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エホバの言葉は速やかに進展する(1976-1992年)

エホバの言葉は速やかに進展する(1976-1992年)

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エホバの言葉は速やかに進展する(1976-1992年)

「終わりに,兄弟たち,わたしたちのために祈りつづけてください。エホバの言葉が,まさにあなた方の場合と同じように速やかに進展し[もしくは,“走り”],栄光を受けてゆくようにと」― テサロニケ第二 3:1,「王国行間逐語訳」。

使徒パウロはこのように述べ,自分と自分の同労者たちが妨げなくエホバの言葉を首尾よくふれ告げることができるよう祈ってほしいと,テサロニケの仲間の信者たちに頼みました。エホバはその祈りを聞き届けられました。しかし,だからといって,この使徒が問題を扱わずにすんだわけではありません。彼は世からの厳しい反対に直面し,欺まんに満ちた振る舞いをする偽兄弟たちに対処しなければなりませんでした。(コリント第二 11:23-27。ガラテア 2:4,5)しかし,そのような状況にもかかわらず,10年ほど後にパウロは,良いたよりが神の祝福により「世界じゅうで実を結んで増大している」と書くことができました。―コロサイ 1:6

良いたよりは現代でも同様に,しかし,かつてない規模で実を結んでいます。過去のどの時代よりも多くの人が良いたよりに接し,それを受け入れています。神の言葉に予告されている事柄の成就は,競走中の走者のように,速やかに進展しています。―イザヤ 60:22

組織上の再調整

1976年まで30年以上にわたって,ノア兄弟はものみの塔協会の会長として熱心に働いてきました。世界中を何度も旅行し,宣教者たちを訪問して励まし,支部事務所の奉仕者に教えや教訓を与えました。兄弟は,活発な証人たちの数が1942年の11万7,209人から1976年の224万8,390人にまで増加するのを見るという特権にあずかりました。

しかし,1976年の夏までに,71歳のN・H・ノアは自分が物にぶつかりやすいことに気づいていました。その後の検査の結果,兄弟には脳腫瘍があり,手術不可能であることが分かりました。何か月かの間,兄弟は一生懸命に引き続き仕事を果たそうとしましたが,予後は思わしくありませんでした。兄弟の健康上の衰えは業の前進を鈍らせるでしょうか。

統治体の増員は既に1971年に始まっており,1975年には成員は17名になっていました。神の言葉は現代に関して,世界的な宣べ伝えて教える業を略述していますが,統治体は1975年のほとんど1年を通して,その業に関係したすべての事柄をどうすれば最もよく世話することができるか,真剣に,祈りを込めて考慮していました。(マタイ 28:19,20)1975年12月4日,統治体はエホバの証人の現代の歴史において特に重要な,組織上の再調整を全員一致で承認していました。

1976年1月1日以降,ものみの塔協会および世界中のエホバの証人の会衆のすべての活動は,統治体の六つの管理委員会の監督を受けることになりました。その取り決めと調和して,1976年2月1日,協会の世界中の支部事務所すべてにも変更が加えられました。各支部を支部の監督が一人で監督することは終わり,3人以上の円熟した男子が支部委員会として奉仕し,そのうちの一人が常任の調整者として奉仕するようになったのです。 * それらの委員会が機能するようになってから数か月後,統治体はこう述べました。「王国の業の関心事を検討するために複数の兄弟が相談し合うのは有益であることが明らかになりました。―箴言 11:14; 15:22; 24:6」。

1976年の秋,ノア兄弟は予後が相変わらず思わしくなかったにもかかわらず,本部で開かれた世界中の支部委員たちや支部の他の奉仕者たちとの集まりに教訓者として加わりました。ノア兄弟は日中は集まりに参加し,さらに晩にはそれらの兄弟たちを少人数のグループに分けて自室に招きました。こうして兄弟と妻のオードリーは,兄弟を知って愛している人々,長年のあいだ兄弟と非常に密接な間柄だった人々と親しく交わりました。その集まりの後,ノア兄弟の健康状態は悪化の一途をたどり,兄弟は1977年6月8日に亡くなりました。

ノア兄弟が亡くなってから2週間後の1977年6月22日,83歳のフレデリック・W・フランズがものみの塔協会の会長に選出されました。フランズ兄弟に関して,「ものみの塔」誌,1977年10月1日号はこう述べました。「優れた聖書学者としての同兄弟の際だった評判,および王国の関心事に対する同兄弟の勤勉な業のゆえに,フランズ兄弟はあらゆる所のエホバの証人の信頼と忠節な支持を受けています」。

この交代が行なわれた時には,組織上の新しい取り決めはすでに機能しており,業の前進は確実となりました。

聖書文書によって霊的な必要を満たす

1976年以前もエホバの証人は霊的によく養われていました。しかし,その年以降に統治体とその執筆委員会の指導のもとに行なわれてきた事柄を調べてみると,真理の水がますます大量に,また一層変化に富んだ形で流れ出るようになったことが分かります。

生産された出版物の多くはエホバの証人自身の特別な必要を満たしてきました。特に,若い人たちに関心が向けられ,彼らが生活で直面する状況に聖書の原則を当てはめる助けとして,1976年に「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」(英文)という本が,また1989年には「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」という本が発行されました。子供たちを念頭に置いて準備された,さし絵つきの「わたしの聖書物語の本」という出版物は,1978年に発表されました。同じ年,家族を強めるための実際的な助言と導きが,「あなたの家族生活を幸福なものにする」という本の中で提供されました。

時には,エホバの民の特別な必要が「ものみの塔」誌上の時宜にかなった助言を通して扱われたこともあります。例えば,1977年と1978年のエホバの証人の活動に関する全世界の報告により,宣べ伝える業にあずかる人の減少が明らかになりました。1975年に関する期待が失望に終わったことが,少なくともその減少の一因だったのでしょうか。そうかもしれません。しかし,影響を与えた要因はほかにもありました。どうすればよいでしょうか。

統治体は,引き続き王国を家から家に熱心にふれ告げる必要があるという確信をエホバの証人の間で強化するため,幾つかの措置を講じました。「ものみの塔」誌,1979年10月15日号には,「エホバの家に対する熱心」,「不法の世にあって宣べ伝える」,「家から家へ伝道した人々」,「家から家の証言活動に対する識者の見解」という記事が載せられました。これらの記事や他の記事は,家から家の伝道にはしっかりとした聖書的な根拠があることを再確認するとともに,この重要な活動に熱心に,魂をこめて加わるよう促しました。 *使徒 20:20。コロサイ 3:23

別の状況にも注意を向ける必要がありました。1980年までに,エホバの証人の活動に何年もあずかってきたかなりの数の人たちが,分裂を引き起こしたり,エホバの証人の業に反対したりするために,様々な方法を試みていました。その中には組織内で目立った奉仕をしてきた人たちも含まれていました。そのような背教的な影響力に抵抗できるようエホバの民を強化するため,「ものみの塔」誌には,「『堅い信仰』を保ちつづける」(1980年11月1日号),『破壊的な分派をひそかに持ち込む』(1983年12月15日号),「背教を退け,真理にしっかりと付きなさい!」(1983年7月1日号)といった記事が載せられました。また,「あなたの王国が来ますように」(1981年)という本は,王国が1914年に天に設立され,間近に迫っているという現実を強調しました。統治体が反対者たちの企みに乗せられて,エホバの証人の主要な目的である神の王国をふれ告げる業から注意をそらされることはありませんでした。

しかし,聖書の真理に関するエホバの証人の知識を広げ続ける必要性についてはどうでしょうか。1984年,真摯な聖書研究のために,参照資料付き改訂版「新世界訳聖書」(英文)が発行されました。この聖書には,広範な欄外参照資料と脚注と付録資料が載せられています。4年後の1988年には,エホバの民は,啓示の書のすべての節に関する最新の注解を載せた「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」,および2巻からなる“Insight on the Scriptures”(「聖書に対する洞察」)という聖書事典を受け取り,胸を躍らせました。そして1991年には,イエス・キリストの生涯と教えを詳しく考察した,「これまでに生存した最も偉大な人」という美しいさし絵入りの本が発行されました。

では,エホバの証人ではない人々の必要についてはどうですか。新たに関心を持った人たちを教えるための道具として,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という出版物が1982年に発行されました。この本の目的は,地上の楽園で生活するのに必要なエホバからの要求を満たすよう聖書研究生を援助することです。地上の生命の起源や目的について疑問を抱くかもしれない人々を援助するためには,「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」という本が1985年に備えられました。次いで,1989年には,「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」という信仰を強める本が発行されました。

さらに,文化的または宗教的な背景のゆえに特別な援助を必要とするかもしれない謙遜な人々にも注意が向けられました。文字を全く,またはほとんど読めない人々にエホバの王国に関する真理を教えるため,「地上での生活を永遠に楽しんでください」という32ページのブロシュアーが1982年に発行されました。1992年の時点で,このブロシュアーは7,600万部以上印刷され,世界中の200の言語で配布されており,ものみの塔協会の出版物の中で最も多くの言語に翻訳されたものとなっています。

1983年には,イスラム教,仏教,ヒンズー教の信者を援助するという特別の目的のために三つの小冊子が出版されました。これらの宗教や他の宗教のもとで育った人たちの心を動かすには,その人たちの宗教 ― その教えや歴史 ― を理解することが助けになります。この必要にこたえるものとして,「神を探求する人類の歩み」という本が1990年に発行されました。

統治体は,できるだけ多くの人々,つまり「すべての国民と部族と……国語の」人々の心を王国の音信で動かす,ということに深い関心を抱いていました。(啓示 7:9)そのため,出版物をもっと多くの言語に翻訳する取り決めが設けられました。例えば,1976年から1992年までに「ものみの塔」誌が発行されている言語の数は約42%増加し,1992年10月には111になりました。その同じ年,迅速な翻訳を可能にするため,世界中で800人以上の翻訳者が共に働いていました。

教育プログラムが豊かになり,多様化する

統治体とその教育委員会の指導のもとに,本部で働く奉仕者や全世界の支部のベテル家族に対する教育プログラムが豊かになり,一段と多様化しました。朝の崇拝の一部として聖書と「年鑑」を朗読することに加えて,過去1週間の聖書朗読の範囲を詳しく分析し,資料をベテル奉仕者たちに適用する話が取り入れられました。また,ベテルの様々な部門からの報告が定期的に紹介されるとともに,地帯監督たちからの報告も一層頻繁に紹介されました。

組織内での増し加えられた責任を持つ人たちの必要にこたえるため,さらに進んだ教育プログラムが計画され,実施されました。1977年には,長老たち全員が王国宣教学校の15時間の課程に出席するよう取り決められました。(使徒 20:28)それ以来,様々な長さの同様な集まりが数年ごとに取り決められています。そして,1984年からは,奉仕の僕も王国宣教学校で訓練を受けるようになりました。ブルックリンでは,1977年12月に支部委員のための5週間の特別な学校が始まりました。

開拓者として全時間宣教に自らを費やしている人たちにも特別の関心が向けられました。1977年12月,開拓奉仕者のための2週間の訓練課程である開拓奉仕学校が米国で始まり,最終的には世界各地に広がりました。その後の14年間に,開拓者の数は11万5,389人から60万5,610人へと5倍余り増加しました。

1987年の秋には,もう一つの新しい学校である宣教訓練学校が開校しました。この学校は,長老あるいは奉仕の僕としてある程度の経験を持ち,世界的な畑のどこであれ必要な場所で喜んで奉仕する,資格ある独身の兄弟たちを訓練するために設けられました。1992年までに,オーストラリア,オーストリア,英国,エルサルバドル,フランス,ドイツ,イタリア,メキシコ,ナイジェリア,スペイン,スウェーデン,米国で幾つかのクラスが開かれました。その結果,会衆内の他の人よりまさった者とみなされる階級の人々が生み出されたのではなく,むしろ兄弟たちに仕えるための十分な資格を持つ男子の数が増加しました。

世界的な聖書教育の業を促進するため,エホバの証人が禁令下に置かれていた国々の都市を含め,重要な場所にある都市での国際大会が計画されました。これらの大会は,それらの地域の兄弟たちを強めるとともに,そうした国々において良いたよりを宣べ伝える業に大きな弾みをつけるのに役立ちました。 *

増加に対応するための施設

エホバの言葉が引き続き速やかに進展するにつれ,建設と印刷の分野,つまり統治体とその出版委員会の監督のもとにある分野で,胸の躍るような幾つかの拡張が必要になりました。

建設の経験を持つ証人たちが自発的に奉仕を申し出ました。そして,世界中で行なわれる新しい一層大きな支部施設の建設を助けるため,彼らの働きは調整されました。1976年から1992年までの間に,全く新しい支部施設の建設が60ほどの国で行なわれました。それに加えて,既存の施設の拡張計画が30の国で始まりました。建設の方法(数多くの会衆から,場合によっては他の国から来た自発奉仕者たちによって行なわれた)は,エホバの民の間の愛と一致のきずなを強めるのに役立ちました。 *

多言語で印刷する協会の必要が大きくなり,その必要にこたえるため,コンピューターの分野での経験を持つ証人たちが,MEPS(多言語電算写植システム)と呼ばれるコンピューター化された印刷前工程システムの開発に当たり,計画は1986年に完了しました。その結果,1992年までに,「ものみの塔」誌は66の言語で同時発行されるようになりました。こうして,エホバの証人の大部分は同じ霊的な食物を同時に受け取れるようになりました。 *

ものみの塔協会の施設が拡張し続けるにつれ,ブルックリンの本部や世界中の支部事務所において,さらに多くの自発奉仕者が必要になりました。1976年から1992年までの間に,国際的なベテル家族は3倍に拡大し,全世界で奉仕する成員は4,000人ほどから1万2,900人を超えるまでに増加しました。統治体とその人事委員会は,この全時間の自発奉仕者の大軍の身体的な必要と霊的な必要を満たしています。

諸会衆と福音宣明の業を世話する

エホバの言葉は速やかに前進し,統治体とその奉仕委員会は全世界の会衆を築き上げることと,世界的な福音宣明の業を拡大することに精力を傾けました。

毎年多くの新しい人たちがバプテスマを受けていましたが,彼らを援助するためにできることがさらにあるでしょうか。1977年の初めに,新しい証人たちを霊的に強めるための取り決めが設けられ,「わたしたちの王国奉仕」にこのような説明が載せられました。『真理に入って来るすべての人と少なくとも二冊の本を研究すべきでしょう。それで,二冊目の本が終わるまで,バプテスマの後も研究を続けるべきです』。こうして,新たにバプテスマを受けた証人たちには,知識と理解を得るための,またバプテスマを受けることの意味に対する認識を高めるための,より十分な機会が与えられました。さらに,この新しい取り決めは,新しい人たちと,家庭聖書研究で彼らを援助する証人たちの間の一層密接な交わりを促しました。

エホバの組織に流れのように入ってくる人々の世話をするため,1976年から1992年までの間に,全世界で2万9,000以上の新しい会衆が設立されました。(ミカ 4:1)より多くの巡回監督と地域監督が統治体によって任命され,援助のために遣わされました。それら旅行する監督たちの数は,1976年には2,600人ほどでしたが,1992年には約3,900人に増えました。

会衆の数が増加するとともに,より多くの集会場がますます必要になりました。王国会館をもっと短期間で建設する方法があるでしょうか。1970年代に米国のエホバの証人たちが,王国会館を建てる地元の証人たちを援助するために国内の近隣の地域から熟練した建設奉仕者たちを招くという建設計画をまとめました。多くの人の助力により,会館を短期間で ― 多くの場合,わずか二,三日で ― 完成させることができました。1980年代になると,世界の他の場所でも速成建設の王国会館が建てられるようになりました。

東ヨーロッパでの政変もエホバの証人に影響を与えました。東ドイツ(当時の呼び名),ハンガリー,ポーランド,ルーマニア,また当時ソ連と呼ばれていた国などの兄弟たちにとって,法的認可が得られたという知らせは本当に興奮を誘いました。その中には,40年に及ぶ禁令の後に認可が得られた国もあるのです。それらの国で一層大きな自由が得られるようになった結果,今や,兄弟たちは3億8,000万人ほどの人々に一層容易に良いたよりを伝えることができるようになりました。エホバの証人は,新たに見いだした自由を活用して公の伝道活動にあずかる点で,少しも時間を無駄にしませんでした。

どんな結果になりましたか。エホバの言葉は速やかに進展してきました。例えば,1992年4月にポーランドでは10万6,915人の王国宣明者が報告を提出しました。そしてこの先,非常に素晴らしい拡大の見込みがあります。同じ月,キリストの死の記念式に21万4,218人が出席したからです。同様に,かつてソ連を構成していた国々では,1992年の記念式に,前年より60%以上多い,合計17万3,473人が出席しました。

しかし,ある国々では相変わらず迫害や自然災害が妨げとなっています。1992年,エホバの証人の活動は24の国々で依然として政府の禁令下にありました。統治体の司会者の委員会は,それらの国の兄弟たちを支援する点で,また苦境のもとで奉仕している仲間の証人たちをどのように援助できるかを国際的な兄弟仲間に知らせる点で,可能な事柄を行ないます。(コリント第一 12:12-26と比較してください。)いかなる迫害の運動も自然災害も,エホバの言葉が宣べ伝えられることをこれまで決して阻止できませんでした。

『ご自身が特別に所有する民』

こうして,1976年から1992年にかけて,エホバの言葉はまさしく速やかに前進してきました。組織は2倍近くに拡大し,王国宣明者は447万人以上になりました。

エホバの民は引き続き神の王国を熱心にふれ告げており,今ではかつてないほど多くの言語でそうしています。彼らは,備えられている出版物を用いて,聖書に関する自分たちの知識を深めるとともに,関心を持つ人々が聖書の真理を学ぶのを援助してきました。また,組織内での増し加えられた責任を担う人たちのために設けられた教育プログラムから益を得てきました。神の王国をふれ告げる彼らの業をエホバが祝福してこられたことに疑問の余地はありません。

1870年代から現在までの間に,ある人たちは王国の業の前進に際立った貢献をしてきました。例えば,チャールズ・T・ラッセル,ジョセフ・F・ラザフォード,ネイサン・H・ノア,フレデリック・W・フランズ,さらに,統治体の成員として奉仕してきた他の人たちなどがそうです。しかし,エホバの証人は,これらの人のうちのだれかの個性を中心として築かれた宗派とは決してなりませんでした。むしろ,彼らの指導者はただひとり,「キリスト」だけです。(マタイ 23:10)キリストは,これら組織されたエホバの証人たちの頭であられ,「事物の体制の終結の時までいつの日も」この業を導くために「すべての権威を与えられてい(る)」方です。(マタイ 28:18-20)エホバの証人は,キリストの頭の権に服し,神の言葉から離れることなく,聖霊の導きに協力することを決意しています。それは,唯一まことの神の崇拝においても,自分たちが『ご自身が特別に所有する民,りっぱな業に熱心な民』であることを実証する点でも,前進し続けるためです。―テトス 2:14

では,エホバの証人を他のすべての宗教から区別しているどんな基本的な教えや行動の規準があるでしょうか。彼らはどのようにしてエホバの証人として知られるようになりましたか。彼らの活動の資金はすべてどのように賄われているのでしょうか。他の教会や一般の世から全く分けられた状態をどのように保っていますか。世界の非常に多くの場所で厳しい迫害の的となってきたのはなぜでしょうか。これらの質問を初めとする数多くの質問に対する答えは,後の章で扱われます。

[脚注]

^ 10節 15章,「組織の構造の発展」をご覧ください。

^ 18節 宣べ伝える業にあずかった人の数は,1980年から1985年の間に33%増加し,1985年から1992年の間にはさらに47.9%増加しました。

^ 30節 17章,「大会 ― わたしたちの兄弟関係の証拠」をご覧ください。

^ 33節 20章,「世界的な規模で共に建てる」をご覧ください。

^ 34節 26章,「宣教で用いる聖書文書を生産する」をご覧ください。

[117ページの拡大文]

何らかの人間の個性を中心として築かれた宗派ではない

[110ページの囲み記事/グラフ]

1976年から1992年までの間に,「ものみの塔」誌が発行されている言語の数は42%増加した

[グラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

111

 

78

 

1976 1992

[111ページの囲み記事]

F・W・フランズの経歴

フレデリック・ウィリアム・フランズは,1893年9月12日,米国のケンタッキー州カビントンで生まれました。1899年に一家はシンシナティに移り,フレデリックはそこで1911年に高校を卒業した後,シンシナティ大学に入学し,教養学科を選びました。彼は長老派教会の説教師になろうと決めていたので,聖書のギリシャ語の勉強に大いに力を入れました。同大学でフレデリックはローズ奨学金受給者に選ばれ,英国のオックスフォード大学の入学資格を得ました。しかし,発表を待つ間にフレデリックはその奨学金への関心を全く失い,志願者名簿からの削除を願い出ました。

それより前に,兄のアルバートが国際聖書研究者から入手した小冊子を送ってきていましたし,後には「聖書研究」の最初の3巻も兄から受け取りました。フレデリックは学んでいる事柄に心を引かれたので,長老派教会との関係を絶って,聖書研究者の会衆と交わることにしました。1913年11月30日にはバプテスマを受け,1914年5月に大学をやめると同時に,直ちに聖書文書頒布者<コルポーター>(開拓者)になるための準備を整えました。

フランズ兄弟は1920年6月にブルックリンのベテル家族の一員となり,1977年6月にN・H・ノアが亡くなった後,協会の会長の立場に選出されました。そして,1992年12月22日に99歳で亡くなるまで,統治体の成員として忠実に奉仕しました。

[112ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

増大する開拓者の隊伍

1992

600,000

400,000

1986

200,000

1981

1976

[113ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

拡大する世界中のベテル家族

1992

12,000

9,000

1986

6,000

1981

1976

3,000

[114ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

増加する会衆

80,000

1992

60,000

1986

1981

1976

40,000

20,000

[115ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

王国宣明者の増加

1992

4,000,000

1986

3,000,000

1981

1976

2,000,000

1,000,000

[109ページの図版]

協会の各支部事務所は,ナイジェリアでの業を監督するこの委員会のような,兄弟たちの委員会によって監督されている

[116ページの図版]

エホバの証人の統治体 1992年1月

ケアリー・W・バーバー

ジョン・E・バー

W・ロイド・バリー

ジョン・C・ブース

フレデリック・W・フランズ

ジョージ・D・ギャンギャス

ミルトン・G・ヘンシェル

セオドア・ジャラズ

カール・F・クライン

アルバート・D・シュローダー

ライマン・A・スウィングル

ダニエル・シドリック