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あなたは神の是認される仕方で神を崇拝しますか

あなたは神の是認される仕方で神を崇拝しますか

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あなたは神の是認される仕方で神を崇拝しますか

聖書は,「終わりの日」に人々が「自分を愛する者,……うぬぼれる者,ごう慢な者,……敬神の専念という形を取りながらその力において実質のない者となる」と予告しています。(テモテ第二 3:1-5)これは,今日わたしたちの周りに見られる事柄をよく言い表わしてはいないでしょうか。

2 人々は生活のあらゆる面で,「自分が第一」と言わんばかりに振る舞います。買い物をするときや自動車を運転する際の態度,服装や化粧の仕方,ダンスの種類などにそれが見られます。しかし,これらはいずれも真の幸福をもたらしていません。

3 多くの人は,自分が望むもの,もしくは自分が必要を感じる事柄を主にして宗教を考えますが,それは大きな間違いです。わたしたち人間は,神がどのように崇拝されるべきかについて口を出す立場にありません。創造者であり,命の授与者であるエホバこそ,人々がどのようにご自分を崇拝しなければならないかを言う立場にある方です。(ローマ 9:20,21)しかも,神が人間にお求めになることは人間自身の益となる事柄です。それは現在満足をもたらしますし,またそれによってわたしたちは,神が将来人間のために意図しておられるすばらしい事柄を思いと心にとどめておくことができます。―イザヤ 48:17

4 エホバは,不必要な儀式を行なうことを命じてクリスチャンを煩わせたり,無意味な制限を課したりはなさいません。しかし,神は,終わりのない命はご自分との良い関係にかかっていること,また人生に真の喜びを見いだすにはご自身の規準に従って生活し,他の人々に関心を示す必要のあることを知っておられます。神が望まれる方法で神を崇拝するとき,人生は一層豊かで有意義なものになります。

神の方法で物事を行なう

5 ノアは神の方法に従って行動したきわめて模範的な人です。聖書には次のように記されています。「ノアは義にかなった人であり,同時代の人々の中にあってとがのない者となった。ノアは真の神と共に歩んだ」。命を守るための大きな箱船を造るようにとの指示を神から受けたとき,『ノアはすべて神から命じられたとおりにしていきました。正にそのとおりに行ないました』。(創世 6:9,22,新)神の方法で物事を行なうことによって,ノアの命,そしてまた地上の預言者としてノアに忠実に従ったノアの家族の命も救われました。―ペテロ第二 2:5

6 アブラハムも神の方法に従った一人です。神はアブラハムに故郷を離れて別の場所に行くことをお命じになりました。あなただったらその命令に従ったでしょうか。アブラハムは,「自分がどこへ行くのかを知らないのに」,「エホバが語られたとおりに出かけて行き」ました。(ヘブライ 11:8。創世 12:4,新)神の方法に従って忠実に物事を行なったので,アブラハムは「エホバの友」とみなされました。―ヤコブ 2:23。ローマ 4:11

神の民の一人となる

7 やがて神は一つの大きな集団,つまりイスラエル国民と交渉を持つことにされました。イスラエル国民は,『地の表にいるあらゆる民の中から神の民,特別の所有物』となりました。(申命 14:2,新)個々のイスラエル人が神に祈って,神と個人的な親しい関係を持つ必要があったことは言うまでもありません。しかし同時に,神が会衆を導いておられることを認めることも必要でした。そして,一つの国民としての自分たちに与えられた神の律法の中に示されている崇拝の様式に従わねばなりませんでした。そうするなら,神が会衆に差し伸べておられる保護や祝福を受けることができました。(申命 28:9-14)全能者から「わたしの民イスラエル」と呼ばれる人々の一人となることがどれほどすばらしい特権だったかを考えてみてください。―サムエル後 7:8,新。

8 イスラエル人ではないものの,真の神を崇拝したいと願っていた人々の場合はどうだったでしょうか。彼らは,モーセがイスラエル国民をエジプトから導き出した時にイスラエルと一緒に行くことを選んで,「入り混じった大集団」を形成しました。(出エジプト 12:38,新)あなたがエジプトにいたとしたら,自分一人残り,自分なりの方法で神を崇拝できると考えたでしょうか。

9 イスラエルが約束の地に定住したときでも,エホバを認めエホバを崇拝したいと願う外国人はそうすることができました。しかし,それらの外国人は神が一つの集合体としての民と交渉を持っておられることを,また神の崇拝がエルサレムの神殿を中心として行なわれねばならないことを認識する必要がありました。(列王上 8:41-43。民数 9:14)誇りや独立心から独自の崇拝方式を編み出すなら,神に受け入れていただけませんでした。

会衆の変化

10 イエスが地上で宣教を行なっておられたときも,神はイスラエルをご自分に献身した民として扱っておられました。ですから,メシアを受け入れた人がみな,イエスと定期的に会合したり,使徒たちが行なったようにイエスと一緒に旅行したりする必要はありませんでした。(マルコ 5:18-20; 9:38-40)しかし国民全体としては,エホバのメシアを受け入れませんでした。それでイエスは,死ぬ少し前に,「神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられる」とおっしゃいました。―マタイ 21:43,エルサレム聖書。

11 イスラエルに与えられた神の律法に規定されている崇拝の仕方がもはや求められないとなると,どんな人々がその新しい国民となるのでしょうか。(コロサイ 2:13,14。ガラテア 3:24,25)西暦33年のペンテコステの日にクリスチャン会衆が形成されましたが,神はそれをご自分がおつくりになったことを,誠実な観察者すべてに明らかにされました。(使徒 2:1-4,43-47。ヘブライ 2:2-4)まず初めに,ユダヤ人とユダヤ教を信じていた外国人とが,そして後に異邦人つまり諸国の人々が「み名のための民」となりました。神は今やそれらの人々を「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」とみなされました。―使徒 15:14-18。ペテロ第一 2:9,10

12 あなたがそのころいて神との関係を望んだとしたら,クリスチャン会衆に導かれたでしょう。イタリア人のコルネリオとその家族の場合はそうでした。(使徒 10:1-48)世界中の信者はクリスチャン会衆を形成しました。(ペテロ第一 5:9)家庭や公共の建物で集まっていた各地の会衆はみな,その時神が用いておられたその一つの会衆の一部でした。―使徒 15:41。ローマ 16:5

13 エホバは秩序の神ですから,各会衆にある程度の組織を設けられました。崇拝者一人一人に必要な注意を払うため,牧者もしくは監督として奉仕する男子を任命されました。その人々は経験を積んだ資格のある男子で,神の言葉を教えることができ,また,会衆の成員が他の人々と聖書の真理を分かち合い,「良いたより」を伝道する重要な業において役立つ者となれるよう訓練することができました。―テモテ第二 2:1,2。エフェソス 4:11-15。マタイ 24:14。使徒 20:28

14 ほかにも多くの点で,会衆は監督たちから益を得ました。監督たちは律法尊重主義的にあるいは圧制的に振る舞うべきではありませんでした。その任務はむしろ,仲間のクリスチャンが神との関係を強めるよう優しく援助することでした。(使徒 14:21-23。ペテロ第一 5:2,3)問題を抱えた人は,霊的に古い人々のところに行くなら,親切な,聖書に基づいた援助を得ることができました。(ヤコブ 5:13-16。イザヤ 32:1,2)クリスチャンは依然不完全でしたから,会衆内にも時折り問題が生じたことでしょう。監督たちは仲間のクリスチャンを助けることに油断なく気を配り,会衆の霊性を脅かすおそれのある者を警戒していなければなりませんでした。―フィリピ 4:2,3。テモテ第二 4:2-5

15 各会衆は,使徒たちとエルサレム会衆の長老たちとから成るクリスチャンの統治体から必要な指導を受けました。統治体は会衆から知らされた問題を調べ,それに決定を下しました。また,諸会衆を訪問する代表者を派遣しました。―使徒 15:1-3

16 エホバ神は,ご自分の民を依然一つの集合体として扱っておられます。全地にはエホバの証人の会衆がたくさんあります。神の方法に従う崇拝を望む人は,仲間のクリスチャンと集合するようにという神の次の勧めに応じなければなりません。

「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い……集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」― ヘブライ 10:24,25

魂をこめて神を崇拝する

17 エホバ神が自分にしてくださったことすべてをよく考えてみるのはよいことです。人はエホバから命を与えられ,日々命を支える物をいただいています。その上に神は,犠牲として死ぬようみ子を地上にお遣わしになりました。それは神の深い愛,揺るぐことも変わることもない愛の表われでした。(ローマ 5:8; 8:32,38,39)そのような方法で,神は,人が罪の許しを得,永遠にわたって幸福に暮らす見込みを持つことを可能にしてくださったのです。―ヨハネ 3:17; 17:3

18 わたしたちは,神の愛にどのようにこたえるでしょうか。神と神の愛に背を向けるべきでないことは言うまでもありません。使徒ペテロは次のように勧めています。

ですから,あなたがたの罪を消していただくために,悔い改めて身を転じなさい。さわやかにする時期が到来……(するように)」― 使徒 3:19

19 わたしたちはみな,振舞いや言葉や考えにおいて神の規準に達しておらず,罪を犯しているので,『悔い改める』必要があります。(ローマ 2:4; 7:14-21。ヤコブ 3:2)わたしたちが悔い改めるとは,自分が罪人であることを認め,エホバのご意志に完全に調和した生活をしてこなかったことを残念に思うことです。あなたはそのように感じておられますか。次に『身を転じ』,生き方を変え,それからはエホバの特質を反映するよう,また神の方法で物事を行なうよう努力しなければなりません。そうするなら,神がわたしたちを許してくださり受け入れてくださることを確信できます。―詩 103:8-14。ペテロ第二 3:9

20 イエスは,わたしたちがイエスの足跡に従って神に仕えられるよう,模範を示されました。わたしたちはそのことを認めて,イエスの手本に見倣うよう努力すべきです。(ペテロ第一 2:21ヘブライ 10章7節から分かる通り,イエスは,「ご覧ください,わたしは参りました……神よ,あなたのご意志を行なうために」という態度を取られました。同じように,わたしたちも,神への愛と感謝から神に献身し,魂をこめて神のご意志を行なうべきです。むろん,食べることや眠ること,家族を愛し世話すること,レクリエーションを楽しむことその他,生活上の様々な正常な活動は引き続き行ないます。しかし神に献身するとは,神のご意志と神を崇拝することを最も大切なこととし,どこにいても,また何をしていても,神の助言を守り,イエスが残された手本に従うよう誠実に努力することを意味します。―コロサイ 3:23,24

21 神に献身する人はバプテスマを受けてそのことを公に示さなければならないことを,聖書ははっきりと述べています。イエスは追随者にこうお命じになりました。

「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」― マタイ 28:19,20

バプテスマを受ける人たちが,神の言葉を勉強し,イエスの弟子になった人でなければならなかったのであれば,その人たちがただの乳飲み子でなかったことは明らかです。また,神に献身したことを表わすそのバプテスマは,イエスがヨルダン川でお受けになったバプテスマと同様,水中に完全に没せられるものでした。―マルコ 1:9-11。使徒 8:36-39

22 キリストのバプテスマを受けた弟子になるなら,真のキリスト教の充実した幸福な生活を送れるようになります。それは際限のない規則に縛られた生活ではなく,むしろ人格的に成長する満足のいく生活です。霊的な見方を絶えず向上させ,神のみ言葉に対する認識を絶えず深めて,イエスが残された手本に一層近付くことができます。―フィリピ 1:9-11。エフェソス 1:15-19

23 これは,日々考えることや行なうことに影響を及ぼします。キリスト教の道を歩んで行くにつれ,神が間もなくあらゆる悪を滅ぼして,『義の宿る新しい天と新しい地』に道を開いてくださるという確信は深まります。すると,クリスチャン人格を培い,来たるべき新秩序に自分の場を得ることを可能にする生き方を追い求めたいという気持ちが一層強くなります。(エフェソス 4:17,22-24)使徒ペテロは霊感を受けて次のように書きました。

「自分がどんな人間であるべきかを,敬虔で献身的な生活をどのように送るべきかを考えなさい。これ[新秩序]を待ち望んでいるのであるから,あなたがたは,神と平和な関係にある者,神の目から見て汚点や非難すべきところのない者として見いだされるよう,力を尽くして励みなさい」― ペテロ第二 3:11,14,新英訳聖書。

24 エホバ神を崇拝していることが生活全体に反映するなら,それは本当に喜ばしいことです。多くの人が自分の楽しみだけを考え,快楽を追求する自己中心的な生き方をしている今日ですが,あなたは真の神の道に従って生き,真の神を崇拝することができます。それこそ最善の生き方です。

[研究用の質問]

ほとんどの人はだれを第一にしていますか。それはなぜ賢明ではありませんか。(1-4)

ノアとアブラハムは今日の大多数の人とどのように異なっていましたか。(5,6)

古代イスラエルの時代に,神は人々をどのように扱われましたか。(7-9)

神は人々を扱う点でどんな変化を加えられましたか。(10-12)

神はクリスチャンをどのように組織し指導されましたか。(13-15)

神がクリスチャンを扱われる方法は,あなたにとってどんな意味を持ちますか。(16)

神への愛は何を行なうようわたしたちを動かすはずですか。(17-19)

バプテスマはなぜ重要な段階ですか。それは何を象徴していますか。(20,21)

あなたは神に献身しましたか。バプテスマを受けたいと思いますか。それはあなたにとって何を意味するでしょうか。(22-24)