「良いたよりを擁護して法的に確立する」
30章
「良いたよりを擁護して法的に確立する」
エホバの証人は厳しく迫害された結果,世界中で警官や判事や支配者の前に引き出されてきました。証人たちの関係する訴訟は膨大な数に上り,そのうちの数百件は上級裁判所に上訴されました。それが法律自体に及ぼした影響は大きく,また多くの場合,一般の人々の基本的な自由に関する法的保障が強化されました。しかし,そうしたことはエホバの証人の主要な目的ではありません。
証人たちの第一の願いは神の王国の良いたよりをふれ告げることです。彼らが訴訟を起こすのは,彼らが社会運動家や法律改正論者だからではありません。彼らの目的は使徒パウロの場合と同じく,「良いたよりを擁護して法的に確立する」ことです。(フィリピ 1:7)証人たちの要請に応じてであれ,彼らがクリスチャンの活動ゆえに身柄を拘束されているためであれ,政府当局者の前で行なわれる審理や尋問も証言の機会とみなされています。イエス・キリストは追随者に,「あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです」と言われました。―マタイ 10:18。
国際的に訴訟が続発する
第一次世界大戦よりずっと前に,僧職者は地元の当局者に圧力をかけ,自分たちの地域で聖書研究者が文書を配布するのを阻止しようとしました。とはいえ第一次世界大戦後になると反対は激しさを増しました。証しのため神の王国の良いたよりを宣べ伝えるようにというキリストの預言的な命令に従おうとする人々は,次々に多くの国でありとあらゆる法的な障害に直面しました。―マタイ 24:14。
1922年,聖書研究者は聖書預言の成就を示す証拠によって鼓舞され,オハイオ州シーダーポイントで開かれた大会を後にしました。彼らは,異邦人の時が満ちたことと,主が大いなる力を執り,王として天から支配しておられることを世界に知らせようと決意していました。「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」というのが彼らのスローガンでした。同じ年,ドイツの僧職者は警察を唆し,聖書文書を配布している幾人かの聖書研究者を逮捕させました。これは例外的な事件ではありませんでした。1926年までに,897件のそうした事件がドイツの法廷で係争中だったのです。あまりに多くの訴訟が関係したので,1926年,
ものみの塔協会はマクデブルクの支部事務所に法律部門を設けなければなりませんでした。1928年には聖書研究者に対する訴訟がドイツだけで1,660件起こされ,圧力は年を追うごとに強まってゆきました。僧職者は聖書研究者の業をやめさせる決意を固め,どの法廷でも自分たちにとってある程度有利な判決が得られたので喜びました。米国では,1928年,ニュージャージー州サウスアンボイにおいて聖書研究者が戸別伝道のかどで逮捕されました。10年以内に,米国における宣教に関連した逮捕件数は毎年500件を超えるようになり,1936年にはその数が急激に増加し,1,149件に達しました。必要な助言を与えるため,協会の本部にも法律部門を設けることが必要になりました。
同様にルーマニアでの徹底的な伝道活動も,当時政権の座にあった当局者から厳しい妨害を受けました。聖書文書を配布したエホバの証人はたいてい逮捕され,ひどく殴られました。1933年から1939年までの間に,ルーマニアの証人たちに対して530件の訴訟が起こされました。しかし,同国の法律には自由の保障が規定されていたので,ルーマニア高等法院に上訴した結果,数多くの有利な判決が得られました。警察はそのことを悟ると,文書を押収したり,証人たちを虐待したりはしても,訴訟は避けようとしました。協会がついにルーマニアの法人団体としての登録を認められた後,反対者たちは,ものみの塔の文書の配布を禁じる法廷命令を取りつけてこの法的な登録の目的をくじこうとしました。この
裁定は上級裁判所で覆されましたが,僧職者はその判決に反対する行動をとるよう宗教関係の大臣に勧めました。ルーマニアと同様,イタリアやハンガリーでも当時支配していた政府のもとで,証人たちの用いる聖書文書が警察に押収されました。同じことが日本や朝鮮や黄金海岸(現在はガーナと呼ばれる)でも生じました。外国からフランスにやって来たエホバの証人は国外退去命令を受けました。長年の間,エホバの証人は一人も,神の王国について宣べ伝えるためソ連に入国することを許可されませんでした。
1933年から1940年代にかけて熱狂的な国家主義の嵐が世界中で吹き荒れると,次々に多くの国で,政府による禁令がエホバの証人に課されました。その時期に非常に多くの証人たちが,自らの良心に基づいて国旗敬礼を拒否したり,クリスチャンの中立を固守したりしたために法廷に連れ出されました。1950年の報告によると,それ以前の15年間にエホバの証人は米国だけで1万件以上の逮捕を経験しました。
1946年には,短期間に400人を超える証人たちがギリシャの法廷に連れ出されましたが,それは同国において初めてのことではありませんでした。そうしたことは既に何年も続いていたのです。兄弟たちは投獄されただけでなく,重い罰金刑も科せられ,経済的に窮地に立たされました。しかし,彼らは自分たちの置かれた状況について考え,こう述べました。「主は証しの業がギリシャの当局者に達するよう道を開かれ,当局者は義の王国の設立について聞いた。裁判所の判事たちにも同じ機会が与えられた」。エホバの証人は,イエスが追随者たちの持つべき見方として述べられた通りのはっきりとした見方を持っていました。―ルカ 21:12,13。
勝ち目がないように思える闘い
1940年代と1950年代に,カナダのケベック州はまさに戦場と化しました。そこでは1924年以来,良いたよりを宣べ伝えたかどで人々が逮捕されていました。1931年の冬までには幾人かの証人たちが毎日,時には1日に2回も警察に逮捕されるようになり,カナダの証人たちのための法律関係の費用が大きな負担になりました。その後1947年の初めには,ケベック州のエホバの証人は小人数のグループに過ぎなかったにもかかわらず,同州の裁判所で係争中の証人たちに関する事件の合計は1,300件に達しました。
当時はローマ・カトリック教会が強大な影響力を持っていた時代で,同州の政治家や判事たちは皆その影響力を無視できませんでした。ケベック州では僧職者は一般に大いに尊敬されており,人々は地元の司祭の指示にすぐ従いました。「国家と救済」(1989年)という本は当時の状況をこう描写しています。「議会の議場内でケベックの枢機卿の席は副総督の席のすぐ隣にあった。いずれ
にせよケベックの大半は教会の直接的な支配下にあった。……実際のところ教会の使命は,ケベックの政治面での生活をローマ・カトリックの概念に合わせることであった。その概念においては,真理とはカトリック主義であり,誤りは何であれ非カトリック主義的なものであり,自由とはローマ・カトリックの真理を語り,実践することである」。人間的な観点から言うと,ケベックだけでなく世界のどこでも証人たちに勝ち目はなさそうでした。
ありとあらゆる罪名
エホバの証人の反対者たちは,証人たちの活動を停止させるためのありとあらゆる口実を見つけようとして,法律書を徹底的に調べました。彼らは頻繁に証人たちを無許可行商のかどで告発し,その業が営利目的のものであると主張しました。それに反して他の場所では,ある開拓者たちは有給の職を持っていないと言い立てられ,浮浪罪で告発されました。
スイスの幾つかの州の当局者は執ように何十年もの間,エホバの証人が行なう聖書文書の配布を営利目的の行商の部類に入れようとしました。特に,フランス語の話されるボー州の州検事は,下級裁判所が下した証人たちに有利な判決をすべて覆そうと決意していました。
次々と多くの場所で,エホバの証人は文書を配布したり聖書の集会を開いたりするのに許可を得るよう求められました。しかし,本当に許可が必要だったのでしょうか。証人たちは,「必要ない」と答えました。どんな根拠に基づいてそう答えたのでしょうか。
証人たちはこう説明しました。『エホバ神はご自分の証人たちに,神の王国の福音を宣べ伝えるよう命じられた。神の命令は至上のものであり,神の証人たちはその命令に従わねばならない。地のいかなる立法府や警察当局にもエホバの法を妨げる正当な権利はない。世のいかなる政権にも福音の伝道を禁ずる正当な権利がない以上,世のそうした権威や権力が福音の伝道に許可を与えることはできない。いずれにせよ世の権力者にはこの点で何の権威もない。神が命じられた事柄を行なうための許可を人間に求めるのは,神に対する侮辱である』。
いない場所,つまり煉獄から死者を解放すると唱えて人々の金銭を不正に搾り取っていること,またカトリック教会は煉獄の存在を証明できないことが記されている,と論じました。
証人たちに対する告発は,多くの場合,宗教上の敵意を如実に物語るものでした。例えば,“Face the Facts”(「事実を見よ」)と“Cure”(「癒し」)という小冊子が配布された際,協会のオランダ支部の監督は,オランダ人民のあるグループを侮辱したという告発に対して答弁するため,1939年ハールレムの裁判所への出頭を命じられました。検察官は一つの点として,ものみの塔の文書には,ローマ・カトリックの僧職者が死者の僧職者側の主要な証人であるアンリ・ド・フレーベ“神父”は証言台に立ち,「私が最も遺憾に思うのは,我々聖職者が悪党と詐欺師の一味にすぎないという印象を持たれるおそれがあることです」と嘆きました。協会の支部の監督は証言を求められるとカトリックの聖書を開き,カトリックの教えに関して小冊子に書かれている事柄がほかならぬカトリックの聖書と調和していることを示しました。次いで,協会の弁護士がフレーベに地獄の火や煉獄の教理の正しさを証明できるかどうか尋ねると,フレーベは,「私は証明できません。ただ信じているだけです」と答えました。判事は,小冊子に書かれているとおりであることをすぐに理解しました。この件は却下され,当の司祭は憤慨し,急いで裁判所から出て行きました。
旧チェコスロバキアの東部でエホバの証人の活動が拡大すると,動揺した地元の僧職者は証人たちをスパイ容疑で告発しました。その時の状況は,使徒パウロが1世紀のユダヤ人の僧職者から暴動のかどで訴えられた時に遭遇した状況と似ていました。(使徒 24:5)1933年から1934年にかけて,告発に妥当な根拠が全くないことを政府が納得するまで,何百もの訴訟が起こされました。カナダのケベック州でも1930年代と1940年代に証人たちは,暴動を共謀したかどで法廷に連れ出されました。僧職者 ― カトリックとプロテスタント双方,しかし特にローマ・カトリックの僧職者 ― 自身もわざわざ出廷し,エホバの証人に不利な証言をしました。エホバの証人は何をしたのでしょうか。僧職者は,証人たちがローマ・カトリック教会に対する不満を引き起こしかねない物を出版することにより国家の一致を危険にさらしたと主張しました。しかし証人たちはそれに答え,自分たちが配布した文書は実際には謙遜な人々に神の言葉からの慰めをもたらすものであり,僧職者が憤ったのは非聖書的な教えや慣行が暴露されたからであると述べました。
エホバの証人がそうした執ような反対にもめげず活動を続けることができたのはなぜでしょうか。それは彼らが神と霊感を受けたみ言葉に信仰を抱き,エホバとその王国に無私の気持ちで専心し,神の霊の働きの結果である強さを持っていたからです。聖書が述べているとおり,『普通を超えたその力は神のものであり,わたしたち自身から出たものではありません』。―コリント第二 4:7。
エホバの証人は法律の舞台で攻勢に出る
第一次世界大戦前の何十年かの間,聖書研究者は教会の近くの通りや家々で広範に聖書文書を無償で配布していました。しかし当時,米国の多くの町や都市では,そうした「自発的な業」にとって大きな障害となる条例が可決されました。どうしたら良いでしょうか。
「ものみの塔」誌(英文),1919年12月15日号はこう説明しました。「主の王国を証しするためにあらゆる努力を払い,戸が閉ざされたからといって手を緩めたりしないことが我々の義務であると信じ,自発的な業に反対するそうした組織的な企てがあることを考慮して,……黄金時代という雑誌を用いる取り決めが設けられた」。 *
しかし,家から家の証言が一層徹底的に行なわれるようになるにつれて,そうした活動を制限あるいは禁止するために法律を適用しようとする試みも増えました。公式の反対に直面した少数派の自由を保障する法的規定がすべての国にあるわけではありません。しかし,エホバの証人は,アメリカ合衆国憲法が信教の自由,言論の自由,出版の自由を保障していることを知っていました。それで,判事たちが地元の条例を神の言葉の伝道を妨げるような仕方で解釈した時,証人たちは上級裁判所に上訴しました。 *
ものみの塔協会の法律問題に関して際立った役割を果たしたヘイドン・C・カビントンは,後に当時の様子を思い出しながらこう説明しました。「治安判事や警察裁判所や他の下級裁判所によって記録された非常に多くの有罪判決がもし上訴されなかったなら,山ほどの判例が積み上げられ,崇拝の分野での巨大な障害物となったことでしょう。私たちは上訴することにより,そうした障害物が立ちはだかることのないようにしてきました。私たちが不利な判決を不服として粘り強く上訴したゆえに,私たちの崇拝の方法は米国や他の国々の国法の中に書き記されるようになりました」。米国では幾十件もの訴訟が結局最高裁判所に持ち込まれました。
自由の保障を強化する
合衆国最高裁判所に持ち込まれたエホバの証人の宣教に関する最初の訴訟の一つは,元々ジョージア州で始まったものであり,1938年2月4日,最高裁判所で弁論が行なわれました。アルマ・ロベルはジョージア州グリフィンの市裁判所 *
の法廷において,市政担当者の許可なくいかなる文書も配布してはならないという条例に違反したかどで有罪判決を受けていました。とりわけロベル姉妹は人々に「黄金時代」誌を提供していました。1938年3月28日,合衆国最高裁判所は,その条例は出版の自由に対して許可と検閲の条件を課しているゆえに無効であるという判決を下しました。翌年,J・F・ラザフォードは最高裁判所で,クララ・シュナイダー対ニュージャージー州事件 *の原告側の弁護士として弁論を行ないました。次いで1940年にはキャントウェル対コネティカット州事件 *において,J・F・ラザフォードは準備書面を起草し,ヘイドン・カビントンが最高裁判所で口頭弁論を行ないました。これらの訴訟の肯定的な結果は,信教の自由,言論の自由,出版の自由に関する憲法上の保障を支持するものでした。しかし,事態は逆転しました。
裁判所による手ひどい打撃
エホバの証人の学童に関連した国旗敬礼の問題が初めて米国の裁判所に持ち込まれたのは,1935年,カールトン・B・ニコルズ[Carlton B. Nicholls]対(マサチューセッツ州)リン市長およびリン市教育委員会事件 *においてでした。この事件はマサチューセッツ州最高裁判所に提訴されました。1937年,同裁判所は,カールトン・ニコルズ・ジュニアとその両親が何を信じていると述べるかにかかわり なく,宗教信条を容認する必要はない,という判決を下しました。その理由として同裁判所は,「本件の国旗敬礼および忠誠の誓いはいかなる意味においても宗教とは無関係である。……それらは創造者に関するいかなる人の見方ともかかわりがない。その人と造り主との関係には影響を与えない」と述べました。国旗敬礼を義務づけることに関する問題が1937年にリオレス対ランダース事件 *で,そして1938年にもヘリング対州教育委員会事件 *で合衆国最高裁判所に上告されると,同裁判所は連邦として考慮すべき重大な問題点はないとして,それらの上告を棄却しました。1939年にも,最高裁判所はガブリエリ対ニッカーボッカー事件 *に関して,同じ問題に関係した上告を棄却しました。それと同じ日に同裁判所は,ジョンソン対ディアフィールド町事件 *に関して,口頭弁論を聞くことなく下級裁判所による不利な判決を支持しました。
ついに1940年,マイナーズビル学区対ゴバイティス[Gobitis]事件 *と呼ばれる訴訟に関して最高裁判所で十分な審理が行なわれました。そうそうたる弁護士たちが双方の準備書面を提出し,J・F・ラザフォードはウォルター・ゴバイタスとその子供たちのために口頭弁論を行ないました。ハーバード大学法学部に属するある人は米国法曹協会と自由人権協会を代表して,強制的な国旗敬礼に反対する弁論を行ないました。しかし二人の弁論は退けられ,6月3日,最高裁判所は,国旗に敬礼しようとしない子供を公立学校から放校できるという判決を下しました。反対票は1票だけでした。
その後3年間,最高裁判所は19の訴訟に関してエホバの証人に不利な判決を下しました。特に意義深いのは,1942年に下されたジョーンズ対オペライカ市事件 *に関する不利な判決です。ラスコー・ジョーンズは,アラバマ州オペライカの通りで許可税を払わずに文書を配布する活動に携わったかどで有罪となっていました。最高裁判所は有罪判決を支持し,政府には勧誘活動に妥当な料金を課す権利があり,地元の当局者が一方的に許可を取り消すことがあるとしても,そうした法律に異議を申し立てることはできないと述べました。これは手ひどい打撃となりました。今や,僧職者をはじめとする,証人たちに反対する者たちに扇動された地域社会は合法的に証人たちを締め出すことができ,そのようにしてエホバの証人の伝道活動を停止させ得るからです。反対者たちはそう考えたかもしれません。しかし,思わぬ事が起こりました。
形勢が一変する
エホバの証人の公の宣教にそのような打撃を加えたほかならぬジョーンズ対オペライカ事件の判決の際に,判事のうち3人は,自分たちがその事件に関して法廷の多数意見に同意しないだけでなく,ゴバイティス事件の際に今回の事件のための基礎を据えるよう助力したつもりであるとも述べました。そして,「我々はゴバイティス事件に関する意見に加わったゆえに,その件に関する判決も間違っていたと考えるに至ったことをこの機会に公言するのは妥当と思われる」と付け加えました。エホバの証人はそれをきっかけとして,問題を再び最高裁判所に提出しました。
ジョーンズ対オペライカ事件に関する再審理を求める申し立てがなされまし使徒 5:34-39。
た。その申し立ての中で,力強い法的な論議が提出されました。さらにその申し立ては,「裁判所は際立った事実,つまり自分たちが全能の神の僕たちを裁いているということを考慮に入れるべきである」と断言していました。その言葉の意味を示す聖書中の先例が取り上げられ,律法教師ガマリエルが1世紀のユダヤ人の最高法廷に対して述べた,「この人たちに手出しせず,彼らをほっておきなさい。……さもないと,あなた方は,実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません」という助言に注意が向けられました。―ついに1943年5月3日,画期的な訴訟であるマードック対ペンシルバニア州事件 *の際に,最高裁判所はジョーンズ対オペライカ事件に関する同裁判所の以前の判決を破棄しました。同裁判所は,宗教文書を配布することによって信教の自由を行使するための前提条件として許可税を課すことは憲法違反であると述べました。この事件は米国のエホバの証人に新たな機会の扉を開くものとなり,この時以来,何百もの訴訟において根拠として引き合いに出されてきました。1943年5月3日は合衆国最高裁判所での訴訟に関して,エホバの証人にとってまさに忘れ難い日となりました。その日,13件の訴訟(審理と裁判官による意見の便宜上,すべてが四つの判決にまとめられた)のうち12件に関して,同裁判所は証人たちに有利な判決を下したのです。 *
1か月ほど後 ― 国旗制定記念日の6月14日 ― 最高裁判所は,ウェスト・バージニア州教育委員会対バーネット事件 *と呼ばれる訴訟に際して再び自らの判決を破棄しました。今回破棄されたのはゴバイティス事件の判決でした。同裁判所は,「高官であろうが下級官吏であろうが,役人が政治,国家主義,宗教および他の見解上の問題において何が正統的であるかを規定したり,その点において信仰を言葉や 行動で告白するよう市民に強制したりすることはできない」という判決を下しました。バーネット事件の判決に関して述べられた論議の大半は,その後カナダのオンタリオ控訴裁判所でドナルド対ハミルトン教育委員会事件に関して採用され,カナダ最高裁判所はその事件の判決の破棄を拒否しました。
その同じ日,合衆国最高裁判所はバーネット事件の判決に沿って,テイラー対ミシシッピ州事件 *に関し,エホバの証人が国旗敬礼をしない理由を説明したり,すべての国は神の王国に反対しているので敗北を喫すると教えたりするからといって,扇動容疑で告発することは正当ではないという判決を下しました。これらの判決により,学校で国旗敬礼をしない子供の親である証人たちに関する訴訟,および雇用や子供の保護養育権に関する問題について,他の裁判所でも次々と有利な判決が下されるようになりました。形勢が全く一変してしまったのです。 *
ケベック州において自由の新時代の幕が切って落とされる
エホバの証人はカナダにおいても,崇拝の自由に関する論争を推し進めていました。1944年から1946年までの間に,ケベック州で何百人もの証人たちが公の宣教に携わっている時に逮捕されました。カナダの法律は崇拝の自由を規定していましたが,暴徒は聖書の討議が行なわれる集会を中断させ,警察はエホバの証人の活動を停止させるようにというカトリックの僧職者の要求に従いました。地元の市裁判官たちは証人たちにののしりの言葉を浴びせましたが,暴徒に対しては何の処置も取られませんでした。どうしたらよいのでしょう。
協会は1946年11月2日と3日にモントリオールで特別大会を開く取り決めを設けました。話し手たちは聖書から,そしてカナダの法律の見地からエホバの証人の立場を振り返りました。その後,“Quebec's Burning Hate for God and Christ and Freedom Is the Shame of All Canada”(「神とキリストと自由に対するケベックの燃える憎しみは,カナダ全体の恥」)と題するパンフレットを
カナダ全土で16日間にわたって配布する取り決めが発表されました。そのパンフレットは,ケベック州のエホバの証人に加えられた集団暴行や他の残虐行為を詳しく伝えるものでした。次いで,2番目のパンフレット,“Quebec, You Have Failed Your People!”(「ケベックは人々の期待を裏切った」)が配布されました。ケベックにおける逮捕件数は急増しました。事態に対処するため,ものみの塔協会のカナダ支部は法律部門を設け,トロントとモントリオールに代表者を置きました。ケベック州知事モーリス・デュプレシーは,エホバの証人であるフランク・ロンカレリが仲間の証人たちの保釈金を支払ったというだけの理由で彼のレストランの仕事を故意に台なしにしましたが,そのニュースが報道機関に伝わると,カナダの一般の人たちは声を大にして抗議しました。その後,1947年3月2日,エホバの証人は,政府に対する権利章典の請願に加わるようカナダの人々に勧める全国的な運動を開始し,50万を超える署名が集まりました。これはそれまでにカナダ議会に提出された請願の中で最大のものでした。次いで翌年,先の請願を強化するものとして,さらに大規模な請願が行なわれました。
その間,協会はカナダ最高裁判所に上訴するための二つのテストケースを選びました。その一つは,証人たちに対して繰り返しかけられてきた扇動の容疑を扱ったエメイ・ブーシェ対国王陛下事件でした。
ブーシェ事件は,温厚な農民であるエメイ・ブーシェが「ケベックの燃える憎しみ」のパンフレットの配布に際して果たした役割を根拠としていました。彼が,ケベックの証人たちに加えられた集団暴行や,証人たちを取り扱う当局者側が法律を無視していること,またカトリックの司教やカトリックの他の僧職者が集団暴行を唆していることを示す証拠などを人々に知らせたことは,扇動になるのでしょうか。
配布されたパンフレットを調べる際に,最高裁判所の判事の一人はこう述べました。「この文書は,『神とキリストと自由に対するケベックの燃える憎しみは,カナダ全体の恥』と題しており,まず,表題の裏づけとして取り上げられている事柄を平静さと理性をもって評価するようにという懇願が述べられている。次いで,ケベックでキリストにおける兄弟たちとしての証人たちに加えられた執念深い迫害に関する全般的な言及や,迫害の特定の事件に関する詳細な説明がある。そして,暴徒による支配とゲシュタポ式の策略に抗議しつつ,神の言葉の研究とみ言葉の命令に従うことによって『神とキリストと人間の自由に対する愛という良い実の豊かな収穫』が得られるようケベック州民に訴える言葉で結ばれている」。
同裁判所の判決はエメイ・ブーシェに対する有罪判決を破棄するものでした。しかし,5人の判事のうち3人は再審理を命じただけでした。この事件は下級
裁判所で公平な判決を受けられるのでしょうか。エホバの証人側の弁護士は,最高裁判所自らが事件を再審理するよう求める申し立てを行ないました。驚いたことに,その申し立ては認められました。申し立てが保留になっている間に,最高裁判所の判事が増員され,元からいた判事の一人も考えを変えました。その結果,1950年12月,5対4でブーシェ兄弟に完全無罪の判決が下りました。当初,この判決はケベック州の法務次官と知事(法務長官も兼ねていた)に無視されましたが,次第に裁判所によって強制されるようになりました。こうして,カナダのエホバの証人に対して繰り返し唱えられた扇動容疑は事実上葬り去られました。
もう一つのテストケース ― ロリエ・ソーミュール対ケベック市事件 ― もカナダ最高裁判所に上訴されました。この事件では,下級裁判所で下された多くの有罪判決と関係のある許可条例が争点となっていました。協会はソーミュール事件に関して,エホバの証人が行なう宗教文書の配布をケベック市当局者が妨害することのないよう,同市に対する終局的差止命令を求めていました。1953年10月6日に最高裁判所の判決が下り,エホバの証人は勝訴し,ケベック州は敗訴しました。この判決により,宗教上の自由に関する同じ原則が主要な要素となっている他の1,000ほどの訴訟においても勝利が得られました。こうして,ケベック州のエホバの証人の業にとって新時代の幕が切って落とされたのです。
法律上の権利と手続きに関する教育
1920年代の末以降,訴訟事件の数が増加すると,エホバの証人に法律上の手続きに関する教育を施すことが必要になりました。J・F・ラザフォードは弁護士であり,時には自ら判事を務めたこともありましたから,こうした点で証人たちに導きを与えることの必要性を認識していました。特に1926年以降,証人たちは,聖書を説明する本を用いて日曜日に行なう家から家の伝道を強調していました。聖書文書を日曜日に配布する業が反対を受けたので,ラザフォード兄弟は,米国の証人たちが法律によって認められている自分たちの権利を理解するよう助けるため,“Liberty to Preach”(「伝道する自由」)という小冊子を用意しました。とはいえ,彼は自ら法律関係の仕事をすべて行なうわけにはゆかなかったので,他の弁護士たちが協会の本部の奉仕者の一員として奉仕するよう取り決めました。それに加えて,米国各地にいる他の弁護士たちも密接に協力しました。
弁護士たちは,エホバの証人の伝道活動に関する何千
もの訴訟で出廷が求められる際,そのすべてに立ち会うことはできませんでしたが,貴重な助言を与えることができました。そうした助言を与えるために,法律上の基礎的な手続きについてエホバの証人全員を訓練する取り決めが設けられました。この訓練は,1932年に米国で開かれた特別大会で行なわれ,その後,諸会衆の奉仕会のプログラムで定期的に行なわれました。詳細な「裁判手続」がエホバの証人の「1933年の年鑑」(英文)に掲載され(後に別個の印刷物としても発行され)ました。そうした指示は状況に応じて調整され,「慰め」誌(英文),1937年11月3日号では,当時直面していた特定の事態に関する一層詳しい法律上の助言が与えられました。たいてい証人たちはこうした情報を用いて,地元の法廷で弁護士の助けを借りずに自ら弁護を行ないました。彼らは,そうするなら自分たちの事件が法律上の専門的な事柄だけに基づいて裁かれることなく,むしろ,しばしば法廷で証言を行なうことができ,問題点をはっきり判事に提示できるという点に気づきました。通常,不利な判決が下されると上訴が行なわれましたが,上訴裁判所では弁護士の働きが必要になるので,弁護士を雇う代わりに拘禁刑に服した証人たちもいました。
新たな事態が生じたり,裁判所の判決によって判例が設けられたりすると,証人たちが常に最新の情報に通じるよう一層多くの情報が提供されました。例えば1939年には,法廷で闘う兄弟たちを援助するため,“Advice for Kingdom Publishers”(「御国伝道者への助言」)という小冊子が発行されました。2年後には,“Jehovah's Servants Defended”(「エホバの僕たちは擁護される」)という小冊子に,より広範な論議が載せられました。その小冊子は,米国の裁判所で下されたエホバの証人に関する50件の別個の判決と他の数多くの訴訟を引用もしくは検討し,そうした判例を有利に用いる方法を説明しました。次いで1943年には,証人たち一人一人に“Freedom of Worship”(「崇拝の自由」)という小冊子が与えられ,会衆の奉仕会でその小冊子に関する勤勉な研究が行なわれました。この小冊子は訴訟に関する貴重な要約を提供するだけでなく,問題を特定の方法で扱うことの聖書的な理由も詳しく説明しました。その後1950年に,“Defending and Legally Establishing the Good News”(「良いたよりを擁護して法的に確立する」)という,最新の情報を収めた小冊子が発行されました。
これらすべては法律に関する漸進的な教育でしたが,その目的は証人たちを法律家に仕立てることではなく,神の王国の良いたよりを公にも家から家に
も宣べ伝えるための道が閉ざされないようにすることでした。いなごの群れのように
当局者が自分たちは法律に縛られないと考える場合,彼らは証人たちを苛酷に扱うことがありました。しかし,反対者がどんな方法を用いようとも,エホバの証人は神の言葉の次の諭しをわきまえていました。「わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる』」。(ローマ 12:19)とはいえ,証人たちは証言する必要性を痛感しました。公式な反対に直面したとき,彼らはどのように証言したのでしょうか。
1930年代のエホバの証人の各会衆は大抵かなり小人数でしたが,会衆同士が強く結ばれていました。ある場所で重大な問題が生じると,周囲の地域の証人たちは熱心に援助しました。例えば,1933年,米国では1万2,600人の証人たちが78の分団に組織されました。ある地域で逮捕事件が続発したり,反対者がラジオ局に圧力をかけて,エホバの証人が準備した放送番組の契約をまんまと取り消させたりした場合には,ブルックリンにある協会の事務所に報告されました。そして,1週間以内に増援部隊が送られ,その地域で集中的な証言を行ないました。
必要に応じて50人ないし1,000人の証人たちが,指定された時刻に,通常は奉仕区域近くの田舎に集まりました。彼らはみな自発的な参加者で,中には320㌔もの遠方から来た人たちもいました。各グループには30分ぐらいか,長くても2時間ぐらいで網羅できる区域が割り当てられました。割り当てられた地区でそれぞれの車の一団が奉仕を始めると,兄弟たちから成る委員会は警察に立ち寄り,行なっている業を知らせると共に,その朝その地域社会で奉仕している証人たち全員の名簿を提出しました。ほとんどの場所の警察は自分たちより証人たちのほうが断然多いことを知ると,支障なく業を続ける許可を与えました。ある地方の警察は証人たちを留置場に詰め込みましたが,留置場はあふれてしまいました。証人たちは,逮捕される人たちのために保釈金を持った弁護士を待機させていました。こうしたことが及ぼした影響は,聖書ヨエル 2章7節から11節および啓示 9章1節から11節で述べられている象徴的ないなごの群れが及ぼす影響と似ていました。このようにして,厳しい反対に直面しても,良いたよりの伝道を続けることができました。
の高圧的な当局者の行動を衆目にさらす
地域によっては,地元の当局者の行動を人々に知らせることは有益であると思われました。ケベック州では,法廷が証人たちに対して異端審問所を思い出させるような処置を講じた際,事実を明らかにする手紙がケベック州議会の全議員に送られました。それでも何の措置も取られなかったため,協会はその手紙の写しをケベック州全域の1万4,000人の実業家に送付しました。次いで,その情報は新聞の編集長に提供され,公表されました。
米国東部では,ラジオ放送によって一般の人々に情報が伝えられました。ブルックリン・ベテルでは,物まねの得意な,訓練を受けた俳優たちが「王の劇団」と呼ばれるグループを結成しました。高圧的な当局者によってエホバの証人の裁判が行なわれる時には,法廷でのやり取りが速記で完全に記録され,俳優たちは裁判を傍聴して,警官や検察官や判事の声の調子や話し方をしっかりつかみました。広範な宣伝によって大勢の人をラジオの前に集めた後,「王の劇団」はまさに迫真の演技で法廷の場面を再現したので,一般の人々にも当局者の行動がよく分かりました。衆人環視のもとに置かれることにより,やがて,それらの当局者の中にも,証人たちの関係した訴訟をもっと慎重に扱うようになった人たちがいました。
ナチの抑圧に直面した際の一致した行動
ナチ・ドイツ政府がドイツのエホバの証人の活動を停止させる運動を実施した時,ドイツ当局者に対して発言の機会を得る努力が何度も払われました。しかし,救済は得られそうにありませんでした。1933年の夏の時点で,エホバの証人の活動はすでにドイツのほとんどの州で禁止されていました。それで1933年6月25日に,エホバの証人はベルリンで開かれた大会で,自分たちの宣教とその目的に関する宣言を採択しました。それは政府高官全員に送られ,さらに一般の人々にも大量に配布されました。それでも1933年7月に,法廷は救済を求める審理を拒否しました。翌年の初め,J・F・ラザフォードは事態に関する個人的な手紙をアドルフ・ヒトラーあてに書き,特使を通して送りました。その後,世界中の兄弟たち全体が行動に移りました。
1934年10月7日,日曜日,午前9時,ドイツの証人たちのあらゆるグループが集合しました。彼らはエホバの導きと祝福を祈り求めた後,エホバに仕え続けるという自分たちの堅い決意を宣言する手紙をドイツ政府当局者に送りました。そして解散する前に,マタイ 10章16節から24節に記されている主イエス・キリスト の言葉を共に討議し,その後,エホバと,キリストの支配下にある神の王国について近所の人々に証言するために出かけて行きました。
その同じ日,エホバの証人は世界中で集まり,一致してエホバに祈った後,ヒトラー政権に対する次のような警告の電報を送りました。「エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱めています。エホバの証人をこれ以上迫害するのをやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。しかし,それで問題が解決したわけではありませんでした。
ゲシュタポはエホバの証人の活動を壊滅させようと一層努力を傾けました。1936年に大勢の人を逮捕した後,ゲシュタポは成功したものと考えました。しかし,その後1936年12月12日に,依然として自由の身だった約3,450人のドイツの証人たちはドイツ全土において,印刷された決議文を電撃的な速さで配布しました。その決議文はエホバの目的をはっきり述べると共に,支配者として人間より神に従うというエホバの証人の決意を明言していました。反対者たちはどうしてそのような配布活動が可能なのか理解できませんでした。数か月後,その決議文に記されていた告発をゲシュタポが見くびっていた時,エホバの証人は公開状を準備し,その中で,エホバの証人に極悪非道な虐待を加えたナチ当局者の名前を容赦なく挙げました。1937年には,この公開状もドイツで広く配布されました。こうして,邪悪な者たちの行為はすべての人の目に明らかになりました。また,一般の人々には,これら至高者の僕たちに関して個人的にどんな道をとるかを決める機会が与えられました。―マタイ 25:31-46と比較してください。
全世界に情報が伝えられることにより,幾らかの救済がもたらされる
エホバの証人を苛酷に扱い,集会や公の伝道を禁じる政府はほかにもあります。それらの政府が圧力を加えるために,証人たちが世俗の職を奪われ,証人の子供たちが放校されることもあります。多くの政府は身体的な残虐行為という手段にも訴えます。それでも,それらの国々にはたいてい信教の自由を保障する憲法があります。迫害されている兄弟たちを救済するため,ものみの塔協会はしばしばそうした仕打ちに関する詳細な情報を全世界に伝えてきました。それは「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌を用いて行なわれ,そうした報告をマスコミが取り上げることもあります。すると,証人たちのための嘆願の手紙が世界中から政府当局者の事務所に何千通も押し寄せます。
1937年に行なわれたそうした運動の結果,米国のジョージア州知事のもとにはわずか二日間で四つの国から7,000通ほどの手紙が届き,ジョージア州のラグレーンジ市長のもとにも大量の手紙が押し寄せました。同様の運動は1978年と1979年にアルゼンチンのエホバの証人のためにも行なわれました。また,1976年にはベニン,1989年にはブルンジ,1970年にはカメルーン,1950年と1957年にはドミニカ共和国,1957年にはエチオピア,1971年にはガボン,1963年と1966年にはギリシャ,1959年にはヨルダン,1968年,1972年,1975年そして1976年にはマラウイ,1952年にはマラヤ,1976年にはモザンビーク,1964年と1966年にはポルトガル,1972年にはシンガポール,1961年と1962年にはスペイン,1983年にはスワジランドの証人たちのためにそうした運動が行なわれました。
抑圧されている兄弟たちに救済をもたらすため世界中のエホバの証人が行なっている事柄の最近の例として,ギリシャの状況を考慮してみましょう。エホバの証人がギリシャ正教の僧職者の扇動による厳しい迫害を受けたため,1986年に「ものみの塔」,「目ざめよ!」両誌(合計発行部数は世界中で2,200万部以上)は迫害について詳しく報じました。他の国の証人たちは,兄弟たちのためにギリシャ政府の当局者に手紙を書くよう勧められました。証人たちは実際にそうしました。アテネの新聞「ブラシーニ」によると,法務大臣のもとには200以上の国から106の言語で20万通余りの手紙が押し寄せたのです。
翌年,証人たちに関する訴訟がクレタ島のハニアにある控訴裁判所で審理された際,他の七つの国(イギリス,フランス,ドイツ,イタリア,日本,スペイン,アメリカ)から来たエホバの証人の代表が訴訟当事者として,あるいはクリスチャンの兄弟たちを支持するために出廷しました。その後1988年に,証人たちに関する別の訴訟においてギリシャ最高裁判所で不利な判決が下されると,ヨーロッパ人権委員会に申し立てがなされました。1990年12月7日,ヨーロッパのほぼ全域から来た16人の法学者に,2,000件の逮捕事件と,ギリシャのエホバの証人が聖書について語るという理由で刑を宣告された何百もの訴訟に関するファイルが同委員会で提出されました。実際,1938年から1992年にかけて,ギリシャでは
そのような逮捕事件が1万9,147件起きていました。同委員会は全員一致で,その件はヨーロッパ人権裁判所で審理されるべきであると裁定しました。ある場合,そのようにして人権侵害を明らかにしたことにより幾らかの救済がもたらされました。しかし,裁判官や支配者がどんな措置を取るかにかかわりなく,エホバの証人は至高の支配者として神に従い続けます。
法的認可を得る
明らかに,真の崇拝を行なうための権限の委任はいかなる人間にも,いかなる人間の政府にも由来していません。それはエホバ神ご自身に由来しています。しかし多くの国において,世俗の法律による保護を得るためにはエホバの証人が宗教団体として政府に登録すると有利であることが実証されてきました。支部事務所のための地所を購入したり,聖書文書の印刷を拡大したりする計画は,地元の法人団体を設立することによって順調に進む場合があります。『良いたよりを法的に確立する』点で使徒パウロが古代フィリピにおいて示した先例と調和して,エホバの証人はそうするために必要なふさわしい措置を取ります。―フィリピ 1:7。
時には,そうすることが非常に難しいこともあります。例えば,バチカンとの政教条約によってカトリック教会に対する政府の資金援助が保証されているオーストリアでは,当初エホバの証人の努力は当局者から拒否されました。当局者は,『あなた方が意図しているのは宗教団体の結成であり,その種の組織はオーストリアの法律のもとでは設立できない』と述べました。しかし,1930年,証人たちは聖書と聖書文書を配布する協会を登録することができました。
スペインにおけるエホバの証人の20世紀の活動は第一次世界大戦の時期にさかのぼります。しかし,15世紀の異端審問の初期の時代から,ローマ・カトリック教会とスペイン国家は,わずかな例外を除き,密接に提携していました。政治と宗教をめぐる情勢が変化したため,個々の人が他の宗教を実践することは多少認められましたが,信仰を公に示すことは禁じられていました。そうした状況にもかかわらず,1956年と1965年にエホバの証人はスペインでの法的認可を得ようと努めました。しかし,スペイン議会が1967年に“信教の自由法”を可決するまで,実質的な進展は不可能でした。ついに1970年7月10日に法的認可が得られた時,スペインのエホバの証人は既に1万1,000人以上を数えるまでになっていました。
1948年,ものみの塔協会の法的登録を求める申請がダオメー(現在はベニンと呼ばれる)のフランス植民地総督に提出されました。しかし,そうした法的登録が認められたのは,その国が独立共和国となってから6年後の1966年のことでした。もっとも,その法的認可は1976年に取り消され,その後,政情が変わり,信教の自由に対する当局の態度が変化した1990年に回復されました。
カナダのエホバの証人は長年にわたり法的認可を得ていましたが,反対者は第二次世界大戦を口実にして,証人たちを非合法団体と宣言するよう新総督を説得しました。それは1940年7月4日に実行されました。2年後,証人たちが下院の特別委員会に陳情する機会を得た際,その委員会はエホバの証人とその法人団体に対する禁令を解除するよう強く勧告しました。とはいえ,ローマ・カトリック教徒である法務大臣が禁令を全面的に撤廃せざるを得ないと考えたのは,下院で何度も広範な審議が行なわれ,全国規模の二つの請願の署名集めという大仕事がなされた末のことでした。
東ヨーロッパでエホバの証人が法的認可を得るには,政府の見解の根本的な変化が必要でした。証人たちは何十年にもわたって信教の自由を求め続けた後,ついに1989年にはポーランドとハンガリーで,1990年にはルーマニアと東ドイツ(ドイツ連邦共和国と統合される前)で,1991年にはブルガリアと旧ソ連で,1992年にはアルバニアで法的認可を得ました。
エホバの証人はどの国でも,国の法律と調和した仕方で業を行なうよう努力します。彼らは聖書に基づき,政府当局者に対する敬意を強力に唱道します。しかし人間の法律が,明示されている神の命令と対立する場合には,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と答えます。―使徒 5:29。
人々が恐れのゆえに基本的な自由を無視する場合
ますます多くの人が麻薬を乱用するようになっているため,またインフレによってしばしば夫婦が共働きを余儀なくされているため,米国のエホバの証人は宣教において新たな事態に直面しています。近所の多くの人は日中ほとんど家におらず,空き巣が横行し,人々は恐れを抱いています。1970年代末と1980年代初めには,地域社会外から来た人の居所を明らかにするため,新しい波として,勧誘許可条例が設けられました。許可を得ないなら逮捕すると言ってエホバの証人を脅す町もありました。しかし,既にしっかりした法的基礎が据えられていたので,問題を法廷外で扱うよう努力することができました。
厄介な事態が生じると,解決策を見いだすために地元の長老たちが町の当局者と会見することもあります。エホバの証人は神が命じられた業を行なうために許可を求めることは断固として拒みます。合衆国憲法はいかなる料金の支払いも前提条件としない崇拝と出版の自由を保障しており,それは最高裁判決でも支持されています。しかしエホバの証人は人々が恐れを抱いていることを理解しているので,必要であれば,特定の地区で証言を始める前に警察に知らせることに同意する場合もあります。とはいえ,容認できる妥協案が得られない場合には,協会の本部の弁護士が地元の当局者と連絡を取り,エホバの証人の業や,証人たちの宣べ伝える権利を擁護する憲法を説明し,さらにその権利を行使するために自治体とその当局者を相手取って連邦公民権の損害賠償請求訴訟を起こすことも可能だということを説明します。 *
ある国々では,長年認められてきた基本的な自由を再確認するために訴訟を起こすことさえ必要になります。そのような事態が1976年と1983年にフィンランドで生じました。表向きは家の人の平和を守るという理由で,家から家の業を含む宗教活動を禁じる地方条例が次々に設けられたのです。しかし,ロビーサとラウマの法廷において,家から家の伝道はエホバの証人の宗教の一部であり,政府はエホバの証人の宗教団体の定款を認めた時点でこの福音宣明の方法を承認しているという点が指摘されました。さらに,多くの人が証人たちの訪問を歓迎しており,ありがたく思わない人がいるというだけの理由でそうした活動を禁じるなら自由の縮小になるという点も申し立てられました。そうした訴訟が勝訴に終わった後,多くの町や都市は条例を廃止しました。
憲法の作成に影響を与える
国によっては,エホバの証人の活動は法律を作成する際の主要な要素となってきました。アメリカの法学生であれば,米国の公民権保護にエホバの証人が貢献したことをよく知っています。どれほど貢献したかは,ミネソタ・ロー・レビュー誌,1944年3月号に載せられた「憲法はエホバの証人に恩義がある」という記事や,1987年にシンシナティ大学ロー・レビュー誌に掲載された「憲法進化の促進剤: 最高裁におけるエホバの証人」という記事などによく示されています。
証人たちの訴訟は,信教の自由,言論の自由,出版の自由に関するアメリカの法律の重要な部分となっています。そうした訴訟は,エホバの証人だけでなくアメリカ人全体の自由を守る点で多大の貢献をしてきました。著述家としても編集者としても有名なアービング・ディリヤードはドレーク大学で講演をした際に,「好むと好まざるとにかかわらず,エホバの証人は我々の自由を守る点で他のどんな宗教団体よりも大きな貢献をしてきた」と述べました。
また,カナダの状況について,「国家と救済 ― エホバの証人および公民権のための彼らの闘い」という本の序文はこう明言しています。「エホバの証人は,意見の異なるグループのための法的保護がいかなる実際的意味を持つべきかをカナダ国家とカナダ国民に教えた。加えて……[ケベック州の証人たちに対する]迫害の結果として1940年代と1950年代に生じた一連の訴訟がカナダ最高裁判所に持ち込まれた。それらの訴訟も公民権に対するカナダ人の態度に重要な貢献をし,今日のカナダの市民的自由に関する法学の基礎を成している」。その本は,証人たちが行なった崇拝の自由を求める法的闘いの「成果の一つ」は,現在カナダの基本法の一部となっている「権利憲章に至る長い討議と討論の過程であった」と説明しています。
神の法の至上性
しかし何よりもまず,エホバの証人に関する法律上の記録は,神の法が至上のものであるという彼らの確信の証拠となっています。彼らが取ってきた見解の根底にあるのは宇宙主権の論争に対する認識です。彼らはエホバを唯一まことの神,宇宙の正当な主権者として認めています。それゆえに彼らは,エホバの命令の遂行を禁じるいかなる法律や判決も無効であり,そうした禁止措置を課す人間の機関は越権行為をしてきたという見解を堅持します。彼らの態度は,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と断言したイエス・キリストの使徒たちの態度と似ています。―使徒 5:29。
神の助けにより,エホバの証人は終わりが来る前に,神の王国のこの良いたよりを,あらゆる国民に対する証しのために人の住む全地で宣べ伝えることを決意しています。―マタイ 24:14。
[脚注]
^ 28節 創刊号は1919年10月1日号でした。同誌,およびその後を継いだ「慰め」誌と「目ざめよ!」誌は驚くほど大量に配布されてきました。1992年現在,「目ざめよ!」誌は67の言語で毎号1,311万冊発行されていました。
^ 29節 エホバの証人は一般的な方針として,証言活動のゆえに訴えられた場合,罰金を支払う代わりに上訴しました。上訴して敗訴すると,法律上可能であれば罰金を支払う代わりに刑務所に入りました。証人たちが断固として罰金の支払いを拒否したことにより,ある当局者たちはそれ以上証言活動を妨害することを思いとどまるようになりました。幾つかの状況下では今でもこの方針が守られているかもしれませんが,「ものみの塔」誌,1975年7月1日号は,多くの場合,罰金を司法上の刑罰とみなすのは正当なことであり,刑務所に行くことが有罪の証明にならないのと全く同様に,罰金の支払いも有罪を認めたことにはならないと説明しました。
^ 32節 Lovell v. City of Griffin, 303 U.S. 444(1938).
^ 33節 Schneider v. State of New Jersey (Town of Irvington), 308 U.S. 147(1939).
^ 33節 310 U.S. 296(1940).
^ 35節 297 Mass. 65(1935). この事件は8歳の男子学童に関するものであり,その子供の名前の正しいつづりはCarleton Nicholsです。
^ 35節 302 U.S. 656(1937)(from Georgia).
^ 35節 303 U.S. 624(1938)(from New Jersey).
^ 35節 306 U.S. 621(1939)(from California).
^ 35節 306 U.S. 621(1939)(from Massachusetts).
^ 36節 310 U.S. 586(1940). ウィリアムとリリアンが国旗敬礼をしようとしないことを理由に,二人がマイナーズビルの公立学校に通学することを教育委員会が認めようとしないため,父親であるウォルター・ゴバイタス[正しいつづりはGobitas]はその措置の差し止めを求めて子供たちと共に訴訟を起こしました。連邦地方裁判所と巡回控訴裁判所がどちらもエホバの証人に有利な判決を下したので,教育委員会は最高裁判所に上訴しました。
^ 37節 316 U.S. 584(1942).
^ 41節 319 U.S. 105(1943).
^ 41節 1943年中,エホバの証人の関係する24件の訴訟について合衆国最高裁判所に訴訟提起や上訴がなされました。
^ 42節 319 U.S. 624(1943).
^ 43節 319 U.S. 583(1943).
^ 43節 1919年から1988年までの間に,エホバの証人の関係する合計138件の訴訟について,合衆国最高裁判所に申し立てや上訴が行なわれました。そのうちの130件はエホバの証人が,8件は法律上の相手方が提訴したものです。最高裁判所は67件について再審理を拒否しました。当時,連邦憲法や連邦の制定法に関する重要な問題は生じていないと判断したからです。同裁判所で検討された訴訟のうち47件について,エホバの証人に有利な判決が下されました。
^ 88節 Jane Monell v. Department of Social Services of the City of New York, 436 U.S. 658(1978).
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次々に多くの国で,政府による禁令がエホバの証人に課された
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この件は却下され,当の司祭は憤慨し,急いで裁判所から出て行った
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当局者の中にも,証人たちの関係した訴訟をもっと慎重に扱うようになった人たちがいた
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合衆国最高裁判所に対する証言
ニューヨーク弁護士会の会員である,ものみの塔協会の会長ジョセフ・F・ラザフォードは,「ゴバイティス」事件の弁護人として合衆国最高裁判所に出廷した際,エホバ神の主権に服従することの重要性にはっきり注意を向け,こう述べました。
「エホバの証人とは,全能の神のみ名について証言する人々のことです。その方だけがエホバという名を持たれます。……
「私は,エホバ神がメシアによって義の政府を設立すると6,000年以上前に約束されたという事実に注意を向けたいと思います。神はご予定の時にその約束を果たされるでしょう。今日実際に生じている出来事を預言の光に照らしてみると,その時は近いということが分かります。……
「神エホバだけが命の源であられます。ほかのだれも命を与えることはできません。ペンシルバニア州も命を与えることはできません。アメリカ政府も同様です。パウロが述べたように,神はご自分の民を偶像礼拝から保護するためにこの[像の崇拝を禁じる]律法を制定されました。それは取るに足りない事柄だ,と皆さんはおっしゃいます。禁じられた実を食べるというアダムの行動も取るに足りない事柄でした。問題となったのはアダムが食べたリンゴではなく,神に対する不従順という彼の行動だったのです。問題となっているのは,人が神に従うか,それとも何らかの人間の制度に従うかという点です。
「(私が言うまでもないことですが)当法廷が,『教会対合衆国』事件に関して,アメリカはキリスト教国である,したがってアメリカは神の法に従わなければならないという判断を下したことを思い出していただきたいと思います。言い換えると,当法廷は神の法が至高の法であるという事実に司法的な意味で注目しているのです。そして,神の法が至高の法であると良心的に信じている人がその信念に応じて良心的に振る舞っているなら,その人の良心を制したり妨げたりする権威は人間にはありません。……
「注目していただきたい点があります。それは,当法廷で開廷のたびに廷吏が,『合衆国ならびに栄えある当法廷に神のご加護を』と述べるという点です。ですから私はこのように申し上げたい。神は,この米国の人民をして全体主義的集団への道を歩ませるような,また憲法によって保障されているすべての自由を損なうような過ちを犯すことのないよう,栄えある当法廷を守られるのです。これは,神とみ言葉を愛するすべてのアメリカ人にとって神聖な事柄です」。
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判決破棄の舞台が整う
1940年,「マイナーズビル学区対ゴバイティス」事件に関して合衆国最高裁判所が学童に国旗敬礼を要求し得るという判決を下した際,9人の裁判官のうち8人が同意しました。反対意見を述べたのはストーン判事だけでした。しかし2年後,「ジョーンズ対オペライカ」事件に関する裁判官の反対意見が記録された際,さらに3人の裁判官(ブラック,ダグラス,マーフィー)がその機会を用い,「ゴバイティス」事件の判決は信教の自由を下位に置いたものであるゆえに間違っていたと考えていると述べました。ですから,9人の裁判官のうち4人が「ゴバイティス」事件の判決の破棄を支持していたことになります。信教の自由を軽視した他の5人の裁判官のうち二人は退官しました。新任の二人の裁判官(ラトリッジとジャクソン)は,国旗敬礼に関する次の訴訟が最高裁判所に持ち込まれた時に審理に加わりました。1943年,「ウェスト・バージニア州教育委員会対バーネット」事件に関して,彼らは二人とも,強制的な国旗敬礼ではなく信教の自由に賛成票を投じました。こうして最高裁判所は,かつて同裁判所に上訴された五つの訴訟(「ゴバイティス」,「リオレス」,「ヘリング」,「ガブリエリ」,「ジョンソン」)に関して取っていた見解を6対3の票決で覆したのです。
興味深いことに,フランクファーター判事は,「バーネット」事件に関する自らの反対意見の中でこう述べました。「これまでと同様にこれからも,最高裁は自らの見解を覆すことがあるだろう。しかし,(後に再考された小さな逸脱を除き)これらのエホバの証人の訴訟以前に,当裁判所が民主政府の権力を制限するために判決を破棄したことはなかったと思う」。
[688ページの囲み記事]
「古くからの福音伝道活動の方法」
1943年,「マードック対ペンシルバニア」事件において,合衆国最高裁判所は特にこう述べました。
「宗教上の小冊子を配ることは,古くからの福音伝道の方法であり,印刷機の歴史同様に古いものである。それは古来,様々な宗教運動において大きな力となってきた。今日この福音伝道の方法は,様々な宗派によってより大々的に利用されており,それらの宗派の宗教文書頒布者は何千何万もの家々に福音を伝え,個人的な訪問によって自派に信者を獲得しようと努めている。それは単なる伝道でも,宗教文書の配布でもない。両者の結合である。それは信仰復興集会と同じほど福音主義的な目的を持っている。この形態の宗教活動は,憲法修正第1条において,教会の礼拝や説教壇からの伝道同様高く評価されている。そうした活動には,より正統的かつ伝統的な宗教活動と同様の保護を要求する権利があり,他の形態の宗教活動と同様に言論の自由と出版の自由の保障を要求する権利もある」。
[690ページの囲み記事]
「すべての人に平等な権利」
1953年,当時のカナダの著名な一コラムニストは上記の見出しのもとにこう書きました。「[エホバの証人が最高裁に上訴した]ソーミュール事件に関するカナダ最高裁判所の判決を祝って,カナダ議会は特大の大かがり火,特別な時にふさわしい大かがり火をたくべきである。カナダ司法史においてこれ以上に重要な判決はほとんどない。カナダにこれほど大きな貢献をした裁判所もほとんどない。自由という相続物を尊重するカナダ人がこれほど大きな恩義を負った裁判所はほかにない。……この解放を祝うには大かがり火だけでは不十分なほどである」。
[694ページの囲み記事]
ナチ国家に対する断固たる宣言
1934年10月7日,ドイツのエホバの証人の各会衆はドイツ政府に次の手紙を送りました。
「政府当局者各位
「聖書に記されているとおり,エホバ神のみ言葉は至高の律法です。そして私たちは神に身をささげ,キリスト・イエスの真の誠実な追随者となったゆえに,み言葉は私たちにとって唯一の導きです。
「過去1年間,貴政府は神の律法に背いて私たちの権利を侵害し,私たちエホバの証人が神の言葉を研究したり,神を崇拝したり,神に仕えたりするために集まり合うことを禁じてきました。神はみ言葉の中で,集まり合うことをやめてはならないと命じておられます。(ヘブライ 10:25)エホバは私たちに,『汝らは我が証し人なり。われは神なり。行きて,我が使信を民に告げよ』と命じておられます。(イザヤ 43:10,12。イザヤ 6:9。マタイ 24:14)貴政府の法律と神の律法は真っ向から対立しているため,私たちは忠実な使徒たちの手本に倣って『人に従わんよりは神に従うべき』であり,実際そうします。(使徒 5:29)それゆえ私たちはここに,いかなる犠牲を払おうとも神のおきてに従い,み言葉を研究するために集まり合い,神が命じられたとおりに神を崇拝し,神に仕える所存であることを貴政府に通告します。私たちが神に従っているという理由で貴政府あるいは当局者が私たちに暴行を加えるなら,貴政府は私たちの血の責任を負い,全能の神に申し開きをすることになるでしょう。
「私たちは政治には一切関心を持たず,王なるキリストの治める神の王国に全く専念しています。私たちはだれにも危害を加えません。平和に暮らして,機会があればすべての人に善を行なうことを喜びとします。しかし,貴政府と当局者は私たちを強制して宇宙で最高の律法に背かせようと試み続けているゆえに,私たちはここに,神の恵みにより,エホバ神に従い,あらゆる圧迫と圧迫者から神が救い出してくださると全面的に信じる所存であることを,貴政府に通告せざるを得ません」。
[697ページの囲み記事]
禁令下の証人たちは自らの立場についてはっきり述べる
1940年,カナダでエホバの証人の組織に対して政府による禁令が課され,その後,500件を超える告発が行なわれました。エホバの証人はどんな弁明をすることができましたか。彼らは敬意を払いつつ,しかし毅然とした態度で,次のような概要に沿って法廷で陳述しました。
『私はこれらの本に関して何も弁明する必要がありません。これらの本はとこしえの命への道を教えています。私はこの本が,義の王国を地に設立するという全能の神のお目的を説明していると心から信じています。私にとってこれらの本は人生で最大の祝福です。私の考えでは,聖書そのものを焼くことが罪であるのと同様に,これらの本とその中に含まれている神の音信を損なうことは全能者に対する罪です。人は皆,人間の不興あるいは全能の神の不興,そのどちらかをあえて選ばなければなりません。私は主とその王国の側に立つことを選び,至高者であられるエホバのみ名を尊ぶよう努力しています。ですから,もしそのために私が処罰されるのであれば,処罰する者たちは神のみ前で責任を負わねばなりません』。
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カナダ政府の議員の見解
1943年,カナダ下院の幾人かの議員はエホバの証人とその法人団体に対する禁令を解除するよう法務大臣に勧告した際,次のように述べました。
「法務省は,エホバの証人をいかなる時であれ非合法組織と決めつけるべきであるという証拠を一つも委員会に提出しなかった。……これら不利な立場の人々が告発されてきたような仕方で人々が宗教上の信念のゆえに告発されることは,カナダ自治領にとって不面目なことである」。「私の考えでは,禁令を続けさせているのは,紛れもない純然たる宗教上の偏見である」― アンガス・マキニス氏。
「この人たちが国家に対して悪事を働く意図を持たない無害な人々であることを私たちの大半は経験から知っている。……禁令が解除されていないのはなぜか。この組織は国家の福祉にとって好ましくないのではないか,あるいは戦争努力に対する破壊活動をするのではないかといった懸念が理由であるとは考えられない。そうしたことが事実であるという証拠は全くない」― ジョン・G・ディーフェンベーカー氏。
「エホバの証人に対する措置は大方,彼らの態度が破壊的な性質のものであるということより,ローマ・カトリック教徒に対する彼らの態度によるのではないかという疑問が生じる」― ビクター・クェルチ氏。
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「信教の自由という大義に対する貢献」
「エホバの証人はその根気強さにより,我が国の憲法のもとでの信教の自由という大義に貢献してきたので,それに触れずに彼らと国家との間の問題に関するこの短い概説を終えることは公平ではあるまい。近年,彼らは他のどんな宗教団体よりも多くの時間を法廷で費やし,偏狭な者たちという印象を一般の人々に与えてきた。しかし,彼らは自らの良心的な信念に対して忠実なのであり,その結果,連邦裁判所はアメリカ市民の信教の自由の保障を確保・拡大し,彼らの市民的自由を保護・拡張する一連の判決を下してきた。1938年から1943年までの5年間に,証人たちの関係する31件ほどの訴訟が最高裁判所に持ち出され,それらおよびその後の訴訟に対する判決は,一般的に言って権利章典にうたわれている種々の自由という大義を,そして特に信教の自由に対する保護を大いに前進させてきたのである」―「合衆国における教会と国家」,アンソン・フェルプス・ストークス著,第3巻,1950年,546ページ。
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崇拝の自由を歓ぶ
かつてエホバの証人が全面的な信教の自由を得ていなかった多くの国で,今や彼らは崇拝のために公に集まり,神の王国の良いたよりを自由に他の人に伝えています。
カナダのケベック
1940年代,ここシャトーゲーにいた少数の証人たちは暴徒に襲われた。1992年,ケベック州の2万1,000人を超える証人たちは自分たちの王国会館で自由に集まっていた
ロシアのサンクトペテルブルク
1992年,ロシアにおける最初のエホバの証人の国際大会で合計3,256人がバプテスマのために自分を差し出した
スペインのパルマ
スペインのエホバの証人が1970年に法的認可を得た後,公に集まれることに対する証人たちの喜びを表わすかのように集会場には大きな看板が掲げられた
エストニアのタルトゥ
エストニアの証人たちは1990年以降,何の妨げもなく聖書文書を受け取れることを感謝している
モザンビークのマプト
この国でエホバの証人が1991年に法的な立場を得てから1年以内に,熱心な証人たちから成る50余りの会衆が首都とその周辺で宣教を行なっていた
ベニンのコトヌー
多くの人は1990年の集まりに到着した際,エホバの証人を公に歓迎する横断幕を見て驚いた。この時,証人たちの崇拝に対する禁令が解かれたことが分かった
チェコスロバキアのプラハ
下に写っているのは40年にわたる政府の禁令下でエホバに仕えた人々。1991年,彼らはプラハで開かれたエホバの証人の国際大会に共に出席する歓びを得た
アンゴラのルアンダ
1992年に禁令が解かれると,5万人以上の個人や家族が証人たちと聖書を研究するため,喜んで彼らを迎え入れた
ウクライナのキエフ
特にエホバの証人が1991年に法的認可を得て以来,この国での集会(多くの場合,借用した会館で行なわれる)には大勢の人が出席している
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エホバの証人の関係する138件の訴訟について,合衆国最高裁判所に上訴や申し立てが行なわれた。そのうちの111件において,ヘイドン・カビントン(ここに写っている)は1939年から1963年まで弁護士を務めた
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ケベック州知事モーリス・デュプレシーは教会と国家との密接な結びつきの証拠として,1930年代後半に公の場でビルヌーブ枢機卿の前にひざまずき,同枢機卿の指に指輪をはめた。ケベック州ではエホバの証人に対する迫害が特に激しかった
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協会の本部の法律担当者W・K・ジャクソンはエホバの証人の統治体の一員として10年間奉仕した
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ラスコー・ジョーンズ。エホバの証人の宣教に関する彼の訴訟は合衆国最高裁判所に2度持ち込まれた
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「バーネット」事件において,6対3の票決で国旗敬礼の強要を退け,崇拝の自由を擁護した合衆国最高裁判所の裁判官たち。この判決は「ゴバイティス」事件における同裁判所の以前の判決を破棄するものだった
訴訟に関係した子供たち
リリアン・ゴバイタスとウィリアム・ゴバイタス
マリー・バーネットとゲイシー・バーネット
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エメイ・ブーシェは,エホバの証人に対する扇動容疑を退ける判決に伴い,カナダの最高裁判所により無罪とされた
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三つの言語で発行されたこのパンフレットにより,ケベック州のエホバの証人に加えられた残虐行為がすべてのカナダ人に知らされた
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宣教に対する反対に対処できるよう,エホバの証人に法律上の手続きを教えることが必要になった。これらは証人たちが用いた法律関係の出版物の一部