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主権

主権

(しゅけん)(Sovereignty)

支配や力における至上性。主,王,皇帝などの統治もしくは支配。最終的に国家の政治を決定する力。

ヘブライ語聖書の中ではアドーナーイという語が頻繁に用いられており,アドーナーイ エフウィという表現も285回用いられています。アドーナーイは,「主,主人」を意味するアードーンの複数形です。アドーニームという複数形は「主たち」,「主人たち」など,単なる複数として人間に使うことができますが,接尾辞をいっさい伴わないアドーナーイという語は,聖書中では常に神に関して用いられており,その複数形は卓越性や威光を示すために用いられています。翻訳者たちはこの語をほとんど「主」と訳出しています。例えば詩編 73編28節などのように,この語と神のみ名が併記される場合(アドーナーイ エフウィ),この表現は「主なる神」(聖ア,欽定,改標,ドウェー[72:28]),「主,我が主人」(ノックス[72:28]),「主なるエホバ」(ヤング),「主権者なる主エホバ」(新世)と翻訳されます。モファットは詩編 47編9節,138編5節,150編2節において,アドーナーイの訳語ではありませんが,“sovereign”(主権者,もしくは主権者としての,の意)という語を用いています。

ギリシャ語のデスポテースは,最高の権威を有するもの,または絶対的な所有権と抑制されていない力を有する者を意味します。(「バインの旧新約聖書用語解説辞典」,1981年,第3巻,18,46ページ)この語は「主(lord)」,「主人」,「所有者」,それにルカ 2章29節,使徒 4章24節,啓示 6章10節など,神に対する直接的な呼びかけとして用いられる場合には,「主(Lord)」(欽定,ヤングその他),「すべてのものの支配者」(ノックス),「主権者なる主」(新世)と訳出されています。この最後の聖句の場合,ノックス訳,新英訳聖書,モファット訳,改訂標準訳は「主権者なる主」と訳し,ヤングの翻訳と王国行間逐語訳では「主人」となっています。

それで,ヘブライ語本文とギリシャ語本文に「主権者なる」に相当する別個の修飾語は含まれていませんが,アドーナーイとデスポテースという語がエホバ神に当てはまる語として聖書中で用いられるとき,それらの語には「主権者なる」という語の意味合いが含まれているのです。その修飾語は神の主なる地位の卓越性を示しています。

エホバの主権 エホバ神は創造者としてのご自身の地位,ご自身の神性,全能者としてのご自身の至上性ゆえに,宇宙の主権者(「世界の主権者」,詩 47:9,モファット)であられます。(創 17:1; 出 6:3; 啓 16:14)エホバ神はすべてのものの所有者,すべての権威と力の源,政治における至上の支配者であられます。(詩 24:1; イザ 40:21-23; 啓 4:11; 11:15)詩編作者は神について,「エホバ自ら天にその王座を堅く立てられた。その王権はすべてのものの上に支配を行なった」と歌いました。(詩 103:19; 145:13)イエスの弟子たちは神に向かって,『主権者なる主よ,あなたは,天と地を造られた方です』と祈りました。(使徒 4:24,新世; モファット)イスラエル国民にとって,神ご自身は政治の三つの分野,つまり司法,行政,立法のすべてをつかさどる方でした。預言者イザヤはこう述べました。「エホバはわたしたちの裁き主,エホバはわたしたちの法令授与者,エホバはわたしたちの王……である。神ご自身がわたしたちを救ってくださる」。(イザ 33:22)モーセは申命記 10章17節で,主権者としての神について注目すべき説明を行なっています。

エホバは主権者としての地位において,支配の責任を他の者にゆだねる権利と権威をお持ちです。ダビデはイスラエルの王とされましたが,聖書は『ダビデの王国』と述べ,その王国がダビデのものであるかのように表現しています。しかしダビデは,エホバこそ偉大な主権者なる支配者であることを認め,こう述べました。「エホバよ,偉大さと力強さと麗しさと卓越性と尊厳とは,あなたのものです。天と地にあるものは皆あなたのものだからです。すべてのものの頭として自らを高めておられる方,エホバよ,王国も,あなたのものです」― 代一 29:11

地上の支配者たち 地の諸国民の支配者たちは,主権者なる主エホバの寛容と許しによって,限られた支配権を行使しています。啓示 13章1,2節には,政治上の政府が神からその権利を受けたのでないこと,つまり彼らは神から何らかの権威や力を与えられたゆえに行動しているのでないことが示されています。そこでは,七つの頭と十本の角を持つ野獣が,「自分の力と座と大きな権威」を龍から,つまり悪魔サタンから得ると述べられています。―啓 12:9。「獣,象徴的な」を参照。

それで,神は人間の様々な支配の興亡を許されましたが,そのような強大な王の一人は,自分の経験によってエホバの主権に関する事実を実証した後,心を動かされてこう述べました。「その支配権は定めのない時に至る支配権,その王国は代々にわたるものだからである。そして,地に住むすべての者は無き者のようにみなされており,この方は天軍の中でも地に住む者たちの中でもご意志のままに事を行なっておられる。その手をとどめ得る者,『あなたは何をしてきたのか』と言い得る者はいない」― ダニ 4:34,35

したがって,人間の設けた政府による支配が神のご意志によって許される限り,パウロがクリスチャンに与えた次の命令は有効です。「すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです」。それから同使徒は,そのような諸政府が悪を行なう者を処罰するために行動するとき,「上位の権威」つまり支配者は(神の忠実な崇拝者でなくとも)そのような特定の資格において間接的に神の奉仕者として行動しているのであり,悪を習わしにしている者に憤りを表明している,と述べています。―ロマ 13:1-6

聖書は,そのような権威が「神によってその相対的な地位に据えられている」ことについて,それは神がそのような政府を設けたとか,神がそうした政府を支援しておられるという意味ではないことを示しています。むしろ神は,地上のご自分の僕たちに関するご意志に関連して,ご自分の良い目的にかなうよう諸政府を動かしてこられました。モーセは言いました。「至高者が諸国民に相続分を与えた時,アダムの子らを互いに引き離した時,もろもろの民の境界を定めて,イスラエルの子らの数を顧慮された」― 申 32:8

王としての,神のみ子 エルサレムにおいて「エホバの王座」に座す最後の王が覆された後(代一 29:23),預言者ダニエルは,神ご自身のみ子が将来に王として仕えるよう任命される様子を示す幻を与えられました。日を経た方である神がみ子に支配権をお与えになる時,エホバの地位がはっきり浮き彫りにされます。記述はこうなっています。「わたしが夜の幻の中でずっと見ていると,見よ,天の雲と共に人の子のような者が来るのであった。その者は日を経た方に近づき,彼らはこれをその方のすぐ前に連れて来た。そして,その者には,支配権と尊厳と王国とが与えられた。もろもろの民,国たみ,もろもろの言語の者が皆これに仕えるためであった。その支配権は,過ぎ行くことのない,定めなく続く支配権,その王国は滅びに至ることのないものである」。(ダニ 7:13,14)この聖句をマタイ 26章63,64節と比較すると,ダニエルの幻に出て来る「人の子」がイエス・キリストであることに疑問の余地はなくなります。人の子はエホバの臨在されるところに近づき,支配権を与えられています。―詩 2:8,9; マタ 28:18と比較。

エホバの主権に対する挑戦 聖書の年代計算から算定される,人間が地上に生存してきたとされる期間中,邪悪な事柄は大体いつも存在していました。全人類は死にゆくものであり,神に対する罪と違反も増し加わってきました。(ロマ 5:12,15,16)神は人間に完全な出発をさせたと聖書は述べているので,次のような質問が生じます。罪と不完全さと邪悪さはどのように始まったのでしょうか。全能の神がそうした事柄を幾世紀も許してこられたのはなぜでしょうか。その答えは,人類を巻き込む最大の論争を生じさせた,神の主権に対する挑戦に見いだされます。

神がご自分に仕える者たちに求めておられる事柄 エホバ神はこれまで幾世紀もの間,完全な公正と裁きを行ない,神に仕えようとする人々に憐れみを差し伸べて,ご自分が愛と過分の親切の神であることを言葉と行動によって証明してこられました。(出 34:6,7; 詩 89:14。「憐れみ」; 「」を参照。)神は感謝しない邪悪な者たちにさえ親切を表わしてこられました。(マタ 5:45; ルカ 6:35; ロマ 5:8)神はご自分の主権が愛のうちに行使されることを喜ばれます。―エレ 9:24

したがって,神がご自分の宇宙内で望ましいと思っておられるのは,ご自分とご自分の優れた特質に対する愛ゆえに,ご自分に仕える者たちです。彼らは第一に神を,第二に隣人を愛さなければなりません。(マタ 22:37-39)彼らはエホバの主権を愛さなければならず,その主権を望み,他の何よりもそれを好まなければなりません。(詩 84:10)たとえ独立的になることが可能であったとしても,神の支配が他のどんな支配よりもはるかに賢明で,より義にかない,より優れていることを承知しているゆえに,神の主権を選ぶ人でなければなりません。(イザ 55:8-11; エレ 10:23; ロマ 7:18)そのような人々が神に仕えるのは,単に神の全能性を恐れているからでも,利己的な理由があるからでもなく,むしろ神の義と公正と知恵を愛しており,エホバの偉大さと愛ある親切を知っているからです。(詩 97:10; 119:104,128,163)彼らは使徒パウロに和して,次のような感嘆の声を上げます。「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は何とたどりがたいものなのでしょう。『だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか』,また,『だれがまず神に与えてその者に報いがされなければならないようにしただろうか』とあるのです。すべてのものは神から,また神により,そして神のためにあるからです。神に栄光が永久にありますように。アーメン」― ロマ 11:33-36

そのような人たちは神を知るようになりますが,本当に神を知るとは,神を愛し,神の主権に堅く付くことを意味しています。使徒ヨハネはこう書いています。「彼と結ばれたままでいる者はだれも罪を習わしにしません。罪を習わしにする者はだれも,彼を見たことも,知るようになったこともありません」。また,「愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです」。(ヨハ一 3:6; 4:8)イエスはほかのだれよりもみ父をよく知っておられました。イエスはこう言われました。「すべてのものは父によってわたしに渡されており,父をほかにすればだれも子を十分には知らず,また,子と子がすすんで啓示する者をほかにすれば,だれも父を十分には知りません」― マタ 11:27

愛と認識を培うことに失敗する したがって,エホバの主権に対する挑戦がなされた時,挑戦の源となったのは,神の主権の益にあずかっていながら,神に関する知識を認識して増し加えることをせず,そのために神への愛を深めなかった者でした。この者は神の霊の被造物,つまりみ使いでした。アダムとエバという人間夫婦が地上に置かれた時,この者は神の主権に対する攻撃を開始する機会を見て取りました。まず最初にこの者はエバを,次いでアダムを神の主権に対する服従から離れさせようとします。(それは成功しました。)このみ使いが望んだのは,対抗する主権を確立することでした。

この者が最初に近づいた人間,つまりエバに関して言えば,彼女は確かに,自分の創造者である神を認識していませんでした。それに,神を知る機会を活用してもいませんでした。自分よりも劣った者,つまり蛇を装ってはいても実際は反逆したみ使いである者の声に聞き従いました。聖書には,蛇が話すのを聞いてエバが驚いたことなど,少しも示唆されていません。聖書が実際に述べているのは,「エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち[蛇が]最も用心深かった」ということです。(創 3:1)蛇が「善悪の知識の木」の禁じられた木の実を食べ,その時から賢くされたように見え,話せるようになったかどうかに関しては何も述べられていません。その反逆的なみ使いは,蛇を用いてエバに話しかけ,独立する機会,つまり「神のようになって善悪を知るようになる」機会(とエバが思ったもの)を提供し,エバは死なないと当人に信じ込ませることに成功しました。―創 2:17; 3:4,5; コリ二 11:3

アダムはエバの説得力のある誘いに屈してしまいました。アダムも,自分の家族内の反逆に面した時,自分の創造者であり供給者である方への認識と愛を示さず,試みに遭った時に神を擁護する忠節な態度を示しませんでした。アダムは神に対する信仰も,ご自分の忠節な僕たちのためにすべての良い物を備えてくださる神の能力に対する信仰も失ってしまったようです。(エホバが,バテ・シバとの罪をおかした後のダビデに述べた,サム二 12:7-9の言葉と比較。)また,アダムが自分の悪行について問われた時に述べた答えに示されているように,アダムはエホバに対して腹を立てていたようです。アダムはこう答えました。「わたしと一緒にいるようにと[あなたが]与えてくださった,その女がその木から実をくれたので,わたしは食べました」。(創 3:12)アダムはエバとは違い,あなたは死なないという蛇のうそを信じませんでしたが,アダムとエバは共に自己決定の道,神に対する反逆の道を故意に進みました。―テモ一 2:14

アダムは「わたしは神から試練を受けている」とは言えませんでした。むしろ,次に挙げる原則が作用していたのです。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」。(ヤコ 1:13-15)このように,反逆した三者,つまりそのみ使いとエバとアダムは,神から与えられた自由意志を用い,罪のない状態から離れて,故意の罪の道へ移りました。―「完全」; 「」を参照。

論争点 このとき,どんな事柄が挑戦を受けたのでしょうか。後に悪魔サタンと呼ばれるようになったこのみ使いが提示し,さらにアダムが自分の反逆行為によって支持したこの挑戦によって,だれが非難され,だれの名が傷付けられたのでしょうか。エホバの至上権に関する事実,エホバの主権が存在するということに挑戦が投げ掛けられたのでしょうか。神の主権が危険にさらされたのでしょうか。そうではありません。エホバは至上の権威と力を持っておられ,天や地のだれも神のみ手からそれを奪えないからです。(ロマ 9:19)ですから,挑戦を受けたのは,神の主権の正当性価値,神の主権が義にかなっているかどうかということ,すなわち,神の主権が価値ある義にかなった方法で,また神の臣民の最善の益を図って行使されているかどうかということだったに違いありません。その点は,エバに対する近づき方にも示唆されています。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」と蛇は言いました。ここで蛇は,そのようなことは信じられない,神は不当に制限を課して,人間夫婦の正当な分を差し控えている,とほのめかしたのです。―創 3:1

「善悪の知識の木」とは何でしたか

アダムとエバは「善悪の知識の木」の実を取ることにより,反逆をあらわに示しました。宇宙の主権者であられる創造者は,その木に関する律法を定められた時,全くご自分の権限内で行動しておられました。主権者ではなく創造された人間であったアダムには限界があり,アダムはその事実を認める必要があったからです。宇宙の平和と調和を保つには,理知あるすべての被造物が創造者の主権を認め,それを支持しなければなりません。アダムはその木の実を食べないことによって,この事実に対する認識を表わすことができたでしょう。人々で満ちる地の父親となる人間として,アダムはどんなに小さな事柄においても従順と忠節を示すべきでした。次の原則が関係していたのです。「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」。(ルカ 16:10)アダムはそのような完全な従順を示せるだけの能力を持っていました。その木の実自体に本来悪いものが備わっていたということはないようです。(禁じられていたのは性関係ではありませんでした。神は二人に対して,『地に満ちよ』と命じておられたからです。[創 1:28]聖書が述べているように,それは実際の木の実でした。)その木が何を表わしていたかということは,エルサレム聖書(1966年)の創世記 2章17節の脚注の中で十分に説明されています。

「この知識とは,神がご自分のために取っておかれる権利であり,人が罪を犯すことによって取得する権利である。3章5,22節。したがって,それは堕落した人間が持っていない無限の知識ではない。また,それは道徳的識別力でもない。というのは,堕落する前の人間がすでにそれを持っていたし,神は理性のある人間にそれを拒むはずがないからである。その知識とは何が善で何が悪かを自分で決定し,それに従って行動する力のことであり,人間が創造された者という自分の立場を認めようとしない,完全な道徳的独立を求める権利のことである。最初の罪は神の主権に対する攻撃,すなわち誇りの罪であった」。

神の僕たちは利己的だと非難される この論争はさらに,神の忠実な僕ヨブについてサタンが神に述べた言葉の中にも示されています。サタンはこう言いました。「ヨブはただいたずらに神を恐れたのでしょうか。あなたが,彼とその家と彼の持っているすべてのものとの周りにくまなく垣を巡らされたではありませんか。彼の手の業をあなたは祝福されたので,その畜類は地にふえ広がりました。しかし逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを見てください」。さらにサタンは,「皮のためには皮をもってしますので,人は自分の魂のためなら,持っているすべてのものを与えます」と非難を浴びせます。(ヨブ 1:9-11; 2:4)サタンはそのように述べ,ヨブは心の中では神と調和していない,つまりヨブは利己的なことを考えて,利得のために神に従順に仕えているにすぎないと非難したのです。そのようにしてサタンは,神の主権に関して神を中傷し,その主権に対する忠誠に関して神の僕たちを中傷しました。事実上サタンは,もし人を試みに遭わせることが自分に許されるなら,エホバの主権に対して忠誠を保つような人間は地上に存在し得ないと言ったのです。

エホバはこの論争点が加えられることを許されました。しかしエホバは,ご自分の主権が義にかなっていることを確信していなかったためにそうされたのではありません。神はご自身に関して何かが証明されるようなことを必要とされませんでした。エホバはご自分の理知ある被造物への愛ゆえに,問題を十分に試みるための時間をお許しになりました。神は人間が全宇宙の前でサタンによる試みを経験することをお許しになり,ご自分の被造物に対して,悪魔が偽り者であることを証明する特権と,神のみ名からだけではなく,被造物自身からも中傷を除き去る特権をお与えになりました。サタンはその利己的な態度をもって,『非とされた精神状態に渡され』ました。エバに近づいた時のサタンの論じ方は矛盾をはらんでいたようです。(ロマ 1:28)サタンは,不公平かつ不義な方法で主権を行使しているとして神を非難しながら,同時に神の公平さを当てにしているように思えるからです。サタンは,もし自分が神の被造物の不忠実さに関する自分の非難の正しさを証明したなら,神ご自身,サタンを生き続けさせる責務を感じるであろうと考えたようです。

論争の解決はどうしても必要 この論争の解決は,神の主権との関係という観点からして,生きているすべての人にとって実際に肝要な問題でした。一度解決されたなら,そのような論争を再び持ち出す必要は決して生じないからです。エホバは,この論争に関連したすべての問題の十分な知識が徹底的に知らされ,理解されることを望んでおられたと言えるでしょう。神が取られた行動は神の不変性に対する信頼を生じさせ,神の主権を高め,その主権を選ぶ人すべての思いの中に,その主権がより望ましいものとして堅く据えられるようにするのです。―マラ 3:6と比較。

倫理上の論争 ですから,これは力の問題,つまり生身の強さの問題ではなく,おもに倫理上の論争でした。しかし,神が目に見えないために,また,サタンが人間の思いをくらまそうとしてあらゆる努力を払ってきたために,時々エホバの力が,それにエホバの存在さえも疑問視されてきました。(ヨハ一 5:19; 啓 12:9)人間は神の辛抱と親切の理由を誤解し,自分自身の反逆の度を強めてきました。(伝 8:11; ペテ二 3:9)そのため,忠誠のうちに神に仕えるためには,辛抱強さと共に信仰が必要でした。(ヘブ 11:6,35-38)それにもかかわらず,エホバはご自分の主権とみ名をすべての人に知らせることを意図しておられます。エジプトではファラオにこう言われました。「実際には,この目的のためにあなたを存在させておいた。すなわち,あなたにわたしの力を見させるため,こうしてわたしの名を全地に宣明させるためである」。(出 9:16)同じように神は,この世とこの世の神である悪魔サタンが存続してその邪悪さを深めてゆくための時間をお許しになりました。また,この世と悪魔の滅びる時もお定めになりました。(コリ二 4:4; ペテ二 3:7)詩編作者は,『人々が,その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者であることを知るように』という預言的な祈りをささげています。(詩 83:18)エホバご自身次のように誓っておられます。「すべてのひざはわたしに向かってかがみ,すべての舌は誓って,言うであろう,『確かに,エホバのうちには義と強さが余すところなく宿っている』」― イザ 45:23,24

この論争はどの程度まで広がったか この論争はどの程度まで広がったのでしょうか。人間は誘われて罪をおかし,み使いも罪をおかしたので,問題は神の天的な被造物だけではなく,エホバ神と最も親しい神の独り子のもとにも及び,彼らを包含するものとなりました。常にみ父を喜ばせることを行なったこの方は,エホバの主権の正しさの立証に貢献することを強く望んだことでしょう。(ヨハ 8:29; ヘブ 1:9)神はこの割り当てのためにその独り子を選び,彼を地に遣わしたため,その方は地上で処女マリアから男の子として生まれました。(ルカ 1:35)この方は完全であり,恥辱の死を遂げる時まで,生涯を通じてその完全さととがめのない立場を保たれました。(ヘブ 7:26)死を前にしてイエスは,「今,この世の裁きがなされています。今やこの世の支配者は追い出されるのです」とも,『世の支配者が来ようとしています。そして,彼はわたしに対して何の力もありません』とも言われました。(ヨハ 12:31; 14:30)サタンはキリストの忠誠を砕くための力を全く得ることができなかったので,すぐにでも追い出される敗北者として裁かれました。イエスは「世を征服した」のです。―ヨハ 16:33

イエス・キリスト,エホバの主権が義にかなったものであることを立証する方 ですからイエス・キリストは,悪魔が偽り者であることを完ぺきな仕方で証明し,どんな試みや試練が臨むとしても神に忠実を保つ人間がいるだろうか,という問題を完全に解決されました。ですからイエスは,神の目的を遂行する方として,つまり悪魔を含む邪悪さを宇宙から滅ぼし去るために用いられる方として,主権者なる神から任命されたのです。イエスはこの権威を行使し,『すべてのひざはかがみ,すべての舌はイエス・キリストが主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰する』ことになります。―フィリ 2:5-11; ヘブ 2:14; ヨハ一 3:8

み子はご自分に与えられた領域において,み父のみ名において支配を行ない,エホバの主権に敵対するあらゆる政府,あらゆる権威や力を「無に帰せしめ」ます。使徒パウロが明らかにするところによれば,それからイエス・キリストは,エホバの主権を支持する最大の貢ぎ物を差し出します。というのは,「すべてのものが彼に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにする」からです。―コリ一 15:24-28

「啓示」の書が示すところによると,キリストは千年統治の期間中にエホバの主権に敵対しようとするすべての権威を従わせますが,その期間が終わった後,悪魔がしばらく解き放されます。悪魔はその論争を蒸し返そうとしますが,すでに解決されているその論争のために長い時間は与えられません。サタンおよびサタンに従う者たちは完全に絶滅させられてしまいます。―啓 20:7-10

エホバの側を支持する他の者たち キリストの忠実さはこの論争における神の側の正しさを十分に証明しましたが,他の者たちもそれにあずかることを許されています。(箴 27:11)使徒パウロは,犠牲の死を含め,キリストの忠誠を保つ歩みが及ぼした影響について,「正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果(は),命のために彼らを義と宣することなのです」と指摘しています。(ロマ 5:18)キリストは会衆という「体」の頭とされ(コロ 1:18),その体の成員はキリストの忠誠を貫いた死にあずかります。そしてキリストは,彼らが共同の相続人,また仲間の王として,ご自分と共に王国支配を行なうことを喜ばれます。(ルカ 22:28-30; ロマ 6:3-5; 8:17; 啓 20:4,6)神の備えを待ち望んだ昔の忠実な人たちは,体は不完全でも忠誠を保ちました。(ヘブ 11:13-16)それに加え,やがては正しい認識をもってひざをかがめる他の大勢の人たちも,神の義にかなった価値ある主権を心から認識して,同じように忠誠を保ちます。詩編作者が預言的に歌ったとおりです。「すべて息あるもの ― それはヤハを賛美せよ。あなた方はヤハを賛美せよ!」―詩 150:6