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救出への道を導くのはだれですか

救出への道を導くのはだれですか

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救出への道を導くのはだれですか

1 (イ)「大患難」を切り抜けて無事に救い出していただくためには,わたしたちは何に服従しなければなりませんか。(ロ)神がモーセをお用いになった仕方は,このことをどのように例証するものとなっていますか。

わたしたちはイエス・キリストの指導を受け入れ,自分が本当にその言われることに聴き従い,その足跡に従って歩んでいる,説得力のある証拠を示してはじめて,この邪悪な世から救われ,生きたまま保護されて,来たるべき「大患難」を通過させていただけるのです。(使徒 4:12)西暦前1513年に生来のイスラエル人がエジプトから救出された時のその前後の出来事は,このことを実によく例証するものとなっています。エホバは奇跡的な仕方でイスラエルに紅海を渡らせて安全な所へと導き,追跡するエジプト人の軍勢を滅ぼされました。そのすべての事柄において,神はご自分の民を導くためにモーセをお用いになりました。―ヨシュア 24:5-7。出エジプト記 3:10

2 (イ)イスラエルと共にエジプトを去った「入り混じった大集団」とは,どんな人々でしたか。(ロ)それらの人々の多くは何に引きつけられたに違いありませんか。(ハ)彼らはほどなくどんな事柄で試みられましたか。

2 イスラエル人が約束の地に入る見込みを抱いてエジプトから進み出た時,他の人々がその隊伍に加わりました。モーセが後に書き記したとおり,「入り混じった大集団も彼らと共に上って行き」ました。(出エジプト記 12:38)それはどんな人々でしたか。それはイスラエルと運命を共にしたエジプト人もしくは他の異国の人々でした。それらの人々は,エホバがご自分こそ唯一まことの神であること,またエジプトの神々は偽りの神々であって,これを崇拝する者たちを救出できないことを実証するために,圧制的なエジプトの国民に臨ませた,畏怖の念を起こさせる災厄を見ていたのです。それに,「乳と蜜の流れる地」での生活の見込みについてイスラエル人から聞いた事柄は,彼らにとって善いことだと思えたに違いありません。(出エジプト記 3:7,8; 12:12)しかし,それらの人たちはまた,モーセが神によってその民の支配者ならびに救出者として立てられた者であることを十分に認めましたか。彼らはほどなくして試みられました。―使徒 7:34,35

3 (イ)モーセの指図に従うのは,どうして肝要なことでしたか。(ロ)「モーセへのバプテスマ」は何を意味していましたか。(ハ)それは霊的なイスラエル人にとってどうして重要な事柄ですか。

3 イスラエルが「入り混じった大集団」と共に紅海の岸に近づいた時,エジプトの王とその軍勢は彼らを引きずり戻して奴隷にするためにその後を追いました。救出してもらうためには,彼らは一緒にとどまり,モーセの指図に従わなければなりません。なぜなら,エホバは彼らを導くためにモーセを用いておられたからです。エホバは超自然的な雲によって敵を引き留めるとともに,海の水を引き分けて,海底を干上がらせました。後にエジプト人に起きた事柄とは著しく対照的な事柄として,イスラエルと「入り混じった大集団」のすべてはモーセと共にその乾いた海底を横切って逃れました。(出エジプト記 14:9,19-31)左右には水の壁があり,頭上には神の臨在を示す雲が立ちこめる中を,彼らが進んで行った時,ある重要な事柄が起きました。聖書はそれをバプテスマ ― 水による文字通りのバプテスマではなく,エホバの預言者であるモーセ,つまり神によって彼らの救出者となるよう遣わされた方への象徴的なバプテスマと呼んでいます。(コリント第一 10:1,2)同様に,この邪悪な世の滅びを生き残る霊的なイスラエル人は皆,救出者としてのキリストへの同様のバプテスマを受け,その指導にしっかりと付き従っている,説得力のある証拠を示さなければなりません。現代の『入り混じった集団』はそれらの人たちに付き添って行かなければなりません。

4 エホバがキリストにお与えになった権威はどれほど大きなものですか。

4 エホバはご自分のみ子,イエス・キリストに大きな権威をお授けになりました。神はこの方によってわたしたちを『現在の邪悪な事物の体制から救い出す』ことを可能にしてくださったので,わたしたちはその恐ろしい運命を共にする必要がなくなりました。(ガラテア 1:3-5。テサロニケ第一 1:9,10)エホバはモーセを通して,その民の当面の生活の見込みに影響を及ぼす律法をイスラエルにお与えになりました。彼らはその律法に従った時に,大いにその益を受けました。しかし,律法の中には,不従順に対しては死の処罰を定めたものもありました。後にイエスはモーセよりも大いなる預言者となられました。イエスの教えられた事柄は『永遠の命のことば』でしたから,それらのことばに故意に従おうとしないなら,死に陥ることになり,その死から救い出されることはありません。ですから,イエスの言われる事柄を心に留めるのは何と重要な事柄なのでしょう。―ヨハネ 6:66-69; 3:36。使徒 3:19-23

5 イエスに対する服従を魅力的なものにするのは何ですか。

5 ある人々にとって,指導者に対する服従という考え方は望ましい事柄とは思えません。そのような人たちは権威が余りにも乱用されるのを見てきました。しかし,イエスご自身のことばは人を安心させるような精神を反映しています。イエスは温かさを込めて次のようにわたしたちを招いておられます。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。(マタイ 11:28-30)何と魅力的な見込みなのでしょう。その温かな招待の言葉に留意し,この方に全幅の信頼を寄せる人たちは,失望させられることはありません。(ローマ 10:11)そのような人々は愛ある羊飼いの群れの中の羊のように,安心感を味わえるでしょう。

本物の立派な羊飼い

6 (イ)イスラエル国民はどのように囲いの中の羊に似ていましたか。(ロ)エホバはそれらの「羊」のための羊飼いに関してどんな約束をなさいましたか。それはどのように成就しましたか。

6 イスラエル国民はエホバに属する羊の群れのようでした。エホバは律法契約を設けてくださり,その契約は羊の囲いの保護壁のような役を果たし,不敬虔な世の諸国民の生活の仕方に接しないよう彼らを囲い込むものとなりました。それはまた,よく反応を示す人たちをメシアに導きました。(エフェソス 2:14-16。ガラテア 3:24)羊飼いで,王でもある,そのメシアに関してエホバはこう予告されました。「わたしは[わたしの羊]の上に一人の牧者を起こす。その者は必ず彼らを養う。それはすなわち,わたしの僕ダビデである」。(エゼキエル 34:23,31)それは,当時死んでいたダビデが再び神の民の王として個人的に支配することを意味してはいませんでした。むしろ,エホバはダビデの王統から王なる羊飼いを起こし,その王を通して神は安全を計ることになったのです。(エレミヤ 23:5,6)いろいろな時代に種々の人間が偽って自分が救出者なるメシアであると唱えましたが,西暦29年にエホバは,バプテスマを施す人ヨハネを用いて,イエス・キリストを本当に神によって遣わされた者,つまり真正の信用証明書を持つメシアとしてイスラエルの「羊」に紹介されました。その方は神の天的なみ子であって,その生命の本質はユダヤ人の一人の処女の胎内に移されて,彼がダビデの王統から生まれ出るようにされたのです。ダビデという名は「愛する者」という意味です。ですから,イエスが水によるバプテスマをお受けになった後,適切にもエホバは他の者に聞こえるように天から次のように言明されたのです。「あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した」― マルコ 1:11

7 (イ)イエスは「りっぱな羊飼い」として,「羊」に対するご自分の愛ある関心の深さをどのようにはっきりと示されましたか。(ロ)それは以前の偽りのメシアの行ないとどのように対照的でしたか。

7 イエスは亡くなる4か月ばかり前に,こう言われました。「わたしはりっぱな羊飼いです。りっぱな羊飼いは羊のために自分の魂をなげうちます」。(ヨハネ 10:11)イエスはご自分の役割と以前にやって来た偽りのメシアのそれとを対照させて,こう言われました。「羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじ登る者,その者は盗人であり,強奪者です。しかし,戸口を通って入る者は羊の羊飼いです。戸口番はこの者に対して戸を開け,羊はその声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです。よその者には決して付いて行かず,むしろその者からは逃げるのです。よその者たちの声を知らないからです」― ヨハネ 10:1-5,8

8 (イ)イエスはご自分に付いて来たユダヤ人を,どんな新たな「羊の囲い」に導かれましたか。(ロ)イエスはこの囲いに何人の人々をお入れになりましたか。

8 ユダヤ人の羊の囲いの中にいて,律法契約の導きに答え応じた人々は,「戸口番」である,バプテスマを施す人ヨハネがイエスを紹介した時,この方をメシアとして受け入れました。彼らはイエスが「自分の羊」と呼ばれたものになったので,イエスは彼らをエホバのものである新しい比ゆ的な羊の囲いに導かれました。この囲いは霊的なイスラエルと結ばれて,イエスご自身の血によって有効なものとなった,新しい契約に基づいて築かれたエホバとの恵まれた関係を表わしました。彼らはこの契約によって,すべての国の民の人々に祝福をもたらす手だてであるアブラハムの「胤」としてのキリストと共に天的な命を得ることができるようになりました。(ヘブライ 8:6; 9:24; 10:19-22。創世記 22:18)神が死人の中からよみがえらせ,天的な命を回復させられたイエス・キリストは,この新しい契約という羊の囲いの「戸口」です。イエスはそのみ父の目的と調和して,限られた人数 ― ちょうど14万4,000人 ― の人々だけを,最初にユダヤ人の中から,また後にはサマリア人や異邦人の中からこの囲いにお入れになりました。立派な羊飼いであられるイエスは,ご自分の羊を各々名によって知っておられ,ご自分の羊を愛を込めて個人的に世話し,注意を払っておられます。―ヨハネ 10:7,9。啓示 14:1-3

9 イエスが言及しておられる「ほかの羊」とはだれのことですか。それらの人々はいつ集められますか。

9 しかし,イエスは羊を世話する仕事を,天の王国を得るこの「小さな群れ」に限定しておられるのではありません。(ルカ 12:32)イエスはまたこう言われました。「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」。(ヨハネ 10:16)これらの人々はだれですか。彼らは新しい契約に入っていない人たちです。つまり,霊的なイスラエル人ではありません。しかし,彼らは霊的なイスラエルの成員と密接な交わりを持つよう導かれています。一方,それら油そそがれた成員は依然として地上におり,イエスが描写しておられるような仕方で羊として世話されることを必要としています。「ほかの羊」は,この終わりの日の期間中,イエスの血の犠牲の価値に対するその信仰に基づいて地上でとこしえの命を受けるためのエホバの備えの中に集められている人たちです。彼らは啓示 7章9,10,14節の「大群衆」と同一の人々です。ですから,彼らには来たるべき大患難を生き残る見込みがあります。

10 それら「ほかの羊」の一人となるには,何が求められていますか。

10 この立派な羊飼いによって保護され,存続させられる,このような「ほかの羊」に関する聖書の描写に合致するためには,人はその羊飼いの声に「聴き」従い,自分は本当に,天の王国の本物の相続人たちを含む「一つの群れ」の一部であるという証拠を示さなければなりません。あなたはそうしておられますか。あなたはどれほどその声に注意深く聴き従っておられますか。

11 ヨハネ 15章12節でイエスの言われた事柄にわたしたちが本当に「聴き」従っているという証拠を示すものとなるのは何ですか。

11 あなたはきっと,イエスが,「わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛すること,これがわたしのおきてです」と言われたのをご存じでしょう。(ヨハネ 15:12)そのおきてはあなたの生活にどのように影響を及ぼしていますか。あなたが示しておられる愛は,イエスが模範を示されたような愛ですか。それは本当に自己犠牲の愛でしょうか。あなたの行動や感情は,クリスチャンの会衆内のすべての人々およびご自分の家の者に対するそのような愛を示す証拠となっていますか。

12 (イ)もしわたしたちが本当に『イエスによって教えられて』いるのでしたら,わたしたちはどれほどの変化を遂げてゆきますか。(ロ)ですから,わたしたちは聖書から物事を学んで,何をしているべきでしょうか。

12 使徒パウロは,もしわたしたちが本当にイエスのことばを「聴き」,『彼によって教えられて』いるのなら,わたしたちの全人格が変化すると述べています。わたしたちは自分の以前の生き方に合った人格を脱ぎ去り,エホバの優れた特質を反映する「新しい人格」を着けます。(エフェソス 4:17-24。コロサイ 3:8-14)聖書を研究する際,神を喜ばせるために,個人的に調整する必要のある分野について真剣に考えておられますか。良心的にそのような変化を遂げておられますか。あなたは,イエスがわたしたちの時代のためにお命じになった肝要な業 ― 設立された神の王国の良いたよりを宣べ伝えること ― に注目し,その業にあずかる方法を求めておられますか。あなたに対する神の過分のご親切を深く感謝するがゆえに,そうしたいという心からの願いがあなたのうちに引き起こされていますか。―マタイ 24:14

13 (イ)もし注意しないなら,わたしたちはどのように自分の心によって誤導されるおそれがありますか。(ロ)それで,わたしたちはどの程度までキリストの足跡に従わなければなりませんか。

13 わたしたちは自分自身の心によって誤導されるままにならないよう,十分注意しなければなりません。何百万もの人々はイエス・キリストを信じていると公言し,その教えられた事柄の幾つかを引き合いに出すことができるかもしれませんが,それらの人々は,ただ自分にとって都合のよい事柄だけを適用します。中には,甚だしく間違っていると考えられる行ないにふけるようなことは避ける人たちもいるでしょう。そのような人たちにとって,神の王国のもとで楽園となる地球上の生活の見込みは結構なことだと思えるでしょうし,それらの人はキリスト教の原則を自分たちの生活に誠実に当てはめようと努力している人々といま交わることを喜んでいるかもしれません。しかし,もし「新しい地」に生き残る人たちの一人になりたいのならば,わたしたちはイエスの言われる事柄すべてに注意深く聴き従わなければなりません。わたしたちは自分自身の歩みを首尾よく導くことができないという事実を正しく認識するのは肝要なことです。わたしたちは神のみ子,つまりエホバによってその民の救出者として任命された方の言われることに聴き従わなければなりませんし,その方の足跡に注意深く従って歩まなければなりません。―エレミヤ 10:23。マタイ 7:21-27。ペテロ第一 2:21

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