集会 ― 崇拝と教えと励ましの場
16章
集会 ― 崇拝と教えと励ましの場
会衆の集会はエホバの証人の活動の重要な部分を占めています。集まることが非常に困難な場合でも,エホバの証人は次の聖書の勧めと調和して定期的に集会に出席するよう努力します。「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い,ある人々が習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」。(ヘブライ 10:24,25)可能であれば,各会衆は週に3回集会を開き,合計4時間45分をそのために費やします。とはいえ,集会の特徴や回数はその時々の必要に応じて変化してきました。
1世紀には,霊の奇跡的な賜物の表明がクリスチャンの集会の際立った特色となっていました。なぜでしょうか。なぜなら,神はそのような賜物によって,ご自分がもはやユダヤ教の宗教体制を用いておらず,今や新たに形成されたクリスチャン会衆の上にご自分の霊があるという事実を証しされたからです。(使徒 2:1-21。ヘブライ 2:2-4)初期クリスチャンの集会では祈りがささげられ,神への賛美が歌われ,預言すること(すなわち神のご意志と目的の啓示を伝えること),および聞く人を築き上げる教えを分け与えることが重視されました。それらのクリスチャンは神の目的に関して驚くべき進展が生じる時代に生活していました。彼らには,そうした進展を理解し,そうした進展と調和して働く方法を知る必要がありました。しかし,集会での物事の扱い方に平衡を欠く人たちがいたため,聖書が示すとおり,物事を最も有益な仕方で行なうために助言が必要でした。―コリント第一 14:1-40。
それら初期クリスチャンの集会の特徴は,1870年代以降に聖書研究者たちが集まり合った際にも明らかだったでしょうか。
初期の聖書研究者たちの霊的な必要を満たす
チャールズ・テイズ・ラッセルと,ペンシルバニア州アレゲーニーやその近辺に住む仲間たちの小さなグループは,1870年に聖書研究のクラスを作りました。彼らは集会によって神と神の言葉に対する愛を次第に成長させ,聖書そのものが教えている事柄を徐々に知るようになりました。そうした集会では奇跡的に異言を話すことはありませんでした。なぜでしょうか。そのような奇跡的な実を表わすことであった」と説明しました。(コリント第一 13:4-10)さらに,1世紀と同様,なすべき緊急な福音宣明の業があり,彼らはそのために励ましを必要としていました。(ヘブライ 10:24,25)ほどなく,彼らは毎週定期的に二つの集会を開くようになりました。
賜物は1世紀にその目的を果たし,聖書の予告どおり,すでにやんでいたからです。ラッセル兄弟は,「発展の次の段階は,聖パウロが極めて明確に指摘しているとおり,霊のラッセル兄弟は,世界中のどこに散在していようともエホバの僕たちが一致した民になるのは重要であるということを悟りました。それで,「ものみの塔」誌の発行が始まった直後の1879年,同誌の読者は,ラッセル兄弟かその仲間の一人による訪問を依頼するよう促されました。条件として,「無料,お金は集めない」と明確に述べられていました。ある程度の数の依頼が届くと,ラッセル兄弟はマサチューセッツ州のリンまで1か月をかけて旅行し,立ち寄ったそれぞれの場所で一日に4時間ないし6時間の集会を開きました。その特色となったテーマは「神の王国に関する事柄」でした。
1881年の初めにラッセル兄弟は,地元で定期的な集会をまだ開いていなかった「ものみの塔」誌の読者にこう勧めました。「あなた自身の家族と一緒に,あるいは関心を持つかもしれない幾人かの人も加えて,自宅で集会を開く習慣を定着させなさい。共に読み,研究し,賛美し,崇拝しなさい。そうすれば,主の名によって二,三人が集まるところに,あなた方の教え手である主もあなた方の中におられるだろう。使徒時代の教会の集会の幾つかにはそのような特徴があった。(フィレモン 2節を参照)」。
集会のプログラムは次第に進歩してゆきました。提案が与えられましたが,それぞれの状況に応じて何が最善かを決定することは地元の各グループに任されました。一人の話し手が話をすることもありましたが,だれでも自由に参加できる集会のほうが重視されました。当初,聖書研究者の一部のクラスは集会で協会の出版物をあまり活用していませんでしたが,活用することの価値に気づくよう,旅行する奉仕者であった巡礼者たちが彼らを援助しました。
「千年期黎明」の幾つかの巻が発行された後,研究の基礎としてそれらが用いられるようになりました。1895年,そうした研究グループは“聖書研究のための黎明会” * として知られるようになりました。ノルウェーの幾つかのグループは後にそれを「朗読と談話の集会」と呼び,「ラッセル兄弟の著書の抜粋が朗読され,注解や質問のある人がいれば手を挙げました」と付け加えました。ラッセル兄弟は,そうした研究の際に参加者が様々な聖書翻訳,聖書の欄外参照資料,聖書語句索引を活用するよう勧めました。研究はたいてい適当な人数のグループ として,個人の家で,グループにとって都合の良い晩に開かれました。この集会は現在の会衆の書籍研究の前身となりました。
ラッセル兄弟は,教理的な事柄を研究するだけでは不十分であることに気づきました。神の愛に対する感謝によって,また神に誉れを帰し,仕えたいという願いによって人々の心が動かされるよう,専心の念を表明することも必要でした。そのための特別な集会を週に1度取り決めることがクラスに対して勧められました。その集会は個人の家で開かれたので,“家庭集会”と呼ばれることがありました。プログラムには祈り,賛美の歌,出席者が語る証言が含まれていました。 * そうした証言として,最近直面した試練や困難や難問題などを含む,励みとなる経験が語られることもありました。場所によっては自己が過度に重視されたため,この集会は目的からかなりかけ離れたものとなりました。改善するための親切な提案が「ものみの塔」誌に載せられました。
米国の初期の巡礼者の妻であるイーディス・ブレニセンは,この集会のことを回顧してこう語りました。「それは,エホバの愛ある世話を思い巡らしたり,兄弟姉妹と親しく交わったりするための晩でした。私たちは兄弟姉妹の経験を聴いて,彼らを一層よく知るようになりました。兄弟姉妹の忠実さを観察し,彼らがどのように困難を克服したかを知ることは,しばしば自分自身の難問題の幾つかを解決する助けとなりました」。しかし,やがて,福音宣明の業にあずかるよう各人を備えさせるための集会のほうが有益であることが明らかになりました。
ある場所の兄弟たちは日曜日の集会の扱い方に関心を抱いていました。聖書を節ごとに討議しようとしたクラスもありました。しかし,時々意味に関する意見の相違が生じ,決して築き上げるものとはなりませんでした。このような状況を改善するため,カリフォルニア州ロサンゼルスの会衆のある人たちが題目別聖書研究のための筋書きを作りました。その筋書きには,クラスの全員が集会に来る前に調べておくべき質問と参照資料が付いていました。1902年に協会は,題目索引を含む「ベレア人聖書研究手引き」を載せた聖書を発行しました。 * 簡素化を進めるため,1905年3月1日号以降の「ものみの塔」誌には会衆で討議するための筋書きが掲載され,それには質問のほかに,調査用として聖書と協会の出版物の参照資料が付いていました。それは1914年まで続き,その年までに,“ベレア人研究”の基礎として用いるため「聖書研究」各巻の研究用の質問集が発行されました。
すべてのクラスは同じ資料を用いることができました。しかし,毎週の集会
の数は地元の取り決めに応じて,一つないし四つ以上と様々でした。セイロン(現在のスリランカ)のコロンボでは,1914年以降,集会が実際には週に七日開かれていました。聖書研究者たちは,調査を行なったり,「すべての事を試し」たり,考えを自分の言葉で表現したりすることを学ぶよう励まされました。(テサロニケ第一 ,欽定)ラッセル兄弟は研究資料を十分かつ自由に討議するよう励ましました。それと同時に注意も与え,「聖書が我々の規準であること,そして神が与えてくださった助けがどんなものであろうとも,それは『助け』であり,聖書に代わるものではないということを決して忘れてはならない」と述べました。 5:21
主の死の記念式
1876年ごろから毎年,聖書研究者たちは主の死の記念式の取り決めを設けていました。 * 当初,ペンシルバニア州ピッツバーグとその近辺のグループは友のうちの一人の家に集まりました。1883年には,そこでの出席者は100人ほどに増えており,借用した会館が用いられました。1905年には,ピッツバーグで予想される大勢の聴衆を収容するため,兄弟たちは広いカーネギー・ホールを確保して使用することにしました。
聖書研究者たちは,この記念式は年に1度の祝いであり,毎週行なうべきものではないということを理解しました。彼らがこの祝いを行なった日付は,イエスが亡くなった日であるユダヤ暦のニサン14日に対応していました。年月の経過と共に,その日の算定方法には幾つかの改善が加えられました。 * しかし,主要な関心事となっていたのはその祝い自体の意義でした。
聖書研究者たちはこの記念式のために多くの場所で大小様々なグループとして集まりましたが,ピッツバーグの兄弟たちに加わることのできる人はだれでも歓迎されました。1886年から1893年までの間,「ものみの塔」誌の読者は可能であればピッツバーグに来るようにという特別の招待を受け,実際に米国とカナダの各地からやって来ました。それにより,彼らは記念式を共に祝うことができただけでなく,霊的な一致という結びつきを固めるよう助けられました。しかし,米国でも世界の他の場所でもクラスの数が増えると,1か所で集まろうとすることはもはや実際的ではなくなり,自宅周辺の仲間の信者たちと集まるほうがより多くの益が得られる,ということが明らかになりました。
「ものみの塔」誌が指摘したとおり,贖いを信じていると唱える人は大勢おり,それらの人のだれ一人として年に一度の記念式への出席を断わられることはありませんでした。ルカ 12:32; 22:19,20,28-30。
しかし,その行事には,キリストの「小さな群れ」に本当に属する人々にとって特別な意義がありました。その人々は天の王国にあずかる人たちです。キリストは死の前の晩にこの記念式を制定された際,まさにそのような希望を差し伸べられていた人たちに対して,「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」と言われたのです。―特に1930年代以降,ほかの羊の「大いなる群衆」つまり「大群衆」の一人となる見込みを持つ人々が現われ始めました。(啓示 7:9,10,欽定。ヨハネ 10:16)当時それらの人々はヨナダブ級と呼ばれていました。「ものみの塔」誌は1938年2月15日号で初めて,記念式に出席するようそれらの人々を特に招待し,「4月15日午後6時以降,油そそがれた者の各会は集まって記念式を祝い,仲間であるヨナダブ級も出席するように」と述べました。ヨナダブ級は,あずかる者としてではなく見守る者として確かに出席しました。彼らが出席するようになったため,キリストの死の記念式の際の出席者数が増加し始めました。1938年,出席者数は合計7万3,420人でしたが,表象物であるパンとぶどう酒にあずかった人は3万9,225人でした。その後,見守る者として出席する人たちに,新しく関心を持った人々や,まだ活発なエホバの証人となっていない人々も大勢加わるようになりました。そのため1992年には,野外宣教に参加した人の最高数は447万2,787人でしたが,記念式の出席者数は1,143万1,171人,表象物にあずかった人の数はわずか8,683人でした。出席者数が活発な証人の数の五,六倍に達した国や地域もあります。
エホバの証人はキリストの死の意義を非常に重要なものとみなしているので,非常に困難な状況に直面している時でも記念式を祝います。1970年代,ローデシア(現在はジンバブエと呼ばれる)では戦時の夜間外出禁止令のため,日が暮れてから外出はできませんでした。その時でも,ある地域の兄弟たちは昼の間に一人のエホバの証人の家に全員集まり,晩になってから記念式を祝いました。言うまでもなく,集会が終わってから家に帰ることはできなかったので,一晩中そこにとどまりました。集会後の晩の時間は王国の歌を歌ったり経験を語ったりすることに用い,さらに多くのさわやかさを得ました。
第二次世界大戦中の強制収容所では,番兵に見つかると厳罰に処される恐れがあったにもかかわらず,記念式が祝われました。ハロルド・キングは,クリスチャンの信仰のゆえに1958年から1963年にかけて中国の刑務所で孤立していた時,その状況下での最善の方法で記念式を祝いました。後に彼は,「刑務所の窓から,春の初め近くに月が満ちてゆくのを眺め,できる限り注意深く祝いの日付を計算しました」と述べています。彼は有り合わせの物で必要な表象物を準備しました。クロフサスグリでぶどう酒
のようなものを少し造り,パンとして,パン種の入っていない米を用いたのです。そして,さらにこう述べています。「エホバの民のどの会衆でも行なわれているとおりに,歌を歌い,祈りをささげ,正規の記念式の話を行ないました。それで私は,自分が毎年この最も重要な時に世界中の兄弟たちと結ばれていると感じました」。若者たちが占める場所
初期には,聖書研究者の出版物や集会は特に若い人向けのものではありませんでした。若い人々は集会に出席することができましたし,実際に出席して熱心に耳を傾ける若者もいました。しかし,行なわれている事柄に若い人々を加わらせるための特別な努力は払われていませんでした。それはなぜだったのでしょうか。
当時,兄弟たちは,キリストの花嫁の全成員が天的な栄光のうちにキリストと結ばれるまでにごく短い時間しか残されていないと理解していました。1883年,「ものみの塔」誌はこう説明しました。「高き召しのために訓練を受けている我々は,この時代の特別な業,つまり『子羊の妻である花嫁』を整える業からわきにそれるわけにはゆかない。花嫁は支度を整えなければならない。そして,まさに今,婚礼に先だって仕上げの飾りが付けられつつある時にあって,この最も重要な現在の業におけるすべての成員の奉仕が求められている」。
親たちは,自分の子供に霊的な教育を施すという神から与えられた責任を担うよう強く促されました。若者たちのための別個の日曜学校は奨励されませ
んでした。キリスト教世界で用いられている日曜学校が多くの害をもたらしてきたことは明らかでした。子供をそのような学校に通わせている親はたいてい,その取り決めのおかげで自分の子供に宗教教育を施す責任から解放されると考えました。子供たちはというと,神に関する教育の主要な源である親に頼っていなかったため,示すべき敬意や従順を親に示すための動機づけを得ませんでした。しかし,1892年から1927年にかけて「ものみの塔」誌は誌面を割き,当時多くのプロテスタント教会に普及していた「国際日曜学校教課」に取り上げられている聖句に関する注解を載せました。長年の間それらの聖句を選んでいたのは,F・N・パルベという組合教会の牧師とその助手たちでした。「ものみの塔」誌はキリスト教世界の信条に影響されることなく,聖書に関する聖書研究者の進んだ理解という観点からそれらの聖句を論じました。そのようにして「ものみの塔」誌が幾つかの教会に持ち込まれて真理が示され,教会員の一部が真理を受け入れるのではないか,と期待されました。当然ながら違いは明らかで,これはプロテスタントの僧職者を怒らせる結果になりました。
1918年になり,残りの者,つまり油そそがれた者の残っている者たちは依然として地上にいました。集会に出席する子供の数も非常に増えていました。親たちが学んでいる間,子供たちはただ遊ぶにまかされることが少なくありませんでした。しかし,若い人々も「主の怒りの日に隠され」たいなら,「義を求め,柔和を求め(る)」ことを学ばなければなりませんでした。(ゼパニヤ 2:3,欽定)それで,1918年に協会は,8歳から15歳までの子供を対象とする児童クラスを設けるよう諸会衆に勧めました。場所によっては,幼くて児童クラスに出席できない子供たちのため,初歩クラスさえ設けられました。同時に,子供に対する親の責任が再び強調されました。
これを契機に,ほかにも事態の進展が見られました。1920年に「黄金時代」誌は「児童聖書研究」と題する特集記事を掲載しました。それには質問があり,答えを含んでいる聖句も引照されていました。同じ年に,“The Golden Age ABC”(「黄金時代ABC」)が発行されました。それはさし絵付きの小冊子で,親が子供に聖書の基本的な真理とクリスチャンの特質を教える際に用いるためのものでした。その後1924年に,W・E・バン・アンバーグが書いた“The Way to Paradise”(「パラダイスへの道」)と題する本が発行されました。それは「中級の聖書研究者たち」に適した本で,しばらくの間,集会で若い人たちのために用いられました。それに加えて米国では,“年少の証人たち”が野外奉仕のための自分たちの取り決めを持っていました。スイスでは,若者たちのグループが,13歳から25歳までの若者を対象とした“エホバの若者”と呼ばれる会を作りました。彼らはベルンに自分たちの事務所を持ち,「エホバの若者」という特別な雑誌を編集し,ベルンの協会の印刷機で印刷しました。この若者たちは自分たち
の集会を開くだけでなく聖書劇も上演し,チューリッヒのフォルクスハウスでは1,500人の観衆の前で聖書劇を上演しました。しかしこれは,エホバの僕たちの組織の中にもう一つの組織ができつつあるということでした。それは一致に寄与するものとはならないので,1936年に廃止されました。1938年4月,協会の会長J・F・ラザフォードはオーストラリアを訪問中に,大人向けの大会とは別に子供向けのクラスが開かれていることに気づきました。ラザフォードは直ちに子供たち全員を本大会に連れて来る取り決めを設けました。それは子供たちに大きな益を与えました。
同じ年,「ものみの塔」誌は会衆内の若い人々のための別個のクラスに関する事柄全体を再び取り上げました。その研究では,自分の子供を教える責任は親にあるという事実が再び強調されました。(エフェソス 6:4。申命記 4:9,10; エレミヤ 35:6-10と比較してください。)また,年少者のクラスを用いて若い人たちを別扱いする前例は聖書中にはないという点も説明されました。むしろ,若い人たちは神の言葉を聞くために親と共にいるべきでした。(申命記 31:12,13。ヨシュア 8:34,35)研究資料に関してもっと説明する必要がある場合には,親が家庭で説明できました。さらにその記事は,そうした別個のクラスの取り決めが実際には家から家の良いたよりの伝道にとってマイナスとなっていることを指摘しました。どうしてそう言えるのでしょうか。教え手たちがそれらのクラスの準備と司会のために野外奉仕に参加していなかったからです。それで,若者のための別個のクラスはすべて廃止されました。
まさに現在に至るまで,エホバの証人の間では,家族全員が一緒に会衆の集会に出席することが習慣となっています。子供たちがふさわしい仕方で参加できるよう,親は子供の準備を手伝います。さらに,親が家庭で若い人々に教える際に用いるための優れた出版物が次々と備えられてきました。その中には,1941年発行の「子供たち」,1971年(英文)発行の「偉大な教え手に聞き従う」,1976年発行の「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」,1978年発行の「わたしの聖書物語の本」,1989年発行の「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」があります。
活発な福音宣明者になるようすべての人を備えさせる
「ものみの塔」誌の創刊以来,同誌の読者は,神の目的に関する良いたよりをふれ告げるという真のクリスチャンすべての特権と責任を定期的に思い起こさせられてきました。会衆の集会は,エホバに対する彼らの愛と神の目的に関する彼らの知識を強化することによって,この活動のために彼らの心と思いが整えられるよう,助けてきました。しかし,とりわけ1922年のオハイオ州シーダーポイントでの大会の後,野外奉仕の面で成し遂げられている事柄と野外奉仕に効果的にあずかる方法が,以前よりもずっと強調されるようになりました。
* という二つ折りの印刷物には,当時“勧誘”と呼ばれた短い証言が掲載されており,それを暗記して,人々に証言する際に用いることになっていました。1923年にはほとんどの月の初めに,王国を宣伝する一致した努力を鼓舞するため,水曜の晩の“祈りと賛美と証言の集会”の半分が野外奉仕に関する証言のために取り分けられました。
野外奉仕に直接関連した情報を載せた“Bulletin”(「会報」)遅くとも1926年には,野外奉仕について討議する月ごとの集会は“働き人の集会”と呼ばれていました。野外奉仕に実際に参加している人たちは大抵その集会に出席していました。その集会では,他の人に証言するのに用いられている方法について討議し,今後の活動計画を立てました。1928年までには,協会はそのような集会を毎週行なうよう諸会衆に勧めていました。さらに4年たつと,諸会衆は“証言(もしくは宣言)の集会”の代わりに,奉仕会と呼ばれるようになっていた集会を行ない始めており,協会はすべての人の出席を励ましました。この週ごとの集会は60年以上にわたって諸会衆で開かれてきました。話,聴衆の参加を交えた討議,実演,インタビューなどによって,クリスチャン宣教のあらゆる面に関して明確な助けが与えられています。
この種の集会は,決して20世紀に始まったものではありません。イエスご自身,伝道するよう弟子たちを遣わす前に,彼らに詳細な指示をお与えになりました。(マタイ 10:5-11:1。ルカ 10:1-16)後に弟子たちは集まり合い,宣教に携わって経験した事柄を語ることにより,互いを築き上げました。―使徒 4:21-31; 15:3。
公に話すことの訓練は,初めのうち会衆の定期的な集会では行なわれていませんでした。しかし,遅くとも1916年までには,自分に公の話し手としての能力が幾らかあると思う人たちは自分たちでクラスを開くように,という提案が与えられました。そのクラスには恐らく一人の長老が調整者として出席して彼らの話を聞き,話の内容や話し方を改善するための助言を与えることになります。会衆の男子だけが出席するそうした集まりは,後に“預言者たちの学校”として知られるようになりました。グラント・スーターは当時の様子を振り返り,「その学校で私が受けた建設的な批評は,私が話をしようとするのを聞くためにその授業の一部に出た父から個人的に与えられたものに比べれ ば,何でもありませんでした」と述懐しています。進歩しようと努めている人々を助けるため,兄弟たちは話の指導書と様々な話の筋書きを個人的に編集・印刷しました。しかし,やがてこの“預言者たちの学校”は中止されました。当時の特別な必要にこたえるため,家から家の福音宣明の業に十分あずかれるよう会衆の全成員を備えさせることに対して,集中的に注意が向けられていたのです。
この拡大する国際的な組織の各成員に,短い証言をしたり聖書文書を提供したりするだけでなく,効果的に話したり神の言葉の教え手となったりする備えをさせることは可能だったのでしょうか。それこそ,1943年以降エホバの証人の各会衆に設けられた特別な学校の目的でした。その学校は1942年2月から既にエホバの証人の世界本部で実施されていました。毎週教育が行なわれ,研究生は話をし,その話に関して助言を受けました。初めのうち,この学校では男子だけが話を行ないましたが,会衆全体が出席や教課の予習や復習への参加を励まされました。1959年には姉妹たちも名簿に載せられる特権を得て,一対一で聖書の論題を話し合う訓練を受けるようになりました。
この学校の成果に関して,ものみの塔協会の南アフリカ支部はこう報告しました。「自分は公の話し手には決してなれないと考えていた大勢の兄弟たちが演壇上で非常に有能な者となり,野外でいっそう効果的な者となるよう助ける点で,この大変優れた取り決めは短期間に成功を収めました。南アフリカのどこにおいても,兄弟たちはこの新しいエホバの備えを歓迎し,熱意を込めて実施しました。言語の大きな障害があり,満足な教育を受けていない人がいるにもかかわらず,そのような反応が見られました」。
神権宣教学校は今でもエホバの証人の会衆において重要な集会となっています。可能な人はほとんどみな名簿に載せられ,年齢を問わず,新しい証人も多くの経験を積んだ証人も参加しています。この学校は継続的な教育プログラムです。
見たり聞いたりするよう一般の人々が招かれる
エホバの証人は決して秘密結社ではありません。聖書に基づく彼らの信条は,だれでも入手できる出版物の中で十分に説明されています。さらに,エホバの証人は特別な努力を払って,集会に出席し,行なわれている事柄を直接見たり聞いたりするよう一般の人々を招いています。
マタイ 5:1,2; 13:1-9。ヨハネ 18:20)聖書研究者たちはそれに倣い,早くも1870年代には,関心を持つかもしれない友人や近所の人などが人類に対する神の目的に関する話を聞ける集会を取り決め始めていました。
イエス・キリストは弟子たちを個人的に教えるだけでなく,海辺や山腹,会堂やエルサレムの神殿域など,群衆が聞くことのできる場所で公に話を行なわれました。(そうした話を一般の人々にとって都合の良い場所で行なうために特別な努力が払われました。その活動はクラス拡張の業と呼ばれました。1911年,能力のある話し手が十分いる会衆に対しては,幾人かの話し手を周辺の町や村に遣わして公会堂で集会を開く取り決めを設けるようにという勧めがなされました。可能な場合には,一連の六つの話が取り決められました。最後の話の後,話し手は,聴衆の中の何人が定期的に集まろうと思うほど聖書研究に関心を持っているか尋ねました。最初の年にそのような話が3,000回以上行なわれました。
さらに1914年からは,「創造の写真劇」が公開されました。兄弟たちは料金を取りませんでした。それ以来,ほかにも映画やスライドが用いられてきました。1920年代以降,ものみの塔協会はラジオを広範に用い,人々が自宅で聖書の話を聞けるようにしました。次いで1930年代には,J・F・ラザフォードの講演が録音され,数多くの公の集まりで流されました。
1945年までには,神権宣教学校で訓練を受けた公の話し手が大勢いました。その年の1月,十分調整された公開集会の運動が始まりました。協会は時宜にかなった一連の八つの話の筋書きを準備し,宣伝のためにビラや,時にはポスターも用いられました。兄弟たちは会衆の通常の集会場所を用いるだけでなく,会衆のない区域でもこの公開集会を取り決めるため特別な努力を払いました。集会を宣伝したり,自ら集会を支持したり,初めて来た人々を歓迎し,彼らの質問に答えたりすることによって,会衆のすべての人が協力できました。この特別な活動の最初の年に,米国で1万8,646の公開集会が開かれ,合計91万7,352人が出席しました。翌年,公開集会の数は米国一帯で2万8,703に増加しました。またカナダでは,1945年にそうした集会が2,552取り決められ,翌年にはそれが4,645になりました。
現在,エホバの証人の大多数の会衆では,公開集会は毎週の集会の正規の予定の一部となっています。この集会は話の形式で行なわれ,すべての人は話の間,主要な聖句が読まれ論じられる際にその聖句を開くよう勧められています。
この集会は,会衆にとっても新しい人々にとっても,豊かな霊的な教訓の源です。エホバの証人の集会に初めて出席した人々はたいてい喜ばしい驚きを感じます。ジンバブエのある著名な政治家は,何が行なわれているのかを知ろうとして王国会館へ行きました。彼は暴力的な性格の人で,わざとひげを剃らず髪の毛をぼさぼさにして出かけました。証人たちに追い払われるだろうと考えていたのに,純粋の関心を示され,家庭聖書研究をするよう勧められました。今ではこの人は謙遜で穏やかなクリスチャン証人となっています。
エホバの証人の集会に出席して,「神はほんとうにあなた方の中におられる」と言うよう心を動かされた人は幾百万人もいます。―コリント第一 14:25。
集まるのにふさわしい場所
イエス・キリストの使徒たちの時代には,クリスチャンはたいてい個人の家で集会を開きました。場所によっては,ユダヤ人の会堂で話を行なうこともできました。エフェソスでは使徒パウロが,ある学校の講堂で2年にわたって講話を行ないました。(使徒 19:8-10。コリント第一 16:19。フィレモン 1,2)同様に,19世紀後半に聖書研究者たちは個人の家で集まり,時には教会の礼拝堂で話を行ない,借用可能な他の会館も用いました。少数ながら,以前に他の宗教団体が使用していた建物を後に購入して定期的に用いた場合もありました。ブルックリン・タバナクルやロンドン・タバナクルがそうでした。
とはいえ,聖書研究者たちは集会のために装飾を凝らした建物を必要としてはおらず,求めてもいませんでした。幾つかの会衆はふさわしい建物を購入して改装しましたし,新しい会館を建設した会衆もありました。1935年以降,このような会衆の集会の場所を指して王国会館という名称が徐々に用いられるようになりました。王国会館はたいてい魅力的な外観を備えてはいるものの,けばけばしくはありません。場所によって建築様式は様々ですが,建物は実用的であることを目的としています。
統一のとれた教育プログラム
19世紀後半と20世紀前半における霊的な成長と活動は,会衆によってかなり異なっていました。諸会衆は特定の共通した基本的信条を持っており,それによってキリスト教世界から分けられていました。しかし,ご自分の民を養うためのエホバの手段を深く認識している兄弟たちがいる一方,物事に関して個人的な強い見解を持つ人々の意見に左右されやすい兄弟たちもいました。
イエスは亡くなる前に,ご自分の追随者が ― 神およびキリストと,また互い同士で一致して ―『みな一つになる』ようにと祈られました。(ヨハネ 17:20,21)それは強いられた一致となるのではなく,感受性のある心から反応を引き出す統一のとれた教育プログラムの結果として生じることになっていまし た。ずっと昔に,「あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう」と予告されていたとおりです。(イザヤ 54:13)その平和を十分に享受するため,エホバがご自分の目に見える伝達の経路を通して備えておられる漸進的な教育から益を得る機会がすべての人に必要でした。
長年の間,聖書研究者は討議の基礎として,聖書と共に「聖書研究」の様々な巻を用いていました。その各巻には,まさに『時に応じた[霊的な]食物』が含まれていました。(マタイ 24:45)しかし,神の霊の導きのもとに引き続き聖書を調べた結果,学ぶべき事柄がもっとあり,エホバの僕たちが依然として霊的な清めをかなり必要としていることが明らかになりました。(マラキ 3:1-3。イザヤ 6:1-8)さらに,1914年に王国が立てられた後,数多くの預言が矢継ぎ早に成就しており,それらの預言は真のクリスチャンすべてが携わるべき緊急な業を指し示していました。こうした時宜にかなった聖書的な情報は「ものみの塔」誌の誌面を通して定期的に提供されました。
協会の旅行する代表者の中には,会衆内のすべての人がそうした記事から益を得ているわけではないということに気づいた人もおり,週ごとの定期的な集会で「ものみの塔」誌を会衆全体で研究することを本部事務所に推薦しました。その推薦は諸会衆に伝えられ,「ものみの塔」誌の主要な記事の研究の際に用いる「ベレア人質問集」が1922年5月15日号から定期的に掲載されるようになりました。大抵の会衆ではそうした研究が毎週1回以上行なわれましたが,雑誌の内容をどの程度まで本当に研究するかはまちまちでした。場所によっては,司会者がたくさん話したため,この研究に2時間以上かかりました。
しかし,1930年代,神権組織が民主的な手順に取って代わりました。そのことは「ものみの塔」 * 研究に対する見方に大きな影響を与えました。協会によって準備された研究資料の内容を理解することに一層の注意が向けられるようになりました。集会を個人的な見解を述べる場として用いていた人々や,野外宣教にあずかる責任を受け入れない人々は次第に去って行きました。辛抱強い援助を受けて,兄弟たちは研究を1時間にとどめる方法を学びました。その結果,参加が増え,集会はさらに活気づきました。また,神の言葉を真理に関する規準とする,統一のとれた霊的な養育計画に基づき,真の一致の精神が諸会衆に行き渡るようになりました。
1938年には,「ものみの塔」誌は約20の言語で発行されていました。どの記事もまず英語で出され,他の言語で読むには,翻訳と印刷に要する時間のため,コリント第一 1:10。
たいてい数か月,時には1年もかかりました。しかし,印刷方法の変更に伴い,1980年代に「ものみの塔」誌が多くの言語で同時発行されるようになりました。1992年までには,66の言語のいずれかを理解できる諸会衆が同じ資料を同時に研究できるようになりました。こうして,全世界のエホバの証人の大部分は同一の霊的な食物に毎週あずかっています。南北アメリカ全体やヨーロッパのほぼ全域で,また東洋の幾つかの国や地域,アフリカの多くの場所,全世界のたくさんの島々で,エホバの民は同時になされる霊的な養育の取り決めを享受しています。それとともに,彼らは「同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれて」います。―会衆の集会の出席者数は,エホバの証人が集会を真剣に受け止めていることを示しています。イタリアでは,1989年に17万2,000人ほどの活発な証人たちがいましたが,王国会館での集会の毎週の出席者数は22万458人でした。それとは対照的に,カトリックの通信社が伝えるところによると,イタリア人の80%がカトリック教徒だと自称しているにもかかわらず,多少なりとも定期的に教会の礼拝に出席している人は約30%にすぎません。比率の面から見ると,ブラジルの状況も同様です。デンマークでは,国教会は1989年の時点で人口の89.7%が国教会会員であると唱えましたが,1週間に1度教会へ行く人はわずか2%でした。デンマークのエホバの証人の場合,当時の毎週の出席者数は94.7%に達しました。ドイツでは,1989年にアーレンスバッハ世論研究所が行なった世論調査によると,ドイツ連邦共和国のルーテル派信者の5%とカトリック教徒の25%が教会に通っていました。それに対して,エホバの証人の王国会館では毎週の出席者数が証人たちの数を超えていました。
出席者の中には,出席するために大きな努力を払う人も少なくありません。1980年代に,ケニアの70歳の婦人はいつも10㌔歩き,川を渡って毎週集会に通っていました。米国に住む韓国人のある女性の証人は母国語の集会に出席するため,いつもバスと列車と船と徒歩で片道3時間の道を通いました。スリナムでは,収入の少ない一家族が集会へ行くために毎週のバス代に丸一日分の賃金を費やしました。アルゼンチンのある家族は聖書研究の集会に出席するため,50㌔の道のりを,家族の収入の4分の1を費やして通いました。病気のため会衆の集会に全く出席できない人たちがいる場合には,たいていその人たちのために,電話回線で集会の様子が伝わるように,あるいはプログラムの録音テープを聞けるように取り決めが設けられます。
エホバの証人は,霊的に築き上げるために集まり合うことをやめてはならないという聖書の諭しを真剣に受け止めています。(ヘブライ 10:24,25)そして,彼らが出席するのは地元の会衆の集会だけではありません。大会に出席することも彼らの毎年の行事予定の重要な部分となっています。
[脚注]
^ 12節 この集会はその内容から,“祈りと賛美と証言の集会”とも呼ばれました。やがて祈りの重要性を考慮して,3か月に1度この集会を単なる祈りの会とし,賛美は歌うものの経験は語らないようにすることが勧められました。
^ 14節 1907年,このベレア人研究手引きは改訂され,大幅に増補されると共に,最新の内容となりました。1908年版には約300ページの有用な資料が付け加えられました。
^ 18節 この記念式は,対型的な過ぎ越しと呼ばれることもありました。それはすなわち,過ぎ越しの子羊によって予表され,それゆえにコリント第一 5章7節で「わたしたちの過ぎ越しであるキリスト」と呼ばれているイエス・キリストの死の記念式です。また,コリント第一 11章20節(欽定)に合わせて,主の晩餐とも呼ばれました。また,“年ごとの記念の晩餐”と呼んで,年に1度の記念式であるという事実に注意を引くこともありました。
^ 19節 「ものみの塔」誌(英文),1891年3月号,33,34ページ; 1907年3月15日号,88ページ; 1935年2月1日号,46ページ; 1948年2月1日号,41-43ページと比較してください。
^ 37節 1900年より前でさえ,聖書文書頒布者<コルポーター>という特別の奉仕に携わっていた人々には“Suggestive Hints to Colporteurs”(「聖書文書頒布者の心得」)と題するパンフレットが送られていました。1919年からは「会報」が発行され,最初は「黄金時代」誌の配布の面で,後には福音宣明の様々な活動すべてに関して野外奉仕を鼓舞しました。
^ 61節 「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」という名称は,1909年1月1日に「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者(The Watch Tower and Herald of Christ's Presence)」と変更されました。そして,1931年10月15日付で「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者(The Watchtower and Herald of Christ's Presence)」となりました。
[237ページの拡大文]
個々の人の参加が求められる集会
[238ページの拡大文]
単なる精神的な哲学ではなく,心を動かす表明
[246ページの拡大文]
家族全員が一緒に集会に出席するよう励まされている
[252ページの拡大文]
霊的な養育計画を統一する
[253ページの拡大文]
証人たちは集会を真剣に受け止めている
[239ページの囲み記事/図版]
初期の会衆
1916年までには,世界中に1,200ほどの聖書研究者のグループがあった
南アフリカのダーバン,1915年(右上)。英領ギアナ(ガイアナ),1915年(右中)。ノルウェーのトロンヘイム,1915年(右下)。カナダのオンタリオ州ハミルトン,1912年(一番下)。セイロン(スリランカ),1915年(左下)。インド,1915年(左上)
[240,241ページの囲み記事/図版]
歌でエホバを賛美する
古代イスラエル人やイエスご自身と同様,現在のエホバの証人も崇拝に歌を用います。(ネヘミヤ 12:46。マルコ 14:26)そのように歌うことは,エホバへの賛美とエホバの業に対する感謝の表明であると同時に,聖書の真理を思いと心に印象づけるための助けともなってきました。
長年にわたってエホバの証人は多くの歌集を用いてきました。歌詞は神の言葉の漸進的な理解に合わせて新しくされてきました。
1879年: “Songs of the Bride”(「花嫁の歌」)
(キリストの花嫁の願いと希望を表現した144の賛美の歌)
1890年: “Poems and Hymns of Millennial Dawn”(「千年期黎明の詩と賛美歌」)
(楽譜なしで発行された,151の詩と333の賛美の歌。大半は有名な作家たちの作品)
1896年: 「ものみの塔」誌,2月1日号に,“Zion's Glad Songs of the Morning”(「シオンの朝の喜びの歌」)が載せられた
(楽譜付きの11の歌の歌詞。聖書研究者が作詞)
1900年: “Zion's Glad Songs”(「シオンの喜びの歌」)
(82の歌。その多くは一人の聖書研究者によって作られた。それ以前の歌集に追加されたもの)
1905年: “Hymns of the Millennial Dawn”(「千年期黎明の賛美歌」)
(1890年に発行された333の歌に楽譜を付けたもの)
1925年: “Kingdom Hymns”(「御国の賛美歌」)
(楽譜付きの80の歌。特に子供向け)
1928年: “Songs of Praise to Jehovah”(「エホバにささげる賛美の歌」)
(337の歌。聖書研究者が作った新しい歌と以前からある賛美の歌を合わせたもの。歌詞の面で,偽りの宗教の考えや被造物崇拝から離れるよう特別な努力が払われた)
1944年: “Kingdom Service Song Book”(「王国奉仕の歌の本」)
(62の歌。当時の王国奉仕の必要に合わせたもの。作詞者や作曲者の名前は公表されなかった)
1950年(英文発行): 「エホバに賛美の歌」
(91の歌。この歌の本では,主題がさらに最新のものとなり,古風な言葉遣いが除かれた。18の言語に翻訳された)
1966年(英文発行): 『心の調べに合わせて歌う』
(クリスチャンの生活と崇拝のあらゆる面を扱った119の歌。この世や偽りの宗教に由来することが分かっている曲は削除された。本全体のオーケストラ演奏が録音され,会衆の集会で伴奏として広く用いられた。その一部が声楽版として抜粋され,録音された。1980年以降,築き上げる音楽を個人的に家庭で楽しめるよう,オーケストラ用に編曲された「王国の調べ」のテープが製作された)
1984年: 「エホバに向かって賛美を歌う」
(225の王国の歌。歌詞と曲はすべて,世界中の献身したエホバの僕たちによって作られた。歌う際の伴奏としてレコードとカセットテープが製作された)
初期の“家庭集会”で,聖書研究者は賛美の歌を歌いました。やがて歌うことは大会の一つの特色ともなりました。バイブル・ハウスで長年行なわれていたのと同じように,朝食前に朝の崇拝と関連して賛美の歌を一曲歌う人たちもいました。地元の会衆で歌うことは1938年ごろにほとんど中止されましたが,1944年に再開され,それ以来ずっとエホバの証人の会衆の集会と大会プログラムの重要な特色となっています。
[図版]
1947年の大会のオーケストラを指揮するカール・クライン
[242ページのグラフ]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
キリストの死の記念式
活発な証人
出席者
11,000,000
10,000,000
9,000,000
8,000,000
7,000,000
6,000,000
5,000,000
4,000,000
3,000,000
2,000,000
1,000,000
1935 1945 1955 1965 1975 1985 1992
[243ページの図版]
ハロルド・キングは中国の刑務所で孤立していたにもかかわらず,記念式を祝うことをやめなかった
[244ページの図版]
1930年代初めのドイツの児童聖書クラス
[244ページの図版]
スイスでは1930年代半ばに,証人の若者たちがこの雑誌(下)を発行し,大勢の観衆の前で(中央下に示されているような)聖書劇を上演した
[247ページの図版]
「会報」(1919-1935年),“Director”(「奉仕の指示」)(1935-1936年),「通知」(1936-1956年),そして現在では100の言語の「わたしたちの王国宣教」 ― これらすべてはエホバの証人の一致した野外宣教のために定期的な指示を与えてきた
[248ページの図版]
奉仕会での実演は,証人たちが自分の野外宣教を改善するための助けとなっている(スウェーデン)
[249ページの図版]
ケニアの幼い証人が,神権宣教学校で自分の父親を相手に話をして経験を積んでいる
[250ページの図版]
1992年の時点で,エホバの証人の諸会衆で用いられる聖書研究の資料は66の言語で同時発行されており,その言語の数は増え続けている