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「不法の人」を無に帰させる

「不法の人」を無に帰させる

18章

「不法の人」を無に帰させる

1 これほど多くの人びとが諸国家間の平和を求めたことはいまだかつてありませんでした。それはなぜですか。

これほど多くの人びとが諸国家間の平和を求めたことはいまだかつてありませんでした。それは明らかにわたしたちが「核時代」に住んでいるためです。主要五大国は既に核爆弾を所有していますし,しかもその秘密が広く知られ,利用されるようになるにつれ,間もなくさらに多くの国家が核爆弾を所有するに至ると見られています。今や人類は陸上のミサイル基地だけでなく,海底の戦略的要所に潜むミサイル発射装置を持つ潜水艦による核攻撃の脅威にさらされています。

2 従って今日,国際平和のためのどんな並はずれた運動がまのあたりで展開されていますか。

2 従って,政治支配者が最初の核戦争を防止しようとして一見誠実そうな努力を払うのを見ても驚くには当たりません。核による全滅という現実の脅威に直面している世の支配者は互いに対していっそう慎重な態度を取る傾向を示しています。これまで妥協を排した敵対者同士も,平和を指向する妥協策を講じています。平和な将来を保証するためには,あらゆる事を行なわねばならないという感情がいよいよ高まっています。「一世代にわたる平和」への期待が高まっています。34か国で成る1973年ヨーロッパ安全協力会議はこの問題に関する国際感情を明示しています。その目標は国際的不法行為を制御することなのです!

3 (イ)世界の物事は人びとが自己満悦してどんな叫び声を上げる事態に近づいているかに見えますか。(ロ)その時にはだれの日が近づきますか。それはそのように叫ぶ人たちをなぜ驚かしますか。

3 世界のできごとは,諸般の物事を管理する人たちが自己満悦し,「平和だ,安全だ!」と叫んで喜ぶ事態に向かって動いているかに見えます。国際連合の満足げな優しい微笑のもとで事態がそうした状況に達したなら,「人類のための一世代にわたる平和」が始まることになるでしょうか。聖書の預言はこの問題に関して一言述べています。それは物事の起きる時や時期について多くを述べています。なぜなら,聖書の著者で,人間の創造者であられる方は時間厳守者であられるからです。その方の日は必ず訪れます! 国際的な政治運動がついに「平和と安全」を確立するかに見えても,その日を延期させるものとはなりません。人間がその日を定めるのではありません。人びとが国際的一致を図る取決めを設けて,これで「平和だ,安全だ!」と叫ぶことができると感ずる事態こそ,その日がまさに始まることを示す,予告されたしるしとなるのです。その日がもたらすものに人類は驚かされるでしょう。人間の創造者がそのみことばの中で預言したこと,またご自分の証人たちによってふれ告げさせてこられた事がらを人類は信じなかったゆえに驚かされるのです。

4 「平和だ,安全だ!」と叫ぶ時に関してパウロはテサロニケのクリスチャンにどんなことを書き送りましたか。

4 幾世紀もの昔になりますが,その日の到来を待ち望みつつ,霊感を受けて記されたみことばを調べた人たちがいました。19世紀の昔,使徒パウロはマケドニアのテサロニケに新しく設立されたクリスチャン会衆に手紙を送り,聖書を綿密に研究していたそれらの人たちにこう述べました。「さて,兄弟たち,時と時期については,あなたがたは何も書き送ってもらう必要がありません。エホバの日 *がまさに夜の盗人のように来ることを,あなたがた自身がよく知っているからです。人びとが,『平和だ,安全だ』と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの激痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません。しかし,兄弟たち,あなたがたはやみにいるのではありませんから,盗人たちに対するように,その日が不意にあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな光の子であり,昼の子なのです。わたしたちは夜にもやみにも属していません。ですからわたしたちは,ほかの人びとのように眠ったままでいないようにしましょう。むしろ目ざめており,冷静さを保ちましょう」― テサロニケ第一 5:1-6

5 (イ)パウロはイエスが何を預言した期間の半ばごろ,その最初の手紙をテサロニケのクリスチャンに書き送りましたか。(ロ)ところが,一部の人たちは何が近いと考えましたか。何を願う傾向がありましたか。

5 使徒パウロはマケドニアのテサロニケの会衆にあてたその最初の手紙を西暦50年ごろに書きました。それはイエスがオリーブ山で述べた預言の中で指摘された,『戦争や,戦争の知らせ』でしるしづけられる西暦33年から同70年までの期間の半ばごろでした。その期間には,『国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がる』ことになっていたのです。平和な時代どころではありませんでした。(マタイ 24:4-7)にもかかわらず,パウロがその最初の手紙を書いた翌年,テサロニケの一部のクリスチャンは『エホバの日はすでに来た』という考えに従うようになりました。けれども,その時分,つまり西暦50年か51年当時,実務家が「平和だ,安全だ!」と言っていたとする証拠はありません。そうした言説はパウロがその手紙の中で書いていたように,世の平和調停者に「突然の滅び」が訪れる直前に出ることになっていました。テサロニケのクリスチャンは宗教上の反対者たちのもたらす迫害ゆえに患難の時期を経ていたので,直ちに天に集められて主イエス・キリストと一緒になり,悩みから解放されることを願う傾向がありました。

6,7 彼らはさらに患難をこうむりながら信仰を示さねばならなかったので,パウロはそれらテサロニケの人たちに何と書き送りましたか。

6 従って,西暦51年ごろ使徒パウロはテサロニケのクリスチャンにもう一通の手紙を書いて,その霊的な均衡を回復させるのは当を得たことであると考えました。パウロは迫害と患難のもとで彼らが忍耐と信仰を保っていることに対する喜びを言い表わしてこう述べました。「これは,神の義の裁きの証拠であり,それによってあなたがたは,神の王国にふさわしい者とされるのです。まさにその王国のために,あなたがたは苦しみを受けているのです」。パウロは悶着を引き起こす者たちから彼らが間もなく解放されることを保証はしませんでしたが,「主イエスがその強力な使いたちを伴い……天から表わし示される」将来のことを指摘しました。彼らが困難な状況のもとでクリスチャンとしての信仰を示さねばならないことをよく知っていたパウロはこう述べました。

7 「このためにこそ,わたしたちは常にあなたがたのために祈っています。わたしたちの神が,あなたがたをご自分の召しにふさわしい者とみなし,そのよみせられる善良な事がらと信仰の業のすべてを,力をもってことごとく成し遂げてくださるようにとです。それは,わたしたちの神および主イエス・キリストの過分のご親切にしたがって,わたしたちの主イエスの名があなたがたの中で栄光を受け,またあなたがたも彼との結びつきのもとに栄光を受けるためです」― テサロニケ第二 1:5-12

8 エルサレムのきたるべき滅びに関連して彼らの期待がむなしくならないよう,パウロはどんな考えのために興奮したりなどしないよう彼らに求めましたか。

8 地上のエルサレムの滅亡(西暦70年)はその当時の人びとの世代内で近づいていたので,使徒パウロはテサロニケのクリスチャンが根拠のない期待のため,ユダヤ人のあの国家的大災難の生ずる以前,あるいはその直後に失望することがないよう願っていました。彼らの考え方を再調整する必要を見て取ったパウロは,今度はこう続けて書いています。「しかし,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの臨在[ギリシャ語: パルーシア],またわたしたちが彼のもとに集められることに関して,あなたがたにお願いします。エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって,またわたしたちから出たかのような手紙によって,すぐに動揺して理性を失ったり,興奮したりすることのないようにしてください」― テサロニケ第二 2:1,2

9 パウロはその最初の手紙の中で,キリストの臨在やクリスチャンがキリストのもとに集められることについて,テサロニケの人たちに何と語りましたか。

9 仲間の宣教者であったシルワノ(シラス)やテモテとともに働いて,テサロニケに会衆を設立した使徒パウロは,やむを得ずその会衆を去った後に書き送った最初の手紙に,彼の言う「わたしたちの主イエス・キリストの臨在,またわたしたちが彼のもとに集められること」について書きました。テサロニケ第一 4章14-18節にこう記しています。「イエスは死んでよみがえったということがわたしたちの信仰であれば,神はイエスにより死んで眠っている者たちをも彼とともにやはり連れ出してくださるからです。主の臨在の時まで生き残るわたしたち生きている者は死んで眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバのことばによってわたしたちがあなたがたに伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパとともに天から下ると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。そののち,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らとともに,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主とともにいることになるのです。それで,このことばをもって互いに慰め合ってゆきなさい」。

10,11 キリストの生涯に関する使徒マタイの記述からすれば,彼らはイエスの預言のどんな特徴に注意するよう促されていたと考えられますか。

10 パウロがもたらしたこうした情報のほかに,その時分までにはマタイの福音書が流布されていました。同福音書は西暦一世紀の一般ギリシャ語はもとよりヘブライ語で西暦41年ごろ書かれたからです。それでテサロニケの会衆は,オリーブ山で話されたイエスの預言について使徒マタイが記録した事がらに注意するよう促されていたと考えられます。マタイの記述によれば,イエスはエルサレムの(西暦70年の)滅びを予告した後,さらにこう述べました。

11 「それらの日の患難のすぐのちに,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天の諸勢力は揺り動かされるでしょう。その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」― マタイ 24:29-31

12 (イ)パウロは,エルサレムが滅びたのち直ちにクリスチャンが天のキリストのもとに集められるものと期待していましたか。(ロ)壊滅的なエホバの日の訪れる前にまず何が起こらねばならないということを彼らに思い起こさせましたか。

12 さて,エルサレムの滅亡の直後,その世代のうちに,栄光を受けた人の子のもとでみ使いたちによって神の選ばれた者たちが集められる事態が生じ,ついにはテサロニケのクリスチャンが主イエス・キリストのもとに一緒に集められるわけではないことを使徒パウロは知っていました。パウロは壊滅的な「エホバの日」が到来する前に,ローマ人によるエルサレムの滅びや政治支配者が口にする「平和だ,安全だ!」という欺瞞的な叫び声以上のものが生じなければならないことを知っていました。この特別の予備的なものについて使徒パウロはテサロニケのクリスチャンに次のようなことばで思い起こさせました。「だれにも,またどんな方法によってもたぶらかされてはなりません。なぜなら,まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わされてからでなければ,それは来ないからです」― テサロニケ第二 2:3

13 (イ)パウロの言う「背教」とは何を意味してはいませんでしたか。(ロ)パウロは背教の罪で非難されていたので,この言葉がどういう意味かをどのように自分自身知っていましたか。

13 そのとおりです! まず,背教が起こらなければなりません。使徒パウロの言う「背教」とはどういう意味ですか。パウロは,単に注意を怠って離れ去ること,つまりキリスト教の信仰や実践の点でキリストの弟子たちが無関心になって落伍することを言っていたのでしょうか。そうではありません! その言葉ははるかに強烈なものを意味しています。使徒パウロはそれを知っていました。彼自身背教の罪で非難されましたが,その非難は割礼のある不信仰なユダヤ人によりもたらされました。パウロが最後にエルサレムを訪れたさい,クリスチャン会衆の統治体から次のように明言された理由で助言を与えられたのはそのためでした。すなわち,こう記されています。「兄弟,あなたが見るとおり,ユダヤ人の中には幾万もの信者がいます。そして彼らはみな律法に対して熱心です。しかし,彼らはあなたについて,あなたが諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き,子どもに割礼を施すことも,厳粛な習慣に従って歩むこともしないように告げている,とのうわさを聞いています。それで,この点をどうすべきでしょうか。いずれにしても彼らは,あなたが到着した[ギリシャ語: エレリタース]ことを聞くでしょう」。(使徒 21:18-23)パウロがモーセに背を向けるのは,ユダヤ人の考えからすれば,背教を意味したのです。

14 その元のギリシャ語そのものは文字どおりには何を意味しますか。それはどんな意味を帯びてきましたか。

14 「背教」という語はそのギリシャ語の用法によれば,文字どおりには「遠ざかること」「それること」「退くこと」を意味しています。たとえば,ルカ 8章13節はこう述べています。「試みの時になると,身を引いてしまいます」。(新英)また,テモテ第一 4章1節にはこう記されています。「後の時代になると,ある人たちは信仰から離れるようになります」。(新英,エ)「ある人びとは信仰に背くようになります」。(モ)また,ヘブライ 3章12節はこう述べています。「兄弟たち,あなたがたの中では,だれも生ける神から離れる者のよこしまで不信仰な心をいだくことがないよう気をつけなさい」。(新英)「兄弟たち,あなたがたのうちのだれも,よこしまで不信仰な心に動かされ,生ける神に背く背教者にならないよう注意しなさい」。(モ)「永遠に生きておられる神から人を離れ去らせる,よこしまで不信な心」。(ア訳,エ)それで,今日の「背教」という言葉の生じた元の語は昔のギリシャ人にとって「背反,失踪」はもとより,「背信」あるいは「反逆」を意味しました。現代のある翻訳がテサロニケ第二 2章3節で「反抗」という意味を伝えているのはそのためです。

15 「背教」という言葉に関して強烈な見方が取られていることを現代の翻訳はどのように示していますか。

15 たとえば,ローマ・カトリックのエルサレム聖書はこう述べています。「大いなる反逆が生じ,反抗者つまり救われぬ者が現われなければ,それは起こり得ないからです」。アメリカ訳はこう訳しています。「反抗が生じ,不従順の化身 ― 滅びに定められている者 ― が現われるまでそうはならないからです」。改訂標準訳はこう述べています。「まず反抗が生じ,不法の人,破滅の子が明らかにされなければ,その日は来ないからです」。モファット訳はこう訳出しています。「まず第一に反抗が生じ,不法な者,滅びに定められている者が明らかにされるまでは,それは来ないからです」。新英語聖書はこう訳しています。「悪が人の,つまり破滅に定められた人間の形を取って明らかにされる,神に対する最後の反抗の時よりも前には,その日は到来し得ないからです」。テサロニケ第二 2章3節のこうした種々の翻訳から,「背教」という言葉については強烈な見方が取られていることがわかります。

だれに対するものか

16 (イ)そうした背教もしくは離脱が何から生ずるものであるかはどうしてわかりますか。(ロ)この「不法の人」がひとりの人間かどうか,またその「人」が単なる反キリストかどうかを何が示していますか。

16 では,こうした背教,こうした反逆,こうした反抗,こうした背信はだれに対するものですか。そうした反抗の発展に関するさらに詳しい説明は,それがエホバ神に対するものであることを明らかにしており,その背教はエホバ神の日に先行することになっています。その背教はついには,「不法の人つまり滅びの子」を明らかにするものとなります。それは文字どおりのひとりの人間ですか。いいえ,そうではありません。というのは,ただひとりの人間では,この預言の成就に包含される長い期間生き長らえ得るものではないからです。「不従順の化身 ― 滅びに定められている者」という表現を用いているアメリカ訳の訳し方はこの説明とよく合致します。その者が「反キリスト」と呼ばれていないことも注目に値します。確かにその者は結局は反キリストになります。西暦98年ごろ,自分の時代に関して使徒ヨハネが書き著わしたとおりです。「今でも多くの反キリストが現われています。……イエスがキリストであることを否定する者でなければ,いったいだれが偽り者でしょうか。父とみ子を否定する者,それが反キリストです」。(ヨハネ第一 2:18,22)神のみ子だけでなく,父なる神をも否定するのです。

17 この神の反対者は「滅びの子」と呼ばれていますが,これは何を意味していますか。その滅びはいつ到来しますか。

17 そのようなわけで,「不法の人」を神の反対者と呼ぶのはいっそう適切です。この神の反対者は神に対して不法な者であって,父なる神に反対しているので,神のみ子イエス・キリストにも反対しています。この「不法の人」は現われる前から「滅びの子」という名で呼ばれています。この比喩的な表現は,滅びを受け継ぐ者,有罪の宣告を受けて滅ぼされる,つまり「滅びに定められている」者を意味しています。「不法の人」は滅びに値します。その滅びは必至です。その正当な滅びは「エホバの日」にさいしてその者に臨みます。その日が来る前にこの神の反対者は明らかにされます。

18 (イ)その不法な者は「背教」と関係している以上,これはその者と神との関係に関して何を示していますか。(ロ)パウロの時代の生来のユダヤ人は神との平和な関係にあったのに,後に変節してその関係から離れたのでしょうか。

18 あらかじめ滅びに定められているこの「不法の人」は,予告された「背教」つまり反逆,神に対する反抗と関係しています。この事実は確かにその「不法の人」が元は神との交わりを持ち,神との平和な関係にあったことを示しています。使徒パウロがテサロニケのクリスチャンに手紙を書き送った当時,神と平和状態にあり,神と和合した関係にあったのは割礼を受けた生来のユダヤ人ではありませんでした。テサロニケで暴徒を扇動して立ち上がらせ,使徒パウロを同市から,また後にはベレアから逃れざるを得ないようにさせたのはそうしたユダヤ人でした。(使徒 17:5-15)テサロニケの人たちにあてた最初の手紙の中でパウロはこう書いています。「彼ら[ユダヤの諸会衆](も)ユダヤ人の手で(苦しめられていますが)……ユダヤ人は主イエスをも預言者たちをも殺し,そしてわたしたちを迫害したのです。さらに,彼らは神を喜ばせてはおらず,むしろすべての人の利益に逆らっています。諸国の人たちが救われるようにとわたしたちがその人たちに語りかけるのを,彼らは妨げようとしているからです。その結果,彼らは常に自分たちの罪の限りを満たしています。しかし,神の憤りはついに彼らの上に臨んでいるのです」― テサロニケ第一 2:14-16

19 では,だれから背教が始まると予想し得ましたか。それはどうしてですか。

19 では,クリスチャン会衆以外のどこから背教が始まると予想し得たでしょうか。「パウロとシルワノとテモテから,わたしたちの父なる神および主イエス・キリストと結ばれたテサロニケの人たちの会衆へ: 父なる神と主イエス・キリストからの過分のご親切と平和があなたがたにありますように」と同使徒が書き送ったのは,テサロニケの会衆で代表されるクリスチャンに対してでした。(テサロニケ第二 1:1,2)それらクリスチャンは変節して神から離れる,つまり神に反逆し,反抗することがあり得ました。なぜなら,彼らは神と,また神のメシアとともにあって,天の父なる神から,そのみ子イエス・キリストを通して過分の親切と平安を受けていたからです。それでは,クリスチャン会衆から出るそうした反抗者とはだれでしょうか。

20,21 (イ)背教はユダヤ国民の内部からではなく,クリスチャン会衆の内部から始まることになったのはなぜですか。(ロ)パウロはきたるべき背教についてどんな言葉を用いてエフェソスの長老会に警告しましたか。

20 神はご自分の選民としてのユダヤ国民を既に退けておられたので,今や神に属するものとなった会衆のただ中から背教,つまり宗教上の反逆もしくは反抗が起きることを使徒パウロは自ら警告しました。神の会衆は今や霊的なイスラエル人,つまり霊的なユダヤ人で構成されており,割礼を受けた生来のユダヤ国民はもはや神の会衆ではありませんでした。テサロニケの人たちにあてて第二の手紙を書き送ってから何年かの後,パウロはエルサレムへの最後の旅行の途中,たまたま小アジアの都市ミレトスに立ち寄り,そこで近くのエフェソスの会衆の長老会つまり「長老たちの一団」に話をしました。背教のことをあらかじめ指摘したパウロはそれら長老つまり監督たちにこう語りました。

21 「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです。わたしが去ったのちに,圧制的なおおかみがあなたがたの中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなたがた自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事がらを言う者たちが起こるでしょう」― 使徒 20:28-30

22,23 (イ)ペテロもまた,そのどの手紙の中で,まただれに対してきたるべき背教に気をつけるよう警告しましたか。(ロ)ペテロがその手紙の中で述べた事がらは,不法な「滅びの子」がだれかを見きわめるのにどのように助けとなりましたか。

22 使徒パウロと同様,その仲間の使徒ペテロもやはりきたるべき背教について気づいていました。西暦64年ごろに記されたその第二の,そして最後の手紙の中でペテロは,「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義により,わたしたちと同じ特権としての信仰を得ている人びと」に語りかけました。

23 それらの人たちに対する手紙の中でペテロはさらに言葉を続けてこう述べました。「預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです。しかしながら,民の間に偽預言者も現われました。それは,あなたがたの間に偽教師が現われるのと同じです。実にこれらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです。さらに,多くの者が彼らの不品行に従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう。また,彼らは強欲にもまことらしいことばであなたがたを利用するでしょう。しかし彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのでもなければ,その滅びはまどろんでいるのでもありません」。(ペテロ第二 1:1,21から2:3)このことばはあの不法な「滅びの子」がだれかを見きわめるのに助けとなります。

24,25 パウロやペテロが述べた前述の事がらから考えて,「不法の人」とは何かを見きわめるのに役だつどんな質問が生じますか。

24 使徒パウロやペテロが背教について述べる事がらから考えて,「不法の人……滅びの子」とはいったいだれでしょうか。「長老たち」つまりエフェソスの会衆を代表する「監督たち」に対して使徒パウロは,宗教上の分野で「曲がった事がらを言う」者たちが起こるであろうと語りました。これで問題はクリスチャン会衆の宗教上の指導者たち,つまり『神の会衆を牧す』べくその職に任じられた,もしくは任命された人たちに局限されます。では,神の会衆の者と称しながら,「圧制的なおおかみ」に似た宗教上の指導者たちとはだれでしょうか。「群れを優しく扱わ」なかった,クリスチャンと称する指導者たちとはだれでしたか。会衆の中で「弟子たちを引き離して自分につかせ」ようとして「曲がった事がら」を話す者として起こった有力な宗教家たちとはだれでしたか。昔のイスラエルの民の中に現われた偽預言者のように,霊的なイスラエル人の中で「偽教師」であることを示してきた人たちとはだれですか。

25 そうです,自ら神の会衆を成す者と考えている人たちの中に「破壊的な分派」を持ち込んだ宗教指導者たちとはだれでしょうか。自分たちの宗教上の教えや行為によって実際には,「自分たちを買い取ってくださった」天の所有主を否認してきた,そうした派閥的な指導者たちとはだれですか。どんな宗教指導者たちは一般世俗の権威との関係において「不品行」の罪を持つ者であることを示してきましたか。どんな宗教指導者たちは自分たちの群れに見倣わせるには悪い手本を残し,そのために「真理の道」は「あしざまに言われる」ようになりましたか。どんな宗教指導者たちは自分たちの会衆の人びとの持ち物をむさぼり,そのうえ「まことらしいことばで」彼らを食い物にしてきましたか。

「不法の人」の正体を見きわめる

26 証拠はだれを指し示していますか。アメリカナ百科事典は,それと見分けられている者をどのように説明していますか。

26 過去千六百年にわたる人類史の証拠はキリスト教世界の僧職者を指し示しています。キリスト教世界の「僧職者」とはどういう意味かはっきりわからない方がもしおられるなら,アメリカナ百科事典(1929年版)第7巻,90ページの次のような説明を読んで,その点をはっきりさせてください。

キリスト教の教会における僧職者(ラテン語クレリカスで,身分を意味するギリシャ語クレロスに由来する),つまり僧職につくよう聖別された信者のあの部分。聖務や称号,特典,権利,特異な服装および慣習が増し加わることにより,俗人からの分離はいっそう顕著になった。ローマ・カトリック教会の僧職には八つの階級つまり区別がある。すなわち,単なる僧,四つの下級聖品級,および副助祭・助祭・司祭の三つの聖品級のそれである。……最後の三階級は聖職叙任を受けたものとみなされている。単なる僧は教会の剃髪式を受けた者であり,その儀式により当人は教会書記あるいは僧とされ,またそうした身分の者として特定の権利や特典また免除を受け,俗人には課せられていない特定の義務を負う。プロテスタント諸教会における僧職と俗人との相違はそれほど大きくはない。

27 (イ)会衆を僧職者と俗人に二分することは,イエスのどんな言葉に反していますか。(ロ)啓示の書の中でヨハネは会衆の成員すべてをどのように類別していますか。

27 クリスチャン会衆のかしら,イエス・キリストは,弟子たちを僧職者と俗人に分けるよう指図を与えましたか。弟子たちを二つの概括的な級に分けるようにとの指図は,マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書,あるいは使徒たちの活動の書,またはヨハネへの啓示の書のどこにもありません。イエスの指図はそれとは全く逆のものです。エルサレムの神殿でのこと,イエスはご自分の弟子たちとユダヤ人の群衆にこう言われました。「しかしあなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者でなければなりません」。(マタイ 23:8-11)イエス・キリストを通して与えられた啓示の書の中で使徒ヨハネは,キリストの弟子たちすべてのことを祭司として指摘して,こう述べています。「彼はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである……」。「(あなたは)彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対して王として支配するのです」― 啓示 1:6; 5:10

28 同様に,ペテロの最初の手紙の中でもやはり会衆のそれら成員はすべてどのように類別されていましたか。

28 同様に使徒ペテロは,それらクリスチャンはすべて祭司であるということを指摘して彼らにこう書き送っています。「あなた方もまた,生ける石として霊的な家,聖なる司祭職として築き上げられなさい。イエス・キリストにより,神に受け入れられる霊的な犠牲を捧げるためである。しかし,あなた方は選ばれた世代,王の司祭職,聖なる国民,買い取られた民である。それは暗闇からご自分の驚くべき光にあなた方を呼び入れてくださったお方の徳を明らかにするためである」― ペテロ第一 2:5,9,ローマ・カトリック,ドウェー訳。

29,30 (イ)ドウェー訳聖書はペテロ第一 5章1-3節で「僧職者」という語をどのように適用していますか。(ロ)現代の種々のカトリック訳はここで関係しているギリシャ語をどう訳出していますか。

29 「僧職者」という意味の英語の用語はドウェー訳聖書にはペテロの最初の手紙の中に次のように確かに一回出てきます。「それゆえ,私は,あなた方の中の老齢者たちに,同じく老齢者のひとり,キリストの苦難の証人,またやがて現われるあの栄光にあずかる者として勧める。あなた方のうちにいる,神の羊の群れを牧しなさい。強いられてではなく,進んでその世話をし,卑しい利得のためではなく,自発的にそうしなさい。また,僧職者の上に権力をふるうのではなく,むしろ心から群れの手本となるべきである」。(ペテロ第一 5:1-3,ド)しかし,聖書のこの翻訳の中でさえ,神の霊的な羊の群れ全体が「僧職者」と呼ばれており,使徒ペテロと同様な「老齢者たち」はその「僧職者」の上に権力をふるってはならないと戒められているのです。とはいえ,ペテロ第一 5章3節のギリシャ語の言葉クレロス(複数形)のそうしたドウェー訳の訳し方には満足できなかったので,現代のローマ・カトリックの聖書翻訳はギリシャ語のその言葉を英語で別の仕方で訳しています。例えば次のとおりです。

30 「また,あなた方に委ねられている団体の独裁者になるのではなく,群れ全体が従い得る模範となりなさい」。(エルサレム聖書)「あなた方に割り当てられた人たちの上に権力をふるうのではなく,群れの模範となりなさい」。(新アメリカ聖書)「それでも,託された人たちの上に権力をふるうのではなく,群れの模範となりなさい」― ウエストミンスター訳新約聖書。

31 イエスがマタイ 23章10-12,14,33節で言われたことから考えて,自らを「俗人」とは別個の「僧職者」として目立たせる人びとの動機についてわたしたちが尋ねるのはどういう訳ですか。

31 霊感を受けた,イエスの使徒たちが「司祭職」や「僧職者」(ドウェー訳)という語を神の羊の群れ全体に適用し,それらの語を使徒ペテロと同様な「老齢者たち」つまり「長老たち」に局限していない以上,ここで次のように問うのは差し出がましいことではありません。自らを「司祭」と称し,また霊感を受けた聖書に出ていない,いわゆる「俗人」という用語で呼ばれる人たちとは別個の異なった者として自分たちのことを「僧職者」と呼ぶ,キリスト教世界の宗教指導者は何者なのでしょう。それら宗教指導者はどんな動機でそのように自らを目立たせているのでしょうか。自らを何に仕立てようとしているのでしょうか。ユダヤ人の律法学者やパリサイ人のことを「偽善者」また「蛇よ,まむしの族よ」と言って公然と非難したイエス・キリストが次のように言われたのをわたしたちは思い起こします。「また,師と呼ばれてはいけない。あなた方の師はただひとり,キリストだからである。あなた方の中で一番偉大な者は,あなた方に仕える者でなければならない。だれでも自分を高める者は低くされ,自分を低くする者は高められるであろう」― マタイ 23:10-12,14,33,ドウェー訳。

32 キリスト教世界の宗教指導者は,自分たちのことを「俗人」とは異なった者として「僧職者」と呼び始めたのはいつでしたか。

32 実際のところ,キリスト教世界の宗教指導者はいつ自らを僧職者と呼び,「司祭」という称号を自分たちのために確保し始めましたか。マクリントクとストロング共編,「百科事典」はその第二巻,386ページで,「2. 僧職者と俗人の区別」という見出しのもとに,僧職者と俗人の「対比」つまり対照についてこう述べています。

僧職者と俗人とのユダヤ人特有の対比は最初クリスチャンの間では知られてはいなかった。信者すべてがキリスト教の一般司祭職にあずかるという考え方が,特別司祭職つまり特別僧職という考え方にほとんど完全に取って代わられたのは,「人々が福音主義的な見方からユダヤ人特有のそれに戻ってからのことである。……ゆえに,テルツリアヌスさえ(モンタニストになる以前の著書,「バプテスマに関して」の17章で)[こう述べた]。「俗人もやはり秘跡を執行し,地域共同体内で教える権利を持っている。神のみ言葉と秘跡は神の恩寵によってすべての人に伝えられたのであって,それゆえに神恩を伝える手だてとしてのそうしたものにクリスチャンはすべてあずかることができよう。しかし,ここで問題は,単に何が一般に許されているかという点だけでなく,現状では何が適当かという点にも関係しているのである。ここでわれわれもまた,聖パウロの述べた,『一切のもの我によからざるなし,されど一切のもの益あるにあらず』という言葉を用いることができよう。もし,教会内で維持される必要のある秩序に着目するとすれば,従って俗人は時と事情が要求する場合にのみ,秘跡を執行する司祭としての権利を行使できるであろう」。教階制度の教父……キプリアヌスの時代以来,僧職者と俗人との区別が顕著になり,ほどなくして一般的に認められるようになった。実際,クレルス(クレロス,オルド)という用語は三世紀以後,僧職者と俗人を区別するためほとんど独占的に僧職に適用された。ローマ教階制が発達するにつれて,僧職者は単に(使徒伝承の規定や教義すべてとあるいは合致するかもしれぬ)明確な階級となっただけでなく,唯一の司祭職,また人間と神との意思伝達の主要な機関として認められるに至った。

33 そのキプリアヌスとはどんな人でしたか。三世紀当時の会衆で彼はどんな職務に就きましたか。

33 アメリカナ百科事典,第8巻,368ページによれば,前述のタスキウス・カエキリウス・キプリアヌスは西暦200年ころに生まれ,同258年9月14日,アフリカのカルタゴで死にました。「バプテスマを受けた(246年)後まもなく,彼は司祭として叙任され,次いでカルタゴのクリスチャンにより彼らの司教に選ばれた(248年)。……彼は自分の司教区の救済強化に大いに尽力し,彼のもとで宗教会議が七回開かれ,その最後の会議は256年に催された」と記されています。このアフリカの司教は教会の「教父」のひとりとみなされ,ローマ・カトリック教会によって聖列に加えられたとはいえ,僧職団のひとりであったこと,つまりイエス・キリストの使徒たちやその一番近い仲間たちの死去後存在するようになった僧職者のひとりであったことには変わりありません。

34 「不法の人」という表現により聖書はどんな人のことを意味していますか。どうしてそう言えますか。

34 問題の「背教」つまり「反逆」もしくは「反抗」に関連して「不法の人……滅びの子」であることを自ら明らかにしたのは,このいわゆる「クリスチャン」と称する僧職者です。明らかに聖書はこうした表現を用いることによって,それが長期間にわたって存続し,時の経過とともにその構造あるいは構成員の変わる複合の「人」であることを意味しています。そのようなわけで,この「不法の人」の成員は三世紀当時のそれとは異なっています。

神性を有するという主張

35 その「不法の人」が神性を切望しても驚くには当たりません。なぜですか。「不法の人」はそれをどれほど切望しますか。

35 僧職者で成るこの「不法の人」の「背教」もしくは「反抗」はエホバ神に対するものであってみれば,その複合の「人」が神性を切望し,自らをある種の神に仕立てようとしても驚くには当たりません。エホバ神に背いた最初の反抗者すなわち悪魔サタンは自らをある種の神に仕立てたので,使徒パウロは彼のことを「この事物の体制の神」と呼んでいます。(コリント第二 4:4)異教の古代バビロンの王は悪魔サタンの影響を受けて自らを,エルサレムに神殿を持っておられたエホバ神に匹敵する者に見せかけようとしました。イザヤ書 14章14節によれば古代バビロンのその王は,『たかき雲漢にのぼり至上者のごとくなるべし』と心の中で言いました。そして,西暦前607年にエルサレムとエホバ神の神殿を滅ぼしたとき,自分の野望を遂げたと考えました。エホバ神と同等の者になりたいとの野望を抱いたそのバビロニア人がもたらしたエルサレムとその神殿の滅びは,僧職者で成るこの「不法の人」によって引き起こされた,エホバ神と関係のある事物の破壊のすべてと比べれば,取るに足りない事がらとなります。

36 その複合の「人」はあたかもエホバに対して責任を負ってはいないかのようにどのように行動していますか。その「人」についてパウロはテサロニケの人たちに常に何を告げていましたか。

36 宗教上の事がらの面で反抗者であるこの「不法の人」は,あたかもいと高き全能の神エホバに対して責任を負ってはいないかのように,つまりあたかも生ける唯一真の神の法の及ばない者でもあるかのように行動してきました。使徒パウロはこの複合の「不法の人」について次のような驚くべき事を預言的に述べたからといって極端なことを言っているわけではありません。「彼は,すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します。まだあなたがたとともにいた時,わたしが常々こうしたことをあなたがたに話したのを覚えていないでしょうか」― テサロニケ第二 2:4,5

37 パウロの預言がどのように成就したかを確証するものとして,ある人はどんな著名な宗教家のことを指摘しますか。それはなぜですか。

37 もちろん,僧職者で成る「不法の人」がこの預言を成就してきたことを確証するものとして,いわゆる「クリスチャン」と称する僧職者の一成員の言行を,あるいはその成員に神性があるとする主張を指摘する人がいるかもしれません。例えば,ローマ・カトリック教会の教皇のことを指摘し,フェラリスの教会辞典 *がそうしたローマ教皇について述べることを引用するかもしれません。すなわち,同辞典はこう述べています。

教皇はかくも尊厳で,位が高いがゆえに,単なる人間ではなくて,いわば神であり,神の代理者である。……従って,教皇は天と地と地獄の王として三重冠を載いているのである。……それのみならず,教皇の卓越性と権能は単に天上,地上および地獄の事物にかかわるものであるだけでなく,教皇はまた天使よりも位が高く,その上級者である。……ゆえに,もし天使が信仰に背いたり,あるいは信仰に反する意見を抱くことがあるとすれば,教皇はそのような天使を裁いて破門に付すことができよう。……かくも偉大な尊厳さと権能を有するがゆえに,教皇はキリストと全く同一の審判者席を占めているのである。……ゆえに,教皇が行なうことはすべて,神の御口から出る事がらと考えられる。……教皇はいわば地上における神,キリストの忠実な信者たちの唯一の君主,最高の権能を有する,あらゆる王の中の最大の王であって,地と天の王国の統治権を委託された者である。……教皇はかくも大いなる権威と権能を有するがゆえに,神の法の修正,布告もしくは解釈を行なうことができる。……場合によっては,限定したり,解釈したりして神の法を無効にすることもできる,云々。

38 しかし僧職者一個人のことを指摘するさい,何を忘れてはなりませんか。それで,「不法の人」に関するこの預言は実際にはどのようにして成就されてきましたか。

38 とはいえ,「不法の人」とはローマの教皇あるいはアテネのギリシャ正教の主教,コンスタンチノープル(イスタンブール)のギリシャ正教の主教その他の教会の主教のようなただ一人の宗教指導者ではないことを忘れてはなりません。予告された「不法の」者は複合の「人」つまり教会の自称「クリスチャン」の僧職者全体なのです。もちろん,僧職者で成るその「人」の顕著な一成員の行なうことは,僧職者級の他の成員全員に非難をもたらすものとなります。というのは,それら他の成員は行なわれていることに同意し,あるいは反対せず,つまりそれを黙認し,僧職組織とともに留まっているからです。僧職者級の一成員がその団体全体を代表して話したり行なったりする場合のように代表的な仕方でなす事がらに対して僧職者全員は連帯過失責任を問われます。僧職者級が全体として何世紀もの時代を通じて行なってきたこと,あるいはそれに加担してきたことが,「不法の人」に関する預言を成就するものとなっているのです。

39 「不法の人」級はエホバに『逆らって』立っていることをどのように示してきましたか。

39 その「不法の人」級は霊感を受けた弟子ヤコブがその手紙の中で次のように述べた法則どおり,自らを世の「友」とすることによって『逆らって』立ち上がっていることを示してきました。「この世との友交は神に敵するものである。それゆえ,だれであれ,この世の友となる者は神の敵となるのである」。(ヤコブ 4:4,ドウェー)反抗し,霊感のもとに記された神のみことばを無効にしようとしたり,あまつさえ教会を支持する成員から聖書を奪ったり,あるいは遠ざけさせたりしようとする者はエホバ神に反抗しているのです。霊と真理をもってイエス・キリストを通してエホバ神を崇拝しているキリストの弟子たちに反抗し,彼らを迫害する者はエホバ神に反抗しています。(ヨハネ 4:24)その者は生ける唯一真の神に対するものである崇拝や崇敬の念を奪い,それを一段と高められた僧職者級に向けさせることによって真の神に反抗しているのです。

40 「不法の人」級は教会と国家の問題に見られるように,地上の唯一の神として活躍すべくどのように努力してきましたか。

40 「不法の人」級は地上の舞台における唯一の神,実際のところ地上の神々の中の神となることを欲しています。このことはキリスト教世界の教会が政治上の国家と結んできた諸関係を通じて実際に明らかにされてきました。教会と国家のそうした結合関係において僧職者は常に優勢な当事者となり,命令する側に立つべく努力してきました。教会と国家はコンスタンチヌスの時代以来そうした結合関係を持ってきました。が,実際のところそれは,権威,名声,保護,免除,支持その他の利己的な恩典という形で僧職者が利得を得られる打算的な結合関係となってきました。アメリカナ百科事典,第6巻はその657,658ページで「教会と国家」に関して次のように述べています。

近代においてこの二つの制度間の完全な一致はたとえ存在したにせよ極めてまれなことであった。この闘争は非常に長引いたものであるだけに,何らかの驚くべき大変動でも起こらない限り,果てしなく続く見込みが十分にある。それは激しい闘争であって,それには大きな権益が関係し,またそれは重大な論議に世の注目を引くものとなってきた。それはさまざまの暴動を誘発し,政治上の論争を別にすれば無類の罵り雑言を弄する著作を生み出すものとなった。それは往々にして単なる政治的論争であった。……コンスタンチヌスのもとで教会は諸民族を教化する仕事の協力者として世界的な活動舞台に登場し,精神的支配者として認められるにつれ,徐々に現世の主権者としての具体的存在場所と名前を取得し,ある種の世界強国となったのである。こうした点での成功は,教会のさまざまな災難すべての発端となった。……コンスタンチヌス以後シャルルマーニュの時代に至るまでは世俗の勢力は教会を適法と認めたものの,その統治権には干渉した。シャルルマーニュ以後宗教改革時代の迫った時期までは,教会と国家は密接に結合し,世俗の権威が教法上のそれに服する状態が一般的に認められた。

41 (イ)歴代のローマ皇帝は,「不法の人」が自らその上位に立たねばならなかった宗教上のどんな身分を有していましたか。(ロ)ローマ皇帝は宗教上のどんな職に就いていましたか。その職は背教した教会に関してどのように用いられましたか。

41 異教のローマ帝国歴代の皇帝が神々として列され,神々あるいは神人として皇帝に対し香が供されたのは歴史の事実です。四世紀のコンスタンチヌス大帝の時以来,「背教」者であった司教たちは国家と結び付いて,神格化されたローマ皇帝に対する支配権を獲得しようとしました。コンスタンチヌス帝は異教とキリスト教を一緒にして融合宗教を作り出すことに努め,背教した司教たちの奉ずる宗教を国教として制定しました。彼は西暦337年に死にましたが,その最期まで宗教上の首長である最高僧院長という異教の称号を帯びていました。しかも,西暦325年に教会の司教たちの宗教上の論争に決着をつけるために開かれたニケア公会議は,当時まだバプテスマを受けていなかったコンスタンチヌスが最高僧院長として召集したものでした。そのとき彼は教会の司教の大多数によって教えられていた三位一体(三位における唯一の神)という異教の教理に有利な決定を下しました。

42 好機が到来するや,「不法の人」はどのようにして,まただれを通して,「すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるもの」以上に自らを高めましたか。

42 379年 *にはローマの司教である教皇にとってまたとない好機が到来しました。それはクリスチャンと称したグラチアヌス帝が最高僧院長という異教の称号とその職を放棄した時のことでした。時の教皇ダマスカスは,それがもたらす全住民に対する宗教上の権力,権威,影響力および支配権のすべてを掌握するため,良心の呵責を感ずることもなくそれを拾い上げました。しかも,住民の大半は依然異教徒であり,それが異教の称号であることを知っていたのです。こうして宗教上の事がらにおいては,ローマの司教である教皇はローマ皇帝以上に高められました。ローマ・カトリック教会の教皇は今日に至るまで引き続きその異教の称号を有すると主張し,それを用いてきました。僧職者級の中でも最も著名な成員である教皇によって代表されているように,「不法の人」は「すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるもの」の上に自らを高めました。キリスト教世界の司祭や伝道師は,「師」「尊師」その他の尊称を付して呼ばれたり,そうした称号を受けたりするのを好んでいることは周知のとおりです。彼らは教区民あるいは教会員に対し,自分たちのことを敬称を付して呼ぶよう命じ,また要求しています。

43 「不法の人」級はどんな神殿に自らある種の「神」として座しますか。また,自分たちの権力をだれに強制的に認めさせますか。

43 「不法の人」は「神の神殿」に座し,「自分を神として示し」,その「神殿」は神の教会と称されています。使徒パウロは一世紀当時の真のクリスチャンにこう書き送りました。「あなたがたは,自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。もしだれかが神の神殿を滅ぼすなら,神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからであり,あなたがたはその神殿なのです」。(コリント第一 3:16,17。また,コリント第二 6:16)「背教」を引き起こした者たちは最初,ほかならぬこの霊的な「神殿」級から離れたのです。彼らは最初の真の「神殿」級を認めようとはしません。それどころか,それら背教者は自分たちの設立する背教した会衆を「神の神殿」と称します。彼らはその背教的な「神殿」に座し,その中でいわゆる「俗人」とは明確に異なった「僧職者」としての自分たちの座を維持しているのです。その神殿でキリスト教世界の僧職者級は自らがある種の「神」であることを示しています。僧職者級は自分たちの権力を政治家,実業家また軍の高官に強制的に認めさせ,また戦時にさいしては決まって政治運動により僧職者の権力と支持が求められます。

一世紀当時働いていた「抑制力」

44,45 (イ)一世紀当時,「不法の人」の発生および形成を食い止める「抑制力」として働いたのは何でしたか。(ロ)使徒ヨハネはその第三の手紙の中で述べているように,抑制の働きをするそうした影響力のことをどのように例証しましたか。

44 たいへん長い時代を経た今となっては,「不法の人」は何世紀にもわたって明らかにされてきましたが,一世紀,つまりイエス・キリストの正真正銘の使徒たちの時代においてはそうではありませんでした。当時それはまだ明らかにされてはいませんでした。それで使徒パウロは西暦51年ころ記した手紙の中でテサロニケのクリスチャンに対して次のように書きました。「それで今あなたがたは,抑制力となっているものについて知っています。それは,彼がその定めの時に表わされることを見越しているのです」。(テサロニケ第二 2:6)それら一世紀当時のクリスチャンはその「抑制力」とは何かを知っていました。というのは,パウロがそれを彼らに知らせたからです。事実,それを彼らに明らかに示したからです。では,当時,「抑制力」として働いていたものとは何ですか。それは使徒パウロを含む,イエス・キリストの正真正銘の使徒たちの一団でした。使徒たちは一致結束して,「不法の人……滅びの子」の発生および形成を食い止めました。そのことを示す一例として,西暦98年ころクリスチャンにあてて記した第三および最後の手紙の中で使徒ヨハネが述べたことを次に挙げましょう。

45 「わたしは会衆にいくらかのことを書き送りましたが,デオトレフェスは,彼らの中で第一の地位を占めたがって,わたしたちからは何事をも敬意をもって受け入れません。だからわたしは自分が行ったら,彼が行ないつづけている業,わたしたちのことをよこしまなことばでしゃべっているのを思い出します。また,彼はこうしたことで満足せず,自分が兄弟たちを敬意をもって受け入れもしなければ,受け入れようとする者たちを妨害し,会衆から追い出そうとします」。(ヨハネ第三 9,10)そのデオトレフェスはまさしく「不法の人」の特徴を表わしていました。使徒ヨハネは彼の言動を食い止める,つまり適当に「抑制」する努力を払いました。他の使徒たちも同じような事例において同様の働きをしました。

46 パウロは当時でさえ「不法の人」級を形成しようとする傾向があったことをテサロニケの人たちにどのように指摘しましたか。

46 西暦33年のペンテコステの日にクリスチャンの「神殿」級が設けられてから二十年も経っていなかった当時でさえ,「不法の人……滅びの子」を形成しようとする傾向を示す証拠があることに使徒パウロは気づいていました。パウロがテサロニケの会衆に対してさらにこう続けて述べたのはそのためでした。「たしかに,この不法の秘事はすでに作用しています。しかしそれが秘められているのは,今のところ抑制力となっている者が除かれるまでのことなのです」― テサロニケ第二 2:7

47 パウロはなぜ,「この不法の秘事」として既に働いていたものに言及しましたか。

47 きたるべきその「不法の人」の正体には,秘事,もしくは宗教上の秘密めいたところがありました。今日でもキリスト教世界の聖書解説者の中には,その「人」とはあるひとりの男子であると論じ,その者を反キリストと呼ぶ人たちがいます。しかし,アメリカ訳は適切にも,この不思議な人物の名称を「不従順の化身」と訳出しています。(テサロニケ第二 2:3)これは,「不法の人」とは複合の人,つまりエホバ神に対して不法を働き,何世紀もの時代にわたって存続してきた僧職者級のことであるという事実と合致します。使徒パウロが,「この不法の秘事」は当時すでに働いていたと言い得たのも十分の根拠があってのことでした。それはまだ,人という象徴によって指摘されるほど明確な形を取ってはいませんでした。しかしクリスチャン会衆内には,明確に立てられて,正体を見分けられ得るその級をやがて生み出すものとなるある種の働きが進行していました。とはいえ,パウロの時代にはその「秘事」は依然として「不法の者」の到来と関係がありました。

48 「この不法の秘事」が既に働いていることを示す証拠として,パウロはコリント人のクリスチャンにどんな事を書き送ることが必要になりましたか。

48 「この不法の秘事」が既にクリスチャン会衆内で働いていることを示すにあたって,使徒パウロはこの問題に関する前述の論議を述べてからわずか数年後のこと,ギリシャのコリントの会衆に次のように書き送る必要のあることに気づきました。「さて,わたしは,自分が行なっていることをこれからも行なってゆきます。その誇る職務においてわたしたちと同等に見られる口実を欲している者たちからその口実を断つためです。そのような人たちは偽使徒,欺瞞に満ちた働き人で,自分をキリストの使徒に変様させているのです。それも不思議ではありません。サタン自身が自分をいつも光の使いに変様させているからです。したがって,彼の奉仕者たちが自分を義の奉仕者に変様させているとしても,別にたいしたことではありません。しかし,彼らの終わりはその業に応じたものとなります」― コリント第二 11:12-15

49 「この不法の秘事」の働きが一世紀当時の最後の十年間の時期にも依然として続いていたことは,ヨハネを通してどのように指摘されましたか。

49 偽指導者つまり「偽使徒」を生み出すこうした宗教上の働きは,西暦一世紀の,それも最後の十年間の時期に至るまで持続しました。その証拠に,年老いた使徒ヨハネは西暦96年ころ啓示を受け,その中で彼は栄光を受けたイエス・キリストから,小アジアのエフェソスにある会衆の「長老たちの一団」に書き送るよう命じられました。その幻の中でイエスから行なうよう命じられた事がらを告げるにさいして,ヨハネはこう述べています。「エフェソスにある会衆の使いに書き送りなさい。右手に七つの星をしっかりと持つ者,七つの黄金の燭台の中央を歩く者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするがそうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを知っている。……とはいえ,わたしにはあなたを責めるべきことがある。それは,あなたが,最初にいだいていた愛を離れたことである」― 啓示 2:1-4。テモテ第一 4:14,英文脚注。

50 使徒たちの時代においてさえ「この不法の秘事」が働いていたことを示す証拠として,ヨハネはその第一の手紙の中で反キリストについて何と書きましたか。

50 年老いた使徒ヨハネは,その地上での生涯の歩みを終える前に,クリスチャンにあてて三通の手紙を書きました。キリストの使徒たちの時代においてさえ「この不法の秘事」が働いていたことを示す証拠として,ヨハネはその最初の手紙にこう書きました。「幼子たちよ,いまは終わりの時です。そして,あなたがたは反キリストの来ることを聞いていたとおり,今でも多くの反キリストが現われています。このことから,わたしたちは今が終わりの時であることを知ります。彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです。しかし彼らが出て行ったのは,すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明らかになるためです。そして,あなたがたには聖なるかたからのそそぎの油があります。あなたがたはみな知識を持っています。愛する者たちよ,霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ,その霊感の表現を試して,それが神から出ているかどうかを知りなさい。多くの偽預言者が世に出たからです」。(ヨハネ第一 2:18-20; 4:1。これは西暦98年ころに書かれました。)それら反キリストは神のみ子をもはやメシアまたはキリストとして持たなかったので,父なる神をも持ってはいませんでした。―ヨハネ第一 2:22-24

51 「今のところ抑制力となっている者」という表現は何を意味するものでしたか。それはいつ取り「除かれ」ましたか。

51 諸会衆のあちこちで表面化していた悪い状態を暴露した使徒たちのこうした著述からすれば,使徒パウロが「今のところ抑制力となっている者」という表現でだれのことを言っていたのか,わたしたちは見きわめることができます。(テサロニケ第二 2:7)パウロは地上の神の会衆全体のあるひとりの男子成員,彼自身のようなひとりの使徒のことではなく,一世紀当時のイエス・キリストの真の使徒たちの一団全体のことを言っていたのです。複合の人に似た,使徒たちのその一団は当時,つまりパウロの時の計り方によれば「今のところ」,クリスチャン会衆全体の内部で,しかもそれを支配しようとする集合的な「不法の人」を組織する動きの前に立ちはだかっていました。従って,キリストの真の使徒の最後の人が死んで取り去られたとき,「今のところ抑制力」として働いていたものが,「この不法の秘事」の進展する道から取り「除かれ」ました。その最後の人とは西暦一世紀の終わり近くに亡くなった使徒ヨハネだったと言えるでしょう。

52 「滅びの子」に対する滅びはだれによって,またいつもたらされますか。

52 その複合の「不法の人」は「滅びの子」とも呼ばれました。このことからも,その不法な者はエホバ神により滅びに定められていると言うことができます。その不法な者に対する滅びの刑を執行するにさいしてエホバ神は栄光を受けたみ子イエス・キリストをお用いになります。それでパウロは,使徒たち全員が死んで,使徒的な「抑制力」が除かれた後に起きることを告げてこう言いました。「その時になると,不法の者が表わされますが,主イエスはその者を,ご自分の口の霊によって除き去り,その臨在の顕現によって彼を無に至らせるのです」― テサロニケ第二 2:8,新; 新ア。

53 (イ)では,なぜわたしたちの時代は,「不法の人」が除き去られる時代もしくは世代と言えますか。(ロ)一方,その「人」を無に帰させることは,どんな事実の証拠となりますか。

53 主イエスは,「不法の人」がそれと見分け得る姿を完全に表わして「神の神殿」に座し,「自分を公に神と示し」たのち直ちにその「不法の人」を除き去るわけではありません。使徒パウロは,「不法の人」を無に帰させる時を主イエスの「臨在」もしくはパルーシアの期間中と定めています。ということは,それは今,つまりわたしたちの世代内という意味です。というのは,主イエスの王としての「臨在」もしくはパルーシアは,異邦人の時の終わった西暦1914年に始まったからです。わたしたちはその証拠となる「しるし」を見ているので,今が「事物の体制の終結」の時であることを知っています。(マタイ 24:3から25:46)従ってわたしたちの時代は,「不法の人」が主イエスのみ口の「霊」によって除き去られ,その「不法の人」が主イエスの臨在,そのパルーシアの顕現によって無に帰させられるのをこの世代の人びとが目撃する時代なのです! 滅びをもたらすそのわざは,主イエスが見えない様で臨在しておられること,つまりそのパルーシアは現実の事がらであるという事実の「顕現」となります。そのみ口から発する「霊」つまり動かす力は,「不法の人」を完全に滅ぼすものとなります。

不法な者の「存在」を示す証拠

54 (イ)主イエスの臨在に比べて,「不法の者」の存在はいつ始まりましたか。(ロ)「不法の者」のパルーシアは何によってしるしづけられることになっていますか。

54 こうした論議のこの時点で使徒パウロは,主イエスの「臨在」に言及してきた論議の方向を変え,「不法の人」の「存在」もしくはパルーシアのことを考察します。この不法な者の存在もしくはパルーシアは,王国の支配権を行使する主イエスの「臨在」に先行する,あるいはそれ以前に始まるものです。その不法な者の存在を示す証拠をパウロがどのように呈示しているかに注目してください。彼はこう書いています。「しかし,不法の者が存在するのは[ギリシャ語: パルーシア]サタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴い,また,滅びゆく者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴っています」― テサロニケ第二 2:9,10前半

55 テサロニケ第二 2章9節で述べられているパルーシアはどうして,イエスのパルーシアというよりはむしろ「不法の者」のそれを指していることがわかりますか。

55 ローマ・カトリックのエルサレム聖書のその箇所は次のとおりです。「しかし,反抗者が来るとき,サタンは本気で働き,あらゆる種類の奇跡や,しるしや不思議の欺瞞的な現われ,また滅びに定められている人たちを欺くものとなるあらゆる悪事があるであろう」。(テサロニケ第二 2:9,10。また,新アメリカ聖書; 新英語聖書; マードック訳,シリア語新約聖書をも見てください。)9節冒頭のギリシャ語本文は文字どおりに訳せば,「その者の存在は」となります。とはいえ,これは単に「不法の者」という言葉がこの9節に出ていないからといって,その「存在」もしくはパルーシアという言葉が前節(8節)で指摘されたばかりの主イエスの「臨在」(パルーシア)に適用されるという意味ではありません。むしろ,この句は目下論議中のその他方の者,すなわち不法な者の「存在」に言及しているのです。アメリカ訳が9節の冒頭を,「サタンのたくらみによるその他方の者の出現」と訳しているのはそのためです。ウエストミンスター訳「新約聖書」も同様に,「しかし,その他方の者の到来はサタンの働きによるのであって」と訳しています。それで,9節にあるギリシャ語の「その者の」という(英語の)関係代名詞の句は,不法な者に適用される8節の「その者」と同列の関係にあります。その関係は,「不法な者が現われますが,主イエスはその者を除き去り……その者の存在は」という具合になります。

56 「不法の人」の公の「存在」はだれのみに起因すると言えますか。なぜですか。

56 神の反対者である「不法の人」の,キリストの使徒たちの死後今日に至るまでの公の存在もしくはパルーシアは,ほかならぬ悪魔サタンに起因するものであると言えます。なぜなら,この複合の「不法の人」は自ら「神の神殿」に座したので,この「不法の者」はエホバ神に由来するなどとは主張し得ないからです。この「不従順の化身」の長期間にわたる「存在」は,「サタンの働き」のせいである,あるいはそれによることを示すあらゆる特徴を帯びてきました。サタンという名は「抵抗者」という意味であって,彼はいと高き神に対する「不法の者」の抵抗を含め,エホバ神に対する天と地におけるあらゆる抵抗の扇動者です。「背教」もしくは反抗の醸成者たちが自らを「僧職者」の階級に高め,そうすることによって,彼らが「俗人」と呼ぶ,会衆の他の成員から自分たちを区別したのは,確かにエホバ神から出たことではありませんでした。それはキリストの弟子たちの会衆全体をエホバ神に背かせようとする悪魔サタンの策略でした。

57 僧職者を権力を持つ地位につかせ,そのような地位に留まらせるためどんな方法が取られましたか。そうした方法は何を目的とするものでしたか。

57 いわゆる「クリスチャン」の僧職者に権力を得させ,権力の座に留まらせるには,サタンの働きや活動は「あらゆる強力な業[奇跡,エ]と偽りのしるしと異兆を伴い,また……あらゆる不義の欺きを伴って」いなければなりませんでした。「僧職者」が超自然的な支持を得ていることを示そうとするそうした偽りの欺瞞的な証拠なるものすべての目的は,僧職者は真の神を代表し,その任命と是認と支持とを受けており,その地上における代理人であるということを会衆の成員に信じさせることです。僧職者は身分の低い「俗人」のあずかり得ない特別の力や特典,権利や免除,階級や称号を受けて神のみことばの奉仕に専属的に携わるべく聖別任命された者としての外見を付与されています。

58 僧職者によって行なわれた強力なわざやしるしや不思議その他の事がらは,使徒たちとの関係によるのではなく,サタンの働きによるものと考えられます。なぜですか。

58 従って,それら強力な業あるいは奇跡,しるしや不思議や不義の欺き事は利己的な目的のためのものであって,エホバ神の栄光と称賛のためのものではありません。サタンの働きや活動のそうした現われは,キリストの使徒たちの死後生じました。それら使徒たちはまさしく奇跡やしるしや不思議を現出させました。なぜなら,彼らはキリストを通して神の霊を得ていたからです。それらの使徒たちは,外国語や預言を話したり,通訳や癒しその他を行なったりするような奇跡的な事がらをする霊のさまざまな賜物を伴う霊を,バプテスマを受けた信者に授ける力と権威を持っていました。キリストの使徒たちが亡くなるとともに,そうした奇跡的な賜物を伴う霊を授けることはやみました。同様に,そのようにして使徒たちを通して賜物を授けられた人たちが亡くなるとともに,遅くとも西暦二世紀中にはそれら奇跡的な賜物は存在しなくなり,もはやそうしたものは,神の真のしもべたちとはだれか,また真のクリスチャン会衆を構成するのはだれかを証明する証拠ではなくなってしまいました。(使徒 8:14-18。コリント第一 13:8)従って,それ以後そうした「賜物」を誇示するようなことがあるとすれば,それは神からではなく,サタンから出るものとなりました。

59 (イ)僧職者のために指摘されている印象的な事がらは,それら僧職者が神の奉仕者であることを証明しますか。(ロ)真の奉仕者は神により任命されていることを示す証拠として何を引合いに出しますか。

59 それでは,キリスト教世界の僧職者に支配されながら,諸教会が僧職者のために指摘したいのであれば,幾世紀にもわたって行なわれてきた強力なわざや奇跡,しるしや不思議のすべてを指摘させなさい。この世における僧職者の仰々しい身分,僧職者に与えられてきた高い評価や著しい尊崇の念,目もまばゆいばかりの壮麗な僧服,大げさな称号,壮大な教会建造物や大聖堂,教会における荘厳な儀式,「ミサ」におけるパンとぶどう酒の化体,僧職者の受けた高等教育,政治上の国家および軍事当局者にかかわる僧職者の立場や影響力を指し示させなさい。しかし,そうした事がらはすべて,またそれがいわゆる「俗人」に及ぼす影響は,キリスト教世界の自らを高める僧職者は神に由来してはおらず,また神の奉仕者でもないことを証明しています。自らを『光のみ使い』に変容させるサタンは,配下の地上の教会の僧職者を動かして,「自分を義の奉仕者に変様させている」のです。(コリント第二 11:14,15)エホバ神の真のクリスチャンの奉仕者はそうした外面的なものによってではなく,書き記された神の真理のみことばによって,自分たちが任命され,是認された神の奉仕者であることを実証します。

60 僧職者で成る「不法の人」級の世界的な数字上の割合には大いに印象的なものがありましたが,それはどの程度のものでしたか。

60 僧職者で成る「不法の人」級の全世界で見られた数字上の割合には大いに印象的なものがありました。キリスト教世界の教会員の数が9億8,536万3,400人という空前の最高数に達した西暦1971年には教会の僧職者の数は何十万人にも増えました。ローマ・カトリック教会だけを取ってみても,発表された数字は同1971年には世界中の同教会員5億6,677万1,600人に対して41万9,611人の僧職者がいたことを示しています。

61 ひそかに働くサタンがそうした欺瞞的な事がらを企てたのはだれのためであるとパウロは述べましたか。それはどうして神の許しによるものと言えますか。

61 こうした外面的で印象的な事がらのために容易にだまされているのはだれですか。そうした非聖書的な「強力な業と偽りのしるしと異兆」を見て好感を抱き,欺かれているのはだれですか。ひそかに働いているサタンはそのような事がらをだれのために企てているのでしょうか。僧職者で成る「不法の者」が存在する間,その「サタンの働き」は「滅びゆく者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴っています。彼らがこうして滅びゆくのは,真理への愛を受け入れず,救われようとしなかったことに対する応報としてなのです。そのゆえに神は,誤りの働きを彼らのもとに至らせて,彼らが偽りを信じるようにするのであり,それは,彼らすべてが,真理を信じないで不義を好んだことに対して裁きを受けるためです」と使徒パウロは述べています。―テサロニケ第二 2:10-12

62 神は欺かれた人たちに「誤りの働き」を直接送りますか。神はその「誤りの働き」によって何を確かめますか。

62 神は「誤りの働き」をそれら欺かれた人たちに直接送るわけではありません。神はそれを彼らのもとに赴かせるのです。それは彼らが何を欲しているかを示させるためであって,またそれこそ彼らが欲していることだからです。これこそ使徒パウロが仲間の宣教者テモテに宛てた最後の手紙の中でテモテに指摘した事がらだったのです。パウロは,会衆内でどんな時期にもあくまで神のみことばを宣べ伝えるようテモテに求めた理由を説明してこう言いました。「人びとが健全な教えに堪えられなくなり,自分たちの欲望にしたがい,耳をくすぐるような話をしてもらうため,自分たちのために教え手を寄せ集める時期が来るからです。彼らは耳を真理から背け,一方では作り話にそれてゆくでしょう」。(テモテ第二 4:2-4)「不法の者」の存在する間,人は霊感を受けた神のみことばによって「誤りの働き」から自分を守ることができます。しかし,エホバ神はサタンに「誤りの働き」を続けさせ,またそうすることによってその働きを自称クリスチャンのもとに赴かせることにより,『真理への愛を受け入れる』か,それとも虚偽を愛するかどうかに関して彼らを試すのです。

63 何が迫っているゆえに世界情勢は全人類にとって非常に重大なものとなっていますか。わたしたちは今何を選択しなければなりませんか。

63 僧職者で成る「不法の人」の「存在」の残りの期間,また主イエスの臨在もしくはパルーシアの期間中,「誤りの働き」は神の許しによりかつてないほど人びとのもとに赴いてゆきました。「真理への愛を受け入れ」ず,『不義を好む』人たちに対する不利な裁きの執行が迫っているゆえに世界情勢はすべての人にとって極めて重大なものとなっています。が,聖書研究者たちは西暦1914年以来長年にわたってキリストの見えない臨在もしくはパルーシアの「しるし」を見てきたので,僧職者で成る「不法の人……滅びの子」に敵する「その臨在の顕現」の時が突如わたしたちに臨むであろうことを察知しています。(テサロニケ第二 2:8)では,わたしたちは何を願いますか。「不法の者」とともに滅びをこうむることですか。それとも,真理を愛する人たちとともに救いを体験することですか。

「不法の人」を除き去る

64 その「不法の人」級はどのようにして自ら大いなるバビロンの重要な要素となりましたか。

64 僧職者で成る「不法の人」級は古代バビロンに由来する異教の教理を幾世紀にもわたって教え,またそうした異教の教理や人間の伝承を霊感を受けた聖書以上に高めてきました。キリスト教世界の僧職者たちは,聖書の真理を愛する人たちに反対し,そうした人たちを迫害してきました。それらの人たちはその真理を他の人たちに宣べ伝え,またそれに従って生活してきたのです。僧職者たちは自ら世と親しくして,政治支配者や大企業の要人たちと霊的淫行(不道徳行為)を犯し,また戦争画策者や軍事分子の侍女として仕えてきました。そうすることによって僧職者たちは自ら,偽りの宗教の世界帝国を象徴する大いなるバビロンの強力な要素となりました。そうです,その「不法の人」級は,宗教上の「大娼婦」である大いなるバビロンの重要な要素,それも最も責められて然るべき要素です。そして,「地の王たちは彼女と淫行を犯し,地に住む者たちは彼女の淫行のぶどう酒に酔わされた」のです。―啓示 17:1,2

65 「不法の人」である僧職者はどうして「緋色の野獣」に乗っているといえますか。僧職者はその野獣に対して何を願っていますか。

65 僧職者で成る「不法の人」級は宗教上の大いなるバビロンに含まれているのですから,「冒とく的な名で満ちた,七つの頭と十本の角を持つ」象徴的な「緋色の野獣」に乗っています。その象徴的な野獣とは,国際平和と安全のための人間の立てた現代の世界機構つまり国際連合のことです。これは聖書の預言に出てくる「八人めの王」つまり第八世界強国です。(啓示 17:1-11)世界平和と安全のための人間の立てた国際機構に好評と推賞のことばを与え,キリスト教的精神に反するその機構にメシア的な役割をさえ委託するのは,「不法の人」級であるキリスト教世界の僧職者に似つかわしいことです。「不法の人」である僧職者はそうした国際機構によって世界が三度目の世界大戦つまり核戦争から救われることを願っているのです。

66 「不法の人」である僧職者が今やそれに長く乗っているわけにはゆきません。なぜですか。それが終わるとき,それは僧職者にとって何を意味しますか。

66 今やその象徴的な「緋色の野獣」の背にあまり長く乗っているわけにはゆきません。宗教上の娼婦,大いなるバビロンが取り除かれるように,「不法の人」もまた取り除かれます。ヨハネへの啓示の幻が予告しているとおり,象徴的な野獣の政治上の十本の「角」は,汚れた乗り手である大いなるバビロンに憎しみを抱いて歯向かいます。そうです,その野獣のからだの動きを指示する七つの頭はこの国際的私通者を憎みます。それら七つの頭はそのからだを動かして彼女に対して敵対行動を取ります。そのからだと頭と角は彼女に対して何を行ないますか。「これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつく」します。(啓示 17:16)彼女は荒廃させられ,裸にされ,また食い尽くされ,火で完全に焼き尽くされるのですから,「不法の人」である僧職者は荒廃させられ,裸にされ,食い尽くされ,灰じんに帰させられます。

67 それは「不法の人」である僧職者にとって確かに「大」きな「患難」を意味します。なぜですか。

67 それは「不法の人」である僧職者にとって「大患難」を意味します。というのは,僧職者は現代の対型的不忠実なエルサレムつまりキリスト教世界の有力な部分だからです。西暦70年におけるローマ人による地上のエルサレムの滅びは,キリスト教世界とその宗教上の支配者つまり「クリスチャン」と称する僧職者に臨もうとしている滅びの型を成すものでした。古代エルサレムになお神殿があって,祭司職の務めが執り行なわれていた当時その都に臨んだ患難は確かに「大」きなものでした。しかし,キリスト教世界および同世界の「不法の人」である僧職者を間もなく襲おうとしている患難についてはどうですか。それは人類を襲う最悪の患難となるでしょう。その患難にさいして,僧職者で成るあの「滅びの子」は完全に滅ぼされて無に帰させられます。―マタイ 24:15-22。マルコ 13:14-20

68 それが宗教上のキリスト教世界にとって何を意味するかは,予告された歴史上のどんな実例から考えて想像できますか。

68 それが何を意味するかを想像できますか。キリスト教世界の叙任された僧職者に対してなお畏敬の念を抱いている人たちは,それら神聖ぶった「牧師」が大いなるバビロンもろとも悲惨な滅びをこうむることなど想像できません。そういうことは考えるだけでも冒涜的なことと思えるからです。そうした人びとは,宗教上の神のように尊崇を受けるに値するかに見える僧職者の座した教会建造物が廃虚と化すということをあえて想像しようものなら縮み上がってしまいます。彼らにとってそのようなことは,聖別された神聖なものを汚すことのように思えるのです。しかし,それこそ,信心深かったにもかかわらずキリスト教に帰依しなかった一世紀当時のユダヤ人がエルサレムの都とその聖なる神殿の滅亡に関する預言に対して取った見方でした。それにもかかわらず,オリーブ山に座して述べた預言の中でイエス・キリストが予告した事がらは,ことごとく恐るべき現実となって適中しました。―マタイ 24:1,2

69 (イ)「不法の人」級はどんなものとして崇敬を受けているゆえに,その滅びは熱心な信心家を仰天させるものとなりますか。(ロ)その級はだれのように倒れ,だれによって殺されますか。

69 キリスト教世界の熱烈な信奉者にとって僧職者で成る「不法の人」級を無に帰させることは,彼らの宗教感情に衝撃を与える仰天すべきこととなります。それはある種の神の死をしるしづけるものとなります。というのは,「不法の人」級は「神の神殿に座し,自分を神として公に示」す者だからです。(テサロニケ第二 2:4)イエス・キリストご自身,『神々』つまり強力な者たちとして類別される人間が地上にいることを述べた霊感を受けたヘブライ語聖書と同じ考えを抱いておられました。この点を示すものとして,ヨハネ 10章34-36節によれば,イエスは詩篇 82篇を引用しました。その句はこう述べています。

『かみは神のつどいの中にたちたまう 神はもろもろの神のなかに審判をなしたもう なんじらは正しからざる審判をなし あしきものの身をかたよりみて幾その時をへんとするや……弱きものと貧しきものとをすくい彼らをあしきものの手よりたすけいだせ

『かれら[それら審判能力のある神々]は知ることなく悟ることなくして暗き中をゆきめぐりぬ 地のもろもろの基はうごきたり

『我いえらく なんじらは神なり なんじらはみな至上者の子なりと されどなんじらは人のごとくに死に もろもろの侯のなかの一人のごとくたおれん』。

僧職者で成る「不法の人」級は不滅の神ではなく,普通の人間同様,つまり裏切り者となってやはり「滅びの子」と呼ばれたユダ・イスカリオテのように死にます。(ヨハネ 17:12)自らを「すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるもの……の上に」高めるにもかかわらず,君のようなその「不法の人」は不忠実な人間の君たち同様の者となって倒れ,エホバのメシアによって殺されてしまいます。―詩 82:1-7

70 そうした事がらを考えると,「誤りの働き」についてパウロが書き記したどんな事がらのゆえに,わたしたちは各自どのように自問してみなければなりませんか。

70 そうした事がらを考えると,今や直ちに各自次のように自問してみなければなりません。キリスト教世界の「不法の人」級に関連してサタンが作り出した「不義の欺き」のもとにわたしはなお留まっているのだろうか。滅びゆく人たちのもとに神が赴かせてきた「誤りの働き」の影響を受け,またそれゆえにわたしは依然として偽りを信じているのだろうか。わたしは「真理への愛を受け入れ」ることを拒み,そのために偽りを好み,キリスト教世界の僧職者の犯した不義を喜んできただろうか。

71 この点で今自分に対して不正直な態度を取るなら,それはわたしたちにとって,しかも今や間近に迫ったどんな「日」に何をもたらすものとなりますか。

71 こうした質問に答えるさい自分に対して不正直な態度を取り,自らを欺いたところで何の益にもなりません。自分自身に対して公明正大でない人は滅びに陥る道を故意に歩みます。というのは使徒パウロが述べたように,「不義の欺き」は「滅びゆく者たち」のために企てられているものだからです。欺かれた者たちに対して神からの不利な裁きが執行されるとき,思慮分別のあるどんな人が滅びることを欲するでしょうか。うそを信じて滅びてゆく人たちに対するそうした裁きの執行は今や迫っています。「不法の人……滅びの子」は明らかにされ,暴露されてきたので,そのことについては間違いはありません。また,主イエスのパルーシアつまり「臨在」の期間も相当経過しました。予告された「背教」はその最高潮に達しています。これらは壊滅的な結果をもたらす「エホバの日」の到来に先行することになっていた事がらです。その日は「不法の人」に臨む,「滅びの子」というその名称で表わされている非業の最期の成就を意味しています。

72 その「不法の人」との関係を今断つなら,何をこうむらずに済みますか。

72 これは決して単なる「人騒がせ」のための話ではありません。今やキリスト教世界の諸情勢やできごとを反響板代わりにして厳重な警告を増幅させながら発しているのは神ご自身のみことばなのです! では,今は神の律法を愛する人すべてにとって,明らかにされたその「不法の人」との関係を断つべき潮時ではありませんか。そうするなら,近づいた世界の「大患難」にさいして,その「不法の人」とともに滅ぼされずに済むでしょう。―啓示 7:14,15

[脚注]

^ 4節 テサロニケ人への第一の手紙のヘブライ語による七つの異なった翻訳はこの箇所を「エホバの日」としていますが,四,五世紀のギリシャ語の写本およびラテン語のウルガタ訳は,「主の日」としています。

^ 37節 1746年,イタリア,ボローニャのエミリア-ロマーニャ地区でルキオ・フェラリスが編さんした,ニューヨーク市コロンビア大学所蔵,「教会法,道徳律,神学便覧。禁欲思想,論証法,赤題目,歴史を含む」第六巻,31-35ページ。

^ 42節 新カトリック百科事典,第6巻,706ページの「グラチアヌス」の項を見てください。

[研究用の質問]