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何を信じるかは重要

何を信じるかは重要

ひとなんのためにきているんだろうとかんがえたことがありますか。しんろんしゃのウィリアム・B・プロバインはこうっています。「しんていについてこれまでかってきたことは,われわれにじょうおおきなえいきょうあたえ,じんせいをどうかんがえるかをゆうする」。プロバインがしたけつろんはこうです。「けっきょくのところちゅうそんざいにもじんせいにもたらない」。32

そのことどおりだとどういうことになるか,かんがえてみてください。もしじんせいとくがないなら,きるもくてきは,いくらかでもいことをおこなおうとしたり,ぶんでんのこそうとしたりするぐらいしかないことになります。そしてやがてむかえて,えいきゅうそんざいしなくなります。にんげんのうじんせいについていろいろかんがえたりなやんだりするのもたんなるぐうぜん,ということになります。

それだけではありません。しんしんじるひとおおくは,かみなどいないとか,いたとしてもにんげんのすることにはかんしょうしないとしゅちょうします。もしそうなら,じんるいしょうらいせいけんきゅうしゃしゅうきょうどうしゃかっているということになります。そういうひとたちがこれまでしてきたことからすれば,にんげんしゃかいこんこんらんし,あらそいやせいえないことでしょう。もしほんとうしんじつなら,みじかじんせいをとにかくたのしもうというかたとうおもえるでしょう。「べたりんだりしましょう。明日あすにはぬからです」というかんがかたです。(コリントだいいち 15:32

いっぽうせいしょは,かみが「いのちみなもと」だとおしえています。(へん 36:9)そのことにはふかがあります。

せいしょかれていることがしんじつであれば,きることにはたしかにがあります。すべてのものをそうぞうしたかみは,ごぶんのぞむことをおこなおうとするひとあいし,そのひとたちのためにらしいことをしようとかんがえています。(でんどうしょ 12:13こんらんあらそいもせいもなく,さえもないかいで,いつまでもしあわせにらせるようにするのです。(へん 37:10,11。イザヤ 25:6-8

かいじゅうなんびゃくまんというひとたちが,かみについてまなんでかみしたがうことこそがほんとうじんせいゆうなものにする,とかくしんしています。(ヨハネ 17:3たんなるがんぼうもとづいてそうかんがえているのではありません。かみそんざいしんじられるたしかなこんきょがあります。せいめいそうぞうされたのです。