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門,門口

門,門口

(もん,かどぐち)(Gate,Gateway)

聖書は数種類の異なった門について述べています。すなわち,(1)宿営の門(出 32:26,27),(2)都市の門(エレ 37:13),(3)幕屋の中庭の門(出 38:18),(4)「家に属する城の門」(ネヘ 2:8),(5)神殿の門(使徒 3:10),および(6)家の門(使徒 12:13,14)です。

建設 都市の門は普通,数をできる限り少なくしてあり,中には門が一つだけの都市もありました。都市の城塞の一部として,門は攻撃に弱い部分だったからです。内側と外側の城壁がある場合,それぞれの城壁に門があったのは言うまでもありません。初期の門口は敵の進入を妨げるためにL字型になっていました。後に兵車が導入されてから(西暦前18世紀ごろ),都市の城門はまっすぐな,直線状の入口を持つようになりました。発掘された幾つかの遺跡の場合,都市の城門の入口はその両側面に方形の塔があり,長さ約15ないし20㍍の入り口の間に通じています。その入り口の間を通る通路の両脇には付け柱が6本あり,それが通路を3か所で狭めていました。こうした奥行きのある城門には,場合によって二組か三組の扉があったのかもしれません。入り口の間の壁の内側にある小部屋は監視の間に用いられました。エゼキエルの幻に出て来る神殿の場合,門には監視の間が設けられていました。(エゼ 40:6,7,10,20,21,28,29,32-36)入り口の間に屋上がある門もあり,内部で見つかった階段が示しているように,階が幾つかある門もありました。―サム二 18:24,33と比較。

古代の要塞都市が発掘されており,小さな裏門もしくは通用門のあったことが明らかになっています。それらが塁壁の基部にあることもあり,平時には都市の住民に容易な通路を供しました。攻囲の時にはそれが出撃用の門として用いられ,防衛軍は包囲軍を攻撃するためにそこから打って出ることができ,同時に城壁の上にいる仲間からの掩護射撃を受けることができました。

都市の城門の扉は普通木材でできており,金属の板で覆われていました。そうでないと,敵に火を掛けられるおそれがありました。使徒たちの時代にそうであったように,あるものは鉄でできていました。(使徒 12:10)バビロンの門口には銅の扉と鉄のかんぬきがあったと言われています。(イザ 45:2。詩 107:2,16と比較。)木製のかんぬきで施錠された門もあったようです。(ナホ 3:13)ソロモンの時代に,バシャンのアルゴブの地方には「城壁と銅のかんぬきを備えた六十の大きな都市」がありました。(王一 4:13)シリアでは,上下のちょうつがいで回転する,高さ約3㍍のどっしりした一枚岩の石の扉の見つかった町もあります。これらの要素を考えると,ガザの城門の扉を2本の側柱とかんぬきもろとももぎ取り,それを「ヘブロンに面する山」の頂に運んだサムソンの離れ業は並々ならぬ偉業であったことが分かります。もちろん,それは活力を与えるエホバの霊の力によるものでした。―裁 16:3

機能 公務の多くは門のところで行なわれ,商取引はそこで記録されたので,都市の「門」は都市そのものを指す言葉として使われました。(申 16:11,14,脚注; ルツ 4:10; 詩 87:2; 122:2)また,首都では公務が宮殿の敷地の門口で行なわれることも少なくありませんでした。(エス 3:2,3; 5:9,13; 6:10,12)都市の門つまり入口が荒れ果てた所では,栄光も去ってしまいました。(イザ 3:26; 14:31; エレ 14:2; 哀 1:4)城門は攻囲軍が撃ち破ろうとして死力を注ぐ場所でした。いったんそこを押さえれば,都市に入り込むことができました。ですから,都市の「門を手に入れる」とは都市を奪い取ることを意味しました。(創 22:17; 24:60)エルサレムの城壁が撃ち破られた時,バビロンの王の君たちは同市の門の一つに陣取って,この都市の征服をさらに指揮しました。―エレ 39:2,3

門は公の集会や市民の生活の中心地でした。エルサレムの“水の門”の前にあった公共広場のような広い場所が,大抵は門の近くに設けられていました。(ネヘ 8:1)門は旅行者や商人がやって来るだけでなく,ほとんどすべての働き人,特に畑で働く人々が毎日出入りする所であったため,都市の中でも情報が集中する場所でした。ですから,門は人に会うための場所でした。(ルツ 4:1; サム二 15:2)そこには市場があり,エルサレムの門のあるもの(例えば,“魚の門”)はそこで売られる商品にちなんで名付けられたようです。―ネヘ 3:3

都市の年長者たちは都市の門のところで裁きのために座りました。(申 16:18; 21:18-20; 22:15; 25:7)時には王たちでさえ,そこで接見をしたり,裁きのために座したりしました。(サム二 19:8; 王一 22:10; エレ 38:7)裁き人,都市の著名な人々,商人,実業家,およびかなり大勢の人々がたいてい門のところにいたので,預言者たちはしばしばそこへ行って布告を伝えました。音信は門のところで述べるといっそう速やかに広まりました。(王一 22:10; エレ 17:19)他の重要な発表や公式の布告もそこで行なわれました。(代二 32:6-8)エズラが律法を読んだ場所は“水の門”の前にある公共の広場でした。(ネヘ 8:1-3)知恵は,門の入口で都市の全住民に対して,自分の助言に気づくよう叫んでいる者として描かれています。(箴 1:20,21; 8:1-3)門は情報の集中する場所であったため,都市の住民の良い業や悪い業はそこで知られるようになりました。―箴 31:31

都市の門で犠牲をささげるのは異教の慣行だったようです。(使徒 14:13)この悪い慣行がユダで広まりましたが,ヨシヤ王によって正されました。―王二 23:8

裁き人によって死に値すると評決された者たちは都市の門の外に連れ出されて処刑されました。(王一 21:10-13; 使徒 7:58)贖罪の日に,贖罪のためにささげられた犠牲の動物の死がいは,都市の外に運ばれて焼かれました。(レビ 16:27,28)ですから,人類の贖罪のための罪の捧げ物となられたイエス・キリストは,エルサレムの門の外で死に処せられました。―ヘブ 13:11,12

都市の門口は重要な物事に使われたので,土地の年長者たちと共に門のところに座るのは大きな誉れでした。(ヨブ 29:7; 箴 31:23)そのような立場は愚かな者のための場所ではありませんでした。(箴 24:7)ダビデは迫害されていた時,門に座っている者たちから特に好意的でない態度で注目されることを容易ならない事柄とみなしました。(詩 69:12)『苦しんでいる者を門のところで虐げる』とは,司法の腐敗に関する表現でした。訴訟は門のところで扱われたからです。(ヨブ 5:4; 箴 22:22; アモ 5:12)『門の中で戒めを与える者を憎む』とは,自分を正してくれたり,有罪の宣告を下したりする裁き人を憎むという意味でした。(アモ 5:10)「門で戒める者にわなを仕掛ける」者たちとは,賄賂や他の圧力によって裁き人に裁きをゆがめさせようとする者たちや,自分たちを戒めるため門に立つ預言者たちをわなにかけようとする者たちのことでした。―イザ 29:19-21

荒野の宿営の門 イスラエルの宿営の「門」とは,宿営の入口の通路のことでした。そこは十分守りを固めてあったに違いありません。幕屋は宿営の中央にあり,レビ人たちはそのすぐ近くに宿営を張り,12部族は一つの側に3部族ずつ,ずっと遠ざかった所にいました。この配列によって宿営は十分に守られました。―出 32:26,27; 民 3章。「門衛」を参照。

エルサレムの門 エルサレムの門について論じる際,ダビデがそこを攻め取った時以後,同市は拡張発展を遂げ,その結果,数箇所で城壁や城壁の付け足し部分が築かれたことを覚えておくのはよいことです。ネヘミヤ記には最も完全な描写もしくは一覧が示されているので,ここではおもにそこで言及されている門について取り上げます。ネヘミヤの記録に名前の出て来る門は,西暦前8世紀以前に築かれた城壁と,「第二地区」を囲む城壁にあった門でした。(王二 22:14; 代二 34:22; ゼパ 1:10)「第二地区」は市の北側の部分で,西側と北側の一部ではヒゼキヤの城壁が境となり(代二 32:5),それにマナセの城壁がつながって北東と東の側に続いていました。(代二 33:14)この地区は初期の市街と城壁の北にありましたが,初期の城壁の西にまでは延びていなかったようです。

地図: エルサレムの門

ネヘミヤの城壁 市の城壁の再建に関して記述した際(ネヘ 3章),ネヘミヤは“羊の門”から始めて時計と逆方向に進めています。下記の一覧ではこの順序にしたがい,再建の記述の中には出て来なくても奉献式の行列に関する描写(ネヘ 12章)に名前の出て来る門,ならびに他の聖句で言及されている門を挿入しています。それらの中にはネヘミヤの記録に出て来る門の別名に過ぎないものもあります。

“羊の門” “羊の門”は大祭司エルヤシブと仲間の祭司たちによって再建されました。(ネヘ 3:1,32; 12:39)このことはその門が神殿域の近くにあったことを示唆しています。それがあった場所は恐らく第二地区の城壁のマナセによって築かれた部分で(下記「“魚の門”」を参照),市の北東の隅かその近辺であったと思われます。この門がそのように名付けられたのは,犠牲用の,または,もしかしたら付近の市場のための羊ややぎが,そこを通って連れて来られたためかもしれません。ヨハネ 5章2節で言及されている「羊門」は,恐らくこの“羊の門”か,それに相当する後代の門のことでしょう。なぜなら,その門は同じその近辺,つまりベツザタの池の近くにあったからです。

“魚の門” ヒゼキヤは第二地区を囲む城壁の,“魚の門”までの部分を築いたようです。(代二 32:5; 33:14)再建と行列に関するネヘミヤの記述の中で,“魚の門”は“羊の門”の西に位置づけられており,テュロペオンの谷の北の端付近にあったのではないかと思われます。(ネヘ 3:3; 12:39ゼパニヤ 1章10節では,この門が第二地区に関連して言及されています。その名称は,ティルス人が魚を売った魚市場の近くにこの門があったことによるのかもしれません。―ネヘ 13:16

“旧市の門” “旧市の門”は市の北西の,“魚の門”と“エフライムの門”の間にありました。(ネヘ 3:6; 12:39)ヘブライ語ではこの門はただ“旧の門”という呼び方をされており,「市」という言葉は一部の翻訳者たちによって加えられたものです。この名称はその門が旧市街の北の主要な入口であったことに由来しているのではないかと考えられています。それは“広い城壁”(旧市街の北の境界となっていた)と第二地区の西の城壁の南端との接合部にあったのかもしれません。この門はゼカリヤの述べた「“第一の門”」と同じものであると考える人たちもいます。ゼカリヤはどうやら市の東西の範囲に言及して,「[1]“ベニヤミンの門”から[2]“第一の門”のところまで,[3]“隅の門”に至るまで」と述べ,南北の範囲に言及して,「“ハナヌエルの塔”から王の搾りおけに至るまで」と述べているようです。(ゼカ 14:10)ほかにも“旧市の門”を,エレミヤ 39章3節で言及されている「“中央の門”」と結び付けようとする人たちもいます。この“旧市の門”を「“ミシュネーの門”」と呼んで,第二地区の西側の城壁に位置づける人たちもいます。

“エフライムの門” “エフライムの門”は“広い城壁”の,“隅の門”から400キュビト(178㍍)東のところにありました。(王二 14:13; 代二 25:23)それはエフライムの領地の方角を向いた,北の出口でした。この門も,ある研究者たちからは“中央の門”(エレ 39:3),他の研究者たちからは“第一の門”(ゼカ 14:10)とされています。この門は,ユダヤ人の歴史家ヨセフスの語っているゲンナト,つまり“園の門”である(または,“園の門”に相当する)と考えられています。(ユダヤ戦記,V,146 [iv,2])“エフライムの門”の近くには公共の広場があり,ネヘミヤの時代に人々はそこに仮小屋の祭りを祝うための仮小屋を造りました。(ネヘ 8:16)この門はネヘミヤの再建に関する資料には名を挙げられていませんが,それは大幅な修復を要しなかったためのようです。

“隅の門” この門は市の城壁の北西の角,“エフライムの門”の西にあったようです。(王二 14:13; 代二 25:23)それはヒンノムの谷の東側に沿う,旧市街の西の城壁の,“広い城壁”と接合する部分にあったようです。ウジヤはこの門のそばに塔を建てましたが,それが“焼きかまどの塔”であったのかどうかは明記されていません。(代二 26:9)エレミヤとゼカリヤは共に,市の西側のへりにあるものとして“隅の門”に言及しているように思われます。―エレ 31:38; ゼカ 14:10

西の城壁には,“隅の門”から南西の城壁にある“谷の門”に至るまで,ほかに門があるとは述べられていません。これは恐らくヒンノムの谷の斜面が険しくて,ほかに門を造るのが実際的でなかったためと思われます。“隅の門”はネヘミヤの記述には出て来ませんが,やはり大幅な修復を要しなかったことがその理由かもしれません。もっともその記述は,“隅の門”の一部であったか,またはその近くにあったと思われる“焼きかまどの塔”が修理されたことについては述べています。―ネヘ 3:11

“谷の門” 市の城壁の南西部では,“谷の門”がヒンノムの谷へ通じていました。ヨセフスの言及している「エッセネの門」はここか,またはその近くにあったのではないかと思われます。(ユダヤ戦記,V,145 [iv,2])ウジヤは市の防備を強化する計画の一環として,この門のそばに塔を建てました。(代二 26:9)ネヘミヤが,損壊した城壁の検分のために出て行ったのはこの“谷の門”からで,ヒンノムの谷を通って東に進んでから,キデロンの谷を上り,最後にこの同じ門から再び市内に入りました。(ネヘ 2:13-15)名前が明記されているわけではありませんが,“谷の門”は奉献式の行列が出発した地点のように思われます。一方の集団は“灰の山の門”を過ぎて城壁を時計と逆方向に回り,もう一方の集団は“隅の門”や“焼きかまどの塔”を過ぎて時計方向に回りました。―ネヘ 12:31-40

“灰の山の門” この門は“陶片の門”としても知られ,多くの聖書では,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳とラテン語ウルガタ訳に基づいて“糞の門”と呼ばれています。(ネヘ 2:13; 12:31; エレ 19:2)ネヘミヤの説明によると,この門は“谷の門”の1,000キュビト(445㍍)東のところにあったようです。(ネヘ 3:13,14)この門は市の城壁の南東の隅にあり,ヒンノムの谷の,テュロペオンの谷につながる場所の辺りに通じていました。偶像礼拝において自分の子らを火で焼いてバアルにささげた者たちが,ヒンノムの谷にあるトフェトまで行こうとして通ったのはこの門でした。(エレ 19:1-6)そこはまた,エレミヤがイスラエルの年長者や祭司のある者たちを連れて通った門で,エレミヤはそのあとエルサレムに対する災いをふれ告げ,他の神々に仕えたことで神が民を砕かれることを例証するために土器の瓶を砕きました。―エレ 19:1-3,10,11

「“陶片の門”」という名称が付けられたのは,陶器の破片がその近くに廃物として捨てられたためか,または陶器の破片がそこですり砕かれたためかもしれません。その粉末は(比較的近年に市の南西の隅にある池で行なわれていたように)水溜めの上塗り用のしっくいを作るのに用いられました。また,この門の付近で製陶業が行なわれていたのかもしれません。というのは,ヒンノムの谷の近辺には粘土があり,テュロペオンの谷の出口やエン・ロゲルと呼ばれる泉で水が得られたからです。(エレ 18:2; 19:1,2と比較。)西暦4世紀以来の伝承では,「陶器師の畑」(マタ 27:7,8)がヒンノムの谷の南側にあったと考えられています。

“泉の門” この門は近くの泉か水のわき出るところ,恐らくエン・ロゲルに近づく道となっていたので,そのように呼ばれていました。エン・ロゲルはキデロンの谷とヒンノムの谷の合流点の下流にありました。この門は多分,市の東の丘の南の突端(つまり,「“ダビデの都市”」の南端)にありました。(ネヘ 2:14; 3:15; 12:37)“泉の門”は“ダビデの都市”に住む人々にエン・ロゲルまで行く便利な出口と道を供したのに対し,その南西のさほど離れていないところにある“灰の山の門”もエン・ロゲルに通じており,テュロペオンの谷や市の南西の丘に住む居住者にはこのほうが都合の良い出口であったと思われます。

“水の門” この門の名称は,それが市の東側を中ほどまで北上したところにあるギホンの泉の近辺にあったか,または少なくともそこへ行く通路になっていたことに由来しているのかもしれません。この門は神殿域から遠くないオフェルの近くにありました。(ネヘ 3:26)“水の門”は奉献式の行列を行なった集団の一方が城壁を離れた場所でした。彼らは市の城壁の,神殿の東にある部分は通らなかったらしく,そこから神殿に進んで行って,そこでもう一方の集団と共に集合しました。(ネヘ 12:37-40)この門の前には公共の広場があり,すべての民はそこでエズラが律法を読むのを聞き,後日そこに仮小屋を建てて仮小屋の祭りを祝いました。―ネヘ 8:1-3,16

“馬の門” “馬の門”の上の方では祭司たちによって修復作業が行なわれましたが,このことはその位置が神殿の近くであったことを暗示しています。(ネヘ 3:28)“馬の門”は神殿と王宮の二つの部分の連絡の場を供していた門であると考える人たちもいます。その人たちはアタリヤの処刑に関する記述からこの結論に達しています。そこでは,兵士たちによって神殿の外に連れ出された際,『彼女は王の家の馬の門の入り口に来た』と伝えられています。(代二 23:15; 王二 11:16)しかし,これは恐らく単なる王宮の邸内への入り口のことで,馬が都市そのものに出入りする際に通った“馬の門”のことではないと思われます。ネヘミヤは再建に関する説明の中に“馬の門”を明確に含めており,この門が市の城壁にあった門であることを示しています。その門は多分,神殿域の南東に位置していたと思われます。(ネヘ 3:28; エレ 31:40)奉献式の行列に関する記述の中で“馬の門”は省かれていますが,これは二組の行列がそれぞれ“水の門”と“監視の門”のところで城壁を離れ,城壁の“馬の門”と“検分の門”がある,神殿の東側の部分は歩かなかったためと思われます。―ネヘ 12:37-40

“検分の門” “検分(ヘ語,ハンミフカード)の門”を“召集の門”と呼ぶ人たちもいます。(ネヘ 3:31,改標; ロザハム)エゼキエル 43章21節では,ミフカード(冠詞のハを伴わない,ヘブライ語の同じ言葉)が「定めの場所」と訳されています。それは“監視の門”と同じものであると考えてきた人たちもいます。再建に関する記述の中でネヘミヤがこの門に言及していることは,その門が神殿域の前にある,市の東の城壁の,“馬の門”の北にあったという考えを支持しているように思われます。(ネヘ 3:27-31)“検分の門”を過ぎたところに城壁の隅があったというネヘミヤの言葉からすると,東の城壁にあったこの門の位置は城壁の向きが(恐らく北西方向に)変わる地点の南であったことになります。

修復作業が「“検分の門”の前のところで」行なわれたことを記述は述べています。ある人たちはこれを,この名称で呼ばれた神殿の門の前の,市の城壁で行なわれた修復作業に言及したものと解釈してきました。これは正しい見方とは思われません。というのは,市の城壁門であったことが認められている“水の門”に関して,同じ表現が用いられているからです。(ネヘ 3:26,31)“検分の門”は行列に関する記述に出て来ませんが,これは行進する人々が神殿の東の城壁を通らなかったためと思われます。

“監視の門” 奉献式の行列の一部はこの門(「獄の門」と呼ばれている,欽定)から城壁を離れ,神殿に向かって進みました。―ネヘ 12:39,40

“中央の門” バビロニア人によってエルサレムの城壁に破れ口が作られると,彼らの軍隊の士官たちは“中央の門”に座しました。(エレ 39:3)この門は多分,“旧市の門”と同じものであったと思われます。この“旧市の門”は“広い城壁”,旧市街の北の城壁,および第二地区の西の城壁が集合する地点にあり,中心的な,にらみのきく位置にあったからです。しかし,意見は様々で,“エフライムの門”や“魚の門”を好んで挙げる人たちもいます。

“ベニヤミンの門” “ベニヤミンの門”を“羊の門”と同定する人たちもいます。その位置は,エレミヤがベニヤミンの領地,つまり明らかにアナトテの方向に出て行こうとした状況と合います。アナトテはエルサレムの北東にありました。(エレ 37:11-13)エベド・メレクがエレミヤのための嘆願をするために近づいた時,ゼデキヤは“ベニヤミンの門”に座っていました。(エレ 38:7,8)バビロニア人に攻囲されている間,王が最も気がかりな地点の近くにいると考えるのは道理にかなっています。市の北にある“羊の門”は,攻撃して来るバビロニア人によって最も重大な脅威にさらされたことでしょう。しかし,“ベニヤミンの門”とは“検分の門”のことであったと考える人たちもいます。

言及されている他の門 ゼデキヤ王はバビロニア人から逃げた時,「王の園の傍らにある二重の城壁の間の門の道を通って」出て行きました。(エレ 52:7,8; 39:4)「二重の城壁」がどこであったかに関しては多分に不明なところがあります。しかし,現在分かっていることからすると,“灰の山の門”または“泉の門”が聖書に描写されている状況に適合するかもしれません。どちらの門も王の園に近いからです。―王二 25:4,5

列王第二 23章8節では,「都市の長ヨシュアの門の入口にあった門の高き所」についての言及があり,「その門は,人が都の門に入る際,左側にあった」と述べられています。この「ヨシュアの門」というのは市の門の名称ではなく,この総督の住居に通じる,市の城壁の内側にあった門のようです。その門は人が市の門を入ると左にあったのです。

神殿の門東の門”。再建に関するネヘミヤの記述は,“東の門”の番人たちが修復作業にあずかったことを伝えています。(ネヘ 3:29)ですから,“東の門”はある人々が考えてきたようにエルサレムの城壁にあった門であるとは言われていません。“東の門”は市の城壁の“検分の門”とほぼ直線的に並んでいたのかもしれません。この門は歴代第一 9章18節で「東の方にある王の門」と呼ばれている,王が神殿に出入りした門と思われます。

基の門”。神殿の門ですが,その位置は定かではありません。―王二 11:6; 代二 23:5

エホバの家の上の門」。この門は奥の中庭に通じる門であったのかもしれません。もしかするとこの門は,エレミヤが審理を受け,エレミヤの書記官バルクが民の前で巻き物を読んだ場所である,「エホバの新しい門」ではないかと思われます。(エレ 26:10; 36:10)エレミヤはその門が他の門のように昔に建てられたものではなかったので,「新しい門」と呼んだのかもしれません。それは恐らくヨタム王の建てた「エホバの家の上の門」であると思われます。―王二 15:32,35; 代二 27:3

エホバの家にある,“ベニヤミンの上の門”」。多分,神殿の北側にあった,奥の中庭に通じる門。―エレ 20:2。エゼ 8:3; 9:2と比較。

美しの門”。ヘロデ大王によって再建された神殿の戸口で,母の胎を出た時から足のなえていた人をペテロがいやした場所。(使徒 3:1-10)この門を市の城壁の,今日存在する“黄金門”とする伝承がありますが,“美しの門”は,恐らく古代の「“東の門”」に対応する,神殿域の奥の門であったのかもしれません。それは神殿の建物自体の東にあって,“婦人の中庭”に向かって開いていた門の一つで,ヨセフスの説明によると高さが50キュビト(22㍍)あり,コリントしんちゅうの扉があったという門のことではないかと言う人たちもいます。

言及されている他の門としては,「走者の後ろの門」と「走者の門」があります。これらは神殿の門ですが,その位置は定かではありません。―王二 11:6,19

ヘロデ大王によって再建された神殿について述べているユダヤ教のミシュナ(ミドット 1:3)は,“神殿の山”に通じる門,つまり神殿域の敷地全体を囲む城壁にある門として五つの門にしか言及していません。それは,南に二つある“フルダ門”,西にある“キポヌス門”,北にある“タディ(トディ)門”,そしてシュシャンの宮殿が描かれていた“東の門”です。一方,ヨセフスは西に四つの門があったことを述べています。(ユダヤ古代誌,XV,410 [xi,5])それら四つの門は,今では考古学的調査によって確認されています。それらは南から北へ,“ロビンソンのアーチ”を越えてテュロペオンの谷に下る階段へ通じている門,通りと同じ高さにある“バークレー門”,テュロペオンの谷を越える橋を支えている“ウィルソンのアーチ”の上に通じる門,およびやはり通りと同じ高さにある“ウォーレン門”です。“キポヌス門”というのは“バークレー門”か,または“ウィルソンのアーチ”の上にある門のどちらかと見てよいでしょう。

ミシュナはさらに,神殿を直接囲んでいる中庭に通じる門が七つあったことを述べています。―ミドット 1:4。「神殿」を参照。

比喩的な用法 詩編 118編19,20節では,義なる者たちが入る「義の門」や「エホバの門」のことが述べられています。―マタ 7:13,14と比較。

人が死ぬ場合,その人は「死の門」をくぐったと言われました。(詩 9:13; 107:18)その人は人類の共通の墓に行ったので,シェオルつまりハデスの門をくぐったのです。(イザ 38:10; マタ 16:18)イエス・キリストは死とハデスのかぎを持っておられるので(啓 1:18),イエスの会衆は死とハデスに永遠に束縛されることはないという保証を得てきました。使徒パウロは彼らが皆キリストと同じように死んで,死とハデスに行くことを示しました。しかし,神はキリストを死の苦しみから解き,ハデスには放置されませんでした。(使徒 2:24,31)復活があるので,死とハデスはキリストの会衆に対して最終的な勝利を得ることはありません。―コリ一 15:29,36-38,54-57

神の民はシオンに復帰するとそこで清い崇拝を再び確立するので,シオンの門は“賛美”と呼ばれることになっています。シオンの門は敵に押さえられて奪われるおそれはなく,諸国民の資産を携え入れるために終始開かれています。―イザ 60:11,18

エゼキエルは,イスラエルの12部族にしたがって命名された12の門を持つ,「“エホバ自らそこにおられる”」と呼ばれる都市についての幻を与えられました。(エゼ 48:30-35)彼はまた,様々な門を持つ神殿の詳細な幻について伝えています。―エゼ 40-44章

聖なる都市「新しいエルサレム」は,12の真珠の門がある都市として描かれており,各々の門にはみ使いがひとりずつ,明らかに守衛として部署に就いています。門を閉じる時となる夜が存在しないので,これらの門は終始開かれています。諸国民の栄光と誉れがこれらの都市の門を通って携え入れられます。たとえ開かれてはいても,邪悪なことや,汚れたこと,嫌悪すべき事柄を行なう者たちは決して入り込むことができません。打ち勝つ者もしくは征服者として清さを保つ者たち,キリストと共に王また祭司となる人々だけが,み使いである従者の前を通って入る権利を得ます。(啓 21:2,12,21-27; 22:14,15; 2:7; 20:4,6)この都市の光の中を歩く地の諸国の民は祝福されます。