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神はどのように選び,導かれるか

神はどのように選び,導かれるか

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神はどのように選び,導かれるか

「真の宗教が一つあるということは,確かに論理にかなっています。このことは,真の神が『無秩序の神ではなく,平和の神』であるという事実と調和します。(コリント第一 14:33)実際に『信仰は一つ』しかないと聖書は述べています。(エフェソス 4:5)では今日,真の崇拝者の団体を形成しているのはだれでしょうか。わたしたちはためらわずに,それはエホバの証人です,と言います」。「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本 *はそのように述べています。

中には,こう言う人もいるかもしれません。『どうして自分たちが真の宗教を奉じているとそれほど確信できるのか。あなた方には奇跡的な賜物のような超自然的な証拠はない。それにあなた方はこれまで長年の間,見解や教えに調整を加えなければならなかったではないか。ではどうして自分たちが神に導かれているとそれほど確信できるのか』。

そうした疑問に答えるため,まずエホバが古代のご自分の民をどのように選び,導かれたかを考慮するのは助けになります。

聖書時代における神の選び

西暦前16世紀,エホバはイスラエル人をシナイ山に集め,ご自分の選ばれた民になるよう彼らを招かれました。しかしエホバはまず,彼らが満たさねばならない特定の要求があることを彼らにお告げになり,「それで今,もしわたしの声に固く従(う)なら……あなた方は……必ずわたしの特別な所有物となる」と言われました。(出エジプト記 19:5)エホバがモーセを通して要求をはっきり説明された後,民は,「エホバの話されたすべての言葉をわたしたちは喜んで行ないます」と答えました。それから,エホバはイスラエルと契約を結び,彼らに律法をお与えになりました。―出エジプト記 24:3-8,12

神に選ばれる ― 何と畏怖の念を起こさせる特権なのでしょう。しかし,その特権に伴い,イスラエルには神の律法に固く従う責任が課されました。もし固く従わないなら,一国民として退けられる結果になります。エホバは彼らがご自分に従うよう彼らに健全な恐れを植えつけるため,目ざましい超自然的なしるしを起こされました。つまり,「雷と稲妻が生じ」,「山全体が激しく震動した」のです。(出エジプト記 19:9,16-18; 20:18,20)その後1,500年ほどの間,イスラエル人は類例のない立場にありました。彼らは神の選ばれた民だったのです。

とはいえ西暦1世紀に事態は根底から変化しました。イスラエルは神のみ子を退けたためにエホバに捨てられ,特権的な身分を失ったのです。(マタイ 21:43; 23:37,38。使徒 4:24-28)次いでエホバは,キリストを土台とする初期クリスチャン会衆を生み出されました。西暦33年のペンテコステの日に,エホバは,エルサレムにいたイエスの追随者たちにご自分の聖霊を注ぎ出し,彼らを「選ばれた種族,……聖なる国民,特別な所有物となる民」に選定されました。(ペテロ第一 2:9。使徒 2:1-4。エフェソス 2:19,20)彼らは「神の選ばれた者」となりました。―コロサイ 3:12

その選ばれた国民の一員となるには条件がありました。エホバは,満たさなければならない厳密な道徳的要求や霊的要求をお定めになりました。(ガラテア 5:19-24)それらの要求に従うなら,神に選ばれる見込みがありました。しかし,ひとたび神に選ばれた後も神の律法に従い続けることが肝要でした。「支配者としての[神]に従う者たち」だけが,引き続き神の聖霊を受けることになりました。(使徒 5:32)神に従おうとしない者たちは会衆から追い出され,神の王国における相続財産を失う危険がありました。―コリント第一 5:11-13; 6:9,10

しかし,神がその初期クリスチャン会衆を選び,「神の会衆」としてイスラエルに取って代わるようにされたことを,他の人たちはどのようにはっきりと知るのでしょうか。(使徒 20:28)神の選びは明白でした。イエスの死後,神は初期クリスチャン会衆の成員が今や神の選ばれた者となったことを示すために,彼らに奇跡的な賜物をお与えになったのです。―ヘブライ 2:3,4

聖書時代に神が選び,導いておられる者たちを見分けるため,超自然的なしるし,つまり奇跡がいつでも必要だったのでしょうか。決してそうではありません。聖書の歴史を通じて,奇跡的な業はありふれた出来事ではありませんでした。聖書時代に生きていた人たちの大半は一度も奇跡を目撃しませんでした。聖書に記録されている奇跡の大部分はモーセとヨシュアの時代(西暦前16世紀と15世紀),エリヤとエリシャの時代(西暦前10世紀と9世紀),イエスと使徒たちの時代(西暦1世紀)に生じました。アブラハムやダビデなど,特別な目的のために神から選ばれた他の忠実な人たちは神の力の表明を観察したり経験したりしましたが,彼らが自ら奇跡を行なった証拠はありません。(創世記 18:14; 19:27-29; 21:1-3。サムエル第二 6:21; ネヘミヤ 9:7と比較してください。)1世紀に見られた奇跡的な賜物について,聖書はそうした賜物が「廃され(る)」ことを予告しました。(コリント第一 13:8)十二使徒の最後の人や,十二使徒から奇跡的な賜物を受けた人たちが亡くなると,そうした賜物は廃されました。―使徒 8:14-20と比較してください。

今日の神の選びについてはどうか

1世紀が過ぎると,予告されていた背教が抑制されることなく広がりました。(使徒 20:29,30。テサロニケ第二 2:7-12)千数百年の間,真のキリスト教のともしびの炎は非常に弱くなっていました。(マタイ 5:14-16と比較してください。)しかしイエスは例えの中で,「事物の体制の終結」の際に,「小麦」(真のクリスチャン)と「雑草」(まがいのクリスチャン)が明確に区別されるようになることを示されました。1世紀と同様に,小麦,つまり「選ばれた者たち」は一つの真のクリスチャン会衆に集められることになっていました。(マタイ 13:24-30,36-43; 24:31)さらにイエスは,その会衆の油そそがれた成員を「忠実で思慮深い奴隷」と呼び,彼らが終わりの時に霊的な食物を分配することを示されました。(マタイ 24:3,45-47)その忠実な奴隷には,すべての国民の中から来た真の崇拝者の「大群衆」が加わることになっていました。―啓示 7:9,10。ミカ 4:1-4と比較してください。

終わりの時に生きている真の崇拝者たちはどのように見分けられるのでしょうか。彼らは常に正しく,絶対に判断を誤らないのでしょうか。イエスの使徒たちは誤りを正される必要がなかったわけではありません。(ルカ 22:24-27。ガラテア 2:11-14)使徒たちと同様に,現代のキリストの真の追随者も謙遜で,進んで懲らしめを受け入れ,必要であれば,自分の考えを神の考えと一層調和させるために調整を行なわなければなりません。―ペテロ第一 5:5,6

1914年に世界が終わりの日に入った時,唯一の真のクリスチャンの組織だったのはどのグループでしたか。キリスト教世界にはキリストを代表していると主張する教会が数多くありました。しかし,問題があります。仮に聖書の要求を満たしている教会があったとしても,キリストを代表していると主張するそれらの教会の中のどれがそうだったのでしょうか。

唯一の真のクリスチャン会衆は,あちこちの聖句を引用しながら現代の自分たちの神学と合致しない聖句は退けるという組織ではなく,最高の権威として聖書に固く従う組織でなければなりません。(ヨハネ 17:17。テモテ第二 3:16,17)また,キリストに見倣い,全く世のものではない成員 ― 一部ではなく全員 ― によって構成される組織でなければなりません。ですから,キリスト教世界の諸教会が繰り返し行なってきたように,政治に関与することなど,どうしてできるでしょうか。(ヨハネ 15:19; 17:16)真のクリスチャンの組織は,神のみ名エホバについて証言し,イエスが命令された業である神の王国の良いたよりを宣べ伝える業を行なわねばなりません。1世紀の会衆と同様に,少数の成員だけではなく,すべての成員が魂をこめて働く福音宣明者であるはずです。(イザヤ 43:10-12。マタイ 24:14; 28:19,20。コロサイ 3:23)また,真の崇拝者は互いに対する自己犠牲的な愛,つまり人種や国籍の壁を超え,彼らを結び合わせて世界的な兄弟関係を形造る愛によって知られているはずです。そうした愛は,単に時折ではなく,彼らが一つの組織として他から全く区別されるような仕方で表わされねばなりません。―ヨハネ 13:34,35

明らかなことですが,1914年に終わりの時が始まった時点で,キリスト教世界のどの教会も唯一の真のクリスチャン会衆に関するこれらの聖書の規準にかなっていませんでした。しかし,当時聖書研究者と呼ばれていたエホバの証人はどうだったのでしょうか。

実り多い,真理の探究

C・T・ラッセルは若いころ,聖書がキリスト教世界によって甚だしく誤り伝えられているという結論に達しました。さらに彼は,神の言葉の理解を得るための時が来ており,聖書を誠実に研究して自分の生活に適用する人たちが理解を得ると考えました。

ラッセルの死後まもなく出版された彼の伝記はこう説明しました。「彼は新しい宗教の教祖ではなく,またそう主張したことは一度もなかった。イエスと使徒たちが教えた壮大な真理を回復し,それらの真理に20世紀の光を当てたのである。彼は神からの特別な啓示を得ているとは主張しなかったが,聖書の理解を得るための神のご予定の時が来ており,自分は主と主への奉仕のために全く聖別され,聖書を理解することを許されていると考えた。彼は聖霊の実と美徳の陶冶に専念したゆえに,主の約束が彼に成就した。『これらのもの汝らのうちにありていや増すときは,汝らわれらの主イエス・キリストを知るに怠ることなく,実を結ばぬことなきに至らん』― ペテロ第二 1:5-8」―「ものみの塔」誌(英文),1916年12月1日号,356ページ。

C・T・ラッセルとその仲間たちが行なった聖書の理解の探究は実り多いものでした。彼らは真理を愛する者として,聖書が霊感を受けた神の言葉であることを信じていました。(テモテ第二 3:16,17)彼らはダーウィンの進化論的考えや信仰を損なう聖書高等批評家たちの見方を退けました。また,聖書を最高権威として受け入れ,異教に由来する教理である三位一体,魂の不滅性,とこしえの責め苦などの教えを非聖書的なものとして退けました。彼らが受け入れた「壮大な真理」の中には,エホバはすべてのものの創造者であられること,イエス・キリストは神のみ子であり,他の人のための贖いとしてご自分の命を与えられたこと,イエスは戻られる際に霊者として目に見えない様で臨在されることが含まれていました。(マタイ 20:28。ヨハネ 3:16; 14:19。啓示 4:11)彼らは人間が死すべき魂であることもはっきり理解しました。―創世記 2:7。エゼキエル 18:20

ラッセルの仲間である聖書研究者たちがこれらの真理すべてを解明したわけではありません。クリスチャンであるととなえる誠実な人たちはこれらの真理の多くを既に理解していました。彼らの中には,そうした信条が人気を得なくても,信念を固守した人さえいました。しかし,そうした人たちは真の崇拝に関する聖書の要求すべてに従いましたか。例えば,イエスがご自分の真の追随者について言われたように,彼らは本当に世のものではありませんでしたか。

ラッセルの仲間である初期の聖書研究者たちは,聖書に対する見方のほかにどんな点で異質な存在として際立っていたでしょうか。特に神のみ名と王国をふれ告げることに力を入れながら,自分たちの信条を他の人々に伝える面で示した熱意は確かに際立っていました。数は比較的少なくても,すぐに数十か国に赴いて良いたよりを伝えたのです。また彼らはキリストの追随者として,本当に世のものとはならなかったのでしょうか。ある面では確かに世のものではありませんでした。しかし,この点に関する彼らの責任感は第一次世界大戦以降強まり,現在に至るまでエホバの証人の際立った特徴になっています。エホバの証人は,他の宗教団体が国際連盟や後の国際連合を歓呼して迎えていた時に,人類の唯一の希望として,人間が作ったいかなる組織でもなく,神の王国をふれ告げていたことを見逃すべきではありません。

とはいえ,長い年月の間に,エホバの証人の信条の一部には調整が加えられてきたのではないでしょうか。もしエホバの証人が本当に神に選ばれ,導かれていたのであれば,もし当初から彼らの教えが聖書の権威に裏打ちされていたのであれば,なぜそうした変更が必要になるのでしょうか。

エホバがご自分の民を導かれる方法

今日,唯一の真のクリスチャンの組織を構成している人たちは,み使いによる啓示も神の霊感も受けていません。しかし彼らは霊感を受けた聖書を持っており,聖書には神のお考えとご意志に関する啓示が含まれています。彼らは組織としても個人としても,聖書を神の真理として受け入れ,注意深く研究し,聖書が自分たちの中で働くようにしなければなりません。(テサロニケ第一 2:13)しかし,彼らはどのようにして神の言葉の正確な理解に到達するのでしょうか。

聖書そのものが,「解き明かしは神によるのではありませんか」と述べています。(創世記 40:8)聖書を研究する際にある聖句が理解しにくいなら,その点に光を投げかける霊感を受けた他の聖句を見いだすため,調査しなければなりません。そのように聖書によって聖書を解き明かし,それに基づいて,神の言葉が述べる真理の「型」を理解するよう努めるのです。(テモテ第二 1:13)エホバはご自分の聖霊によって彼らをそのような理解に導かれます。しかし,その霊の導きを得るには,霊を悲しませたり霊に逆らったりするのではなく,霊の実を培い,常に霊の指示にこたえ応じなければなりません。(ガラテア 5:22,23,25。エフェソス 4:30)さらに彼らは学ぶ事柄を熱心に適用することにより,絶えず自分の信仰を築き上げます。彼らはその信仰を基礎として,世のものではないという立場を守りつつ,その世においていかに神のご意志を行なうべきかに関する理解を一層明確なものとしてゆくのです。―ルカ 17:5。フィリピ 1:9,10

エホバは常にご自分の民をご意志に関する一層明確な理解へ導いてこられました。(詩編 43:3)エホバが一体どのようにご自分の民を導いてこられたかということは,次のような例えで説明できるかもしれません。ある人が暗い部屋の中に長時間いた場合,その人に徐々に光を当てるのが最善ではないでしょうか。エホバはそれと似た方法でご自分の民に真理の光を当ててこられました。彼らを漸進的に啓発されたのです。(ヨハネ 16:12,13と比較してください。)箴言が述べているとおりです。「義なる者たちの道筋は,日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ」― 箴言 4:18

聖書時代にエホバがご自分の選んだ僕たちと持たれた交渉は,神のご意志と目的に関する明確な理解がしばしば徐々に与えられることを確証しています。例えばアブラハムは,「胤」に関するエホバの目的がどのように果たされるかを十分に理解してはいませんでした。(創世記 12:1-3,7; 15:2-4。ヘブライ 11:8と比較してください。)ダニエルは自分が記録した預言の最終的な結末を把握していませんでした。(ダニエル 12:8,9)イエスは地上におられた時,現在の事物の体制が終わる日と時刻を知らないことを認められました。(マタイ 24:36)使徒たちは当初,イエスの王国が天的なものであることや,その王国が1世紀には設立されないこと,また異邦人もその王国を受け継げることを理解していませんでした。―ルカ 19:11。使徒 1:6,7; 10:9-16,34,35。テモテ第二 4:18。啓示 5:9,10

エホバが現代でもご自分の民をしばしば漸進的な組織として導かれ,聖書の真理に関して彼らを徐々に啓発してこられたとしても驚くには当たりません。真理そのものが変わるというのではありません。真理はあくまでも真理です。聖書に略述されているエホバのご意志と目的も不変です。(イザヤ 46:10)しかし,それらの真理に関する彼らの理解は「時に応じて」,つまりエホバのご予定の時に漸次一層明確にされます。(マタイ 24:45。ダニエル 12:4,9と比較してください。)時には,人間的な間違いや見当違いの熱心さのために,彼らの見方は調整を要することもあります。

例えば,エホバの証人の現代の歴史の様々な時期に,エホバの主権の立証に対する彼らの熱心さや熱意の結果として,サタンの邪悪な事物の体制の終わりが来るに関する早まった期待が生まれました。(エゼキエル 38:21-23)しかしエホバはその正確な時を前もって啓示してはおられません。(使徒 1:7)ですから,エホバの民はこの点で自分たちの見方を調整しなければなりませんでした。

見解上のそうした調整が行なわれたからといって,神の目的が変わったわけではありません。また,必ずしもこの体制の終わりがまだずっと先だというわけでもありません。むしろ,「事物の体制の終結」に関する聖書預言の成就は,終わりが近いことを確証しています。(マタイ 24:3)では,エホバの証人が幾度か早まった期待を抱いたという事実は,彼らが神に導かれていないことを意味するのでしょうか。そうでないことは弟子たちの場合と同じです。弟子たちは,王国が自分たちの時代にすぐ到来することについて質問しましたが,だからといって彼らが神から選ばれず,導かれていなかったわけではありませんでした。―使徒 1:6。使徒 2:47; 6:7と比較してください。

エホバの証人が,真の宗教を奉じていると全く確信しているのはなぜですか。それは,真の崇拝者を見分けるしるしについて聖書が述べている事柄を信じ,受け入れているからです。本書の前のほうの章で検討したように,証人たちの現代の歴史は,彼らが単に個人としてではなく組織として必要条件を満たしていることを示しています。彼らは聖書を神の神聖な真理の言葉として忠節に擁護し(ヨハネ 17:17),常に世の営みから全く離れ(ヤコブ 1:27; 4:4),神のみ名エホバについて証言し,人類の唯一の希望として神の王国をふれ告げ(マタイ 6:9; 24:14。ヨハネ 17:26),互いに心から愛し合っています。―ヨハネ 13:34,35

愛が真の神の崇拝者を見分ける際立ったしるしであるのはなぜですか。真のクリスチャンを見分けるものとなる愛とは,どんな種類の愛なのでしょうか。

[脚注]

^ 3節 ものみの塔聖書冊子協会発行。

[705ページの拡大文]

ひとたび神に選ばれた後も神の律法に従い続けることが肝要だった

[706ページの拡大文]

終わりの時に生きている真の崇拝者たちはどのように見分けられるのか

[707ページの拡大文]

「彼は神からの特別な啓示を得ているとは主張しなかった」

[708ページの拡大文]

聖書によって聖書を解き明かす

[709ページの拡大文]

エホバはご自分の民を漸進的な組織として導かれ,聖書の真理に関して彼らを徐々に啓発してこられた