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あの子たちはなぜわたしをほうっておいてくれないのだろう

あの子たちはなぜわたしをほうっておいてくれないのだろう

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あの子たちはなぜわたしをほうっておいてくれないのだろう

少年の歩き方がすべてを語っています。緊張していて自信がなく,新しい環境に戸惑っていることは一目瞭然です。上級生たちにはすぐに新入生と分かります。瞬く間に少年は若者たちに取り囲まれ,卑わいな悪口を浴びせられます。少年は顔を耳まで真っ赤にして一番近い避難所,つまりトイレに逃げこみます。笑い声が壁にこだまします。

人にいやがらせをしたり,人をからかったり,侮辱したりすることは,多くの若者の残忍な憂さ晴らしになっています。聖書時代にも,意地の悪い性向を示した若者たちがいました。例えば,一群の少年たちが預言者エリシャにいやがらせをしたことがありました。彼らはエリシャの地位を軽視していることを示しながら無礼な態度で,「はげ頭,上って行け! はげ頭,上って行け!」と叫びました。(列王第二 2:23-25)同様に今日でも,他の人を侮辱する,辛らつな言葉をすぐに口にする若者が少なくありません。

「増える教室内での苦しみ」の著者の一人は,「中学3年生のクラスの中で自分が一番ちびだった」ことを思い出してこう述べています。「クラスで一番頭が良く一番背が低いということは,中学校では災いを招く組み合わせである。ちびだという理由では殴りたくない者でも,あいつは生意気だ,ということで殴る。“四つ目”,“生き字引”その他800の軽蔑語[悪口]で呼ばれていた」。「寂しい子供たち」の著者はさらに,「身体障害や言語障害を持つ子供,身体や行動に目立つ特徴のある子供たちは,ほかの子供たちにとってはからかうのにあつらえ向きの標的になる」と述べています。

時々,残酷コンテストとも言えるものに参加して自己防衛に努める若者もいます。人の心を傷つける侮辱的な言葉(相手の親に関するものが多い)を,負けじとばかりにぶつけ合うのです。しかし,いやがらせから身を守る術のない若者も多くいます。ある若者は,同級生にからかわれ,いやがらせをされるのがひどく恐ろしく,またつらくて,“吐き気を催す”日があったほどでした。ほかの生徒たちに何をされるか心配で,勉強に注意を集中できませんでした。

笑いごとではない

あなたも仲間の残酷な行為の的になったことがありますか。もしあれば,神がそのような行為を笑いごととはみなされないことを知って慰められるでしょう。アブラハムの息子イサクの乳離れを祝う宴に関する聖書の記述を考慮してみましょう。イサクが受けることになった相続財産をねたんだためと思われますが,アブラハムの上の息子イシュマエルはイサクを『からかう』ようになりました。からかうといっても,それは無邪気な戯れなどではなく,「迫害」にも匹敵する行為でした。(ガラテア 4:29)ですからイサクの母親サラは,そのからかう行為に敵意を感じ取りました。サラはそれを,「胤」すなわちメシアが,自分の息子イサクを通して生み出されるというエホバの目的に対する侮辱行為とみなしました。サラの要求で,イシュマエルとその母親はアブラハムの家から追放されました。―創世記 21:8-14

同様に,あなたが若者たちから悪意のあるいやがらせをされる場合も笑いごとではありません。あなたが聖書の規準に従って生きようと努力しているために彼らがそうするのであれば,なおのことです。例えば,クリスチャンの若者たちは自分の信仰を他の人々に伝えることで知られています。しかし,一群のエホバの証人の若者たちは,「家から家に神の言葉を宣べ伝えるので,私たちは学校の生徒たちにからかわれたり,けなされたりします」と述べています。そうです,古代の神の忠実な僕たちと同じように,『あざけりによる試練』を受けるクリスチャンの若者は少なくありません。(ヘブライ 11:36)そのようなそしりに耐える勇気を持つ若者は称賛に値します。

彼らがそうする理由

それでもあなたは,どうすればいじめっ子にほうっておいてもらえるだろうか,と考えるかもしれません。まず,なぜからかうかを考えてみましょう。聖書の箴言 14章13節には,「笑っていても,心の痛むことがある」とあります。若者たちのグループは,だれかにいやがらせをすると大笑いします。しかし,「心の良い状態のゆえに喜び叫ぶ」のではありません。(イザヤ 65:14)その笑いは心の中の不安を覆い隠すものにすぎない場合が少なくありません。人をいじめる者たちは,虚勢を張っていてもその実,『何もこんな自分たちが良いとは思っていないが,だれかをけなすと少しは気が晴れる』と言っているのかもしれません。

ねたみも攻撃の引き金になります。十代の若者であったヨセフに関する聖書の記述を思い起こしてみましょう。ヨセフは父親のお気に入りであったために,実の兄弟たちからいじめられました。激しいねたみにかられた彼らは,言葉による侮辱を加えただけでなく,殺人をもくろむまでになりました!(創世記 37:4,11,20)今日でも同じように,ずば抜けて頭のいい生徒や,先生方から好かれる生徒は仲間のねたみを買うかもしれません。侮辱が“相手に身のほどを思い知らせる”手段と化します。

ですから,人を嘲笑する原因は,多くの場合,不安感やねたみ,自尊心のなさなどにあります。では,精神の不安定な一部の若者たちが自尊心をなくしたからといって,どうしてあなたが自尊心を失う必要があるでしょうか。

いやがらせをやめさせる

「幸いなるかな……あざける者の座にすわらなかった人は」と,詩編作者は述べています。(詩編 1:1)自分自身から注意をそらすために人をあざけることに加われば,侮辱し侮辱される悪循環を長びかせるだけです。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。……善をもって悪を征服してゆきなさい」― ローマ 12:17-21

さらに伝道の書 7章9節には,「自分の霊にせき立てられて腹を立ててはならない。腹立ちは愚鈍な者たちの胸に宿るからである」とあります。ですから,からかわれてもそれをひどく深刻に受け止めることはありません。体格のことでからかわれたり,顔の欠点を笑われたりするのは,確かにつらいことです。しかしそのような言葉は品がないとはいえ,悪意のあるものとは限りません。それで,もしだれかがたわいない気持ちで ― あるいはたわいないとは言えない態度で ― あなたの気にしている点に触れたとしても,落胆することはありません。言われたことが卑わいな事柄や不敬なものでなければ,その中にユーモアを見いだすようにすることです。「笑うのに時が」あります。ですから,冗談半分にからかわれて腹を立てるのは,行きすぎかもしれません。―伝道の書 3:4

しかしからかい方が残忍で,悪意も感じられる場合はどうですか。あざける者たちは相手の反応を見,相手が苦しむのを見て楽しむ考えであることを覚えていましょう。激しくやり返したり,守勢を取ったり,泣きだしたりするといい気になって,いやがらせを続けるかもしれません。取り乱すところを見せて,相手に満足感を与える理由がどこにあるでしょうか。多くの場合,侮辱を受け流す一番良い方法は,あざける者たちをさりげなく無視することです。

ソロモン王はさらにこう述べています。「また,人々が話すかもしれないすべての言葉に心を向けてはならない[「人々が話す事柄すべてに注意を向けてはならない」― 今日の英語訳]。あなたの僕があなたの上に災いを呼び求めているのを聞かないためである。あなたの心は,あなた自身も幾度となく他の者たちの上に災いを呼び求めたことを知っているからである」。(伝道の書 7:21,22)あざける者たちの辛らつな言葉に『心を向ける』ことは,自分に対する彼らの評価を気にしすぎていることになります。彼らの評価は正当なものですか。使徒パウロはねたみにかられた仲間たちの不当な攻撃を受けましたが,「さて,わたしにとって,あなた方に,あるいは人間の審判の場で調べられることは,ごくささいな事柄です。……わたしを調べる方はエホバなのです」と答えました。(コリント第一 4:3,4)パウロと神との関係は非常に強固なものであったため,パウロは不当な攻撃に耐える自信と内面の強さを持っていました。

あなたの光を輝かせる

クリスチャンとしての生き方をしているために,時にはばかにされるかもしれません。イエス・キリストご自身もそのような「逆らいのことば」に耐える必要がありました。(ヘブライ 12:3)エレミヤも,エホバからの音信を大胆に語ったため,「一日じゅう笑い物となりました」。そのいやがらせがあまりにも執ようだったので,エレミヤは一時励みを失ってしまいました。「わたしはこの方[エホバ]のことを語り告げないことにしよう。もうそのみ名によっては何も話すまい」と考えました。しかし,神と真理に対する愛ゆえに,エレミヤはついに恐れに打ち勝ちました。―エレミヤ 20:7-9

今日のクリスチャンの若者の中にも同じように勇気をなくす人がいます。からかわれないようにしたいと思って,自分がクリスチャンであることを隠そうとした若者もいます。しかしそういう人々も,やがて神への愛に動かされて恐れを克服し,『光を輝かせる』ようになることがよくあります。(マタイ 5:16)例えば,十代のある少年は,「僕の態度は変わりました。自分がクリスチャンであることを,ついて回る重荷のようにみなすのをやめ,誇るべきものとみなすようになりました」と語りました。あなたも神を知っているという特権や,ほかの人を助けるために神に用いられている特権を「誇る」ことができるのです。―コリント第一 1:31

しかし,他の人たちを絶えず批判したり,自分のほうが優れていると考えているような印象を与えたりして,相手に敵意を抱かせてはなりません。自分の信仰について話す機会が訪れた時にそれを話すのは良いことですが,「温和な気持ちと深い敬意をもって」すべきです。(ペテロ第一 3:15)行状が立派であるという評判は,在学中の一番大きな保護になるかもしれません。ほかの若者たちはあなたの勇気ある態度が気に入らないとしても,その勇気ゆえに仕方なしにあなたを尊敬する場合が少なくありません。

バネサは,少女たちのあるグループにいじめられていました。そのグループはバネサをたたいたり,こづき回したり,手に持っている本をたたき落としたりしました。すべてけんかを売るのが目的でした。バネサの頭にチョコレート・ミルクセーキを掛けてきれいな白いドレスを汚してしまったこともありました。それでも決してその挑発に乗りませんでした。しばらくしてバネサは,エホバの証人の大会でそのグループの番長に会ったのです! その元つっぱり屋は,「あなたが憎らしくて……一度でいいから冷静さを失うところを見たかったの」と言いました。しかし彼女は,バネサが落ち着きを失わないことに好奇心をそそられ,エホバの証人と聖書研究をしてみる気になったのです。「学んだことがすっかり好きになってしまったので,明日バプテスマを受けます」と彼女は言いました。

ですから仲間たちの「逆らいのことば」に気を落とさないことです。適切な時にはユーモアのセンスを示しましょう。悪に対しては親切をもって応じます。争いの火に油をそそがなければ,いじめっ子たちはやがて,あなたを嘲笑の的にすることに興味を失うでしょう。「まきがなければ火は消え(る)」からです。―箴言 26:20

討論のための質問

□ 神は,他の人を残酷な仕方でからかう者たちをどうご覧になりますか

□ 若者がいやがらせをする背景には,大抵,何がありますか

□ どうすれば,あざけりを最小限に抑える,あるいはやめさせることができますか

□ からかわれても,学校で『光を輝かせる』のはなぜ大切ですか

□ 校内暴力から身を守るために,どんな手段を講じることができますか

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人をいじめる者たちは,虚勢を張っていてもその実,『何もこんな自分たちが良いとは思っていないが,だれかをけなすと少しは気が晴れる』と言っているのかもしれない

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どうすれば殴られずにすむだろうか

『学校へ行くのも命がけ』と,多くの生徒は言います。しかし武器を携行するのは愚かなことで,問題を招きます。(箴言 11:27)ではどうすれば,自分の身を守ることができますか。

危険な場所を知って避ける。学校によっては,廊下,階段,更衣室といった場所でよく問題が起きます。またトイレは,けんかをしたり,麻薬を使ったりするために集まる場所としてよく知られているので,多くの若者はそんなトイレを使うよりはむしろ我慢します。

交わりに注意する。よくないグループと交わっていると,ただそれだけの理由でけんかに巻き込まれることがよくあります。(箴言 22:24,25参照。)もちろん,同級生に対して冷淡な態度をとるなら,疎遠になって恨みを買う恐れがあります。こちらが友好的で,礼儀正しい態度を示せば,相手もちょっかいを出さなくなるかもしれません。

けんかを避ける。「互いに挑み合(う)」ことは避けてください。(ガラテア 5:26,脚注)たとえけんかで勝ったとしても,相手はもう一度対決する機会をねらうだけのことかもしれません。それでまず,けんかにならないように話をすることに努めます。(箴言 15:1)もし話をしてもだめなら,暴力による対決を避けるためにその場を去る ― むしろ走り去る ― ことです。『生きている犬は死んだライオンよりもましである』ことを覚えていましょう。(伝道の書 9:4)身を守る必要がある場合には,最後の手段として,何であれ妥当な措置を講じることができます。―ローマ 12:18

両親に話す。若者たちは「学校で恐ろしい目に遭ったことを親にはめったに話さない。親に臆病者と思われたり,いじめっ子に立ち向かわないことを非難されたりするのを恐れるからだ」。(「子供たちの孤独」)しかし,親が介入して初めて解決を見る問題は少なくありません。

神に祈る。神は,あなたが身体的な危害を被らないことを保証してはおられませんが,あなたが直面する問題に立ち向かうための勇気と,事態を緩和するのに必要な知恵を与えることがおできになります。―ヤコブ 1:5

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仲間にいやがらせをされる若者は少なくない

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あざける者は相手が苦しむのを見て楽しもうというのである。激しくやり返したり泣きだしたりすると,いい気になっていやがらせを続けるかもしれない

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からかわれたらユーモアのセンスがあることを示すようにする