内容へ

目次へ

組織の構造の発展

組織の構造の発展

15

組織の構造の発展

最初にチャールズ・テイズ・ラッセルとその仲間たちが共に聖書を研究し始めた1870年以来,エホバの証人の組織の運営は幾つかの重要な変化を遂げてきました。初期の聖書研究者の人数が少なかったころは,外部の人から見れば組織らしいところはほとんどありませんでした。しかし今日,人々はエホバの証人の会衆や大会,また200以上の国や地域で行なわれている良いたよりの伝道を見て,組織が非常に円滑に運営されていることに驚きます。組織はどのように発展してきたのでしょうか。

聖書研究者たちは,聖書の教理を理解することに加えて,聖書に示されているような,神に対する奉仕の仕方を理解することにも深い関心を抱いていました。彼らは,平信徒に説教をする,肩書きを持つ僧職者という観念には聖書的な根拠が全くないことに気づきました。ラッセル兄弟は,自分たちの中には僧職者階級を設けまいと決めました。 * 「ものみの塔」誌の記事は,イエスがご自分の追随者たちに「あなた方の指導者はキリスト一人」であり,「あなた方はみな兄弟」であると言われたことを,しばしば読者に思い起こさせました。―マタイ 23:8,10

聖書研究者たちの初期の交わり

やがて,「ものみの塔」誌および同誌と関連した出版物の読者は,神を喜ばせるためには,書き記されたみ言葉よりも人間の信条や伝統を優先させて神に不忠実なものとなっているいかなる教会とも絶縁しなければならない,ということを理解しました。(コリント第二 6:14-18)しかし,キリスト教世界の諸教会から脱退した後,彼らはどこへ行ったのでしょうか。

ラッセル兄弟は「エクレシア」と題する記事 *の中で,クリスチャン会衆という真の教会は,人間製の信条を支持して教会の名簿に名前を載せている人々から成る組織ではないと指摘し,むしろ真の教会は,自分の時間や才能や人生を神のために“聖別し”(もしくは,献げ),キリストと共に天の王国にあずかる見込みを持つ人々から成るものであると説明しました。そして同兄弟は,それらの人々は,クリスチャン愛や共通の関心事というきずなによって結ばれたクリスチャンであり,神の霊の導きにこたえ応じ,キリストの頭の権に服するクリスチャンであると述べました。ラッセル兄弟は他の取り決めを設けることには関心がなく,自称クリスチャンたちの間に存在する分派主義に少しでも貢献することには強く反対しました。

それと同時にラッセル兄弟は,主の僕たちがヘブライ 10章23節から25節の諭しに調和して集まり合うことの必要性を十分認識していました。彼は個人的に旅行し,「ものみの塔」誌の読者を訪問して築き上げ,その地域に住む同じ思いを持つ他の人たちと引き合わせました。早くも1881年に彼は,定期的な集会を開いている人たちに,集会場所をものみの塔事務所に知らせるよう求めました。彼は常に連絡をとり合うことの価値に気づいていたのです。

しかし,ラッセル兄弟は自分たちが「地的な組織」を作ろうとしているのではないことを強調し,むしろ「『名が天に記されている』我々は,かの天的な組織だけを支持する(ヘブライ 12:23。ルカ 10:20。)」と述べました。キリスト教世界の汚れた歴史のため,“教会組織”と言うと,たいてい分派主義,僧職者による支配,宗教会議で作り出された信条に従うことを条件とする会員の地位などが連想されました。それでラッセル兄弟は,自分たちのことを述べる際には“交わり”という語のほうが良いと考えました。

ラッセル兄弟は,キリストの使徒たちが会衆を設立し,それぞれの会衆に長老たちを任命したことをよく知っていました。しかし同兄弟は,目に見えない仕方であるとはいえキリストが再び臨在しておられ,ご自分と共に相続人となる人々の最終的な収穫を自ら導いておられる,と信じていました。当初ラッセル兄弟は事情を考慮して,収穫の時の間は1世紀のクリスチャン会衆に存在していた長老の取り決めは必要ないと考えていました。

とはいえ,聖書研究者の数が増えるにつれ,ラッセル兄弟は自分の期待とは違った仕方で主が事を運んでおられることに気づきました。見方を調整しなければなりませんでした。しかし,何に基づいて調整するのでしょうか。

拡大する交わりの初期の必要にこたえる

「ものみの塔」誌(英文),1895年11月15日号の誌面のほぼ全体は,「適正に,また秩序正しく」という論題のために用いられました。その中でラッセル兄弟は次の点を率直に認めました。「使徒たちは聖なる者たちの集まりにおける秩序に関して,初期教会に多くのことを述べている。しかしながら,教会がその歴史の終わりに非常に近づいており,収穫の時は分ける業の時であるため,我々はその賢明な諭しを幾分重要性の低いものとみなし,その諭しに対して多少無頓着だったようである」。その諭しに対して新たな見方をするようになったのはなぜでしょうか。

その記事は次のような四つの事情を挙げていました。(1)明らかに,個々の人の霊的な進歩はまちまちである。すべての人が同じように誘惑や試練や苦難や危険に対処する用意ができているわけではない。したがって,賢くて思慮深い監督,つまり経験と能力があり,すべての人の霊的な福祉の世話をすることに深い関心を抱き,真理をもって人々を教えることのできる男子が必要である。(2)『羊の装いしたる狼』から群れを守らなければならないことが分かった。(マタイ 7:15,欽定)群れは,真理の徹底的な知識を得るよう,援助を受けて強められなければならない。(3)群れを保護する長老たちを任命する取り決めがないと,一部の者たちがその立場に自ら就き,群れを自分のものとみなすようになる,ということが経験から分かった。(4)秩序正しい取り決めがないと,真理に忠節な人々が,異議を唱える少数の人たちに影響されて,自分たちの奉仕は望まれていないと考えかねない。

以上の点を考慮して,「ものみの塔」誌はこう述べました。「すべての会においてその中から,群れを『養い』かつ『監督する』長老たちが選ばれるべきであるという使徒たちの諭しを,我々はいささかも躊躇することなく,人数の多少にかかわらず各地の教会 *に勧める」。(使徒 14:21-23; 20:17,28)各地の会衆はこの聖書からの健全な諭しにきちんと従いました。これは,使徒たちの時代のものと一致した会衆の組織を確立する上での重要な一歩となりました。

しかし,当時の理解の仕方に合わせて,長老たち,および長老を補佐する執事たちの選出は会衆の選挙によって行なわれました。毎年,あるいは必要な場合にはもっと頻繁に,奉仕する可能性のある人たちの資格が考慮され,選挙が行なわれました。それは基本的に言って民主的な手順でしたが,安全装置として機能するよう意図された制限によって抑制されていました。会衆の全員は,聖書的な資格を注意深く復習し,自分自身の意見ではなく,主のご意志であると信じる事柄を選挙によって表明するよう勧められました。選挙に加わる資格は「十分に聖別された」人たちにしかありませんでしたから,み言葉と主の霊に導かれている場合には,集団としての彼らの選挙は問題に関する主のご意志の表明とみなされました。ラッセル兄弟はあまり意識していなかったかもしれませんが,彼がこの取り決めを推薦したことには,高位の僧職者階級とのいかなる類似点も避けるという彼の決意だけでなく,十代のころ組合教会に属していたという彼自身の経歴も,ある程度の影響を与えていたようです。

「千年期黎明」の一巻を成す「新しい創造物」(1904年発行)と題する本の中で長老の役割と長老の選出方法が再び詳しく論じられましたが,その際,使徒 14章23節に特別な注意が向けられました。『彼らを長老に叙任し』(欽定)という言葉は「挙手によって彼らを長老に選出し」と訳すべきであるという見解の根拠として,ジェームズ・ストロングとロバート・ヤングが編纂した聖書語句索引が引用されました。 * 聖書翻訳の中には,長老たちは『選挙によって任命された』と述べているものさえあります。(ヤングの「聖書の字義訳」。ロザハムの「エンファサイズド・バイブル」)しかし,だれがその選挙を行なうべきだったのでしょうか。

選挙は会衆全体が行なうべきであるという見解を採ったからといって,必ずしも期待どおりの結果が得られたわけではありません。選挙を行なう人たちは“十分に聖別された”人でなければならず,選出される人たちは聖書的な資格に本当にかなっており,兄弟たちに謙遜に仕えました。しかし,往々にして選挙は,み言葉と神の霊よりも個人的な好みを反映したものとなりました。例えばドイツのハレでは,自分たちが長老になるものと考えていた特定の人たちが,望んでいた立場を得られなかった時に大騒動を引き起こしました。ドイツのバルメンでは,1927年の候補者の中に協会の活動に反対する人たちが含まれており,選挙の際に挙手が行なわれている間じゅうかなりの叫び声が飛び交ったため,無記名投票に切り替えなければなりませんでした。

これらの出来事が生じる幾年か前の1916年に,ラッセル兄弟は深い懸念を抱き,こう書きました。「選出が行なわれる時期に,幾つかのクラスではひどい事態が生じている。教会の僕たちが支配者や独裁者になろうとしており,場合によっては,恐らく自分や特定の仲間たちが長老や執事に選出されるようにするため,集会の司会者の立場を占めてさえいる。……中には,自分と仲間にとって特に都合の良い時に選挙を行なって,ひそかにクラスを利用しようとする者もいる。また,ある者たちは自分の仲間で集会を満員にしようとして,あまり見たことのない人々を連れ込む。それらの人々は定期的にクラスに出席することなど毛頭考えていないのに,単に友情の行為として仲間の一人を選出するためにやって来る」。

彼らは選挙をもっと円滑に民主的な方法で行なう方法を学ぶだけでよかったのでしょうか。それとも,彼らがまだ気づいていない,神の言葉に基づく事柄があったのでしょうか。

良いたよりが宣べ伝えられるように組織する

ラッセル兄弟はまさに当初から,クリスチャン会衆の各成員に課された最も重要な責任の一つは福音宣明の業であるということを認識していました。(ペテロ第一 2:9)「ものみの塔」誌は,「エホバがわたしに油をそそぎ,……良いたよりを告げるようにされた」というイザヤ 61章1節の預言的な言葉が当てはまるのはイエスお一人ではなく,霊によって油そそがれた追随者全員であると説明しました。「ジェームズ王欽定訳」では,その聖句を引用したイエスの言葉が,『福音を宣べさせんとて我に油そそぎたまえり』と訳されています。―ルカ 4:18

早くも1881年には,「ものみの塔」誌に「1,000人の伝道者を求む」という記事が載せられました。これは,多少にかかわらず可能な時間(30分あるいは1時間,2時間,3時間)を用いて聖書の真理を広める業にあずかるようにという,会衆の各成員に対する呼びかけでした。扶養家族がなく,自分の時間の半分以上を専ら主の業のために費やすことのできる男女は,聖書文書頒布者<コルポーター>という福音宣明者として働くよう励まされました。年によって人数はかなり変動しましたが,1885年までには,聖書文書頒布者<コルポーター>としてこの業にあずかっている人は約300人になっていました。ほかにも,もっと限られた範囲で参加した人たちがいました。聖書文書頒布者<コルポーター>たちには,業を行なう方法について提案が与えられました。しかし,畑は広大だったので,少なくとも当初,彼らは自分たちで区域を選び,多くの場合,最善と思えると別の場所に移りました。そして,大会に集まったときに,自分たちの奉仕を調節するために必要な調整を行ないました。

聖書文書頒布者<コルポーター>の奉仕が始まったのと同じ年に,ラッセル兄弟は無償配布用の幾つかの冊子(または小冊子)を印刷させました。中でも際立っていたのは,最初の4か月間で120万部も配布された「考えるクリスチャンのための糧」でした。この印刷と配布の取り決めに関する仕事のため,必要な細かい事柄の世話をする目的で「シオンのものみの塔冊子協会」が設立されました。ラッセル兄弟は,自分が死んだ場合にも業が途絶えないようにするため,また業に用いられる寄付の取り扱いを容易にするため,協会の登記を申請し,協会は1884年12月15日に正式に登録されました。こうして,必要とされる法的機関が存在するようになりました。

必要が生じるにつれ,ものみの塔協会の支部事務所が他の国や地域にも開設されました。まず1900年4月23日,英国のロンドンに,そして1902年,ドイツのエルバーフェルトに開設され,2年後には,地球の裏側,オーストラリアのメルボルンに支部が設けられました。本書執筆の時点で,全世界に99の支部があります。

大量の聖書文書を供給するのに必要な組織的な取り決めが形を整えつつあったとはいえ,当初,それらの文書を公に配布する地元の取り決めを設けることは会衆に任されていました。ラッセル兄弟は1900年3月16日付の手紙の中で,この点に関する自分の見方を述べました。「アレキサンダー・M・グラハムとマサチューセッツ州ボストンの教会」宛のその手紙には,こう書かれています。「皆さんもご存じのとおり,主の民の各会に,自らの判断に基づいて自らの物事を管理するよう任せ,干渉ではなく単に助言によって提案を差し伸べる,というのが私の断固たる考えです」。このことには,集会だけでなく,野外宣教の行ない方も含まれていました。それで,ラッセル兄弟は兄弟たちに幾らかの実際的な助言を与えた後,結びに「これは提案にすぎません」と述べました。

中には,協会からのもっと明確な指導を必要とする活動もありました。「創造の写真劇」の上映に関して,地元での上映のために劇場などの施設を借りる気持ちがあるか,また借りることができるかどうかについて,各会衆に決定が委ねられました。とはいえ,器材を都市から都市へ移動する必要があり,スケジュールを合わせなければならなかったので,それらの点に関しては協会が中心となって指導を与えました。各会衆は地元での取り決めを世話する劇委員会を設けるよう勧められましたが,すべてがきちんと円滑に進むよう,協会から派遣された監督者が細かな点に十分の注意を払いました。

1914年,そして1915年が経過する間,それら霊によって油そそがれたクリスチャンたちは自分たちが抱く天的な希望の成就を切に待ち望んでいました。それと同時に,彼らは主への奉仕に忙しく携わるよう励まされました。たとえ彼らが肉体を着けて過ごす残された時は非常に短いと考えていたとしても,良いたよりの伝道を秩序正しく行なうためには,わずか数百人だったころ以上の指導が必要である,ということが明らかになりました。その指導は,J・F・ラザフォードがものみの塔協会の2代目の会長になってから間もなく,新たな局面を迎えました。1917年3月1日号の「ものみの塔」誌(英文)は,今後,聖書文書頒布者<コルポーター>や会衆の牧羊の働き人 *の働く区域はすべて協会の事務所から割り当てられる,と発表しました。一つの都市または郡において地元の奉仕者と聖書文書頒布者<コルポーター>が一緒にそのような野外奉仕を行なっている場合には,地元で任命された地域の委員会によって両者に区域が分割されました。この取り決めは,1917年から1918年にかけて数か月間だけ行なわれた「終了した秘義」の実に驚異的な配布に役立ちました。また,キリスト教世界を強力に暴露した「バビロンの倒壊」という主題のパンフレット1,000万部の電撃的な配布を成し遂げるためにも重要な役割を果たしました。

その後まもなく,協会の管理役員たちは逮捕され,1918年6月21日に20年の刑を宣告されました。良いたよりの伝道は事実上停止してしまいました。彼らが最終的に天の栄光のうちに主と結ばれる時が来たのでしょうか。

数か月後に戦争は終わり,翌年には,協会の役員たちが釈放されました。彼らはまだ肉体を着けていました。彼らはそうなるとは期待していませんでしたが,神がこの地上で自分たちに行なわせようとしておられる仕事がまだあるに違いないと結論しました。

彼らは信仰の厳しい試みを経験したばかりでしたが,「ものみの塔」誌(英文)は1919年に,「恐れなき者は幸いなり」という主題の,人を鼓舞する聖書研究によって彼らを強めました。その続きには「奉仕の機会」という記事がありました。しかし兄弟たちは,その後の数十年間に広範な組織上の発展が生じるとは思ってもいませんでした。

群れに対するふさわしい模範

ラザフォード兄弟は,時がいかに短いとしても,秩序正しく一致のうちに業が前進し続けるためには群れに対するふさわしい模範が不可欠であるということを確かに認識していました。イエスはご自分の追随者を羊と呼ばれました。羊は羊飼いに従います。言うまでもなく,イエスご自身が立派な羊飼いです。しかしイエスは,ご自分の民の従属の羊飼いとして,年長者つまり長老たちをお用いになります。(ペテロ第一 5:1-3)それらの長老たちは,イエスから割り当てられた業に自ら参加し,またそうするよう他の人を励ます人でなければなりません。長老たちは真に福音宣明の精神を持っていなければなりません。ところが,「終了した秘義」の配布が行なわれた時期に,一部の長老たちはしりごみしてしまい,中には他の人が業にあずかるのを思いとどまらせようとして声高に意見を述べる者さえいました。

「黄金時代」誌の発行が始まった1919年に,このような状況を正すための非常に重要な措置が講じられました。同誌は,人類の諸問題の唯一の永続的な解決策である神の王国を広く知らせるための強力な道具となるはずでした。この活動にあずかることを望む各会衆は,協会に“奉仕組織”として登録を申請するよう勧められました。そして,奉仕の主事として知られるようになった主事が,年ごとの選挙とは関係なく,協会によって任命されました。 * 主事は地元における協会の代表者として業を組織し,区域を割り当て,野外奉仕に会衆が参加するよう励ますことになっていました。こうして,民主的に選出された長老や執事と共に,別のタイプの組織上の取り決めが機能し始めました。それは,地元の会衆の外にある,任命を行なう権威を認め,神の王国の良いたよりの伝道を一層重視する取り決めでした。 *

その後の期間,王国宣明の業には,抗し難い力に動かされたかのように大きな弾みがつきました。1914年およびそれ以降の出来事は,主イエス・キリストが古い体制の終結について述べられた重要な預言が成就しつつあることを明らかに示していました。その点を考慮して1920年に「ものみの塔」誌は,マタイ 24章14節で予告されていたとおり,今は「古い事物の秩序の終わりとメシアの王国の設立」に関する良いたよりをふれ告げるべき時である,と指摘しました。 *マタイ 24:3-14)1922年,オハイオ州シーダーポイントでの聖書研究者の大会から帰る出席者たちの耳には,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」というスローガンが鳴り響いていました。さらに,1931年にエホバの証人という名称が採択された時,真のクリスチャンの役割に一層明確に注意が向けられるようになりました。

エホバがご自分の僕たちに,彼らすべてがあずかれる業を割り当てられたことは明らかでした。熱烈な反応が見られました。この業に全時間を費やすため,多くの人が生活を大幅に調整しました。限られた時間だけを費やす人々の中にも,週末には一日じゅう野外奉仕を行なう人がかなりいました。当時のエホバの証人の多くは,1938年と1939年の「ものみの塔」誌や「通知」に載せられた励ましにこたえ応じ,毎月60時間を野外奉仕に費やすよう良心的に努力しました。

それらの熱心な証人たちの中には,会衆の長老である,エホバの謙遜で献身的な僕たちが大勢いました。しかし,1920年代から1930年代の初めにかけて,場所によっては,あらゆる人が野外奉仕に参加するという考えに対してかなりの抵抗も生じました。民主的に選出された長老たちが,会衆外の人々に伝道する責任について述べた「ものみの塔」誌の内容に対して声高に異議を唱えることも少なくありませんでした。それらのグループの中では,この点について神の霊が聖書を通して諸会衆に述べる事柄を聴くまいとしたため,神の霊の流れが阻害されました。―啓示 2:5,7

このような状況を正すため,1932年に幾つかの措置が講じられました。一部の目立った長老たちの気分を害するかどうか,あるいは会衆と交わっているある人々が去るかどうかということは,主要な関心事ではありませんでした。むしろ,兄弟たちはエホバを喜ばせ,エホバのご意志を行なうことを願っていました。そのために,同年8月15日号と9月1日号の「ものみの塔」誌(英文)は「エホバの組織」という主題を際立たせました。

同誌の記事は,本当にエホバの組織に属する人は皆,この時期に行なわれなければならないとみ言葉が述べている業を行なっているはずである,とはっきり指摘しました。また,それらの記事は,クリスチャンの長老の立場とは選挙によって就くことのできる職ではなく,霊的な成長によって達する状態であるという見解を支持しました。特に強調されたのは,イエスの追随者が『みな一つになる』ように,つまり神とキリストに結びつき,そのようにして神のご意志を行なう点で互い同士一致するように,というイエスの祈りでした。(ヨハネ 17:21)どんな結論に達しましたか。2番目の記事が示す答えによると,「残りの者に属する人は皆,エホバ神のみ名と王国の証人でなければならない」のです。監督の仕事は,公の証言にあずかるために道理にかなった範囲でできる事柄を行なわない人や,行なうことを拒む人に委ねるわけにはゆきません。

これらの記事の研究の終わりに,諸会衆は自分たちの賛同を表わす決議を採択するよう勧められました。こうして,長老と執事になる男子を会衆が年ごとに選出することは廃止されました。他の場所と同様に北アイルランドのベルファストでも,かつて“選出長老”だったある人々は会衆を去り,彼らと同じ見解を持つ他の人々も行動を共にしました。その結果,人数は少なくなりましたが,組織全体が強められました。残った人々は,証言するというクリスチャンの責任を喜んで担う人々でした。依然として民主的な方法を用いていたとはいえ,諸会衆は選挙で長老を選ぶ代わりに,公の証言に活発にあずかっている霊的に円熟した男子から成る奉仕委員会 *を選出しました。それに加えて会衆の成員は,集会を主宰する司会者,および書記と会計係を選挙で選びました。これらの男子はみな,エホバの活発な証人でした。

今や,会衆を監督する仕事は,自分の立場ではなく,神のみ名と王国について証言するという神の業を行なうことに関心を抱く男子,自らその業に参加して良い模範を示す男子に委ねられ,神の業は一層円滑に前進するようになりました。当時は理解されていなかったことですが,なすべき多くの事柄,つまりそれまでに行なわれた以上に広範な証言の業,予想していなかった集める業がありました。(イザヤ 55:5)エホバがその業のために彼らを備えさせておられたことは明らかです。

彼らと共に,地上でとこしえに生きるという希望を抱く少数の人々が交わり始めていました。 * しかし聖書の予告によると,来たるべき大患難のあいだ保護される見込みを持つ大いなる群衆(または大群衆)が集められることになっていました。(啓示 7:9-14)1935年に,この大いなる群衆の実体が明らかになりました。1930年代に行なわれた監督たちの選出に関する変更により,組織は,大いなる群衆を集めて教え,訓練するという業を世話するために一層良い備えができました。

大部分のエホバの証人にとって,このように業が拡大されたことは胸の躍るような事態の進展でした。彼らの行なう野外宣教に新たな意義が加えられたのです。しかし,中には熱心に宣べ伝えない人もいました。そうした人たちはしりごみし,ハルマゲドン後にならないと大いなる群衆は集められないと主張して,自分たちの不活発さを正当化しようとしました。とはいえ,大部分の人は,エホバに対する忠節と仲間の人間に対する愛を実証する新たな機会があることに気づきました。

大群衆に属する人々はどのようにして組織の構造の中にふさわしい場を得たのでしょうか。彼らは,霊によって油そそがれた者たちの「小さな群れ」に神の言葉が割り当てた役割を教えられ,その取り決めと調和して喜んで働きました。(ルカ 12:32-44)また,霊によって油そそがれた者たちと同様に,自分たちにも他の人に良いたよりを伝える責任があることを学びました。(啓示 22:17)彼らは神の王国の地上の臣民となることを望んでいたので,自らの生活の中でその王国を第一にし,その王国について他の人に熱心に語るべきでした。大患難の際に保護されて神の新しい世に入る人々に関する聖書の描写と合致して,彼らは,「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と『大声で叫びつづける』人々でなければなりません。(啓示 7:10,14)1937年,大群衆に属する人々の人数が増え始めるとともに,主に対する彼らの熱意が明らかになったので,彼らも会衆を監督する責任の荷を担う手助けをするよう招かれました。

しかし彼らは,組織はエホバのものであり,いかなる人間のものでもないということを思い起こさせられました。霊によって油そそがれた者たちの残りの者とほかの羊の大群衆に属する人々の間に分裂があってはなりませんでした。両者はエホバへの奉仕において兄弟姉妹として共に働くべきなのです。イエスが,「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」と言われたとおりです。(ヨハネ 10:16)この言葉の現実性が明らかになりつつありました。

それまでの比較的短期間に,組織内で驚くべき進展が見られました。しかし,霊感を受けたみ言葉に述べられているエホバの方法と十分に調和して会衆の物事が行なわれるようにするため,なすべきことがほかにもあったでしょうか。

神権組織

“神権政治”とは“神による支配”を意味します。諸会衆はそのような支配を受けていたでしょうか。諸会衆はエホバを崇拝するだけでなく,会衆の物事を導いてくださるようエホバに頼っていたでしょうか。それらの点に関して,霊感を受けたみ言葉の中で神が述べておられる事柄に十分従っていたでしょうか。1938年6月1日号と15日号の「ものみの塔」誌(英文)に掲載された,2部から成る「組織」という記事は,「エホバの組織は決して民主的なものではない。エホバは至上の方であられ,エホバの統治もしくは組織は全く神権的なものである」とはっきり述べました。とはいえ,当時の各地のエホバの証人の会衆では,集会や野外奉仕の監督の任に当たる人々の大半を選ぶ際に民主的な手順が依然として用いられていました。さらに変更が加えられるのは適切なことでした。

しかし,使徒 14章23節が示すところによると,会衆の長老たちは,選挙の場合のように『手を差し伸べる』ことによって職に任じられるべきだったのではないでしょうか。「ものみの塔」誌に掲載された「組織」と題するその記事の第1部は,この聖句に関する以前の理解が間違っていたことを認めました。1世紀のクリスチャンの間での任命は,会衆の全成員が『手を差し伸べる』ことによって行なわれたのではありません。むしろ,『手を差し伸べた』のは使徒たち,および使徒たちから権威を与えられた人たちであるということが示されました。それは,会衆の選挙に参加することによってではなく,資格ある人の上に手を置くことによってなされました。手を置くことは確認や承認や任命の象徴でした。 * 初期クリスチャンの諸会衆が資格ある男子を推薦することもありましたが,最終的な選出や承認は,キリストから直接任命された使徒たち,あるいは使徒たちから権威を与えられた人たちが行ないました。(使徒 6:1-6)「ものみの塔」誌は,使徒パウロが聖霊の導きのもとに監督の任命に関する指示を与えているのは,責任ある監督たち(テモテとテトス)に宛てた手紙の中だけであるという事実に注意を引きました。(テモテ第一 3:1-13; 5:22。テトス 1:5)諸会衆に宛てられた霊感を受けた手紙の中には,そのような指示を含むものは一つもありませんでした。

では,当時,会衆での奉仕の立場への任命はどのように行なわれたのでしょうか。「ものみの塔」誌は神権組織に関して分析を行ない,以下の点を聖書から示しました。エホバはイエス・キリストを「会衆の頭」に任命された。主人であるキリストは再来の時に,ご自分の「忠実で思慮深い奴隷」に「自分のすべての持ち物」に対する責任を委ねる。その忠実で思慮深い奴隷を構成するのは,キリストの共同相続人となるために聖霊によって油そそがれ,キリストの指導のもとに一致して仕えている,地上にいるすべての人である。キリストはその奴隷級を,諸会衆に対して必要な監督を行なうための代理者としてお用いになる。(コロサイ 1:18。マタイ 24:45-47; 28:18)霊感を受けた神の言葉に明示されている指示を祈りのうちに適用し,その指示を用いて,だれが奉仕の立場に就く資格を持つのかを決定するのは,奴隷級の義務となります。

キリストが用いることになっていた目に見える代理者は忠実で思慮深い奴隷である(そして,すでに考慮した現代の歴史上の事実によれば,その“奴隷”は法的機関として,ものみの塔協会を用いている)ため,「ものみの塔」誌は,神権的な手順を踏むには奉仕の立場への任命はこの代理者によって行なわれる必要がある,と説明しました。ちょうど1世紀の諸会衆がエルサレムの統治体を認めていたのと同様,今日の諸会衆も中央からの監督がなければ霊的に繁栄しないでしょう。―使徒 15:2-30; 16:4,5

しかし,平衡の取れた見方ができるように,次の点が指摘されました。それは,「ものみの塔」誌が“協会(英語,The Society)”に言及する場合,その語は単なる法的機関ではなく,その法人団体を設立して用いている油そそがれたクリスチャンの一団を意味するという点です。ですから,“協会”という表現は,統治体を含む忠実で思慮深い奴隷を表わしました。

1938年に「組織」と題する「ものみの塔」誌の記事が出る前でさえ,ロンドン,ニューヨーク,シカゴ,ロサンゼルスの各会衆は,少人数のグループに分会したほうがよいほどの人数に達した時に,僕たち全員の任命を協会に依頼しました。そして,「ものみの塔」誌(英文),1938年6月15日号は他のすべての会衆に,同様の行動をとるよう勧めました。そのために,次のような決議が提案されました。

「我々,み名のために取り出された神の民の会は,今..............................において,……神の統治は純然たる神権政治であること,キリスト・イエスは神殿におられて,エホバの目に見える組織と目に見えない組織を全面的に託され,統御しておられること,および“協会”は地上における目に見える主の代表者であることを認める。それゆえ我々は,この会を奉仕のために組織し,この会の様々な僕たちを任命するよう“協会”に依頼する。それは,我々すべてが平和と義と調和と全き一致のうちに共に働くためである。我々はここに,より十分に円熟し,それゆえ奉仕のための各々の立場に就くに最もふさわしいと思われる,この会の人々の名簿を添付する」。 *

エホバの証人のほとんどすべての会衆はすぐにこの取り決めに同意しました。ためらいを示した少数の人たちは,やがて王国をふれ告げる業に全くあずからなくなり,そのようにしてエホバの証人ではなくなりました。

神権的な指導の益

教え,行動の規準,組織や証言に関する手順などが土地ごとに決められるなら,組織がやがて同一性や一致を失ってしまうことは明らかです。兄弟たちは社会や文化や国の違いによって,たやすく分裂してしまうかもしれません。一方,神権的な指導が行なわれるなら,霊的な進歩によってもたらされる益は全世界の会衆すべてに滞りなく確実に浸透するでしょう。そのようにして,イエスがご自分の真の追随者たちの間に行き渡るようにと祈られた純粋な一致が存在するようになり,イエスの命じられた福音宣明の業が十分に成し遂げられるでしょう。―ヨハネ 17:20-22

しかし一部には,J・F・ラザフォードはこの組織上の変更を推し進めることによって証人たちに対する支配を強めようとしているにすぎないとか,この手段を用いて自分自身の権威を主張しているなどと唱える人たちもいました。本当にそうだったのでしょうか。ラザフォード兄弟が強い信念の持ち主だったことに疑問の余地はありません。彼は,真理であると信じる事柄のためには,力強く,また妥協することなく率直に話しました。さらに,人々が主の業よりも自分自身を重視していることに気づくと,かなりぶっきらぼうに事態を扱うこともありました。しかし,ラザフォード兄弟は神のみ前で全く謙遜な人でした。それは,1974年に統治体の成員となったカール・クラインが後に次のように書いたとおりです。「朝の崇拝の際のラザフォード兄弟の祈りは,私が同兄弟を慕うようになった理由(となっています)。兄弟は非常に力強い声をしていたにもかかわらず,神に呼びかける際には,あたかも幼い男の子がお父さんに話しているかのような声で話しました。それはエホバとの優れた関係を明らかにするものでした」。ラザフォード兄弟は目に見えるエホバの組織の同一性に関して全き確信を抱いており,エホバがご自分の僕たちに与えておられる霊的な食物や導きから各地の兄弟たちが十分な益を得るのを,だれにも,またどんなグループにも絶対に妨げさせまいとしました。

ラザフォード兄弟は,ものみの塔協会の会長として25年間奉仕し,組織の業の前進のために全精力を傾けたとはいえ,エホバの証人の指導者ではありませんでしたし,指導者になりたいとも思いませんでした。同兄弟は,亡くなる少し前の1941年,ミズーリ州セントルイスの大会で,指導の問題について話し,こう述べました。「私は,人間が自分たちの指導者になることに関する皆さんの考えを,この場におられる外部の方々に知っていただきたいと思います。外部の方々に銘記していただくためです。事が生じて発展し始めると,その都度,大勢の支持者を有する指導者である人間がいると言われます。聴衆の中に,ここに立っているこの私がエホバの証人の指導者だと考えている方がおられるなら,“はい”と答えてください」。それに対して,聴衆は水を打ったように静まり返り,静けさを破るのは幾人かの聴衆の力のこもった否定の声だけでした。話し手が続けて,「ここにいる皆さんが,私は主の僕の一人にすぎず,私たちは神とキリストに仕え,一致のうちに肩を並べて働いていると信じておられるなら,“はい”と答えてください」と言うと,出席者は一斉に大声できっぱりと「はい!」と答えました。翌月,英国の聴衆も全く同じ反応を示しました。

地域によっては,神権組織の益をすぐに実感できました。他の地域ではもっと時間がかかり,円熟した謙遜な僕でなかった人々はやがて除かれて,他の人が任命されました。

それでも,神権的な手順が一層十分に確立されるにつれ,エホバの証人はイザヤ 60章17節に予告されていた事柄を経験して歓びました。その箇所でエホバは,神の僕たちの間に存在するようになる改善された状態を比喩的な言葉遣いで描写し,こう述べておられます。「わたしは銅の代わりに金を携え入れ,鉄の代わりに銀を,木の代わりに銅を,石の代わりに鉄を携え入れる。わたしは平和をあなたの監督たちとして任命し,義をあなたに労働を割り当てる者たちとして任命する」。ここに述べられているのは,人間が行なう事柄ではなく,むしろ,神ご自身が行なわれる事柄であり,それに服するときに神の僕たちが受ける益です。彼らの中には必ず平和が行き渡り,義に対する愛が,仕えるよう彼らを駆り立てる力となるに違いありません。

ブラジルの支部の監督の妻モード・ユーリがラザフォード兄弟に寄せた手紙には,こう書かれていました。「『塔』,[1938年]6月1日号と15日号の『組織』という記事を読んで,エホバに用いられて忠実に奉仕しておられる兄弟にどうしても一言エホバへの感謝をお伝えしたいと思いました。その二つの号の『ものみの塔』誌に概略が示されたとおり,エホバは目に見えるご自分の組織のためにすばらしい取り決めを設けてくださったからです。……“女権”とか,[エホバ神とイエス・キリストの代わりに]その地方特有の見解や個人的な判断を人に押し付けてエホバのみ名に非難をもたらす非聖書的な手順とかいうような,“井の中の蛙的な支配”が終わって,本当にほっとしています。確かに,『協会が組織内のすべての人を“僕”と呼ぶようになったのは最近』にすぎませんが,私は兄弟が,その前も長年にわたり,兄弟たちとの手紙のやり取りの中で,ご自分を『主の恩寵による,皆さんの兄弟また僕』と呼んでおられることを存じております」。

この組織上の調整に関して,英国諸島の支部はこう報告しました。「この調整は実に驚くべき良い成果を上げました。この調整に関するイザヤ 60章の詩的・預言的な描写は非常に美しいものですが,その描写は誇張ではありません。真理にいる人は皆,この調整について話しており,その話題で持ち切りでした。全般に活気に満ちた雰囲気,統制の取れた戦いを喜んで推し進めようとする態度が行き渡っていました。世界の緊張が高まる中で,神権支配には喜びが満ちていました」。

旅行する監督たちが諸会衆を強める

旅行する監督たちの奉仕の結果,組織上の結びつきは一層強化されました。1世紀に,使徒パウロは際立った仕方でそのような活動に携わりました。また,バルナバやテモテやテトスといった男子が加わることもありました。(使徒 15:36。フィリピ 2:19,20。テトス 1:4,5)彼らは皆,熱心な福音宣明者だっただけでなく,講話を行なって諸会衆を励ましました。諸会衆の一致に影響を及ぼしかねない論争が生じた時,それらの論争は中央の統治体に提出されました。そして,責任を委ねられた人々は「諸都市を回って旅行を続けながら,エルサレムにいる使徒や年長者たちの決めた定めを守り行なうようそこの人たちに伝え(ました)」。どんな結果になりましたか。「諸会衆は信仰において堅くされ,日ごとに人数を増して」ゆきました。―使徒 15:1–16:5。コリント第二 11:28

既に1870年代には,ラッセル兄弟は聖書研究者のグループを ― 大きなグループだけでなく,二,三人のグループも ― 訪問し,霊的に築き上げていました。1880年代には,他の少数の兄弟たちが加わりました。その後,1894年に,真理に関する知識と認識の点で成長し,一層しっかり結び合わされるよう聖書研究者たちを援助するため,協会が十分資格のある講演者をもっと定期的に旅行させる取り決めが設けられました。

可能であれば,講演者は一つのグループと共に1日,時には数日を過ごしました。そして,一つか二つの公開講演を行なった後に,より少人数のグループや個人を訪問して,神の言葉のより深い事柄を幾つか討議しました。米国とカナダの各グループを年に2回訪問する努力が払われました。もっとも,同じ兄弟が訪問することはあまりありませんでした。これら旅行する講演者を選ぶに当たって重視されたのは,柔和さ,謙遜さ,真理に関する明確な理解,また真理に忠節に付き従う態度や真理を明快に教える能力でした。それは決して有給の宣教ではありませんでした。彼らは地元の兄弟たちから食物と宿舎だけを提供してもらい,必要に応じて協会から旅費の援助を受けました。彼らは巡礼者として知られるようになりました。

それら協会の旅行する代表者たちの多くは,彼らが仕えた人々から深く愛されました。カナダ人のA・H・マクミランは,神の言葉が「燃える火のように」なっていた兄弟として人々の記憶に残っています。(エレミヤ 20:9)まさしく彼は神の言葉について語らねばならず,実際にそうしました。カナダだけでなく米国の多くの場所や他の国々でも聴衆に話を行ないました。もう一人の巡礼者,ウィリアム・ハーシーは,若者に特別の気遣いを示したことで懐かしく思い出されます。彼の祈りも忘れ難い印象を残しました。老若を問わず人々の心を打つ深い霊性が表われていたからです。

初期の巡礼者にとって,旅行は楽なものではありませんでした。例えば,エドワード・ブレニセンは,オレゴン州クラマスフォールズの近くのグループで奉仕するため,まず列車を使い,次いで一晩じゅう乗り合い馬車に乗り,最後に,がたがた揺れる四輪馬車で,集会が行なわれている山の農場まで旅をしました。集会の翌日の朝早く,一人の兄弟が馬を用意してくれ,ブレニセンはその馬に乗って100㌔ほど離れた最寄りの鉄道の駅へ行き,次の訪問地まで旅行することができました。大変な生活でしたが,巡礼者たちの努力は大いに報われました。エホバの民は強められ,神の言葉の理解の点で一致し,地理的には広い範囲に散らばっていても,一層しっかり結び合わされました。

1926年,ラザフォード兄弟は,巡礼者の仕事を,単なる旅行する講演者としての仕事から,旅行しながら会衆の野外奉仕を監督・促進する者としての仕事に変更する取り決めを実施し始めました。彼らの新たな責任を強調するため,1928年,彼らは地区の奉仕の主事と呼ばれるようになりました。彼らは地元の兄弟たちと緊密に働き,野外奉仕において兄弟たちを個人的に教えました。当時,米国と他の幾つかの国の各会衆を年に一度ぐらい訪問できましたし,同時に,奉仕のためにまだ組織されていない個々の人や少人数のグループとも連絡を保っていました。

その後幾年もの間に,旅行する監督の仕事には様々な変更が加えられました。 * 会衆の僕すべてが神権的に任命された1938年,旅行する監督の仕事は大幅に強化されました。それから数年間,一定の間隔を置いて行なわれた諸会衆への訪問は,任命された僕各人を個人的に訓練し,野外奉仕の面ですべての人に一層多くの援助を与える機会となりました。1942年,旅行する監督たちは再び諸会衆へ遣わされる前に集中的な授業を受けました。その結果,彼らの働きはさらに統一のとれたものとなりました。彼らの訪問は本当に短いもの(会衆の規模に応じて1日から3日)でした。訪問中,旅行する監督は会衆の記録類を調べ,すべての僕と会合して必要な助言を与え,会衆に話を行ない,野外奉仕に率先しました。1946年,訪問は延長され,一つの会衆につき1週間となりました。

諸会衆を訪問するこの取り決めを補うものとして,1938年,地区の僕の奉仕に新たな役割が与えられました。地区の僕はより広い場所を受け持つようになり,地帯(巡回区)を旅行して諸会衆を訪問している兄弟たち一人一人と共に定期的に1週間を過ごしました。訪問中,地区の僕は,その地帯の全会衆が出席する大会のプログラムを扱いました。 * この取り決めは兄弟たちを大いに鼓舞するとともに,新たな弟子たちがバプテスマを受けるための定期的な機会を備えるものとなりました。

『奉仕を愛する人』

1936年からこの奉仕に加わった人々の中に,1974年に統治体の成員となったジョン・ブースがいます。ブースは,旅行する監督者になる見込みのある人として面接を受けた際,「必要とされているのは雄弁な話し手ではありません。奉仕を愛し,奉仕に率先し,集会で奉仕について話す人であればそれでよいのです」と言われました。ブース兄弟は,1928年以来熱心な開拓奉仕を行なってきたことから分かるとおり,エホバへの奉仕に対してそのような愛を抱いていました。そして,模範と励ましの言葉によって,他の人たちのうちに福音宣明に対する熱意をかき立てました。

1936年3月にブース兄弟が初めて訪問したのは,ペンシルバニア州イーストンの会衆でした。彼は後にこう書いています。「私は普通一つの場所に午前中の野外奉仕に間に合うよう到着し,晩の早い時間に会の僕たちと集まりを持ち,その後に会全体と別の集会を開きました。通常,一つの会と過ごすのは二日だけで,小さな群れとは1日しか一緒に過ごしませんでした。時にはそのような群れを1週間に六つ訪問することもありました。私は絶えず動いていました」。

2年後の1938年,ブース兄弟は地区の僕として地帯大会(現在は巡回大会と呼ばれている)を毎週扱う割り当てを受けました。幾つかの場所で迫害が厳しさを増していた時期に,地帯大会は兄弟たちを強めるのに役立ちました。ブース兄弟は当時のことや様々な責任を思い出しながら,こう述べました。「まさに[私がインディアナ州インディアナポリスで約60人のエホバの証人の関係する訴訟の証人となったのと]同じ週に,私はイリノイ州ジョリエットでの別の訴訟で被告になっており,インディアナ州マディソンでのもう一つの訴訟ではある兄弟の弁護人になっていました。それに加えて,毎週末には地帯大会の割り当てがありました」。

そのような地帯大会が(今度は巡回大会として)1946年に再開されてから2年後,ケアリー・バーバーは地域の僕の一人として割り当てを受けました。バーバーはそれ以前の25年間,ニューヨーク市ブルックリンのベテル家族の一員でした。彼の最初の地域区は米国の西部全域にわたっていました。初めは,大会から大会へ毎週1,600㌔ほど旅行しました。会衆の数と規模が大きくなるにつれ,旅行の距離は短くなり,一つの主要都市圏内で数多くの巡回大会が開かれることも少なくありませんでした。バーバー兄弟は旅行する監督として29年の経験を積んだ後,1977年に,統治体の成員として世界本部に戻るよう招待されました。

戦争と厳しい迫害の期間中,旅行する監督たちはしばしば自らの自由と命を危険にさらして兄弟たちの霊的な福祉を顧みました。ベルギーがナチ占領下にあった時期に,アンドレイ・ウォズニークは会衆を訪問し続け,会衆への文書の供給を手伝いました。ゲシュタポは何度もあと一歩のところまで迫りましたが,結局彼を捕まえることができませんでした。

ローデシア(今はジンバブエと呼ばれている)では,1970年代後半の内戦の期間中,人々はおびえながら生活し,旅行は縮小されました。しかし,エホバの証人の旅行する監督たちは愛ある羊飼いまた監督として,兄弟たちにとって『風からの隠れ場のように』なりました。(イザヤ 32:2)旅行する監督の中には,幾つもの山を越え,危険な川を渡り,野宿しながら荒れ地を何日も歩く人たちもいました。それはすべて,孤立した会衆や伝道者を訪問し,確固とした信仰を保ち続けるよう励ますためでした。アイザヤ・マコレもその一人です。彼は,政府軍兵士と“自由の闘士”の戦闘の際に,弾丸が頭の上を飛び交う状況のもとで,危うく難を逃れました。

長年のあいだ国際的に組織に仕えてきた旅行する監督たちもいます。ものみの塔協会の歴代の会長は,組織上の必要に注意を向け,大会で話を行なうために,しばしば他の国や地域へ旅行しました。そのような訪問は,あらゆる場所のエホバの証人が自分たちの国際的な兄弟関係を強く意識し続けるのに大いに役立ちました。ノア兄弟は特にこの活動を定期的に行ない,各支部や宣教者の家を訪問しました。組織が大きくなると,世界は10の国際的な地帯に分けられました。そして,この奉仕に定期的に注意を向けることができるよう,1956年1月1日から,資格ある兄弟たちが会長の指導のもとにこの奉仕を補佐し始めました。そうした地帯訪問は,今では統治体の奉仕委員会の指導のもとに行なわれ,引き続き組織全体の世界的な一致と前進に寄与しています。

そのほかにも幾つかの重要な進展が現在の組織の構造に寄与してきました。

さらに神権的に調整される

第二次世界大戦たけなわの1942年1月8日にジョセフ・F・ラザフォードは亡くなり,ネイサン・H・ノアがものみの塔協会の3代目の会長になりました。組織の活動に多くの国で禁令が課され,暴徒が愛国心を装って暴行を働き,証人たちが公の宣教で聖書文書を配布したかどで逮捕されたため,組織には重圧が加わりました。そうした危機的な時期に,管理責任者の交替によって業の速度は鈍るでしょうか。管理上の事柄を扱う兄弟たちは指導と祝福を求めてエホバに頼りました。彼らは神の導きを求める願いに調和して組織の構造自体を再吟味し,エホバの方法に一層厳密に合わせることのできる分野があるかどうかを調べました。

その後,1944年にペンシルバニア州ピッツバーグで,ものみの塔協会の年次総会に関連して奉仕大会が開かれました。9月30日,その年次総会に先立ち,エホバの僕たちの組織について聖書の述べている事柄を扱った一連の非常に重要な話が行なわれました。 * 統治体に対して集中的に注意が向けられました。その際,忠実で思慮深い奴隷級が用いる代理機関すべてに神権的な原則を適用しなければならないという点が強調されました。また,“聖別された”神の民すべてがその法人団体の会員なのではないということが説明されました。その法人団体は神の民を代表し,神の民のために法的代理機関として活動しているにすぎないのです。しかし,協会は,霊的な啓発を含む文書をエホバの証人に供給するために用いられる広報代理機関であるため,論理的に言って,また必然的に,統治体はこの法律上の協会の役員や理事たちと密接に提携していました。協会の業務には神権的な原則が十分に適用されていたでしょうか。

協会の定款には出資者の取り決めが述べられており,それによると,総額10(米)㌦の寄付をした人には協会の理事・役員会の成員の選出に関する選挙権が与えられました。恐らく,そのような寄付は組織の業に対する純粋の関心の証拠であると考えられたのでしょう。しかし,この取り決めは問題を引き起こしました。協会の会長,ノア兄弟は,「協会の定款の規定によると,統治体の一員となることは法律上の協会への寄付に依存しているように思える。しかし,神のご意志によれば,神の選ばれたまことの民の間ではそうであってはならない」と説明しました。

協会の最初の32年間にわたって統治体の主要な成員だったチャールズ・テイズ・ラッセルが,資金面でも物質面でも精神面でも協会に最大の貢献をしたことは事実です。しかし,主がどのようにラッセルをお用いになるかを決定したのは金銭的な寄付ではありませんでした。彼が神の目から見てその奉仕にふさわしい者となったのは,彼の全き献身,不断の熱意,神の王国を支持する断固たる態度,破れることのない忠節と忠実のゆえでした。神権組織に関しては,「神は体に肢体を,その各々を,ご自分の望むままに置かれた」という規範が当てはまります。(コリント第一 12:18)「しかし,協会の定款では,協会の業に資金面で寄付をした人に選挙権が与えられると規定されているため,この定款は統治体に関するこの神権的な原則をぼかしたり,犯したりしがちであった。さらに,その原則を危険にさらしたり,妨げとなるものを生んだりしがちであった」とノア兄弟は説明しました。

そのため,1944年10月2日,協会の出資選挙人の総会の席上,協会の定款を改正して神権的な原則に一層調和したものとすることが全員一致で可決されました。会員の人数はもはや無制限ではなく,300人ないし500人となり,その全員が理事会によって選ばれた男子です。会員は金銭面での寄付に基づいて選ばれるのではなく,組織の業において全時間奉仕する円熟した活発で忠実なエホバの証人,もしくはエホバの証人の会衆の活発な奉仕者であるがゆえに選ばれます。これらの会員は理事会の成員を選挙し,理事会は役員を選出します。これらの新しい取り決めは翌1945年10月1日に実施されました。このことは,敵意を抱く分子が法人団体を支配して自分たちの目的にかなうように作り直そうと度々業務上の事柄を操った時期に,大きな保護となりました。

神権的な原則に合わせる点でのこのような大きな前進がエホバの祝福を受けてきたことは明らかです。第二次世界大戦中,組織に極度の圧力が加えられたにもかかわらず,王国宣明者の数は増加し続けました。彼らはたゆみなく精力的に神の王国について証言し続けました。1939年から1946年までの間に,エホバの証人の隊伍は157%という驚異的な増加を見せ,彼らは新たに六つの国や地域に良いたよりを伝えました。その後の25年間に活発な証人の数はさらに800%近く増え,新たに86の国や地域での定期的な活動が報告されました。

監督たちのための特別な訓練

外部の人の中には,組織が大きくなると規準が緩むのは避け難いと考える人もいます。しかし,それとは対照的に,聖書はエホバの僕たちの間に義と平和が行き渡ることを予告していました。(イザヤ 60:17)そのためには,神の言葉について,また神の司法上の規準に関する明確な理解や,それらの規準の一貫した適用方法について,責任ある監督たちを注意深く継続的に教育することが必要です。そのような教育が施されてきました。神の義なる要求に関する徹底的な研究が「ものみの塔」誌に漸進的に掲載され,その資料が全世界のエホバの証人の各会衆で体系的に研究されてきました。しかし,それだけでなく,群れの監督たちには多くの増し加えられた教えが与えられてきました。

協会の支部の主立った監督たちは,国際大会の時に集められて特別な訓練を受けてきました。1961年から1965年にかけて,特別に企画された8か月ないし10か月にわたる学校の課程が,それらの監督たちのためにニューヨークで開かれました。1977年から1980年にかけては,彼らのために別の5週間の特別な一連の課程が設けられました。彼らの訓練には,聖書のすべての書を節ごとに研究することと,良いたよりの伝道を促進するための組織上の詳細な点と方法を考察することが含まれていました。エホバの証人の間にはいかなる国家主義的な分裂もありません。どこに住んでいようと,エホバの証人は聖書の同一の高い規準を固守し,同一の事柄を信じ,教えます。

巡回監督と地域監督にも特別な注意が向けられてきました。彼らの多くはものみの塔ギレアデ聖書学校またはその分校の生徒でした。さらに,彼らは定期的に協会の支部事務所か他の都合の良い場所に集まり,数日または1週間のセミナーに出席します。

1959年,別の際立った備えが実施されました。それは,巡回監督と地域監督,および会衆の監督たちが出席する王国宣教学校です。この学校は丸1か月間の学習課程として始まりました。この課程の教材は1年間米国で用いられた後,他の言語に翻訳され,次第に世界中で用いられるようになりました。監督たち全員が世俗の仕事を丸1か月間離れるよう調整できたわけではないので,1966年以降は,2週間の課程が用いられました。

この学校は,男子が叙任に備えて訓練を受ける神学校ではありませんでした。出席者は既に奉仕者として叙任されており,中には群れの監督また牧者として何十年ものあいだ働いてきた人も少なくありませんでした。学習課程は,彼らの仕事に関する神の言葉の指示を詳細に討議する機会となりました。野外宣教の重要性と,野外宣教を効果的に行なう方法が大いに強調されました。また,世の道徳規準が変化しているため,かなりの時間を割いて,聖書の道徳規準を擁護することに関する討議が行なわれました。この課程は,最近では,二,三年ごとのセミナーや,旅行する監督たちが地元の長老たちと毎年数回開く有用な集まりに引き継がれています。それらの会合は,目下の必要に特別な注意を向ける機会になります。また,聖書の規準から徐々に逸脱しないための保護になると同時に,すべての会衆において様々な状況を一貫した方法で扱うための助けとなっています。

エホバの証人は,コリント第一 1章10節にある次の訓戒を心に留めています。「兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい」。これは強制された一致ではありません。むしろ,聖書に記されている神の方法でなされる教育の結果です。エホバの証人は神の方法と神の目的を楽しみとします。聖書の規準にしたがって生きることを楽しみとしなくなった人は,自由に組織を去ることができます。しかし,もしある人が他の信条を唱道したり,聖書の道徳を軽視したりし始めるなら,監督たちは群れを保護するために行動します。組織は,「あなた方が学んだ教えに逆らって分裂とつまずきのきっかけをもたらす人たちに目を留め,その人たちを避けなさい」という聖書の助言を適用します。―ローマ 16:17。コリント第一 5:9-13

聖書は,神がご自分の僕たちの間にまさにそのような状態を存在させるということを予告していました。それは,義が行き渡り,平和な実を生み出す状態です。イザヤ 32:1,2,17,18)そのような状態は,義にかなった事柄を愛する人々の心に強く訴えます。

古い体制が終わる前に,義を愛するそのような人々がどれほど大勢集められるのでしょうか。エホバの証人には分かりません。しかし,エホバはご自分の業に何が必要になるかをご存じであり,ご予定の時に,ご自分の方法で,ご自分の組織がその業を世話する備えをするよう取り計らわれます。

爆発的な増加に備える

“Aid to Bible Understanding”(「聖書理解の助け」)という参考書の準備のため,統治体の監督のもとに調査が行なわれた際,1世紀のクリスチャン会衆が組織された方法に再び注意が向けられました。「年長者」,「監督」,「奉仕者」といった聖書の用語に関して注意深い研究が行なわれました。導きとして聖書に保存されてきた型に,エホバの証人の現代の組織を一層十分に合わせることができるでしょうか。

エホバの僕たちは神の指導に服し続けることを決意していました。1971年に開かれた一連の大会で,初期クリスチャン会衆の管理上の取り決めに注意が向けられました。聖書で用いられる場合,プレスビュテロス(年長者,長老)という表現は年取った人々に限られるのでも,会衆内の霊的に円熟したすべての人に適用されるのでもない,という点が指摘されました。その表現は,特に公式の意味において,会衆の監督たちを指して用いられました。(使徒 11:30。テモテ第一 5:17。ペテロ第一 5:1-3)それらの監督たちは,霊感による聖書の一部となった要求に調和して,任命によりその立場を得ました。(使徒 14:23。テモテ第一 3:1-7。テトス 1:5-9)十分な数の資格ある男子がいる場合には,会衆には複数の長老がいました。(使徒 20:17。フィリピ 1:1)彼らは「年長者団」を構成し,その全員が同じ職務上の地位にあり,そのうちの一人が会衆内で最も目立った,もしくは最も有力な成員となることはありませんでした。(テモテ第一 4:14)そして,長老たちを補佐するため,使徒パウロが述べた要求と一致して,任命された「奉仕の僕たち」もいたことが説明されました。―テモテ第一 3:8-10,12,13

組織をこの聖書的な型に一層厳密に合わせるため,直ちに幾つかの取り決めが実施されました。まず統治体そのものから始められました。ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の理事会の成員である7人がエホバの証人の一種の統治体として仕えてきたわけですが,統治体の成員の数はその7人を超えて増員されました。統治体の成員に定数は設けられませんでした。1971年には11人の成員がおり,数年間は18人,1992年には12人でした。その全員がイエス・キリストの共同相続人として神から油そそがれた男子です。1992年に統治体の成員として奉仕していた12人は,その時点で,エホバ神の奉仕者として合計728年余りの全時間奉仕の記録を持っていました。

1971年9月6日,統治体の会合の司会者の立場を成員の姓のアルファベット順で1年ごとに交替することが決定され,10月1日に実施されました。さらに統治体の成員は,本部の奉仕者のための朝の崇拝と「ものみの塔」研究の司会を1週間ごとに交替で行ないました。 * この取り決めは,ニューヨーク市ブルックリンの協会の本部でフレデリック・W・フランズが朝の崇拝のプログラムを司会した1971年9月13日に実施されました。

翌年には,会衆の監督に関する調整のために準備が行なわれました。ただ一人の会衆の僕がいて,特定の人数の他の僕たちの援助を受けるということはなくなります。聖書的な資格のある男子は長老として仕えるよう任命されます。聖書の要求にかなう他の男子は奉仕の僕に任命されます。これにより,会衆の責任を共に担って貴重な経験を積む道がより大勢の人に開かれました。当時のエホバの証人は,その後21年間で会衆の数が156%増加し,1992年には合計6万9,558に達するなどとはだれ一人考えもしませんでした。しかし,会衆の頭である主イエス・キリストが,起こるはずの事柄に対して準備をしておられたのは明らかです。

1970年代の前半に,統治体のさらに進んだ再組織が注意深く考慮されました。1884年のものみの塔協会の法人化以来,印刷物の発行,世界的な福音宣明の業の監督,学校や大会の取り決めなどは,ものみの塔聖書冊子協会の会長事務所の指導のもとに扱われていました。しかし,何か月にもわたって詳細な点を注意深く分析・討議した末に,1975年12月4日,新しい取り決めが全員一致で採用されました。統治体の六つの委員会が設けられたのです。

司会者の委員会(統治体の現在の司会者,前任の司会者,次期の司会者から成る)は,重大な非常事態や災害や迫害の運動などに関する報告を受け,それらの問題が統治体によって速やかに扱われるよう取り計らいます。執筆委員会は,エホバの証人のため,また一般の人々に配布するために霊的な食物を文書やカセットテープやビデオの形にすることを監督するとともに,何百もの言語への翻訳の仕事を監督します。教育委員会の責任は,エホバの民のための様々な学校と,地域大会や国際大会を含む大会を監督すること,およびベテル家族の教育やそうした目的で用いられる資料の筋書きの作成を監督することです。奉仕委員会は,諸会衆や旅行する監督の活動を含む,福音宣明の業のあらゆる分野を監督します。文書の印刷や出版や発送,工場の運営,法律上および業務上の事柄の取り扱いは,すべて出版委員会によって監督されます。そして人事委員会は,ベテル家族の成員を身体的また霊的に支えるための取り決めを監督し,全世界のベテル家族の一員として奉仕するよう新しい成員を招く責任を負っています。

さらに,世界本部に付随した工場やベテル・ホームや農場を監督するため,助けとなる付加的な幾つかの委員会が割り当てを受けています。これらの委員会に関して,統治体は「大群衆」に属する人たちの才能を十分に活用しています。―啓示 7:9,15

協会の支部の監督にも調整が加えられました。1976年2月1日から,各支部は,支部の必要と規模に応じて,3人以上で構成される委員会の監督を受けています。それらの委員会は統治体の指導のもとに働き,各地域での王国の業を世話します。

1992年,おもに大群衆に属する幾人かの援助者たちが,執筆,教育,奉仕,出版,人事の各委員会の集まりと仕事に参加するよう割り当てられ,統治体にさらに多くの援助が与えられるようになりました。 *

この責任の分担は非常に有益であることが分かりました。既に会衆で行なわれていた調整とともに,この責任の分担は,キリストが会衆の頭であることに対する人々の認識を弱めかねない障害を除くのに役立ってきました。王国の業に影響を与える事柄について複数の兄弟が協議するのは非常に有利であることが明らかになりました。さらに,まさに爆発的な規模で組織が拡大した時期に監督が緊急に必要とされた地域は少なくありませんが,この再組織によって,それらの地域で必要な監督を行なえるようになりました。ずっと昔に,エホバは預言者イザヤを通して,「小さな者が千となり,小なる者が強大な国民となる。わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」と予告されました。(イザヤ 60:22)エホバは速やかにそれを行なってこられただけでなく,目に見えるご自分の組織がそれを世話できるよう,必要な導きを与えてこられました。

エホバの証人の当面の関心事は,この古い世の終わりの時代に行なうよう神から与えられた業であり,彼らはそれを成し遂げるためによく組織されています。エホバの証人は,この組織が人間のものではなく神のものであり,神ご自身のみ子イエス・キリストによって導かれていることの紛れもない証拠を目にしています。イエスは,支配する王として,近づく大患難の間ご自分の忠実な臣民を保護され,来たるべき千年期には,神のご意志を成し遂げるため,彼らが必ず効果的に組織されるようになさるでしょう。

[脚注]

^ 4節 1894年,ラッセル兄弟はシオンのものみの塔冊子協会が資格ある兄弟たちを講演者として派遣するよう取り決めました。それらの兄弟たちには,各地のグループに自己紹介する際に用いるよう,署名入りの証明書が与えられました。その証明書は,説教する権威を与えるものでも,所持者の語る事柄を神の言葉の光に照らしてふさわしく吟味することなく受け入れるべきだという意味のものでもありませんでした。しかし,一部の人がその証明書の目的を取り違えたため,1年たたないうちにラッセル兄弟はその証明書を回収しました。彼は,他の人たちから見て,たとえ外見であっても僧職者階級と受け取られる恐れのあるものを注意深く避けようとしました。

^ 7節 「シオンのものみの塔」誌,1881年10-11月号,8,9ページ。

^ 15節 地元のグループは,「ジェームズ王欽定訳」で用いられている言葉に合わせて“教会”と呼ばれることがありました。また,ギリシャ語聖書本文で用いられている語に合わせてエクレシアと呼ばれることもありました。同様に,“クラス”という表現も用いられました。実のところ,各々のグループは学ぶために定期的に集まっている研究者たちの一団だったからです。後には会(英語,company[中隊という意味もある])と呼ばれるようになりましたが,それは霊的な戦いを行なっているという自覚を表わすものでした。(欽定訳の詩編 68編11節の欄外をご覧ください。)1950年に(英文で)「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発行されると,ほとんどの国で“会衆”という現代的な聖書用語が普通に用いられるようになりました。

^ 17節 ギリシャ語聖書本文で用いられている語(ケイロトネオー)は,字義どおりには「手を伸ばす,差し出す,挙げる」を意味し,また広義には「挙手によって,ある職に選出する,または選ぶ」を意味する場合もあります。―「新約聖書希英辞典」,ジョン・パークハースト,1845年,673ページ。

^ 28節 詳しくは25章,「公にも家から家にも宣べ伝える」をご覧ください。

^ 34節 1919年以降,会衆つまりクラスと交わる人々の野外奉仕は,奉仕の主事を通して毎週協会へ報告されることになりました。

^ 34節 “Organization Method”(「組織の方法」)という二つ折りの印刷物に略述されているように,各会衆は主事の補佐と在庫係を選出することになっており,彼らは協会が任命した主事と共に地元の奉仕委員会を構成しました。

^ 35節 「ものみの塔」誌(英文),1920年7月1日号,195-200ページ。

^ 40節 当時の奉仕委員会の成員は多くて10人でした。そのうちの一人は奉仕の主事であり,地元で選出されるのではなく,協会によって任命されました。他の成員は,証言活動を取り決めて実行するために奉仕の主事と共に働きました。

^ 42節 1932年以降,幾年かの間,これらの者たちはヨナダブ級と呼ばれていました。

^ 49節 ギリシャ語動詞ケイロトネオーには『手を差し出して選出する』という意味しかないと定義するなら,この語の後代の意味を無視していることになります。そのため,ジョーンズとマッケンジーが編集して1968年に復刻されたリデルとスコットの「希英辞典」は,この語の意味をこう定義しています。「集まりにおいて,選挙を行なうために手を差し出す。…… II. 人称対格を伴って,正式に挙手によって選出する。…… b. 後には一般に,任命する,……教会内の職[プレスビュテルース]に任命する使徒 14:23」。その後代の用法は使徒たちの時代に広く見られました。1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは「ユダヤ古代誌」,第6巻,4章2節と13章9節で,この語をその後代の意味で用いています。原語のギリシャ語における使徒 14章23節の文法構造自体,その箇所で述べられている事柄を行なったのはパウロとバルナバであることを示しています。

^ 54節 同1938年の後半に,4ページの印刷物として発行された“Organization Instructions”(「組織の指示」)によってさらに詳細な点が示され,地元の会衆は,会衆を代表して行動する委員会を任命すべきである,と説明されました。その委員会は聖書に書かれている資格に照らして兄弟たちを吟味し,協会に推薦することになりました。協会の旅行する代表者は会衆を訪問する時に,地元の兄弟たちの資格や,割り当てを果たす点での彼らの忠実さを再吟味しました。協会は任命を行なう際に,旅行する代表者からの推薦も考慮に入れました。

^ 71節 協会が派遣した旅行する講演者は,1894年から1927年までの間,最初は塔冊子協会の代表者,後には巡礼者として知られました。1928年から1936年までの間は,野外奉仕が一層強調されるようになったので,地区の奉仕の主事と呼ばれ,1936年7月以降は,地元の兄弟たちとのふさわしい関係を強調するため,地区のとして知られるようになりました。1938年から1941年までの間は,地帯の僕が,限られた数の会衆を順に回って共に働くよう割り当てを受け,一定の間隔を置いて同じグループを再び訪問しました。約1年間の中断の後,この奉仕は1942年に“兄弟たちの僕”によって再開されました。1948年には巡回の僕という言葉が用いられるようになり,今では巡回監督と呼ばれています。

1938年から1941年までの間,地区の僕には定期的に各地の大会で奉仕するという新たな役割がありました。それらの大会には,限られた場所(地帯)の証人たちが特別なプログラムのために集まりました。この仕事は1946年に再開されましたが,その際,それら旅行する監督たちは地域の僕として知られるようになり,今では地域監督と呼ばれています。

^ 72節 この取り決めは1938年10月1日に実施されました。戦時中,大会を取り決めることが次第に困難になったため,地帯大会は1941年の末に一時中断されました。しかし,この取り決めは1946年に再開され,幾つもの会衆が特別な教えを受けるために共に集まる機会は巡回大会と呼ばれました。

^ 84節 これらの話の内容は,「ものみの塔」誌(英文),1944年10月15日号と11月1日号に掲載されています。

^ 102節 後に統治体は,これらの割り当てを共に扱うようベテル家族の他の成員を選びました。

^ 108節 「ものみの塔」誌,1992年4月15日号,7-17,31ページ。

[204ページの拡大文]

彼らの中には僧職者階級の占める場はない

[205ページの拡大文]

「地的な組織」を作ろうとしているのではない

[206ページの拡大文]

長老たちはどのように選ばれたか

[212ページの拡大文]

主事は協会によって任命された

[213ページの拡大文]

ある長老たちは会衆外で宣べ伝えることを望まなかった

[214ページの拡大文]

人数は少なくなったが,組織は強められた

[218ページの拡大文]

任命はどのように行なわれるべきだったか

[220ページの拡大文]

ラザフォードは支配を強めようとしているにすぎなかったか

[222ページの拡大文]

大きなグループだけでなく,二,三人のグループとも連絡を保つ

[223ページの拡大文]

旅行する監督たちの新たな責任

[234ページの拡大文]

司会者が交替する,増員された統治体

[235ページの拡大文]

爆発的な増加の時期における必要な監督

[207ページの囲み記事]

なぜ変更が加えられたのか

C・T・ラッセルは,主の民の様々なグループの長老の選出に関する見解に変更を加えたことについて質問を受けた際,こう答えました。

「まず第一に,私は決して不謬性を主張しなかったと断言できる。……我々は知識において成長することを否定するものではなく,主の民の様々な小さなグループの長老または指導者に関する主のご意志を,今では少し異なった光に照らして見ていることも否定しない。我々が犯した判断上の誤りは,早い時期に真理に入り,自然にそれら小さな会の指導者となった親愛なる兄弟たちに期待をかけ過ぎたことである。愚かにも我々は彼らに関して理想的な見方を抱き,真理の知識は彼らを謙遜にさせる上で非常に大きな影響を及ぼし,自分が取るに足りない者であることを彼らに認識させるだろうと考えたり,彼らが何を知っていようと,何を他の人に話すことができようと,それは神の代弁者としてでのことであり,神が彼らを用いておられるからであると考えたりしていた。我々は理想として,それらの人たちはまさに言葉どおりの意味で群れの模範となるだろうと期待し,真理を伝える面で同等,あるいはより優れた能力を持つ一人もしくは複数の人を小さな会に導き入れるのは主の摂理であり,彼らは愛の精神に導かれ,敬意を込めて互いを尊び,キリストの体である教会の奉仕にあずかるよう助け合い,勧め合うだろうと考えていた。

「我々はそのことを念頭に置き,聖別された主の民が今この時にふさわしい一層大きな恩寵と真理を味わっているゆえに,彼らが初期教会の使徒たちの略述した方法に従う必要はないと結論した。我々が犯した過ちは,神の監督のもとに使徒たちが略述した取り決めは他の者が設け得るいかなる取り決めよりも優れていること,また我々すべてが復活の際に変えられて完璧かつ完全になり,主人と直接交わるようになるまで,教会全体には使徒たちの定めた規定が必要であることを理解していなかった点にある。

「親愛なる兄弟たちの間に多少の競争の精神が見られ,奉仕ではなく職として集会の指導者の立場を占めたがる人や,生来の能力が同等で,真理の知識や霊の剣を用いる能力の点でも同等な他の兄弟たちを疎外して指導者としての成長を妨げたがる人が少なくないことを目にするにつれ,我々の過ちは徐々に明らかになった」―「シオンのものみの塔」誌,1906年3月15日号,90ページ。

[208,209ページの囲み記事/図版]

100年ほど前に協会がピッツバーグとその周辺で用いた施設

このバイブル・ハウスは1890年から1909年までの19年間,本部として使用された *

ラッセル兄弟はここで研究を行なった

1902年に奉仕していたバイブル・ハウスの家族の成員

建物の中には,このような植字組版部門(右上),発送部門(右下),文書倉庫,奉仕者たちの住まい,約300人収容のチャペル(集会場)があった

[脚注]

^ 162節 1879年,本部はペンシルバニア州ピッツバーグの5番街101番にありました。1884年に事務所はアレゲーニー(ピッツバーグの北側)のフェデラル通り44番に移転し,同年さらにフェデラル通り40番に移りました。(1887年,住所はロビンソン通り151番と改称されました。)1889年に建物が手狭になると,ラッセル兄弟はアレゲーニーのアーチ通り56-60番に,左の写真のバイブル・ハウスを建てました。(番地は後にアーチ通り610-614番と変更されました。)1918年から1919年にかけて,短い間でしたが,主要な事務所はピッツバーグに戻り,フェデラル通り119番の建物の3階に置かれました。

[211ページの囲み記事]

だれの業か

チャールズ・テイズ・ラッセルは,地上での生活が終わりに近づいたころ,こう書きました。「神の民は,主の業の先頭に立っておられるのが主ご自身であることを忘れてしまうことがあまりに多い。業を行なうのは我々であり,神には我々の業において共に働いていただく,と考えることが多いのである。この点について正しい見方を持ち,重要な業を意図し遂行しておられるのは神であることや,業は我々や我々の努力とは全くかかわりなく成功を収めること,また造り主と共に働き,その方の計画や構想や取り決めをその方の方法で遂行するのは神の民に与えられた大きな特権であることを認めようではないか。このような観点から物事を見るなら,我々はいかなる割り当てにも満足し,主のご意志を知りかつ行なうことを念頭に置いて祈り,見張るはずである。我々を導いておられるのは神だからである。これが,ものみの塔聖書冊子協会が遵守しようと努めてきた綱領である」―「ものみの塔」誌(英文),1915年5月1日号。

[215ページの囲み記事/図版]

V.D.M.質問集

V.D.M.という文字は「ベルビ・デイ・ミニステル」というラテン語を表わしており,“神の言葉の奉仕者”を意味します。

1916年,協会は聖書的な事柄に関する質問集を用意しました。講演者として協会を代表することになる人々は,それぞれの質問に対して答えを記入するよう求められました。そうすることにより,協会は,聖書の基本的な真理に関するそれらの兄弟たちの考えや意見や理解を知ることができました。記入された答えは,協会の事務所の試験委員会が入念に調べました。講演者としての資格があると認められるためには,正解率が85%以上でなければなりませんでした。

その後,長老や執事や他の聖書研究者たちの多くが,自分たちもその質問集を入手できるかどうか問い合わせてきました。やがて,クラスが自分たちの代表者としてV.D.M.の資格を持つ人だけを選出するのは有益であることが示されました。

協会から“神の言葉の奉仕者”の資格を与えられても,その人は叙任されたわけではありませんでした。協会の事務所の試験委員会がその人の教理面での進歩を吟味し,またその人の評判もある程度吟味して,“神の言葉の奉仕者”と呼ばれるにふさわしい人であると結論したというだけのことでした。

V.D.M.質問集は以下の通りです。

(1)神の最初の創造の業は何か。

(2)神のみ子に関して用いられる場合,“ロゴス”という語は何を意味するか。父および子という語は何を表わしているか。

(3)いつ,またどのように罪は世に入ったか。

(4)罪人に科される,罪に対する神の刑罰は何か。罪人とはだれのことか。

(5)“ロゴス”が肉体にならねばならなかったのはなぜか。“ロゴス”は“化肉”したのか。

(6)人間キリスト・イエスには,幼い時から死に至るまでどんな性質があったか。

(7)復活後のイエスにはどんな性質があるか。イエスは公的にはエホバとどのような関係にあるか。

(8)この福音時代 ― ペンテコステの時から現在までの期間 ― におけるイエスの仕事は何か。

(9)人類の世のために,エホバ神はこれまで何を行なってこられたか。イエスは何を行なってこられたか。

(10)完成時の教会に関する神の目的は何か。

(11)人類の世に関する神の目的は何か。

(12)最終的に矯正不能な者たちはどんな結末を迎えるか。

(13)メシアの王国に従順であることによって人類の世にもたらされる報い,もしくは祝福とは何か。

(14)罪人はどんな段階を踏むことによって,キリストおよび天の父との,命にかかわる関係に入ることができるか。

(15)神の言葉が示すところによると,クリスチャンは聖霊によって生み出された後,どんな歩みをするか。

(16)あなたは生ける神に仕えるため,罪から転向したか。

(17)あなたは自分の命とすべての力や才能を,主と主への奉仕のために全く聖別したか。

(18)あなたはその聖別の象徴として,水の浸礼を受けたか。

(19)あなたは命の神聖さに関するI.B.S.A.[国際聖書研究者協会]の誓いを行なったか。

(20)あなたは6巻から成る「聖書研究」を徹底的に注意深く読み終えたか。

(21)あなたはそれらの本から多くの啓発と益を得たか。

(22)あなたは,残りの人生の間中あなたをより有能な主の僕とする,実質的かつ永続的な聖書の知識を有していると信じているか。

[216,217ページの囲み記事/図版]

初期の時代にブルックリンで用いられた建物

ベテル・ホーム

コロンビア・ハイツ122-124番

ベテル・ホームの食堂

タバナクル

ここヒックス通り17番には,事務所,文書倉庫,郵送部門,植字設備,800席の講堂があった(1909年から1918年まで用いられた)

講堂

初期の工場

1920年にマートル街の工場で働いていたベテル家族の成員(右)

マートル街35番(1920-1922年)

コンコード通り18番(1922-1927年)

アダムズ通り117番(1927年-)

[224,225ページの囲み記事/図版]

旅行する監督たちこれまでに奉仕した大勢の人々の一部

カナダ,1905-1933年

英国,1920-1932年

フィンランド,1921-1926年,1947-1970年

米国,1907-1915年

会衆から会衆へ旅行する ―

グリーンランド

ベネズエラ

レソト

メキシコ

ペルー

シエラレオネ

ナミビアでの移動式宿舎

日本で地元の証人たちと共に野外奉仕に参加する

ドイツで地元の長老たちとの集まりを持つ

ハワイで開拓者たちに実際的な助言を与える

フランスで会衆を教える

[229ページの囲み記事/図版]

初期の法人団体

シオンのものみの塔冊子協会。1881年に設立された後,1884年12月15日にペンシルバニア州で法人化された。1896年,名称をものみの塔聖書冊子協会(Watch Tower Bible and Tract Societyに変更した。1955年以降は,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会と呼ばれている。

一般人の説教壇協会。1909年,協会の主要な事務所がニューヨーク市ブルックリンへ移転したことに伴って設立された。1939年,名称をものみの塔聖書冊子協会(Watchtower Bible and Tract Society, Inc.に変更した。1956年以降は,ニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会と呼ばれている。

国際聖書研究者協会。1914年6月30日,英国ロンドンで法人化された。

法律上の要求に応じるため,エホバの証人は多くの地域社会や国で他の法人団体を設立してきました。しかし,エホバの証人は国家的あるいは地域的な組織に分割されることはありません。証人たちは一致した世界的な兄弟関係を保っています。

[234ページの囲み記事]

『原始キリスト教の共同体のように』

1956年7月,宗教刊行物「インタープリテーション」はこう述べました。「彼ら[エホバの証人]は,その組織と証言活動の面で,他のどんなグループよりも原始キリスト教の共同体に近似している。……口頭で述べる場合であれ文字を用いる場合であれ,彼らほど音信の中で広範に聖書を用いるグループはほとんどない」。

[210ページの図版]

一層綿密に監督するため,支部事務所が開設された。最初の支部事務所は英国ロンドンのこの建物の中にあった

[221ページの図版]

1941年のJ・F・ラザフォード。証人たちは彼が自分たちの指導者ではないことを知っていた

[226ページの図版]

1936年から1941年にかけて,米国の旅行する監督だったジョン・ブース

[227ページの図版]

ケアリー・バーバー。彼の地域区は米国の広大な部分を含んでいた

[228ページの図版]

ノア兄弟は各支部や宣教者の家を定期的に訪問した

[230ページの図版]

協会の支部の主立った監督たちは集められて特別な訓練を受けてきた(ニューヨーク,1958年)

[231ページの図版]

王国宣教学校は全世界の監督たちに貴重な教育を与えてきた

1978年,タイの難民キャンプでの王国宣教学校と,1966年,フィリピンでの王国宣教学校(左上)

[232ページの図版]

証人たちの活動を調整し,宣教の助けとなる備えについて証人たちすべてに知らせるため,組織上の指示が(まず英語で,後に他の言語で)漸進的に発表されてきた