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成功するようあなたを助けることのできる人々

成功するようあなたを助けることのできる人々

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成功するようあなたを助けることのできる人々

1,2 (イ)悲嘆に暮れているとき,他の人から何をしてもらうことが必要ですか。(ロ)クリスチャン会衆においては,特にだれがそれをすることができますか。

悲嘆に暮れているときに与えられる励ましの言葉,困っているときに差し伸べられる援助の手,これらは本当にありがたいものです。永遠の命の目標に向かって前進するとき,行く手には必ず障害となるものがありますから,そうした助けは確かになくてはならないものです。大いに必要とされる激励や慰めを与えることのできる忠実で古い兄弟たちが会衆にいるのは確かに祝福であると言えます。

2 聖書はそのような「牧者」のことを,愛のうちに会衆を築き上げるためにイエス・キリストが備えてくださった「人びとの賜物」と呼んでいます。(エフェソス 4:7-16)ですから,自分の信仰が弱まったり,問題や試練のために途方に暮れたり,当惑したり,落胆したりしていると感じるなら,神のみ子の是認された弟子としてとどまろうという決意を貫くための助けを献身的な長老に求めるべきです。

3 ペテロ第一 5章1-3節では,長老たちに対してどんな訓戒が与えられていますか。

3 使徒ペテロが長老たちに書き送った事柄を調べると,長老たちがどのように,またなぜあなたを強める助けとなれるのかがよく分かります。こう書かれています。

「あなたがたのうちの年長者に,わたしはこう勧めます。わたしもともに年長者であり,またキリストの苦しみの証人,表わし示される栄光にあずかる者だからです。あなたがたにゆだねられた神の羊の群れを牧しなさい。強いられてではなく,自らすすんで行ない,不正な利得を愛する気持ちからではなく,真剣な態度で牧しなさい。また神の相続財産である人々に対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範となりなさい」― ペテロ第一 5:1-3

4 ペテロの言葉遣いは,ペテロが手紙を書き送っていた長老たちよりも自分を高めていないことをどのように示していますか。

4 使徒ペテロの助言に従おうとするクリスチャンの男子がいることを,わたしたちは大いに喜べます。その人たちは,会衆の成員を霊的に助けるに際して,同使徒が示したのと同じ精神で援助を差し伸べます。その動機となっているのは,神と兄弟たちに対する愛です。ペテロは,自分が勧告や励ましを与えていた長老よりも自分を高めなかったことに注目してください。ペテロは自分について「ともに年長者であ(る)」つまり“仲間の長老である”と述べました。そのようにして,自分が,会衆の長老としての彼らの立場に思いやりのある理解を持っている一兄弟であることを示したのです。信仰の仲間に対してそうした思いやりのある態度を示す長老は,兄弟たちにとって本当に祝福となります。

5 ペテロはどのように「キリストの苦しみの証人」でしたか。

5 ペテロの言葉は,また,彼が自分にゆだねられた重い責任を認識していたことを示しています。ペテロは自分自身を「キリストの苦しみの証人,表わし示される栄光にあずかる者」と述べました。神のみ子がののしられ,虐待され,ついには杭にくぎ付けにされたのをペテロは実際に知っていました。直接の目撃者であり,しかも復活したイエス・キリストおよびそのキリストの昇天を見たのです。そして,二番目の手紙の中でペテロはこう述べています。

「わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなたがたに知らせたのは,巧みに考え出された作り話によったのではなく,彼の荘厳さの目撃者となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者,わたし自らこの者を是認した』ということばが荘厳な栄光によって彼にもたらされた時,彼は父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼とともに聖なる山にいた時,このことばが天からもたらされるのを聞きました」― ペテロ第二 1:16-18。マタイ 16:28-17:9と比較してください。

6 ペテロが手紙をあてた長老たちはその言葉に注意を払うべき十分の理由がありましたが,それはなぜですか。

6 確かに,ペテロから励ましを与えられていた長老たちには,自分のことを「キリストの苦しみの証人,表わし示される栄光にあずかる者」と述べることのできた仲間の長老の言葉に注意を払うべき十分の理由がありました。使徒ペテロは謙遜な態度で長老たちに懇願しただけでなく,見倣うべき手本を自ら示しました。というのは,聖書の記録が示している通り,ペテロは活発に,時には非常な危険に身をさらしながら,目撃した事柄を他の人々に知らせたからです。―使徒 2:22-38; 4:8-12,19,20; 5:29-32

7,8 (イ)長老は群れの所有者がだれであることを認めるべきですか。(ロ)そのことは,会衆の取り扱いにどう影響するはずですか。

7 今日の長老たちがペテロのようになるには,会衆の成員が自分のものではなくエホバ神のものであることを認める必要があります。使徒パウロもその重要な事実に注意を促し,エフェソスの会衆の長老たちにこう述べました。「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです」― 使徒 20:28

8 エホバ神はきわめて大きな犠牲を払ってクリスチャン会衆の成員をご自分の所有物とされました。支払われた価として,罪のないみ子の血よりも高い価はなかったはずです。長老たちが,ゆだねられた会衆をエホバ神と同じように高く評価するなら,至高者の誉れある所有物としてとどまるよう成員各自を援助する面で一層勤勉になれます。群れを虐げるなら,長老たちはそのことについて神に申し開きをしなければならないでしょう。ですから,長老は,会衆内の一人一人の真価を正しく認識するよう努めなければなりません。そうすることは,群れに対していばったり,群れを厳しく横暴に扱ったりしないようにするための強い抑制力ともなります。(使徒 20:29と対比してください。)会衆の成員一人一人は,自分にしかるべき尊厳を与え敬意を示してくれる兄弟たちによって大いに築き上げられます。長老たちが,群れ全体の霊的および身体的な福祉に十分注意して,真の「牧者」であることを証明するなら,すべての人が安心感を持ちます。

「強いられてではなく,自らすすんで」

9,10 (イ)どんな場合に,長老は「強いられて」牧羊の業をしていると言えるでしょうか。(ロ)長老が「自らすすんで」牧羊の業をしていることは何から分かりますか。

9 助けが必要なとき,援助を与える能力があるだけでなく,援助したいという願いを持っている人には一層近づきやすいものです。ペテロは適切にも,長老が「強いられてではなく,自らすすんで」牧羊の業をするように勧めました。(ペテロ第一 5:2)会衆の立派な「牧者」になるためには,自分の務めを単なる義務感で行なわないように注意する必要があります。会衆の世話をすることを喜びのない骨の折れる仕事であると感じるなら,長老は「強いられて」任務を果たしていることになります。会衆の成員はそれに気付き,問題を持って行って長老の重荷を増やしたくないという気持ちから,話そうとしなくなります。ところが,仕事を行ないたいと心から願っているゆえに長老が責任を喜んで果たしているなら,会衆の成員はその長老に引き付けられます。自らすすんで仕えようというそうした気持ちは,神および神の民の会衆に対する深い愛に根差しています。それは,その長老が群れに対する自分の奉仕の務めを正しい態度で果たしていることの証拠です。

10 むろん,長老は,どうみても自分が扱いきれないほど多くの荷をしょい込むことがないように良い判断を下す必要があります。老齢になり病気がちになるにつれ,以前ほど多くのことができないため,他の有能な人々に助けてもらわなければならないことがあります。それでも,その長老は,自分の限界内ですすんで物事を行なう「牧者」として真の喜びを見いだすことでしょう。

『不正な利得のためではなく,真剣な態度で』

11 「不正な利得を愛する気持ちから」会衆を牧する危険があるのはなぜですか。

11 長老が兄弟たちの真の助けになるには,自らすすんで仕える精神を示すほかに,純粋で無私の動機を持つ必要があります。使徒ペテロは「不正な利得を愛する気持ちから」牧者として仕えることを警告しています。牧者という立場を利用して物質的な所有物や称賛や権力を得るなら,その立場を誤用していることになります。なるほど聖書は教えることに骨折っている人々に「二倍の誉れ」を与えるように助言しています。(テモテ第一 5:17,18)しかし,そのような「二倍の誉れ」はいつも,会衆の成員から自発的に与えられるべきであって,長老がそれを要求したり,会衆の成員から当然期待できるもの,あるいは強要できるものとみなしたりすべきでは決してありません。自由な立場にあるため王国の活動に他の人々より多く携われるとか,何らかの際立った能力があるとかといった理由で,長老が目立つ存在になることがあります。人はその目立った立場から利益を得たいという誘惑にかられやすく,他の人々からもらえそうなある物品を欲しいと言ったり,欲しいことをほのめかしたりしかねません。そのため,他の人々をなおざりにして,比較的裕福な人々とだけ交わるようなことにもなりかねません。称賛は得たがりますが,根拠のある批判や助言に対しては無関心であったり,あるいは憤慨することさえあります。

12,13 使徒パウロは,「真剣な態度で」兄弟たちに仕えたことをどのように示しましたか。

12 今日のクリスチャン会衆でこのような人は比較的に少数ですが,長老たちはその危険を見くびるべきではありません。霊的な関係を通して物質的な益を求める傾向は,ほんのきざしが見えただけでも食い止めなければなりません。その点でクリスチャン使徒パウロは優れた模範を示しました。エフェソスの会衆の長老たちに,次のように述べることができました。

「三年の間,わたしが夜も昼も,涙をもってひとりひとりを訓戒しつづけたことを覚えていなさい。……わたしはだれの銀も金も衣服も貪ったことはありません。この手が,わたしの,そしてわたしとともにいる者たちの必要のために働いたことを,あなたがた自身が知っています。わたしは,このように労して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』とのことばを覚えておかなければならないことをすべての点であなたがたに示したのです」― 使徒 20:31-35

13 パウロが行なったように「真剣な態度で」労する人々から,会衆は計り知れない益を受けます。パウロは兄弟たちに喜んで仕え,兄弟たちの持ち物で自分に役立ちそうな物をものほしげに見ることを決してしませんでした。パウロの喜びは,兄弟たちを築き上げるために進んで自分を与えたことから生じました。

14 「真剣な態度で」会衆を牧することに含まれる事柄について,テサロニケ第一 2章5-8節から何が分かりますか。

14 パウロとその仲間が偽善のない仕方で仕えたことは,テサロニケの人々に語ったパウロの言葉から明らかです。

「どんな場合にもへつらいのことばで現われたことはなく(あなたがたの知るとおりです),また強欲さを隠す見せかけでもって現われたこともありません。神が証人となってくださるのです! また,人間からの栄光を求めたりもしてきませんでした。そうです,あなたがたからも,また他の人びとからもです。キリストの使徒として,費用の面で重荷を負わせてもよかったのですが,そうはしなかったのです。それどころか,乳をふくませる母親が自分の子どもを慈しむときのように,あなたがたの中にあって物柔らかな者となりました。こうして,あなたがたに優しい愛情をいだいたわたしたちは,神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなたがたが,わたしたちの愛する者となったからです」。(テサロニケ第一 2:5-8

そうです,パウロは,会衆の成員から個人的な利得を得ようとするどころか,子供を深く愛して,自分の益よりも子供の益を優先させる乳をふくませる母親のように振る舞いました。―ヨハネ 10:11-13と比較してください。

15 長老はどのような仕方で群れを牧そうとすべきですか。

15 群れに対する気遣いという正しい動機を持つことに加え,長老は,会衆を正しい仕方で世話することの大切さを忘れないようにしなければなりません。使徒ペテロは,「神の相続財産である人びとに対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範となりなさい」と長老たちに助言しました。(ペテロ第一 5:3)この勧めの言葉に従い,長老は兄弟たちよりも自分を高めることをしません。そのようなことは,イエスが追随者にお与えになった次の教えに反します。

「あなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者でなければなりません」。(マタイ 23:8-11

ですから,長老とは,主人のように命令したり会衆の成員の生活を管理しようとしたりするどころか,奴隷のように謙遜に兄弟たちに仕える人です。長老は手本を示して,キリストに似た者となるよう群れを励まします。―テサロニケ第一 2:9-12と比較してください。

16 忠実な長老たちには信頼して近付けます。それはなぜですか。

16 長老がクリスチャンの生活と活動において自ら立派な手本を示すなら,信仰の仲間が最終的にエホバ神に是認されるよう大いに助けることができます。さらに,長老たちの上に立つ「主要な牧者」であられるイエス・キリストは,「王の王また主の主」として栄光のうちに現わされるとき,忠実な従属の牧者たちすべてに報いをお与えになります。(啓示 19:16。テモテ第一 6:15)使徒ペテロが,「主要な牧者が現わされた時,あなたがたはあせることのない栄光の冠を受けるでしょう」と書いている通りです。(ペテロ第一 5:4)確かに,正しい理由から,ふさわしい動機をもって,適切な仕方で兄弟たちに仕える人々は会衆の真の助けです。そのような人々のおかげで,兄弟たちはクリスチャンの生き方に大きな喜びを感じることができます。(コリント第二 1:24)必要な時にはいつでも,ためらわずに忠実な長老の援助を得てください。

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