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エホバの証人の現代の歴史における顕著な出来事

エホバの証人の現代の歴史における顕著な出来事

エホバの証人の現代の歴史における顕著な出来事

1870年 チャールズ・テイズ・ラッセル,および米国ペンシルバニア州のピッツバーグとアレゲーニーの人たちのグループが聖書の系統的な研究を始める

1870-1875年 ラッセルと彼の研究仲間は,再び来られる時のキリストが人間の目には見えないこと,またキリストの再来の目的には地のすべての家族に対する祝福が含まれることを学ぶ

1872年 ラッセルと彼の研究グループは,キリストが人類にお与えになった贖いの代価について理解するようになる

1876年 1月,C・T・ラッセルは「朝の先触れ」誌を1部入手し,この年の夏,ペンシルバニア州フィラデルフィアで同誌の編集者N・H・バーバーと会う

C・T・ラッセルの書いた記事がニューヨーク市ブルックリンの「バイブル・イグザミナー」誌,10月号に掲載され,異邦人の時の終わりとして1914年を指し示す

1877年 N・H・バーバーとC・T・ラッセルは協力し,「三つの世界」という本を出版する

C・T・ラッセルは,ニューヨーク州ロチェスターの「朝の先触れ」誌の事務所から,「我らの主の帰還の目的とそのありさま」という小冊子を出版する

1879年 5月,ラッセルは贖いに対するバーバーの態度を理由として,「朝の先触れ」誌への援助を一切取りやめる

1879年7月付で「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌が創刊される

1881年 聖書研究者が初めてパンフレットを出版する。1914年以前に,毎年パンフレットが30の言語で合計数千万部配布される

シオンのものみの塔冊子協会が設立される。「1,000人の伝道者を求む」という呼びかけがなされ,ある人たちは正規の聖書文書頒布者<コルポーター>になり,ある人たちはできるかぎり多くの時間を用いて聖書の真理を広める

英国の主要都市で,教会に通う人たちに,「考えるクリスチャンのための糧」が30万部配布される

1883年「ものみの塔」誌が中国に届く。やがて,長老派教会の宣教師だった人がそこで他の人たちに証言し始める

1884年「考えるクリスチャンのための糧」がアフリカのリベリアに届く。感謝の念を抱く一人の読者が配布用の文書を手紙で注文する

シオンのものみの塔冊子協会がペンシルバニア州で法的認可を得,12月15日,公式に登録される

1885年 ものみの塔の出版物はすでに,南北アメリカ,ヨーロッパ,アフリカ,アジアの真理に飢えた人々に読まれている

1886年「千年期黎明」と呼ばれた双書(後には「聖書研究」と呼ばれた)の第1巻である「世々に渉る神の経綸」が出版される

1889年 ペンシルバニア州アレゲーニーのアーチ通りに,協会の本部としてバイブル・ハウスが建てられる

1891年 聖書研究者が大会と呼ぶ初めての集まりがペンシルバニア州アレゲーニーで開かれる(4月19日から25日)

1894年 協会の諸会衆訪問計画に関連して,やがて巡礼者と呼ばれるようになった旅行する監督たち(現在の巡回監督や地域監督)が遣わされる

1900年 英国のロンドンに,ものみの塔協会の最初の支部事務所が開設される

聖書研究者による証言が28か国で行なわれ,彼らの宣べ伝える音信は他の13の国や地域に達する

1903年 日曜日に無償のパンフレットを家から家に熱心に配布する。それまでは,教会近くの街路でパンフレットを配布することが多かった

1904年 C・T・ラッセルの訓話が新聞に定期的に掲載されるようになる。10年足らずで2,000ほどの新聞に掲載される

1909年 4月,協会の本部がニューヨーク市ブルックリンに移転する

1914年 1月,ニューヨークで「創造の写真劇」が初めて上映される。この年の末までに,北アメリカ,ヨーロッパ,オーストラリアの合計900万人以上の観客がこの写真劇を見る

10月2日,C・T・ラッセルはブルックリンのベテルの食堂で,「異邦人の時は終わりました」と断言する

聖書研究者は43の国や地域で活発に伝道し,5,155人が他の人への証言に加わる。報告によると,記念式の出席者は1万8,243人

1916年 10月31日,C・T・ラッセルはテキサス州を列車で旅行中,64歳で亡くなる

1917年 3人で構成される執行委員会が2か月ほど協会の仕事を管理した後,1月6日にJ・F・ラザフォードが協会の会長となる

7月17日,「終了した秘義」という本がブルックリンのベテル家族に発表される。協会の理事会で働いていた4人が猛烈な反対を始める。その後,多くの会衆が分裂する

1918年 2月24日,カリフォルニア州ロサンゼルスで,「世は終われり ― 現存する万民は決して死することなからん」という講演が初めて行なわれる。3月31日,マサチューセッツ州ボストンで,その講演の主題は「世は終われり ― 現存する万民は決して死することなし」となる

5月7日,J・F・ラザフォードと親しい仲間たちに対する連邦政府の逮捕状が出される。6月5日に裁判が始まり,6月21日(一人は7月10日),連邦刑務所における長期刑の判決が下る

8月,ブルックリン本部が閉鎖され,本部の仕事は1年余り再びピッツバーグに移される

1919年 3月26日,協会の役員と仲間たちが保釈される。5月14日,控訴裁判所が下級裁判所の判決を破棄し,再審が命じられる。翌年の5月5日,政府はこの訴訟を取り下げ,訴追をやめる

J・F・ラザフォードは,聖書研究者の業を復興できるかどうかを知るための試みとして,5月4日にカリフォルニア州ロサンゼルスのクルーン講堂で「苦悩する人類のための希望」と題する公開講演を行なうよう取り決める。収容人員を上回る人々が集まり,講演を2度行なうことになる

9月1日から8日にかけて,聖書研究者はオハイオ州シーダーポイントで大会を開く。「黄金時代」誌(現在は「目ざめよ!」誌と呼ばれる)を発行する予定であることが発表される

野外奉仕を鼓舞するため,「会報」(現在は「わたしたちの王国宣教」と呼ばれる)が発行される

この年の報告によると,43の国や地域で5,793人の聖書研究者が活発に宣べ伝えている。記念式の出席者は2万1,411人と報告される

1920年 ものみの塔協会は印刷の仕事をブルックリンで自ら行なうようになる

1922年 2月26日,J・F・ラザフォードはカリフォルニア州で聖書講演を放送するために初めてラジオを用いる

9月5日から13日にかけて,オハイオ州シーダーポイントで聖書研究者の大会が開かれ,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」という呼びかけがなされる

ドイツの僧職者は,聖書研究者が聖書文書を公に配布したなら逮捕するよう警察をたきつける

1924年 2月24日,WBBR(ものみの塔協会所有の最初のラジオ局)が放送を開始する

1925年「ものみの塔」誌(英文),3月1日号は,1914年に神の王国が誕生したことを説明し,対立する二つの別個の組織,つまりエホバの組織とサタンの組織があることを示す

1926年 日曜日に書籍を用いて行なう家から家の伝道が勧められる

1928年 聖書研究者が(米国)ニュージャージー州で,家から家の伝道の一環として文書を配布したために逮捕される。10年足らずのうちに,そうした逮捕事件が米国で毎年500件以上生じるようになる

1931年 7月26日,オハイオ州コロンバスで開かれた大会において,また,その後に世界中で開かれた大会において,決議により「エホバの証人」という名称が採択される

1932年「証明」の第2巻は,回復に関する聖書の預言が生来のユダヤ人にではなく霊的イスラエルに適用される理由を説明する

「ものみの塔」誌(英文),8月15日号と9月1日号の説明に従い,“選出長老”の取り決めが廃止される

1933年 ドイツでエホバの証人に禁令が課される。第二次世界大戦終結までの厳しい迫害の期間中に6,262人が逮捕され,その投獄期間を合計すると1万4,332年になる。強制収容所に送られた2,074人の投獄期間は合計8,332年になる

証人たちは公共の場所で聖書講演を流すため,録音再生機(自動車に取り付けられたものもある)を用いる

1934年 関心を持つ人に,録音された短い聖書講演を聞かせるため,証人たちは携帯用蓄音機を用いる

1935年 5月31日にワシントン特別区で行なわれた大会の話の中で,「大いなる群衆」は地的なクラスであることが明らかにされる。その大会で840人がバプテスマを受ける。今生きている神の忠実な僕たちのための,地上の楽園でのとこしえの命の希望が次第に強調されるようになる

ハワイのホノルルで,集会場が初めて王国会館と呼ばれる

1936年 一般の人たちに聖書講演を知らせるため,王国伝道者が宣伝ポスターを初めて身に着ける

聖書と共に「富」という協会の本を用いて,関心を持つ人々との研究を始めるよう勧められる。グループでの研究が多い

1937年 証人たちは携帯用蓄音機を用い,録音された聖書の話を家の玄関先で聞かせる

1938年「ものみの塔」誌(英文),6月1日号と15日号に調和して,諸会衆の監督たちを選出するための神権的な取り決めが民主的な手順に取って代わる

幾つかの会衆ごとに地帯大会(現在は巡回大会と呼ばれる)が取り決められる

1939-1945年 大英帝国や英連邦全体で23の国が,エホバの証人に禁令を課したり,証人たちの聖書文書を発禁処分に付したりする

1940年「ものみの塔」誌と「慰め」誌の街路での配布がエホバの証人の活動の正式な特色となる

6月3日,合衆国最高裁判所が,宗教信条を無視した強制的な国旗敬礼を支持する判決を下したため,エホバの証人に対する全国規模の集団暴行が始まる

1941年 第二次世界大戦がヨーロッパを呑み込み,アフリカやアジアに広がっていたにもかかわらず,活発な証人たちの数は10万人の大台を超え,107の国や地域の合計が10万9,371人という最高数に達する

1942年 1月8日,J・F・ラザフォードがカリフォルニア州サンディエゴで亡くなる

1月13日,N・H・ノアが協会の第3代会長になる

この年,「ものみの塔」誌はすべての言語を合わせて合計1,132万5,143部印刷される

2月16日,協会本部の奉仕者のために神権宣教高等課程が始まる

ものみの塔協会所有の印刷機(巻取紙輪転機)により,「ジェームズ王欽定訳」の聖書全巻が印刷される

1943年 2月1日,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第1期生の学習が始まる

4月,エホバの証人の諸会衆のための神権宣教課程(現在は神権宣教学校と呼ばれる)が大会で紹介される

合衆国最高裁判所は,24件の訴訟のうち20件に関してエホバの証人に有利な判決を下す。6月14日,オーストラリアの最高裁判所は同国の証人たちに対する禁令を解除する

1945年 10月1日以降,金銭の寄付で資格を得た選挙人によって協会の理事会を選出することが廃止される

毎月司会される無料の家庭聖書研究の平均が10万4,814件になる

1946年 この年までの7年間に,クリスチャンの中立のため,米国では4,000人以上,英国では1,593人のエホバの証人が逮捕され,1か月から5年の刑を宣告された

第二次世界大戦直後のこの年,6,504人が開拓者として全時間奉仕に携わる

「目ざめよ!」誌(「黄金時代」と「慰め」の後を継いだ雑誌)の発行が始まり,この年,合計1,393万4,429部が印刷される

ギリシャで470人以上の証人たちが,聖書の教えを他の人に伝えたという理由で法廷に引き出される

1947年 カナダのケベック州で,エホバの証人の福音宣明の業に関する1,700件の訴訟が係争中

全世界の会衆の数が1万を超え,合計1万782に達する

1950年 8月2日,ニューヨークの大会で英文の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表される

1953年 9月1日,家から家の伝道に関してエホバの証人を訓練する広範な計画が実施される

1957年 エホバの証人は神の王国をふれ告げ,新たに関心を持った人たちと聖書研究を行なうために,169の国や地域で1億13万5,016時間を費やす

1958年 ニューヨークで開かれた『神の御心』国際大会に,123の国や地域から25万3,922人の出席者が集まり,7,136人がバプテスマを受ける

1959年 3月9日,会衆の監督や旅行する監督のために計画された王国宣教学校が,ニューヨーク州サウスランシングで開講する

1961年 全世界のエホバの証人の業の一層の一致を図って,協会の支部の監督たちの最初のグループがニューヨーク市ブルックリンで10か月間の特別な訓練を受ける

英文の「新世界訳聖書」全巻が1冊にまとめられて発行される

1963年「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」がさらに六つの言語(オランダ語,フランス語,ドイツ語,イタリア語,ポルトガル語,スペイン語)で発行され,後にもっと多くの言語で発行される

198の国や地域で100万人を超えるエホバの証人が活発に奉仕する。この年の伝道者最高数は104万836人になり,さらに6万2,798人がバプテスマを受ける

1965年 ニューヨークでエホバの証人が,劇場を修繕した最初の大会ホールを使用し始める

1967年 エホバの証人に対する残忍な迫害の波がマラウイ全土で長期にわたって荒れ狂い,その後何年も続く

1969年 家庭聖書研究が100万件を超え,報告によると平均で109万7,237件になる

1971年 統治体が増員される。10月1日,統治体の成員が1年ごとに交替で司会者を務めるようになる

1972年 10月1日付で,エホバの証人の諸会衆は,一人の人ではなく地元の長老団によって監督されるようになる

1974年 全世界の伝道者の最高数が202万1,432人に達する。開拓者は1973年の9万4,604人から12万7,135人に増加する

1975年 統治体が再組織される。12月4日,業の多くに関する責任が六つの委員会に割り当てられ,それらの委員会は1976年1月1日に機能し始める

1976年 ものみの塔協会の各支部事務所は2月1日以降,一人の監督によってではなく,霊的に円熟した3人以上の人から成る委員会によって監督されるようになる

1977年 開拓奉仕学校が全世界の十数万人の開拓者に特別な訓練を施し始める

1984年 エホバの証人の司会する家庭聖書研究の平均が204万7,113件になる

1985年 インターナショナル・ボランティアの取り決めが発足し,本部が協会の世界的な建設の業を調整する

報告によると,222の国や地域で302万4,131人が王国伝道に携わる。開拓者の平均は32万2,821人であり,この年,18万9,800人がバプテスマを受ける

1986年 王国会館の建設を調整するための助けとして地区建設委員会が設けられる

1987年 弟子を作る業が拡大を続け,個人や家族との300万5,048件の聖書研究が多くの場合毎週司会される。この年,合計23万843人がバプテスマを受ける

宣教訓練学校が開校し,10月1日,最初のクラスがペンシルバニア州コラオポリスで開かれる

1989年 東ヨーロッパで情勢が変化し,ポーランドで三つの大規模な国際大会を開催できるようになる。その後,他の国々でもそうした大会が可能になる

1990年 アフリカと東ヨーロッパの国々のエホバの証人に対する制限が解除されたことにより,さらに1億人の人々の間で福音宣明の業が促進される

王国伝道者は401万7,213人という新最高数に達し,開拓者の隊伍は53万6,508人にふくれ上がる。王国をふれ告げる緊急な業に合計8億9,522万9,424時間が費やされる

1991年 東ヨーロッパとアフリカで禁令が解除されたことにより,さらに3億9,000万人以上の人々に神の王国の良いたよりを伝えることが容易になる

1992年「ものみの塔」誌は111の言語で平均1,557万部印刷され,67の言語で入手可能な「目ざめよ!」誌は平均1,311万部生産される

史上最大の証言活動。447万2,787人が229の国や地域で王国をふれ告げる業に加わる。開拓者の数は毎月平均60万5,610人。10億2,491万434時間が公の証言に費やされる。427万8,127件の聖書研究が司会される。30万1,002人の新しい弟子がバプテスマを受ける