内容へ

目次へ

外典

外典

(がいてん)(Apocrypha)

ギリシャ語のアポクリュフォスという言葉は,聖書の三つの聖句の中でその本来の意味どおりに用いられ,「注意深く秘められている」ものを指しています。(マル 4:22; ルカ 8:17; コロ 2:3)書物に関連して用いられる場合には,本来の用い方として,公に朗読されることがなく,したがって他の人たちから「秘められている」ものを指しました。しかし後代に,この語は,偽筆あるいは偽典という意味を帯びるようになり,今日では,トレント公会議(1546年)でローマ・カトリック教会が聖書の正典の一部として宣言した追加の書物について用いるのが最も一般的な用法です。カトリックの著述家たちは,これらの書を原正典(プロトキャノニカル)と区別して,「第二(または,後の)正典の」という意味でデュウテロキャノニカルと呼んでいます。

これら付け加えられた書物として,「トビト書」,「ユディト書」,「(ソロモンの)知恵」,「集会の書」(「伝道の書」ではない),「バルク書」,「マカベア第一書」と「マカベア第二書」,「エステル記への追加」があり,またダニエル書への追加として「三人の聖なる子たちの歌」,「スザンナと長老たち」,「ベルと龍の滅び」の三つがあります。これらが厳密にいつごろ書かれたかは定かではありませんが,西暦前2ないし3世紀以前ではあり得ないことを証拠は示しています。

正典でない証拠 これらの書物はある程度,歴史的価値を有する場合もありますが,その正典性の主張には何ら確たる根拠はありません。証拠の示す点として,ヘブライ語の正典は西暦前5世紀に,エズラ記,ネヘミヤ記,マラキ書が書かれて完結しました。外典の書物は,霊感による聖書のユダヤ人の正典にかつて含められたことはなく,今日でもその一部とはされていません。

1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは,これら(ヘブライ語正典の)限られた書だけが神聖なものとして承認されていたことを示して,こう述べています。「我々のうちには,互いに食い違い,互いに矛盾する多数の書があるのではない。我々の書,すなわち正しいと認められたものは22冊[現代の区分によるヘブライ語聖書の39冊に相当する]しかなく,それらは全時代の記録を含んでいる」。彼はさらに,外典の存在,およびそれらがヘブライ語正典から除外されていることに気づいていたことをはっきり示して,こう付け加えています。「アルタクセルクセスから我々の時代に至るまでの全歴史が書き記されてきたが,それらは以前の記録と同等に信用できるものとはみなされていない。というのは,厳密な意味での預言者たちの継承がなかったからである」。―「アピオンへの反論」,I,38,41(8)。

「セプトゥアギンタ訳」に含められる これらの書物を正典とみなす議論は大抵の場合,西暦前280年ごろにエジプトで翻訳が開始されたヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳の初期の多くの写本にこれら外典の書物が見いだされるという事実を基にしています。しかし,セプトゥアギンタ訳の原本は残存していないので,外典の書が元々その翻訳に含められていたと断言することはできません。外典の書物の多く,恐らくほとんどはセプトゥアギンタ訳の翻訳開始の後に書かれたことが認められており,それゆえにその翻訳者団が翻訳のために選んだ当初の目録には含まれていなかったものと考えられます。ですから,それらはせいぜいこの訳業に対して付加的な位置を占めていたにすぎません。

さらに,アレクサンドリアにいたギリシャ語を話すユダヤ人は最終的にはそれら外典の書物をギリシャ語セプトゥアギンタ訳に挿入し,神聖な書物の拡大された正典の一部とみなしたとしても,先に引用したヨセフスの言葉からも分かるとおり,それらは決してエルサレムすなわちパレスチナの正典の中に入れられたことはなく,せいぜい二次的な書物とみなされたにすぎず,神から出たものとはみなされませんでした。そのため,ユダヤ人のヤムニア会議(西暦90年ごろ)で,それらの書物はすべてヘブライ語正典から明確に除外されました。

この点に関するユダヤ人の見解に正しく考慮を払うべきことは,使徒パウロがローマ 3章1,2節ではっきり述べています。

古代の他の証言 外典が正典の一部ではないことを示す主要な外的証拠の一つは,クリスチャンの聖書筆者がだれ一人それらの書から引用していない事実です。エステル記,伝道の書,ソロモンの歌など,正典と認められていてもクリスチャンの書物に引用されていないものもわずかながらあるため,上記の事実それ自体は決定的ではありませんが,外典の書物のいずれからも,ただの一度も引用されていない事実には確かに重要な意味があります。

西暦初頭数世紀の指導的な聖書学者や“教父”たちが,概して外典を低い地位に置いていることも見過ごしてはならない点です。西暦3世紀初めのオリゲネスは,注意深い研究の後,これらの書物と真の正典の書との間に区別を設けました。アタナシウス,エルサレムのキュリロス,ナツィアンツのグレゴリウス,アンフィロキオスなどはいずれも西暦4世紀の人ですが,ヘブライ語正典と一致する神聖な書物を列挙した目録を整えた際,それら付加的な書物を無視し,あるいは二次的な部類に置いています。

初期教会の「最も優れたヘブライ語学者」と言われ,西暦405年にラテン語ウルガタ訳を完成したヒエロニムスは,これら外典の書物に関してはっきり否定的な立場を取りました。事実彼は,正典ではないという意味で「アポクリファ」という語を明確にこれらの書物に関して用いた最初の人でした。例えばヒエロニムスは,サムエル記と列王記の序文の中で,ヘブライ語聖書の霊感による書をヘブライ語正典(その中では39冊の書が22に分けられている)と一致した形で列挙して,こう述べています。「このようなわけで,22冊の書がある。……聖書のこの序文は,我々がヘブライ語からラテン語に翻訳するそれぞれの書すべてに対する確証された取り組み方を示すものとなろう。ゆえに,何であれこれらの書以外のものは外典の中に入れられなければならないということを知るべきであろう」。ラエタという名の婦人にその人の娘の教育に関して書き送った際,ヒエロニムスはこう助言しています。「彼女に外典の書はどれも避けさせるように。それを読みたいというのであれば,その教理が真実であるからではなく,その驚くべき物語に対する敬意のゆえに読むように。それらは作者とされている人たちが実際に書いたものではないこと,それらには多くの間違った要素があること,また,泥の中に金を探すには多くの熟練が必要なことを認識させなさい」―「書簡選集」,CVII。

相異なるカトリックの見解 これら付加的な書物を正典に組み入れようとする傾向は,おもにアウグスティヌス(西暦354-430年)によって始められました。もっとも,彼自身は後期の著作において,ヘブライ語正典の書とそれら“外部の書”との間に明確な相違を認めました。しかし,カトリック教会はアウグスティヌスの導きに従い,西暦397年のカルタゴ公会議で定めた聖なる書の正典の中にそれら付加的な書物を加えました。しかし,ローマ・カトリック教会がそれらの追加を聖書の目録に入れることを明確に確認したのは,それよりずっと後代,西暦1546年のトレント公会議においてでした。これは,教会内においてさえこれらの書物に関して依然意見の対立があったために必要とされた処置でした。ローマ・カトリック教会の司祭また学者であったジョン・ウィクリフは,ヘレフォードのニコラスを後継の援助者として14世紀に聖書を初めて英語に翻訳し,その訳に外典を含めましたが,この翻訳の序文の中で,それらの書物には「信ずる根拠がない」と言明しています。彼の時代の第一級のカトリック神学者で,クレメンス7世から「教会の光明」とも呼ばれたドミニコ会の枢機卿カイェターヌス(西暦1469-1534年)も,真のヘブライ語正典の書と外典の書物とを区別し,ヒエロニムスの著作にそのことの根拠を求めています。

トレント公会議がそれ以前のカルタゴ公会議で承認されていた書物をすべて受け入れたわけではない点も注目に値します。その中から三つの書,すなわち,「マナセの祈り」,「エスドラス第一書」と「エスドラス第二書」(エズラ記とネヘミヤ記に相当するカトリック・ドウェー訳聖書のエスドラス第一書および第二書と同じものではない)を省きました。その結果,承認されたラテン語ウルガタ訳に1,100年以上にわたって収められてきたこれら三つの書は,その時以降除外されることになりました。

内的証拠 これら外典の書物の内的証拠は,それが正典ではないことを明示する点で外的証拠よりさらに大きな意味を帯びています。外典の書には預言的要素が全くありません。その内容と教えはときに正典の書と相いれず,それ自体相互に矛盾してもいます。歴史また地理に関する不正確さや時代錯誤が数多く見られます。筆者たちが偽って,その著作を自分の時代より前の霊感を受けた筆者のものとする不正行為を犯している箇所もあります。彼らは異教ギリシャの影響を受けていることを示しており,霊感を受けた聖書とは全く異質の大げさな表現や文体を用いている場合もあります。筆者のうちの二人は霊感を受けていないことをほのめかしています。(「集会の書」の序文; マカベア第二 2:24-32; 15:38-40,ドウェーを参照。)したがって,外典の正典性を否定する最大の証拠は外典そのものであると言えるでしょう。個々の外典の書について以下に考慮します。

トビト(トビア)書 これはナフタリの部族の信心深いあるユダヤ人に関する話です。彼はニネベに強制移住させられ,鳥の糞が両目の中に落ちて失明します。彼は貸した金を返してもらうために息子のトビアをメディアに送りますが,トビアは人に化身したみ使いによってエクバタナ(訳によっては,ラゲス)に連れて行かれます。途中,彼は魚の心臓と肝臓と胆汁を手に入れます。そして,7度結婚したのにどの夫も婚礼の夜に悪霊のアスモデウスに殺されて,いまだに処女であるやもめと出会います。トビアはそのみ使いにうながされてこの処女のやもめと結婚し,魚の心臓と肝臓を焼いて悪霊を追い払います。家に戻った彼は,魚の胆汁を使って父の視力を回復させます。

この物語は元々アラム語で書かれたものと思われ,西暦前3世紀ごろのものと推定されています。この書が霊感を受けていないことは,物語の中に見いだされる迷信と誤りから明白です。その不正確さには次のような例があります。トビトは青年時代に北の諸部族の反乱を見たことになっていますが,それはソロモンの死後,西暦前997年に起きた出来事です(トビト 1:4,5,エルサレム)。また,その後,西暦前740年にナフタリの部族と共にニネベに強制移住させられたことになっています。(トビア 1:11-13,ドウェー)それが正しいとすると,彼は257年以上生きたことになりますが,トビア 14章1-3節(ドウェー)は,彼が死んだ時102歳であったと述べています。

ユディト書 これは「ベトゥリア」という都市に住む美しいユダヤ人のやもめの物語です。ネブカドネザルは配下の士官ホロフェルネスを西方の戦役に派遣し,ネブカドネザル自身に対する崇拝以外のものを撲滅しようとします。ユダヤ人はベトゥリアで攻囲されますが,ユディトは女性ながらユダヤ人の大義に対する謀反者を装い,ホロフェルネスの陣営に入ることを許され,そこでその都市の状況に関して偽りの報告を彼に行ないます。宴席でホロフェルネスは酒に酔い,ユディトはホロフェルネスの首を彼自身の剣ではね,その首を持ってベトゥリアに帰ります。翌朝,敵の陣営は混乱に陥り,ユダヤ人は完全な勝利を収めます。

カトリックの翻訳であるエルサレム聖書はトビト書,ユディト書,エステル記の序論の中で次のように述べています。「とりわけユディト書は歴史や地理に関して平然たる無関心さを示している」。その序論の中で指摘されている矛盾点として,その事件はネブカドネザルの治世に起きたとされ,そのネブカドネザルは「大いなる都市ニネベでアッシリア人を支配した」王と呼ばれています。(ユディト 1:1,7[1:5,10,ドウェー])この翻訳の序論と脚注は,ネブカドネザルがバビロニアの王であって,ニネベはその父ナボポラッサルによってそれ以前に滅ぼされているので,ネブカドネザルはニネベで支配したことは一度もなかった,と指摘しています。

ホロフェルネスの軍隊の旅程に関して,この序論はそれが「地理的に不可能」であると述べています。図説聖書辞典(第1巻,76ページ)は次の注釈を加えています。「この物語はまぎれもない創作である。でなければ,その不正確さは全く信じがたいであろう」― J・D・ダグラス編,1980年。

この書はギリシャ時代のパレスチナで西暦前2世紀の終わりあるいは西暦前1世紀の初めごろに書かれたと考えられており,元々ヘブライ語で記されたと信じられています。

エステル記への追加 これは六つの章句から成る追加の形を取っています。幾つかの古代ギリシャ語本文およびラテン語本文では,第1章の前に17の節から成る最初の部分が来ており(ただしドウェーではエス 11:2–12:6),モルデカイの夢と,モルデカイが王に対する陰謀を暴いたことを扱っています。3章13節の後に2番目の追加箇所があり(ドウェーでは13:1-7),ユダヤ人に対する王の勅令の本文を示しています。第4章の終わりに3番目の追加として(ドウェーでは13:8–14:19),モルデカイとエステルの祈りが記されています。4番目は5章2節の後に来ており(ドウェーでは15:1-19),エステルが王に謁見したことについて述べています。5番目は8章12節の後に出ており(ドウェーでは16:1-24),ユダヤ人に自衛の権利を許す王の勅令から成っています。この書の終わりには(ドウェーでは10:4–11:1),この外典の導入部に出て来た夢の解釈が記されています。

これらの追加がどこに置かれるかは翻訳によって異なり,書の終わりに一まとめにされている場合もあれば(ヒエロニムスの翻訳のように),正典本文の随所に分散して出て来る場合もあります。

これら外典部分の最初の箇所で,モルデカイは西暦前617年にネブカドネザルに捕らえられた捕囚の一人であったとされ,またそれより1世紀も後のアハシュエロス(ギリシャ語ではアルタクセルクセス)の第2年にはその王宮の重要人物であったとされています。モルデカイがこの王の治世のこれほど初期にそのような重要な地位を占めていたという陳述は,エステル記の正典の部分と矛盾します。外典の追加記事はエジプトのユダヤ人の作で,西暦前2世紀に書かれたものと考えられています。

(ソロモンの)知恵 これは神の知恵を求める人たちの益を称揚する論文です。知恵は天の女として擬人化されており,知恵を願うソロモンの祈りが本文中に収められています。後半部分は,アダムからカナンの征服に至る歴史を回想しており,そこから知恵による祝福と知恵の欠如による災いの実例を引き出しています。像を崇拝する愚かさも論じられています。

ソロモンの名は直接述べられてはいませんが,本文中の幾つかの箇所ではソロモンを著者であるとしています。(知恵 9:7,8,12)しかし,この書はソロモンの死(西暦前998年ごろ)ののち数世紀を経て書かれた聖書の章句を引照しており,しかもそれを西暦前280年ごろに翻訳の始まったギリシャ語セプトゥアギンタ訳から行なっています。筆者はエジプトのアレクサンドリアにいたユダヤ人と考えられ,西暦前1世紀の中ごろに記したようです。

筆者はギリシャ哲学への強い依存をにじませ,人間の魂の不滅の教理を広めるためにプラトンの用語を採用しています。(知恵 2:23; 3:2,4)ほかにも提出されている異教の考えとして,人間の魂先在の概念や,肉体が魂にとって障害または妨害となっているとする見方があります。(8:19,20; 9:15)アダムからモーセに至る歴史の出来事は多くの奇抜な詳細事項によって着色されており,しばしば正典の記録と相違を来たしています。

参考文書の中には,この外典の書物の章句と後代のクリスチャン・ギリシャ語聖書との間に幾らかの一致点を指摘するものもありますが,類似のほどはおおむね軽微で,類似の程度が多少濃いと思われる箇所でも,クリスチャンの筆者がこの外典の書を典拠としたことを示すものではありません。むしろそれは,彼らが正典のヘブライ語聖書を典拠とし,外典の筆者もそれを用いていたことを示しています。

集会の書 この書は,「シラの子イエスの知恵」とも呼ばれ,外典の書の中で最大の長編で,著者がだれであるかが知られる唯一の書であることがその特徴です。その著者はエルサレムのイエス・ベン・シラです。筆者は,知恵というものの特徴,また人生を成功させるためにそれを用いることについて説いています。律法を守る必要が大いに強調されています。食卓での作法,夢,旅行についての注解を含め,社会での行動や日常生活の広い分野に関する助言が与えられています。結びの部分は,イスラエルの重要な人物を回想し,大祭司シモン2世で終わっています。

ローマ 5章12-19節でパウロは罪の責任をアダムに帰していますが,集会の書はそれとは反対に,「女から罪は始まり,女のせいでわたしたちはみな死ぬ」と述べています。(25:33,ドウェー)筆者はまた,「どんな邪悪さも,女の邪悪さよりは」ましであるとしています。―25:19,ドウェー。

この書は元々ヘブライ語で西暦前2世紀の初めに書かれました。ユダヤ教のタルムードにはこの書からの引用文が見られます。

バルク書(エレミヤの書簡を含む) この書の最初の五つの章はエレミヤの友また書記であるバルクによって記されたかのような体裁を取っており,6章はエレミヤが自ら記した手紙の形を取っています。この書はバビロンに流刑になったユダヤ人の悔い改めのことばや救済を求める祈りを伝え,また知恵に従うようにとの勧め,救出の約束に希望を置くようにとの励まし,バビロンの偶像礼拝に対する糾弾のことばを収めています。

バルクはバビロンにいたとされていますが(バルク 1:1,2),聖書の記録は彼がエレミヤと同じくエジプトに行ったことを示しており,バルクがバビロンにいた証拠は全くありません。(エレ 43:5-7)バビロンでの流刑の間,ユダの荒廃が70年続くというエレミヤの預言(エレ 25:11,12; 29:10)に反して,バルク 6章2節は,ユダヤ人がバビロンに7世代の間とどまり,そののち釈放を経験すると告げています。

ヒエロニムスはエレミヤ書の序文の中で,「わたしは,バルクの書は翻訳する価値がないと思った」と述べています。エルサレム聖書の同書に関する序論(1128ページ)では,この作品の幾つかの部分がずっと後代の西暦前2ないし1世紀に書かれたともみなせること,したがって著者はバルク以外のだれか(一人あるいはそれ以上)という可能性のあることを示しています。原著は多分ヘブライ語で書かれたものと思われます。

三人の聖なる子たちの歌 ダニエル書へのこの追加は,ダニエル 3章23節に続く位置に置かれています。それは67節から成っており,アザリヤが火の炉の中でささげたとされる祈り,次いでひとりのみ使いが火の炎を消す模様,そして最後に炉の中で3人のヘブライ人が歌った歌を記しています。その歌は詩編 148編と非常によく似ています。しかし,神殿,祭司,ケルビムに言及している点は,それが主張する時代背景に合致しません。この部分は元々ヘブライ語で書かれたようであり,西暦前1世紀のものと考えられています。

スザンナと長老たち この短い物語は,バビロンにいた裕福なユダヤ人ヨアキムの美しい妻の生涯に起きた出来事を扱っています。スザンナが入浴している時,二人のユダヤ人の長老が近づき,自分たちと姦淫を犯すよう迫ります。それを拒まれると,その二人は彼女に関し偽りの告発をします。スザンナは裁判によって死刑を宣告されますが,ダニエルという青年が巧みにこの二人の長老の偽りを暴露して,スザンナに対する容疑は晴れます。最初に何語で書かれたかは定かではありませんが,書かれたのは西暦前1世紀と考えられています。この書は,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳では正典のダニエル書の前に,ラテン語ウルガタ訳ではダニエル書の後に置かれました。聖書のある訳は,第13章としてダニエル書の中に含めています。

ベルと龍の滅び これはダニエル書への3番目の追加で,聖書の訳によってはこれをその第14章としています。その記述によると,キュロス王はダニエルに神ベルの偶像を崇拝するよう要求します。ダニエルは神殿の床に灰をまいて足跡を検出し,偶像が食べたとされているのは実は異教の祭司たちとその家族が食べたのだということを証明します。祭司たちは殺され,ダニエルは偶像を打ち砕きます。ダニエルは生きている龍を崇拝するよう王から求められます。彼は龍を殺しますが,激怒した民衆によりライオンの穴に投げ込まれます。7日間の拘禁の間,み使いはハバククの髪をつかんでハバククと鉢1杯のシチューをユダからバビロンに運び,ダニエルに食べ物を供給させます。ハバククはその後ユダヤに帰され,ダニエルは穴から解放され,彼の敵対者たちが穴に投げ入れられて食い殺されます。この追加部分も西暦前1世紀のものと考えられています。ダニエル書へのこれらの追加は,図説聖書辞典(第1巻,76ページ)では,「宗教的伝説による潤色」であるとされています。

マカベア第一書 これは,西暦前2世紀すなわちアンティオコス・エピファネスの治世の初め(西暦前175年)からシモン・マカバイオスの死(西暦前134年ごろ)に至るまでの間,独立を勝ち取ろうとしてユダヤ人が起こした闘争の歴史的記述です。特にシリア人に対する戦いにおける祭司マタテヤとその息子たち,ユダ,ヨナタン,シモンの功績を扱っています。

この書は,この時期の歴史の情報を提供する点で,外典の書の中で最も重要な価値を有しています。しかし,ユダヤ百科事典(1976年,第8巻,243ページ)は,その中の「歴史は人間の観点から書かれている」と述べています。外典の他の書と同じく,この書も霊感によるヘブライ語正典の一部とはなりませんでした。これは西暦前2世紀後半ごろにヘブライ語で書かれたものと思われます。

マカベア第二書 マカベア第一書の後に置かれていますが,この記述は同じ期間の一部(西暦前180から西暦前160年ごろまで)を扱っています。しかし,マカベア第一書の著者によって書かれたものではありません。筆者はこの書をそれ以前に書かれたキレネのヤソンという人の幾つかの著作を要約したものであるとしています。内容はアンティオコス・エピファネス統治下のユダヤ人に対する迫害,神殿に対する略奪,その後の再献納を扱っています。

その記述によると,エルサレムの滅びの時,エレミヤは幕屋と契約の箱を,モーセがカナンを一望した山の中の洞くつに運んだことになっています。(マカベア第二 2:1-16)いうまでもなく,幕屋はそれよりも420年ほど前に神殿に置き換えられていたはずです。

本文のいろいろな箇所がカトリックの教義を支持するものとして引き合いに出されます。例えば,死後の処罰(マカベア第二 6:26),聖徒による執り成し(15:12-16),死者のための祈りがふさわしいこと(12:41-46,ドウェー)などです。

マカベア書の序論の中で,エルサレム聖書はマカベア第二書に関して次のように述べています。「文体はヘレニズムの筆者のものである。もっともそれは最善のものとは言い難い。ときにおおげさで,しばしば仰々しい書き方をしている」。マカベア第二書の筆者は神の霊感のもとに書いたと唱えてはおらず,主題の資料を扱うのに選んだ特定の方法を第2章の一部で正当化しています。(マカベア第二 2:24-32,エルサレム)彼は自分の書を次のように結んでいます。「では,ここで書き終えることにしよう。手際よく,史家の著にふさわしくまとめられているのであれば,だれよりも私の喜びである。本書の価値が乏しいとしても,私の満足に変わりはない」― マカベア第二 15:38,39,ノックス。

この書は西暦前134年から西暦70年のエルサレムの陥落までのある時期にギリシャ語で書かれたものと思われます。

後期の外典の書 特に西暦2世紀以降,神の霊感を受けた正典の書であり,クリスチャンの信仰と関係があると主張する膨大量の書物が現われました。しばしば「新約聖書外典」と呼ばれるこれらの書物には,クリスチャン・ギリシャ語聖書の正典の書に含まれている福音書,「使徒たちの活動」の書,手紙,「啓示」の書を模倣しようとする努力の跡がうかがわれます。その多くは残存している断片,あるいは他の筆者による引用また言及から知ることができるのみです。

これらの書物は,霊感を受けた書物が意図して省略した情報,例えばイエスの幼年時代からバプテスマの時に至る生涯の活動や出来事の補充を試みたり,聖書に根拠のないあるいは聖書と矛盾する教理や伝承を裏付けようとしたりしています。そのため,いわゆる「トマスによるイエスの幼時物語」や「ヤコブ原福音書」は,イエスが幼年時代に行なったとされる奇跡に関する奇想を凝らした話で満ちています。しかしそれらがイエスに関して描き出す全体像によると,イエスは人を感銘させる力を授けられた気まぐれで怒りっぽい子供という印象を受けます。(ルカ 2:51,52の真実の記録と比較。)「パウロの活動」や「ペテロの活動」など,「使徒たちの活動」の書の外典は性関係における絶対的禁欲に非常な重きを置き,夫から別れるよう使徒たちが婦人たちに勧めたとさえ記録されており,コリント第一 7章のパウロの権威ある助言と矛盾します。

「注釈者の聖書辞典」(第1巻,166ページ)は使徒たちの時代以後のこのような外典の書物に関してこう述べています。「その多くは取るに足りないものであり,あるものは過度に芝居じみ,あるものは嫌悪感,いや,憎悪の念をさえ覚えさせる」。(G・A・バトリク編,1962年)「フンクとワグナルズの新標準聖書辞典」(1936年,56ページ)はこう評しています。「それらは宗教説話や教会伝承の豊かな源となってきた。ローマ・カトリック教会の教義のあるものに関しては,これらの書にその起源を求めなければならない」。

それ以前の外典の書物がキリスト教以前の公認されたヘブライ語聖書からは除外されたのと同じように,これら後期の外典文書も,霊感によるものとしては受け入れられず,クリスチャン・ギリシャ語聖書の最初期の収集や目録の中にも正典としては含められませんでした。―「正典」を参照。