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内部からの試みとふるい分け

内部からの試みとふるい分け

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内部からの試みとふるい分け

エホバの証人の現代の組織は発展と成長を遂げてきましたが,その背後には,個々の人の信仰を厳しく試みる数多くの状況がありました。脱穀とあおり分ける過程が小麦をもみがらから分けるように,そうした状況は真のクリスチャンである人々を見分けるのに役立ってきました。(ルカ 3:17と比較してください。)組織と交わっている人々は自分の心の中にあるものを明らかにしなければなりませんでした。彼らは単に個人的な利益のために仕えていましたか。不完全な人間の追随者にすぎませんでしたか。それとも,謙遜で,神のご意志を知ることと行なうことを熱望し,エホバに対する専心において欠けたところのない人々だったでしょうか。―歴代第二 16:9と比較してください。

1世紀のイエス・キリストの追随者も同様に信仰の試みを経験しました。イエスは,彼らが忠実であるならイエスと共に王国を受けることになると追随者に言われました。(マタイ 5:3,10; 7:21; 18:3; 19:28)しかしイエスは,彼らがいつその賞を受けるかは告げられませんでした。彼らは宣べ伝える業に対する一般の人々の無関心さや敵意にさえ直面しながら,引き続き忠節に王国の関心事を生活上の第一の事柄にするでしょうか。―テモテ第二 4:10

イエスご自身の教え方は,ある人たちにとって試みとなりました。パリサイ人は,イエスが彼らの伝統を率直に退けた時,つまずきました。(マタイ 15:1-14)イエスの弟子であると自称していた大勢の人たちでさえ,イエスの教え方に腹を立てました。例えば,イエスが,犠牲としてささげられるご自分の肉と血の価値に信仰を働かせることの重要性について論じておられた時,弟子のうち多くの者はイエスが用いられた比喩的な言葉遣いにショックを受けたことをあらわにしました。詳しい説明を聞こうとせず,「後ろのものに戻って行き,もはや彼と共に歩もうとはしなかった」のです。―ヨハネ 6:48-66

しかし,全員が去ったわけではありません。シモン・ペテロが述べたとおりです。「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。そしてわたしたちは,あなたが神の聖なる方であることを信じ,また知るようになったのです」。(ヨハネ 6:67-69)彼らは,イエスこそ神がご自身とご自身の目的に関する真理を明らかにする経路として用いておられる方であることを確信するに足る事柄を見聞きしていたのです。(ヨハネ 1:14; 14:6)とはいえ,信仰の試みは続きました。

イエスは死と復活の後,使徒や他の人たちを会衆の牧者としてお用いになりました。そうした人たちは不完全な人間であり,彼らの不完全さが周囲の人々にとって試みとなることもありました。(使徒 15:36-41; ガラテア 2:11-14と比較してください。)一方,ある人たちは主立ったクリスチャンを称賛して平衡を失い,「わたしはパウロに属する」と言ったり,『わたしはアポロに属する』と言ったりしました。(コリント第一 3:4)彼らは皆,イエス・キリストの追随者であることの意味を見失わないように注意する必要がありました。

使徒パウロは他の深刻な問題を予告し,クリスチャン会衆の中にさえ「弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こる」と説明しました。(使徒 20:29,30)また使徒ペテロは,神の僕たちの間の偽教師たちが「まやかしの言葉」で他の人を利用しようとすることについて警告しました。(ペテロ第二 2:1-3)明らかに,信仰と忠節に関して,心を探る試みが前途に控えていました。

ですから,エホバの証人の現代の歴史の中に試みとふるい分けが含まれていたことは驚くには当たりません。しかし,だれが,どんな事柄に関してつまずいたかを知って驚いた人は少なくありません。

彼らは贖いの価値を本当に認識していたか

1870年代の初め,ラッセル兄弟とその仲間たちは神の目的に関する知識と認識を深めました。その時期は彼らにとって霊的にさわやかにされる時でした。しかし,その後1878年に,彼らは神の言葉に対する信仰と忠節の大きな試みに直面しました。論争の的となったのは,1世紀のイエスの多くの弟子がつまずいたのと同じ教え,つまりイエスの肉と血が持つ犠牲の価値でした。

それよりわずか2年前の1876年,C・T・ラッセルはニューヨーク州ロチェスターのN・H・バーバーと提携関係を結び,二人の研究グループは互いに密接な関係を持つようになりました。ラッセルは「朝の先触れ」というバーバーの雑誌の印刷を再開させるために資金を提供し,バーバーが編集者,ラッセルが副編集者を務めました。二人はまた,「三つの世界,およびこの世界の収穫」と題する本を共同出版しました。

突然,衝撃的な出来事が起きました。バーバーは1878年8月号の「朝の先触れ」誌の記事の中で,ペテロ第一 3章18節,イザヤ 53章5節と6節,ヘブライ 9章22節などの聖句を無価値なものとし,キリストがわたしたちの罪を贖うために死んだという考え自体,不快であると述べたのです。後にラッセルはこう書いています。「悲痛な驚きであったが,バーバー氏は……贖罪の教理を否定する記事を『先触れ』誌に書いた。キリストの死がアダムとその子孫に対する贖いの価であることを否定し,キリストの死は人間の罪に対する罰を終わらせるものではない,ちょうどハエの体にピンを突き刺してハエを苦しませて死なせても親はそれを子供の非行に対する正当な解決と考えないのと同じである,と語ったのである」。 *

これは重大な問題でした。ラッセル兄弟は,人類の救いのための神の備えに関して聖書が明確に述べている事柄を忠節に固守するでしょうか。それとも,人間の哲学のえじきとなってしまうでしょうか。ラッセルは当時まだ26歳で,バーバーはずっと年上でしたが,勇敢にもラッセルはすぐ次の号の「先触れ」誌に記事を書いて,罪を贖うキリストの血の価値を強力に擁護し,それを「神の言葉の最も重要な教えの一つ」と呼びました。

次いで彼は,「先触れ」誌のもう一人の副編集者であるJ・H・ペートンに,罪の贖いの基礎としてのキリストの血に対する信仰を支持する記事を書くよう勧めました。ペートンは記事を書き,それは12月号に掲載されました。ラッセルは何度もその問題についてバーバーと聖書から論じ合おうとしましたが,うまくゆかなかったため,彼との交わりを絶ち,彼の雑誌への援助を取りやめました。1879年7月,ラッセルは新しい雑誌 ―「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」― を創刊しました。その雑誌は最初から特に贖いを擁護していました。とはいえ,それで問題が解決したわけではありませんでした。

2年後,当時「ものみの塔」誌の旅行する代表者として奉仕していたペートンも組織から離れ始め,その後,自ら出版した本(「黎明」と題する彼の2冊目の本)の中で,アダムが罪に陥ったという信条を否定し,その結果として贖い主の必要性も否定しました。主ご自身も不完全な人間であり,その生涯によって他の人に罪深い性向の抑制方法を示したにすぎないと論じたのです。1881年,別の仲間であるA・D・ジョーンズは,「ものみの塔」誌と似てはいるものの,神の目的の比較的簡単な特色を論じることを意図した出版物(「シオンの明けの明星」)を創刊しました。初めは全く問題がないように思えましたが,1年もしないうちにジョーンズの出版物はキリストの贖いの犠牲を退けるようになり,その後1年足らずのうちに聖書の残りの部分すべてを否定しました。こうした人たちには何が起きたのでしょうか。彼らは個人的な理論や,人気のある人間の哲学の魅力に惑わされるままになり,神の言葉から迷い出てしまったのです。(コロサイ 2:8と比較してください。)A・D・ジョーンズの出版物が続いたのは短い期間だけで,その後は姿を消しました。J・H・ペートンは自分が福音とみなすものを説明する雑誌の発行を決意しましたが,その雑誌の発行部数はごく少数でした。

ラッセル兄弟はこうしたことすべてが「ものみの塔」誌の読者に及ぼす影響を憂慮しました。そのために一人一人の信仰が試みられることに気づいたのです。彼は,非聖書的な教えに対する彼の批判を競争心によるものと解釈する人たちがいることをよく知っていました。しかし,ラッセル兄弟は自分の追随者を求めたのではありません。当時の状況について,兄弟はこう書きました。「この試練とふるい分けの目的は,利他的な心の願いを持つすべての人を選ぶことだと思われる。それらの人は主のために全くかつ無条件で聖別され,主のご意志がなされることを切望しており,主の知恵と道と言葉に強い確信を抱いているゆえに,他の人の詭弁や自分自身の計画や考えによって主の言葉からそらされることを拒むのである」。

神は目に見える経路を用いておられたか

言うまでもなく,数多くの宗教組織があり,ある程度聖書を用いる教師もかなりいます。神は特にチャールズ・テイズ・ラッセルを用いておられたのでしょうか。もしそうであるなら,ラッセル兄弟が亡くなった時に,神は目に見える経路を持つことを中止されたのでしょうか。こうした疑問は重大な論争に発展し,その結果として,さらに試みとふるい分けが行なわれました。

C・T・ラッセルが神の言葉に忠節に付き従わなかったなら,神がラッセルをお用いになるとは期待できなかったに違いありません。(エレミヤ 23:28。テモテ第二 3:16,17)聖書にはっきり書かれていることが分かっているのに,恐れを抱いて,書かれている事柄を宣べ伝えようとしない人が神に用いられることはありません。(エゼキエル 2:6-8)自分に栄光をもたらすために聖書の知識を利用する人が神に用いられることもありません。(ヨハネ 5:44)では,事実はどんなことを示していますか。

今日のエホバの証人は,ラッセルの行なった業,ラッセルの教えた事柄とそれを教えた理由,生じた結果を振り返るとき,実際にチャールズ・テイズ・ラッセルが重要な時期に,特別な方法で神に用いられたことを確信します。

このような見方の根拠となっているのは,ラッセル兄弟が贖いに関して取った確固たる立場だけではありません。彼が,霊感を受けた聖書に反することを理由に,キリスト教世界の基本的な信条の幾つかを含む教義を恐れずに退けたという事実も判断材料となっています。そうした信条の中には,三位一体の教理(古代バビロンに由来し,聖書が書き終えられた後も長い間いわゆるクリスチャンによって採用されなかった)や,人間の魂は元来不滅であるという教え(プラトンの哲学に屈服した人々によって採用され,地獄の火による魂の永遠の責め苦といった考えを受け入れやすくした)があります。キリスト教世界の学者の多くも聖書がこうした教理を教えていないことを知っていますが, * 一般には,同世界の説教師が説教壇からそのように言うことはありません。それとは対照的にラッセル兄弟は,聖書が実際に述べている事柄を,聞く耳を持つすべての人に伝えるため,徹底的な運動を開始しました。

ラッセル兄弟が神の言葉から学んだ他のきわめて重要な真理に関して行なった事柄も注目に値します。彼はキリストが,人間の目には見えない,栄光を受けた霊者として戻られることを識別しました。また,早くも1876年には,1914年が異邦人の時の終わりをしるし付ける年であることを理解しました。(ルカ 21:24,欽定)こうした事柄の幾つかを同様に理解し,唱道した聖書学者はほかにもいました。しかしラッセル兄弟は,当時のいかなる個人や団体にもまねのできない規模でこうした事柄を国際的に知らせるため,自分の全資産を用いました。

ラッセルは,霊感を受けた神の言葉と注意深く比較しながら自分の著作を調べるよう他の人に勧めました。それは,彼らが自分の学んでいる事柄が神の言葉と十分に調和していることを得心するためでした。質問の手紙を寄せたある人に対して,ラッセル兄弟はこう答えました。「霊感を受けており,そう唱える使徒たちから受けた事柄を証明することが初期クリスチャンにとって妥当だったのであれば,これらの教えが使徒たちおよび私たちの主の概括的な指示に厳密に一致していることをあなたが十分得心するのはなおさら重要です。なぜなら,これらの教えの著者は霊感を受けているとは唱えず,主の羊の群れに糧を与えるため主に用いられる者として主の導きを受けていると唱えているにすぎないからです」。

ラッセル兄弟は超自然的な力や神からの啓示を受けているとは主張しませんでした。また,自分が教える事柄を自分の誉れとしませんでした。彼は傑出した聖書研究者でしたが,聖書に関する自分の際立った理解は『神のご予定の時が来たという純然たる事実』によるものであると説明しました。そして,「私が口を閉ざした上に,ほかの代理者も見つからないとすれば,石が叫ぶであろう」と述べました。彼は自分が,神の言葉に述べられている事柄を指摘する人差し指のようなものにすぎないと言いました。

チャールズ・テイズ・ラッセルは人からの栄光を求めませんでした。ラッセル兄弟を過度に称賛する傾向のある人たちの考えを調整するため,兄弟は1896年にこう書きました。「我々は神の恩寵により,福音の宣教においてある程度用いられてきたので,これまで個人的に幾度も述べ,かつてこの欄で述べた事柄をここで取り上げるのは不適切ではあるまい。つまり,我々は愛と同情心と信頼,そして仲間の僕たちや信仰の家族全体の交友を感謝してはいるが,我々自身や我々の著作に対する賛辞や崇敬を求めてはおらず,師あるいはラビと呼ばれることを望んでいないのである。また,何であれ我々の名で呼ばれることを我々は望まない」。

彼は死を目前に控えたとき,もう学ぶべき事柄はない,もうなすべき業はないとは考えませんでした。彼はよく「聖書研究」第7巻の準備を話題にしていました。亡くなる前にその第7巻について尋ねられた時,彼は旅行仲間のメンタ・スタージョンに,「ほかのだれかが書けばよいのです」と言いました。兄弟は遺書の中で,主に対する十分な専心の念を持つ男子から成る委員会の指導のもとに「ものみの塔」誌の出版が続けられることを願う気持ちを言い表わしました。彼は,そのようにして奉仕する人々は,「聖書の教理,特に贖いの教理に対して,徹頭徹尾,忠節な[男子でなければならない]。なぜなら,キリストに対する信仰および神の言葉とその霊に対する従順による以外に,神に受け入れられることも,とこしえの命への救いもないからである」と述べました。

ラッセル兄弟は良いたよりの伝道に関してなすべき業がたくさん残っていることを認識していました。1915年にカナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーで開かれた質疑応答の集まりで,彼は,当時生きていた霊によって油そそがれたキリストの追随者たちはいつ天的な報いを受けると期待できるかと尋ねられ,こう答えました。「それは分かりません。しかし,なすべき大きな業があります。そしてその業を行なうには大勢の兄弟と多額の資金が必要です。それらがどこから与えられるのか,私には分かりません。主はご自分に属する事柄をご存じです」。その後1916年に彼は講演旅行の途上で亡くなりましたが,その旅行に出る少し前,管理補佐のA・H・マクミランを執務室に呼び,「わたしはこれ以上仕事を続けることができなくなりましたが,まだ大仕事が残っているのです」と言いました。彼は3時間にわたって,自分が予期している広範な伝道活動のことを聖書に基づいてマクミラン兄弟に説明し,異議を唱えるマクミラン兄弟に対して,「これは人間がしている業ではありません」と述べました。

管理に関する変更により試みられる

ラッセル兄弟の仲間の多くは,主が物事を十分に制御しておられるという揺るぎない確信を抱いていました。ラッセル兄弟の葬式の際,W・E・バン・アンバーグはこう述べました。「神は過去において多くの僕を用いてこられたのですから,確かに将来においても多くの僕をお用いになります。わたしたちが聖別されているのは,一人の人間,もしくは一人の人間の業のためではなく,神のご意志を行なうためです。神はご自分のみ言葉と摂理に基づく指導により,ご自分の意志をわたしたちに明らかにしてくださるのです。神は依然として実権を執っておられます」。バン・アンバーグ兄弟は亡くなるまで決してこの確信を弱めませんでした。

しかし悲しいことに,ラッセルを称賛すると唱えながら,バン・アンバーグ兄弟とは違う精神を示した人たちがいました。その結果,ラッセルの死後に生じた状況の変化は試みとふるい分けをもたらしました。米国だけでなく,アイルランドのベルファスト,デンマークのコペンハーゲン,カナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーとビクトリアなどでも,背教的なグループが組織を離れました。フィンランドのヘルシンキのある人たちは,ラッセルの死後さらに霊的な光を受けるための経路はないという見方を取りました。ある著名な人たちに唆されて,ヘルシンキの164人の人が組織を去りました。そうした行動は神の祝福を受けたでしょうか。彼らはしばらくの間独自の雑誌を発行し,独自の集会を開きました。しかし,やがてそのグループは分裂し,衰えて消滅しました。彼らの多くは喜んで聖書研究者の集会に戻りましたが,すべての人が戻ったわけではありません。

ラッセル兄弟の死とそれに続く事態の進展は,オーストラリア支部の書記R・E・B・ニコルソンにとっても試みとなり,彼の心の中にあるものを明らかにさせました。ラッセルの死後,ニコルソンはこう書きました。「四半世紀余りのあいだ私はラッセル兄弟をその業のためだけでなく,そのすばらしい人格ゆえに愛し,彼が『機にかなった食物』として送り出す真理や彼の助言を歓びとしてきた。また,思いやりのある,親切で愛情深い気質を称賛してきた。そうした気質は,彼にとって神のご意志もしくはみ言葉の解明と思われる事柄を成し遂げるためにいかなることも行ない,かつあえて行なう勇気を持つという強い決意や不屈の精神と見事に融合していた。……この非常に頼もしい人物がもはや生きてはいないということを知ると,寂しさを感じる」。

ニコルソンの考えでは,ものみの塔協会の新会長ジョセフ・F・ラザフォードは,ラッセル兄弟が占めていた監督の立場を継ぐのにふさわしい人物ではありませんでした。ニコルソンは,聖書研究の新しい資料が偽りの宗教を遠慮なく非難していることを公然と批判するようになりました。やがて彼は組織を去り,協会の資産の多く(すでに自分の名義で登記していた)を我が物にし,自分を尊敬するようになっていたメルボルンの人たちを自分の側につけました。なぜこうしたことが起きたのでしょうか。ニコルソンは一人の人物の追随者となってしまったようです。そのため,その人物が亡くなると,主への奉仕に対するニコルソンの誠実さと熱意は冷めてしまいました。当時組織から離れた人々はだれ一人として霊的に繁栄しませんでした。しかし,きゃしゃなジェーン・ニコルソンが夫の背教に加わらなかったことは注目に値します。彼女の専心の念は第一にエホバ神に向けられており,彼女は1951年に亡くなるまでずっと全時間神に仕え続けたのです。

多くの人は,ラッセル兄弟の死後幾年かの間に生じた事柄が主のご意志を成し遂げていることを認めました。カナダのエホバの僕の一人はこの点について,ラザフォード兄弟にあてた手紙の中でこう述べました。

「親愛なる兄弟,これから申し上げる事柄を誤解なさらないでください。あなたの気質と親愛なるラッセル兄弟の気質とは全く異なっています。多くの人,そう,非常に多くの人がラッセル兄弟の人格や気質などのゆえに彼に好感を抱きました。彼に反対する人は全くと言っていいほどいませんでした。多くの人は,ラッセル兄弟が真理だと言うからという,ただそれだけの理由で真理を受け入れました。そして多くの人は……彼という人物を崇拝するようになりました。あなたは,ある大会でラッセル兄弟が,多くの善意の兄弟たちが犯したこの失敗について率直な話し合いを行なった時のことを覚えておいででしょう。それは,ヨハネとみ使いに関する話でした。(啓示 22:8,9)彼が亡くなった時に何が起きたか,私たち皆は知っています。

「しかし,ラザフォード兄弟,あなたの気質はラッセル兄弟の気質とは全く異なっています。外見も違います。それはあなたの責任ではありません。あなたの外見は生まれつきのものであり,あなたはそれを拒むことができませんでした。……あなたは協会の業務の責任者に任命された時以来,不当な批判や最も悪質な中傷の的となってこられました。そうした批判や中傷はみな兄弟たちからのものです。しかし,そうしたことすべてにもかかわらず,あなたは愛する主と,イザヤ 61章1節から3節に記されているような主からの任務に対して忠節であり,専心の念を示しておられます。主はあなたを業務の責任者に任じられた時,ご自分が何をしているかご存じだったでしょうか。ご存じだったに違いありません。かつて私たちは皆,創造者よりも被造物を崇拝する傾向を持っていました。主はそれをご存じでした。それで,異なった気質を持つ被造物を業務の責任者に,いえむしろ業,つまり収穫の業の責任者と言うべきでしょうが,そのような立場に任じられたのです。あなたはだれからも崇拝されることを望んでおられません。私にはそれが分かります。しかし主は今や義人の道に光が輝くことをふさわしいとみなしておられ,あなたは同じ貴重な信仰を持つすべての人がその光を享受することを確かに願っておられます。そして,それこそ主が行なわせたいと考えておられる事柄です」。

「忠実にして智き僕」の実体を明らかにする

当時ふるい分けられた多くの人たちは,チャールズ・テイズ・ラッセルという一個人が「忠実にして智き僕」であるという見解に固執していました。イエスがマタイ 24章45節から47節(欽定)で予告されたその僕は,信仰の家の者に霊的な食物を分配することになっていました。特にラッセルの死後何年かは,「ものみの塔」誌自体にそのような見解が掲載されました。ラッセル兄弟が果たした顕著な役割を考慮すると,当時の聖書研究者にとってその見解は正しいように思えたのです。ラッセル個人はこの考えを奨励しませんでしたが,この考えを好む人々の論議も妥当と思われるという見方をしていたのは確かです。 * しかし彼はさらに,だれであれそうした役割を果たすため主に用いられるような人は,主人に栄光をもたらすために熱心であるだけでなく謙遜でなければならないこと,また主に選ばれた者が失敗した場合には他の人と交代させられることを強調しました。

とはいえ,ラッセル兄弟の死後に真理の光が次第に輝きを増し,イエスが予告された宣べ伝える業が一層広範に行なわれるようになると,ラッセル兄弟が亡くなった時に「忠実にして智き僕」(欽定)もしくは「忠実で思慮深い奴隷」(新世)が消滅したわけではないということが明らかになりました。ラッセル兄弟自身も1881年に,その「僕」は霊によって油そそがれた忠実なクリスチャンの一団全体で構成されるという見解を述べていました。彼はその「僕」を集合的な僕,つまり一致して神のご意志を行なう人々の級とみなしていました。(イザヤ 43:10と比較してください。)この理解は1927年に聖書研究者によって再確認されました。今日のエホバの証人は,「ものみの塔」誌や同種の出版物が,霊的な食物を分配するために忠実で思慮深い奴隷によって用いられていることを認めています。証人たちはこの奴隷級が不謬であるとは主張しませんが,その奴隷級が,この事物の体制の終わりの日に主が用いておられる唯一の経路であると考えています。

誇りが妨げとなる場合

しかし時折,責任ある立場の個々の人たちが自分自身を霊的な光の経路とみなすようになって,組織から与えられたものに逆らうことがありました。また,単に個人的な影響力をもっと行使したいという欲望に屈した人もいました。彼らは他の人を自分に従わせること,もしくはパウロの言葉を借りれば,「弟子たちを引き離して自分につかせ(る)」ことを求めました。(使徒 20:29,30)言うまでもなく,その結果,彼らが誘惑しようとした人たちの動機と霊的な安定性が試みられました。幾つかの事例を考慮してみましょう。

ペンシルバニア州アレゲーニーの聖書研究者たちは特別な手紙を受け取り,1894年4月5日に開かれる集会に招待されました。ラッセル兄弟姉妹は招待されず,出席しませんでしたが,ほかの40人ほどの人たちが出席しました。その手紙には,E・ブライアン,S・D・ロジャーズ,J・B・アダムソン,O・ボン・ゼクの署名があり,その集会で彼らの「最高の福祉」に関する事柄が扱われると書かれていました。それは結局のところ,他の人の思いを毒そうとする,それら陰謀者たちの悪意ある企てでした。陰謀者たちは,ラッセル兄弟の業務上の悪事と思われる事柄を暴露したり(事実は正反対だった),ラッセル兄弟の権限が強すぎると論じたり(彼らはその権限を我が物にしたかった),同兄弟が単に講話を行なうよりも,福音を広めるための印刷物や聖書クラスの集会を用いるのを好むということを取り上げて不平を述べたりしました(彼らは講話によってもっと容易に個人的な見解を説くことができた)。会衆は生じた事柄に大いに動揺し,多くの人がつまずきました。しかし,組織を去った人々は結果的に一層霊的な人になったわけではなく,主の業において一層熱心になったわけでもありませんでした。

それから20年余り後のこと,ラッセル兄弟は亡くなる前に,英国の聖書研究者を強めるため,非常に有能な話し手であるポール・S・L・ジョンソンをそこへ遣わす意向を明らかにしました。協会はラッセル兄弟の願いを尊重し,1916年11月にジョンソンを英国へ派遣しました。しかし,彼は英国に着くと,協会の責任者のうち二人を解任しました。彼は自分が重要人物であると考え,話や手紙の中で,自分が行なっている事柄は聖書中のエズラやネヘミヤやモルデカイによって予表されていると論じました。また,自分はマタイ 20章8節のイエスのたとえ話の中に出てくる家令(もしくは,管理の者)であると主張しました。彼は協会の資金を手中に収めようとし,目的を達成するためロンドンの高等法院に訴訟を起こしました。

彼は企てを阻止されてニューヨークに戻り,協会の理事会で奉仕していたある人たちからの支持を取りつけようとしました。彼の味方になるよう説得された人たちは自分たちの目的の達成を図り,会長に業務の管理権限を与えている協会の定款の無効決議を承認させようとしました。彼らはすべての決定を行なう権限を手に入れたいと考えたのです。協会の権益を保護するため,ラザフォード兄弟は法的措置を取り,協会の活動を乱そうとしていた者たちはベテル・ホームを去るよう求められました。翌年の初めに開かれた協会の出資者の年次総会で,次年度の理事会とその役員たちが選出された際,扇動者たちは完全に退けられました。扇動者たちの中に自分たちは正しいと考えた人がいたかもしれませんが,彼らの霊的兄弟たちの大部分はそれに同意しないことを明らかにしました。扇動者たちは叱責を受け入れたでしょうか。

その後,P・S・L・ジョンソンは聖書研究者の集会に姿を見せ,聖書研究者の信条や活動に賛同しているかのように思わせました。しかし,彼は一部の人たちの信頼を得ると,疑いの種をまこうとしました。だれかが協会との関係を絶つ提案をすると,彼は偽善的にもそれを思いとどまらせました。グループの忠節が完全に損なわれるまで待ったのです。そして,手紙を書いたり,個人的な旅行も行なったりして,米国だけでなく,カナダ,ジャマイカ,ヨーロッパ,オーストラリアの兄弟たちにも影響を与えようとしました。そのたくらみは成功したでしょうか。

ある会衆の大多数の人が協会との結びつきを絶つ票決をした時には,そう思えたかもしれません。しかし,彼らは木から切り取られた枝のようでした。そうした枝はしばらくは青々としていますが,やがて枯れ,生命を失います。反対者たちが1918年に大会を開いた際に不和が表面化して分裂が生じ,その後,崩壊が進みました。ある人たちは自分たちが敬服する指導者と共に,小さな分派としてしばらくの間活動しました。イエスが追随者に割り当てた業である,人の住む全地で神の王国に関する公の証言を行なうという業に自分自身をささげる人は,彼らの中には一人もいませんでした。

こうした事柄が生じた時,兄弟たちはペテロ第一 4章12節に記されている事柄を思い起こしました。「愛する者たちよ,あなた方の間の燃えさかる火は,試練としてあなた方に起きているのであり,何か異常なことが身に降り懸かっているかのように当惑してはなりません」。

誇りによって自分の信仰が損なわれることを許した人は,既に述べた人たちだけではありません。そうした人はほかにもいました。例えば,スイスのジュネーブで協会の事務所の責任者をしていたアレクサンドル・フライタークがそうでした。彼は自分に注目させることを好み,協会の出版物をフランス語に翻訳する際に自分の考えを書き加え,自分自身の記事を出版するために協会の施設を用いることさえしました。カナダでは,協会の支部の責任者W・F・ソールターが協会の出版物に異論を唱え始め,ものみの塔協会の次期会長になりたいと考えていることを明らかにしました。そして組織から追放されると,自分が個人的に書いた資料を研究するようカナダや外国の諸会衆に指示するため,協会のレターヘッドを不正に使用しました。ナイジェリアでは,特にG・M・ウコリを挙げることができます。彼は当初真理に対する熱意を示しましたが,やがて真理を物質的な利得と個人的な名声を得るための手段とみなし始め,その後,企てを阻止されると,マスコミを通じて忠実な兄弟たちに批判を浴びせるようになりました。そのような人たちはほかにもいました。

近年でさえ,監督を行なう際立った立場を占めていたある人たちは同様の精神を示しました。

言うまでもなく,確かにこうした人たちには自分の好きなものを信じる自由がありました。しかし,だれであれ,ある組織を代表すると唱えながら,その組織の出版物に載せられた事柄と相いれない見解を公然と,あるいはひそかに唱道する人は,分裂をもたらします。エホバの証人はそうした状況にどう対応したでしょうか。

証人たちは,(背教者はしばしばかつての霊的兄弟たちを思いのままに虐待しましたが)そうした人たちを迫害する運動を始めたりはせず,(カトリック教会が異端審問所を用いて行なったように)彼らに身体的な危害を加えようともしませんでした。むしろ証人たちは,霊感を受けた使徒パウロの次の助言に従いました。「あなた方が学んだ教えに逆らって分裂とつまずきのきっかけをもたらす人たちに目を留め,その人たちを避けなさい。そうした人々は,わたしたちの主キリストの奴隷ではな(い)のです。……彼らは滑らかな話しぶりやほめことばによって,偽りのない者たちの心をたぶらかします」― ローマ 16:17,18

生じている事柄を観察するとき,他の人たちも自分の心の中にあるものを明らかにすることになりました。

精錬を要する教理上の見解

エホバの証人は,長年の間に神の目的に関する自分たちの理解が度々調整されてきたことを率直に認めます。神の目的に関する知識が漸進的なものであるという事実は,必ず変更が加えられることを意味します。神の目的に変更が加えられるのではありません。むしろ,神がご自分の僕たちに絶えず啓発を与えておられるゆえに,彼らの見解に調整を加える必要があるのです。

証人たちは聖書から,昔の忠実な神の僕たちも同じ状況にあったことを指摘します。アブラハムはエホバとの密接な関係を持っていましたが,この忠実な人はウルを去る時,神が彼を導かれる土地について何も知りませんでした。また,長年の間,彼から大いなる国民を作るという約束を神がどのように果たされるかについて,確かなことは何も分かっていませんでした。(創世記 12:1-3; 15:3; 17:15-21。ヘブライ 11:8)神は数多くの真理を預言者たちに啓示されましたが,当時彼らが理解していなかった事柄はほかにもありました。(ダニエル 12:8,9。ペテロ第一 1:10-12)同様に,イエスは使徒たちに多くのことを説明されましたが,地上での生活を終える時でさえ,使徒たちに対して,あなた方の学ぶべきことはまだ沢山あると言われました。(ヨハネ 16:12)そうした事柄の幾つか,例えば異邦人を会衆に導き入れるという神の目的などは,預言の成就として実際に生じた事柄を使徒たちが目にするまで理解されませんでした。―使徒 11:1-18

予想できることですが,変更が加えられて,かつて抱いていた見解を捨て去ることが必要になると,ある人たちは試みられました。さらに,理解の調整はいつも単に一度で済むとは限りません。不完全さのため,時折,正しい立場を識別するために一方の極端から他方の極端に走る傾向も見られます。時間がかかることもあります。そのため,批判的な傾向を持つある人たちはつまずきました。一つの例を考慮してみましょう。

早くも1880年に,ものみの塔の出版物はアブラハム契約,律法契約,新しい契約に関する種々の詳細な点を論じました。キリスト教世界は,アブラハムの胤によって地の全家族が必ず自らを祝福するという神の約束を忘れていました。(創世記 22:18)しかしラッセル兄弟は,神がその約束をどのように果たされるかということに深い関心を抱いていました。彼は,その約束が新しい契約と関連してどのように果たされるかに関するヒントはユダヤ人の贖罪の日に関する聖書の記述の中にあると考えました。1907年に,それらの契約が再び論じられた時には,アブラハム契約で予告されていた祝福を人類にもたらすためにキリストの共同相続人の果たす役割が特に強調されたので,聖書研究者の一部から強い抗議の声が上がりました。

当時,問題となった事柄を明確に理解する上で幾つかの障害がありました。聖書研究者は,当時の生来のユダヤ人が神の目的に関連して占めていた立場をまだ正しく理解していませんでした。この障害は,民族としてのユダヤ人が神に用いられて預言的な言葉を成就することには無関心であるという事実が疑問の余地なく明らかになるまで,取り除かれませんでした。別の障害は,聖書研究者が啓示 7章9節と10節の「大群衆」の実体を正確に見分けることができなかったという点です。その実体は,預言の成就として大群衆が実際に姿を現わし始めるまで,明らかになりませんでした。ラッセル兄弟を厳しく批判した人たちは,こうした事柄も理解しませんでした。

しかし,クリスチャンの兄弟であると自称するある者たちは根も葉もない非難を行ない,「ものみの塔」誌はイエスが神と人の間の仲介者であることを否定したとか,同誌は贖いを否認し,贖罪の必要性と贖罪が行なわれたという事実を否定したなどと唱えました。こうした非難はすべて偽りでした。それでも,そのように非難した者たちの中には著名な人たちがおり,彼らは他の人を弟子として自分につかせました。彼らは新しい契約に関して幾つかの詳細な事柄を正しく教えたかもしれません。しかし,主は彼らの行なっている事柄を祝福されたでしょうか。彼らの中のある者たちはしばらくの間集会を開きましたが,やがて彼らのグループは消滅しました。

それとは対照的に,聖書研究者は,イエスが弟子たちに命じられたとおり,引き続き良いたよりの伝道に携わりました。同時に彼らは神の言葉を研究し続け,み言葉の意味に光を当てる事態の進展を見守り続けました。最終的には1930年代に,それらの契約に関する明確な理解の主要な障害は取り除かれ,その問題についての訂正された説明が「ものみの塔」誌や同種の出版物に掲載されました。 * それは,辛抱強く待っていた人たちに何と大きな喜びをもたらしたのでしょう。

彼らの期待は正しかったか

聖書研究者は幾度か,批評家たちにあざけられるような希望や期待を抱きました。とはいえ,そうした希望や期待すべての根底には,それら熱心なクリスチャンたちの強い願いがありました。それは,潰えることのない神の約束であると自分たちが考えた事柄の成就を見たいという願いでした。

彼らは霊感を受けた聖書の研究を通して,地のすべての国の民がアブラハムの胤によって祝福されるとエホバが約束しておられることを知っていました。(創世記 12:1-3; 22:15-18)彼らは,人の子が天的な王として全地を支配し,忠実な者たちの小さな群れが彼と共に王国を受けるため地から取られ,それらの者たちが王として千年間支配するという約束を神の言葉から理解しました。(ダニエル 7:13,14。ルカ 12:32。啓示 5:9,10; 14:1-5; 20:6)ある者たちのために天に場所を準備し,戻ってきて彼らを連れて行くというイエスの約束も知っていました。(ヨハネ 14:1-3)またメシアが自分の忠実な父祖の中からある者たちを選んで全地に君とするという約束も知っていました。(詩編 45:16)聖書が邪悪な古い事物の体制の終わりを予告していること,その終わりがハルマゲドンにおける全能者なる神の大いなる日の戦争と結びつけられていることも理解しました。(マタイ 24:3。啓示 16:14,16)地球が人の永遠の住みかとして創造され,地上に住む者たちが真の平和を享受し,完全な人間としてのイエスの犠牲に信仰を働かせるすべての人が楽園<パラダイス>でとこしえの命を楽しめる,ということを示す聖句に彼らは深い感銘を受けました。―イザヤ 2:4; 45:18。ルカ 23:42,43。ヨハネ 3:16

こうした事柄がいつどのように起こるのかと彼らが考えたのはごく自然なことでした。霊感を受けた聖書から手がかりが得られたでしょうか。

彼らは英国のクリストファー・ボーエンが初めて説明した,聖書に基づく年代計算を用いて,人類史の6,000年はすでに1873年に終わり,その後人類史は第7千年期に入っており,予告された千年期の黎明は近づいているに違いないと考えました。C・T・ラッセルが著した「千年期黎明」(後には「聖書研究」と呼ばれた)として知られる双書は,聖書研究者が聖書から理解している点に基づき,そうした事柄の意味に注意を引きました。

もう一つ,時の指標になり得るとみなされたのは,神が古代イスラエルにおいて50年ごとのヨベル,つまり免除の年に関して制定された取り決めに関連した事柄でした。ヨベルは,安息年で終わる7年の期間が7回続いた後に巡ってきました。ヨベルの年には,ヘブライ人の奴隷は解放され,売られていた相続所有地は返還されました。(レビ記 25:8-10)この周期に基づいて計算した結果,全地の大いなるヨベルは恐らく1874年の秋に始まり,主はその年に帰還して目に見えない様で臨在しているものと思われ,「万物の革新の時」は既に到来しているという結論に達しました。―使徒 3:19-21,欽定。

さらに彼らは,1世紀の出来事と後代の関連した出来事には類似点があるという前提に立って,もし西暦29年秋のイエスのバプテスマと油そそぎが,1874年の目に見えない臨在の始まりと類似しているのであれば,西暦33年春にイエスが王としてエルサレムに入城されたことは,1878年の春にイエスが天的な王として権力を執られることを指し示していると結論しました。 * 彼らはまた,その時自分たちは天的な報いを受けると考えました。そのようにならなかった時,彼らは,油そそがれたイエスの追随者たちは彼と共に王国を受けることになっているので,すでに死んで眠っている人たちが霊の命へ復活することはその時に始まった,と結論しました。さらに,生来のイスラエルに対する神の特別な恵みが西暦36年に終わったことは,霊的なイスラエルの一員になる特別な機会が閉ざされる時として1881年を指し示しているのかもしれない,という説明も行なわれました。 *

1920年3月21日にJ・F・ラザフォードがニューヨーク市のヒポドロームで行なった「現存する万民は決して死することなし」という講演の中で,1925年に注意が向けられました。どんな根拠に基づいて,その年が重要な年と考えられたのでしょうか。同じ1920年に出版された小冊子は,もし(バビロン捕囚前の最後の予型的なヨベルの終わりから数え始めて,50番目の周期の終わりに当たるヨベルの年の初めまでを数える代わりに)イスラエルが約束の地に入った年と考えられていた年からヨベルを完全に70回計算すると,1925年を指し示し得ると説明しました。その小冊子の説明に基づき,多くの人は小さな群れの残っている者たちが1925年までに天的な報いを受けるかもしれないと考えました。その年も,キリスト教以前の神の忠実な僕たちが天の王国の君なる代表者として地上で奉仕するために復活させられるという期待と結びつけられました。もし実際そのとおりになるなら,人類は死がもはや主人ではない時代に入り,当時現存した万民は決して地上から死に絶えないという希望を抱けるはずでした。何と喜ばしい見込みなのでしょう。その期待は間違っていましたが,彼らは熱心にその見込みを他の人に知らせました。

その後,1935年から1944年の間に聖書に基づく年代計算の全体的な枠組みを見直した結果,欽定訳聖書の使徒 13章19節と20節の不十分な訳 *と他の幾つかの要素のために年代計算が100年以上狂っていたことが明らかになりました。 * そのため,後に,人類史の第7千年期は1975年に始まるので,キリストの千年統治の始まりに付随する出来事はその年に生じ始めるかもしれないという考えが,時には一つの可能性として,時にはそれよりも断定的な調子で語られました。

これらの事柄に関するエホバの証人の信条の正しさは実証されたでしょうか。神はご自分が約束された事柄を必ず果たされるという彼らの信仰は決して誤っていませんでした。しかし,彼らの年代計算の幾つか,また彼らがそれらの年代計算と結びつけた期待は大きな失望をもたらしました。

1925年以降,フランスとスイスの幾つかの会衆では集会の出席者数が激減しました。1975年にも,千年統治の始まりに関する期待は実現せず,失望感をもたらしました。その結果,ある人たちは組織を去りました。仲間の信仰を覆そうとしたために排斥された人たちもいました。年代に関する失望が一つの要素となったことは確かですが,場合によっては根はもっと深いところにありました。ある人たちは,家から家の宣教に携わる必要はないと唱えたのです。ある人たちは独自の道を行くことを選んだだけでなく,それまで交わっていた組織に敵対して攻撃を加えるようになり,一般の新聞やテレビを使って自分たちの考えを広めました。とはいえ,組織を離れた人の数は比較的少数でした。

こうした試みは人々をふるい分けることになり,ある人たちは小麦をあおり分ける際のもみがらのように吹き飛ばされましたが,確固たる立場を保った人たちもいました。なぜでしょうか。ジュルズ・フェラーは自分と他の人たちが1925年に経験した事柄について,「エホバに信頼を置いていた人たちは動揺せず,伝道活動を続けました」と説明しました。彼らは,間違いがあったこと,しかし決して神の言葉が果たされなかったわけではないことを認めました。ですから,彼らの希望を弱めるべき理由も,人類の唯一の希望である神の王国に人々の注意を向ける業の速度を鈍らせるべき理由もありませんでした。

幾つかの期待が実現しなかったとはいえ,聖書に基づく年代計算に何の価値もなかったわけではありませんでした。ダニエルが記録した,「エルサレムを修復して建て直せという言葉が発せられて」から69週年後にメシアが登場することに関する預言は,まさに時間どおりに,西暦29年に成就しました。 *ダニエル 9:24-27)1914年という年も聖書預言によって指し示されていました。

1914年 ― 期待と現実

1876年,C・T・ラッセルは,イエス・キリストが言及された異邦人の時の終わりとして1914年を指摘する数多くの記事の最初のものを書きました。(ルカ 21:24,欽定)1889年に出版された「千年期黎明」の第2巻の中でラッセル兄弟は,読者が内容の聖書的根拠を理解し,自分でそれを吟味できるような詳細な事柄を論理的に説明しました。1914年までの40年近い期間中,聖書研究者は異邦人の時の終わりに注意を向ける出版物を大量に配布しました。1914年を指し示す聖書に基づく年代計算に注目した宗教的印刷物がほかにも少数あったとはいえ,聖書研究者以外のどの団体がそれを国際的に継続して宣伝し,異邦人の時がその年に終わるという信仰を反映した生活を送っていたでしょうか。

1914年が近づくにつれ,期待が高まりました。その年にはどんな意味があるのでしょうか。ラッセル兄弟は「聖書研究者月刊」(第6巻,1号,1914年初めに発行された)にこう書きました。「もし我々が正確な年代と年代計算を有しているのであれば,異邦人の時は今年,すなわち1914年に終了する。それにどんな意味があるのか。確かなことは分からない。我々は,異邦人に権力が与えられている期間の終わりごろにメシアの積極的な支配が始まると期待している。真偽のほどは定かではないが,我々は,すべての不義に対する神の裁きのすばらしい表明があり,それが,全部ではないとしても現在の多くの制度の解体を意味するものと期待している」。彼は,1914年に「世の終わり」が来ると期待してはいないこと,地球が永遠に存続すること,しかしサタンを支配者とする現在の事物の秩序が過ぎ去ることを強調しました。

「ものみの塔」誌(英文),1913年10月15日号はこう述べました。「我々が行ない得る最も正確な年代計算によれば,その時は ― 1914年10月であろうと,それ以後であろうと ― 近いのである。我々は独断的になることなく,幾つかの出来事,つまり(1)異邦人の時 ― 異邦人が世の覇権を握ること ― の終結と(2)世におけるメシアの王国の創立を待ち受けている」。

どのようにしてそうなるのでしょうか。そうしたことが生じる時に,キリストと共に天の王国を受けるよう神によって選ばれ,まだ地上にいるどんな人も栄光を受けるということは,当時の聖書研究者にとって理にかなっているように思えました。しかし,1914年にそのようなことが起きなかった時,彼らはどう感じたでしょうか。「ものみの塔」誌(英文),1916年4月15日号は,「我々はその年代が全く正しかったと信じている。また,異邦人の時はすでに終わったと信じている」と述べました。しかし,同誌は率直に,「主は教会がすべて1914年までに栄光を受けるとは言われなかった。我々がそう推測しただけであり,明らかにそれは間違いであった」と付け加えました。

この点で,彼らはイエスの使徒たちに幾分似ていました。使徒たちは自分たちが神の王国に関する預言を信じていると思い込んでいました。しかし,様々な時に,そうした預言がいつどのように成就するかに関して間違った期待を抱き,その結果,ある者は失望を感じました。―ルカ 19:11; 24:19-24。使徒 1:6

期待された天的な命への移行が生じないまま1914年10月が過ぎた時,ラッセル兄弟はこれから人々が心を真剣に探るようになることを察知しました。彼は「ものみの塔」誌(英文),1914年11月1日号にこう書きました。「我々は試みの時期にいるということを忘れてはならない。使徒たちも我らの主の死からペンテコステまでの期間に同様の時期を経験した。主は復活後,弟子たちに数回現われたが,その後弟子たちは何日も主に会わなかった。それで彼らは落胆し,『待っていても仕方がない』と言うようになった。一人が『私は漁に行く』と言うと,他の二人は『我々も共に行く』と言った。彼らは漁業を始めようとしていたのである。そして,をすなどる業から離れかけていた。当時は弟子たちにとって試みの時だった。同様に,現在も試みの時である。何らかの理由で主とその真理を手放し,主のために犠牲をささげることをやめる人がいるとすれば,主に対する関心を引き起こしたのは,純粋に心の中に生じた神への愛ではなく,何かほかの事柄,恐らく,時は短く,聖別は限られた期間だけのものであるという期待であったに違いない」。

ある人たちの場合は実際にそうだったようです。彼らの考えと願いはおもに天的な命への移行という見込みに向けられていました。それが期待どおりの時期に起こらなかったとき,彼らは1914年に実際に生じた驚くべき事柄の意味に対して思いを閉ざしました。彼らは神の言葉から学んだ貴重な真理すべてを見失い,彼らがそれを学ぶよう助けてくれた人々をあざけり始めました。

聖書研究者は謙遜にもう一度聖書を調べ,神の言葉によって自分たちの見方が調整されるようにしました。異邦人の時が1914年に終わったという確信は変わりませんでした。彼らは,メシアの王国が立てられた時のいきさつ ― 王国はエホバがみ子イエス・キリストに権威を授けられた時,天に設立されたこと,また,イエスの共同相続人が天的な命へよみがえらされるまで王国の設立を延期する必要はなく,むしろ共同相続人は後に栄光を受けてイエスと共になること ― を徐々に一層明確に理解するようになりました。さらに彼らは,王国の影響力を行き渡らせるために昔の忠実な預言者たちを最初に復活させなくてもよいこと,しかし王は王国の地上の臣民として永遠に生きる機会をすべての国の民に与えるため,今生きている忠節なクリスチャンたちをご自分の代表者としてお用いになることも理解するようになりました。

この壮大な見込みが彼らの眼前に開かれた結果,一層の試みとふるい分けが行なわれました。しかし,心からエホバを愛し,エホバに仕えることを喜びとする人たちは,自分たちに対して開かれた奉仕の特権を深く感謝しました。―啓示 3:7,8

その中にA・H・マクミランがいました。彼は後にこう書きました。「天に召されるという私たちの期待は1914年には実現しませんでしたが,異邦人の時は確かにその年に終わりました。……私たちは,期待していたことが一つ残らず起きたわけではないからといって,特に動揺はしませんでした。写真劇の仕事や,戦争に伴って生じた色々な問題で多忙を極めていたからです」。彼は忙しくエホバに仕え続け,生涯中に王国をふれ告げる人々の数が100万人を優に超えるまで増加するのを見て感動を味わいました。

彼は組織と共に歩んだ66年間の経験を振り返り,「私は多くの厳しい試練が組織の上に臨み,その中の人々が信仰の試みを受けるのを見てきました。組織は神の霊の助けによってそれに耐え抜き,繁栄を続けました」と述べました。そして,その間に加えられた理解に関する調整について,こう付け加えました。「私たちが聖書から学んだ基本的な真理は変わりませんでした。それで私は,自分たちの間違いを認め,より多くの啓発を求めて神の言葉を探究し続けるべきことを学びました。時折自分たちの見方にどんな調整を加えなければならないとしても,慈しみ深い贖いの備えと,とこしえの命に関する神の約束が変わることはありません」。

マクミラン兄弟は生涯を通じて,信仰の試みを生じさせた幾つかの論争点の中の二つ,つまり喜んで証言する態度と神権組織に対する感謝という二つのものが各人の心の中に実際にあるものを明らかにさせるのを見てきました。どのようにでしょうか。

野外奉仕と組織が論争点となる

「シオンのものみの塔」誌はその創刊号から,真理を他の人に伝えるよう個々の真のクリスチャン全員に勧め,その後その点を一層大いに強調しました。その後,「ものみの塔」誌の読者に対して,他の人に良いたよりをふれ告げる特権と責任を認識することが何度も勧められました。多くの人は限られた仕方で業に携わりましたが,比較的少数の人たちは業の最前線に立ち,王国の音信を聞く機会をすべての人に差し伸べるため戸別訪問を行ないました。

しかし,1919年以降,野外奉仕に参加することが一層強力に前面に押し出されました。その年ラザフォード兄弟は,オハイオ州シーダーポイントで行なった話の中で野外奉仕を力強く強調しました。奉仕のために組織されることを協会に要請した各会衆には,業を世話するために協会から任命された奉仕の主事の取り決めが設けられました。奉仕の主事は自ら率先し,会衆が必要な物の在庫を保持できるよう取り計らうことになっていました。

1922年,「ものみの塔」誌は「奉仕は不可欠」と題する記事を掲載しました。その記事は人々が王国の良いたよりを緊急に聞かねばならないことを指摘し,マタイ 24章14節にあるイエスの預言的な命令に注意を向け,会衆の長老たちに対してこう述べました。「だれも,自分はクラスの長老だから自分の奉仕は口頭で宣べ伝えることに限られると考えてはならない。人々のもとへ行って,印刷された音信を彼らに手渡す機会が長老たちに開かれたなら,それは大きな特権であり,福音の伝道であり,多くの場合他のどんな伝道方法よりも効果的である」。次いでその記事は,「主のために本当に聖別された人であるなら,この時代に自分が怠惰であることを正当化できるだろうか」と問いかけました。

ある人たちはしりごみしました。彼らはありとあらゆる異論を唱えました。彼らは「本を売る」ことはふさわしくないと考えました。業は営利目的で行なわれていたわけではなく,また彼らもその同じ出版物を通して神の王国に関する真理を学んだにもかかわらず,彼らはそう考えたのです。1926年以降,日曜日に書籍を携えて行なう家から家の証言が勧められると,日曜日は多くの人が習慣的に崇拝のために取り分けている日であるのに,ある人たちは異議を唱えました。根本的な問題は,彼らが家から家の伝道は自分たちの沽券にかかわると考えたことでした。しかし聖書は,イエスが弟子たちを人々の家に遣わして伝道させたことや,使徒パウロが「公にも家から家にも」伝道したことをはっきり述べています。―使徒 20:20。マタイ 10:5-14

野外奉仕が一層強調されるようになると,証人としてイエスや使徒たちに見倣うよう心を動かされなかった人たちは次第に組織から離れて行きました。デンマークのスキーバ会衆や他の幾つかの会衆の人数は半分ほどに減少しました。アイルランドのダブリン会衆に交わっていた100人ほどの人たちのうち,残ったのは4人だけでした。米国,カナダ,ノルウェーなどの国でも同様の試みとふるい分けが生じ,その結果,諸会衆は清められました。

神のみ子に見倣う者になりたいと心から願う人々は聖書からの励ましに快くこたえ応じました。とはいえ,進んで物事を行なう態度があっても,戸別訪問を始めることは必ずしも容易ではありませんでした。ある人たちは当初かなり苦労しました。しかし,グループでの証言や特別奉仕大会の取り決めが励ましとなりました。デンマークのユトランド北部に住む二人の姉妹にとって,初めて野外奉仕に出かけた日のことは忘れ難い思い出になりました。二人はグループと落ち合い,指示を聞いてから自分たちの区域に向かいましたが,泣き出してしまいました。兄弟たちの中の二人がその様子を見て,一緒に奉仕するよう招いてくれ,すぐに姉妹たちは元気を取り戻しました。ほとんどの人は一度野外奉仕を経験すると,喜びに満たされ,もっと奉仕したいという熱意を抱きました。

その後1932年に,「エホバの組織」と題する2部から成る記事が「ものみの塔」誌(英文の8月15日号と9月1日号)に掲載されました。その記事は,会衆の長老の職を選挙によって決定するのは聖書的でないことを示しました。諸会衆は,責任ある立場には野外奉仕を活発に行なっている男子,エホバの証人という名称に含まれる責任にふさわしい生き方をしている男子だけを用いるよう勧められました。それらの男子は奉仕委員会を構成することになっており,そのうちの一人が会衆の推薦を受け,協会によって奉仕の主事に任命されました。その結果,アイルランドのベルファストでは,謙遜に奉仕することよりも個人的な名声を得ることを願う人々がさらに大勢ふるい分けられました。

1930年代の初めまでに,ドイツで野外奉仕の勢いを弱めようとしていた人たちの大半が会衆を去りました。また,1933年にドイツの多くの州で業が禁令下に置かれた時,ある人たちは恐れを抱いて去って行きました。しかし,非常に大勢の人たちはそうした信仰の試みを耐え忍び,いかなる危険が伴おうとも喜んで伝道する者であることを示しました。

王国をふれ告げる業に世界中で弾みがつきました。野外奉仕はすべてのエホバの証人にとって生活の重要な部分となりました。例えば,ノルウェーのオスロの会衆は,伝道者たちを近くの都市に運ぶため週末に何台かのバスを借りました。伝道者たちは朝早く集合し,9時か10時には区域に着いて7時間から8時間熱心に野外奉仕を行なった後,一緒にバスに乗って帰途につきました。またある人たちは,本を入れた鞄と補充用の文書を詰め込んだカートンを携え,自転車で田舎に出かけて行きました。エホバの証人は喜んで熱心に一致して神のご意志を行ないました。

1938年,会衆内の責任ある男子の任命に再び注意が向けられた時, * 地元で僕たちを選挙するという方法の撤廃は一般的に歓迎されました。諸会衆は喜んで決議を採択しました。それらの決議は,神権組織に対する認識を示すものであり,会衆を奉仕のために組織してすべての僕を任命するよう「協会」(油そそがれた残りの者,つまり忠実で思慮深い奴隷を意味すると理解されていた)に要請する内容でした。その後,目に見える統治体は,必要な任命を行ない,一致した産出的な活動のために諸会衆を組織する仕事に取りかかりました。その時にしりごみして組織を去ったグループはごくわずかでした。

王国の音信を広める業に全く専心する

組織が引き続きエホバの是認を得るためには,現代に関してみ言葉が命じている業に全く専心することが必要でした。その業とは,神の王国の良いたよりを宣べ伝える業です。(マタイ 24:14)しかし,まれなこととはいえ,ある人たちは組織と協力して一生懸命奉仕する一方,仲間たちの注意を他の活動にそらせがちな計画を推進するために組織を用いようとしました。叱責が与えられた時,とりわけ自分たちの動機は高潔なものだと考えていた場合,彼らは試みられました。

そうした事態が1915年にフィンランドで生じました。ある兄弟たちがアララトという共同組合を設立し,フィンランド語版の「ものみの塔」誌の誌面を用いて,この事業組合に加入するよう読者に勧めたのです。フィンランドでこの活動を創始した人は,その人とその仲間たちが「重要な福音の業から連れ去られる」ままになっているとラッセル兄弟から指摘された時,謙遜にこたえ応じました。しかし,それまで10年余りの間ノルウェーでエホバに活発に仕えてきた別の兄弟は誇りに妨げられ,同じ助言を受け入れることができませんでした。

1930年代,米国でも似たような問題が生じました。かなりの会衆が独自の奉仕の指示書を毎月発行していました。その内容は協会の「会報」に関するメモ,経験,地元の奉仕の取り決めの予定などでした。その中の一つ,メリーランド州ボルチモアで発行されたものは伝道活動を熱心に支持していましたが,同時にある種の投機的事業を推進するためにも用いられました。当初ラザフォード兄弟はそうしたものの幾つかを黙認していました。しかし,そうした投機的事業に巻き込まれることによって生じ得る結果が明らかになった時,協会はそうした事業を支持しないということが「ものみの塔」誌上で述べられました。これはアントン・ケーバーにとって厳しい個人的な試みとなりました。彼はその方法を用いて兄弟たちを経済的に援助しようと考えていたからです。しかしやがて彼は,エホバの証人が行なっている宣べ伝える業を促進するために,自分の能力を再び十分に活用するようになりました。

それと関連した問題が1938年以降オーストラリアでも生じ,協会に禁令が課された期間中(1941年1月から1943年6月まで)に拡大しました。オーストラリアの協会の支部事務所は,当時是非とも必要であるとみなされた事柄を賄うため様々な商業活動に直接関与し,その結果大きな過ちを犯しました。支部は幾つかの製材所,20以上の“王国農場”,設計会社,パン屋などでの事業を行ない,禁令期間中には二つの営利的な印刷所が協会の出版物を引き続き生産するための隠れみのとなりました。しかし,そのように事業を経営したため兄弟たちがクリスチャンの中立を犯す事柄に巻き込まれたことがありました。禁令期間中に資金を備え,開拓者たちを援助するという名目で仕事が行なわれていたとはいえ,ある人たちは良心をひどくかき乱されました。大半の人は組織にとどまりましたが,全般的に王国宣明の業は停滞しました。何がエホバからの祝福を妨げていたのでしょうか。

1943年6月,業に対する禁令が解除された時,当時の支部事務所の兄弟たちは,肝要な王国伝道に注意を集中するためそうした事業を処分すべきであることを認めました。処分は3年間で完了し,ベテル家族は通常の規模に削減されました。しかし,雰囲気を一新して組織に対する全幅の信頼を回復することが,まだ必要でした。

1947年,特にそうした事態を処理するため,協会の会長ネイサン・H・ノアと彼の秘書M・G・ヘンシェルがオーストラリアを訪問しました。「ものみの塔」誌(英文),1947年6月1日号はその件に関する報告の中で,なされていた商業活動についてこう述べました。「関係していたのは,兄弟たちが生計を立てるために携わる毎日の世俗の仕事ではなかったが,協会の支部事務所が様々な事業を手に入れ,福音を宣べ伝えるよりむしろそれらの事業で働くよう,同国の各地から伝道者,特に開拓者たちを呼び集めたのは事実である」。その結果,戦争のための努力に間接的にかかわることさえありました。オーストラリアの各州都で開かれた大会で,ノア兄弟は事態について兄弟たちに率直に話しました。それぞれの大会で決議が採択され,その決議の中でオーストラリアの兄弟たちは自らの間違いを認め,イエス・キリストを通してエホバに憐れみと許しを願い求めました。このように,組織が神の王国の音信を広める業に全く専心し続けるためには,警戒が求められ,幾つかの試みも生じてきました。

エホバの証人は自分たちの現代の歴史を振り返るとき,エホバが確かにご自分の民を精錬してこられた証拠を目にします。(マラキ 3:1-3)間違った態度や信条や慣行は徐々に取り除かれ,そうしたものに固執する道を選ぶ人も同様に取り除かれてきました。残った人たちは,人間の哲学に合わせるために好んで聖書の真理を曲げるような人々ではありません。彼らは人間の追随者ではなく,エホバ神の献身的な僕です。彼らは組織がエホバのものであることを示す紛れもない証拠を目にしているので,組織の導きに喜んでこたえ応じます。そして,前進する真理の光を歓びとします。(箴言 4:18)彼ら一人一人は,活発なエホバの証人,神の王国をふれ告げる人々であることを大きな特権とみなしています。

[脚注]

^ 13節 「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌,1894年4月25日増刊号,102-104ページ。

^ 22節 三位一体については,「新カトリック百科事典」,第14巻,1967年,299ページ; イエズス会のJ・L・マッケンジーによる「聖書辞典」,1965年,899ページ; 「新約聖書神学新国際辞典」,第2巻,1976年,84ページをご覧ください。魂については,「新カトリック百科事典」,第13巻,1967年,449,450,452,454ページ; 「新ウェストミンスター聖書辞典」,H・S・ゲーマン編,1970年,901ページ; 「解説者の聖書」,第1巻,1952年,230ページ; 「ピークの聖書注釈」,M・ブラックとH・H・ローリー共編,1962年,416ページをご覧ください。

^ 38節 ラッセル兄弟によると,後に彼のもとを去った妻が最初にマタイ 24章45節から47節を彼に適用しました。「ものみの塔」誌(英文),1906年7月15日号,215ページ; 1896年3月1日号,47ページ; 1896年6月15日号,139,140ページをご覧ください。

^ 60節 「証明」(英文),第2巻,258,259,268,269ページ。「ものみの塔」誌(英文),1934年4月1日号,99-106ページ; 1934年4月15日号,115-122ページ; 1935年8月1日号,227-237ページ。

^ 67節 エレミヤ 16章18節(『ヤコブの二倍の分』,欽定)が参照され,さらに年代計算によって,ヤコブの死から,生来のイスラエルが捨てられた西暦33年までに1,845年が経過したと思われることと,その期間を倍にする,つまり繰り返すと西暦33年から1878年に及ぶことが示され,1878年の重要性が裏づけられたとみなされました。

^ 67節 類似点をさらに敷衍し,西暦70年(イエスが王として弟子たちに歓呼して迎えられながらエルサレムに入城してから37年後)のエルサレムの荒廃は,1915年(1878年から37年後)に無政府主義的大変動が最高潮を迎えることを指し示しているかもしれないと説明されました。その大変動は現存する世の諸制度を終わりに至らせるための手段として神から黙認される,と彼らは考えていました。この年のことは「聖書研究」の再版に掲載されています。(第2巻,99-101,171,221,232,246,247ページをご覧ください。1914年の再版を,それより前の出版物である1902年版の「千年期黎明」などと比較してください。)こうした理解は,異邦人の時の終わりをしるし付ける年である1914年に関して既に公表されている事柄とよく合致していると考えられました。

^ 69節 J・B・ロザハムが翻訳した「エンファサイズド・バイブル」にある訳と比較してください。「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」の使徒 13:20の脚注もご覧ください。

^ 69節 「真理は汝らを自由にすべし」,11章; 「神の御国は近し」,171-175ページ; また「黄金時代」誌(英文),1935年3月27日号,391,412ページをご覧ください。これらの修正された聖書の年代表に照らしてみると,以前に用いられていた1873年および1878年という年代や,1世紀の出来事との類似点に基づいてこれらの年代から算出された関連する年代は,間違った理解に基づいていることが分かりました。

^ 73節 「聖書に対する洞察」(英文),第2巻,899-904ページをご覧ください。

^ 97節 15章,「組織の構造の発展」をご覧ください。

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試みとふるい分けが生じたことは驚くには当たらない

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「それらの人は……主の言葉からそらされることを拒む」

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『我々は,我々自身や我々の著作に対する賛辞や崇敬を求めてはいない』

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『神は依然として実権を執っておられる』

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「忠実にして智き僕」は,ラッセル兄弟が亡くなった時に消滅したわけではない

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他の人の思いを毒そうとする,悪意ある企て

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ある人たちは,誇りによって自分の信仰が損なわれることを許した

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『分裂をもたらす人たちに目を留め,その人たちを避けなさい』

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ある者たちは,「ものみの塔」誌が贖いを否認したという根も葉もない非難を行なった

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「我々がそう推測しただけであり,明らかにそれは間違いであった」

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心からエホバを愛する人たちは,自分たちに対して開かれた奉仕の特権を感謝した

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「主のために本当に聖別された人であるなら,この時代に自分が怠惰であることを正当化できるだろうか」

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間違った態度や信条や慣行は徐々に取り除かれた

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W・E・バン・アンバーグ

1916年に,W・E・バン・アンバーグは,「この世界的な大きな業は一人の人の業ではありません。……それは神の業です」と述べました。彼は他の人たちが去って行くのを見ましたが,こうした確信を抱いて,1947年に83歳で亡くなるまでずっと確固とした立場を保ちました。

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ジュルズ・フェラー

若いころ,ジュルズ・フェラーは信仰の厳しい試みを目にしました。スイスの幾つかの会衆の人数は以前の半分以下になってしまいました。後に彼は,「エホバに信頼を置いていた人たちは動揺せず,伝道活動を続けました」と書きました。フェラー兄弟も同じ決意を抱き,その結果,1992年の時点で68年間ベテル奉仕を楽しんできました。

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C・J・ウッドワース

イエス・キリストの油そそがれた追随者たちが1914年に天に召されなかったためエホバへの奉仕を捨てたある人に,C・J・ウッドワースは次のような手紙を書き送りました。

「20年前,君もわたしも幼児洗礼を信じていた。そして,その洗礼を施す権利が神から僧職者に与えられていること,とこしえの責め苦を免れるには洗礼が必要であること,神が愛であられること,神がご自分と似た様の幾十億人もの人間に命を与え続けてこられたことを信じてきた。その人間は息のつまるような燃える硫黄の煙の中で,苦悶を和らげる1滴の水をむなしく懇願しながら,とこしえにわたって果てしない時を過ごすのである……

「わたしたちは,人間が死後も生きていることを信じていた。そして,イエス・キリストは一度も死なれたことがなく,死なれるはずがないこと,過去にも将来にも贖いは決して支払われないこと,エホバ神とみ子キリスト・イエスはひとりであって,同一の方であること,キリストは彼自身の父であり,イエスは彼自身の子であり,聖霊は一つの位格であり,1たす1たす1は1であること,イエスが十字架に掛けられ,『わが神,わが神,なんぞ我を見捨てたまいし』と言われた時,彼は単に独り言を言っておられたにすぎないこと……現在の諸王国はキリストの王国の一部分であること,悪魔はこの地の諸王国に対して支配権をふるっているのではなく,所在不明の地獄のどこかに追い払われていること……を信じていた……

「わたしは,我が家の戸口に現在の真理が届いた日に関して神をたたえる。その真理は全く健全であり,思いと心を本当にさわやかにしてくれたので,わたしは過去の虚偽やまやかしをすぐに捨てた。そして,君の閉ざされた目も開くため神に用いていただいた。わたしたちは共に真理を歓びとし,一緒に15年間働いた。主は君を代弁者として大いに尊重された。君ほど見事にバビロンの愚かさを暴ける人はほかにいなかった。君からの手紙には,『次はどうなるのか』とある。ああ,全く残念だ。次に君は,愛ある労苦と天からの祝福によってわたしたち二人の心に真理を届けてくださった方に対して苦々しい心を抱いてしまったのだ。君は去り,数人の羊も連れていってしまった。……

「わたしは1914年10月1日に天へ行かなかったので,君はわたしのことをばかげていると思うかもしれない。でも,わたしは断じて君のことをばかげているとは思っていない。

「地の10の大国が断末魔の苦しみにもだえている今は特に,かの人物,つまり異邦人の時が1914年に終わることを40年にわたって教えてきた唯一の人間をあざけろうとすべき時ではないと思う」。

1914年に事態が期待どおりに進展しなかった時にも,ウッドワース兄弟の信仰は揺らぎませんでした。彼はただ,学ぶべき事柄がまだ残っていることを理解しました。彼は神の目的に対する確信のゆえに,1918年から1919年にかけて刑務所で9か月を過ごし,後に「黄金時代」誌と「慰め」誌の編集者として奉仕しました。そして,1951年に81歳で亡くなるまでずっと,確固たる信仰を抱き,エホバの組織に対して忠節でした。

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A・H・マクミラン

「私は,新しい考えに動揺する代わりに,聖書に関する事柄をエホバが明確に理解させてくださるのを辛抱強く待つのが知恵の道であることを見てきました。ある特定の年代に関して聖書が保証する以上の期待を抱いたこともありました。そうした期待が外れても,それによって神の目的が変わることはありませんでした」。

[620ページの図版]

信仰の大きな試みには,罪を贖うイエスの犠牲の価値を認めることが関係していた

[625ページの図版]

ラッセルを称賛したある人々は,ラザフォードの気質に対する自分たちの反応によって自分たちが実際にだれに仕えているかが明らかになるということに気づいた

[639ページの図版]

野外奉仕が一層強調されるようになると,多くの人が組織を離れたが,熱心さを一層示す人たちもいた

「ものみの塔」誌,1922年8月15日号

「ものみの塔」誌,1928年4月1日号

「ものみの塔」誌,1927年6月15日号

[640ページの図版]

神権組織が前面に押し出されるようになると,個人的な名声を求める者たちはふるい分けられた