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祭壇

祭壇

(さいだん)(Altar)

基本的には,真の神あるいは神とされる他のものへの崇拝において,犠牲をささげたり香をたいたりするために高く築かれた構造物もしくは場所。ヘブライ語のミズベーアハ(祭壇)はザーヴァハ(ほふる; 犠牲をささげる)という語根動詞に由来しており,それゆえ基本的には,ほふったり犠牲をささげたりする場所を指しています。(創 8:20; 申 12:21; 16:2)同様に,ギリシャ語のテュシアステーリオン(祭壇)も,やはり「ほふる; 犠牲をささげる」を意味する語根の動詞テュオーに由来しています。(マタ 22:4; マル 14:12)ギリシャ語のボーモスは,偽りの神の祭壇に言及する語です。―使徒 17:23

祭壇のことが最初に出て来るのは,大洪水後,『ノアがエホバのために祭壇を築きはじめ』,その上で焼燔の捧げ物をささげた時のことです。(創 8:20)大洪水以前の捧げ物についてはカインとアベルの例しか述べられていません。これら二人が祭壇を使用したことは十分に考えられますが,実際にそうしたかどうかは記されていません。―創 4:3,4

アブラハムは祭壇をシェケムに(創 12:7),ベテルとアイの中間地に(創 12:8; 13:3),ヘブロンに(創 13:18),そして恐らくモリヤ山にも築きました。モリヤ山上では,神によりイサクの代わりに与えられた雄羊を犠牲としてささげています。(創 22:9-13)アブラハムが祭壇上に犠牲をささげたとはっきり述べられているのはこの最後の例だけですが,ヘブライ語の基本的な意味から言えば,いずれの場合にも犠牲をささげる行為が伴ったものと考えられます。イサクは後にベエル・シェバに祭壇を築き(創 26:23,25),ヤコブはシェケムとベテルに祭壇を築きました。(創 33:18,20; 35:1,3,7)族長たちが作ったこれらの祭壇は,後に律法契約の中で神が語られたものと恐らく同じ形式の,土を盛り上げたものか,自然石(切り石でない石)を積み上げた壇であったようです。―出 20:24,25

モーセはアマレクに対する勝利を収めた後に祭壇を造り,それをエホバ・ニシ(エホバはわたしの旗ざお)と名づけました。(出 17:15,16)イスラエルとの律法契約が締結された際,モーセはシナイ山のふもとに祭壇を築いて,その上に犠牲をささげました。その犠牲の血が祭壇と書と民の上に振り掛けられて契約は発効し,効力を持つようになりました。―出 24:4-8; ヘブ 9:17-20

幕屋の祭壇 幕屋の造営の際,神から示された型にしたがって二つの祭壇が造られました。焼燔の捧げ物の祭壇(「銅の祭壇」[出 39:39]とも呼ばれた)はアカシアの木で空洞の大箱の形に造られましたが,これには上面も底もなかったようです。それは2.2㍍四方で高さは1.3㍍あり,上側の四隅からは「角」が突き出ていました。その表面にはすべて銅がかぶせられていました。銅の格子つまり網細工が祭壇のへりより下,「内側の下方」,「中央のほう」に置かれていました。四つの突端の,格子細工に近いあたりに四つの輪が取り付けられていましたが,それらは,祭壇の運搬時に,銅をかぶせた2本のアカシアの木のさおを通したのと同じ輪だったようです。そうであれば,この祭壇の二つの側面に細長いすき間が設けられ,そこに平らな格子細工を,輪が両側に突き出るように差し込んだのかもしれません。その点については学者の間でもかなり意見の相違があります。多くの人は,二組の輪があって,二組目の輪は運搬用のさおを差し入れるものとして祭壇の外側に直接取り付けられていたのであろうと考えています。灰を処理する缶とシャベル,動物の血を入れる鉢,肉を扱う肉刺し,火取り皿など,銅の道具類も造られました。―出 27:1-8; 38:1-7,30; 民 4:14

焼燔の捧げ物のためのこの銅の祭壇は幕屋の入口の前に置かれました。(出 40:6,29)この祭壇はそれほど高くなかったので,近づくための手段は必ずしも必要ではありませんでしたが,中に置かれた犠牲を楽に扱えるよう,祭壇の周囲の地面が高くされるか,祭壇に近づく斜道が設けられていたのではないかと思われます。(レビ 9:22と比較。そこには,アロンが捧げ物をしてから「下りて来た」と記されている。)動物は『祭壇のわき,その北側で』犠牲にされ(レビ 1:11),祭壇から取り出した「脂灰のための場所」は東側に(レビ 1:16),身を洗うための銅の水盤は西側に置かれましたから(出 30:18),論理的に言って,祭壇に近づくそうした手段を置くために残されているのは南側になります。

香の祭壇 香の祭壇(「金の祭壇」[出 39:38]とも呼ばれた)もアカシアの木で造られ,上面と側面には金がかぶせてありました。上面の周回には金の縁取りが施してありました。この祭壇の大きさは44.5㌢四方,高さ89㌢で,上の四隅からはやはり「角」が突き出ていました。運搬用の,金をかぶせたアカシアの木のさおを差し入れる二つの金の輪が作られ,祭壇の二つの向き合う側,金の縁取りの下方に取り付けられました。(出 30:1-5; 37:25-28)この祭壇の上では日に2回,朝と夕に特別の香がたかれました。(出 30:7-9,34-38)香をたくために香炉や火取り皿が使用されたことを述べている箇所もあり,それらのものも香の祭壇に関連して用いられたようです。(レビ 16:12,13; ヘブ 9:4; 啓 8:5。代二 26:16,19と比較。)香の祭壇の置かれた位置は幕屋の中,至聖所の垂れ幕のすぐ前で,そのため,それは「証の箱の前」にあると言われました。―出 30:1,6; 40:5,26,27

幕屋の祭壇の聖化と使用 任職の儀式の際,これら二つの祭壇は共に油を注がれて神聖にされました。(出 40:9,10)その際,その後にささげられた特定の罪の捧げ物のための犠牲と同じように,犠牲にされる動物の血が焼燔の捧げ物の祭壇の角に付けられ,その血の残りは祭壇の基部に注がれました。(出 29:12; レビ 8:15; 9:8,9)任職の儀式の終わりごろには,アロンとその子らを神聖なものとするため,そそぎ油と祭壇上の血が幾らか彼らとその衣にはね掛けられました。(レビ 8:30)焼燔の捧げ物の祭壇を神聖なものとするには全部で7日かかりました。(出 29:37)他の焼燔の捧げ物,共与の犠牲,罪科の捧げ物などにおいて,血は祭壇の上に振り掛けられ,鳥類が犠牲としてささげられた場合,その血は祭壇の側面にはね掛けられるか流し出されるかしました。(レビ 1:5-17; 3:2-5; 5:7-9; 7:2)穀物の捧げ物はエホバに対する「安らぎの香り」として祭壇上で燃やして煙にされました。(レビ 2:2-12)穀物の捧げ物の残りの部分は大祭司とその子らが祭壇の傍らで食べました。(レビ 10:12)毎年,贖罪の日になると,大祭司は犠牲にされる動物の血を幾らか祭壇の角に付け,それを祭壇上に7回はね掛けることによって祭壇を清め,神聖なものとしました。―レビ 16:18,19

動物の犠牲が差し出された場合,必ずその動物の一部は祭壇上で燃やされて煙にされました。そして,その目的のために祭壇上には火が保たれ,火が消えてしまうことは決して許されませんでした。(レビ 6:9-13)香をたくための火もここから取られました。(民 16:46)祭壇での奉仕を許されたのは,アロンとその子孫のうち欠陥のない人々だけでした。(レビ 21:21-23)他のレビ人たちは援助者であったに過ぎません。アロンの胤に属する者でないのに近づく人がいれば,その人は死に処されることになっていました。(民 16:40; 18:1-7)コラとその集会の人々はこの神の割り当てに対する認識を持たなかったために滅びを被り,その人々が手にしていた銅の火取り皿は薄い金属板に変えられて祭壇に張られ,アロンの子孫でない者はだれも近づいてはならないことのしるしとされました。―民 16:1-11,16-18,36-40

金の香の祭壇についても,年に一度犠牲の血をその角に付けることによって贖罪が行なわれました。これ以外にこの祭壇に対してそのような措置が取られたのは,祭司職に属する人々のために罪の捧げ物がささげられた時です。―出 30:10; レビ 4:7

コハトの子らの手で運搬される場合,香の祭壇にも焼燔の捧げ物の祭壇にも覆いが掛けられました。前者は青布とあざらしの皮で,後者は赤紫の羊毛地とあざらしの皮で覆われました。―民 4:11-14。「幕屋」を参照。

神殿の祭壇 ソロモンの神殿が献納されるまで,荒野で造られた銅の祭壇はギベオンの高き所に置かれてイスラエルのささげる犠牲のために使用されました。(王一 3:4; 代一 16:39,40; 21:29,30; 代二 1:3-6)神殿のために後に造られた銅の祭壇は幕屋のために造られたものの16倍の面積を占め,約8.9㍍四方,高さは約4.5㍍もありました。(代二 4:1)この高さから考えて,祭壇に近づく何らかの手段がどうしても必要でした。神の律法は,裸をさらすことのないよう祭壇に踏み段を設けることを禁じていました。(出 20:26)中には,アロンとその子らが亜麻布の股引きを着用したことによってこの命令は不要になり,踏み段の使用は許されるようになったと考える人もいます。(出 28:42,43)しかし,焼燔の捧げ物の上面に達するため,斜道が用いられたと見ることができるようです。ヨセフス(ユダヤ戦記,V,225 [v,6])は,後代にヘロデが建てた神殿の祭壇にその種の接近手段が使用されたことを示唆しています。神殿における祭壇の配置が幕屋における配置に従ったものであれば,恐らくその斜道は祭壇の南側にあったことでしょう。そうであれば,祭司たちが体を洗った「鋳物の海」は都合の良い場所にあったことになります。それも南側に据えられていたからです。(代二 4:2-5,9,10)神殿のために造られた祭壇は他の点では幕屋の祭壇の形式に倣っていたようですが,その詳細な仕様は述べられていません。

その祭壇はモリヤ山上の,ダビデが先に一時的な祭壇を据えた所に設置されました。(サム二 24:21,25; 代一 21:26; 代二 8:12; 15:8)そこはまた,アブラハムがイサクをささげようとした場所であるとも言い伝えられています。(創 22:2)犠牲にされる動物の血は祭壇の基部に注ぎ出されたので,その血を神殿域の外に流し出すための水道のようなものが設けられていたようです。ヘロデの神殿にはその種の水道があって祭壇の南西隅の角につながっていたと伝えられており,神殿域の岩には,キデロンの谷に至る地下水路の開口部が発見されています。

神殿のための香の祭壇は杉材で造られましたが,この点だけは幕屋の香壇と異なっていたようです。この祭壇もまた金で覆われていました。―王一 6:20,22; 7:48; 代一 28:18; 代二 4:19

神殿の奉献式の時,ソロモンの祈りは焼燔の捧げ物の祭壇の前でささげられ,その祈りの結びに天から火が下って祭壇上の犠牲を焼き尽くしました。(代二 6:12,13; 7:1-3)この銅の祭壇は面積が79平方㍍を超えていたにもかかわらず,その時ささげられた膨大な量の犠牲を入れるには小さ過ぎたので,中庭の一部がその目的のために神聖にされました。―王一 8:62-64

ソロモンの治世の後半およびレハベアムとアビヤムの治世中に焼燔の捧げ物の祭壇はなおざりにされました。そのためアサ王はそれを一新する必要を認めました。(代二 15:8)ウジヤ王は金の香の祭壇上で香をたこうとしたためにらい病に打たれました。(代二 26:16-19)アハズ王は焼燔の捧げ物のための銅の祭壇を一方の側に移動させて,その場所に異教の祭壇を据えました。(王二 16:14)しかし,その子ヒゼキヤは銅の祭壇とそれに伴う器具を清めさせ神聖にして,再び使用できるようにしました。―代二 29:18-24,27。「神殿」を参照。

流刑後の祭壇 流刑から帰還した人々がゼルバベルと大祭司エシュアのもとでエルサレムに最初に築いたのは,焼燔の捧げ物のための祭壇でした。(エズ 3:2-6)やがて新しい香の祭壇も造られました。

シリアの王アンティオコス・エピファネスは金の香の祭壇を持ち去り,その2年後(西暦前168年)にはエホバの大きな祭壇の上に別の祭壇を築いてゼウスへの犠牲をそこでささげました。(マカベア第一 1:20-64)その後ユダ・マカバイオスは,切り石でない石を使って新しい祭壇を造り,香の祭壇も復元しました。―マカベア第一 4:44-49。

ヘロデの神殿に置かれた焼燔の捧げ物の祭壇も切り石でない石で造られましたが,ヨセフス(ユダヤ戦記,V,225 [v,6])によると,それは50キュビト平方で,高さは15キュビトでした。ただし,ユダヤ教のミシュナ(ミドット 3:1)はそれより小さな数値を挙げています。ですから,イエスが当時言及されたのはこの祭壇でした。(マタ 5:23,24; 23:18-20)この神殿の香壇に関する説明はありませんが,ルカ 1章11節はヨハネの父ゼカリヤに現われたみ使いが香壇の右に立ったことを示しています。

エゼキエルの神殿の祭壇 エゼキエルが幻で見た神殿においても,焼燔の捧げ物のための祭壇は,同じように神殿の前に位置していましたが(エゼ 40:47),以前の祭壇とは形状が異なっていました。その祭壇は,段階的に奥に入り込む,つまり後退する幾つかの区分から成っていました。その寸法は長キュビト(51.8㌢)の単位で示されています。その祭壇の基部は厚さ1キュビトで,その上面の周囲の縁飾りとして,注がれた血を受け止めるためであったと思われますが,一指当たり(恐らく26㌢)の「縁」が付いていて,一種の溝もしくは流路となっていました。(エゼ 43:13,14)その基部の上,しかし,基部の外辺から1キュビト内側に第2の部分があり,その高さは2キュビト(約104㌢)でした。第3の部分はさらに1キュビト内側に入り,高さは4キュビト(約207㌢)ありました。これにも周囲に半キュビト(約26㌢)の縁飾りがあり,第2の流路もしくは保護用の棚状突起となっていたようです。最後に,祭壇の炉床がさらに4キュビト上に伸び,その下の部分よりやはり1キュビト内側に退いていて,4本の「角」がそれから出ていました。祭壇の炉床へは,東側に付けられた階段によって近づくことができました。(エゼ 43:14-17)荒野で造られた祭壇の場合と同じように,贖罪と任職のために7日の期間を守らなければなりませんでした。(エゼ 43:19-26)ニサンの1日には,祭壇および聖なる所の他の部分のために年ごとの贖罪が行なわれることになっていました。(エゼ 45:18,19)エゼキエルが見たいやしの水の川は神殿から東方に流れ,祭壇の南側を通っていました。―エゼ 47:1

この幻の中には香の祭壇という名称は出て来ません。しかし,エゼキエル 41章22節にある「木の祭壇」に関する描写,特にそれが「エホバの前にある食卓」と呼ばれていることは,これが供えのパンの食卓よりも,むしろ香の祭壇に相当することを示しています。(出 30:6,8; 40:5; 啓 8:3と比較。)この祭壇は高さが3キュビト(約155㌢)あり,2キュビト(約104㌢)四方であったと思われます。

他の祭壇 大洪水後の人々は清い崇拝の面でノアと同じようには歩み続けなかったので,偽りの崇拝のために多くの祭壇が造られるようになりました。また,カナン,メソポタミア,その他の場所の発掘調査から,そのような祭壇がごく早い時期から存在したことが分かります。バラムはイスラエルにのろいを下らせようとして,三つの異なった場所に次々と七つの祭壇を築かせましたが,その企ては失敗しました。―民 22:40,41; 23:4,14,29,30

イスラエル人は,すべての異教の祭壇を打ち壊し,通例はその傍らに設けられていた聖柱や聖木を破壊するようにと指示されました。(出 34:13; 申 7:5,6; 12:1-3)彼らはそうしたものを決して模倣してはならず,カナン人のように自分の子供を火によってささげてもなりませんでした。(申 12:30,31; 16:21)イスラエルは多数の祭壇ではなく,唯一まことの神を崇拝するためのただ一つの祭壇を持つべきであり,その祭壇はエホバのお選びになる場所に置かれることになっていました。(申 12:2-6,13,14,27。バビロンの場合と対比。そこには女神イシュタルのためだけでも180の祭壇があった。)イスラエルは初め,ヨルダン川を渡った後に切り石でない石で祭壇を造るように指示されましたが(申 27:4-8),それはヨシュアによりエバル山上に築かれました。(ヨシュ 8:30-32)征服した土地の分割後,ルベンとガドの部族およびマナセの半部族はヨルダンのそばに人目を引く祭壇を造りました。その祭壇が背教のしるしではなく,真の神エホバに対する忠実さの記念であることが確認されるまで,この出来事は他の諸部族の間に一時的な危機を引き起こしました。―ヨシュ 22:10-34

ほかにも幾つかの祭壇が造られましたが,それらは特別の場合のために築かれたもので,常時用いるためのものではなかったようです。大抵はみ使いの出現にちなんで,あるいはみ使いの指示にしたがって築かれました。ボキムに置かれた祭壇,ギデオンやマノアの造った祭壇はその例です。(裁 2:1-5; 6:24-32; 13:15-23)ベニヤミン族の消滅を防ぐ方策を考えた際に民がベテルに祭壇を建てた記録がありますが,それが神の是認を受けたものであったか,あるいは,ただ「自分の目に正しく見えるところを各自が行なっていた」例にすぎなかったのかは明示されていません。(裁 21:4,25)神の代表者としてサムエルはミツパで犠牲をささげ,またラマに祭壇を築きました。(サム一 7:5,9,10,17)これは,契約の箱が取り去られた後,もはやシロの幕屋にはエホバの臨在が明示されなくなったためだったのかもしれません。―サム一 4:4,11; 6:19-21; 7:1,2。詩 78:59-64と比較。

一時的な祭壇の使用 一時的な祭壇が築かれた例は幾つかあります。例えば,サウルはギルガルで犠牲をささげ,またアヤロンに祭壇を築きました。(サム一 13:7-12; 14:33-35)前者の場合,サウルはサムエルが犠牲をささげるのを待たなかったことでとがめられましたが,その場所が犠牲をささげる場所としてふさわしいかどうかは考慮されませんでした。

ダビデは,自分が新月の日にサウルの設けた食卓に参席しないのは,ベツレヘムで行なわれる年ごとの家族の犠牲礼に出るためだと説明するようヨナタンに指示しました。しかし,これは口実でしたから,そのようなものが実際に執り行なわれたかどうかは確言できません。(サム一 20:6,28,29)後に,ダビデは王としてアラウナ(オルナン)の脱穀場に祭壇を設けましたが,それは神の命令によるものでした。(サム二 24:18-25; 代一 21:18-26; 22:1)ソロモンが『祭壇の上に犠牲をささげた』という列王第一 9章25節の記述は明らかに,権限を付与された祭司を通してそれを行なわせたことを意味しています。―代二 8:12-15と比較。

エルサレムに神殿が設立されると共に,祭壇は今や明確に『あなた方の神エホバが選ばれる場所,あなたが来なければならない場所』に存在するようになったようです。(申 12:5)エリヤがバアルの祭司たちと行なった火による試みの際,カルメル山上で使用した祭壇を別にすれば(王一 18:26-35),今や背教による場合以外には,他に祭壇が設けられることはなくなりました。ソロモン自ら,異国の妻たちの影響によってそのような背教の罪をおかした最初の人となりました。王一 11:3-8)新たに造られた北王国のヤラベアムは,エルサレムの神殿に行く自分の臣民の気をそらそうとして,ベテルとダンに祭壇を設けました。(王一 12:28-33)その時一人の預言者は,ユダの王ヨシヤの治世中にベテルの祭壇をつかさどる祭司たちが殺され,それら死者の骨がその祭壇上で焼かれるであろうと予告しました。しるしとしてその祭壇は二つに裂け,その預言は後に完全に成就しました。―王一 13:1-5; 王二 23:15-20。アモ 3:14と比較。

イスラエルのアハブ王の支配中に異教の祭壇が盛んに造られました。(王一 16:31-33)ユダのアハズ王の時代には,多くの「高き所」があり,「エルサレムのすべての街角に」祭壇がありました。(代二 28:24,25)マナセはエホバの家の中に幾つかの祭壇を造り,神殿の中庭に『天の軍』を崇拝するための祭壇を築くことまでしました。―王二 21:3-5

忠実な王たちが時折,偶像礼拝のためのそのような祭壇を打ち壊しはしましたが(王二 11:18; 23:12,20; 代二 14:3; 30:14; 31:1; 34:4-7),エルサレムの陥落に先立って,エレミヤはなおもこう述べることができました。「ユダよ,あなたの神々はあなたの都市と同じほど多くなった……。あなた方は恥ずべきもののために,エルサレムの街路と同じほど多くの祭壇を置いた。バアルに犠牲の煙を立ち上らせるための祭壇である」― エレ 11:13

流刑の期間と使徒時代 流刑の期間中,上エジプトのエレファンティンに逃げたユダヤ人はその地に神殿と祭壇を設立したことが,エレファンティン・パピルスに示されています。また,数世紀後,レオントポリスの近くに住んだユダヤ人も同じようにしました。(ユダヤ古代誌,XIII,62-68 [iii,1]; ユダヤ戦記,VII,420-432 [x,2,3])この後者の神殿と祭壇は,イザヤ 19章19,20節の成就を図った祭司オニアスによって建てられたものです。

西暦紀元後,使徒パウロはアテネの人々に話した際,「知られていない神に」と書き込まれた祭壇に言及しました。(使徒 17:23)この記述を裏付ける歴史的情報は豊富に存在しています。テュアナのアポロニオスはパウロの少し後にアテネを訪ねた人ですが,次のように述べたと言われています。「すべての神々を良く言うことは,大いに知恵と穏健さのある証拠である。とりわけ,知られていない神々にまで敬意を表して建てられた祭壇のあるアテネにあってはそう言える」。(フィロストラトス,「テュアナのアポロニオス伝」,VI,III)西暦2世紀の地誌学者パウサニアスは,ファレロン湾の港からアテネ市に行く道路沿いに,「“知られていない”という名の神々と英雄たちの祭壇」を見たと伝えています。彼はまた,オリンピアの「“知られていない神々”の祭壇」についても述べています。(「ギリシャ案内誌」:アッティカ,I,4; エリス I,XIV,8)1909年にはペルガモンのデメテル神殿の境内からも同様の祭壇が発見されています。

祭壇の意義 ヘブライ 8,9章の中で,使徒パウロは,幕屋と神殿での奉仕に関連したすべての事柄に予型的な意味のあったことをはっきり示しています。(ヘブ 8:5; 9:23)二つの祭壇の意義はクリスチャン・ギリシャ語聖書中にある情報によって明らかにされています。焼燔の捧げ物の祭壇は神の「ご意志」,つまりご自分の独り子の完全な人間の犠牲を喜んで受け入れる態度を表わしていました。(ヘブ 10:5-10)それが聖なる所への入口の前に位置していたことは,神に受け入れていただくための必要条件として,その贖いの犠牲に対する信仰が求められることを強調しています。(ヨハ 3:16-18)犠牲の祭壇を一つだけにとどめておくことが強調されましたが,それは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」というキリストの言葉とも,クリスチャンの信仰に一致が表わされていなければならないことを述べる多くの聖句とも調和しています。―ヨハ 14:6; マタ 7:13,14; コリ一 1:10-13; エフェ 4:3-6。また,あらゆる国の民が神の祭壇に来ると述べるイザヤの預言,イザ 56:7; 60:7に注目。

注目すべき点として,ある人々は祭壇に逃げ,その角をつかんで保護を得ようとしましたが,神の律法の規定によれば,故意の殺人者が「わたしの祭壇のところにいようとも」,その者を捕らえて「死に至らせる」ことになっていました。(出 21:14。王一 1:50-53; 2:28-34と比較。)詩編作者はこう歌いました。「エホバよ,わたしは全き潔白のうちにわたしの手を洗い,あなたの祭壇を巡ります」― 詩 26:6

自称クリスチャンたちは,文字通りの祭壇を造るための根拠としてヘブライ 13章10節を用いますが,文脈に示されているように,そこでパウロが述べている「祭壇」は象徴的なものであり,文字通りのものではありません。(ヘブ 13:10-16)マクリントクおよびストロング共編「百科事典」(1882年,第1巻,183ページ)は初期のクリスチャンについてこう述べています。「古代の弁明者たちは神殿も祭壇も礼拝堂も持っていないことを攻撃されたが,彼らは『礼拝堂も祭壇も我々は持たない』と答えるだけであった」。M・R・ビンセントの「新約聖書の語彙研究」(1957年,第4巻,567ページ)はヘブライ 13章10節について注解し,こう述べています。「クリスチャンの経綸のうちに祭壇に対応する何らかの具体的事物を見いだそうとすることは誤りである。十字架も,聖餐台も,キリスト自身もそれではない。むしろ,犠牲,贖罪,免罪と受容,救いなど,神に近づくことに関する種々の概念が包括され,表象としての祭壇のうちに総合的に表わされている。それはユダヤ人の祭壇がこれらすべての概念の集約点であったのと同じである」。ヘブライ人の預言者たちは祭壇を増やすことを厳しくとがめました。(イザ 17:7,8)ホセアはエフライムが「罪をおかすために祭壇を増し加えた」と述べました。(ホセ 8:11; 10:1,2,8; 12:11)エレミヤは,ユダの罪は「彼らの祭壇の角に刻み込まれている」と語りました。(エレ 17:1,2)エゼキエルは偽りの崇拝者たちが「祭壇の周囲」でほふられることを予告しました。(エゼ 6:4-6,13

また,預言の中で神の裁きの表明は真の祭壇と結び付けられています。(イザ 6:5-12; エゼ 9:2; アモ 9:1)神のために証しをしてほふられた人々の魂は,「祭壇の下」から象徴的にこう叫んでいます。「聖にして真実な,主権者なる主よ,あなたはいつまで裁きを控え,地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておられるのでしょうか」― 啓 6:9,10。啓 8:5; 11:1; 16:7と比較。

啓示 8章3,4節では,金の香の祭壇と義なる者の祈りとが明確に結び付けられています。ユダヤ人の間では「香をささげる時刻」に祈りをすることが習慣になっていました。(ルカ 1:9,10。詩 141:2と比較。)香をささげるための祭壇がただ一つであったことも,神に近づく道は一つであるとクリスチャン・ギリシャ語聖書に述べられていることに対応します。―ヨハ 10:9; 14:6; 16:23; エフェ 2:18-22。「捧げ物」を参照。