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たゆみなく良いたよりを宣明する(1942-1975年)

たゆみなく良いたよりを宣明する(1942-1975年)

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たゆみなく良いたよりを宣明する(1942-1975年)

「神権政治を愛するすべての人へ:

1942年1月8日,我々の愛する兄弟,J・F・ラザフォードは忠実のうちに地上の歩みを終えた。……主の証人たちすべては,いかなる人間にでもなく,指導者である王キリスト・イエスに従っており,活動における全き一致のうちに業を推し進めようとしているが,それを見聞きするのは同兄弟にとって喜びまた慰めであった」― ラザフォード兄弟の死を伝える手紙。 *

ラザフォード兄弟の死の知らせは,世界中のエホバの証人に一時的なショックを与えました。多くの人は兄弟が病床にあることを知っていましたが,それほど急に亡くなるとは思ってもいませんでした。彼らは愛する兄弟を失って悲しみましたが,「業」つまり神の王国をふれ告げる業を「推し進める」決意を固めました。J・F・ラザフォードを指導者とみなしてはいなかったのです。ラザフォード兄弟の執務室で働いていたチャールズ・E・ワグナーによると,「どの土地の兄弟たちも,エホバの業はいかなる人間にも依存してはいないという強い確信を培っていました」。とはいえ,ものみの塔協会の会長としてラザフォード兄弟が果たしていた責任を担う人物は必要でした。

『主との親密な関係を保つことを決意している』

ラザフォード兄弟の心からの願いは,エホバの証人がたゆみなく良いたよりを宣明することでした。それで兄弟は,亡くなる数週間前の1941年12月中旬に,エホバの証人が用いている二つの主要な法人団体の4人の理事を呼び集め,自分の死後できるだけ早く両方の理事会の全成員を合同の会合に招集し,会長と副会長を選出するようにと勧めました。

ラザフォードの死からわずか5日後の1942年1月13日の午後,両法人団体の理事全員がブルックリン・ベテルで合同の会合を持ちました。その数日前に,協会の副会長である36歳のネイサン・H・ノアは,理事たちが祈りと黙想によって神の知恵を真剣に求めることを提案していました。理事たちは,会長に選出される兄弟がものみの塔協会の法的な事柄を扱うと同時に,組織の主要な監督としても奉仕することを承認しました。エホバの業を世話するためのこの重い責任を担うのに必要とされる霊的な資格を有していたのはだれでしょうか。合同の会合は祈りをもって開かれ,慎重な考慮の末に全員一致で,ノア兄弟が両法人団体の会長に,また協会の弁護士である30歳のヘイドン・C・カビントンが副会長に選出されました。 *

その日の後刻,協会の会計秘書W・E・バン・アンバーグがベテル家族に選挙の結果を発表しました。その場に居合わせたR・E・エイブラハムソンの記憶によると,バン・アンバーグはこう言いました。『私は,C・T・ラッセルが亡くなり,J・F・ラザフォードがその後任となった時のことを覚えています。主はご自分の業を引き続き導き,繁栄させてくださいました。今,私は,会長であるネイサン・H・ノアと共に業が前進するものと心から期待しています。なぜなら,これは人間の業ではなく,主の業だからです』。

ブルックリンのベテル家族の成員は選挙の結果についてどう感じたのでしょうか。その答えは,選挙の翌日である1942年1月14日付の,ベテル家族の次のような感動的な手紙から分かります。「彼[ラザフォード]が交代したからといって,私たちが主から割り当てられた仕事を果たす点で速度を落とすことはありません。私たちは,断固として戦闘を城門まで押しやり,肩を並べて戦い,主との,また互いの親密な関係を保つことを決意しています。……私たちは約20年にわたってノア兄弟と親しく交わってきたので,……ノア兄弟を会長に選ぶ際に主の導きがあったこと,そしてその選びによって主がご自分の民を愛をもって見張り,気遣ってくださることを理解できます」。間もなく,支持を表明するたくさんの手紙や電報が世界各地から本部に寄せられました。

何をすべきかに関して,あやふやな感じはありませんでした。J・F・ラザフォードの死は1942年2月1日号の「ものみの塔」誌(英文)上で発表され,その号のために特別な記事が準備されました。その記事はこう断言していました。「主による最終的な集める業が進行中である。何にも,一瞬たりとも,主への奉仕における主の契約の民の前進を妨げさせてはならない。……今,最も重要な事柄は,全能の神に対する忠誠をしっかり保つことである」。エホバの証人は良いたよりを熱心に宣明し続けるよう激励されました。

しかし,1940年代初頭には,「忠誠をしっかり保つこと」は本当に大きな問題でした。世界は依然として戦時下にあり,世界の多くの場所では戦時規制が敷かれたため,エホバの証人にとって宣べ伝えることは困難になりました。証人たちに対する逮捕や集団暴行が相変わらず続いていました。ヘイドン・カビントンは協会の法律顧問として,時にはブルックリン本部の事務所から,また時には訴訟を扱う旅行中の列車から,法廷闘争を指揮しました。カビントン兄弟は,ビクター・シュミット,グローバー・パウエル,ビクター・ブラックウェルといった地元の弁護士たちと共に働き,土地の役人に規制されることなく家から家に宣べ伝えて聖書文書を配布するエホバの証人の憲法上の権利を確立するため,奮闘しました。 *

「前進せよ」との合図が鳴り響く

食糧とガソリンが戦時配給になっていたにもかかわらず,早くも1942年3月には,9月18日から20日にかけて開かれる「新しい世神権大会」の計画が発表されました。旅行の負担を軽くするために米国中で52の大会開催都市が選ばれ,その多くは,中心都市となったオハイオ州クリーブランドと電話回線で結ばれました。それとほぼ同時に,エホバの証人は世界中のさらに33の都市で集まりを開きました。この大会にはどんな目的があったのでしょうか。

開会にあたり,司会者のカビントン兄弟は紹介の言葉の中で,『わたしたちは過去について,あるいは個々の人たちが行なってきた事柄について思い巡らすためにこの場に集まっているのではありません』と述べてから,「唯一の光」という基調をなす話を紹介しました。その話はイザヤ 59章と60章に基づくもので,フランズ兄弟が行ないました。話し手はイザヤが記録したエホバの預言的な命令に言及し,「ですから今,至高の権威者から,ハルマゲドンが来る前に何が起ころうとも,その方の証言の[業]を続行するために『前進せよ』,との合図が出ているのです」と感動的に述べました。(イザヤ 6:1-12)手を緩めてくつろぐ時ではありませんでした。

プログラムの次の話でN・H・ノアは,「なすべき業はさらにあります。多くの業があるのです!」と言明しました。聴衆が「前進せよ」との合図にこたえ応じるための助けとして,ノア兄弟はジェームズ王欽定訳聖書の一つの版を発表しました。それは協会所有の印刷機で印刷されたもので,特にエホバの証人が野外宣教で用いられるように,索引が完備していました。その発表には,聖書の印刷と配布に対するノア兄弟の深い関心が表われていました。実際,ノア兄弟はその年の初めに協会の会長になった後,欽定訳の印刷権を確保したり,索引や他の特色の準備を調整したりするため,迅速に事を進めていました。この特別版の「ジェームズ王欽定訳」は大会での発表のために数か月で準備されました。

大会の最終日に,ノア兄弟は「平和 ― それは永続するか」という話を行ないました。その中で兄弟は,当時猛威を振るっていた第二次世界大戦が一部の人たちの考えるようにハルマゲドンにつながることはなく,その戦争は終わって平和な時期が始まる,ということを示す強力な証拠を啓示 17章8節から詳しく説明しました。神の王国をふれ告げる点で,なすべき業がまだ残っていました。予想される組織の拡大に対応するための助けとして,翌月から協会が,諸会衆と共に働く“兄弟たちの僕”を派遣することが大会出席者たちに知らされました。各会衆は6か月ごとに訪問を受けることになりました。

両親と共にテキサス州ダラスの大会に出席したマリー・ギッバードは,「『新しい世神権大会』は前途の業に備えてエホバの組織を堅く結び合わせました」と述べています。そして,なすべき業はたくさんありました。エホバの証人は来たるべき平和な時期に注意を向けました。彼らは,反対や迫害を受けてもすき返し続け,たゆみなく良いたよりを宣明する決意を固めていました。

教育が強化される時代

それまでエホバの証人は家から家の伝道で証言カードと蓄音機を用いていました。しかし,一人一人が自分の希望の理由を聖書から説明する能力を高めることができるでしょうか。協会の3代目の会長N・H・ノアはそう考えました。長年にわたり「黄金時代」誌と「慰め」誌の編集者の職にあった父を持つC・ジェームズ・ウッドワースは,このように述べました。「ラザフォード兄弟の時代には『宗教はわなであり,まやかしである』という点が強調されましたが,今や世界的な拡大の時代が幕開けを迎えており,それまでにエホバの民が経験したことのない規模で,聖書的かつ組織的な教育が始まりました」。

ほとんどすぐに教育の時代が始まりました。N・H・ノアが協会の会長に選出されてから1か月ほど後の1942年2月9日,広範囲に影響を及ぼす発表がブルックリン・ベテルでなされました。「神権宣教高等課程」という取り決めがベテルに設けられたのです。それは聖書の研究と公の話を特徴とする学校でした。

翌年までには,エホバの証人の各地の会衆で行なわれる同様の学校のための土台が据えられました。米国全土で1943年4月17日と18日に開かれた「活動への召し」大会で,“Course in Theocratic Ministry”(「神権宣教課程」)という小冊子が発表され,各会衆はその新しい学校を発足させるよう促されました。そして,司会者を務め,入学している男子による生徒の話に建設的な助言を与える教訓者が協会から任命されました。この課程はできるだけ急いで翻訳され,他の国や地域でも実施されました。

その結果,この宣教学校で訓練を受けた資格ある話し手たちが,王国の音信をふれ告げるための世界的な公開講演運動にあずかるようになりました。それらの話し手の多くは,後に大会の話し手として,また組織上の重い責任を果たす者として,受けた訓練を活用することができました。

その一人に,40年ほど旅行する監督として奉仕したアンジェロ・C・マネラ・ジュニアがいます。地元の会衆で最初の入学者たちの一人となったこの兄弟は,「集会に出席し,野外奉仕に出かけていても,この備えがない状態で長年を過ごした私たちは,この学校を私たち個人や組織の進歩における大きな一歩とみなすようになりました」と述べました。

1942年にブルックリン・ベテルで始まったこの学校で受けた訓練について,当時ギリシャ語の翻訳者だったジョージ・ギャンギャスは後にこう語りました。「初めて6分間の話をした時のことを覚えています。自信がなかったので,話を書いておきました。ところが,話をするために立ち上がると,人前で話すことに気後れし,言うべきことを忘れて,どもったり口ごもったりしてしまいました。それで原稿を読むことにしましたが,あまりに手が震えるので原稿の一行一行が上下に跳びはねていました」。それでもギャンギャスはあきらめませんでした。やがて彼は大会の大勢の聴衆を前にして話をするようになり,さらにエホバの証人の統治体の成員として奉仕するまでになりました。

信仰を土台として創立された学校

1942年9月24日に,教育が強化される時代におけるさらに大きな一歩が踏み出されました。二つの法人団体の理事会合同の集まりで,ノア兄弟は,協会が別の学校を設立することを提案しました。その学校のために,ニューヨーク市の北西410㌔に位置する,ニューヨーク州サウスランシングの王国農場に既に建てられていた建物が用いられます。その学校の目的は,王国宣明者を大いに必要とする外国での奉仕のために宣教者を訓練することでした。この提案は全員一致で承認されました。

当時31歳のアルバート・D・シュローダーが主事に指名され,この新しい学校を組織するための委員会の司会者を務めました。彼は,「このびっくりするような新たな割り当てを受けて,私たちの心は喜びに躍りました」と述べています。教訓者たちはすぐに忙しくなりました。教科課程を作成し,講義を作り上げ,図書を集めるのに4か月しかなかったのです。今は統治体の成員として奉仕しているシュローダー兄弟の説明によると,「キリスト教のこの高等教育課程は20週に及ぶもので,主要な教科書は聖書です」。

1943年2月1日月曜日,ニューヨーク州北部は寒い冬の日となりましたが,その日に生徒数100名の第1期クラスが始まりました。それはまさに信仰を土台として創立された学校でした。当時は第二次世界大戦のさなかで,宣教者の派遣先となり得る場所は世界中にわずかしかありませんでした。しかし,宣教者となる見込みを持つ人々は,自分たちが用いられる平和な時期が必ず来るという強い確信を抱いて訓練を受けました。

戦後の再組織

1945年5月,ヨーロッパにおける第二次世界大戦の戦闘行為は終結しました。4か月後の9月には,太平洋での戦闘が終わりました。第二次世界大戦が終わったのです。協会の会長が「平和 ― それは永続するか」という話をしてから3年余り後の1945年10月24日,国連憲章が発効しました。

そのころまでには,エホバの証人の活動に関する報告がヨーロッパから少しずつ伝わってくるようになっていました。戦争にもめげず,ヨーロッパ諸国における王国宣明の業は,世界中の兄弟姉妹たちが驚くほど着々と前進していたのです。「ものみの塔」誌(英文),1945年7月15日号はこう伝えました。「1940年にフランスには400人の伝道者がいたが,今では1,100人が王国について語っている。……1940年にオランダには800人の伝道者がおり,そのうちの400人はドイツにある強制収容所に連れ去られた。残された人たちは王国について語った。どんな結果になっただろうか。今ではオランダには2,000人の王国伝道者がいる」。自由の扉が開かれることにより,今や良いたよりをヨーロッパだけでなく世界中でさらに宣明する機会が訪れました。しかし,まず第一に,大々的な再建と再組織が必要でした。

協会の会長は,戦争で荒廃した国々に住むエホバの証人の必要を是非とも調査したいと考え,兄弟たちを励ますため,また協会の支部事務所を視察するために,1945年11月に秘書のミルトン・G・ヘンシェルを伴い,英国,フランス,スイス,ベルギー,オランダ,スカンディナビアへの訪問旅行に出発しました。 * 二人の目的は戦後の再組織でした。困窮している兄弟たちに文書類や食料や衣服を送る取り決めが設けられ,支部事務所が再び開設されました。

ノア兄弟は,宣べ伝える業の前進についてゆくためには支部の良い組織が必要であることをよく認識していました。組織する面での兄弟の生来の能力は,協会の支部施設を世界中で拡大するために十分生かされました。兄弟が会長になった1942年の支部事務所の数は25でしたが,第二次世界大戦に伴う禁令や妨害にもかかわらず,1946年には57の国や地域に支部がありました。それから1976年までの30年間に,支部の数は97に増えました。

教え手となるために備える

協会の会長は,戦後間もない時期の国際的な旅行を通して,エホバの証人は神の言葉の教え手となるためにより良く備える必要がある,という結論を下しました。一層の聖書教育に加えて,野外宣教で用いるための適当な道具が必要でした。それらの必要は戦後の早い時期に満たされました。

1946年8月4日から11日にかけてオハイオ州クリーブランドで開かれた「喜びを抱く国々の民の神権大会」で,ノア兄弟は「あらゆる良い業に備える」という話を行ないました。ノア兄弟の次のような質問に,聴衆全員が興味をそそられました。「聖書の66冊の書の各々に関する情報が得られるなら,それはすばらしい助けとなるのではありませんか。聖書の各書の筆者,書かれた時期や場所が分かるなら,聖書を理解する助けとなるのではありませんか」。期待が高まったところで,ノア兄弟はこう言いました。「兄弟たち,皆さんはそれらすべての情報に加えて,もっと多くの情報を,『“Equipped for Every Good Work”(「あらゆる良い業に備える」)』と題する新しい本から得ることができるのです」。その発表を聞いて,大喝采が巻き起こりました。この新しい出版物は諸会衆で開かれる宣教学校の教科書として用いられることになりました。

エホバの証人には,聖書の知識を深めるための出版物が備えられただけでなく,野外で用いるための幾つかの優れた助けも与えられました。1946年の大会は「目ざめよ!」誌創刊号の発表という点で長く記憶にとどめられるでしょう。この新しい雑誌は「慰め」誌(以前には「黄金時代」誌として知られていた)に代わるものです。また,(英文で)「神を真とすべし」 * という本も発表されました。後に旅行する監督として奉仕したヘンリー・A・キャントウェルはこう説明しています。「私たちは一時期,新たに関心を持った人々との聖書研究を司会する際に効果的に使える本,つまり聖書の基本的な教理と真理を網羅した本を切実に必要としていました。『神を真とすべし』が発表されて,私たちはまさに必要としていた物を手に入れたのです」。

そのような教えるための貴重な助けを備えられて,エホバの証人は一層急速な拡大を期待しました。ノア兄弟は大会出席者たちに「再建と拡大の諸問題」という主題で話し,証言するための努力が世界戦争の期間中にも停滞しなかったことを説明しました。1939年から1946年までの間に,王国宣明者の数は約11万人以上増加していました。世界的な規模で増大する聖書文書の需要に応じるため,協会はブルックリンにある工場とベテル・ホームの拡張を計画しました。

予想された世界平和の時期が始まりました。世界的な拡大と聖書教育の時代が順調に経過してゆきました。エホバの証人は良いたよりの教え手となるためのより良い備えができて,「喜びを抱く国々の民の神権大会」から帰宅しました。

王国宣明の大波が押し寄せる

協会の会長と秘書のミルトン・G・ヘンシェルは世界的な拡大を考慮して,1947年2月6日,7万6,916㌔に及ぶ世界一周奉仕旅行に出発しました。その旅行で二人は,太平洋の島々,ニュージーランド,オーストラリア,東南アジア,インド,中東,地中海沿岸地域,中央および西ヨーロッパ,スカンディナビア,英国,ニューファンドランドに立ち寄りました。協会のブルックリン本部の代表者がドイツの兄弟たちを訪問できるのは,1933年以来初めてのことでした。1947年の「ものみの塔」誌(英文)に掲載された旅行の報告を通して,世界中のエホバの証人は二人の旅をたどりました。 *

今ではエホバの証人の統治体の成員となっているヘンシェル兄弟は,こう説明しています。「それは私たちにとって,アジアや他の場所の兄弟たちと知り合い,どんな必要があるかを調べる初めての機会でした。私たちは宣教者を派遣するつもりでしたから,宣教者たちがどんな生活をするのか,何を必要とするのかを知る必要があったのです」。その旅行の後,ギレアデで訓練を受けた宣教者たちが次から次へと流れのように外国に到着し,王国宣明の業の先頭に立ちました。そしてすばらしい結果が生じました。その後の5年間(1947-1952年)に,世界中の王国伝道者の数は20万7,552人から45万6,265人へと,2倍以上に増えたのです。

拡大する神権政治

1950年6月25日に朝鮮民主主義人民共和国の軍隊が南の大韓民国に攻め込み,最終的に他の16か国から軍隊が派遣されました。しかし,戦争のために大国が反目し合っているころ,エホバの証人は国際大会に集まる準備をしていました。その大会は,エホバの証人が世界的に一致しているだけでなく,エホバが拡大をもって彼らを祝福しておられることを実証するものとなりました。―イザヤ 60:22

その「拡大する神権政治大会」は1950年7月30日から8月6日にかけて計画されていました。この大会は,エホバの証人がそれ以前に1か所で開いたどの大会とも比べ物にならないほど大規模なものとなる予定でした。ヨーロッパ,アフリカ,アジア,中南米,太平洋の島々など,合計67の様々な国や地域から約1万人の外国人代表者たちが,ニューヨーク市のヤンキー・スタジアムに集まりました。わずか4年前の「喜びを抱く国々の民の神権大会」の出席者最高数は8万人でしたから,それと比べるなら,公開講演の12万3,000人を超える出席者最高数は,それ自体が拡大を示す感動的な証拠でした。

エホバの証人が経験している拡大の重要な要素となっているのは,神の言葉の印刷と配布です。1950年8月2日はその点で一つの大きな節目となりました。その日,ノア兄弟が,現代語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」の英語版を発表したのです。大会出席者は,この新しい翻訳がマタイから啓示までの本文で神のみ名エホバを237回復元していることを知り,胸を躍らせました。話の結びに,話し手は心を動かす次のような呼びかけを行ないました。「この翻訳聖書を受け取り,読み通し,研究してください。この聖書は神のみ言葉に関するあなたの理解を増し加える助けとなるからです。この聖書を他の人に配布してください」。その後の10年間にこのシリーズの他の分冊が発表されたので,最終的にエホバの証人は聖書全巻の正確で読みやすい翻訳を手にし,その聖書を他の人に熱心に提供できるようになりました。

代表者たちは大会開催都市を後にする前に,コロンビア・ハイツ124番の新しいベテルの本部とアダムズ通り117番の大きく拡張された印刷工場の見学に招待されました。それらの新しい施設が世界中の証人たちからの資金援助を受けて建設されたことをもって,1946年のクリーブランド大会で発表されて熱烈な賛同を得た大規模な拡張計画は完了しました。当時のエホバの証人は,ブルックリンだけでなく世界中でどれほどの拡大が生じるのか,ほとんど理解していませんでした。その後,絶えず増加する王国伝道者の隊伍の世話をするため,さらに多くの,さらに大規模な印刷工場が必要になりました。

家から家の宣教における訓練が強化される

ニューヨーク市で1953年7月19日から26日にかけて開かれた「新しい世の社会大会」で,エホバの証人たち自身のため,また特に家から家に王国をふれ告げる際に用いるため,幾つかの新しい出版物が備えられました。例えば,『すべてのことを確かめよ』(英文)が7月20日月曜日に発表され,出席した12万5,040人の万雷の拍手をもって迎えられました。それは野外奉仕の便利な道具で,70の主要な論題のもとに4,500以上の聖句を集めた416ページのポケット版の本でした。今やエホバの証人は,家から家の伝道で持ち上がる質問に対する聖書からの答えをいつでも得られるようになったのです。

水曜日の午前中,ノア兄弟は「すべての僕たちの主要な業」という話の中で,当時行なわれていたエホバの証人に対する教育をさらに一歩進めること,つまりすべての会衆で家から家の大規模な訓練プログラムを実施することを発表しました。経験を積んだ伝道者は,経験の少ない伝道者が定期的で効果的な家から家の王国宣明者となるのを助けるよう要請されました。広範に及ぶこのプログラムは1953年9月1日に始まりました。この訓練活動に参加した旅行する監督のジェシー・L・キャントウェルが言うように,「このプログラムは伝道者たちが一層効果的になるためにとても役立ちました」。

1953年7月以降の数か月間に,五大陸すべてにおいて同じ主題の大会が開かれ,同一のプログラムが地元の状況に合わせて提供されました。こうして,家から家の宣教における訓練が強化され,世界中のエホバの証人の会衆で始まりました。その年の王国宣明者の最高数は51万9,982人でした。

世界的な拡大の必要にこたえる

1950年代半ばには,組織内の急速な発展を世話するため,さらに幾つかの取り決めが設けられました。それまで10年以上にわたってN・H・ノアは世界中を旅行し,各支部の運営を視察していました。そのような旅行は,各国における業を確実に正しく監督し,エホバの証人の世界的な一致を強める点で,多くの成果を上げました。ノア兄弟は世界中の宣教者や支部の奉仕者に深い愛を抱いていました。どこへ行っても,兄弟は時間を割いて彼らの問題や必要について共に話し合い,宣教の面で彼らを励ましました。しかし1955年に,ものみの塔協会の支部事務所の数は77になり,ギレアデで訓練を受けた1,814人の宣教者が100の異なった国や地域で奉仕していました。ノア兄弟は,支部や宣教者の家を訪問するというこの重要な仕事を自分一人では扱いきれないことを悟り,この仕事に他の人たちを加える措置を講じました。

世界を十の地帯に分ける取り決めが設けられ,それぞれの地帯には協会の幾つかの支部が含まれました。ブルックリンの事務所で働く資格ある兄弟たちや,経験を積んだ支部の監督たちが地帯の僕(現在は地帯監督と呼ばれる)に任命され,この仕事のためにノア兄弟から訓練を受けました。1956年1月1日,これら地帯の僕の最初の人が,幾つかの支部を訪問するというこの新しい奉仕を開始しました。1992年の時点では,統治体の成員を含む30人以上の兄弟たちが地帯監督として奉仕しています。

神のご意志に関する教育

1958年の夏になると,中東に戦争の兆しが現われました。国際関係の緊張にもかかわらず,エホバの証人は国際大会に集まるための準備を進めました。その大会では神のご意志に関する一層進んだ教育が施されることになっていました。その大会はまた,一つの都市で開かれる大会としては最大のものとなりました。

7月27日から8月3日にかけて,『神の御心』国際大会の会場となったニューヨーク市のヤンキー・スタジアムとポロ・グランドに,123の国や地域を代表する最高25万3,922人の人々が洪水のように押し寄せました。1958年7月26日付のニューヨークのデイリー・ニューズ紙は,「続々と集まるエホバの証人でスタジアムは一杯。チャーター船2隻とチャーター機65機のほかに,特別列車8本,貸し切りバス500台,相乗りの車1万8,000台が会員を運んでいる」と報じました。

ギレアデで訓練を受けた宣教者たちは,キリスト教世界の諸教会の信条や教理になじみのない人々に聖書の真理を教える際に直面する難しい問題について,協会の本部に報告を寄せていました。真の聖書の教えだけを説明し,それでいて読みやすくて理解しやすい出版物が手に入りさえすればよいのです。7月31日木曜日の午後に出席した14万5,488人の人々は,ノア兄弟が「失楽園から復楽園まで」(英文)という新しい本を発表するのを聞いて大いに喜びました。

ノア兄弟はすべての人に,野外宣教でこの新しい本を用いるよう勧めました。また兄弟は,この本は親にとっても子供に聖書の真理を教える上で役立つだろうと述べました。多くの親たちはその言葉を心に留めました。ペンシルバニア州ピッツバーグ近くの小さな町で育った学校教師,グレース・A・エステプはこう述べています。「子供たちはみんな『楽園』の本を手にして大きくなりました。集会へ持って行ったり,小さなお友だちと一緒に読んだり,字が読めるようになるずっと前から,さし絵だけを見て聖書物語を全部話せるようになったりしました」。

神の言葉の進歩的な研究生のための充実した資料も備えられました。「御心が成るように」という感動的な話の結びに,ノア兄弟は「御心が地に成るように」(英文)という新しい本を発表し,聴衆は胸を躍らせました。ダニエル書に関する広範な研究を含むこの新しい出版物から読者は,神のご意志がどのようになされてきたか,また現在どのようになされているかを学びました。話し手は,「皆さんはこの本を読んで大いに楽しまれることでしょう!」と述べました。17万5,441人という大勢の聴衆は,神のご意志に対する認識を深めるためのこの新しい道具を得た喜びを,万雷の拍手によって表わしました。

ノア兄弟は閉会の言葉の中で,世界的な組織に益をもたらす,さらに進んだ特別な教育計画を発表し,「教育活動は衰えつつあるのではありません。むしろ,前進中なのです」と述べました。そして,協会の世界中の支部の監督たちのための10か月間の訓練課程をブルックリンに設ける,という計画の概略を説明しました。さらに,世界中の多くの国にも,旅行する監督たち,および諸会衆で監督の任に当たっている人たちのための1か月間の訓練課程が設けられます。なぜこのような教育が行なわれるのでしょうか。ノア兄弟はこう説明しました。「わたしたちは理解の点で一層高いレベルに進み,エホバがみ言葉の中で述べておられるエホバのお考えを一層深く知ることができるようにしたいのです」。

直ちに,これらの訓練計画の教科課程の準備が始まりました。7か月後の1959年3月9日,新しい学校の一つである王国宣教学校の最初のクラスが,ギレアデ学校の所在地であるニューヨーク州サウスランシングで開講しました。この新しい学校は諸会衆で監督の任に当たっている人たちを訓練するために用いられ,そこで始まった事柄はすぐに世界中に広がりました。

『信仰のうちにしっかりと立つ』よう強められる

1960年代に,人間社会は宗教や社会の変化という大波に呑み込まれました。僧職者たちは聖書の幾つかの部分に神話的とか時代後れというレッテルを貼り,“神は死んだ”というイデオロギーがいよいよ広まっていました。人間社会は性の不道徳の泥沼にますます深く沈んでゆきました。その騒然とした10年間に,エホバの民は「ものみの塔」誌や他の出版物,さらに大会のプログラムを通して,『信仰のうちにしっかりと立つ』よう強められました。―コリント第一 16:13

1963年に世界中で開かれた一連の大会において,批評家たちから猛攻撃を受けている聖書を擁護する「『永遠の福音』の書は有益です」という話が行なわれ,その中で話し手はこう説明しました。「単なる人間がこの本を書いたという点を聖書の批評家たちが指摘するまでもありません。聖書自体がその事実を正直に告げています。しかし,この本を,人間が書いた他のいかなる本とも異ならせているのは,聖書が『神の霊感を受けたもの』であるという点です」。(テモテ第二 3:16,17)この感動的な話の後に,『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』という本が(英文で)発表されました。この新しい出版物には聖書中の各書に関する論考が収められており,だれが,いつ,どこで書いたかといった各書の背景や,各書の信ぴょう性を裏づける証拠を取り上げています。それに続いて聖書中の各書の要約があり,その後の「なぜ有益か」という部分は,読者にとって聖書のその特定の書がどれほど大きな価値があるかを説明しています。この出版物はエホバの証人の継続的な聖書教育における有用な道具であり,発表から30年ほどたった今でさえ,神権宣教学校の教科書の一つとして重要な役割を果たしています。 *

エホバの証人は1960年代の性革命の影響を受けなかったわけではありません。実際,全体の人数から見ればわずかな割合であるとはいえ,毎年数千人の人を排斥しなければなりませんでした。その主な理由は性の不道徳でした。ですから,1964年に開かれた一連の地域大会でエホバの民に率直な助言が与えられたのはもっともなことでした。カナダのサスカチェワン出身の旅行する監督ライル・ルーシュは,「公の僕の組織を清く,貞潔に保つ」という話を思い出し,「分かりやすい話が行なわれ,道徳に関する率直で腹蔵のない言葉遣いによって,物事がはっきりと説明されました」と語っています。

その話の内容は「ものみの塔」誌,1965年2月15日号(英文では1964年11月15日号)に掲載され,特にそこにはこう述べられていました。「若い婦人は自らを公衆用の手ふきにしてはなりません。売春婦を買う男,象徴的な『犬』がその汚れた手をふく手ふきになるべきではありません」。―啓示 22:15と比較してください。

そのような率直な助言の目的は,王国の音信を引き続きふれ告げるにふさわしい道徳的な清い状態を保つよう,一つの民としてエホバの証人を助けることでした。―ローマ 2:21-23と比較してください。

「この1975年という年が何を意味しているのか,教えてください」

エホバの証人は長い間,人類史の6,000年に続いてキリストの千年統治が行なわれると信じていました。しかし,人間が存在するようになってからの6,000年はいつ終わるのでしょうか。1966年に開かれた一連の地域大会で発表された「神の自由の子となってうける永遠の生命」(英文)という本は,1975年を指摘していました。兄弟たちはその新しい本の内容をよく調べたので,まさにその大会で1975年に関する多くの論議が巻き起こりました。

メリーランド州ボルティモアの大会で閉会の話を行なったF・W・フランズはこのように話を切り出しました。「私が演壇に上る直前に,一人の若者が近づいて来て,こう言いました。『この1975年という年が何を意味しているのか,教えてください』」。それからフランズ兄弟は,その新しい本の資料は1975年までにハルマゲドンが終わり,サタンが縛られるということを意味しているか,という点に関して生じた数多くの質問に言及しました。要約すると,兄弟はこう述べました。『そうなることもあり得ます。しかし,私たちは断言しているのではありません。神にとってはすべてのことが可能です。しかし,私たちは断言しているのではありません。ですから,皆さんのうちのだれも,今から1975年までの間にこれこれのことが起こるなどと明言してはなりません。しかし,親愛なる友である皆さん,最も重要なのは,時は短いという点です。時は尽きようとしています。そのことに疑問の余地はありません』。

1966年以降,エホバの証人の多くは,この諭しの精神と調和した行動をとりました。しかし,この点に関してはほかにも幾つかの陳述が公表され,中には,適切であるというよりも断定的なものもあったようです。そのことは,「ものみの塔」誌の1980年6月15日号(17ページ)で認められました。しかし,それに加えてエホバの証人は,おもにエホバのご意志を行なうことに専念するように,また早い救いに関する日付や期待に過度の関心を寄せないように,という注意を与えられました。 *

業の速度を速めるための道具

1960年代後半,エホバの証人は一種の期待感と緊急感を抱いて良いたよりを宣明していました。1968年に,王国伝道者は203の国や地域におり,その数は122万1,504人にまで増えました。しかし,長年聖書を研究していながら,得た知識に基づいて行動していない人も珍しくありませんでした。弟子を作る業の速度を速める方法があるでしょうか。

1968年,聖書研究の新しい手引きである「とこしえの命に導く真理」が(英文で)発表されて,その答えが与えられました。この192ページのポケット版の本は,新しく関心を持った人たちを念頭に置いて準備されました。この本には人を引き付ける22の章があり,「なぜ自分の宗教を調べてみるべきですか」,「わたしたちが年老いて死ぬ理由」,「死んだ人はどこにいますか」,「神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか」,「真の宗教をどのように見分けるか」,「幸福な家庭生活を築く」といった論題が扱われていました。「真理」の本の目的は,考慮中の資料について推論し,資料を自分の生活に適用するよう聖書研究生を励ますことにありました。

この新しい出版物は6か月間の聖書研究プログラムに関連して用いられることになっていました。「御国奉仕」1968年9月号(英文)は,この新しいプログラムがどのように実施されるかをこう説明しました。「毎週『真理』の本の一つの全体を研究するようにするのは良いことでしょう。ただし,どの家の人に対しても,あるいはこの本のどの章の場合でもそのようにできるわけではないかもしれません。……6か月間集中的に研究し,集会に導くための良心的な努力を払ったにもかかわらず,家の人がまだ会衆と交わっていないのであれば,真理を学んで進歩したいと心から願っている他の人と研究するために時間を用いるのが最善でしょう。聖書研究の際に,関心を持つ人たちが6か月以内に行動を起こすような仕方で良いたよりを伝えることをあなたの目標としてください」。

確かに,家の人たちは行動を起こしました。6か月間の聖書研究プログラムは短期間のうちに驚異的な成功を収めました。1968年9月1日から1971年8月31日までの3奉仕年の間に,合計43万4,906人がバプテスマを受けました。それは,その前の3奉仕年の間にバプテスマを受けた人の数の2倍以上に当たるのです。「真理」の本と6か月間の聖書研究運動は,エホバの証人が一種の期待感と緊急感を抱いていた時期に登場したので,弟子を作る業の速度を速める上で大いに助けとなりました。―マタイ 28:19,20

「これはきっとうまくゆきます。エホバからのものですから」

長年の間,エホバの証人の諸会衆は,霊的に資格のある一人の男子が協会によって会衆の僕あるいは「監督」に任命され,他の任命された「僕たち」がその補佐となるように組織されていました。 *テモテ第一 3:1-10,12,13)これらの人々は群れを支配するのではなく,群れに仕えることになっていました。(ペテロ第一 5:1-4)とはいえ,諸会衆は1世紀のクリスチャン会衆の組織に一層厳密に倣うことができるでしょうか。

1971年,全世界で開かれた一連の大会で,「民主主義体制と共産主義体制のただ中における神権組織」という話が行なわれました。7月2日,F・W・フランズはニューヨーク市のヤンキー・スタジアムでその話を扱いました。話の中でフランズは,1世紀の諸会衆では,十分な数の資格ある男子がいる場合には複数の監督がいたという点を指摘し,こう述べました。(フィリピ 1:1)「会衆の監督たちの一団は『年長者団』を構成していました。……そのような『年長者団[あるいは年長者の集まり]』の成員はみな同等であり,同一の職務上の地位にありました。彼らのうちのだれも,会衆内で最も重要で,最も目立った,最も有力な成員となることはありませんでした」。(テモテ第一 4:14)この話を聞いて,大会出席者全員は大いに興奮しました。この情報は世界中のエホバの証人の会衆にどんな影響を与えるのでしょうか。

その答えは,二日後,N・H・ノアによる閉会の話の中で与えられました。1972年10月1日以降,世界中の会衆を監督する上での調整が実施されることになったのです。それ以後,ただ一人の会衆の僕あるいは監督というものは存在しなくなります。その代わり,1972年10月1日までの期間に,各会衆の責任ある円熟した男子は,長老として奉仕する人々の名前(および奉仕の僕として奉仕する人々の名前)を協会に推薦し,任命を受けます。一人の長老が司会者に指名されますが, * 長老たちはみな同等の権威を持ち,決定を下す責任を共有します。ノア兄弟は次のように説明しました。「これらの組織上の調整は,会衆の運営を神の言葉に一層厳密に調和させるのに役立つでしょう。その結果,エホバから一層大きな祝福がもたらされるに違いありません」。

大会出席者は,組織上の調整に関するこの知らせをどのように受け止めたでしょうか。ある旅行する監督は感激して,「これはきっとうまくゆきます。エホバからのものですから」と言いました。長年の経験を持つ別の証人は,「これは円熟した男子すべてにとって,責任を担うための励ましとなるでしょう」と付け加えました。実際のところ,今や資格ある男子全員は,「監督の職をとらえ」て,その職への任命を受けることができるのです。(テモテ第一 3:1)こうして一層多くの兄弟たちが会衆の責任を担う点で貴重な経験を積むことができました。当初理解されていなかった点ですが,その後の期間にやって来る大勢の新しい人々を牧するために,それらの兄弟たちすべてが必要になりました。

その大会で説明された資料に基づき,統治体に関しても幾らかの解明と調整がなされました。1971年9月6日,統治体の司会者の立場には,統治体の成員がアルファベット順に交替して就くという決定が下されました。数週間後の1971年10月1日,F・W・フランズが1年の任期で統治体の司会者となりました。

翌1972年の9月,会衆の責任ある立場における最初の移動が始まり,10月1日までにはほとんどの会衆で交替が完了しました。その後の3年間にエホバの証人は驚異的な増加を経験しました。75万人以上の人がバプテスマを受けたのです。しかし,今や彼らは1975年の秋を目前に控えていました。もし1975年に関する期待すべてが実現しないなら,世界的な伝道活動に対する彼らの熱意は,また彼らの世界的な一致はどのような影響を受けるでしょうか。

さらに,それまでの数十年にわたって,ダイナミックな個性と,組織者としての際立った能力を持つネイサン・H・ノアが,組織内での教育を推進したり,聖書を人々に配布したり,聖書を理解するよう人々を助けたりする点で主要な役割を果たしていました。統治体によって一層綿密な監督が行なわれるようになると,これらの目標はどんな影響を受けるでしょうか。

[脚注]

^ 4節 「ものみの塔」誌(英文),1942年2月1日号,45ページ。「慰め」誌(英文),1942年2月4日号,17ページ。

^ 8節 1945年9月に,カビントン兄弟は(ペンシルバニア州の)ものみの塔聖書冊子協会の副会長として奉仕し続けることを丁重に辞退しました。自分は,当時すべての理事と役員に対するエホバのご意志であると理解されていた事柄 ― 理事と役員はみな霊によって油そそがれたクリスチャンでなければならない ― に従いたいと願っているのに,「ほかの羊」に属することを公にしている,というのが同兄弟の説明でした。10月1日にライマン・A・スウィングルが理事に選出され,10月5日にはフレデリック・W・フランズが副会長に選ばれました。(「1946 エホバの証人の年鑑」(英文),221-224ページ; 「ものみの塔」誌(英文),1945年11月1日号,335,336ページをご覧ください。)

^ 12節 30章,「良いたよりを擁護して法的に確立する」をご覧ください。

^ 33節 旅行の詳しい報告は1946年の「ものみの塔」誌(英文)に発表されました。―14-16,28-31,45-48,60-64,92-95,110-112,141-144ページをご覧ください。

^ 38節 この聖書研究の手引きは数年のうちに世界中で知られるようになり,1952年4月1日に改訂され,54の言語で1,900万冊以上が印刷されました。

^ 42節 140-144,171-176,189-192,205-208,219-223,236-240,251-256,267-272,302-304,315-20,333-336,363-368ページをご覧ください。

^ 66節 この『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』という本は1990年に改訂されました。

^ 73節 例えば,「ものみの塔」誌に次のような記事が掲載されました。「残された時を賢明に用いる」(1968年8月15日号); 「永遠の前途を見ながら奉仕する」(1974年9月15日号); 「『その日と時刻』が知らされていないのはなぜですか」および「その『日と時刻』を知らないことは,あなたにどのような影響を及ぼしますか」(1975年8月1日号)。それより前の1963年に,『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』(英文)という本はこう述べていました。「時の流れの中でなお将来の事柄に属する種々の年代について推測するのに聖書の年代記述を用いるのは無駄なことです。―マタイ 24:36」。

^ 80節 15章,「組織の構造の発展」をご覧ください。

^ 82節 話し手はさらに,1972年10月1日以降,各会衆の長老団における司会者の立場が年ごとの交替制になることを説明しました。この取り決めは1983年に調整され,それぞれの長老団は主宰監督を推薦するよう求められました。主宰監督は協会によって任命された後,不特定の期間にわたって長老団の司会者として奉仕します。

[92ページの拡大文]

逮捕や集団暴行にもかかわらず宣べ伝える

[94ページの拡大文]

『世界的な拡大と,それまでに経験したことのない規模の教育』

[103ページの拡大文]

批評家たちから猛攻撃を受けている聖書を擁護する

[104ページの拡大文]

『親愛なる友である皆さん,最も重要なのは,時は短いという点です』

[106ページの拡大文]

「円熟した男子すべてにとって,責任を担うための励まし」

[91ページの囲み記事]

N・H・ノアの経歴

ネイサン・ホーマー・ノアは,1905年4月23日,米国ペンシルバニア州ベスレヘムで生まれました。16歳のときに聖書研究者のアレンタウン会衆と交わるようになり,1922年,オハイオ州シーダーポイントの大会に出席して,改革派教会からの脱退を決意しました。翌1923年7月4日,ブルックリン・ベテルから来たフレデリック・W・フランズによるバプテスマの話の後,18歳のネイサンは他の人たちと共にペンシルバニア州東部のリトル・リハイ川でバプテスマを受けました。1923年9月6日,ノア兄弟はブルックリンのベテル家族の一員となりました。

ノア兄弟は発送部門で勤勉に働き,やがて組織する面での生来の能力が認められました。協会の工場の監督ロバート・J・マーティンが1932年9月23日に亡くなり,ノア兄弟はその後任として任命されました。1934年1月11日,ノア兄弟は「一般人の説教壇協会」(現在のニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会)の理事に選出され,翌年,同協会の副会長に任じられました。1940年6月10日には,ものみの塔聖書冊子協会(ペンシルバニア法人)の副会長になりました。両協会,および英国の法人である国際聖書研究者協会の会長の立場に選出されたのは1942年1月のことでした。

その後の何年もの間,ノア兄弟にとって特に親密な仲間,また信頼の置ける助言者となったのはフレデリック・W・フランズでした。フランズは,年齢はノア兄弟より上であり,言語に関する知識と聖書学者としての経歴の点で,既に組織にとって非常に貴重な人材となっていました。

[93ページの囲み記事]

励みとなる見通し

1942年9月にオハイオ州クリーブランドで開かれた「新しい世神権大会」に出席した人々は,協会の会計秘書である老齢のW・E・バン・アンバーグが大会出席者に話すのを聞き,うれしく思いました。バン・アンバーグ兄弟は昔を回顧し,自分が出席した最初の大会は1900年のシカゴ大会であり,その大会は約250人が出席した“大きな”大会だったと語りました。長年の間に開かれた他の幾つかの“大きな”大会一つ一つの名を挙げた後,兄弟は次のような励みとなる見通しを述べて話を終えました。「この大会 *は今のわたしたちから見れば大規模なものです。しかし,それは,以前に私が出席した大会と比べて大規模だということです。それと同様に,間近い将来,主が地の隅々からご自分の民を集め始められる時に開かれる大会と比べれば,この大会は非常に小さなものとなる,と私は期待しています」。

[脚注]

^ 115節 クリーブランドでの最高出席者数は2万6,000人,米国中に散在する52の大会開催都市での合計出席者数は12万9,699人でした。

[96ページの囲み記事/地図]

N・H・ノアの奉仕旅行,1945-1956年

1945-1946年: 中米,南米,北米,ヨーロッパ,カリブ海の島々

1947-1948年: 北米,太平洋の島々,東洋,中東,ヨーロッパ,アフリカ

1949-1950年: 北米,中米,南米,カリブ海の島々

1951-1952年: 北米,太平洋の島々,東洋,ヨーロッパ,中東,アフリカ

1953-1954年: 南米,カリブ海の島々,北米,中米

1955-1956年: ヨーロッパ,太平洋の島々,東洋,北米,中東,北アフリカ

[地図]

(出版物を参照)

[105ページの囲み記事]

「今は考え直しかけています」

1968年に発表された「とこしえの命に導く真理」という本は,エホバの証人が,関心を持つ人と聖書を研究する際に広く用いられました。時宜にかなったこの備えは,何十万人もの考え深い人々が聖書の正確な知識を得るための助けとなりました。1973年に米国の一読者から届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。「今日,私の家に来られたとても感じの良いご婦人から,『とこしえの命に導く真理』という本をいただき,ちょうど読み終えたところです。何にせよ,1日で190ページも読んだのは生まれて初めてです。私は1967年6月29日に神に対する信仰を失いましたが,今は考え直しかけています」。

[95ページの図版]

ニューヨーク州サウスランシングのギレアデ学校

[97ページの図版]

キューバを訪問中のノア兄弟。同兄弟は何度も世界中を旅行した

[98ページの図版]

ノア兄弟は,エホバの証人はみな家から家に宣べ伝えることができなければならないと考えた

英国

レバノン

[99ページの図版]

協会の会長として,ノア兄弟は35年以上にわたってフランズ兄弟と密接に働いた

[100ページの図版]

1950年代半ばにおける,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の理事会。(左から右へ)ライマン・A・ スウィングル,トマス・J・サリバン,グラント・スーター,ヒューゴー・H・ リーマー,ネイサン・H・ノア,フレデリック・W・ フランズ,ミルトン・G・ ヘンシェル

[102ページの図版]

1958年,ヤンキー・スタジアムで開かれた『神の御心』国際大会に,123の国や地域からの代表者が集まった

[107ページの図版]

宣教の点でエホバの証人を訓練するための出版物

[107ページの図版]

野外宣教で用いるための出版物の一部

[107ページの図版]

エホバの民を霊的に強化するための固い食物を供給した書籍

[107ページの図版]

調査と研究の手引き