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模範的な行状の外国人また寄留者

模範的な行状の外国人また寄留者

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模範的な行状の外国人また寄留者

1,2 外国人はしばしばどのように見られますか。それはなぜですか。

地域社会の人々とあまりにも異なっていて目立つ人は,不信と疑惑の目で見られるものです。その人の行状は土地の人のそれよりも細かに監視される場合があります。残念なことですが,近隣にいる一人の外人の不行跡から人種や国民や部族全体に対して偏見を持つ人々がいます。政府でさえも外国人にのみ適用される法律や規則を作ります。行状が望ましくない外人は追放されることもあります。

2 こうしたことは,クリスチャンにとってなぜ大いに重要でしょうか。それはクリスチャン男女の生き方に当然どのように影響するでしょうか。

3 (イ)真のクリスチャンはなぜこの世にあっては“外人”ですか。(ロ)未信者の人々は彼らをどのようにみなしますか。なぜですか。

3 真のクリスチャンは,神がおつくりになる「新しい天と新しい地」の一部としての永遠の住みかを待ち望んでいるので,この世にあっては「外国人また寄留者」です。(ペテロ第一 2:11。ペテロ第二 3:13)イエス・キリストの真の弟子は考えや行動を聖書に合わせようと努めるので,未信者やキリスト教を実践しているふりをしているだけの人々は,真の弟子たちをあたかも望ましくない“外人”のように見下げることがあります。しかし,キリストの真の弟子はクリスチャンに対するこの世の見方のために恥ずかしく感じるべきではありません。神の観点からすれば,その外国人という身分は尊いものです。ですから,クリスチャンは非難されても仕方がないような振る舞いをしないように最善を尽くしたいと願うことでしょう。

4,5 (イ)西暦一世紀当時,使徒ペテロがクリスチャンたちを「各地に散っている寄留者たち」と呼ぶことができたのはなぜですか。(ロ)エホバ神はクリスチャンをどのようにみなされましたか。

4 信仰の仲間にあてた手紙の中で,使徒ペテロは「外国人また寄留者」という彼らの誉れある立場に注意を促しました。その最初の手紙の冒頭にはこう書かれています。

「イエス・キリストの使徒ペテロから,ポントス,ガラテア,カパドキア,アジア,ビチニアの各地に散っている寄留者たち,父なる神の予知にしたがい,霊による聖化をもって,また従順な者となってイエス・キリストの血を振りかけられる目的で選ばれた人たちへ」― ペテロ第一 1:1,2

5 西暦一世紀当時,信者たちは様々な土地に散らばり,クリスチャンでない人々に取り囲まれて生活していました。そして周囲の人々から不当にさげすまれる場合が少なくありませんでした。ですから,ペテロの手紙の中で示されているような,自分たちに対するエホバの見方を読んだり聞いたりすることは,それらの信者にとって励ましとなったに違いありません。彼らは実際神の「選ばれた人たち」,選民でした。至高者はその人たちをご自分の所有物,ご自分の民とされました。ユダヤ人と非ユダヤ人から成るクリスチャン会衆が存在するようになるはるか以前に,全能者は,地上の各地に散らばるご自分の僕から成るそうしたグループがやがて存在するようになることを予知されました。彼らは,神の霊の働きを受けることによって聖別される,つまり,神聖な用のために取り分けられました。エホバは,彼らが神のご意志を行なう従順な子供となるようにという目的で聖別されたのです。宇宙の主権者によってそのように用いられていることを知ると,それらの信者は深く感動して,神が与えてくださった崇高な目的にそいたいという気持ちになったはずです。

6 (イ)どのようにしてクリスチャンたちは神のみ前に清い立場を得ましたか。(ロ)彼らが『イエス・キリストの血を振りかけられた』ことにはどんな事柄も含まれていたと思われますか。

6 信者が選ばれ聖別された人々となったのは,言うまでもなく,彼ら自身に功績があったからではありません。その一人一人は罪人であり,清められることを必要としていました。ですから,使徒ペテロはその人たちについて「イエス・キリストの血を振りかけられる」と述べました。このことからわたしたちは,とりわけ人間の死体に触れて儀式上汚れたイスラエル人を清める手順を思い出します。その人が再び清くなるためには,清めの水を振りかけられることが必要でした。(民数 19:1-22)同様に,キリストの犠牲の贖いの益はクリスチャンに適用されました。それによってクリスチャンは神のみ前に清い良心を得,祈りを通して自由な言葉で神に近付くことができました。(ヘブライ 9:13,14; 10:19-22)さらに,また,イスラエル人がエホバと契約関係に入ったとき,モーセはいけにえの血を民に振りかけました。(出エジプト 24:3-8)ですから,「イエス・キリストの血を振りかけられる」という言葉は次のことにも注意を促していると考えられます。すなわち,それらの信者は,イエス・キリストを仲介者とし,イエスが流された血によって有効となった新しい契約に入れられていたのであり,すでにその契約の益にあずかっていたということです。

7 「外国人」という立場にあるわたしたちには,どんなことが求められますか。

7 西暦一世紀の信者と同様,イエス・キリストの今日の献身的な弟子たちも,エホバ神のみ前に誉れある立場を得ています。これらの弟子は,この世にあって,模範的な「外国人」また「寄留者」として振る舞わなければなりません。さもないと,エホバ神および神の民の会衆に非難をもたらします。ですから,そのすべては,使徒ペテロの次の勧めの言葉を心に留める必要があります。「愛する者たちよ,外国人また寄留者であるあなたがたに勧めますが,絶えず肉の欲望を避けなさい。そうした欲望こそ,魂に対して闘いをいどむものなのです」― ペテロ第一 2:11

8 何に不当な愛着を抱くようなことがあってはなりませんか。それはなぜですか。

8 現在のつかの間の事物の体制において「外国人また寄留者」なのですから,わたしたちは,現存する人間の機構内の何ものかに不当な愛着を抱いてしまうわけにはいきません。地的な結び付き,悲しみ,喜び,あるいは所有物はどれも永続するものではありません。だれも時の流れに逆らうことはできませんし,予期しない出来事に遭わずにはすみません。時の経過や予期しない出来事によって,人の境遇が突然にすっかり変わることがあります。(伝道 9:11)ですから,使徒パウロの次の助言に注意を払うのは真に知恵のあることです。「妻を持っている者は持っていないかのようになりなさい。また,泣く者は泣かない者のように,喜ぶ者は喜ばない者のように,買う者は所有していない者のように,世を利用している者はそれを十分に使っていない者のようになりなさい。この世のありさまは変わりつつあるからです」。(コリント第一 7:29-31)現在の絶えず変化する状況や諸関係から生まれる悲しみや喜びに浸り切ってしまうことは,至高者とみ子に一層近付く妨げとなり,わたしたちに重大な損失を招きかねません。

9,10 (イ)所有物に対するこの世的な人々の見方はどんなことから分かりますか。(ロ)所有物に対するわたしたちの見方は,未信者のそれと異なっているべきなのはなぜですか。

9 人類の大多数の状態は,わたしたちが『世を十分に利用』しようとしてはならない理由を如実に示しています。一般の人々は「新しい天と新しい地」に関する神の約束を知らないか,そうした来たるべき新秩序に真の信仰を持っていないかのいずれかです。ですから,現在の生活以外に注意を向けるものがなく,将来に確固とした希望もありません。したがって,人々は日常の必要物のことしか考えず,この世からできるだけ多くを得ることに没頭しているのです。(マタイ 6:31,32)そして,立派な衣服,輝く宝石,高価な装飾品,美しい家具あるいは豪奢な家を得るという見込みに目を輝かせます。物質的な所有物で他の人々に感銘を与えることを願い,またそうしようと努力するでしょう。―ヨハネ第一 2:15-17

10 それとは対照的に,クリスチャンは自分の前途に永遠の将来があることを知っています。生活上の事柄に夢中になり過ぎて,将来を左右し得る創造者のための時間が事実上なくなることは,クリスチャンにとって愚かしいことと言えます。とは言っても,神の真の僕がお金で買える多くの良いものを適度に楽しんではならないということではありません。そうではなくて,自分たちを現在の体制の「寄留者」と真にみなしているなら,たとえ健全な娯楽や役立つ所有物でも,それらを決して生活の中心としてはならないという意味です。わたしたちは自分の資産を浪費したり不注意に扱ったりすることなく,そうした資産に対して正しい見方を取ります。それはちょうど,信頼できる人が,設備の整ったアパート,道具類,備品その他,必要で借りている物に対して取るのと同じ見方です。その人は借りているそれらの物を大切にしますが,いつまでも自分のものであるかのようにすっかり愛着を持つようなことはしません。現在の体制下では永遠が保証されているものは何もないこと,そして,わたしたちは神がおつくりになる約束された新秩序に向かっている「外国人」また「寄留者」に過ぎないことを認識していることを生活に表わさなければなりません。

『肉の欲望を避けなさい』

11 わたしたちが避けなければならない肉的な欲望の中にはどんなものがあるでしょうか。

11 しかし,クリスチャンとしての生き方を成功させるためには,この世に生活する限りいつ何時境遇が変わるかもしれないということを認識しているだけでは不十分です。『肉の欲望を避けなさい』という聖書の訓戒に真剣な注意を払うことも必要です。肉の欲望とは人の肢体に宿る悪い渇望もしくは欲望のことです。ガラテア人へあてられた使徒パウロの手紙は,それら悪い渇望がどんな罪を犯させるかを明らかにしています。神の霊に導かれている人は「肉の欲望」を遂げないことを述べたのち,同使徒は肉の業として,「淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がら」を列挙しています。―ガラテア 5:16,19-21

12,13 (イ)肉の欲望はどのようにして『魂に対して闘いをいどみ』ますか。(ロ)神のみ前に清い立場を保つにはどうすべきですか。

12 人は受け継いだ罪のために,肉の業に関係させ,『肉の欲望を遂げ』させようとする強い圧力を受けます。不健全な渇望は,魂全体,その人全体を征服し罪深い情欲にふけらせる侵略軍のようです。クリスチャン使徒パウロは,人の心の中でそうした闘いが起こり得ることをよく知っていました。自分自身のことについて,こう書きました。「わたしは自分のうち,つまり自分の肉のうちに,良いものが何も宿っていないことを知っているのです。願う能力はわたしにあるのですが,りっぱな事がらを生み出す能力はないからです。自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです」。(ローマ 7:18,19)そのようなかっとうがあったので,パウロは,「他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないため」に「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行く」必要がありました。―コリント第一 9:27

13 同様に,神のみ前に清い立場を保ち,神の祝福を受けたいという願いがあれば,悪い渇望を抑制するよう努力したいという気持ちになります。娯楽や読み物や交わりの中には人間の罪深い傾向を助長するものがあり,また,人を罪深い傾向へかり立てる状況もありますが,苦しい闘いをそれらによってさらに苦しくする必要がどこにあるでしょうか。もっと大切なこととして,自分自身を守る積極的な処置を講じなければなりません。自分自身の力では成功できず,献身的な兄弟たちの励ましや神の霊の助けが必要であることを思いに留めておくのは良いことです。使徒パウロはテモテに,「清い心で主を呼び求める人びととともに,義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」と勧めました。(テモテ第二 2:22)このことを行なっているなら,聖霊の援助もありますから,悪い欲望に征服されないようにすることができます。こうして,真実なこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,徳とされることや賞賛すべきことに思いを留め続けて悪い欲望に抵抗するなら,神の不興を買わないようにすることができます。(フィリピ 4:8,9)そうすることに成功するよう他の人々を援助しておきながら,自分自身が失敗してしまうということにならないようにしたいものです。

立派な行状は真の崇拝を受け入れるよう他の人々を助けるかもしれない

14 わたしたちが『肉の欲望を避ける』のを見て,他の人々はどのように益を受けると考えられますか。

14 『肉の欲望を避ける』ことには,さらにもう一つの非常に望ましい益があります。使徒ペテロはこう書きました。「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは,彼らが,あなたがたを悪行者として悪く言っているその事がらについて,あなたがたのりっぱな業を実際に見,その業のゆえに検分の日に神をたたえるようになるためです」― ペテロ第一 2:12

15 西暦一世紀当時,真のクリスチャンはどのように誤り伝えられましたか。

15 一世紀当時,クリスチャンは「悪行者」などと言われ,しばしば誤り伝えられました。次のような非難の言葉はその典型的なものです。「これらの男はわたしたちの都市をひどくかき乱しております。……われわれローマ人であれば,採用することも実施することも許されない習慣を広めています」。(使徒 16:20,21)「人の住む地を覆したこれらの者たち」。「これらの者たちはみんなカエサルの布令に逆らって行動し,イエスという別の王がいると言っています」。(使徒 17:6,7)使徒パウロは,「疫病のような人物で,人の住む地のほうぼうにいるユダヤ人すべての間に騒乱を引き起こし(た)」者と非難されました。(使徒 24:5)ローマにいたユダヤ人の主立った人々はパウロに「実際この派について,いたるところで反対が唱えられていることは,わたしたちの知るところだからです」と言いました。―使徒 28:22

16 (イ)誤り伝えられることに対する真のクリスチャンの最善の防御手段となるのはなんですか。(ロ)それによって反対者はどのように助けられる場合がありますか。

16 そのように誤り伝えられることに対する最善の防御手段は立派な行状です。クリスチャンが法を守り,忠実に税金を支払い,「りっぱな業」であればどんなことでも進んで行なう精神を示すなら,また,仕事の面では勤勉かつ正直で,同胞の福祉に真の気遣いを示すなら,クリスチャンに対してなされる非難は偽りであることが明らかになります。(テトス 2:2-3:2)そうすれば,クリスチャンに関していつも中傷的なことを言う人々でさえ,自分たちが悪かったと気付いて真の崇拝を受け入れる気持ちになるかもしれません。そして,かつてはクリスチャンを誤り伝えていたそれらの人々が,神が裁きを行なわれる検分の時に,至高者をたたえ賛美する人の一人に数えられることもあり得るのです。

17 良い行状がそれを見守る人々に健全な影響を及ぼすことを考えると,わたしたちは何を真剣に考慮すべきですか。

17 クリスチャンが廉潔な生活をすることには驚くほど良い影響力があるのですから,他の人々をどのように扱うか,隣人にどれほどの関心を示すかということを真剣に考えざるを得ません。確かに,わたしたちは隣の家の人の必要に目をつぶっていたいとは思いません。そして,単に“得策”として,隣人に親切にし,世話をし,礼儀正しくあるのでないことは言うまでもありません。それはクリスチャンであるために基本的なことです。山上の垂訓の中でイエス・キリストはこう諭されました。「自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」。(マタイ 7:12)聖書は次のように勧めています。「時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)「できるなら,あなたがたに関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい」。(ローマ 12:18)「互いに対し,また他のすべての人に対して,常に善を追い求めなさい」― テサロニケ第一 5:15

18,19 ペテロ第一 3章8節に従い,クリスチャンとしてのわたしたちの態度と行状についてどんなことが言えなければなりませんか。

18 明らかに,クリスチャンであることには,信仰の仲間といっしょに集会に出席し,他の人々に聖書の真理を伝えるという大切な要求を果たすことだけでなく,ほかにも多くのことが含まれます。(マタイ 28:19,20。ヘブライ 10:24,25)態度と行動,個人としての人となりの面で神のみ子に見倣うことも命じられているのです。使徒ペテロは,「最後に,あなたがたはみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を実践し,優しい同情心に富み,謙遜な思いをいだきなさい」と書きました。(ペテロ第一 3:8)「同じ思い」を持つためには,「同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれて」いなければなりません。(コリント第一 1:10)わたしたちのために命を投げうって愛を示されたイエス・キリストのそれと特に一致した考え方をするべきです。(ヨハネ 13:34,35; 15:12,13世界的に愛と一致が見られることから明らかな通り,イエス・キリストの真の弟子たちは「同じ思い」を持っていますが,わたしたち一人一人は次の質問に答えなければなりません。すなわち,“わたしはその一致と愛情の精神に真に貢献しているだろうか。どのように,また,どれほど貢献しているだろうか”。

19 霊的な兄弟たちを真に愛している人は,親切で人を快く許します。問題が話し合われ,その解決に意見の一致が見られたあとは,いつまでも恨みを抱いたり,問題に荷担したと思われるクリスチャン会衆の成員を故意に避けたりしません。ペテロの助言に従い,この世では珍しくない冷淡さ,厳しさ,誇りを表わすことのないように気を付ける必要があります。すなわち,わたしたちには“共通利害感”,つまり苦しんでいる人々に対する思いやりがあること,わたしたちが霊的な兄弟たちに対して温かい愛や愛情を抱いていること,「優しい同情心に富(んでいる)」,つまり哀れみを示したいという気持ちを持っていること,自分の意見を振りかざすのでなくて「謙遜な思いをいだ(いて)」おり他の人々に喜んで仕えようとしていること,これらのことを他の人々が目にするようでなければなりません。―マタイ 18:21-35; テサロニケ第一 2:7-12; 5:14と比較してください。

20 ペテロ第一 3章9節の助言に留意するなら,わたしたちには何が求められますか。

20 さらに,思いやりや同情心や親切を示すのを信仰の仲間だけに限るべきではありません。(ルカ 6:27-36)使徒ペテロは言葉を続けて,「危害に危害,ののしりにののしりを返すことなく,かえって祝福を与えなさい」とクリスチャンに説き勧めました。(ペテロ第一 3:9)これは,わたしたちに危害を加えののしりを浴びせる人をほめたり,あふれるほどの愛情を注ぐという意味ではありません。しかし,その人たちが歩み方を改めて神の祝福を受ける者となることを願いながら,その人たちに対して親切で思いやりのある態度を取り続けるなら,最善の事柄を成し遂げ,心の平安と幸福を十分に味わいます。

仕返しをしない理由

21 仕返しをしないようにするうえで,エホバの模範はどのように助けとなりますか。

21 エホバ神が,あわれみ深くも,イエスの犠牲に基づいてわたしたちの罪を許してくださったという事実は,敵をさえ親切な,同情にあふれた仕方で扱う気持ちをわたしたちに起こさせるはずです。イエス・キリストは,「あなたがたが人の罪過をゆるさないなら,あなたがたの父もあなたがたの罪過をゆるされないでしょう」と語られました。(マタイ 6:15)したがって,わたしたちが神から永続する祝福を受け継ぐかどうかは,進んで他の人を祝福するかどうかにかかっています。エホバ神はわたしたちが思いやりのない扱いを受けるのを許されます。その理由の一つは,同胞に対して寛大で同情心があることを証明する機会をわたしたちに与えることです。使徒ペテロは次のように言葉を続けて,そのような考えを言い表わしました。「あなたがたは[あなたがたに危害を加えようとする人々を祝福するという]そうした道に召されたからです。それはあなたがたが祝福を受け継ぐためなのです」。(ペテロ第一 3:9)これは,他の人々がわたしたちに危害を加えるのを天の父が望んでおられるという意味ではありません。罪深い世に生きている罪深い人間の問題にわたしたちが遭遇しないようにするため神が介入するということはありませんでした。これは,わたしたちが神のようになりたい,つまり親切で同情心があり,人を快く許す人間になりたいと本当に願っているかどうかを試すものとなります。

22 詩篇 34篇12-16節は,復しゅうの精神を避ける点でどんな励ましを与えていますか。

22 ペテロは,仕返しをしないことをさらに励まし,詩篇 34篇12節から16節を引用してこう書いています。

「というのは,『命を愛して良い日を見たいと思う者は,舌を制して悪を口にせず,くちびるを制して欺きを語らぬようにし,悪から遠ざかって善を行ない,平和を求めてこれを追い求めよ。エホバの目は義人の上にあり,その耳は彼らの願いに向けられるからである。しかしエホバの顔は悪を行なう者たちに敵対している』とあるからです」― ペテロ第一 3:10-12

23,24 (イ)『命を愛する』とは,また「良い日を見たいと思う」とはどういう意味ですか。(ロ)命を愛していることを示すなら,どんな益がありますか。

23 ペテロのこれらの言葉は,すべての人を親切に扱うことこそ唯一のふさわしい生き方,最善の生き方であることを強調しています。命が神からの贈り物であることを認識して『命を愛する』人,そして生きる意義と目的のある日々つまり「良い日」を見たいと願う人々は,そのことを同胞の幸福を促進することによって示します。他の人を見くびったり,ののしったり,欺いたりするために,あるいは他の人からだまし取ったりするために舌を用いることがないよう語る言葉に絶えず注意します。そして,あらゆる悪を避け,神の目から見て良いことを行なうことを願います。平和を追い求める人として,攻撃的,好戦的でなく,他の人との,また他の人々の間の良い関係を促進するために努力します。―ローマ 14:19

24 幸福と平和を楽しむよう他の人を助けることによって命を愛していることを示す人は,自らを望ましい仲間とします。他の人々は,その人を必要とし求めていることを,また感謝していることを言葉や行ないで表わします。結果として,その人の生活がむなしく無意味になることは決してありません。―箴 11:17,25

25 神が優しく顧みてくださり,助けを与えてくださることをどうして確信できますか。

25 親切が必ずしも感謝されるとは限りませんが,そうした人はエホバ神が優しく顧みてくださることを確信しています。至高者の目は義人の上にあり,その耳は常に義人の語る事柄に傾けられているので,至高者は義人がちょうど必要としているものをご存じであり,それらを満たすためただちに行動してくださるかもしれません。神は,確かに義人に「良い日を見」させてくださいます。なぜなら,義人が示す敬神の専念は「今の命ときたるべき命との約束を保つ」からです。(テモテ第一 4:8)一方,悪い事柄をならわしにしている人々,他の人の平和と幸福のために努力しない人々は,神が是認を示してくださることを期待できません。神は何一つ見過ごされませんから,神の“顔”は不利な裁きをもってその人々に向けられます。

利得の道

26 ペテロの言葉によれば,わたしたちが世の堕落した慣行にもどるのをだれが見ることを願っていると考えられますか。

26 立派な行状を示して得られる益を絶えず見つめることは,この世の堕落した慣行に巻き込もうとする圧力に抵抗するうえで役立ちます。使徒ペテロはその目的で次のような力強い励ましを与えています。

「過ぎ去った時の間,あなたがたは,不品行,欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝に傾いていましたが,諸国民の欲するところを行なうのはそれでじゅうぶんだからです。彼らは,あなたがたがこうした道を自分たちとともに放とうの同じ下劣なよどみにまで走りつづけないので,当惑してあなたがたのことをいよいよあしざまに言います。しかしそうした人びとは,生きている者と死んだ者とを裁く備えのあるかたに対して言い開きをすることになるでしょう。事実,このために良いたよりは死んだ者たちにも宣べ伝えられたのです。すなわち,彼らが,肉に関しては人間の観点から裁かれた者となっても,霊に関しては神の観点から生きた者となるためでした」― ペテロ第一 4:3-6

27 世の堕落状態にもどりたいなどと決して思うべきでないのはなぜですか。

27 神の意志と目的を知らずに罪深い情欲と欲望を満たすことに年月を費やしていた人も,クリスチャンとなった今ではそれにうんざりして,行き過ぎた行為と道徳的な奔放さを特色とする生活にもどりたいとは決して思わないはずです。わたしたちは,放縦な生活がどれほど空虚でむなしいかということを,そしてそれに伴う恥辱を決して忘れたいとは思いません。(ローマ 6:21)下品で卑わいな娯楽,みだらな踊り,情欲をかき立てるような音楽,この世で非常に重視されているそうしたものはわたしたちに嫌悪を感じさせ,魅力的でないはずです。それらを避けるので,かつての仲間からあしざまに言われるのはつらい場合もありますが,その人たちといっしょに無礼講のパーティーをしたり,放逸な生き方をしても何も得るところがないことは確かです。かえって,この世的な事柄を取り入れることにより,実に多くのものが失われます。悪い事柄をならわしにする人は例外なく,生きている者と死んだ者とを裁くよう神から定められているイエス・キリストに対して自分たちの行動の申し開きをしなければなりません。(テモテ第二 4:1)その裁きは確実に行なわれますから,「良いたより」は「死んだ者」つまり,霊的に死んでいる人々にも宣明されました。それらの人々は悔い改めて転向し,キリストの犠牲による贖いの益を自分たちに適用することによって神の観点から生き返ることが必要でした。

28 (イ)クリスチャンが『肉に関しては人間の観点から裁かれる』ことがどうしてあり得るでしょうか。(ロ)そのように裁かれても動揺すべきでないのはなぜですか。

28 悔い改める人々は,エホバ神の目に本当に貴重です。そして,エホバはその人々が永遠にわたって幸福に生きることを願っておられます。しかし,この世の人々は,真のクリスチャンが創造者のみ前で得ているすばらしい立場を理解しません。この世的な人々は,他の人々を見るのと同様にキリストの弟子たちを見,「肉に関して」つまり外見で弟子たちを判断します。しかし,人々がわたしたちを好意的に見ないからと言って,動揺すべきではありません。本当に大切なのは,わたしたちがエホバ神から『霊に関して生きている』,つまり霊的な生活を送っているとみなされているかどうかということです。わたしたちの生活が至高者の戒めに従ったものであり続けるなら,そのようにみなしていただけるでしょう。

29 立派な行状を保つべきどんな十分の理由がありますか。

29 現在の体制下で「外国人また寄留者」として立派な行状を保つべき理由は確かに十分あります。それは至高者によって命じられていることです。至高者はわたしたちを親切にあわれみ深く扱って手本を示してくださったのですから,わたしたちも他の人々を扱う際に思いやりや同情心を示し,進んで人を許す精神を持たなければなりません。わたしたちの賞賛に値する行状はわたしたちの神が良い方であるという印象を人々に与え,神の僕になるよう他の人を助けることでしょう。立派な行状を保つことによってのみ,わたしたちはエホバの祝福を引き続き受け,最終的には永遠の住みかでとこしえの命を与えられます。現在これほど有益で,しかもこれほどすばらしい将来が約束されている生き方はほかにありません。

[研究用の質問]