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権威に対する服従は報われる

権威に対する服従は報われる

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権威に対する服従は報われる

1 現存する制度に服するのは賢明であり有益であるとなぜ言えますか。

現存する制度に対する服従つまり従順を示すことは知恵の道です。完全な独立は,外見にはどう映ろうと,望ましくもなく現実的でもありません。なにもかも行なえ,すべてのことを知っている人間は地上に一人もいません。命を保つために空気,太陽,食物,水が不可欠であるように,生活から益を得かつ生活を楽しむには他の人々および他の人々の世話を受けることも必要です。

2 エホバが最高主権者であるという事実は,わたしたちの生活にどんな影響を与えるはずですか。

2 行政制度,雇用関係,家族のきずな,クリスチャン会衆との交わり,人間が社会生活を営んでいること,これらすべてはわたしたちにある種の義務を負わせます。わたしたちには,他の人々から受けるものに対して返す務めがあるのです。人間に対するそうした義務を果たすうえで最も大切なのは,エホバ神の立場を認めることです。創造者であられるエホバ神は,当然ながら,わたしたちがすべてのものを負っている最高主権者です。使徒ヨハネは,幻の中で,24人の長老がこう言明しているのを聞きました。「エホバ,わたしたちの神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしいかたです。あなたはすべてのものを創造し,あなたのご意志によってすべてのものは存在し,創造されたからです」。(啓示 4:11)わたしたちにとっても同様に,エホバを至高者と認めるのは,口先だけの事柄ではありません。自分に対する神のご意志に服従していること,また,イエス・キリストをわたしたちの任命された主と認めていることは,あらゆる関係において表わすことができます。

「主のために」

3,4 わたしたちが服すべき「人間の創造したもの」とは何ですか。なぜそのように言えますか。

3 使徒ペテロは,人間の権威に服する主な理由について高尚な考えを打ち出し,次のように書きました。「人間の創造したものすべてに,主のために服しなさい。すなわち,上位者としての王に対してであろうと,あるいは,悪行者を処罰し,善行者をほめるために王から遣わされた知事に対してであろうとです」― ペテロ第一 2:13,14

4 服すべき「人間の創造したもの」とは,人間製の統治権のことです。王や下級の支配者もしくは知事といった地位を作り出したのは神ではなく人間ですから,それらは「人間の創造したもの」と言えます。そうした権威は,現在の状況下で有用な目的を果たすので,至高者はそれらが存在するようになるのを許し,容認しておられるのです。政治上の権威は神の許可の下に存在しているわけですから,それに反逆する人は「神の取り決め」に反逆していることになります。神はまだその取り決めを終わらせて,それに代わる,み子による天の王国を招来させておられません。(ローマ 13:1,2)使徒ペテロの時代,ユダヤを含むローマ帝国諸州には知事が置かれていました。それら知事たちは,皇帝に対して,管轄区域内の法と秩序を維持する直接の責任を持っていました。知事は任務を遂行するにあたり,強盗,人さらい,どろぼう,治安攪乱者などの「悪行者を処罰し(ました)」。また,「善行者をほめる」こともしました。すなわち,廉潔な人を立派な人物として公に認め,その身体や財産や権利を保護することによってその人を尊重したのです。

5 だれのために服すべきですか。その方を「主」と呼ぶのはなぜ当然のことですか。

5 とはいえ,クリスチャンは,罰を避け,『ほめて』もらうのが主な目的で服することを勧められているのではありません。服するのは「主のため」なのです。その主とはイエス・キリストのことです。使徒ペテロが少し前のところでイエス・キリストを主と認めているからです。(ペテロ第一 1:3)聖書によれば,神のみ子は,「死んだ者にも生きている者にも主」です。(ローマ 14:9)したがって,み子は,人間の支配者のうちだれも得たことのない地位を占めておられます。イエス・キリストは『死んだ者の主』ですから,死者を復活させてその人々をみ前に呼び寄せることができます。イエスの主としての権限は,人間の生者と死者に対してのみならず,さらに広範囲に及びます。ご自身が復活されたのち,神のみ子は,「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています」と言われました。(マタイ 28:18)人間の支配者の権威よりも計り知れないほど大きな権威を持たれる方のために人間の支配者に服従するのは,賢明なことに違いありません。

6,7 「主のために」どのように人間の支配者に服しますか。

6 「主のために」政府の高位高官に服するとはどういうことでしょうか。イエス・キリストをわたしたちの主と認めるがゆえに,支配者にふさわしく服するよう動機付けられるのでなければならない,ということです。神のみ子はこの点で完全な手本を残されました。み子は,政府当局の要求に逆らわず,そうするように他の人々を教えることもなさいませんでした。むしろこう説き勧めておられます。「権威のもとにある者があなたを一マイルの奉仕に徴用するなら,その者といっしょに二マイル行きなさい」。(マタイ 5:41)『カエサルのものはカエサルに返しなさい』― マタイ 22:21

7 時折り,政府は種々の目的で国民に登録を行なわせます。あるいは,道路やダムや学校の建設などと関連して,公共建築物とか,農業計画を支持するよう人々に呼び掛けることもあります。(ルカ 2:1-3)こうした事柄については,いつも,クリスチャンの良心が考慮されなければならないことは言うまでもありません。しかし,聖書によって訓練された良心に反する問題が関係していない場合,クリスチャンが従順で協力的であることを示すために,自分に出来ることを行なうなら,「良いたより」を広めるうえで貢献することができます。どんなことにしろ特定の事業計画に対して騒ぎ立てたり,政府当局のどのレベルであろうとそれに公然と反抗することは厳に慎むべきでしょう。聖書が命じているのは,「政府や権威者たちに服し,自分の支配者としてそれに従順であるべきこと……また,あらゆる良い業に備えを(する)」ことです。好戦的で無礼な態度は,神のみ子の教えおよび手本と調和しません。―テトス 3:1,2

「神の奴隷として」

8 支配者に正しく服することからどんな益が得られますか。

8 権威に対して正しく服することが真の崇拝の目的を推し進めるうえでどのように役立つかを示して,使徒ペテロはこう書いています。「というのは,道理をわきまえない人たちの無知な話を,あなたがたが善を行なうことによって封じるのは,神のご意志であるからです」。(ペテロ第一 2:15)神に対して正しい良心を保ち,なおかつ,善良で礼儀正しく順法的であると支配者からみなされる事柄を行なうクリスチャンは,ほめられることがあるかもしれません。その結果,至高者の僕を,がんこで不従順で反社会的であり,扇動的もしくは破壊的であると不当に非難する無知な人々は沈黙させられることになります。このように,クリスチャンのほめるべき行状は,良い評判を落とさないための正に最善の防御となります。

9,10 わたしたちが政府当局に服する態度は,主人に対する卑屈な奴隷の服従のようでないのはなぜですか。

9 ところで,支配者に対するクリスチャンの従順とは,みじめな隷従,完全な屈従を意味するのでしょうか。霊感を通して与えられている答えによれば,そうではありません。使徒ペテロは続けてこう述べています。「自由の民らしくありなさい。ですが,あなたがたの自由を,悪の覆いとしてではなく,神の奴隷として保ちなさい」― ペテロ第一 2:16

10 クリスチャンであるわたしたちは,罪と死の奴隷の状態から自由にされました。(ヨハネ 8:31-36)神のみ子は,わたしたちを横死に対する恐れから解放することさえしてくださいました。サタン悪魔は,人々が独裁者の命令で自己の良心に反する行為をするようにうまく仕向けるなど,横死に対する恐れを利用して人々を奴隷の状態にとどめておくことに成功してきました。(ヘブライ 2:14,15)しかし,わたしたちは自由な民なのですから,一人の人間あるいは人々の集団の命令や脅しに良心を屈従させるわけにはいきません。支配者に対するわたしたちの服従は自発的なものであり,最高主権者であられるエホバ神の命令が優先されるゆえに制限付きのものと言えます。わたしたちは,人間の屈辱的な奴隷となり,神の律法におかまいなく無条件に従うことはできません。使徒ペテロが指摘した通り,クリスチャンは「神の奴隷」です。したがって,至高者への崇拝に直接反しない限り,政府当局の意向に喜んで従います。それに反する場合には,ユダヤ人の最高法廷に立たされたときにペテロと他の使徒たちが表明した立場を取る必要があります。すなわち,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。―使徒 5:29

制限付きの自由

11 政府当局に対するどんな態度はクリスチャンの自由の乱用となるでしょうか。

11 しかし,神の律法に反していない事柄に関して政府に逆らい,政府が自分たちに対して何の権威も持たないかのように生活するのは正しくありません。そのような敬意の欠けた態度はクリスチャンの自由の乱用にほかなりません。クリスチャンが享受している自由は,神の奴隷であるという制限付きのものです。自由だからといって,ふさわしい制限を振り捨て,悪行にふけったり,生命と環境の保護のために設けられてはいても自分にとって不都合な法律を軽視したりすることが許されるわけではないのです。むしろ,クリスチャンは,交通規則,公害防止条令,狩猟や魚つりに関する法律などの背後にある良い意図を認識していることを,行動によって示すべきです。

12 他の人に対してどんな義務を負っているかは何によって決まりますか。

12 そうです,わたしたちは他の人々に対する義務を負っています。こうした義務の性質は,エホバ神および仲間の人間との特定な関係によって違ってきます。使徒ペテロはそれらの義務に注意を向けて次のようにさとしています。「あらゆる人を敬い,仲間の兄弟全体を愛し,神を恐れ,王を敬いなさい」― ペテロ第一 2:17

13 (イ)なぜすべての人は敬われるべきですか。(ロ)わたしたちは霊的な兄弟に対してどんな義務がありますか。(ハ)人間にどのような敬意を示すべきかは何によって決まりますか。(ニ)わたしたちが神に対してだけ果たさなければならない義務とは何ですか。

13 すべての人間は神の創造の所産であり,イエス・キリストの貴重な血で買われています。ですから,クリスチャンは,当然ながら,他の人を敬意を持って公平に扱い,他の人を敬います。(使徒 10:34,35。テモテ第一 2:5,6)しかし,「仲間の兄弟全体」には,一般の人々が当然の権利として期待する型どおりの敬意よりももっと深い敬意が示されてしかるべきです。クリスチャンの兄弟に対しては,人間一般に対する愛に加えて,深い愛つまり愛情を示す義務があるのです。さらに,地上の主権者およびその下にいる役人には,その地位が要求する敬意を示すべきですが,敬虔で崇拝の念にあふれた恐れは,至高の神に対してのみ抱くべきです。したがって,人間に対して示す誉れは,エホバ神とその命令に対する健全な恐れによっていつでも制限されたものでなければなりません。例えば,神だけに帰せられるべき誉れを支配者に帰しているのでないなら,普通用いられている支配者の称号を使うことは何ら差し支えありません。しかし,死すべき人間はクリスチャンの救済者ではありませんし,あらゆる祝福の経路でもありません。(詩 146:3,4。イザヤ 33:22。使徒 4:12。フィリピ 2:9-11)ですから,真のクリスチャンは,神への恐れを疑問視されるような,そして支配者をその身分よりも不当に高めるような仕方で人間に呼びかけることをしません。

すべての役人が敬うに値するか

14,15 (イ)クリスチャンが支配者もしくは役人をその道徳上の評判に関係なく敬うのはなぜですか。(ロ)役人に対する使徒パウロの振る舞い方から何が学べますか。

14 支配者を敬いなさいという聖書の命令を知って,ある役人のことを考え,「道徳的に堕落した支配者をどうして敬えるだろうか」と言う人がいることでしょう。忘れてならないのは,その役人の道徳上の評判に基づいて敬うのではないということです。ある種の敬意を示すべきなのは,その役人が表わし行使している権威です。正式に立てられた権威が尊重されないなら,無政府状態になり,その結果,クリスチャンもその一部となっている社会に害が及ぶことになります。

15 役人に対する使徒パウロの振る舞い方を見ると,その人となりには関係なく支配者に敬意を示すべきであることが分かります。古代の歴史家タキツスの記述によれば,ローマ人の知事フェリクスは,「どんな悪事もうまくやりおおせるという考えを持っていた」人物で,「ありとあらゆる種類の残虐行為と肉欲にふけり,奴隷の精神をもって王の権力を振るい」ました。にもかかわらず,パウロは,フェリクスの前で弁明するに際し,その役職に敬意を表して次のようにていねいな言葉で話し始めました。「この国民が多年にわたりあなたを審判者としていただいてきたことをよく知っておりますから,わたしは,弁明のため自分に関する事がらをよろこんでお話しいたします」。(使徒 24:10)王ヘロデ・アグリッパ2世は近親相姦を行なっていましたが,パウロは,「あなたの前でこの日に自分の弁明ができますことを幸いに存じます。とりわけ,あなたはユダヤ人の間のあらゆる習慣や論争に精通したかただからです」と言って,しかるべき敬意を表わしました。(使徒 26:2,3)また,知事フェストは偶像崇拝者でしたが,パウロはフェストに「閣下」という尊称を使いました。―使徒 26:25

税金を納める

16 ローマ 13章7節でクリスチャンにはどんな助言が与えられていますか。

16 クリスチャンは,権威を持つ人にしかるべき敬意を示すことのほかに,税金を良心的に納めることも神から命じられています。聖書にはこう書かれています。「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい。税を要求する者には税を,貢を要求する者には貢を,[生殺与奪の権を含む権威を持つがゆえに]恐れを要求する者にはしかるべき恐れを,誉れを要求する者にはしかるべき誉れを」。(ローマ 13:7)税金を納め,収入を正直に報告するのはどうして正しいのでしょうか。

17 (イ)クリスチャンが税金の支払いを負債の支払いと同様にみなすべきなのはなぜですか。(ロ)あらゆる税金を支払う点でクリスチャンが模範的でなければならないのはなぜですか。

17 政府当局は,国民の安全と安定と福祉を保証するための大切な仕事を行なっています。例えば,道路の維持,法の施行機関の備え,裁判所,学校,保健所,郵便制度その他を挙げることができます。政府は,行なった仕事に対して報酬を受ける資格があります。それでクリスチャンが税金もしくは貢を納めることを負債の支払いとみなすのは当を得ています。徴収した税金を当局がどのように使うかは,クリスチャンの責任ではありません。受け取った税金もしくは貢を役人が乱用するからといって,負債の支払いを拒む権利がクリスチャンに与えられるわけではありません。現行の制度下では,クリスチャンも政府が行なう仕事を必要とします。したがって課される税金を良心的に払います。ある人に負債を払うという場合,その人がお金を乱用するからと言って負債が帳消しになるわけではありません。同様に,政府が何を行なおうと,クリスチャンにはやはり税と貢を支払う義務があります。また,法律に従って,税金の申告をしたり,課税の対象となっている物品の購入を報告したりする点で模範的でなければなりません。こうした事柄に良心的であるなら,自分自身とクリスチャン会衆に非難をもたらさずにすみますし,真の崇拝が好ましく映るので,神とキリストに誉れを帰することができます。

雇用関係

18 主人と奴隷の関係に関する聖書の原則は,今日のどんな状況に当てはめることができますか。

18 クリスチャンにとって,ふさわしく服することが求められる関係は政府当局との関係だけではありません。例えば,クリスチャンは職場において監督者つまり上役に対して責任を持っています。ローマ帝国で奴隷制が広く見られた西暦一世紀当時,多くのクリスチャンは奴隷や僕として働いていました。適切にも,神の言葉は主人に対する奴隷の責務を論じています。今日,主人と奴隷の関係における行動の原則を雇用関係に当てはめることができます。

19 ペテロはクリスチャンである家僕にどんな助言を与えましたか。

19 家僕つまり召使にあてて,使徒ペテロは次のような助言を書き送りました。

「家僕はいだくべきじゅうぶんの恐れをもって自分を所有する主人に服しなさい。善良で道理をわきまえた主人に対してだけでなく,気むずかしい主人に対してもです。なぜなら,神に対する良心のゆえに悲痛な事がらを耐え,不当な苦しみを忍ぶなら,それは喜ばしいことだからです。罪を犯して打たれている時に,あなたがたがそれを耐え忍ぶからといって,そのことにいったいどんなほめるべき点があるでしょうか。しかし,善を行なって苦しみに遭っている時,あなたがたがそれを耐え忍ぶなら,それは神にとって喜ばしいことなのです」― ペテロ第一 2:18-20

20 (イ)家僕は「いだくべきじゅうぶんの恐れをもって」服することをどのように行ないましたか。(ロ)どんな事態は,クリスチャンである奴隷に苦しみとなったと考えられますか。

20 この助言に注意を払うとすれば何をしなければなりませんでしたか。クリスチャンは,奴隷として責任を果たす一方,主人にふさわしい恐れや敬意を示して,主人の不興を買わないようにしなければなりませんでした。たとえ主人が,思いやりがなく,か酷で,理不尽な要求をする人であっても,そうした恐れを示すべきでした。立派になされた仕事にさえ文句を言う主人もいたことでしょうし,神の律法に反する事柄をするようクリスチャンの奴隷に命じた主人もいたことでしょう。自分の敬虔な良心の声に忠実に従ったクリスチャンの奴隷が,主人のために盗んだりうそをついたりするのを断わって不当な苦しみを受けたことも考えられます。またある時には,身体的な虐待を受けたり,ののしられたりしたこともあったでしょう。

21 奴隷が虐待に辛抱強く耐えるなら,どんな良い結果が得られましたか。

21 クリスチャンの奴隷は,ペテロの助言に従い,か酷な主人に反抗しようとはせず,自分の仕事を良心的に行ない続け,虐待に辛抱強く耐えました。そのようにすることは神の目にかなったことでした。なぜなら,そのためにキリスト教の評判が傷付くことはなかったからです。他の人々は,真の崇拝が奴隷に良い影響を及ぼしたことを知りました。虐待されている奴隷がどうしてそのようなほめるべき自制心を働かせることができるのか知ろうとしてキリスト教を調べるようになった人もいました。それとは対照的に,奴隷が主人に悪いことを行なって,そのために厳しく懲らしめられたなら,黙って罰を受けたからといって,人々はそのことをほめるべきだとは思いません。

22 クリスチャンである従業員は職場でどんな行状を示したいと願いますか。

22 今日,職場で特につらい目に遭っているクリスチャンは別の就職先を見つけることができるかもしれません。しかし,必ずしもそうできるとは限りません。例えば,契約して働いている場合とか,ほかに仕事が見つからないのでやむをえず不都合な状況下で働き続けなければならない場合がそうです。それは,理不尽な主人の下から逃れられなかった,西暦一世紀の家僕が置かれていた状況とよく似ていると言えるでしょう。したがって,クリスチャンは,だれかほかの人に雇われている限り,良い質の仕事をすることに全力を尽くし,聖書にかなった方法で避けることのできないひどい仕打ちを受ける場合でも,辛抱強く不平を言わずにそれに耐えます。また,主人に対してしかるべき敬意と思いやりを示し続けます。

イエスの手本は励ましとなる

23,24 (イ)正しいことを行なったために虐待されるとき,だれの模範は励ましとなりますか。(ロ)その方はどのような目に遭いましたか。そして,どのように振る舞いましたか。

23 むろん,不正を忍ばねばならないということはだれにとっても決してたやすいことではありません。しかし,幸いにも,わたしたちには見倣うべき完全な手本,すなわち主イエス・キリストがいます。イエスの手本は励ましの真の源となります。使徒ペテロは,虐待されていたクリスチャンである奴隷を慰めるに当たり,イエスの手本に注意を促してこう述べています。

「事実あなたがたはこうした道に召されたのです。キリストでさえあなたがたのために苦しみを受け,あなたがたがその歩みにしっかりついて来るよう手本を残されたからです。彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした。彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:21-23

24 こうしてペテロは,神のみ子の弟子となるよう召された理由の一つは不当な苦しみを受けるときにみ子のような精神を実証する点にあることを,奴隷であるクリスチャンに思い出させました。イエス・キリストは,地上における人間としての生涯の最後の日に,特に,非常な忍耐を示されました。平手打ちを食らい,こぶしでなぐられ,つばをかけられ,むち(体を傷つけるための鉛か骨か,かぎ針が付いていたものと思われる)で打たれ,最後には極悪犯罪人のように杭に付けられたのです。しかし,イエスはそうした侮辱をことごとく甘受し,自分に不当な仕打ちを加えた人々をののしったり,脅かしたりするようなことは決してなさいませんでした。イエス・キリストは自分の生涯が純粋なものであったことを知っていましたが,自分の正しさを自らの手で証明しようとはせず,神でありみ父である方が自分のために正しい裁きをしてくださることを確信して,言い分をみ父にゆだねられました。わたしたちも,権利を侵害された場合,全能者がそれを決して見逃されないことを確信できます。わたしたちが苦しみを辛抱強く忍び続けるなら,全能者は正義のはかりで計ってくださいます。神の罪のないみ子が虐待を進んで忍ばれたのであれば,ましてや,罪人であることを自覚するわたしたちみ子の追随者がそうすることは当然すぎると言っても過言ではありません。

25 わたしたちはキリストが苦しまれたことからどんな益を受けていますか。

25 イエス・キリストは,実際のところわたしたちのために苦しみを経験されました。このことからもわたしたちはイエスに見倣うよう動かされます。使徒ペテロはその点を強調して,さらにこう述べています。

「[彼は]杭の上でわたしたちの罪をご自分の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです。そして,『彼の打ち傷によってあなたがたはいやされました』。あなたがたはさ迷っており,羊のようであったからです。しかし今は,あなたがたの魂の牧者また監督のもとに帰って来ました」― ペテロ第一 2:24,25

26,27 キリストがわたしたちのために苦しまれたことは,わたしたちにどんな影響を与えるはずですか。

26 わたしたちは罪人ですから,命の賜物を受けるに値しません。聖書は,「罪の報いは死です」と述べています。(ローマ 6:23)ところが,イエス・キリストは,わたしたちのために責めるところがなく苦情を言わない子羊のように犠牲的な死を遂げて,わたしたちの罪の罰を一身に引き受けてくださいました。杭に付けられるという不面目な極刑を受けることによって,神のみ子は,信仰を持つ人々が罪から解放されて義にかなった生活を始めることを可能にしてくださいました。イエス・キリストがわたしたちのために苦しまれたことを考えると,イエスがしてくださったことに対する深い感謝を表わしたいという気持ちになるのは当然です。それをするには,イエスがなさったように義のために進んで虐待を受けることも含め,生活のあらゆる面でイエスを見倣うことが必要です。不当な仕打ちを受けたときにはいつでも,わたしたちの主が経験された苦しみについて考えるのはよいことです。

27 そのように熟考するなら,キリストの手本に従うことの大切さを銘記できるので,イエスがわたしたちのために受けた非常な苦しみの目的を見落とすことがありません。罪深い状態にあったとき,わたしたちはあわれで,あたかも愛ある羊飼いに導かれていない迷える羊のようでした。なぜなら,偉大な羊飼いであられるエホバ神から疎外されていたからです。しかし,イエスの犠牲とその犠牲に対するわたしたちの信仰とに基づいて和解が成し遂げられています。(コロサイ 1:21-23)したがって,わたしたちは,わたしたちの魂の監督であるエホバ神および「主要な牧者」イエス・キリストの優しい世話と保護と導きを受けるようになりました。(ペテロ第一 5:2-4)ですから,イエス・キリストがわたしたちのために行なってくださった事柄に対して感謝の念を抱いているなら,義のためにどれほど苦しみを受けようとも耐え切れないということはないはずです。キリストがわたしたちのために受けられた大きな苦しみと比べるなら,わたしたちがキリストのために受けるかもしれない虐待など取るに足りません。

信者の下で働く場合

28,29 (イ)信者である所有者を持つ,クリスチャンの奴隷に対して使徒パウロはどんな助言を与えましたか。(ロ)そうした助言はなぜ必要でしたか。

28 しかしながら,一世紀当時クリスチャンとなった奴隷すべてが理不尽な主人を持ち,その虐待に耐えねばならなかったわけではありません。当時の社会状況から,クリスチャンの中にも奴隷を所有している人々がいました。奴隷もその主人も共に神のみ子の弟子である場合,二人は霊的な関係を正しく見ることが必要でした。信者である所有者を持つ奴隷に対して,使徒パウロは次のように助言しました。「信者である所有者を持つ人は,それが兄弟であるからといって見下げることがあってはなりません。むしろ,自分の良い奉仕の益を受けるのが信者であり,自分の愛する者であるからこそ,いよいよ快く奴隷として仕えなさい」― テモテ第一 6:2

29 このような助言はなぜ必要だったのでしょうか。信者である奴隷はキリストの共同相続者でしたから,信者である主人と霊的には平等の立場にありました。したがって,その奴隷は,二人が霊的に平等であるゆえにこの世的な主従関係とその関係で主人が持つ権威とは無効になるという考え方をしないように注意しなければなりませんでした。奴隷がそのような態度を取り,主人が信者であることにつけ込んで仕事の手を抜くということは,容易にあり得ることでした。奴隷は,そのように,会衆の他の成員との兄弟関係につけ込むような考え方を抱きかねなかったのです。使徒パウロの助言はその誤った考え方に対処するものでした。主人と兄弟関係にあったのですから,奴隷には,立派に務めを果たすべき一層強力な理由がありました。クリスチャンの兄弟のために何かを行なうことは彼らにとって特権でした。そして,そのことは大きな喜びをもたらしたはずです。

30 今日,信者の監督下で働いているクリスチャンが最善を尽くさなければならないのはなぜですか。

30 同様に今日,信者である監督者の指示を受けて働いたり,信者に雇われたりしているクリスチャンは,精一杯働きたいと願うべきです。自分の労働から益を受けているのは兄弟であり,粗雑な仕事をしたり力を出し惜しみしたりするなら,兄弟を失望させいら立たせることになります。(箴 10:26)そのクリスチャンは,愛を示すべき兄弟に対して実に愛の欠けた行ないをしていることになります。―ヨハネ第一 4:11

31 クリスチャンである主人はどんな助言を思いに留めていなければなりませんでしたか。

31 他方,クリスチャンとなっていた主人もしくは雇用者は,自分たちにもキリストという主人がいることを無視してはなりませんでした。そのクリスチャンが神のみ子に申し開きをしなければならないことを認識していたなら,そのことは当然奴隷もしくは雇い人の扱い方に反映したはずです。その点について,使徒パウロはこう書いています。「主人である人たちよ,自分にも天に主人がいることを知り,奴隷に対して,義にかなったことまた公正なことを行なってゆきなさい」― コロサイ 4:1

32 わたしたちのために骨折り,奉仕している信者に対して,わたしたちにはどんな責任がありますか。

32 さらに,医師,弁護士,電気技師,大工,鉛管工,修理人その他の職業に携わるクリスチャンの兄弟に働いてもらい,仕事をしてもらったなら,正当な報酬を支払いたいと思うのが当然でしょう。娯楽やぜいたく品や休暇のために収入の多くを使いながら,クリスチャンの兄弟への支払いを延ばして霊的な関係につけ込むのはふさわしくありません。仕事のことでは,信仰の仲間に,その人が受ける権利のある報酬を支払いたいと願うべきではないでしょうか。そのようにして,兄弟が生計を立てるのを援助できるのは確かに立派なことです。もし兄弟に特別な割引をしてもらえるなら,信仰の仲間にはわたしたちに割引をしたり,他の人々より優遇したりする義務がないことを考え,そうしてもらえることを感謝するのは当然です。ですから,これらの問題すべてにおいて,天の頭である,神のみ子に喜ばれる仕方ですべての物事を行ないたいと願っていることを示せます。

妻として服する

33 (イ)クリスチャンである妻に対してどんな勧めがなされていますか。(ロ)ペテロ第一 3章1節の「同じように」を意味する言葉にはどんな意義がありますか。

33 結婚関係も,頭に服することが求められるもう一つの関係です。それで,ペテロは最初に「同じように」という意味のギリシャ語を使って,苦境の下における従順に関する前述の勧告と妻としての従順に関する論議とを関連付けています。それは次の通りです。

「同じように,妻たちよ,自分の夫に服しなさい。それは,みことばに従順でない者がいるとしても,ことばによらず,妻の行状によって,つまり,深い敬意のこもったあなたがたの貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです」― ペテロ第一 3:1,2

34 使徒ペテロは,妻がどんな状況の下で服することを勧めていますか。なぜそれは難しい場合がありますか。

34 ここで,クリスチャンの妻がその下で服するように勧められている状況は,望ましくない状況です。神の言葉の原則を認めない夫は,クリスチャンである妻を厳しく扱い,妻につらい思いをさせるかもしれません。だからといって,クリスチャンである妻は夫を家の頭として認めない行動をとってもよいというわけではありません。夫の要求が神の律法に反しない限り,クリスチャンである妻は夫を喜ばせるためにできるだけのことをしたいと願うでしょう。

35 妻はどのようにして「ことばによらず」に夫を引き寄せる場合がありますか。

35 使徒ペテロが指摘している通り,妻の立派な手本によって夫は信者となるよう助けられるかもしれません。しかし,そのように妻が「ことばによらず」夫を引き寄せるとは,聖書の見解を夫に一切話さないということではなく,口よりもほめるべき行状に多くを語らせるという意味です。そうすれば,夫は,妻の行状が貞潔で,言葉も振る舞いも清いことを,そして妻が自分に対して深い敬意を持っていることを知ります。

36,37 テトス 2章3-5節によれば,クリスチャンである婦人は,模範的な妻となるために何に注意すべきですか。

36 使徒パウロが婦人に関して書いていることを読むと,クリスチャンである妻に何が期待されるかをさらに詳しく知ることができます。パウロはテトスへあてた手紙の中でこう述べています。

「年取った婦人も恭しくふるまい,人を中傷したり大酒の奴隷となったりせず,良いことを教える者であるべきです。それは,彼女たちが若い婦人たちに,夫を愛し,子どもを愛し,健全な思いを持ち,貞潔であり,家事にいそしみ,善良で,夫に柔順であるべきことを自覚させ,こうして神のことばがあしざまに言われることのないようにするためです」― テトス 2:3-5

37 この勧めの言葉に従い,婦人は,エホバ神および主であるイエス・キリストが自分の全生活を見ておられるということに対する認識を示す振る舞いをするよう良心的に努めるべきです。そして,中傷や有害なうわさ話のためにではなく,他の人を築き上げ励ますために舌を用いるよう努力します。クリスチャン婦人は,栄養のある食事を調え,家を清潔で快適な所にするという務めを果たすように心掛け,妻および母親として愛を示す点で模範的でなければなりません。夫と子供を愛するとは,家族の関心事を自分のそれよりも喜んで優先させることをも意味します。妻の務めがはなはだしくおろそかにされていることが夫に気付かれるようであってはなりません。むしろ,信仰を持たない女性と比べて妻は確かに立派だと夫に感じさせるようでなければなりません。

装飾品に対する平衡の取れた見方

38 ペテロ第一 3章3節には,装飾品に関してどんな助言がありますか。それをどのように理解すべきですか。

38 妻が装飾品に対して正しい見方を保つことも大切です。使徒ペテロは,クリスチャンである妻が上辺の飾りで魅力的に見せることに重きをおき過ぎてはならないことを次のように強調しました。「あなたがたの飾りは,髪を編んだり,金の装飾を身につけたり,外衣を着たりする外面のものであってはなりません」。(ペテロ第一 3:3)西暦一世紀当時,婦人たちは,長い髪をたて琴やラッパやうず巻きや冠など凝った形の人目を引く髪型に編むことに多くの時間を費やし力を注ぎました。さらに,非常に華美な衣服をまとい,金の鎖や指輪や腕輪をふんだんに使って身を装いました。クリスチャン婦人が,そのような物質的な装飾品に過度の関心を向けるのはふさわしくありません。それは,人生の主要な目標がエホバ神と主イエス・キリストを喜ばせることにではなくて自分自身にあることの表われだからです。そのうえ,外見やファッションを中心に生きている女性は往々にして誇りやねたみや地位の追求の犠牲者になっており,そのために心や思いの平静さを失って,ざ折感を味わったりいらいらしたりします。

39 妻はなぜ身なりを構わないでいるべきではありませんか。

39 とはいえ,クリスチャンである妻が自分の外見にほとんど注意を払わないというわけではありません。使徒パウロは,人目を引く服装に対して同様の助言を与えた際に,「わたしは……女(が),よく整えられた服装をし,慎みと健全な思いとをもって……身を飾るように望みます」とも語っています。(テモテ第一 2:8-10)ですから,クリスチャンである妻が,服装や身繕いや容姿にむとんちゃくで夫の目に見苦しく映らないように注意するのは良いことです。そのうえ,聖書によれば,『女は男の栄光です』。(コリント第一 11:7)明らかに,怠惰でだらしのないかっこうをした女性は夫の誉れとも栄光ともなりません。そのような妻を持っていると夫も他の人の目に立派に映りません。また,夫が自分の外見に適度の誇りを持っている人であれば,だらしのない妻は夫を相当いら立たせることでしょう。したがって,慎みのある,言い換えれば上品な,そして自分に似合うものを選ぶ良い判断力をうかがわせる衣服や装飾品を身に着けるのは,クリスチャン婦人にとってたいへん望ましいことです。

「もの静かで柔和な霊」

40 (イ)クリスチャンの婦人を真に美しくするものは何ですか。(ロ)「もの静かで柔和な霊」を何と混同すべきではありませんか。

40 もっとも,クリスチャンである妻の本当の美しさは,心の中でどんな人かということにあります。使徒ペテロは,「もの静かで柔和な霊という朽ちない装いをした,心の中の秘められた人を」飾りとするようにという賢明な勧めの言葉を述べました。(ペテロ第一 3:4)この「もの静かで柔和な霊」を表面的な見せ掛けの優しさと混同してはなりません。例えば,ある女性は物言いが優しく,口では家の頭の要望に従うとおとなしそうに言うでしょう。でも,心の中では反抗し,ひそかに陰険なことをたくらんで夫を支配しようとしているかもしれません。

41 女性は,「もの静かで柔和な霊」が自分のいつまでも変わらない飾りの一部となっているかどうかをどのように判断できますか。

41 「もの静かで柔和な霊」を本当に持っている女性の場合,その謙遜な霊は内なる真の人柄がにじみ出たものです。では,その「霊」が自分のいつまでも変わらない飾りの一部となっているかどうかをどのように判断することができるでしょうか。次のように自問するとよいでしょう。『時に主人が思いやりを欠き,道理をわきまえなかったり,責任逃れをしたりするとき,どうだろうか。私はよくかっとなり,腹を立てて夫の失敗を厳しくとがめるだろうか。それとも,大抵の場合心を平静に保ち,面と向かってとがめ立てしないように努力しているだろうか』。「もの静かで柔和な霊」を持つ婦人は,上辺だけは穏やかそうに見えても心の中は活火山のようで,いつ噴火するか分からないような人ではありません。それどころか,つらい状況の下で,外面的にも内面的にも穏やかさと平静さを保つように努めます。その婦人の内面的な強さや親切な身の処し方は見ている人々に深い感銘を与えます。

42 ペテロ第一 3章5,6節によれば,だれが「もの静かで柔和な霊」を持っていましたか。

42 そうした「もの静かで柔和な霊」は,キリスト教以前の時代の神を恐れる婦人たちを特色付けていました。その点に注意を促して,使徒ペテロは次のように書きました。

「神に望みを置いた聖なる女たちも,先にはそのようにして身を飾り,自分の夫に服していたからです。サラがアブラハムを『主』と呼んでこれに従っていたとおりです。そしてあなたがたは彼女の子どもとなったのです。もっともそれは,あなたがたがいつも善を行ない,どんな恐ろしい事をも恐れずにいるならのことです」― ペテロ第一 3:5,6

43 サラが神に望みを置いた「聖なる女」であったことは何から分かりますか。

43 キリスト教以前の時代の「聖なる女」の一人だったサラは,望みと確信をエホバに置きました。後ろを振り返ってソドムをあこがれの気持ちで見たために滅びたロトの妻とは異なり,サラは快適なウルを喜んであとにし,その後死ぬまで夫アブラハムと共に天幕に住みました。アブラハムといっしょに,神の支配権の下における永遠の住みかを待ち望んでいたのです。(ヘブライ 11:8-12)サラは確かに物質の持ち物や慰安を過度に重視せず,霊的な見地に立った生き方をしました。サラは,よみがえらされるときに神が豊かな報いを与えてくださることを認識していました。同様に,今日の賢明なクリスチャン婦人たちも,エホバ神に喜んでいただくことを人生の主要な目標にしています。―箴 31:30

44 サラが夫に深い敬意を抱いていたことは何から明らかですか。

44 美しいサラは夫に深い敬意を抱いていました。突然の客があったとき,アブラハムは少しもためらうことなく忠実な伴りょに,「急いで,上等の粉三セア[0.6ブッシェル。22リットル]を取り,練り粉を練って,丸パンを作りなさい」と言いました。(創世 18:6,新)正にその日に,サラはアブラハムを「主」と呼びました。他の人々が聞こえるところではなく心の中でそう呼んだことから,サラが心の中で夫に服していたことがよく分かります。―創世 18:12,新。

45 サラが弱々しい性格の持ち主でなかったことは何から分かりますか。

45 しかし,サラは弱々しい女性ではありませんでした。エジプト人の奴隷女ハガルの子イシマエルが自分の息子イサクを「からかっている」のに気付いたとき,サラはおくせず強い口調でアブラハムにこう言いました。「この奴隷女とその子を追い出してください! この奴隷女の子は,わたしの子,イサクと一緒には相続人にならないのですから」。サラがアブラハムに強く訴えていたのであって,不適当な要求や命令をしていたのでないことは,エホバがサラの願いを承認なさったことから明らかです。全能者は正しい精神でなされた願いに目を留め,それを聞き届けることをアブラハムにお命じになりました。―創世 21:9-12,新。

46,47 (イ)もっともな意見を述べ,物事を率先して行なう婦人は柔順であることをどのように示せますか。(ロ)神を恐れる婦人はどのようであるべきですか。

46 同じく,柔順なクリスチャン婦人もひ弱で気の抜けたような女性である必要はありません。自分の意見をはっきりと述べ,家族の幸福にかかわる大切な事柄を率先して取り扱ってよいのです。ただし,夫の要望と感情を念頭に置いて,買い物や家の飾り付けや他の家事を行なう際にそれを十分考慮するように努めます。特定の活動とか大きな買い物について夫の考えがはっきり分からないときには,事前に夫に尋ね,問題を起こさないようにします。神に喜ばれるような仕方で妻の務めを果たそうとするなら,とがめられて当然の理由を作らないので,夫をも喜ばせることになります。そのような妻は,普通,家族の中で誉れある尊い立場を得ます。それはちょうど,箴言 31章11節と28節(新)で述べられている有能な妻の境遇と同じであると言えます。そこにはこう書かれています。「彼女にその所有主の心は頼った。……その子たちは立ち上がり,彼女を幸いな者と言った。彼女を所有する者も立ち上がり,彼女を賛美する」。妻が賢く振る舞い,家族の福祉を危うくするようなことはないと確信している夫は,思慮の欠けた行動を制限するための多くの規則を設ける必要を感じることはないでしょう。夫婦の間にすばらしい相互理解があるのです。妻は家事を行なう面で自分の能力と独創力を十分に発揮できます。

47 聖書的な意味で神を恐れる婦人になるためには,クリスチャンである妻は勤勉でなければならず,率先して他の人々を助けることができなければなりません。したがって,文字通り夫の“影の下で”暮らすような女性ではありません。(箴 31:13-22,24,27と比較してください。)西暦一世紀に特別な名簿に載せる資格のあるクリスチャン婦人に関する記述はそのことを明らかにしています。こう書かれています。「六十歳以上のやもめを名簿に載せなさい。それは,ひとりの夫の妻で,子どもを養育し,見知らぬ人をもてなし,聖なる者の足を洗い,患難にある人を助け,あらゆる良い業に勤勉に従ったなど,りっぱな業に対する証しを立てられている人です」。(テモテ第一 5:9,10)りっぱな業の記録は,その婦人が「ひとりの夫の妻」であったころまでさかのぼるものであることに注意してください。ですから,実際には独創性と勤勉さの欠如にほかならない状態を「もの静かで柔和な霊」であると考え違いしたくないものです。

キリストのような精神を示すことの益

48 クリスチャンである妻はどうすれば一層神のみ子に見倣えますか。

48 キリストは『その弟子すべてがついて行くべき手本』ですから,クリスチャンである妻は不都合な状況に面したときキリストに一層見倣うよう心掛けたいと願うことでしょう。(ペテロ第一 2:21)それには,自分の言動を正直に評価しなければなりません。そのうえで,イエス・キリストの手本を祈りの気持ちで考慮し,より良い妻となるために聖霊の援助をエホバ神に求め続けるなら,「キリストの思い」を一層強く持つようになります。(コリント第一 2:16)そして,その進歩は他の人々の目にも明らかになります。それと言うのも,人は,自分の愛している人の優れた資質や賞賛すべき行ないについて考えれば考えるほど,その人のようになりたいと思うからです。

49-51 (イ)妻が聖書の原則を当てはめることはどんな場合にも賢明であるのはなぜですか。(ロ)聖書に忠実に従うなら,どんな優れた益が得られますか。(ハ)クリスチャン婦人は,どのような「恐ろしい事」を恐れるべきではありませんか。それはなぜですか。

49 夫が思いやりを欠き,道理をわきまえなかったり,責任逃れをしたりする場合でも,妻は,聖書の原則を適用することがその状況下で最善の結果を生むことを十分に確信できます。夫が誤った判断を下すたびに大騒ぎして,服するようにという聖書の助言を無視する妻はまず良い結果を得ることができません。人間には,自分が間違っていても自己弁護しようとする傾向があります。夫がまずい判断をしたときに,それをいちいち“大問題”にする妻は,自分が得ようとしている反応とは逆の反応を示されるかもしれません。夫は,妻の助言を必要としていないことを妻に分からせようとして妻の言葉にますます耳を貸そうとしなくなるでしょう。他方,もし妻が,罪深い人間は判断の誤りを完全には避けられないという理解のある態度を取るなら,夫は次回には妻の考えを考慮したいという気持ちを強くするものです。また,夫がその問題で,自分の誇りを気にしすぎないようにすることは容易になります。

50 クリスチャンである妻が優しく親切に夫を励ますなら,夫は自分の身の処し方を真剣に考え,その生活に変化が見られるようになるかもしれません。進歩が遅い場合でも,妻はその場で報いを得ます。どんな報いでしょうか。面と向かって夫をとがめ立てして味わう感情的な強い緊張やにがにがしさや不快な気持ちを経験せずにすみます。―箴 14:29,30

51 妻が言動において聖書に忠実に付き従っていても,夫が必ずしもクリスチャンになるとは限りません。それでも,妻は,自分の歩みが「神に大いに喜ばれるもの」であることを知って満足を覚えます。妻および母親としての責任をほめるべき仕方で果たすことは,天に預けられた宝とも言える立派な業の記録の一部になります。その宝は神の祝福という形で豊かな配当を生みます。(マタイ 6:20)クリスチャンである妻は神との良い関係を保つことの大切さを認識しているので,「いつも善を行ない」,イエス・キリストの弟子であるゆえに受けるののしりや脅しや反対などどんな「恐ろしい事」も恐れないはずです。恐れに屈し,エホバおよびみ子と自分との関係を失うどころか,自分が経験している事柄をキリストのゆえに受ける苦しみとみなすことでしょう。そのようにして,柔順なサラの娘,敬虔で信仰の厚い婦人であることを証明するのです。

「知識にしたがって」

52 ペテロがクリスチャンである夫に助言を与えるにあたり,「同様に」もしくは「同じように」という意味のギリシャ語を用いたことにはどんな意義がありますか。

52 妻は夫との関係ゆえに特定の責務を持っていますが,同じく夫も妻との関係ゆえに特定の責務を持っています。ペテロはその点を夫たちに思い起こさせ,前述の妻たちへの助言と夫たちへの勧告とを結び付けるために,「同様に」もしくは「同じように」という意味のギリシャ語を用いて次のように語っています。

「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻とともに住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい。あなたがたは,過分の恵みとしての命を妻とともに受け継ぐ者でもあるからです。そうするのは,あなたがたの祈りが妨げられないためです」― ペテロ第一 3:7

53 夫は何に支配された仕方で妻と共に住むべきですか。

53 自らが既婚者だった同使徒は,霊感の下に,夫は「知識」に支配された仕方で妻と共に住む,つまり暮らすべきであることにまず注意を促していますが,そのことは注目に値します。(マルコ 1:30。コリント第一 9:5)夫が妻を良く知りたい,つまり,妻の感情や体力や限界や好ききらいを良く知りたいと思うのは当然です。しかし,それよりもさらに大切なこととして,夫はクリスチャンの夫として自分にどんな責任があるかを知るようになる必要があります。妻を本当に知り,また神から割り当てられた自分の役割を知るなら,夫は『知識にしたがって妻とともに住み続ける』ことができます。

54 頭の権を行使するには何が求められますか。

54 聖書は,夫が妻の頭であることを教えています。しかし,夫は絶対的な頭ではありません。なぜなら,夫は家族の事柄を処理する際にイエス・キリストの頭の権に服することを求められているからです。「すべての男の頭はキリスト……です」と聖書は述べています。(コリント第一 11:3)使徒パウロはこう書きました。「夫よ,妻を愛しつづけなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を渡されたのと同じようにです」。(エフェソス 5:25)ですから,神のみ子がクリスチャン会衆を扱われた仕方は,夫が家族に対する義務を果たす際の手本となります。イエス・キリストの,会衆に対する権威の行使には,明らかに,専横なところや,残酷なところは一つもありませんでした。イエスは会衆のために命を捨てることさえされました。したがって,夫の頭の権は妻の地位を低め,卑しめて,妻を支配する権利を夫に与えるものではありません。むしろ,それは,犠牲的な愛を示し,自分の願望と好みよりも妻の福祉と関心事を進んで優先させる責任を夫に課します。

55 イエス・キリストが手本ですから,クリスチャンである夫は何をすべきですか。

55 イエス・キリストは夫の完全な手本ですから,イエスが弟子たちをどのように扱われたかを夫である人々が十分に知るのはよいことです。そして,さらに大切なこととして,夫は,家族に対する責任を果たすうえで神のみ子の型に従うよう懸命に努力すべきです。イエス・キリストは地上におられたとき弟子たちを世話するにあたって多くのことをなさいましたが,そのほんの二,三の例を考えてみましょう。

56,57 (イ)神のみ子は弟子たちの霊的な福祉に対する純粋の関心をどのように示されましたか。(ロ)夫は,イエスの手本に照らしてどのように自問できるでしょうか。

56 神のみ子はご自分の追随者の霊的な福祉に純粋の関心を抱いておられました。弟子たちが重要な事柄をなかなか理解しなかったときでも,イエスは短気を起こすことなく,時間を掛けて弟子たちに説明し,彼らがご自分の教えを確かに理解するようになさいました。(マタイ 16:6-12。ヨハネ 16:16-30)弟子たちが互いの関係に対する正しい見方をいつまでも持てなかったとき,イエスは謙遜に仕え合うことの必要を繰り返し指摘されました。(マルコ 9:33-37。10:42-44。ルカ 22:24-27)弟子たちと共に過ごした最後の夜,イエスは弟子たちの足を洗って自ら手本を示し,謙遜さに関する教えを強調されました。(ヨハネ 13:5-15)イエスは,また,弟子たちの限界を考慮し,その当時弟子たちが理解できる情報しかお与えになりませんでした。―ヨハネ 16:4,12

57 ですから,クリスチャンである夫は次のように自問すると良いでしょう。“わたしは妻子の霊的な福祉をどれほど気遣っているだろうか。妻と子供たちが聖書の原則を本当に理解していることを確かめているだろうか。間違った態度や行動に気付いたとき,それがなぜ間違いであり,なぜ改めるべきかをはっきりと教えているだろうか。妻と子供たちの限界を考慮に入れ,無理な要求をしないように注意しているだろうか”。

58 家族の身体面での必要を考慮するうえで,夫はイエスの手本をどのように見倣えるでしょうか。

58 神のみ子は,身体面で弟子たちが必要とした事柄にも目ざとく気付かれました。使徒たちが伝道旅行から帰って来てイエスに活動を報告したとき,イエスは,「さあ,あなたがたは自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい」と言われました。(マルコ 6:31)同じように,賢明な夫は,妻と子供たちが決まり切った日課の中でくつろいだり,気分転換をしたりする時間を持てるようにします。

59,60 (イ)イエス・キリストは弟子たちに対する信頼と確信をどのように示されましたか。(ロ)それは夫が頭の権を行使する面でどのように助けとなりますか。

59 頭の権の行使に当たって,イエス・キリストは会衆の成員を多くの複雑な規則で縛ることはなさいません。生活の諸問題を処理する際に適切な決定を下すためのよりどころとして,非常に大切な戒めと指針を弟子たちにお与えになりました。イエスの自己犠牲的な愛は,弟子たちに対する信頼や確信と相まって,実際に弟子たちをして同様の愛で答え応じさせ,イエスを喜ばせるために最善を尽くさせました。―コリント第二 5:14,15。テモテ第一 1:12; ヨハネ第一 5:2,3と比較してください。

60 同様に,夫が妻に信頼を寄せることは,幸福な結婚生活を保つのに非常に役立ちます。主婦の務めを果たすうえで独創性を発揮することがほとんど認められないと,妻は間もなく仕事に対する喜びを失います。知識や技能や能力を発揮できないので息苦しさを感じ,欲求不満に陥ります。一方,夫が大切な事柄を妻の良い判断にまかせるなら,妻は夫に気に入られるように物事を扱って喜びを得ます。

「弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」

61-63 (イ)夫が妻をどのように扱うべきかに関して聖書は何と述べていますか。(ロ)妻に誉れある地位を本当に与える夫は,どんな事柄を避けますか。(ハ)家族の重大な問題については,夫は進んで何を行なうべきですか。(ニ)最終的な決定を下す際,単に口で語られる事柄を考慮するだけでは不十分です。それはなぜですか。

61 一個の人間としての妻に関する知識および自分が妻に対して持つ聖書的な責務に関する知識に従って妻と共に住む夫は,「弱い器である女性として」妻に「誉れを配し」ていることにもなります。女性は,その体の造りから一般的に男性よりも体力がないので,「弱い器」です。それでも,女性は家族の中で誉れある,尊ぶべき地位を占めるべきです。使徒パウロの次の言葉は,どのように妻に誉れを配することができるかを示しています。「このように,夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,またたいせつにします。キリストが会衆に対してするようにです」― エフェソス 5:28,29

62 夫が自分の成し遂げたことを見くびったり,自分が役立たないかのように見せたり,自分の体を虐待したり,休息や息抜きの必要を無視したりすることは,普通考えられません。夫は“ろくでなし”という評判を得ることを望まず,他の人々から重んじられることを願います。真のクリスチャンである夫なら,妻の弱点がたとえどんなものであれそれを軽んじたりしません。また,妻を見くびったり,でなければ妻に自分を卑下させたりもしません。真のクリスチャンである夫は,自分が望んでいるのと同様の尊厳と思いやりを妻に与え,自分は望まれ感謝され必要とされているのだと妻に感じさせます。

63 妻が家庭で誉れある立場を占めるために,夫は家族の問題を妻と進んで話し合い,しかもそれを妻の考えや意見を聞きながら穏やかで道理にかなった仕方で行なう必要があります。大切な問題の話し合いで自分の述べることが夫に軽くあしらわれることなく,しかるべき考慮を払ってもらえるという確信の下に,妻が自分の考えを自由に話せるようでなければなりません。(士師 13:21-23; サムエル前 25:23-34; 箴 1:5,6,8,9と比較してください。)さらに,夫は妻が口で言わない事柄にも目ざとく気付く必要があります。心の奥にある気持ちは,声の調子や顔の表情に表われたり,熱意やのびのびした様子のないことに表われたりします。(箴 15:13と比較してください。)妻を知っている夫は,そうした事柄を無視せず,不必要ないらだちを起こしそうなことをやみくもに推し進めたりはしません。

64 どんな場合に,夫は妻の言うなりになりませんか。それはなぜ有益なことですか。

64 妻の望み通りにするなら,どう考えても家族全体の益が損なわれると思えるとき,家の頭である夫が妻の言いなりにならないことは言うまでもありません。(民数 30:6-8と比較してください。)妻が感情的になってどれほど大騒ぎしても,自分が正しいと誠実に信じている事柄を守るのは家の頭の聖書的な義務であることを,夫は認めているのです。夫が自分のより良い判断に反する妻の願いを聞き入れるなら,家の頭という地位を男性にお与えになった神を侮辱することになります。しかも,家族がそのために苦しむようなことにでもなれば,夫は妻に対して苦々しい気持ちを抱くでしょう。他方,正しいと信じて疑わないことを夫が飽くまでも守るなら家族に益が及びます。夫の決定が祈りのうちになされ,聖書の原則に一致したものであれば,おそらく妻は,夫の判断が賢明であったことを知って,夫が決定を曲げなかったことを喜ぶようになるでしょう。その結果,妻は夫を一層敬うようになり,それは妻自身と家族全体の幸福を増し加えます。

霊的な理由

65 クリスチャンである夫が信仰を持つ妻と「知識に従って」住むことには,どんな霊的な理由がありますか。

65 クリスチャンである夫が信仰を持つ妻に誉れを与えつつ,「知識にしたがって」妻と共に住むことには,そうせざるを得ない理由があります。家庭が一層円満になるからという理由だけではありません。クリスチャン使徒ペテロは,さらに大切な理由を信仰の仲間に教えました。夫は『過分の恵みとしての命を妻とともに受け継ぐ者である』とペテロは指摘しました。イエス・キリストはその犠牲的な死によって,男性にも女性にも,罪と死の有罪宣告が取り除かれて永遠に生きる見込みを得る機会を開かれました。ですから,妻は神とキリストのみ前で夫が持っているのと全く同様の是認された立場を得ることができます。したがって,神の目に自分よりも価値のない劣った人間であるかのように妻を扱わないよう注意すべき重大な理由が夫にはあるのです。

66 結婚生活上の問題が聖書的に処理されないと,その結果霊的に重大な害が生じるのはなぜですか。

66 会衆の扱い方に見られるイエス・キリストの手本に従って結婚生活の問題を処理しないなら,夫婦双方の霊的な状態に有害な影響が及びます。そうです,『祈りが妨げられる』のです。すぐにけんかをしたり,腹を立てたり,恨みを抱いたり,厳しくて道理に合わない振る舞いをしたりする家庭では,祈りによって神に訴えることは困難です。罪に定められていると心の中で感じている人は,はばかりのない言い方ができないものです。(ヨハネ第一 3:21)それから,また,エホバ神は祈りを聞き届ける条件を定めておられます。他の人の罪過をゆるさない,あわれみのない人が助けを願い求めても,エホバはそれを聞き届けられません。(マタイ 18:21-35)生活を神の戒めに従わせようと努力する人々の祈りだけが聞かれるのです。(ヨハネ第一 3:22)夫にしても妻にしても,会衆の扱い方に見られるイエス・キリストの手本を結婚生活において見倣わないなら,問題を処理するうえで神の援助を期待することはできません。他方,聖書の訓戒に忠実に従うなら,神の是認と祝福を必ず受けられます。確かにそれは,神のみ子の頭の権に服することから得られるすばらしい報いです。

クリスチャン会衆内において服する

67 マタイ 23章8-11節によれば,クリスチャン会衆内にはどんな態度が見られるべきですか。

67 クリスチャン会衆内においても,キリストの頭の権を認めることは大いに必要です。その認識は,個々の成員の互いに対する態度や振る舞いに影響を与えます。イエスご自身の言葉によれば,イエスの会衆は兄弟のような間柄にあるべきです。イエスは弟子たちに次のように言われました。「あなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者[僕,「王国行間逐語訳」]でなければなりません」― マタイ 23:8-11

68,69 (イ)会衆は兄弟のような間柄にあるので,どのような勝手気ままなことを行なうべきではありませんか。(ロ)テモテは,会衆の成員を扱う際にどんなことを念頭に置かなければなりませんでしたか。

68 ですから,だれも会衆内で一番偉い者のように振る舞うべきではありません。むしろ,会衆で長老および教える者として奉仕している人々は,兄弟たちのために奴隷のように謙遜に仕えて,主人であるキリストに見倣うべきです。しかし,会衆は兄弟のような間柄にある老若男女で構成されているのですから,個々の成員は,生来のしゅう恥心にもとる勝手気ままなことをすることは許されません。使徒パウロはテモテにこう助言しました。「年長の男子を厳しく批判してはなりません。むしろ,父親に対するように懇願し,若い男子には兄弟に対するように,年長の婦人には母親に対するように,若い婦人には姉妹に対するように貞潔をつくして当たりなさい」― テモテ第一 5:1,2

69 パウロがこの助言を書き送ったとき,テモテは恐らく30代であったと思われます。テモテは任命された長老として奉仕していましたが,まだ年が比較的若いことを心に留めておくように訓戒されていました。年上の人を正す必要のあるとき,テモテは,その人に対して厳しくならずに,父親の前で息子がとる敬意のこもった態度でその人に懇願するべきでした。(創世記 43章2節から10節に記されているように,ヤコブの息子たちが父親に懇願した際の敬意のこもった仕方と比較してください。)年配の婦人も,母親に示されるような思いやりと親切を示されるべきでした。テモテは若い男子に対しても勝手に振る舞うことは許されず,愛する実の兄弟のように若い男子を扱うべきでした。男性は異性に強く引かれるので,若い女性を実の「姉妹に対するように貞潔をつくして」扱うようにという忠告がテモテに与えられたのは適切でした。つまり,若いクリスチャン婦人と交わる際に,テモテは考えや言葉や行動において貞潔,純粋,清潔であるべきでした。

70 (イ)会衆内でふさわしい行状を保つために従順な精神はなぜ必要ですか。(ロ)従順な精神を保つうえで何が役立ちますか。

70 会衆の他の成員との関係で,自分の分を越えないようにし,生来のしゅう恥心や礼儀作法にそむかないためには謙遜な気持ちを持つことが必要です。それで適切にも,使徒ペテロは「若い人たちよ,年長者たちに服しなさい」と訓戒しました。(ペテロ第一 5:5)若い人々は年長者,特に会衆に立てられている長老たちに協力するよう努力すべきです。若い人が,年長者に向かって,実の父親に対する場合には考えられないような話し方をしたり態度を示したりするのは確かにふさわしくありません。ところで,若い人は従順な精神を保つためにどうすることができるでしょうか。年長の兄弟たちの称賛すべき資質や忠実な奉仕の記録について考えるのが有益であることに気付くかもしれません。そのようにすると,年長の兄弟たちに対する愛と感謝を深めることができます。―ヘブライ 13:7,17と比較してください。

71 『へりくだった思いを身につける』とはどういう意味ですか。

71 むろん,ペテロは,若い人が年長者に服さなければならないことだけを勧めたのではありません。続けて,「あなたがたはみな,互いに対してへりくだった思いを身につけなさい」と述べました。『へりくだった思いを身につける』に相当する原語は,へりくだった思いを自分自身に結わえ付けるという考えを伝えています。その「へりくだった思い」は,奴隷が着けていた前掛けとか衣のようなものであるべきでした。ですから,ペテロが勧めていたのは,喜んで他の人々に仕え,他の人々の益になろうとする精神です。わたしたちが,会衆内のすべての人に敬意をもって接し,それらの人々の当然受けるべき敬意を与えるなら,それは何と良いことでしょう。その結果,エホバの祝福と恵みが得られます。なぜなら,ペテロが,「神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施される」と言い添えているからです。―ペテロ第一 5:5

72 正しく服することにはどんな報いがありますか。

72 確かに,聖書に調和した従順を示すことには豊かな報いがあります。そうするなら,悪い事態をさらに悪化させることなどなく,神と人の前に正しい良心を持つことができます。政府当局,雇用者,監督者,未信者の夫に服することは,真のキリスト教の価値に関する優れた証言となり,他の人々が永遠の命を目指しつつ神のみ子の弟子となるのを助けるかもしれません。また,わたしたちとしては,エホバ神の目に喜ばしい道に従うならエホバから豊かな報いを受けることを確信できます。そうです,権威にふさわしく服することは,現在最善の生き方をするうえで非常に肝要なことです。

[研究用の質問]