「あふれる」ほどの何を経験しましたか。

17 預言はこう続きます。「『わたしは少しの間あなたを完全に捨てたが,大いなる憐れみをもってあなたを集める。わたしはしばしの間,あふれる憤りをもってあなたから顔を覆い隠した。しかし,定めのない時まで続く愛ある親切をもってあなたを憐れむであろう』と,あなたを買い戻す方,エホバは言われた」。イザヤ 54:7,8西暦前607年にバビロニアの軍勢の攻撃を受ける時,地上のエルサレムは神の「あふれる」憤りに覆い尽くされます。70年間の流刑は長いと思えるかもしれません。それでも,そのような試練は,懲らしめに正しく反応する人々のために用意されているとこしえの祝福に比べるなら,「しばしの間」続くにすぎません。同様に,「上なるエルサレム」の油そそがれた子らも,大いなるバビロンに扇動された政治勢力から自分たちが攻撃を受けるのをエホバがお許しになった時,神の「あふれる」憤りに圧倒されたように感じました。しかし,そうした懲らしめも,後に,1919年以降の霊的な祝福の時期と比べると,全く短期間のことと思えたのです。

18 ご自分の民に対するエホバの憤りに関して,どんな重要な原則を理解できますか。そのことは,わたしたち一人一人にどう当てはまるかもしれませんか。

18 この聖句には,別の重要な真理も含まれています。神の憤りはつかの間のものであるのに対して,その憐れみはいつまでも続く,という真理です。神の怒りは悪行に対して燃えますが,それは常に制御されており,常に目的を有しています。そして,わたしたちがエホバの懲らしめを受け入れるなら,神の怒りは「しばしの間」続くにすぎず,やがて静まります。怒りに代わって,「大いなる憐れみ」が,つまり許しや愛ある親切が示されます。それらは「定めのない時まで」続きます。ですから,罪を犯した人は,少しもためらうことなく悔い改め,神に償いをしようと努めるべきです。重大な罪である場合は,直ちに会衆の長老に近づくべきです。(ヤコブ 5:14)確かに,懲らしめの必要なときがあり,それに服するのは楽ではないかもしれません。(ヘブライ 12:11)それでも,エホバ神に許していただくことから来るとこしえの祝福と比べるなら,懲らしめは短期間なのです。

19,20 (イ)虹の契約とは何ですか。その契約は,バビロンにいる流刑者たちとどんな関連がありますか。(ロ)「平和の契約」は,今日の油そそがれたクリスチャンにどんな保証を与えますか。

19 次にエホバは,ご自分の民に,慰めとなる保証を与えておられます。「『これはわたしにとってノアの日のようである。わたしはノアの水が地を通り越すことはもはやないと誓ったが,それと同じように,わたしがあなたに対して憤ったり,あなたを叱責したりすることはないと誓った。山は取り除かれ,丘はよろめくかもしれない。しかし,わたしの愛ある親切があなたから取り除かれること,また,わたしの平和の契約がよろめくことはないからである』と,あなたに憐れみを抱く方エホバは言われた」。イザヤ 54:9,10大洪水の後,神は,ノアをはじめとするすべての生きた魂と契約 ― 虹の契約と呼ばれることもある ― を結ばれました。エホバは,地球的規模の洪水によって地に滅びをもたらすことはもはやない,と約束なさいました。(創世記 9:8-17)そのことはイザヤとその民にとって何を意味しているでしょうか。

20 民が忍ばねばならない処罰 ― バビロンでの70年間の流刑 ― は一度限りである,ということを知ると慰められます。ひとたび終わると,もはや生じることはないのです。その後は,神の「平和の契約」が有効になります。「平和」に相当するヘブライ語は,単に戦争のないことではなく,あらゆる種類の良い状態を意味します。神の側からすれば,この契約は恒久的なものです。丘や山が消滅しようとも,忠実な民に対する神の愛ある親切が終わることはありません。残念なことに,神の地上の国民は,最終的に,契約における自分たちの務めを履行せず,メシアを退けることによって自らの平和を打ち砕いてしまいます。しかし,「上なるエルサレム」の子らに関しては,事ははるかに良く運びました。懲らしめを受ける困難な時期が終わると,彼らには神の保護が保証されたのです。

神の民の霊的な安全

21,22 (イ)「上なるエルサレム」が苦しみに遭い,大あらしに翻弄されると言えるのはなぜですか。(ロ)神の天的な「女」が祝福された状態にある場合,それは,地上にいる「子孫」に関して何を意味しますか。

21 エホバは続けて,ご自分の忠実な民の得る安全を予告しておられます。「苦しみに遭い,大あらしに翻弄され,慰めを得ていない女よ,わたしはいま硬いしっくいであなたの石を敷こうとしており,サファイアであなたの基を据えるであろう。また,わたしはルビーであなたの胸壁を,火のように輝く石であなたの門を,見事な石であなたのすべての境界を作る。そして,あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう。あなたは義のうちに堅く据えられた者となる。あなたは虐げから遠く離れる ― あなたは何も恐れないからである ― また,恐れおののかせるものからも遠く離れている。それがあなたに近づくことはないからである。もしもだれかが攻撃するとしても,それはわたしの命令によるのではない。あなたを攻撃している者はだれであれ,まさにあなたのゆえに倒れるであろう」。―イザヤ 54:11-15

22 言うまでもなく,霊の領域にいるエホバの「女」が直接,苦しみに遭ったり,大あらしに翻弄されたりしたことはありません。しかし彼女は,地上にいる自分の油そそがれた「子孫」が苦しんだ時,特に1918年から1919年にかけてその者たちが霊的な捕らわれ状態にあった時,苦しみを経験しました。それとは逆に,天的な「女」が高められるとき,それは彼女の子孫の間にも同様の状態が行き渡っていることを表わします。では,「上なるエルサレム」に関する輝くばかりの描写に注目してください。門や高価な「硬いしっくい」や基に,そして境界にまでも用いられている宝石は,ある参考文献の言葉を借りれば,「美,荘厳さ,浄さ,力強さ,堅牢さ」を示唆しています。油そそがれたクリスチャンは,何によって,そのような安全で祝福された状態へ導き入れられるのでしょうか。

23 (イ)「エホバに教えられる」ことは,終わりの日にいる油そそがれたクリスチャンにどんな影響を与えてきましたか。(ロ)どんな意味で,神の民は『見事な石でできた境界』という祝福を受けてきましたか。

23 イザヤ 54章13節に手がかりがあります。皆が「エホバに教えられる」のです。ほかならぬイエスが,その節の言葉を,ご自分の油そそがれた追随者たちに適用しておられます。(ヨハネ 6:45)預言者ダニエルも,油そそがれた者たちがこの「終わりの時」に祝福を受け,真の知識と霊的な洞察力に満ちあふれる,と予告しています。(ダニエル 12:3,4)そうした洞察力に支えられ,油そそがれた者たちは史上最大の教育活動の先頭に立ち,全地で神の教えを告げ知らせてきました。(マタイ 24:14)同時に,そうした洞察力に助けられ,真の宗教と偽りの宗教の違いを理解することもできました。イザヤ 54章12節は『見事な石でできた境界』について述べています。1919年以来エホバは,油そそがれた者たちに,幾つかの境界 ― 霊的な区分線 ― とも言うべき理解をいよいよ明確に与え,彼らを偽りの宗教や世の不敬虔な人々から分けてこられました。(エゼキエル 44:23。ヨハネ 17:14。ヤコブ 1:27)そのようにして,油そそがれた者たちは神ご自身の民として分けられているのです。―ペテロ第一 2:9

24 どうすれば自分がエホバに教えられていることを確かめられますか。

24 ですから,わたしたち各人は,『自分はエホバに教えられているだろうか』と自問すべきです。そうした教えは自動的に得られるものではありません。わたしたちが努力を払わなければなりません。神の言葉を定期的に読み,読んだ事柄を黙想するなら,そして「忠実で思慮深い奴隷」が発行する,聖書に基づく出版物を読み,準備をしてクリスチャンの集会に出席することによって教訓を取り入れるなら,まさにエホバに教えられていることになります。(マタイ 24:45-47)学んだ事柄を適用するよう努め,霊的に目覚めていて油断なく見張り続けるなら,神の教えによって,この不敬虔な世の人々とは異なる者として分けられるでしょう。(ペテロ第一 5:8,9)さらに喜ばしいこととして,『神に近づく』こともできます。―ヤコブ 1:22-25; 4:8

25 平安に関する神の約束は,現代の神の民にとって何を意味しますか。

25 イザヤの預言は,油そそがれた者たちが豊かな平安という祝福を受けることも示しています。それは,その者たちが決して攻撃を受けないということでしょうか。そうではありません。とはいえ神は,ご自分がそうした攻撃を命じることも,それが功を奏するのを許すこともないと保証しておられます。こう書かれています。「『見よ,炭火の上に風を送り,武器を自分の細工として作り出す職人を,このわたしが創造した。破壊の業のための滅びの人をもまた,わたしが創造した。あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さず,裁きのときにあなたに敵して立ち上がるどんな舌に対しても,あなたは有罪の宣告を下すであろう。これはエホバの僕たちの世襲財産であり,彼らの義はわたしからのものである』と,エホバはお告げになる」。―イザヤ 54:16,17

26 エホバが全人類の創造者であられることを考えると安心感を抱けるのはなぜですか。

26 イザヤ書のこの章で,ご自分が創造者であることをエホバが僕たちに思い出させておられるのは,これで二度目です。一度目の時は,象徴的な妻に,ご自分は彼女の「偉大な造り主」であると告げておられます。今回は,ご自分は全人類の創造者であると述べておられます。16節には,かじ場の炭の上に風を送って破壊的な武器を造る金属細工人と,「破壊の業のための滅びの人」である戦士が登場します。そうした者たちは,仲間の人間に恐怖を感じさせることはあっても,自分たちの創造者に打ち勝つことなどどうして望めるでしょうか。同様に今日,たとえこの世の最強の軍勢がエホバの民を攻撃しようとも,最終的に功を奏する見込みは全くありません。あろうはずがないのです。

27,28 今の困難な時代にあって,どんな確信を抱けますか。わたしたちに対するサタンの攻撃が成果を上げることはないと言えるのはなぜですか。

27 神の民と,霊と真理をもってなされるその民の崇拝とを滅ぼそうとする,攻撃の時期は過ぎ去りました。(ヨハネ 4:23,24)エホバは,大いなるバビロンが一度攻撃を行ない,一時的に成功を収めるのをお許しになりました。「上なるエルサレム」は,しばらくの間,自らの子孫がほとんど沈黙させられ,地上での宣べ伝える業が事実上の停止状態に陥るのを見ました。しかし,そのようなことは二度と生じません。彼女は今や自らの子らに関して歓喜しています。子らが霊的な意味で征服されることはないからです。(ヨハネ 16:33。ヨハネ第一 5:4)確かに,その子らを攻撃するための武器が形造られることはありましたし,今後もあるでしょう。(啓示 12:17)しかし,それらの武器が功を奏することはありませんでしたし,今後もありません。サタンの有するいかなる武器も,油そそがれた者たちとその仲間の持つ,信仰と燃えるような熱意を抑えつけることはできません。この霊的な平安は「エホバの僕たちの世襲財産」なので,それを力ずくで取り上げることはだれにもできないのです。―詩編 118:6。ローマ 8:38,39

28 そうです,サタンの世が何を行なおうとも,神の献身した僕たちの業と,永続する清い崇拝とをとどめることは決してできません。「上なるエルサレム」の油そそがれた子孫は,この保証から大きな慰めを得てきました。大群衆に属する人々についても同じことが言えます。エホバの天の組織について,またその組織がどのように地上の崇拝者たちを扱うかについて知れば知るほど,わたしたちの信仰は強まります。わたしたちが強い信仰を抱く限り,サタンの武器がわたしたちとの戦いにおいて役に立つことはないのです。

[脚注]

^ 11節 啓示 12章1-17節によると,神の「女」は,最も重要な「子孫」― 個々の霊的な子ではなく,天のメシア王国 ― を産み出すことにより,大いに祝福されました。その誕生は1914年に生じました。(「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の177-186ページをご覧ください。)イザヤの預言は,地上にいる油そそがれた子らに注がれる神の祝福の結果としてその「女」が感じる喜びに焦点を合わせています。

[研究用の質問]

[218,219ページの囲み記事]

アブラハムの家族 ― 預言的な描写

使徒パウロの説明によると,アブラハムの家族は一種の象徴的なドラマを演じています。つまり,エホバと,その天の組織,またモーセの律法契約下にあった地上のイスラエル国民との関係を預言的に描写しているのです。―ガラテア 4:22-31

家族の頭であるアブラハムは,エホバ神を表わしています。アブラハムが,愛する我が子イサクを犠牲として進んで差し出したことは,エホバが最愛のみ子を人類の罪のための犠牲として進んで差し出すことを予表していました。―創世記 22:1-13。ヨハネ 3:16

サラは,神の天的な「妻」,つまり霊者で成る神の組織を表わしています。その天の組織をエホバの妻と呼ぶのは適切なことです。エホバと密接な関係にあり,その頭の権に服し,その目的の遂行に全面的に協力しているからです。この組織は「上なるエルサレム」とも呼ばれています。(ガラテア 4:26)この同じ「女」のことが,創世記 3章15節で述べられており,啓示 12章1-6節と13-17節の幻でも描かれています。

イサクは神の女の霊的な胤の予型となっています。その胤とは,第一にイエス・キリストです。とはいえその胤には,キリストの油そそがれた兄弟たちも含まれるようになりました。その人たちは霊的な子として養子にされ,キリストと共同の相続人となります。―ローマ 8:15-17。ガラテア 3:16,29

アブラハムの第二の妻もしくはそばめのハガルは奴隷でした。ハガルは地上のエルサレムを的確に表わしています。そのエルサレムではモーセの律法体系が支配力を有し,律法下にある人すべてが罪と死の奴隷であることを明らかにしました。パウロは,『ハガルは,アラビアにある山シナイを表わす』と言いました。律法契約がそこで結ばれたからです。―ガラテア 3:10,13; 4:25

ハガルの息子イシュマエルは,1世紀のユダヤ人,つまり依然としてモーセの律法の奴隷であったエルサレムの子らを表わしています。イシュマエルがイサクを迫害したのと同様,それらのユダヤ人も,象徴的なサラである「上なるエルサレム」の油そそがれた子らであるクリスチャンを迫害しました。そして,アブラハムがハガルとイシュマエルを去らせたのと同様に,エホバも最終的にエルサレムとその反逆的な子らを振り捨てました。―マタイ 23:37,38

[220ページの図版]

イエスはバプテスマを受けた後に聖霊によって油そそがれ,イザヤ 54章1節の最も重要な成就が始まった

[225ページの図版]

エホバは「しばしの間」,エルサレムから顔を覆い隠された

[231ページの図版]

戦士や金属細工人は自分たちの創造者に打ち勝つことができるだろうか