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その1 ― 地の最も遠い所にまで証人となる

その1 ― 地の最も遠い所にまで証人となる

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その1 ― 地の最も遠い所にまで証人となる

これは,エホバの証人の活動が全地に広がった様子を伝える5部構成の章の最初の部分です。404ページから422ページまでの,その1では,1870年代から1914年までの時期が扱われます。人類社会が,1914年にぼっ発した第一次世界大戦に起因する動乱から立ち直ることは決してありませんでした。その年こそ,異邦人の時の終わりをしるし付ける年であると聖書研究者がずっと前から指摘していた年でした。

イエス・キリストは昇天なさる前,ご自分の使徒たちに任務を与えて,「あなた方は……地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と言われました。(使徒 1:8)また,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」と予告しておられました。(マタイ 24:14)その業は1世紀に完了したわけではなく,大部分は現代に行なわれてきました。そして,1870年代から現在までに成し遂げられた事柄の記録はまさに興奮に満ちています。

チャールズ・テイズ・ラッセルは聖書に関する十分宣伝された講演で広く知られるようになったとはいえ,単に大勢の聴衆にではなく,人々に関心を抱いていました。それでラッセルは,1879年に「ものみの塔」誌を創刊してから間もなく,同誌の読者の小さなグループを訪問して共に聖書の討議を行なうため,広範な旅行を始めました。

C・T・ラッセルは,神の言葉の貴重な約束を信じている人々に対して,その約束を他の人に知らせる業に加わるよう勧めました。学んでいる事柄に深く心を動かされた人々は真の熱意を示してまさに勧められたことを行ないました。その業の助けとして印刷物が用意されました。1881年の初めに,幾つかのパンフレットが登場しました。そして,そうしたパンフレットの資料に他の情報を追加して,より包括的な「考えるクリスチャンのための糧」が作られ,配布用に120万部準備されました。しかし,その120万部すべてを小人数の聖書研究者たち(当時100人ほど)がどのようにして配布できたのでしょうか。

教会に通う人々に音信を伝える

そのうちの幾らかは親族や友人に配布されました。また,何社かの新聞社が購読者に1部ずつ届けてくれることになりました。(田舎に住む大勢の人たちに「考えるクリスチャンのための糧」が届くよう,週刊や月刊の新聞が特に重視されました。)しかし大部分は,数週間連続で日曜日に米国と英国の教会の前で配布されました。聖書研究者だけでそれを成し遂げるには人数が足りなかったので,他の人を手伝いに雇いました。

英国で30万部配布する業を監督するため,ラッセル兄弟はJ・C・サンダーリンとJ・J・ベンダーという二人の仲間をそこに遣わしました。サンダーリン兄弟はロンドンへ赴き,ベンダー兄弟のほうはまず北方のスコットランドに行ってから,南へ下りながら奉仕しました。おもに大都市に注意が向けられました。手慣れた人たちを新聞広告で探して契約し,その人たちが自分の割り当て分を配布できるよう十分な数の助手を手配しました。ロンドンだけで配布のために500人近くの人が集められました。業は速やかに,日曜日に2週連続で行なわれました。

その同じ年,自分の時間の半分以上を専ら主の業に費やすことのできる聖書研究者が,聖書研究用の文書を配布する聖書文書頒布者<コルポーター>となる取り決めが設けられました。今では開拓者と呼ばれている人たちの先駆者となったこれらの人々により,まさに驚異的な規模で良いたよりが広められました。

その後の10年間にラッセル兄弟は,それまでに学んだ聖書の際立った真理の幾つかを広めるために簡単に使える様々なパンフレットを準備しました。さらに彼は「千年期黎明」(後に「聖書研究」と呼ばれた)を数巻執筆し,その後,自ら他の国への福音宣明旅行に出かけるようになりました。

ラッセルの外国旅行

1891年,ラッセル兄弟はカナダを訪問しました。カナダでは1880年からかなりの関心が呼び起こされていたので,この時にはトロントで出席者数700人の大会を開くことができました。彼は1891年にはヨーロッパにも旅行し,その地で真理を広める業を推し進めるために何ができるか調査しました。その旅行で彼は,アイルランドとスコットランドとイングランド,ヨーロッパ大陸の多くの国々,ロシア(現在モルドバと呼ばれる地域),中東を訪れました。

その旅行で人々と接したことに基づき,ラッセル兄弟はどんな結論を下したでしょうか。彼はこう報告しました。「ロシアには真理を受け入れるための機会や備えがまだできていなかった。……イタリアやトルコ,またオーストリアやドイツでも,いくばくかの収穫を期待させるようなものは何もなかった。しかし,ノルウェー,スウェーデン,デンマーク,スイス,そして特にイングランドやアイルランドやスコットランドは,収穫を待つばかりの畑である。それらの畑は,やって来てわたしたちを助けてください,と叫んでいるかのようである」。当時,カトリック教会は依然として聖書を読むことを禁じており,多くのプロテスタント信者が教会を去り,少なからぬ人々が教会に幻滅を感じて聖書を全く退けていました。

霊的に飢えているそうした人々を援助するため,1891年のラッセル兄弟の旅行の後,出版物をヨーロッパの言語に翻訳することに集中的に力が注がれました。また,英国での需要にもっと速やかに応じられるよう,文書をロンドンで印刷し保管する取り決めが設けられました。英国の畑は確かに収穫を待っていました。1900年には既に九つの会衆があり,熱心な聖書文書頒布者<コルポーター>を含む合計138人の聖書研究者がいました。1903年にラッセル兄弟が英国を再び訪れた際,「千年期の希望と見込み」という彼の話を聞くためにグラスゴーでは1,000人が集まり,ロンドンでは800人,他の都市では500ないし600人が出席しました。

しかしラッセル兄弟の観察どおり,イタリアで聖書研究者の最初の会衆がピネロロに設立されたのは,彼の訪問から17年後のことでした。では,トルコはどうだったでしょうか。1880年代の終わりにバジル・ステファノフが,当時ヨーロッパトルコと呼ばれた地方のマケドニアで伝道しました。関心を示すかに見えた人もいましたが,兄弟であると自称する者たちが偽りの通報をしたため,ステファノフは投獄されました。1909年になって初めて,トルコのスミルナ(現在のイズミル)の一人のギリシャ人から,その町で一つのグループが感謝しつつ,ものみの塔の出版物を研究している,という手紙が届きました。オーストリアの場合,ラッセル兄弟はウィーンで話をするため1911年に再び自らオーストリアを訪れましたが,集会は暴徒によって中断させられてしまいました。ドイツでも,感謝のこもった反応はなかなか生まれませんでした。しかし,スカンディナビアの人々は,自分たちの霊的な必要をもっと強く意識していることを示しました。

スカンディナビアの人々は互いに分かち合う

米国にはスウェーデン人がたくさん住んでいました。1883年,スウェーデン語に翻訳された「ものみの塔」誌の見本が作られ,スウェーデン人の間で配布用に用いることができるようになりました。それらの見本はすぐに郵送されて,スウェーデンにいる友人や親族の手に渡りました。ノルウェー語の文書はまだ作られていませんでした。それにもかかわらず,ラッセル兄弟のヨーロッパ旅行の翌年の1892年に,米国で真理を学んだノルウェー人のクヌート・ペーダルセン・ハマーは,親族に証言するため個人的にノルウェーに戻りました。

その後,デンマーク-ノルウェー語で文書が発行され始めた1894年に,25歳のデンマーク系アメリカ人ソーフス・ウィンターが配布用の文書を携えてデンマークへ派遣されました。翌年の春までにウィンターは「千年期黎明」を500巻配布しました。間もなく,そうした出版物を読んだ他の幾人かの人たちも彼と共にその業を行なうようになりました。残念なことに,後にウィンターは自分が得ていた貴重な特権の価値を見失ってしまいました。しかし,他の人たちは光を輝かせ続けました。

とはいえウィンターは,奉仕をやめる前にスウェーデンでも幾らか聖書文書頒布者<コルポーター>の活動を行ないました。その後ほどなくして,救世軍の若い大尉アウグスト・ルンドボルグはステルケ島の友人の家で2巻の「千年期黎明」を目にしました。彼はその2巻を借りて熱心に読み,救世軍から脱退して,学んだことを他の人に伝え始めました。P・J・ヨハンソンという別の若者は公園のベンチで拾った一枚のパンフレットを読んで,目が開かれました。

スウェーデンのグループが大きくなり始めると,幾人かの人がノルウェーへ出かけて行って聖書文書を配布しました。それ以前でさえ,米国に住む親族から郵便で文書がノルウェーに届いていました。それがきっかけとなってラスムス・ブリントヘイムはエホバへの奉仕を始めました。同じくノルウェーのテオドール・サイマンセンはフリーミッション教会の説教師でしたが,そうした初期の時代に真理を受け入れました。彼はフリーミッション教会での説教の中で地獄の火の教えの誤りを指摘するようになりました。説教を聞いていた人々はそのすばらしい情報に興奮して立ち上がりました。しかし,彼が「千年期黎明」を読んでいることが分かると,彼はその教会から追い出されました。それでも彼は学んだ良い事柄について話すことを決してやめませんでした。アンドレアス・エイセトという若者も幾らかの文書を受け取りました。そして,真理を得たことをひとたび確信すると,家族の農場を出て聖書文書頒布者<コルポーター>の活動を始めました。彼は順次北上しながら活動を続け,それからフィヨルド沿いに南下しました。一つの集落も見逃しませんでした。冬には,足で蹴って進むそりに食料や衣服や文書などの必要品を積んで運び,寝る場所はもてなしの良い人々に提供してもらいました。8年間の旅行で,彼はほぼノルウェー全国に良いたよりを伝えました。

アウグスト・ルンドボルグの妻エバは,1906年にスウェーデンからフィンランドに移って聖書文書頒布者<コルポーター>として奉仕しました。同じころ,米国からものみの塔の文書を携えて戻って来た人たちが,自分たちの学んでいる事柄を他の人に伝え始めました。こうして数年のうちに,教会が与えてくれる以上のものを探し求めていたエミル・エステルマンは「世々に渉る神の経綸」を手に入れました。彼はその本を,同じく探求を行なっていた友人のカールロ・ハルテバに見せました。ハルテバはその本の価値に気づき,それをフィンランド語に翻訳し,エステルマンから資金援助を受けて出版の手はずを整えました。同時に二人はその本の配布を始めました。二人は真の福音宣明の精神を示し,公共の場所で人々に話したり,家から家に訪問したり,満員の大講堂で話を行なったりしました。ヘルシンキで,ハルテバ兄弟はキリスト教世界の偽りの教理を暴露した後,聴衆に対して,もし可能であるなら聖書を用いて魂の不滅に関する信条を擁護してみるよう求めました。その場にいた僧職者たちに全員の目が注がれましたが,だれも発言せず,エゼキエル 18章4節にある明快な言葉に反論できる人は一人もいませんでした。聴衆の中には,話を聞いたその晩はなかなか寝つけなかったと言う人もいました。

謙遜な庭師がヨーロッパでの福音宣明者となる

一方,アドルフ・ウェーバーはアナバプテスト派の年配の友人に勧められ,聖書のより十分な理解を求めてスイスから米国に渡りました。米国で彼は求人広告に応募し,ラッセル兄弟の庭師になりました。「世々に渉る神の経綸」(当時,ドイツ語版があった)とラッセル兄弟が司会する集会のおかげで,アドルフは探し求めていた聖書の知識を得て,1890年にバプテスマを受けました。彼は『心の目が啓発された』ので,どんな壮大な機会が自分に開かれているかを深く認識しました。(エフェソス 1:18)アドルフは米国でしばらく熱心に証言した後,故国に戻り,そこでも「主のぶどう園での」仕事に取りかかりました。こうして1890年代の半ばには,彼はスイスに戻って,受け入れる心を持つ人々に聖書の真理を伝えていました。

アドルフは庭師や森林監督官として生計を立てましたが,彼の第一の関心の的となっていたのは福音宣明の業でした。彼は同僚やスイスの近隣の町や村の人々に証言しました。また,幾つかの言語に通じていたので,その知識を用いて協会の出版物をフランス語に翻訳しました。そして冬になると,聖書文書の詰まったナップザックを背負って徒歩でフランスへ行きました。時には北西のベルギーや南のイタリアまで行くこともありました。

直接会うことのできない人々に音信を伝えるため,アドルフは新聞や雑誌に広告を出して,聖書研究のための文書に人々の注意を引きました。フランス中部に住むエリー・テロンは広告を見て注文し,読んだ事柄の中に真理の響きを認め,すぐに彼自身も音信を広めるようになりました。ベルギーでは,同様にジャン-バティスト・ティルマン・シニアが1901年に広告を見て「千年期黎明」を2巻手に入れました。聖書の真理の非常に明快な説明を読み,彼は本当に感動しました。どうして友だちに話さずにいられるでしょう。翌年には,彼の家で研究グループが定期的に集まっていました。その後まもなく,その小さなグループの活動はフランス北部でも実を結ぶようになりました。ウェーバー兄弟は絶えず彼らと連絡をとり,発展する様々なグループを定期的に訪問して霊的に築き上げ,良いたよりを他の人に伝える方法に関する指示を与えました。

ドイツに良いたよりが伝えられた時

1880年代半ば,ドイツ語で幾つかの出版物が出されるようになるとすぐに,それらの出版物の価値を認めるドイツ系アメリカ人たちが故国の親族にそれらを送り始めました。ハンブルクの病院で働いていた一人の看護婦は病院の他の人たちに「千年期黎明」を何冊か渡しました。1896年,スイスのアドルフ・ウェーバーはドイツ語の新聞に広告を出して,ドイツにパンフレットを郵送していました。翌年,ドイツ語版「ものみの塔」誌の配布の便宜を図ってドイツに文書集積所が一つ設けられましたが,なかなか成果が上がりませんでした。しかし1902年に,スイスで真理を学んだマルガレーテ・デムートがシュバルツバルト東部のタイルフィンゲンに移って来ました。熱意のこもった彼女の個人的な証言のおかげで,ドイツにおける初期の一つの聖書研究者グループの基礎が据えられました。スイス出身のザムエル・ラウパーはケルン北東部のベルギシェス・ラントに移ってきて,その地方で良いたよりを広めました。1904年までには,その地方のベルメルスキルヘンで集会が開かれていました。出席者の中には,真理を探し求めていたゴトリープ・パースという80歳の男性もいました。そうした集会が開かれるようになってから間もなく,パースは臨終の床で「ものみの塔」誌を掲げ,「これは真理だ。これを手離してはいけない」と言いました。

こうした聖書の真理に関心を持つ人々の数は徐々に増加しました。かなりの費用がかかったにもかかわらず,ドイツの幾つかの新聞に「ものみの塔」誌の無料の見本をはさみ込む取り決めが設けられました。1905年に発表された報告によると,こうした「ものみの塔」誌の見本は150万部以上配布されました。それは,ごく小さなグループとしては大きな成果でした。

聖書研究者の中には,身近な人々に音信を伝えるだけでは必要な事柄を行なったことにはならないと考える人もいました。早くも1907年には,ドイツ出身のエルラー兄弟が当時のオーストリア-ハンガリーのボヘミア(後にチェコスロバキアの一部になった)に出かけ,ハルマゲドンについての警告と,ハルマゲドン後に人類にもたらされる祝福の知らせとを載せた文書を配布しました。1912年までには,もう一人の聖書研究者が現在のリトアニアのメーメル地方で聖書文書を配布していました。多くの人が音信に対して熱烈な反応を示し,すぐに聖書研究者のかなり大きなグループが幾つも誕生しました。しかし,真のクリスチャンは同時に証人でもなければならないということを学ぶと,それらのグループの人数は減少し始めました。それでも,少数の人たちは自分が,「忠実で真実な証人」であるキリストに真に見倣う者であることを実証しました。―啓示 3:14

ロシアに広大な領地を持つドイツの男爵ニコラウス・フォン・トルノーは,スイスにいた1907年ごろに,ものみの塔協会のパンフレットを1部受け取りました。2年後,彼は一番立派な衣装を身に着け,従者を一人連れてドイツのベルリン会衆に現われました。彼は初めのうち,神が貴重な真理をそうした控え目な人々に託された理由を理解できませんでしたが,コリント第一 1章26節から29節に書かれている事柄が助けになりました。「兄弟たち,あなた方が自分たちに対する神の召しについて見ていることですが,肉的に賢い者は多くなく,強力な者も多くなく,高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません。……それは,肉なる者がだれも神のみ前で誇ることのないためです」。自分が真理を見いだしたことを確信したフォン・トルノーは,ロシアにある領地を売り,清い崇拝の関心事を促進するために自分自身と資金をささげました。

ヘルケンデルというドイツの若い夫婦は1911年に結婚しましたが,その際花嫁は自分の父親に頼んで,持参金として普通とは違った新婚旅行の費用を出してもらいました。この夫婦は何か月もかかる精力的な旅行を計画していました。二人の新婚旅行は,ロシアにいるドイツ語を話す人々に音信を伝えるための,ロシアへの伝道旅行でした。こうして様々な人たちが,神の愛ある目的に関して学んだ事柄をいろいろな方法で他の人々に伝えました。

英国の畑における成長

1881年に英国で徹底的な文書配布が行なわれた後,教会に通う人々の中には学んだ事柄に基づいて行動する必要に気づいた人たちもいました。『わたしの民よ,彼女から出なさい』,つまりキリスト教世界のバビロン的な諸教会から出て聖書の教えに従いなさい,という「ものみの塔」誌の聖書的な諭しに感銘を受けた人の中に,ロンドン,イズリントンのトム・ハートがいます。(啓示 18:4)彼は1884年に教会を脱退し,他の幾人かの人たちもそれに続きました。

研究グループと交わっていた多くの人たちが有能な福音宣明者へと成長しました。ロンドンの公園や,人々がくつろいでいる他の場所で聖書文書を提供する人もいれば,商店や事務所に努力を集中する人もいました。しかしもっと一般的な方法は,家から家に訪問することでした。

「ものみの塔」誌の予約購読者のセーラ・フェリーはラッセル兄弟あての手紙に,自分とグラスゴーの数人の友人はパンフレットの配布に自発奉仕者として参加したいと思っている,と書きました。3万部のパンフレットを積んだトラックが自分の家の前に止まった時には,彼女はびっくり仰天しました。そのパンフレット全部を無料で配布するのです。彼女たちは行動に移りました。ミニー・グリーンリーズは幼い3人の息子と一緒に1頭立ての小さな馬車に乗って,スコットランドの田舎にまで聖書文書配布の業を推し進めました。後に,アルフレッド・グリーンリーズとアレクサンダー・マギラブレイは自転車で旅行し,スコットランドの大部分にパンフレットを配布しました。このころには,他の人を雇って文書を配布してもらう代わりに,献身した自発奉仕者たちが自ら業を行なうようになっていました。

彼らは自分の心に促された

イエスはあるたとえ話の中で,『りっぱな良い心で神の言葉を聞いた』人々は実を結ぶであろうと言われました。そうした人々は神の愛ある備えに対する誠実な感謝の気持ちに動かされて,神の王国に関する良いたよりを他の人に伝えることになっていました。(ルカ 8:8,11,15)どんな状況のもとでも,何らかの方法を見つけてそうするのです。

例えば,一人のアルゼンチン人の旅行者は「考えるクリスチャンのための糧」という小冊子の一部分をイタリア人の船員から受け取りました。その旅行者はペルー入港中に手紙で追加注文をし,また1885年にはさらに関心を深めて,文書の送付依頼の手紙をアルゼンチンから「ものみの塔」誌の編集者に書き送りました。同じ年,英国海軍のある軍人は砲兵隊を率いてシンガポールに派遣された際に「ものみの塔」誌を持って行きました。彼はその雑誌から学んだ事柄に喜びを感じ,その地で自由にその雑誌を用いて,一般に論議の的となる点に関する聖書の見方を知らせました。1910年には,旅行中の二人のクリスチャン女性の乗った船がセイロン(現在のスリランカ)のコロンボ港に停泊しました。二人は機会をとらえて,その港の海員監督官であるヴァン・トウェスト氏に証言し,「世々に渉る神の経綸」という本から学んだ良い事柄について熱心に話しました。その結果,ヴァン・トウェスト氏は聖書研究者になり,スリランカにおける良いたよりの伝道が始まりました。

旅行できない人たちでさえ,心温まる聖書の真理を何とかして他の国の人々に伝えようとしました。1905年に出版物に掲載された感謝の手紙によると,米国のある人が,当時のデンマーク領西インド諸島のセントトマス島に住むある人に「世々に渉る神の経綸」を送りました。本を受け取ったその人は読み終わるとひざまずき,神のご意志を行なうために自分を用いていただきたいという熱烈な願いを言い表わしました。1911年,ブラジルのベロナ・ファーガソンは,真理の水が「届かないほど遠くにいる人はいない,ということの生きた確かな証拠」として自分の例を引き合いに出しました。彼女は1899年以来,協会の出版物を郵便で受け取っていたようです。第一次世界大戦前のある時,パラグアイのあるドイツ系移民は郵便受けの中に協会のパンフレットが1部入っているのを見つけました。彼はさらに文書を注文し,やがてキリスト教世界の教会との結びつきを断ちました。パラグアイにはそのような行動をとった人がほかにいなかったので,この人と義理の弟は互いにバプテスマを施し合うことにしました。確かに,地の遠い所で証言が行なわれ,実を結んでいました。

それでも,聖書研究者の中には,是非とも自分や親の生まれ故郷に行って,エホバのすばらしい目的とその目的にあずかる方法を友人や親族に伝えたい,と思った人たちもいました。例えば,1895年にオレシュジンスキー兄弟は,「贖いと革新と上への召し」に関する良いたよりを携えてポーランドへ帰りました。しかし,悲しいことに,彼は忍耐してその奉仕を続けませんでした。1898年には,ハンガリー人の元教授がカナダから故国に帰り,聖書の緊急な音信を広めました。1905年には,米国で聖書研究者になった男性が証言を行なうためにギリシャに戻りました。また1913年には,ニューヨークのある若者が,エルサレムからそう遠くない家族の故郷ラマラへ聖書の真理の種を携えて戻りました。

カリブ海地域の扉が開かれる

米国やカナダやヨーロッパで福音宣明者の数が増加する一方,聖書の真理はパナマ,コスタリカ,オランダ領ギアナ(現在のスリナム),英領ギアナ(現在のガイアナ)にも根を下ろしつつありました。英領ギアナで神の目的を理解するよう援助を受けたジョセフ・ブラスウェイトは,全時間を費やしてバルバドスの人々に神の目的を教えるため,1905年にそこへ赴きました。コスタリカで働いている時に良いたよりを聞いたルイス・フェイシーとH・P・クラークは,新たに見いだした信仰を母国の人々に伝えるため,1897年にジャマイカへ戻りました。ジャマイカで真理を受け入れた人々は熱心に働くようになりました。1906年だけで,ジャマイカのグループはパンフレット約120万部と他の文書を配布しました。パナマで真理を学んだ別の移民労働者は,聖書の希望の音信を携えてグレナダへ帰りました。

1910年から1911年にかけてのメキシコ革命は,真理に飢えた人々に神の王国の音信を伝える点での別の要素となりました。多くの人が北方の米国へ逃れ,その一部は米国で聖書研究者に出会い,人類に永続する平和をもたらすというエホバの目的を学んで,故郷のメキシコへ文書を送りました。とはいえ,メキシコにこの音信が伝えられたのはこれが最初ではありませんでした。早くも1893年に,「ものみの塔」誌はメキシコのF・デ・P・スティーブンソンからの手紙を掲載しました。彼はものみの塔協会の出版物を幾つか読み,メキシコとヨーロッパにいる友だちの分としてもっと出版物がほしいと考えていました。

カリブ海一帯のもっと多くの国や地域で聖書の真理を宣べ伝えるための道を開き,研究のための定期的な集会を組織する目的で,ラッセル兄弟はE・J・カワードを1911年にパナマに,そして後にカリブ海の島々に遣わしました。カワード兄弟は力強く生き生きとした話をしました。地獄の火の教理や人間の魂は不滅であるとする教理の誤りを指摘し,地球の輝かしい将来を説明する彼の話を聞くために,何百人もの聴衆が集まることもよくありました。カワード兄弟は町から町へ,またセントルシア,ドミニカ,セントキッツ,バルバドス,グレナダ,トリニダードといった島から島へと移動して,できる限り多くの人々に接し,英領ギアナでも話をしました。パナマで彼は,W・R・ブラウンという熱心な若いジャマイカ人の兄弟と出会いました。ブラウン兄弟はそれ以後,カワード兄弟と共にカリブ海の幾つもの島で奉仕し,後には他の畑を切り開くのを援助しました。

1913年,ラッセル兄弟は自らパナマとキューバとジャマイカで話を行ないました。ジャマイカのキングストンでの公開講演の際には,二つの講堂が満員になり,さらに2,000人ほどの人の入場を断わらなければなりませんでした。講演者が金銭について何も述べず,寄付集めも行なわれなかったことは,報道関係者の注目を集めました。

真理の光がアフリカに達する

この時期に,アフリカにも真理の光が差し込みつつありました。1884年にリベリアから届いた手紙によれば,リベリアのある聖書の読者は「考えるクリスチャンのための糧」を1部手に入れ,他の人に渡すためにもっとほしいと考えました。その数年後の報告によると,リベリアではある僧職者が「ものみの塔」誌の助けによって学んでいる聖書の真理を自由に教えるために辞職し,定期的な集会が聖書研究者の一つのグループによって開かれていました。

オランダ改革派教会のある牧師は1902年にオランダから南アフリカに派遣された時,C・T・ラッセルの著書を何冊か持って行きましたが,それらの著書から永続的な益を得ることはありませんでした。しかし,それらの本をその牧師の書斎で見つけたフラーンス・エイバルソーンとストフェル・フュリーの場合はそうではありませんでした。数年後,二人の熱心な聖書研究者がスコットランドから南アフリカのダーバンに移住して来た時に,そこの畑における働き人の隊伍は強化されました。

残念なことに,ラッセル兄弟の書いた文書を手に入れて,その一部を他の人に教えた人々の中には,少数ながら,ジョセフ・ブースやエリオット・カムワナのように,社会変革への関心を喚起するための独自の考えを混ぜ込む者たちがいました。そのため,南アフリカとニアサランド(後のマラウイ)では,外部の人々が真の聖書研究者を見分ける際に混乱することがありました。それでも,人類の諸問題の解決策として神の王国に注意を向ける音信を聞き,その音信に対して認識を示す人は少なくありませんでした。

とはいえ,アフリカで広範な伝道が行なわれるのはまだ先のことでした。

東洋と太平洋の島々へ

C・T・ラッセルの準備した聖書出版物は,英国で配布されるようになってから間もなく東洋にも達しました。1883年,中国の芝罘<チーフー>(煙台<イエンタイ>)にいた長老派教会の宣教師であるC・B・ダウニングという独身女性が「ものみの塔」誌を1部受け取りました。彼女は革新に関して学んだ事柄の価値を認め,他の宣教師たちにもその雑誌を見せました。その中にバプテスト教会の宣教局とつながりのあるホラス・ランドルがいました。後にランドルは,ロンドンのタイムズ紙に載った「千年期黎明」の広告によってさらに関心を高められ,次いで実際にその本を受け取ることになりました。ダウニングから1冊,そして英国にいた彼の母からも1冊送られてきたのです。最初,彼は本の内容からショックを受けました。しかし,三位一体が聖書の教えではないとひとたび確信すると,バプテスト教会を脱退し,学んだ事柄を他の宣教師たちに伝え始めました。1900年に彼は,中国と日本と朝鮮とシャム(タイ)の宣教師たちに2,324通の手紙と約5,000部のパンフレットを送ったと報告しています。当時,東洋で証言の対象となったのはおもにキリスト教世界の宣教師たちでした。

同じころ,オーストラリアとニュージーランドでも真理の種がまかれました。オーストラリアのそうした“種”の最初のものは,ある男性によって1884年かその少し後に持ち込まれたようですが,そもそものきっかけは聖書研究者が英国の公園でその男性に話しかけたことでした。また,外国にいる友人や親族から郵送されてきた“種”もありました。

1901年にオーストラリア連邦が設立されてから数年もたたないうちに,オーストラリアの何百人もの人々が「ものみの塔」誌を予約購読するようになりました。真理を他の人に分かつ特権に気づいた人々の活動の結果,選挙人名簿に名前が載っている人たちに大量のパンフレットが送付されました。また,さらに多くのパンフレットが街路で配布され,鉄道沿いの辺ぴな地域では,労働者や孤立した家の住人に列車の窓からパンフレットの束がほうり投げられました。迫り来る1914年の異邦人の時の終わりが人々に告げ知らされていました。アーサー・ウィリアムズ・シニアはウェスタンオーストラリア州の自分の店で客全員に異邦人の時の終わりについて語り,関心を持つ人々を自宅に招いてさらに話し合いました。

ニュージーランドに最初に聖書の真理を伝えた人がだれであるか,今では分かりません。しかし1898年までには,ニュージーランドに住むアンドルー・アンダーソンがものみの塔の出版物を読んで心を動かされ,聖書文書頒布者<コルポーター>としてその地で真理を広めるまでになっていました。1904年には,米国や,その年オーストラリアに開設された協会の支部事務所から他の聖書文書頒布者<コルポーター>たちがやって来て,彼の働きが強化されました。クライストチャーチに住むトマス・バリーの妻は聖書文書頒布者<コルポーター>の一人から「聖書研究」を6巻受け取りました。1909年,彼女の息子のビルは英国へ向かう6週間の船旅の間にそれらを読み,書かれている事柄が真実であることに気づきました。それから何十年か後に,ビルの息子のロイドはエホバの証人の統治体の成員になりました。

そうした初期の熱心な働き人の中にエド・ネルソンがいます。彼は元々あまり器用な人ではありませんでしたが,王国の音信をニュージーランドの北端から南端まで広めるために50年間全時間奉仕を行ないました。数年後,フランク・グローブがネルソンに加わりました。グローブは記憶力を強化して視力の弱さを補い,やはり開拓者として,亡くなるまで50年以上奉仕しました。

良いたよりの伝道を促進するための世界旅行

1911年から1912年にかけて,東洋の人々を援助するためにさらに大きな努力が払われました。東洋の状況をじかに調査するため,国際聖書研究者協会は,C・T・ラッセルを委員長とする7人の男子から成る委員会を派遣しました。行く先々で彼らは,メシアの王国によって人類に祝福をもたらすという神の目的について語りました。聴衆が少ないこともありましたが,フィリピンやインドでは何千人も集まりました。委員たちは,当時のキリスト教世界で広く行なわれていた世界的な改宗のための資金集めの運動を支持しませんでした。キリスト教世界の宣教師たちの努力の大半が世俗の教育を促進するために費やされていることを見て取っていたのです。しかし,ラッセル兄弟は,人々が必要としているのは「来たるべきメシアの王国という,神の愛ある備えに関する福音」であることを確信していました。聖書研究者は,世界の人々を改宗させることを期待する代わりに,当時のなすべき仕事は証言することであり,そうすることが,「1,000年間キリストと共にキリストの座に着いて人類全体を向上させる業に共にあずかる[キリストの]花嫁級の成員として,すべての国民と民と部族と国語から選ばれた少数の者」を集める業に貢献することを聖書から理解していました。 *啓示 5:9,10; 14:1-5

日本,中国,フィリピンなどで時を過ごした後,委員会の一行はインド国内をさらに6,400㌔旅行しました。インドに住む何人かの人たちは,早くも1887年に協会の文書を読んで感謝の手紙を寄せました。さらに,タミール語を話す人々の間では,学生として米国にいた時にラッセル兄弟に会って真理を学んだ一人の若者が1905年以来活発な証言を行なっていました。この若者はインド南部で40ほどの聖書研究グループの設立を援助しましたが,他の人たちに宣べ伝えておきながらクリスチャンの規準を捨てたため,自分自身が非とされるようになりました。―コリント第一 9:26,27と比較してください。

しかし同じころ,トラバンコール州(ケララ州)のA・J・ジョセフがアドベンティスト派の著名な人に手紙で質問したところ,返事として「聖書研究」が1巻送られて来ました。ジョセフは三位一体に関する自分の質問に対する満足のゆく聖書からの答えをその本の中に見いだしました。やがて彼と何人かの家族はインド南部の水田やココナツ農園に出かけて行って,新たに見いだした信仰を伝えました。1912年のラッセル兄弟の訪問の後にジョセフ兄弟は全時間奉仕を始め,鉄道や牛車やはしけや徒歩で旅行し,聖書文書を配布しました。彼の公開講演はたいてい僧職者やその信者たちによって中断されました。クンダラでは,ある“クリスチャン”の僧職者が信者たちを使ってそうした集会を中断させ,ジョセフ兄弟に動物の糞を投げつけさせていました。するとそこへ,影響力のあるヒンズー教徒の紳士が,一体何の物音だろうと見に来ました。その紳士が僧職者に向かって,「それが,クリスチャンのためにキリストが残された模範なのですか。それとも,あなたがしていることはイエスの時代のパリサイ人の行ないに似ていますか」と言うと,僧職者は退散しました。

ラッセル兄弟は国際聖書研究者協会の委員会による4か月にわたる世界旅行を終える前に,R・R・ハリスターが東洋における協会の代表者となって,メシアの王国という神の愛ある備えに関する音信を東洋の人々に広める業を続けるよう取り決めました。10の言語で特別なパンフレットが準備され,インドと中国と日本と朝鮮の全土で地元の配布者たちによって非常に大量に配布されました。その後,関心を示した人々にさらに霊的な食物を供給するため,幾つかの本がそのうちの四つの言語に翻訳されました。東洋は広大な畑であり,なすべき仕事はまだたくさん残っていました。しかし,この時までに成し遂げられた事柄はまさに驚くべきものでした。

印象的な証言が行なわれる

最初の世界大戦による荒廃の嵐が吹き荒れる前に,世界中で広範な証言が行なわれていました。ラッセル兄弟は講演旅行で米国とカナダの幾百もの都市を訪問し,ヨーロッパへ何度も旅行し,パナマやジャマイカやキューバ,また東洋の主要都市で話を行ないました。何万人もの人々が彼の感動的な聖書講演をじかに聞き,友人や反対者からの質問に彼が公の場で聖書から答えるのを見守りました。こうして多くの関心が呼び起こされ,米国,ヨーロッパ,南アフリカ,オーストラリアなどの何千もの新聞が定期的にラッセル兄弟の訓話を掲載しました。35の言語で,何百万冊もの本や何億部ものパンフレット,それに他の文書が聖書研究者によって配布されました。

ラッセル兄弟の果たした役割は際立っていたとはいえ,宣べ伝えたのはラッセル兄弟だけではありませんでした。全世界に散らばっている他の人々も,エホバとみ子イエス・キリストの証人として声を合わせていました。共に働いた人全員が公の話し手だったわけではありません。職業は様々でしたが,彼らは自由に使えるふさわしい手段をすべて用いて良いたよりを広めました。

異邦人の時の終わりまであと1年足らずという1914年1月,さらに別の徹底的な証言が始まりました。それは,地に対する神の目的を斬新な仕方で強調する「創造の写真劇」でした。この写真劇は,音声と同調した美しい手描きのカラースライドと映画という方法を用いて神の目的を強調しました。米国の報道機関は,米国中で毎週合計何十万人もの観客がこの写真劇を見ていると報じました。最初の年の末には,米国とカナダでの観客の合計は800万人近くに達しました。英国のロンドンでは,各2時間の4部から成るこの写真劇を見ようとする大勢の人々でオペラハウスとロイヤル・アルバート・ホールが超満員になりました。英国諸島の98の都市で半年以内に122万6,000人以上がやって来ました。ドイツやスイスで使えた会場も満員になりました。スカンディナビアや南太平洋でも大勢の観客がこの写真劇を見ました。

そうした現代のエホバの証人の歴史の初期に,何と際立った,徹底的で全世界的な証言が行なわれたのでしょう。しかし,実のところ,業は始まったばかりでした。

1880年代の初めの時点で,聖書の真理を広める業に活発に加わっている人は数百人にすぎませんでした。現在残っている報告によると,1914年には5,100人ほどの人たちが業に参加していました。さらに,幾らかのパンフレットを時おり配布する人たちもいたようです。働き人は比較的少数でした。

1914年の後半の時点で,福音宣明者のこの小さなグループは,神の王国をふれ告げる業を様々な方法で68の国や地域に拡大していました。そして,そのうちの30の国や地域では,神の言葉を宣べ伝え,教える者としての彼らの業はかなりしっかりと確立されていました。

異邦人の時が終わる前に,何百万冊もの本と何億部ものパンフレットが配布されていました。それに加えて,1913年までに2,000紙もの新聞がC・T・ラッセルの準備した訓話を定期的に掲載し,1914年には三つの大陸の合計900万人以上の人々が「創造の写真劇」を見ました。

確かに,驚くべき証言が行なわれていました。しかし,前途にはさらに多くのことが控えていたのです。

[脚注]

^ 59節 この世界旅行の詳細な報告は,「ものみの塔」誌(英文),1912年4月15日号に掲載されています。

[405ページの地図/図版]

C・T・ラッセルは,北米やカリブ海地域の300以上(点で示された場所)の都市において自ら聖書講演を行なった。各都市で10ないし15回講演することも少なくなかった

[地図]

(出版物を参照)

[407ページの地図]

(出版物を参照)

ラッセルのヨーロッパ伝道旅行。たいてい英国経由で行なわれた

1891

1903

1908

1909

1910(2回)

1911(2回)

1912(2回)

1913

1914

[408ページの地図/図版]

アンドレアス・エイセトは真理を見つけたことを確信すると,ノルウェーのほとんどすべての地域で聖書文書を熱心に配布した

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ノルウェー

北極圏

[409ページの地図/図版]

アドルフ・ウェーバーという謙遜な庭師は,スイスからヨーロッパの他の国々へ良いたよりを広めた

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ベルギー

ドイツ

スイス

イタリア

フランス

[413ページの地図/図版]

ブラジルのベロナ・ファーガソン ―「届かないほど遠くにいる人はいない」

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ブラジル

[415ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

アラスカ

カナダ

グリーンランド

サンピエール・ミケロン

アメリカ合衆国

バミューダ諸島

バハマ

タークス・カイコス諸島

キューバ

メキシコ

ベリーズ

ジャマイカ

ハイチ

ドミニカ共和国

プエルトリコ

ケイマン諸島

グアテマラ

エルサルバドル

ホンジュラス

ニカラグア

コスタリカ

パナマ

ベネズエラ

ガイアナ

スリナム

フランス領ギアナ

コロンビア

エクアドル

ペルー

ブラジル

ボリビア

パラグアイ

チリ

アルゼンチン

ウルグアイ

フォークランド諸島

バージン諸島(米)

バージン諸島(英)

アンギラ島

サンマルタン島

サバ島

セントユースタティウス島

セントキッツ島

ネビス島

アンティグア

モントセラト島

グアドループ

ドミニカ島

マルティニーク島

セントルシア島

セントビンセント

バルバドス

グレナダ

トリニダード

アルバ島

ボネール島

クラサオ島

大西洋

カリブ海

太平洋

[416,417ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

グリーンランド

スウェーデン

アイスランド

ノルウェー

フェロー諸島

フィンランド

ロシア

エストニア

ラトビア

リトアニア

ベラルーシ

ウクライナ

モルドバ

グルジア

アルメニア

アゼルバイジャン

トルクメニスタン

ウズベキスタン

カザフスタン

タジキスタン

キルギスタン

ポーランド

ドイツ

オランダ

デンマーク

イギリス

アイルランド

ベルギー

ルクセンブルク

リヒテンシュタイン

スイス

チェコスロバキア

オーストリア

ハンガリー

ルーマニア

ユーゴスラビア

スロベニア

クロアチア

ボスニア・ヘルツェゴビナ

ブルガリア

アルバニア

イタリア

ジブラルタル

スペイン

ポルトガル

マデイラ諸島

モロッコ

西サハラ

セネガル

アルジェリア

リビア

エジプト

レバノン

イスラエル

キプロス

シリア

トルコ

イラク

イラン

バーレーン

クウェート

ヨルダン

サウジアラビア

カタール

アラブ首長国連邦

オマーン

イエメン

ジブチ

ソマリア

エチオピア

スーダン

チャド

ニジェール

マリ

モーリタニア

ガンビア

ギニア-ビサウ

シエラレオネ

リベリア

コートジボワール

ガーナ

トーゴ

ベニン

赤道ギニア

セントヘレナ島

ギニア

ブルキナ・ファソ

ナイジェリア

中央アフリカ共和国

カメルーン

サントメ

コンゴ

ガボン

ザイール

アンゴラ

ザンビア

ナミビア

ボツワナ

南アフリカ

レソト

スワジランド

モザンビーク

マダガスカル

レユニオン

モーリシャス

ロドリゲス島

ジンバブエ

マヨット島

コモロ

セーシェル

マラウイ

タンザニア

ブルンジ

ルワンダ

ウガンダ

フランス

パキスタン

アフガニスタン

ネパール

ブータン

ミャンマー

バングラデシュ

インド

スリランカ

ギリシャ

マルタ

チュニジア

ケニア

大西洋

インド洋

アラスカ

モンゴル

朝鮮民主主義人民共和国

日本

大韓民国

中国

マカオ

台湾省

香港

ラオス

タイ

ベトナム

カンボジア

フィリピン

ブルネイ

マレーシア

シンガポール

インドネシア

サイパン島

ロタ

グアム島

ヤップ島

ベラウ

チュウック

ポーンペイ

コスラエ島

マーシャル諸島

ナウル

パプアニューギニア

オーストラリア

ニュージーランド

ノーフォーク島

ニューカレドニア

ウォリス・フトゥーナ諸島

バヌアツ

ツバル

フィジー

キリバス

トケラウ

ハワイ

西サモア

アメリカ領サモア

ニウエ

トンガ

クック諸島

タヒチ島

ソロモン諸島

太平洋

[421ページの地図/図版]

インドのA・J・ジョセフと娘のグレイシー。グレイシーは後にギレアデで訓練を受けた宣教者として奉仕した

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

インド

[411ページの図版]

ヘルマン・ヘルケンデルは花嫁と共に,ロシアにいるドイツ語を話す人々に伝道するため,何か月もかかる新婚旅行を行なった

[412ページの図版]

イングランドとスコットランドの聖書文書頒布者たちは,証言を受ける機会をあらゆる人に差し伸べようと努めた。彼らの子供たちもパンフレットの配布を手伝った

[414ページの図版]

E・J・カワードはカリブ海地域で熱心に聖書の真理を広めた

[418ページの図版]

フランク・グローブ(左)とエド・ネルソン(それぞれ妻と共に写っている)は,ニュージーランド全土で全時間を費やして王国の音信を広めるために,それぞれ50年以上をささげた

[420ページの図版]

C・T・ラッセルと6人の仲間は1911年から1912年にかけて,良いたよりの伝道を促進するために世界中を旅行した