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『王国を第一に求める』

『王国を第一に求める』

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『王国を第一に求める』

聖書の主要なテーマは,エホバのみ名が王国によって神聖なものとされるということです。イエス・キリストは追随者たちに,王国を第一に求め,それを人生の他の関心事よりも優先させるよう教えられました。なぜでしょうか。

「ものみの塔」誌が度々説明してきたように,エホバは創造者であるという事実のゆえに宇宙の主権者であられます。エホバは,被造物から最高度の敬意を受けるにふさわしい方です。(啓示 4:11)しかし,人類史が始まったばかりのころ,自ら悪魔サタンとなった神の霊の子が反抗してエホバの主権に挑戦しました。(創世記 3:1-5)さらにサタンは,エホバに仕える者にはすべて利己的な動機があると主張しました。(ヨブ 1:9-11; 2:4,5。啓示 12:10)こうして,宇宙の平和は乱されました。

ものみの塔の出版物がこれまで数十年にわたって指摘してきたように,エホバはそれらの論争を,ご自分の全能の力だけでなく,ご自分の知恵と公正と愛の偉大さをも大いなるものとするような方法で解決するための備えを設けられました。その備えの中心はメシアによる神の王国です。その王国によって,人類は義の道を学ぶ十分の機会を与えられます。その王国によって,邪悪な人々は滅ぼされ,エホバの主権は立証され,地球が楽園になって本当に神と互いを愛する人々,完全な命を与えられる人々がそこに住むことになるというエホバの目的は達成されます。

その王国の重要性のゆえに,イエスはご自分の追随者たちに,『ですから,王国をいつも第一に求めなさい』と助言されました。(マタイ 6:10,33)現代のエホバの証人は,その助言に留意するよう努力している証拠を豊富に示してきました。

王国のためにすべてを捨てる

聖書研究者たちは初期のころに,王国を第一に求めることの意味を考えました。イエスはたとえ話の中で王国を非常に価の高い真珠になぞらえ,ある人は『自分の持つすべてのものを売り,それからその畑を買う』と言われましたが,聖書研究者たちはイエスのそのたとえ話について検討しました。(マタイ 13:45,46)また,イエスは富んだ若い支配者に,すべてのものを売って貧しい人たちに配り,それからご自分に付いて来るよう助言されましたが,聖書研究者たちはイエスのその助言の意義についてもよく考えました。(マルコ 10:17-30 * 彼らは,神の王国にあずかるに値する者であることを示すには,王国を自分の第一の関心事とし,自分の命や能力や資産を喜んで王国の奉仕のために使わなければならないことを理解しました。生活の中のほかのものは,すべて二次的な位置を占めなければならないのです。

チャールズ・テイズ・ラッセルは,個人的にその助言を心に銘記しました。彼は繁盛する男性用服飾店を売り,徐々に他の事業への出資を減らし,それから人々を霊的に助けるために地上の所有物すべてを使いました。(マタイ 6:19-21と比較してください。)ラッセルはほんの数年間だけそのようにしたのではありません。まさに死に至るまで,自分が持つすべての有形無形の財産,つまり知力や体の健康や物質の所有物などをメシアの王国に関する偉大な音信を他の人に教えるために使ったのです。ラッセルの葬式の時に,仲間のジョセフ・F・ラザフォードはこう言いました。「チャールズ・テイズ・ラッセルは神に忠節であり,キリスト・イエスに忠節であり,メシアの王国の大義に忠節であった」。

1881年4月(聖書研究者たちの集会にほんの数百人しか出席していなかったころ),「ものみの塔」誌(英文)は,「1,000人の伝道者を求む」という題の記事を載せました。これには,扶養家族のいない男女が聖書文書を頒布する福音宣明者の仕事を始めるようにという呼びかけが含まれていました。その「ものみの塔」誌は,マタイ 20章1節から16節のイエスのたとえ話に出て来る表現を使って,「ぶどう園に行ってそこで働きたいという燃えるような願いを持ち,主が道を開いてくださることを祈ってきた人がおられるだろうか」と問いかけました。少なくとも自分の時間の半分を専ら主の業のために用いることのできる人々は,申し込むように勧められました。シオンのものみの塔冊子協会は,旅費と衣食住の費用の援助をするため,初期の聖書文書頒布者<コルポーター>に配布用の聖書文書を備え,文書に対するささやかな寄付として求めることのできる金額を定めた上で,そのようにして受け取ったお金の一部を自分のものにするよう勧めました。そのような取り決めにこたえ応じ,聖書文書頒布者<コルポーター>の仕事を始めた人がいるでしょうか。

1885年までに,300人ほどの聖書文書頒布者<コルポーター>が協会のもとで働いていました。1914年には,ついにその数が1,000人を超えました。それは簡単な仕事ではありませんでした。ある聖書文書頒布者<コルポーター>は,四つの小さな町の家々を訪ね,ある程度の関心を示した人にわずか三,四人しか会わなかった時にこう書きました。「正直に言って,こんなに遠くまでやって来て,非常に多くの人に会ったのに,神のご計画と教会に対する関心がほとんどないのを見て少し寂しく感じました。私がきちんと,恐れずに,真理を示すことができるよう,また善を行なうのにうみ疲れることがないよう,皆さんの祈りで私を助けてください」。

彼らは進んで自らをささげた

それらの聖書文書頒布者<コルポーター>は真の先駆者でした。ごく単純な乗り物しかなく,道といっても大抵はわだちしかなかったころに,彼らは最も行きにくい辺ぴな所に出かけてゆきました。ニュージーランドのアーリー姉妹はそのようにした人たちの一人です。第一次世界大戦が始まるかなり前から1943年に亡くなるまで,そうした全時間の奉仕に34年間をささげました。姉妹は国内のかなりの地域を自転車で回りました。関節炎で足が不自由になり,自転車に乗れなくなった時でさえ,自転車によりかかり,自転車で本を運びながらクライストチャーチのビジネス街を奉仕しました。階段を上ることはできましたが,足が不自由だったので下りる時は後ろ向きに下りなければなりませんでした。それでも,力が少しでも残っているかぎり,姉妹はその力をエホバへの奉仕に用いました。

そのような人々がこの仕事を始めたのは,自信があったからではありません。中には,生まれつき非常に引っ込み思案な人たちもいましたが,それでも彼らはエホバを愛していました。そのような姉妹の一人はビジネス街で証言する前に,近くにいる聖書研究者の一人一人に,自分のために祈ってほしいと頼みました。やがて,経験を積んでゆくうちに,姉妹はその活動をたいへん熱心に行なうようになりました。

1907年,マリンダ・キーファーは全時間奉仕を始めたいという願いをラッセル兄弟に伝えた時,まず知識を増やす必要があると思っていることを話しました。事実,彼女が聖書研究者の文書を初めて見たのはその前年にすぎませんでした。ラッセル兄弟の答えはこうでした。「すべてのことが分かるまで待ちたいと思っているとすれば,いつまでたっても始められません。むしろそれは行ないながら学ぶものなのです」。彼女はためらうことなくすぐに米国オハイオ州でその奉仕を始めました。よく思い出したのは,「あなたの民は進んで自らをささげます」という詩編 110編3節の言葉です。それから76年間,彼女はその奉仕を続けました。 * 始めた時は独身でした。15年間は結婚した夫婦として奉仕を楽しみました。しかし夫を亡くした後も,彼女はエホバの助けによって前進し続けました。数十年を振り返り,彼女はこう言いました。「若い時に開拓者として進んで自らをささげ,王国の関心事をいつも第一にすることができて本当によかったと思います」。

初期のころは,全体大会が開催される時に聖書文書頒布者<コルポーター>たちとの特別な集まりがよく開かれました。質問に対する答えが与えられ,新しい人たちの訓練が行なわれ,励ましが与えられました。

1919年以降,神の王国を非常に高く評価し,本当に神の王国を中心にして生活を築いたエホバの僕たちはほかにも大勢いました。中には,世俗の仕事をやめて宣教に完全に打ち込むことのできた人たちもいました。

物質的な必要を賄う

彼らはどのようにして物質的な必要を賄ったのでしょうか。デンマークの全時間の福音宣明者,アンナ・ピーターセン(後のレマー)はこう述懐しました。「私たちは文書の配布を毎日の出費の足しにすることができましたし,必要なものはそんなに多くありませんでした。大きな出費があった時も,必ず何とかなりました。姉妹たちからはワンピースや上着など,いろいろな服をよくいただいたので,すぐにその場で身に着け,着ることができました。ですから,服は十分にありました。冬には,数か月事務の仕事をしたこともあります。……売り出しの時に買い物をしたので,一年を通じて,必要な服を買うことができました。順調だったので困ったことは一度もありません」。物質的なものは彼らのおもな関心事ではありませんでした。エホバとエホバの道に対する愛は彼らの中で燃える火のようになりました。彼らはその愛を表わさずにはいられなかったのです。

彼らは地域の人々を訪問している間,小さな部屋を借りて寝泊まりすることがありました。また,トレーラーを使った人もいましたが,それは凝った装備など何もない,ただ食べて寝るだけの所でした。あちこち移動しながら,テントの中で眠った人たちもいました。場所によっては,兄弟たちが“開拓者キャンプ”を作ることもありました。また,地域の証人たちが家を提供してくれることもあり,そういう場合は一人の人が家を管理する仕事を割り当てられました。その地域で奉仕する開拓者たちはその宿舎を使うことができ,使った人たちで関係する経費を分担しました。

それらの全時間奉仕者は,羊のような人々にお金がなくても聖書文書を渡すようにしました。開拓者たちはよく,ジャガイモ,バター,卵,生の果物,缶詰の果物,鶏,石けんなど,ほとんどすべてのものと出版物を交換しました。彼らはそのようにして裕福になったわけではありません。むしろ,それは誠実な人々が王国の音信を聞くようにするための手段であり,同時に,開拓者たちが生活に必要な物資を得て宣教を続けられるようにするための手段でした。彼らは,「王国と神の義をいつも第一に求め(る)」なら,そのとき,必要な食物や衣服は備えられるというイエスの約束を信頼していました。―マタイ 6:33

必要な所ならどこでも喜んで奉仕する

全時間の奉仕者たちは,イエスが弟子たちに割り当ててくださった業を行ないたいと真剣に願っていたので,新しい区域,時には新しい国にさえ出かけてゆきました。フランク・ライスは1931年に,オーストラリアを離れてジャワ(現在はインドネシアの一部)で良いたよりを宣べ伝える活動を開始するよう依頼された時,すでに全時間宣教を10年経験していました。しかし今度は,新しい習慣と新しい言語を学ばなければなりません。店や事務所にいる人たちには英語を使って証言することもできましたが,他の人々にも証言したいと思いました。それで一生懸命勉強した結果,3か月足らずで家から家の伝道を始められる程度のオランダ語をマスターしました。それからマレー語の勉強もしました。

フランクはジャワに行った時,26歳の若さでした。ジャワとスマトラにいた6年間のほとんどは一人で働きました。(1931年の終わりに,クレム・デシャンとビル・ハンターがオーストラリアからやって来て仕事を助けました。彼らはコンビを組んで内陸部を旅行しながら宣べ伝えましたが,フランクはジャワの首都の中かその近郊で働きました。後に,クレムとビルも別々の地域に行く割り当てを受けました。)フランクが出席できる会衆の集会はありませんでした。時には非常に寂しくなることもありました。あきらめてオーストラリアに戻ろうという考えとも再三闘いました。しかし,彼はくじけませんでした。どうしてでしょうか。「ものみの塔」誌に含まれている霊的な食物によって力を得たからです。1937年には,インドシナの任地に移りましたが,そこでは第二次世界大戦後の激しい動乱の時期をかろうじて生き延びることができました。そのような進んで奉仕する精神は1970年代になってもまだ衰えていませんでした。彼はそのころ,家族全員がエホバに仕えていることの喜びについてしたため,妻と一緒にもう一度オーストラリアの必要の大きな所に移る準備をしていると述べました。

『心をつくしてエホバに依り頼む』

クロード・グッドマンは,『心をつくしてエホバに依り頼み,自分の理解に頼らない』ことを決意したので,クリスチャンの福音宣明者として,世俗の事業の好機ではなく聖書文書頒布者<コルポーター>の奉仕を選びました。(箴言 3:5,6)彼は真理を学ぶ時に援助を受けたロナルド・ティピンと共に,英国で1年余り聖書文書頒布者<コルポーター>として奉仕しました。それから1929年に,二人はインドに行くことにしました。 * こうして,大きな難問が二人に突きつけられました。

その後何年もの間,二人は徒歩や旅客列車やバスだけでなく,貨物列車,牛車,ラクダ,サンパン(小舟),人力車,さらには飛行機や私有の列車などでも旅行しました。時には,駅の待合室,家畜小屋,ジャングルの草むら,牛糞にまみれた小屋の床などに寝袋を広げたこともあれば,豪華なホテルやラージャ(王侯)の宮殿に泊まった時もありました。二人は使徒パウロのように,乏しい時にもあふれるほど豊かな時にも満足する秘訣を学び取りました。(フィリピ 4:12,13)大抵,高価な物はほとんど持っていませんでしたが,本当に必要な物がなかったことは一度もありませんでした。二人は,王国と神の義をいつも第一に求めるなら,生活で必要な物は備えられるというイエスの約束が果たされるのを身をもって体験しました。

デング熱,マラリア,腸チフスといった重い病気にもかかりましたが,仲間の証人たちが愛情をこめて看護してくれました。カルカッタなどの薄汚れた都会で奉仕したこともあれば,セイロン(現在の名称はスリランカ)の山岳地にあるお茶の大農園で証言したこともありました。人々の霊的な必要を満たすため,文書を提供したり,地元の言語のレコードをかけたり,講演を行なったりしました。仕事が増えてゆくと,クロードは印刷機の操作の仕方や,協会の支部事務所の仕事の扱い方も覚えました。

彼は生涯の87年目に,イギリス,インド,パキスタン,セイロン,ビルマ(現在のミャンマー),マラヤ,タイ,オーストラリアでエホバに奉仕した波乱に富んだ人生を振り返ることができました。独身の若者としても,夫や父親としても,いつも生活の中で王国を第一にしました。彼はバプテスマを受けてから2年足らずで全時間奉仕を始め,それ以降その奉仕を自分の生涯の仕事とみなしました。

神の力は弱さのうちに全うされた

ベン・ブリッケルも,それらの熱心な証人たちの一人でした。他の人たちと全く同じように様々な事柄を必要とし,幾つかの病気も抱えていましたが,信仰の点では際立っていました。1930年にニュージーランドで聖書文書頒布者<コルポーター>の活動を始め,いろいろな区域で証言しましたが,再びそれらの区域が網羅されるようになったのは何十年か後のことでした。2年後にはオーストラリアで,以前に証言が行なわれたことのない砂漠地方に出かけ,そこを回りながら5か月間の伝道旅行をしました。自転車には,毛布,衣服,食物,配布用の書籍をどっさり積んでいました。その地域を通過しようとして命を落とした人々もいましたが,彼はエホバを信頼して進みました。次はマレーシアでの奉仕です。そこでは重い心臓病を患いましたが,それでもやめませんでした。しばらく休養した後,オーストラリアで全時間の伝道活動を再開しました。約10年後には重病のために入院しました。退院の時には,医師から,「仕事をする力は85%減少した」と言われました。通りを歩いて買い物をするにも,途中で休まなければならない状態でした。

しかし,ベン・ブリッケルは,もう一度やり直すことを決意し,必要な時には休むようにしながら活動を行ないました。やがて,オーストラリアの険しい奥地で再び証言するようになりました。彼は健康管理のためにできることを行ないましたが,30年後に60代の半ばで亡くなるまで,彼の人生の主要な事柄はエホバへの奉仕でした。 * 弱さから来る不足はエホバの力によって補われることを彼は理解しました。1969年にメルボルンで大会があった時には,「開拓奉仕について知りたい方は私にお尋ねください」という大きなバッジを襟に付け,開拓者デスクで奉仕しました。―コリント第二 12:7-10と比較してください。

ジャングルの村や鉱山の集落を訪れる

エホバの奉仕に対する熱意に動かされ,手つかずの地域で働くようになった人々の中には,男性だけではなく女性もいました。フリーダ・ジョンソンは油そそがれた人々の一人で,やや小柄な女性でした。中央アメリカの各地を独りで奉仕し,ホンジュラスの北海岸のような地域を馬に乗って回ったのは50代の時でした。この地域を独りで奉仕し,散在するバナナ農園や,ラセイバ,テラ,トルヒーヨといった町々だけでなく,はるか遠くのカリブ族の僻村にまで出かけてゆくには信仰が必要でした。彼女は1930年から1931年にかけて,また1934年,1940年,1941年にもそこで証言し,聖書の真理を載せた文書を非常にたくさん配布しました。

その時期に,生涯の仕事として全時間宣教を始めた熱心な奉仕者がもう一人います。それはドイツ生まれのカーテ・パルムです。彼女を行動へと動かしたのは,1931年にオハイオ州コロンバスの大会に出席したことでした。その大会で,聖書研究者たちはエホバの証人という名称を採用しました。その時,彼女は王国を第一に求めることを決意し,89歳になった1992年の時点でも依然そうしていました。

彼女はニューヨーク市で開拓奉仕を始めました。その後サウス・ダコタ州では,パートナーのいた時期が数か月ありましたが,それからは独りで生活し,馬に乗って旅をしました。南米のコロンビアで奉仕するよう招かれた時はすぐにそれに応じ,1934年の終わりにそこに着きました。またしても,しばらくの間はパートナーと一緒でしたが,それからは独りになりました。それでも,やめなければならないとは感じませんでした。

ある夫婦がチリで一緒に奉仕するよう招いてくれました。これも広大な区域です。南米大陸の西海岸に沿って4,265㌔も広がっています。彼女はまず首都にあるオフィス街を回って宣べ伝えてから,はるかな北方に向かいました。採鉱の集落や一企業に依存する町など,大小さまざまな町村をもれなく訪れ,どこでも戸別に証言しました。アンデスの山奥の労働者たちは,女性が独りで訪問してきたのを見て驚きましたが,彼女は自分に割り当てられた地域で一人も見逃すことがないよう決意していました。それから南部に移りました。南部には,10万㌶もあるエスタンシア(羊の牧場)が幾つかありました。そこの人々は人なつこく,もてなし上手で,彼女を食事に招いてくれました。エホバはこうした方法や他の方法で彼女を顧みられたので,彼女は生活に必要な物資を得ることができました。

彼女は,専ら神の王国の良いたよりを宣べ伝える人生を送りました。 * そして,奉仕の年月を振り返って,こう言っています。『実に豊かな日々を送ったという感じです。毎年,エホバの民が集まる大会に出席するごとに,以前自分と研究した多くの人々が良いたよりの伝道者となり,さらに他の人を助けて命の水に導いているのを見て,心あたたかく,満たされた気持ちを覚えました』。彼女は,エホバの賛美者がチリで約50人から4万4,000人余りにまで増えるのを見て喜んでいます。

「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」

ドイツのマーティン・ポエツィンガーは,イザヤ 6章8節に記録されている,奉仕に対するエホバからの招きと,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」という預言者の積極的な反応とに基づく講演を聞いた後にバプテスマを受けました。2年後の1930年には,バイエルンで全時間宣教を始めました。 * 程なくして,地方当局はエホバの証人の伝道を禁止し,集会場を閉鎖し,文書を没収しました。ゲシュタポの脅威もありました。しかし,1933年のそうした事態の進展を見ても,ポエツィンガー兄弟は宣教をやめませんでした。

彼はブルガリアで奉仕するよう招かれました。ブルガリア語の証言カードを使って聖書文書を紹介しましたが,多くの人は字が読めませんでした。それでポエツィンガー兄弟は,キリル文字を使った彼らの言語を学ぶためにレッスンを受けました。ある家族のもとに文書を残してきたとしても,多くの場合,幼い子供たちがそれを親に読んであげることが必要でした。

最初の年のほとんどの期間,ポエツィンガー兄弟は独りでした。「記念式の時は,自分で話をし,自分で祈り,閉会も全部自分でしました」と,兄弟は書いています。1934年中,外国人は国外に退去させられたため,彼はハンガリーに行きました。そこでも,良いたよりを伝えることができるよう,新しい言語を学ばなければなりませんでした。ハンガリーの次は旧チェコスロバキアや旧ユーゴスラビアといった国々にも行きました。

文書の入った荷物を背負って田舎の地方や村落を歩きながら,真理を愛する人々を見つけること,もてなし上手の人々が食べ物をくれたり,泊めてくれたりした時に,エホバの世話を経験すること,王国に関する慰めの音信をもっと聞くために宿にやって来た人たちと夜遅くまで話をすることなど,彼は多くの楽しい経験をしました。

信仰の厳しい試みもありました。故国を離れて資金を持たずに奉仕していた時に重い病気にかかりました。喜んで診察してくれるような医師は一人もいません。しかし,エホバが必要を顧みてくださいました。どのようにでしょうか。最後になって,地元の病院の主任顧問医に会うことができました。聖書を固く信じていたこの人は,息子に対するようにしてポエツィンガー兄弟を世話し,しかも無料で面倒を見てくれました。その医師は,若いポエツィンガー兄弟の活動に現われていた自己犠牲の精神に感銘を受け,協会の本を1セット贈り物として受け取りました。

結婚して4か月後にもう一つの厳しい試みが訪れました。ポエツィンガー兄弟は1936年12月に逮捕され,最初はある強制収容所に監禁され,それから別の収容所に移されました。一方,妻はさらに別の強制収容所に入れられていました。二人は9年間互いに会うことができませんでした。エホバはそのような残忍な迫害を阻止されませんでしたが,マーティンと妻のゲルトルート,それに他の幾千人もの人々に,迫害を耐えるための力をお与えになりました。

夫婦とも釈放された後,ポエツィンガー兄弟はドイツで長年にわたり旅行する監督として奉仕を楽しみました。ニュルンベルクにあったヒトラーのかつての閲兵場で戦後の時期に開かれた興奮に満ちた大会にも出席しました。ただしその時に,それらの閲兵場を埋め尽くしたのは,神の王国の忠節な支持者たちの大勢の群衆でした。また,ニューヨークのヤンキー・スタジアムで開かれた忘れ難い大会にも出席しました。ものみの塔ギレアデ聖書学校の訓練も十分に楽しみました。そして1977年には,エホバの証人の統治体の一員になりました。1988年に地上の歩みを終えるまで持っていた見方を最もよく表わしているのは,次の言葉かもしれません。『私が行なうのは一つのこと,つまり王国を第一に求めることです』。

その本当の意味を学ぶ

自己犠牲の精神は明らかに,エホバの証人にとって新しい事柄ではありません。1886年の昔に「千年期黎明」の第1巻が出版された時,聖別(今で言う献身)の問題が率直に論じられました。真のクリスチャンはすべてのものを神のために「聖別する」こと,そのすべてのものの中には自分の能力,物質的な所有物,さらには命そのものが含まれているということが,聖書に基づいて指摘されました。ですからクリスチャンは,神のために「聖別された」ものの家令になり,そのような家令として,人にではなく神に言い開きをしなければなりません。

ますます多くの聖書研究者が,神への奉仕に本当に自分自身をささげるようになりました。そのような人々は,神のご意志を行なうために自分の能力や所有物や活力を十分に用いました。一方,最も大切なのは,いわゆるクリスチャンとしての人格を身に着け,キリストと共に王国にあずかる資格を得ることであると考える人々もいました。

ラッセル兄弟はしばしば,真のクリスチャン一人一人には神の王国について他の人々に証言する責任があると述べていましたが,そのことがなおいっそう強調されるようになったのは第一次世界大戦後のことでした。「ものみの塔」誌(英文),1926年5月1日号の「人格と契約,どちらが大切か」という記事はその際立った例です。その記事は,いわゆる人格陶冶の有害な影響を率直に取り上げてから,神に対する責務を行動によって果たすことの大切さを強調しました。

それよりも前に,「ものみの塔」誌(英文),1920年7月1日号は,『イエスの臨在と世の終わりの兆』に関するイエスの偉大な預言について検討しました。(マタイ 24:3,欽定)その号は,マタイ 24章14節の成就として行なうべき宣べ伝える業に注意を向けると共に,ふれ告げるべき音信を示し,「ここで言う良いたよりは,古い事物の秩序の終わりとメシアの王国の設立に関するものである」と述べました。「ものみの塔」誌は,イエスがしるしの他の特色との関連において,どの箇所でその業のことを述べているかを根拠に,その業は「世界大戦[第一次世界大戦]の時と,主がマタイ 24章21節と22節で言及した『大患難』の時の間に」成し遂げられなければならないと説明しました。それは緊急な業でした。だれがそれを行なうのでしょうか。

この責任は明らかに,「教会」つまり真のクリスチャン会衆の成員にありました。しかし1932年に,その人々は「ものみの塔」誌(英文)の8月1日号を通して助言を与えられ,啓示 22章17節の精神と調和して共に業を行なうよう「エホナダブ級」に勧めました。地上の楽園での永遠の命という希望を持つエホナダブ級はそれにこたえ応じました。しかもその多くは熱心にそうしました。

この業が非常に肝要であるということは,大いに強調されてきました。「ものみの塔」誌(英文)は1921年に,「主の奉仕に参加することは集会に出席することと同じく肝要である」と言っています。また1922年には,「各自は福音の伝道者でなければならない」と指摘しました。1949年には,「エホバは宣べ伝えることを,だれもがこの世で行なえる最も大切な業とされた」と述べています。コリント第一 9章16節の使徒パウロの次の宣言も繰り返し引用されてきました。「わたしにはその必要が課せられてい(ま)す。実際,もし良いたよりを宣明しなかったとすれば,わたしにとっては災いとなるのです!」 この聖句は,エホバの証人一人一人に当てはめられてきました。

どれほど多くの人が,どの程度まで,なぜ伝道するのか

自分の意思に反して強制的にその業に参加させられた人がいるでしょうか。「ものみの塔」誌(英文)は,1919年8月1日号の中でこう答えています。「そのような人は一人もいない。だれも強制的に何かをさせられているわけではない。それは,主と主の義という大義を愛するがゆえに行なわれている全く純然たる自発奉仕である。エホバが人を徴集なさるようなことは決してない」。そのような奉仕の背後にある動機について,「ものみの塔」誌(英文),1922年9月1日号はこうも述べています。「本当に心に感謝を抱き,神が自分のためにしてくださった事柄を高く評価する人は,お返しに何かをしたいと願うようになる。自分に差し伸べられた神のご親切に対する当人の認識が深まれば深まるほど,当人の愛は深まり,当人の愛が深まれば深まるほど,神に仕えたいという願いは深まるのである」。その記事で説明されたとおり,神に対する愛は神のおきてを守ることによって示されるものであり,そのおきての一つは神の王国に関する喜ばしいおとずれを宣べ伝えることなのです。―イザヤ 61:1,2。ヨハネ第一 5:3

この活動を始めた人々は,この世の野心的な考えに引かれたのではありません。家から家に出かけて行ったり,街頭で文書を提供したりすれば,「愚かで,弱く,みすぼらしい」とみなされ,「軽べつされ,迫害され」,「この世の観点からは大したことのない」人々の部類に入れられることが,そのような人々に率直に説明されました。しかし彼らは,イエスとイエスの初期の弟子たちもそれと同じ扱いを受けたことを知っています。―ヨハネ 15:18-20。コリント第一 1:18-31

エホバの証人は,宣べ伝える活動によって何とか救いを勝ち取れると考えているのでしょうか。決してそうではありません。1983年以来,クリスチャンとしての円熟に向かって進歩するよう研究生を助けるために使われている,「唯一まことの神の崇拝において結ばれる」という本はその点を論じ,こう述べています。「さらに,イエスの犠牲によってとこしえの命を受ける機会がわたしたちのために開かれました。……これは自分の力で勝ち取る報いではありません。たとえエホバへの奉仕においてどんなに多くのことをしたとしても,わたしたちは決して,わたしたちに命を与える義務を神に負わせるような業績を築けるものではありません。とこしえの命は『わたしたちの主キリスト・イエスによる神の賜物』です。(ローマ 6:23。エフェソス 2:8-10)それでも,もしわたしたちがその賜物に対する信仰と,それが可能にされた方法に対する深い認識を抱いているなら,わたしたちはそのことをはっきりと表わします。エホバがご自分の意志を成し遂げる上でいかに驚嘆すべき仕方でイエスをお用いになられたか,またわたしたちすべてがイエスの足跡にしっかり従うことがいかに肝要なことかをはっきり理解すると,わたしたちはクリスチャンの奉仕の務めを生活の中で最も重要な事柄の一つにします」。

エホバの証人は全員,神の王国をふれ告げる人々であると言えるでしょうか。確かにそう言えます。エホバの証人であるということは,そういう意味なのです。今から50年余り前には,公に,また家から家に出かけて行って野外奉仕に参加する必要はないと考えていた人たちもいました。しかし今日,地元の会衆や世界的な組織の中での立場を理由に,そのような奉仕の免除を求めるエホバの証人は一人もいません。男性も女性も,若い人も年配の人も参加しています。これを貴重な特権,神聖な奉仕とみなしているのです。また,重い病気なのに奉仕を行なう人も少なくありません。体の具合いが悪くてどうしても家から家の奉仕に出かけてゆけない人も,ほかの方法を見つけて人々と接触し,個人的に証言を行なっています。

かつては,新しい人が野外奉仕に参加するのを早く認めすぎる傾向が時として見られました。しかしここ数十年は,野外奉仕を勧める前に,まず資格を満たすということが以前よりも強調されるようになりました。それはどういう意味でしょうか。その人たちが聖書についてすべてを説明できなければならないという意味ではありません。むしろ,「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」という本が説明しているように,聖書の基本的な教えを知り,それを信じていなければならないということです。また,聖書の規準に調和した清い生活を送っていなければならず,各自がエホバの証人になることを本当に望んでいなければなりません。

すべてのエホバの証人が同じ量の伝道を行なうことが期待されているわけではありません。事情はそれぞれ違います。年齢,健康,家族の責任,また認識の深さなどはみなその要素です。この点はいつの時代にも認められてきました。「ものみの塔」誌(英文),1950年12月1日号は,ルカ 8章4節から15節の種まき人に関するイエスのたとえ話の中の「良い土」について説明する際に,その点を強調しました。また,1972年に長老たちのために作られた「王国宣教学校課程」は,『魂をこめてエホバを愛する』という要求について分析し,「肝要なのは,だれかほかの人との比較でどれほどの量を行なうかということではなく,できるだけのことをするということである」と説明しています。(マルコ 14:6-8)しかし,その本は真剣な自己分析を勧め,そのような愛の意味するところを次のように示しました。「愛をもって神に仕えることには人の存在のあらゆる面が関係しており,命のうちにあるいかなる機能も能力も願望も除外されてはいない」。神のご意志を行なうために,わたしたちの能力すべて,魂全体をつぎ込まなければなりません。その教科書は,「神は単なる参加ではなく,魂をこめた奉仕を求めておられる」ことを強調しました。―マルコ 12:30

残念ながら,一つのことを重視するあまり別のことをおろそかにして極端に走るというのは,不完全な人間の傾向です。それで1906年の昔にラッセル兄弟は,自己犠牲は他の人を犠牲にするという意味ではない,と忠告する必要を感じました。それは,他の人に自由に伝道できるよう,妻や扶養しなければならない子供たち,さらには年取った親をきちんと世話することを怠るという意味ではないのです。それ以来,ものみの塔の出版物には,同様の諭しが時々載せられてきました。

組織全体は神の言葉の助けによって徐々に,クリスチャンとしての釣り合いの取れた状態に達するよう,つまり神への奉仕に熱意を示すと同時に,真のクリスチャンとしての生活のあらゆる面にふさわしい注意を向けるよう努めてきました。「人格陶冶」は間違った理解に基づいていたにしても,「ものみの塔」誌は,霊の実とクリスチャンの振る舞いを過小評価すべきではないことを示してきました。1942年の「ものみの塔」誌(英文)は極めて率直にこう述べています。「ある人たちは愚かにも,家から家の証しの業を行なっていれば,自分の欲望のおもむくままにどんな行動を取ったとしても処罰を免れることができると結論している。要求されているのは,単に証しの業を行なうことだけではないという点を忘れてはならない」。―コリント第一 9:27

優先させるべき事柄を優先させる

エホバの証人は,『王国と神の義を第一に求める』のは,優先させるべき事柄を優先させることにほかならないという点を理解するようになりました。そのことには,神の言葉の個人研究と,会衆の集会への定期的な出席を生活の中でふさわしく位置づけ,他の事柄を優先させないということが含まれます。また,神の王国に関する要求として聖書に説明されている事柄にかないたいという純粋な願いを反映した決定を下すことも関係しています。それには,家族生活,レクリエーション,世俗の教育,就職,仕事上の慣行,仲間の人たちとの関係などについて決定を下す際に,根拠として聖書の原則を用いることが含まれます。

王国を第一に求めるというのは,神の目的について他の人々に話す活動に毎月いくらか参加するだけのことではありません。他の聖書的な責務をきちんと果たしつつ,生活全体の中で王国の関心事を第一にすることを意味しているのです。

敬虔なエホバの証人が王国の関心事を促進する方法はたくさんあります。

ベテル奉仕の特権

ある人たちは,世界的なベテル家族の一員として奉仕しています。ベテル家族は,聖書文書を準備して出版する仕事,必要な事務を行なう仕事,そのような業務を支えるサービスを行なう仕事など,どんな仕事を割り当てられてもそれを自発的に行なう全時間奉仕者たちで成っています。それは,個人として目立った存在になったり,物質の所有物を得たりするための仕事ではありません。その人々はエホバを敬うことを願っており,食物や宿舎,また個人的な出費を賄うためのささやかな払い戻し金として与えられる備えに満足しています。ベテル家族の生き方のために,例えば米国の世俗の権威は,彼らを清貧の誓いをした聖職者とみなしています。ベテルにいる人々は,エホバへの奉仕のために,また非常に大勢のクリスチャンの兄弟たちや新たに関心を持った人たちの役に立つ,時には国際的なレベルの仕事を行なうために,自分の命を十分に用いられることを喜んでいます。エホバの証人である他の人たちと同様に,彼らも野外宣教に定期的に参加しています。

最初のベテル家族(あるいは,当時の言い方ではバイブル・ハウス家族)は,米国ペンシルバニア州アレゲーニーに住んでいました。1896年の時点で人員は12人でした。1992年には,99の国や地域で奉仕する1万2,900人余りのベテル家族の成員がいました。その上,協会の施設内に十分な住居がない場合は,他の幾百人もの自発奉仕者が仕事を手伝うためにベテル・ホームや工場に毎日通って来ます。彼らは行なわれている仕事に参加することを特権とみなしています。必要な場合は,協会が神の王国の良いたよりを世界中で宣べ伝える活動に関連して使う必要のある施設の建設を手伝うために,期間は様々に異なりますが,世俗の仕事や他の活動を後にすることを申し出る証人たちも大勢います。

世界中のベテル家族の成員の中には,それを生涯の仕事にした人が少なくありません。1977年にものみの塔協会の4代目の会長になったフレデリック・W・フランズは,その時点ですでに57年間ニューヨークのベテル家族の成員として過ごし,1992年に亡くなるまでさらに15年間ベテル奉仕を続けました。ハインリッヒ・ドウェンガーは1911年にドイツでベテル奉仕を始めて以来,どこに割り当てられても慎み深く奉仕してきました。亡くなった1983年にも依然として,スイスのトゥーンのベテル家族の成員として奉仕を楽しんでいました。スコットランド出身のジョージ・フィリップスは,1924年に(当時はケープタウンからケニアに至る地域の宣べ伝える活動を管轄していた)南アフリカの支部事務所へ行く割り当てを受け入れ,1982年に亡くなるまで南アフリカで奉仕を続けました。(その時点では,協会の七つの支部事務所と約16万人の証人たちがその地域で活動を行なっていました。)キャスリン・ボガード,グレイス・デチェッカ,イルマ・フレンド,アリス・ベルナー,メリー・ハナンといったクリスチャンの姉妹たちも,成人してから生涯をベテル奉仕にささげ,まさに亡くなる時までベテルで奉仕しました。ベテル家族の中にはそれと同じように,10年,30年,50年,70年,あるいはそれ以上奉仕してきた人々がほかにも大勢います。 *

自己犠牲を示す旅行する監督たち

世界中に,約3,900人の巡回監督と地域監督がいます。彼らも妻と一緒に,普通は自国内の必要とされているどんな場所にでも赴いて,割り当てを果たしています。中には,家を後にして,今では毎週,あるいは数週ごとに移動しながら割り当てられた会衆に奉仕している人も少なくありません。彼らは給料はもらいませんが,奉仕する場所で得られる食物と宿舎,さらには個人的な出費を賄うためのささやかな備えに感謝しています。1992年の時点で499人の巡回監督と地域監督が奉仕していた米国では,そうした旅行する長老たちの平均年齢は54歳でした。中にはその立場で30年,40年,あるいはそれ以上奉仕してきた人もいます。それらの監督たちが自動車で旅行する国は少なくありません。また,太平洋地域の区域では,民間会社の飛行機や船を使わなければならないことがよくあります。巡回監督が馬に乗って,あるいは徒歩で遠くの会衆を訪問する場所も珍しくありません。

開拓者たちは大切な必要を満たす

エホバの証人が一人もいない所で良いたよりの伝道を始めたり,ある地域で特別に必要とされるような援助を与えたりするために,統治体は特別開拓者を派遣するよう取り決めることがあります。特別開拓者は,野外宣教に毎月最低140時間を費やす全時間の福音宣明者です。彼らは自国や,場合によっては近くの国のどこでも必要とされている所で奉仕するために自分を差し出します。奉仕に関する要求からして,必要な物資を得るために世俗の仕事をする時間はほとんど,あるいは全く残らないので,彼らは家賃や他の必要物の出費に対するささやかな払い戻し金を受け取っています。1992年の時点で,世界各地に1万4,500人余りの特別開拓者がいました。

最初の特別開拓者が1937年に送り出された時,彼らは家の人のために玄関先で聖書の話のレコードをかけ,再訪問で聖書について話し合う基礎としてレコードを使う活動に率先しました。これは,すでに会衆があった大都市で行なわれました。数年後,特別開拓者たちは特に,会衆がない地域か,会衆が助けを大いに必要としている地域に派遣されるようになりました。彼らの効果的な働きの結果,幾百もの新しい会衆が設立されました。

彼らは区域を回って別の所に移るのではなく,関心を示したすべての人をその後も引き続き世話し,聖書研究を司会するようにして,一定の地域を繰り返し奉仕しました。関心を示す人のためには集会も開きました。例えば,アフリカ南部のレソトでのことですが,ある特別開拓者は新しい任地で働いた最初の週に,エホバの証人が神権宣教学校をどのように行なっているかを実際に来て見るよう,会う人すべてに勧めました。彼とその家族がすべてのプログラムを扱いました。次に彼は全員を「ものみの塔」研究に招待しました。最初の好奇心が満たされた後でも,30人が「ものみの塔」研究に出席し続けました。学校の平均出席者は20人でした。ギレアデで訓練を受けた宣教者たちが良いたよりの伝道を進めるのに大いに貢献した地域でも,その国で生まれた証人たちが特別開拓奉仕の資格を得るようになった時に拡大が速まることがありました。彼らのほうが地元の人々の中でいっそう効果的に働ける場合が少なくないからです。

これらの熱心な奉仕者たちのほかにも,さらに幾十万ものエホバの証人がやはり王国の関心事を力強く促進しています。この人々の中には,若い人も年配の人も,男性も女性も,結婚している人も独身の人も含まれています。正規開拓者は,野外宣教に毎月最低90時間を費やします。補助開拓者は少なくとも60時間です。彼らはどこで宣べ伝えるかを自分で決めます。ほとんどの人は設立された会衆と共に働きますが,孤立した地域に移る人もいます。彼らは何らかの世俗の仕事をして,自分自身の必要な物資を自分で賄います。あるいは家族が必要物を備えて援助する場合もあります。1992年には,91万4,500人余りが少なくともある期間,正規開拓者や補助開拓者としてそのような奉仕を行ないました。

特別な目的を持った学校

自発奉仕者たちをいろいろな種類の奉仕に備えさせるために,特別な学校が開かれています。例えば1943年以来,ギレアデ学校は幾千人もの経験を積んだ奉仕者に宣教者奉仕のための訓練を施してきました。卒業生は世界各地に派遣されています。1987年には,会衆の世話や他の責任を含む特別な必要を満たす助けとして,宣教訓練学校が開校されました。この学校を様々な場所で開く取り決めによって,生徒が本拠地に行くための旅行や,学校から益を受けるために別の言語を学ぶ必要は最小限に抑えられています。この学校に出席するよう招かれるのは皆,王国を本当に第一に求めている証拠を示してきた長老か奉仕の僕です。中には,他の国で奉仕するようになった人も少なくありません。彼らは,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と言った預言者イザヤのような精神を持っています。―イザヤ 6:8

すでに正規開拓者や特別開拓者として奉仕している人たちの効果性を高めるため,1977年に開拓奉仕学校が開校されました。世界中どこでも,この学校は可能な場合には巡回区ごとに開かれました。開拓者は全員,この2週間の課程から益を受けるよう招待されました。それ以来段階的に,最初の1年の奉仕を終えた開拓者たちが同じ訓練を与えられています。1992年までに,米国だけでも10万人余りの開拓者がその学校で訓練を受け,毎年1万人以上が訓練を受けていました。さらに,日本では5万5,000人,メキシコでは3万8,000人,ブラジルでは2万5,000人,イタリアでも2万5,000人が訓練を受けています。この課程のほかにも,開拓者たちは巡回監督が各会衆を年に2回訪問する時の特別な集まりや,年に一度の巡回大会の時に巡回監督と地域監督の両者を交えて開かれる特別な訓練の集まりを定期的に楽しんでいます。こうして,開拓者として奉仕する王国宣明者たちの大軍を構成する人々は,自発的に働く人たちというだけでなく,十分に訓練を受けた奉仕者でもあるのです。

必要の大きな所で奉仕する

地元だけではなく,良いたよりをふれ告げる人々の必要の大きな他の地域でも奉仕できるよう自分を差し出してきたエホバの証人は非常に大勢います。その中には,開拓者もそうでない人もいます。毎年,エホバの証人が定期的に訪問していない人々に証言するため,大抵は地元からかなり遠く離れた地域で,個人的に計画できる範囲によって数週間,あるいは数か月を過ごす人々も多くいます。さらには,長期にわたってそのような援助を行なうため,地元を離れて引っ越した人も大勢います。その中には,夫婦や,子供のいる家族もたくさん含まれています。彼らは比較的近い場所に引っ越す場合が多いとはいえ,中にはそのような引っ越しを長年にわたって繰り返す人もいます。こうした熱心な証人たちの中には,外国での奉仕を行なうようになった人たちさえ少なくありません。数年間そのようにした人もいれば,永住した人もいます。そのような人々は,自分の必要を賄うためにしなければならない世俗の仕事を行ないます。引っ越しも自費でします。事情が許す範囲でできるかぎり王国の音信を広めることに加わりたいというのが,そのような人たちの唯一の願いなのです。

家族の頭がエホバの証人ではない場合も,仕事の関係で家族が引っ越すことがあります。しかし,エホバの証人である家族の成員はそれを王国の音信を広める機会とみなすかもしれません。1970年代の後半に米国からスリナムのジャングルにある工事現場の宿泊所に移った二人のエホバの証人の場合は,確かにそうでした。二人は週に2回朝の4時に起き,大変な道を会社のバスで1時間かけて村に行っては一日伝道しました。やがて真理に飢えた人々と毎週30件の聖書研究を行なうようになりました。今日,その熱帯雨林にあったかつての手つかずの地域には一つの会衆があります。

証言する好機を一つも逃さない

もちろん,すべてのエホバの証人が,宣教を行なうために他の国,あるいは他の町に引っ越すわけではありません。そのような人々には,開拓奉仕ができない事情があるかもしれません。それでも彼らは,「真剣な努力をつくし」,『主の業においてなすべき事をいっぱいに』持ちなさいという聖書の訓戒をよく知っています。(ペテロ第二 1:5-8。コリント第一 15:58)彼らは王国の関心事を世俗の仕事やレクリエーションよりも優先させる時,王国を第一に求めていることを示します。王国に対する感謝が心に満ちている人々は,事情が許す範囲で野外宣教に定期的に参加します。また,事情を調整して,もっと十分参加できるようにする人々も少なくありません。さらに彼らは,王国について他の人々に証言する好機を逃さないよう絶えず気を配っています。

一例として,エクアドルのグアヤキルで金物店を経営していたジョン・フルガーラは,店内に聖書文書をきれいに展示しておきました。店員が注文の品をそろえてくるまでの間,ジョンは客に証言するのです。

ナイジェリアでも,電気請負師として家族を養っていた熱心なエホバの証人は,証言を行なうために仕事上の付き合いを十分活用することにしました。彼は事業を営んでいたので,活動の予定を決めました。毎朝,一日の仕事の前に,妻子と従業員と見習い工を集め,日々の聖句と「エホバの証人の年鑑」の経験を討議しました。さらに年頭にはいつも,2冊の雑誌と一緒にものみの塔協会のカレンダーを顧客に配りました。その結果,従業員と顧客の幾人かが共にエホバを崇拝するようになりました。

それと同じ精神を持っているエホバの証人は大勢います。彼らは何を行なう時でも,他の人々に良いたよりを伝える機会を絶えず探しているのです。

幸福な全時間の福音宣明者の大軍

エホバの証人が良いたよりの伝道に注ぐ熱意は,年月が経過しても薄れてはいません。関心がないとはっきり言う家の人は少なくありませんが,エホバの証人が聖書の理解を助けてくれたことに感謝している人も大勢います。エホバご自身がこの業は終わったとはっきり示される時まで宣べ伝え続けること,それがエホバの証人の決意なのです。

世界中のエホバの証人は全体として,手を緩めるどころか宣べ伝える活動を実際に強化してきました。1982年には,全世界の年間報告が示すとおり,3億8,485万6,662時間が野外宣教に費やされました。10年後(1992年)にその業に費やされた時間は10億2,491万434時間に上ります。活動がそれほど拡大したのはなぜでしょうか。

エホバの証人の数が増えたのは事実です。しかし,その増加率は時間の増加率には及びません。その期間に,エホバの証人の数は80%増えたのに対し,開拓者の数は250%跳ね上がりました。毎月平均して,全世界のエホバの証人の7人に一人が何らかの形の全時間の伝道活動を行なっていました。

そのような開拓奉仕に加わっていたのはどんな人たちでしょうか。例えば,韓国の証人たちの中には主婦が少なくありません。家族の責任があるので,だれでも定期的に開拓奉仕ができるわけではないにしても,学校の長い冬休みの時期を補助開拓奉仕の機会として活用する人は非常に大勢います。その結果,1990年1月には韓国のすべての証人たちの53%が何らかの形の全時間奉仕を行ないました。

初期のころ,フィリピンの証人たちは熱心な開拓者精神があったので,王国の音信を携えて,人の住んでいる国内の幾百もの島に出かけてゆくことができました。それ以来,そのような熱意はいっそう明らかになってきました。1992年には,毎月平均2万2,205人の伝道者がフィリピンで開拓者として野外宣教に加わっていました。その中には,「創造者を覚え」,神への奉仕に若い力を注ぎ込む道を選んだ多くの若者が含まれていました。(伝道の書 12:1)そのような若者の一人は,10年間開拓奉仕を行なった後にこう言いました。「辛抱すること,簡素な生活をすること,エホバに頼ること,謙遜になることを学びました。つらいことやがっかりすることも確かに経験しましたが,開拓奉仕がもたらす祝福に比べれば,そんなものは何でもありません」。

「ものみの塔」誌の1989年4月号と5月号は,大いなるバビロン,つまり世界中で様々な形態を持つ偽りの宗教を暴露する記事を特集しました。それらの記事は39の言語で同時に発行され,集中的に配布されました。開拓奉仕をする証人たちの割合が40%を超えることの多い日本では,その年の4月の活動に貢献するために4万1,055人が補助開拓者として働きましたが,それは新最高数でした。大阪府高槻市大塚会衆では,バプテスマを受けた伝道者77人のうち73人がその月に何らかの形の開拓奉仕を行ないました。日本のすべての伝道者がその肝要な音信を広める一端にあずかるよう勧められた4月8日には,横浜市潮田会衆のように,午前7時から午後8時まで一日中,地域の人々にできるだけ多く会うために街路での奉仕や家から家の奉仕を取り決めた会衆が幾百もありました。

どこでもそうですが,メキシコのエホバの証人も物質的な必要物を賄うために働いています。ところが1992年中,神の王国について学ぶよう真理に飢えた人々を助けるために,メキシコでも毎月平均5万95人のエホバの証人が都合をつけて開拓奉仕を行ないました。家族全員が,あるいは少なくとも家族の幾人かが開拓奉仕を行なえるように家中が協力したところもあります。彼らは実りのある宣教を楽しんでいます。1992年中,メキシコのエホバの証人は,個人や家族との家庭聖書研究を50万2,017件定期的に司会していました。

エホバの証人の会衆の必要を顧みる長老たちは重い責任を担っています。ナイジェリアの長老の大半は家族持ちの男性ですが,ほかの多くの場所の長老たちについても同じことが言えます。しかしそれらの男性の中には,会衆の集会を司会したり,それに参加したり,さらには神の羊の群れに対する必要な牧羊を行なったりするための準備のほかに,開拓奉仕をしている人もいます。どうしてそのようなことができるのでしょうか。多くの場合,入念に時間の予定を立てることと,家族がよく協力することが重要な要素となります。

全世界のエホバの証人が,『王国をいつも第一に求めなさい』というイエスの訓戒を心に留めているのは明らかです。(マタイ 6:33)彼らの行なっている事柄は,エホバに対する愛とエホバの主権に対する感謝の心からの表われです。詩編作者ダビデと同様に,彼らはこう言います。「王なるわたしの神よ,わたしはあなたを高めます。定めのない時に至るまで,まさに永久にあなたのみ名をほめたたえます」― 詩編 145:1

[脚注]

^ 8節 「ものみの塔」誌(英文),1906年8月15日号,267-271ページ。

^ 15節 「ものみの塔」誌(英文),1967年2月1日号,92-95ページをご覧ください。

^ 26節 「ものみの塔」誌,1974年3月15日号,184-189ページをご覧ください。

^ 32節 「ものみの塔」誌,1972年12月1日号,725-729ページをご覧ください。

^ 38節 「ものみの塔」誌,1964年2月15日号,124-126ページ。

^ 40節 「ものみの塔」誌,1970年3月1日号,153-156ページ; 1988年9月15日号,31ページをご覧ください。

^ 70節 「ものみの塔」誌,1987年5月1日号,22-30ページ; 1964年4月1日号(英文),212-215ページ; 1956年12月1日号(英文),712-719ページ; 1970年8月15日号(英文),507-510ページ; 1961年3月1日号,148-151ページ; 1968年9月15日号,566-569ページ; 1968年7月15日号,441-445ページ; 1959年4月1日号(英文),220-223ページをご覧ください。

[292ページの拡大文]

証言する責任がいっそう強調される

[293ページの拡大文]

彼らは家から家の証言を貴重な特権とみなす

[294ページの拡大文]

魂をこめた奉仕とは何かを理解する

[295ページの拡大文]

『王国を第一に求める』ことの本当の意味

[301ページの拡大文]

熱心なエホバの証人は,王国の関心事を世俗の仕事やレクリエーションよりも優先させる

[288ページの囲み記事/図版]

「九人はどこにいるのですか」

1928年のキリストの死の記念式で,「九人はどこにいるのですか」と題するパンフレットが出席者全員に配られました。クロード・グッドマンは,ルカ 17章11節から19節に関するその説明に感動し,聖書文書頒布者<コルポーター>,つまり開拓者の活動を始め,その奉仕をたゆまず続けたいと思うようになりました。

[296,297ページの囲み記事/図版]

ベテル奉仕

1992年の時点で,99の国や地域で1万2,974人がベテル奉仕を行なっている

[図版]

ベテル家族の成員にとって個人研究は大切

スペイン

各ベテル・ホームでは,一日の初めに聖句を討議する

フィンランド

世界中のエホバの証人と同様に,ベテル家族の成員も野外奉仕に参加する

スイス

毎週月曜日の晩に,ベテル家族は「ものみの塔」誌を一緒に研究する

イタリア

仕事の種類は様々だが,それはすべて神の王国をふれ告げる活動を支えるために行なわれる

フランス

パプアニューギニア

アメリカ

ドイツ

フィリピン

メキシコ

イギリス

ナイジェリア

オランダ

ブラジル

日本

南アフリカ

[298ページの囲み記事/図版]

ベテル奉仕を長く行なってきた幾人かの人々

F・W・フランズ ― アメリカ(1920-1992年)

ハインリッヒ・ドウェンガー ― ドイツ(1911-1933年のうち約15年間),ハンガリー(1933-1935年),チェコスロバキア(1936-1939年),スイス(1939-1983年)

ジョージ・フィリップス ― 南アフリカ(1924-1966年,1976-1982年)

二人合わせて136年間ベテル奉仕を行なった実の姉妹(キャスリン・ボガードとグレイス・デチェッカ)― アメリカ

[303ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

増加する開拓者

開拓者

伝道者

1982年以降の増加率

250%

200%

150%

100%

50%

1982 1984 1986 1988 1990 1992

[284ページの図版]

アーリー姉妹は,ニュージーランドのかなりの地域を自転車で旅行し王国の音信を伝えた

[285ページの図版]

マリンダ・キーファーは,独身者として,既婚者として,また夫を亡くした後も,全時間宣教に76年間打ち込んだ

[286ページの図版]

初期の開拓者の中には,あちこち移動する時に簡単なキャンピングカーで寝泊まりする人もいた

カナダ

インド

[287ページの図版]

フランク・ライス(右に立っている),クレム・デシャン(フランクの前に座っている。彼らの隣にいるのはクレムの妻ジーン)と,仲間の証人たちや新しく関心を持った人々を含むジャワの人々

[288ページの図版]

クロード・グッドマンは全時間宣教の生涯を送り,インドや他の7か国で奉仕した

[289ページの図版]

ベン・ブリッケルは健康だった時,その健康を生かしてエホバへの奉仕を楽しんだ。後に重い病気にかかったが,やめることはなかった

[290ページの図版]

カーテ・パルムは,チリの大都市のオフィス街から,最も辺ぴな鉱山の集落や羊の牧場に至るまで,あらゆる区域で証言した

[291ページの図版]

マーティン・ポエツィンガーとゲルトルート・ポエツィンガーの決意は次の言葉に表われている。『私が行なうのは一つのこと,つまり王国を第一に求めることです』

[300ページの図版]

開拓奉仕学校(下は日本での学校)は幾万人もの熱心な奉仕者たちに特別な訓練を施してきた