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その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となる

その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となる

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その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となる

1975年,エホバの証人の世界本部が証人たちの活動を監督してゆく方法に関して重要な決定が行なわれました。当時の証人たちには,現在の世の体制が終わる前に広範な証言を行なうためのどんな畑がさらに開かれるか,あるいは,長年公に伝道を行なってきた国々でなおどれほどの伝道が行なわれるのか,といったことは分かりませんでした。しかし,彼らはあらゆる機会を最善の仕方で活用したいと願っていました。502ページから520ページには,胸の躍るような発展の一部が取り上げられています。

南米では大きな変化が生じてきました。エクアドルのエホバの証人がカトリックの暴徒に直面したのも,メキシコのカトリックの司祭たちが多くの村で事実上の王として君臨していたのも,アルゼンチンやブラジルのエホバの証人が政府の禁令下に置かれていたのも,それほど昔のことではありません。しかし状況はかなり変化しました。証人たちを恐れたり憎んだりするよう教えられていた人々の多くが,今では自分自身エホバの証人になっています。さらに,証人たちが聖書の平和の音信を伝えるために訪問すると,快く耳を傾ける人たちもいます。エホバの証人は広く知られ,大いに尊敬されています。

証人たちが開く大会の規模と,クリスチャンにふさわしい出席者たちの振る舞いは人々の注意を引きつけてきました。1985年にブラジルのサンパウロとリオデジャネイロで同時に開かれた二つの大会もそうした大会であり,最高24万9,351人が出席しました。その後,ブラジルの他の地方の関心を持つ人々の便宜を図ってさらに23の大会が開かれ,合計出席者数は38万9,387人に達しました。それら一連の大会で4,825人がエホバへの献身の象徴として水の浸礼を受けた時,ブラジルのエホバの証人が神の言葉を教える者として行なってきた業の成果がはっきり表われました。それからわずか5年後の1990年には,54万8,517人の出席者の便宜を図ってブラジル全土で110の大会を開く必要があり,今回は1万3,448人が水の浸礼を受けるために自分を差し出しました。ブラジル中で何十万もの個人や家族が,神の言葉に基づくエホバの証人の教育を喜んで受け入れていました。

ではアルゼンチンはどうでしょうか。アルゼンチンのエホバの証人は政府による制限を何十年も経験した後,1985年,再び自由に集まり合えるようになりました。9万7,167人の人々にとって,最初の一連の大会に出席できたことは本当に大きな喜びでした。地元の新聞「アオラ」は,「エホバの証人の増大する王国」という見出しのもとで,ブエノスアイレスの大勢の大会出席者が秩序正しく,人種的偏見や社会的偏見を全く持たず,穏やかであり,愛を示すことに対して驚きを表わしました。そして結びに,「彼らの考えや教理に同意するかどうかは別にして,この群衆全体は我々の最大の敬意を受けるに値する」と述べました。しかし,多くのアルゼンチン人は敬意を払うだけにとどまりませんでした。エホバの証人と共に聖書を研究するようになり,証人たちが聖書の原則をどのように生活に適用しているかを観察するため王国会館での集会に出席しました。そして,観察した人々は決断を下しました。その後の7年間にそのうちの何万人もの人々が自らの命をエホバに献げ,アルゼンチンの証人たちの数は71%も増加したのです。

メキシコでは,神の王国の良いたよりに対するさらに際立った反応が見られました。かつては,司祭たちに扇動された暴徒がしばしばメキシコのエホバの証人を襲いましたが,証人たちが仕返しをしたり復讐の機会を狙ったりしないという事実は,正直な心の持ち主に深い感銘を与えました。(ローマ 12:17-19)さらにそうした人々は,証人たちのすべての信条が人間の伝統にではなく,霊感を受けた神の言葉 聖書に基づいている,ということに気づきました。(マタイ 15:7-9。テモテ第二 3:16,17)また,証人たちには逆境に面した時に真の支えとなる信仰がある,ということも理解できました。無料の家庭聖書研究を勧めるエホバの証人を喜んで迎え入れる家族がどんどん増えました。事実,1992年には,全世界で証人たちが司会した聖書研究の12%はメキシコで行なわれており,しかもその中には大家族との研究がかなり含まれていました。その結果,メキシコのエホバの証人 ― 単に集会に出席している人ではなく,神の王国を活発に公にふれ告げる人 ― の数は1975年の8万481人から急増し,1992年には35万4,023人になりました。

ヨーロッパでも,際立った出来事が王国の音信の普及に貢献しました。

ポーランドでの驚くべき進展

ポーランドでは1939年から1945年までの間(ナチとソ連の支配下にあった期間),さらに1950年7月以降再び(ソ連の統制下で),エホバの証人の業に禁令が課されていたにもかかわらず,エホバの証人はその国での伝道をやめませんでした。1939年には証人たちの数はわずか1,039人でしたが,1950年には1万8,116人の王国宣明者がおり,彼らは熱心な(しかし用心深い)福音宣明者として奉仕を続けました。(マタイ 10:16)もっとも大会は,田舎や納屋の中や森など,人目につかない場所で開かれていました。ところが1982年以降,ポーランド政府は,証人たちが借用した施設で,あまり大規模でない一日大会を開くことを許可するようになりました。

その後1985年に,エホバの証人は8月に開かれた四つの大規模な大会のためにポーランド最大級の競技場を使用することができました。オーストリアのある代表者は飛行機で到着した際,大会のためにポーランドへ来たエホバの証人を歓迎するアナウンスがスピーカーから流れるのを聞いて驚きました。その人を迎えに来ていたポーランドのある年配の証人は,そのアナウンスを聞いて政府の態度が変化したことを知り,喜びの涙を抑えることができませんでした。それらの大会には,16か国から来たグループを含む9万4,134人が出席しました。一般の人々は生じている事柄を知っていたでしょうか。確かに知っていました。それらの大会の開催中も大会後も,主要な新聞に記事が載り,テレビには大勢の大会出席者が映り,国営ラジオ放送は大会プログラムの一部を流したのです。多くの人たちは見聞きした事柄に好感を持ちました。

1989年5月12日,ポーランド政府がエホバの証人に宗教団体としての法的認可を与えた時,ポーランドでのさらに大規模な大会の計画が進められていました。それから3か月もたたないうちに,ホジュフ,ポズナニ,ワルシャワで三つの国際大会が開催され,合計出席者数は16万6,518人になりました。驚くべきことに,当時のソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とチェコスロバキアの大勢の証人たちも必要な旅行許可を得ることができ,大会に出席していました。何十年ものあいだ国家が強力に無神論を唱道してきたこれらの国々で,エホバの証人による弟子を作る業は成果を挙げていたでしょうか。その答えは,多くの若者を含む6,093人がそれらの大会で水の浸礼を受けるために自分を差し出した時に明らかになりました。

一般の人々は,証人たちが大変良い意味で他の人々と異なっていることを認めざるを得ませんでした。新聞には次のように書かれていました。「エホバ神を崇拝する人々は ― 彼ら自身が言うとおり ― その集まりを非常に高く評価している。それはまさしく彼らの間の一致を表わし示すものである。……大会出席者たちは,秩序正しさ,穏やかな態度,清潔さなどの点で見倣うべき手本である」。(ジチエ・ワルシャウイ紙)ポーランド人の中には,大会出席者を観察するだけでなく,それ以上のことをしようと決意した人たちもいました。彼らはエホバの証人と一緒に聖書を研究したいと思ったのです。そのようにして神の言葉が教えられた結果,ポーランドのエホバの証人の数は1985年の7万2,887人から1992年の10万7,876人へと増加しました。また,その1992年に証人たちは,聖書に記されている素晴らしい希望を他の人々に伝えるため,1,680万時間以上を費やしました。

しかし,胸の躍るような変化が生じたのはポーランドだけではありませんでした。

東ヨーロッパのさらに多くの国が扉を開く

1989年,ハンガリーはエホバの証人に法的な立場を与えました。そして1990年,ベルリンの壁の崩壊が始まってからわずか4か月後に,当時のドイツ民主共和国(東ドイツ)は証人たちに対する40年にわたる禁令を解除しました。翌月,ルーマニアのエホバの証人のクリスチャン協会がルーマニア新政府の公式認可を得ました。1991年,モスクワの法務省は「ソビエト社会主義共和国連邦のエホバの証人の宗教団体」の定款が公式に登録されたことを発表しました。同じ年,ブルガリアのエホバの証人の業も法的認可を受け,1992年にはアルバニアのエホバの証人に法的な立場が与えられました。

エホバの証人は与えられた自由を用いて何を行なったでしょうか。あるジャーナリストは,東ドイツのエホバの証人の業の調整者であるヘルムート・マーティンに,「これからは政界に進出なさるのですか」と尋ねました。キリスト教世界の僧職者の多くがそうしていたからです。マーティン兄弟は,「いいえ。イエスは弟子たちに聖書的な割り当てをお与えになり,わたしたちはそれを自分たちの主要な仕事とみなしています」と答えました。―マタイ 24:14; 28:19,20

エホバの証人が世界のこの地域でその責任を果たし始めたのは,決してごく最近ではありません。証人たちは長年にわたって非常に困難な状況のもとで活動を続けねばならなかったにもかかわらず,こうした国々の大半で会衆が(小さなグループで集まって)機能し,証言が行なわれていました。しかし,今や新たな機会が開かれつつありました。集会を開いて一般の人々を自由に招待することができ,投獄を心配せずに家から家に公然と伝道することができました。これらの国々には合計3億9,000万人以上の人々が住んでおり,それらの国々で多くの業が行なわれなければなりませんでした。わたしたちが現在の世の事物の体制の終わりの日に生活していることを深く認識して,エホバの証人はすばやく行動しました。

法的認可が得られる前でさえ,統治体の成員はかなりの数の国を訪問して,クリスチャンの兄弟たちを援助するために何ができるか調べていました。そして禁令が解除された後には,業の組織化を援助するためにそのような国をさらに多く訪れ,数年のうちに,ポーランド,ハンガリー,ルーマニア,チェコスロバキア,ロシア,ウクライナ,エストニア,ベラルーシの証人たちと直接会って話し合いました。

こうした国々に住む証人たちを強め,一般の人々に神の王国の音信を強く印象づけるため,大会が取り決められました。当時の東ドイツで禁令が解除されてから5か月もたたないうちに,そうした大会がベルリンのオリンピア競技場で開かれました。他の64の国の証人たちが,出席するようにという招待にすぐ応じました。彼らは,厳しい迫害にもめげず何十年もの間エホバへの忠節を示したクリスチャンの兄弟姉妹と共にその特別な行事を楽しむことを,特権とみなしたのです。

1990年と1991年には,東ヨーロッパ全域でほかにも大会が開かれました。1990年にハンガリーで四つの地方的な大会が開催された後,1991年にブダペストのネープ競技場で開かれる国際的な集まりが取り決められ,その集まりには35の国から4万601人が出席しました。1990年,エホバの証人は40数年ぶりにルーマニアで公の大会を開くことができました。その年,ルーマニア全土で一連の大会が,そしてその後二つの大規模な大会が開かれました。1991年にはさらに八つの大会が開催され,3万4,808人が出席しました。1990年,当時のユーゴスラビアでは,その国を構成している共和国の各々で大会が開かれました。翌年,ユーゴスラビアには内戦の危機が迫っていましたが,1万4,684人のエホバの証人はクロアチアの首都ザグレブで国際大会を楽しみました。警官たちは,クロアチア人,モンテネグロ人,セルビア人,スロベニア人や他の人たちが平和裏に集まってプログラムに耳を傾けている様子を見て,大変驚きました。

当時のチェコスロバキアでも直ちに大会が取り決められました。1990年にプラハで開かれた全国大会には2万3,876人が出席しました。競技場の管理者側は目にした事柄に大いに満足し,証人たちが次回の大会にこの国最大の施設を使用できるよう取り計らいました。1991年のその歴史的な大会の際には,7万4,587人の熱心な大会出席者たちがプラハのストラホフ競技場を埋め尽くしました。チェコ人とスロバキア人の出席者たちは,公の宣教や個人と会衆での研究に用いるための母国語版の「新世界訳聖書」全巻の発行が発表された時,大いに喜び,熱烈な拍手を送りました。

1991年にエホバの証人は,当時ソ連の領土内にあった場所でも,歴史上初めて公に大会を開くことができました。エストニアのタリンでの大会の後,シベリアで一つ,ウクライナの主要都市で四つ,カザフスタンで一つの大会が開かれ,出席者合計数は7万4,252人でした。そして,それらの地域で行なわれていたエホバの証人による弟子を作る業の最近の成果として,7,820人が水の浸礼を受けるために自分を差し出しました。それは大会で興奮したために下した感情的な決定ではありませんでした。バプテスマ希望者たちは何か月も前から,場合によっては何年も前から注意深い準備を行なっていたのです。

こうした人々すべてはどこから来たのでしょうか。その地域でごく最近エホバの証人の業が始まったのでないことは明らかでした。早くも1887年には,ロシアに住む関心を持つ人々にものみの塔の出版物が郵送されていました。1891年,ものみの塔協会の初代会長は自らキシニョフ(現在はモルドバに含まれる)を訪れました。1920年代には,幾人かの聖書研究者が伝道するためロシアに入国しましたが,当局からの妨害が強く,聖書の音信に関心を示す人々の小さなグループが少しあるだけでした。しかし,第二次世界大戦中と大戦後,状況が変化しました。国境線が引きなおされたり,かなりの数の住民が移住させられたりしました。そのため,当時のポーランド東部にいたウクライナ語を話す1,000人以上の証人たちはソ連国内に住むことになりました。また,ルーマニアやチェコスロバキアに住んでいた他の証人たちは,自分たちの住んでいる場所がソ連の一部になったことを知りました。さらに,ドイツの強制収容所にいる間にエホバの証人となったロシア人たちが故国に戻り,神の王国の良いたよりを携えて行きました。1946年までに,ソ連には4,797人の活発な証人たちがいました。その多くは政府によって何年にもわたり次々と移転させられ,収容所へ送られた人たちもいました。彼らはどこへ行っても証言を行ない,数を増してゆきました。政府による法的認可が得られる前でさえ,証人たちのグループは,西部のリボフから,海をはさんで日本に接するソ連東部国境のウラジオストクに至る広い地域で,活発に奉仕していました。

多くの人が喜んで耳を傾けるようになる

1991年,当時のソ連で証人たちが大会を開いた時,一般の人々は証人たちを詳しく観察する機会を得ました。人々はどう反応したでしょうか。ウクライナのリボフでは,ある警官が大会出席者の一人にこう言いました。「皆さんは人に良いことを教えるのが大変上手ですね。それに神のことを話し,暴力を振るうことはありません。我々はどうして皆さんを迫害していたのだろうと話し合っていたんですよ。結局,我々は皆さんの話に耳を傾けたことがなかったので,皆さんのことを何も知らなかったのです」。しかし,今や多くの人が耳を傾けており,エホバの証人はそうした人を援助したいと考えていました。

証人たちがこれらの国で最も効果的に業を行なうには聖書文書が必要であり,そうした文書を急いで準備するために多大の努力が払われました。ドイツのゼルターズ/タウヌスでは,エホバの証人の印刷施設がほぼ2倍に拡張されました。当時の東ドイツで禁令が解除されてから約2週間後には,まだ拡張工事は完了していませんでしたが,ゼルターズの印刷工場からその地域に向けて25㌧の文書が発送されました。東ヨーロッパ諸国で禁令が解除されてから1992年までに,ドイツからそれら様々な国へ14の主要な言語による合計1万㌧近くの文書が,イタリアからは698㌧,フィンランドからはさらに大量の文書が発送されました。

ある国々の証人たちは長年の間ほとんど孤立していたため,会衆を監督することや組織の管理に関しても援助を必要としていました。こうした緊急な必要を満たすため,ドイツや米国やカナダなどの経験を積んだ長老たち ― 可能な場合にはその国の言語を話せる長老たち ― と連絡が取られました。そうした長老たちは,必要を満たす手助けをするために東ヨーロッパのこれらの国々の一つへ快く移転するでしょうか。本当に喜ばしい反応が見られました。都合のつく場合には,ギレアデ学校や宣教訓練学校で訓練を受けた長老たちも遣わされました。

その後1992年に,ロシアで二番目に大きな都市サンクトペテルブルクで記憶に残る国際大会が開かれましたが,出席者のうち約1万7,000人はロシア以外の27の国から来た人々でした。大会は広く宣伝され,エホバの証人のことを一度も聞いたことのない人々もやって来て,出席者最高数は4万6,214人に達しました。ロシア全域の人々が出席し,中には日本に近い極東のサハリン島から来た人たちもいました。かつてソ連の一部だったウクライナやモルドバなどの国々からは,大勢のグループがやって来ました。彼らは良い知らせを携えて来ており,報告によると,キエフやモスクワやサンクトペテルブルクなどの都市にある個々の会衆では,集会の平均出席者数が証人たちの数の2倍以上になっていました。エホバの証人との聖書研究を希望する大勢の人々は,順番待ちのリストに名前を載せてもらわなければなりませんでした。ラトビアからは約600人,エストニアからはそれを上回る人々が出席しました。サンクトペテルブルクのある会衆では,100人以上の人ががこの大会でバプテスマを受ける準備を整えていました。関心を示した人々の中には,若い人たちや高い教育を受けた人たちがかなりいました。確かに,長い間世界から無神論のとりでとみなされてきたこの広大な区域で,霊的な収穫という重要な業が進行しているのです。

収穫を待って白く色づいている畑

他の国々でも,信教の自由に関する態度が変化するにつれ,エホバの証人に対する制限が解除されたり,長い間却下されていた法的認可が証人たちに与えられたりしました。そうした場所の多くでは,豊かな霊的収穫物が取り入れを待つばかりになっていました。それは,イエスが,「目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています」と述べて弟子たちに説明された状況に似ていました。(ヨハネ 4:35)そうした状況にあったアフリカの幾つかの場所を取り上げてみましょう。

1969年,ザンビアのエホバの証人が行なう家から家の宣教に禁令が課されました。そのため,ザンビアの証人たちは,関心を持つ人との家庭聖書研究の司会に一層多くの時間を振り向けました。他の人たちも,教えてもらうために証人たちを捜し出すようになりました。政府による制限は徐々に緩和され,集会の出席者数は増加しました。1992年,ザンビアでは主の晩さんに36万5,828人が出席しましたが,これは人口23人に対して一人の割合になります。

さらに,ザンビアの北に位置するザイールにも,クリスチャンの生活と人類に対する神の目的についてエホバの証人が教えている事柄を学びたいと考える人が沢山いました。1990年,証人たちが王国会館を再開できるような状況になった時,ある地域では500人もの大勢の人たちが集会に集まりました。2年もしないうちに,ザイールの6万7,917人の証人たちは,そうした人たちとの家庭聖書研究を14万1,859件司会するようになりました。

扉を開きつつある国々は驚くべき数に上ります。1990年,ベニンから14年前に追放されたものみの塔の宣教者たちは,今度は戻る機会を公式に与えられ,他の宣教者たちが入国するための扉も開かれました。同じ年,カボベルデ共和国の法務大臣は地元の“エホバの証人の協会”の定款を承認する布告に署名し,証人たちに法的認可を与えました。そして1991年には,モザンビーク(以前の支配者たちは証人たちをひどく迫害した),ガーナ(証人たちの活動が公式に凍結されていた),エチオピア(34年間,公に伝道することや大会を開くことができなかった)でエホバの証人に対する禁令が公式に解除されました。その年の末までに,ニジェールとコンゴでも法的認可が与えられました。1992年の初めには,チャド,ケニア,ルワンダ,トーゴ,アンゴラといった国々で禁令が解除されたり,証人たちに法的認可が与えられたりしました。

これらの場所で,畑は収穫を待つばかりになっていました。例えばアンゴラでは,すぐに証人たちの数が31%増加し,しかもその国の1万9,000人近い王国宣明者はほぼ5万3,000件の家庭聖書研究を司会していました。アンゴラとモザンビーク(ポルトガル語を話す人が大勢いる)におけるこの膨大な聖書教育計画に必要な管理面での援助を与えるため,ポルトガルとブラジルの資格ある長老たちがアフリカに移って宣教を行なうよう招かれました。ポルトガル語を話す宣教者たちは,ギニア-ビサウという新たに開かれた区域に任命されました。また,フランスや他の国々の有能な証人たちは,フランス語を話す人が大勢いるベニンやチャドやマリやトーゴで,宣べ伝えて弟子を作る緊急な業を成し遂げるのを援助するよう招かれました。

エホバの賛美者という作物を特に豊かに生み出している地域の中には,かつてはローマ・カトリックのとりでだった国々も含まれています。中南米だけでなく,フランス(1992年の報告によると,福音宣明者である証人たちが11万9,674人いる),スペイン(9万2,282人),フィリピン(11万4,335人),アイルランド(証人たちの増加率は毎年8%ないし10%),ポルトガルの場合も同様でした。

1978年,ポルトガルのリスボンで開かれた証人たちの大会に3万7,567人が出席した際,ニュース雑誌「オプサンウ」はこう述べました。「巡礼の時期にファティマに来たことのある人にとって,これは実際非常に異なっている。……ここ[エホバの証人の大会]では神秘主義が姿を消し,それに代わって信者たちが自分たちの抱える問題や信仰や霊的な物の見方を一致して話し合う集会が開かれる。彼らの互いに対する振る舞いには,気遣いを示し合う人間関係のはっきりとしたしるしが見られる」。その後の10年間にポルトガルの証人たちの数は70%近く増加しました。

ではイタリアはどうでしょうか。カトリックの司祭を志願する人たちがひどく不足しているため,閉鎖に追い込まれた神学校もあります。もはや教区司祭のいない教会は非常に多く,かつて教会だった建物が商店や事務所になっている場合も少なくありません。こうしたすべてのことにもかかわらず,教会はエホバの証人を抑えようとして必死に闘ってきました。以前には,エホバの証人の宣教者たちを追放するため当局者に圧力をかけたり,証人たちの集会を中止させるよう警察に要求したりしました。1980年代に幾つかの地域では,教区司祭がすべての人(その中には,たまたまエホバの証人も含まれていた)の家のドアに,「ノックを禁ず。我々はカトリック」というステッカーを張らせました。新聞は,「エホバの証人に対する教会の警戒の叫び」や「エホバの証人に対する“聖戦”」といった見出しを掲げました。

1世紀のユダヤ人の祭司たちが使徒たちを沈黙させようとした時,律法教師のガマリエルは賢明にも,「この企て,またこの業が人間から出たものであれば,それは覆され(ま)す。しかし,それが神からのものであるとしたら,あなた方は彼らを覆すことはできません」と忠告しました。(使徒 5:38,39)20世紀のローマ・カトリックの司祭たちがエホバの証人を沈黙させようとした時,どんな結果になりましたか。1946年の時点で120人だったイタリアの証人たちの業は覆されませんでした。かえって1992年には,19万4,013人の活発な証人たちがイタリア中の2,462の会衆に交わっていました。彼らは事実上イタリアを神の言葉の教えで満たしてしまいました。1946年以降,証人たちは同胞のイタリア人に神の王国について語るため5億5,000万時間以上を費やし,それと同時に,無数の聖書そのもののほかに,聖書を説明する書籍や小冊子や雑誌を4億冊以上配布してきました。証人たちは,ハルマゲドンが来る前にイタリアの人々がエホバの側に立つ十分の機会を確実に得るようにしたいと考えています。そうする際に,証人たちはコリント第二 10章4節と5節にある使徒パウロの言葉を念頭に置きます。そこにはこう書かれています。「わたしたちの戦いの武器は肉的なものではなく,強固に守り固めたものを覆すため神によって強力にされたものなのです。わたしたちは,いろいろな推論や,神の知識に逆らって立てられた一切の高大なものを覆しているのです」。

エホバの証人が注意を向けているのは,かつてのカトリックのとりでだけではありません。彼らは,『あらゆる国民の中で,良いたよりが宣べ伝えられねばなりません』とイエスが言われたことを知っています。(マルコ 13:10)そして,それこそ証人たちが行なっている業なのです。1992年には,インドで1万2,168人の証人たちが忙しく神の王国について人々に語っていたほか,大韓民国では7万1,428人が伝道していました。日本には17万1,438人の証人たちがおり,その数は毎月増加していました。さらに証人たちは,まだほとんどあるいは全く伝道が行なわれていない場所へ引き続き出かけて行きました。

例えば,1970年代後半に証人たちは,太平洋のマルキーズ諸島やコスラエ島に住む人々に初めて王国の音信を伝えることができました。また,中国の南部国境に接するブータンや,アフリカの東海岸沖のコモロ諸島にも音信を伝えました。1980年代には,南西太平洋のウォリス・フトゥーナ諸島,ナウルの島々,ロタ島から,初めてエホバの証人の宣べ伝える業が報告されました。こうした場所の幾つかは比較的狭い所ですが,人々はそこで暮らしており,命は貴重です。エホバの証人は,終わりが来る前に王国の音信が「人の住む全地で」宣べ伝えられるというイエスの預言を深く認識しています。―マタイ 24:14

可能な限り,いつでもどこでも人々と会う

家から家の伝道は今でもエホバの証人が人々に音信を伝えるために用いる主要な方法となっていますが,証人たちは,この組織的な方法を用いてもすべての人に接することはできない,という点に気づいています。証人たちは緊急感を抱いて,どこであれ人々を見いだせる所で引き続き人々を探し出しています。―ヨハネ 4:5-42; 使徒 16:13,14と比較してください。

ドイツやオランダの港に船が入ると,短時間の停泊の場合でも,エホバの証人は船を訪問してまず船長に,それから乗組員に証言するよう努力します。証人たちは船員のために多くの言語の聖書文書を携えています。中央アフリカのチャドの原住民の市場では,神の王国の希望について語っている一人のエホバの証人の周りに,15ないし20人の人々が群がっている様子をよく見かけます。ニュージーランドのオークランドで開かれる蚤の市では,証人たちは交替で奉仕し,露店商や土曜午前の大勢の買い物客に話しかけます。エクアドルのグアヤキルにあるバスターミナルでは,そこを通る人々 ― その多くは国内の遠方の人々 ― にエホバの証人が近づき,時宜にかなったブロシュアーや「ラ・アタラヤ(ものみの塔)」誌や「デスペルタド!(目ざめよ!)」誌を提供します。ニューヨーク市の24時間営業の食料品市場で働く夜勤者の場合は,彼らも良いたよりを聞く機会を持てるよう,仕事中に証人たちが訪問します。

飛行機や列車,バスや地下鉄を利用するとき,エホバの証人の多くは乗り合わせた人に聖書の貴重な真理を伝えます。世俗の職場や学校での昼休みだけでなく,商用で人が戸口を訪れた時にも機会をとらえて証言します。証人たちは,自分たちが通常の訪問をしてもこうした人々の多くは家にいないかもしれないことを知っているのです。

証人たちは他の人に証言すると同時に,近親者や他の親族のことも忘れません。しかし,アルゼンチンに住むマリア・カマノという証人が,聖書から学んだ事柄にどれほど深く感動したかを家族に話そうとした時,家族は彼女をからかったり,冷淡だったりしました。彼女はくじけず,他の親族に証言するため1,900㌔も旅行しました。幾人かの親族が好意的な反応を示し,他の親族も少しずつ耳を傾けるようになりました。その結果,今では彼女の親族のうち80人を超える大人と40人余りの子供が聖書の真理を受け入れ,その真理を他の人たちに伝えています。

マイケル・リーガンは親族を援助するため,故郷であるアイルランドのロスコモン州ボイルに戻り,親族全員に証言しました。一人のめいはマイケルの子供たちの陽気さや健全な生き方に感銘を受け,間もなく夫と共に聖書研究に同意しました。二人がバプテスマを受けると,彼女の父親は家族の住む家への立ち入りを彼女に禁じました。しかし,父親は徐々に態度を和らげ,文書を幾らか受け取りました。彼は証人たちの“誤り”を暴くつもりでしたが,すぐに書かれている事柄が真理であることに気づき,やがてバプテスマを受けました。今ではその家族の20人以上の成員が会衆と交わっており,その大半が既にバプテスマを受けています。

刑務所にいる人たちについてはどうでしょうか。彼らも神の王国の音信から益を得ることができますか。エホバの証人はそうした人たちを無視しません。北米のある刑務所では,受刑者との個人的な聖書研究の取り決めと,刑務所内でエホバの証人が司会する定期的な集会に出席することによって良い成果が得られ,刑務所当局は刑務所で大会を開くことを許可しました。そうした大会には,受刑者だけでなく,何千人もの外部の証人たちも出席しました。他の国でも刑務所内の男女に証言するため熱心な努力が払われています。

エホバの証人は聖書研究によってすべての受刑者が更生するとは考えていません。しかし,経験に基づき,援助可能な受刑者もいることを知っており,神の王国の希望を受け入れる機会をそうした人たちに与えたいと願っています。

心を動かすために繰り返し努力する

エホバの証人は何度も何度も人々を訪問します。イエスの初期の弟子たちのように,割り当てられた区域の人々のところへ『いつも行き』,神の王国に対する関心を起こさせることに努めます。(マタイ 10:6,7)区域内のすべての家を年に一度しか訪問できない所もあれば,数か月ごとに訪問している所もあります。ポルトガルの大リスボン地域では人口160人につき一人の証人がおり,人々はほぼ毎週証人たちの訪問を受けています。ベネズエラには,区域の網羅が週に一度を超えている都市もあります。

エホバの証人は繰り返し訪問する際に,聖書の音信を人々に押しつけようとしているのではありません。理性的な決定をする機会を人々に与えようと努力しているにすぎません。今日,ある人たちは関心がないと言うかもしれませんが,別の時には生活の大きな変化や世界情勢の急激な変化によって,音信を受け入れやすくなるかもしれません。多くの人は偏見のため,あるいはただ忙しすぎて耳を傾けることができないために,証人たちの教えている事柄を実際には全く聞いたことがありません。しかし,友好的な訪問を繰り返すことにより,そうした人たちは注意を払うようになるかもしれません。人々が近所や職場にいる証人たちの正直さや道徳面での高潔さに感銘を受けることも少なくありません。その結果,やがてある人たちは関心を抱いて,証人たちの音信が一体どんなものなのかを知ろうとします。一例として,ベネズエラに住むある女性は,文書を快く受け取って,無料の家庭聖書研究の申し出に応じた後,「今までだれもこうしたことを説明してくれませんでした」と言いました。

証人たちは話をする相手の心を親切に動かすよう努力します。1992年の時点で人口57人につき一人の証人がいるグアドループでは,家の人が「関心ありません」と言うことは珍しくありません。そうした言葉に対して,エリック・ドドテは,「分かりました。お気持ちはよく分かります」と答え,「でも,どうでしょう。現在よりも良い状態のもとで暮らしたいと思いませんか」と話を続けます。そして,家の人の言葉に耳を傾けてから,神がご自分の新しい世においてそうした状態をどのようにもたらされるかを,聖書を用いて説明します。

一層徹底的に区域を網羅する

近年,ある国々では,在宅中の人に会うことはいよいよ困難になっています。夫婦が二人とも世俗の仕事を持ち,週末には家を留守にして娯楽を追求することは少なくありません。こうした状況に対処するため,多くの国のエホバの証人は晩の戸別証言の時間を増やしています。英国の証人たちの中には,晩の6時から8時までの間に留守宅を徹底的に訪問する人たちだけでなく,人々が仕事に出かける前に会うため,そうした訪問を午前8時前に行なっている人たちもいます。

人々が家にいても,犯罪が蔓延していて厳重な防犯対策が講じられているため,前もって招待を受けずに人々に会うことが非常に困難な場合もあります。しかしブラジルでは,なかなか会えない人たちが朝早くコパカバーナ・ビーチの遊歩道を散歩していると,熱心な証人が近づくかもしれません。その証人はそうした早い時間帯にそこまで出かけてきて,人類の抱える問題を神の王国が解決する方法について他の人々と話し合おうとしているのです。フランスのパリでは,午後遅く自分のアパートに帰ってきた人々は,建物の入口近くに親しみ深い証人の夫婦がいるのに気づくかもしれません。その夫婦は,快く数分を割いて,真の安全をもたらすために神がお用いになる手段に関する話を聞く,個々の住人に話しかけようと待っているのです。ホノルルやニューヨークや他の多くの場所では,厳重な防犯対策が講じられている建物に住む人々に電話で音信を伝える努力も払われています。

証人たちは,それぞれの家でだれかに会えても,それで自分たちの務めを果たしたとは考えません。証人たちの願いは,それぞれの家でできるだけ多くの人に会うことです。日や時間を変えて訪問することによって,そうすることができる場合もあります。プエルトリコで一人の証人は,家の人が自分は関心がないと言った時,その家の他の人と話ができないか尋ねました。その結果,その家に住む14年間病気でほとんど寝たきりの男性と話をすることができました。その男性は聖書に書かれている希望によって心を温められ,生きることに再び関心を持ち,やがてベッドを離れて王国会館での集会に出席したり,新たに見いだした希望を他の人に伝えたりするようになりました。

終わりが近づいた今,証言活動を強化する

近年の証言活動の強化に大いに寄与してきた別の要素があります。それは開拓者として奉仕する証人たちの数の急激な増加です。神への奉仕にできるだけ多くの時間をささげたいという強い願いと,仲間の人間に対する愛ある関心により,それらの人たちは野外宣教に毎月60時間,90時間,140時間,ないしはそれ以上の時間を費やすため,事情を調整しました。ギリシャのコリントで伝道した時の使徒パウロと同様,開拓奉仕を始める人々は「ひたすらみ言葉のことに携わる」ようになり,メシアの王国についてできるだけ多くの人に証言しようと努めます。―使徒 18:5

1975年,全世界に13万225人の開拓者がいましたが,1992年には毎月平均60万5,610人の開拓者(正規,補助,特別開拓者を含む)がいました。ですから,全世界の証人たちの数が105%増えた期間に,全時間宣教にあずかる余地を設けた人は365%増加したのです。その結果,証言するために実際に費やされた時間の合計は1年につき約3億8,200万時間から10億時間以上へと急増しました。

『小さな者が千となった』

イエス・キリストは追随者たちに,地の最も遠いところにまでご自分の証人となるようお命じになりました。(使徒 1:8)エホバは預言者イザヤを通して,「小さな者が千となり,小なる者が強大な国民となる。わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」と予告しておられました。(イザヤ 60:22)記録は,エホバの証人がイエスの予告された業を行なっていることと,彼らが神ご自身の約束されたような増加を経験してきたことを明らかに示しています。

第二次世界大戦が終わった時,証人たちはおもに北米とヨーロッパにおり,アフリカにもいました。さらに,証人たちの小さなグループが世界中に散在していました。証人たちは決して,王国の音信をあらゆる国に伝えたわけでも,伝道を行なっていた国々のあらゆる所に出かけて行ったわけでもありませんでした。しかし,事態は驚くべき速さで変化していました。

北米について考慮してみましょう。北米大陸は北方のカナダからパナマにまで広がり,その間に九つの国があります。1945年には,その広大な地域に8万1,410人の証人たちがいました。その中の四つの国が報告した証人たちの数はそれぞれ20人に満たず,一つの国では伝道活動が全く組織されていませんでした。その時以来,これらすべての国で徹底的かつ継続的な証言が行なわれてきました。1992年の時点で,この地域には144万165人のエホバの証人がいました。これらの国々の大半で,証人一人が証言しなければならない人の数は,今や平均わずか数百人になっています。住民の多くは数か月おきに証人たちの訪問を受けており,毎週訪問を受ける人も少なくありません。関心を持つ個人やグループとの家庭聖書研究が定期的に124万件以上司会されています。

ヨーロッパはどうでしょうか。この地域はスカンディナビアから南の地中海にまで広がっています。かつてソ連と呼ばれていた地域の大半を除いて,ヨーロッパでは既に第二次世界大戦前に広範な証言が行なわれていました。その時以来,新しい世代が誕生してきましたが,彼らも,神の王国が間もなく人間のすべての政府に取って代わることを聖書から教えられています。(ダニエル 2:44)戦争中の厳しい制限のもとで伝道活動を続けていたのは数千人の証人たちでしたが,1992年に報告が公表された47の国や地域の王国宣明者の数は117万6,259人に達し,その中には以前ソ連の一部だった,ヨーロッパとアジア両方の地域の王国宣明者たちも含まれていました。また,五つの国 ― 英国,フランス,ドイツ,イタリア,ポーランド ― にはそれぞれ10万人を優に超える熱心な証人たちがいました。では,これらの証人たちすべては何を行なっていたのでしょうか。1992年の報告によると,その年,彼らは公の伝道や家から家の訪問や家庭聖書研究の司会に2億3,000万時間以上をささげました。福音を宣明するに当たって,これら証人たちは小さなサンマリノ共和国も,アンドラやリヒテンシュタインなどの小さな公国も無視しませんでした。確かに,予告された証言が行なわれていました。

アフリカでも広範な証言が行なわれています。報告によると,1945年までにアフリカ大陸の28の国に良いたよりが伝えられていましたが,それらの国の大半では実際の証言はほとんど行なわれていませんでした。しかし,その時以来,アフリカで多くのことが成し遂げられてきました。1992年にはアフリカ大陸に54万5,044人の熱心な証人たちがいて,45の国で良いたよりを宣べ伝えていました。また,その年の主の晩さんの祝いには183万4,863人が出席しました。ですから,驚くべき増加が生じただけでなく,将来の拡大の可能性は非常に大きなものなのです。

南米の報告もそれに劣らず驚異的なものです。第二次世界大戦前に,一つの例外を除き13の国や地域のすべてに聖書の音信が伝わっていましたが,当時は南米大陸全体に29の会衆しかありませんでした。また,幾つかの国や地域ではまだ伝道活動が組織されていませんでした。その時点では,王国伝道の業の大半は将来の事柄でした。その時以来,南米の証人たちは精力的に働いてきました。命の水によってさわやかにされた人々は,快く他の人を招き,『来て,命の水を価なくして受けなさい』と言います。(啓示 22:17)1992年,南米の1万399の会衆と交わる68万3,782人のエホバの僕たちは喜んでこの業に携わりました。中には,まだ徹底的な証言が行なわれていない地域へ出かけて行った人たちもいます。また,既に証言が行なわれている場所で訪問を繰り返し,『エホバが善良であることを味わい知る』よう人々に勧めた人たちもいます。(詩編 34:8)彼らは,エホバの道を自分の生き方とするよう関心を持つ人々を援助するため,90万5,132件の家庭聖書研究を定期的に司会していました。

さらに,アジア,および世界中の多くの島々や群島について考慮してみましょう。そうした地域でどんなことが成し遂げられてきたでしょうか。終戦までに,これらの場所の多くには王国をふれ告げる業がほとんど及んでいませんでした。しかしイエス・キリストは,王国のこの良いたよりが「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で」宣べ伝えられることを予告されました。(マタイ 24:14)良いたよりの伝道は,その時までにこれらの国や島や群島のうち76の場所で行なわれていましたが,この予告と調和して,第二次世界大戦後の何十年かの間に他の40の国や地域にも広がり,以前から行なわれていた場所では強化されました。1992年には,この広大な区域に,エホバの「力強い行ないと,その王権の光輝に満ちた栄光」を大いに喜んで知らせる,62万7,537人を超える献身的な証人たちがいました。(詩編 145:11,12)彼らにとって宣教は容易ではありませんでした。区域内の離島に行くために船や飛行機で何時間も旅をしなければならない所もありました。それでも,1992年に,彼らは福音宣明の業に2億時間以上をささげ,68万5,211件の定期的な家庭聖書研究を司会しました。

『小さな者が千となる』という約束は確かに,そして十分に成就してきました。かつて「小さな者」さえいなかった ― 1919年当時にはエホバの証人が一人もおらず,全く伝道が行なわれていなかった ― 50以上の国や地域に,今ではそれぞれ1,000人以上のエホバの賛美者がいます。その中には,現在,神の王国を熱心にふれ告げるエホバの証人が何万人,いや十万人以上もいる国さえあるのです。エホバの証人は世界的に「強大な国民」となりました。彼らの人数は,世界的な一致した会衆として,世界の少なくとも80の自治国家それぞれの人口よりも多いのです。

“他の国や地域”ではどれほど証言が行なわれているか

これまでに述べたすべての場所のうち,1992年の時点で,エホバの証人が政府から厳しい制限を課され,詳細な報告が公表されていない“他の国や地域”が24残っていました。その中には,かなりの証言が行なわれてきた所もあります。とはいえ,ある国や地域では証人たちは非常に少数であり,今でも,王国の音信を聞いたことのない人々がいます。しかしエホバの証人は,必要な証言は行なわれるに違いないと確信しています。なぜでしょうか。

それは,イエス・キリストご自身が天の王座から業を監督しておられると聖書に示されているからです。(マタイ 25:31-33)イエスの指導のもとで,『中天を飛んでいるみ使い』は,永遠の良いたよりを宣明する責任と,「あらゆる国民・部族・国語・民」に『神を恐れ,神に栄光を帰す』よう勧める責任を委ねられています。(啓示 14:6,7)「永遠の命のために正しく整えられた」者たちをエホバがご自分に引き寄せるのを妨げ得る力は,天にも地にもありません。―使徒 13:48。ヨハネ 6:44

王国の音信が届かないほど孤立している場所は地球上のどこにもありません。親族が訪れ,電話や郵便で知らせが届き,ビジネスマンや労働者や学生や旅行者が外国の人々と接触します。過去と同じく現在でも,諸国民に対する権威を持つ天の王をエホバが即位させたという重大な知らせは,引き続きそうした手段で伝えられています。み使いたちは,真理と義に飢え渇いている人々に音信が伝わるよう取り計らうことができます。

今のところ政府から妨害を受けている地域で,王国の音信を宣べ伝える業をより直接的に行なうことが主のご意志であるなら,神はそれらの政府に政策を変えさせるような状況を作り出すことがおできになります。(箴言 21:1)そして,機会の扉がまだ開かれない場所でも,エホバの証人は自分を惜しまずに与え,そうした国の人々がエホバの愛ある目的を学ぶための助けをできるだけ多く得るようにします。証人たちは,エホバがイエス・キリストを通して業は成し遂げられたと言われるまで,たゆまず奉仕を続ける決意をしています。

1992年,エホバの証人は229の国や地域で忙しく伝道を行ないました。その年までに神の王国の良いたよりは,様々な方法で235の国や地域に伝えられました。その中の10の場所には,1975年以降初めて音信が伝えられました。

証言はどれほど熱心に行なわれたでしょうか。第二次世界大戦後の最初の30年間に,エホバの証人はエホバのみ名と王国を宣べ伝えて教える業に46億3,526万5,939時間を費やしました。しかし,次の15年間(わずか半分の期間)には,証人たちの数が増え,全時間奉仕に携わる人たちの割合が大きくなったため,公の証言と家から家の証言および家庭聖書研究の司会に78億5,867万7,940時間が費やされました。そして,証人たちが1990年から1991年にかけてさらに9億5,187万21時間,翌年には10億時間以上を報告したとおり,業の熱意は引き続き高まっていました。

いかなる分野の人間の努力をとっても,王国を宣伝するために証人たちが配布した聖書文書の総数と,どれほど多様な言語でそれらが手に入るようにされたかという事実に匹敵するものはありません。記録は不完全なものですが,手元に残っている報告によれば,1920年から1992年までの間に,294の言語の101億756万5,269冊の書籍,小冊子,ブロシュアー,雑誌,そして無数のパンフレットが,関心を持つ人々の手に渡りました。

本書を執筆している時点で,世界的な証言はまだ完了していません。しかし,成し遂げられた仕事と,それがどんな状況のもとでなされてきたかということは,神の霊が働いていることの説得力のある証拠となっています。

[502ページの拡大文]

大規模な大会と,クリスチャンにふさわしい出席者たちの振る舞いは人々の注意を引きつけた

[505ページの拡大文]

「大会出席者たちは,秩序正しさ,穏やかな態度,清潔さなどの点で見倣うべき手本である」

[507ページの拡大文]

証人たちが何十年も禁令下にあった場所で歴史的な大会が開かれた

[508ページの拡大文]

大量の聖書文書が東ヨーロッパ諸国へ発送された

[509ページの拡大文]

資格ある長老たちが,特別な必要のある国々へ自発的に移転した

[516ページの拡大文]

証人たちの願いは,それぞれの家でできるだけ多くの人に会うことである

[518ページの拡大文]

驚くべき増加と,将来の拡大の可能性

[513ページのグラフ/図版]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

東洋における王国宣明者の増加

インド

10,000

5,000

1950 1960 1970 1980 1992

大韓民国

60,000

30,000

1950 1960 1970 1980 1992

日本

150,000

100,000

50,000

1950 1960 1970 1980 1992

[503ページの図版]

1985年,エホバの証人の大会に集まる大勢の人たちを収容するため,ブラジルのサンパウロのモルンビ競技場(下)とリオデジャネイロのマラカナン競技場を同時に使用することが必要だった

[504ページの図版]

1989年,ポーランドのホジュフにおけるバプテスマ希望者の一部

[506ページの図版]

1991年に開かれた歴史的な大会

チェコスロバキアのプラハ

エストニアのタリン(右)

クロアチアのザグレブ(右)

ハンガリーのブダペスト(上)

ルーマニアのバヤマレ(右)

ロシアのウソリエシビルスコエ(下)

カザフスタンのアルマアタ(上)

ウクライナのキエフ(左)

[511ページの図版]

1992年,ロシアのサンクトペテルブルクで開かれたエホバの証人の国際大会

温かい国際的な精神

ロシアから

モルドバから

ウクライナから

大勢の若者たちが出席した

通訳の助けを借りてステパン・コジェンバ(中央)と共にプログラムを検討するM・G・ヘンシェル(左)

外国からの代表者たちは,ロシア中の証人たちが用いるロシア語の聖書を持ってきた

[512ページの図版]

これらのイタリアの新聞の切り抜きが示すように,1980年代にカトリック教会は証人たちに宣戦を布告した

[514ページの図版]

オランダのロッテルダムに船が入港すると,神の王国について船員に話すため,証人たちがやって来る

[515ページの図版]

ここグアドループのように区域が頻繁に網羅されている所でも,証人たちは引き続き良いたよりによって近所の人の心を動かそうと努めている