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「あらゆる国民の憎しみの的」

「あらゆる国民の憎しみの的」

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「あらゆる国民の憎しみの的」

イエスは,亡くなる前に使徒たちと過ごした最後の晩,彼らに次のことを思い起こさせました。「奴隷はその主人より偉くは(ありません)。彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう。彼らがわたしの言葉を守り行なったのであれば,あなた方の言葉をも守り行なうでしょう。しかし彼らは,わたしの名のゆえにこれらすべてのことをあなた方に敵して行なうでしょう。わたしを遣わした方を知らないからです」― ヨハネ 15:20,21

イエスは,不寛容に起因する類いまれな事例だけを念頭に置いておられたのではありません。わずか三日前にイエスは,「あなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」と述べておられたからです。―マタイ 24:9

しかし,イエスは追随者たちに,迫害に直面した際に実際の武器に頼ってはならないと助言されました。(マタイ 26:48-52)彼らは迫害者をののしったり,報復を企てたりすべきではありませんでした。(ローマ 12:14。ペテロ第一 2:21-23)そうした迫害者がいつの日か信者になる可能性もあるのではないでしょうか。(使徒 2:36-42; 7:58–8:1; 9:1-22)いかなる復讐も神にゆだねるべきでした。―ローマ 12:17-19

初期クリスチャンがローマ政府から残虐な迫害を受けたことは有名です。しかし,先頭に立ってイエス・キリストを迫害したのが宗教指導者たちであり,彼らが要求したためにローマの総督ポンテオ・ピラトがイエスを処刑させたという点も注目に値します。(ルカ 23:13-25)イエスの死後,宗教指導者たちはイエスの追随者を迫害する者として再び先頭に立ちました。(使徒 4:1-22; 5:17-32; 9:1,2)現代も同様なことが起きているのではないでしょうか。

僧職者は公開討論会を要求する

C・T・ラッセルの著作が急速に配布数を伸ばし,多くの言語で幾千万冊も配布されるようになると,カトリックとプロテスタントの僧職者は彼の述べる事柄をあっさり無視するわけにはゆかなくなりました。僧職者の多くは自分たちの教えが聖書に基づいていないことを暴露されて怒り,教会員の減少にいらだちを感じて,説教壇からラッセルの著作を非難しました。彼らは,聖書研究者が配布している文書を受け取らないよう信者たちに命じました。その業をやめさせるために役人を唆そうとした僧職者もかなりいました。米国の幾つかの場所 ― 例えば,フロリダ州タンパ,イリノイ州ロックアイランド,ノースカロライナ州ウィンストンセーラム,ペンシルバニア州スクラントン ― では,彼らの指揮のもと,ラッセルの著作が公衆の面前で焼かれました。

中には,公開討論会でラッセルの正体を暴き,彼の影響力を打破しなければならないと考えた僧職者もいました。ラッセルの活動の本拠地の近くでは,僧職者のグループが,ペンシルバニア州アレゲーニーにあるノースアベニュー・メソジスト監督教会の牧師E・L・イートン博士を代弁者として後押ししました。1903年,イートン博士は公開討論会を申し入れ,ラッセル兄弟はその招きに応じました。

次のような六つの論題が提出されました。ラッセル兄弟が肯定し,イートン博士が否定したのは,死者の魂は無意識であるという点,キリストの“再臨”は千年期に先行し,キリストの“再臨”と千年期の目的は地の全家族を祝福することであるという点,“福音時代”の聖徒だけが第一の復活にあずかるが,非常に大勢の群衆はその後の復活によって救われる機会を得るという点でした。イートン博士が肯定し,ラッセル兄弟が否定したのは,死後の試験期間はだれにもないという点,救われた人はみな天に行くという点,矯正不能な悪人はとこしえの苦しみを受けるという点でした。これらの論題に関する一連の六つの討論はそれぞれ,1903年,アレゲーニーのカーネギー・ホールの満員の聴衆を前に行なわれました。

そのようにして討論を挑んだ理由は何だったのでしょうか。アルバート・バンデンバーグは歴史的な観点から問題を検討し,後にこう書きました。「その討論会を取り仕切ったのは,各討論の司会者役を務める別のプロテスタント宗派の聖職者だった。それに加えて,近隣の教会の聖職者たちがイートン師と共にステージに座っていたが,それは聖句に関する支援と精神的支援を彼に与えるためだったと言われる。……プロテスタント聖職者の非公式な同盟さえ結成できたということは,彼らが,自分たちの宗派の教会員を改宗させるラッセルの能力に恐れをなしていたことを物語っている」―「チャールズ・テイズ・ラッセル: ピッツバーグの預言者,1879-1909年」。ウェスタン・ペンシルバニア・ヒストリカル・マガジン誌,1986年1月号,14ページに掲載。

そうした討論会は比較的まれであり,同盟した僧職者が望んだような結果は得られませんでした。イートン博士自身の教会の中にも,1903年の一連の討論の際に聞いた事柄に感銘を受けて彼の教会を離れ,聖書研究者と交わることを選んだ人たちがいました。会場にいた一僧職者さえ,ラッセルが『地獄にホースを向けて火を消した』ことを認めたのです。とはいえラッセル兄弟自身は,討論以外の活動に時間と労力を費やすほうが真理のために貢献できると考えました。

僧職者は攻撃の手を緩めませんでした。ラッセル兄弟がアイルランドのダブリンとイギリスのヨークシャー州アトリーで講演した時,僧職者は,大声で異議を唱えたり,ラッセル個人に偽りの非難を浴びせたりするよう,聴衆の中に手下を配置しました。ラッセル兄弟は答える際に常に聖書をよりどころとし,そうした事態を手際よくさばきました。

プロテスタントの僧職者は宗派を問わず,いわゆる福音同盟に加入していました。多くの国の彼らの代表者たちは,ラッセルと彼の著書を配布する者に反対する運動を起こしました。例えば,(米国)テキサス州の聖書研究者たちは,ごく小さな町や田舎に行っても,説教師は一人残らず,ラッセルに対する幾つかの偽りの非難と,彼の教えに関するゆがんだ見方を一様に教え込まれていることに気づきました。

しかし,ラッセルに対するそうした攻撃は,僧職者たちの予期せぬ結果をもたらすこともありました。カナダのニューブランズウィック州で,ある説教師が教会でラッセルに関する軽蔑的な説教を行なった時,聴衆の中に,ラッセル兄弟の著書を個人的に読んだことのある男性がいました。彼は説教師が意図的に偽りを口にするのに嫌気がさし,説教の途中で立ち上がって妻の手を取り,聖歌隊に加わっていた7人の娘に向かって,「おいで,帰ろう」と呼びかけました。9人全員が出てゆきました。教会を建て,財政面で教会を支えていた中心人物が去って行くのを,僧職者は見守るだけでした。その教会は間もなくばらばらになり,説教師もいなくなりました。

あざけりと中傷に訴える

僧職者たちはC・T・ラッセルとその仲間たちの影響を絶とうと必死になり,彼がクリスチャンの奉仕者であるという主張をさげすみました。1世紀のユダヤ人の宗教指導者も同様の理由で,使徒ペテロや使徒ヨハネを「無学な普通の人」とみなしました。―使徒 4:13

ラッセル兄弟はキリスト教世界の神学校の卒業生ではありませんでしたが,大胆にこう述べました。「我々は[僧職者に対し],神による叙任を本当に受けていること,あるいは本当に神による叙任について考えていることを実証するよう要求する。彼らが考えているのは,単に宗派による叙任あるいは権威の委任であり,それは自らの宗派または分派から与えられたものである。……だれの場合でも,伝道するための神による叙任あるいは権威の委任は,その者に聖霊が分け与えられることによってなされる。だれであれ聖霊を受けた者は,神のみ名によって教え,伝道する力と権威を授けられている。だれであれ聖霊を受けていない者は,伝道するための神からの権威あるいは是認を授けられていない」。―イザヤ 61:1,2

ある僧職者たちはラッセル兄弟の評判を傷つけようとして,説教や印刷物を通して彼に関するひどい偽りを広めました。彼らが当時頻繁に用い,今でも用いている偽りの一つは,ラッセル兄弟の結婚生活に関するものです。彼らは,ラッセルが不道徳な人間であるかのような印象を与えようとしてきました。事実はどうなのでしょうか。

1879年,チャールズ・テイズ・ラッセルはマリア・フランシス・アクリーと結婚し,二人は13年間良い関係を保ちました。その後,他の人たちがマリアにへつらい,彼女の誇りに訴えたため,二人の関係は損なわれ始めました。しかし,へつらう人たちの意図が明らかになると,彼女は平衡のとれた見方を取り戻したようです。かつて仲間だったある人がラッセル兄弟に関する偽りを広めると,彼女は非難にこたえるために幾つかの会衆を訪問する許可を夫に求めることさえしました。ラッセル兄弟が彼女を虐待しているとうわさされていたからです。しかし,1894年のその旅行で歓迎を受けたことが一因となって,彼女は自分に対する見方を次第に変えていったようです。彼女は「ものみの塔」誌の内容を監督することに関係した自分の発言力を増し加えようとしました。 * 彼女は,同誌の編集者である夫が(聖書との調和に基づいて)内容に賛同してくれない限り,自分の書いたものが何一つ掲載されないことを知り,非常に取り乱しました。ラッセル兄弟は彼女を援助しようと真剣に努力しましたが,1897年11月,彼女は彼のもとを去りました。それでも兄弟は彼女に住居と生活費を与えました。その後何年かして,彼女が1903年に起こした裁判は終わり,1908年,彼女は完全な離婚ではなく別居の判決を受け,扶助料を受け取ることになりました。

彼女は夫に要求をのませることができなかったため,彼のもとを去った後,彼の評判を落とそうと躍起になりました。1903年に彼女は,聖書の真理ではなくラッセル兄弟に関する甚だしい虚偽の陳述を満載したパンフレットを発行しました。そして,聖書研究者が特別集会を開いている場所にそのパンフレットを届けるため,様々な宗派の僧職者の協力を得ようとしました。当時の僧職者の中でそのような役回りを進んで引き受けた人が少なかったのは立派なことです。とはいえ,それ以後,ほかの僧職者たちは別の精神を示すようになりました。

以前マリア・ラッセルは,ある種の不行跡に関してラッセル兄弟を責める人々を口頭と書面で非難しましたが,今回は彼女自身がその不行跡を口実として持ち出しました。ラッセル兄弟の宗教上の反対者の中には,1906年の裁判中になされた,証拠の裏づけがない幾つかの陳述(それらの陳述は法廷命令により記録から削除された)を用いて,同兄弟が不道徳な人物であり,それゆえに神の奉仕者として不適格であるという印象を与えることを意図した告発を広めた人々がいました。しかし,そうした告発が偽りであることは法廷記録から明らかです。ラッセル夫人は自分の弁護士から,夫に姦淫の罪があると考えているのかと尋ねられた時,「そのようなことはありません」と答えました。さらにまた注目できる点があります。つまり,1897年にクリスチャンの長老たちの委員会が夫に対するラッセル夫人の告発を聴いた際,彼女は,後に法廷で離婚を認めるよう陪審を説得するために述べた事柄には全く触れませんでした。申し立ての出来事が生じたとされているのはその集まりより前だったにもかかわらず,彼女はそれに触れなかったのです。

ラッセル夫人が最初に訴訟を起こしてから9年後,ジェームズ・マクファーレン判事は一人の男性に対する返信をしたためました。その男性は自分の仲間の一人がラッセルの正体を暴けるよう,法廷記録の写しを請求していたのです。同判事は,それを求めるのは時間と資金の浪費であると率直に述べ,手紙にこう書きました。「彼女の申し立ての根拠と,陪審の評決に基づいて記録された判決の根拠は『精神的虐待』であり,姦淫ではない。そして,私の理解によれば,証拠はラッセルが『共同被告との姦淫生活』を送っていたことを示していない。実際には,共同被告はいなかった」。

マリア・ラッセル自身,遅きに失したとはいえ,1916年,ピッツバーグのカーネギー・ホールで行なわれたラッセル兄弟の葬式の際にそのことを認めました。ベールをかぶった彼女は通路を通って棺に近づき,スズランの花束をそこに置きました。その花束に添えられたリボンには,「愛する夫へ」と書かれていました。

僧職者が1世紀の宗教指導者と同じような策略を用いてきたことは明らかです。1世紀の宗教指導者たちは,イエスが罪人と一緒に食事をしているとか,イエス自身が罪人であり冒とく者であるなどと非難して,イエスの名声を傷つけようとしました。(マタイ 9:11。ヨハネ 9:16-24; 10:33-37)そうした非難によってイエスに関する事実が変わることはなく,むしろそのような中傷に訴える者たちの霊的な父は悪魔 ― その名は“中傷する者”を意味する ― であることが暴露されました。今日,同様の策略に訴える人々の場合も同じです。―ヨハネ 8:44

目的を達するため,戦時の興奮状態に乗じる

第一次世界大戦中に国家主義的な興奮状態が全世界をなめ尽くした際,聖書研究者を攻撃するために使える新たな武器が見つかりました。プロテスタントとローマ・カトリックの宗教指導者たちは愛国心を隠れみのにして敵意を示すことができました。彼らは戦時の病的興奮状態を利用して,聖書研究者に扇動者というレッテルを張りました。その非難は,1世紀のエルサレムの宗教指導者たちがイエス・キリストや使徒パウロに浴びせたのと同じものでした。(ルカ 23:2,4。使徒 24:1,5)言うまでもなく,そうした非難を行なうためには,僧職者自身が戦争努力の積極的な擁護者でなければなりませんでした。とはいえ彼らの大半は,そのような立場について,たとえ他国の自派の教会員を殺すよう若者たちを送り出すことになろうとも,思い悩むことはなかったようです。

ラッセル兄弟が亡くなった後の1917年7月,ものみの塔協会は,啓示の書とエゼキエル書とソロモンの歌の注釈書である「終了した秘義」という本を出版しました。その本はキリスト教世界の僧職者の偽善を容赦なく暴露しており,比較的短期間で広範に配布されました。さらに,アメリカとカナダの聖書研究者は1917年12月末から1918年の初めにかけて,火のような音信を収めた「聖書研究者月刊」というパンフレット1,000万部の配布に取りかかりました。そのタブロイド版4ページのパンフレットには「バビロンの倒壊」という題が付され,「なぜキリスト教世界は今苦しまねばならないか ― 最後の結果」という副題が付いていました。そのパンフレットは,カトリックとプロテスタント両者の宗教組織が間もなく必ず倒壊する現代のバビロンであることを明らかにし,その内容の裏付けとして,「神秘のバビロン」に対する神の裁きを表明した預言の注解を「終了した秘義」の本から転載しました。裏ページには,崩れゆく壁を描いた生き生きとした漫画が載せられていました。その壁の幾つもの大きな石には,「三位一体の教理(“3×1=1”)」,「魂の不滅性」,「とこしえの責め苦の理論」,「プロテスタント ― 教義,僧職者など」,「ローマ・カトリック ― 法王,枢機卿などなど」といったラベルが付けられており,それらの石すべてが崩れ落ちていました。

そのような暴露に僧職者は激怒しました。それはイエスに偽善を暴露された時のユダヤ人の宗教指導者と同じでした。(マタイ 23:1-39; 26:3,4)カナダの僧職者はすぐ反応しました。1918年1月,600人を超えるカナダの僧職者たちは,国際聖書研究者協会の出版物を発行禁止処分に付すよう政府に求める請願書に署名しました。ウィニペグ・イブニング・トリビューン紙によると,ウィニペグの聖ステファノ教会の牧師チャールズ・G・パターソンが説教壇から,「バビロンの倒壊」という記事を載せた「聖書研究者月刊」を非難した後,ジョンソン司法長官は彼と連絡を取り,そのパンフレットを入手しました。その後間もなく,1918年2月12日にカナダ政府が発した布告により,上に掲げた「終了した秘義」やパンフレットを所有することは罰金刑や拘禁刑に値する犯罪とされました。

同じ2月の24日,新たにものみの塔協会の会長に選出されたラザフォード兄弟は,米国カリフォルニア州ロサンゼルスのテンプル・オーディトリアムで話をしました。話の主題は,「世は終われり ― 現存する万民は決して死することなからん」という驚くべきものでした。同兄弟は,その時まで知られていた世が1914年に確かに終わったことを示す証拠を提出するにあたり,当時続いていた飢きんを伴う戦争を指摘し,それがイエスの予告されたしるしの一部分であることを明らかにしました。(マタイ 24:3-8)次いで彼は僧職者に注意を向け,こう言いました。

「聖書によると,僧職者は一つの級として,現在人類を悩ませている大戦に関して地で最もとがめられるべき者たちです。彼らは1,500年にわたって人々にサタン的な王権神授説を教えてきたからです。彼らは政治と宗教,教会と国家を混ぜ合わせ,メシアの王国の音信をふれ告げるという神から与えられた特権に対して不忠節な者となってきました。そして,王権は神から授けられているので何をしても構わないという考えを支配者たちに信じ込ませることに没頭してきました」。その結果について,ラザフォード兄弟はこう述べました。「野心に燃えるヨーロッパの王たちは他民族の領土を略奪したいという欲望を抱き,戦争のために軍備を整えました。そして僧職者は王たちの背中を軽くたたいて励まし,こう言いました。『やりたいことをやりなさい。あなた方が悪事を犯すはずがありません。あなた方がすることはすべて正しいのです』」。とはいえ,そのようなことをしていたのはヨーロッパの僧職者だけではありませんでした。アメリカの説教師たちはそのことを知っていました。

翌日,この講演に関する長文の記事がロサンゼルスのモーニング・トリビューン紙に掲載されました。僧職者は激怒したので,彼らの協会は当日のうちに会合を開き,会長を同紙の経営者のもとに遣わして強い不快感を伝えました。その後,ものみの塔協会の事務所に対して政府の情報局員による嫌がらせがひっきりなしに続きました。

こうした国家主義的な興奮状態が見られた期間中,米国フィラデルフィアで僧職者の会議が開かれ,その席上,容疑者を軍法会議にかけて死刑判決を下せるよう,スパイ法の改正を求める決議が採択されました。その件を上院に持ち出すため,司法長官の戦争遂行の特別補佐官となっていたジョン・ロード・オブライエンが選ばれました。米国大統領はその法案の立法化を認めませんでした。しかし,米国陸軍のジェームズ・フランクリン・ベル少将は憤慨して,会議での出来事と,その法案をものみの塔協会の役員に不利に用いようとする意図があることをJ・F・ラザフォードとW・E・バン・アンバーグに漏らしました。

米国政府の公式記録によると,ジョン・ロード・オブライエンは,遅くとも1918年2月21日以降,聖書研究者に対する訴訟を起こそうとする運動に個人的に関与していました。4月24日と5月4日付の連邦議会議事録には,ジョン・ロード・オブライエンの覚え書きが残っています。その覚え書きの中で彼は,スパイ法のいわゆるフランス修正条項に盛り込まれ,米国上院で承認された文言に触れ,「良い動機に基づき,かつ正当と認め得る目的を持った真実な事柄」の発言が法律で認められるのであれば,聖書研究者の訴追には成功できないと強く主張しています。

マサチューセッツ州ウースターのB・F・ワイランド“師”は,聖書研究者が敵国のために宣伝を行なっていると主張して,戦争による興奮状態をさらに利用しました。彼はデーリー・テレグラム紙に記事を書き,その中でこう述べました。「市民である諸君が直面している愛国的義務の一つは,ブルックリンに本部を持つ国際聖書研究者協会を抑制することである。彼らは宗教を装って『終了した秘義』という本を売り,ウースターでドイツの宣伝を行なっている」。彼は当局者に対して無遠慮にも,当局には聖書研究者を逮捕し,彼らが二度と集会を開けないようにする義務があると述べました。

1918年の春と夏には,北アメリカでもヨーロッパでも聖書研究者に対する広範な迫害が生じました。その扇動者たちの中には,バプテスト派,メソジスト派,監督派,ルーテル派,ローマ・カトリックなど諸教会の僧職者が含まれていました。聖書文書は捜索令状なしに押収され,聖書研究者の多くが投獄されました。暴徒に追い回されたり,殴打されたり,むち打たれたり,タールと羽毛を浴びせられたり,肋骨を折られたり,頭を切られたりした人もいれば,中には体に一生障害が残った人たちもいました。クリスチャンの男女が告発や裁判もないまま拘禁されました。「黄金時代」誌,1920年9月29日号は,そうした虐待の明確な事例を100件以上報告しました。

スパイ容疑で告発される

1918年5月7日,事態は頂点に達しました。米国で,ものみの塔聖書冊子協会の会長J・F・ラザフォードとその最も親しい仲間たちに連邦政府の逮捕状が出されたのです。

その前日,ニューヨーク市ブルックリンで,ラザフォード兄弟とその仲間たちに対する二つの起訴状が提出されていました。一方の訴追で望み通りの結果が得られなくても,他方の起訴状によって訴追できるようになっていました。第一の起訴状のほうが多くの人を告発しており,それには四つの訴因が含まれていました。彼らは,そのうちの二つの訴因により1917年6月15日成立のスパイ法に違反する共同謀議に関して,また他の二つの訴因により非合法的計画実行の未遂あるいは既遂に関して告発されました。容疑は,米国の兵役義務に対する反抗と不従順を引き起こすために共同謀議を行なったこと,また,国家が戦時下にある時に,男子を新兵に徴募する活動の阻止を目的に共同謀議を行なったこと,さらに,それら二つの謀議実行の未遂もしくは既遂でした。この起訴状では特に「終了した秘義」という本の出版と配布が取り上げられました。第二の起訴状では,1枚の小切手(ドイツでの聖書教育の業のために用いられることになっていた)をヨーロッパへ送ったことが米国の国益に反する行為とみなされました。被告人たちが出廷した時に審理されたのは,四つの訴因を含む第一の起訴状でした。

当時,C・J・ウッドワースとJ・F・ラザフォードはペンシルバニア州スクラントンでスパイ法に基づき別件で起訴されていましたが,それは係争中でした。しかし,ジョン・ロード・オブライエンの1918年5月20日付の手紙によると,司法省の役人たちは,その訴訟を審理する連邦地方裁判所判事ウィトマーに関して懸念を抱きました。反戦宣伝とみなされかねない事柄を誠実な宗教的確信のゆえに語る人々の活動を抑制するためにスパイ法を用いることに,彼が同意しないのではないかと考えたのです。それで,司法省はスクラントンの訴訟の審理を一時停止し,ブルックリンの訴訟の結果を待ちました。さらに政府は,バーモント州のハーランド・B・ハウ判事がニューヨーク東地区の連邦地方裁判所における訴訟の判事を務めるよう状況を操作しました。ジョン・ロード・オブライエンはハウ判事がこの件で自分の考えに賛同していることを知っていました。審理は,アイザック・R・エランドとローマ・カトリック教徒のチャールズ・J・ブクナーを検察官として6月5日に始まりました。審理中,ラザフォード兄弟はカトリックの司祭たちがブクナーやエランドと頻繁に相談するのを目にしました。

審理が進むにつれ,協会の役員たちと問題の本の編集者たちには米国の戦争努力を妨害する意図のないことが明らかになりました。審理中に提出された証拠によると,その本の執筆計画が立てられたのは ― 実際には,原稿の大半が執筆されたのも ― 米国の宣戦布告(1917年4月6日)前のことであり,最初の出版契約が結ばれたのは,違反したと言われている法律が米国で可決される(6月15日)前のことでした。

訴追では,1917年4月と6月に原稿を調査分析したり校正刷りを読んだりした際,その本に追加された部分が焦点となりました。その中には,このたびの戦争はキリスト教に違反する行為であると力強く断言した僧職者ジョン・ヘインズ・ホームズの言葉の引用も含まれていました。被告人側弁護士の一人が指摘したように,その僧職者の意見は「戦争前夜の我が教区民への声明」と題して出版され,この裁判中にも依然として米国で販売されていましたが,当の僧職者も出版者もその件で裁判にかけられてはいませんでした。むしろ,その僧職者の説教に含まれていた意見に関して責任を問われたのは,その説教を引き合いに出した聖書研究者だったのです。

「終了した秘義」の本は,世の中の人々に戦争を行なう権利がないとは述べていませんでした。しかし,預言を説明する際に,キリストの奉仕者であると自称しながら戦時における国家の徴兵代理人として行動している僧職者の矛盾を示すため,1915年の「ものみの塔」誌の抜粋を引用していました。

ラザフォード兄弟は政府が「秘義」の本に反感を抱いていることを知ると,生産を中止するよう直ちに印刷所に電報を打つと同時に,反感の理由を突き止めるために米国陸軍の情報部に協会の代表者を送っていました。そして,当時継続中の戦争のためにその本の247ページから253ページの部分が好ましくないとみなされていることが分かると,協会は,一般の人に配布する前にすべての「秘義」の本からその部分を削除するよう指示しました。さらに,政府が(変更が加えられた「秘義」の本について協会に意見を述べようとはしなかったものの)これ以上配布が行なわれるならスパイ法違反になると地方検事たちに通知すると,協会はその本の公の配布を全面的に停止するよう指示しました。

非常に厳しい刑が科されたのはなぜか

こうした事柄すべてにもかかわらず,1918年6月20日,陪審は各被告人を起訴状の各訴因について有罪と宣する評決を答申しました。翌日,被告人のうち7人 *は,同時執行される各20年の四つの刑期を宣告されました。7月10日,8人目の被告 *は同時執行される10年の四つの刑期を宣告されました。どうしてそのような厳しい刑が宣告されたのでしょうか。1919年3月12日付の司法長官あての覚え書きの中で米国大統領ウッドロー・ウィルソンは,「明らかにその刑期は長過ぎる」ことを認めました。実際,サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子を銃で暗殺した男でさえ,それより厳しい刑を宣告されてはいませんでした。この暗殺事件が引き金となって一連の出来事が生じ,諸国家は第一次世界大戦に突入したのですが,その男に科されたのは,聖書研究者の場合のように20年の四つの刑期ではなく,20年の拘禁刑でした。

聖書研究者にそのような厳しい拘禁刑を科したことの背後にはどんな動機があったのでしょうか。ハーランド・B・ハウ判事はこう述べました。「当法廷の見解としては,これらの被告人が全国および我が同盟国で盛んに唱え,広めている宗教的宣伝は,ドイツ軍の一個師団よりはるかに危険である。……宗教を伝道する者は通常大きな影響力を持っており,その者が誠実である場合にはなおさら大きな影響を与える。そのため,彼らのなした悪事は軽減されるよりむしろ一層重大なものとなる。ゆえに当法廷は,そうした者に対する唯一の賢明な処置として厳しい刑を科するべきであると結論した」。しかし,もう一つ注目に値する点として,ハウ判事は判決を宣告する前に,被告人側弁護士による陳述が,政府の法務官たちだけでなく「全国の聖職者すべて」に関する疑惑を投げかけ,彼らを痛烈に非難したことを述べました。

この判決に対し,直ちに連邦巡回控訴裁判所に控訴がなされました。しかし,その控訴審理中の保釈請求はハウ判事によって一方的に却下され *,7月4日,3度目に当たる最後の保釈請求が審理されないうちに,最初の7人の兄弟たちはジョージア州アトランタの連邦刑務所へ急いで移されました。その後,この非常に偏見に満ちた裁判には130の手続き上の誤りのあることが明らかになりました。何か月もかけて控訴裁判所の審理に必要な書類が準備され,その間に戦争は終わりました。1919年2月19日,獄中にあった8人の兄弟たちは米国大統領ウッドロー・ウィルソンに大統領恩赦を求める嘆願書を送りました。さらに数多くの市民からも,兄弟たちの釈放を勧める手紙が,新任の司法長官に送られました。その後1919年3月1日,司法長官からの問い合わせに対し,ハウ判事は「即時減刑」を推薦しました。これは刑を減じる一方で,実際には被告人の有罪を確認するものでした。減刑がなされる前に,兄弟たちの弁護士は,控訴裁判所に訴訟を起こす裁判所命令を連邦検事に送達させました。

ラザフォードとその仲間たちが判決を受けてから9か月後,すでに戦争も終わった1919年3月21日に,控訴裁判所は8人の被告人全員の保釈を命じ,彼らは3月26日,ブルックリンで各々1万㌦の保釈金を納めて釈放されました。1919年5月14日,ニューヨークの連邦巡回控訴裁判所は,「当事件の被告人は受くべき適当かつ公平な裁判を受けなかった。よって判決を破棄する」という裁定を下しました。事件は差し戻され,新たな裁判を受けることになりました。しかし,被告人たちが召喚を受けて5回出廷した後の1920年5月5日,ブルックリンの公開の法廷で,検事は起訴を取り下げると述べました。 * なぜでしょうか。米国国立公文書館に保管されている手紙に明らかに示されているように,司法省は,戦争に伴う病的興奮状態が過ぎ去ってしまった今,この件が偏見のない陪審に持ち出されるなら敗訴するのではないかと恐れたのです。L・W・ロス連邦検事は司法長官あての手紙の中に,「世間での評判を損なわないよう,[この事件はこれ以上追求しないと述べて]先手を打ったほうが良いと存じます」と書きました。

その同じ日,つまり1920年5月15日,J・F・ラザフォードと4人の仲間たちに対して1918年5月に提出されていた,もう一つの起訴も取り下げられました。

実際に糸を引いていたのはだれか

こうしたことすべてに関して実際に糸を引いていたのは僧職者だったのでしょうか。ジョン・ロード・オブライエンはそれを否定しました。しかし,当時の人たちは事実をよく知っていました。1919年3月22日,カンザス州ジラードの新聞「アピール・トゥ・リーズン」は次のように抗議しました。「“正統派”聖職者の恨みを買ったラッセル師信奉者,スパイ法規定遵守のため手を尽くしたものの,有罪宣告を受けて保釈なしで投獄される。……スパイ法が厳密に言って合憲であるかどうか,倫理的に正当化できるかどうかはさておき,これらラッセル師の信奉者たちが同法の規定により不当な有罪宣告を受けたのは確かである。偏見を持たずに証拠を調べてみれば,彼らが同法に違反する意図を持たなかっただけでなく,実際に違反しなかったことも一目瞭然である」。

十数年後,レイ・アブラムズ博士は「捧げ銃をする説教師たち」という本の中でこう述べました。「ラッセル派[聖書研究者に付けられた軽蔑的な呼び名]を一掃しようとする企てに非常に大勢の聖職者が積極的に加わったことは重大である。平時には法廷に見向きもされなかった慢性的な宗教上の不和や憎しみが,今回は戦時の病的興奮状態の魔力により法廷に持ち出されたのである」。さらに博士は,「事件の全体を分析すると,ラッセル派を撲滅する運動の背後には当初から諸教会と聖職者がいたという結論に到達する」とも述べています。―183-185ページ。

しかし,戦争が終わっても,聖書研究者に対する迫害は終わりませんでした。むしろ,迫害の新たな時代が始まったのです。

司祭たちが警察に圧力をかける

戦争が終わると,僧職者はできることなら聖書研究者の活動を停止させようとして,他の問題を引き起こしました。1920年代,カトリックの優勢なバイエルン州などドイツの幾つかの地方では,行商法に基づいて逮捕事件が頻発しました。しかし,事件が控訴裁判所に持ち込まれると,裁判官はたいてい聖書研究者を支持しました。そうした事件が裁判所に幾千件も押し寄せるようになってから,内務大臣はようやく1930年に全警官あての通達を出し,今後は行商法に基づいて聖書研究者に対する法的措置を取ることがないよう指示しました。こうして,しばらくの間その方面からの圧力は下火になり,エホバの証人はドイツの野外で非常に大規模に活動を続行しました。

そのころ,ルーマニアでも僧職者は強大な影響力を振るっていました。彼らはエホバの証人の文書と活動に対する禁令を公布させることに成功しました。しかし司祭たちは,人々が既に持っている文書を相変わらず読み,その結果,教会の教えが非聖書的でその主張が欺まん的であることを知ってしまうのではないかと心配しました。それを防ぐため,司祭たちは警官と共に実際に各家を訪問し,エホバの証人が配布した文書をくまなく探し回りました。疑うことを知らない幼い子供たちに,親がそうした文書を受け取ったかどうか尋ねることさえありました。もし文書が見つかると,人々は,今後文書を受け取るなら殴打や投獄が待っていると脅されました。幾つかの村では司祭が村長と治安判事を兼ねており,司祭の言い成りにならない人が公正に扱われることはまずありませんでした。

その時代に僧職者の手足となった米国のある役人たちの記録もひけを取りません。例えば,1936年,カトリックのオハラ司教がジョージア州ラグレーンジを訪れた後,市長と市検事は何十人ものエホバの証人を逮捕させました。獄中でそれらの証人たちは,山と積まれた肥やしの横で,しかも牛の尿で汚れたマットレスの上に寝かされ,虫のわいた食事を出され,道路工事を行なう囚人たちと一緒に強制労働をさせられました。

ポーランドでも,カトリックの僧職者はエホバの証人の業を妨害するために,ありとあらゆる手段を用いました。人々を暴力へ駆り立てたり,エホバの証人の文書を公衆の面前で焼いたり,彼らを共産主義者として非難したり,彼らの文書が「冒とく的」であるとして彼らを法廷に引き出したりしたのです。とはいえ,役人がみな進んで僧職者の言い成りになったわけではありませんでした。例えば,ポーゼン(ポズナニ)の控訴裁判所の州検事は,カトリックの僧職者を「サタンの組織」と呼んだかどで僧職者から告発されたエホバの証人の起訴を拒否しました。その州検事自身も,アレクサンデル6世(西暦1492-1503年)の教皇会議以来キリスト教世界全体に広まった不道徳な精神が確かにサタンの組織の精神であることを指摘しました。また,ものみの塔の文書を配布したことを理由に,一人のエホバの証人が神を冒とくしたとして僧職者から告発された時には,トーン(トルン)の控訴裁判所の州検事は無罪を要求し,こう言いました。『エホバの証人はまさに初期クリスチャンと同じ立場をとっている。腐敗し,堕落しつつある世の組織の中にあって,誤り伝えられ,迫害されながら,至高の理想を唱道している』。

カナダ政府の公文書館の記録によると,1940年にカナダでエホバの証人に禁令が課されたのは,ケベックにあるカトリックのビルヌーブ枢機卿の公邸からエルネスト・ラプワント法務大臣に送られた1通の手紙のためでした。その後,他の政府当局者がその措置の理由に関する十分な説明を求めましたが,ラプワントの回答はカナダ議会の多くの議員を納得させるには程遠いものでした。

地球の反対側でも,僧職者は同様の計略を巡らしていました。オーストラリア政府の公文書館には,シドニーのローマ・カトリック大司教からW・H・ヒューズ法務総裁にあてられた,エホバの証人を非合法団体と宣することを勧める手紙が残っています。その手紙は,禁令が課されるわずか5か月前の1940年8月20日に書かれたものです。後にオーストラリア最高裁判所のウィリアムズ判事は,禁令の根拠として申し立てられた事柄を再吟味してから,その根拠は「キリスト教の原則や教理の唱道を不法なものとし,キリストの誕生に関して信者が行なう,教会でのあらゆる礼拝を不法な集まりとする影響」を及ぼすものであると述べました。1943年6月14日,同裁判所はその禁令がオーストラリアの法に調和しないという判決を下しました。

スイスでは,あるカトリックの新聞が,教会にとって不快な証人たちの文書を没収するよう当局者に要求しました。そして,要求が入れられない場合には法の力を借りずに制裁を加えるつもりだと言って脅しました。世界の多くの場所でそれと全く同じようなことが行なわれました。

宗教指導者は暴力に訴える

フランスのカトリックの僧職者は,自分たちが依然として人々をしっかり支配していると考え,その独占的な支配を何ものにも邪魔させまいと決意していました。1924年から1925年にかけて,多くの国の聖書研究者たちは「聖職者に対する告発」というパンフレットを配布しており,1925年には,J・F・ラザフォードがパリで「僧職者の欺まんを暴露する」という主題の話をする予定でした。その集まりで生じた出来事について,一人の目撃者はこう語りました。「会場は満員でした。ラザフォード兄弟がステージに現われると温かい拍手が起こり,兄弟は話し始めました。すると突然50人ほどの司祭やカトリック・アクションのメンバーがこん棒を持ち,ラ・マルセイエーズ[フランス国歌]を歌いながら会場になだれ込んできたのです。彼らは階段のてっぺんからパンフレットをまきました。司祭の一人はステージに上り,二人の若者に引きずり下ろされました。ラザフォード兄弟は3度ステージを離れてはまた戻りましたが,ついにステージを去りました。……私たちの文書を展示していたテーブルはひっくり返され,本が辺り一面に投げ出されました。全く惨たんたる有様でした」。しかし,それは例外的な出来事ではなかったのです。

ジャック・コルはアイルランドで証言していたときに,しばしばカトリックの僧職者の激怒を思い知らされました。ある時には,教区司祭に扇動された暴徒が真夜中にコルをベッドから引きずり出し,公共広場で彼の文書を全部燃やしてしまいました。ティペレアリ州のロスクレーでは,ビクター・ガードとジム・コービーが宿舎に着いてみると,二人の文書は反対者たちに盗まれ,ガソリンをかけて燃やされていました。火の周りには地元の警官や僧職者,さらにその地域の子供たちが立って,「我らの父祖たちの信仰」を歌っていました。

1939年にエホバの証人はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで集まりを開きましたが,その前に,カトリックの司祭チャールズ・コグリンの配下の者たちからその大会を中止させるとの脅迫がありました。警察に通報がなされ,6月25日,ラザフォード兄弟はその会場に集まった1万8,000人以上の人たちと国際的な大勢のラジオ聴取者に向かって,「政府と平和」という主題で講演をしました。講演が始まってから,200人以上のローマ・カトリック教徒とナチ党員が数人のカトリック司祭に率いられて2階席に押し入りました。彼らは合図に合わせてすさまじい声でわめき,「ヒトラー万歳!」,「フランコ万歳!」と叫びました。そして,ありとあらゆる下品な言葉や脅迫を使ったり,騒ぎを静めようとした案内係の多くに暴行を加えたりしました。しかし,暴徒はその集まりを中止させることができませんでした。ラザフォード兄弟は力強く,恐れることなく話を続けたのです。騒ぎが頂点に達したところで同兄弟は,「ご覧ください,今日,ナチとカトリック教徒がこの集会を中止させようとしていますが,神の恵みにより,彼らはそれを行なうことができません」と述べ,聴衆は盛んな拍手を繰り返して支持を表わしました。その騒ぎはその時の録音に永久に残ることになり,世界の多くの場所の人たちがそれを聞きました。

しかし,異端審問が行なわれた時代と同様,ローマ・カトリックの僧職者は教会の教えや慣行をあえて疑問視する人を抑圧するために,可能であれば国家を利用しました。

強制収容所での虐待

僧職者にとってアドルフ・ヒトラーは願ってもない味方でした。1933年,バチカンとナチ・ドイツの間に政教条約が結ばれたまさにその年に,ヒトラーはドイツのエホバの証人を根絶する運動を開始しました。証人たちは1935年までにドイツ全国で人権を剥奪されていました。しかし,その糸を引いていたのはだれでしょうか。

カトリックの一司祭は,1938年5月29日付のデア・ドイチェ・ベーク紙(ポーランドのウージで発行されていたドイツ語の新聞)に記事を書き,こう述べました。「今や,いわゆる……聖書研究者[エホバの証人]の業を禁止した国が地上に一つある。それはドイツである。……アドルフ・ヒトラーが政権を執り,ドイツのカトリック司教団がその要請を繰り返したところ,ヒトラーはこう言った,『これらいわゆる誠心聖書研究者[エホバの証人]は厄介者だ。……彼らはいかさま師だと思う。ドイツのカトリック教徒が米国のラザフォード判事のためにこのように汚されるのをわたしは黙って見てはいない。わたしはドイツの[エホバの証人]を解散させる』」。―下線は本書。

そうした措置を望んだのはドイツのカトリック司教団だけだったのでしょうか。1933年4月21日付オシャツェル・ゲマインニュツィゲ誌が報じたように,ルーテル派の牧師オットーは4月20日のラジオ演説の中で,ザクセン州のドイツ・ルーテル教会とドイツの政治指導者たちとの「きわめて密接な協力」について述べた後,こう言明しました。「このような協力の最初の成果として,ザクセン州における国際誠心聖書研究者協会[エホバの証人]とその下部組織の活動が本日禁止されたことをお知らせできます」。

その後ナチ国家は,クリスチャンに対する史上まれにみる野蛮な迫害を開始しました。ドイツ,オーストリア,ポーランド,チェコスロバキア,オランダ,フランスといった国々の何千人ものエホバの証人が強制収容所に投げ込まれ,ありとあらゆる非常に残酷でサディスト的な仕打ちを受けました。ののしられて蹴られた後,くたくたになって気絶するか倒れるまで何時間も連続で膝の屈伸運動やジャンプをさせられたり,四つんばいになってはい回らされたりすることも珍しくなく,その間,看守たちは笑いころげていました。ある人たちは真冬に裸で,あるいはわずかな衣服を身に着けただけで中庭に立たされました。背中が血だらけになって気を失うまでむち打たれた人も少なくありません。医学実験のモルモットにされた人たちもいます。後ろ手に縛られ,手首に結んだロープでつり下げられた人たちもいます。証人たちは飢えのために衰弱し,凍てつく寒さの中で満足な衣服がないにもかかわらず,長時間の重労働を強いられました。シャベルや他の道具が必要なときに手を使うこともしばしばでした。男性も女性も,10代から70代までの人たちがこうした虐待を受け,彼らを責めさいなんだ者たちは公然とエホバを侮りました。

ザクセンハウゼン収容所の所長は証人たちの意気をくじくため,囚人全員の面前でアウグスト・ディックマンという若い証人を処刑するよう命じました。その際,エホバの証人は,強いショックを受けるよう一番前に出されました。処刑後,他の囚人たちは解散させられましたが,エホバの証人は残されました。所長は語気を強めて証人たちに,『さあ,宣言書[自分の信仰を捨て,進んで兵士になることを示す宣言書]にサインする気のあるやつはいないか』と言いました。400人以上の証人たちはだれも返事をしませんでした。その時,二人の人が進み出ました。しかし,サインをするためではありませんでした。1年ほど前にしたサインの取り消しを願い出るためだったのです。

ブーヘンワルト収容所でも同様な圧力が用いられました。ナチの将校レドルは証人たちに,「もしお前たちのうちのだれか一人がフランスやイギリスと戦うことを拒むなら,お前たち全員が死ななければならない」と通告しました。守衛詰め所には完全武装した親衛隊の2中隊が待機していました。証人たちは一人も妥協しませんでした。その後,手ひどい仕打ちが加えられましたが,レドルの脅しは実行に移されませんでした。収容所の証人たちは割り当てられたどんな種類の仕事でもたいてい行ないましたが,戦争を支持する事柄や仲間の囚人に不利になるよう仕向けられた事柄は,たとえ計画的な飢餓と過重労働という処罰を受けようとも,きっぱり拒否することがよく知られるようになりました。

彼らが経験した事柄は言葉では言い尽くせません。命を落とした人は何百人もいます。生き残った人たちが終戦と共に収容所から解放された後,フランドル出身のある証人はこう書きました。「生きたいという揺るがぬ願いと希望,そして全能者なるエホバに対する信頼と神権政治に対する愛こそが,このすべてを耐え忍び,勝利を得ることを可能にしたのです。―ローマ 8:37」。

親は子供から無理やり引き離されました。夫と妻も離れ離れにされ,場合によっては二度と連絡を取り合うことができませんでした。マーティン・ポエツィンガーは結婚後間もなく逮捕されて悪名高いダハウの収容所に,次いでマウトハウゼンに送られ,彼の妻ゲルトルートはラベンスブリュックに投獄されました。二人は9年間,顔を合わせることがありませんでした。後にマーティンはマウトハウゼンでの経験を振り返り,こう書きました。「ゲシュタポは私たちにエホバへの信仰を捨てさせようとして,あらゆる方法を試みました。餓死するほどわずかな食事,欺まん的な友情,残虐な仕打ち,仕切りの中に幾日も立たされること,後ろ手に縛られて3㍍の杭につるされること,むち打ちなど,口で言えないほど卑劣な行為が試みられました」。しかし彼はエホバに対する忠節を保ちました。そして他の人と共に生き残り,後にエホバの証人の統治体の成員として奉仕しました。

信仰のゆえに投獄される

エホバの証人は犯罪者となったために強制収容所に入れられたのではありません。将校たちはひげを剃ってもらいたいときには,証人を信頼してかみそりを使わせました。証人たちならそうした道具を他の人を傷つけるための武器として決して用いないことを知っていたからです。死の収容所アウシュビッツの親衛隊の将校たちは,家の掃除や子供の世話をする人が必要なときには証人たちを選びました。証人たちなら毒を盛ったり脱走したりしないことを知っていたからです。戦争末期にザクセンハウゼン収容所から人々が撤退した時,護送兵たちは略奪品を載せた荷馬車を証人たちの一団の中央に配置しました。なぜでしょうか。証人たちなら盗まないことを知っていたからです。

エホバの証人は信仰のゆえに投獄されました。彼らは,信仰を捨てる宣言書に署名するだけで収容所から釈放してやると何度も約束されました。親衛隊はそうした宣言書に署名させるため,証人たちに誘惑を仕掛けたり無理強いしたりして,できることは何でも行ないました。何としても署名させたかったのです。

少数の例外を除き,エホバの証人は不屈の忠誠を実証しました。しかし彼らは,エホバに対する忠節とキリストの名に対する専心のゆえに苦しんだだけではありません。自分たちに加えられた異端審問的な責め苦を耐え忍んだだけではないのです。彼らは霊的な一致という強固なきずなを保ちました。

彼らは,何としても自分だけは生き残りたいという精神を持つことなく,互いに自己犠牲的な愛を示しました。自分の仲間が衰弱すると,自分のともしい配給の食事を分けてあげました。全く医療を受けられなくなると,愛をもって互いに世話し合いました。

迫害者たちが全力を尽くして妨害しようとしたにもかかわらず,聖書研究用の資料は証人たちのもとに届きました。外部からの贈り物の包みに忍ばせたものや,新たに到着した囚人の口を通して伝えられたものもあれば,新入りの受刑者の木製の義足に隠されたものさえありました。収容所の外での仕事を割り当てられた時には別の方法が用いられました。資料の写しは回覧され,時には収容所職員の事務所にある機械でひそかに写しが作られることもありました。大きな危険が伴いましたが,収容所の中でさえクリスチャンの集会が幾つか開かれました。

証人たちは神の王国が人類の唯一の希望であることを宣べ伝え続けました。そうです,強制収容所の中でそうしたのです。ブーヘンワルトでは,組織された活動が行なわれた結果,何千人もの受刑者が良いたよりを聞きました。ハンブルクに近いノイエンガムの収容所では,1943年初めに徹底的な証言運動が慎重に計画され,実行されました。収容所内で話されている様々な言語の証言カードが準備されました。収容者一人一人に接触する努力が払われ,関心を持つ人たちと定期的に行なう個人的な聖書研究の取り決めが設けられました。証人たちがあまり熱心に伝道するので,ある政治犯たちは,「どこへ行っても耳にするのはエホバの話だけだ」と不平を言いました。証人たちを弱体化させるため,他の囚人たちの中に分散させるようにという命令がベルリンから届きましたが,その結果かえって証人たちはさらに多くの人たちに証言できるようになりました。

ラベンスブリュックにいた500人以上の忠実な女性の証人たちについて,フランスのシャルル・ド・ゴール将軍の姪は自らの釈放後こう書きました。「私はあの方たちを心から称賛します。ドイツ,ポーランド,ロシア,チェコなど様々な国籍を持つ方たちで,信仰のために非常な苦しみを耐え忍んでこられました。……すべての方が非常な勇気を示され,その態度に,ついには親衛隊員までが敬意を示すようになりました。信仰を捨てさえすれば直ちに自由の身になれたのですが,そうするどころか皆さんは抵抗をやめず,本やパンフレットを収容所内に持ち込むことにさえ成功しました」。

これらの証人たちはイエス・キリストのように,自分たちをサタン的な型にはめようとする世を征服する者であることを実証しました。(ヨハネ 16:33)クリスティーン・キングは「新しい宗教的な動き: 理解し合える社会の見込み」という本の中で,彼らについてこう述べました。「エホバの証人は……全体主義者の抱く新たな社会に関する概念に一つの挑戦となる問題を提出した。そして,その挑戦となる問題が,エホバの証人が執ように生き残ったことと相まって,新しい秩序の発案者たちを苦しめていたことは明白だった。……迫害,拷問,投獄,あざけりなど,昔ながらの方法を用いても,一人としてエホバの証人をナチの立場に転向させることはできず,実際には扇動者たちの予想を裏切る結果になった。……忠節に関して敵対するこの二つの主張者たちの闘いは,熾烈を極めた。物理的にはより強力なナチスが,多くの点で自信に欠け,依って立つ信念がもろく,千年帝国の存続に対する確信も弱かった。証人たちは自らの依って立つ基盤を疑わなかった。彼らの信仰はアベルの時以来明らかだったからである。ナチスはしばしば分派的なキリスト教の言葉やイメージを借りて反対を弾圧し,支持者たちを説得せざるを得なかったが,証人たちは自分たちの仲間が,死に至るまでも全き不屈の忠節を示すことを確信していた」― 1982年発行。

戦争が終わると,生き残った1,000人余りの証人たちが無傷の信仰と互いに対する強い愛を抱いて収容所から出てきました。ソ連軍が近づくと,看守たちはザクセンハウゼンから急いで撤退しました。囚人たちは国籍ごとに分けられましたが,エホバの証人 ― その収容所にいた230人 ― は一つのグループとして固まっていました。ソ連軍は背後に迫り,看守たちは神経を高ぶらせました。食糧は全くなく,囚人たちは衰弱していましたが,疲れ果てて落伍したり倒れたりした者はだれ彼なしに射殺され,何千人もの死体が行進の道筋に沿って点々と横たわっていました。しかし証人たちは互いに助け合ったので,どんなに衰弱した人も道に横たわることはありませんでした。しかも中には65歳から72歳の人たちもいたのです。他の囚人たちは途中で食糧を盗もうとし,その最中に大勢が射殺されました。それとは対照的に,エホバの証人は機会をとらえて撤退路の道沿いに住む人々にエホバの愛ある目的について話しました。話を聞いた人たちの中には,慰めとなる音信に対する感謝の気持ちから,その証人たちやクリスチャンの兄弟たちのために食糧を分けてくれた人々もいました。

僧職者は闘いを続ける

第二次世界大戦後,チェコスロバキア東部の僧職者はエホバの証人に対する迫害を扇動し続けました。彼らは,ナチの支配下にあった時には証人たちが共産主義者であると言って非難しましたが,今度は証人たちが共産主義政府に反対していると唱えました。エホバの証人が人々の家を訪問する際,司祭が教師を唆し,学校から子供たちを何百人も連れ出して証人たちに石を投げさせることもありました。

同様に,1947年,エルサルバドルのサンタアナのカトリックの司祭たちは証人たちに対する反対運動を行ないました。兄弟たちが毎週の「ものみの塔」研究を行なっていると,男の子たちが開いたドアから石を投げ込み,次いで司祭たちに率いられた行列がやって来ました。ある者はたいまつを,ある者は像を持ち,「聖母マリア万歳」,「エホバは死ぬべし」と叫び,2時間ほどにわたって建物に石を投げつけました。

1940年代半ばに,カナダのケベック州のエホバの証人もカトリックの暴徒と役人双方からひどい虐待を受けました。司教公邸の代表者が毎日警察署を訪れ,証人たちを一掃するよう警察に要求しました。逮捕事件が起こる前には,教会の裏口から警官が出て来るのをよく見かけました。1949年,エホバの証人の宣教者たちはカトリックの暴徒によってケベック州ジョリエットから追い出されました。

しかし,ケベック州の人たちが一人残らずそうした処置に賛成していたわけではありません。今では,ジョリエットの大通りの一つに立派なエホバの証人の王国会館がありますが,かつての神学校は閉鎖され,政府に買い上げられてコミュニティーカレッジになりました。さらにモントリオールでは,1978年にエホバの証人は大規模な国際大会を開き,出席者数は8万8人に上りました。

それでも,カトリック教会は人々に対する鉄のように強固な支配を維持するため,ありとあらゆる手段を用いてきました。同教会は政府当局者に圧力をかけることにより,1949年にはエホバの証人の宣教者たちがイタリアからの退去を命じられるよう,そして1950年代には可能であれば証人たちが得たイタリアでの大会開催許可が取り消されるよう事を運びました。それにもかかわらず,エホバの証人の数は増加し続け,1992年の時点でイタリアには福音宣明の業を行なう証人たちが19万人以上いました。

異端審問の時代のように,スペインの僧職者は告発はしましたが,人の嫌がる仕事は国家に任せました。例えばバルセロナでは,1954年に大司教が証人たちの撲滅運動を始め,僧職者は説教壇や学校やラジオで,証人たちがやって来たら家には招き入れず,すぐ警察を呼ぶよう人々に勧めました。

司祭たちは,スペインの人々が聖書の内容を知り,読んだ事柄を他の人に伝えることさえするかもしれないと恐れました。1960年に,マヌエル・ムラ・ヒメネスが聖書に関する事柄を他の人に教えた“罪”でグラナダの刑務所に入れられていた時,刑務所の教戒師(カトリックの司祭)は刑務所の図書室に1冊だけあった聖書を片づけました。マヌエルが別の受刑者から福音書を借りたときも,それは取り上げられてしまいました。しかし,今では聖書はスペインの一般の人々の手元にあり,人々は聖書の言葉を自分で読むことができます。また1992年までに,スペインで証人としてエホバを崇拝している人の数は9万人を超えました。

ドミニカ共和国では,僧職者と独裁者トルヒーヨが結託し,お互いに自らの目的を達成するために相手を利用しました。1950年,司祭たちの書いた新聞記事を通してエホバの証人に非難が加えられた後,ものみの塔協会の支部の監督は内務・警察長官に呼び出されました。支部の監督は執務室の外で待っていたときに,イエズス会の二人の司祭が部屋に入って行き,それから出て行くのを見ました。その後すぐに彼が長官の執務室に呼び入れられると,長官はエホバの証人の活動に対する禁令を不安げに読み上げました。1956年に禁令が一時的に解除された後,僧職者は再び証人たちを中傷するためにラジオと新聞を用いました。会衆の全成員が逮捕され,信仰を捨て,ローマ・カトリック教会に戻ることを約束する声明書にサインするよう命じられました。証人たちは拒否すると,殴られたり,蹴られたり,むち打たれたり,顔をライフルの台尻で殴られたりしました。それでも証人たちは確固とした立場を保ち,数を増してゆきました。

ボリビアのスクレでも暴力事件が生じました。1955年にエホバの証人の大会が開かれた時,聖心カトリック学校の少年たちの一団が大会会場を取り囲み,わめいたり,石を投げたりしました。通りの向かい側の教会からは,強力な拡声器を通して,「プロテスタントの異端者」から教会と「聖母」を守るようカトリック教徒全員に対して訴えがなされました。司教と司祭たちは自らその集まりを中止させようとしましたが,会場を出るよう警官から命じられました。

その前の年,エホバの証人がエクアドルのリオバンバで開いた大会では,「愛 ― 利己的な世にあっても実際的?」と題する公開講演がプログラムの特色となっていました。しかし,イエズス会の司祭がカトリックの住民を扇動し,その集まりを妨害するよう唆しました。そのため,講演が始まると,「カトリック教会よ,永遠なれ!」,「打倒! プロテスタント」といった暴徒の叫び声が聞こえました。警官隊はサーベルを抜いて立派に暴徒を阻止しましたが,暴徒は大会会場に,そして後には宣教者の住まいとなっていた建物にも石を投げつけました。

ローマ・カトリックの僧職者は迫害の先頭に立ってきましたが,そうしているのは彼らだけではありません。ギリシャ正教の僧職者も全く同様に攻撃的であり,カトリック教会よりも狭い勢力範囲内で同じ策略を用いてきました。さらにプロテスタントの僧職者の多くも,成算があると考えるときには同様の精神を示してきました。例えばインドネシアでは,彼らに率いられた暴徒が,個人の家で開かれていた聖書研究を中止させ,その場にいたエホバの証人をひどく殴りました。アフリカの幾つかの国では,それらの僧職者はエホバの証人を国外に締め出したり,他の人に神の言葉を語る自由を剥奪したりするよう当局者に働きかけようとしました。全体としてカトリックとプロテスタントの僧職者は他の点に関しては意見を異にするとしても,エホバの証人に対する反対という点では一致しています。時には,証人たちの活動を停止させるため,結託して政府当局者を動かそうとさえしてきました。また,キリスト教以外の宗教が生活を支配している場所では,しばしばそうした宗教が政府を利用して,生まれながらの宗教に疑問を抱かせるような教えに接触しないよう人々を隔離してきました。

それらキリスト教以外のグループが宗教界の現状を維持しようとたくらみ,自称クリスチャンと結託することもありました。ダオメー(現在のベニン)のデキンでは,1950年代の初めに呪物崇拝の一祭司とカトリックの一司祭が共謀し,当局者に圧力をかけてエホバの証人の活動を弾圧させました。彼らはあらゆる種類の敵意をかき立てようともくろんで必死に言いがかりをつけ,証人たちは政府に反逆するよう人々を唆しているとか,税金を払わないとか,証人たちのせいで呪物が雨を降らせてくれないとか,祭司の祈りに効き目がないのは証人たちの責任だなどと非難しました。そうした宗教指導者はみな,迷信や盲従の生活から自由にしてくれる事柄を信者たちが知ってしまうのではないかと恐れたのです。

とはいえ,多くの場所では次第に僧職者の影響力が弱まっています。今では僧職者は,証人たちにいやがらせをする際に必ずしも警察が味方になってくれるわけではないことに気づいています。1986年,ギリシャのラリサでギリシャ正教の司祭が暴徒を動員してエホバの証人の大会を中止させようとした時には,大勢の警官隊を連れた地方検事が証人たちのために介入しました。また,時には,ジャーナリズムが宗教上の不寛容な行為をかなり率直に糾弾することもあります。

それでも,世界の多くの場所では他の論争点が迫害の波を生み出してきました。そうした論争点の一つは,国家の象徴に対するエホバの証人の態度と関係があります。

エホバだけを崇拝するという理由で

現代のエホバの証人が国家主義的な儀式に関する問題に目立った仕方で初めて直面したのは,ナチ・ドイツにおいてでした。ヒトラーは「ヒトラー万歳」というナチ式敬礼を強制的に行なわせることにより,ドイツ国民を一つの型にはめようとしました。スウェーデン人ジャーナリストでBBCのニュースキャスターであるビョルン・ハルストレムが伝えたように,ナチ時代にドイツのエホバの証人が逮捕された際,彼らの容疑にはたいてい「国旗敬礼およびナチ式敬礼の拒否」が含まれていました。やがて他の国もすべての人に国旗敬礼を要求するようになりました。エホバの証人は,不忠節さからではなくクリスチャンの良心のゆえにそれを拒否しました。国旗に敬意は払いましたが,国旗敬礼を崇拝行為とみなしたのです。 *

ナチ時代の初期にドイツでは,1,200人ほどの証人たちがナチ式敬礼を行なうことやクリスチャンの中立を破ることを拒否したために投獄されましたが,その後アメリカでも非常に多くの人たちがアメリカの国旗に敬礼しようとしなかったために身体的な虐待を受けました。1935年11月4日の週には,ペンシルバニア州カノンズバーグの学校に通うかなりの数の子供たちが,敬礼を拒否したという理由で学校のボイラー室に連れて行かれ,むち打たれました。教師だったグレース・エステプも同じ理由でその学校から免職されました。11月6日,ウィリアム・ゴバイタスとリリアン・ゴバイタスは国旗敬礼を拒み,ペンシルバニア州マイナーズビルで放校されました。二人の父親は子供たちの再入学を求めて訴訟を起こし,連邦地方裁判所も巡回控訴裁判所もこの事件に関してエホバの証人に有利な判決を下しました。しかし,1940年,米国が開戦寸前になると,合衆国最高裁判所はマイナーズビル学区対ゴバイティス事件に関し,公立学校における強制的な国旗敬礼を支持する判決を8対1で下しました。その結果,エホバの証人に対する暴力事件が一気に国中で発生しました。

エホバの証人に対する暴力的な襲撃があまりに頻発したので,エリノア・ルーズベルト夫人(F・D・ルーズベルト大統領夫人)はそうしたことをやめるよう人々に訴えました。1940年6月16日,合衆国訟務長官フランシス・ビドルは全国的なラジオ放送で,証人たちに対してなされた蛮行に特に言及し,そうした行為が許容されることはないと述べました。しかし,それによって蛮行の大波がとどめられたわけではありませんでした。

通りで,職場で,また宣教に携わる証人が家々を訪問する際など,ありとあらゆる状況のもとで,国旗が証人たちの目の前に突き出され,それに敬礼することが要求されました。さもなくば後が怖いぞ,というわけです。1940年の末に「エホバの証人の年鑑」(英文)はこう報告しました。「僧職者とアメリカ在郷軍人会は,法を無視して勝手に制裁を加える暴徒を用い,暴力によって言語に絶する大きな被害をもたらしてきた。エホバの証人は暴行を受け,殴打され,誘拐され,町や郡や州から追い出され,タールと羽毛を浴びせられ,無理やりひまし油を飲まされ,縛り合わされて,もの言わぬ獣のように通りで追い回され,去勢されたり不具にされたり,悪霊的な群衆からあざけられたり侮辱されたりし,罪状を言い渡されることなく何百人も投獄され,外界との接触を断たれ,親族や友人や弁護士と相談する権利を否定されている。さらに,投獄され,いわゆる“保護拘置”として留置された人が何百人もいる。夜間に銃撃された人や,縛り首にすると言って脅され,意識を失うまで殴られた人もいる。ありとあらゆる集団暴行が発生している。多くの人は衣服をはぎ取られ,彼らの聖書や他の文書は没収されて公衆の面前で焼かれた。自動車やトレーラーハウスや家や集会場は打ち壊され,火をつけられた。……暴徒の支配下にある地域で裁判が開かれた際,弁護士や証人が出廷中に暴徒に襲われて殴られたことは数知れない。集団暴行が起きても,当局者はたいてい傍観し,保護を差し伸べようとしない。警官が暴徒に加わったり,時には実際に暴徒を率いたりしたことも何十回となくある」。1940年から1944年までの間に,米国でエホバの証人は2,500回以上暴徒に襲われました。

エホバの証人の子供たちが大勢放校されたので,1930年代末から1940年代初めにかけて,証人たちは子供たちに教育を施すため米国とカナダで独自の学校を運営しなければなりませんでした。それらの学校は王国学校と呼ばれました。

他の国でも,エホバの証人は国の象徴への敬礼や口づけを拒んだためにひどく迫害されました。1959年,コスタリカのエホバの証人の子供たちは,法律で言うところの『国家の象徴に対する崇拝』に加わろうとせず,学校から締め出されました。パラグアイの証人の子供たちも1984年に同様な処置を受けました。1959年,フィリピンの最高裁判所は,宗教上の異議申し立てがあったにもかかわらず,エホバの証人の子供たちに国旗敬礼を強制できるという判決を下しました。とはいえ,大抵の場合フィリピンの学校当局者は証人の子供たちが自分の良心に反することなく学校に通えるよう証人たちに協力しました。1963年,西アフリカのリベリアの当局者は,国家に対する忠誠義務違背で証人たちを告発し,グバーンガで開かれていた証人たちの大会を無理やり中止させて,国旗に忠誠を誓うよう出席者全員 ― リベリア人も外国人も ― に要求しました。1976年,「キューバのエホバの証人」と題する報告は,子供が国旗に敬礼しようとしなかったという理由で,過去2年間に男女を問わず1,000人の親たちが刑務所に送られたと伝えました。

良心のゆえに,敬意を払いつつも愛国主義的な儀式に加わろうとしない人々に対するそうした抑圧的な措置に,すべての人が賛成したわけではありません。アメリカ自由人権協会の南カリフォルニア支部が発行するオープン・フォーラム紙は1941年にこう述べました。「今やこの国旗敬礼問題に関して我々は正気に返るべきである。エホバの証人は不忠節なアメリカ人ではない。……彼らは概して法律を破ろうとせず,むしろ慎みのある秩序正しい生活を送り,公益に貢献している」。1976年,アルゼンチンの一新聞コラムニストはブエノスアイレスのヘラルド紙上で,証人たちの「信条を不快に感じるのは,愛国心が心の問題ではなく,おもに国旗を振ったり国歌を歌ったりすることであると考える人たちだけである」と率直に述べ,こう付け加えました。「ヒトラーやスターリンは[証人たちを]鼻持ちならぬ存在と考え,彼らに残忍な仕打ちをした。順応を求める他の多くの独裁者も彼らの抑圧を図った。そして失敗したのである」。

一部の宗教団体が自分たちの気に入らない政府に対する武装集団の暴力を支持してきたことはよく知られています。しかし,地球上のどこにおいても,エホバの証人が政府転覆計画に加わったことは一度もありません。彼らが国歌の象徴に敬礼しようとしないのは,不忠節 ― つまり,別の人間の政府を支持する ― からではありません。彼らはどの国に住んでいようと同じ立場を取ります。彼らは不敬な態度を示しているわけではありません。愛国主義的な儀式を妨害しようとして口笛を吹いたり大声を上げたりはしません。国旗につばを吐きかけ,踏みつけ,燃やしたりもしません。彼らは反政府主義者ではないのです。彼らの立場は,マタイ 4章10節に記されている,「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない」というイエス・キリストご自身の言葉に基づいています。

エホバの証人が取る立場はローマ帝国の時代に初期クリスチャンが取った立場と似ています。それらの初期クリスチャンについて,「聖書歴史要説」という本はこう述べています。「皇帝崇拝の行為は,皇帝の像の前に置かれた祭壇にわずかばかりの香か数滴のぶどう酒をふりかけることであった。当時からずっと離れてしまった現代の見地からすれば,その行為は……礼節,尊敬,愛国心などの表われとして,国旗や国の著名な支配者に挙手の礼をすることと少しも変わらないように見えるかもしれない。1世紀のかなり大勢の人々もそれと同じように考えていたと思われるが,クリスチャンはそうではなかった。彼らは,そうした事柄すべては宗教上の礼拝の一部であるとみなし,皇帝を神として認めることになるゆえ,神とキリストに対する不忠節な行為になるとして,そうした行為を拒んだ」― エルマー・W・K・ムルド,1951年,563ページ。

「世のものではない」ために憎まれる

イエスは,ご自分の弟子は「世のものではない」と言われたため,エホバの証人は世の政治に関与しません。(ヨハネ 17:16; 6:15)この点でも証人たちは初期クリスチャンに似ています。初期クリスチャンに関して,歴史家はこう述べています。

「初期のキリスト教は異教世界の支配者たちからほとんど理解されず,また好意をもって見られることもほとんどなかった。……クリスチャンはローマ市民の特定の義務にあずかることを拒んだ。……彼らは行政職に就こうとしなかった」。(「世界史,文明への道」,A・K・ヘッケルとJ・G・シグマン,1937年,237,238ページ)「彼らは民政や帝国の国防に積極的に参加することを一切拒んだ。……クリスチャンがより神聖な義務を放棄することなしに兵士や行政長官あるいは君主の地位に就くことは考えられない事柄であった」―「キリスト教の歴史」,エドワード・ギボン,1891年,162,163ページ。

この立場を世は好意的に受けとめません。特に,政治体制を支持していることを示す証拠として特定の活動に参加するよう支配者がすべての人に要求する国々ではそう言えます。その結果,イエスが述べられたとおりになります。「あなた方が世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです」― ヨハネ 15:19

ある国々では,政治選挙で投票することが義務とみなされています。投票しないと,罰金刑を科されたり,投獄されたり,もっとひどい目に遭わされたりします。しかしエホバの証人は神のメシアの王国を支持します。その王国は,イエスが言われたとおり「この世のものではありません」。そのため証人たちはこの世の諸国家の政治に関与しないのです。(ヨハネ 18:36)それは個人的な決定であり,証人たちは自分の見方を他の人に押しつけません。宗教的に寛容でない国では,政府当局者は証人たちが政治に関与しないことを口実としてひどい迫害を加えてきました。例えばナチの時代には,ナチの支配下にあった国々でそのようなことが行なわれました。キューバでも同様でした。とはいえ,多くの国の当局者はそれよりも寛容です。

それでも場所によっては,特定のスローガンを大声で唱えることによって,政権を担当している党に対する支持を表わすよう,権力者がすべての人に要求してきました。1970年代と1980年代,アフリカ東部の何千人ものエホバの証人は良心的にそうすることができないため,殴打され,生計手段を奪われ,家から追い立てられました。しかし,どの国のエホバの証人も勤勉に働き,法律を守る一方,政治的な問題に関してはクリスチャンとして中立を保っています。

マラウイには政党が一つしかなく,党員カードを所持しているなら党員とみなされます。証人たちは自らの宗教信条に従って模範的な納税者となっていますが,党員カードを購入しようとはしません。購入するなら神の王国に対する信仰を否定することになるからです。そのため,1967年にマラウイ全土で,政府当局者にあおられた若者たちのグループがエホバの証人に対する全面的な襲撃を開始しました。その襲撃はわいせつさとサディスト的な残虐さの点で類例を見ないものとなりました。1,000人を超える敬虔なクリスチャンの女性が強姦されました。ある女性たちは大勢の暴徒の前で裸にされ,こん棒やこぶしで殴られた後に輪姦されました。男性は足には釘,脚には自転車のスポークを突き刺されてから,走るよう命じられました。国中で証人たちの家や家具は破壊され,衣服や食糧も台なしにされました。

さらに1972年,マラウイ会議党の年次総会の後,同様の残虐行為が突如再燃しました。その総会において,エホバの証人からあらゆる世俗の職を奪い,彼らを住まいから追い立てることが公式に決議されたのです。それらの信頼できる労働者を失いたくないという雇い主たちの訴えも役に立ちませんでした。家も作物も家畜も没収されたり,台なしにされたりしました。証人たちは村の井戸から水をくむことを許されず,多くの人が殴打されたり,強姦されたり,不具にされたり,殺されたりし,その間ずっと,信仰のゆえにあざけられ,ばかにされました。最終的に3万4,000人を超える人たちが,殺されないよう国外に逃れました。

しかしそれで事が済んだわけではありませんでした。彼らはまずある国から,次いで別の国からも追い返されて迫害者の手に陥り,結局一層ひどい虐待を経験することになったのです。それでも,そうしたことすべてにもかかわらず,彼らは妥協せず,エホバ神に対する信仰を捨てませんでした。彼らは,聖書に描かれている神の忠実な僕たちに似た者であることを実証しました。「ほかの人々はあざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれ,剣による殺りくに遭って死に,羊の皮ややぎの皮をまとって行き巡り,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにありました。世は彼らに値しなかったのです」― ヘブライ 11:36-38

あらゆる国で迫害される

自由に関する表向きの主張と裏腹にそのような宗教的な迫害を行なったのは,世界の比較的少数の国だけでしょうか。決してそうではありません。イエス・キリストは追随者に,「あなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」と警告されました。―マタイ 24:9

1914年以降のこの事物の体制の終わりの日に,この憎しみは特に激しさを増してきました。カナダとアメリカは第一次世界大戦中に聖書文書を発行禁止処分に付して攻撃の先鞭をつけ,間もなくインドとニアサランド(現在はマラウイと呼ばれる)がそれに加わりました。1920年代には,ギリシャ,ハンガリー,イタリア,ルーマニア,スペインで聖書研究者に一方的な制限が課されました。そうしたある国々では聖書文書の配布が禁じられ,時には個人的な集会さえ禁止されました。1930年代にはさらに多くの国が攻撃に加わり,アルバニア,オーストリア,ブルガリア,エストニア,ラトビア,リトアニア,ポーランド,スイスの幾つかの州,旧ユーゴスラビア,黄金海岸(現在のガーナ),アフリカのフランス領,トリニダード,フィジーなどで禁令が(ある場合はエホバの証人に,ある場合は証人たちの文書に)課されました。

第二次世界大戦中,世界の多くの場所でエホバの証人と彼らの公の宣教や聖書文書に禁令が課されました。そうしたことは,ドイツやイタリアや日本 ― いずれも独裁者の支配下にあった ― だけでなく,戦前あるいは戦時中に直接または間接的にそれらの国の支配下に入った多くの国々でも生じました。例えば,アルバニア,オーストリア,ベルギー,チェコスロバキア,朝鮮,オランダ,オランダ領東インド(現在のインドネシア),ノルウェーなどがそうです。戦時中には,アルゼンチン,ブラジル,フィンランド,フランス,ハンガリーがいずれもエホバの証人やその活動を禁止する公式の布告を出しました。

第二次世界大戦中,イギリスはエホバの証人の活動を直接には禁止しませんでしたが,ものみの塔協会のアメリカ生まれの支部の監督を国外退去させ,聖書文書に対して戦時の積み込み禁止令を出すことにより証人たちの活動を抑えようとしました。大英帝国および英連邦の至る所で,エホバの証人に全面的な禁令が課されたり,彼らの文書が発行禁止処分に付されたりしました。オーストラリア,バハマ諸島,バストランド(現在のレソト),ベチュアナランド(現在のボツワナ),英領ギアナ(現在のガイアナ),ビルマ(現在のミャンマー),カナダ,セイロン(現在のスリランカ),キプロス,ドミニカ,フィジー,黄金海岸(現在のガーナ),インド,ジャマイカ,リーワード諸島(英領西インド諸島),ニュージーランド,ナイジェリア,北ローデシア(現在のザンビア),ニアサランド(現在のマラウイ),シンガポール,南アフリカ,南ローデシア(現在のジンバブエ),スワジランドといった国々もすべてそうした措置を執り,エホバの僕たちに敵意を示しました。

終戦後,幾つかの方面からの迫害は緩和されましたが,他の方面からの迫害が増大しました。その後の45年間に,エホバの証人は多くの国で法的認可を得られなかっただけでなく,アフリカの23か国,アジアの9か国,ヨーロッパの8か国,ラテンアメリカの3か国,そして四つの島国で全面的な禁令を課されたり,活動を全面的に禁じられたりしました。1992年の時点で,エホバの証人は24の国や地域で依然として制限を受けていました。

とはいえ,政府の役人全員が個人的にエホバの証人の業に反対しているわけではありません。多くの役人は信教の自由を擁護し,証人たちが地域社会にとって貴重な財産であることを認めています。そうした役人は,証人たちに反対する公的措置を求めて運動する人々に同調しません。例えば,象牙海岸(現在のコートジボワール)が独立国家となる前のこと,カトリックの一司祭とメソジスト派の一牧師がある役人を動かしてエホバの証人を国外へ追放しようとしましたが,交渉相手の役人たちには僧職者のお先棒を担ぐ気はありませんでした。1990年,ナミビアで一人の役人が,エホバの証人であることが分かっている難民を差別する法律を作ろうとした時,国民議会はそれを認めませんでした。かつて禁令下にあった多くの国でエホバの証人は法的認可を得るようになりました。

それでも,エホバの証人は世界のあらゆる場所で様々な迫害を受けています。(テモテ第二 3:12)ある場所ではおもに,権威を乱用する家長や反対する親族,あるいは神を恐れない同僚やクラスメートから迫害されるかもしれません。しかし,迫害者がだれであろうとも,また彼らが迫害をどのように正当化しようとも,エホバの証人は真のクリスチャンに対する迫害の背後にある事実を理解しています。

論争点

聖書巻頭の書は,エホバご自身の天的な組織とその地的な代表者たちに対する悪魔サタンと配下の者たちの敵意,つまり憎しみを象徴的な言葉遣いで予告しており,ものみの塔の出版物はそのことを長年にわたって指摘してきました。(創世記 3:15。ヨハネ 8:38,44。啓示 12:9,17)特に1925年以降,「ものみの塔」誌は主要な組織が二つ ― エホバの組織とサタンの組織 ― しかないことを聖書から説明してきました。そして,ヨハネ第一 5章19節が述べるとおり,「全世界」― つまり,エホバの組織に属さない全人類 ― は「邪悪な者の配下に」あります。それゆえにこそ,真のクリスチャンはみな迫害を経験するのです。―ヨハネ 15:20

しかし,どうして神は迫害を許されるのでしょうか。何か良い事柄が成し遂げられているのでしょうか。イエス・キリストの説明によると,イエスが天的な王としてサタンとその邪悪な組織を打ち砕く前に,中東の羊飼いがやぎから羊を分けるのと同じく,あらゆる国の人々を分ける業が行なわれます。人々には,神の王国について聞き,王国の側に立つ機会が与えられます。その王国をふれ告げる者たちが迫害されるとき,次の問題点が一層はっきりと前面に押し出されます。神の王国について聞く人たちはキリストの「兄弟」やその仲間たちに善を行ない,そのようにしてキリストご自身に対する愛を示すでしょうか。それとも,それら神の王国の代表者たちにののしりの言葉を浴びせる者たちに加わったり,場合によっては傍観者として黙ったままでいたりするでしょうか。(マタイ 25:31-46; 10:40; 24:14)マラウイには,だれがまことの神に仕えているかをはっきり理解し,迫害されている証人たちの仲間になった人々がいました。ドイツの強制収容所でも,多くの受刑者や一部の看守が同様な行動をとりました。

根も葉もない非難をされ,身体的な虐待を受け,神に対する信仰のゆえに嘲弄されても,エホバの証人は神に見捨てられたとは考えません。彼らはイエス・キリストも同じ経験をされたことを知っています。(マタイ 27:43)また,イエスがエホバに対する忠節によって悪魔が偽り者であることを実証し,み父のみ名を神聖なものとすることに貢献された,ということも知っています。そうすることはエホバの証人すべての願いです。―マタイ 6:9

論争点となっているのは,証人たちが拷問を生き延び,死を免れるかどうかという点ではありません。イエス・キリストは,ご自分の追随者の中には殺される人もいることを予告されました。(マタイ 24:9)イエスご自身も殺されました。しかしイエスは,神の主要な敵対者である悪魔サタンという「世の支配者」に決して妥協しませんでした。イエスは世を征服されたのです。(ヨハネ 14:30; 16:33)ですから,論争点となっているのは,まことの神の崇拝者がどんな苦難を経験しようとも神に対して忠実であり続けるかどうかという点です。現代のエホバの証人は,次のように書いた使徒パウロと同じ考えを持っていることを示す豊富な証拠を提出してきました。「わたしたちは,生きるならエホバに対して生き,死ぬならエホバに対して死ぬ(の)です。それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです」― ローマ 14:8

[脚注]

^ 20節 当時,聖書研究者は,会衆内の教える者としての男子に関して,現在のエホバの証人が聖書から理解している事柄を明確に理解していませんでした。(コリント第一 14:33,34。テモテ第一 2:11,12)そのため,マリア・ラッセルは「ものみの塔」誌の共同編集者であり,定期寄稿者でした。

^ 46節 ものみの塔協会の会長,J・F・ラザフォード; 協会の会計秘書,ウィリアム・E・バン・アンバーグ; 事務所の責任者; ロバート・J・マーティン;「ものみの塔」誌の編集委員会の成員,フレデリック・H・ロビソン; 協会の理事,A・ヒュー・マクミラン;「終了した秘義」の編集者,ジョージ・H・フィッシャーとクレイトン・J・ウッドワース。

^ 46節 ものみの塔協会の事務所のイタリア語部門で奉仕していたジョバンニ・デチェッカ。

^ 48節 熱心なローマ・カトリック教徒である巡回判事マーティン・T・マントンは1918年7月1日に2度目の保釈請求を却下しました。また後に連邦控訴裁判所がこれらの被告人に対する判決を破棄した時,マントンは唯一の反対票を投じました。注目に値する点として,1939年12月4日,特別に設けられた上訴裁判所は,裁判官権限の濫用と不正行為と詐欺に関するマントン有罪の判決を支持しました。

^ 49節 これらの人たちの投獄が不当であり,彼らが有罪でなかったことを示しているのは,J・F・ラザフォードが,米国最高裁判所における弁護士の資格を得た1909年5月から1942年に亡くなるまでその資格を保持していたという事実です。1939年から1942年までの間に最高裁判所に上訴された14の事件において,J・F・ラザフォードは弁護団の一員でした。いわゆるシュナイダー対ニュージャージー州事件(1939年)やマイナーズビル学区対ゴバイティス事件(1940年)では,彼自ら最高裁判所で口頭弁論を行ないました。さらに,1918年から1919年にかけて不当に投獄された人たちの一人であるA・H・マクミランは,第二次世界大戦中,クリスチャンの中立の立場を取ったため投獄された若者たちの霊的な益を図って米国の連邦刑務所を定期的に訪問する者として,連邦の刑務局長から認められました。

^ 103節 アメリカーナ百科事典,1942年版,第11巻,316ページにはこう書かれています。「国旗は十字架と同様神聖なものである。……国旗に対する人間の態度に関連した規則や規定には,『国旗に対する礼拝』……『国旗に対する崇敬』,『国旗に対する専心』などの力強い,意味深長な言葉が用いられている」。ブラジルでは,1956年2月16日付「ディアリオ・ダ・ジュスティッサ」の1904ページによると,ある公の儀式の席上で軍の一将校は,「国旗は……愛国主義的宗教の神になっており……国旗は尊敬され,崇拝されている」と述べました。

[642ページの拡大文]

先頭に立ってイエス・キリストを迫害したのは宗教指導者たちだった

[645ページの拡大文]

「だれの場合でも,伝道するための神による叙任あるいは権威の委任は,その者に聖霊が分け与えられることによってなされる」

[647ページの拡大文]

「終了した秘義」の本は,キリスト教世界の僧職者の偽善を容赦なく暴露した

[650ページの拡大文]

クリスチャンの男女が暴行を受け,投獄され,告発や裁判もないまま拘禁された

[652ページの拡大文]

「明らかにその刑期は長過ぎる」― 米国大統領ウッドロー・ウィルソン

[656ページの拡大文]

司祭の言い成りにならない人が公正に扱われることはまずなかった

[666ページの拡大文]

司祭が教師を唆し,学校から子供たちを連れ出して証人たちに石を投げさせた

[668ページの拡大文]

僧職者たちは結託してエホバの証人に反対した

[671ページの拡大文]

暴徒は米国でエホバの証人を襲った

[676ページの拡大文]

エホバの証人は世界のあらゆる場所で迫害を受けている

[655ページの囲み記事]

僧職者は感情をあらわにする

1918年にJ・F・ラザフォードと仲間たちが受けた判決に対する宗教刊行物の反応は注目に値します。

◆ 「クリスチャン・レジスター」: 「我が国政府が極めて直截に打破しているのは,いかに狂気じみた有害なものであれ宗教的な考えは罰せられることなく広め得るという前提である。そのような前提は古くさい錯誤であり,従来我々はその前提に対してあまりにも注意を欠いていた。……この判決によりラッセル主義も終わるものと思われる」。

◆ バプテスト派の出版物「ウェスタン・レコーダー」はこう述べました。「この御しにくい一派の指導者が反抗的な人間の収容施設に監禁されるのは至極当然である。……この件に関する実際の難問題は,この被告たちを精神病院に送るべきか,はたまた刑務所に送るべきかという点である」。

◆ 「フォートナイトリー・レビュー」は,ニューヨークのイブニング・ポスト紙に載った次のような意見に注意を引きました。「制定法と完全に調和していない限り,どんな宗教を教えることも由々しい犯罪であり,福音の聖職者たる者が万一誠実にそうしているのであれば罪はなお重くなるというこの判事の意見に,いずこの宗教教師も注意を払うものと我々は信ずる」。

◆ 「コンティネント」は被告たちを軽蔑して,「故“パスター”ラッセルの信奉者」と呼び,彼らが「罪人以外はドイツ皇帝との戦いを免除されるべきである」と主張していると述べて,彼らの信条を歪曲しました。また,ワシントンの司法長官の話を引用し,「しばらく前,イタリア政府は米国に対し,ラザフォードとその仲間たちが……イタリア軍内に大量の反戦の宣伝を流したことで苦情を述べた」とも断言しました。

◆ 1週間後,「クリスチャン・センチュリー」は上記の記事をほとんどそのまま掲載し,全く同意見であることを示しました。

◆ カトリックの雑誌「トゥルース」は下された判決について簡単に伝えた上で,編集者の意見として,「この協会の文書はカトリック教会とその聖職者に対する悪質な非難の言葉で満ちている」と述べました。そして,カトリック教会に公然と異議を唱える者に“扇動”のレッテルを貼ろうとして,「不寛容の精神が扇動的な精神と密接に結びついていることはますます明らかになっている」と付け加えました。

◆ レイ・アブラムズ博士は自著「捧げ銃をする説教師たち」の中でこう述べました。「20年の刑の宣告を伝えるニュースが宗教刊行物の編集者のもとに届くと,大小を問わず,それら刊行物のほとんどすべてがその出来事を歓んだ。伝統的な宗教雑誌の中に同情の言葉らしきものは一かけらも見られなかった」。

[660ページの囲み記事]

『宗教的な理由で迫害を受けた』

「マウトハウゼン強制収容所には,宗教的な理由だけで迫害を受けた人々のグループが存在した。それは『誠心聖書研究者』,すなわち『エホバの証人』の宗派の成員だった。……彼らはヒトラーに忠誠を誓うことを拒否し,いかなる種類の軍務に服することも拒否した ― 彼らの信条の,政治に関する必然の帰結 ― ため,それが迫害を受ける理由となった」―「ディー・ゲシヒテ・デス・コンツェントラツィオーンスラーゲルス・マウトハウゼン」(「マウトハウゼン強制収容所の歴史」),ハンス・マルシャレクが情報提供,オーストリア,ウィーン,1974年。

[661ページの囲み記事/図版]

親衛隊が証人たちに署名を強要した宣言書の訳文

......................................強制収容所

第II部門

宣言書

私,..................(年月日)...............に

...............(場所)...............で生まれた

....................(氏名).................は,

ここに下記の宣言をいたします。

1. 私は国際聖書研究者協会が誤った教えを宣明しており,宗教を装って国家に敵する目的を追求するものであることを知るに至りました。

2. それゆえ私はその組織から完全に離れ,その一派の教えとのかかわりを全く絶ちました。

3. 私はここに,今後,国際聖書研究者協会のいかなる活動にも二度と加わらないことを確約いたします。聖書研究者の教えを携えて近づいて来る者や,聖書研究者とのつながりが少しでもありそうな者がいれば,直ちに通報します。聖書研究者から送られてきた文書はすべて,即刻最寄りの警察署に引き渡します。

4. 私は今後国家の法を尊び,特に戦時においては武器を取って祖国を守り,あらゆる面で地域社会と行動を共にします。

5. 私は,本日宣言した事柄に違反する行為をなした場合,即刻,保護拘置に戻されることを承知しております。

............................,日付..................................

署名

[662ページの囲み記事]

死刑宣告を受けた人たちからの手紙

ベルリン・プレツェンゼーの収容所にいたフランツ・ライター(斬首刑を目前に控えていた)から母親にあてられた1940年1月6日付の手紙:

「私は強い確信のもとに,自分が正しい行動を取っていると信じています。ここにいると,まだ考えを変えることもできますが,それは神に対する不忠節となります。ここにいる私たちみんなは,神に対する忠実を保って,その誉れに寄与したいと願っています。……私は,自分が[兵役の]誓いをするなら,死に値する罪を犯すことになるのを知っていました。それは私にとって悪事となり,復活の見込みを失うことになるのです。しかし私は,キリストが言われた,『だれでも自分の命を救おうとする者はそれを失うが,だれでもわたしのために自分の命を失う者は,必ずそれを受ける』という言葉に付き従いました。さて,親愛なるお母さん,それに私のすべての兄弟姉妹たち,今日,私は刑を宣告されました。そして,恐れないでほしいのですが,それは死の宣告で,私は明朝処刑されます。私は神によって力づけられていますが,それは過去に亡くなった真のクリスチャンすべてが常にそうであったのと同じです。『だれであれ神から生まれた者は罪をおかし得ない』と,使徒たちは記しています。同じことが私にも言えます。私はこのことを皆さんに実証しましたし,皆さんはそのことを認めてくださるでしょう。親愛なる人よ,どうか悲しまないでください。皆さんすべてが聖書をさらによく知るのは良いことです。皆さんが死にいたるまで堅く立つなら,わたしたちは復活によって再び会うことでしょう。……

「あなたのフランツより

「再びお会いするまで」。

1945年3月2日にハンガリーのケルメンドで銃殺刑に処されたベルトルト・サボーの手紙:

「愛する妹マレカ!

「残されている1時間半の間に,死を目前にしたわたしの様子をお父さんとお母さんに伝えてもらうため,お前に手紙を書こうと思う。

「災いに満ちたこの世での最後のこのひとときにわたしが経験している思いの平安が,お父さんとお母さんにもあることを願う。今は10時で,わたしは11時半に処刑されることになっている。でも,わたしは全く平静な気持ちでいる。わたしは自分の将来の命をエホバと,最愛のみ子,王なるイエス・キリストのみ手にゆだねる。エホバとイエスは,このお二方を誠実に愛する者を決して忘れたりはされない。それにわたしは,キリストにあって死んでいる,いやむしろ眠っている者たちが間もなく復活させられることを知っている。そして,わたしを愛してくれたみんなにエホバからの豊かな祝福があるよう願っていることを特に伝えておきたいと思う。わたしの代わりにお父さんとお母さんに,そしてアヌシュにもキスをしておくれ。わたしのことは心配しないでほしい。すぐにまた会えるのだから。わたしの手は震えていない。これから,エホバが再び呼んでくださる時まで眠るのだ。わたしは今でもエホバに立てた誓いを守るつもりでいる。

「時間がなくなった。神がお前やわたしと共にいてくださいますように。

「心からの愛と共に,……

「ベルティ」

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勇気と信念のゆえに名が知られる

◆ 「あらゆる不利な状況を物ともせず,収容所の証人たちは集まり合って祈りを共にし,文書を生産し,人々を改宗させた。連帯感に支えられていたうえ,他の多くの囚人と異なって,そうした場所が存在する理由および自分たちがそのように苦しまねばならない理由を十分承知していたゆえに,証人たちは,小さいながら注目すべき受刑者集団,青紫色の三角印で区別された,そして勇気と信念でも名の知られた一団であった」と,クリスティーン・キング博士は「ナチス国家と新しい宗教: 非国教主義に関する五つの事例研究」に書きました。

◆ アンナ・パベウチニスカ著「アウシュビッツの価値規準と暴力」はこう述べています。「受刑者たちの中のこのグループは強固な思想集団であり,ナチズムに対する闘いに勝利を収めた。恐怖政治を敷く国家のまっただ中に浮かぶ孤島のように,ドイツにおけるこの宗派は衰えることのない抵抗を示した。アウシュビッツの収容所でも,これらの人々は同様のおくすることのない精神を抱いて行動していた。これらの人々は,仲間の受刑者や……囚人の中から選ばれた監督,そして親衛隊員の間でさえ尊敬を勝ち得ていた。いかなる“ビーベルフォルシェル”[エホバの証人]も自分の信仰や信念に反する命令には従わないということは周知の事実だった」。

◆ ルドルフ・ヘスは,「アウシュビッツの長官」という本に掲載された自伝の中で,クリスチャンの中立を犯すことを拒否したエホバの証人たちの処刑についてこう語りました。「私が思うに,円形劇場で野獣に引き裂かれるのを待つ初期クリスチャンの殉教者たちはこのようだったに違いない。彼らはすっかり顔つきが変わり,天を仰ぎ見,祈りのために固く合わされた手を掲げながら死に赴いた。彼らの死に様を目にした者はみな深く心を打たれた。当の処刑隊でさえ感動したのである」。(この本はポーランドで,「オトベオグラフィア・ルドルファ・ヘサ・コメンダンタ・オボズ・オシュビェンチムスキェゴ」という題名で出版されました。)

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「彼らは反国家的なのではない」

「彼らは反国家的なのではない。エホバを支持しているだけである」。「彼らは徴兵カードを焼いたり,反乱を起こしたり……何らかの形の暴動に荷担したりはしない」。「証人たちの正直さと忠誠は不変である。証人たちについて一般の人がどう考えようと ― 多くの人は多くの否定的な事柄を考えるが ― 証人たちは模範的な生活を送っているのである」。―テレグラム紙,カナダ,トロント,1970年7月。

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だれに責任があるのか

エホバの証人は,宣べ伝えるという自分たちの責任がものみの塔協会や他の法人団体の働きに依存していないことをわきまえています。「ものみの塔協会が禁令下に置かれ,各国の支部事務所が国家の介入によって強制的に閉鎖されようとも,神のご意志を行なうために聖別され,神がご自分の霊を置かれた男女にお与えになった神聖な責任がなくなったり,除かれたりするわけではない。み言葉には,『宣べ伝えよ!』とはっきり記されている。この命令はいかなる人間の命令よりも優先される」。(「ものみの塔」誌[英文],1949年12月15日号)証人たちはエホバ神とイエス・キリストから命令が与えられていることを認識しているので,どんな反対に遭おうとも,粘り強く王国の音信をふれ告げます。

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初期クリスチャンのように

◆ 「エホバの証人は自分たちの宗教のことを他の大多数の人々よりもはるかに真剣に考えている。彼らの従う原則のことを考えると,大変な不評を買い,ローマ人の手で極めて残酷な迫害を受けた初期クリスチャンを思い起こす」― アクロン・ビーコン・ジャーナル紙,オハイオ州,1951年9月4日。

◆ 「彼ら[初期クリスチャン]は静かで,道徳的な,まさに模範的な生き方をした。……香をたくというただ一つの点を除けば,彼らはあらゆる面で模範的な市民であった」。「皇帝の守護神に犠牲をささげるという愛国心の試験が依然として残っていたのに,国家の権威者はそれら非愛国的なクリスチャンの頑固な抵抗を大目に見ることができたであろうか。その結果としてクリスチャンが経験した苦難には,戦時中,エホバの証人として知られる活動的な一派が国旗敬礼の問題に関連して米国で経験した苦難と似通ったところもある」―「20世紀のキリスト教」,ポール・ハチンソンとウィンフレッド・ギャリソン共著,1959年,31ページ。

◆ 「証人たちに関して最も注目すべき点は,世のいかなる権力者の前であろうと神に対する忠誠をあくまでも優先させる態度であろう」―「これらの人々も信じている」,C・S・ブレイドン博士著,1949年,380ページ。

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ピッツバーグ・ガゼット紙は,C・T・ラッセルに対するイートン博士の挑戦の結果として開かれた討論会を広く宣伝した

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反対者たちは,チャールズ・ラッセルとマリア・ラッセルの結婚生活に関するひどい偽りを大いに広めた

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神の言葉に照らして僧職者たちの教理や慣行を暴露したこのパンフレットが1,000万部配布された時,僧職者たちは激怒した

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1918年,新聞が聖書研究者に対する迫害の炎をあおった

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協会の本部役員に関するこの裁判の間,「終了した秘義」という本に多くの注意が向けられた

ニューヨーク市ブルックリンの連邦裁判所と郵便局

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第一次世界大戦のきっかけとなる銃撃を行なった暗殺者よりも厳しい刑を宣告された。左から右へ:W・E・バン・アンバーグ,J・F・ラザフォード,A・H・マクミラン,R・J・マーティン,F・H・ロビソン,C・J・ウッドワース,G・H・フィッシャー,G・デチェッカ。

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1939年,証人たちのこの大会がニューヨークで開かれた際,カトリックの司祭たちに率いられた200人ほどの暴徒が大会を中止させようとした

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第二次世界大戦中,何千人ものエホバの証人がこれらの強制収容所に送り込まれた

親衛隊の看守のどくろの紋章(左)

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写真で縮小コピーし,マッチ箱に入れてひそかに強制収容所の証人たちに届けられた聖書研究用の本の一部

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ナチの強制収容所でのきびしい試練に耐えた信仰を持つ証人たちの一部

マウトハウゼン

ベーベルスブルク

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1945年,ケベック州モントリオールの近くで起きた集団暴力事件。1940年代と1950年代には,僧職者に扇動された,証人たちに対するこのような暴力事件が頻発した

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(ここに写っているジョン・ブースも含め)非常に多くのエホバの証人が聖書文書を配布して逮捕された

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証人たちに不利な最高裁判決が1940年に下された後,集団暴行の嵐が全米で吹き荒れ,集会は中断され,証人たちは殴打され,財産は破壊された

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多くの場所で証人の子供たちが公立学校から放校されたため,王国学校を設ける必要があった