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第2部 ― ドイツ

第2部 ― ドイツ

第2部 ― ドイツ

刑務所で見いだされた「羊」

兄弟たちは刑務所にいる際,あらゆる種類の人々に接したので,当然のことながら,自分たちの希望についてそうした人々にもできるかぎり話しました。仲間の囚人の一人が真理を受け入れたとき,兄弟たちはどんなに喜んだか知れません! ヴィリ・レーンベカーはそうした経験についてこう述べています。彼は他の何人かの囚人と一緒にある部屋に監禁されましたが,そこでは喫煙が許されていました。

「私の寝台は上段でしたが,下段に休んでいた囚人があまりたばこを吸うので,私は息を吸うのもやっとでした。他の囚人が皆寝静まった後,私は人類に対する神の目的についてその囚人に聖書から証言することができました。彼は私の話を注意深く聞いてくれました。その青年は政治活動を活発に行ない,不法な雑誌を配布したかどで監禁されていました。私たちは,もしなお生き長らえて再び自由の身となったなら,お互いに訪ね合うことにしようと約束し合いました。ところが,それとは違った仕方で会うことになりました。1948年のこと,私はある巡回大会で彼と再びめぐり会ったのです。彼はすぐに私を見てそれと知り,喜びにあふれながら私にあいさつし,それからその後のいきさつを話してくれました。彼は刑期を終えて釈放された後,徴兵を受けてソ連国境で軍務に従事し,そのとき,かつて私から聞いた事柄すべてを思いめぐらす機会を得ました。……そして最後に彼は私にこう言いました。『今日,私はあなたの兄弟になりました』。そのとき私がどんなに感動させられ,またどんなに嬉しく思ったかを想像していただけるでしょうか」。

ヘルマン・シュレマーも同様の経験をしました。これも同様に巡回大会でのことでしたが,ある兄弟が近づいて来て彼に尋ねました,「私を覚えておられますか」。シュレマー兄弟は答えました。「お顔は見覚えがありますが,あなたがだれかはわかりません」。すると,その兄弟は,フランクフルト-プロインゲシャイム刑務所で5年間服役していたシュレマー兄弟を扱ったかつての看守であると言って自己紹介をしました。シュレマー兄弟は真理に関する非常に多くの事柄をその看守に話したのです。同兄弟はまた,聖書を1冊求めて欲しいと刑務所の牧師に頼んだところ,その願いを退けられたので,その看守に依頼しました。すると,その看守は人情のある人だったので,シュレマー兄弟のために聖書を1冊求めてくれました。また,独房に監禁されている同兄弟に何か手仕事を行なえるようにするため,家族のストッキングを持って来て繕わせたりもしました。そうです,この場合,エホバのみ言葉が肥沃な土の上に落ちたことを知ったシュレマー兄弟には,確かに歓喜するに足る十分のいわれがありました。

霊的な食物が欠乏する

ドイツにおける霊的な料理は減少し続けました。組織との連絡を断たれ,霊的な食物を得る機会にもはやあずかれなくなることが,グループはもとより個人個人にとってどんなに危険かについてハインリヒ・フィーケルはこう報告しています。

「ナチ党が政権を握った当時,私たちの会衆には30人ないし40人ほどの伝道者がいました。この体制が挑戦的な様相を呈するようになると,ほどなくして多くの兄弟たちはいわば『陰に回る』ようにして不活発になり,伝道者の約半数の人々はもはや姿を見せなくなりました。このことは,私たちがそれら退いて行った人々に会う場合,あいさつは交しますが,手もとに雑誌があっても彼らには供給しないようにし,非常に慎重な仕方でそれらの人を扱わねばならないということを意味しました。ある話し合いのさい,約14人を除いて兄弟たちは皆,ある選挙が行なわれたとき投票したことがわかりました」。

当然のことですが,単にエホバの組織から退いたのではなかろうかという疑いを他の人に抱かせるような状況が生じたためにある兄弟たちが霊的な食物にあずかれなくなるという危険性もありました。シュテッチンに住むグレーテ・クラインとその母親の身の上に生じたのはそのことでした。彼女の話を聞きましょう。

「私たちは色々の兄弟たちの家で小さなグループになって集まり合いました。私たちの会衆の監督は『ものみの塔』誌を私に与えたので,私は謄写版刷りのための原紙を切ることができました。ところが,それもほんの短期間に過ぎず,その後,私がそれほど大事にしていたその特権は終わってしまいました。兄弟たちは私の父が真理に反対しているということを知った後,たいへん恐れ,自分たちが見つかりはしないかと心配したのです。そして,母と私は『ものみの塔』誌を1冊も入手できなくなりました。実際のところ,兄弟たちはあまりにも恐れたため,道で私たちに会っても,あいさつさえしなくなりました。私たち二人は組織から完全に切り断たれてしまいました。シュテッチンの聖書研究者の会衆は消滅しました。なぜなら,わざは禁じられてはいなかったのに,私たちは指導者を失い,また霊的な食物も得られなくなったからです。……

「立ち止まっているということは,実際には後退していることを意味しています。ほどなくして私たちはそのことを自分たちの霊的な態度のうちに見いだしました。戦争が始まった後,私は強制収容所にいる私の霊的な兄弟たちのために祈り続けましたが,やがて私はまた,ロシアやギリシャで文字どおりの武器を取って戦っていた私の肉親の兄弟たちのためにも祈っていたのです。その時には,自分のしている事が間違っているということさえわかりませんでした。そして,神の王国のもとで新秩序が建てられるのは果たして可能だろうかという疑念がしばしば浮かんできました。

「私のほかにも,シュテッチン会衆には,自分がどんな立場に立っているのかを知らない若い人たちが大勢いました。グンター・ブラウン,クルト,アルトル・ヴィースマンなど幾人かの青年は肉の武器を取って兵役に参加しました。しかも,クルト・ヴィースマンは戦死してしまいました。私たちが消極的な立場を取るようになった重要な理由の一つは確かに,シュテッチン会衆の指導部が人間に対する恐れの犠牲になったことでした。……

「一方,その当時弱くなったそれら兄弟たちはエホバの辛抱強さと愛と寛容を示す実例となっています。というのは,後日私は,わざが再開された後,それらの人たちの何人かが自分たちの行動を誠実に悔い改めて,エホバの好意を受ける立場に回復されたのを見たからです。その中のある人たちは今日なお全時間奉仕に携わっています。たとえば,シュテッチンの以前の会衆の監督もその一人です。彼は人間に対する恐れのために私と私の母との関係を一切断ち,その妻と一緒に別の場所に移り,完全に消息を断ってしまいました。しかし,私がベテルで奉仕し始めたころ,私はウィースバーデンでその二人に会い,どんなに嬉しく思ったかしれません。そして私は,その二人が高齢になるまで全時間奉仕を続けるのを見ることができました。その人の行動のために,ある兄弟たちは強制収容所や刑務所でたいへんな苦しみを受けました。また,彼を許すのに苦労した人は少なくありませんでした。しかし,エホバの憐みに助けられてそれらの人々は彼を許しました。エホバの憐みは,それらの人にとってすばらしい模範となったのです」。

マクデブルクその他の場所で生じた不穏な事態

ヒトラーが首相になった1933年当時の記録にさかのぼってみると,ドイツ政府がマクデブルクの協会の建物やそこにある高価な印刷機類をねらっているということにラザフォード兄弟が早くも気づいていたことがわかります。そして,要職にある役人に対し,ドイツのものみの塔聖書冊子協会はペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の付属団体であることを証明する強力な努力が払われました。というのは,マクデブルクの協会の土地や建物は相当の程度までアメリカからの贈与物でしたから,それらは実際には米国法人の資産でした。そうした事情のもとでは,ドイツ国民だったバルツェライト兄弟は,米国法人の資産返還の戦いをするにはとても不利でした。そこでラザフォード兄弟はスイスの支部の監督ハルベク兄弟にその米国人としての市民権を利用してこの論争に介入するよう求めました。

安全を求めてチェコスロバキアに移る道を選んだバルツェライト兄弟は今や,自分の権威が制限されていると感じ,自尊心を傷つけられました。それでも,ドイツに戻って,協会の資産の所有権を保持するために進められていた折衝を自ら指揮し,信仰のために戦う兄弟たちを支持したいという願いを少しも示しませんでした。同時に,バルツェライト兄弟と,論争に関して同兄弟に味方した数人の兄弟たちは,ハルベク兄弟をドイツにおける協会の関心事を世話する点で怠慢だったとして非難するとともに,他の人々はバルツェライトのためにラザフォード兄弟に電報を打つほどになりました。

ラザフォード兄弟はバルツェライトに対して次のように答えました。「マクデブルクに戻ってそこに留まり,物事を監督し,できるだけのことをしてください。但し,すべての事に関してハルベク兄弟に知らせてください。……実際のところ,あなたがドイツに戻る許可を求める必要はなかったはずです。というのは,私に関するかぎり,またあなたも承知のとおり,そもそも最初からドイツに留まろうと思えば留まれたからです。しかしあなたは,国外に避難しなければ身の安全はおぼつかないことを私に信じさせようとしたのです」。

1933年は,定期的に集会を開くこと,また宣べ伝えるわざを続行することに関して何ら意見の一致を見ないうちに終わりに近づきました。ポディク兄弟は当時の事情をこう述べています。「二つのグループが現われました。恐れを抱いた人たちは,私たちは不従順で,彼らとエホバのわざの両方を危うくしていると主張しました」。1933年の8月にハルベク兄弟の記した1通の手紙がドイツの兄弟たちの間に広く配られたところ,それら恐れを抱いた人たちはその手紙を自分たちの立場の正しさを示す証拠として自分たちの論議に利用しました。そのうちに協会は,「彼らを恐れてはならない」と題する記事を「ものみの塔」誌に掲げましたが,その記事は,増大する迫害や虐待にもめげず良心の声に従って小グループになって集まり合い,地下に潜って宣べ伝えるわざを続行していた人たちの行動を支持しました。彼らの行動は神の意志と一致するものであることが示されたのです。

ところで,マクデブルクの協会の資産の返還を求める交渉は失敗に終わったため,ラザフォード兄弟は1934年1月5日付でハルベク兄弟に宛てて次のように書き送りました。「どう見てもドイツ政府から何かを取り戻せるとはほとんど期待できません。サタンの組織のこの派の勢力は,主が事態に介入するまで引き続き私たちの民を圧迫するものと思われます」。

そのうちに,ドイツの兄弟たちから何通かの手紙がラザフォード兄弟のもとに届き,同兄弟はそれらの手紙を通して,ドイツにおけるわざの事情や,兄弟たちの霊的な態度についてももっと正確に知るようになりました。それらの手紙の中には,「彼らを恐れてはならない」と題する「ものみの塔」誌の記事を取り扱った,ポディク兄弟からの手紙がありましたが,一部の兄弟たちは「時に及びて与えられる食物」としての同誌を受け入れようとはしなかったことを,その手紙は述べています。中には,兄弟たちが地下に潜って宣べ伝えるわざを続行しようとするのを妨げようとさえした人たちもいました。ラザフォード兄弟からの返書はあらゆる場所の兄弟たちに回されましたが,その手紙は一部次のように述べています。「12月1日号の『ものみの塔』誌に掲げられた『彼らを恐れてはならない』と題する記事は,特にドイツにいる私たちの兄弟たちの益のために書かれました。主に関して証をする機会を見いだそうと考えている人たちに反対する者が兄弟たちの中にいるとすればそれは驚くべきことです。……前述の記事は地上の他のいかなる所にでも当てはまるのと全く同様,ドイツにも当てはまります。個々の成員はどこにいるにしても,それは特に残れる者の成員に当てはまります。……これは,何をすべきかをあなたがたに命じたり,あるいは入手できるこうした文書をあなたがたに供給するのを拒んだりする権利は,文書のしもべ,奉仕の指揮者,収穫のわざの指導者にも,またその他のだれにもないことを意味しています。主の奉仕におけるあなたがたの活動は違法ではありません。なぜなら,皆さんは主の命令に従ってそれを行なっているからです。……」。

一致団結した行動を起こす計画がバーゼルで立てられる

さて,1934年9月7日から9日までスイスのバーゼルで大会が開催されることになりました。ラザフォード兄弟は,ドイツからその大会に出席する兄弟たちの多くに会って,それらの兄弟たちからドイツの実情について直接聞きたいと願っていました。非常な逆境のもとにあったにもかかわらず,ほとんど一千人もの兄弟たちがドイツからその大会に出席することができました。それらの兄弟たちが後日伝えるところによれば,ドイツの兄弟たちが既にどれほどの苦しみを強いられたかについて直接話を聞いたときのラザフォード兄弟の苦悩はそれは大変なものだったとのことです。

一方,ラザフォード兄弟は,居合わせた旅行する監督たちでさえ宣べ伝えるわざに関して同一の考え方をしてはいないことを認めざるを得ませんでした。そこで,大会後,ドイツで講ずべき処置について兄弟たちに話し,一致団結した行動を起こす計画が立てられました。

1934年10月7日は,その日のできごとに加わる特権にあずかった人たちすべてにとってその記憶に永く残る特別の日となりました。その日,ヒトラーとその政府は ― 彼の目にばかげた少数者と映った ― エホバの証人の恐れを知らぬ行動に直面したのです。

詳細はラザフォード兄弟からの一通の手紙に順々と説明されており,その写しは特別の使者によってドイツ内のあらゆる会衆に届けられることになっていました。同時に,それらの使者は,その特別の日にドイツの至る所で開かれる予定の集会のための準備をするよう指示を与えられました。ラザフォード兄弟の手紙には一部次のように記されていました。

「ドイツのエホバの証人のあらゆるグループは,1934年10月7日,日曜日,午前9時に,それぞれの住んでいる町の都合のよい場所に集合し,出席者全員に対してのこの手紙を読み,次いで私たちの頭で王なるキリスト・イエスを通して一緒にエホバに祈り,その導きと保護と救出と祝福とを求めてください。その後直ちにドイツ政府の役人に手紙を送ってください。その文面はそれまでに用意され,その時までに入手できるようにされます。また,数分の時間をさいてマタイ 10章16-24節を討議し,その句の述べるところを行なうことによりあなたがたは『自分の命を守るために立ち』上がっているのだということを銘記してください。(エステル 8:11)それから集まりを閉じ,近隣の人々のもとに出かけて行って,エホバのみ名について,また私たちの神とキリスト・イエスの治める神の王国とについて証言してください。

「その同じ時に,世界中の皆さんの兄弟たちも皆さんのことを考え,同様の祈りをエホバに捧げます」。

神に従う決意を表明した共同宣言

もち論,そのための準備は完全に秘密裏に行なわねばならず,その準備に何らかの関係を持っていた兄弟たちはみな,10月7日に行なう予定の事柄については自分の妻あるいは家族の他の者にさえ口外しないことに同意するよう要求されました。そうした予防手段が講じられたにもかかわらず,いよいよという時になって,ある事態が生じました。もし,エホバの強力な腕により保護が差し伸べられなかったなら,恐ろしい結果が生じていたことでしょう。マインツで起きた事柄についてコンラド・フランケはこう報告しています。

「私は最初,1933年の初めごろ逮捕されて強制収容所に入れられたので,その後釈放されてからもしばしばゲシュタポの前に出なければなりませんでした。そして,そのたびに私はこの町でのわざを組織するよう指導しているのではないかと責められました。逮捕件数が増え続けたことは,宣べ伝える運動が組織的に続行されていることを証明していたからです。ですから私は,私宛の郵便物は私たちの地区の奉仕の指導者フランズ・メルク兄弟の知っている偽装住所に郵送してもらうことにしていました。ところが,どういう訳かわかりませんが,同兄弟は,必要な指示を添えたラザフォード兄弟の手紙を,バーゼルで決めたとおり私に直接届くようにはせずに,その手紙を郵便で,しかも私の通常の住所に,それも文字どおり『いよいよという時になって』送ってよこしたのです。幸い私は,密接な関係を持って仕事をしていたアルベルト・バンドレス兄弟から話を聞き,この運動に注目していたので,その手紙に記されている詳細はよく知っていました。10月7日までの日数はたちまち少なくなって行きましたが,メルク兄弟からのその重要な情報はなお届かなかったので,私は同兄弟の助けを得ぬまま事を進め,マインツ郊外のある兄弟の家で集会を開く取決めを設けました。その集まりには約20人ほどの人々が招かれました。

「ところが,その集まりを開く2日前になって,急に場所を変えなければならなくなりました。私たちの集まる予定にしていた家が危険な場所であることがわかったからです。しかし,新しい集合場所の住所が兄弟姉妹たち全員に知らされた後,突然,その家に住むある家族もまた,それまでにひどい敵意を示しており,もしエホバの証人とわかったなら,それがだれであれ,今後一歩でもその家に入ったなら,直ちに通報して逮捕させることにすると言って脅していたことがわかりました。そのアパートで翌朝集まりを開く予定だったので,その家を所有していた兄弟たちは,どこか別の家で集まりを開くよう求めました。このような訳で,10月6日に再び兄弟たち全員を訪ねて,翌朝9時に集まりを開くための三度目の場所を知らせなければならなくなりました。しかし,どこで集まるのですか。集まれそうな場所はほかにはありませんでした。祈りをこめて考えた末,危険ではありましたが,開拓者である私の狭いアパートに兄弟たちを招くことに決めました。

「10月6日の晩,疲れ切って帰宅した私は,妻から一通の手紙を受け取りました。その手紙は通常の郵便配達時間外の晩の遅い時刻に配達されていたのです。しかも,その手紙は速達便ではなく,単なる普通便でしたから,郵便局の責任者がそれをその時刻に配達しなければならなかったに違いありませんでした。開けてみると,それはラザフォード兄弟の手紙でした。恐らくメルク兄弟は時間に間に合うようそれを直接私のもとに届けさせることができなかったので私に郵送したようでした。

「しかし,その配達方法は次のことを証拠だてるものでした。つまり,その手紙はまず最初 ― 私の私信すべてがそうであったように ― ゲシュタポの手に渡り,次いで明らかにゲシュタポは私がその運動について何も知らないと考えて,その手紙を私のもとに配達させたのです。そうすれば,私はその手紙の内容に従ってその夜のうちに必要な取決めを設ける訳だから,翌朝になれば,私たちすべてを一挙に見つけて苦もなく逮捕できるだろうと彼らは考えました。実際,ドイツ中の役人に警告を出す十分の時間がありましたから,翌朝,方々の都市で集合するエホバの証人を全部逮捕するのは容易な事だったでしょう。

「私はどうすべきでしょうか。私のアパートは居酒屋をも含む建物の中にあったので安全な場所どころではありませんでした。その建物の持ち主で,私たちのアパートの隣の寝室にいる姉妹を除けば,その家に住んでいる人々はすべてひどい反対者たちでした。一方,ほかには私たちの集まり得る場所はどこにもありませんでした。私はエホバの助けを信じて,これ以上変更をしたり,兄弟姉妹たちをひどく興奮させたりはすまいと決心しました。それら兄弟姉妹たちの大半は分裂した家庭の人たちでしたし,その集まりの目的については何も知らなかったからです。しかし私は内心再び逮捕される覚悟をしていました。

「10月7日の朝,7時には既に最初の何人かの兄弟たちが到着していました。あまり目立たないようにするため,皆が2時間余の間におのおの別々にやって来るよう取り決められていたのです。兄弟たちはひとりずつ現われましたが,皆どんなことが起こるのか非常な期待を抱いていました。とはいえ,指示どおり,集まりを開く真の理由は兄弟たちには知らされてはいませんでした。しかし,それが実に重大な意義を持つ日になろうとしていることを感じない人はその中には一人もいませんでした。たいてい反対する夫を持ち,またそのほとんどが世話のいる幼い子供をかかえている姉妹たちを含め,出席者すべてはエホバのみ名の立証のためであれば,求められるどんな事でも断固として喜んで行なう決意を抱いているという印象を私は受けました。

「午前9時10分前までには,私たち開拓者のただ一室のアパートに全員が集まりました。私はゲシュタポがきっと今にも大型車で乗りつけて,私たち全員を逮捕するものと待ち受けていました。そのような訳で,私は事情を兄弟たちに説明し,もし起こり得る結果を恐れる人がいるとすれば,その集まりに参加するのをやめる機会を与えねばならないと感じました。そこで,兄弟たちにこう述べました。『こうした事情ですから,これから10分以内に私たちは全員逮捕される恐れがあります。私はこうした深刻な事情を知らせずに皆さんをこのような事態に陥れたとして,あとで皆さんのうちのだれかから非難されるようなことがないようにしたいと思っています。ですから,皆さんの聖書の申命記 20章を開いていただきたいと思います』。そして私は8節を読みました。「誰か恐れて心に臆する者あるか その人は家に帰りゆくべし 恐らくはその兄弟たちの心これが心のごとく挫けん」。居合わせた人たちにこの言葉を読んだ後,私は言いました,『事情があまりにも危険だと感ずる方はどなたでも,今この機会に,この集まりに参加するのをやめることができます』。

「しかし,だれひとりとして,それも反対する夫や小さな子供を持つ姉妹たちさえ,恐れて退くことなど考えませんでした。さて,それに続いて起きた事は,言葉ではとても言い表わせるものではありません。9時までの残る数分の間,部屋には快い静けさが漂いました。明らかに出席者はみな,無言の祈りのうちに事態をエホバの保護の手に委ねていました。時刻は9時になりました。『ゲシュタポが今すぐ庭に乗り込んで来る』という考えが脳裏に浮かぼうとするのを抑えながら,私は祈りをもって集会を始めました。すると突然,私たちはみな,危険に頻しているドイツの兄弟たちだけでなく,指示どおり時を同じくして多くの国々で集まり合い,これまた同様に当然のこととして祈りをもって集会を始めた世界中の兄弟たちを含め,皆が強力な保護の輪で囲まれているのを感じました。世界中の兄弟たちの集会はすべて,ドイツにいる仲間の兄弟たちに対する非人道的な取扱いをやめるようヒトラーに抗議するために行なわれたのです。

「その後,私は兄弟たちに話をし,ラザフォード兄弟がドイツの兄弟たちを励ますためにバーゼルで行なった注目すべき講演の主要な考えを繰り返して述べました。その講演では,事情が変わったからといって,私たちはエホバのみ言葉を研究したり,エホバを賛美したりするために定期的に集まり合うというエホバのみ前における責任から解放されてはおらず,またエホバの証人として仕えてその王国を公に知らせる義務を免除されている訳でもないことを示す聖書の証拠が提出されました」。

ドイツの至る所でエホバの証人が取っていた行動と一致して,そのグループの人たちは全員熱意をこめて,次のような手紙をその日,書留めで政府に送ることに同意しました。

「政府の役員各位へ:

「聖書中に明示されているとおり,エホバ神のみ言葉は最高の律法であり,また私たちは自らを神に捧げてキリスト・イエスの真の誠実な追随者になったゆえに,み言葉は私たちにとって唯一の指導原理です。

「過去一年の間,あなたがたは神の律法に反対し,私たちの権利を侵害して,私たちがエホバの証人として神のみ言葉を研究し,神を崇拝し,神に仕えるために集い合うことを禁じてきました。神はそのみ言葉の中で,集まり合うことをやめてはならないと命じておられます。(ヘブライ 10:25)エホバは私たちに,『汝らは,私が神であることを証する証人である。行って,私の音信を人々に告げよ』と命じておられます。(イザヤ 43:10,12; 6:9。マタイ 24:14)あなたがたの法律と神の律法とは真向から対立していますから,私たちは忠実な使徒たちの例に習って,『人に従はんよりは神に従ふべき』であり,また私たちはそうするつもりです。(使徒 5:29,文語)ゆえに私たちは,いかなる犠牲を払おうとも,神のおきてに従い,そのみ言葉を研究するために一緒に集まり,神の命令どおり神を崇拝し,神に仕えるつもりであることをあなたがたにお知らせします。私たちが神に従っているという理由で,もしあなたがたの政府や官憲が私たちに暴力を揮うなら,私たちの血の責任はあなたがたにありますし,あなたがたは全能の神から責任を問われることになります。

「私たちは政治上の事柄に対しては一切関心を持ってはおらず,神の立てた王なるキリストの治める神の王国の事柄だけに専念しています。私たちはだれに対しても危害を加えることはしません。私たちは平和に暮らすことを喜びとし,機会のあるかぎりすべての人に善を行ないたいと考えているにもかかわらず,あなたがたの政府とその官憲は私たちを強制して宇宙最高の律法に背かせようとする努力を続けているゆえに,私たちはエホバ神の恵みを受けてエホバに従うつもりであり,またあらゆる圧迫や圧迫者たちからエホバが私たちを救い出してくださることを本当に信じている旨いまあなたがたに知らせざるを得ません」。

ドイツの仲間の兄弟たちを全面的に支持すべく,10月7日に全地のエホバの証人はそれぞれ集まって,一致してエホバに祈りをささげた後,ヒトラー政府に次のように警告した電報を送りました。

「エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱しめています。エホバの証人をこれ以上迫害するのをやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。

驚くべきことですが,ゲシュタポは ― どたん場になってからであれ ― 何が行なわれようとしていたかを知ってはいましたが,その日逮捕されたのは少数の兄弟たちだけでした。フランケ兄弟の報告にまた戻ってみましょう。

「その集まりを祈りをもって閉じてから1時間以上経ったにもかかわらず,依然としてゲシュタポは一人も現われませんでした。今や最初の人たちが再び,前のように間隔を置いて去り始めました。その手紙を郵便局の当局者に直接手渡すため,私は自転車に乗って隣の町ウィースバーデンに向かって家を出たとき,部屋にはなお8人の兄弟たちがいました。その手紙は前夜のうちにしたためられ,ウィースバーデンに預けられていました。私はきっと逮捕されるに違いないと予想していたので,そうなったなら,兄弟たちがその手紙を郵送することになっていました。私が庭の門を通り過ぎようとしたとき,ゲシュタポがひとり自転車に乗って現われましたが,私を見てもそれとは気づきませんでした。8人の他の兄弟たちは危険を知らされ,その家の持ち主だった隣室のダルムスタット姉妹の部屋に逃れました。私たちのアパートを調べたそのゲシュタポが私の妻に質問した事柄からすれば,ゲシュタポは私たちの集まりについてすべて知っていたということがわかりました。にもかかわらず,私も他の兄弟たちもその日には逮捕されませんでした。その数か月後,私はゲシュタポに逮捕されて初めて,彼らがラザフォード兄弟の手紙を入手していたことをゲシュタポから聞かされました」。

その集会の直後,一部の兄弟たちが近隣の人々を忙しく訪問して人々の注意を神の王国に向けさせていたとき,ドイツ以外の土地の多くの郵便局は非常な驚愕に見舞われました。特にヨーロッパ大陸では多くの場所の郵便当局者はその電報の受付けを拒否しました。ブタベストでもそうでした。同地での集まりに出席し,その電文を郵便局に持って行くよう依頼されたマルチン・ペツィンガーはこう伝えています。「電文は受理されましたが,翌日,中央郵便局に直接出頭するよう同郵便局から通知を受けました。出頭すれば,私はゲシュタポに捕えられ,国外に追放され,そうなれば私の活動は終わってしまうだろうと私たち皆は考えました。……ところが,そういうことは起こりませんでした。私はただ,ハンガリーの郵便局はその電報を打つわけにはゆかないと告げられて電報料金を返されただけでした」。亡命したドイツ皇帝ウィルヘルム二世の住んでいたドルン(オランダ)では,郵便局側は最初,問題の電報を打つのを拒みましたが,あとで,その電報を提出したハンス・トーマスに,電報は打電され,ベルリンに届いたことが確認された旨伝えて来ました。

それらの手紙,それも特に電報がヒトラーにどんな影響をもたらしたかは,1947年11月13日,フランクフルト(マイン)の公証人によって証明された,カール・R・ウィティグの記した次のような報告からもわかります。

「宣言 ― 1934年10月7日,かねて呼び出しを受けていた私は,ベルリンのケーニクスプラツ6番地にあったドイツ内務省本館に行き,当時ドイツとプロシアの内務大臣であったウィルヘルム・フリク博士を訪ねた。というのは,私はルーデンドルフ将軍の全権大使だったからである。私は,ルーデンドルフ将軍にナチ政体に対する反対をやめさせるよう説得することを目的とした内容の書信を受け取ることになっていた。私がフリク博士と話し合っていると,突然ヒトラーが現われ,私たちの会話に加わり始めた。そして,必然的に私たちの話し合いの中で,ドイツの国際聖書研究者協会[エホバの証人]に反対してそれまで講じられてきた処置のことが取り上げられたところ,フリク博士は聖書研究者に対する第三帝国の迫害に抗議する多数の電報をヒトラーに示して,『もしこれら聖書研究者が直ちに我々に従わなければ,我々は最も強力な手段を講じて彼らに反対してみせる』と述べた。その後,ヒトラーは急に立ち上がるなり,両のこぶしを握り締めてヒステリックな声で,『このやからをドイツから抹殺させてやる!』と絶叫した。その話し合いをしてから4年経った後,私はザクセンハウゼン,フロッセンブルクまたマウトハウゼンのナチ強制収容所の地獄のような場所で保護拘禁された7年間にわたり ― 私は連合軍の手で解放されるまで監禁されていたが ― 自ら観察した事柄によって,ヒトラーの爆発させた怒りは単なるむなしい脅しではなかったということを確信できた。前述の強制収容所の囚人のグループの中で,聖書研究者たちが受けたような仕方で親衛隊の残虐な仕打ちにさらされたグループは一つもなかった。それは絶えまない身体的また精神的拷問の連続で特徴づけられた残忍な仕打ちであり,この世の言葉をもってしては言い表わしようのないものであった」。

私たちがヒトラーに手紙を送った後,各地で兄弟たちが相次いで逮捕されました。一番激しい攻撃を受けたのはハンブルクで,10月7日以後のほんの2,3日のうちにゲシュタポは142人もの兄弟たちを逮捕しました。

地下活動が組織される

今や私たちは,10月7日付の手紙の中で,たとえ政府により活動を禁じられようと,専ら神の命令に従い続ける旨ヒトラーに通告したので,喜んで働く勇敢な兄弟姉妹たちすべてをそれぞれ円熟した一人の兄弟の指揮する小さなグループに編成することに努めました。指揮する兄弟の努めは,心をこめて主の羊を世話し,牧することでした。

国全体は13の地区に分割され,羊を牧する優れた特質を持つひとりの兄弟がおのおのの地区に任命され,当時の呼び方によれば地区の奉仕指導者として奉仕しました。それらの兄弟たちは,いかなる危険をも物ともせずに喜んで小グループとの連絡を取り,霊的な食物を供給したり,宣べ伝えるわざの点でグループを支持したり,それぞれのグループ内の人々を信仰の面で強めたりする人たちでなければなりませんでした。ほんの2,3の立場を除けば,それらの立場はそれまで兄弟たちに全然知られていないしもべたちによって満たされました。しかし彼らは,ヒトラーが政権の座について以来,王国の関心事のために自分の私的な関心事を喜んで二次的なものにする人であることを実証しました。

「ものみの塔」誌を謄写版で印刷して配る

兄弟たちはドイツ中の至る所のさまざまな場所で,謄写版を使って「ものみの塔」誌を印刷して配りました。例えば,ハンブルクではヘルムト・ブレンバハが妻と一緒に夜,写しを作っては,シュレスウィヒ・ホルシュタインとハンブルクの兄弟たちに供給し続けました。ブレンバハ姉妹は夫とともにあずかった数多くの経験の一つを次のように述べています。

「昼前のこと,突然ベルがいつもよりずっと高い音をたてて鳴りました。玄関のドアを開けてみると,そこに3人の男が立っていました。私は,何者だろうかといぶかっていると,そのうちの一人が,『ゲシュタポだ』と言い終えるか終えないうちに既にその3人の男はアパートに踏み込んで来ました。家の中に隠されているものすべてのことを考えた私は,心臓がのどもとまで踊り上がるように感じました。内心恐れに震えながら,私はエホバに祈りました。

「人間的な見地からすれば,荷造りした『ものみの塔』誌や,それらを作るのに用いた印刷道具全部を見つけるのは造作ないことだったでしょう。私たちの家には二人の警察官の家族を含め数世帯が生活していたので何かを隠せるような場所はありませんでした。印刷に必要なもの ― 紙,謄写版,タイプライター,インクそれに梱包用資材 ― はみなかさばるものばかりですからなおのことです。それらのものを ― 私たちは2週間目ごとに必要としていた ― 局外者の目に触れないよう隠す方法がなかったので,それを全部じゃがいもの貯蔵室に詰め込むことにしました。その貯蔵室は地下室の中央にあって,この家の住人はだれでもその中に入れました。私たちは『ものみの塔』の写しを作り終えるたびに,一切のものをその貯蔵室に注意深く詰め込んで,空の俵で覆い,その上にトマトの空き箱を天井に届くほど積み重ねました。そうしておけば,たとえ最悪の事態が生じて,だれかが何かを捜し出そうとしても,それとは気づかずに済むかもしれず,あるいはじゃがいもの貯蔵室にうず高く積み重ねられたものを全部取りのけてまで調べるのは厄介なので見つけられずに済むかもしれないと考えて,私たちはエホバに頼りました。ほかにはなすすべがありませんでした。

「官憲は発禁処分にされた文書が家の中にあるかどうかを私に尋ねたので,私はうそを言うのを避けて,『よろしければご自分で中をお調べください』と言いました。彼らはアパートの中を調べ,戸棚の扉も開けましたが,その開き具合の関係で,そこにあったタイプライターに気づきませんでした。私たちはそのタイプライターをじゃがいもの貯蔵室にしまい忘れていたのです。もしそれが見つけられていたなら,『ものみの塔』の写しを作るのに必要な道具であることが見破られていたことでしょう。しかし,エホバは彼らの目をくらませたのです。アパートの中で何も見いだせなかった彼らは,地下室も調べたいと言いました。私はもうこれで,印刷資材や書類が見つかるのは必至だと感じました。私は努めて恐れの気持ちを顔に表わすまいとしましたが,心臓の鼓動はいよいよ高まりました。しかも,なお悪いことに,夫が翌日携えて旅行するつもりでいた,謄写版刷りの『ものみの塔』誌のぎっしり詰まったスーツケースが1個その貯蔵室の真後ろに置いてあったのです。しかし,どうしたのでしょう。3人の官憲はその部屋の真中に立ったのですが,おわかりのとおり,まさしくそこには貯蔵室があり,その後ろには『ものみの塔』誌のぎっしり詰まったスーツケースがあったのに,3人ともそれに気づかないようでした。まるで彼らは目をくらまされたかのようでした。3人のうちのだれも貯蔵室の中をのぞいて見ようともせず,そのスーツケースの中を調べようとさえしませんでした。最後に,ひとりの官憲が屋根裏部屋のことを尋ね,そこで数冊の古い出版物を見つけ,それで満足したかの様子を示し,それから去って行きました。しかし,感謝すべきことに,エホバとそのみ使いたちの助けで,最も大切なものは彼らの目から隠されて守られたのです」。

同様の例はほかにもたくさんありますが,それはエホバの導きのお蔭でそうした謄写版による印刷の仕事が長期間にわたって守られ,そのようにしてエホバの民に文書類が供給されたことを示しています。

宣べ伝えるわざを組織する

当時,私たちと交わっていた人たちはすべてが宣べ伝えるわざに携わっていた訳ではありません。それとは逆に,わずか半数ほどの人たちしか従事していない会衆もありました。例えば,ドレスデンではある時期に会衆の伝道者はおよそ1,200人の最高数に達しましたが,わざが禁じられた後,たちまち500人に減りました。それにしても,ドイツ全土には,どんな危険にもめげず喜んで宣べ伝えるわざを行なうとの志を表明した人たちは少なくとも1万人ほどいたと考えられています。

最初はたいてい聖書だけを使って働きましたが,再訪問のさいには,ゲシュタポの手を免れた古い小冊子や書籍を配布しました。証言用のカードを作った人たちもいましたし,ある特別の行事を利用して知人に手紙を書く人もいました。大きな危険を伴ったにもかかわらず,戸別訪問の活動は続けられました。ドアを開ける家の人が突撃隊員か親衛隊員であったりする恐れはいつもつきまとっていました。たいてい伝道者たちは一つの戸口を訪ねた後,あとは飛ばして別のアパートに行ったり,あるいは特に危険な場合には別の街路の区域の家に移ったりしました。

少なくとも最初の2年ほどの間は ― 場所によってはさらにもっと長い期間 ― 戸別訪問による宣べ伝えるわざはドイツのほとんどすべての場所で行なえました。しかしそれは確かにエホバの特別の保護があったからこそできたのです。

宣べ伝えるわざに使用できる文書は少量しかなかったので,すぐ用い尽くされてしまいました。それで私たちは,外国から文書を入手できるかどうかを調べました。ブレスラウ出身のエルネスト・ヴィースナーはそれがどのようにしてなされたかに関する興味深い詳しい報告を寄せています。

「文書類はスイスからチェコスロバキア経由で送られてきました。文書類は国境の近くの局外者の家に貯蔵され,次いでそこからリーゼン山脈を越えてドイツに運び込まれました。その仕事は喜んで働く円熟した兄弟たちの一団によって行なわれましたが,この上なく危険で,非常に疲れる仕事でした。私たちは真夜中に国境を越えました。兄弟たちはよく組織されており,それぞれ大きなリュックサックを用意していました。そして,毎週2回この運搬の仕事に携わりましたが,そのうえ毎日自分の仕事もしなければなりませんでした。冬になると,トボガンやスキーを用いました。彼らはあらゆる道筋やわき道を知っていましたし,強力な懐中電灯や双眼鏡を持ち,ハイキング用の靴をはいていました。用心深くあることが最重要な行動原則でした。真夜中にドイツ国境に到着し,国境を越えた後でさえ,長時間だれも一言も口にしませんでした。二人の兄弟が先を進み,だれかに出会うとすぐに懐中電灯で合図を送ります。すると,重いリュックサックを背負って100メートルほど後方からついて来た兄弟たちは道端の木々の茂みの中に隠れ,先行する二人の兄弟たちが戻って来て合い言葉を述べるまで待ちました。そして,その合い言葉は毎週変えられました。

「そうした合図が一夜のうちに数回出されることもありました。そのようにして,再び危険が去ると,兄弟たちは歩き始め,こうしてドイツ側の村のある家に行き,そこでその夜のうちに,あるいは翌朝早く書籍類を小さな袋に入れて宛て先を書き,次いで自転車でヒルシュベルクその他近くの町々の郵便局に運びました。こうしてドイツの至る所の兄弟たちは文書類を受け取りました。……熱心で,非常に熟練した兄弟たちのこの一団は捕えられることなく2年間にわたり相当の量の文書をドイツに運び込むことができ,そのようにしてドイツ全土の多くの兄弟たちを強めました」。また,フランス,ザール地方,スイスまたオランダなどの国境でも同様の取決めが利用されました。

この点で興味深いのは,ある姉妹の記した一部次のような手紙です。「年鑑に載せられているドイツからの報告を読む人は,発禁処分を受けたのにどうしてそんなに多くの文書を配布できたのだろうかといぶかるでしょうが,私たちも同じことを自問しています。もしエホバがわたしたちとともにいてくださらなかったなら,それは不可能だったでしょう。同信の友の多くは家を出る都度警察の監視を受けますが,……エホバはそのことをご存じであり,そうした事情にもかかわらずエホバは,私たちの享受している豊かな食物によってたびたび私たちが強められるようにしてくださるのです」。

また,発禁処分の発表が行なわれる前には,文書類をさまざまの場所に隠す十分の時間がありました。しかし,その後に生じたことを理解するには,兄弟たちは発禁処分のもとで文書類を貯蔵した経験は一度もなかったということを念頭に置くのは大切です。それで,兄弟たちの間に文書を分散させる代わりに,最初は文書を大きな置場に貯蔵する傾向がありました。そのほうがもっと安全だと考えたからです。特に担当者たちは発禁処分が一時的なものに過ぎないと感じたことからすればそれももっともでした。中には,30ないし50トンもの文書類を貯蔵できる広さのある置場もありました。しかし,時経つうちに,ある兄弟たちは,万一そうした大量の文書が敵側に見つけられ,没収されたならどうなるだろうかということを心配し,恐れはじめました。そのため,文書置場の世話をした兄弟たちは,寄付を得て配布できるかどうかにはかかわりなく奉仕のさいに用いるよう書籍を供給し始めました。

迫害が継続すること,また文書の隠されている場所がいよいよ危険になったことがひとたびわかると,兄弟たちは書籍や小冊子をできるだけ多くただで配り始め,野外の奉仕に参加して,人がだれも見ていないと,文書をただドアの内側に置いたり,あるいはドアマット(靴ぬぐい)の下にはさんで置いたりしました。そうすれば,それらの文書が与え得る力や希望を得たいと願う誠実な人々の手に渡るかもしれないと考えたのです。

記念式

私たちはエホバの命令に従って集まり合うことをなおざりにしないよう決意していたので,記念式を祝うことを明らかにこの上なく良心的に考えていました。多くの場合,ゲシュタポはドイツ以外の場所で印刷される出版物,もしくは時おり彼らの手に落ちる謄写版刷りの「ものみの塔」紙から記念式の日付を確認して,当日は特に活発に動きました。ゲシュタポは特に,記念式だけでなく,特別運動に関連して指摘された油そそがれた者たちに怒りを集中しました。彼らは油そそがれた者たちのうちに,その組織を壊滅させるためにはまず最初に砕かれねばならない組織の「かしらたち」がいると考えました。

1935年4月17日の記念式は特にはらはらさせるものでした。ゲシュタポは記念式の日付を数週間前に既に知ったので,管轄下のあらゆる事務所に待機体勢を取らせる十分の時間がありました。1935年4月3日付の秘密回状はこう述べました。

「聖書研究者たちの著名な指導者たちに対して今回開始される奇襲攻撃は相当の成果を上げるものとなろう。成果に関する情報は1935年4月22日までに提出せよ」。

しかし,「成果に関する情報」についてはほとんどうんぬんし得なかったでしょう。というのは,将校たちの大多数は,ドルトムントのある将校のように,聖書研究者協会の指導者と考えられる人たちの家は監視されていたにもかかわらず,集会が開かれていた例は一つもなかったという報告しか提出し得なかったからです。そして,当局をなだめるため,「この地域の聖書研究者の指導的で活発な成員たちは既に拘禁されているため,そうした集会を組織する者は一人も残っていない」と付け加えました。

しかし,秘密警察は考え違いをしていました。というのは,その秘密回状が送られて間もなく,真理の支持者で,そうした秘密情報を入手できるある人から私たちはその写しを受け取ったからです。そこで地区の奉仕指導者は十分前もってすべてのしもべたちに通告し,どうすれば見つからないようにしながらもなお私たちの主また主人の命令を守れるかに関して適切な助言を与えました。

それで,多くの人たちは6時直後に集まりましたが,他の人々はゲシュタポがやって来て帰るまで待ち,それから出かけて行って小グループになって兄弟たちと集い合いましたし,中には真夜中に記念式の祝いを行なった人々もいました。いずれにしても,ゲシュタポの各捜査課はドルトムントから送られたのと同様の報告を送りました。

ヴィリ・クライスレの報告によれば,クレイツリンゲンの兄弟たちは6時きっかりに記念式を始めました。その兄弟たちは建物を出る前に,その同じ建物の中にある店に入るよう指示を受けていました。その商店はある兄弟の所有する店であり,兄弟たちはそこで砂糖やコーヒーその他のものを買い,それから商店のいつもの出入口から外に出ることができました。「こん棒部隊」― クライスレ兄弟がゲシュタポにつけた名称 ― はまさしく現われましたが,それは兄弟たちがみな,その店に入った後のことでしたから,何ら証拠を見つけられませんでした。しかし,ゲシュタポが行なった質問や官憲の述べたさまざまの言葉は,彼らが「ものみの塔」誌を通して記念式の日付に関する情報を得ていたことを明示するものでした。

しかし,兄弟たちはいつも奇襲攻撃に備えていましたが,それは良いことでした。彼らは毎週の集会に出席すること,とりわけ記念式に出席することを当りさわりのない日常の何らかの活動と結びつけるよう努め,そのお蔭でしばしば逮捕を免れました。バンベルク近郊の出身であるフランズ・コールホフェルはこう伝えています。

「その特別の日にはスパイは特に活発に働き,エホバの証人の家を監視し,不法な活動に携わっている証人たちのだれかを見つけて逮捕したいと考えていました。……私たちは数日前に,豚を飼育しているある兄弟の家に集まってその祝いを行なうことに決め,各自じゃがいもの皮その他のくずをかごにいっぱい入れて携えて行くことになりましたが,そのすべてを急いでしなければなりませんでした。なぜなら,ゲシュタポはいつなんどき現われるかわからなかったからです。また,万一の場合のためとして,トランプをも持って行きました。不意に警官が現われたなら,警官の目を欺くことができるようにするためでした。では,何が起きたと思いますか。兄弟が最後の祈りを言い終えた丁度その時,ドアをノックする音がしました。しかし,その時までには私たち4人はテーブルのまわりに腰かけて,当りさわりのないトランプ遊びをしていました。私たちが静かに,悪びれもせず警官を見つめたので,彼らは自分たちの目を疑いました。そして,然るべき時に私たちを見つけることができなかったので,所期の目的を果たさずに立ち去らざるを得ませんでした」。

バプテスマ

この当時真理を学んだ人々の中には,最も困難な事情のもとでバプテスマを受けた人たちが少なくありませんでした。それら新たにバプテスマを受けた人々の多くは刑務所あるいは強制収容所に投げ込まれ,その多くは彼らに良いたよりを伝えた人たち同様命を失いました。

パウル・ブデルは既に1922年当時,「万民」の講演に注意を向けさせられていましたが,1935年のこと,その同じ職場に雇われた若い一女性から「創造」と題する書籍をもらって初めて真理に親しく接するようになりました。もっとも,その女性には注意するよう他の人々から警告されていました。彼はその体験記の中でこう述べています。「その日は1935年5月12日でした。そしてそれこそ私が求めていたものでした。1935年5月19日,私は教会から籍を除き,エホバの証人になりたいという希望をその若い女性に話しました。彼女は非常に喜びました。彼女はそれまでに聖書文書頒布者として罪に問われ,6週間服役していました。次いで私は,フォルスト会衆出身のヴォイテ兄弟姉妹に会いました。その会衆では私はナチのスパイとみなされましたが,そうしたことにめげず,私は小型のルーテル訳聖書を携えて,あらゆる村々で定期的に戸別訪問を行ないました。そして,1936年7月23日,フォルストのナイセ川でヴォイテ兄弟姉妹,それに話をした年長の一兄弟のいる前でバプテスマを受けました」。

バプテスマの集まりはしばしば小グループで個人の家で行なわれましたが,時にはほんの2,3人の,別の時にはもっと多くのバプテスマ希望者のために時々野外でも行なわれました。ハインリヒ・ハルステンベルクはウェーザー川で行なわれたバプテスマについてこう述べています。

「1941年,関心のある多くの人々がバプテスマを受けたいとの希望を表明しました。同様の願いを抱く多くの人が近隣の地方にいることがわかったので,私たちは適当な場所を探すことになり,ウェーザー河畔のデーメにそのような場所を見つけ,あらゆる事柄を十分に考え抜き,計画した後,1941年5月8日にバプテスマを施すことに決めました。その日の午前中,まだ早いうちに兄弟たちやバプテスマ希望者は既にその場所にいました。他の人々にとっては,私たちはまるで水泳を楽しんでいるかに見えました。また,私たちは不意打ちに遭わないよう,ある人々を送り出して見張りを行なわせ,バプテスマの重要性に関する話を行なった後,私たちはエホバに祈りました。次いで,希望者60人がその川でバプテスマを受けました。高齢あるいは病弱などの理由で冷たい水に入れない他の人たちは個人的に浴漕でバプテスマを受け,こうしてその日,合計87人の人々がバプテスマを受けました。

追跡捜査は進む

アルベルト・バンドレスは1934年10月7日以前から既に地区の奉仕指導者の一人として働いていたので,やがて彼の名前はゲシュタポによく知られるようになりましたが,それは特に,彼が働いていたルール地方のいろいろの都市で続々裁判事件が持ち上がったためでした。被告がどこから文書を入手したかに関する質問に対する答えの中で,「バンドレス」という名前がしばしば聞かれたのです。ゲシュタポは彼を拘引すべくあらゆる努力を払いました。しかし,彼は賢明にも,その写真を持っている兄弟たちすべてに写真を返すか,あるいは焼き捨てるかするように頼んでおきました。その結果,ゲシュタポはその名前は知ってはいても,彼がどんな容ぼうの人物か全然わかりませんでした。それで彼はその追跡捜査が3年半行なわれるまで迫害者の手を逃れました。その地下活動の経験の幾つかについてバンドレス兄弟に話してもらいましょう。

「一時,私はジュッセルドルフの数人の兄弟たちと,ある兄弟の経営する食料品店で会合しましたが,閉店少し前に店に出入りするようにすれば,一番人目につかないのではなかろうかと考えました。ある時,私たちが1時間ほど一緒にいたところ,突然ゲシュタポがやって来て,中に入れろと要求しました。私はとっさに,話し合いをしていた物置きから逃げて,ほんの数歩離れた店内に入りました。幸い電気は既に消えていました。次の瞬間,彼らは物置きに押し入って,居合わせた兄弟たち全員を逮捕しました。そして,室内を全部調べ,『ものみの塔』誌のいっぱいはいった私の鞄を見つけると,官憲の一人が大喜びして叫びました。『我々が捜していたのはこれだ! この鞄はだれのものだ』。だれも答えなかったので,彼は店の経営者の居間を教えるよう要求しました。だれかが,『三階です』と答えると,ゲシュタポは,『出ろ!』と叫びました。自分たちの捜し求めていた男をその兄弟のアパート内で見つけられるものと期待してやっきになって追跡するゲシュタポと一緒に,兄弟たちは一斉にアパートの階段をかけ登って行きました。

「次いで,私は再び物置きにしのび込んで上衣と帽子を取り,鞄を拾い上げ,外の路上にだれもいないのを確かめた後,急いでその場を去りました。階上から戻った紳士たちが,かごの鳥を逃がしたことに気づいてくやしがっていたころ,既に私はエルベルフェルト-バーメンに向かっていました」。バンドレス兄弟はこう付け加えています。「これを話すのは実に愉快でおもしろいことですが,実際に経験するのは別問題です」。

バンドレス兄弟はさらにこう続けています。「ある時,私は『準備』と題する書籍のぎっしり詰まった重いスーツケースを2個,ボンとカッセルに運んでいました。それはトリール近くの国境越しに送られてきたものでした。その晩おそくボンに着いた私は,それを会衆のしもべの家の地下室の安全な場所に置きました。翌朝5時30分ごろ,玄関のベルが鳴りました。ゲシュタポがまたもやそのアパートを調べるためにやって来たのです。当時会衆のしもべだったアーサー・ウィンクラー兄弟は私の部屋の戸をノックして,好ましくない客が来ていることに私の注意を引きました。逃れられる可能性は全然なかったので,私たちは事態の成り行きに従うことにしました。私の部屋に入って来た警官は,私が何をしているかを尋ねたので,私はライン川の観光旅行をしているところで,ボン植物園も訪ねたいと考えていると簡単に答えました。警官は私の身分証明書を調べた後,多少怪しみながらも,それを私に返しました。ウィンクラー兄弟は警官とともに警察本部に出頭しなければなりませんでした。それらの警官の一人はその本部で ― 後日ウィンクラー兄弟から聞いたところによると ― 上司にこう話しました。『その家にはもう一人の男がいました』。『その男を連れて来なかったのだな。全く良い連中を遣わしたものだ』。『どうしてですか』と,警官は尋ねました。『戻って行って,つかまえましょうか』。『つかまえるだと? お前が戻るまでその男が待っているとでも思っとるのか』。事実,彼らが家を去るや否や私も,それら(見つからずに済んだ)二つのスーツケースの一方を携えて出発し,それをカッセルに運びました。

「カッセルに着いたところ,会衆のしもべ,ホホクラーフェ兄弟は私にこう言いました。『ここには留まれません。すぐ去らねばなりません。ここ1週間ゲシュタポは毎朝家にやって来ました』。そこで,50メートルほどの間隔を置いて彼が先を歩き,文書を置ける家まで私に道を示すことにしました。そして,美しいカスターニアンアリー(とちの木の並木道)に沿って200メートル余進むか進まないうちに,その会衆のしもべをよく知っているゲシュタポが私たちに近づいて来ました。私は50メートルほど後ろからついて行ったので,ゲシュタポがにやにや笑って嘲るのがわかりましたが,ゲシュタポは彼を引き止めませんでした。その数分後,信仰の面で兄弟たちを強める手だてとなる文書類をまたもや安全な所に運ぶことができました。

「別の時のことですが,私はヴェツラーの近くのブルクソルムスで文書を入れた重いスーツケースを2個運んでいました。それは夜中の11時で,あたりは真暗でした。私はだれにもまず見つけられなかったはずでしたが,それでもだれかに見られているような妙な気持ちがしました。目的地に着いた私は,スーツケースを安全な場所に置くよう兄弟たちに注意しました。翌朝,5時30分ごろ,その町の巡査部長がやって来ました。彼が姉妹のほうを向いて,『昨夜,重いスーツケースを2個持った男がここに来たのだから,お前はまた文書を入手したに違いない。それはどこにあるんだ』と言った時,私は顔を洗いに行こうとして部屋の真中に立っていました。姉妹は答えました。『夫はもう仕事に出ましたし,私は昨晩家を留守にしていましたので,何が起きたか存じませんわ』。すると巡査部長は答えました。『もしそのスーツケースをいさぎよく引き渡さないなら,我々は家宅捜査をしなければならない。市長がいなければ家宅捜査は行なえないので,市長を連れて来るが,我々が戻って来るまで,お前の外出を禁ずる』。この話が交されている間じゅう,私は部屋の真中に立って,その巡査はどうしてあんなにどんよりした目つきをしているのだろうか,またどうして私に話しかけないのだろうかと不思議に思っていました。彼はまるで目をくらまされているとしか考えられませんでした。彼が市長を連れて来るために去った後,私はすぐ出かける用意をしました。私は外に出て,市長と巡査部長が表から家に入って来るまで家の裏で待ちました。彼らが家に入った瞬間,私は裏庭をそっと出ました。たまたまこの様子を見た近所の人々は,私が逃れたのを知って明らかに喜んでいました。それから,林の中で身仕度を整え,次いでできるだけ早く走って次の駅に行き,さらに旅行を続けました」。

他の地区の奉仕の指導者たちも同様の経験をしました。

別の種類の試練

1934年から1936年にかけて忠実な牧者たちはドイツ中の兄弟たちを支持し,集会に出席するよう,また迫害にもめげず,あらゆる奉仕の分野にできるだけ携わるよう激励しました。一方,1935年12月17日にバルツェライト,ドリンガーそのほか「著名な」兄弟たちと見られた他の7人に対する裁判がハレで行なわれましたが,少なくともその半数の人々にとってその裁判は彼らのクリスチャンとしての競走の終わりとなりました。

当時ドイツで行なわれた数多くの裁判に際して大勢の兄弟たちは,困難な事情のもとで王国の関心事を促進させる面で自分たちの行なった事柄を明らさまに認めました。それとは対照的に,ハレで裁判を受けたそれらの人たちは,政府から禁じられた事柄は何一つとして行なったことはないと主張しました。自分のために言うべきことがあるかどうかを委員長から尋ねられたバルツェライトは,ババリア州で活動を禁止する発表がなされるや否や同州でのわざをやめるよう指令を出し,また他のすべての州についても同様に指令を出したと述べました。そして,禁令を無視するように勧める指令は決して出したことがないと述べました。

恒例の記念式の祝いに関して委員長から質問されたバルツェライトは,禁令下にもかかわらず記念式を祝うために兄弟たちが集まる計画を立てていたことを自分も聞いて知っていたと答えました。しかし彼はそのことで兄弟たちに警告していました。彼は警察がその日のために特別の活動を計画していることを知っていたからです。

当然のこととして,当時行なわれた他のすべての裁判の場合と全く同様,兵役に関するバルツェライト被告個人の態度が問題として取り上げられました。すると彼は,総統の説明,すなわち戦争それ自体は罪悪であるが,どの国にも自国の市民の生命を守る権利と義務があるという考えに全く満足しているとの態度を表明しました。

その後ほどなくしてラザフォード兄弟はドイツの兄弟たちに次のような手紙を書きました。

「ドイツにいるエホバの忠実な民の皆さんへ:

「皆さんが恐るべき迫害を被り,また皆さんの土地でサタンの手先が強烈な反対を引き起こしているにもかかわらず,主を信じ,その王国の音信をあくまでもふれ告げようとする何千人もの人々を主があなたがたの国の中で持っておられるということを知るのは大きな喜びです。皆さんが迫害者に抗して忠実に頑張り通し,主に対して誠実を保っていることは,以前ドイツの協会の監督であった人物や彼と提携していた他の人々の取った行動とは著しい対照をなしています。最近,ハレにおけるそれらの人々の裁判の際になされた証言の写しが送られてきましたが,私はそれを読み,その時の裁判に際してそれらの人々がひとりもエホバの御名に対する忠実で真実な証言をしなかったことを知り,愕然とさせられました。あらゆる反対のただ中で主の旗を高々と掲げ,神とその王国を支持する態度を表明することこそ,前監督,バルツェライトの責任でしたが,エホバに全く信頼していることを示す言葉を彼はただの一言も述べませんでした。私は再三,ドイツでいろいろな事柄を行なえるということに彼の注意を向けさせましたが,彼は証言を続けるよう兄弟たちを励ますためにあらゆる努力を払っているので安心してもらいたいと言いました。しかし,裁判の際,彼は何も行なわなかったということを力をこめて述べました。そのことを私がここでこれ以上述べる必要はありません。協会は今後,彼と,あるいはその裁判の際にエホバの御名とその王国のために証言する機会を持ちながら,そうしなかった者たちのだれとも一切関係を持たないとだけ言っておきましょう。協会はたとえ何らかの事を行なう権限を持っているにしても,彼らの釈放を求める努力は一切払いません。

「さて,主を愛する皆さんすべては,エホバとその王に顔を向け,いかなる反対を受けようとも,その王国の側に忠実に留まり,不動の立場を保ってください。……」

この問題は,いかなる事情のもとでもエホバのための忠実な証人でありたいと誠実に願う人たちに対する警告として,1936年7月15日号のドイツ語の「ものみの塔」誌上で取り扱われました。

ドイツの忠実な兄弟たちの多くが5年にまで及ぶ懲役刑を宣告されたのとは対照的に,バルツェライトは2年半,そしてドリンガーは2年の懲役刑をそれぞれ言い渡されました。刑務所で刑期を終えた後,バルツェライトはザクセンハウゼン強制収容所に入れられ,その収容所で不面目この上ない役割を強制的に演じさせられました。彼は既に,兄弟たちとの交わりをやめるという趣旨の宣言書に署名し,兄弟たちとの接触を一切避けていました。そうした行動ゆえに彼は約1年後に釈放されましたが,その間,さまざまの屈辱的な仕打ちを甘んじて受けなければなりませんでした。というのは,基本的に言って親衛隊の官憲もやはり裏切者を憎んでいたからです。「ベエルゼブブ」という名前を彼につけたのはほかならぬ親衛隊員たちでしたし,ある時など,ひとりの親衛隊員が兄弟たち全員の前に彼を立たせ ― その時,収容所にはおよそ300人ほどの兄弟たちがいましたが ― 彼の署名した,エホバの証人との交わりをやめるという趣旨の宣言書を繰り返して読むよう要求しましたが,何と彼はそうしました。

1946年,そのころまでには真理の激しい反対者となっていたバルツェライトは,裁判が行なわれる以前でさえ抱いていた敵意のある態度を示した一通の手紙を更生当局者に書きました。こうして,ドイツにおける神の民の歴史の暗い一章が終わりを告げましたが,その章は1920年代に既に書き始められていたのです。

1936年8月28日 ― ゲシュタポの攻撃開始

熱心な活動の続けられた2年間が過ぎましたが,その間ゲシュタポは,エホバの証人として知られている者すべてを注意深く尾行したにもかかわらず,組織された地下活動に実際に影響を及ぼすことには失敗しました。しかし,時が経つにつれて私たちの活動についてますます多くのことを知り,やがて私たちの行なっていたことを熟知するようになりました。そして,私たちに対する戦いを助けるために,1936年6月24日付のプロイセン秘密国家警察に対する機密通達にしたがって「特別ゲシュタポ司令部」が設置されました。

1936年の前半の期間中に秘密国家警察は,エホバの証人ではないかと疑われる,もしくは少なくとも証人たちに友好的な態度を取っているのではないかと思われる人々の住所を記録した大がかりなファイルを作成しました。そのファイルは家宅捜査の際に没収した「日々の天のマナ」と題する本から見つけた住所にかなりの程度基づいていました。また,ゲシュタポのための特別の教科課程さえ設けられました。ゲシュタポは「ものみの塔」研究の司会の仕方をも教えられましたし,彼らはまた,最新の「ものみの塔」誌の記事を研究しなければなりませんでした。それはあたかも兄弟でもあるかのように質問に対する答えを述べられるようになるためでした。そして,遂には祈り方まで学ばねばなりませんでした。そのすべては,できれば組織のただ中に入って内部から組織を破壊するためでした。

ミュンスター出身のアントン・ケートゲンは,ある「友好的な態度の」婦人に文書を渡した後,さっそく逮捕され,投獄されたことを伝えています。同時に,ケートゲン兄弟はこう述べました。「ゲシュタポは,外の庭にいた私の妻を訪れ,兄弟であると言って自己紹介しましたが,それは単に他の兄弟たちの住所を探り出すために過ぎませんでした。しかし,妻は彼らの計略を見抜き,彼らがゲシュタポであることをあばきました」。とは言え,いずれの場合も時たつうちにゲシュタポだということがわかった訳ではありません。

その間にラザフォード兄弟はスイスに行く旅行を計画し,もしできればドイツからの兄弟たちと話し合いたいと考えていました。そこで,1936年9月4日から7日にかけてルツェルンで大会を開く取決めが作られました。スイスの中央事務所は,ドイツの兄弟たちの逮捕事件,ゲシュタポによる虐待,「ドイツ式敬礼」を拒んだとの理由で職場から解雇された事例,虐待された結果兄弟たちが亡くなった事件その他に関する数多くの報告をドイツじゅうの兄弟たちから入手してまとめるよう私たちに提案しました。そして,それらの報告は大会が始まる前にひそかにスイスに運ばれ,ラザフォード兄弟にそれを調べてもらえるようにすることになりました。

ところが,1936年8月28日,ゲシュタポは突然容赦ない一斉攻撃を加え,エホバの証人を野獣同様に捜して捕える運動を展開しました。エホバの証人を逮捕するため,用い得る官憲すべてを夜も昼も,しかし主に夜動員しました。ゲシュタポがそれまでの何か月間かにわたって収集した情報はすべて,今や彼らにとって大いに有用なものとなりました。エホバの証人だなどとは一度も唱えたことのない一部の人々をも含め,証人かどうかわからない人々も不意に網にかかりました。当然のことですが,それらの人々は自由の身になりたいため,エホバの証人について知っている事を洗いざらい,何らはばかる所なくゲシュタポに告げました。多くの場合,それらの人々の知っている事はほんのわずかだったようですが,そうしたわずかな情報でさえ,ゲシュタポがそれまでに作り上げることのできた心像を補足するのに役だちました。後日の聴問の際,ゲシュタポは,そうした情報が何千人もの人々を逮捕するのに役だったと,しばしば誇らしげに話しましたが,それらの人々の大多数は強制収容所に入れられたのです。

こうしたゲシュタポの運動が遂に全速力で進められるようになった時のことですが,ある大規模な攻撃のさい,当時ドイツ全体のわざを監督していたウィンクラー兄弟と各地区の奉仕の指導者たちの大半がとうとう拘引されてしまいました。それら奉仕の指導者の氏名や管轄区域はたいてい既に知られていました。ゲシュタポはこの「運動」を非常に重大なものと判断したので,全警察網は暗黒社会の犯罪分子を悩まさずに放置して,エホバの証人を攻撃することに関係したほどです。

ゲシュタポは何か月かにわたって詳しく調査した結果,ウィンクラー兄弟とドイツじゅうの責任ある他のしもべたちとの重要な会合がベルリンの動物園で行なわれていることを探知しましたが,それは特に一年のうちでも暖かい時期に行なわれていました。その会合は園内で貸し椅子業を経営していたファルドゥーン兄弟の計らいで,長い間だれにも気づかれずに行なうことができました。彼は到着する兄弟たちに,別の兄弟が待機している動物園内の場所を人に気づかれないような仕方で教え,それから兄弟たちを安全な場所に導くことができました。次いで,兄弟たちは話し合いを行なえたのです。不穏な空気が流れているのを感じたなら,彼はいつでもただ兄弟たちのもとに行って,彼らの「借りた」椅子のための料金を集めさえすれば,危険を知らせることができました。しかし,そのすばらしい取決めも長くは秘密にしておけませんでした。いろいろの方法でその詳細を探知したゲシュタポにとって,その取決めは彼らの巧かつな攻撃計画の面で役だつものとなりました。そのことに関係したクローヘ兄弟は,興奮に満ちたその時期にベルリンで起きた事を次のように述べています。

「私はルツェルン大会を待ち望んでいました。既にスイスのビザもおりたので,その大会に出席できる見込みは十分ありました。しかし,その前に組織上の問題をフロスト兄弟と話し合うためライプチヒに行きたいと考えていました。パウル・グロスマン兄弟が逮捕されて空席が生じたため,私は地区の奉仕指導者としてフロスト兄弟の区域を引き継ぐことになったからです。しかし,フロスト兄弟に会えなかったばかりか,彼に会えると予期していた場所で私はゲシュタポに出会ったのです。最初はただぼう然としてしまいました。こんなに喜ばしい奉仕を始められるようになった矢先に兄弟たちとの交わりを断たれ,ゲシュタポの手でライプチヒに連行される羽目になったからです。[彼はそこからベルリンに連れて行かれた。]

「それまでにゲシュタポは,私たちが動物園に会合する場所を持っていたことを知っていましたし,私たちの組織について他の多くの事柄を探り出していました。恐かつを含め,さまざまの方法でそうした情報を入手していたのです。

「数日後,装填したピストルで武装した5人の将校が突然現われ,平常の服を着るよう私に命じ,ファルドゥーン兄弟が椅子を貸し出していた動物園内の金魚の池の近くに私を連れて行きました。しかし,彼らは同兄弟がエホバの証人の一人だとは考えていませんでした。今や私は,やがて予定の会合に出るため姿を現わす兄弟たちをつかまえるための『えさ』にされたのです。今やゲシュタポはその会合に関する情報を得ていました。

「私が腰をおろすよう命じられていた場所に腰かけるや否やヒルデガルト・メッシ姉妹が私のほうに近づいて来るのが目に入りました。彼女は私が兄弟たちの所に行かないのを不審に思っていました。私はそうするものと予期されていたからです。今や姉妹は私がどうして来ないのかを知りたいと考えました。ところで,ひどく打たれたために化膿していた私の両方の向こうずねが非常に痛んでいたので,彼女が道の反対側を通りかかったその瞬間,私は痛さに顔をしかめて身をかがめ,同時に彼女に目配せして,ゲシュタポが園内にいることを知らせましたが,将校たちは少しも怪しみませんでした。その合図を理解した姉妹は一瞬ためらいましたがファルドゥーン兄弟のところに戻って,その新たな事態を知らせました。その事態は,それから間もなく実際にやって来て,空いている椅子に何も知らずに腰かけたウィンクラー兄弟にとって最大の危険を意味していたのです。そのすぐ後,ファルドゥーン兄弟はウィンクラー兄弟に近寄って,椅子の使用料を求め,同時にゲシュタポが動物園内にいることを同兄弟に知らせました。ウィンクラー兄弟はすぐ立ち上がり,鞄をあとに残したままゲシュタポの官憲の輪をくぐり抜けて逃れ ― たかに見え ― ました。あとでわかったのですが,同夜おそくカッシング兄弟のアパートに現われた彼は,待ち構えていた一群のゲシュタポの手で直ちに拘引されました」。

それから数日のうちに,ドイツの地区の奉仕指導者の少なくとも半数の人たちと何千人もの他の兄弟や支持者たちが逮捕されました。その中の一人,ゲオルク・ベール兄弟はこう伝えています。

「毎晩10時ごろ,幾つかの独房から囚人が連れ出される物音を聞きましたが,その後まもなく階下の地下室で彼らが打たれるのが聞こえました。囚人の叫び声やすすり泣く声が聞こえました。毎晩,独房の扉が開く音を聞くたびに,今度は私の番だと思いました。しかし,最後に四日か五日目の6時ごろに尋問の呼び出しを受けるまで私は何もされませんでした。その時,ひとりの親衛隊員が私をその部屋に連れて行き,腰をおろすよう私に命じ,次いで,『お前はその気になれば話そうと思う以上の事柄を我々に話せるだろう』と言いました。そして立ち上がり,紙くずかごの縁のところで研いだ鉛筆を取り上げて,その短い話を続けて言いました。『そんなにひどい目に会わせはしないからここに来い』。そして,私を彼の机のそばに近寄らせ,タイプで打った数枚の書類を見せて私にそれを読ませました。それはドイツの旅行するしもべ全員の名簿で,私の名前も最下部に記されていました。私は私たちの訪問した会衆の名前とともに諸会衆の兄弟たちの氏名を読みましたし,私たちが注文した文書や蓄音器やレコードの数がはっきりと印刷されているのを読みました。また,私たちが渡した寄付その他のお金も記載されていました。私はとても信じられませんでした。ゲシュタポはそこで私たちの地下組織全体を手中に収めていたのです。私は確かに数分考えてようやく事態を完全に把握することができました。ゲシュタポはこれらの記録をどこから入手することができたのだろうかと私は自問しました。私自身の活動が克明に記載されていなかったなら,私はその記録の真実性を疑ったことでしょう。審問を担当していたドレスデンの親衛隊 ― ゲシュタポのその将校バウホは,思考力を取り戻すための時間を私に与えてくれましたが,のけぞるようにして腰をおろした時の私の顔はかなりまぬけのそれのようだったに違いありません。すると彼はこう言いました。『さて,黙っている理由は実際一つもないじゃないか』。

「私はゲシュタポがどこで私たちの記録を入手できたのだろうかという疑問に何か月も悩まされました。後日わかったのですが,私たちの送った注文書や報告やお金はすべて注意深く目を通して整理され,ベルリンで保管されていました。後にゲシュタポがそれを見つけて押収したのです」。

警察をろうばいさせた大胆な活動

1936年9月4日から7日にかけてルツェルンで開かれるよう慎重に計画された大会は,開催2週間前に生じた大量逮捕事件のため,突然新たな様相を帯びました。ゲシュタポもまたその大会に関する情報を得ていたので,恐らく同大会が私たちに対する彼らの運動の日取りを決める目安になったものと思われます。少なくとも彼らはあらゆる方法を講じてドイツの兄弟たちの出席を阻もうとしました。そのことは秘密国家警察が出した1936年8月21日付の機密回状からもわかります。同回状は,大会に出席するために旅行する兄弟たちに関してこう述べています。「その種の者たちを出国させてはならない。その場合,旅券を没収すべきである」。

事実,その旅行を計画した千人余の人々のうち旅行できたのはわずか300人ほどでした。しかも,その大半は国境の不法横断を行なわねばならず,またその多くは再入国の際に逮捕されました。

もち論,ラザフォード兄弟はその機会を利用して,出席したドイツからのしもべたちとともに彼らの問題について話し合いました。彼は特に兄弟たちを霊的に世話する方法に関心を抱いていました。同席したハインリヒ・ドゥエンガーはさらに話し合われた事柄に関してこう伝えています。

「さて,地区の奉仕指導者たちは提案を述べるよう求められました。彼らは私をドイツに戻すことをラザフォード兄弟に勧めました。私はその提案を自分から述べるよう求められていたのですが,私はプラハに派遣されていたのでそうする訳にはゆかないし,またドイツに戻りたいなどと言う訳にもゆかないと彼らに話しておきました。でないと,私はまるで自分の割当てに不満を抱いてでもいるように思われたことでしょう。そこで,当分の間フロスト兄弟が責任を引き継ぐよう任命されました。次いで,ラザフォード兄弟は尋ねました。『もしあなたが逮捕されたならどうなりますか』。万一フロスト兄弟が逮捕されたなら,ディーチー兄弟がその跡を継ぐよう推薦されました」。

大会では決議が採択され,その決議文二,三千部がヒトラーとドイツ内のその政府の各省に送られました。また,ほかにはローマの教皇にも一部送られました。大会運営部門の指示で1936年9月9日に決議文を送ったベルン出身のフランズ・ヅルヘルは,それがローマのバチカンとベルリンにいるドイツ首相の双方に送付された確認書を受け取りました。タイプライターで打たれた長さ3ページ半ほどのその決議文は次のような趣旨のものでした。

「私たちはローマ・カトリック教階制度およびドイツその他世界のあらゆる場所の同制度の同盟者たちによるエホバの証人に対する残忍な取り扱いに強く反対します。しかし,私たちはこの問題の結果を私たちの神なる主のみ手に全く委ねます。神はそのみ言葉にしたがって存分に報いてくださるのです。……私たちはドイツで迫害されている私たちの同信の友に心からのあいさつを送るとともに,彼らが勇気を保ち,全能の神エホバとキリストの約束に全く信頼するよう願っています。……」。

その大会で採択された決議文を電撃的運動によってドイツの大勢の人々に配る取決めが設けられました。ベルンで印刷された決議文30万部のうち20万部はプラハに送られ,そこからチッタウの近くやリーゼン山脈の他の場所で国境を越えてドイツに運び込まれました。他の10万部はオランダを経てドイツに運び込まれることになりましたが,残念なことにオランダで押収されてしまいました。それで,数人の地区の奉仕指導者たちはベルリンおよび北部ドイツで配布するための決議文を自分たちの手で作らねばなりませんでした。その配布の日取りは1936年12月12日,午後5時から7時までとされていました。

後に寄せられた報告によれば,およそ3,450人の兄弟姉妹がそのわざに参加しました。各人は20部,あるいは多くても40部を携えて行きました。その意図は,割当てられた区域内でできるだけ早く配り終えることでした。それで,ただ郵便箱に入れたり,ドアの下から差し込んだりして配られました。

決議文はおのおの家に1部配られ,大きなアパートの建物でもたいてい3部までしか配られませんでした。次いで,そのちらしを配る人たちは急いで隣りの路に移り,そこでも同様の仕方で配り,できるだけ広範囲に配れるようにしました。

反対者たちに与えた影響は,実に痛烈なものでした。8か月の間ドイツのわざを監督した際プラハの支部事務所と密接な関係を持っていたエーリヒ・フロストはプラハまで何度か旅行しましたが,そのある旅行の際,この運動に関する次のような報告を届けました。

「この決議文を配るわざは政府およびゲシュタポに恐るべき打撃を加えるものとなりました。それは1936年12月12日,突如一斉に配られたのです。その活動はごく細かい点に至るまですべて徹底的に準備され,そのわざが午後5時きっかりに開始される24時間前に忠実な仲間の働き人すべてに通知され,各人にそれぞれの区域と一包みの決議文が与えられました。一時間もしないうちに警官や突撃隊員や秘密警察の官憲が走り回ってパトロールを行ない,勇敢な配布者たちを逮捕しようとしましたが,ごく少数の人々を,つまり全ドイツで12,3人足らずの人々を逮捕したに過ぎませんでした。しかし,翌火曜日,官憲は兄弟たちの多くの家々に現われ,配布のわざに参加したとしてあからさまに責めました。もち論,兄弟たちは何も知らなかったので,逮捕された人はほとんどいませんでした。

「今や,新聞によれば,当局者は私たちの大胆さゆえに恐怖感を伴う怒りを抱いているだけでなく,恐れの気持ちを募らせています。ヒトラー政府による4年間にわたる恐怖政治にもかかわらず,依然としてこれほどの運動をこれほどの秘密を保って,しかもこれほど大規模に行なえることを知って,当局者は完全に仰天させられています。とりわけ,彼らは一般民衆を恐れています。警察に文句を言った人々は少なくありませんでしたが,警官や制服姿の他の役人が家庭を訪ねて回り,そうしたちらしを受け取ったかどうかを住人に尋ねると,彼らは受け取らなかったと答えました。というのは,実際のところ,おのおのの家の中のわずか2世帯,多くとも3世帯しかその決議文を受け取らなかったからです。もち論,警察はそうとは知らず,どの戸口にも1部ずつ配られたものと考えていたのです。

「それで,彼らは一般民衆が私たちの決議文を入手したものと思っていますが,警官の尋問を受けた人々は種々の理由で,受け取ってはいないと主張したため,当局者は非常な困惑と恐怖を感じさせられています」。

ゲシュタポははなはだしく失望させられました。彼らは8月28日に展開した広範な運動で私たちの活動を完全に粉砕したものと考えていたからです。それなのに今度は決議文が配られたのです! しかも,彼らはこの活動を前述の自分たちの運動よりももっとずっと広範にわたるものとみなしましたが,事実そのとおりでした。敵が神の民の隊伍に重大な亀裂を生じさせることに成功したのは否定しがたい事実ですが,わざを完全に停止させることには決して成功しませんでした。ラザフォード兄弟のためにまとめられた,1936年10月1日から12月1日までの期間の,地区の奉仕指導者たちからの報告からもわかるように,兄弟たちは自分たちの使命である宣べ伝えるわざを続行しました。その結果は次のとおりです。(数字はすべて概算です)働いた人3,600人,時間2万1,521時間,聖書300冊,書籍9,624冊,そして小冊子1万9,304冊。これは一連の逮捕が行なわれる前の最後の,次のような月の報告(5月16日から6月15日までの)と比べてさほど劣るものではありませんでした。働いた人5,930人,時間3万8,255時間,聖書962冊,書籍1万7,260冊,そして小冊子5万2,740冊。

「公開状」による暴露

1936年12月12日に決議文が配られた後に行なわれた聴問や裁判ではそのほとんどすべての場合,決議文のことが指摘されました。役人は決議文の陳述は真実ではないし,その主張を裏づける証拠を私たちは提供できないとして,兄弟たちの多くをそれまでよりももっとずっとひどい目に会わせました。そこで責任を持つ兄弟たちは,決議文の場合と同様の,「公開状」を配布する「電撃的運動」をラザフォード兄弟に提案しました。そうすれば,ゲシュタポの主張の偽りを証明する答えを彼らに提供できる訳です。ラザフォード兄弟はその提案に賛成し,「公開状」の作成をスイスのハルベク兄弟に頼みました。同兄弟は1936年に至るまでの収集された迫害に関する資料すべてを利用できる立場にあったからです。

その公開状から引用した次の一節は,敵に対して公に答える際に兄弟たちが容赦ないどんな論法を用いたかをはっきりと示しています。

「私たちはクリスチャンとしての辛抱強さと羞恥心のゆえに,こうした暴虐行為にドイツはもとより他のあらゆる場所の人々の注意を引くことをも今に至るまで長く差し控えてきました。私たちは,エホバの証人が前述の残忍な虐待を被ってきたことを示す圧倒的な量の証拠書類を所有しています。特にこうした虐待に対して著しい責任を負っているのは,ドルトムントのタイスという名の人物およびゲルゼンキルヘンとボホムの秘密警察のテンホフならびにハイマンです。彼らは馬のむちやゴム製の棒を用いて女性を虐待するのをいといませんでした。ドルトムントのタイスとハムの国家警察のある官憲は,クリスチャンの女性を虐待するサディスト的残忍さの点で特に知られています。私たちは,暴行を受けて殺されたエホバの証人の事件およそ18例の犠牲者の氏名および残虐行為の詳細な記録を所有しています。一例を挙げれば,1936年10月初め,ウェストファーレン州ゲルゼンキルヘン市ノイフュラー街に住むペーター・ハイネンという名の一エホバの証人は,同市市役所で秘密警察の役人たちに打ち叩かれて死にました。この悲惨な事件はドイツ首相,アドルフ・ヒトラーに報告されました。同報告書の写しはドイツの大臣ルドルフ・ヘスおよび秘密警察の長官ヒムラーにも送られました」。

「公開状」が作成された後,その全文はベルンでアルミニューム製のステンシルに打たれてプラハに送られました。地下活動でフロスト兄弟と密接な関係を持って働いていたイルゼ・ウンテルデルフェルは,プラハに報告を届け,またそこで情報を受け取って来るよう時々同兄弟から指令を受けました。プラハへそうした旅行をしたある時,ウンテルデルフェル姉妹は,購入したばかりの回転式謄写印刷機で「公開状」を印刷するために用いる予定のそのステンシルを与えられました。1937年3月20日,ウンテルデルフェル姉妹はその大事な包みを持ってベルリンに到着しました。

フロスト兄弟はこう報告しています。「私はその包みを受け取り,次いでその『危険な』品物を別の姉妹に渡しました。そして彼女はそれを安全な場所に隠しました。その晩,私と,その大切なステンシルを運んで来たウンテルデルフェル姉妹とは,留まっていた家で逮捕されました。ナチ独裁政権に残されている存続期間中私たちが自由を失ってしまったという事実を受け入れるのはつらいことでしたが,それでも私たちは新しいパンフレットを用いる運動を無事行なえるよう取り計らえたことを知って嬉しく思いました」。

しかし,フロスト兄弟の考えは間違っていました。留置所に護送される際,警察の車の中で彼は自分のすぐわきに回転式謄写印刷機が置かれているのを知ったからです。ゲシュタポは家宅捜査のさいそれを見つけていたのです。そのうえ,他の機械には用いられない問題のステンシルは紛失したらしく,二度と再び見つかりませんでした。

フロスト兄弟からステンシルを受け取った,その運動の詳細を熟知していたイーダ・ストラウス姉妹も同様に考えていました。彼女はその時のことを思い起こしてこう述べました。「私はアルミニューム製のステンシルを鞄に入れ,その機械の置いてある所に運んでいました。それは夜も遅くなってからのことで,あたりは暗闇でした。と,その家の持ち主で,関心のある人が階段の上に立って声をかけてくれました。『すぐに逃げて,安全な所に隠れなさい。ゲシュタポは機械を没収し,兄弟たちを逮捕し,ほんの少し前まであなたを待ち受けていたのですが,とうとうあきらめたのですよ』。さて,どうなるのでしょう。その後,数日のうちに私は,多くの兄弟たちがその晩逮捕されたことを知りました。それで,兄弟たちの中に組織と何らかの関係を持っている人をひとりも見いだせませんでした。

「そこで今や,私はエホバのわざのために恐れずに身を挺することのできる一人の兄弟と数人の姉妹たちを探し求め始めました。私は自分がゲシュタポのブラックリストに載せられており,いつなんどき逮捕されるかわからないことを知っていました。そして,そのとおりの事態がまさしく生じましたが,そのわざは忠実な人たちの手に引き継がれたので,私は嬉しく思いました」。

「公開状」のステンシルに関するかぎり,ストラウス姉妹の考えもやはり間違っていました。機械は没収されてしまい,別の機械は入手できなかったのですから,ステンシルはもはや使いものにはなりませんでした。

今やフロスト兄弟が逮捕されたので,ルツェルンでラザフォード兄弟との話し合いの際に決定されたとおり,ハインリヒ・ディーチーが仕事を引き継ぎました。彼の最初の目標は,この「公開状」を出すことでした。そこで彼はレムゴでストローマイヤー兄弟と連絡を取りました。ストローマイヤー兄弟とクラックハン兄弟はともに,「1936年の年鑑」を印刷したかどで6か月の服役刑に服し,刑期を終えたばかりでした。しかし,ストローマイヤー兄弟は助力することに応じました。

問題はステンシルをスイスから再び入手することでした。このたびは紙型を受け取ったので,印刷用のプレートを作るために,兄弟たちはまず最初,その紙型に鉛を流して鉛版を作らねばなりませんでした。スイスで「公開状」が20万部印刷された後,ディーチー兄弟は同地から紙型を入手しましたが,それを国境越しにドイツに運び込む企ては失敗してしまいました。

さて,印刷の問題が解決した後,「公開状」は1937年6月20日に「電撃的運動」を行なって配布することになりました。エルフリーデ・レール姉妹はこう伝えています。「ディーチー兄弟はその運動を組織しました。私たちはみな勇気を抱いていましたし,万事見事に取り決められており,おのおのの地区には十分の分量の公開状がありました。私はブレスラウ周辺の区域のための公開状の入った大きなスーツケースを駅で受け取り,リーグニツの兄弟たちのもとに運びました。私もまた自分自身の分を持っており,所定の時刻に他の兄弟たちすべてと同様,それを配布しました」。

「公開状」の配布はゲシュタポに不意打ちを食らわせたに違いありません。なぜなら,彼らは組織を完全に壊滅させたとして何か月もの間豪語していたからです。それで,彼らの興奮は募るばかりでした。それはまるで突然だれかがあり塚を引っかき回したかのようでした。彼らはまるで明確な目標もなく逆上してでもいるかのように,あわてふためいて走り回りましたが,ドルトムントのタイスのような人々は特にそうでした。

しかし,タイスの勝ち誇った時代もその終わりに近づきました。タイスはエホバの証人を扱う場合,憐みをかけてはならないと考えていたので,ある日,ウンチという名のかつての兄弟の所有する家の家宅捜査を行なわせました。ところが,その人は後に真理を捨てて,ヒトラーの空軍の特務曹長として勤務していたのです。ウンチが帰宅したところ,家宅捜査を受けたことを妻から知らされました。彼は直ちにドルトムントのタイスのもとに行き,なぜそうしたのかを問い正しました。空軍の特務曹長が眼前に立っているのを見て驚いたタイスは,口ごもりながら言いました。「あなたは聖書研究者たちの支持者ですか」。ウンチは答えました。「彼らの話は幾らか聞きました。しかし,どこへ行っても,何かは耳に入るものです」。そこで,タイス夫人が話をさえぎりました。と,興奮したタイスが話に割り込んで言いました。「事情を知ってさえいたなら,私は聖書研究者たちを撲滅する試みは決して始めなかったでしょう。これは人を狂気に追いやりかねません。やつらを一人投獄できたと思っていると,突如ほかに十人もの連中が現われて来るのです。そもそもこういう事に手を出したのが間違いでした」。

悪魔の手先となった彼の良心がいつか安らぎを得たとは考えられません。それとは逆に,「キリスト教に対する十字軍」と題する本は,「ガリラヤ人たち,あなたがたは勝利を得ました!」という副見出しの箇所で次のように結んでいます。

「これまで再三指摘されてきたドルトムントのタイスは,ここしばらくの間自分の不法行為のゆえに良心の恐ろしい痛みを経験しており,悪霊たちにより彼は徐々に精神異常に追いやられているとのことである。数か月前のこと,彼は150人のエホバの証人を『引き裂いた』といって豪語した。『エホバよ,私はあなたを永遠にさげすもう。バビロンの王よ,万歳』とごう然と言ってのけたのは,ほかならぬ彼であった。

「ところが今や彼はそれらの人々を調べても,もはや彼らを苦しめたりはしないと約束するようになり,そして恐ろしい処罰を免れ,また彼をさいなんでいる恐るべき精神的責め苦から解放されるためには何をしなければならないかを教えて欲しいと彼らに懇願しているのである。彼は,『虐待せよとの命令を上から』受けたと言っているが,今やそうすることをやめたいと思っている。なぜなら,新しいエホバの証人がいつも次から次に姿を現わすからである。主人を敵に売り渡した後のユダのように,タイスは悔い改めを求めてはいるが,それを見いだせずにいるのである。ゲシュタポの官憲その他の党員で,エホバの証人の確固不動の態度にすっかり動揺させられ,自分たちの行ないの誤りを認めてその仕事をやめた例は少ないとはいえ幾つかあるのである」。

「公開状」の配布はゲシュタポを大いに憂慮させたので,彼らは直ちに捜査網を張りめぐらし,ほんの数日後には手掛りをつかみ,官憲は「公開状」を印刷したレムゴのストローマイヤーとクラックハン両兄弟のもとに直行しました。そして,両兄弟が少なくともそれを6万9,000部印刷していたことを確かめることができました。両兄弟はそれぞれ3年の懲役刑を宣告され,刑期を終えた後,ゲシュタポはその二人を「矯正不能者」と称して保護拘禁処分に付しました。

さて,地区の奉仕指導者たちの大半が逮捕されてしまったため,防御線の裂け目を満たし,ディーチー兄弟と諸会衆との連絡を保つため,姉妹たちの助力が要請されました。その一人はエルフリーデ・レールで,彼女はフロスト兄弟とウンテルデルフェル姉妹の逮捕後,ディーチー兄弟と連絡を取ることに努めました。そして,ウュルテンベルクに旅行し,方々を捜した後,シュツットガルトでディーチー兄弟を見つけました。同兄弟は彼女を一緒に連れて行き,兄弟たちとの連絡を保つさまざまな方法を教えました。同時に,持ち運びできるラジオ送信機をオランダに設置し,1937年の秋ごろ使用するため広範囲にわたる準備もなされていました。ゲシュタポは既にその事をかぎつけ,ディーチー兄弟に対して激しい怒りを抱きましたが,その名前を知っているだけで,同兄弟はかつてのバンドレス兄弟の場合と全く同様,捕えどころのない人物でした。

ディーチー姉妹がゲシュタポに逮捕され,ドルトムントの悪名高い「スタインヴァッヘ」に連れて行かれたのはこの同じ時分だったに違いありません。ゲシュタポは強制的に姉妹に夫がどこに隠れているか話させようとしましたが,彼女は口を割りませんでした。彼女はあまりの虐待を受けたため,以来その一方の足は他方のそれより短くなってしまいました。その上,釈放後は数週間,アルコールに浸した包帯で全身を巻いて治療をしてもらわねばなりませんでした。

1937年パリ大会後の余波

1937年のパリ大会には前年行なわれたルツェルンでの大会同様,ラザフォード兄弟が出席することになっていました。このたびはドイツからその大会に出席できたのはわずかに数人の兄弟たちだけでした。敵は兄弟たちの隊伍に大きな切れ目を作り出していたのです。その大会に出席し得た少数者の一人,リッフェル兄弟は後日,レーラハとその近辺だけでも約40人の兄弟姉妹たちが投獄され,そのうちの10人は紋首刑にされたり,ガス室で殺されたり,銃殺されたり,あるいは餓死したり,強制収容所での「医学実験」のために死んだりしたと伝えています。

パリでも別の決議が採択されましたが,その決議はエホバと,イエス・キリストの支配下にあるその王国とに関する私たちの破れることのない明確な態度をもう一度明らかに述べ,ドイツにおける残忍な迫害に公に注意を喚起し,責任を持つ人々に神の義の裁きについて警告するものでした。

ドイツの最後の地区の奉仕指導者が2週間留守をしている間に色々の事柄が起きました。ディーチー兄弟が奉仕の面の諸問題を話し合うために15人ほどの兄弟姉妹を招いて毎週開いていた集まりにいつも出席していたレール姉妹が逮捕されてしまいました。そのいきさつは次のようなものでした。

その集まりはたいてい朝9時ごろに始まり,しばしば午後5時ごろまで続いたので,兄弟姉妹たちは昼食を一緒に取れないだろうかと尋ねていました。そして,レール姉妹が料理をするよう求められていました。兄弟たちは安全上の理由で会合の場所を毎回変えていたので,食事を用意するのに用いる大きなシチュー用の鍋を一つの場所から次の場所へと運ばねばなりませんでした。最近逮捕された兄弟たちから聞いたのか,それとも他の何らかの方法で知ったのかはわかりませんが,ゲシュタポはパリ大会が開かれる前の最後の集まりの行なわれた場所をつきとめました。ゲシュタポはそのアパートを監視し,次の集まりが開かれる3,4日前レール姉妹がシチュー用の鍋を取りに来るのを見届け,集まりの行なわれる新しい場所まで尾行して直ちに彼女を逮捕しました。ゲシュタポはやがて会合のための新たな場所だけでなく,ディーチー兄弟の秘密の隠れ家をも見つけたことに気づきました。ディーチー兄弟はパリ大会の後,まっすぐベルリンに戻り,何らかの危険が潜んでいるかどうかを確かめずにそのアパートに入ったのです。わなに陥った彼は,その場で逮捕されてしまいました。当然のこととして,旅行するしもべたちの今やさらに小さくなったそのグループの集まりは,時間や場所を変えねばなりませんでした。

ディーチー兄弟は何年もの間,地下活動に携わってたゆまず働き,危険に面してもたじろぐことはありませんでした。彼は懲役4年の刑を宣告されましたが,仲間の兄弟たちの大多数とは異なり,刑を終えた後,強制収容所には入れられませんでした。

1945年,わざが再組織され始めた時,彼は「同信の友のためのしもべ」として諸会衆に奉仕し始めた最初の人たちの一人でした。しかし残念なことに何年かの後,彼は自分自身の理論を展開し始め,エホバの組織から離れ去って行きました。

ところで,1937年に戻りましょう。兄弟たちの隊伍に再び危険な切れ目が作り出された後,バンドレス兄弟はそうした切れ目を,少なくとも一時的にせよ埋め合わせて,兄弟たちに霊的な食物を確保させようとしました。フランケ兄弟が逮捕された後,バンドレス兄弟は彼の区域を引き取りましたが,今や引き継がれていない他の区域に対しても責任を感じたので,バート クロイツナハ出身のアウグステ・シュナイダー姉妹に,バート クロイツナハ,マンハイム,カイゼースラウターン,ルートウィヒスハーフェン,バーデン-バーデンおよびザール地方全体の兄弟たちに霊的な食物を届ける仕事を依頼しました。この非常に困難な時期に旅行しなければならなかった兄弟たちすべての場合のように,彼女には別の名前がつけられ,以後「パウラ」と呼ばれることになりました。

敵が特にザクセン地方で盛んに活動していることに気づいたバンドレス兄弟は,その地方の世話をフライブルク出身のヘルマン・エムターに依頼しました。9月3日,ふたりはドレスデンまで旅行しました。バンドレス兄弟はその地に一度も行ったことがありませんでしたが,ゲシュタポはふたりを待ち受けていたのです。こうして,3年にわたった追跡捜索は遂に終わりました!

9月の半ばごろ,バンドレス兄弟に関連して設けられていた取決めに従って,それとは知らずに「パウラ」は,文書のいっぱい入った二つの大きなスーツケースを持ってビンゲンの駅で待っていました。すると突然ひとりの紳士が近づいて来て彼女に言いました。「今日は,パウラ。アルバートは来れないので,あなたは私について来なければなりません!」この言葉に逆らうのは無駄でした。その見知らぬ男はゲシュタポだったからです。彼はこう言い足しました。「アルバートを待つには及びません。私たちは既に彼を逮捕しましたし,彼の持っていたお金も全部取り上げました。……バンドレスさんは,あなたが二つの大きなスーツケースを持ってここにいることも,またあなたの名前がパウラであるということも話しました!」ゲシュタポがその情報をどこから得たかは今もってなぞとされています。しかし,それは,すなわちある兄弟たちがこうこう言ったと主張して,兄弟たちの間の信頼の念を打ち砕き,そうした「裏切者」から手を引かせようとする方法はゲシュタポの常とう手段でした。

終身拘禁を図る計画

こうした一連の逮捕事件とともにドイツの兄弟たちにとって重要な一時代が終わりました。十分に組織された活動の時期が終わりを告げました。今やあらゆる事柄は,戦いが新たな様相を呈し始めたことを指し示しました。今やゲシュタポは,エホバをあくまでも捨てない勇敢な個々の人々を抹殺して組織を滅ぼすことを目標にしました。

1937年5月12日にジュッセルドルフェルのゲシュタポが出した回状によれば,今後聖書研究者たちは,司法上の逮捕令状がない場合でも,単なるけん疑という理由で強制収容所に入れられることになりました。そして,同様の通告がドイツ中に伝えられました。その上,裁判所が定めた懲役刑を終えた聖書研究者たちは,自動的に強制収容所に入れられることになりました。その決定は1939年の4月には適用をさらに厳しくされ,さらに長期間にわたるものにされました。今後は,エホバとその組織とのいっさいの縁を切るという趣旨の宣言書に署名した人だけが釈放されることになりました。その宣言書に署名するかどうかを決める機会すら与えられなかった兄弟たちも少なくありませんでした。

エッセン出身のハインリヒ・カウフマンは懲役刑を終えて自分の平常の服を身に着けたとき,保護拘禁されることになっていると刑事から聞かされただけでした。しかし,まず最初,1年半見ずに過ごした自分の家に連れて行かれ,こう尋ねられました。「信仰を破棄してヒトラーに従いたくはないか」。同時に,わが家の鍵と9キロあまりの食物の入った包みを示され,それに妻もラベンスブルクの強制収容所から送還されることになるだろうと約束されました。が,カウフマン兄弟はその勧めを退けました。

エルンスト・ヴィースナーが伝えているように,時には兄弟たちをだまそうとする企てがなされました。釈放される予定の少し前のこと,彼は一枚の書類を示されました。文面はあまりにも漠然としたものだったので,注意深く読み通した後,これなら署名できると決心しました。しかし,今や策略に面しました。ヴィースナー兄弟はそのページの一番下の箇所に署名しなければならず,そのページの下半分は余白のままだったのです。ヴィースナー兄弟が明らかな良心を抱いて署名し得ないような内容の事柄を,ゲシュタポは確かにあとで書き足すつもりだったに違いありませんでした。しかし,ゲシュタポがしようとしていた事にすぐ気づいた彼は,署名するのをやめさせられないうちに,タイプライターで打たれた本文のすぐ下に署名しました。その結果,署名したにもかかわらず釈放されず,かえって刑期が満了する3週間前,彼は直ちに強制収容所に移されることになったと秘密警察から知らされました。

強制収容所 ― 大きく口を開いた底知れぬ深い所

「歴史季刊」と題する1962年の2回目の小冊子の中で著者ハンス・ロスフェルスはこう記しています。「敬謙な聖書研究者にとって強制収容所に入れられた事態は,国家社会主義者の支配下で苦しんだ時代の最後の,そして最も困難な段階となった。……」。

その大多数の人たちにとって慰めとなったのは,迫害の熱で鍛錬された忠実な兄弟たちが既に収容所に監禁されていたという事実でした。それらの兄弟たちとともにおり,また彼らの愛ある世話を経験するのは,「新参者」ひとりびとりにとって心を慰め,活気づける事柄でした。

しかし,私たちの兄弟たちが確固不動の態度を示すのを見た当局者がそうした事態を政府に報告すると,政府側はいつも兄弟たちの苦しみを増し加えさせる方法ばかり考えました。それで,しばらくの間,エホバの証人が収容所に着くと,さまざまな方法で拷問を受けるほかに,おきまりの仕打ちとして鋼鉄製のむちで25回打たれるようになりました。彼らの重労働は朝4時30分に始まり,囚人たちは皆,収容所のベルの音で目を覚まさせられました。ベルが鳴るとすぐ,一騒動が起きます。ベッドを整え,顔を洗い,コーヒーを飲み,また点呼が取られますが,そのすべてが大急ぎで行なわれます。何事も普通の速さで行なうことはだれにも許されていません。囚人たちは点呼の行なわれる場所に行進し,次いでそれぞれ進み出てさまざまの作業班に加わります。それに続いて今やまさに劇的事態が生じます。砂利や砂,石や棒,さらにはバラック式の営舎全体をそのまま運ぶ作業が,それも一日中,しかもすべて大急ぎで行なわれるのです。絶えず囚人たちをどなりつけ,忍耐を極限まで強いた工事監督たちは,ヒトラーが提供し得た最悪の人間でした。

彼らはイエスが同様の苦しみに会ったことを思い起こしては,慰めと励みを得,非人道的な虐待を受けながらも,それに耐える力を得ました。

変化を添えるために,時にはこれといった理由がないのに「処罰教練」が行なわれました。兄弟たちはしばしば,食物なしで我慢するよう強制されました。やっと腰をおろして食事を取れるものと思っていた疲れた兄弟が,さらに4,5時間強制的に中庭で気をつけの姿勢のまま立たされるのは,実につらい試練でした。しかもそれが,単にある兄弟の上着のボタンが一つ取れていたとか,あるいは何か他のささいな規則違反をしたとかというただそれだけの理由で行なわれたのです。

そして,最後には寝ることを許されましたが,それも空腹に耐えて眠れればのことでした。しかも,夜は必ずしもただ眠るためだけの時ではありませんでした。しばしば,バラックの悪名高い「ブロックの指導者」が一人,時には数人真夜中に現われては囚人を恐喝しました。時には,空中やバラックのたる木めがけて連発拳銃を乱射してはそうした夜半のできごとを引き起こしたりしました。そうなると,囚人たちは夜着のままバラックの中を逃げ回ったり,バラックの上によじ登ったりせざるを得ませんでした。しかも,「ブロックの指導者」が望むだけそうしていなければならなかったのです。そのような仕打ちを受けて一番ひどく体をいためたのは年長の兄弟たちだったのももっともなことで,そのために命を失った人は少なくありませんでした。

1938年3月には,強制収容所内のエホバの証人に対して文通の全面的禁止が実施されました。その措置は9か月間続きましたが,その間,兄弟たちは親族との連絡を断たれましたし,親族も連絡を取れませんでした。その禁止措置が解除された後でさえ,エホバの証人各人に対して親族あての便りを1か月にわずか5行だけ書くのを許すという制限が3年半ないし4年,ある収容所などではもっと長く続きました。しかも,次のような趣旨の本文が事前に用意されていたのです。「お手紙受け取りました。本当にありがとうございます。私は元気で,健康に恵まれ,達者です……」。しかし,「私は元気で,健康に恵まれ,達者です」という趣旨のその手紙が届く前に死亡通知書が届いた例もありました。また,その本文の下の空白の箇所には,次のような文面のスタンプが押してありました。「この囚人は相変わらず頑迷な聖書研究者であり,また聖書研究者の誤った教えを捨てようとはしていない。それゆえに,通常の文通の特典を与えられていない」。

好敵手に会った「フォアスクエア」

強制収容所での生活は日々不安に満ちたもので,しばしば収容所の司令官のためにそうした事態がもたらされていました。ザクセンハウゼンの司令官は一時,バラノヴスキーという名の男でしたが,そのがっしりした体格のゆえに囚人たちはほどなくして「フォアスクエア」(正方形の意)というあだ名を彼につけました。

彼はたいてい新たに囚人たちが到着するたびに自ら囚人たちに会って,「歓迎の話」をしましたが,その話はたいてい次のような言葉で始まりました。「私は収容所の司令官で,『フォアスクエア』と呼ばれている。さて,皆よく聞いておけ! おれはお前たちの望みのものを何でも,つまり頭にでも,胸にでも,腹にでも一発くらわせることができるんだぞ! お望みなら,お前たちは自分ののどを切り裂けるし,自分の動脈を切り開くこともできるのだ! やりたいなら,電気の通っているへいに走って行ってもよい。ただし,私の部下は上手な射手だということを忘れるな! 彼らはお前たちを即刻天国に行かせるぞ!」 そして,彼は決して機会を逸することなく,エホバを,あるいはその聖なるみ名を愚ろうしました。

ところで,エホバの証人の活動が禁じられた初めのころ,ディンスラーケン出身の23歳くらいの青年が真理を学んでいました。彼はまだバプテスマを受けてはいませんでしたが,ゲシュタポに逮捕されて裁判にかけられました。彼の名前はアウグスト・ディックマンといいました。刑期を終えた後,ゲシュタポの圧力に屈して「宣言書」に署名しました。それは明らかに,それ以上迫害を被らずに済むよう期待してのことでした。にもかかわらず,彼は懲役刑を終えた後,1937年の10月直ちにザクセンハウゼンに送られました。その収容所の兄弟たちはあらゆる機会を捉えては,人を励ます楽しい話し合いを行なっていたので,それら兄弟たちの中にいて彼は,自分が弱さに負けて敵と妥協してしまったことに気づきました。そして,悔い改めた彼は,自分の署名した声明書の取り消しを願い出ました。

そのうちに,彼の肉身の兄弟ハインリヒもやはりザクセンハウゼン収容所に入れられました。そこでアウグストは彼に,問題の声明書に署名したこと,しかしその後,それを取り消してもらうよう要請したことについて話しました。

次いで何週間かがたちまち経過しました。1939年の後半に二度目の世界大戦が勃発するに至って,同収容所の司令官バラノヴスキーは自分の計画を実行し始めました。アウグスト・ディックマンがその妻から,ディンスラーケンの自宅に送られた徴兵伝票を送り届けてもらった時,同司令官は好機が到来したと考えました。大戦が勃発して3日後のこと,ディックマンは「政治部」に出頭するよう命ぜられました。アウグストからそうした新しい事態について知らされたハインリヒは,今や戦争が勃発したからには万一の覚悟をしておかねばならないと,点呼が取られる前にアウグストに警告しました。彼は自分が何をしたいと考えているのかを十分に確信していなければなりませんでした。彼は答えました。「彼らは私に関してしたい事は何でもできます。しかし私は署名しませんし,二度と妥協はしません」。

その日の午後,聴問会が開かれましたが,アウグストは兄弟たちの所には戻りませんでした。あとでわかったのですが,彼は徴兵伝票に署名するのを拒否しただけでなく,立派な証言をも行ないました。収容所の司令官は事件をヒムラーに報告し,兄弟たちはもとより同収容所の囚人全員の面前でディックマンの公開処刑を執行する許可を求めました。その間,彼は地下牢の独房に監禁されました。司令官は,エホバの証人といえども,もし実際に死に直面するなら大勢の者は署名するに違いないと確信していました。それまでは大多数の人々が署名を拒否していましたが,単に脅しを受けたに過ぎなかったのです。ヒムラーは返信の中でディックマンに死刑を宣告し,その執行を命じました。こうして今や,「フォアスクエア」にとっては『大芝居』を打つ道が開かれました。

それは金曜日のことでした。収容所全体には不気味な静けさが垂れ込めていましたが,突如司令部の一群の兵士がやって来て,ほどなくして中庭に射撃場を設けました。もち論,そのためにさまざまな噂が飛びました。仕事をいつもより1時間早く止めるよう命令が出されるに及んで,興奮はいよいよ募りました。パウル・ブデルは仲間の作業班の人々と一緒に行進して戻ってきた時,ある親衛隊員が笑いながら彼に,「今日は昇天祭だ! お前たちのうちの一人が今日天国に行くはずだ」と言った時のことを今でも覚えています。

ハインリヒ・ディックマンが割り当てられていた作業班が入って来たとき,収容所の長老が彼に近寄り,何が行なわれようとしているかを知っているかと彼に尋ねました。知らないと答えると,彼の兄弟アウグストが銃殺されることになったと聞かされました。

しかし,ゆっくり話し合っている時間はありませんでした。囚人全員が行進して広場に出るようにとの命令が出ていたのです。エホバの証人は,狙撃隊が立つ場所の真正面に立たされました。すべての人々の視線はその場所に注がれました。親衛隊の護衛兵が行進して入って来ましたが,いつもより四倍も厳しい警戒処置が講じられました。銃の覆いははずされており,いつ何時でも撃てるよう実弾が装填されていました。また,親衛隊員たちは高い壁の上に立ち,行なわれようとしている事柄を今か今かと待っていましたが,その人数があまりにも多かったので,その流血の惨劇を眺めるよう親衛隊員全員がそこに居合わせることを命じられたように思えるほどでした。正門は太い鉄の棒でできており,強烈な刺激を好む親衛隊員はその前に立ったり,まるでぶどうの房のようにその鉄棒にぶら下がったりしていました。中には,もっとよく見えるよう,横木の上によじ登った者もいました。彼らは好奇心にあふれた目つきをしていただけでなく,血に飢えた目つきをしていました。中には,ある程度の恐れを示す表情も見られました。だれでもまもなく何が起きるかを知っていたからです。

両手を前で縛られたアウグストは,親衛隊の数人の上級将校に付き添われて入って来ました。戦いに既に勝った人のような落ち着き払った穏やかなその態度にすべての人は深い感銘を受けました。約600人ほどの兄弟たちがその場に居合わせ,彼の肉親の兄弟ハインリヒはわずか数メートル離れたところに立っていました。

と,突然,マイクのスイッチが入れられ,拡声機が耳ざわりな音を出しました。すると,皆の耳に「フォアスクエア」の声が聞こえました。「囚人たち,よく聞け!」 直ちにあたりは静まり返りました。彼が話し続ける間,聞こえるものと言えばそれはこの怪物のような男のぜん息気味の息づかいだけでした。

「1910年1月7日生まれ,ディンスラーケン出身の囚人,アウグスト・ディックマンは,自分は『神の王国の市民』であると唱えて軍務に服することを拒否してきた。彼は,人の血を流す者は自分の血を流させられることになると述べ,自らを社会ののけ者にしたので,親衛隊の指導者ヒムラーの命令に従って彼は処刑されることになった」。

あたり一面死んだように静まり返った中庭で,「フォアスクエア」の声だけが流れ続けました。「1時間前に私はディックマンに,彼のみじめな人生が6時に消し去られることを知らせた」。

すると役人の一人が近づいて,囚人が決意を翻して徴兵書類に快く署名するかどうかもう一度聞いてみるべきかどうかと尋ねたところ,「フォアスクエア」は,「それは無駄だろう」と答えました。そして,ディックマンの方を振り向き,「この野郎,後ろを向け」と命令し,次いで射撃を命じました。その時,ディックマンは3人の親衛隊員によって後ろから狙撃されました。その後,親衛隊の上級将校の指揮官が歩み寄って,遺体の頭部を銃で撃ち,その頬に血を流れ落とさせました。そして,親衛隊の下級将校の一人が遺体から手錠をはずした後,4人の兄弟たちが遺体を黒い箱に収めて収容室に運ぶよう命じられました。

さて,他の囚人たちは全員解散してバラックに戻ることが許されましたが,エホバの証人はその場に留まっていなければなりませんでした。今や「フォアスクエア」はその主張を実証する時となりました。彼は大いに語気を強めて,信仰を否認するだけでなく喜んで兵士になる旨記した声明書に今やだれが署名する覚悟があるかと尋ねました。だれも答え応じませんでした。すると,ふたりの人が進み出たのです! しかし,声明書に署名するためではありません。何とその二人は1年ほど前に記した自分たちの署名を取り消してもらいたいと願い出たのです。

さすがの「フォアスクエア」もそれには参ってしまい,激しく憤って中庭を出て行きました。案の上,兄弟たちはその夜,またその後の数日間非常にひどい目に会わされましたが,それでも確固とした立場を保ちました。

その後数日間,ディックマンの処刑のニュースがラジオで数回伝えられましたが,明らかにそれはなお自由の身であった他の証人たちを脅すためでした。

3日後,彼の兄弟ハインリヒは「政治部」に出頭を命じられました。その処刑から彼がどんな影響を受けたかを調べるため,ゲシュタポの二人の高級将校がベルリンから来ていました。彼自身の報告によれば,次のような会話が交されました。

「『お前は自分の兄弟が銃殺されるのを見たか』。『見ました』と私は答えました。『お前はそのことから何を学んだのだ?』『私は今も,また今後いつまでもエホバの証人です』。『それじゃあ,今度はお前が銃殺される番だぞ』。それから私は幾つかの聖書の質問に答えることができましたが,遂に一将校は叫びました。『何と書いてあるかなどは知りたくない。おれが知りたいのは,お前がどう考えているかということだ』。そして,祖国を守る必要があることを私に教えようと努める一方,絶えず次のような言葉をさしはさみました。『今度銃殺されるのはお前だぞ……次に転がるのはお前の頭だ……今度倒れるのはお前だ』。それで遂に別の将校が言いました。『これは無駄だ。記録はここでやめろ』」。

次いでもう一度,署名するようその声明書がディックマン兄弟の前に置かれました。彼は署名を拒んで,こう言いました。「もしこの書面に署名して国と政府の主張を認めるなら,私は自分の兄弟の処刑に同意した旨を示すことになります。それは私にはできません」。すると,「では,お前はあとどれだけ生き長らえられるか数えるがいい」と言われました。

ところで,「フォアスクエア」ほどにエホバを侮り,エホバに挑戦した人間はごくまれにしかいませんが,彼自身はどうなりましたか。その後ほんの数回収容所でその姿を見かけただけで,あとは全然姿を見せませんでした。とはいえ,囚人たちは,アウグスト・ディックマンの処刑後まもなく彼がひどい病気にかかったことを知りました。5か月後,彼はエホバやその証人たちを侮る機会を二度と再び持つことなく死にました。1938年3月20日,「フォアスクエア」は兄弟たちを「隔離作業班」に入れたとき,「おれはエホバを相手にして戦うことにしたのだ。おれか,それともエホバか,どっちが強いか確かめるのだ」と言いました。しかし,勝敗は決まり,「フォアスクエア」は敗れました。私たちの兄弟たちは数か月後,「隔離作業班」から解放され,ある兄弟たちはある程度の救済を受けましたが,一方,「フォアスクエア」は重態に陥り,将校たちがその病床を訪ねると,彼は「聖書研究者たちがおれを祈り殺そうとしている。彼らのひとりをおれが銃殺させたからだ!」と言ってはすすり泣いていたという噂が収容所中に広がってゆきました。また,彼が死んだ後,その娘は父の死因について尋ねられると決まって,「父は聖書研究者たちに祈り殺されました」と答えたというのはやはり事実です。

ダハウ

レーテ出身のフリードリヒ・フレイ兄弟はダハウの「隔離グループ」で被った取扱いについてこう伝えています。「飢えや寒さや苦痛はとても筆舌に尽くせるものではありません。私は一度ある将校に長靴で腹部を蹴られ,ひどい病気になりました。別の時には,繰り返し叩かれたため,鼻柱の形がすっかり変わり,今でも呼吸のさいに困難を感じています。ある時など,ひもじさを和らげたくて作業時間中に乾燥したパンくずを二かけらばかり食べているところを一人の親衛隊員に見つけられ,長靴で腹部を蹴られたうえ,地面になぐり倒されました。さらに罰として,両腕を鎖で後ろ手に縛られ,高さ3メートルほどの棒につるされました。私はそのような異常な姿勢と体重の重圧のため血液の循環を阻まれ,極度の苦痛に襲われました。ある親衛隊員は私の両足をつかんで前後に振りながら叫びました。『お前はまだエホバの証人なのか』。しかし,私は答えることができませんでした。なぜなら,断末魔の苦痛のもたらす汗が額に吹き出ていたからです。以来そのために今に至るまで私は神経のけいれん収縮症に見舞われています。私はその時,私たちの主また主人が両手と両足を釘づけにされて過ごした最後の数時間のことを考えざるを得ませんでした」。

ダハウでは“クリスマス”の少し前,大きなクリスマス・ツリーが立てられ,電気で灯をともすろうそくその他の飾り付けが施されました。百人余のエホバの証人を含め,収容所の4万5,000人の囚人は平穏な2,3日を過ごせるものと期待していました。しかし,何が起きたのでしょう。囚人たちが全員営舎にいたクリスマス・イブの午後8時,突然収容所のサイレンが鳴り響きはじめました。囚人たちはできるだけ早く行進して中庭に出ることになりました。親衛隊の楽隊の演奏が聞こえてきました。完全武装をした親衛隊員5中隊が行進して入って来ました。親衛隊の将校たちを従えた同収容所の司令官は短い話を行ない,彼ら独特の方法でその晩にクリスマスを一緒に祝いたいと囚人たちに告げました。次いで,氏名の一覧表を鞄から取り出し,過去数週間中に処罰を要請された囚人たちの氏名をおよそ1時間もの間読み上げました。そのうちに角材が持ち出されて組み立てられ,最初の囚人がその上に革ひもで縛りつけられました。その後,鋼鉄製のむちを持った二人の親衛隊員がそれぞれ台の左右の所定の位置に立ち,楽隊が「清しこの夜」を演奏する中で,囚人を打ち始めました。囚人たちは全員,その演奏に合わせて歌うよう求められていました。同時に,25回打たれる囚人は,打たれるたびに大声で数を数えるよう強制されました。そして,新たに囚人が台に縛りつけられるたびに,新たに二人の親衛隊員が進み出てその罰を施しました。確かにそれは“キリスト教国”がクリスマスを祝うにふさわしい方法でした。

そうした取扱いに直面した兄弟たちは強固な信仰,神のみことばの注意深い研究によって強められた信仰を必要としていました。ヘルムト・クネラーは,そうした研究を怠るのはどんなに危険なことか,またそのような試みのさいどんなに不用意な状態に陥る恐れがあるかを経験しました。彼にその経験を話してもらいましょう。

「ダハウでの私の最初の日々は非常に困難な時期でした。20歳だった私は新参者の中で最年少でした。私は日曜日にさえ働かねばならない特別作業班に割り当てられました。監督者は特に私をひどくあしらいました。非常に困難な慣れない仕事を大急ぎで行なわねばなりませんでした。何度も倒れた私は,そのたびに腰までの深さの水のある地下室に入れられ,次いで水を頭から浴びせられては意識を取り戻しました。

「私は体力的にほとんど完全に弱り果てるまで酷使されました。そのような事態が毎日毎日続いたので,そうした生活が何週間も,いや何か月も続く恐れがあることを知って絶望寸前の状態に陥りました。……しかし,困難があまりにも大きくなったため,私はとうとう収容所の指導者たちのもとに行き,私はもはや国際聖書研究者とは一切無関係であるという意味の宣言書に署名してしまいました。その宣言書に署名したのは,家庭で十分研究をしなかった必然的な結果でした。両親も研究をほとんどしませんでしたから,私たち子供はなまはんかな教えを二親から受けたにすぎませんでした。……私はそうした宣言書にはためらわずに署名してよいと聞かされていました。というのは,まず第一にそうした宣言書にはエホバの証人については何も述べられてはおらず,ただ聖書研究者について述べられているだけであり,第二にもし私たちが自由の身になって外部でエホバによりよく仕えられるような結果が得られるのであれば,敵を欺くのは悪いことではないという訳でした」。彼は後にザクセンハウゼンで円熟した兄弟たちに助けられて初めて,クリスチャンとしての誠実さの意味を認識し,信仰を確立しました。

マウトハウゼン

ダハウでも多くの人々がガス室で殺されたり,虐待を受けて殺されたりしましたが,やはりマウトハウゼンは本格的なせん滅収容所でした。同収容所の司令官ツィーライスは,死亡証明書を見る以外のことには何ら関心がないと何度も話しました。事実,6年足らずの期間内に同収容所の最新式の二つの火葬炉で21万人の男子が焼却されました。それは1日平均100人の割合でした。

とにかく働かされるとすれば,囚人はたいてい採石場で働かされました。採石場には冷酷な親衛隊員により「パラシュート兵の壁」と呼ばれる絶壁がありました。何百人もの囚人がその絶壁から突き落とされ,動かぬむくろとなって崖の下に横たわりました。落ちて死んだり,雨水を満々とたたえた排水溝に落ちて溺れ死んだりしたのです。失意に陥り,あえて自らその地の底に身を投じた囚人も少なくありませんでした。

もう一つの呼び物は,いわゆる「死の階段」でした。それは高さのさまざまに異なる186個の石材が階段状にゆるく積み重ねられた所で,階段と呼ばれていました。囚人たちが重い石を肩に載せてやっとの思いでその階段の上まで運んだ後,親衛隊員たちはそれら囚人たちを蹴ったり,ライフル銃の台じりで打ったりしてのけぞらせて「階段」から落とさせ,大勢の囚人が群れをなして滑り落ちて行くのを見物して楽しみました。そのために多くの人々が死に,また上から落ちてくる岩石に当たって死者はさらに増えました。フランクフルト出身のヴァレンティン・スタインバハは,朝120人の男子囚人が一緒になっても,晩になってなお生き長らえて戻ったのは多くの場合わずか20人そこそこだったことを覚えています。

女子のための強制収容所

強制収容所は男子のためだけでなく,女子のためにも設けられていました。ハノーフェルの近くのモーリンゲンに設けられたそうした収容所の一つは早くも1935年に運営されました。エホバの証人に対する弾圧がいっそう厳しくなった1937年にはモーリンゲンの収容所から囚人が立ち退かされ始め,12月には多数の姉妹たちを含め,およそ600人の囚人がリヒテンブルクの収容所に移されました。それら姉妹たちを説得して確固不動の立場を変えさせようとする努力が失敗したため,「処罰班」が組織されました。監督者たちは食べ物を姉妹たちにほとんど与えないで,処罰を加える理由を見つけようとしました。収容所の司令官は姉妹たちに向かって,「生き長らえたいと思うなら,おれのところに来て署名しろ」と言いました。

姉妹たちの誠実さを破らせようとして講じられた一つの方法についてイルゼ・ウンテルデルフェルはこう伝えています。「ある日,ケムニツ出身のエリザベス・ランゲ姉妹は主事のもとに呼び出されました。姉妹は宣言書に署名することを断固として拒んだところ,そのためにそこの古城の地下室の独房に連れて行かれました。そうした古城や地下牢について知っている人ならだれでも想像できることですが,それは非常につらいことでした。それら独房は横桟のある小さな窓が一つある暗い穴でした。ベッドは石造りで,たいてい囚人はわらの俵さえも与えられずにその冷たい固い『ベッド』の上に横たわらねばなりませんでした。ランゲ姉妹は地下室のその穴の独房で半年を過ごし,身体的には苦しめられましたが,忠実を守る決意はゆらぎませんでした。

姉妹たちの確固不動の態度をくじかせようとして講じられた別の方法は,苦しい肉体労働でした。そのために多数の姉妹たちはラベンスブルックに連れて行かれました。最初のグループが到着したのは1939年5月15日でしたが,そのすぐ後に他の姉妹たちも到着しました。同収容所の女子囚人はたちまち950人に増えました。そのうちおよそ400人ほどがエホバの証人でした。それら囚人はすべて,普通なら男子にしか要求されないような非常に困難な建設や清掃作業などの仕事をするよう呼び出されました。残忍さの点では特に知られていた,同収容所の新任の司令官は,苦しい肉体労働を行なわせるなら,姉妹たちを弱らせることができるだろうと考えました。

そうした取扱いを受けた結果,当然のこととして多くの人々が死にました。それに,女子囚人たちの幾つものグループが,マウトハウゼンの場合のように特に大量殺人の設備の整ったアウシュヴィッツに送られました。老齢だったり,不健康だったりした女性や,「優秀な民族」を生み出せる女子に関する親衛隊員の定めた規準にかなわなかった女性は死に面しました。同収容所で起きた事柄についてベルタ・マウエラーはこう述べています。

「私たちは,選別を行なう委員たちの前に裸のまま立たされました。それからすぐ後に最初のグループはアウシュヴィッツに送られました。その中には多数の姉妹たちもいましたが,それら囚人たちはもっと楽な収容所に連れて行かれるのだと思い込まされていました。とはいえ,だれでもアウシュヴィッツはもっとずっと耐えがたい所だということを知っていました。二番目のグループに入れられた人たちにも同様のことが告げられました。その中には,からだの弱い,病気がちの姉妹たちが多数いました。その後まもなく,それら姉妹たちの親族はその姉妹たちの死亡通知を受け取りました。そして,たいていの場合,循環系統の疾患が死因として掲げられていました。

姉妹たちにとって試練をもたらす恐れがあった別の事柄についてバート クロイツナハ出身のアウグステ・シュナイダーはこう伝えています。

「ある日,一囚人が私のところに来てこう言いました。『シュナイダーさん,私はここを出ることになったのよ!』どこに行くのかと尋ねたところ,彼女は答えて言いました。『ここには男が非常に多いので,囚人たちのための売春宿が作られるんですって。私たちは招かれたので,およそ2,30人ほどの女子が自発的に応じたわ。私たちはきれいな服をもらって着飾れるのよ!』 それがどこで行なわれるのかを尋ねると,彼女は答えました。『男子の収容所の中よ』。

「そこで行なわれた事柄は言葉ではとても言い表わせるものではありません。しかし,ある日,親衛隊の一指揮官が私に次のように語りました。『シュナイダー,男子の収容所で起きていることを聞かせてやろう。エホバの証人はひとりも関係していないということをお前にどうしても知らせておきたいからだ!』」。

ラベンスブルックは女子のための強制収容所の中でも一番悪名高い所として広く知られるようになりました。第二次大戦が勃発したとき,同収容所の姉妹たちの人数はおよそ500人に増えました。

ある日,数人の姉妹たちが突然,独房から出て建物全体をきれいにする仕事を命じられました。というのは,ヒムラーが視察に来るということをほのめかしていたからです。ところが,その日が過ぎても彼は姿を現わしませんでした。さて,姉妹たちは既に寝る用意をしていました。つまり,靴を脱ぎ,それを枕がわりに用い,寒いので服を着たままで寝るのでした。また,からだを暖めるため互いにできるだけぴったりと寄り合って横たわり,また時々位置を変えて,各人が一度は外側の,つまり当然もっと寒い場所に横たわるようにしていました。と,突然,廊下で大きな物音が起こり,方々の独房の扉が開かれ始めました。今や姉妹たちは,ドイツで人々の生死を決める男の前に立たされたのです。あら捜しをするような仕方で姉妹たちを調べたヒムラーは幾つかの質問をしましたが,姉妹たちには譲歩する意志が全然ないことにいや応なく気づかされました。

その同じ晩,ヒムラーと随行員たちが去った後,相当数の囚人たちが呼び出され,そして悲鳴を上げるのを他の囚人たちは聞かされることになりました。ヒムラーは女子に対しても「強化された」処罰方法を導入していたのです。それで,女子の囚人たちは裸にされ,鋼鉄製のむちででん部を25回打たれました。

ある姉妹は,多くの人びとが問題に勇敢に直面したことについてこう語りました。「私のいたブロックには,真理を受け入れていたユダヤ人のひとりの女性がいましたが,ある夜,彼女も呼び起こされました。彼女が起き上がったので,その物音を聞いた私は,彼女に慰めの言葉をかけようとしたところ,彼女はこう言いました。『何が私を待ち受けているかを私は知っているわ。でも,私はすばらしい復活の希望を知ったので幸せなの。私は静かに死を待っているのよ』。そして彼女は,雄々しく歩いて出て行きました」。

苦しみを増し加えさせた分裂

外部の兄弟たちとの連絡を断たれた,収容所内の兄弟たちは,霊的な食物に対する激しい渇望を感じました。兄弟たちは「ものみの塔」誌上に発表された事柄を知ろうとして,新たに収容所に着いた人たちにいろいろ尋ねました。その情報は時には正確に伝えられましたが,時にはそうではありませんでした。また,中には聖書を用いて,自分たちが救い出される日時を定めようとした兄弟たちもいました。その論議は説得力のないものでしたが,もしかしたらという気持ちから「わら」をもつかむ思いでそうした考えに飛びついた人々もいました。

このような時期に,特別優れた記憶力を持つある兄弟がブッヒェンワルトの収容所に入れられました。最初,学んだ事柄を思い起こして他の人たちと分かち合う優れた能力を持つ彼は,兄弟たちに励みを与える源でした。ところが,やがて彼は「ブッヒェンワルトの不思議」と呼ばれる人気者になり,その述べる言葉,彼個人の意見さえもが決定的なものとみなされるようになりました。1937年の12月から1940年までの間に彼は毎晩話を行ない,合計約一千回も話し,謄写版で印刷できるよう,その話の多くは速記で記録されました。収容所には講演を行なえる年長の兄弟たちが多数いましたが,話をしたのはその兄弟だけでした。そして,彼の考えに全面的に同意しない人はみな,「忠実な者たち」の避けるべき「王国の敵」また「アカンの族」と呼ばれました。およそ400人ほどの兄弟たちがだいたい快くそうした申合わせに従ってしまいました。

しかし,こうして「敵」のレッテルを付された兄弟たちもやはり,力のかぎり王国の関心事を促進させるために喜んで生命の危険を冒して努力してきた兄弟たちだったのです。彼らもまた,自分たちの誠実さを死に至るまでも実証する決意のゆえに収容所に入れられていました。確かに中には聖書の原則を十分適用してはいない人々もいました。ところが,それらの人々が責任ある人たちとの接触を確立し,ブッヒェンワルトで入手できるようになった霊的な食物の益に自分たちもあずかろうとしたとき,責任ある人たちはそうした事柄について話し合うことを「自分たちの体面にかかわること」とみなしたのです。

今もなおエホバに仕えている,ディンスラーケン出身のウィルヘルム・バーテンは,彼自身どのような影響を受けたかをこう述べています。「自分もやはり排斥されたことを知ったとき,霊的にあまりにも動揺させられ,気落ちしてしまい,どうしてこのようなことがあり得るのだろうかと自問し……私はしばしばひざまずいて,しるしを与えてくださいと,エホバに祈りました。私はもしこの事態に対して自分に責むべきところがあるとしたら,私はエホバから排斥されたのだろうかと自問しました。私は聖書を1冊持っていたので,薄暗い光の中でそれを読んでは,この事態は試練として私に臨んでいること,さもなければ私は既に殺されてしまっていたはずだと考えて,本当に大きな慰めを見いだしました。兄弟たちから切り離されるということは,実に大きな苦しみでした」。

このようなわけで,人間的不完全さや自分を重要視する大げさな見方は神の民の間に分裂を引き起こし,ある人たちに厳しい試練をもたらす結果を招きました。

「生き残りたい」と考えるあまりしくじる

収容所に入れられた人たちの中には,妥協すまいと決意してはいたものの,後になって,生き残りたいと考えるあまり,エホバと仲間の兄弟たちに対する愛を薄れさせた人々もいます。もし収容所の機構内である責任の地位につくことができ,何らかの活動分野を監督する務めを委ねられると,その人はもはや重労働をして体力をすり減らさなくても済むようになります。しかし,それは危険なことでした。それには多くの場合,親衛隊と密接な関係を持って働き,囚人たちをかり立てて急いで働かせ,また囚人たち ― 自分の仲間の兄弟たち ― のことをさえ報告して処罰を受けさせねばなりませんでした。

マルテンスという名の兄弟は,ヴェヴェルスブルクの収容所にいた時,そうした地位につきました。彼は最初250人の聖書研究者を監督しました。彼は絶えず親衛隊員の目に非常に立派な「収容所の長老」と映るよう努力しました。やがて,政治犯その他の多数の囚人がその収容所に加えられました。マルテンスは自分の地位を失いたくなかったので,親衛隊の関心事を擁護し,彼らの方法を取り入れざるを得ませんでした。

ほどなくして彼は兄弟たちが日々の聖句を考慮したり,あるいは一緒に祈ったりするのを禁ずるようになり,まもなく上衣の上からさわって兄弟たちを調べ,日々の聖句の写しを見つけると,それを持っている兄弟たちをゴムホースで打ちました。ある朝のこと,数人の兄弟たちが一緒に祈っていたところ,彼がその中に飛び込んで来て,その集いを中断させてこう言いました。「あなたがたは収容所の規則を知らないのですか。単にあなたがたのために私が厄介な問題をかかえたいとでも思っているのですか」。こうして,自分の目標を見失ったごく少数の者たちは多数の忠実な兄弟たちに多くの余分の苦しみをもたらしました。

空腹の問題

第二次大戦が始まった後,入手できる食物は戦地に送られたので,収容所での食事はおもに,普通なら家畜の飼料としてしか用いられないかぶらでした。食べる物もすべてあまりにも愛のない仕方で用意されたため,こんな食べ物は豚でさえ食わないだろうと,しばしば囚人たちの話すのが聞かれました。しかし問題はうまそうな食べ物を入手することではなく,生き残れるかどうかということだけが問題だったのです。多くの人々が餓死しました。クルト・ヘデル兄弟はその当時のことをこう述べています。「私の最大の試練は空腹でした。私は身長188センチで,普通体重は104キロほどあります。しかし,1939年から1940年にかけての冬のころ,私の体重はわずか40キロ,いえそれ以下にさえ減り,私はまるで骨と皮だけになりました。からだが大きいからといって自分より小柄な人よりも多く食べ物を与えられた訳ではありません。祈りのうちに自分の問題をエホバに述べて,苦しみに耐える助けをエホバに願い求めるよう,円熟したある兄弟から忠告されるまでは,私はしばしば両のこぶしで腹部を突いては自ら痛みを求めていました。その後まもなく,私はそうした状況のもとで祈りがどんなに助けになるかを知りました」。別の兄弟は激しい空腹感と戦うため,しばしば砂を口に入れたのを覚えています。

そうした状況のもとでは兄弟としての交わりはどんなにか慰めをもたらすものだったでしょう。そうです,自らも死ぬべき運命にある兄弟たちが,配給の乏しいパンの一部を,自分たちよりももっとひどい目に会わされた人たちに分け与えるのを見るのは本当に胸を打つものでした。それはしばしばごくわずかのパンのかけらでしたが,兄弟たちはそれを,何らかの理由で食べ物を何も与えられずに,また衣服らしいものもほとんどまとわぬまま厳寒の中庭に強制的に立たされた人たちの枕の下にそっと隠して置きました。敵の手でほとんど打ちのめされた人たちにとって,円熟した兄弟の口から出る励ましの言葉は何と気持ちを和らげるものだったのでしょう。それは傷口に滴り落ちる油のようでしたし,自分たちの状況にもはや耐えられないと感じた時にも新たな力を与えるものでした。それに,一緒に捧げた祈りは何と強力なものだったのでしょう。しばしば晩になって,バラックの錠が下ろされ,宿舎内が静まり返ると,兄弟たちは一緒になってエホバに祈りをささげ,問題をエホバに申し上げました。それはしばしば兄弟たち全員に関係のある問題でしたが,やはりそれは多くの場合個々の兄弟たちの直面した問題でした。そして,エホバが ― 実に多くの場合そうしてくださいましたが ― 事態のより良い変化を直ちにもたらしてくださった時はいつもその翌日,そうした事態は皆で一緒に感謝の祈りをささげる理由となりました。自分独りの力では克服できなかったような問題に直面したとき,兄弟たちは再び,「自分たちは決して独りぼっちではない」ということを知りました。

妥協した人々はどうなったか

親衛隊員たちはしばしばきわめて卑劣な策略を用いて宣言書に署名させようとしましたが,ひとたびだれかが署名すると,興味深いことに親衛隊員たちはそうした人々に嫌悪を抱き,それ以後は以前にもましてそのような人々をひどく苦しめました。カール・キルシトはそのことを次のように確証しています。「強制収容所ではエホバの証人は他のだれよりもごまかしの手だての犠牲とされました。そうした方法を取れば,宣言書に署名するよう証人たちを説き伏せることができると考えられました。私たちは署名するよう再三要求されました。確かにある人々は署名しましたが,それでもたいていの場合,釈放されるまでには1年余待たねばなりませんでした。その間,親衛隊員により偽善者また臆病者としてしばしば公にののしられ,また収容所を去る前には,いわゆる“名誉の散歩”と称して仲間の兄弟たちの前でその周囲を歩き回らされました」。

ある兄弟はその妻と娘が訪ねて来たとき,宣言書に署名しましたが,署名したことを兄弟たちには話しませんでした。ウィルヘルム・レーゲルはその兄弟のことを思い起こしてこう述べています。「数週間後,彼は出所する用意をするよう知らされました。(そのような人たちはたいてい自分の名前が呼ばれるまで門のそばに立たねばならなかった。)この兄弟は一日中門のそばに立ち,その晩になってもなお立ち続けていたので,バラック内の兄弟たちのもとに戻らねばならなくなりました。人々からひどく恐れられたクニットラーという名の隊長による晩の点呼が行なわれた後,その兄弟はバラックから踏台を持って来るよう命じられ,それから中庭で行進して入って来る兄弟たちの面前でその踏台の上に立たされました。さて,クニットラーはその兄弟に皆を注目させ,私たちすべてに厳しい顔つきを示してこう言いました。『この臆病者を見ろ。こいつはお前たちのだれにも何も言わずに署名したのだ!』 実際のところ,親衛隊は私たち全員に署名させたがっていました。しかし,ひとたびだれかが署名すると,彼らが私たちに対してひそかに抱いていた尊敬の念は失われました」。

ディートリヒカイト姉妹は,宣言書に署名したふたりの姉妹のことを覚えています。戻って来たそれら二人の姉妹たちは,餓死するのを恐れたため署名したと,ディートリヒカイト姉妹に話しました。そして,親衛隊員から,「お前たちはお前たちの神エホバを否認した今,どんな神に仕えるんだ?」と問われたことを隠さずに述べました。そのふたりの姉妹はほどなく釈放されましたが,ソ連軍が進攻してきた時,何かの理由でふたりとも再び逮捕され,ソ連軍の手で投獄され,刑務所の中で実際に餓死してしまいました。別の例では,署名したある姉妹は戦争の最後の数日間にロシア人たちに強姦されたうえ殺害されました。

宣言書に署名した兄弟たちの相当数の者は徴兵に取られて戦地に連れて行かれ,たいてい命を失いました。

署名をしたそうした兄弟たちは,そうすることによってエホバの保護を受けられる立場から自ら離れ去ったのは確かに明らかなことですが,たいていの場合それらの人が「裏切者」だったとは言えません。理解のある円熟した兄弟たちに助けられて,自分たちのしたことが何だったかをひとたび知った多くの人々は,釈放される前に自分たちの署名を取り消してもらいました。自らの非を悔い改め,忠実を実証する別の機会を与えていただきたいとエホバに願い求めたそれらの人々の多くは,ヒトラー政権の崩壊後,自発的に伝道者の隊伍に加わり,会衆の伝道者として,またやがて開拓者,監督,旅行する監督にさえなって,エホバの王国の関心事を模範的な仕方で推し進め始めました。多くの人たちは,ペテロの経験から慰められました。ペテロもやはり彼の主であり,主人である方を否認しましたが,その好意に浴せる立場に戻されたのです。―マタイ 26:69-75。ヨハネ 21:15-19

反逆

中には用いられたこうかつな方法のために,あるいは人間的な弱さのゆえに一時霊的に平衡を失った人たちもいましたが,裏切者になって,仲間の兄弟たちに相当の苦しみをもたらした人もいました。

1937年か1938年に「ドレスデンからベルンのベテルにやって来て,伝えられるところによれば,『数多くの兄弟たちが逮捕された後のドイツで地下組織を再建する』目標を抱いてドイツ内の兄弟たちと連絡を取ろうとしたハンス・ミュラーという兄弟についてユリウス・リッフェルはこう伝えています。

「当然のこととして私は,他の数人の兄弟たちと同様,喜んで協力したいと述べました。残念なことに,当時私たちは,このミュラー“兄弟”がドイツのゲシュタポに組みして活動しているとは知るよしもありませんでした。私たちは疑いを抱くこともなくベルンで計画を立てて仕事を始めました。私はバーデン-ウュルテンベルク地区を引き受けることになりました。1938年の2月,私は国境を越えてドイツに入り,依然自由の身を保っていた兄弟たちと接触して活動を再組織しようとしました。2週間後,私は逮捕されました。……ゲシュタポは私たちの活動を細部にわたって一部始終知っていました。それは地下活動の再建を助けておきながら,あとでゲシュタポに密告したこの偽兄弟を通して知っていたのです。この“兄弟”は1年後にオランダでも,またチェコスロバキアでも同じ事をしました。……

「1939年,私は刑務所のトラックでコブレンツに連れて行かれ,そこで,以前シュツットガルトで地下活動で一緒に働いた3人の姉妹たちの裁判にさいし証言することになりました。そこで,ゲシュタポが私たちの活動の詳細,つまり組織の構造はもとより,見せかけの住所や別名のような事柄についてどのようにして知ったかをあるゲシュタポ官憲が裁判所のある役人に話しているのを私は直接聞きました。一度は外の廊下で待っていたときのこと,その同じゲシュタポの官憲は,もし私たちの隊伍にろくでなしがいなかったなら,私たちの活動の内幕をそれほど容易にはつかめなかっただろうと私に話しました。残念でしたが,私はそのようなろくでなしがいたことを否定し得ませんでした。私は時々その裏切者の『兄弟』について刑務所から兄弟たちに警告することができましたが,ハルベク兄弟は単に信じられないとの理由で私の警告を無視しました。何百人もの兄弟たちを投獄させた責任はこのミュラーにあると私は考えています」。

霊的な糧は流れ続ける

敵は神の民の隊伍に再三再四新たな切れ目を作り出し,なお自由の身でいる人々の多くを倒しはしたものの,霊的な食物を兄弟たちに供給する必要性を認める人たちがいつもほかにいました。それらの人々は自分の命の危険を冒してまでもそのわざに従事したのです。ミュラーがその卑劣な仕事をドレスデンで続けていたとき,兄弟たちの間で「ものみの塔」誌を配る組織的な方式を再び確立した兄弟の一人に,ルートウィヒ・キラネクという人がいました。彼はそのわざに従事したため遂に逮捕され,2年の懲役刑を宣告されました。次いで,キラネク兄弟は刑務所を出るや否や直ちにその仕事に戻りました。

いっそう厳しくなった戦時下の法律によると,もし逮捕されれば命を失う恐れがあることを知りながらも,多くの姉妹たちは,兄弟たちが次々に逮捕されて生じた空いた立場を喜んで満たしました。「ものみの塔」誌を配るために用いられた人たちの中には,たとえばホルツガーリンゲンのノイフェルト姉妹,シュツットガルトのフィステラー姉妹そしてマインツのフランケ姉妹がいました。キラネク兄弟は当たりさわりのない内容の手紙をそれらの姉妹たちに書き送りました。姉妹たちはその手紙にアイロンをかけると,「ものみの塔」誌をどこへ何冊持って行くかを指示した,レモン汁を用いて書き込まれた秘密の知らせを読み取ることができました。

キラネク兄弟は時々シュツットガルトに赴き,そこではマリア・ホンバハが彼の秘書として働きました。同兄弟はドイツにおけるわざに関する報告を彼女に書き取らせ,次いで彼はそれをオランダにいるアーサー・ウィンクラーに送りました。ウィンクラーはドイツとオーストリアのわざを世話していました。ホンバハ姉妹もまたそれらの手紙をレモン汁で書き,重要な情報がそれを知る権限のない者の手に陥らないようにしました。

この地下活動が少なくとも1年間機能を果たせたのは,ひとえにエホバの導きによるものと言わねばなりません。エホバはしばしばご自分の民が不思議な方法で導かれ,然るべき時に霊的な食物が供給されるように取り計らわれました。やがてミュラーは,組織化されたこの団体をそっくりゲシュタポに売り渡す好機が到来したと考えました。数日のうちに関係者は全員逮捕されました。ドレスデンにおける裁判ではキラネク兄弟は死刑を宣告され,また他の人たちは長期間にわたる懲役刑を受けました。1941年7月3日,処刑されるほんの数時間前,彼は親族にあてて次のような手紙を書きました。

「愛する兄,義姉妹,両親および他の兄弟たちすべてへ:

「神を恐れ,神に誉れを帰してください! 私は,皆さんがこの手紙を受け取るとき自分はもはや生きてはいないという悲痛な知らせを書かねばなりませんが,どうかあまり悲しまないでください。全能の神が私を死人の中からよみがえらせるのは簡単なことです。そのことを忘れないでください。そうです,神は一切の事を行なえるのですから,もし私がこの苦杯を飲むことを神が許されるのでしたら,それは確かにある目的にかなうことなのです。おわかりのように私は弱いながらも神に仕えることに努めましたが,神が最後までともにいてくださったことを私は十分に確信し,自分のすべてを神に委ねています。この最後の数時間,私は愛するあなた方に思いを馳せてきました。あなた方の心がくじかれませんように。むしろ,落ち着きを保ってください。そのほうが,刑務所で私が苦しんでいるのを知って私のことを絶えず心配するよりもずっと勝っているからです。さて,私の愛する父上と母上,お二人が私のためにしてくださったすべての良い事に対して感謝を述べさせてくださいませんか。しかし私は,お二人に対して,ありがとうございました,という拙い言葉をただ一言口ごもりながら述べることしかできません。お二人がなさった事に対してエホバが報いてくださり,エホバがお二人を守り,祝福してくださいますよう私は祈っています。エホバの祝福だけが人を富ませるからです。愛するトニー,あなたは私を“ライオンの穴”から救い出そうとして,ありとあらゆることをしてくださったと私は本当に信じていますが,それもむなしくなりました。恩赦の請願は却下され,明朝私の刑が執行されるとの知らせを私は今夜受け取りました。私は一切嘆願しませんでしたし,また人間の手などに慈悲を求めはしませんでしたが,私を助けようとするあなたの善意には感謝しています。また,ルイーゼやあなたから受けたすべての良いものにも心底から感謝します。同情のこもったお便りは有益なものでした。皆さんすべてにあいさつと私のくちづけとを送ります。私は特にカールのことを心にとめています。私たちが再び会える時まで神があなたがたとともにいてくださいますように。別れに際して私は両の腕をあなたがたの身に回します。[署名] ルートウィヒ・キラネク」。

ブルックザールでフレイ姉妹と一緒に「ものみの塔」誌の謄写版印刷を行なったユリウス・エンゲルハルトは,ドイツの南部でキラネク兄弟と密接な関係を持って働いていました。キラネク兄弟が万一逮捕されたなら,彼がその仕事を続行することになっていました。しかし残念にも,ミュラーは彼のこともゲシュタポに密告したため,ゲシュタポはその郷里カールスルーエにある彼の隠れ家を見つけました。しかし,エンゲルハルト兄弟は,『私たちの首以上のものは何も失う訳ではありません』と言っては常に姉妹たちを励ましていました。彼は考え得るかぎりの最高の代償をもって自分の自由を売る決意をしていたのです。彼はゲシュタポの官憲の手で既に拘禁されていましたが,突然逃げて階段をかけ降り,取り押えようとする警官をしりめに素早く路上の群衆の中にまぎれ込んで姿を消してしまいました。「1933年から1945年にわたるエッセンにおける反対と迫害」と題する本の中で一般の歴史家がゲシュタポのファイルから資料を得てエンゲルハルトの活動について次のように述べているのは興味深いことです。

「キラネクおよびノエルンハイムその他の人々が逮捕されたからといって,不法な出版物の配布は決して中止されなかった。というのは,最初南西部で活動していたエンゲルハルトが,以前の根拠地であったカールスルーエで逮捕の危険にさらされた1940年にルール地方に逃亡を余儀なくされていたからである。エッセンに短期間留まった後,彼はオベルハウゼン-ステルクラーデで違法の住まいを見つけ,そこで1941年の初頭から1943年4月までに『ものみの塔』誌の27の別々の号をそれぞれ240部,後には360部作成した。そして,ルール地方から,ザクセン州のフライベルクはもとよりミュンヘン,マンハイム,シュパイヤー,ドレスデンにそれぞれ根拠地を設け,全国の活動の会計係を勤めた。……1944年9月18日,集会を開き,エンゲルハルトの活動に関連して『ものみの塔』誌を定期的に配っていたエッセンのグループの成員に対してハムの上級裁判所は厳しい懲役刑を言い渡した。……多くの人々は死刑に処された」。

クリスティネ・ヘトカンプも,エンゲルハルト兄弟の活動について次のような励みになる報告を寄せています。「私の夫はバプテスマを受けてはいましたが,悪意に満ちた反対者になりました。……私は母の家,私の家そして兄の家で交互に行なわれていた集会をどれも欠かしませんでした。夫は月曜日に家を出て土曜日までその姉の家に滞在していたので,私は自分の家で集会を持てました。その姉は町から少し離れた所に住んでいました。彼女の家族は熱烈なナチの支持者だったので私の夫はその家に避難所を見いだしたのです。というのは,夫はもはや私たちの精神には我慢できなかったからですが,それももっともなことでした。それで,夫の留守の間,私の家でほとんど3年間『ものみの塔』の印刷が行なわれました。3年間,私たちと一緒に住んだある兄弟(エンゲルハルト兄弟)がまず最初タイプライターで原紙を切り,次いでその原紙を用いて『ものみの塔』の謄写版印刷を行ないました。その後,彼は私の母と一緒にベルリンやマインツ,マンハイムその他に旅行しては,信頼の置ける人たちに雑誌を届け,次いでそれらの人たちはその雑誌をさらに別の人々に配りました。エンゲルハルト兄弟と私の母はこの取決めの全体の責任を持ち,一方私は料理や洗濯を引き受けました。私の母が投獄されてからは,『ものみの塔』誌をマインツやマンハイムに届ける仕事を私が引き継ぎました。……1943年4月,私の母は再び逮捕され,このたびは二度と再び出所できませんでした。その後ほどなくして,それまでずいぶん長い間地下活動の責任を担い,そのわざを指導してきたエンゲルハルト兄弟もやはり逮捕されました」。

その後,ヘトカンプ姉妹の娘,彼女の義兄,姉,義姉そしておばも逮捕されました。1944年6月2日,これらの人たちは全員裁判にかけられました。エンゲルハルト兄弟と,ヘトカンプ姉妹の母親を含め,他の7人の被告は死刑の宣告を受け,その後まもなく全員打ち首に処されました。

その時期以後,ドイツの事情はいよいよ混乱の度を増すばかりで,「ものみの塔」誌の謄写版印刷がどこで行なわれていたかを確認することはもはや不可能になりましたが,その後も同誌の謄写版刷りは作成されていました。

死に至るまで忠実を保つ

第三帝国の支配期間中に執行されたおびただしい件数の処刑は,迫害の歴史の中でも特異な位置を占めています。不完全な報告からまとめたものですが,少なくとも203人の兄弟姉妹が打ち首か銃殺に処されました。この人数には,飢餓や病気その他虐待のために亡くなった人たちは含まれてはいません。

死刑の宣告を受けたある兄弟についてベール兄弟はこう伝えています。「囚人たちは皆,それに刑務所の役人たちも彼のことで驚かされました。彼は錠前製造人だったので,刑務所じゅうの錠前の修理の仕事をしました。彼は失意や悲しみの様子を全然示さず毎日仕事に取りかかりました。それどころか,忙しく働きながら,エホバへの賛美の歌を歌っていました」。ある日のお昼ごろ,彼は仕事場から連れて行かれ,その晩殺されました。

ベール兄弟はその報告をさらにこう続けています。「ある時,私の妻はポツダムの刑務所で一姉妹を見かけました。妻はその姉妹を知らなかったので,刑務所の中庭で彼女のそばを歩いて過ぎようとしたとき,姉妹は私の妻を見て,手錠をかけられた両腕を挙げて喜びにあふれた表情であいさつの合図をしました。死刑の宣告を受けていながら,彼女のまなざしには苦痛や悲しみの様子はみじんもありませんでした」。死刑の宣告を受けた,私たちの兄弟や姉妹たちが独房の中で耐え忍ばねばならなかった事柄を想い起こすと,それら兄弟姉妹たちが外に表わした穏やかさと安らかさは,なおいっそう価値あるものとなってきます。

私たちの兄弟や姉妹たちは確固とした態度で忍従し,事実,時には困難な事態に直面させられても喜びをさえ表わしましたが,一方エホバの証人ではない他の人々はしばしばくずおれたり,あるいは死を恐れるあまり大声で泣き叫んで遂には強制的に静かにさせられたりしました。

しかし,ウルム出身のヨナタン・スタークはそうした恐れに負けませんでした。事実,ゲシュタポに逮捕され,法律上の手続きを講じられることもなくザクセンハウゼンに送られ,その収容所の死のバラックに入れられたとき,彼はわずか17歳の若者でした。どんな罪に問われたのですか。予備兵役の勤めを拒んだのです。ベルリン出身のエミル・ハルトマンはヨナタンがそのバラックに監禁されたことを聞きました。見つかると厳しい処罰を受ける恐れがありましたが,ハルトマン兄弟はそのバラックにしのび込み,この若い兄弟と話をしては彼を強めることができました。少しの時間行なわれたそうした訪問はその二人にとって非常に励みを与えるものでした。ヨナタンはいつも非常に幸福でした。死に直面していながらも,彼はすばらしい復活の希望をもって母親を慰めました。到着してわずか2週間後,収容所の指令官により処刑場に連れて行かれた時,ヨナタンは,「エホバのため,ギデオンのためです」という最後の言葉を残しました。(ギデオンはエホバの忠実なしもべで,イエス・キリストを予示していた。)― 士師 7:18

ウィルヘルムスハーフェン出身のエリーゼ・ハルムスは,刑を宣告された夫が考えを改めるよう7回勧められ,夫がその勧めを拒んだところ,何とかして夫の気持ちを変えさせるよう努力するという条件でなら夫を訪ねてもよいとの許しを与えられた時のことを覚えています。しかし,彼女はとてもそうすることはできませんでした。夫が打ち首にされたとき,彼女は夫がエホバに対して忠実を保ち,また忠実を破らせようとする圧力をもはや受けずに済むようになったことを喜びました。その間に彼の父,マルチン・ハルムスは三度目の逮捕に遭い,ザクセンハウゼンに入れられていました。1940年11月9日に処刑される少し前,父親に宛ててしたためたその息子の次のような手紙は深く胸を打つものがあります。

「愛するお父さん,

「12月3日までにはなお3週間ほど残っています。私たちが互いに会ったのは2年前のその日が最後でしたね。お父さんは刑務所の地下室で働いておられ,私は刑務所の中庭を歩いていましたが,あの時のお父さんの笑顔を私は今でも目に浮かべることができます。その日の午前中の初めごろ私たちは,私の愛するリーシェン(彼の妻)と私が当日の午後釈放されようとは考えてもいませんでしたし,愛するお父さん,あなたがその同じ日に痛ましいことにベヒタに送られ,後日ザクセンハウゼンに送られようとは知るよしもありませんでした。オルデンブルクの刑務所の面会室に私たちだけがいて,私が腕をあなたの体に回しながら,お母さんとあなたを私の力の及ぶかぎりお世話しますと言って約束したあの最後の一時のことは今もなおありありと記憶に残っています。私は最後に,『愛するお父さん,忠実を保ってください!』と言いましたね。『自由な奴隷の身分』で過ごした最後の1年9か月の間,私はその約束を守りました。そして,9月3日に拘禁された時,私はその責任をあなたの他の子供たちに委ねました。私はこれまであなたのことを誇りに思い,またあなたが主に対して忠実を保ちながらご自分の重荷を負ってこられたことに驚嘆してきましたが,今や私にも,死に至るまで,そうです,単に死に至るまでだけでなく,たとえ死んでもなお忠実を保つほどに主に対する自分の忠実さを実証できる機会を与えられました。私の死刑の宣告は既に下され,私は昼も夜も鎖につながれています。この(紙面の上の)跡は手錠のそれです。しかし,私はなお完全に征服した訳ではありません。忠実を保つのはエホバの証人にとって容易なことではありません。私には自分の地的な命を救う機会がなお残されています。しかし,そうするなら,真の命を失う結果に終わるにすぎません。そうです,エホバの証人には,たとえ絞首台が見えていても,自分の契約を破る機会が与えられているのです。ですから,私はなお戦いのさなかにいますので,『私は戦いをりっぱに戦い,信仰を守り通しました。義の冠が私のために用意されています。義の審判者であられる神が,それを私に授けてくださるのです』と言い得るようになるまで私はなおも勝利を収めねばなりません。この戦いは疑いなく困難なものですが,死に直面して今に至るまでしっかり立つのに必要な力を主は私に授けてくださっただけでなく,私の愛する人たちすべてと分かち合いたいと願っているこの喜びをも私に与えてくださったことを私は心から主に感謝しています。

「愛するお父さん,あなたもやはり依然として囚人ですから,この手紙が果たしてあなたに届くかどうか私にはわかりません。しかし,もしあなたがいつか自由の身になられるなら,今あなたがそうであられるとおり,忠実を保ってください。ご承知のように,だれでもすきに手をつけてから後ろを見る者は神の王国にふさわしくないからです。……

「愛するお父さん,再び家に戻られたなら,その時は特に,私の愛するリーシェンをどうかよろしく世話してください。愛する夫が帰っては来ないことを知る彼女には特につらい思いをさせることになるからです。お父さんがそうしてくださることを私は知っていますので,私は事前にあなたに感謝します。愛するお父さん,私は心の中であなたをお呼びします。私が忠実を保とうと努めているように,忠実を保ってください。そうすれば,私たちは再び互いに会えるのです。私は最期のその時まであなたのことを思い続けてゆきます。

「あなたの息子ヨハネスより

「さようなら!」

外部の人たちに対する激励の言葉

外部にいる兄弟たちによって励まされたのは,単に死を甘んじて待つ人たちだけではありませんでした。自由の身でいる外部の人たちはしばしばそれ以上に刑務所内の兄弟たちによって励まされました。ケンプテン出身のアウシュナー姉妹はそのことを確証しています。彼女は21歳の息子から1941年2月28日付の手紙を受け取りましたが,それは18歳半になる弟にあてた次のような短い手紙でした。「愛する弟へ。前の手紙の中で兄さんはある本にあなたの注意を引きましたが,私の言った事を心にとめて欲しいと願っています。それだけがあなたに益をもたらし得るものだからです」。それから2年半の後,アウシュナー姉妹はその一番年下の息子から別れの手紙を受け取りました。彼はその兄から書き送られてきた事柄を心にとめて,忠実に兄に従って死を遂げたのです。

東プロイセン,シュトゥーム出身のエルンストとハンス・レーワルトのふたりの兄弟も同様の仕方で互いに助け合いました。軍法会議にかけられて死刑の宣告を受けたエルンストは,その死の独房からシュトゥームの刑務所にいる弟のハンスに次のような手紙を書き送りました。「愛するハンス,万一同様のことがあなたの身の上に起きたなら,その時は祈りの力を思い起こしなさい。私は少しも恐れを感じてはいません。神の平安が私の心の内に宿っているからです」。その後ほどなくして彼の弟も同様の立場に立たされ,わずか19歳の若さで処刑されました。

配偶者に対する忠節の試練

親しい親族が,誠実さの面で動揺しないよう,自分の愛する人をどのように励ましたかを知るのは胸を打つ事柄でした。フランクフルト・アン・ドル・オーデル出身のヘーネ姉妹はそのひとりで,彼女は徴兵令状を受けた夫を鉄道の駅まで送って行きましたが,夫とは二度と再び会えませんでした。「忠実であってくださいね」と語った彼女の最後の言葉を,ヘーネ兄弟は死に至るまで心に留めていました。

多くの場合,それらの兄弟たちは結婚して間もない人たちで,エホバとキリスト・イエスに対する愛もそれほど強いものではなかったので,愛する妻との便りのきずなが断ち切られるのは確かに耐え難いことだったに違いありません。これまで32年間未亡人として過ごしてきた二人の姉妹たちは,動乱に満ちた当時を回顧し,エホバから差し伸べられた助けに感謝しています。シュパイヤーの近くのノイロシェイム出身のビューラーとバルライヒ姉妹はともに,禁令下の初めごろ結婚し,その同じころ真理を学びました。そして1940年,姉妹たちの夫は両方とも徴兵命令を受けましたが,兵役を拒否したため逮捕されました。

バルライヒ姉妹はマンハイムの地方の徴兵役人の所に行き,それら二人の兄弟たちが軍法会議に出頭するためウィースバーデンに送られたことを知りました。バルライム姉妹は,夫の気持ちを変えさせるよう説得を試みるという条件で夫を訪ねる許可を得ました。ビューラー姉妹も同様の条件で夫を訪ねる許可を与えられました。二人の姉妹たちは直ちにウィースバーデンに行きました。ビューラー姉妹はその時のことをこう伝えています。

「その再会がどんなに悲しいものだったか,私はとても言葉では言い表わせません。夫はこう尋ねました。『どうして来たのだね?』 私は夫の気持ちを動かすよう試みることになっている旨答えました。しかし,夫は私を慰めて聖書の助言を述べ,希望のない他の人々のように悲しんではならず,私たちの偉大な神エホバに全幅の信頼を置くようにと話してくれました。……私たちは同行して刑務所に来た若い廷吏から,火曜日までウィースバーデンに留まるよう勧められました。それは審理が行なわれる予定の日だったのです。もしその町に留まっているなら,その裁判の傍聴人として出席する許しをもらえるのは確かなことでした。そこで私たちは火曜日まで留まりました。そして,実弾を装填した銃で武装した二人の兵士に付き添われた夫が本物の犯罪者のように道路を通って連れて行かれるまで私たちは外の路上で待ちました。確かにそれは人々とみ使いたちに対する見世物でした。バルライヒ姉妹と私は歩いてついて行きました。私たちは裁判に出席できましたが,裁判は1時間足らずで済み,何の罪もない勇敢なその二人の男子に死刑の宣告を下して幕を閉じたのです。その後,私たちは一階のある部屋で夫とともに2時間ほど過ごせましたが,そのあとで裁判所を出た私たちは,道に迷った二頭の羊のようにウィースバーデンの街頭をとぼとぼと歩きました」。

その後ほどなくして,それら二人の若い姉妹たちは,1940年6月25日にその夫たちが「エホバよ,永遠に!」という最後の言葉を残して銃殺されたとの知らせを受け取りました。

エホバを第一にした両親と子供たち

パーデルボルン出身のクゼローという二人の兄弟の事件は,法廷や地方検事や弁護人だけでなく一般の人々の注目の的となりました。その二人の兄弟は家庭でエホバの道を十分に教えられていたので,恐れることなく喜んで命を捨てることができました。しかも,その母親は息子たちの死に面して,さらにその機会を捉えて近隣の他の人々に復活の希望について語りました。3か月後,三番目の兄弟も逮捕され,強制収容所に入れられました。彼は釈放されてから4週間後に亡くなりました。この家族の成員は13人でしたが,そのうち12人が刑務所に入れられ,合計65年の懲役刑を言い渡され,そのうち46年の刑期を終えました。

ジューデルブラルプ出身のアペル家族も,両親だけでなく子供たちも自分自身のことより王国の関心事を優先させたクゼロー家族の場合と同様でした。この家族はその町で小さな印刷会社を経営していました。どんな事が起きたのか,アペル姉妹に話してもらいましょう。

「ドイツ中で一斉検挙が行なわれていた1937年の10月15日の夜遅く,夫と私は四人の子供から引き離されてしまいました。その夜,8人の官憲(ゲシュタポと警官)が私たちの家に踏み込み,地下室から屋根裏部屋までくまなく家宅捜索し,次いで私たちを連れ去りました。……私たちは刑を宣告された後,夫はノイミュンスターに連れて行かれ,私はキールの女子刑務所に入れられました。……1938年,一連の大赦が行なわれた後,私たちは釈放されました。……しかし,第二次大戦が勃発したとき,私たちは自分たちがどうなるかを知っていました。というのは,夫は中立の立場を守る決意でいたからです。私たちは子供たちに事情を全部話し,迫害に関する聖書の見解に子供たちの注意を向けさせました。

「私たちは,衣類の面で困らないよう子供たちにできるだけ十分の衣服を持たせました。夫は戦争に参加できない聖書上の理由を徴兵当局の役人に話した後,あとの個人的な事柄を整理しました。私たちは毎日の祈りの中で私たちの問題すべてをエホバに申し上げました。1941年3月9日,午前8時,二人の兵士が私の夫を連行するためにやって来て,玄関のベルを鳴らしました。彼らは,家族と別れの言葉を交すための15分間の猶予を夫に与えて外で待ちました。息子のウォルターは既に登校したあとでした。他の3人の子供たちと,私たちの印刷所で働いていたヘレネ・グリーン姉妹は直ちにアパートに来るようにと言われました。夫は最後に,『忠実な人,忠節な人は,その魂を恐れに引き渡さない』という歌を歌ってほしいと私たちに求めました。言葉がのどにつかえて出ませんでしたが私たちは歌いました。そして,祈りをささげ終わった時,兵士たちが入って来て夫を連れて行きました。子供たちが父親を見たのは遂にそれが最後でした。夫はリューベックに連れて行かれ,そこである高官が慈父のような口ぶりで長々と話をし,夫を説得して軍服をつけさせようと試みました。しかし,エホバの不変の律法が夫の心の中にしっかりと据えられていたので,引き返す余地はありませんでした。……

「1941年7月1日の早朝のこと,私は警察の当局者たちから一通の書状を示されました……それは私たちの車が共産主義者の資産として没収され,印刷会社は警察の手で閉鎖されることになった旨私に通告するものでした。次いで当局者は,『1941年7月3日の朝,衣類や靴を携えて子供たちを市役所に連れて来るように』と記されたもう一通の手紙を私に手渡しました。それは強烈な打撃でした。

「それで7月3日の朝,二つの少年院の監督官がやって来て私の子供たちを連れて行きました。私の15歳と10歳になる娘,クリスタとワァルトラウトを監督した婦人は私にこう言いました。『私は数週間前に,私がお宅のお子さんを連れて行くことになったのを知りました。でも,たいへんよく整った家庭からお子さんを連れ去ることを知った私は,それ以来夜はよく眠れなくなりました。しかし,私はそうしなければならないのです』。

「近所の人々の中にはこうした処置に対する反感を表わさずにはおれない人もいましたが,まもなく当局者たちは,『アペル家の事柄についてうんぬんする者は皆,国家的扇動を犯した者とみなす!』という警告を記した文書を回しました。そして,手違いが生じないようにするただそれだけのために警察の3人の当局者が派遣され,その監視のもとで子供たちが連れ去られて行きました。……当然ながら,夫はその会社と子供たちに関して講じられた処置について当局者側から知らされました。当局者はそうした処置のために夫の抵抗が弱まるのを期待していました。夫は家族を窮地に置き去りにしたという点で不誠実で無節操だとして非難されました。しかし夫は,その翌日の朝非常に早く起きてひざまずいて祈りをささげ,その祈りの中で家族の世話をエホバに委ねた旨をしたためた深い愛のこもった手紙を書き送ってくれました。……

「子供たちを取り上げられたその同じ日,私はベルリンのシャルロッテンブルク区の軍法会議から出頭するようにとの通知を受け取りました。そして,主任検察官の前に出された私は,夫を動かして軍服をつけさせるよう試みることを依頼されました。そうすることができない聖書上の理由を私が述べると,検察官はかんかんに怒って,『それじゃあ,彼の首は吹っ飛んじまうぞ!』とどなりました。それにもめげず,私は夫と話をする許可を求めました。検察官はそれには答えずにベルを押して一人の兵士を呼び,私はその兵士に連れられて一階に行きました。そこで私は数人の士官たちから冷たい目でにらみつけられ,非難のことばを受けました。私がそこを出たとき,士官たちの一人が私のあとについて来て,私の手を取ってこう言いました。『アペルさん,今あなたが保っているように常に堅く立ちつづけてください。あなたは正しい事を行なっているのです』。私は本当に驚きました。しかし,重要なのは,私が夫と話し合えたということです。

「私がベルリンにいる間に,ナチ当局は私たちの会社を既に売り渡してしまいました。そして私はその売却証書に強制的に署名させられました。なぜなら,もしそうしないと,私は強制収容所に入れられることになると言われたからです。

「私はベルリンにいる夫を数回訪ねましたが,その後夫は死刑の宣告を受けました。夫の『弁護』を行なった弁護人はこう述べました。『ご主人にはそのような宣告を免れる絶好の機会が与えられたのですが,彼はそれを利用することを拒みました』。その機会に面したとき,夫はこう答えました。『私はエホバとその王国を支持することに決定しましたから,これで問題は決まりました』。

「1941年10月11日,夫は打ち首にされました。処刑されるほんの数時間前に書くことを許された最後の手紙の中で夫はこう述べています。『私の愛するマリアと私の四人の子供たち,クリスタとワルターそしてワルトラウトとウォルフガング,あなたがたがこの手紙を受け取る時には既に万事が終わっており,私はイエス・キリストを通して勝利を収めているはずです。また,征服者になっていることと願っています。私はあなたがたがエホバの王国に入る祝福にあずかるよう心から望んでいます。忠実を保ってください! 明朝私が歩むのと同じ道を歩むことになっている3人の若い兄弟たちがこの私のそばにいますが,彼らの目は輝いています!』

「その後ほどなくして私はジューデルブラルプの家を強制的に立ちのかさせられ,家具は5箇所の別々の所に保管され,私自身は無一文になって母の所にたどり着きました。

「息子のワルターは少年院側の手で学校から出され,ハンブルクに連れて行かれ,その町で印刷見習い工の仕事につきました。1944年に息子はわずか17歳でしたが徴兵されました。しかしそれ以前に,たいへん驚くべき仕方で『神の竪琴』と題する書籍を入手し,当時空襲を受けていたハンブルクのとある家の狭い屋根裏部屋で夜その本を読んで多くの事柄を学んでいました。息子の願いはエホバに献身することでした。それでさまざまの困難を経た後,1943年の大晦日から1944年の元旦にかけてマレンテに行くことができ,その町のとある暗い洗濯場で一兄弟からひそかにバプテスマを受けました。……

「息子はひそかに私と連絡を取ることができ,息子がやって来るまで私はハンブルクの路上で数時間待ちました。というのは,私はどんな事情のもとでも子供たちと会うことは禁じられていたからです。

「私は,私たちの巡り合わせについて聞いたザクセンハウゼンの兄弟たちから一通の手紙を受け取ったことを息子に話して励ますことができました。エルンスト・ゼリガー兄弟は,夜になって収容所内が静まり返った後,いろいろの国から来た数百人の兄弟たちがひざまずいてエホバに祈り,その祈りの中で私たちのことを述べていたと書き送ってきたのです。その後,息子は東プロイセンの部隊に割り当てられ,強制的に連れて行かれました。息子は凍りつくような寒さの中で衣服を脱がされ,その足もとに軍服を置かれましたが,それを着るのを拒みました。暖かい食べ物を何か口にすることができたのはそれから二日後のことでした。しかし,息子は忠実を保ちました。

「私たちはハンブルクで互いに別れの言葉を交しました。息子は父の歩んだ道を歩むことになるだろうと私に話しました。それからおよそ7か月の後,息子の書類は不正に書き変えられて息子はもっと年上に見えるようにされたうえ,ただの一度も裁判を受けぬまま実際に打ち首にされました。法律によれば,息子はなお未成年者であり,未成年者としての司法上の取扱いを受けるべき立場にあったのです。

「ジューデルブラルプのある警察官が私を訪ね,東プロイセンの警察から送られた報告を私に読んで聞かせました。私自身は何一つ知らせを受けませんでした。私はわが子が父と同様の道を歩まねばならなくなるとは実際考えてはいませんでした。息子はとても若かったうえ,終戦が非常に近づいていたからです。それで大きな苦しみを味わわされましたが,それでも私はエホバに感謝の祈りをささげました。今こそ私は,『エホバよ,息子はあなたのために戦場で倒れたのですから,私はあなたに感謝いたします』と言うことができました。

「次いで1945年の大変動が起こりました。私は残された3人の子供たちを喜びにあふれて迎え,再びわが子を胸に抱くことができました。一番年少の二人の子供は少年院から出されて,最後の3年間は労働事務所の所長と一緒に生活し,そこで国家社会主義の考えに従って養育されることになりました。私は14か月にただ1回だけ子供を訪ね,子供たちと数時間,それも必ずだれかほかの人の居合わせる所で話すことが許されただけでした。それでも,二人の娘は一度,小型の新約聖書を注意深く隠して持っていると私にささやくことができました。娘たちは二人だけになると,一人がドアのそばに立って外の物音に耳を澄ませ,人がやって来る気配のないことを確かめ,他方の娘が数節を読むことにしていたのです。私はどんなに嬉しく思ったかしれません。

「さて,1945年,忠実な兄弟たちが投獄されていた所から戻り始めました。おもに東部からの大勢の兄弟姉妹を乗せた船がフレンスブルクに到着しました。そのころ,強烈な活動の行なわれる時期が始まりました。その町で私は,私の現在の夫,ヨーゼフ・シャルナー兄弟と知り合いました。彼もまた,9年間自由を奪われていました。確かに私たちは二人とも困難な時代を切り抜けて来ましたし,また二人とも自分たちの残りの歳月を費やして力のかぎりエホバに仕えたいとの同じ願いを抱いておりました」。

死の独房の中でさえ弟子を作る

死の独房の中でさえ弟子を作ることができるとは信じ難いことのように思えますが,マソールス兄弟はその妻に宛てて1943年9月3日付でしたためた手紙の中でそうした経験を伝えています。

「私はプラハで1928年,1930年そして1932年に開拓奉仕をしました。講演が何度か行なわれ,プラハの町は文書で覆われました。そのころ,私は政府から送られた政治問題の講演者でアントン・リンクラーという人に会いました。私は長い時間彼と話し合いました。彼は聖書と数冊の書籍を求めましたが,家族を顧み,生計を立てなければならないので,そういう問題を研究する時間はないと述べました。しかし,彼の親族はみな,教会には行かないが宗教に深い関心を抱いていると彼は言いました。

「それは確か1940年か41年だったと思いますが,当時しばしば行なわれていたように,新しい同室者が私の独房に入れられました。だれでも最初はそうですが,彼も非常に気落ちしていました。独房の扉が後ろでぴしゃりと閉められて初めて囚人は突然,自分がどこにいるのかを悟るのです。その新しい同室者は私にこう言いました。『私はプラハ出身で,名前はアントン・リンクラーといいます』。私はすぐ彼のことを思い出したので,『アントン,そうです,アントン,私を覚えていませんか』と言いました。『そうですね,見覚えはあるのですが,しかし……』。それからすぐ彼は,私が1930年か32年ごろ彼のもとを訪ねたとき,聖書と数冊の書籍を私から求めたことを思い出しました。アントンは言いました。『何ですって! あなたはご自分の信仰のゆえにここにいるのですか。それは私には理解できません。そのような牧師は一人もいませんよ。実際,あなたはどんな事を信じているのですか』。彼はそれを知ろうとしていたのです。

「そして,こう尋ねました。『しかし,牧師はどうしてこういう事柄を私たちに話さないのでしょうか。これこそ真理です。私がなぜこの刑務所に来なければならなかったのかが今わかりました。フランズさん,私はどうしても話しておきたいのですが,この独房に入る前に私は信仰の厚い人の所に入れていただきたいと神に祈りました。さもなければ,自殺をする考えでいました。……』

「何週間そして何か月かが過ぎてからのことですが,アントンは私にこう言いました。『私がこの世を去る前に,妻と子供たちが真理を見いだせるよう神に助けていただけるなら,私は安らかな気持ちで去って行けます』。……すると,ある日,彼は妻から次のような一通の手紙を受け取りました。

「『……もしあなたが何年か前にあのドイツ人からお求めになった聖書と書籍類をお読みにさえなれるなら,私たちはどんなにか幸せなことでしょう。万事がそれらの書籍の言うとおりになりました。私たちはそのために決して時間をさきませんでしたが,これこそ真理です』」。

[175ページの図版]

一群の裸の入所者のいるマウトハウゼン強制収容所入口の中庭