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第1部 ― ドイツ

第1部 ― ドイツ

第1部 ― ドイツ

ドイツは人類史に甚大な影響を及ぼしてきました。ドイツ国民は勤勉な働き手また権威に対する従順という点で評判を得ています。それらの特質はこの国の経済成長の主要な要素に数えられており,それゆえに今日,人口6,000万余の西ドイツは世界の工業大国の一つとなっており,地上のあらゆる場所で交易を行なっています。また,その繁栄する経済上の必要を満たすため,近年ギリシャ,ユーゴスラビア,イタリア,スペイン,ポルトガル,トルコその他の土地から300万人余の「移住労働者」を西ドイツに招く必要が生じました。

ドイツの影響はまた,他の点でも波及しました。最初の世界大戦中,1914年から1918年にかけてドイツ軍は東はロシアに押し入り,西はベルギーを通ってフランスにも侵入し,同大戦が終わるまでには世界中の24か国の同盟国を相手にして戦争を行ないました。ドイツは敗れましたが,ほんの短期間の後,同大戦の退役軍人アドルフ・ヒトラーが政権獲得の道を進み始めました。国家社会主義政党の党首となった彼は1933年にはドイツの首相になりました。ヒトラーはすぐさま恐怖政治のもとにドイツ国民を服従させ,1939年には,最初の大戦よりもはるかに大規模で,はるかに壊滅的な別の世界大戦に当時の世界を突入させました。

そうした事柄すべてが生じていた期間,諸教会は何を行なっていましたか。1933年にバチカンとドイツの間で調印された政教条約と調和して,カトリックの僧職者は毎日曜日,ドイツ国家に天の祝福があるようにとの祈りをささげました。プロテスタントの僧職者はそれに反対しましたか。それとは逆で,1933年に彼らは一致結束してナチ国家を無条件で支持する旨誓約しました。また,第二次世界大戦勃発後かなり経った大戦中の1941年には,ドイツ,マインツのプロテスタント福音主義教会は,アドルフ・ヒトラーなる人物がドイツ国民に与えられたことを神に感謝しました。

初期の宗教上の動向

興味深いことに,1517年10月31日,マルチン・ルターが,神のみ言葉に反すると考えられる行ないに反対して95か条の提題をウィッテンベルクの教会の扉に掲げたのはここドイツでのことでした。しかし,その宗教上の抵抗運動はほどなくして政治上の利害とからみ合うようになり,20世紀が到来するずっと前にカトリック教会だけでなくプロテスタント諸団体もまた,自ら世のものであることを明らかにしました。

しかしながら,神が「世の王国」を天の王,主イエス・キリストに与える時が近づくにつれ,世界の他の場所と同様,ドイツでもなされねばならないわざがありました。(啓示 11:15)それは神のみ言葉としての聖書に対する純粋の信仰をいだく人々を必要とするわざでした。そのような人たちには,キリストの真の弟子となるには「世のもの」であってはならないということを認めることが要求されました。(ヨハネ 17:16。ヨハネ第一 5:19)なぜですか。なぜなら,人間の政府を支持する代わりに,神のメシアによる王国を人類に希望を与える唯一のものとしてふれ告げることになっていたからです。(マタイ 24:14。ダニエル 7:13,14)その機会をだれが捉えましたか。

1870年代にはアメリカでチャールズ・テイズ・ラッセルがキリストの再来に深い関心を抱く聖書研究者たちを集めて群れを作り始めていました。彼らは神のみ言葉から学んだすばらしい事柄を他の人々と分かち合う必要を認めました。そのわざが進展し,聖書文書の頒布が規模を増すにつれ,今日ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会として知られる法人団体を設立することが必要となり,ラッセル兄弟がその初代会長になりました。

良いたよりを地の最果てにまで広める重要性を認めたものみの塔協会は1891年に,わざを拡大する可能性を確かめるため,ラッセル兄弟の海外旅行を取り決めました。(使徒 1:8)その旅行の途上,ラッセル兄弟はベルリンとライプチヒを訪れましたが,後日こう報告しました。「イタリアやオーストリアあるいはドイツでは収穫を期待できる励みとなるものは何ら……見当たらない」。それでもなお,同兄弟の帰国後,数冊の書籍や幾つかのちらしをドイツ語で出版する取決めが設けられました。ドイツからアメリカに移住して,協会の出版物を読んだ人々はそれをドイツにいる親族や友人に送って,聖書研究のさいに用いるよう勧めました。

「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」と題する最初のドイツ語の「ものみの塔」誌がアメリカ,ペンシルバニア州アレゲーニーで発行されたのは,それから何年か経った1897年のことでした。その編集主幹はチャールズ・テイズ・ラッセルで,編集副主幹はオットー・A・ケーティツでした。その時までには既にアメリカで「千年期黎明」と題する本の最初の3巻がドイツ語で印刷されていました。

ドイツその他のヨーロッパの地域への文書の発送を簡易化するため,文書貯蔵所がベルリンのニュルンベルゲル街66番地に開設されました。マーガレテ・ギーゼケ姉妹は同貯蔵所を管理し,ドイツ語の「シオンのものみの塔」誌を普通毎号500部郵送する仕事を取り扱いました。1899年の初めにその文書貯蔵所はベルリンから西ブレーメンに移されました。

ゆるやかな始まり

1898年中,努力は増し加えられたにもかかわらず,実情はそのようなものだったため,協会は次のような声明を出すのが適当と考えるほどでした。「協会は親愛なる読者各位の関心と熱意のほどを認めてはいるものの,昨年『ものみの塔』誌に対する注文は予想を下回るものであったことをお知らせしなければならず,またそれゆえに,同誌の印刷を完全に中止すべきか,あるいは2,3か月に1回だけ発行するようにすべきか自問せざるを得ません」。その後,少しの期間,ページ数は2倍になりましたが,わずか3か月に1回印刷されただけでした。

特別著しい成果は得られませんでしたが,払われた努力は確かに空しいものではありませんでした。仕事を能率的に行なうため,1902年には(ウッパータールの)エルベルフェルト区に事務所が開設され,ヘニンゲス兄弟が監督しました。1903年10月,ラッセル兄弟はケーティツ兄弟をドイツに送って監督の仕事を引き継がせ,ヘニンゲス兄弟は特別の割当てを受けてオーストラリアに送られました。ケーティツ兄弟は両親と一緒にドイツからアメリカに移民した人で,1892年の春アメリカでエホバへの奉仕を始めました。彼はラッセル兄弟によりドイツに派遣されるまで,ただ一度短期間中断しただけでドイツ語の「ものみの塔」誌の編集副主幹として奉仕しました。しかし ― 本部事務所の見るところでは ― 1903年当時の成果も依然満足のゆくものではありませんでした。この時期のことを取り上げた年報はこう述べています。「ドイツ支部はかなり繁栄した状態のもとで開設されたものの,それはなお私たちの期待に添うものではありませんでした。ドイツの同信の友は『からだ』と『収穫』のわざとの同一性を十分認識してはいないようです。……とはいえ,1904年中も伝道を続行し,畑を十分に試し,ささげられた時間と金銭を用いるのに有利な畑がもっとあるかどうかに関して主の導きを仰ぎ求めるよう提案されました」。

ドイツでは良いたよりを宣べ伝える点で当時は困難な時代でした。宗教上また政治上の敵は既に活動舞台に登場していました。1871年におけるドイツ帝国創建とともに国家主義が栄え,政治家だけでなく,宗教指導者層もまた国家主義を助長し,「我々はアメリカのではなく,ドイツのキリスト教を欲する」というようなスローガンが教会内でも聞かれました。成長しはじめたばかりの真理の若い苗は,いわば突然春の霜に遭ったのです。しかし幸いにも,払われた努力が空しくはなかったことを示す最初の証拠が現われようとしていました。

最初の会衆

1902年,ある姉妹のクリスチャンがシュワルツワルトの東にあるタイルフィンゲンに引越しました。彼女はスイスで真理を学びましたが,今やタイルフィンゲンの人々に真理を伝えようと努力していました。彼女の名前はマーガレテ・デムトでしたが,いつも耳新しい雑誌「黄金時代」<ゴールデンエージ>のことを話すので,土地の人々は彼女のことを“ゴルデン・グレトレ”と呼びました。そうした活動を続けるうちに,彼女は,妹とふたりの知人の男の人たちと一緒に真理を探し求めていたある男の人に会いました。彼らは既にメソジスト教会に行って真理を探そうと試みていましたが,その家の戸口に彼女が置いていった冊子を読んだ後,直ちに手紙を書いて,入手できる「千年期黎明」を何冊か求めました。彼らは正しい行状のゆえに敬謙な人たちとして近隣全域の人々に知られ,尊敬されていました。そして,ドイツの最初の会衆の一つがその土地で組織され,地域住民の間では“千年期会衆”として知られるようになりました。

それらクリスチャンの兄弟たちはもう一人の姉妹ロサ・ムエレの熱烈な支持を受けました。彼女はその地方のあらゆる人々に「千年期」<ミレニアム>について率直に語ったので,ほどなくして“ミレニアル・レスレ”というあだ名をもらいました。今や89歳になるその姉妹は,ラベンスブルックのヒトラーの強制収容所で過ごした8年間を含め,60年余の間エホバに仕えてきました。

真理の種はまた,ケルン北東のベルギィッシェラントでも芽生えました。1900年ごろ,ものみの塔協会の一代表者がスイスからこの地域に引越しました。彼の名前はラオペルでした。ヴェルメルスキルヘンで彼は80歳のゴットリーブ・パース,また長老で,教会の理事の一人だったオットー・ブロジウスとその妻マティルドに会いました。これらの人たちは皆,真理を探し求めており,ものみの塔の出版物を読んだ後,真理を見いだしたことを知りました。彼らはやがてヴェルメルスキルヘンのとあるレストランで集会を組織し,パース家族やブロシウス家族の大勢の人々が集会に出席し,7,80人もの人たちが出席することもよくありました。その後間もなくゴットリーブ・パースは亡くなりましたが,彼は臨終の床で「ものみの塔」誌を高くかざして言いました。「これは真理です。これにしっかりつき従いなさい」。

そのうち,ヴェストファリア,リュベック郡で各地からの平均25人ほどの男女が一緒に集まって神のみ言葉を考慮していました。彼らはプロテスタントの教会に属してはいましたが,しばしば満たされぬまま家に帰りました。それも牧師が地獄の火について説教したときは特にそうでした。それで教会にはあまり熱心に通いませんでした。ところが,彼らのある隣人が競売に出るためザールブリュッケンに行く途中,火の燃える地獄などというものは存在しないことを述べた冊子を1部汽車の中で見つけました。そして,これは彼の言う「敬謙な人々」であるその隣人のための読みものではなかろうかと考え,帰宅後それを彼らに手渡しました。それらの人々は直ちに,入手できる出版物すべてを注文し,やがてそれらの出版物は彼らの研究資料になりました。彼らはプロテスタントの教会を去ってバプテスマを受けるまでにはかなりの時間がかかりましたが,ものみの塔協会から派遣されて巡回旅行をする兄弟たちの定期的な訪問を楽しみました。こうして,他の幾人もの人々にとって「母会衆」となったゲーレンベックの会衆の基礎が置かれました。

他の幾つかの地方でも成長が見られました。1902年,クナウという名の地主で酪農経営者だった人が真理を得,ベルリン東部の諸会衆の基礎を置きました。ドレスデンでは鉄道の売店管理者をしていたミクリヒ兄弟とその妻が同じころ真理を学びました。その地の会衆はあまりにも速く成長して1,000人余の兄弟姉妹が交わるようになったので,その会衆は1920年代のドイツでは断然最も大きな会衆となりました。

良いたよりを広めるわざを速める

相当の費用がかかりましたが,兄弟たちは「シオンのものみの塔」誌の8ページの見本版を新聞に折り込んで伝えることに決めました。その仕事がどんなに豊かに祝福されたかは,寄せられた手紙の幾つかを読むことによっても分かります。その一例をここに載せます。

「私はティルスィター・ツァィトゥンク紙の折り込みとして今日届けられた『ものみの塔』誌の見本版を読み終えましたが,……深い興味を覚えましたので,死や地獄の問題に関する貴協会の各種出版物の説明をさらに調べたいと存じます。この折り込みに記されている書籍をどうかお送りください。……東プロイセンのP.J.より」。

このことについて1905年4月号の「ものみの塔」誌はこう述べました。

「『ものみの塔』誌の見本版150万部余が頒布されて,わざは開始されました。協会はその結果を大いに喜んでいます。数多くの飢えた魂が答え応じたので,『ものみの塔』の定期的な購読者は1,000人に増えました」。

種,つまり神の王国に関する言葉が可能なかぎりのあらゆる方法で各地に蒔かれ続けるにつれて,成果はますます目につくようになり始めました。ある人たちはラウペル兄弟のように,短期間に多くの区域を網羅するため,聖書文書頒布者として働き始めました。

ある人々は真理を探し求めていた

1905年のこと,ベルリンの近くで「ものみの塔」誌の配布の仕事をしていたラウペル兄弟は,クヤツという名のバプテスト派の年配の一紳士の家で最後の1冊を配布しました。その息子グスタフは最近,バプテスト派の大会に出席し,その大会でクラドルファという名の牧師に注意するよう厳重な警告が出されたことで相当気分を害して帰ってきました。その牧師は突然,魂は不滅ではないと説き始めていたのです。このことに注目したグスタフは父親や友人たちを招いて,その問題に関する真理を探し求めるため聖書を調べ始めました。1905年8月,グスタフ・クヤツは,乗物で1時間ほどかかる所に住む父親を訪ねたところ,父親はラウペル兄弟の置いていったただ1冊の「ものみの塔」誌に息子の注意を引きましたが,それこそまさにふたりがともに求めていたもの,『時に応じて』与えられた『食物』でした。―マタイ 24:45

クヤツは直ちに「ものみの塔」誌を数冊分予約し,その5組分を他の人たちに貸し始めました。しばらく後には,彼の子供たちも再び個々の雑誌を手に入れましたし,次いで彼は関心のある他の人々にも雑誌をあげたので,こうして多くの人々が音信に接しました。当然のことですが,彼はバプテスト派の不興を買い,1905年の大みそか,「あなたは悪魔の道を歩んでいます」と言われて排斥されました。その後,彼の親族が10人余バプテスト教会を去りました。

年の若い方のクヤツはまた,クリスチャンは集まり合うことをなおざりにしてはならないことを理解していたので,エルベルフェルトのものみの塔協会の支部事務所に手紙を書き,一緒に集まって研究できる人々の住所氏名を尋ねました。ケーティツ兄弟はベルリンに住む19歳のベルヌハルド・ブッホルツの住所しか与えられませんでしたが,クヤツは早速連絡を取りました。当時,ブッホルツは「救世主会衆」と呼ばれるグループに所属していました。そして,「千年期黎明」と題する本を何巻か焼き捨てたばかりでした。彼は孤児でしたし,未成年者として非行を犯したために就職もできなかったので,ベルリンでただ自分だけが真理を得るに値するなどとはとても考えられなかったためでした。しかし,クヤツは一緒にそれらの本を研究するよう彼を励まし,聖書文書頒布者になるよう励ましさえしました。その後まもなくクヤツは彼を自分の家に引き取りました。

その区域で良いたよりを広めるわざのための資金をまかなえるようにするため,クヤツは新しい家を建てる計画をやめ,家を建てることにしていた地所を売り,そうして得た資金を用いて,父の家の二つの部屋を作り直して,集会を開けるような一つの部屋にしました。そして,1908年までには20人ないし30人ほどの小さなグループを組織することができました。

同じころ,ロシアに広大な地所を持っているフォン トルノブという男爵が真理を探し求めていました。ロシアの貴族の放縦な生活ぶりにうんざりさせられていた彼は,スイス経由でアフリカに行き,そこで宣教師として奉仕することに決めていました。出発する前夜,彼はスイスのとある山村の小さな教会を最後に訪れました。教会を出ようとしたところ,だれかがものみの塔協会の冊子を1部彼に提供しました。さて,翌日,彼はアフリカに向けて発つ代わりに,協会の文書をさらに求めることにしました。それは1907年ごろのことでした。

1909年,彼は自分の持っている最上等の衣服で正装し,召使いを同伴してベルリンの会衆に姿を現わしました。そして,集会場はあまりにも簡素で,しかもそこで会った人々は全然外見を飾ってはおらず,あまりにも気どったところのない人々だったので,がっかりしました。というのは,これほど貴重な真理であるからには,それにふさわしい適当な外面的装いを伴って然るべきだと考えていたからです。しかし,そこで聞いた事柄から深い感銘を受けました。何か月か後,そうした感情を克服した彼は再びやって来ました。ところがこのたびは,見違えるほど地味ないでたちで出席しました。というのは,召使いを伴わず,またずっと控え目な服装をしてきたからです。もし聖書の「兄弟たち,あなたがたが自分たちに対する神の召しについて見ていることですが,肉的に賢い者が多く召されたのではなく,強力な者が多く,高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません。むしろ,神は世の愚かなものを選(ばれました。)……それは,肉なるものがだれも神のみまえで誇ることがないためです」という言葉を読んでいなかったなら,恐らく戻らなかっただろうと,後日述懐しました。―コリント第一 1:26-29

今や真理を見いだしたことを確信した彼は,ロシアに戻って自分の地所すべてを売り払い,ドレスデンに住みました。進んでつつましい生活を望んだ彼は,全財産をエホバへの奉仕にささげる覚悟を決めました。

よく組織された講演旅行

1913年,トルノブ兄弟はバーメンの支部事務所に三回にわたる講演旅行を取り決めてもらい,同兄弟がその資金の大半を個人的にまかないました。ポンメルンのゴルノブ出身の製パン業者ヒルデブラント兄弟も家を売り払い,講演旅行の費用の一部を負担しました。5人の兄弟と4人の若い姉妹たちで成る旅行グループが組織され,その一行はさらに適当な二つの小さいグループに分けられました。

ヒルデブラント兄弟は「主計」また「出版物管理者」としての役を務め,3,4人の姉妹たちとともに先に出かけました。その姉妹たちのうちの二人は高齢ながら今日でもなお王国の関心事を促進するために努力しています。さて,その一行は自分たちと,何日か後に到着するグループのための宿舎の取決めを整えた後,郵便局に送っておいた冊子その他の文書の入った段ボール箱を受け取って宿舎に運びます。次いで,講演の行なわれる日時や会場の住所のスタンプを冊子に押し(こうして冊子はまた招待状としても用いられた),トルノブ兄弟が特に購入した幾つかの鞄に少なくとも1,200ないし1,600枚はいるような形に冊子を折りたたみました。それらの兄弟姉妹たちはその冊子の配布の仕事を一生懸命に行ないました。というのは,午前8時30分までには最初の家の戸口に立てるようにし,昼休みを一時間とっただけで,晩の7時まで働き続けたからです。コーヒーを飲む休憩時間などはありませんでした。

それから2,3日後,ブッホルツ,トルノブそしてナゲル兄弟がやって来ました。講演はブッホルツ兄弟によって行なわれ,たいてい会場はいっぱいになり,自分の住所氏名を記して手渡して帰る人々がたいへん大勢いたので,翌日3人の兄弟たちはそれらの人々すべてを訪問するのに忙しく働きました。

二度目の講演旅行では,一行はウィッテンベルクやハレを通ってハンブルクにまで行きました。三回目の旅行の際には遠くロシアの国境近くにまで赴き,第一次世界大戦勃発前の当時,それら東方の各地でもかなりの証言をすることができました。

真理を断固として支持する

1908年ごろまでにはジーゲルラントでも事態は進展しはじめました。今90歳のオットー・フゴ・ライは1905年ごろ専門職の一知人を通して真理に接しました。それから2年の後,彼は子供たちとともに教会を脱退し,また教会税の支払いも拒否しました。ところが,それにもかかわらずその分の差押えを受けました。差押えに来た役人は,それと人に気づかれないよう,陳列棚の一つの後ろに差押えの札を貼り付けましたが,ライ兄弟はそれに反対し,だれにも見える所に,まただれにも見えるように貼ってもらいたいと言いました。彼はその札を見る人すべてに事の真相を知らせたかったのです。彼は1908年にヴィデナウの浴槽でバプテスマを受け,ジーゲンの会衆と交わりはじめました。

1905年,ヘルマン・ヘルケンデルは汽車の座席で見つけた一枚の冊子を通して真理を知るようになりました。それは若い教師だった彼がイエナの大学で引き続き教育を受けるため,その町に向かう旅行の途上でのことでした。その冊子の内容に深い感銘を受けた彼は,ほどなくしてルーテル教会を脱退しました。その結果,宗教の課目の担当を直ちにやめさせられ,またその後まもなく教職から解雇されました。

1909年にはヘルケンデル兄弟は既にケーティツ兄弟の代わりとして諸会衆を訪問して奉仕しており,同年の終わりには,協会を代表する一行による,提案された旅行に関連して,旅行する「巡回奉仕者」の一人として彼の名前が初めて「ものみの塔」誌上に現われました。1911年,彼はある鋳造工場の裕福な所有者ヤンダー兄弟の娘と結婚しました。若いヘルケンデル姉妹はたいへん異例な新婚旅行の資金に当てるため持参金を父親に求めました。二人はその資金を用いて,ロシアにいるドイツ語を話す人々に王国の音信を宣べ伝えたかったのです。バーメンの事務所は手もとにあるドイツ系ロシア人の住所氏名を二人に知らせました。その旅行は何か月にもわたる,たいへん努力の要る旅行でした。というのは,鉄道の駅から兄弟たちや関心のある人々の住んでいる所まで行くのに何時間もかかることは珍しくなかったからです。それらの人たちは車を持ってはいませんでしたし,手紙や電報などによる連絡も当てにならなかったので,駅でだれかに出迎えて連れて行ってもらうことはめったにありませんでした。今日の若い男女で,このような新婚旅行をする人が何人いるでしょうか。

第一次世界大戦中,短期間でしたが,ヘルケンデル兄弟はバーメンの事務所の責任を引き受ける特権を得,次いで同大戦後再び旅行する巡回奉仕者として奉仕し,1926年巡回奉仕の旅行中に亡くなりました。

1908年の年報がまとめられたとき,それまでに初めてのこととして,冊子の配布の大半が「ものみの塔」誌の読者自身の手でなされ,新聞によって頒布されたのは比較的にごくわずかであることがかわったのは励みになる事柄でした。それにしても,この後者の方法が講じられた結果として,18歳になる一青年がハンブルクで真理に接しました。学校を終えた後,彼は聖書を理解したいとの誠実な願いを抱いて毎日聖書を読み始めました。数年経った1908年のこと,彼は「家督権を売る」と題する冊子を手に入れました。それを読んだその青年は非常な興味を覚えました。そして,仲間の従業員からの嘲笑などを少しも気にせずに,バーメンにある協会の事務所に直ちに手紙を出して,「聖書研究」と題する6巻の書籍を求めました。その後まもなく,ケーティツ兄弟に会う機会を得た彼は,いつかバーメンを訪れるよう同兄弟から招かれました。すると,青年はその招きを受け入れ,それとともに,バーメンをそうして訪ねる時はまた自分がバプテスマを受ける時になるでしょう,と述べました。次いで,1909年の初めにそのとおりのことが起きました。支部の監督は,今や私たちの兄弟となったその若い友を駅まで見送り,彼が汽車に乗り込む前に,開拓奉仕を希望しているかどうかについて尋ねました。すると,その若い兄弟は,自分がそうする段階にまで達したなら協会に連絡いたします,と言いました。

この若い兄弟はハインリヒ・ドゥエンガーといいますが,彼はまもなく事情を調整して1910年10月1日付で開拓奉仕を始めることができました。そして彼は,その後何十年かの間にヨーロッパにあるものみの塔協会のほとんどすべてのベテル・ホームのほとんどすべての部門で奉仕する特権にあずかりました。また,協会の代表者として定期的に旅行して奉仕する喜びも味わいましたし,困難な時期には支部の監督の代理として各地でしばしば奉仕する喜びにもあずかりました。彼は多くの人から愛されるようになり,また有用な働き手としてその労を認められています。現在彼は86歳ですが,連続60年余にわたって全時間奉仕を行なってきた後の今もなお霊的にも,また身体的にも健康に恵まれています。

ラッセル兄弟は再びドイツを訪れる

1909年,支部事務所がバーメンのもっと広い場所に移転するとともに,組織はいっそう改善されました。当然のこととして,それは支出の増大を意味しました。しかし,クナウ兄弟は躊躇することなく自分の資産を売って得た資金をベテル・ホームを設置するのに用いました。また,1909年には霊的に強める面でも多くのことが行なわれました。同年の2月,ザクセン州の兄弟たちはケーティツ兄弟に数回の公開講演を行なってもらうよう取り決めました。そして,同兄弟は6回にわたり,それも一回に少なくとも250ないし300人の聴衆に証言することができました。

しかし,1909年中の最大のできごととなったのはもちろん,長く待ち望まれていたラッセル兄弟の訪独でした。同兄弟はハンブルクにちょっと留まった後,ベルリンに到着し,兄弟たちの一行に迎えられました。一行は直ちに,美しく飾られた集会場に赴きましたが,そこでは5,60人の兄弟たちがラッセル兄弟の到着を辛抱強く待ち受けていました。ラッセル兄弟は,アダムが失ったものの回復に関する話を行ない,特にキリストのからだの成員となる見込みを持つ人たちの受ける特権を指摘しました。一同は一緒に簡単な食事をした後,公開講演が行なわれることになっていたオーエンツォレルン・ホールに行きました。会場はいっぱいでした! 500人もの大勢の聴衆が,「死者はどこにいるか」と題する講演を聞きました。そのうち100人ほどの人々は立って話を聞き,そのほかに400人もの人々は場所がないため入場を断わられましたが,会場の外で冊子をもらいました。その後,ドレスデンでは少なくとも900ないし1,000人もの人々がラッセル兄弟の2時間にわたる公開講演を聞きました。次いで,同兄弟はバーメンまで旅行を続け,バーメンではおよそ1,000人ほどの人々が彼の話を聞きました。翌日の午後,120人の兄弟たちがバイブル・ハウス(聖書の家)に集まり,またその晩には300人ほどの人々が聖書の質問に対するラッセル兄弟の答えを聞きました。こうしてラッセル兄弟の訪独は終わり,直ちに同夜11時過ぎ,同兄弟はスイス行きの列車に乗り込みました。スイスではチューリヒで2日間にわたる大会が開かれることになっていました。

同年中,ドイツの兄弟たちは国外からの援助を受けずに,自分たちの資力を活用してドイツにおける王国のわざを支持する努力を払うよう励まされました。しかし,同年の末までには,印刷の費用,郵送料,貨物の送料,折込み料金,公開講演と旅行経費,賃借料,光熱費その他の支出は合計4万1,490.60マルクに達しましたが,寄付は合計9,841.89マルクに過ぎず,生じた3万1,648.71マルクの赤字分はブルックリン本部からの送金によって償われました。そのため,ラッセル兄弟はその年報の中で次のように述べざるを得ませんでした。「協会は真理を知らせるためにドイツで膨大な資金を費やしてきた。……比較的に言って,ドイツでは他のいかなる国におけるよりも多くの努力が払われている。もし,聖別されたドイツ人の大多数が既にアメリカに移住したのでもないかぎり ― それ相当の成果を期待して然るべきである」。

ラッセル兄弟は1910年の世界旅行のさい,10時間ほどの短時間でしたがベルリンで途中下車し,その到着を待っていた200人ほどの人々に話をしました。

そのころ,ベルリン出身の市電の車掌エミル・ゼルマンがかなり人々の注意を引くようになりました。彼はあらゆる機会を捉えて聖書を読んだり,乗客に証言したりし,時には次の停留所までの途中でさえそうしたりしたので,ある時など,一生懸命聖書を読んでいたため,次の停留所の名を言う代わりに,その時まで読んでいた箇所が口をついて出,「詩篇 91篇」と大声で知らせて乗客を大笑いさせました。ほどなくして,同僚の車掌10人余とその家族が集会に出席するようになり,その小さな,しかし活発な群れはベルリンで良いたよりを広めるのに相当の働きをしました。それらの兄弟たちは午前5時から仕事を始めていましたが,熱心さのあまり,さらに2時間も早く車庫に行き,運転する予定の電車の座席に次々に冊子を置いたりするほどで,その熱心さは模範的なものでした。

1911年の特色となったのは,「シオン主義と預言」と題するラッセル兄弟の行なった講演でした。その講演は聴衆の間で怒りの反応を引き起こす場合もありました。たとえば,ベルリンでの講演では騒ぎが生じ,講演の初めのころ100人近い人々が会場を去りましたが,およそ1,400人もの人々はそのまま留まり,ラッセル兄弟の講演を終わりまで熱心に聞きました。

ラッセル兄弟はその旅行報告の中でドイツにおけるわざの進展状況に再び言及し,『同信の友およびその関心は増大しているとはいえ,払われた努力や費やされた資金の額はもとより,膨大な人口から考えて,関心のある人々の人数の点では失望させられている』旨指摘しました。それまでの何年かの事情は,ドイツにおけるわざの増大に必要な先行条件が最初はたとえばアメリカの場合ほど有利ではなかったことを確かに示していました。ドイツ国民の相当数の人々はカトリック信者であり,また社会主義者もかなりの人数を占めていましたし,大多数の人々は聖書に反対する態度を取っており,高等教育を受けた人々の大半は神から遠ざかっていました。

1912年の夏,ラッセル兄弟はヨーロッパ旅行を行ない,ミュンヘン,ライヘンバハ,ドレスデン,ベルリン,バーメンおよびキールを訪れました。この時の公開講演のために同兄弟は,「墓のかなた」と題する非常に期待のもてる主題を選びました。その講演は,霊魂不滅や地獄の火の教理を説く点で知られている幾つかの教会を描いた大きな長い幕を使って宣伝されました。その幕の前景には鎖で縛られた大きな聖書が描き出され,しかしその鎖はある一箇所で砕かれて切れていました。そして,背景にはラッセル兄弟が聖書を指さしている様が見えました。この幕は方々の都市でかなりの騒ぎを引き起こし,一部の警察当局者はそれを掲げさせないようにしました。しかしそうした妨害にもかかわらず,ミュンヘン,ドレスデンそしてキールでは1,500ないし2,000人もの聴衆がやって来て,その講演を聞きました。

ベルリンでもその公開講演はやはりたいへんよく宣伝されました。その催しは異例なほどに大きな新聞広告によって数回大々的に知らされましたし,方々の広告板に協会のポスターが掲げられました。そのうえ,講演を宣伝する一助として主要新聞すべての「メッセンジャー・ボーイ」が雇われました。それらメッセンジャー・ボーイは青と白の縞模様のズボンをはき,あごひもの付いた帽子を斜めに気取ったかっこうでかぶっていました。そして,胸前と背中の両面にプラカードを下げ,ローラー・スケートに乗って市内の街路を勢いよく走り回りました。いつも彼らが姿を現わすと,ベルリン市民はみな何か大きなことが起こるということを知りました。

そのようなわけで,当日の午後早くも,ラッセル兄弟の講演を聞くため,観客約5,000人を収容できる同市最大のフリートリヒスハイン・ホールに人々が既に大群衆となって集まりだしたのももっともなことでした。会場が開かれる何時間も前に会場周辺全部が群衆で埋まりました。時間が経つにつれ,人々は前例のないほどの大群衆となって膨れ上がり,交通機関はもはや群衆を扱えないほどになりました。経済的なゆとりのある人々はハンサム型二輪馬車でやって来ました。交通機関の輸送能力が限界に達したため,他の大勢の人々は会場に行くことさえできませんでした。そして,会場のある地区の一区画は警察の手で交通止めにされ,また推定1万5,000ないし2万人ほどの人々が完全に埋め尽くされた会場の入口で入場を断わられました。熱心な兄弟姉妹たちはそうした事態を生かして,会場に入れなかった何千人もの人々の間で,相当量の「聖書研究」その他の出版物とともに何千部もの冊子を配布しました。従って,ラッセル兄弟はその最後のベルリン訪問中深い感銘を与える証言を行ない得たことに満足して同市を去ることができました。

翌1913年は,もしできればさらに多くの時間と精力と資金を投じて,さらに多くの人々に王国の良いたよりを知らせたいという誠実な願いで特色づけられる年となりました。ラッセル兄弟の聖書の話をデル フォルクスボーテ誌に毎週掲載し,そうすることによってさらに大勢の人々に音信を伝える取決めが設けられました。また,協会の文書は盲人のために点字でも出版されました。協会はさらに,無償配布用の文書を兄弟たちに供給する意志のあることをさえ表明しました。

予定表がいっぱいにふさがっていたためラッセル兄弟は1913年に訪独できませんでしたが,しかし当時の協会の法律顧問ラザフォード兄弟を派遣したので,兄弟たちは大いに喜びました。同兄弟の講演にも多くの人々が出席し,どこでも講演会場は収容能力いっぱいに埋めつくされ,大勢の人々が入場を断わられる事態がしばしば生じました。例えば,ドレスデンでは会場に2,000人ほど入りましたが,7,000ないし8,000人もの人々が入れないため入場を断わられました。聴衆3,000人が出席したベルリンでの講演のさい,もんちゃくを起こす人々があまりにも大声で騒いで騒動を起こしたため,ラザフォード兄弟の話を通訳していたケーティツ兄弟は十分聞き取れるほどの声量で話しつづけることが困難になってしまいました。当時,拡声装置などはありませんでしたから,そうした難しい状況のもとで事態を制して話し続けるには強力な声が必要だったことも忘れてはなりません。ケーティツ兄弟は非常な努力を払いましたが,その事態を制することができず,話している最中に肺が損傷を起こし,声が全然出なくなりました。すると,とっさにある兄弟がテーブルの上に飛び上がるなり,「アメリカ人は我々ドイツ人のことをどう思うだろうか」と大声で叫んだところ,騒ぎを起こした人々は静かになったようでした。ケーティツ兄弟は話をし終えましたが,彼のことを知っている兄弟たちの話では,同兄弟はその時あまり無理をしてのどをいためたため,その後のどを完全に治すことはどうしてもできなかったとのことです。

同年の終わりにさいして,とりわけ満足すべきこととなったのは,協会のわざの支出が自発的な寄付でまかなわれたうえ,多少の資金が残ったという事実でした。こうして,ドイツの兄弟たちは豊かな祝福で満たされた1年の終わりを迎えるとともに,前途のもう1年も熱心な活動の行なわれる年になるとの確信を抱けるようになりました。もっとも,多くの人は次の1年が『収穫の最後の年』になるだろうと考えていました。

待望の年 ― 1914年

さて,ものみの塔協会の出版物の多数の読者が何十年もの間待ち望んでいた歴史上の画期的な年,1914年が到来しました。その年の前半は前年と全く同様穏やかに経過しました。確かにヨーロッパには緊張した空気が流れてはいましたが,それが激しく爆発する訳でもなかったので,神の王国に反対する人々は否定的な発言を述べ始め,あまりにも早まって「千年期黎明派」の敗北をさも満足げに宣言する者もかなりいました。しかし,長年証言のわざに参加してきた人たちの信仰は,そのような事柄で動揺させられたりはしませんでした。

その間も,時は進み,ヨーロッパでの幾つかの国々では「万一に備えて」軍事上の大演習が行なわれていましたが,事態はなおも平穏に見えました。とはいえ,軍事教練を受ける兵士たちの気取ったかっこうで歩くその足音は,いつなんどき爆発するかわからない火山の鳴動を思わせました。突如,全世界の人々はかたずをのみました。サラエボで銃声が轟いたのです。世界中の大都市では新聞配達が「号外! 号外!」と叫んで街路を走りました。その時までの人類史上最悪の殺りくを伴う戦争,歴史家により初めて「世界大戦」と呼ばれた戦争が勃発したのです。多くの人々にとって同大戦の勃発はまるで青天のへきれきのようでした。そして,とたんに嘲笑者は沈黙してしまいました。リューベック出身のグラーベンカンプ兄弟は息子たちに,「さあ皆,いよいよ時が来たぞ!」と語りましたが,世界の至る所にいる彼の仲間の兄弟たちも同様のことを考え,同様の言葉を口にしました。彼らはそうしたできごとを待ち受けていたのです。そうです,待ち受けていただけでなく,そうした事柄について他の人々に告げ知らせるようエホバから命じられていたのです。また,そうした事柄は人類に対する筆舌に尽くせないほどのエホバの祝福の先触れにすぎないことも知っていました。

今や兄弟たちは自分自身の目で過去を振り返って見,自分たちの行なってきた証言がどのように証拠立てられてきたかを知ることができました。一例として,1912年に妻とともにバプテスマを受けたダーテ兄弟は何年もの後,その親しい友であるフリツ・ダスラー兄弟に次のように書き送りました。

「1954年6月23日,妻が死の眠りにつく2時間半ほど前のこと,私は病床に伏す愛する妻の傍で最後の2時間を共に過ごしながら,私たち二人にとって終始非常に重要な時となった,遠い昔の1914年6月28日のあの日のことを思い起こしました。その日は日曜日で,うららかな夏の良い天気に恵まれた日でした。その日の午後,私たちはバルコニーでコーヒーを飲みながら,紺ぺきの空に見とれていました。空気は清らかで,からっとして,空には一片の雲もありませんでした。私はその日の新聞のことを話しました。地上のどこにも緊張した事態はないようでした。いずこも平穏無事でした。それにしても私たちは,キリストの支配の始まりを示す見えるしるしがその年のうちに現われることを待ち望んでいたのです。種々の新聞は既に勝ち誇り,1914年における世の終わりについて預言してきた真のクリスチャンに対する中傷的な記事を次々に掲げていました。ところが,1914年6月29日,月曜日の朝早く朝刊を開いてみると,『オーストリアの王位継承者,サラエボで殺害される!』という見出しが掲げられていたのです。一夜にして政治的な天は暗くなり,4週間後には第一次世界大戦が勃発しました。今や突然,私たちは反対者たちの目に最大の預言者たちとして写ったのです」。

それら忠実なしもべたちは明らかにされたエホバの意志を喜んで行なおうとする態度を抱いていたので,1914年が到来し,そして経過した後でさえ,自分たちの前途にはさらに大きなわざがなお横たわっていることを悟れました。エホバはご自分の目的が遂行されるよう,その民を導いておられたのです。「創造の写真-劇」によって行なわれた大々的な証言のための準備の仕事も,そのことを示す良い例です。上映に必要な装置,フィルム,スライドそして上映上の指示がドイツに届いたのは大戦勃発の少し前のことでした。ある部分はもっと前に届いていたので,既に1914年4月12日にはバーメンの大会で,そして同5月31日から6月2日まで行なわれたドレスデンの大会でもそれぞれ上映されました。ついでですが,ドレスデンの大会にはロシアやオーストリア-ハンガリーからの兄弟たちも何人か出席しました。

第一次大戦勃発の3週間前,フィルムの残りがドイツに到着するや,協会は直ちにその「写真-劇」をエルベルフェルト市の公会堂で上映する取決めを設けました。「写真-劇」に対する一般の人々の関心のほどを考えると,その公会堂はあまりにも小さすぎたため,2回上映せざるを得ませんでした。ベルリンでも大々的な初上映が行なわれましたが,入場できなかった観客にも見せるため,1日に2回上映されました。1914年11月1日から同23日にわたって,(連続4日間に4部に分けて上映された)一続きの映写を5回行なわねばなりませんでした。

しかし,第一次大戦は種々の問題を引き起こしました。最初の問題は,アメリカとの連絡が一時的に断たれたことでした。

わざの監督に関して生じた種々の問題

ドイツにいる神の民は今や,わざの監督に関して生じた問題で特徴づけられる緊迫した重大な時期に入りました。1914年の終わりごろ,つまりケーティツ兄弟がドイツにおけるわざを監督する権限をラッセル兄弟から与えられてドイツに来てから約11年の後,突然色々の方面から攻撃され,種々の間違いの点で非難されました。そのため兄弟たちの間に不快な関係が生じ,その結果,ラッセル兄弟は彼をその地位から解任しました。

ドイツでは巡回奉仕をする兄弟たちがほかにも必要だったため,ラッセル兄弟は,以前メソジスト派の牧師をしていて,「ものみの塔」誌にわずか1年ほど通じていたにすぎないコンラド・ビンケレという名のアメリカ出身の兄弟を,そうした資格で奉仕するよう派遣しました。もっともラッセル兄弟は乗り気ではなかったのですが,とにかくそうしたのです。ビンケレ兄弟はしもべたちの間の種々の問題がゆゆしいほどに大きくなり始めた丁度その時ドイツに着き,1915年,ドイツのわざを監督する責任を委ねられました。

しかし,ビンケレ兄弟姉妹はまもなくアメリカに戻ってしまいました。そして,二人の別れの言葉は,『その能力をもってしては事態はあまりにも堪えがたいものになった』という説明を付して,10月号の「ものみの塔」誌の最後のページに,よく目につくようゴシックの活字で印刷され,掲載されました。その「事態」とは恐らく,1915年に増大し始めた困難な事態のことと思われます。同年10月,ラッセル兄弟はその問題に特別の注意を払い,問題を処理する必要な処置を講じざるを得ないと感じました。「ドイツの聖書研究者たちに対するラッセル兄弟からの親書」と呼ばれる一通の手紙はこう述べています。

「1915年10月,ブルックリン

「親愛なる同信の友へ:

「私はしばしば祈りの中で皆さんのことを考えております。主が皆さんを祝福なさるよう心から願っています。そして,戦争による患難のさ中で直接あるいは間接的にその影響を受けておられる皆さんに同情いたします。同時に,ドイツで皆さんが真理のために遭遇した患難に関して皆さんに対する私たちの同情の念を表明したいと思います。私たちは互いに裁き合ったり,最終的な裁きの宣告を下して処罰したりすべきではありません。もし間違いをした兄弟が悔い改めるなら,私たちは最終的裁きと処罰を,『主その民をさばかん』と言われた主に委ねて満足しなければなりません。ヘブル 10:30

「それにしても,真実と義と正しい行為を擁護するため,また協会の代表者たちの及ぼす影響のためにも,ドイツにおける協会の代表者たちを新たに任命する必要があるように思われます。戦争のために種々の不都合が生じ,郵便や電報による通信連絡が乱れているため,バーメンの指導部に関してしばらくの間ある種の誤解が生じたことは理解するに難くありません。愛するビンケレ兄弟は最善を尽くし,その時の事情のもとで物事を正しく処理したと私たちは考えています。しかし,ご承知のとおり,ビンケレ兄弟はアメリカに帰国しました。

「私たちはドイツの同信の友である皆さんに,今後協会の事柄はすべて,三人の兄弟たち,つまりエルンスト・ヘンデラー,フリツ・クリストマンおよびラインハルト・ブロッホマンで構成される委員会によって処理されるべきであることをお知らせします。……

「愛する同信の友である皆さん,私は皆さんがあらゆる点でバーメンのこの新しい指導部と協力し,同指導部を支持するようお勧めします。キリストのからだはただ一つであり,使徒が私たちに諭しているとおり,そのからだは内部分裂を許すものではありません」。

しかし,この取決めも意図したとおりには働きませんでした。というのは,ブロッホマン兄弟はバーメンを去らねばならなくなり,またヘンデラー兄弟はラッセル兄弟の手紙がドイツに届かないうちに既に亡くなったからです。緊張した事態はその後もなお収まらなかったため,翌1916年2月,ラッセル兄弟は,H・ヘルケンデル,O・A・ケーティツ,F・クリストマン,C・ストールマンおよびE・ホエッケルの5人の兄弟たちで構成される「監督委員会」を取り決めました。

ところが,この「監督委員会」の取決めも長続きはしませんでした。それからわずか数か月後,同委員会はもう一度編成し直され,その間にヨーロッパに戻ってスイスのチューリヒに住んでいたビンケレ兄弟が,ドイツとスイスおよびオランダの協会の正式の代表者として奉仕するよう任命され,一方ヘルケンデル兄弟は編集の仕事の責任を委ねられました。

1914年にビンケレ兄弟に取って代わられたケーティツ兄弟はそれ以後,「写真-劇」の上映の仕事を行なっていました。しかし彼は,組織の内部的平和に貢献するよりもむしろ自分たちの利己的な望みを達成することにやっきとなっていた兄弟たちからの攻撃の的とされていました。長年ケーティツ兄弟とともに働いてきたエリザベス・ランはある時,「写真-劇」が上映されている会場の近くの公園のベンチに悲しそうな様子をして腰をおろしている同兄弟を見つけました。すると彼は,自分に残されている最後の奉仕の特権をも奪い取ろうとする意図がはっきり読み取れる非難の手紙をまたもや受け取った,と彼女に語りました。そして,ドイツにおけるわざを監督する責任を受けるまでの約10年間ラッセル兄弟のそばで働く特権にあずかっていた時分のことを語りました。しかし,彼はそうした監督の務めを委任されるのに自分が果たしてふさわしかったかどうかに関してしばしば自己吟味を行ないました。それにしても,同兄弟は,「私の24年にわたる活動により,14万4,000人の一人になるのにふさわしい者であることを証明するよう,ただの一人の人でも援助できたのであれば,私はこのわざの14万4,000分の1を成し遂げる特権にあずかれたことになれる」と考えて,自らを慰めました。

ベルリンで起こした肺の損傷のためひどく健康を害していた彼が,そうした絶え間ない非難攻撃を受けて大いに健康を損ったのももっともなことです。こうして彼は1916年9月24日,43歳で亡くなりました。「ものみの塔」誌に載せられた協会の声明文は,彼の「忠実さ」を指摘し,「愛する同信の兄弟たちすべては彼の熱心さ,その忍耐と不動の態度,その強固な信仰と意志,その献身および義務を忠実に遂行したことを認め,正しく評価しています」と述べました。

その後ほどなくして,つまりケーティツ兄弟が亡くなってから約5週間後の10月31日,ドイツの兄弟たちはラッセル兄弟もその地上の歩みを終えたとの知らせを受け取りました。中には,その知らせのためにあまりにも気落ちして,それまでの歩みをやめて離れ去った人たちもいました。しかし,大多数の人々はラッセル兄弟の死去の報を,自分たちの精力や時間をなおも徹底的に捧げて,自分たちの始めたわざを続行するよう自らを鼓舞するものとして受け止めました。

それにしても,戦争のためにわざの監督の面で種々の変化が繰り返し生じました。1916年10月から1917年2月までパウル・バルツェライトが監督として奉仕しました。1917年2月から翌1918年1月まではヘルケンデル兄弟が,また1918年1月から1920年1月まではM・クナウ兄弟がそれぞれ奉仕し,次いでバルツェライト兄弟がクナウ兄弟に取って代わりました。

中立

第一次世界大戦の勃発は,中立の問題であやふやな態度を兄弟たちに取らせる機会を悪魔に供するものとなりました。ドゥエンゲル,バザンそしてヘスの三人の兄弟たちがそろって徴兵適齢期にあったバーメンのバイブル・ハウス内でさえ,そうしたあやふやな態度がはっきり表われました。ドゥエンゲルとバザン両兄弟は忠誠の誓いをしたり,武器を取ったりはしない決意でいましたが,ヘス兄弟は迷っていました。彼は神の王国に希望を置かなかった人たちに仲間入りしてベルギー戦線に赴き,二度と再び帰りませんでした。後日,ドゥエンゲルとバザン両兄弟は兵役への召集令状を受けることになりました。バザン兄弟は間もなく帰宅できましたが,ドゥエンゲル兄弟は免除されるどころか,軍当局に書類を正式に提出するよう強制されました。そうすることはその問題に関して当時彼が得ていた理解と矛盾するものではなかったので,同兄弟は快くそうしようとしました。しかし,巡回旅行者として働いていたバルツェライト兄弟は,まさかの時には自分なら書類の提出も武器を取ることも拒否すると言って,ドゥエンゲル兄弟とは意見を異にしていましたし,「もしあなたがそのような立場を取るなら,その結果,私たちのわざはどうなるのか承知していますか」と尋ねて,意見の食い違いを明らかにしました。

兄弟たちの間にはあいまいな態度が広まっていたため,諸国民の事柄に対するクリスチャンの厳正中立の道にすべての兄弟たちが従った訳ではありませんでした。相当数の兄弟たちは兵役に就き,戦線に出て戦いました。また,他の兄弟たちは戦闘行為に携わることは拒否したものの,軍医班に加わって軍務に快く服しました。とはいえ,確固とした立場を取って,軍務に服することを一切拒否し,刑務所での服役刑を受けた人々もいました。ハンス・ヘルターホフは確固とした立場を取った結果,構内に連れ出されて,見せかけの銃殺隊の前に立たされるという残忍巧かつな処置を取られました。そして遂に,軍事裁判所で懲役2年の宣告を受けました。

クリスチャンの中立というような重要な問題に関して神の民の間にあやふやな態度が見られたことを考えると,エホバがご自分の民を憐み深く取り扱ってくださったことに対して私たちは確かにエホバに感謝できます。

不利な事情にもめげずいっそうの拡大を見る

「創造の写真-劇」はこの時期におけるわざの拡大に大いに寄与するものとなりました。それは今やキールのような小都市でも上映されました。そのキール市でのこと,後日ほどなくして私たちの姉妹になったある非常なお金持ちの婦人が「写真-劇」を見て深い感銘を受け,2,000マルクもの巨額の資金を土地の会衆に寄付しました。それで,45人ないし50人ほどのその会衆の人たちは,もっと良い会館を購入することができました。

クリスティアン・ケニンガーの注意を引いたのは「世々に渉る神の経綸」と題する本でした。家庭的危機が生じたことから,彼はエテルという著名な聖書研究者に訪問してもらい,研究を始めました。そして,彼の妻も後日その研究に加わりました。次いで二人が行なったのは,近くの町々にいる関心のある他の人々や「ものみの塔」誌の読者の住所を取り寄せることでした。そして二人は,隣人や友人や知人をエテル兄弟の家で行なわれた講演に招待しました。ケニンガー兄弟および他の兄弟たちは,差し伸べられるあらゆる機会を捉えては講演者たちをエシュヴィラーやマンハイムに,後にはルートウィヒスハーフェンにも招きました。それらの場所での講演は口頭はもとより新聞や掲示板また商店のショーウィンドーに取りつけたポスターなどで宣伝されました。

1917年にはベルリン出身のベンツケ兄弟は同市の境界を越えて広く各地に真理を伝えようと努力していました。彼はリュックサックに書籍をぎっしり入れて背負い,ベルリン西方50㌔ほどの所にあるブランデンブルクまで歩いて行き,文書類全部を配布して初めて4,5日後に帰宅したものです。そのころ時を同じくして,巡回奉仕をしていた兄弟たちはダンチヒ(ポーランドのグダニスク)市を訪れ,同市のルナウ兄弟の家に会衆の基を据えました。

わざは停止しなかった

兄弟たちは1918年という年に関してさまざまの期待をいだいていました。中には,その年が自分たちの地的な歩みの終わりをしるしづける年になるに違いないと考え,そうした希望を友人や知人に再三繰り返して述べていた人々もいました。例えば,バーメンのシュンケ姉妹は,いつか自分が出勤しなくなったなら,それは自分が「家に連れて」行かれたためであるということを仲間の従業員に説明していました。しかし,そうした期待が成就しなかったとき,ある人々は,ちょうど1914年の場合と同様,失望して手を引きました。他の人々は今度は何が起きるのだろうかと尋ねました。

当時,なおなすべき仕事がありました。大多数の兄弟たちはそのことを知って喜びました。というのは,エホバに聖なる奉仕を捧げたいと心から願っていたからです。それらの兄弟たちは引き続き働きました。そして,今や危機的な時代が臨んだドイツにも,聞く耳を持つ人々が以前よりもさらに大勢いることに気づきました。フリツ・ウィンクラー(ベルリン出身)の経験もそのことを確証するものでした。

1919年,彼はハレ(ザーレ河畔)で就職し,毎週土曜日には汽車でゲーラにいる両親のもとに行きました。ある土曜日のこと,ある駅でひとりの男の人が娘を連れて乗り込みましたが,その父親は何かをいっぱいに入れたリュックサックを,また娘もやはり何かがいっぱい入った鞄を背負っていました。そして,列車が発車するかしないうちに,その男の人,つまりツァイツ出身の一兄弟は「世々に渉る神の経綸」と題する本のぎっしり詰まったリュックサックを開けて,その本を取り出し,その最初のページに載せられている「世々の図表」を用いながら乗客に向かって話をしました。話の終わりに彼は,「聖書研究」の第1巻を乗客全員に勧めました。その後,2,3の駅を過ぎて彼が下車したとき,そのリュックサックはからっぽでしたし,その娘の鞄もほとんど半分ほどからっぽになっていました。この経験に動かされたフリツ・ウィンクラーは公開講演に出席し,その話を通して真理の知識を得ることになりました。

ふるい分けるわざ

しかし,良いたよりを広める仕方の面ですべての人たちが一致していた訳ではありません。ことに会衆により民主的な選挙で選ばれた『長老たち』の一部の人々の間には,わざを促進する以上に妨害する者たちもいました。それで,そうした人々と議論をしないよう兄弟たちに警告する必要が生じました。そうした人々には自分たちの望む道を歩むままにさせ,無益な議論をして時間を失わないようにし,その時間を王国の奉仕に費やすほうがより賢明でした。「ものみの塔」誌はそのようにしてふるい分けられる事態が確かに生ずることを指摘しました。だからこそクリスチャンは,分裂や論争を起こす人たちに注意し,そのような人たちから離れるよう諭されていたのです。そのような事情のため,1919年中には隣接する国々では種々の変化が必要となり,そうした事態はドイツにいる兄弟たちとそのわざにも影響を及ぼしました。例えば同年が経過するにつれて,ラオペル兄弟は自分勝手な考えに従って物事を行なうようになりました。そのため,彼が幾年かの間監督してきた,ものみの塔協会の所有物である書籍や雑誌で,彼が保管していた文書類を協会に戻すよう要求されました。

1919年の終わりごろには,兄弟たちはさらに重大な問題について知らされました。その何年か前,ラッセル兄弟はA・フライタグを任命して,ジュネーブにある協会の事務所からフランスとベルギーにおけるわざを監督させていました。そして,「聖書研究」と題する本はもとより,英文の「ものみの塔」誌のフランス語の翻訳を出版する権限が彼に委ねられていました。ところが,彼はその権限を乱用して,自分で書いた文書を出版し始めたため,兄弟たちの間にかなりの混乱を引き起こしました。それで,フライタグはその地位から退けられ,協会の事務所は解体され,E・ツァオグ兄弟の指導とビンケレ兄弟の全面的な監督下に新しい事務所がベルン(スイス)に開設されました。

その間,フライタグの支持者たちは別個に集会を開き,ドイツの兄弟たちの間で働き始め,フライタグは協会を批判,中傷し,偽りの教えを広めているとして協会を非難したため,ある人々は明確な見通しを失ってしまいました。1920年9月には,ビンケレ兄弟は,フライタグの虚偽の非難を論ばくし,ドイツの各地から寄せられた数多くの質問に答えた4ページの書簡を回覧する必要を認めました。にもかかわらず,フライタグが蒔いた疑惑の種は芽ばえ始め,確固とした立場を取らなかった人たちはフライタグに従い,独自の会衆を設立しました。そのグループは今日に至るまで依然としてドイツで存続しています。

さらに多くの奉仕の割当てを期待しつつ

1919年1月,「ものみの塔」誌は再び,同誌の名称を印刷した表紙(戦時中は経費削減のため付されていなかった)を含め16ページの雑誌として発行され始めました。また,巡回奉仕のわざも強化され,4人の兄弟たちが諸会衆を定期的に訪問しました。同時に,「聖書研究」第7巻つまり「完成された奥義」と題する本の翻訳も急いで進められ,その上,同書を要約した「バビロンの倒壊」と題する4ページの冊子も準備されました。

さて,用意周到な準備が行なわれ,同年8月21日から続く数か月の間,「完成された奥義」とその冊子は文字どおり洪水のようにおびただしく配布されました。それは実に大規模な運動でした。もっとも,兄弟たち全員がその運動に参加した訳ではありませんでした。とりわけ,『選出された長老たち』は参加しませんでした。彼らはむしろ,講演を行なうことだけを好んだのです。ほかの点では快く物事を行なう兄弟たちの中にさえ,その本の内容を知った後,その配布を躊躇する人々が出ました。

1918年にバプテスマを受けたライプチヒ出身のリチャード・ブリュメル兄弟は,バプテスマは受けたものの,自分が依然キリスト教世界の教会の正規会員であるという事実を考慮してはいませんでした。「教会に出席していないなら,もはやその教会には所属していない」というのが彼の見解でした。しかし,その冊子を読んで,バビロンを去るよう他の人々に勧めなければならないことを悟った彼は,まず自分自身が教会を去らないかぎり,正しい意味でそのわざに参加できるものではないことを知りました。そこで,8月21日の午前中早々に教会の会員名簿から自分の名前を正式に除外してもらい,その日の午後,清い良心を抱いて「バビロンの倒壊」と題する冊子の配布に携わり始めました。

同年,後にライプチヒで行なわれた大会で,当時ドイツにおけるわざを監督していたクナウ兄弟はわざの拡大について話し ― 今やおよそ4,000人の兄弟たちが活発に奉仕していた ― また,本部事務所から指示を受けしだい「黄金時代」誌がドイツで発行される運びになったことを発表しました。出席していた人々はみな本当に熱意にあふれ,そのわざを財政的にも支持する決意を表明しました。

機の熟した,収穫のための畑

わずか2,3年の間にドイツは何と変わったのでしょう。第一次世界大戦前は,王国の良いたよりに快く耳を傾ける人は比較的少数でした。しかし,1914年にドイツの輝かしい将来を意気揚々と宣言したドイツ皇帝は今や流刑の身でオランダに逃れ,またフランス征服を目ざして派遣されたドイツ軍は卑しめられて帰国しました。将兵のベルトの留め金に刻まれた「神は我らと共にいます!」という言葉は偽りであることがわかりました。帰還した将兵は,戦争のむなしさ,僧職者が将兵に納得させようと繰り返し試みたのとは裏腹に,戦争は決して神の支持を受けてはいないことを知りました。

今なお健在な多くの兄弟たちは,自分たちが真理に対して目ざめさせられたのは確かに,そうした非常にむなしい無意味な戦争のためであったことを認めています。多くの人々は,人命を奪うそうした愚劣な破壊行為に神が何らかの関係を持っているというようなことなど信じようとはしませんでした。むしろ,いわゆる「野外礼拝」において戦死者に天的な報いがあることを約束した僧職者にこそ戦争の責任があると考えました。また,夫や父あるいは息子が戦場で戦死したとの知らせを受け取った他の人々は,僧職者が説くように,戦死した肉親は果たして実際に天に行ったのか,あるいは火の燃える地獄に行ったのかどうか疑問に思うようになりました。そうした人たちにとって,「死者はどこにいるか」と題する講演は非常に時宜にかなったものでした。兄弟たちはかつてなかったほどの多くの書籍を配布できました。二人の姉妹の聖書文書頒布者たちは一緒に働いて毎月平均400冊もの「聖書研究」を配布したと言われています。エホバの忠実なしもべたちは機会をできるだけ活用しました。それで,比較的短期間のうちに多くの場所で健全な会衆が栄えました。

1920年5月27日,木曜日,ベルリンでは7人の講演者が同市内の各地の七つの大きな会館で合計8,000ないし9,000人ほどの真理に飢えかわいた聴衆を前に,「終わりは近い! その後はどうなるか」と題する講演を行ないました。人々は非常な関心を抱いていたので,1,500人ほどの人々が訪問してもらいたいと申し出ましたし,2,500冊の書籍のほかに他の文書が配布されました。

今や「創造の写真-劇」はほんとうにその本領を発揮するようになりました。中でも非常に印象的だったのはシュツットガルトのグスタフ-ジーゲレ-ハウスで1,000人ほどの観客を迎えて上映されたときのことでした。人々があまりにも大きな関心を示したため,兄弟たちは自分たちの座席を関心を持つ人々に譲りました。そして,関心のある人々のためにほんのわずかの昼食の休憩時間を入れて特別に日曜日にも上映されました。しかし普通は四晩にわたって上映されました。

社会主義思想の本拠地だったザクセン州でも「創造の写真-劇」は高く評価され,今や同州でもまるで雨後のたけのこのように方々で会衆が設立されるようになりました。その中の一つはワルデンブルクの会衆で,ほどなくして100人近くの人々がある大きな農場に定期的に集まって神のみ言葉を研究するようになりましたが,そこの農場主はそのほんの少し前までは教会の理事でした。

神権的な組織へと移行する重要な諸段階

当時,ラザフォード兄弟は個人的にドイツを訪問したかったのですが,入国許可が得られなかったので,1920年11月4日と5日の2日間,ドイツから26人の兄弟たちをスイスのバーゼルに招き,ドイツにおけるわざをいっそう効果的に行なう方法や対策を話し合いました。そして,「ドイツ支部」を解散し,「ものみの塔聖書冊子協会中部ヨーロッパ事務所」と呼ばれる新しい事務所が開設され,一時チューリヒに置かれたその本部事務所はできるだけ早くベルン(スイス)に移されることになりました。この事務所は,主に全く献身し,協会の会長によって任命された主要な監督者の指導のもとで,スイス,フランス,ベルギー,オランダ,オーストリア,ドイツおよびイタリアにおけるわざを監督することになりました。また,上記各国にはやはり会長によって一人の地方監督が任命されることになりました。この取決めの目的は,中部ヨーロッパにおけるわざを統合し,最も有益な仕方でわざの遂行を図ることにありました。

ホェッケレ,ヘルケンデルそしてドゥエンガー兄弟を含むドイツからの26人の兄弟たちとともに行なわれたその2日間の会議は特に,ドイツにおけるわざを最も効果的に遂行する方法や対策を見いだし,またドイツの地方監督を選ぶ目的で開かれました。それまで何年もの間ドイツで奉仕してきた委員会は解散しました。当時まで数年間わざを指導してきたクナウ兄弟は,その職務を退き,巡回奉仕の仕事に携わりたいと申し出たので,新しい監督を立てることが必要になりました。そして,ドイツの地方監督としてパウル・バルツェライト兄弟が選ばれ,ビンケレ兄弟は中部ヨーロッパ事務所の主な監督として任命されました。

「万民」運動

さて,「現存する万民は決して死することなし」と題するドイツ語の小冊子は1921年2月に刊行されるとの発表が行なわれ,数年続くことになった講演運動を同2月15日に開始することが正式に計画されました。そして,各地でその講演を行なうため最適の講演者がそれぞれ割り当てられました。また,そうした講演者がいない会衆は協会に手紙を書き,講演者を手配してもらうことができました。

こうして,強力な証言を行なう扉が開かれました。1年前だったなら,たいていの兄弟たちはそのようなことが可能だなどとは夢にも思わなかったでしょう。協会の年報はこう述べています。「ドイツの人々が今ほどの非常な関心を示したことはかつて一度もありませんでした。今や大いなる群衆が集まって来ています。反対も増大してはいますが,真理は広まっています」。

このことはコンスタンツにも当てはまりました。50年余エホバに仕えてきたベアタ・マオレル姉妹は,「世の終わりは近し ― 現存する万民は決して死することなし」と題する公開講演が大きなプラカードを用いて大々的に宣伝され,かつてジョン・フスが火あぶりの刑の宣告を受けた所である,同市最大の会館で催された時のことを今でも覚えています。次いで追いかけ講演が行なわれ,1921年5月15日には15人の人々がバプテスマを受けました。これがコンスタンツにおける会衆の始まりでした。

ドレスデンではその講演はまさにセンセーションを引き起こしました。同市の会衆は三つの大きな会館を借りましたが,講演を行なう予定の時刻の2時間前には,大群衆のために交通が渋滞し,市電の運転を一時中止する事態も生じました。会館は立錐の余地もないほどいっぱいになり,大勢の人々は入場できませんでした。講演者は群衆をかき分けて進み,会場まで行き着くのに苦労しました。それら待っている人々のために講演をもう一度行なうことを約束して初めて群衆は快く道を開けてくれました。

ウィースバーデンでのことですが,エリサベツ・ファイファという婦人がその「万民」の講演を宣伝するビラを1枚路上で見つけました。そして,「なんてばかげたことなのでしょう。それにしてもいったいどんな人々がこういうことを信ずるのか行って見てみましょう」と考えました。ところが行ってみると,講演会場であったある高等学校の講堂は既に超満員のうえ,それでも何とか会場に入ろうとして無駄骨をおっている大変な数の群衆が路上にいるのを見てびっくりしました。当時,その地方をなお占拠していたフランス人が親切に案内の仕事に当たっていましたが,会場がいっぱいになったのに,さらに何百人もの人々が路上に立っているのを見て,講演者だったバウエル兄弟に相談し,講演が終わった後,待っている場外の人々にも講演者は喜んで話をしてくれるということを人々に知らせました。そこで,ファイファ夫人を含め,300人ないし400人ほどの人々は辛抱強く待ちました。彼女はその晩聞いた事柄に非常な感銘を受け,その後すべての集会に出席し,やがて熱心な姉妹になりました。

また,別の時の話ですが,バンドレスとバウエル兄弟はその講演を取り決めましたが,会場が超満員になったそれまでの経験とは逆に,その晩には最初だれもやって来ませんでした。予定の時間が近づいたので,二人はだれかが来ているのではないだろうかと期待して路上に出てみました。と,講演を聞きたい人々が何人か来てはいましたが,兄弟たちにはなぜかわかりませんでしたが,それらの人々は会場に入るのをためらっていました。二人がその訳を尋ねたところ,当日は4月1日だったので,だれかが4月ばかの冗談半分を言っているのではないだろうかというのが人々の答えでした。それでもとにかく30分ほどして3,40人の人々がやって来て講演を聞きました。

レムシャイト出身のエリク・アイケルベルク兄弟はゾリンゲンで「万民」の小冊子を配布していたとき,次のような興味深い経験をしました。彼はある男の人に会ったとき,次のように自己紹介しました。「私は皆さんをお訪ねして,現存する万民は決して死なずに,平和と幸福のうちに地上で永遠に生きることができるという良いたよりをお伝えしています。そのことを証明しているこの小冊子は,わずか10ペニッヒでお求めになれます」。その紳士はこの兄弟の勧めを断わりましたが,そのそばに立っていた幼い男の子がこう言いました。「お父さん,どうして買わないの? 棺おけのほうがもっとうんと高いよ」。

新しい活動のための備えをした組織

大戦後の1919年から1922年までの時期は,ドイツの兄弟たちにとって真の発展と準備の時となりました。

協会は内外両面でわざを強化することに関心を示し,政府との関係における協会の立場の面で今やわざを法的に確立する必要な処置を取りました。その結果,1884年にアメリカのアレゲーニーにおいて設立されたものみの塔聖書冊子協会は,1921年12月7日にドイツで外国法人団体として認められました。

1922年中に広く伝えられた音信は,主に「現存する万民は決して死することなし」という主題を中心としたものでした。協会は1922年2月26日を全世界で「万民」の講演を行なう特別の日として指定しました。ドイツでは当日,121の町々でその講演が行なわれ,合計およそ7万人もの人々が出席しました。二番目の全世界にわたる大規模な証言の日は同年6月25日で,ドイツでは119件の講演が行なわれ,約3万1,000人の人々が出席しました。その後同年中に同様の「全世界にわたる講演」がさらにもう2回行なわれ,ドイツでは10月29日と12月10日のその講演に7万5,397人および6万6,143人の人々がそれぞれ出席しました。こうして,良いたよりは何万人もの人々に達しました。

ラザフォード兄弟は再びヨーロッパを訪問する

1922年,ラザフォード兄弟はヨーロッパ各地を広範にわたって歴訪し,そのさい,ハンブルク,ベルリン,ドレスデン,シュツットガルト,カールスルーエ,ミュンヘン,バーメン,ケルンそしてライプチヒを訪れました。ハンブルクでは1日だけの大会が開かれ,500人ほどの兄弟たちが出席しましたが,それはわずか8年前に同兄弟が訪問したときから見て何と優れた増加がもたらされたことを意味したのでしょう。シュツットガルトでの公開講演のさいには,会場はわずか1,200人しか収容できず,何百人もの人々は入場を断わられました。また,ミュンヘンではラザフォード兄弟は「シィルクス・クローネ」を埋め尽くした7,000人の聴衆を前にして講演を行ないました。講演が始まる前に,反ユダヤ主義グループの人々やイエズス会士の何人かの司祭が聴衆の中にいること,また彼らは講演を妨害し,できれば集会をやめさせる目的で来ていることがわかりました。ラザフォード兄弟はこう述べました。「当市その他の場所で,国際聖書研究者協会はユダヤ人の財政援助を受けていると言われてきました」。同兄弟がそう言い終えるか終えないうちに,「そのとおりだ!」とか,その他さまざまの叫び声が上がりました。しかし,ラザフォード兄弟は確信と力をこめて語り,ほどなくして,騒ぎを起こす者たちの口を閉じさせました。もっとも彼らは演台を奪って同兄弟の講演を中途でやめさせようとさえしました。

1922年中のドイツでの最大の行事は,6月4,5日に行なわれたライプチヒでの大会でした。協会はドイツにおける大会のための適当な場所としてライプチヒを選びました。当時,兄弟たちの大半はザクセン州に住んでおり,非常に貧しくて長途の旅行をする経済的余裕がなかったので,ライプチヒはまさに格好の場所でした。

月曜日の午前中には,ラザフォード兄弟の扱う質問と答えによる話が予定されていました。事前に書面で幾つかの質問が寄せられていましたが,そのうちの一つは特に興味深いものでした。それは百年ほど前にライプチヒの近くで起きた反乱を記念して,1913年にライプチヒで適当な献呈式を開いて公開された「国々の戦いの記念碑」に関する質問でした。その記念碑に関する質問は,かいつまんで言えば次のとおりです。「『その日エジプトの地の中にエホバをまつる一つの祭壇あり その境にエホバをまつる一つの柱あらん』というイザヤ書 19章19節の言葉は,この記念碑をさしていますか」。

ここで次のことを知っておいてもらわねばなりません。その3年前のこと,すなわち1919年に開かれたライプチヒ大会のさい,大勢の兄弟たちがある朝その「国々の戦いの記念碑」を見に行きました。その日の午後,アルフレド・デッカー兄弟による講演が行なわれました。彼は『選出長老』で,後に真理のひどい反対者になりましたが,その話の中でその「国々の戦いの記念碑」こそイザヤ書 19章19節で指摘されている柱であることを証明しようとしました。問題の記念碑の建立者である枢密顧問官ティーメもその楽しい集いに招かれ,そして彼の建築技士たちとともに適当な説明の話をする機会を与えられました。

ラザフォード兄弟は質問に答える前に,その巨大な建造物を見に行きました。後に,出席者全員に向かって話をし,イザヤ書 19章19節はその記念碑をさしているのではないと率直に断言しました。それはただ,大いなる敵対者の影響下にいるある人間の強烈な野望ゆえに建てられたにすぎず,福音時代の終わりにさいしてエホバがそのような記念碑を地上に建立させる理由は一つもありませんでした。その巨大な記念碑はどの部分も,それが悪魔に由来し,悪魔のわざの一環であって,悪魔の支持者や連累者,つまりその「愚劣な記念碑」を建てるよう人々に影響を与えた悪霊たちに由来するものであることを示していました。ドイツ皇帝はかつて次のように言えるようになりたいと望んでいたのです。「世界征覇を試みたナポレオンがかつて立った場所があるが,しかし彼の計画は完全に失敗した。同様に世界征覇に着手して大いなる成功を収めたドイツ皇帝は,今ここに立っている。それゆえに全世界は彼の前にひれ伏さねばならない」。

「神の竪琴」

今やドイツ語で入手できるようになった「神の竪琴」と題する新しい本を早く配布する道を整えるため,協会は「なぜか?」と題するパンフレットを500万部印刷して用意しました。ところが残念なことに,「神の竪琴」を印刷する仕事を引き受けた出版社の印刷予定がずるずる遅れたため,その本の発行日付は数回遅らされる結果になりました。また,急速に悪化の一途をたどるインフレのため,協会のパンフレットに示されたその本の価格は維持できなくなりました。そして,1923年の1月初めに,100マルクだったその値段は,マーガリン4分の1ポンドの価格に相当する250マルクに引き上げられました。とはいえ,その当時,「竪琴」を出版する費用は1冊につき既に350マルクに達していました。それにしても,同書の内容は単に兄弟たちの間だけでなく,真理を愛する多数の友の間にも大変な熱意を引き起こしました。

ワルデンブルク会衆に属していたランゲンシュルスドルフのエリヒ・ペータースという名の,話をする点では大変優れた才能のある若い兄弟は,その本の内容に大いに感激し,それを用いて研究をするようにとの提案に従い,父親の許可を得て,友人や隣人を毎週1回,ある日の晩両親の家に招き,「神の竪琴」の本を一緒に討議することにしました。こうして晩に開かれた研究に後日あまり多くの人が出席するようになったため,一階の部屋全部を開放して出席者を収容しなければならなくなりました。エホバの王国とその祝福について熱心に語るその若い兄弟は,部屋と部屋の間の廊下に立って皆に聞こえるように,また皆から見えるようにして討議を進めました。その後,他の会衆もさっそくこの例に従うようになり,やがていわゆる「竪琴研究」が普通の集会予定の一部となりました。

最初の工場

1897年4月から1903年12月までドイツ語の「ものみの塔」誌はアメリカのアレゲーニーで印刷されていましたが,1904年1月から1923年7月1日まではドイツの世俗の会社で印刷されました。協会の書籍その他の出版物は何十年もの間,アメリカから直接送られてくるもの以外はみな世俗の会社で印刷されていました。やがて,費用を節約するため,2台の大型平版印刷機が他の装置類とともにバーメンに設置されました。もっとも,作業場はごく限られた狭いものでした。

最初は,活字を組んだり,製本したりする経験を持った兄弟はひとりもいなかったので,スイス,ベルン出身の経験を積んだ優秀な書籍の印刷業者だったウンゲレル兄弟がバーメンに送られて,最初の自発奉仕者たちを訓練しました。仕事をしようという彼らの意欲,またお粗末な装置類しか使えなかったにもかかわらず立派な印刷物を生産しようとの決意には驚くべきものがありました。

部屋はすべて寝室その他の目的で使用されていたため,印刷機類は二階建てのその建物の階段の踊り場と縦横20×8メートルのまき小屋に設置されました。ヘルマン・ゲルツ兄弟は「黄金時代」誌の最初の号(1922年10月1日号)を余分に10万部印刷した当時のことを今でも覚えています。印刷機は手動式でしたから,兄弟たちは紙を1枚1枚機械に2回入れなければなりませんでした。それに,兄弟たちは印刷物の需要にほとんど追いつけなかったため,およそ丸1年間しばしば真夜中まで働きました。

ある人々が真理を学んだ方法

時には変わった事態が生じ,それがきっかけになって真理に注意を向けるようになった人々もいます。ある時,「写真-劇」の上映される集まりに出席したアイケルベルク兄弟の場合もそうでした。その集会のさい,「宗教改革」に言及した語り手が,「プロテスタントは抵抗することをやめました」と述べたところ,聴衆の中のある人が,「我々は今でも抵抗しているぞ!」と叫びました。そこで,語り手は電気をつけるよう求めたので,居合わせた人々はいっせいにその「勇敢な」人物に視線を向けました。その人物はこともあろうに二人のカトリックの司祭の間に腰をおろしていたプロテスタントの牧師だったのです! 聴衆は憤って,それらの僧職者に退場するよう要求しました。こうして,アイケルベルク兄弟は,真理は教会制度に見いだせるものではないことを悟りました。

オイゲン・スタルクはシュツットガルトで上映される「写真-劇」を見に出かけました。ところが,会場は既に3,000人ほどの観客で満員になった矢先,映写機が故障を起こし,その晩には修理できないため,翌日の晩もう一度出席するようにとの発表が行なわれました。がっかりして会場を出たオイゲン・スタルクはその足で,新使徒教会に所属していた母に会いに行きました。そして,二人はそれら聖書研究者たちが真理を持っているわけがないこと,もし真理を持っていたなら,そういう故障など起きるわけがないという結論に達しました。スタルク兄弟は翌晩はその会場に戻らずに,その代わり妹の家を訪ねることに決めました。しかし,彼の乗った電車がその講演の行なわれる会場のすぐそばを通ったとき,前の晩にいたのと同じほどの大勢の人々が会場に入ろうとしているのを見て彼は驚いてしまいました。我を忘れた彼は電車から飛び降りてころび,危うく車輪の下敷きになりそうになりました。しかし,傷を負ったにもかかわらず,彼は起き上がって会場に行きました。上映終了後,すっかり感激した彼は,勧められた聖書研究の手引きを求めたうえ,訪問してもらうよう住所氏名を渡して会場を出ました。こうして,今や何ものも彼の聖書研究をやめさせることはできなくなりました。

クルト・ディースナーは戦時下の1915年ころ,学校で牧師から教えられた歌のことで教会に愛そを尽かすようになりました。その歌は敵国を滅ぼすことを歌った歌で,ドイツの軍隊は敵を押し返して湖に,沼地に,ベスビオス山に,また大海に落とし入れさせるべきだという意味の歌でした。その後,1917年には教会の鐘ははずされ,溶かして手りゅう弾の輪金に利用されました。また,ある教会の新聞には,牧師が両腕を伸ばして大きな鐘を祝福している写真が載せられました。そして,その写真の下部には,「さあ,行って,我々の敵のからだを粉々に打ち砕け」という言葉が記されていました。今やクルト・ディースナーは決定を下しました。こうして彼は1920年代の初めごろ,エホバの真の崇拝を見分けて喜んで受け入れました。彼は今でも時々一時開拓奉仕のわざにあずかることができます。

わざの拡大のために心をこめて働く

50年あるいはそれ以上の昔にエホバからの召しの声を聞いて答え応じた人たちの何人かは今でも私たちの中にいて,彼らがなお「若くて丈夫だった」時分の活動について熱心に話してくれます。彼らは物質的には貧しい生活をしましたが,しかし霊的には富んでいました。

キール出身のミナ・ブラントは,王国の音信を宣べ伝えるために相当の距離のところをよく歩き,当日中に帰ることができなくなると,畑に積んである干し草の山の中で夜を過ごしたころのことを話してくれます。後日,彼女はヒッチハイクをして,しばしばトラックに乗せてもらってはシュレスウィヒ・ホルシュタイン州の北辺の大きな町々にまで出かけて行きました。当時,兄弟たちは大きな拡声器を用意して持って行き,午前中は村々で宣べ伝えるわざを行ない,午後は市場や他の適当な場所でその拡声器を用いて公開講演を行なったものです。

エルンスト・ヴィースナー(彼は後に巡回の仕事に携わった)や他の人たちはブレスラウから自転車で90ないし100キロもの距離を旅行しては音信を宣べ伝えました。エリヒ・フロストやリヒャルト・ブリュンメルが奉仕したライプチヒの兄弟たちは,王国の音信に人々の注意を向けさせる試みをする点で非常に独創的でした。彼らは一時,兄弟たちで成る小グループの音楽隊を組織して用いました。その音楽隊は音楽を演奏しながら各地の街路を行進し,一行のあとに従う人たちは,道路沿いの家々で簡単な証言を行ない,次いで,行進する音楽隊のもとに遅れないよう急いで戻りました。

1923年には,「一千人の開拓者を求めます」という緊急な呼びかけが行なわれるとともに,全時間の宣べ伝えるわざが注目の的となりました。これは当時の神の民の間にかなりの興奮を引き起こしました。というのは,当時報告を出していた「働き人」3,642人中ほとんど4人に1人が開拓者になるよう求められることになったからです。その呼びかけは,顧みられぬままには終わりませんでした。

例えば,ウイリー・オングローベは自分が求められていることに気づき,彼は,当人の言葉を借りれば,「単に1,2年ではなく,エホバが私をそうした資格で用いてくださるかぎりいつまでも働く覚悟で」開拓奉仕に入りました。彼はドイツの各地で働き,後日マクデブルクのベテルでも何年間か働きました。次いで,1932年,彼は外国の土地で開拓奉仕を行なうようにとの呼びかけに答え応じました。そして,まず最初,フランスに派遣され,次いでアルジェリア,コルシカ,次は南フランスに送られ,後日またアルジェリアに戻り,さらにスペインに派遣されました。そして,スペインからシンガポール,次いでマレーシア,さらにジャワへ行き,1937年にはタイに赴き,1961年にドイツに帰るまでタイに留まりました。25歳で開拓者への召しの声に答え応じた彼は,今では77歳になろうとしていますが,今もなお,大変熱心に喜んで働き,大変良い成果を収めている開拓者の隊伍に加わっています。

コンラト・フランケは1931年2月1日に開拓奉仕を始めました。彼は幼いころから創造者を覚え始めました。そして今,ベテル家族の一員として,これまでの42年間,終始一貫全時間奉仕を続行してきた年月を振り返って喜びを味わっています。そのうち14年間はドイツの支部の監督として過ごしました。

巡回旅行者の奉仕

1920年代に巡回旅行者の兄弟たちが行なった講演は確かに仲間の兄弟たちを築き上げる点で大きく貢献しました。当時,輸送機関はかなり限られていましたし,特別快適なものではありませんでした。巡回旅行者の兄弟たちは田舎の区域を相当広範にわたって回っていたので,農作業用の馬車に乗って旅行するのは珍しいことではありませんでしたし,時には徒歩で長距離の旅行もしなければなりませんでした。

ある時,エミル・ヒルシュブルゲルは南ドイツで講演をするよう割り当てられました。そこで,彼は汽車で旅行しましたが,たまたま車内の仕切られた客室の中で,カトリックの僧職者であることを歴然と示す服装の男の人々6人と同席することになりました。それらの人々はヒルシュブルゲル兄弟が自分たちのただ中にいようなどとは無論知らずに,同兄弟が話す予定だった講演について盛んに議論していました。彼らは教会の会議に出席してきたところのようでした。そして,ヒルシュブルゲル兄弟が講演をすることになっていた町に住む同席の一僧職者は,公開討論を申し込んで同兄弟に挑戦するよう勧められていたようでした。それで,その僧職者は,公開討論会での対決に際して「この聖書研究者」に打ち負かされないように論議を進めるにはどうすればよいかに関して忠告を得たがっていました。しかし,明らかに同僚の僧職者たちは満足のゆくような提案を何一つ与えませんでした。そして,彼らは互いにあいさつを交して,ひとりまたひとりと下車して行きました。最後のひとりが去ろうとしたとき,当惑したその僧職者は立ち去ろうとした同僚に内輪話をするような口調で,その問題についてどう思うか,またその集まりに行くのは賢明かどうかについてどう考えているかと尋ねました。すると,たちどころに,シュワーベン地方のなまりの強い方言で,「もし太刀打ちできると思うなら,行けばいいじゃないか」と言う返事が戻ってきました。その講演のさい,ヒルシュブルゲル兄弟はついにその僧職者の姿を見かけませんでした。

創造劇

1920年代の初めになって,前述の「写真-劇」のフィルムはほとんど使い古されてしまいました。しかし,協会は幾つかの世俗の映画会社から聖書映画のフィルムやニュース映画のフィルムを購入できたので,不適当な箇所を削除したり,あるいは他のフィルムを加えたりして,それらのフィルムを作り直して上映することができました。こうして,5,000ないし6,000メートル分の全く新しいフィルムがまとめられました。それに加えて,それまで用いられていたスライドもまた,「創造」と題する本やものみの塔協会の発行した他の書籍から写して作ったスライド,あるいは市販のスライドなどで置き替えられました。当時,カラー写真はありませんでしたが,マクデブルク・ベテルのウィルヘルム・シューマン兄弟がたゆまぬ努力を払って白黒写真に色彩を施して仕上げを行ないました。こうして美しい色彩の施された写真は観客に忘れがたい印象を与えました。それらの写真の大半は,エホバのすばらしい創造を扱ったものだったので,その映画の題名は「創造劇」と改められました。その題名の副見出しのもとに,1932年のドイツの年鑑はこう述べています。

「名称やスライドの使用という点を別にすれば,以前の創造の写真-劇から引き継がれたものは何もありません。テキストは……『創造』その他の本から取られており,『創造劇』というその名称も同様に『創造』の本から取られたものです」。

その映画がステッチンで初めて上映されることになった1928年のこと,当時まで世俗のオーケストラの指揮者をしていた専門の音楽家エリヒ・フロストがステッチンに呼ばれ,無論それは無声映画でしたが,その映画の音楽伴奏を担当することになりました。やがて,さらに多くの音楽家が一行に加わりました。そして後には,楽器を用いて,鳥のさえずる声や木の葉がさらさらと立てる音をさえまねて奏でました。1930年の夏,その映画がミュンヘンで上映されていたときのこと,ハインリヒ・ルテルバハという優れたバイオリニストが演奏チームと会い,さっそく一緒に旅行するよう招かれました。彼はその招きを喜んで受け入れ,その結果,オーケストラは完全なものになり,その演奏はどこでも人々に喜ばれました。2年後,協会はそのフィルムとスライドの二度目のセットをフロスト兄弟に渡し,東プロイセンに行くよう指示しました。その後,ルテルバハ兄弟は小規模なオーケストラの指揮を引き受けました。

1930年にこの映画がミュンヘンで上映されるよう計画されたときのことですが,同市では「創造の写真-劇」が以前既に上映されて大成功を収めたことがあったので,当然のことながら宗教指導者たちは非常に動揺しました。そして,絶望した彼らは,ミュンヘン市内各地の自分たちの会衆の何百人もの成員に,公に発表された入場券売場でその劇の入場券を買うだけ買って会場には出席しないよう指示しました。そうすれば,会場にはだれひとり出席しないだろうという訳だったのです。しかし,兄弟たちはいち早くそのことを探知したので,対抗手段を講ずることができました。その結果,仕組まれたたくらみは,問題を起こそうとした相手側に思いがけない害を及ぼすことになりました。

協会の支部事務所の移転

責任を持つ兄弟たちはほどなくして,バーメンで使用できる印刷工場の設備は不十分なものであることに気づきました。明らかにエホバの霊の導きを受けた彼らは,土地と建物を直ちに購入できるようになったマクデブルクに注目しました。直ちに決定を下すよう迫られた協会は,同市のライプツィガー街に位置する土地と建物を購入しました。そして,1923年6月19日,正式にバーメンからマクデブルクに移りました。すると突然,フランス軍が,バーメンおよびエルベルフェルトを含め,ラインおよびルール地区を占拠しました。もちろん,そのために郵便局,鉄道の駅またドイツ系の銀行なども接収されることになりました。それで,もしバーメンから諸会衆の事柄を世話していたのであれば,非常に困難な事態に陥っていたことでしょう。1923年の年報はその時のできごとについてこう述べています。「ブルックリンの本部はある朝,ドイツの支部が無事マクデブルクに移転したとの通知を受けましたが,まさにその翌朝の新聞はフランスがバーメンを占拠したと報じました。私たちはこうした保護と祝福に対して私たちの尊い主に感謝しました」。

今や私たちは「ものみの塔」誌を自分たちの印刷工場で印刷できるようになりました。こうして,1923年7月15日号が最初に印刷されました。それから3,4週間後には,紙を自動的に取り入れる大型の平版印刷機が設置され,「聖書研究」第1巻を印刷する仕事が開始されました。そのすぐ後には,同じ印刷機で「神の竪琴」と題する本が印刷されました。

しかし,さらに多くの印刷機が必要でした。それで,バルツェライト兄弟は輪転機を購入する許可をラザフォード兄弟に求めました。ラザフォード兄弟はその必要を認めて,購入することに同意しましたが,ただ一つ条件がありました。ラザフォード兄弟は,バルツェライト兄弟が何年もの間ラッセル兄弟のとそっくりのあごひげを生やしていることに気づいていました。それは人間崇拝の傾向を招くおそれがあったので,ラザフォード兄弟はそうした習慣を排したいと考えていました。それで,次に訪問した時,ラザフォード兄弟はバイブル・ハウスの家族全員に聞こえるところで,バルツェライト兄弟に輪転機を購入してもよいが,それにはただ一つ,あごひげを剃り落とすという条件があると告げました。バルツェライト兄弟はすごすごと同意し,そのあとで理髪店に行きました。それから2,3日間というものは,何度か人まちがいが起きたり,おかしな事態が生じたりしました。というのは,彼は仲間の働き人からも時々「見知らぬ人」として見間違えられたためでした。

それから1年後,輪転機の最初の部分を地階に設置することができました。そして,その後まもなく二番目の部分が届きました。こうして今や,400ページの本を1日に6,000冊の割合で印刷,製本できる設備の整った印刷工場についてうんぬんできるようになりました。

1923年と翌1924年には文書類の配布は大幅な増加を示しました。そうした需要に追いついて行くため,1925年に協会は最初の建物に隣接する地所を購入しました。また,製本部門の機械はもとより,印刷工場の設備はさらに増し加えられ,改善されました。そして,新たに購入された土地にはセメント造りの堅固な建物が建設されました。その一階には製本部門が設置され,平版印刷機も置かれ,別の部屋には2台の輪転機が据えつけられました。組版部門や他の印刷のための準備の仕事をする部門は二階に入り,三階は事務所になりました。こうして施設が増大したにもかかわらず,相当の残業を行なわねばなりませんでした。というのは,文書の配布が引き続き増大したからです。二番目の輪転機は1928年に購入されました。しかし,文書の需要があまりにも大きかったため,兄弟たちは12時間の二交替制で印刷機を運転し,時には日曜日にも働きました。つまり,印刷機は数年間昼夜の別なく絶えず動き続けたのです。無論,文書が印刷された後は,印刷工場で兄弟たちは製本の仕上げの仕事をしなければなりませんでしたから,製本部門も同様に忙しく働きました。こうして,兄弟たちは1日に1万冊の書籍を生産することができたのです。

また今や,新たに購入された土地には,集会のための立派な会館を建てることも可能になりました。そして,およそ800人分の座席を持つ,上品な装飾を施した会館が建てられました。兄弟たちはその集会場を「ハープ・ホール」(「竪琴会館」の意)と呼びましたが,それは明らかに「神の竪琴」と題する本に対する感謝の念の表われでした。

このバイブル・ハウスの家族は日曜日に外出できるときには,臨時に54人分の座席を取りつけた大型トラックやバス,汽車,車あるいは自転車などに乗って旅行し,マクデブルク市内外の区域に出かけて行っては,宣べ伝えるわざに参加しました。こうして,半径数百キロほどの範囲にわたって働き,数多くの会衆の基礎を据えることができました。

やがて,バイブル・ハウスの働き人の人数は200人余に増えました。

マクデブルクにおける1924年の大会

1924年の最大のできごとは,ラザフォード兄弟の出席したマクデブルク大会でした。およそ4,000人の兄弟姉妹たちがドイツ全土からやって来ました。中には自転車に乗って来た人たちもいました。兄弟たちの大半は弁当箱に入ったお粗末な昼食程度のものしか持って来ることができませんでした。ドイツは全国的に窮乏状態に陥っていたからです。旅費をまかなうだけのお金のない人も多かったので,何千人もの人々は家に留まらざるを得ませんでした。自転車で旅行する人々は,数日かかることを考慮に入れなければなりませんでした。また,食事や宿泊のためのお金もわずかしか持っていませんでした。多くの人は主に乾燥したパンを食糧として携えてゆきました。講演の最中にひどい空腹感に襲われると,兄弟たちは乾燥したパンを取り出してかじりました。その様子を見てひどく心を打たれたラザフォード兄弟は,翌日,出席した約4,000人の人たち各人に一つながりの暖かいフランクフルトソーセージと,イースト入りの小型の菓子パン2個,それに炭酸水一びんを無償で供するよう直ちに取り計らいました。大会が開かれている講堂の両端にフランクフルトソーセージをいっぱい入れた大きな湯沸かしが突然現われたとき,出席者たちがどんなに喜んだかは想像にかたくありません。兄弟たちは行列して食べ物をもらいました。一緒に食事を取って元気を取り戻し,講堂内の座席に戻った兄弟たちは,宴に臨んだ客人のように感じました。

この大会で歓迎の言葉を述べたラザフォード兄弟は,既に献身して水のバプテスマを受けた人たち全員に手を挙げるよう求めました。そして,大勢の人々が手を挙げるのを見た同兄弟はこう付け加えました。「5年前にはヨーロッパ全土でさえこれほど多くの人はいませんでした」。

それから後,公開講演の最中のこと,主要会場で不測の事故が起こりました。だれかのちょっとした不注意のため,非常用の小型の照明装置が床に落ちてしまいました。すると,さらにそそっかしい人が「火事だ」と叫んだため,何人かの人々がパニック状態に陥りました。そのできごとは会場の後部で起きていたため,ステージの上の人たちは何が起きているのかよくわかりませんでした。最初のうち,兄弟たちは妨害者たちが集会をやめさせようとして騒ぎを起こしているのではないかと思いました。その騒ぎが収まる様子のないのを見て取ったラザフォード兄弟は,オーケストラに演奏をするよう手まねで合図しました。それに応じたオーケストラは,「私は愛の力を尊びます」という歌を演奏し始めました。するとどうでしょう,会場内の何千人もの人々も歌いだしたのです。ほどなくして恐怖心のこうじたヒステリー発作のような状態は収まり,ラザフォード兄弟はそれ以上妨害されずに講演を続行することができました。

「告発される聖職者たち」

これは1924年に全世界で配布するため準備された決議文の表題です。ドイツの兄弟たちは特に1925年の春その配布のわざに参加しました。それは僧職者の偽善を容赦なく暴露した非常に重要な決議文でした。その結果,ハチの巣をつついたときのような大変な反応が生じました。特にババリア州では僧職者たちが,そのわざに携わる兄弟たちを非難攻撃し,妨害しました。その直前にワイマール共和国のドイツ人の初代大統領が亡くなり,新たに選挙が予定されていました。政治家たちは,『カトリック教徒であえて大統領になる者はいまい』と語っていたので,カトリック系のババリアの人々はローマに非友好的な態度を取る出版物すべてに対して最大の疑念を向けることによって応酬しました。それもババリア州だけでなく,ドイツの他の多くの土地でも僧職者たちはありとあらゆる手段を講じて抵抗しました。

バルツェライト兄弟は命をさえ脅かされました。同兄弟宛てのある匿名の手紙には一部次のように記されていました。

「羊を装った悪魔め!

「聖職者に対してお前の行なっている非難攻撃は,お前の滅びを招くものだ! お前がそれと気づかぬうちに,世の人々はお前の最期を見,お前の死はお前の追随者どもをおびえさせ,活動をやめさせるものとなろう。……お前の裁きは既に下された!

「我々は3週間以内に次のことを行なうよう要求する。『告発される聖職者たち』と題する出版物を公に回収せよ。もしそうしなければ……お前は死の手に渡されよう。

「これはただのおどし文句ではない……」。

しかし,これも妥協すべき理由とはなりませんでした。それどころか,油そそがれた残れる者の少数の,しかし勇敢な軍勢は,対抗手段を講じました。「真実か,それとも偽りか」と題する冊子を配布して,そうした脅迫が行なわれたことを一般の人々に知らせたのです。そして,「告発される聖職者たち」と題するそのパンフレットに述べられている非難は「真実か,それとも偽りか」という疑問を提起し,次いで僧職者の発言や宗教雑誌から抜すいした言葉を掲げました。

やけになったポンメルンの一僧職者は,ものみの塔協会と当協会の役員を相手取って公訴局に訴え出たので,マクデブルクで裁判が行なわれることになりました。ところが,公訴局部長はその審理にさいして誤って問題の決議文全文を読んでしまったため,その決議文はシュテッチンの宗教会議に突きつけられたものであるとする自らの主張の誤りを明らかにする結果になってしまいました。法廷内の関係者はすべて,その決議文が単にシュテッチンの宗教会議のみならず全世界の僧職者を告発したものであることを認めました。その点を認めた法廷はバルツェライト兄弟に無罪を言い渡しましたが,それでも,そうした痛烈な非難攻撃を行なう出版物は今後出さないよう助言しなければならないと感じました。

インフレ

さて,印刷費が高騰したため,伝道者たちは1921年の8月,「聖書研究月刊」と題する冊子の頒布にさいして無駄な配布を避けて節約するよう既に知らせを受けていました。無差別にだれにでも配布するのではなく,本当に関心を示す人たちだけに配布することになりました。

1922年の初めに協会は,当時なお月一回発行していた「ものみの塔」誌の年間予約購読料を16マルクにするとの発表を行なわざるを得ませんでした。が,その1か月後には購読料を20マルクに,また同年の7月には30マルクに値上げしなければならなくなりました。しかし,その後もインフレは相当の速度で進行し続けたため,協会は10月に,以後予約購読は3か月単位でしか受け付けられないとの発表を行なわざるを得なくなり,さし当たって3か月間の購読料は70マルクに引き上げられました。そして兄弟たちは翌1923年の最初の3か月間に対しては200マルク,次の3か月間に対しては750マルクの購読料を払わねばなりませんでした。こうして,同年6月15日には年間予約購読料は3,000マルクになり,その1か月後には4万マルクにも達しました。8月1日には協会は予約購読の取決めを完全に停止して,即金払いに限って個々の雑誌を渡す措置を講ぜざるを得ない事態に追い込まれました。それにしても,9月1日には既に雑誌1冊の価格は4万マルクになり,1か月後にはそれが166万マルクに達し,さらに10月25日にはインフレが頂点に達し,たった1冊の雑誌の価格が実に25億マルクになりました。お金は何ら価値のないものになりました。

インフレの進行した当時の危機的な時期のことをこうして簡単に考慮してみると,主のわざは当時どんなに困難な状況のもとで遂行されなければならなかったかがわかるでしょう。事実,1923年の最後の3か月間,協会の出版物の配布のわざはほとんど完全に行き詰まってしまいました。そのわざをどうにか続けることができたのは,ひとえにエホバの助けによるものでした。

『選挙によって選ばれた長老たち』

長老たちを選挙によって選ぶという民主的な取決めは,1920年代のわざの前進を遅らせるに足る重大な事柄になっていたと考えられます。そうした選挙をどのように行なうかに関してはさまざまな意見がありました。中には,候補者はV.D.M(ベルビ デイ ミニステルつまり神のみ言葉の奉仕者の略称)に関する質問の少なくとも85%に対して正しい答えを述べ得る者でなければならないと主張する人たちもいました。例えば,ドレスデンの場合がそうでした。しかし,ハレの兄弟たちの経験は,そうした独断的な要求がどんなに困難な問題を引き起こしたかを示すものとなりました。その地の会衆には,自分たちのわざに対してあまり良い態度を持ってはいないのに会衆内で指導者になりたいと考えた兄弟たちがいました。最後に,彼らはV.D.Mの質問にさえまだ答えてはいないので,会衆内で指導的な立場につく資格がない旨告げられたとき,彼らは直ちに自分たちの明らかな失策を埋め合わせる処置を講じました。それから後,彼らがやっきになって追い求めた立場をなおも得そこなうに及んで,会衆内では反逆が生じ,その結果会衆は分裂してしまいました。最後まで残ったのは,最初の400人の成員のうち,わずかに200ないし250人ほどの人たちだけでした。

幾つかの会衆では選挙の時にしばしば激しい論争が生じました。例えば,1927年にバーメンである候補者たちの選挙が挙手によって行なわれたときのことですが,ある目撃証人が伝えるところによれば,居合わせた人々はほどなくして一斉に騒ぎ出したため,兄弟たちは無記名投票で選挙を行なう方法に切り換えざるを得ませんでした。ついでですが,多くの会衆は後者の方法を用いていました。キールでは長老の選挙は警察の保護監視を受けて行なう必要さえありました。

このようなことが生じたのは,候補者たちの中に未熟なクリスチャンがいたためでした。事実,それら長老たちの中には王国のわざに直接あるいは間接的に反対する人たちもいました。

例えば,協会が「ものみの塔」誌を会衆で定期的に研究するよう勧めたとき,特に『選挙によって選ばれた長老たち』の中にはその提案に反対して,多くの会衆で分裂を引き起こした人々がかなりいました。レムシャイトの理事が,今後は日曜日の午前中に野外奉仕に出る人たちだけを「ものみの塔」研究の司会者として用いると述べたところ,『選挙によって選ばれた長老たち』の一人が椅子を振りかざしてその理事を脅し,40人ほどの人々を引き連れて会衆から出て行きました。キールでもおおむね同様のことが起こり,バイブル・ハウスの側の努力もかいなく,同会衆の200人の兄弟姉妹たちのうち50人が去って行きました。

振り返ってみると,1920年代の後半はここドイツではふるい分けるわざのなされた時期であったことがわかります。当時まで私たちとともに歩んできた人々の中には,王国に公然と敵対する者になった人たちもいます。そうした人々が去ったとはいえ,確かにそれは神の組織にとって何ら損失とはなりませんでした。なぜなら,1930年代は,忠実に留まった人たちにとって真の試練の時となったからです。

法律上の問題

1924年から1926年までは国税庁はものみの塔聖書冊子協会を厳密な意味での慈善事業の性格を持つ団体とみなし,文書を配布して受け取る金銭に対して税金を支払うよう要求しませんでしたが,その免税処置が1928年に取り消されてしまいました。しかし,協会は二大教会制度の指導者たちによってそそのかされて引き起こされた当協会に対するこうした攻撃処置について「ものみの塔」および「黄金時代」誌により一般大衆に知らせたので,この件に関する裁判は問題を公に相当広く知らせる好結果をもたらしました。後日,諸教会は,その処置は『聖書研究者たちが聖書の情報を広く伝えるのを阻止する』ためのものであったと述べて,そうした攻撃が教会側からもたらされたものであることを自認しました。兄弟たちはこうした不正な処置に反対する申立書に署名するよう,義を愛する人々に熱心に訴えました。120万人分もの署名を得た申立書が提出されたとき,法廷側が深い感銘を受けたのももっともなことでした。後に法廷は私たちに有利な判決を下しました。

宗教指導者たちはまた,私たちのわざの恐るべき発展を何とか食い止めようとして,協会の伝道者の活動を法律に抵触するとして問題にする手段を取りました。早くも1922年に「不法行商および行商税の支払い拒否」のかどで最初の裁判事件が持ち上がりました。また,1923年にもさらに別の法律問題が生じましたが,それもまた「行商規定違反」のかどで起こされた訴訟事件でした。そして,厳しい判決が言い渡されました。1927年には1,169人の兄弟たちが逮捕され,「行商法違反」や「無免許行商」のかどで裁判に付されました。1928年には審理件数は1,660件に,また1929年には1,694件に達しました。しかし,僧職者たちは聖書研究者たちを沈黙させる武器として利用し得る法律をさがし求めました。そして遂に,彼らは自分たちの望んでいたものを見いだしたと考えました。1929年12月16日付,ザールブルュッケル・ランデス・ツァイトゥンク紙はその点をこう指摘しました。

「残念なことに,それら聖書研究者たちの仕事に関しては警察は全く無力で何も行なえなかった。これまでに逮捕された者たちは……すべて無罪放免に付される結果に終わった。……ところが今や,ベルリン裁判所は同様の事例に関して判決を下すことを支持し,また戸別訪問を行なって勧めたり街頭で勧めたりして宗教文書を提供するということは,そのために身体的努力が関係し,またそれゆえにそうした提供行為が警察の仕事の管轄権下に入り,一般の人々もそうした行為に目を留める場合,日曜日や祭日の安息のための休みを守ることに関する警察条令に抵触するという原則を設定した。

「幸いなことに,ザール地区の幾つかの裁判所はこの裁定が下されたことを知って以来,同様の事例の審理に際して被告に有罪判決を下すことができるようになった。この事態は今やそれら聖書研究者たちのわざに終止符を打つ機会を供するものとなってきた」。

ババリアでの活動

聖書研究者たちの活動に終止符を打たせようとする試みはドイツの至る所でなされましたが,ババリア州はその点で特に顕著なものがあり,同州内での逮捕件数は他のどの州でのそれをもしのぎました。また,一時的ではありましたが,地方の法令によってわざが短期間禁じられる場合さえも生じました。1929年に協会はレゲンスブルクの南部の地区に約1,200人の兄弟たちを送り込んで,ある日曜日に1回だけその地域で一斉に伝道を行なわせる“一日攻撃”を敢行することに決めました。そして,二本の特別列車を出すよう鉄道会社と打ち合わせ,一つはベルリンを発ち,途中でライプチヒの兄弟たちを乗せ,別の列車はドレスデンを発ち,途中ザクセン州のケムニッツその他の都市の兄弟たちを乗せることになりました。乗客は各自およそ25マルクの料金を支払うのです。当時としてはその料金はかなりの額のお金でした。しかし,兄弟たちはいとも快くその犠牲を払いました。兄弟たちはただ,その活動に確実に参加できるようにしたいと考えました。というのは,敵は眠ってはいなかったからです。

この運動の手はずを整えている際,万一そのことが事前に僧職者の耳に入ってしまえば,僧職者たちは自分たちの勢力を利用してその計画を阻止するに違いないことを兄弟たちはよく承知していたので,できる限りの手を打って秘密裏に事を運びました。それにもかかわらず,僧職者に気づかれないようにしようとする努力は失敗し,とにかく僧職者は1週間ほど前にその計画を探知しました。そして突然,鉄道会社は私たちのための2本の特別列車の運転を渋るようになりました。そこで直ちに関係諸会衆はすべて,貸切りバスの手配をするよう指示されました。ところが僧職者たちはこのことをも聞き出し,近づいた問題の週末にはザクセン州外に通ずる道路すべてを警官によって厳重に監視させるよう手配しました。警察当局者は,聖書研究者たちがいっぱい乗った車をすべて止めさせ,長時間待たせて,その任務を遂行せずに帰宅せざるを得ないようにさせるための何らかの理由を得たようでした。

その間,鉄道会社は私たちがバスの手配をしたことを知り,そうなれば収益上かなりの損失を招くと判断し,結局最後のどたんばになって私たちのための2本の特別列車を運行させることに同意しました。出発予定のわずか2日前に起きた計画のこの最終的変更は僧職者には気づかれずに済みました。それで彼らが警官を動員して国道全部を監視させていたとき,2本の特別列車はライヘンバハ(フォクトラント)で連結し,午前2時ごろ1本の特別列車としてレゲンスブルク近郊に入りました。そこからは列車は各駅に停車し,兄弟たちが少しずつ下車し,ある人々は自転車を携えて行ったりして,田舎の区域に入って行き,そのような所でも伝道しました。

その日一日で驚くべき証言が行なわれました。というのは,寄付を受けて配布する文書だけでなく,無料で配る文書も参加者全員に十分供給されていたからです。兄弟たちはどの家にも何かを置いてくるよう努力すべく決意していたのです。逮捕されたため,その特別列車で帰宅できなかった兄弟たちもかなりいましたが,この運動に参加する特権にあずかった人たちは,以来その時のことを決して飽きずに何度となく語ってきました。私たちの敵対者たちもその週末の事はいつまでも忘れられずにいると言っても決して間違ってはいません。

銀行の破産

さて,失業や経済的不安定の増大するさ中で,ドイツおよび中部ヨーロッパにおけるわざを財政的にまかなう基金の大半を預金していた銀行が倒産しました。ドイツの支部だけでも,37万5,000マルクの損失を被りました。

協会は,1930年の夏にベルリンで開く予定にしていた大会を取り消さねばならなくなったことを諸会衆に知らさざるを得なくなりました。そして,諸会衆あてのその手紙の中で,文書の「生産も中断させられる」恐れがあることを指摘しました。ところが,この発表は警鐘のような効果をもたらしました。兄弟たちはその多くが失業していたため,財政的には非常に窮乏状態にあったにもかかわらず,出版物が途切れることなく確実に発行されるようにするため,限られた財源から得られる何がしかのお金はもとより,ベルリン大会用として既に貯えておいたお金を直ちに快く寄付しました。事実,結婚指輪その他の宝石や貴金属類を犠牲にして寄進した人々も少なくありませんでした。

その結果,銀行の倒産問題が生ずる前にわざを拡大するために立てられていた計画は妨げられませんでした。いいえ,その実施は延期されることさえありませんでした。こうして,1930年の春,それまでの私たちの地所に隣接していた別の土地と建物が購入されました。そして,新たに購入された土地に立っていた建造物は取り壊され,兄弟たちはその建物の資材をできるかぎり利用して,おのおの二人を収容する72の部屋と広い食堂のある新しい大きなベテルの建物を建設しました。

さらに増えた裁判事件

1930年中にはさらに434件の事件が裁判所に持ち込まれました。そのため,既に係争段階にあった事件と一緒にすると,今や1,522件の裁判事件が法廷に提出され,決着がつけられるのを待つことになりました。

しかし,私たちに法律違反者としての烙印を押そうとした宗教上の敵対者にとって1930年は困難な時期となりました。というのは,内務省が警察当局者すべてに対して出した4月19日付の回状には次のような一文が記されていたからです。「現在のところ同協会は専ら宗教的目的のみを追求しており,政治的活動は行なってはいない。……今後,特にわが国の行商法に対する違反の件で刑事訴訟を起こすことは慎むべきである」。

パリとベルリンにおける大会

1931年,ラザフォード兄弟はもう一度ヨーロッパ旅行を計画しました。そして,同年5月23日から同26日まではパリで,また5月30日と6月1日にはベルリンでそれぞれ大会が開かれることになりました。当時ドイツは経済的に貧しかったので,ラザフォード兄弟は,ドイツの南部およびラインラント州の兄弟たちをパリの大会に出席するよう招く取決めを提案しました。そのほうがベルリンまで旅行するよりも費用が少なくて済むからでした。そこで,ケルン,バーゼルおよびストラスブールを発つ特別列車が仕立てられました。兄弟たちはその取決めを本当に感謝しました。そして,たまたまそうなったのですが,パリに集まったおよそ3,000人の人々のうち,1,450人はドイツから来た人たちでした。

ベルリンの大会はスポーツ・パレスで開かれました。最初,出席者数はそれほど大きくはなるまいと考えられていました。まず経済上の危機的な事情がありましたし,第二にほとんど1,500人もの人たちがパリに赴いたという理由もあったからです。ですから,およそ予想もしなかった,ほとんど1万人もの人々が出席するのを見るのは何という大きな喜びだったのでしょう。

当時,あらゆる機会を捉えては,この世的な宗教上の種々の習慣を兄弟たちの間から除去することに努めたラザフォード兄弟は,既に以前の大会で自分の服装を利用して小規模ながら変革を引き起こしていました。彼はドイツを含め,ヨーロッパの兄弟たちが大会では特に黒い色の服装を好んでいることに気づいていました。男子は偽りの宗教組織に見られる習慣と全く同様,黒のスーツを着るだけでなく ― 葬式のさいには帽子も黒いのをかぶり ― また,黒いネクタイを付けていました。そのことを見て取ったラザフォード兄弟は非常に明るい色のスーツとそれに合わせてつける深紅のネクタイを買いました。彼がそうした服装をしてドイツにやって来て以来,多くの人々は黒い服を着るのをやめるようになりました。

さて,ベルリン大会に出席したラザフォード兄弟は,自分の写真やラッセル兄弟の写真が絵はがきその他の写真として,中には額縁にさえはめて多数売られていることに注目しました。会場の回りの廊下の数多くのテーブルの上にそうした写真が置いてあるのを見た同兄弟は,次に行なった講演の中でそのことを指摘し,出席者に対してそうした写真を買わないように勧め,それらの写真類を扱っていたしもべたちに対しては,写真を額縁から取り除いて焼き捨てるようきっぱりと指示したので,後にそれら写真類は処分されました。彼は人間崇拝を行なわせる恐れのあるものを一切排除したかったのです。

ベルリン大会に関連して,もち論ラザフォード兄弟はマクデブルクにある支部事務所をも訪れました。それ以前の訪問の場合と同様,このたびの訪問も気持ちをさわやかにし,解放感をもたらすそよ風のようでした。ラザフォード兄弟が訪問する少し前までは全部の部屋に同兄弟とラッセル兄弟の写真が掲げられていました。しかし今度はラザフォード兄弟がそれに気づくや否やそれらの写真はすべて取りはずされました。

ラザフォード兄弟はまた,何年間かの期間が経つうちに,ほかにも幾つかの事柄に気づきました。同兄弟だけでなく,ベテルの成員の相当数の人々も,バルツェライト兄弟の立場が危険なものであることを知っていました。同兄弟がりっぱな組織者であって,その指導のもとでドイツにおけるわざが優れた進歩を示したことは疑う余地のない事実です。しかし,彼の犯した大きな間違いは,そうした非常な発展をエホバの霊によるものとする以上に自分自身の能力のせいにしたことです。ベテルの食卓でのある食事のさい,バルツェライトはベテルの家族に対して,世の人々がいる所ではもはや彼を「兄弟」と呼んではならないと要請しました。そのような場合には「所長」と呼ばれることになりました。しかも彼は自分の執務室のドアに「所長」という標示をさえつけさせました。

そのころ,バルツェライトはエホバに対する誠実さの点で別の方面から脅威を受けました。彼は明らかにいつも迫害を恐れていました。彼はドイツの支部事務所の責任ある指導者として,「告発される聖職者たち」と題する決議文の配布に関連して起訴されていました。そして,確かに無罪放免の判決を受けたものの,今後そうした強烈な説明を協会の出版物に記さないよう裁判官から要請されるに及んで,バルツェライトは明らかにその忠告に従うことに決めました。というのは,「ものみの塔」誌やブルックリンから送られて来る他の出版物中の表現や説明があまり強烈すぎると思われる場合,「そのような箇所に手加減を加え」たからです。

物質主義に根ざした欲望も大きくなりはじめました。詩を書くことを楽しみにし,パウル・ゲルハルトという雅号を用いて自作の詩を「黄金時代」誌に発表していた彼は今度は,1冊の本を著わして,それをライプチヒで出版しました。次いで,その本が諸会衆の配布する文書類の一覧表に加えられたので,実情を知らない会衆はそれを注文したため,バルツェライト兄弟は相当な額の財政上の収益を得ました。同兄弟はまた,ある時には家族全員のためどころか,むしろ自分個人用としてテニスコートをベテル内に作りました。

また,新しい建物の建設をラザフォード兄弟の訪問中に行なわれる献堂式に間に合うよう仕終えるためにバルツェライト兄弟は,1930年の12月末までにベテルの奉仕者を165人から230人に増やしましたが,そのことで彼は正直に振る舞いませんでした。ベテルの成員の人数をラザフォード兄弟に認めてもらえないのではなかろうかと恐れたバルツェライトは,50人の兄弟たちを「伝道旅行」という名目で外部に送り出して実情を隠しました。戻って来たそれらの兄弟たちは,家に帰るか,それとも開拓奉仕に携わるかどちらを希望するかを尋ねられました。それらの兄弟たちの多くは,関係しているのはエホバのわざであって,人間の個性の問題ではないことを悟り,その機会を捉えて開拓奉仕を始めましたが,他の人たちは苦々しい思いを抱かされて去って行きました。

増大する迫害

1931年のこと,ババリア州の当局者たちは再び先頭に立ってエホバの民に対する戦いを開始しました。当局者側は同年3月28日にできた,政治的騒乱に対処する非常事態令を誤用して,突如聖書研究者たちの文書を発禁処分に付す機会を見つけました。ミュンヘンでは1931年11月14日に協会の書籍は没収されました。それから4日後,ミュンヘンの警察当局はババリア州全域に適用される声明を発表して,聖書研究者たちの配布していた文書すべてを発禁処分に付しました。

当然のことですが,兄弟たちは直ちに上訴する処置を講じました。1932年2月には上ババリアの行政当局がその発禁処分を支持しました。協会は直ちにその件でババリアの内務省に訴えましたが,1932年3月12日にその訴えは「根拠なし」として退けられました。

法廷の下したその裁定について言えば,1932年9月14日,マクデブルクの警察庁長官は私たちを弁護する意見を表明して次のように述べました。「このことにより我々は,国際聖書研究者協会は専ら聖書および宗教上の事柄にのみ関係している団体であることを確言する。同協会は今までに政治活動を行なってはおらず,国家に対する敵意を示すような傾向は少しも示したことがない」。

しかし月日が経つにつれて問題は増大し続けました。ドイツの他の州でさえもそうでした。当時,パウル・ケッヘルが6人の特別開拓者と一緒にジンメルンに来ていました。それは短くした「写真-劇」をその町で二晩にわたって上映するためでした。しかし彼はその上映を中止させられました。というのは,竪琴を携えたダビデが写し出され,その詩篇の一つが引用されたところ,場内全体が狂乱状態に陥ったためでした。そして,出席者はほとんど全部がヒトラーの突撃隊員だったことがすぐわかりました。

ザール地方でも同様の経験がありました。1931年12月のこと,協会のわざを妨げないよう,その地域の警察当局者に通知するため,行政当局に対して訴えがなされました。そして,その指示が出されたのですが,それに憤慨した僧職者たちは,聖書研究者たちに対する警告の言葉を毎週のように説教壇から発するほどになりました。敵意はいよいよ募り,1932年の終わりまでには,2,335件もの裁判事件が係争段階に持ち込まれるに至りました。それにもかかわらず,文書類の出版に関するかぎり1932年はそれまでの最良の年となりました。

1933年1月30日,ヒトラーがナチ・ドイツの首相の地位を得ました。そして,同年2月4日,『公共の秩序と安全を危くする』文書を差し押える職権を警察に与える法令を出しました。その法令はまた,集会および出版の自由をも拘束するものでした。

残れる者の感謝の証言期間

同年の記念式の日付は4月9日に当たったので,記念式と関連して「残れる者の感謝の証言期間」の活動が4月8日から同16日まで行なわれる計画が立てられました。そして,「危機」と題する小冊子を用いて世界的な証言が行なわれることになりました。

しかし,ドイツの兄弟たちはこの八日間にわたる証言期間の活動を平安のうちに仕終えることはできませんでした。「危機」と題するその小冊子を用いた運動は,4月13日ババリア州でのわざの禁止処分を招きました。それに続いてザクセン州では4月18日に,またチューリンゲン州では4月26日,そしてバーデンでは翌5月15日にそれぞれわざが禁止され,さらにドイツの他の州でも同様の事態が次々に生じました。当時,マインツで開拓奉仕を行なっていたフランケ兄弟が伝えるところによれば,60人余の伝道者で成るその地の会衆には配布用の小冊子が1万冊ありました。それを配布するにはじん速に行動しなければならないことを知った兄弟たちは,それらの小冊子のうち6,000冊をその運動の初めの3日間以内に配れるよう,時間を組織的また有効に費やす計画を立てました。ところが,四日目には多くの兄弟たちが逮捕され,家宅捜査が行なわれました。しかし,警官はほんの数冊の小冊子しか見つけ出すことができませんでした。というのは,兄弟たちは警察側のそうした処置を考慮に入れて,他の4,000冊の小冊子を安全な場所に隠しておいたからです。

逮捕された兄弟たちは全員その日のうちに釈放されました。彼らはすぐさま組織的活動を取り決めて,その4,000冊の小冊子を,配布活動に参加できる会衆内の兄弟たちすべてに配りました。その晩,兄弟たちは自転車に乗り,約40キロ離れたところにあるバト クロイツナハ市に行って,その残りの小冊子を一般の人々に配布し,あるものは無料で配りました。この処置が適切だったことは翌日になってわかりました。というのは,その間,ゲシュタポ(ナチ・ドイツの秘密国家警察)が,聖書研究者として知られている人たちすべての家を捜査していたからです。しかし,その1万冊の小冊子はすべて既に配布されてしまいました。

マクデブルクでは政府当局者が支部事務所に通達を出し,表題の載せられている表紙のさし絵(血のしたたり落ちる剣を持った兵士を描いた絵)は気に入らないので,その表紙を切り取るよう要求しました。妥協を好む態度をそれまでも繰り返し示していたバルツェライト兄弟は,直ちにその色刷りの表紙を小冊子から取り去るよう指示しました。

その証言の週は実に気のもめる一週間でした。敵側は日ごとに,容赦ない力をふるって攻撃する決意をいよいよ明らかに表わしました。それだけに,報告が集計されて,記念式の祝いの出席者数が前年の1万4,453人に比べて合計2万4,843人であることがわかったときは本当に励まされました。その証言期間中に活発に働いた伝道者の人数も同様に大きな喜びをもたらすものとなりました。それは1年前の「王国」と題する小冊子の運動のさいの伝道者数1万2,484人とは対照的に1万9,268人に達したのです。そして,八日間にわたるこの運動の期間中に「危機」と題する小冊子は合計225万9,983冊配布されました。

ゲシュタポによるベテル・ホームの捜査

同年4月24日,ナチ当局は協会の事務所と工場を占拠しましたが,それは私たちのことを共産主義運動と結びつけられるような資料を見つけたかったからです。その種の資料を入手できるとすれば共産主義者の所有する建造物に関して既に行なっていたようなこと,つまり新しい法律を適用して協会の建物や地所すべてを没収して国家のものにすることができたのです。建物を捜索した後,警察はある晩政府当局者に電話し,罪証物件は何も見いだせなかったことを伝えました。しかし,「必ず何かを捜し出せ!」との命令を受けました。とはいえ,何も捜し出せなかったため,協会の建物と地所は4月29日に兄弟たちに返還せざるを得ませんでした。その同じ日にブルックリンの事務所はアメリカ政府を通して,(アメリカの法人団体の所有する)その建物や地所に対する不法差押えに抗議しました。

1933年6月25日のベルリン大会

1933年の夏までにはドイツの大多数の州でエホバの証人のわざは禁止されました。兄弟たちの家は定期的に捜索され,多くの兄弟たちは逮捕されました。単に一時的ではありましたが,霊的な食物のよどみない流れは部分的に妨げられました。また,多くの兄弟たちはいつまでわざを続けることができるのだろうかとなおも尋ねていました。こうした事情のもとで,諸会衆は6月25日にベルリンで開催される大会に出席するよう,そのほんの少し前に知らせを受けました。各地でわざが禁止されていたので大勢の人々の出席は無理だと考えられたため,会衆は少なくとも一人あるいは数人の代表者たちを出席させるよう勧められました。ところが,7,000人もの兄弟たちが集まることになりました。多くの人々は出席するのに3日もかかりました。ベルリンまでの道のりを自転車で走り通した人たちもいましたし,他の人々はトラックでやって来ました。活動を禁じられた団体にバスの便を供することをバス会社が断わったからです。

ラザフォード兄弟は大会の何日か前に,協会の地所や建物の安全を確保するにはどうすればよいかを知るため,ノア兄弟と一緒にドイツを訪れ,バルツェライト兄弟を通して同大会に提出し,出席者たちの賛同を得て採決する宣言文を用意しておきました。それは私たちの行なっていた宣べ伝えるわざに対するヒトラー政府の干渉に抗議したもので,ナチ国家の大統領をはじめ,政府高官全員に,その宣言文の写しを1部できれば書留めで送り届けることになりました。ラザフォード兄弟はその大会の始まる数日前にアメリカに戻りました。

しかし,出席していた人たちの多くはその「宣言」に失望させられました。というのは,その内容は多くの点で兄弟たちの期待していたほど強烈なものではなかったからです。当時までバルツェライト兄弟と密接な関係を持って働いていたドレスデン出身のミュツェ兄弟は後に,その原文の真意を弱めたことでバルツェライト兄弟を非難しました。政府機関との関係で問題を避けようとしてバルツェライト兄弟が協会の出版物の明確で間違えようのない言葉づかいに手加減を加えたのは,これが最初ではありませんでした。

相当数の兄弟たちはまさにそうした理由のゆえにその宣言の採択を拒否しました。事実,以前の巡回旅行者でキッペルという兄弟は採択を求めるためのその宣言文の提出を断わったので,別の兄弟が代わって提出しました。後日,バルツェライト兄弟は同宣言が満場一致で採決された旨ラザフォード兄弟に伝えたとは言え,正しくはそうは言えませんでした。

大会出席者は疲れて家に帰りましたが,失望させられた人は少なくありませんでした。とは言え,兄弟たちはその「宣言」書を210万部携えて帰宅し,早速それを配布し,政府の責任ある地位に立つ大勢の人々に送りました。ヒトラーに宛てて送られたその宣言書には,一部次のように記された手紙が添付されました。

「ものみの塔協会のブルックリンの会長事務所はこれまでも,また現在もドイツに対してきわめて友好的態度を取っております。1918年にはアメリカの当協会の会長および理事会の七人の理事は合計八十年の懲役刑を課せられましたが,それは同会長の編集する二つの雑誌がアメリカでドイツに対する戦争宣伝に供されることを会長が拒んだためでした」。

その宣言の真意は弱められ,また兄弟たちの多くは同宣言の採択に心から賛同することはできなかったとは言え,それでも政府は憤り,その宣言書を配布した人たちに対する迫害を開始しました。

再び占拠されたマクデブルクの事務所

プロイセンでわざが禁じられてからわずか1日の後,ベルリンで採択された宣言書がドイツの至る所で配布されましたが,それはヒトラーの警察に行動を起こさせる合図となりました。6月27日には警察当局者全員に対して,『あらゆる地方団体や会社を直ちに捜索し,国家に対する敵意を示す資料を一切没収する』よう命ぜられました。翌6月28日,マクデブルクの事務所の建物は30人のヒトラー突撃隊員により占領され,彼らは印刷工場を閉鎖し,建物の屋上にかぎ十字の旗を掲げました。警察当局者側の出した公式の制令によれば,聖書を研究したり,協会の建物や地所に関して祈ったりすることさえ禁じられました。6月29日にはこの処置がラジオを通じてドイツ全土に知らされました。

スイスの支部の監督ハルベク兄弟が文書の焼却処分を阻止しようとして精力的な努力を払ったにもかかわらず,8月21,23そして24日にわたり合計6万5,189キロもの重量の書籍や聖書や写真類が協会の工場から運び出され,25台のトラックで運搬され,マクデブルクのはずれで公に焼却処分に付されました。それら文書類の印刷費はおよそ9万2,719.50マルクにも達しました。それに加えて,各地の会衆でもおびただしい数の出版物が押収され,焼却その他の方法で処分されました。例えば,ケルンの会衆では少なくとも3万マルク相当の出版物が焼却処分に付されました。1934年6月1日号の「黄金時代」誌は,処分された物財(家具,文書その他)の価格は恐らく総額200万ないし300万マルクに上るであろうと報じました。

もしも,文書類の大半を船その他の方法でマクデブルクから運び出し,他の適当な安全な場所に貯蔵しなかったなら,損害はそれよりもなおいっそう大きくなっていたことでしょう。こうして,相当の量の文書類を何年もの間,秘密警察の目から隠すことができました。それらの文書の多くはその後何年かの間,地下活動による宣べ伝えるわざに際して利用されました。

次いで,アメリカ政府の介入により同年の10月,協会の建物は返還されました。1933年10月7日付の差押え解除書類はこう述べています。『協会の建物および地所は差押えを解除され,完全に返還され,自由に使用できるようになったが,文書を印刷したり,集会を開いたりするなどの活動をそこで行なうことは依然として一切禁じられていた』。

『世との友好関係』

キリスト教世界の僧職者たちは,エホバの証人を迫害するヒトラーと彼の努力を支持する態度を公に示すのを恥ずかしくは思いませんでした。1933年4月21日付,オシャツェル・ゲマインニュツィゲ誌が報じたように,ルーテル派の牧師オットーは4月20日,ヒトラーの誕生日を祝ってラジオを通じて行なった演説の中で次のように述べました。

「ザクセン州のドイツ・ルーテル教会は,この新たな情勢に関して合意に達したことを自覚しており,わが国民の政治指導者たちときわめて親密な関係を維持して協力しており,イエス・キリストの昔の福音の威力を全国民のために役立たせるよう今一度努力いたします。このような協力の最初の成果として,ザクセン州における熱心な聖書研究者たちの国際協会とその下部組織の活動が本日禁止されたことをお知らせできます。そうです,これは神の導きによってもたらされた何という転機でしょう。今日までのところ,神は私たちとともにいてくださいました」。

地下活動の始まり

ナチ党が政権を取った最初の年には地下活動による証言のわざは実際のところ組織されぬまま行なわれ,小グループによる集会がどこでも行なわれたという訳ではありませんでしたが,それでもゲシュタポは新たな理由を見つけて兄弟たちを逮捕しました。

最初に兄弟たちが逮捕され,家宅捜索が行なわれて間もなく,物事を客観的に考えた人たちは,そうした処置はいっそう激しい迫害を展開するほんの始まりにすぎないことに気づきました。こうした問題を交渉で解決しようとするのは全く無意味なことを承知していました。取り得る唯一の正しい道は,真理のために戦うことでした。

しかし,相当数の人々は躊躇し,エホバは必ず何らかの方法を講じてご自分の民にそうした迫害を被らせないようにしてくださるに違いないのだから,時機を待つのが最善の策だと考えました。そのグループの人々がぐずぐずして時間を浪費し,何らかの処置を自分たちで講じて事態を悪化させないようにしようと気をもみながらいろいろ試みている一方で,他の伝道者たちは意を決してわざを続行しました。勇敢な兄弟たちは間もなく自分たちの家で小グループに分かれて集会を開き始めました。もっとも,そのために,やがては逮捕され,厳しい迫害を受けるようになることは承知の上でした。

幾つかの場所では,兄弟たちは近隣の国々から常時ひそかに運び込まれてくる数冊の「ものみの塔」誌を謄写版で印刷し始めました。その取決めを最初に設けたのは,ケムニッツ出身のカール・クライスです。彼は原紙を切り終わると,それをシュヴァルツェンベルクのボシャン兄弟の所に持って行き,二人で謄写版を使って印刷しました。当時この面で特に活躍した人たちの中にはヒルデガルト・ヒーゲルやイルゼ・ウンテルデルフェルがいます。それらの人たちは,わざが禁止されるや否や,神から与えられた自分たちの使命の遂行を何ものによっても妨げられるままにはすまいと決心しました。ウンテルデルフェル姉妹はモーターバイクを買って,ケムニッツとオルベルンハウの間を往復しては,謄写版刷りの「ものみの塔」誌を兄弟たちのもとに運びました。近くにいる人たちの所へは自転車で訪ねて,あまり人目を引かないようにしました。

ヨハン・ケルブル兄弟は謄写版刷りの「ものみの塔」誌500部をミュンヘンで作る取決めを設け,次いでそれらの雑誌を兄弟たちの間で,またババリア森の広範な地域の兄弟たちの間にも配りました。

ハンブルクではニーデルスベルク兄弟が早速その面で率先して事を運びました。彼は多発性硬化症にかかる以前の何年もの間巡回旅行者として奉仕し,そうした障害があったにもかかわらず,できるかぎりの事を行ないました。さて,この試練の時期にさいして,兄弟たちは彼を訪ねては喜びを得ました。というのは,訪問すると必ず信仰を強められる結果になったからです。ほどなくして,兄弟たちに対する愛に動かされた彼は,兄弟たちが霊的な食物を再び確実に定期的に受け取れるような処置を講じました。彼は自宅で「ものみの塔」誌の謄写版刷りの製作を始めたのです。彼は原紙の切り方や謄写版の操作方法をヘルムト・ブレンバハに教え,次いで自分がいなくとも仕事をやれるようにし,今度はシュレスウィヒ・ホルシュタイン州西海岸に旅行し,その地方の諸会衆を訪問して兄弟たちを励まし,「ものみの塔」誌を彼らに届ける手はずを整えて来るという計画を他の兄弟たちに話しました。そして,どうすれば雑誌を送れるかについてもう一度兄弟たちと慎重に話し合い,また彼の通信文から,雑誌を各会衆に何冊送るかを判読する暗号を兄弟たちと一緒になって工夫しました。

1934年1月6日,ニーデルスベルク兄弟は病身を押して家を後にしました。杖にすがって力をふりしぼってやっと歩ける状態でしたが,エホバにすべてを委ねて出かけました。幾つかの会衆を訪問した後,同兄弟からの最初の暗号電報がハンブルクに届き,謄写印刷による「ものみの塔」の写しが送られ始めました。彼がメルドルフの近くに着いたときのことですが,そのほんの少し前に同地方でよく知られていたある兄弟が亡くなりました。そして,近隣の諸会衆から多数の兄弟たちがその葬式に出席することになったので,ニーデルスベルク兄弟は葬式の話をするよう依頼されました。彼はその機会を利用して,何か月もの間全然集会に出席できなかった同席の兄弟たちを強める目的で強力な話を行ないました。予想どおり,たいへん多くの人々が出席し,彼らは聞いた事柄により大いに励まされて,それぞれ割り当てられている区域に帰りました。

もち論,兄弟たち以外の人々も出席していましたし,ゲシュタポの将校たちさえ列席していました。ニーデルスベルク兄弟が話を終えた後,それら将校たちは同兄弟の住所氏名を求めましたが,彼を逮捕しようとはしませんでした。明らかに,事情が事情だけに,あえて逮捕しようとはしなかったのです。それで,彼はその旅行を続けることができましたが,それは同兄弟にとっていよいよ困難なものになってゆきました。そして,ヘンステットのトーデ兄弟のところに着いてすぐ,突然激しい頭痛に襲われ,その後まもなく脳いっ血で亡くなりました。こうして,彼は最後の力を投じて,精神的励ましを与える霊的な食物が兄弟たちに供給されるよう取り計らうことに尽くしたのです。その二週間後,ゲシュタポは同兄弟を逮捕するためハンブルク市アルトナにある彼の自宅に現われました。

ドイツではこうして「ものみの塔」誌が謄写版刷りで作られたほかに,同誌はスイス,フランス,チェコスロバキア,そうです,ポーランドからさえドイツに送り込まれ,しばしば大きさを変えたりして,さまざまの形で現われました。最初,「ものみの塔」誌の多くの記事は,「ヨナダブ」という表題を付して,スイスのチューリヒから送り込まれました。ゲシュタポがこの方法に気づいた後,ドイツ国内の郵便局すべてに対して,その表題のある郵便物はすべて没収し,その雑誌の受取り人に対しては適当な処置を取るよう通達されました。その結果,多くの場合,受取り人は逮捕されました。

その後,「ものみの塔」誌の表題や包装方法は事実上毎号変えられました。たいていの場合,「ものみの塔」誌の記事の主題が用いられ,例えば,「三つの宴」「オバデヤ」「戦士」「時」「神殿の歌い手」その他の表題が普通1回だけ出ました。それでも,そうした雑誌の幾冊かはゲシュタポの手に落ち,その都度ゲシュタポはその特定の雑誌が発禁処分に付されたことを伝える回状をドイツ中のあらゆる警察署に送りました。しかし,たいていの場合,その情報は手おくれになりました。なぜなら,その時までには,外観も表題も全く異なった別の「ものみの塔」の記事が既に現われていたからです。それで,ゲシュタポは激しい憤りを抱きながらも,戦術の点ではエホバの証人のほうが一手先んじていることを認めざるを得ませんでした。

「黄金時代」誌についても同じことが言えました。しばらくの間,同誌は発禁処分に付された雑誌のリストには載せられませんでしたが,後日,正式に発行を禁止されてからは,普通外国の兄弟たちから,それも特にスイスから個人的に送られました。それらの雑誌を郵送する際にはいつも,必ず宛名は手で書き,また毎回別の受取り人に宛てて送るようにしました。

ゲシュタポはこうした文書類の供給源を切り断とうとする試みに失敗すればするほど,兄弟たちを取り扱う彼らの方法は残忍さを加えるようになりました。ゲシュタポはたいてい何らの理由もなく兄弟たちの家を捜査し,その後兄弟たちを逮捕しました。警察の本部に連行された兄弟たちは,何らかの罪を強制的に認めさせようとする残忍な仕打ちを受けました。

「自由」選挙

一般の人々を脅すために,それも特にエホバの証人を目標にして証人たちに強制的に妥協させようとして行使された武器は,いわゆる「自由」選挙なるものでした。強制投票を拒んだ人たちは,「ユダヤ人」「祖国に対する裏切者」また「ならず者」として告発されました。

オシャツ(ザクセン州)出身のマクス・シューベルトは選挙管理人たちの訪問を5回受けました。彼らは選挙当日,同兄弟を投票所に連れて来たかったのです。同兄弟の妻も,同様の意図を持つ婦人たちの訪問を受けました。しかし,シューベルト兄弟はそのたびに,自分はエホバの証人であって,エホバを支持しているので,それで十分であり,さらにだれか他の人のために投票する必要はないことを訪問者に告げました。

彼はそのために翌日ひどい目に遭いました。同兄弟は駅の改札係だったので,いつも人々と接していましたが,その日にかぎって人々は彼に対して決まって,「ヒトラー万歳」というあいさつを行ないました。同兄弟は,「こんにちわ」とか,その他同様のあいさつを返しましたが,何か「不穏な空気」が流れているのを感じたので,昼食のさいその事について妻と話し合い,万一の事態に備えるよう妻に告げました。その日の午後,勤務を終えた後,5時ごろ,警官に逮捕され,国家社会党の地方所長の家に連行されました。その家の戸口には二頭立ての小型の馬車が止まっていました。すると,シューベルト兄弟は無理やりその馬車に乗せられ,手に手に燃えるたいまつを持って乗っていた数人の突撃隊員の中に立たされました。そして,前に立った一隊員は角笛を持ち,後ろには太鼓を持った隊員が立ち,二人が交互に警報を発したので,人々はみな出て来てその馬車が進むのを眺めました。馬車に乗っている突撃隊員たちのうちの二人は,「私は投票しなかったので,ならず者で,祖国に対する裏切者です」と書いた大きな看板を掲げました。ほどなくして,馬車の後ろについて来た人々は一群となって,その看板に書かれた言葉を繰り返し唱え,その言葉を言い終わるたびに,「彼はどこに行くべき人だろうか」と問うと,群衆の中の子供たちは一斉に,「収容所行きだ!」と叫びました。シューベルト兄弟はこうして人口約1万5,000人のその町の中で2時間半もの間引き回されました。翌日,ルクセンブルクのラジオ放送はこの事件について放送しました。

兄弟たちの中には行政事務に携わっている人たちもいました。ところが,それらの兄弟たちは「ドイツ式の敬礼」をしたり,選挙や政治的示威運動に参加したりしなかったので,1934年の夏以来政府は聖書研究者たちの活動を全国的に禁止する法律を成立させて,彼らを行政事務の仕事から追放できるようにする計画を立てていました。彼らを追放するためには,単なる地方の州の法律ではなく,国の法律によってその活動を禁止することが必要でした。1935年4月1日,そのような法律が制定されました。しかし,一部では個々の官庁が既におのおの独自の権限に基づいて処置を取っていました。

フォルツァイムで市役所の会計官として勤務していたルートウィヒ・スティッケルは1934年3月29日,次のように述べた一通の手紙を市長から受け取りました。「私は,あなたが去る1933年11月12日に行なわれたライヒスタグでの選挙の際に投票を拒否したかどで,あなたの罷免を求める刑事訴訟手続きを開始しました。……」。スティッケル兄弟は長文の手紙をしたためて自分の立場を説明したものの,実際には判決は既に言い渡されており,8月20日付で解雇通告を受けました。

当局者の目標は,エホバの証人を職場から解雇して追放し,その会社を閉鎖し,専門職に携わるのを禁じて,生計を立てる手段を証人たちから剥奪することでした。

マインツ出身のゲルトゥルド・フランケもそのことに気づきました。それは彼女が,1936年に夫の五回目の逮捕に遭遇し,警察は二度と再び彼を釈放する考えがないことを秘密警察から告げられた後のことでした。フランケ姉妹はおよそ5か月間投獄されましたが,釈放された後,仕事を捜すため職業紹介所に行きました。しかし,投獄されたことのある自分をだれも雇ってはくれないことを知りました。そして,最後にあるセメント会社が仕方なく彼女を受け入れました。2週間後,自分が同意した訳でもないのにドイツ労働戦線に加入させられ,その会費が給料支払小切手から差し引かれているのを知り二度びっくりさせられました。その組織の政治的な目的を知った彼女は,直ちに事務所に行って,自分が何ら認めていない組織のために自分の給料からお金が差し引かれたことに対して苦情を述べ,事態を正しく処理してもらいたいと要請しました。その結果,彼女は即刻解雇されてしまいました。そして,再び職業紹介所に行ったところ,就職の世話はおろか,失業手当ての支給も一切行なえないと言われました。労働戦線に加入するのを拒んだからには,どのようにして暮らして行くかは本人の問題だったのです。

試練に直面した年若い人々

エホバの証人の子供たちが教育を受ける機会を奪われた例はおびただしい数にのぼりました。ヘルムト・クネラーが自ら述べた経験の一部をそのままここに引用します。

「私の両親は,ドイツにおけるエホバの証人の活動が禁じられた矢先,エホバに対する献身の象徴としてバプテスマを受けました! 私について言えば,その禁令が発表された時,つまり私が13歳のおり,決定の時が来ました。学校では国旗敬礼に関連してしばしば決定を迫られ,その都度私はエホバに対する忠実と献身の立場を支持する決定をしました。そうした事情のもとでは高等教育を受けるために進学することなど考えられなかったので,シュツットガルトで実習生として商業を勉強し始めました。そのために毎週2回商業学校に通いましたが,その学校では毎日国旗掲揚式が行なわれていました。私はクラス中で一番背が高かったものですから,国旗敬礼を拒んだ私は,もち論不都合なことに人々の注意を引きました。

「また,先生が教室に入ると,生徒は起立して右手を上げて,『ヒトラー万歳』と言ってあいさつをしなければなりませんでしたが,私はそうしませんでした。当然のこととして先生は私にばかり注目し,しばしば次のようなやり取りをする場合が生じました。『クネラー,ここに来い! お前はどうして,「ヒトラー万歳」と言ってあいさつをしないのか』。『先生,私の良心が許さないのです』。『なんだと? このけがらわしい奴め! おれから離れろ。臭い奴だ,もっとずっと離れろ。いやらしい奴だ! 裏切者め!』などと言われました。その後,私は別のクラスに移されました。父が校長に会って話したところ,次のような独特の説明を聞かされました。『貴下が頼っている神は,果たして一片のパンでも与えてくれますかな。アドルフ・ヒトラーは与えることができ,またそうし得ることを実証していますぞ』。つまり,国民はヒトラーに敬意を払い,『ヒトラー万歳』と言って彼にあいさつしなければならないという訳でした」。

実習生としての勤務を終えた後,第二次世界大戦が勃発し,クネラー兄弟は兵役に召集されました。彼はその時のことについて次のように伝えています。

「1940年3月17日,私は軍隊に徴兵されました。どんなことが起きるかを私は長い間考慮に入れていました。そして,徴兵センターに出頭はしても,宣誓を拒否すれば,私は軍事裁判に付されて銃殺されるだろうと考えました。実際,私は強制収容所に送られるよりも銃殺されるほうがましだと思いました! ところが,そういうことにはなりませんでした。私は軍法会議で裁かれることなく拘禁され,パンと水の配給を受けました。5日後,ゲシュタポが私のところにやって来て,私はある所に連れて行かれ,数時間にわたる審問を受け,そこでさまざまの脅迫を受けました。その夜,拘置所に戻された私は非常に幸福でした。もはや恐れの気持ちはみじんもなく,あるのはただ喜びと,どんな前途が開けるのか,またエホバはどのようにしてもう一度私を助けてくださるのだろうかという期待の気持ちだけでした。3週間後,ゲシュタポの上層官憲が私に令状を読んで聞かせましたが,それによれば,私が国家に対して敵意のある態度を取っており,また活動を禁止された国際聖書研究者のために活動する恐れがあるゆえに,私を保護拘留処分にするというものでした。つまり,『強制収容所』に入れられることを意味しました。ですから,私が期待していたのとは全く逆の結果になりました。こうして,6月1日,私は他の囚人たちと一緒にダハウ強制収容所に投げ込まれました」。

クネラー兄弟はダハウだけでなくザクセンハウゼンでの生活も経験し,後には他の多くの囚人たちと一緒にイギリス海峡のチャンネル諸島のアルデルニーに移されました。その後,劇的な旅行をしてオーストリアのシュタイルにたどり着き,そこで一緒にいた人々とともに遂に1945年5月5日解放されました。非常な迫害の対象とされたクネラー兄弟はその幾年もの間エホバへの献身を水のバプテスマで象徴する機会についに恵まれなかった事実からも,それがどんなに激しい動乱の時であったかがわかります。もち論,そうした非常に困難な状況のもとで何年間も忠実を保ったことは,彼がエホバに献身していたことを証明するものでした。彼とともに生き残って家に戻った少数のグループの中には,ほかにも9人の兄弟たちがいましたが,それらの人たちも皆,強制収容所で4年から8年もの間忠実に忍耐し,今やパッサウでバプテスマを受ける機会に恵まれて感謝しました。

親から引き離された子供たち

ストレンゲ兄弟姉妹はその動乱の時期の幾年かの間,エホバの証人がその合法的な権利の享受をいかに拘束されたかを経験しました。ストレンゲ兄弟が逮捕され,3年の懲役刑に処せられる一方,子供たちとともに後に残されたストレンゲ姉妹は,あらんかぎりの力をふりしぼって物事に対処しなければならない事態に陥りました。姉妹はこう伝えています。

「息子は学校で愛国主義的な歌や詩を暗誦させられることになりましたが,それは宗教上の信念に反するものでしたから,息子は暗誦するのを拒みました。すると,担任の先生は二人の少年に命じて,息子を囚人同様にして,ハンネベルクさんという校長先生のもとに連れて行かせました。校長先生は息子の指を『しりに差し込めなくなる』ほど青黒くふくれ上がって血だらけになるまで打たせてやると言って脅しました。そして,続けざまに息子を脅迫し,父親には二度と会えなくなるぞ,と言って脅しました。終わりに校長先生は,十歳のこの少年に,兵役を拒否するかどうかについて尋ねました。グンターは聖書のことばを引き合いに出して,『剣を取る者は剣で滅びます』と言いました。そこで,校長先生は『普通の仕方で罰する』ようグンターの担任の先生に命じました。その後,校長先生は,5分後に警察に連絡し,警官を送ってグンターを家で逮捕させ,感化院に入れさせてやると言って息子を帰宅させました。息子が家に帰るや否や警察の大型車が家の前に現われ,数人の警官が荒々しい態度で入口の戸を開けるよう要求しましたが,私はドアを開けませんでした。しばらくすると,警官は退いて隣の家に行き,私に対する罪証となるような事柄を述べるよう,その家の主婦に要求しました。彼女は罪証となるような事柄を何も述べられませんでしたが,あまりにも長時間圧力を加えられたため,とうとう最後に,私たちが毎朝歌をうたい,祈りをささげているのを聞いてきたことを認めました。すると,警官は立ち去りました。

「翌日,午前10時30分ごろ,警官はまたやって来ました。私はドアを開けようとはしなかったので,ゲシュタポの将校は,『聖書研究者の畜生め! 戸を開けろ!』とどなり散らしたかと思うと,去って行き,近くの錠前屋を連れて来て,戸を壊して開けさせました。

「ゲシュタポの一人は連発拳銃を私の胸に突きつけて,『子供たちを渡せ』と叫びました。しかし私は子供たちをしっかりと抱き寄せました。子供たちは身の安全を求めて私にしがみつきました。そして,無理やりに引き離されそうになるのを恐れるあまり,私たちは声を限りに助けを叫び求めました。

「窓は開いていたので,家の前に集まっていた大勢の人々は,私が死にもの狂いになって,『私は非常に苦しい思いをして生んだわが子をあなたがたには決して渡せません。どうしても奪いたいのなら,まず最初に私をなぐり殺しなさい』と絶叫するのを聞きました。そのあと,興奮がこうじて私は気絶しました。正気を取り戻した後,私は3時間にわたってゲシュタポによる尋問を受けました。ゲシュタポは私の夫に対する罪証を私から得ようとしました。しかし,私が発作を起こして気絶したため,その尋問は数回にわたって中断しました。その間,家の前に集まった群衆は増える一方で,しかも人々の騒ぐ声はますます大きくなり,私の家で起きている事柄に対する反感が表わされるようになったので,遂にゲシュタポは所期の目的を果たせぬまま,またもや退散して行きました。ところが今度は,ひそかに子供を奪い去る方法を企てました。何日かの後,明らかにその計画を遂行する一環として,私はエルビングの特別法廷に出頭するよう求められました。その同じ日に私の子供たちはその後見人として指名された人のところに行かねばならなかったのです。私は最悪の事態のことを考えて,その前日ふたりの子供を連れて問題の後見人を訪ねてみました。その後見人の話によれば,私の十五歳の娘は勤労奉仕隊に入れられ,十歳になるグンターは国家社会主義の線に沿って教育を施すある家庭に預けられることになっていました。そして,もし二人がそれを拒むなら,両人とも感化院に入れられるというのです。興奮した私はこう尋ねました。『いったい私たちは既にロシアで生活しているのでしょうか,それともやはりドイツにいるのでしょうか』。すると,彼は答えました。『奥さん,あなたの今の言葉を私は聞かなかったことにしておきます。私も教会員の家族の者で,私の父は牧師なのです!』。せめて娘を見習生としてどこか別の所に預けてもらいたいと願ったところ,その弁護士は次のように鋭く言い返しました。『私はあなたの件で問題を起こしたくありません。聖書研究者の子供一人を扱うよりもむしろ私は,ほかの子供らを20人扱うほうがましです』。

「土曜日がやって来ました。それはエホバとその約束に対する私の信仰を弁明するためにエルビングの裁判所に行く予定の日でした。私は自らを強め,またそうすることによって,もう一度自分の心中を打ち明けることができるようにと願い,出かける前に刑務所にいる夫を訪ねました。夫が連れて来られた時,私はその両腕の中にくずおれて,むせび泣きました。それまでの何日間かの悲しみや恐ろしいできごとに関する記憶がまたもや私の内にどっと甦ってきたのです。夫は懲役3年の刑に処され,子供たちは私から引き離され,その時点で私たちは互いに分かれ分かれにされていたのです。私は気力をくじかれ,忍耐の限界に達していました。しかし,さまざまの苦しみに遭遇しながら,なおかつ神に対する破れることのない忠実を保ち,あらゆるものを失ったにもかかわらず,なされた悪事に関して神を非難しなかったヨブの経験について語ってくれた夫の声は,まるでみ使いの声のようでした。また夫は,たび重なる審問や裁判のもたらした厳しい試練に遭った後,やはりエホバからどんなに豊かに祝福されたかを話してくれました。夫の話を聞いて私は新たな力を与えられました。今や私は頭を上げて聴聞会に赴き,私の子供たちがエホバとその王国に対し,また自分たちの信仰に対して先生や他の高官の面前でいかに熱心に証言したかに関する説明を誇らしい気持ちを抱いて聞きました。そして,『ドイツの法廷』は判決を言い渡しました。国家社会主義の考えに従って子供を養育せず,またエホバを賛美する歌を子供たちと一緒に歌ったという理由で,私は懲役8か月の刑に服さねばならなくなりました」。

同級生からも排斥される

カールスルーエ出身の十二歳のヴィリ・ザイツ兄弟は次のような異なった経験をしました。彼はこう伝えています。

「これまで耐え忍ばねばならなかった事柄は言葉ではとても表わし尽くせません。学校では私は仲間の生徒たちからたたかれてきました。ハイキングが行なわれるときは,同行することがたとえ許されても,私は独りで歩かねばなりません。また,私にもやはり学校の友だちがいますが,そのような友だちに話しかけてもならないのです。言いかえれば,『私は汚い犬のように嫌われ,あざけられているのです』。神の王国が間もなく到来するということが私の唯一の慰めとなっています……」。

そして,1937年1月22日,ヴィリは,「ドイツ式の敬礼をしたり,愛国主義的な歌をうたったり,また学校での祝賀行事に参加したりすることを拒んだかどで」放校されました。

祈りをささげることも歌うことも罪とされた

ポキング出身のマクス・ルエフもまた,エホバの証人の誠実さを強制的にくじかせようとしていかに組織的な企てが行なわれたかを知りました。彼は生計の手段を完全に奪われたのです。彼は建物を改築するため,それを抵当にして融資を受けましたが,その抵当が無効にされてしまいました。しかし資金を直ちに返済できなかったため,1934年の5月,その建物と地所はすべて競売に付されてしまいました。

ルエフ兄弟は次のように述べています。「迫害はそれで終わったのではありませんでした。それどころか逆に,政治指導部にそそのかされた人々のために私は訴えられ,法廷に引き出されました。当局者側には私を責め得る理由は何一つなかったため,ミュンヘンの特別法廷は私に対して,自宅で禁じられた祈りをささげ,禁じられた歌をうたったかどで6か月の懲役刑を言い渡しました。そして私は1936年12月31日から服役し始めました。そのころ三番目の子供を身ごもっていた妻は,12マルクの家賃以外,自分と9歳と10歳の二人の子供の生活を支えるものを何一つ与えられませんでした。その後,妻の出産の時が来たので,妻の身の回りの世話をするため1,2週間仮出所させてもらうよう私たちはそれぞれ申請しました。しかし,出産予定日の1週間ほど前に,その申請は『不適当』として退けられました。

「3月27日,私は妻が亡くなったとの知らせと,必要な用事を処理するため3日間仮出所できるとの知らせを受けました。私は直ちに,妻が子供を産んだ後に運ばれた病院に行きました。もっとも,妻はその病院に運び込まれる前に亡くなりました。私がエホバの証人であることに依然気づかなかった医師と一人の看護婦は,『奥さんは元気で,どこも悪いところはなかったのだから,医師と助産婦を訴えるべきだ』と私に強く勧めましたが,私はただ,『それでは,私はたくさんのことをしなければならないのですね』と力なく答えました。家に着いてみると,寝室には死んだ赤ん坊が横たわっていましたし,また容易に察していただけると思いますが,みじめな姿をした9歳と10歳になる二人のわが子を見つけました。私は恐らく二度と再び会えないかもしれないその二人のわが子を,だれにも世話されないままに放置しておかねばならないのでしょうか」。

ルエフ兄弟のしゅうと親は同兄弟の妻の遺体をポキングに運ぶよう求めましたが,墓地の傍での告別の話は肉親以外の者には行なわせませんでした。そのようなわけで,ルエフ兄弟はエホバによって力づけられながら,その妻のための葬式の話を自ら行ないました。

しかし,今やルエフ兄弟にとって,二人のわが子を,それもだれからも世話されぬまま放置しなければならないということは,考えただけでも耐えがたい事柄でした。そこで彼は仮出所の猶予期限までになお残されているわずか数時間を用いて一人の子供をしゅうと親のもとに連れて行きました。もっとも,そのしゅうと親はエホバの証人ではありませんでした。そして,もう一人の子供をスイス国境の近くに住んでいる兄弟たちの所に連れて行き,最後に劇的脱出を行なって国境を越え,その子供とともにスイスに亡命しました。

誠実さをくじかせるため,まず最初に処罰し,次いで「友好的な態度」を示す

親から引き離された子供たちの中には,一時信仰の面で弱くなり,ナチ主義運動の指導者たちの思惑どおり,実際にナチ主義の立場に陥る危険な状態に立たされた例もあります。例えば,1943年に12歳のとき,父親と一緒にバプテスマを受けたマイセン出身のホルスト・ヘンシェルの場合を考えてみましょう。彼はこう書いています。

「私の子供の時代は動揺に満ちたものでした。私はヒトラー青年隊から退いたので ― やっとのことでそうすることだけはしたので ― 幸福でしたし,しっかりとした立場を取っていました。私は学校で毎日要求されたヒトラー万歳の敬礼を拒んだとき,よく打たれましたが,両親によって強められていましたので,自分は忠実を保っているのだということを知って大きな喜びを得ました。しかし,時には体罰を受けたため,あるいはそうした事態に対する恐れのために,『ヒトラー万歳』と唱えた場合もありました。そのような時には,よく涙にむせびながら家に帰り,そして親と一緒にエホバに祈り,次に敵の攻撃を受けた時には再び勇敢に抵抗したのを覚えています。次いで,また同じ事が起きました。

「ある日,ゲシュタポがやって来て私たちの家を調べ,肩幅の広いゲシュタポの一人が,『お前もエホバの証人か』と私の母に尋ねました。母はドアに背をもたれさせながら,遅かれ早かれ逮捕されることを承知の上で,『そうです』ときっぱり答えましたが,その時の母の姿を私は,まるで今日起きたできごとのように思い浮かべることができます。そして,母はその2週間後に逮捕されました。

「警官が母の逮捕令状を持ってやって来たのは,母がその翌日満1歳になろうとしていた私の幼い妹を忙しく世話していたときのことでした。……当時,私の父は家にいましたので,私たちは家で父の世話を受けました。……2週間後,父もまた逮捕されました。私は台所のストーブの前にうずくまって火を見つめている父の姿を今でも思い出します。学校に行く前に私はありったけの力をこめて父に抱きつきました。しかし,父は振り返って私を見ることもなく去りました。私は父が耐えたつらい戦いのことをしばしば思いめぐらし,神が必要な力を父に与えてこのような良い模範を私のために残させてくださったことを私は今もエホバに感謝しています。さて,帰宅した私は,自分が独りぽっちになったのを知りました。父は兵役につくよう命令されていたので,町の徴兵委員会に出頭し,兵役を拒否する旨説明したところ,即刻逮捕されました。私の祖父母や他の親類の人たち ― すべてエホバの証人の反対者で,中にはナチ党の党員もいた ― は,私と1歳になる私の幼い妹に対する保護監督権を取得する処置を構じたので,私たちは少年院あるいは感化院には入れられずに済みました。当時,既に21歳になっていた私の二番目の姉は,父が逮捕されてから丁度2週間目に逮捕され,ジフテリアとしょう紅熱にかかり,3週間後に亡くなりました。

「幼い妹と私は今や祖父母と一緒に暮らすことになりました。私は幼い妹のベッドの前でひざまずいて祈ったのを覚えています。聖書を読むことは許されませんでしたが,近所の婦人からひそかに1冊借りて読みました。

「ある時,真理に入っていない祖父が,刑務所にいる私の父を訪ねました。しかし,たいへん憤って,恐ろしいけんまくで帰宅しました。祖父は言いました,『この犯罪者の,ろくでなしめ! どうして自分の子供を捨てることができるんだ』。私の父は手足を鎖で縛られたまま祖父や他の人人の前に引き出され,子供のためにも兵役に服すようそれらの人々から説き勧められました。しかし,父は忠実を保ち,その勧めを断固として退けたため,ある将校は私の祖父にこう言いました。『この男はたとえ子供が十人いたところで,別の行動は取るまい』。その言葉は祖父の耳には恐るべきものでしたが,私にとっては,父が忠実を保っていること,またエホバが父を助けておられることを示す証拠でした。

「しばらく経った後,私は父から一通の手紙を受け取りました。それが父の最後の手紙でした。父は母がどこの刑務所に入っているのかを知らなかったので,その手紙を私にあててしたためたのです。私は自分の屋根裏部屋に行って,次のような冒頭の言葉を読みました。『この手紙を受け取ったなら,歓喜しなさい。なぜなら,私は最後まで忍耐したからです。私は2時間以内に処刑されることになりました……』。私は問題の深さを今日ほどに把握してはいませんでしたが,悲しくなり,泣きました。

「こうした決定的なできごとすべてに直面した時,私は比較的にしっかりした立場を保ちました。疑いもなくエホバは,問題を解決するのに必要な力を私に与えてくださいました。しかし,サタンは人を誘惑してわなに落とし入れるさまざまな手だてを持っており,私はほどなくしてそのことを経験するようになりました。私の親類の一人が私の何人かの先生に近づき,私のことを辛抱強く扱ってもらいたいとお願いしました。すると突然,先生は皆,私に対してそれはそれは親切になりました。私が『ヒトラー万歳』の敬礼をしない場合でさえ,先生は私を罰しませんでしたし,また特に親類の人たちは私たちに友好的で親切に接するようになりました。次いで,そのことが起きたのです。

「私は,それも自ら進んで再びヒトラー青年隊に参加しました。そうするようだれからも強制された訳ではなかったのに,第二次世界大戦の終わるわずか数か月前にそうしたのです。サタンは厳しい手段で成し遂げられなかったことを,こうかつな甘言を弄して仕遂げることができたのです。ですから,今日私は,外部からの激しい迫害は私たちの忠節を試みるものとはなりますが,他の方面からもたらされるサタンの卑劣な攻撃は残忍な攻撃に劣らず危険なものであると言うことができます。刑務所にいる間,母がどんなに難しい試みを切り抜けなければならなかったかということが今になってよくわかります。私は父が死ぬまで忠実を保ち,献身を全うしたことを裏づける父の最後の手紙を受け取りましたが,それは私を非常に強めるものとなりました。一方,母には,血に染まった箇所が依然としてはっきり見える父の衣類やスーツが送り届けられましたが,それらの品物は父が苦しんで死んだことを無言のうちに証するものでした。後日,母から聞いたところによれば,それらの事柄はすべて母にとって耐え忍ぶのに非常に困難なものでしたが,その時期の母にとって一番困難な試練をもたらしたのは,私がエホバに仕えるのをやめたことを示す私の手紙だったとのことです。

「戦争はたちまち終わり,母は家に帰って来て,献身の道に戻るよう私を助けてくれました。母はエホバへの愛とエホバへの献身の道に従って私を養育してくれました。過去を振り返って見ると,私は今日の仲間の年若い兄弟たちの多くが持っているのと同様の多くの問題をかかえていたことがわかります。しかし,母は献身の道に留まるよう私を助けるための戦いを決してやめませんでした。エホバの過分の親切のお蔭で私は,私の両親が投獄されたのと同じように今度は東ドイツの刑務所で過ごした6年4か月を含め,今までに22年間全時間奉仕を行なう特権にあずかりました。

「私はこれまでエホバから本当に豊かに祝福されましたが,それに値するほどのどんな事を行なっただろうかと,しばしば自問してきました。私は今,これは私の父や母の祈りのお蔭であると信じています。クリスチャンの行動の点で私の両親は自らの行状によって示し得る最善の模範を残してくれました」。

子供が親から取られた例は860件ほど知られていますが,正確な件数はこれよりもかなり大きいものと考えられています。こうした非人道的な仕打ちを考えれば,当局者がやがて,それらの親の一人を単に「遺伝的な病気」の持ち主であると述べ,ただそれだけの理由で子供を生めないようにするまでに極端な処置を講ずるようになったのも不思議なことではありません。その種の病気があれば,当時の法律の規定のもとでは当人に断種手術を施せました。

聴問の方法

残忍な策略の一つは,配偶者や他の家族の成員にその愛する人たちが尋問に際して受けなければならない拷問がどんなものかを味わわせることでした。エミル・ヴィルデはそれがいかに残忍な方法かを述べていますが,彼は自分の妻が文字どおり死に至る拷問を受けたときの物音を独房にいて強制的に聞かされました。こう伝えています。

「1937年9月15日の早朝の5時ごろでしたが,ゲシュタポの二人の将校がやって来て,まず最初子供たちに色々尋ねた後,私たちの家を調べました。その後,妻と私は警察本部に連行され,そして直ちに監房に入れられ,錠をおろされてしまいました。私たちの最初の聴問は10日ほどの後に行なわれました。そして,私の妻もその同じ日に最初の聴問を受ける予定だと聞かされましたが,そのとおりのことが起こりました。

「正午から1時ごろのことでしたが,私はある女性が声を張り上げて泣き叫ぶのを聞き始めました。その女性はたたかれていたのです。その泣き叫ぶ声はだんだん大きくなるにつれて,もっとはっきり聞き取れるほどになったとき,私はそれが私の妻の泣き叫ぶ声であることに気づきました。思わず私はベルを押して,その女性つまり私の妻がいったいどうして打たれているのかと尋ねたところ,私の妻ではなくて別の女性が行儀が悪いために打たれているので,あたりまえのことだと言われました。その日の午後おそく再びその叫び声が起こり始め,あまりに激しくなったため,私は再びベルを押して,妻に加えられている仕打ちをやめるよう訴えましたが,ゲシュタポは,打たれているのは私の妻ではないと否定し続けました。その夜の1時ごろ,私はもはや我慢できなくなり,またもやベルを押したところ,今度は,私はその名前を知りませんでしたが,警察の高官に連絡をする結果になりました。ところが,彼はこう言いました。『もしお前がもう一度ベルを押そうものなら,お前の妻にしているのと同じ事をお前にもしてやるぞ!』 その後,刑務所全体は静寂に包まれました。というのは,その間に私の妻は神経診療所に連れて行かれたからです。10月3日の早朝,ゲシュタポの監視部長クラシンが私の独房にやって来て,私の妻は神経診療所で死んだと私に伝えました。私は彼に面と向かって,私の妻を死なせた責任はゲシュタポが負わねばならないと言ってやりました。そして,妻の葬式の当日,私はゲシュタポを殺人の罪で訴えました。その結果,ゲシュタポは私を名誉棄損のかどで告発しました。

「これは私の最初の審理に加えて,さらに審理が行なわれることを意味しました。その審理が行なわれたとき,特別法廷での聴問中,2人の姉妹が立ち上がって,次のように証言しました。『私たちはヴィルデ夫人が,「残忍なあなた方は,私を打ち殺そうというのですね」と叫ぶのを聞きました』。ところが,裁判官はこう答えました。『しかし,証人たちは現場を見たのではなく,単に叫び声を聞いたに過ぎません。私は被告に1か月の服役刑を言い渡します』。とはいえ,私の妻が死んだ後にその遺体を見た数人の姉妹たちは,妻はのどの回りや顔面を大きなむちで打たれたため顔の形がひどく損われていたことを確証しました。私は妻の葬式に出る許可をもらえませんでした」。

ほかには,兄弟たちに催眠術をかけようとする企みが行なわれた場合もあれば,麻酔剤を混ぜた食物を食べさせられて,何を話すかを制御する力を一時喪失させられた兄弟たちもいます。また,強制的に自白させようとする試みとして,両手と両足をからだの後ろで縛られたまま一晩中放置された人たちもいました。こうした恐ろしい拷問を受けたのですから,中には耐えられない人たちもいたため,ゲシュタポはエホバの証人のわざがどのように組織され,また遂行されているかに関する情報を入手することができました。

親切な警官や雇用者たち

役人たちはいわゆる『総統綱領』なるものに基づく,特にその新しい国家の指導者たちすべての特徴となった『大声で話す,強力な新しい言葉づかい』を用いたものの,時々警察当局のある高官たちは刑務所の内外でエホバの証人を取り扱う際に依然同胞に対して同情の念を抱き得ることを示しましたが,それを見るのは喜びでした。

カルル・ゲーリングは「ドイツ式敬礼」をするのを拒み,また労働戦線組織への加入を拒んだため,メルセブルクの私鉄のロイナ工場から解雇されました。そして,職業紹介所は彼のための仕事を捜すのを拒み,また福祉事務所は一切の扶助料の支払いを拒否しました。しかし,ご自分の民の必要とするものをご存じのエホバは物事を動かされたので,ゲーリング兄弟は間もなくワイセンヘェルスの製紙工場に就職しました。同工場の所長,コルネリウス氏は,職場から解雇された近隣の兄弟たちをみな雇って働かせ,しかも兄弟たちの良心に反するような事を何一つ要求しませんでした。

あとでわかったことですが,そのような雇用者は多くはありませんでしたが,やはりほかにもいました。そのようにして,かなり多くの兄弟たちがゲシュタポの手から救われました。

また,中にはヒトラー政府の用いた暴力的な方法に内心では全然賛成していない判事たちもいました。特に最初のころ,多くの判事は,いかなる政治活動にも一切参加しないというただそれだけの趣旨の,何ら悪意のない書面を兄弟たちに供して署名させました。兄弟たちは無条件でその書面に署名できたので,その書面のお蔭で多くの兄弟たちは自由を奪われずに済みました。

家宅捜査にしても,官憲はその外見とは裏腹に,その全部がエホバの証人を憎んでいる訳ではないことを示す場合がしばしばありました。ポディク兄弟姉妹は家宅捜査を受けたときに,そのことを経験しました。それはふたりが何冊かの「ものみの塔」誌と他の出版物の入った郵便物をオランダに住む肉親の姉妹から受け取った時のことですが,受け取ったばかりでまだ何も読まないうちに,突如玄関のベルが鳴りだしました。

ポディク姉妹は叫びました,「早く,全部食器室に入れて戸を閉めて」。しかし,そうしたのでは注意を引くかもしれないと思い直し,姉妹は最後の一瞬にその扉を開いたままにしておきました。その間にゲシュタポの官憲が突撃隊員を一人伴って家の中に入るなり,「では,さっそくここから始めよう」と言いだしました。それは扉の開いている食器室から捜査を始めるという意味でした。と,ポディク兄弟の幼い息子が突然こう言いました。「食器室なら幾ら捜したって何も見つかりっこないよ」。すると,官憲は笑って答えました。「そうか,それじゃあ,別の部屋に行こう」。その家宅捜査は失敗に終わりました。実際のところ,ポディク兄弟とその家族は,それら官憲が ― 少なくともそのゲシュタポは ― 何も見つけたくはなかったような印象を受けました。また,その突撃隊員は家宅捜査が十分徹底的に行なわれたとは思えなかったので,その捜査を続けたかったようでした。ところが,ゲシュタポはその突撃隊員を叱りつけて,それ以上捜査することを差し止めたのです。そして彼は家を去った後,すぐさま独りで戻って来て,ポディク姉妹にこうささやきました。「ポディクさん,私の言うことを聞きなさい。当局はお子さんたちを連れ去ろうとしています。それはお子さんたちがヒトラー青年隊に入っていないためです。見せかけのためだけでもよいから,お子さんを送り出しなさい」。「こうしてその二人が去った後,私たちはオランダから届いた郵便物を静かに読むことができ,読んで知った多くの新しい事柄や郵便物の中にまたもや入っていた『ものみの塔』誌に対してエホバに感謝しました」と,ポディク兄弟は書いています。

裏をかかれる官憲

もち論,ゲシュタポの官憲が捜査を行なっている際に突然盲目状態にされたり,兄弟たちの電光石火の早わざでしばしば裏をかかれたりした例が数多くありますが,それはエホバの保護やみ使いの助けがあったことをはっきりと示しています。

マルクトレドゥィツ出身のコルネリウス姉妹は次のような経験を述べています。「ある日,もう一人の警官が家を調べるために現われました。私たちは謄写版刷りの『ものみの塔』誌を含め,数冊の印刷物を持っていました。とっさに私は,たまたまテーブルの上にあった,からのコーヒー・ポットにそれらの印刷物を全部突っ込みました。それ以外に隠す方法はなかったからです。しかし,警官があらゆるものを調べ終えてしまえば,それら印刷物を隠した場所が見破られるのは単に時間の問題に過ぎませんでした。すると,丁度その時に私の肉身の妹が何の前触れもなくアパートに入って来ました。私は何ら前置きの言葉も言わずに妹にこう言いました。『ここにあるあなたのコーヒーを持って行ってね』。妹は最初ちょっとけげんそうな顔をしましたが,しかし私の言った言葉の意味を理解し,すぐにそのコーヒー・ポットを取って出て行きました。こうして,それらの文書は難を免れましたが,官憲たちは裏をかかれたことに気づきませんでした」。

コルネリウス兄弟姉妹は5歳になる息子のジーグフリードに関するおもしろい話を述べました。その息子は当時まだ学齢期前だったので,「ドイツ式敬礼」その他同様の問題は何もありませんでした。しかし両親は真理に従ってその息子を育てましたし,親は読み終えると必ず文書類を隠していたので,その子はそれらの文書が非常に大切なものであって,ゲシュタポに見つかるようなことがあってはならないということを知っていました。ある日,二人の官憲が庭を通って,両親のいる所にやって来るのを見つけたその息子は,隠されている文書を見つけるために官憲がやって来たことに直ちに気づき,またそれらの文書を官憲に見つけられないようにする方法をすぐ考え出しました。まだ学齢期前でしたが,学校に通っている兄の鞄を取って,その中のものを全部取り出してからにし,文書類を全部詰め込んで,その鞄を背負って道路に出て行き,官憲が何も捜し出せずに帰って行くまで外で待ちました。その後,家に戻って来て,それらの文書を自分が見つけた元の場所に再び隠しました。