内容へ

目次へ

創造,創造物

創造,創造物

(そうぞう,そうぞうぶつ)(Creation)

だれか,または何かを創造する,もしくは存在させる行為。この語はまた,創造されたもの,もしくは存在させられたものを指すこともあります。ヘブライ語バーラーとギリシャ語クティゾーはいずれも「創造する」という意味の言葉で,専ら神による創造に関連して用いられています。

聖書の至る所で,エホバ神は創造者と呼ばれています。神は,「天の創造者,……地を形造られた方,それを造られた方」です。(イザ 45:18)また,「山々を形造った方,風を創造した方」(アモ 4:13),「天と地と海とその中のすべてのものを造られた方」です。(使徒 4:24; 14:15; 17:24)『神はすべてのものを創造されました』。(エフェ 3:9)イエス・キリストは,エホバが人間を創造し,それを男性と女性に造られた方であることを認めました。(マタ 19:4; マル 10:6)ですから,エホバだけが適切にも『創造者』と呼ばれています。―イザ 40:28

すべてのものが「存在し,創造された」のは,神のご意志によります。(啓 4:11)いつの時代も存在してこられたエホバは,創造が始まる前は独りでおられました。―詩 90:1,2; テモ一 1:17

霊者であられるエホバ(ヨハ 4:24; コリ二 3:17)は常に存在してこられましたが,宇宙を構成する物質はそうではありません。ですからエホバは,文字通りの天と地を創造された時,元からあった物質を使われたのではありません。この点は,創世記 1章1節の,「初めに神は天と地を創造された」という言葉から明らかです。もし物質が常に存在してきたのであれば,物質的なものに関連して「初め」という語を使うのは適切でなかったはずです。しかし神は地を創造された後,実際に「野のあらゆる野獣と天のあらゆる飛ぶ生き物を地面から」形造られました。(創 2:19)また,「地面の塵で」人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられました。すると人は生きた魂になりました。―創 2:7

適切にも詩編 33編6節は,「エホバの言葉によって天が造られ,み口の霊によってその全軍が造られた」と述べています。地はまだ「形がなく,荒漠としていて」,「闇が水の深みの表にあった」ころ,水の表を行き巡っていたのは神の活動する力でした。(創 1:2)ですから神は,ご自分の活動する力,つまり「霊」(ヘ語,ルーアハ)を使い,創造に関する目的を果たされました。神が創造されたものは,神の力だけでなくその神性をも証ししています。(エレ 10:12; ロマ 1:19,20)また,エホバは「無秩序の神ではなく,平和の神(であられる)」ので(コリ一 14:33),神の創造のみ業は,混乱や偶然ではなく秩序正しさを特色としています。エホバは,ご自分が地の基を置いて海を囲い込んだ時に具体的な段階を踏んだことをヨブに思い起こさせ,「天の法令」が存在することを示されました。(ヨブ 38:1,4-11,31-33)さらに,神の創造のみ業や他のみ業は完全です。―申 32:4; 伝 3:14

エホバの最初の創造物は,ご自分の「独り子」(ヨハ 3:16),つまり「神による創造の初めである者」でした。(啓 3:14)エホバは「全創造物の初子」であるこの方を,他のすべてのもの,つまり天にあるものと地にあるもの,『見えるものと見えないもの』を創造された時にお用いになりました。(コロ 1:15-17)ヨハネは霊感のもとに,このみ子,つまり言葉に関して,「すべてのものは彼を通して存在するようになり,彼を離れて存在するようになったものは一つもない」と証言しています。また同使徒は,言葉が肉体となられたイエス・キリストであることを明らかにしています。(ヨハ 1:1-4,10,14,17)この方は擬人化された知恵として,「エホバご自身が,その道の初めとして……わたしを産み出された」と述べたことが記されており,エホバの「優れた働き手」として,創造者なる神との交わりにあずかったことを述べています。(箴 8:12,22-31)エホバと独り子が創造の活動において親しい交わりを持たれたことを考えれば,また,み子が「見えない神の像」であることからすれば(コロ 1:15; コリ二 4:4),エホバが『わたしたちの像に人を造ろう』と言われた時に話しかけておられたのは,神の独り子であり優れた働き手でもある方だったと思われます。―創 1:26

エホバは独り子を創造された後,その独り子を用いて天のみ使いたちを生み出されました。これは,地の基を置くことよりも前に行なわれました。エホバはヨブに質問し,次のようにお尋ねになった時に,その点を明らかにされました。「わたしが地の基を置いたとき,あなたはどこにいたのか。……明けの星が共々に喜びにあふれて叫び,神の子たちがみな称賛の叫びを上げはじめたときに」。(ヨブ 38:4-7)物質の天と地とあらゆる元素が造られた,もしくは生み出されたのは,天のそうした霊の被造物が創造された後のことでした。エホバはこの創造のみ業全体のおもな責任者であられるので,そのみ業はエホバによるものとみなされます。―ネヘ 9:6; 詩 136:1,5-9

聖書は,「初めに神は天と地を創造された」と述べており(創 1:1),時については明示していません。ですから,科学者たちが地球や様々な惑星や他の天体の年齢としてどんな数字を挙げようとも,この「初め」という語の用法を攻撃することはできません。物質の天と地の創造が実際に行なわれたのは,幾十億年も前のことかもしれません。

地に関連したその後の創造の活動 創世記 1章から2章3節は,物質の天と地の創造について述べた後(創 1:1,2),地球上で行なわれたその後の創造の活動の概略を示しています。創世記 2章5節以降は,三「日」目のある時点,つまり乾いた陸地が現われた後で,しかも陸生植物が創造される前の時点から説明を再開する並行記述になっています。その記述は,創世記 1章の大まかな概略には説明されていない詳しい点を取り上げています。霊感による記録は,「日」と呼ばれている六つの創造の期間と,神が地上での創造のみ業をやめて休まれた七つ目の期間,つまり「七日目」について述べています。(創 2:1-3)地球に関連する創造の活動を述べた創世記の記述は,今日通用しているような植物学や動物学の細かい区別を設けてはいないものの,そこで用いられている用語は,生物の主要区分を十分に網羅するものであり,それらが各々の「種類」にしたがってのみ繁殖するように創造され,造られたことを示しています。―創 1:11,12,21,24,25。「種類」を参照。

次の表は,創世記に略述されている神の六「日」間の創造の活動を説明したものです。

地に関するエホバの創造のみ業

創造のみ業

聖句

1

光; 昼と夜との区分

創 1:3-5

2

大空,大空の下の水と大空の上方の水との区分

創 1:6-8

3

乾いた陸地; 草木

創 1:9-13

4

天の光体が地上から識別できるようになる

創 1:14-19

5

水生の魂と飛ぶ生き物

創 1:20-23

6

陸生動物; 人

創 1:24-31

創世記 1章1,2節は,上に略述した六「日」間よりも前の時点のことを述べています。これらの「日」が始まった時,太陽や月や星はすでに存在しており,その創造については,創世記 1章1節で言及されています。しかし,創造の活動のその六「日」間の前は,「地は形がなく,荒漠としていて,闇が水の深みの表にあ(りまし)た」。(創 1:2)恐らく,巻き布のような雲の層が依然として地球を取り巻き,光が地表に届くのを妨げていたものと思われます。

神が一日目に,「光が生じるように」と言われた時,その光の源はまだ地表から識別できませんでしたが,散光が雲の層を通過していたと考えられます。翻訳者J・W・ワッツの,「すると光が徐々に存在するようになった」という訳が示唆しているように,この過程は徐々に進んだようです。(創 1:3,「創世記の明示的翻訳」)神は光と闇の区分を設け,光を“昼”,闇を“夜”と呼ばれました。これは,地球が自転しながら太陽の周りを公転していたこと,そのため東半球でも西半球でも光と闇の時間があったことを暗示しています。―創 1:3,4

二日目に神は,「水と水との間に」区分ができるようにし,大空を造られました。地上に残った水も幾らかありましたが,大量の水が地表のはるか上空に上げられ,この二つの水の間に大空ができました。神はその大空を“天”と呼ばれましたが,大空の上に浮いていた水は,宇宙の星や他の天体を取り囲んだとは言われていないので,それは地球に関連した表現でした。―創 1:6-8。「大空」を参照。

三日目に,奇跡を起こす神の力によって地球上の水が集められ,乾いた陸地が現われました。神はそれを“地”と呼ばれました。また,神が偶然の要素や進化の過程によらずに,物質の原子に生命の根源を付加するための行動を起こされたのもこの日のことでした。その結果,草や草木や果実の木が生み出されました。この三つの大まかな区分はそれぞれ,その「種類」にしたがって繁殖することができました。―創 1:9-13

光体に関する神のご意志は,四日目に成し遂げられました。こう記されています。「神は二つの大きな光体を,すなわち大きいほうの光体は昼を支配させるため,小さいほうの光体は夜を支配させるために造ってゆかれ,また星をも同じようにされた。こうして神はそれらを天の大空に置いて地の上を照らさせ,昼と夜とを支配させ,光と闇とを区分させた」。(創 1:16-18)これらの光体に関する説明からすると,大きいほうの光体は太陽,小さいほうの光体は月と見て間違いありません。ただし,聖書の中で太陽と月という呼び名が具体的に挙げられているのは,ノアの日の大洪水に関する記述の後です。―創 15:12; 37:9

以前,一「日」目には,「光が生じるように」という表現が使われました。ここで「光」に相当する語として使われているヘブライ語はオールで,一般的な意味での光を表わす語です。しかし四「日」目の場合,ヘブライ語はマーオールに変わっており,これは光体もしくは光の源を指しています。(創 1:14)ですから,一「日」目には,散光が巻き布のような層を通過していたと思われますが,その光の源は地上の観察者からは見えなかったに違いありません。しかし,四「日」目になって事情は変化したようです。

創世記 1章16節では,「創造する」という意味のヘブライ語動詞バーラーが使われていないという点も注目に値します。むしろ,用いられているのは,「造る」という意味のヘブライ語動詞アーサーです。太陽や月や星は,創世記 1章1節に出て来る「天」に含まれているので,四日目よりもずっと前に創造されていました。神は四日目に,それらの天体が地表とその上の大空に対して新しい関係を占めるように,それらを「造って」ゆかれました。「神はそれらを天の大空に置いて地の上を照らさせ(た)」と言われていますが,これは,その時に,それらがあたかも大空にあるかのように地表から識別できるようになったことを暗示しています。さらに,光体は「しるしとなり,季節のため,また日と年のためのものとなる」ことになっていたので,後に様々なかたちで人間の導きとなりました。―創 1:14

五日目の特色は,人間ではない最初の魂が地上に創造されたことです。この時には,他の様々な形態に進化するよう神が意図されたわずか一つの生き物ではなく,文字通り,生きた魂の群れが,神の力によって生み出されました。こう記されています。「神は大きな海の巨獣と動き回るあらゆる生きた魂,すなわち水がその種類にしたがって群がり出させるもの,また翼のあるあらゆる飛ぶ生き物をその種類にしたがって創造してゆかれた」。神はご自分が生み出されたものに満足し,それらを祝福し,言わばそれらに向かって「多くなれ」とお命じになりました。そのことは可能でした。というのは,多くの種族に分類されるこれらの生き物は,「その種類にしたがって」繁殖する能力を神から付与されたからです。―創 1:20-23

六日目に,「神は,地の野獣をその種類にしたがい,家畜をその種類にしたがい,地面のあらゆる動く生き物をその種類にしたがって造ってゆかれ(まし)た」。そのみ業は,それ以前の神の創造のみ業すべてと同様に良いものでした。―創 1:24,25

神は創造の活動の六日目の終わりごろに,み使いよりは低いものの,動物よりは優れた全く新しい種類の生き物を生み出されました。それは,神の像に,神と似た様に創造された人でした。創世記 1章27節は人間について,「[神は]男性と女性にこれを創造された」と簡単に述べていますが,並行記述である創世記 2章7-9節は,エホバ神が地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられたこと,すると人が生きた魂になったこと,さらには,その人のために楽園の住みかと食物が備えられたことを示しています。この場合エホバは,地球の元素を使って創造のみ業を行なわれ,その後,男性を形造ってから,アダムのあばら骨の一つを基礎にして人間の女性を創造されました。(創 2:18-25)女性が創造されたことにより,人は一つの「種類」として完成しました。―創 5:1,2

それから神は人間を祝福し,最初の男とその妻にこう言われました。「子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。(創 1:28。詩 8:4-8と比較。)神は人間と他の地上の生き物のために,「あらゆる緑の草木を食物として」与え,十分なものを供給されました。霊感による記録は,そのような創造のみ業の結果を伝え,「そののち神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが,見よ,それは非常に良かった」と述べています。(創 1:29-31)六日目は有終の美を飾り,神はこの創造のみ業を完成し,「七日目に,行なわれたすべての業を休まれ(まし)た」。―創 2:1-3

創造の活動が行なわれた六日間のそれぞれの日に成し遂げられた事柄の概観は,「こうして夕となり,朝となった」,一日目である,二日目である,三日目であるといった言葉で結ばれています。(創 1:5,8,13,19,23,31)それぞれの創造の日の長さが24時間を超えていることからすれば(後で検討します),その表現は,文字通りの夜と昼に当てはまるのではなく,比喩的な表現です。夕方であれば,物事は不明瞭ですが,朝になれば,はっきりと識別できるようになります。それぞれの創造の期間つまり「日」の,「夕」つまり始めにおいて,その日に関する神の目的は,神ご自身にとっては十分に分かっている事柄であっても,観察しているみ使いたちにとっては不明瞭でした。しかし「朝」になると,神がその日に関して意図された事柄はその時までには成し遂げられているので,そうした事柄に十分な光が当たるようになります。―箴 4:18と比較。

創造の日の長さ 聖書は,それぞれの創造の期間の長さを明示していません。しかし,そのうちの六日はすべて終わり,六日目については(それに先立つ五日間のそれぞれの日の場合と同様に),「そして夕となり,朝となった。六日目である」と書かれています。(創 1:31)しかしこの言葉は,神が休まれた七日目については記されておらず,この点は,その日が続いていたことを暗示しています。(創 2:1-3)さらに,七日目,つまり神の休みの日が始まって4,000年以上たった後,パウロは,それが依然として進行していたことを示唆しました。ヘブライ 4章1-11節で彼は,昔のダビデの言葉(詩 95:7,8,11)と創世記 2章2節に言及し,「それゆえわたしたちは,その休みに入るために力を尽くし……ましょう」と激励しました。同使徒の時代まで,七日目はすでに数千年続いており,まだ終わってはいませんでした。聖書の中で「安息日の主」(マタ 12:8)と呼ばれているイエス・キリストの千年統治は,大いなる安息日である神の休みの日の一部と考えられます。(啓 20:1-6)そうであれば,神の休みの日が始まってから終わるまでには,数千年の時間が経過することになります。創世記 1章3節から2章3節で説明されている週は,最後の日が安息日であり,イスラエル人が時を分けるために使った週と類似しているようです。イスラエル人は神のご意志と調和し,週の七日目の安息日を守りました。(出 20:8-11)また,七日目が数千年続いていることからすると,六つの創造の期間,つまり日のそれぞれの長さは少なくとも数千年だったと結論するのは道理にかなっていると思われます。

24時間よりも長い一日があり得るということは,創造の期間全体「日」と呼んでいる創世記 2章4節からもうかがい知ることができます。また,「エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようである」というペテロの霊感による言葉もその点を暗示しています。(ペテ二 3:8)それぞれの創造の日は,わずか24時間ではなく,数千年というもっと長い期間であると考えるのは,地球そのものに見られる証拠とも,よりよく調和します。

創造されたものは人間の発明品に先んじていた エホバは人間の発明品の多くが登場する幾千年も前から,そうした発明品に似た独特の造りを創造物の中に組み込んでおられました。例えば,鳥は飛行機が開発される何千年も前から飛行していました。オウムガイやコウイカは海の中を上下するため,潜水艦と同じように浮きタンクを使います。タコやイカは,ジェット推進を用います。コウモリやイルカは,音波探知器を使う名人です。ある種の爬虫類や海鳥には,独自の“塩分除去装置”が内蔵されており,海水が飲めるようになっています。

シロアリは,独創的な巣作りと水の使用によって,自分の住みかの空調を行なっています。微細な植物,昆虫,魚,木は,独自のタイプの“不凍液”を使っています。ある種のヘビ,カ,クサムラツカツクリ,またヤブツカツクリに内蔵されている温度計は,わずかな温度変化も感じとります。スズメバチ,アシナガバチなどのハチは紙を作ります。

トマス・エジソンは電球の発明者と言われていますが,電球には,エネルギーが熱となって失われるという欠点があります。一方,エホバの創造物 ― 海綿動物,菌類,バクテリア,ツチボタル,昆虫,魚 ― は冷光を発し,光の色も様々です。

多くの渡り鳥は,頭部に羅針盤を持っているだけでなく,生物時計も持っています。ある種の微細なバクテリアは,前進したり後退したりするためのロータリーエンジンを持っています。

詩編 104編24節には,「エホバよ,あなたのみ業は何と多いのでしょう。あなたはそのすべてを知恵をもって造られました。地はあなたの産物で満ちています」とありますが,それには確かに十分の理由があります。

創造に関する聖書の記述を,有名なバビロンの創造説話など,異教の神話と結び付けようとする人々もいます。確かに,古代バビロンには様々な創造説話がありましたが,中でもよく知られるようになったのはバビロンの国家神マルドゥクに関係した神話です。これは簡単に言えば,女神のティアマットと男神のアプスがいて,そのふたりの神が他の神々の親になったという話です。それらの神々の活動はアプスにとって大きな悩みの種になったので,アプスはその神々を滅ぼすことにしました。しかしアプスは神々のひとりであるエアに殺され,ティアマットがアプスのために復しゅうしようとすると,ティアマットもエアの息子マルドゥクに殺されました。それからマルドゥクは,ティアマットの体を裂き,その半分で空を造り,もう半分を使って地を造り出しました。次いでマルドゥクは,ティアマットの軍勢の指揮者であるキングというもうひとりの神の血を使って(エアの助けも得て)人間を創造するなど,さらに幾つかのことを行ないました。

聖書は,バビロンの創造説話から借用したのでしょうか

P・J・ワイズマンが自分の著書の中で指摘しているところによると,バビロンの創造説話を刻んだ書字板が最初に発見された時,一部の学者たちは,さらに発見や研究を行なえば,その説話と,創造に関する創世記の記述との間の対応関係が実証されると期待しました。創世記の記述は,バビロンの説話から借用したものであるということが明らかになると考えた人々もいました。しかし,さらに発見や研究が行なわれても,二つの記述の間の大きな隔たりが明らかになったにすぎませんでした。その二つは互いに対応するようなものではありません。ワイズマンが引用している,「バビロニアの創造説話,ベルと龍との戦い」を発行した大英博物館理事会は,「バビロニア人の記述とヘブライ人の記述の基本的な概念は本質的に異なっている」と考えています。ワイズマン自身もこう述べています。「多くの神学者が,現代の考古学上の研究に後れずに付いてゆく代わりに,ヘブライ人はバビロンの資料から『借用』したという,今では誤りが実証されている理論をいつまでも繰り返しているのは非常に残念なことである」―「六日間で明らかにされた創造の業」,ロンドン,1949年,58ページ。

一部には,創造に関するバビロンの説話と創世記の記述の類似点と思える箇所を指摘する人々もいますが,聖書の創造の物語と,前述のバビロニア神話のあらましを先ほど検討した結果から,両者が実際のところ似ていないことはすぐに分かります。ですから,その二つを並べて詳しく分析する必要はありません。しかし,ジョージ・A・バートン教授は,それらの記述の類似点や相違点と思える箇所(出来事の順番など)を検討し,こう述べています。「もっと重要な違いは両者の宗教上の概念にある。バビロンの詩は神話的かつ多神教的である。神に関する概念は決して高尚なものではない。神々は愛憎をあらわにし,企てや陰謀にかかわり,戦い,破壊する。マルドゥクは戦士であり,力を振り絞る熾烈な闘いの末にはじめて征服する。一方,創世記は最も高尚な一神教を反映している。神は絶対的な意味で,宇宙のあらゆる要素の主であり,それらは神のごくわずかな言葉にも従う。神は苦もなくすべてを掌握する。神が語れば,それは成し遂げられる。大半の学者たちと同じく,仮にこの二つの物語に関連があることを認めるとしても,聖書の記述が霊感によるものであることは,それをバビロンの記述と比べてみれば一番よく分かる。我々が今日,創世記の章を読むならば,唯一の神の威光と力が今なお我々に啓示され,古代のヘブライ人の場合と同様に,現代人のうちにも創造者に対する崇敬の態度がはぐくまれる」―「考古学と聖書」,1949年,297,298ページ。

創造に関する古代の神話全般については,こう記されています。「宇宙の創造について明確に述べている神話はいまだに見つかっていない。宇宙の構造やその文化的変遷,人間の創造,文明の確立などにかかわる事柄は,多神教や,至上性をめぐる神々の闘いを特色としており,創世記 1-2章に見られるヘブライ人の一神教とは全く対照的である」― 新聖書辞典,J・ダグラス編,1985年,247ページ。

「新しい創造物」 創造の六番目の期間,つまり六「日」目の後,エホバは地上での創造の活動をやめられました。(創 2:2)しかし,霊的な面では,壮大な事柄を成し遂げておられます。例えば使徒パウロは,「キリストと結ばれている人がいれば,その人は新しい創造物です」と書きました。(コリ二 5:17)ここで,キリスト『のうちにいる』,もしくはキリスト「と結ばれている」という表現は,キリストの体の肢体,キリストの花嫁の成員として,キリストと一つになっていることを意味します。(ヨハ 17:21; コリ一 12:27)エホバ神はこの関係を存在させるため,人をみ子のもとに引き寄せ,その人を聖霊によって生み出されます。その人は,霊によって生み出された神の子として,イエス・キリストと共に天の王国にあずかる見込みを持つ「新しい創造物」となります。―ヨハ 3:3-8; 6:44

再創造 イエスは使徒たちに対して「再創造」のことも話され,それを,「人の子が自分の栄光の座に座る」時と結び付けられました。(マタ 19:28; ルカ 22:28-30)「再創造」と訳されているギリシャ語はパリンゲネシアで,これは,「再び; 改めて; もう一度」という意味の部分と,「誕生; 起源」という意味の部分から成る複合語です。フィロンは大洪水後の世界の再建に関連してこの語を使いました。ヨセフスは流刑後のイスラエルの復興に関して,その語を使っています。G・キッテル編,「新約聖書神学辞典」によれば,マタイ 19章28節におけるパリンゲネシアの用法は,「フィロンやヨセフスの用法と全く一致して」います。(G・ブロミリ訳,1964年,第1巻,688ページ)ですから,ここで言及されているのは新しい創造ではなく,地に対するエホバの目的が完全に成し遂げられるための手段となる再生もしくは回復です。―「部族」(「イスラエルの十二の部族を裁く」)を参照。

従順な人間,つまり「腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つ」ようになる「創造物」には,王国の支配のもとでの大きな祝福が保証されています。(ロマ 8:19-21。「神の子(たち)」[神の子供の栄光ある自由]を参照。)神によって約束され,創造される事物の体制には,「義が宿ります」。(ペテ二 3:13)その設立が確実であるということは,ヨハネの黙示録の幻と,「わたしは,新しい天と新しい地を見た」というヨハネの言葉によって強調されています。―啓 21:1-5