世界的な規模で共に建てる
20章
世界的な規模で共に建てる
真の兄弟関係によって結ばれているというエホバの証人の意識は,様々な面に表われています。彼らの集会に出席する人々はその証拠を見ることができます。大会では,それがもっと大きな規模で示されます。またそれは,彼らが会衆の適当な集会場所を備えるために一緒に働く時にもはっきり見られます。
1990年代が始まった時点で,世界にはエホバの証人の会衆が6万余りありました。その前の10年間には,毎年平均1,759の新しい会衆が増えました。1990年代初めの時点では,会衆は年に3,000以上の割合で増えるまでになりました。そのような会衆すべてのために適当な集会場所を備えるのは,大変な仕事です。
王国会館
1世紀のクリスチャンと同様に,エホバの証人の多くの会衆は元々ほとんどの集会のために個人の家を使っていました。スウェーデンのストックホルムについて言えば,現地で初めて定期的な集会を開いた数人の人々は大工の作業場を使いました。作業場での一日の仕事が終わった後にそこを借りて使うのです。スペインのラコルニャ県の小さなグループは,迫害のために,最初の集会を小さな倉庫,それも穀物の倉庫で開きました。
もっと広い場所が必要な場合,集会場所を自由に借りられる地域であれば,エホバの証人の地元の会衆はそのようにしました。しかし,もしそれが他の団体も使っている会館であるならば,集会のたびにいろいろな用具を運び込んで設置しなければなりませんし,たばこの煙のにおいが残っていることもよくあります。それで兄弟たちは,できればだれも使っていない店や2階の部屋などを借りて,会衆だけで使えるようにしました。しかし時たつうちに,多くの地域では,家賃が高かったり,適当な場所が見つからなかったりするために,ほかの方法を考え出すことが必要になりました。場合によっては,建物を買って改造することもありました。
第二次世界大戦の前でも,自分たちが使うために特別に設計した集会場を建て * しかし,王国会館の建設が広範に行なわれるようになったのは1950年代になってからです。
た会衆が幾つかあります。1890年の昔に,米国ウェスト・バージニア州マウント・ルックアウトにあった聖書研究者のグループは自分たちの集会場を建てました。王国会館という名称は,1935年に,当時のものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードによって提案されました。ラザフォードは,ハワイのホノルルにあった協会の支部施設の隣に,兄弟たちが集会の開ける会館を建てることを取り決めました。ジェームズ・ハラブが,その建物を何と呼ぶつもりですかとラザフォード兄弟に尋ねた時,兄弟はこう答えました。「“王国会館”と呼ぶべきだとは思いませんか。わたしたちのしていることは,王国の良いたよりを宣べ伝えることだからです」。それ以来,可能な場合,エホバの証人が定期的に使う会館は徐々に,「王国会館」という看板で見分けられるようになりました。例えば,1937年から1938年にかけてロンドン・タバナクルが改装された時も,それは王国会館と改称されました。やがて,全世界の会衆が使う地元のおもな集会場所は,エホバの証人の王国会館として知られるようになりました。
その方法は一通りではない
王国会館を借りるか建てるかについては,会衆がそれぞれ地元で決定します。また会衆は,建設や維持・管理にかかる費用を負担します。大部分の会衆は資金を節約するため,民間の請負業者に仕事を依頼せず,できるだけ多くの工事を自分たちで行なうようにしています。
会館自体は,経費や地元で手に入るものに応じて,れんがや石材や木材,その他の資材で建てられるかもしれません。ナミビアのカティマ・ムリロでは,長い草を使って草ぶきの屋根を作り,アリ塚の泥(しっかりと固まる)を使って壁と床を作りました。コロンビアのセゴビアのエホバの証人は,自分たちでコンクリート
の建設用ブロックを作りました。また,米国カリフォルニア州コルファックスでは,ラッセン山で採れた未加工の溶岩を使いました。1972年にレソトのマセル会衆は,集会の出席者が200人を上回ることが多かったので,適当な王国会館を建てる必要があると考えました。全員が作業を手伝いました。年配の兄弟たちは32㌔も歩いて参加しました。子供たちも水の入ったドラム缶を転がして現場まで運びました。姉妹たちは食事を作りました。足を使って地面を踏み固め,床のコンクリート打ちの準備もしました。その間はずっと王国の歌を歌いながら,音楽のリズムに合わせて地面を踏みつけるのです。近くの山の砂岩も自分たちで運べばただだったので,それを使って壁を作りました。その結果,約250人が座れる王国会館が出来上がりました。
時には,近くの会衆が工事を手伝うこともあります。例えば1985年に,南アフリカの黒人居住区だったインバリのエホバの証人が,400人でもゆったりと座れる会館を建てた時,仲間のエホバの証人が近くのピーターマリッツバーグとダーバンから手伝いに来ました。当時は人種問題で騒然としていた南アフリカで,白人とカラードとインド人の大勢のエホバの証人が黒人居住区にどっと押し寄せ,アフリカの黒人の兄弟たちと肩を並べて働く光景を見た時,近所の人々がどれほど驚いたか想像できるでしょうか。地元の町長は,「このようなことは愛がなければできない」と言いました。
どれほど意欲があっても,兄弟たちのできることは地元の状況のために限られていることに諸会衆は気づきました。会衆内の男性は扶養家族を抱えており,普段そのような作業を行なえるのは週末か,晩の少しの時間だけかもしれません。建設の技術を持っている人がほとんどいない会衆も少なくありませんでした。それでも,あまり覆いのない,熱帯に合った比較的簡単な建物なら,数日,場合によっては数週間で造ることができました。もっと頑丈な建物でも,周りの会衆の証人たちの応援があれば五,六か月で完成することができました。また場合によっては,一,二年かかるようなこともありました。
しかし1970年代に入ると,全世界のエホバの証人は,一日に二つか三つの会衆が新設されるというペースで増えてゆきました。1990年代の初めまでに,その増加のペースは一日に九つの会衆になりました。新しい王国会館に関する緊急な必要を賄うことができるでしょうか。
速成建設の技術を開発する
1970年代の初めに,米国ミズーリ州カータービルで,近くの会衆から来た50人余りのエホバの証人が,ウェブ市で集会を開いていたグループのための新しい王国会館の建設に勇んで加わりました。彼らは一つの週末でおもな骨組みを造り上げ,屋根の作業もかなり行ないました。残った仕事もたくさんあり,竣工までには数か月かかりましたが,大切な部分は非常に短い期間で完成しました。
次の10年間,兄弟たちは約60の会館を共に建設するうちに,いろいろな障害を克服し,いっそう効果的な方法を編み出してゆきました。やがて,基礎工事が終わっていれば,一つの週末で王国会館全体をほぼ完成させられることに気づきました。
数人の会衆の監督たち ― 全員米国中西部の出身 ― がその目標を目指して事を進めました。会衆が王国会館の建設で援助を求めてくると,その兄弟たちのうちの一人あるいは何人かが建設計画について会衆側と話し合い,作業を始める前に地元で行なわなければならない準備について詳しいことを説明しました。中でも,建設許可を得ること,基礎と床のコンクリート打ちを行なうこと,電気を使えるようにすること,地下の配管をきちんとすること,建設資材の調達の段取りをしっかり付けることなどが必要でした。それから,王国会館そのものの工事を行なう日取りを決めます。建物はプレハブ式ではありません。現場で最初から新しく建ててゆくのです。
実際の作業を行なうのはだれでしょうか。できるかぎり,無報酬の自発奉仕者の作業で工事は進められました。家族全員が参加することもよくありました。工事を企画する人たちは,喜んで作業に参加したいという願いを表わした職人のエホバの証人と連絡を取りました。そのような人たちの多くは,いつも次の新しい建設計画を待ちわびていました。また,そうした計画について知った他のエホバの証人もそれに加わることを望みました。周辺の地域から,あるいはもっと遠くの地方から数百人の人々が,自分にできる何らかの方法で仕事をしたいと思い,建設現場に集まりました。ほとんどの人は建設の専門家ではありませんでしたが,エホバが任命されたメシアなる王の支持者になる人々に関する描写,つまり「あなたの民は進んで自らをささげます」という詩編 110編3節の描写にかなっている証拠を確かに示しました。
大攻勢が始まる前の木曜日の晩,工事を監督する人たちは集まって最終的な計画を詰めます。翌日の晩には,工程に関するスライドを作業員に見せ,仕事の流れを理解してもらいます。強調されるのは敬虔な特質の大切さです。兄弟たちは愛をもって共に働き,親切に行動し,辛抱や思いやりを示すよう勧められます。全員があわてず着実なペースで仕事をするよう,また遠慮なく数分の休憩をとって励みのある経験をだれかに話すよう勧められます。工事が始まるのは翌日の早朝です。
土曜日の早朝の決まった時間になると,全員が作業をやめて日々の聖句の討議に耳を傾けます。そして祈りをささげます。工事全体の成功はエホバの祝福にかかっていることをよく理解しているからです。―詩編 127:1。
作業はいったん始まると,どんどん進みます。1時間足らずで壁が立ち上がります。次に屋根のトラスです。それから壁板をくぎで所定の位置に取り付けます。電気工が配線工事を始めます。冷暖房の配管を行ないます。戸棚を作っ
て取り付けます。時には,週末がずっと雨に見舞われることや,天候が変わってとても寒くなったり,非常に暑くなったりすることもありますが,作業は続けられます。職人たちが争ったり,ライバル意識を持ったりすることはありません。二日目の日没前に,王国会館が完成することも珍しくありません。美しい内装や,時には外回りの造園まで終わることがあります。工程を三日に延ばしたり,時には二つの週末に延ばしたりするほうが実情に合っているなら,そのような予定が組まれます。作業員の中には,工事が終わってもそのまま残り,会衆が行なう最初の正規の集会である「ものみの塔」研究を楽しむ人が少なくありません。疲れてはいても,とても幸福です。
米国オクラホマ州ガイモンに住む数人の人々は,質の高い仕事がそんなに速くできるものかと考え,市の検査官に電話しました。検査官は後に事情をエホバの証人に説明した時にこう言いました。「正しい工事というものを見たければ,王国会館に行ってみるべきだと彼らに言っておきました。あなた方は,隠れて見えなくなる所でも手抜きをしていません」。
王国会館の必要が高まるにつれ,速成建設の様々な方法を開発した兄弟たちは他の人々を訓練しました。そうした工事に関する情報は他の国々にも広まりました。そのような建設方法はそれらの国でも採用できるのでしょうか。
速成建設の国際化
カナダの王国会館建設は,会衆の必要に比べて相当後れを取っていました。カナダのエホバの証人は,米国で速成建設計画を企画した人たちを招き,どのようにして行なったかを説明してもらいました。カナダの人たちは,最初はカナダでそれができるかどうか疑問に思いましたが,とにかくやってみることにしました。その方法で建てられたカナダの最初の王国会館がオンタリオ州エルマイラに完成したのは,1982年のことです。1992年の時点で,カナダにはそのような方法で建てられた王国会館が306ありました。
英国ノーサンプトンのエホバの証人は,自分たちにもできると考えました。1983年の工事は,ヨーロッパで最初のものでした。その方法の建設で経験のある兄弟たちが米国やカナダからやって来て,工事を監督したり,地元のエホバの証人にその方法を教えたりしました。ほかにも自発奉仕者が,日本,インド,フランス,ドイツなど,遠い所からやって来ました。そうした人々は自発奉仕者としてそこに来たのであり,報酬は受け取りません。どうしてそういうことができるのでしょうか。そのような工事で働いたアイルランドの証人たちの建設チームの監督は,『それが成功したのは,兄弟姉妹たちが皆エホバの霊の影響のもとで共に働いたからです』と言いました。
地元の建築規準法などからしてそのような工事が不可能に思える時でさえ,市の関係者に詳しい事情を説明すると,喜んで協力してもらえる場合が多いことをエホバの証人は知りました。
ノルウェーの北極圏で速成建設計画が実施された後,フィンマルケン紙は,「全くすばらしい。先週末にエホバの証人が行なったことを表現しようとすれば,この一語に尽きる」と感嘆の声を上げました。同様に,ニュージーランドの北島のエホバの証人が二日半で魅力的な王国会館を建てた時,地元の新聞の第一面を飾ったのは,「奇跡に近い建設計画」という見出しでした。その記事はさらに,「恐らく,彼らが行なった事柄の中で最も驚嘆すべきことは,その組織立った様子と,工事が極めて静かに行なわれたことである」と述べています。
王国会館の必要な場所が遠く離れているということも,乗り越えられない障壁ではありません。ベリーズでは,あらゆる資材をベリーズ市から60㌔離れた島に運ばなければならなかったにもかかわらず,速成建設計画が実施されました。オーストラリアのウェスタン・オーストラリア州ポートヘッドランドで空調設備のある王国会館が一つの週末で建てられた時も,ほとんどすべての資材と労働力が1,600㌔以上離れた所から来ました。作業員は自費で旅行しました。作業に参加したほとんどの人は,ポートヘッドランド会衆のエホバの証人とは面識がなく,その会衆の集会に出席するわけでもありませんでした。それでも,彼らはそういう形で愛を示すことをためらわなかったのです。
エホバの証人の数が少ない所でも,王国会館のそのような建築方法を用いることができないわけではありません。1985年のことですが,約800人のエホバの証人が自発奉仕者としてトリニダードからトバゴまで旅行し,トバゴにいる84人のクリスチャンの兄弟姉妹がスカーバラで王国会館を建てるのを手伝いました。また,カナダのラブラドル地区のグースベイにいた17人のエホバの証人(ほとんどは女性と子供)が自分たちの王国会館を持つには,どうしても助けが必要でした。そこで1985年,カナダの他の地域のエホバの証人はその仕事を行なうために,3機の飛行機をチャーターし,450人をグースベイに送りました。二日間懸命に働いた結果,日曜日の晩には,完成した王国会館で献堂式を行なうことができました。
とはいっても,現在はすべての王国会館が速成建設の方法で建てられているというわけではありません。それでも,その数はどんどん増えています。
地区建設委員会
1986年の半ばまでに,新しい王国会館の必要性は急激に高くなりました。その前の年に,世界中で2,461の新しい会衆が設立されましたが,そのうち207は米国の会衆でした。中には三つ,四つ,あるいは五つの会衆が使っている王国会館もありました。聖書が予告していたように,エホバは確かに収穫の業を速めておられました。―イザヤ 60:22。
人材を最大限に活用すると共に,王国会館の建設を行なっていたすべての人たちがそうした経験を生かせるようにするため,協会は彼らの活動を指揮するようガラテア 5:22,23)また,不動産,設計,建設,経営,安全管理,その他の関連分野で経験のある人たちも少なくありませんでした。
になりました。1987年,まず手始めに,米国が60の地区建設委員会に区分けされました。どの委員会にもたくさんの仕事がありました。すぐに1年以上先まで工事の予定が詰まってしまった所もあります。そのような委員会で奉仕するよう任命された人たちは,何よりも霊的な資格にかなった会衆の長老であり,神の霊の実を実際に表わす点で模範的な男性でした。(会衆は新しい王国会館の場所を選ぶ前に地区建設委員会に相談するよう勧められました。一つの都市に複数の会衆がある場合は,巡回監督や都市の監督,さらには近隣の会衆の長老たちと相談することも勧められました。さらに,大きな改装工事や新しい王国会館の建設を計画している会衆は,その地域を担当している地区建設委員会の兄弟たちの経験と,協会が委員たちに与えている指針から益を受けるように勧められました。その委員会を通して,すでに自発奉仕者としてそのような工事を手伝ったことのある約65の職種の兄弟姉妹の中から,必要な技術者を集めるための様々な取り決めが設けられます。
いろいろな手順にみがきをかけてゆくにつれ,一つの工事計画にかかわる作業員の数を減らすことができました。建設現場で数千人が作業したり見守ったりするようなことはなく,同時に200人以上の人が現場にいることもめったになくなりました。作業員たちは週末の間ずっと現場にいる代わりに,自分の技術が必要なときにだけ出向きました。こうして,家族と共に過ごす時間や自分の会衆の活動に充てる時間が増えるようになったのです。また,地元の兄弟たちがある種の仕事を程よい時間で行なえるのであれば,速成建設のグループを呼ぶのは,工事全体の中でより緊急に必要とされる仕事がある時に限るほうが実際的である場合も少なくありませんでした。
工事全体は驚くほどのスピードで進みましたが,それが最重要視されていたわけではありません。もっと大切なのは,地元の必要に合うように設計された簡素な王国会館の建設を質の高いものにするということでした。出費を最小限に抑えながらその目標を達成するために,入念な計画が立てられました。作業員の安全,近所の人や通行人の安全,将来王国会館を使う人たちの安全など,安全を確実に優先させるための対策も講じられました。
王国会館建設のこの取り決めに関する情報が他の国々にも届くと,それが管轄地域でも有利であると考えた協会の支部事務所には必要な詳細が送られました。1992年までに,協会によって設立された地区建設委員会は,アルゼンチン,オーストラリア,イギリス,カナダ,フランス,ドイツ,日本,メキシコ,南アフリカ,スペインといった国々で王国会館の建設を援助していました。建設方法は地元の状況に合わせて調整されました。王国会館の建設のために他の支部の援助が必要な場合は,協会の本部事務所を通して取り決めが設けられました。世界
には,新しい会館を数日で建てている所もあれば,数週間,あるいは数か月で建てている所もあります。入念な計画と調和のとれた努力により,新しい王国会館を備えるのに必要な時間は大幅に減りました。エホバの証人の建設の活動は王国会館に限られているわけではありません。幾つもの会衆が年に1度の巡回大会や特別一日大会に集まる時には,もっと大きな施設が必要です。
大会ホールの必要を満たす
長年,巡回大会のために様々な種類の施設が使われてきました。エホバの証人は,市民会館,学校,劇場,教練所,競技場,展示場などの場所を借りてきました。非常に立派な施設が適当な値段で借りられる地域も少数ながらありましたが,大抵は会場を掃除し,音響装置を設置し,ステージを作り,いすを運び込むのに相当な時間と努力が必要でした。時には,土壇場になって借りられなくなることもありました。会衆の数が増えるにつれ,十分な数の適当な会場を見つけるのはますます難しくなってゆきました。どんな手が打てるでしょうか。
この場合も,エホバの証人が独自の会場を持つことが解決策になりました。そのためには,適当な建物を改装することと新しい建物を造ることが必要です。米国のそうした大会ホールの最初のものは,ニューヨーク州ロングアイランド市の劇場を改装したホールでした。エホバの証人は1965年の後半にそれを使い始めました。
同じころ,カリブ海のグアドループのエホバの証人も自分たちの必要に合った大会ホールを設計していました。彼らは様々な地域で巡回大会を開ければ,そのほうが有利であると考えていましたが,ほとんどの町には十分な大きさの施設がありませんでした。それでエホバの証人は鋼鉄のパイプとアルミの屋根でできた移動式の建物を造りました。それは700人が集まるには十分のもので,比較的平らな土地があればどこにでも建てられました。彼らはそのホールを何度も大きくしなければならず,最後には5,000人の収容能力を持つまでになりました。大会のたびに30㌧の資材を運び,組み立て,解体することを想像してみてください。その大会ホールは13年間,年に数回組み立てと分解を繰り返しました。しかしついに,移動式ホールのための土地を見つけるのが難しくなり,土地を買って永久的な大会ホールを建てることが必要になりました。このホールは今,巡回大会や地域大会のために役立っています。
かなり多くの場所で,大会ホールの計画に関しては既存の建物が利用されました。英国サリー州ヘイズブリッジでは,50年前にできた学校の建物を買って改装しました。このホールは,美しい田園地方の11㌶の土地に建っています。スペインでは,以前の映画館や産業用の倉庫を改造して使いました。オーストラリアでは使われていなかった織物工場,カナダのケベック州ではダンスホール,日本
ではボーリング場,韓国では倉庫を利用しました。それらはみな魅力的な大会ホールに改装され,聖書教育の大きな中心施設として役立ちました。新規に建てられた全く新しい大会ホールもあります。英国サウス・ヨークシャー州ヘラビーのホールは,珍しい八角形のデザインと,工事のかなりの部分が自発奉仕者の作業によって行なわれたことが注目され,建築技師協会の雑誌の記事に取り上げられました。カナダのサスカチェワン州サスカトゥーンの大会ホールは1,200人が座れる設計になっていましたが,内壁を所定の位置に取り付けると,その建物は隣り合った四つの王国会館としても使えます。ハイチの大会ホール(米国から送られたプレハブ)は2面が開いているので,中で座っている人たちは卓越風で涼むことができました。ハイチの照りつける太陽から逃れられる,ありがたい場所です。パプアニューギニアのポートモレスビーのホールは,壁の一部がドアのように開く設計になっていたため,中に入り切れないほど大勢の人が来ても対応することができました。
大会ホールの建設に関する決定は,ほかのすべての人がその決定を支持することを期待する少数の監督たちによって下されるのではありません。協会は新しい大会ホールを建てる前に,その必要性や将来の使用頻度などについて注意深い分析が行なわれることを見届けます。その計画に対する地元の熱意だけでなく,野外の全体的な必要も考慮されます。計画を支持する願いと能力が兄弟たちにあるかどうかを確かめるために,関係するすべての会衆との話し合いが行なわれます。
ですから,計画が動き出す時には,その地域のエホバの証人が全面的に支持しているということになります。各工事の資金はエホバの証人自身が賄います。お金が必要であるという説明はありますが,寄付は自発的に匿名で行ないます。事前に入念な計画が立てられます。工事には,王国会館の建設から,また大抵は
他の場所の大会ホールの計画からすでに得られた経験を生かします。必要に応じて,工事のある部分は民間の請負業者に委託することもありますが,大抵ほとんどの仕事は熱心なエホバの証人が行ないます。そうすれば,費用が半分ですむこともあります。自発奉仕者として時間や才能を提供する専門技術者や他の人々が作業するので,工事全体はたいてい速く進みます。1年以上かかる工事もありますが,カナダのバンクーバー島の場合は,1985年に約4,500人の自発奉仕者が2,300平方㍍の大会ホールをたった九日で完成させました。その建物には,地元の会衆が使う200席の王国会館も含まれています。1984年にニューカレドニアでは,政情不安のために夜間外出禁止令が政府から出されましたが,一時に400人ほどの自発奉仕者が大会ホールの工事で働き,わずか4か月で完成させました。スウェーデンのストックホルム近郊では,オーク材を使ったクッションの良いいすを900脚置いた,美しく実用的な大会ホールが7か月で建ちました。
時には,そうした大会ホールの建設許可を得るため,裁判所で根気強く努力する必要がありました。カナダのブリティッシュコロンビア州サリーの場合がそうでした。土地を買った時には,調整区域などの指定から外れていたのでそのような崇拝の場所を建てることができました。しかし,1974年に建設計画を提出した後,サリー地区議会は,教会や大会ホールを建ててもよい地域をP-3区域だけに限定する条例を成立させました。P-3区域なるものは存在しないのにです。ところが,市内にはすでに79の教会が何の問題もなく建てられていました。問題は法廷に持ち込まれました。繰り返し出されたのは,エホバの証人に有利な判決でした。偏見を持った議員たちの妨害がついに除かれると,自発奉仕の作業員たちは猛烈な勢いで工事に取りかかり,約7か月で完成させました。古代エルサレムの城壁を再建するために骨折ったネヘミヤと同様に,彼らも仕事を成し遂げるために『神のみ手が自分たちの上にあった』ことを感じました。―ネヘミヤ 2:18。
米国のエホバの証人がニュージャージー州ジャージーシティーのスタンレー劇場を買い取った時,その建物は州の史跡に指定されていました。劇場は荒れ放題になっていましたが,大会ホールとして使えるすばらしい可能性がありました。しかし,エホバの証人が必要な修理を行なおうとした時,市の関係者は許可を出しませんでした。市長は,その地域にエホバの証人が来ることを望まなかったため,その建物に関して別の計画を立てていました。当局による権威の不法行使を阻止するには,裁判に持ち込む必要がありました。裁判所の決定はエホバの証人に有利なものでした。それからしばらくして,地元住民による選挙で市長はその職務を失いました。ホールの工事は速く進みました。その結果,4,000人余りが座れる美しい大会ホールが出来上がりました。市の実業家や住民もそのホールを誇りに思っています。
エホバの証人は過去27年間,聖書教育の中心として機能する魅力的で実用的な大会ホールを世界各地に建ててきました。そのようなホールは現在,南北アメリカ,ヨーロッパ,アフリカ,東洋,さらには多くの島でどんどん増えています。また,エホバの証人はナイジェリアやイタリアやデンマークといった幾つかの国で,地域大会に使えるような,もっと大きく耐久性のある屋外施設を建ててきました。
しかし,エホバの証人が神の王国をふれ告げる活動の推進のために行なっている建設工事は,大会ホールや王国会館に限られてはいません。
世界中の事務所,印刷工場,ベテル・ホーム
1992年の時点で,世界には,ものみの塔協会の支部事務所が99ありました。各支部は,世界を舞台にするエホバの証人の活動を管轄地域ごとに指揮する役割を果たしています。それらの支部の半分以上は,聖書教育の活動を推し進めるためにいろいろな印刷を行なっています。支部で働く人々は大抵,ベテルと呼ばれる家に大きな家族として住んでいます。ベテルには,「神の家」という意味があります。エホバの証人の数が増え,宣べ伝える活動が拡大しているので,それらの施設を拡張したり,新しい施設を建てたりすることが必要になってきました。
組織の成長は余りにも急速なため,同時に20か所から40か所でそのような支部の拡張計画が進行することも珍しくありません。そのため,巨大な国際建設計画が必要になってきました。
世界中で膨大な量の建設工事が行なわれているため,ものみの塔協会はニューヨークの本部に独自の設計製図部門を設置しています。長年の経験を持つ技術者たちが世俗の仕事をやめ,自発奉仕者として王国の活動に直接関係した建設計画の援助を全時間行なっています。また,経験のある人たちは,工学,デザイン,製図などの仕事で他の男女を訓練しています。この部門を通して仕事の指揮を執ることにより,世界各地の支部の建設で得られた経験を,他の国で工事を行なう人々のために生かすことができます。
やがて,行なわれている大量の仕事の関係上,日本に地区設計事務所を設け,東洋で行なわれる建設計画の設計の仕事を援助してもらうことが得策になりました。ヨーロッパとオーストラリアでも,地区設計事務所が機能しています。その人員は様々な国から集められました。それらの事務所は本部の事務所と密接に協力して仕事を行なっています。そうしたサービスやコンピューター技術の活用によって,どの建設現場でも,必要な設計者の数が減りました。
中には,比較的規模の小さな工事もあります。1983年にタヒチで建設された支部事務所の場合がそうでした。その中には,事務所と倉庫と8人の自発奉仕者の宿舎が入っていました。1982年から1984年にかけてカリブ海のマルティニーク島で建てられた4階建ての支部の建物の場合もそうでした。それらの建物は,
都会に住んでいる人から見れば大したものではないかもしれませんが,それでも一般の人々の注目を集めました。フランス・アンティル紙は,マルティニークの支部の建物は「立派に仕事を成し遂げたいという情熱」を反映した「建築の傑作」であると述べました。規模の点から見て対照的なのは,1981年にカナダで完成した建物です。これには,床面積9,300平方㍍以上の工場と250人の自発奉仕者の宿舎が含まれていました。その同じ年にブラジルのセザリオ・ランジェで完成したものみの塔の施設には,八つの建物が含まれており,その床面積は4万6,000平方㍍近くに上りました。それを造るには,トラック1万台分のセメント,石,砂のほかに,エベレスト山の2倍の高さに達するほどの大量のコンクリートの杭が必要でした。また,1991年にフィリピンで大きな新しい印刷工場が完成した時には,11階建ての宿舎を造ることも必要でした。
ナイジェリアの増加する王国宣明者の必要を賄うために,1984年にイギードゥマで大きな建設工事が始まりました。それには,工場,広々とした事務棟,連結した四つの宿舎,その他の必要な施設が含まれることになっていました。工場に関しては,完全にプレハブ式で造って米国から運び込む計画を立てました。しかしその時,兄弟たちの前に立ちはだかったのは,守れそうにないと思えた輸入の最終期限でした。最終期限に間に合い,建設現場にすべてのものが無事に届いた時,エホバの証人はそれを自分たちの手柄にせず,エホバが祝福してくださったことをエホバに感謝しました。
世界中の急速な拡大
しかし,王国をふれ告げる活動が余りにも急速に拡大しているため,一つの国で支部施設を大きく拡張した後でさえ,比較的短期間のうちに再び建設を始めることが必要になる場合も少なくありませんでした。幾つかの例を考えてみましょう。
ペルーでは,事務所,22の寝室,さらにはベテル家族の成員のための他の基本的な施設と王国会館を含む立派な新しい支部が,1984年の終わりに完成しました。しかし,南米のその国では,王国の音信に対して予想をはるかに超える反応がありました。4年後には,既存の施設を2倍にしなければなりませんでした。今回は耐震構造の建物です。
コロンビアでも,広々とした新しい支部の建物群が1979年に完成しました。それだけのスペースがあれば長くもつだろうと考えられていました。しかし,7年足らずでコロンビアのエホバの証人の数は2倍近くになり,支部では,コロンビアだけでなく,近くの四つの国のためにも,「ラ・アタラヤ(ものみの塔)」誌と「デスペルタード!(目ざめよ!)」誌を印刷するようになっていました。1987年には再び建設を始めなければなりませんでした。今回は,拡張できる余地がもっと多い場所に建設されました。
1980年に,ブラジルのエホバの証人は,王国の音信を公に宣べ伝える活動に約1,400万時間を費やしました。1989年には,その数字が5,000万時間近くにまで増えました。多くの人が霊的な飢えを満たしたいという願いを表わしました。1981年に献堂された広大な支部施設はもう十分ではありません。1988年9月にはすでに,新しい工場のための掘削工事が進んでいました。それは,床面積が既存の工場に比べて80%広い工場になります。もちろん,大きくなったベテル家族を世話するための居住施設も必要でした。
ドイツのゼルターズ/タウヌスで,ものみの塔協会の2番目に大きな印刷工場群が献堂されたのは1984年のことでした。5年後には,ドイツの増加に加えて,ドイツ支部が文書を印刷して送っている国々の証言活動を拡大する機会が開かれたため,工場を85%余り拡張し,他の生活施設を増やすための計画が進められていました。
日本支部が東京から沼津の新しい施設に移転したのは1972年のことでした。1975年には,さらに大きな拡張を行ないました。1978年までには,海老名で別の物件を手に入れ,沼津の3倍以上の工場をすぐに建設し始めました。それは1982年に完成しました。それでもまだ十分ではありません。1989年にはさらに増築が完了しました。十分な大きさの建物を一度で建てるわけにはゆかなかったのでしょうか。それは不可能でした。日本の王国宣明者の数は,だれも予測できないような勢いで何度も何度も倍増してきたのです。1972年には1万4,199人だったのが,1989年には13万7,941人にまで増えていました。しかも,かなりの割合の人々が全時間の宣教を行なっていました。
世界の他の場所でも,同じような様子が見られます。印刷設備のある大きな支部を建ててから10年もしないうちに ― 場合によっては数年足らずで ― 大きな拡張を行なうことが必要になってきました。中でもメキシコ,カナダ,南アフリカ,韓国などの場合がそうでした。
実際の建設作業を行なうのはだれでしょうか。作業はすべてどのようにして成し遂げられるのでしょうか。
手伝うことを切望する非常に大勢の人々
スウェーデンでは,アルボガで支部の建設が行なわれていた当時,国内の1万7,000人のエホバの証人のうち,約5,000人が自発奉仕者として仕事を手伝いました。ほとんどの人は,やる気のあるお手伝いさんといった程度でしたが,高度な技術を持った専門家もいて,仕事がきちんと行なわれるように見届けました。彼らの動機は何でしたか。エホバに対する愛でした。
デンマークのある測量事務所の職員は,ホルベックの新しい支部の工事がエホバの証人によって行なわれると聞いて,不安を口にしました。とはいえ,必要な専門知識はすべて,自発奉仕者として手伝ったエホバの証人から得られました。しかし,民間の請負業者に仕事を委託したら,もっとうまくゆくのではない
でしょうか。工事が終了した後,町の建築課から来た専門家たちは,建物を見学しながら見事な出来映えについて述べ,近ごろは業者の仕事でもこれほどの出来はあまりないと言いました。最初不安を口にした例の職員も,にこにこしながら,「あの時は,あなた方がどんな組織を持っているのか分からなかったんですよ」と言いました。オーストラリアでは人口の集中している場所が広く散らばっています。そのため,1978年から1983年にかけて,自発奉仕者としてイングルバーンの支部施設の工事を行なった3,000人のうちのほとんどは,少なくとも1,600㌔の旅行をしなければなりませんでした。しかし,自発奉仕者の一行のバス旅行が計画された時,途中にある会衆は,休憩する兄弟たちに食事と交わりのひと時を提供してもてなしました。兄弟たちの中には,工事に参加するために家を売ったり,事業をやめたり,休暇を取ったりして,様々な犠牲を払った人もいました。経験のある職人のチームも ― ある人は一度ならず ― やって来て,コンクリート打ちや天井張りを行なったり,塀を作ったりしました。資材を寄付した人たちもいました。
それらの工事を行なった自発奉仕者のほとんどは素人でした。しかしその中には,いくらかの訓練を受けて重責を担い,すばらしい仕事をした人たちもいました。そのような人々は,窓の作り方やトラクターの運転の仕方,コンクリートの混ぜ方,れんがの積み方などを覚えました。また彼らは,エホバの証人ではない同じ職種の業者よりも非常に有利な立場にいました。どうしてでしょうか。経験者たちが,喜んで知識を伝授してくれるのです。ほかの人に仕事を取られることを心配する人は一人もいません。すべての人にたくさんの仕事がありました。また,質の高い仕事をしたいという強い動機もありました。神に対する愛の表われとして仕事を行なっていたからです。
どの建設現場でも,建設“家族”の核になるエホバの証人がいます。1979年から1984年にかけてドイツのゼルターズ/タウヌスで工事が行なわれていた間も,大抵,数百人の人たちが作業員のそうした核になっていました。そのほかの幾千人もの人々は,多くの場合週末に彼らに加わりましたが,その期間は様々でした。入念な計画を立てたので,自発奉仕者が来た時にはたくさんの仕事が用意されていました。
人が不完全であるかぎり,問題は起きます。しかし,それらの工事で働く人々は聖書の原則に基づいて問題を解決しようとします。クリスチャンらしい方法で物事を行なうほうが能率よりも大切であることを知っているのです。日本の海老名の建設現場には,大切なことを思い出せるよう,ヘルメットをかぶった作業員を描いた大きな看板があり,それぞれのヘルメットには,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制という,神の霊の実が一つずつ書いてありました。(ガラテア 5:22,23)作業現場を訪れる人たちは,目と耳で一般の現場との違いを理解することができます。ブラジル支部の建設現場を見学 した新聞記者は,「混乱や協調性の欠如は見られない。……クリスチャンの醸し出すこうした雰囲気は,ブラジルの民間の建設現場で一般に見られる雰囲気とは違う」と感想を述べました。
世界本部の絶え間ない拡張
ものみの塔協会の支部は拡大してきましたが,世界本部の施設を拡張することも必要になってきました。ブルックリンやニューヨーク州の他の場所にある工場と事務所では,第二次世界大戦後10回を超える大きな増築工事が行なわれました。また,働く人々のための宿舎として,大小さまざまな建物を建てたり,買い取って改装したりすることも必要でした。さらにブルックリンの大きな拡張工事が,1990年8月と1991年1月に発表されました。もっとも,1989年にニューヨーク市北部で始まった大規模なものみの塔教育センターの建設も続いていました。それは,住み込んで働く人と学生合わせて1,200人を収容できるようになっています。
1972年以来,ブルックリンの世界本部と,ニューヨーク州,ニュージャージー州の他の場所にある,本部と密接に関連した施設では,建設工事が途切れることなく続いています。そのうちに,いくら数百人いるとはいっても正規の建設作業員だけでは仕事に追いつけないことが明らかになりました。そこで1984年に,継続的な一時作業員の計画が始まりました。当時米国にあった8,000の会衆に手紙が送られ,条件を満たす兄弟たちは1週間あるいはそれ以上の期間援助に来ることを勧められました。(同様の計画はすでに幾つかの支部でうまくいっていました。例えばオーストラリアでは,2週間滞在できる人たちが自発奉仕者として招かれました。)作業員には宿舎と食事があてがわれますが,旅費は自分で払い,報酬も受け取りません。こたえ応じる人がいるでしょうか。
1992年までに,優に2万4,000件を超える申し込みが取り扱われました。そのうち少なくとも3,900件は,今回が2回目,3回目,さらには10回目,20回目という人たちの申し込みでした。ほとんどの人は,長老,奉仕の僕,開拓者といった,立派な霊的資格を持った人々です。すべての人が,自分の専門を生かせる仕事でもそうでない仕事でも,必要な仕事を何でも進んで行ないました。大抵はきつくて汚い仕事です。しかし彼らは,王国の関心事を促進することにそのような方法で貢献できることを特権とみなしました。そのおかげで,世界本部で行なわれている仕事の特色である自己犠牲の精神をいっそう十分に学んだと感じる人たちもいます。ベテル家族の朝の崇拝のプログラムと,毎週行なわれる家族のものみの塔研究に出席した結果,全員が豊かに報われたと感じました。
インターナショナル・ボランティア
急速な拡大の必要が大きくなるにつれ,インターナショナル・ボランティアの制度が1985年に始まりました。それは決して建設に関する国際協力の始まりではありませんでしたが,本部がその制度を注意深く指揮するようになったのは
その時でした。参加者はすべて,自発奉仕者として外国の建設工事を援助するエホバの証人です。職人もいれば,その妻もいます。妻のほうは夫と共に参加し,自分にできる方法で援助を行ないます。ほとんどの人は旅費を自分で賄います。仕事に対する報酬を受け取る人は一人もいません。短期間,普通は2週間から3か月滞在して参加する人もいれば,1年以上,場合によっては工事が終わるまでとどまる長期の自発奉仕者もいます。最初の5年間で,30か国から3,000人余りのエホバの証人が参加しました。自分の技術が必要とされる時に是非とも参加したいと思った人はほかにも大勢います。彼らはそのような方法で,神の王国の関心事を促進するために自分自身や自分の資産をささげることを特権とみなしています。インターナショナル・ボランティアには,宿舎と食事が提供されます。大抵,便利な設備は最低限しかありません。地元のエホバの証人は,来てくれる兄弟たちの行なっていることに大いに感謝しています。可能な場合は,たとえ質素な家であっても,自宅に兄弟たちを迎えて寝泊まりしてもらいます。ほとんどの場合,食事は現場で取ります。
外国の兄弟たちは,すべての仕事をするために来るわけではありません。その目的は,地元の建設チームと一緒に働くことです。ほかにも国内の幾百人,時には幾千人という人々が週末にやって来て手伝ったり,一度に1週間以上の期間にわたって援助に来たりすることもあります。アルゼンチンでは,外国から来た259人の自発奉仕者が数千人の地元の兄弟たちと一緒に働きました。地元の兄弟たちの中には,毎日仕事をした人もいれば,数週間働いた人もいます。週末にはそれよりもずっと大勢の人たちが作業に加わりました。コロンビアでは,830人余りのインターナショナル・ボランティアが様々な期間にわたって援助しまし
た。また,200人を超える地元の自発奉仕者が工事に全時間加わったほか,週末ごとに250人以上の人が手伝いに来たので,合計すると3,600人余りの人が参加したことになります。言語の違いが問題になることもあります。しかし,国際的なグループが一緒に作業できないわけではありません。身振り手振りや顔の表情,ユーモアのセンス,さらにはエホバの誉れとなる仕事を成し遂げたいという願いなどが,工事をやり遂げるのに役立っているのです。
建設関係の職人の数が限られている国で,組織が著しく拡大し,その結果として,いっそう大きな支部施設が必要になることもあります。しかし,喜んで助け合うエホバの証人の間で,それは障害にはなりません。エホバの証人は,国籍や皮膚の色や言語などによって切り離されることのない世界的な家族の一員として共に働くのです。
パプアニューギニアでは,オーストラリアとニュージーランドから来た自発奉仕者が,労働省の要請にこたえて,各自がそれぞれの職種で一人のパプアニューギニア人を訓練しました。こうして,地元のエホバの証人は自分の労力を提供しながら,自分や家族の必要を賄うのに役立つ技術を学びました。
エルサルバドルで新しい支部が必要になった時,外国から来た自発奉仕者326人が地元の兄弟たちに加わりました。エクアドルの建設工事では,14か国270人のエホバの証人がエクアドルの兄弟姉妹たちと一緒に働きました。インターナショナル・ボランティアの中には,同時に進行していた幾つかの工事を掛け持ちしていた人もいます。彼らは,自分たちの専門技術の必要に応じて,ヨーロッパとアフリカの建設現場を回りました。
1992年までに,インターナショナル・ボランティアは49の支部用地に派遣され,地元の建設作業員たちを援助しました。この計画から援助を受けた人たちが,次には他の人々を援助できるようになっていたという例もあります。例えば,フィリピンの人々の中には,約60人の長期インターナショナル・サーバントや,短期的に援助を行なった230人余りの外国の自発奉仕者の働きから益を得て,東南アジアの他の場所で行なわれる施設の建設を援助するために自分を差し出した人たちがいます。
エホバの証人は,良いたよりの伝道に関連して現に必要が生じているので建設工事を行なっています。エホバの霊の助けにより,ハルマゲドン前の残っている期間にできるだけ大規模な証言を行なうことを願っているのです。彼らは,神の新しい世が非常に間近いことを確信しています。また,組織された民として,メシアによる神の王国が支配する新しい世に生き残るということを信じています。また,彼らが建ててエホバに献堂した立派な施設の多くが,恐らくハルマゲドンの後も,唯一まことの神に関する知識が本当に地に満ちるまで,それを広める中心として使われることを希望しています。―イザヤ 11:9。
[脚注]
^ 8節 それは「新しい光」教会として知られていました。そこで交わっていた人々は,ものみの塔の出版物を読んだ結果,聖書に関する新しい光を得たと感じていたからです。
[322ページの拡大文]
近くの会衆のエホバの証人が作業を手伝った
[323ページの拡大文]
建設作業は無報酬の自発奉仕によって行なわれた
[323ページの拡大文]
霊的な特質が強調された
[326ページの拡大文]
質の高い建設,安全,最小限の費用,スピード
[328ページの拡大文]
移動式の大会ホール
[331ページの拡大文]
裁判所に訴える
[332ページの拡大文]
大規模な国際的拡大
[333ページの拡大文]
作業員たちは,自分の手柄とは考えず,エホバに誉れを帰した
[334ページの拡大文]
だれも予測できなかった速度での増加
[336ページの拡大文]
彼らは本部の建設工事を手伝えることを特権とみなした
[339ページの拡大文]
彼らは,国籍や皮膚の色や言語などによって切り離されることのない世界的な家族として働く
[320,321ページの囲み記事/図版]
王国会館を速く建てるために共に働く
毎年,幾千もの新しい会衆が設立されています。ほとんどの場合は,エホバの証人自身が新しい王国会館を建てます。以下の写真は,1991年,米国コネティカット州の王国会館の建設中に撮ったものです
金曜日の朝7時40分
金曜日の昼12時
土曜日の午後7時41分
おもな作業が終了。日曜日の午後6時10分
エホバに祝福を仰ぎ求め,時間を取って神の言葉の助言を討議する
全員が無報酬の自発奉仕者。喜んで一緒に働く
[327ページの囲み記事/図版]
様々な国の王国会館
エホバの証人が使う集会場は大抵質素なものです。周囲の環境に合った,清潔で,快適で,魅力的な建物です
ペルー
フィリピン
フランス
韓国
日本
パプアニューギニア
アイルランド
コロンビア
ノルウェー
レソト
[330ページの囲み記事/図版]
エホバの証人の大会ホール
ある地域のエホバの証人は,周期的に行なわれる大会の会場として,独自の大会ホールを建てるのが実情にかなっていると考えています。建設工事のかなりの部分は地元のエホバの証人が行ないます。ここに挙げるのは,1990年代の初めに使われていた大会ホールのほんの数例です
イギリス
ベネズエラ
イタリア
ドイツ
カナダ
日本
[338ページの囲み記事/図版]
国際的な建設計画が緊急な必要を満たす
組織の急速な拡大により,世界中の事務所,工場,ベテル・ホームの拡張が絶えず必要になっています
インターナショナル・ボランティアが地元のエホバの証人を援助する
スペイン
経験の限られた多くの自発奉仕者は,用いられている建設方法のおかげで貴重な仕事を行なえる
プエルトリコ
職人も喜んで仕事を行なう
ニュージーランド
ギリシャ
ブラジル
耐久性のある資材を使うので,長期的に見ると維持費が節約できる
イギリス
質の高い仕事は,作業をする人たちの個人的な関心の結果として生み出される。それは,エホバに対する愛の表われ
カナダ
これらの工事は楽しいひと時。いつまでも続く友情が数多く生まれる
コロンビア
日本の看板は,安全対策や,神の霊の実を表わす必要を作業員に思い起こさせた
[318ページの図版]
最初に王国会館と呼ばれたハワイの建物
[319ページの図版]
初期の王国会館は,貸しビルや,単に店の上階の部屋であるという場合が多かったが,エホバの証人が建てたものも幾らかあった
[329ページの図版]
最初の二つの大会ホール
ニューヨーク市
グアドループ
[337ページの図版]
ニューヨークの世界本部に着いたばかりの一時建設作業員たち
霊的な人であることと質の高い仕事を行なうことが,仕事を速く行なうことよりも優先されるという点が,各グループに指摘される