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臨在,共にいること,存在すること

臨在,共にいること,存在すること

(りんざい,ともにいること,そんざいすること)(Presence)

「臨在」と訳されている元のギリシャ語はパルーシアで,これはパラ(傍らに)とウーシア(いること; 「いる」を意味するエイミから派生)から成る語です。したがって,パルーシアは,字義通りには「傍らにいること」,すなわち「臨在」を意味します。この語は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で24回使われており,メシアによる王国に関連したキリストの臨在を指す場合が少なくありません。―マタ 24:3。新世,付録,1768,1769ページを参照。

この語については,様々な訳語を充てている翻訳が少なくありません。そうした翻訳は,ある聖句ではパルーシアを「臨在」と訳しても,もっと多くの箇所では「到来」と訳しています。これは,キリスト・イエスに関する「第二の到来」や「再臨」という表現(ラテン語ウルガタ訳は,マタ 24:3のパルーシアにアドウェントゥス[「来臨」あるいは「到来」]という訳語を充てている)の根拠になってきました。イエスの臨在には当然,イエスの臨在する場所への到着という意味合いが含まれていますが,パルーシアを「到来」と訳すなら,到着だけに強調が置かれ,到着の後に続く臨在が不明瞭になります。辞書編集者たちは一般に,パルーシアの訳語として「到着」と「臨在」の両方を許容しているものの,その語が伝える主要な概念は,人の臨在であるという点を認めています。

「バインの旧新約聖書用語解説辞典」(1981年,第1巻,208,209ページ)はこう述べています。「パルーシアは……到着,およびその結果としての臨在の両方を意味する。例えば,ある婦人は[ギリシャ語で書かれた]パピルスの手紙の中で,ある場所にあった自分の財産に関係した事柄を処理するため,そこでの自分のパルーシアが必要であると述べている。……その語は,教会が天に運び去られる時のキリストの再来に関して用いられる場合,単にキリストが聖徒たちのために瞬間的に到来することだけではなく,キリストがその瞬間から,世界に表わし示される顕現の時まで聖徒たちと共に臨在することを意味している」。リデルとスコットの「希英辞典」(H・ジョーンズ改訂,オックスフォード,1968年,1343ページ)によれば,パルーシアは一般のギリシャ文学の中で,「王室や政府の要人の訪問」という意味で使われることがあります。

一般のギリシャ語文献も,このギリシャ語の意味を見定める上で確かに役に立ちます。しかし,それよりもはるかに有効なのは,聖書そのものにおけるその語の用法です。例えば,パウロはフィリピ 2章12節で,フィリピのクリスチャンは,「わたしのいる[パルーシアーイ]時だけでなく,わたしのいない[アプーシアーイ]今いよいよ進んで」従っていると述べています。それにパウロは,コリント第二 10章10,11節で,「彼の手紙は重々しくて力強いが,身をもってそこにいる[パルーシア]様は弱々しく,その話し方は卑しむべきものだ」と言った人々に言及した後,「そのような人はこのことを考慮に入れるべきです。すなわち,離れている[アポンテス]ときの手紙の言葉におけるわたしたちと,共にいる[パロンテス]ときの行動におけるわたしたちとは同じであるということです」と付け加えました。(また,フィリ 1:24-27と比較。)ですから,ここで対比されているのは,いることと,いないことであって,到着(到来)と出発ではありません。

この点を考慮に入れ,J・B・ロザハムのエンファサイズド・バイブルは,付録(271ページ)の中でこう述べています。「この版では,パルーシアという語は一貫して“presence”[臨在,いること]と訳されている(この語の訳語として,“coming”[到来]は除外されている)。……“presence”の意味は,“absence”[いないこと]との対比によって,非常に明確に[示される]ので,……その語をいつでもそのように訳さないのはなぜかという疑問が当然生じる」。

イエスのパルーシアが,単に瞬間的に到来し,その後直ちに出発することではなく,むしろある期間を包含する臨在であるということは,マタイ 24章37-39節やルカ 17章26-30節に記録されているイエスの言葉からも分かります。そこでは,「ノアの日」が「人の子の臨在」(ルカの記述では,「人の子の日」)と比較されています。したがってイエスは,ご自分の「臨在」または「日」がノアの日と同じような最高潮を迎えることを示してはいますが,その比較をノアの日の最終的な最高潮としての大洪水の到来だけに限定しておられるわけではありません。「ノアの日」は実際に幾年もの期間を包含していたので,予告されていた「人の子の臨在[または「日」]」も同様に,救出を求める機会を与えられても注意を払わない者たちの滅びのときに最高潮を迎える,ある程度の長さの期間を包含していると考えるだけの根拠があります。

キリストの「パルーシア」の性質 パルーシア,つまり臨在は,もちろん目に見える場合があり,この語は6か所で,それぞれステファナ,フォルトナト,アカイコ,テトス,パウロといった人々が人間として共にいる目に見える状態を指しています。(コリ一 16:17; コリ二 7:6,7; 10:10; フィリ 1:26; 2:12)パルーシアが目に見えない場合もあるという点は,パウロが関連のある動詞形(パレイミ)を使い,体においてはそこにいなくても『霊においてはそこにいる』と述べていることから分かります。(コリ一 5:3)それにまた,ユダヤ人の歴史家ヨセフスはギリシャ語で記した書物の中で,シナイ山における神のパルーシア,すなわち雷と稲妻によって明示された,神の見えない臨在に言及しています。―ユダヤ古代誌,III,80(v,2)。

目に見えない臨在に聖書的な根拠があることは,エホバ神が幕屋の至聖所の契約の箱に関してモーセに言われた言葉,つまり,「そして,わたしはそこであなたに臨み,覆いの上方から……あなたに話す」という言葉によっても裏付けられます。(出 25:22)神の臨在は,目に見えるものではありませんでした。聖書は,モーセや至聖所に入った大祭司を含め,「いまだ神を見た人はいない」とはっきり述べているからです。(ヨハ 1:18; 出 33:20)ソロモン王がエルサレムの神殿を奉献した時,「エホバの栄光」の雲がその家に満ちました。ソロモンは,エホバは『神殿に住まわれる』方であると述べました。しかし,ソロモンは自らこうも言いました。「それにしても,神は本当に地の上に住まわれるでしょうか。ご覧ください,天も,いや,天の天も,あなたをお入れすることはできません。まして,私の建てたこの家など,なおさらのことです!」 しかし,神の目は,その家に向かっていつも開かれ,その家でなされる祈りは,「[神]の住んでおられる場所,すなわち天で」,神によって聞き届けられます。―王一 8:10-13,27-30。使徒 7:45-50と比較。

これらの記述が例証しているとおり,神は実際には天におられるにしても,霊的な(したがって,目に見えない)仕方で地上に『臨在する』ことがおできになります。神の臨在は,神に代わって行動したり話したりする,み使いという代表者によってなされる場合もあります。そのようなみ使いは,燃える茂みの中に現われてモーセに話しかけたみ使いのように,「わたしはあなたの父の神」であると述べることさえあります。(出 3:2-8。出 23:20; 32:34と比較。)それにまた,エホバはモーセに,わたしはシナイ山でモーセに「臨(み)」,その山に「下る」と言われましたが(出 19:9,11,18,20),使徒の記した書によると,神がそこに臨在してモーセに契約を伝えたのは,実際にはみ使いたちを通してであったことが分かります。―ガラ 3:19; ヘブ 2:2。「顔,面」を参照。

エホバによって復活させられたみ子イエス・キリストが「天と地におけるすべての権威」を与えられており,「[神の]存在そのものの厳密な描出」であることからすると,当然の結果として,み子にとっても同じような目に見えない臨在は可能であるはずです。(マタ 28:18; ヘブ 1:2,3)この点で注目できるのは,イエス・キリストは地上におられた時でさえ,遠く離れた所から,まるでご自分がその場にいるかのように人々をいやすことがおできになったということです。―マタ 8:5-13; ヨハ 4:46-53

さらに明らかな点として,エホバ神は,栄光を受けたみ子の指揮下にみ使いたちを服させておられます。(ペテ一 3:22)イエスの臨在について述べる聖句は決まって,イエスがみ使いの軍勢を『伴う』方,あるいは「使いたちを遣わ(す)」方であると説明しています。(マタ 13:37-41,47-49; 16:27; 24:31; マル 8:38; テサ二 1:7)しかし,だからといって,王国の権能と栄光を持たれるイエスの予告されていた臨在は,使者や代理者としてのみ使いを地的な任務に用いるというだけのことではありません。そのようなことは,使徒たちや他の人々に関連して,1世紀の昔にもすでに行なわれていたからです。(使徒 5:19; 8:26; 10:3,7,22; 12:7-11,23; 27:23)イエスのたとえ話や他の聖句が示すところによれば,イエスの臨在は,家族のもとに戻って来る主人,あるいは王権を得て自分の領土を支配するために戻って来る人の臨在に似ており,イエスの臨在のときには,個人的な検分や裁きが行なわれてから,その裁きが積極的に表明もしくは執行され,是認された人々に報いが与えられます。(マタ 24:43-51; 25:14-45; ルカ 19:11-27。マタ 19:28,29と比較。)イエスの王権には全地が含まれているので,イエスの臨在は地球的な規模のものであり(マタ 24:23-27,30と比較),コリント第一 15章24-28節の霊感によるパウロの言葉や,「啓示」の書の中のキリストの統治に言及している箇所(5:8-10; 7:17; 19:11-16; 20:1-6; 21:1-4,9,10,22-27)などからすると,キリストの臨在は,キリストが全地とその全住民に十分の注意を向け,地球とその住民に対するみ父のご意志を成し遂げるために,自分の王としての力を最大限に発揮する時であるということになります。―マタ 6:9,10と比較。

中には,イエスが「大いなる力と栄光を伴い,雲のうちにあって来る」のが見えるという聖句を根拠に(マル 13:26; 啓 1:7),イエスの臨在は目に見えるに違いないと結論する人々がいます。しかし,「」(例えとしての用法)の項のもとで示されているように,神の他の顕現に関連した雲という語の用法が示唆しているのは,可視性ではなく,むしろ不可視性です。それにまた,「見る」ということも,比喩的な視覚,つまり思いと心による知覚を指す場合があります。(イザ 44:18; エレ 5:21; エゼ 12:2,3; マタ 13:13-16; エフェ 1:17,18)このことを否定するなら,見えることの反対,すなわち盲目という語が,文字通りの意味ではなく,比喩的もしくは霊的な意味でも使われるということを否定する結果になります。しかしイエスは明らかに,見えることと盲目の両方をそのような比喩的もしくは霊的な意味で使われました。(ヨハ 9:39-41; 啓 3:14-18。また,コリ二 4:4; ペテ二 1:9と比較。)ヨブは,「風あらし[雲を伴っていたと思われる]の中から」エホバに話しかけられた後に,「私はあなたのことをうわさで聞いていましたが,今は,私のこの目があなたを確かに見ております」と言いました。(ヨブ 38:1; 42:5)これもまた,「いまだ神を見た人はいない」という聖書の明快な教えからすると,文字通りの目ではなく,むしろ思いと心の知覚によるものであったに違いありません。―ヨハ 1:18; 5:37; 6:46; ヨハ一 4:12

イエスの臨在は目に見えるものである(イエスが人間の目で見ることのできる体をもった形で現われるという意味で)という考えにとって不利な証拠は,イエスご自身が,世の命のために死によって自分の肉を犠牲にすると言われたその言葉や(ヨハ 6:51),復活させられたイエスは「近づき難い光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」であるという使徒パウロの宣言の中に見いだせます。(テモ一 6:14-16)それでイエスは弟子たちに,「あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ないでしょう」と言うことができました。なるほど,イエスの弟子たちは,イエスを見ることになっていました。それは,イエスが復活後に彼らに現われるからだけでなく,やがて彼らも復活させられて,天でイエスと共になり,『み父がイエスにお与えになった栄光を見る』からでもあります。(ヨハ 14:19; 17:24)しかし,一般の世は,イエスを見ないことになっていました。イエスは霊の被造物としての命に復活させられた後(ペテ一 3:18),弟子たちにしか現われなかったからです。イエスの昇天を見たのも,世ではなく,弟子たちだけでした。その場にいたみ使いたちは,イエスが「同じ様」で(ギ語,トロポス,「形」という意味のモルフェーではない),したがって公に見られることなく,忠実な追随者たちだけが識別するような仕方で戻られることを弟子たちに保証しました。―使徒 1:1-11

あざける者たちの態度の背後には,心の悪い状態と共に,キリストの臨在に関する間違った期待があるに違いありません。「終わりの日」に,彼らは嘲笑し,「この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日から,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか」と言うことが予告されていました。―ペテ二 3:2-4。ペテ二 1:16と比較。

明らかに人々は,イエス・キリストが「その強力なみ使いたちを伴い,燃える火のうちに」「表わし示される」(ギ語,アポカリュプシス)時の出来事に気づきます。「その際イエスは,神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです」。(テサ二 1:7-9)しかし,そうではあっても,そのようにしてイエスが表わし示される前は,目に見えない臨在が忠実な人々以外のだれからも識別されないでいる,という考えは成り立ちます。ここで思い起こせるのは,イエスがご自分の臨在と「ノアの日」とを比較し,ノアの時代の人々は水による滅びが自分たちに臨むまで『注意しなかった』が,「人の子の臨在の時もそのようになる」と言っておられることです。―マタ 24:37-39

イエスの臨在の特色となる出来事 イエスは,追随者たちの集まりに共にいることを約束し(マタ 18:20),さらにまた,「事物の体制の終結の時までいつの日も」,弟子を作る業を行なう『彼らと共に』いることを保証されました。(マタ 28:19,20)もちろん,マタイ 24章3節や関連する聖句のパルーシアは,それ以上のことを意味しているに違いありません。それは明らかに,特別な臨在,すなわち全地の住民を巻き込み,全地の住民に影響を与える臨在,また,神によって油そそがれた王であるイエスの全き権威の表明と不可分の関係にある臨在を指しています。

王国の権能を持たれるイエスの臨在の特色となる出来事として,次のような事柄が挙げられます。イエスの追随者たちのうち,すでに死んでいた人々が復活し,イエスと共なる天の王国の共同の相続人となる(コリ一 15:23; ロマ 8:17); イエスはその臨在の時に生きている他の追随者たちを集め,ご自分と結び付いた状態に導く(マタ 24:31; テサ二 2:1); イエスは背教した「不法の人」を「無に至らせ」,「その[イエスの]臨在の顕現[エピファネイアーイ]によって」そのことを成し遂げる(テサ二 2:3-8。「不法の人」を参照); 救出の機会に注意を払わない人々がすべて滅ぼされる(マタ 24:37-39); 当然の結果として,千年統治が始まる(啓 20:1-6)。王国の栄光に包まれたキリストの変ぼうの幻を見た人々が,「わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在」を他の人々に知らせることができるようになった経緯については,「変ぼう」の項も参照してください。―ペテ二 1:16-18

イエスの臨在に付随する状況 「啓示」の書は,キリストの臨在,およびその顕現,またキリストが表わし示されることに関する多くの情報を象徴的な表現で提供しています。啓示 6章1,2節で描かれている,白い馬の冠をかぶった乗り手の象徴的な描写は,啓示 19章11-16節の乗り手,すなわち「王の王また主の主」キリスト・イエスの描写と対応します。啓示 6章は,キリストが征服する王として乗り進む時,直ちに地から悪を除き去るのではないこと,むしろそのように乗り進む際には,「地から平和を取り去る」戦争,さらには食物の欠乏や死の災厄が付随することを示しています。(啓 6:3-8)これはまた,マタイ 24章,マルコ 13章,ルカ 21章のキリストの預言に見られる特徴と類似しています。したがって,福音書の記述に見られるイエスの預言は,エルサレムとその神殿の滅び(西暦70年に生じた)と明確な関連があるばかりか,キリストの臨在の時にも当てはまるため,イエスが臨在し,メシアなる王として天から支配している時を見定めるための「しるし」を与えていると考えられます。―マタ 24:3,32,33; ルカ 21:28-31

キリストの臨在に言及する他の箇所は一般に,その時まで,またその期間中,忠実と忍耐を示すよう励ましています。―テサ一 2:19; 3:12,13; 5:23; ヤコ 5:7,8; ヨハ一 2:28

エホバの日の臨在 ペテロは第二の手紙の中で,「エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留め」,そのことを生き方によって実証するよう兄弟たちに勧めています。(ペテ二 3:11,12)彼らは,エホバの裁きの日を絶えず思いに留めるよう注意し,その日が近づいていることを意識していなければなりません。その「エホバの日」には,この邪悪な世の政府という「天」は火によるかのようにして滅ぼされ,それに付随する「諸要素」も分解を避けることができず,極度の熱によって溶けてしまいます。サタンの支配下にある現在の体制は終わりを迎えます。

エホバ神は,み子であり指名された王であるキリスト・イエスにより,またキリスト・イエスを通して行動されるので(ヨハ 3:35。コリ一 15:23,24と比較),その約束のエホバの「臨在」とキリスト・イエスの「臨在」との間には関係があるということになります。論理的に言って,一方の宣言を嘲笑する人々は,他方の宣言も嘲笑します。この場合も,大洪水前の人々の態度が,対応する例として使われています。―ペテ二 3:5-7。マタ 24:37-39と比較。

不法の者の存在 使徒パウロは,テサロニケ第二 2章9-12節で,「不法の者が存在する」のは「サタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴い,また,……あらゆる不義の欺きを伴っています」と説明しています。このこともまた,パルーシアが瞬間的な到来もしくは到着以上のことを意味しているという点を例証しています。それらの業やしるしや異兆や欺きをすべて行なうには,ある程度の長さの期間が必要だからです。