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『彼らは世のものではありません』

『彼らは世のものではありません』

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『彼らは世のものではありません』

現代の宗教は大抵,大いに世のものとなっているので,世の祝典に参加し,世の国家主義的な精神を反映しています。現代の僧職者たちもその事実を認める場合が多く,そういう状態で良いと思っている僧職者も珍しくありません。それとは非常に対照的に,イエスはご自分の真の追随者たちについて,「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言われました。―ヨハネ 17:16

この点について,エホバの証人に関する記録は何を示しているでしょうか。彼らは,自分たちが世のものではないことを示す納得のゆく証拠を提出してきたでしょうか。

仲間の人間に対する態度

初期の聖書研究者たちは,クリスチャンは世のものとはならないことをよく知っていました。「ものみの塔」誌は,キリストの油そそがれた追随者たちは,天の王国にあずかるために神聖なものとされ,聖霊によって生み出されているので,神のそのような行動によって世から分けられていると説明しました。さらに,彼らには世の霊 ― 世の目標や野心や希望,それに世の利己的な方法 ― を避ける責務があるということも指摘しました。―ヨハネ第一 2:15-17

そのことによって,聖書研究者たちが自分たちと同じことを信じていない人々に示す態度は影響を受けたでしょうか。彼らはそのために世捨て人のようになったわけでは決してありません。しかし,聖書から学んでいた事柄を本当に当てはめた人々は,世の人々と同じ生き方をして彼らとの交友を求めるようなことはしませんでした。「ものみの塔」誌は,『すべての人に対して良いことを行なう』という聖書の助言に神の僕たちの注意を引きました。また,迫害されている時でも復しゅう心を持たないように努め,それよりも,イエスが言われたとおり『敵を愛する』べきであると助言しました。(ガラテア 6:10。マタイ 5:44-48)また特に,救いのための神の備えに関する貴重な真理を他の人々に伝える努力をするよう勧めました。

彼らがそのようなことをするなら,当然,世間からは変わった人々とみなされます。しかし,世のものではないということにはそれよりもっと多くのことが関係しています。

大いなるバビロンから離れ,違いをはっきりさせる

世のものにならないようにするには,世の営みに深くかかわり,しかも真の崇拝の長年の敵である古代バビロンから教理や習慣を取り入れてきた宗教機構の一部にならないようにすることが必要でした。(エレミヤ 50:29)第一次世界大戦がぼっ発した時点で,聖書研究者たちはすでに数十年にわたり,三位一体,人間の魂の不滅性,火の燃える地獄といったキリスト教世界の教理に異教の起源があることを暴露していました。また彼らは,諸教会が自らの利己的な目的のために政府を操ろうとした記録も暴き出しました。聖書研究者たちは,キリスト教世界の教理や習慣のゆえに,同世界を「大いなるバビロン」と同一視しました。(啓示 18:2)さらに,キリスト教世界が真理と誤りを融合させ,生ぬるいキリスト教と全く世俗的な事柄を融合させたこと,また「バビロン」(「混乱」の意)という聖書的な名称がそうした状況にぴったり当てはまることを指摘しました。そして,神を愛する人々に,「バビロン」から出るように勧めました。(啓示 18:4)そのため彼らは,1917年12月後半から1918年の初めにかけて,「バビロンの倒壊」というテーマを特集した“The Bible Students Monthly”(「聖書研究者月刊」)を1,000万部配布しました。それは,キリスト教世界の実態を痛烈に暴露するものでした。それに対して,僧職者たちは激しい敵意を燃やし,戦時の異常な興奮状態を利用してエホバの証人の活動を粉砕しようとしました。

大いなるバビロンから出ることには,当然,偽りの教理を奉じている団体から籍を抜くことが関係していました。聖書研究者たちは実際にそのことを行ないました。もっとも彼らは長年の間,完全な聖別と贖いに対する信仰を告白する教会内の人々をクリスチャンの兄弟とみなしていました。それでも,聖書研究者たちは,キリスト教世界の諸教会から脱退する旨を記した手紙を書いただけでなく,教会員が自分の意見を述べてもよいところでは,可能な時に教会の集いの中でそのような手紙を読み上げることもありました。それができない場合は,脱退する旨を記した手紙 ― 適切な証言を含む親切な手紙 ― の写しを教会員全員に送るという方法もありました。

彼らはまた,そうした団体の不敬虔な習慣や慣行を絶対持ち込まないようにしていたでしょうか。第一次世界大戦が始まる前にはどんな状況が見られましたか。

宗教は政治にかかわるべきか

政治の舞台では,多くの有力な国々の支配者たちが長年にわたり,カトリック教会やプロテスタント教会との関係のゆえに,『神から授かった王権によって』,つまり神の王国の代表者として,また神の特別な恵みによって支配を行なっていると主張していました。教会は政府に祝福を与え,政府もまた教会に援助を与えました。聖書研究者たちもそのようなことを行なったのでしょうか。

彼らはキリスト教世界の諸教会に倣うよりも,イエス・キリストとその使徒たちの教えや模範から学ぼうとしました。彼らは聖書の研究から何を理解したでしょうか。ものみの塔の初期の出版物からすると,彼らは,イエスがローマ総督ポンテオ・ピラトから質問された時に,「わたしの王国はこの世のものではありません」とお答えになったことを知っていました。イエスの役割に関する質問に対して,イエスは総督に,「真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました」と言われました。(ヨハネ 18:36,37)聖書研究者たちは,イエスがわき目も振らずにその任務を果たされたことを知っていました。悪魔が世のすべての王国とその栄光をイエスに与えようと申し出た時,イエスはそれを拒絶されました。人々がイエスを王にしたいと思った時も,イエスはその場を退かれました。(マタイ 4:8-10。ヨハネ 6:15)聖書研究者たちは,イエスが悪魔のことを「世の支配者」と呼び,悪魔は『わたしに対して何の力もない』と言われた事実から目をそらしませんでした。(ヨハネ 14:30)また,イエスが自分自身や追随者たちのためにローマの政治体制に関与するようなことはなく,むしろ「神の王国の良いたより」を宣明することに全く専念しておられたことを理解できました。―ルカ 4:43

彼らは,神の言葉に記録されているそうした事柄を信じていたために,政府の権威に対して無礼な態度を取るようになったでしょうか。そのようなことは決してありません。むしろそのおかげで,支配者たちに非常な難問が降りかかっている理由,不法がはびこっている理由,さらには人々の境遇を改善するための政府の計画が多くの場合ざ折してしまう理由などを理解することができました。彼らは自分たちの信条によって,苦難のさなかでも辛抱することができました。というのは,神がしかるべき時に,王国によって永続的な救済をもたらしてくださることを確信していたからです。彼らは当時,ローマ 13章1節から7節(欽定)に出て来る「上にある権威」は世俗の支配者であると理解していました。彼らはそれと調和して,政府の役人に敬意を示すことを勧めました。C・T・ラッセルは「新しい創造物」(1904年発行)という本の中でローマ 13章7節について説明し,こう述べました。真のクリスチャンは,「当然,この世の上位者を最も誠実に認める人々であり,天の要求や命令に反しない限り法律や法的要求に最もよく従う人々である。今の時代に,至高の創造者を認めることや,その方の命令に対して最高度の忠誠を示すことをとがめる地上の支配者はまずいないだろう。したがって,[真のクリスチャンは]当代最もよく法律を守る人々の中に含まれていなければならず,政治運動を行なったり,すぐに文句を言ったり,あら捜しをしたりすべきではない」。

聖書研究者たちはクリスチャンとして,自分たちが専念すべきなのは神の王国を宣べ伝える業であることを知っていました。また,「聖書研究」の第1巻に書かれているように,「もしそのことを忠実に行なうなら,現在の政府の政治に手を出す時間はなく,そういう気も起こらない」でしょう。

この点で彼らは,オーガスタス・ネアンダーが「初期3世紀間のキリスト教と教会の歴史」という本の中で説明している初期クリスチャンにかなりよく似ていました。「クリスチャンは……国家とは別個の超然とした存在であり,正直に言わざるを得ないが,キリスト教はあの最も純粋な方法によってのみ,つまり聖なる感情を市民の中に一層浸透させるよう実際に努力することによって,市民の生活に影響を及ぼし得たようである」。

世界が戦争に向かった時

世界の至る所で,クリスチャンと称する人々の主張は第一次世界大戦中の出来事によって厳しく試みられました。それは当時としてはかつてなく恐ろしい戦争でした。世界のほとんどすべての人が何らかの形でそれに巻き込まれたのです。

バチカンは同盟国側に同情的でしたが,法王ベネディクトゥス15世は努めて中立を装っていました。しかし,それぞれの国内では,カトリックの僧職者もプロテスタントの僧職者もそうした中立の立場を保ちませんでした。米国の状況について,レイ・アブラムズ博士は,自著「捧げ銃をする説教師たち」の中でこう書いています。「諸教会は目的の点で一致したが,それは宗教史上初めてのことであった。……指導者たちは早速戦時体制に基づく徹底的な組織化を図った。宣戦布告が出されて24時間以内に,アメリカ・キリスト教会連邦協議会は全面的な協力計画を立てた。……ローマ・カトリック教会も,14人の大司教が運営し,ギボンズ枢機卿が会長を務める全国カトリック戦争協議会のもとで同様の務めを果たすために組織され,戦争目的のために同じほどの献身ぶりを示した。……多くの教会は要請された事柄をはるかに超えて物事を行ない,新兵を部隊に入隊させる徴募本部となった」。聖書研究者たちはどうしたでしょうか。

彼らは神に喜ばれると思った事柄を行なおうと努めましたが,彼らの立場は必ずしも厳正中立の立場ではありませんでした。彼らの行動は,クリスチャンと称する他の人々と共有していたある信条,つまり,「ジェームズ王欽定訳」の表現によれば,「上にある権威」は『神によって立てられた』という信条に影響されていました。(ローマ 13:1)そのため,「ものみの塔」誌は米国大統領の声明に合わせ,聖書研究者たちが,世界大戦の結末に関連した祈りと祈願の日である1918年5月30日の祝いに加わることを勧めました。 *

戦争期間中,個々の聖書研究者たちが直面せざるを得なかった状況は様々でした。また,そのような状況に対する彼らの対応の仕方も様々でした。中には,「現存する権威」― 彼らは世俗の支配者のことをそう呼んでいた ― に従う責務を感じ,銃や銃剣を持って前線の塹壕に行った人たちもいました。しかしそのような人も「汝殺すなかれ」という聖句を覚えていたので,空に向かって発砲したり,相手の手からただ武器を打ち落とそうとしたりしました。(出エジプト記 20:13,欽定)また少数ながら,イタリアのレミージョ・クミネッティのように,軍服の着用を拒否した人たちもいました。当時のイタリア政府は,良心上の理由で武器を取ろうとしない人を例外的に扱うことはしませんでした。彼は5回裁判にかけられ,刑務所と精神病院に入れられましたが,信仰と決意は揺らぐことがありませんでした。英国では,兵役免除を申請して国家の重要な任務に就けられたり,非戦闘部隊に配属されたりした人々もいました。また,プライス・ヒューズのように,個人的にどんな結果を身に招こうとも厳正中立の立場を取った人たちもいました。

少なくともその当時に関して言えば,聖書研究者たちの全般的な記録は,E・W・バーンズの著書「キリスト教の出現」の中で説明されている初期クリスチャンの記録とは幾分違っていました。バーンズはこう書いています。「入手できる情報をすべて注意深く調べてみると,マルクス・アウレリウス[ローマ皇帝,西暦161-180年在位]の時代に至るまで,クリスチャンで兵士になった者は一人もおらず,またクリスチャンになった兵士で兵役にとどまっていた者も一人もいないことが分かる」。

しかしその後,第一次世界大戦が終わった時に,各宗教団体が何に忠節を示しているかを明らかにしなければならない別の事態が生じました。

神の王国の政治的表現?

1919年6月28日,国際連盟規約を含む平和条約がフランスのベルサイユで調印されました。アメリカ・キリスト教会連邦協議会はその平和条約が調印される前から,国際連盟は「地上における神の王国の政治的表現」になるであろうと宣言し,自らの態度を明らかにしました。また,米国上院は,国際連盟規約の批准を要請する非常に多くの手紙を様々な宗教団体から受け取りました。

エホバの証人はその流れに同調しませんでした。その平和条約が(10月に)承認される前でさえ,J・F・ラザフォードは1919年9月7日にオハイオ州シーダーポイントで講演し,その中で,苦悩する人類の唯一の希望は国際連盟ではなく,神ご自身によって樹立された王国であることを示しました。当時の聖書研究者たちは,事態を改善するための人間の協力関係がかなり良い成果を上げる場合があることを認めていましたが,神ご自身の王国に背を向けて,代わりに,政治家が作り出し,僧職者が祝福した政治的手段を支持するようなことはしませんでした。むしろ,神がイエス・キリストの手中に置かれた王国について証言する世界的な活動に取りかかったのです。(啓示 11:15; 12:10)「ものみの塔」誌(英文),1920年7月1日号は,その活動こそ,マタイ 24章14節でイエスが予告された業であることを説明しました。

クリスチャンは第二次世界大戦後に,再び同様の問題に直面しました。今回は国際連盟の後身である国際連合が関係していました。第二次世界大戦のさなかだった1942年,エホバの証人はすでに聖書の啓示 17章8節から,世界平和を目指した機構が復興することと,それが恒久平和をもたらせないことを理解していました。この点は,ものみの塔協会の当時の会長N・H・ノアによる,「平和 ― それは永続するか」という大会の話の中で説明されました。エホバの証人は大胆に,世界情勢の進展に関するその見方をふれ告げました。一方,カトリックやプロテスタントやユダヤ教の指導者たちは,国連憲章が起草された1945年,サンフランシスコでの討議に実際に参加しました。こうした事態の進展を見守っていた人々にとって,だれが「世の友」になりたいと思っているか,だれが『世のものにならない』よう努力しているかは明らかでした。イエスが言われたとおり,イエスの弟子たちは「世のものではない」のです。―ヤコブ 4:4。ヨハネ 17:14

クリスチャンの中立に関する記録

クリスチャンと世の関係に関する問題について言えば,エホバの証人がすぐに理解した点もありましたが,もっと時間のかかった問題もありました。しかし,第二次世界大戦がヨーロッパで激しさを増していたころ,彼らは「ものみの塔」誌(英文),1939年11月1日号の重要な記事によって,クリスチャンの中立の意味を理解することができました。その記事によれば,イエス・キリストの追随者たちは,神と神の王国,つまり神権政治に専心を尽くす責務を神のみ前で負っています。彼らは世のためではなく,神の王国のために祈るべきです。(マタイ 6:10,33)目に見えない,世の支配者の実体に関してイエス・キリストが明らかにされた事柄に照らして(ヨハネ 12:31; 14:30),その記事は,神の王国に専心を尽くす人が世の党派間の争いでいずれかの側を支援することなどどうしてできるだろうか,と論じました。イエスはご自分の追随者たちについて,「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言われたのではないでしょうか。(ヨハネ 17:16)クリスチャンの中立に関するその立場は,世間一般には理解されませんでした。しかし,エホバの証人は本当にその立場をしっかり守るでしょうか。

彼らの中立は第二次世界大戦中に特にドイツで厳しく試みられました。歴史家のブライアン・ダンはこう述べています。『エホバの証人はナチズムと相いれなかった。ナチが彼らに反対した理由の中でも特に重要だったのは,エホバの証人の政治的中立の立場であった。それは,信者であればだれも武器を取ることはできず,公職に就くことも,公の祝祭に参加することも,忠誠を表わすいかなるしぐさをすることもできないという意味であった』。(「大虐殺に対する教会の反応」,1986年)さらにポール・ジョンソンは自著「キリスト教の歴史」の中で,「多くの人々は兵役に就くことを拒否したため,死刑を宣告されるか……さもなくばダハウや精神病院で最期を遂げた」と書いています。ドイツでは,どれほど多くの証人たちが投獄されたのでしょうか。後にドイツのエホバの証人は,6,262人の証人が逮捕され,そのうち2,074人が強制収容所に送られたと発表しました。一般の著述家は大抵それよりも高い数字を挙げています。

男性も女性も兵役に就いた英国では,法律によって兵役免除が規定されていましたが,多くの裁判所はエホバの証人にそれを適用せず,裁判官たちは合計600年を超える刑期を証人たちに課しました。米国では,クリスチャンの奉仕者として兵役を免除されたエホバの証人も多くいましたが,選抜徴兵法の免除規定が適用されなかった他の4,000人余りの証人たちは逮捕され,最高5年の刑期を言い渡されました。地上のどの国でも,エホバの証人はクリスチャンの中立に関する同じ立場を堅持しました。

しかし,彼らの中立の立場の純粋さに関する試みは終戦と共に終わったわけではありません。1939年から45年までの危機は過ぎ去ったものの,他の紛争が幾つか起きました。比較的平和な時期でさえ,強制徴兵制を続けることにした国は少なくありません。エホバの証人はクリスチャンの奉仕者として,免除が認められない所では引き続き投獄を経験しました。1949年には,ジョン・ツカリスとジョージ・オルファニディスが同胞に向けて武器を取ろうとしなかった時,ギリシャ政府は彼らの処刑を命じました。ギリシャのエホバの証人が受けた(様々な種類の)仕打ちは余りにもひどく,それが度重なったため,やがてヨーロッパ審議会(人権委員会)はエホバの証人のために影響力を行使しようとしましたが,ギリシャ正教会からの圧力の結果,同審議会の勧告は1992年まで,わずかな例外を除き,巧みに回避されてきました。しかし,良心上の宗教信条を理由にしてエホバの証人の処罰を続けることを不快に感じた政府も幾つかあります。1990年代に入る時点で,スウェーデン,フィンランド,ポーランド,オランダ,アルゼンチンなど,数か国の政府は,その都度注意深く調査を行なうものの,活発なエホバの証人が兵役やその代わりとなる国家の強制任務に就くことを強いてはいませんでした。

エホバの証人はいろいろな場所で,クリスチャンの中立が試される事態にいや応なく直面してきました。ラテンアメリカ,アフリカ,中東,北アイルランドなどの幾つかの政権は,革命勢力から激しい反対を受けてきました。その結果,政府も反政府勢力も,積極的な支持を呼びかけてエホバの証人に圧力をかけています。しかし,エホバの証人は完全な中立の立場を保ってきました。中には,その立場のために激しく殴打されたり,場合によっては処刑されたりした人もいます。しかし,エホバの証人がクリスチャンとして保つ純粋な中立の立場は,両方の側の将校や役人などから敬意を勝ち得る場合が少なくありません。また大抵の場合,エホバの証人は,エホバの王国に関する良いたよりを他の人に告げる業を邪魔されずに続けることができるようになっています。

1960年代から1970年代にかけて,マラウイの全国民は政権を握る政党の党員カードを買うことを要求されたため,エホバの証人の中立の立場は非常に厳しく試みられました。エホバの証人は,それを買うことはクリスチャンとしての信条に反すると考えました。その結果,彼らは前例がないほど残忍な虐待行為を伴う迫害を受けました。何万人もの人が国から逃げることを余儀なくされましたが,やがて故国に強制送還され,さらに残虐行為を加えられた人も少なくありません。

エホバの証人は激しく迫害されても,反抗心を燃やして対抗するようなことをしません。彼らの信条は,彼らが住んでいる国のいかなる政府にとっても危険ではありません。それとは対照的に,世界教会協議会は革命に財政的援助を与えてきましたし,カトリックの司祭はゲリラ活動を支援してきました。しかし,エホバの証人が破壊活動に加わるとしたら,それは自分の信仰を否定することになるのです。

確かにエホバの証人は,人間の政府がすべて神の王国によって除き去られることを信じています。それは,聖書がダニエル 2章44節で述べている事柄です。しかし,証人たちが指摘しているように,聖書は人間がその王国を立てると述べているのではなく,「天の神は……ひとつの王国を立てられます」と宣言しています。同様に,証人たちが説明しているとおり,聖書は,人間の支配を除き去ることによって神の王国のために道を整える権限が神から人間に与えられたとは述べていません。エホバの証人は,宣べ伝えて教えることこそ,真のクリスチャンの業であると理解しています。(マタイ 24:14; 28:19,20)彼らは神の言葉を尊重するので,記録が示すとおり,世界のどこであろうと,何らかの政府の転覆を企てたり,公務員に危害を加えようとたくらんだりする人は一人もいません。イタリアの「ラ・スタンパ」紙はエホバの証人について,「彼らは,望み得るかぎり最も忠節な市民である。税金逃れをせず,自分たちの利益のために不都合な法律の網をくぐろうともしない」と述べました。それでも,エホバの証人各自は,神のみ前における事の重大さを認識しているので,『世のものではない』状態にとどまることを固く決意しています。―ヨハネ 15:19。ヤコブ 4:4

国家の象徴が専心の対象になった時

アドルフ・ヒトラーがドイツで権力の座に上ると,愛国主義の異常な興奮の波が世界を襲いました。人々を兵役に就かせるために,愛国的な儀式への参加が義務づけられました。ドイツでは,規定の敬礼を行ない,「ヒトラー万歳」と叫ぶことが全員に要求されました。これは,ヒトラーを救い主としてあがめることであり,人々の希望はすべてヒトラーの統率力にかかっているという考えを示すためのものでした。しかし,エホバの証人はそのような見方に同調するわけにはゆきませんでした。彼らはエホバだけを崇拝しなければならないこと,またエホバはイエス・キリストを人類の救い主としてお立てになったことを知っていました。―ルカ 4:8。ヨハネ第一 4:14

ヒトラーがドイツの独裁者になる前にも,エホバの証人は,「神の国 ― 全地の希望」(英文では1931年発行)という小冊子の中で,バビロンにいた預言者ダニエルの3人の勇敢なヘブライ人の友に関する聖書的な模範を再検討しました。それらの忠実なヘブライ人は,特定の音楽の演奏を聞いたら像の前で身をかがめるように王から命じられた時,妥協することを拒みました。そしてエホバは,彼らを救い出すことによってご自分の是認をはっきり示されました。(ダニエル 3:1-26)その小冊子は,愛国的な儀式が忠実さに関する同様の挑戦を現代のエホバの証人に突きつけている,と指摘しました。

愛国的な儀式への強制参加を求める騒然とした動きは,徐々にドイツ以外の国にも広まってゆきました。1935年6月3日,J・F・ラザフォードは,ワシントン特別区で開かれた大会で学校の国旗敬礼に関する所見を求められた時,神に対する忠実という問題を強調しました。数か月後,マサチューセッツ州リンのカールトン・B・ニコルズ・ジュニアという8歳の少年がアメリカの国旗に敬礼することと愛国的な歌の歌唱に加わることを拒むと,そのことは全米の新聞で報じられました。

ラザフォード兄弟は事情を説明するため,10月6日にラジオを通じて「国旗敬礼」というテーマの講演を行ない,その中でこう述べました。「多くの人にとって,国旗敬礼は単なる形式であり,ほとんど,あるいは全く意味のない行為であるが,そのことを聖書の見地から真剣に考える人々にとっては大きな意味を持つ。

「国旗は象徴的に言って,地上の支配権力を表わしている。市民に対し,あるいは市民の子供に対し,何らかの物体もしくは物に対する敬礼や,いわゆる“愛国的な歌”の歌唱を法律によって強制しようとすることは,全く不当であり間違っている。法律は,他者の権利を侵害する歴然たる犯行を防ぐために制定され,施行されているのであり,当人の良心にそむくことを強制する目的で制定されているのではない。まして,その良心がエホバ神の言葉にしたがって導かれている場合はなおさらである。

「この少年のように国旗敬礼を拒否し,沈黙したまま立っているのはだれの権利を侵害することでもない。神のおきてが国旗敬礼を非としていることを誠実に信じている人がいるなら,神の言葉に反し,当人の良心に反して国旗敬礼を強いるのは,当人の権利を大いに侵害することである。国家には,法律によってであれ,他のいかなる方法によってであれ,国民の権利を侵害する権利はない」。

エホバの証人がそのような立場を取る理由については,同じく1935年に出版された“Loyalty”(「忠節」)という小冊子の中でさらに説明されました。そこでは,次のような聖句に注意が向けられています。出エジプト記 20章3節から7節は,エホバだけを崇拝するよう命じており,神の僕たちは,天や地にあるものの像や形を作ったり,その前で身をかがめたりしてはならないと述べています。ルカ 20章25節で,イエス・キリストは,カエサルのものをカエサルに返すだけでなく,神に属するものは神に返さなければならないとも命じておられます。使徒 5章29節で,使徒たちはきっぱりと,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と言いました。

米国では,人に国旗敬礼を強制することの是非が法廷で争われました。1943年6月14日,米国連邦最高裁判所は,自らが下した以前の判決を覆し,ウェスト・バージニア州教育委員会 対 バーネット事件に関し,国旗敬礼の強制は同国の憲法で定められた自由の保障に反すると判断しました。 *

国家主義的な儀式に関する問題は,決してドイツと米国だけのものではありませんでした。南北アメリカ,ヨーロッパ,アフリカ,アジアでも,エホバの証人は残忍な迫害を受けてきました。彼らは,国旗敬礼や同様の儀式が行なわれている時に起立して敬意を払うものの,儀式に参加することはしないからです。子供たちは殴打され,中には退学処分を受けた子供も少なくありません。多くの事件が法廷で争われてきました。

しかし,事態を見守る人々は,他の点と同様にこの点でも,エホバの証人が初期クリスチャンと似ていることを認めざるを得ないと感じています。それでも,「アメリカ人の性格」という本が述べるとおり,「神格化された皇帝に形式的な犠牲をささげることを非とする,[ローマ帝国の]クリスチャンたちの異議がトラヤヌスやプリニウスにとって理解しにくいものだったように,証人たちの異議は……圧倒的大多数の人々にとって理解しにくいものだった」のです。これは当然予想されることでした。エホバの証人は初期クリスチャンと同様に,世の見方ではなく,聖書の原則にしたがった見方をしていたからです。

彼らの立場がはっきり説明される

エホバの証人が長年にわたって,クリスチャンの中立に関する厳しい試みに耐えた後,「ものみの塔」誌,1980年2月1日号は彼らの立場を再確認しました。その号は,個々の証人たちがそのような行動を取る理由についても説明し,こう述べています。「神の言葉を勤勉に研究した結果,これらのクリスチャンの青年たちは決定を下すことができました。だれか他の人が当人に代わってその決定を下したのではありません。聖書で訓練された良心に基づいて,各自が自分で決定を下したのです。これらの青年たちが下した決定は,同じ人類の一員である他国の人々に対して憎しみを示したり,暴力を振るったりするようなことはしないというものでした。これらのクリスチャンの青年たちは,良く知られたイザヤの次の預言を信じており,その成就にあずかることを望んでいたのです。『彼らはその剣を鋤の刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いのことを学ぶこともない』。(イザヤ 2:4,新)あらゆる国にいたこれらの青年たちはまさにこの言葉に従って行動しました」。

クリスチャンの中立の立場を守るかどうかが試みられていた間,聖書がローマ 13章1節から7節で「上位の権威」について述べている事柄が再検討され,エホバの証人と世俗の政府との関係が一層はっきり説明されるようになりました。そうした説明は,「ものみの塔」誌,1962年11月15日号,12月1日号,12月15日号に掲載され,1990年11月1日号の中で再確認されました。それらの記事は,「至上者」であられるエホバ神の地位を強調すると共に,世俗の支配者たちは,他の人間との関係において,また神が現在の事物の体制の中で働くことを彼らに許しておられる活動領域においてのみ,「上位の権威」であるにすぎないことを指摘しました。さらには,真のクリスチャンはそのような世俗の支配者たちを良心的に敬い,神の律法と,聖書で訓練された良心に反しない限り,すべての点で彼らに従わなければならないことを示しました。―ダニエル 7:18。マタイ 22:21。使徒 5:29。ローマ 13:5

エホバの証人は聖書のそうした規準を固守するので,世から離れているという評判を得ており,人々はそれを見て初期クリスチャンを思い出します。

世で祝日があった時

エホバの証人は,異教の起源を持つ宗教上の教えを退けた時,それと同じように毒された多くの慣行に加わることもやめました。しかし,ある祝日に関しては,厳密な調査が必要だったのに,しばらくの間そうした調査が行なわれていませんでした。その一つはクリスマスです。

ものみの塔協会の本部の奉仕者でさえ,ニューヨーク市ブルックリンのベテル・ホームで毎年クリスマスを祝っていました。それまで長年の間,彼らは12月25日が正しい日付ではないことを知っていましたが,その日付は昔から一般に救い主の誕生と結びつけられており,どの日であっても他の人に良いことを行なうのはふさわしいと彼らは考えました。しかし,この件に関してさらに調査が行なわれた後,協会の本部の奉仕者と,英国やスイスの支部事務所の奉仕者はクリスマスの祭りを行なわないことにしました。それで,それらの本部や支部では1926年を最後にクリスマスの祝いは行なわれなくなりました。

クリスマスの様々な習慣の起源とそれらが生み出している結果を徹底的に調査した本部の奉仕者,R・H・バーバーは,その調査結果をラジオで放送しました。その情報は,「黄金時代」誌(英文),1928年12月12日号にも載せられました。それは,クリスマスが神の名誉を汚す起源を持っていることを徹底的に暴露した記事でした。それ以来,クリスマスの様々な習慣に異教の起源があることは一般によく知られるようになりましたが,その結果として生き方を変えた人はほとんどいません。一方,エホバの証人は,エホバの僕としていっそう受け入れられるようになるために必要な変化を喜んで遂げました。

実際に人々の大きな関心事となっているのはイエスの死によって備えられた贖いよりもイエスの誕生の祝いであること,その祝日の浮かれ騒ぎとたくさんの贈り物をする際の精神は神に誉れを帰するものではないこと,贈り物をする人の手本とされるマギは実際には悪霊の霊感を受けた占星術者であること,親はサンタクロースについていろいろなことを言って,うそつきの見本を子供に示していること,“聖ニコラウス”(サンタクロース)は明らかに悪魔自身の別名であること,そのような祭りは,ニューマン枢機卿が自著「キリスト教教理発展論」の中で述べているように,教会が採用した「悪霊崇拝の紛れもない道具であり付属物」であることなどが明らかにされました。エホバの証人はそうした事柄を知るようになった時,クリスマスの祝いにかかわることを直ちに,そして永久にやめました。

エホバの証人は家族や友人と楽しい時を過ごします。しかし,(復活祭,正月,五月祭,母の日といった祝日のように)異教の神々と関係のある祝日や祝いには加わりません。(コリント第二 6:14-17)初期クリスチャンと同様, * 誕生日も祝いません。また,政治上の出来事や軍事上の出来事を記念する国民の祝日について言えば,その祝いに敬意は示しつつも加わることは避けます。さらに,国民的な英雄に崇拝のような誉れを与えることも避けています。なぜでしょうか。エホバの証人は世のものではないからです。

仲間の人間を助ける

ローマ帝国の社会的,文化的生活の中心には,神々に対する畏敬の念がありました。クリスチャンは,異教の神々によって毒された事柄に一切加わらなかったので,人々はキリスト教を自分たちの生活様式に対する侮辱とみなしました。歴史家のタキツスによれば,クリスチャンは人間嫌いであると言われていました。ミヌキウス・フェリクスも自著の中で同じような気持ちを言い表わし,あるローマ人がクリスチャンである知人に語った,「君は芝居も見に行かないし,行列にも加わらない。……聖なる競技会をひどく嫌っている」という言葉を引用しています。古代ローマ世界の人々はクリスチャンのことをほとんど理解していませんでした。

同様に今日も,世の多くの人はエホバの証人を理解していません。人々は証人たちの高い道徳規準をほめるかもしれませんが,エホバの証人は周りの世と一緒にいろいろな活動に加わったり,世の中を良くすることに手を貸したりすべきである,と彼らは考えます。しかし,エホバの証人をじかに知るようになった人々は,彼らのすることにはすべて聖書的な理由があることを理解しています。

エホバの証人はほかの人々から孤立するどころか,イエス・キリストが示された模範に倣って仲間の人間を助けることに専念しています。人々が創造者を知り,その方の霊感によるみ言葉の中に記されている生活の指針を知ることによって,現在の生活上の問題にうまく対処する方法を学ぶよう援助しています。また,人の人生観をすっかり変えることのできる聖書の真理を惜しみなく隣人に伝えています。彼らの信条の中心にあるのは,「世は過ぎ去りつつあり」,まもなく神は事態に介入して現在の邪悪な体制に終止符を打たれ,世のものではない状態にとどまって神の王国を全面的に信じる人々には輝かしい未来が待っているという理解なのです。―ヨハネ第一 2:17

[脚注]

^ 22節 「ものみの塔」誌(英文),1918年6月1日号,174ページ。

^ 47節 詳しくは,30章,「良いたよりを擁護して法的に確立する」をご覧ください。

^ 59節 オーガスタス・ネアンダー著,「初期3世紀間のキリスト教と教会の歴史」,190ページ。

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世捨て人ではないが,世と同じ生き方はしない

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彼らはキリスト教世界の諸教会から脱退した

[190ページの拡大文]

『クリスチャンは国家とは別個の超然とした存在であった』

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クリスチャンの中立の立場が試みられた

[198ページの拡大文]

『だれか他の人が当人に代わってその決定を下したのではない』

[199ページの拡大文]

彼らがクリスマスの祝いをやめた理由

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どんな政府にとっても脅威ではない

◆ 米国ネブラスカ州オマハの「ワールド・ヘラルド」紙の社説は,ラテンアメリカのある国のエホバの証人に対する扱いを取り上げて,こう述べました。「エホバの証人が何らかの政治体制に対し,何らかの脅威になっていると考えるのは,がんこで誇大な妄想にほかならない。彼らは宗教団体の中でもこの上なく非破壊的で平和を愛する団体だ。干渉されずに,自分たちの信仰を自分たちの方法で実践することだけを願っているのである」。

◆ イタリアの新聞「イル・コリエーレ・ディ・トリエステ」はこう述べました。「エホバの証人の確固たる一貫した態度は称賛に値する。他の宗教とは対照的に,彼らは一つの民として一致を保っているので,紛争当事者のそれぞれの側に祝福が臨むよう同じキリストの名によって同じ神に祈ることも,政治と宗教を融合させて国家の指導者たちや政党の利益を図ることもない。最後になったが次も大事な点である。彼らは……汝殺すなかれという戒めを破るよりは進んで死に立ち向かう」。

◆ エホバの証人がチェコスロバキアで40年の禁令に耐えた後,「ノバ・スボボダ」紙は1990年にこう述べました。「エホバの証人の信仰によれば,他の人間に向けて武器を使用することは禁じられており,基本的な兵役を拒否して炭鉱での仕事にも就かない者は,4年間も刑務所に入る。これだけでも,証人たちがすさまじいほどの道徳的強さを持っていることは明白である。これほど私心のない人たちなら,政治のトップクラスに登用できそうなものだが,それは絶対に無理な話だろう。……もちろん証人たちは政府の権威を認めるが,彼らの信条によれば,神の王国だけが人間の抱えるすべての問題を解決できるのである。しかし,誤解してはならない。証人たちは狂信者ではない。彼らは人間として人々のことを真剣に気遣っているのである」。

[200,201ページの囲み記事/図版]

廃止された習慣

1926年にブルックリン・ベテルで行なわれたこのクリスマスの祝いは,彼らにとって最後のクリスマスになった。聖書研究者たちはこの祝日の起源も,それに関連した習慣も神に誉れを帰するものではないことを徐々に悟っていった

聖書研究者たちは何年もの間,自分たちの身分を示すしるしとして,十字架と冠をあしらった装飾品を着けていた。そのマークは1891年から1931年まで「ものみの塔」誌の表紙にも出ていた。しかし1928年に,人がクリスチャンであることを示すものは,装飾品のようなしるしではなく証人としての活動であるという点が強調された。証拠は,キリストが2本の木を組み合わせた十字架ではなく,1本の杭に付けられて死んだことを示しており,その点は1936年に指摘された

聖書研究者たちは,「日々のマナ」という本にいろいろな人の誕生日を書いておいた。しかし,クリスマスを祝わなくなった後,また誕生日の祝いが被造物に不当な誉れを配していること(初期クリスチャンが決して誕生日を祝わなかった一つの理由)を理解した時,聖書研究者たちはその習慣もやめた

約35年間,パスター・ラッセルは,ギゼーの大ピラミッドが神の石の証しであり,聖書にかかわるいろいろな年代を裏づけていると考えていた。(イザヤ 19:19)しかしエホバの証人は,エジプトのピラミッドが真の崇拝と何らかの関係を持っているという考えを捨てた。(「ものみの塔」誌[英文],1928年11月15日号と12月1日号参照)

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1,000万部が配布された

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銃を持って塹壕に行った人たちもいたが,英国のA・P・ヒューズやイタリアのR・クミネッティのように,そうしたことにかかわろうとしなかった人たちもいた

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エホバの証人は,国際連盟や国際連合を神からのものとして認めることを拒み,むしろキリストによる神の王国だけを支持した

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カールトン・ニコルズとフローラ・ニコルズ。彼らの息子が国旗敬礼をしなかった時,それは全国的なニュースになった