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第1部 ― アメリカ合衆国

第1部 ― アメリカ合衆国

第1部 ― アメリカ合衆国

話は十九世紀の半ばから始まります。当時はまだ幌馬車が広い平原をがたがたと横切り,開拓者たちをアメリカ西部のはるかかなたへ運んでいました。野牛や水牛の大群 ― 1850年には約二千万頭もいた ― がアパラチア山脈とロッキー山脈の間を横行していました。

1861年から1865年にかけて破壊的な南北戦争が国土を荒らして人命を奪い,それに続いて工業化の時代が来ます。1869年に最初の大陸横断鉄道が完成しました。1870年代になると電灯と電話が初めて登場します。1880年代には路面電車が都市部の交通を促進し,19世紀の末までには数台の自動車が,けたたましい音をたてながら走っていました。

その時代の宗教的風土がどのようになるかは,控え目に言っても予告できるものではありませんでした。チャールズ・ダーウインは1859年の自著「種の起源」の中で人間進化の理論を支持しました。進化論,聖書の高等批評,無神論,心霊術および不信心が組織化した宗教に攻撃を加えたため,ローマ・カトリック教会は第一回バチカン公会議(1869-1870)を開き,力を失いつつある自らの立場の強化に努めました。他の様々なグループはキリストが今にも肉体をつけて帰還することを熱心に待ちましたが,それは徒労に終わりました。

しかし,「事物の体制の終結」は近づきつつあったのです。真のクリスチャンである「小麦」は耕されていた全地に広がる神の畑のどこかに必ず存在するに違いありません。しかしそれはどこでしょうか。

『小さき事の日』

時は1870年頃,所はペンシルバニア州のアレゲーニー市です。後にピッツバーグの一部となったアレゲーニーは教会の多い都市です。ある晩18歳の若者がアレゲーニーの街路を歩いています。その若者が後に自ら述べたところによれば,彼の「信仰は,長い間うけいれられてきた多くの教理について動揺し」ており,「不信心の論理の格好の餌食」となっていました。しかし今夜は彼は歌っている少数の人々に引きつけられ,ごみごみした汚い会堂に入ります。その目的ですか。「そこに集まっていた少数の人びとが果たして,大教会の信条よりも多少でも意味のある何事かを提供できるかどうかを確かめるためであった」と若者は述べています。

若者は席に着いて耳を傾けました。キリスト再臨主義者のジョナス・ウェンデルが説教をしました。「聖書に関する彼の説明はすべてが明快だったわけではない」とその聞き手は後日語りました。しかしそれは無駄にはなりませんでした。彼はそれを認めてこう述べざるを得なかったからです。「感謝すべきことにそれは,聖書が神の霊感による著作であるということに対する,動揺しかけていたわたしの信仰を再確立し,使徒および預言者たちの記録が密接不可分の関係にあることを示すには十分であった。聞いた事柄によってわたしは聖書に戻り,いままで以上の熱意と注意を払って研究をするようになった」。

この好奇心の強い若者はチャールズ・テイズ・ラッセルでした。彼はジョセフ・L・ラッセルおよびアン・エリザ(・バーニー)・ラッセルの次男として1852年2月16日にアレゲーニーで生まれました。両親は共にスコットランド-アイルランド系の人でした。チャールズの母親は彼を誕生の時に主のわざに献じました。彼女はチャールズが9歳の少年の時に死亡しましたが,チャールズは幼少時に長老派の両親を通して宗教に対する第一印象を得ていました。やがて彼は近所の組合教会にはいりました。そこは比較的自由な見解をとっていたからです。

わずか11歳の時,少年チャールズは自らの手で事業の運営に関する同意事項を書き,父親と共同の仕事を始めました。15歳の時には父親と共同で男性用品のチェーンストアの拡張を図り,やがて親子はピッツバーグ,フィラデルフィア,その他いたる所に店を持つようになりました。

チャールズは終始聖書を誠実に研究する子どもでした。彼は全力を尽くして神に仕えたいと願っていたのです。事実チャールズが12歳の時,父親は,夜中の2時に物置で時間のたつのも忘れて聖書索引を調べている彼を見つけたことがありました。

成長するにつれてラッセルは霊的に苦しむようになりました。彼が特に悩んだのは永遠の刑罰と運命予定説でした。ラッセルは次のように考えました。「自分が予知力を働かせて永遠に苦しむべく運命づけた人類を創造することにその力を注ぐような神は,賢明でも公正で愛情深くもあり得ない。その標準は多くの人間のそれよりも低いことになる」。(ヨハネ第一 4:8)それにもかかわらず若いラッセルは引き続き神の存在を信じていました。教理に関する疑問に思い悩んだラッセルはキリスト教世界の様々な信条を調べたり,東洋の主要な宗教を研究しましたが,結局大きな失望を経験しました。真理はどこに見いだせるのでしょうか。

後の仲間の話によれば,ラッセルは17歳までに次のような考え方をしていました。「諸々の信条のどれかから,あるいは聖書からでさえ将来に対する合理的な何かを見いだそうと努力するのは無駄なことだから,すべてを忘れて事業に専念することにしよう。苦しんでいる人々のために霊的には何もできないが,いくらかお金ができればそうした人たちを助けるためにそれを使える」。

アレゲーニーのあのごみごみした汚い会堂に足を踏み入れ,『聖書が神の霊感によって書かれたことに対する彼の弱まった信仰を再確立する』説教を聞いたのは,若いラッセルがそうした考えを抱いていた時のことでした。彼は,知り合いの若者数人に近づいて,聖書を研究する意図のあることを話しました。まもなく,6名ほどのこの小さなグループは系統立った聖書研究のために毎週集まり始めました。1870年から1875年にかけての定期的な集会でその人々の宗教的な考えは根底から変化しました。時の経過とともに,エホバは増し加わる霊的な光と真理によって彼らを祝福されました。―詩 43:3。箴 4:18

ラッセルは次のように書いています。「わたしたちは『ご自身を与えた人間』としての主と,再び来られる主,つまり霊者としての主との相違に気づくようになった。わたしたちは,霊者は臨在し,しかも人間の目に見えないでいられることを知った。……わたしたちはキリスト再臨主義者のまちがいをはなはだ残念に思った。彼らはキリストが肉体をもって来ることを期待し,キリスト再臨主義者を除いて世界とその中にあるいっさいのものは1873年か1874年に燃え尽きてしまうと教えていたのである。しかも主の到来の目的や仕方全般について彼らの行なった時の設定とか再三の期待はずれや幼稚な考えは,わたしたち,および近づきつつあるキリストの王国を切望し,それを宣明するすべての人々に多かれ少なかれ非難をもたらすことになった」。

C・T・ラッセルはそうしたまちがった考えに対抗するため誠実に努力し,1873年,彼が21歳の時に「主の帰還の目的とそのありさま」と題する冊子を書いて自費出版しました。その冊子は約5万冊出版され,広く配布されました。

1876年の1月ごろ,ラッセルは「朝の先ぶれ」という宗教雑誌を一部入手しました。表紙から彼はそれが再臨主義者の出版物であると考えましたが,内容を見て驚きました。編集者であるニューヨーク,ロチェスターのN・H・バーバーは,イエス・キリストの帰還の目的は地球の全家族を滅ぼすためではなく祝福することであること,またキリストは肉体をもってではなく霊者として盗人のように来ることを理解していたのです。実際,時に関する聖書の預言から,バーバーはキリストが当時臨在しており,「小麦」と「毒麦」(「雑草」)を集める収穫のわざはすでにその時を迎えていると考えていました。ラッセルはバーバーと会見し,その結果およそ30人からなるピッツバーグの聖書研究会はバーバー主催のいくぶん大きいニューヨーク,ロチェスターのグループと合同しました。その時ほとんど中止しかかっていた「先ぶれ」誌を印刷するために,ラッセルは個人の資金からお金を寄付し,同誌の共同編集者になりました。

1877年,25歳のラッセルは事業の株を売りに出し,全時間の伝道活動に携わるようになりました。当時彼は都市から都市へ旅行し,一般の集会や街頭,あるいはプロテスタントの教会で聖書の講演を行ないました。それで彼はラッセル「師」として知られるようになりました。彼はそのわざを広げるために自分の資産を投じ,その運動のために生涯をささげ,すべての集会で寄付を集めることを禁じ,資金が尽きた後はわざを続けるため自発的な寄付に依存することを決意しました。

1877年,バーバーとラッセルは「三つの世界およびこの世界の収穫」と題する本を共同出版しました。この196ページの本は,時に関する聖書の預言と,すべての事がらの回復に関する情報を結びつけており,イエス・キリストの目に見えない臨在と三年半の収穫をもって始まる四十年の期間は1874年の秋から数えられるという見解を示していました。

非常に注目すべきことは,同書が「諸国民の定められた時」,つまり異邦人の時の終わりをきわめて正確に指摘している点です。(ルカ 21:24)それ(83ページと189ページ)によれば,異邦人すなわち非ユダヤ諸国が神のいかなる王国の干渉も受けずに地上を支配する2,520年間は,西暦前七世紀の後半にバビロニア人がユダの王国を覆した時に始まり,西暦1914年に終わります。しかしそれよりも前に,C・T・ラッセルは,「異邦人の時; それはいつ終わるか」と題する記事を書きました。それは1876年10月号の「バイブル・イグザミナー」誌に掲載されました。その中でラッセルは「七つの時は西暦1914年に終わるであろう」と述べています。正しくも彼は異邦人の時をダニエル書で述べられている「七つの時」と関連づけました。(ダニエル 4:16,23,25,32)そうした計算にたがわず,1914年はそれらの時の終わりと,キリスト・イエスを王としていただく神の王国が天で誕生したことを確かにしるしづけました。そのことを考えてみてください。エホバは七つの時が終了するほぼ40年前にその知識をご自分の民にお授けになったのです。

しばらくの間は万事が順調に進み,やがて1878年の春が来ました。バーバーは地上の生ける聖徒がその時体のまま取り去られ,天で主と永久に共になることを期待していました。しかしそれは起きませんでした。ラッセルによれば,バーバーは,「生ける聖徒たちが一群として取り去られなかったということから注意をそらすために何か目新しいものを作る必要があると感じたよう」でした。間もなく彼はそうしました。ラッセルの記述は次のとおりです。「悲痛な驚きであったが,バーバー氏はまもなく贖いの教理を否定する記事を『先ぶれ』誌に書いた。キリストの死がアダムとその子孫に対する贖いの価であることを否定し,キリストの死は人間の罪に対する罰を終わらせるものではない,ちょうどハエの体にピンを突き刺してハエを苦しませて死なせても親はそれを子どもの非行に対する正当な解決と考えないのと同じである,と語ったのである」。

「先ぶれ」誌の9月号には,贖いを支持し,バーバーの誤った考えを反ばくする,「贖い」というラッセルの記事が載りました。この論争は同誌上で1878年の12月まで続きました。「今やわたしには明白に分かった。主はわたしが,わたしたちの聖なる宗教の基本的な原則に反する影響を及ぼすいかなるものにも経済的援助をしたり,また,何らかの形で関係することをもはや許されないということである」とラッセルは書いています。それでC・T・ラッセルはどうしましたか。彼はこう続けています。「それゆえ,まちがった者たちを立ち直らせるという,むなしいながら非常に入念な努力を払ったのち,わたしは『朝の先ぶれ』誌から全く手を引き,バーバー氏との以後の交際をいっさい中止した」。しかし,それは「わたしたちの主なる贖い主に対してとぎれることのない忠節」を示すのに十分ではありませんでした。したがってさらに進んだ行動が取られました。ラッセルは次のように書いています。「それゆえ,わたしが別の雑誌を始めるのは主のご意志である,とわたしは理解した。その雑誌においては十字架の旗は高くかかげられ,贖いの教理は擁護され,大いなる喜びの良いたよりはできるだけ広範囲に宣明されねばならない」。

C・T・ラッセルは,旅行を断念して雑誌の発行に着手することが主の導きであると考え,こうして1879年7月に「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」の創刊号が刊行されました。現在「ものみの塔」として世界的に知られているこの雑誌は聖書の贖いの教理を常に支持してきました。ラッセルがかつて次のように書いたとおりにです。「それは最初から贖いを特に擁護した。そして神の恵みにより,最後までそうであるようにと,わたしたちは希望する」。

雑誌の創刊号は6,000部ほどにすぎませんでしたから,その始まりは『小さき事の日』でした。(ゼカリヤ 4:10)ピッツバーグの聖書研究会の司会者C・T・ラッセルが編集兼発行者となり,当初は他の5人の円熟した聖書研究者が定期寄稿者を務めました。同誌はエホバと神の王国の関心事にささげられ,神により頼んでいました。そのことは,たとえば第二号のなかの次のことばによって示されています。「『シオンのものみの塔』はエホバがその支持者であるとわたしたちは信じる。そうであるかぎり,この雑誌は人間に支持を乞い求めたり,懇願しようとはしない。『山々の金と銀はみな我がものである』と言われる方が必要な資金を供給しないなら,それは出版を中止する時である,とわたしたちは考える」。出版が途絶えたことは一度もありませんでした。それどころか,その平均発行部数は急速に増加し,1974年の下旬までに850万部にも達しました。

聖書の真理を支持し宣明するという堅い決意は1870年代のそれら聖書研究者に神の祝福をもたらす結果となりました。世界的な畑に多くの宗教的な「雑草」が生えていたにもかかわらず,神は「小麦」すなわち真のクリスチャンを明らかにするために行動されたのです。(マタイ 13:25,37-39)まぎれもなくエホバは人々を「やみからご自分の驚くべき光の中に」呼び入れておられました。(ペテロ第一 2:9)1879年と1880年にC・T・ラッセルと彼の仲間はペンシルバニア州,ニュージャージー州,ニューヨーク州,マサチューセッツ州,デラウェア州,オハイオ州,およびミシガン州に約30の会衆を設立しました。ラッセル自身は各会衆を個人的に訪問する取決めを設け,各グループは彼のプログラムに従って1回,あるいは数回の聖書集会を開きました。

それら初期の会衆は「エクレシア」(「会衆」という意味のギリシャ語)と呼ばれ,時には「クラス」と言われました。特定の問題に関しては会衆の全成員が票決に参加し,さらに会衆の物事を指導する責任を持つ長老の一団を選出しました。エクレシアは,C・T・ラッセルほか「ものみの塔」の執筆者たちを長老に持つ,ピッツバーグの会衆の活動の型を取り入れることによって互いに連結していました。

イエス・キリストは『捕われ人に釈放を宣べ伝え』られました。(ルカ 4:16-21。イザヤ 61:1,2)十九世紀の,心の正直な人々が神から与えられる自由を得られるようになるためには,宗教上のまちがいが暴露されねばなりませんでした。「シオンのものみの塔」はその目的にかなう雑誌でした。しかし,他にもその必要を満たす助けとなるものがありました。それは「聖書研究者の冊子」(「古神学季刊」とも呼ばれた)で,1880年以降ラッセルと彼の仲間によって書かれ,「ものみの塔」の読者が配布するよう無料で備えられました。

C・T・ラッセルとその仲間は自分たちが収穫の時にいることを信じていました。しかも彼らはわずかな数で,1881年には100人ほどに過ぎませんでした。しかし人々は解放を得させる真理を必要としており,神の過分のご親切によりそれを受けようとしていました。「一千人の伝道者を求む」という印象的な題の記事が1881年4月の「シオンのものみの塔」に載せられました。自分の時間の半分かそれ以上を主のわざにもっぱら当てることのできる人々に次のような提案がなされました。「あなたの能力に応じ,聖書文書頒布者あるいは福音伝道者として,大小の都市に出かけて行き,あらゆる場所で誠実なクリスチャンを見つけ出すことです。彼らの多くは神に対して熱心ですが,知識によるのではありません。そのような人々にぜひ,わたしたちの父の恵みの富とそのみことばの美を知らせ,冊子を与えてください」。それら聖書文書頒布者(今日の開拓伝道者の前身)は,とりわけ,「ものみの塔」誌の予約を得ることを求められました。もとより,「ものみの塔」の読者すべてが全時間の伝道者になれたわけではありません。しかし,全時間をささげられない人々も除外されはしませんでした。彼らに対してはこう告げられたからです。「あなたに三十分か一時間あるいは二時間または三時間の時間があるなら,あなたはそれを用いることができ,それは収穫の主に受け入れられるでしょう。神の指示のもとで行なわれた一時間の奉仕からどんな祝福を受けられるかはだれにもわかりません」。

望まれていた一千人の伝道者がその時行動への召しに答え応じたわけではありません。(1885年中に約300人の聖書文書頒布者がいました。)しかしエホバのしもべは良いたよりを伝道しなければならないことを知っていました。適切にも,1881年の7月と8月の「シオンのものみの塔」誌は次のように述べました。「あなたは伝道しておられますか。小さな群れに属していて伝道者でない人はいない,とわたしたちは信じています。……そうです,わたしたちは彼と共に苦しむように,そして今良いたよりを宣明するように召されました。それはしかるべき時にわたしたちが栄光を受け,現在宣べ伝えている事柄を成しとげるためです。わたしたちが召され油そそがれたのは,栄誉を受けたり富を積むためではなく,費やし費やされ,良いたよりを宣べ伝えるためです」。

同年,すなわち1881年にC・T・ラッセルは二冊の大版のパンフレットを書き上げました。一冊は「幕屋の教え」と題するもので,他方の「考えるクリスチャンのための糧」というパンフレットは特定の教理上のまちがいを暴露し,神の目的を説明していました。

当初,冊子や「シオンのものみの塔」の印刷はほとんどすべてが民間会社によって行なわれていました。しかし,文書の配布が広範になり,聖書研究者(エホバの証人は当時そういわれていた)がわざを続けるための寄付を受け取る可能性を考えると,協会組織のようなものが必要でした。そこで早くも1881年にC・T・ラッセルを責任者とするシオンのものみの塔冊子協会が非法人団体として発足しました。ラッセルと他の人々はおよそ3万5,000㌦(約1,050万円)もの多額の寄付をして,印刷をこととするこの組織の活動を開始させました。1884年にはそれまで非法人だった協会がシオンのものみの塔冊子協会として法人化され,ラッセルが会長を務めました。今日この宗教法人は,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会として知られています。

協会の定款にはこう書かれています。「当法人の創設された目的は,冊子・パンフレット・文書類その他の宗教的な公式文書を用いて,また正式に設置された理事会が前述の目的達成を促進するのに適当と考える他のあらゆる合法的手段を講じて,各種の言語で聖書の真理を普及させることである」。

「聖書の真理を普及させる」ことは,「千年期黎明」(後の「聖書研究」)と題する続きものの本をもって注目すべき前進の歩を進めました。C・T・ラッセルが平易なことばで著した第一巻は1886年に出版されました。それは最初「世々に渉る計画」と呼ばれ,後に「世々に渉る神の経綸」と呼ばれました。この本は,「至高の知的創造者の存在は確証された」,「われらの主の帰還 ― その目的,万物の更新」,「裁きの日」,「神の王国」,「エホバの日」といった主題を扱っていました。この出版物は40年間に六百万冊が配布され,誠実に真理を求める幾百人もの人々が偽りの宗教の束縛から出てクリスチャンの自由に入るのを助けました。

やがてC・T・ラッセルは「千年期黎明」双書の他の5冊の本も著しました。それらは次のとおりです。第二巻,「時は近づけり」(1889年),第三巻「汝の王国が来るように」(1891年),第四巻,「ハルマゲドンの戦い」(1897年,最初は「報復の日」と呼ばれた),第五巻,「神と人間との和解」(1899年),第六巻,「新しい創造」(1904年)。ラッセルは意図していたこの双書の第七巻を著さずして没しました。

こうしたクリスチャンの出版物に対して実にすばらしい反応がありました。神の霊は個々の人を行動へと促したのです。偽りの宗教から退くことが速やかに行なわれた例は幾つかあります。1889年のこと,ある婦人は「千年期黎明」の一冊を読んで,「その真理はすぐにわたしの心を捕えました。わたしは長年の間暗やみで真理を模索し見いだせなかった長老派教会からすぐに退きました」という手紙を寄せました。また,1891年には牧師から次のような手紙が来ました。「わたしはメソジスト監督教会で三年にわたり伝道し,その間ずっと真理を熱心に追求してまいりましたが,今や神の助けにより,『彼女から出る』ことができました」。―啓示 18:4

良いたよりを宣べ伝えたいという強い願いは,協会に寄せられた他の人々からの手紙の文面にも表われています。一例として,1891年にある夫婦は次のような手紙を寄せました。「わたしたちは,自分たちのすべてを主の栄光のために用いられるよう主とその奉仕にささげてきました。それで主のご意志であるなら,わたしは事の調整が済みしだい聖書文書頒布者の仕事をしてみたいと思っています。そしてもし主がわたしの奉仕を受け入れて,主のわざを行なう面でわたしを祝福してくださるなら,わたしたちは家をたたんで夫婦共々収穫のわざに携わるつもりです」。

1894年に協会は,ふたりの婦人の聖書文書頒布者から「千年期黎明」を入手したある男の人のきわめて興味深い手紙を受け取りました。その人はその数冊を読んでさらに何冊かを注文し,「シオンのものみの塔」誌を予約して,次のような心からの手紙を書いたのです。「妻とわたしは非常な興味をいだいてそれらの本を読んでまいりました。そして,わたしたちがこれらの本に接する機会を得たことは神から授けられた大きな祝福であると考えております。これらの本は確かに聖書研究のための『手引き』です。この一連の本を研究して明らかにされた偉大な真理は,わたしたちの地的野望を全く覆してしまいました。わたしたちはキリストのために何かを行なうべき重要な機会があることを少なくともある程度悟りましたので,この機会をとらえて,まず最初にこれらの本をわたしたちの最も身近な親族や友人たちに,次にそれを読みたいと願いながらも貧しくて買えない人たちに分けて差し上げたいと存じます」。この手紙に署名をしたのはJ・F・ラザフォードで,彼は12年後にエホバに献身し,やがて,ものみの塔協会の会長としてC・T・ラッセルのあとを継ぎました。

聖書の家

聖書研究者は最初ピッツバーグの五番街101番に,後にはペンシルバニア州アレゲーニーのフィデラル通り44番に本部事務所を持ちました。しかし,1880年代の末までに良いたよりを宣べ伝え,羊のような人々を集めるわざは速度を増し,拡張することが必要になりました。それでエホバの民は自分たち自身の建物を建てました。アレゲーニー,アーチ通り56-60番(後に610-614番と改められた)に位置し,3万4,000㌦(約1,020万円)の費用をかけて1889年に完成したこの四階建てレンガ造りの建物は,「聖書の家」として知られていました。その権限は最初タワー出版会社によって保有されました。それはC・T・ラッセルが経営する個人会社で,数年にわたり協定価格でものみの塔協会のために文書を出版しました。1898年4月,同工場と不動産の所有権はものみの塔協会へ譲渡され,理事会は建物と諸施設を16万4,033.65㌦(約4,921万95円)と見積りました。

聖書の家はおよそ20年間にわたり協会の本部となっていました。

「1907年当時,聖書の家の様子はどんなものだったでしょうか」。オラ・サリバン・ウェイクフィールドは自らの質問に答えて一部次のように語りました。「『家族』はわたしたち30人にすぎず,小じんまりしていてほんとうの家族のようでした。……わたしたち全員はその一つの建物で食事や寝起きを共にし,仕事や崇拝をしました。付属の礼拝堂には演壇の下にバプテスマのための場所もありました」。

考えてもご覧ください。1890年当時,ものみの塔協会と活発に交わる人々は400人ほどにすぎなかったのです。しかしエホバの聖霊は働き,優れた結果を生み出していました。(ゼカリヤ 4:6,10)したがって,1890年代は増加の時代でした。事実,1899年3月26日には大ぜいの人々がイエス・キリストの死を記念するために集まりました。339の群れにおいて2,501名の人が表象物にあずかったことが不完全ながら報告されています。まさしく,羊のような人々は『おりの中へ』群がっていました。―ミカ 2:12

宣べ伝えるわざの成長は,C・T・ラッセルが1891年に海外旅行をすることにより拍車がかけられました。この約2万7,000㌔の旅でラッセルの一行はヨーロッパ,アジアおよびアフリカを回りました。そのあと文書の倉庫がロンドンに設けられ,協会の文書がドイツ語,フランス語,スウェーデン語,ノルウェー標準語,ポーランド語,ギリシャ語,そして後にはイタリア語で出版される取決めもできました。

『いざエホバのいえにゆかん』

ダビデは,『いざエホバのいえにゆかん』と言われた時に喜びました。(詩 122:1)同様に,初期の聖書研究者も集会や大会に集まることを大いに喜びました。(ヘブライ 10:23-25)霊的な報いはたくさんありましたが,ひとつだけいつも無いものがありました。それは寄付盆です。エホバのクリスチャン証人のあらゆる集会および大会には,「入場無料,寄付は集めません」という標語が掲げられています。「あなたがたはただで受けたのです,ただで与えなさい」というイエス・キリストのことばからしても,それはふさわしいことです。エホバの民の集会場所に関連した何らかの費用はすべて自発的な寄付によってまかなわれてきました。―マタイ 10:8。コリント第二 9:7

比較的初期の信仰の仲間に加わって,彼らの週ごとの集会にいっしょに行くことにしましょう。ラルフ・H・レッフラーは次のように語っています。「19世紀の末から20世紀の初め頃,わたしたちが集会を欠かすことなどめったにありませんでした。当時は自動車がなかったので,町から8㌔離れたいなかに住んでいたわたしたちが集会に行く手段といえば,歩くか一頭立ての軽装馬車を使うほかはありませんでした。日曜日に集会に出席するため,軽装馬車や四輪馬車を使って16㌔の道のりを何度も何度も往復したものです。来る年も来る年も,夏も冬も,天候にかかわらず,聖書の真理をさらに多く学び自分たちの信仰を強めることはわたしたちの特権であると考えていました。そして,同じ信仰を持つ他の人々と交わる機会を一度といえ逃したくなかったのです」。ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルはこう述べています。「雪が地面を覆うとわたしたちは馬とそりで行き,集会中は馬に毛布を掛けておきました。馬はじっと待っていることもありましたし,がまんできずに前足で地面をかくこともありました」。

それら初期の集会はどのようなものだったのでしょうか。ひとつの集会は1881年に協会から創刊された「より勝った犠牲の影としての幕屋」にそって行なわれました。その本はイスラエルの幕屋とそこで捧げられた犠牲の預言的な意味を考察しており,子どもたちでさえそうした研究から大きな益を受けました。サラ・C・カイリンは一軒の家で開かれていたそうした集会の思い出をこう語ります。「群れは大きくなって,子どもたちは二階に行く階段に座らなければならないこともありましたが,全員が学んで質問に答えることが求められました。雄牛は何を表わしていましたか。中庭は? 聖所は? 至聖所は? 贖いの日は? 大祭司は? 従属の祭司たちは? それは大祭司が務めを行なっている様子を思い浮べることができるほど強くわたしたちの脳裏に印象付けられ,しかもわたしたちはそれが何を意味するかを知っていました」。

「つつましい集会」は水曜日の晩に開かれました。祈りと賛美と証言の集会として知られるようになったこの集まりについて,エディス・R・ブレニスンは次のように書いています。「賛美の歌と祈りののち,リーダーはふさわしい聖句を読んで2,3の注解をします。それから集会は友人たちに引き継がれ,彼らが自分の思うままに注解をしました。それは時には奉仕のわざで得た喜ばしい経験であったり,エホバの特別な導きや保護のしるしであったりしました。祈りをささげたり,賛美の歌をうたうよう促したりしてもかまいませんでした。歌詞は人が話すよりも十分にその人の心の中にあるものを表現していることが少なくなかったからです。またそれはエホバの愛あるご配慮について思いめぐらし,兄弟や姉妹と親しく交わる夜でもありました。兄弟たちの経験を聞くにつれ,わたしたちは彼らをいっそうよく知るようになりました。兄弟たちの忠実さを観察し,彼らが自分の問題を克服しているのを見て,わたしたち自身の難しい事態を解決するのをしばしば助けられました」。今日エホバの証人が毎週開き,宣べ伝えるわざのために多くの益を受けている奉仕会は,この集会が前身となって発展してきたものです。

初期の時代には「黎明会」が金曜日の夜に開かれました。そう名付けられたのはその聖書研究会が「千年期黎明」の各巻を用いて行なわれていたからです。R・H・レッフラーは,日曜日の夜は通常聖書研究か聖書に関する講話に当てられていたことを覚えています。『図表講演』として知られたものも行なわれたことがあります。彼の説明によればそれは次のようなものでした。「『聖書研究』第一巻の前表紙の裏に長い図表がついていました。……その図表はのぼりの大きさに拡大されました。……それはペンシルバニア州アレゲーニーの聖書の家で買い求めることができました。話し手が多くの弓形やピラミッド形の図を説明しようとする時全員が見えるように,その図表を聴衆の前の壁に掛けました。それは,人間の創造から一千年期の末および『来たるべき世』の始まりに至るまでの聖書の主要なでき事を図式的に表わしたものでした。……わたしたちは『図表』講演から聖書の歴史についてたくさん学びました。それにその話は頻繁に行なわれたのです」。

『図表講演』はエホバの証人の通常の集会場所や他のところで行なうことができたようです。その講話は効果があったでしょうか。C・E・シラウェイは,「大人6名の小さなグループが2年もたたないうちに約15人のグループに成長したのですから,その話は実を生んだに違いありません」と語っています。ある時ウィリアム・P・モックリジはニューヨーク州ロングアイランド市のあるバプテスト教会で図表講演をしました。「その結果[バプテスト派伝道者の]教会の会員数名が真理に入り,牧師……C・A・エリクソンも真理に入って協会の旅行する……講演者となりました」。

初期の聖書研究者は,毎年開かれるイエス・キリストの死の記念式の時に大会を催していました。(コリント第一 11:23-26)1892年4月7日から14日にかけてペンシルバニア州アレゲーニーでそのような集まりが開かれ,20ほどの州とカナダのマニトバ州からエホバのしもべと関心を抱く人々約400名が出席しました。いうまでもなく,それ以来,神の民の霊的な報いのある大会はアメリカおよび世界中の多くの都市で開かれてきました。しかもエホバはなんという成長をもたらされたのでしょう。1958年のエホバの証人の神の御心国際大会の時には,123を超す国々からニューヨーク市のヤンキー野球場とポロ・グランドに合計25万3,922人の聴衆が集まったのです!

神の奉仕において勇気を持ち心を強くする

「自発奉仕者を求む!」,これは1899年4月15日号の「シオンのものみの塔」に載せられた記事の,人目を引く題名です。聖書の真理を普及する新しい方法を提示していたその記事がキリスト教世界の僧職者をあ然とさせることはまちがいありませんでした。このわざに参加する人は勇気を持ち,心を強くしなければならなかったことでしょう。(詩 31:24)その時のエホバの民には,「聖書対進化論」と題する新しい小冊子30万部を,日曜日に教会から出て来る人々に無料で手渡すという大規模な配布のわざに携わる機会が与えられました。何千人ものクリスチャン奉仕者が心から答え応じ,アメリカ,カナダおよびヨーロッパでめざましいわざが成し遂げられました。

この自発奉仕は数年にわたり,ことに日曜日に行なわれましたが,やがて発展し,戸別に行なう冊子配布を含むわさにまで発展しました。新しい冊子は1年に少なくとも2回配布され,教会へ通う人々に何百万部も手渡されました。1909年以降,ものみの塔協会は,「一般人伝道者」(その後「万人の新聞」,さらに「聖書研究者月刊」と変えられた)と呼ばれる一連の新しい冊子を発行しました。月ごとに出されるそれらの冊子を通して宗教的なまちがいは暴露され,聖書的な真理に説明が施され,諸国民に対して1914年という非常に重大な年に関する警告が与えられました。冊子には漫画やさし絵が使われていたのでいっそう効果的でした。そうした冊子の配布によって神のしもべはますます一般の人々の注目を集め,聖書研究者および国際聖書研究者として広く知られるようになりました。

エディス・R・ブレニスンは次のように語っています。「各クラスにはわざを計画する自発奉仕係長がいて,働く人たちは自発奉仕者と呼ばれました。……日曜日の午前中はこのわざに当てられ,わたしたちは教会の戸口に行って教会から出て来る人々に冊子を渡しました。……12時に人々が出て来ると文書を手渡し,そのあと日曜学校にとどまっている人たちに奉仕するために1時まで待ちました。たいていの人は冊子を受け取りましたが,中には地面に捨てる人もありました。もちろんわたしたちは捨てられた冊子を拾い集めました。その冊子に載っていた音信は,『わたしの民よ,彼女から出なさい』というものでした」。

冊子を配布できるよう準備するために幾晩も費やされましたが,それは楽しい時でした。仲間のクリスチャンがその準備のために自分の家に集った夜のことを思い出して,マーガレット・ドゥースはこう記しています。「食堂のテーブルをいっぱいにあけ,何人かが冊子をばらばらにすると別の人たちがそれを折りました。ほかのグループの人たちは日曜日の午後の講演会の時と場所を記すスタンプを押したものです」。

それからいよいよ配布です。サムエル・バン・シプマによれば,それは「事実上だれもがあずかった,聖書研究者の活動でした」。彼はさらに次のように語っています。「わたしたちの多くは日曜日の朝早く(5時頃)に起き,たいていふたりか4人が組みになって,区域の割り当てられた区画で家の玄関や戸の下に冊子を置いてきたものです。もちろん冊子は別の時にも配布されました。……ある人がこの冊子配布の活動を,宝石を朝露のようにばらまくようだと言いましたが,それは当を得たことばでした。多くの人は,神の真理を載せた,人を鼓舞する印刷物を読んでほんとうにさわやかな気持ちを味わったにちがいないからです」。

クリスチャンの子どもたちでさえ,冊子配布のわざにあずかりました。グレース・A・エステプは,彼女と彼女のふたりの兄弟が,「日曜日の朝早く玄関に忍び足で歩いていって戸の下に冊子をそっと入れた」ことを思い出します。反対に遭ったのは言うまでもありません。エステプ姉妹はこう続けます。「突然に戸があいて見るからに大きなおとなが現われることがありました。たいていどなられました。ほうきやステッキや松葉杖でわたしたちを追い払い,今度来たらしょうちしないぞと言われることもありました。……でも,時には冊子を受け取ってほほえみかけてくださる方もありました。そういう時にはわたしたちは家に走って帰って両親に知らせたものです」。

冊子の使用は良い結果を生みました。たとえばビクター・V・ブラックウェルは次のように述べています。「王国の真理をわたしの家に運んでくれたのは1枚の冊子でした。1枚の冊子が聖書の真理の堅い基礎をすえる足がかりとなり,他の多くの人々に加えて,父と母,わたし自身と子どもたちが,全人類に対する王国政府に関する希望と信仰を鼓舞する情報を受け入れ,それに帰依したのです」。

一般の新聞を利用する

「軽く見過こすことのできない,(わざの)もうひとつの特色は,ラッセル師の説教を新聞に掲載したことです」と,ジョージ・E・ハナンは語ります。C・T・ラッセルの説教を扱う,新聞の国際的なシンジケートが組織されました。それは4名の協会本部職員で構成され,ラッセルは旅行中でも毎週そこへ新聞二欄ほどの長さの説教を送りました。するとそれはシンジケートによってアメリカ,カナダおよびヨーロッパの新聞社に再電送されました。協会は電報料金を負担しましたが,新聞欄の使用は無料でした。

「大陸」という名前の一刊行物は,C・T・ラッセルについてかつて次のように述べました。「新聞に載る彼の記事は,毎週,他のどの現役の人たちのそれよりも多くの読者に読まれている。北米のすべての僧職者や説教者の書いたものを合わせても彼の記事にかなわないことは確かである。また,アーサー・ブリスベイン,ノーマン・ハプグッド,ジョージ・ホーラス・ロリマー,フランク・クレイン博士,フレデリック・ハスキンズその他十数名の著名な論説委員や配給記事を書く人々が書いたものを合わせた場合をも凌いでいる」。しかし,大切なのはラッセルという人物ではなく,良いたよりが広く行き渡ることに重要な意味があったのです。1916年12月1日号の「ものみの塔」誌によれば,「合わせて1,500万人の読者を持つ,2,000以上の新聞社が同時に彼の講話を掲載し,全部で4,000を超す新聞社がそうした説教を載せました」。したがって,ここにも聖書の真理を広める手段がありました。

「クラスの拡大のわざ」

エホバのしもべの勇敢な活動は,もうひとつの特筆すべきわざが1911年から開始されるに及んで強化されてゆきました。それは,「クラスの拡大のわざ」として知られ,集中的な公開講演運動でした。この新しいわざをするために48人の旅行する奉仕者が,割り当てられた旅程にしたがい公開講演者として派遣されました。しかし,「クラスの拡大のわざ」はそれだけにとどまっていませんでした。講演に出席した関心をいだく人々の住所氏名が控えられ,聖書研究者はその人たちを家庭訪問したのです。こうして彼らを集めて新しい会衆を組織する努力が払われました。聖書文書頒布者はそうした会衆の組織化を援助し,たくさんの新しい会衆が作られました。事実,1914年までに世界中で1,200の会衆がものみの塔協会との連絡を保って機能を果たしていました。

ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは次のように語っています。「公開講演の会場が借りられると,週刊新聞に広告を出したり,個人的に招待する訪問をしたりしました。また,集会の案内をチョークで書いた立看板を会場の入口に置きました。会場にはたいていランプの照明しかありませんでした。最初の集会で関心が示されると,さらに幾つかの講演を準備しました。わたしたちは集まった少数の人々のひとりひとりにあいさつをし,個人的に話し,(集まったのはたいてい少数の人たちだった)さらに関心を高めるために関心をいだいた人の家庭を訪問することにしていました」。

巡礼者といっしょに旅行する

早くも1894年に,ものみの塔協会の旅行する代表者21人は,公開集会を開いて聖書研究者の会衆を霊的に築き上げるために派遣されました。彼らの旅程は決まっていて,会衆の数が増えると,新たに巡礼者 ― 彼らはそう呼ばれていた ― が任命され派遣されました。巡礼者は1890年代から1920年代後半に至るまで神の民の福祉のために貢献しました。彼らの態度は,ローマのクリスチャンに次のように語ったパウロの態度のようでした。「わたしはあなたがたに会うことを切望しているのであり,それは,あなたがたが確固とした者となるよう,霊的な賜物を少しでも分け与えるためです。いえ,むしろそれは,あなたがたの間で,おのおの互いの,つまりあなたがたとわたしの信仰によって,相互に励まし合うためなのです」― ローマ 1:11,12

イエス・キリストの使徒たちの場合と同様,旅行する巡礼者はそれぞれさまざまな特性を持っていました。(ルカ 9:54。ヨハネ 20:24,25; 21:7,8)「ソーン兄弟はたいへん物柔らかで身だしなみも並はずれてよくやぎひげの小柄な人でした」とグラント・スーターは語り,さらにこう続けます。「巡礼者のきちょうめんなことには感銘しました。……さらに大切なこととして,彼らは聴衆が神のみことばに対する信仰を培うのを助けました」。ハロルド・B・ダンカンはソーン兄弟に初めて会った時のことを,「わたしは愛に満ちた消えることのない印象を受けました。群れに対して話す時の兄弟は,父親が息子や娘,また孫にやさしく愛情あふれた助言をする時のようであり,昔の族長のようでもありました」と言っています。

グレース・A・エステプも思い出を語ってくれました。「ハーシー兄弟は音楽が好きでしたから,わたしたち子どもが床に就けられると,母がピアノ,父がバイオリンを弾き,ハーシー兄弟は『賛美歌』をうたったものです。……わたしたちの知り合いで大好きだった方々,たとえば[クレイトン・J・]ウッドワース兄弟,マクミラン兄弟,その他生涯にわたって忍耐の立派な模範を残された兄弟たちの中でも,バン・アンバーグ兄弟に対しては特別の親しみを感じます。兄弟は『心から愛する人々』に対して穏やかさとやさしさに満ちていらっしゃいましたから,愛された使徒ヨハネはアンバーグ兄弟のような人だったにちがいない,とわたしは思いました」。

エテル・G・ローナーは,少女の頃,巡礼者の兄弟たちが彼女の家に泊まった当時を振り返って次のように語っています。「兄弟たちは姉や兄を含むわたしたち子どもにいつも関心を示してくださり,わたしたちは兄弟たちの訪問を楽しみました。少女の頃わたしは,すべての事柄をエホバのご意志として受け入れる,兄弟たちの静かな確信と信仰にいくぶん畏怖の念を感じました。確かに兄弟たちは若いわたしたちにクリスチャンの不屈の精神と信仰の立派な模範を残してくださいました」。

巡礼者の多くが仲間の信者から慕われたのは,彼らが訪問先でくつろいだからに違いありません。メアリー・M・ハインズは,「訪問はどうしてそんなに楽しかったのでしょう」と問いかけながらこんな話をしてくれました。「巡礼者はあいさつを抜きにして,公開集会のことや,『ものみの塔』の記事について質問はないか,小さな町の様子はどうか,先回の訪問以来だれか関心を示している人がいるか,などひととおりの質問を父にします。それから自分の部屋に行く前にしばらくわたしたち子ども(その時は3人)に注意をむけてくださいます。『なんてすてきなのでしょう。巡礼者がわたしたちに話しかけてくださるなんて』。わたしたちは胸を躍らせ,ふつうは1日か2日の巡礼者の滞在を1分ものがさずに楽しむ良い出発をします。1910年のチャタウクア湖大会で求めた絵葉書をわたしにくださったのはたしかベンジャミン・バートンです。その絵葉書の裏には兄弟の写真がはってあります。また,J・A・ボーネット兄弟だと思いますが,わたしの兄にたこを作ってくださいました。いまそれを上げるのを手伝ってくださっています。……A・H・マクミラン兄弟が来たら時間を作ってわたしたちといっしょにトウモロコシ畑に行き,ご自分用に6本のおいしそうなトウモロコシを選ぶかもしれません」。

ハロルド・P・ウッドワースが認めるとおり,「巡礼者の中には一風変わったところのある人もいて,それらはもちろん目につきました。しかし,聖霊の賜物である際立った特質があって,それが深く永続的な影響を残しました」と彼は語ります。アール・E・ネウェルは次のように述べています。「わたしはソーン兄弟のおっしゃったことで,今日までわたしの助けとなったことばをどんなことがあっても決して忘れません。その兄弟のことばを引用しますと,『自分をあまりに偉く見るようになった時にはいつも,いわば自分を隅につれていって,こう言います。「おまえはほんのちりに過ぎないのだ。おまえにはどんな誇るものがあるというのだ」』」。これは確かに注目に価する特質です。なぜなら,『謙遜とエホバを畏るる事との報は富と尊貴と生命』だからです。―箴言 22:4

それら巡礼者たちがあちこちと旅行するのは楽なことではありませんでした。エディス・R・ブレニスンは,かつて巡礼者として奉仕した夫の旅行について手紙の中で書いています。「へんぴな所に行くには,汽車,駅馬車,あらゆる種類の荷馬車,馬を使わなければならないことがよくありました。……それは時にはたいへんおもしろい旅行でした。……ひとつの任命地はオレゴン州のクレマス・フォールズとその付近でした。そこに着くには,途中まで汽車で行ってから一晩駅馬車にゆられなければなりませんでした。翌日夫は小さな町でバック・ボードという一種の四輪馬車でそこへ来ていた兄弟に会いました。(バック・ボードを見たり乗ったりしたことのない方のためにご説明しますと,軸に四つの輪のついた,ばねのない木製の荷車です。それに乗る前には背中の丈夫な人でも,乗ったあとは必ず背中を痛めています。)それに乗って山あいを相当進むと,美しい谷間の渓流のそばにある,その兄弟の農場に着きました」。

特別な巡礼者の訪問そのものについてはどうでしょうか。ブレニスン姉妹はこうつけ加えます。「やがて庭は,巡礼者の話を聞くために遠方から友人を連れて来た種々様々な人々のグループでいっぱいになりました。集会は3時に始まり,2時間の講演が行なわれました。そのあと質疑応答に入りましたが,たくさんの質問が出されました。それからゆっくり休けいして,姉妹の用意してくださったおいしい夕食をとりました。そのあともうひとつ2時間の講演があって,質疑応答となりました」。その夜姉妹たちは家の中で,兄弟たちは干し草の中で眠りました。家の中のひと部屋は巡礼者のためにとってあったのですが,ブレニスン兄弟は兄弟たちと納屋に行くほうを好んだのです。「朝が来ました」と,ブレニスン姉妹は語ります。「心のこもった朝食のあと,あるじである兄弟は3頭の馬に鞍をつけました。1頭は荷物用で,他の2頭はそれぞれ兄弟たちのためです。次の任命地に行く汽車に乗るために,最寄りの駅まで荒野を100㌔近くも行かねばなりませんでした。しばらくしてエドワードは姉妹から一通の手紙を受け取りました。それによれば,兄弟たちが出かけたあと姉妹が枕を取りに納屋に行ったところ,枕には兄弟の頭の跡がついていました。姉妹がそれを取り上げると,そのま下に,大きながらがらへびが兄弟の頭のぬくもりを楽しんでとぐろを巻いていました。へびは睡眠を妨害されて大へんおこった様子をしました。事実を知らないほうがよいということはよくあるものですね」。

巡礼者の講話についていえば,それはどんな話だったでしょうか。レイ・C・ボップは巡礼者のひとりトッチャン兄弟のことを話してくれます。「その兄弟は教訓者のような人で,実例を使って教えました。……[彼は]荒野の幕屋の模型を持っていて,それをテーブルの上に置きました。……聖所,至聖所,燔祭の祭壇と水盤のある中庭が,約10㌢の高さにある小さな金属棒からさげられた垂れ幕で囲まれていました。本物そっくりの衣装をつけた祭司の人形が適切な位置に置かれ,[トッチャン兄弟が],『影としての幕屋』という参考書に基づいてそれぞれの行事やその預言的な意味を詳しく説明するのにしたがって……その役目を持つ人形が動かされました」。

メアリー・M・ハインズは次のように語っています。「公開講演はふつう指定されていました。巡礼者はしばしば図表に基づいた話をし,それに記されている『天啓法時代』とか『時代』を説明してくれました。少なくともM・L・ヘールというひとりの兄弟は実例を用いた講演をしました。彼はスライドを使い,講演に出てくる幼いルーシーを復活させたのです。それらの兄弟たちは,当時,成長を続ける組織の本部と,『ものみの塔』誌の孤立した読者や組織されつつあった『エクレシア』とのかけ橋であり,確かに彼らからいつまでも消えることのない印象が与えられました」。オルリー・ステイプルトンは,「そうした訪問を通してわたしたちは霊的に築き上げられ,教えを受け,エホバの組織とさらに一致して働くよう助けられました」と,感想を述べています。

異邦人の時が終わりに近づくにつれて拡大する

1910年代にいた聖書研究者たちは,諸国民にとって時が尽きようとしていることを悟っていました。神の民は長年の間2,520年にわたる異邦人の時が1914年に終わると考えてきました。(ルカ 21:24,欽定訳)したがって今や数年が残されているにすぎません。C・T・ラッセルは諸国民への証しとなる,総力をあげた全世界的な運動に着手する準備をしました。しかし,それほどの規模の国際的なわざをするには,アレゲーニーの聖書の家はあまりにも手狭でした。

そこで1908年,J・F・ラザフォード(当時法律顧問だった)を含む,ものみの塔協会の代表者数名がニューヨーク市に遣わされました。それは,ラッセル自身が,旅行するようになって比較的間もない頃に見つけておいた手ごろな建物と地所を確保するためでした。代表者たちはそのことを行ない,ニューヨーク,ブルックリン,ヒックス通り13-17番の「プリマス・ベテル」と呼ばれる古い建物を購入しました。それは,近くのプリマス組合派教会のために1868年に完成された宣教用の建物で,かつてはそこでヘンリー・ウォード・ビーチャーが牧師をしていました。また彼らはわずか数区画離れたコロンビアハイツ124番にある,4階建てでかっ色砂岩の古いビーチャーの牧師館も買い入れました。

ビーチャーが住んでいた家は,30人を超える協会の本部職員の新しい住まいとなり,「神の家」という意味の「ベテル」と呼ばれました。ヒックス通りの建物は改造されて「ブルックリン・タバナクル(幕屋の意)」という名で知られるようになりました。その建物には協会のいくつかの事務所と立派な講堂がありました。1909年1月31日,350人の出席者を迎え,協会の新しい本部の献堂式が行なわれました。

ベテルにはC・T・ラッセルの書斎があり,階下は食堂になっていて,44人が座れる長いテーブルがありました。家族はそこに集まって賛美をうたい,「誓いのことば」を読み,いっしょに祈ったあと朝食をとりました。朝食が始まると,「信仰の家の者のための日々の天のマナ」から聖句が読まれ,食事をしながらそれが討議されました。

読者のみなさんは,彼らの頭に日々刻まれたその誓いのことばを聞きたいと思われますか。「神に対する私の誓約」と題するそのことばは次のようなものでした。

「天にいますわたしたちの父よ,み名があがめられますように。あなたの支配がわたしの心にいっそう行き渡り,あなたのご意志がわたしの死すべきからだに行なわれますように。苦境の際にはいつでも助けてくださるとあなたが約束してくださったご親切により頼み,わたしたちの主イエス・キリストを通して以下の誓いをいたします。

「天のあわれみのみ座にあって,わたしは収穫のわざの全体的な益のことを日々思い起こします。とりわけ,そのわざにおいて自分自身が特権としてあずからせていただいている事柄や,ブルックリン・ベテルおよびあらゆる場所の愛する共なる働き人のことを忘れません。

「あなたと,あなたの愛する羊によりよく仕えるために,自分の考えとことばと行状を,できればいっそう注意深く吟味することを誓います。

「心霊術や霊媒に類似したあらゆるものを退けるよう十分注意し,ふたりの主人しかいないことを心に留めて,悪魔に属するそれらのわなを考えうるあらゆる方法で退けることをあなたに誓います。

「さらに次のことを誓います。すなわち以下の例外を除いては,異性の方と個人的に接する場合には,時や場所にかかわらず,公の場すなわち主の民の会衆の面前におけると同様に振舞います。そして道理上可能なかぎり,部屋の戸が広く開いていないなら,異性とふたりだけでひとつの部屋にいることを避けます。ただし,兄弟であれば妻,娘,母,肉の姉妹は例外とし,姉妹であれば,夫,息子,父また肉の兄弟を例外とします」。

この誓いのことばを唱えることはその後ベテルや他の場所において神の民の間で行なわれなくなりました。しかしそのことばの中に表わされている高い原則は今日でも適用できるものです。

ベテルから3区画ほどのところにブルックリン・タバナクルがありました。一風変わった古い赤レンガのこの建物は2階建てで地下室がついており,協会の事務所一般と,「ものみの塔」誌の活字を組む植字室,倉庫および発送の部屋がありました。2階は800の座席を持つ講堂になっていて,ラッセル兄弟はそこで定期的に話をしました。

しばらくの間,協会の本部職員は主としてコロンビア・ハイツ124番に住んでいましたが,後にコロンビア・ハイツ122番の隣接した建物が購入され,ベテル・ホームは拡張されました。1911年には後部の増築が完成しました。それはハーマン通りに面するほどの大きな9階の建物で,新しい食堂を含め宿舎や他の諸施設を備えるものとなりました。そうした資産の権利証書を得るため,1909年にエホバのしもべは「一般人伝道者協会」を作りました。今日それは,ニューヨーク法人,ものみの塔聖書冊子協会と呼ばれています。この法人を含め,各地で神の民が組織している法人はすべて,互いに協力し合い,またエホバの証人の統治体と協力しています。

『集合した群衆の中でエホバをたたえる』

聖書研究者が決まって開く大会や他の公の集まりは,神のしもべが昔行なったと全く同じように,『集合した群衆の中でエホバをたたえる』優れた機会でした。(詩 26:12)それはどんな種類の集まりであったのか,見ることにしましょう。

『シカゴ・グランド・オペラの本家,世界的に有名なオーディトリアム劇場の一番上のさじきでさえ,空いた席はひとつもありません。7階から半ブロック先のステージを見下ろしながら,わたしはふと,耳をそばだてないと聞こえないだろうかと考えます。司会者の紹介に続いて,チャールズ・テイズ・ラッセルは立ち上がり,左の人差し指を右の手のひらに置きながら普通の声で話し始めます。彼は筋書きを持っていません。演台もありません。ラッセルは演壇の上を自由に動き回ります。彼は預言されていた異邦人の時の終わりと千年期を迎えることとを詳しく説明しますが,ひとことひとことがはっきりと聞き分けられます』。

これはレイ・C・ボップの思い出ですが,ほんの一例にすぎません。会場は,1910年5月にC・T・ラッセルが大ぜいの聴衆に向かって話した,ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールであっても全く同様でしたし,またニューヨーク市の有名なヒッポドローム劇場でも同じことが言えました。ラッセルは1910年10月9日の日曜日にそこでユダヤ人の大聴衆に話をしました。その時の話に関して,1910年10月10日付のニューヨーク・アメリカン紙は一部次のように述べています。「昨日の午後,ヒッポドローム劇場において,ブルックリン・タバナクルの第一人者として有名なラッセル師がきわめて異例の礼拝を行なった。自分たちの宗教に関する彼の説教を聞いた4,000人のヘブライ人の聴衆が異邦人の説教者に熱烈な拍手を送るという珍しい光景が見られた」。幾十人もの律法学者や教師が出席していました。「前置は何もなかった。背が高く背筋のまっすぐな,白いひげをたくわえたラッセル師は紹介を受けるまでもなくステージを横切り手を上げた。するとブルックリン・タバナクルの2組の四重唱者たちが『シオンの喜ばしき日』という賛美歌をうたった」と同新聞は伝え,やがて話し手に『親しみを覚え』るようになった聴衆からは拍手がわき上がり,ついには熱狂的な反応が示されたと報じています。話が終わるとラッセルは再び合図をし,合唱隊は「一風変わったイースト・サイドの詩人インバーの傑作のひとつである『われらの希望』というシオンの賛美歌の風変わりで異国的なしらべをうた」いました。その影響について新聞の記事は次のように伝えています。「クリスチャンがユダヤ教の賛歌をうたうという先例のないでき事は非常な驚きだった。しばらくのあいだ,ヘブライ人の聴衆は自分たちの耳がほとんど信じられなかった。それが確かに自分たちの賛美歌であることを知った聴衆からは熱烈な歓声と拍手がわき起こったため合唱はかき消されてしまった。ついで歌の2番から何百人もの人々が合唱に加わった。ラッセル師は,自分が劇的に驚かせて巻き起こした興奮の最高潮のところでステージを去り,集会はその賛美歌の終わりをもって終了した」。

時代は変わり,かつては今日の生来のユダヤ人に適用すると考えられていた聖書の預言に対するクリスチャンの見方も変わりました。神からの増し加わった光により,神の民は,そうしたことばがイエス・キリストの油そそがれた追随者である霊的な「神のイスラエル」に対する良い事柄を予告していることを悟ったのです。(ローマ 9:6-8,30-33; 11:17-32。ガラテア 6:16)しかし,わたしたちはこれまで20世紀初頭を回顧してきたのであり,これが当時の様子でした。

ラッセル兄弟はたいへん広く知られた人で,何度も大聴衆を前に話をしましたから,彼はどんな話し方をしたのだろうと考える読者もおられることでしょう。C・B・ベットは,「普通の説教者とは全く違っていましたよ」と強調してから次のように続けました。「雄弁術を使わず,感情に訴えるところもありませんでした。人の気を引く出し物を使って感情をゆさぶり,改宗させることもしませんでした。それらを全部合わせたよりもはるかに効果的で強力な何かがありました。それは神のみことばの,簡潔で物静かな確信に満ちた解説でした。ひとつの聖句を使って別の聖句を解き,その聖句がいわば強力な磁石のようになりました。このようにしてラッセル兄弟は聴衆をうっとりと聞き入らせたのです」。ラルフ・H・レッフラーの話では,ラッセル兄弟は話をする前に聴衆に向かって数回品のよいおじぎをしました。話している時には,たいてい何もない演壇に立ち,手振りを豊かに使いながら歩き回るのがつねでした。レッフラー兄弟によれば,「彼は筋書きを使ったことがありませんでした。……しかしいつも心から自由に話しました。そして,大きくはありませんが,独特の良く通る声をしていました。拡声装置など使ったことはありませんが(当時そうしたものはなかった),彼の話は大ぜいの聴衆に聞きとれ,理解できるもので,1時間,2時間,時には1度に3時間も聴衆をとらえ,魅了しました」。

しかし,人間が重要だったのではありません。音信が重要だったのであり,聖書の真理は大ぜいの人々に宣明されつつありました。その頃,良いたよりを宣明する多くの有能なクリスチャンがいました。そしてある人々は彼らの話す事柄を感謝をもって聞きました。もとより,反対者はたくさんいました。彼らは時おりエホバのしもべと公に討論をして自分たちの非聖書的な考えを広めようとしました。

1903年の3月10日に,ノース・アベニュー・メソジスト監督教会の牧師,E・L・イートン博士は6日間の討論会をラッセルに申し込みました。それは,C・T・ラッセルの学識と聖書的な見解に対する信用を落とさせるため,ピッツバーグの牧師連盟が仕組んだものであることが後日明らかになりました。その年の秋にアレゲーニーのカーネギー・ホールで開かれた討論会のそれぞれの部分で,ラッセルは大方勝利をおさめました。とりわけ彼が聖書的に譲らなかったのは,死者の魂はそのからだが墓にある限り無意識であることや,キリストの二度目の到来と千年期の目的は地上の全家族を祝福することであるという点でした。ラッセルはまた,地獄の火の教理を聖書から非常に強力に否定しました。討論会の最後の部分が終わったあと,ひとりの僧職者がラッセルに近づき,「地獄にホースを向けて火を消してくださってほんとうにありがとうございます」と語ったと伝えられています。興味深いことに,この討論会の後,イートン会衆の会員が多数聖書研究者になりました。

1908年2月23日から28日には,オハイオ州,シンシナチでもうひとつの注目すべき討論会が開かれました。それはC・T・ラッセルと「デサイプル」派のL・S・ワイトの間で行なわれ,何千人もの聴衆が出席しました。ラッセルは,死んでから復活するまでの間死者は無意識であるといった聖書の教えを勇敢に支持し,キリストの二度目の到来は千年期に先行するものであり,そのどちらの目的も地の全家族を祝福することであるという点を聖書から主張しました。その討論会に出席していた,ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルはこう語っています。「真理の美と調和,それに討論会の各論題に関する聖書からの優れた論議は人間の混乱した教えときわだった対照をなしていました。反対者側の代表者であり弁士でもある『ワイト長老』は,ある所で,『当店ではどんな物でも巻いたり曲げたりいたします』という鍛冶屋の店の看板を思い出したと絶望した様子で語りました。しかし,正直な心で真理を求める人たちにとって,それは(ラッセルによって行なわれた)『真理のことばを正しく扱』い,結果として調和をもたらす実演ともいうべきものでした」。(テモテ第二 2:15)クルル姉妹たちは,エホバがラッセル兄弟を祝福してご自分の霊をお与えになり,真理を巧みに示せるようにされたことを回想します。またふたりはそのでき事を「誤りに対する真理の勝利」と呼んでいます。

バプテスト派から討論会の申し込みを受けたJ・F・ラザフォードは,ものみの塔協会を代表してJ・H・トロイと対決しました。その討論会は,1915年4月にカリフォルニア州ロサンゼルスのトリニティー講堂で1万2,000人(推定1万人は席がないため帰された)の聴衆を前に四晩にわたって行なわれました。ラザフォードは聖書の真理を勇敢に弁護して勝ちました。

イートン対ラッセルの討論会以後12年の間に,神のしもべたちはほかにも幾つかの討論会の申し込みに応じました。しかし相手側は,恐れのためと思われますが,たいていは約束を取りやめました。C・T・ラッセル自身は,それがクリスチャンにとって益にならないことを知っていたので討論会を好みませんでした。1915年5月1日号の「ものみの塔」の中で,ラッセルは特に,「真理に属している人々は黄金律によって縛られており,全き公正さをもって話すが,反対者たちは何の制約も制限も持たないようである」と指摘しました。ラッセルは,「文脈を無視し,黄金律を無視し,あらゆる物を無視したいかなる議論も許されると考えられている」と書き,さらにこう述べました。「編集者に関する限り,今後討論会を望む気持ちはない。また,編集者は議論することを好まない。議論が良いことを成し遂げることはごくまれで,話し手と聞き手双方にしばしば怒りや悪意,にがにがしい気持ちなどを引き起こすからである。むしろ,編集者は,主のみことばの音信を口頭でまた印刷物によって,それを聞こうとする人々の前に呈示し,反対者たちがそれを適当と考え,つけ込む機会とみなすような仕方で誤りを提出するにまかせるのである。―ヘブライ 4:12」。

聖書の講話そのものは聖書の真理を伝えるより良い機会となりましたから,C・T・ラッセルはしばしば大ぜいの聴衆に話をしました。たとえば1905年から1907年にかけて,彼は特別列車や自動車でアメリカとカナダを旅行し,一連の一日大会を司会しました。その時彼が行なった公開講演は「地獄へ行って戻って来る」と題するものでした。ふたつの国のほとんどすべての大都市においてぎっしり詰まった会場で行なわれたこの話は,地獄へ行って戻って来るという愉快な想像上の旅行を呼び物としていました。ルイス・コズビはラッセルがその講演をバージニア州ラインヒバーグで行なうことを承諾した時のことを回顧して次のように語っています。「父はその講演を宣伝する大きなポスターを作って,それを電車の前面に掲げる許可を得たのですが,それはたいへん愉快なことでした。人々は,この電車が地獄行きなら,わたしたちを連れて戻ってきますかと尋ねたのですからね」。

聖書講演はまたC・T・ラッセルの海外旅行の特色をなしていました。1903年に彼は二度目のヨーロッパ旅行をして様々な都市で講演しました。ついで1911年12月から1912年3月にかけて,ラッセルは七人委員会の司会者として世界一周旅行をし,ハワイ,日本,中国を訪れ,南アジアを通ってアフリカに渡った後ヨーロッパに行き,ニューヨークに戻りました。彼らはキリスト教世界の海外における宣教活動を調査し,多くの講演を行ないました。こうして真理の種は広められ,その結果地の遠い所でも油そそがれたクリスチャンが実りの多い活動をするようになりました。しかし,ラッセルはこの世界一周旅行のほかにヨーロッパを定期的に訪問したり,多くの仲間の働き人を伴って「大会旅行」特別列車に乗り,北アメリカ全土を広範囲に旅行しました。

「大会列車」に乗る

時の経過と共に,C・T・ラッセルに直接会いたいという要望が高まりました。契約した幾つかの講演をするため,ラッセルは時おり少数の人々を伴って特別仕立ての「大会列車」で旅行しました。しかし比較的大きなグループが「大会列車」に乗るように組織され,ある時には240人がラッセルといっしょに旅行したこともあります。数台の客車が連結され,一行は前もって組まれた旅程に従って各都市を訪れたのです。ひとつの都市に着くとラッセルを補佐する人々がビラを配布して公開集会を宣伝しました。集会では個々の人を歓迎して関心を持つ人の住所氏名を控え,できればその人たちを訪問して会衆を設立する努力がなされました。アメリカとカナダの大都市を訪問する時に,こうした「大会列車」を利用することは珍しくはありませんでした。

「大会列車」に乗って,クリスチャンの幸福そうな仲間と汽車の旅をしてはいかがですか。1913年6月に特別列車が仕立てられ,200名を上回る聖書研究者がイリノイ州のシカゴからラッセルに同行して,テキサス州,カリフォルニア州,カナダ,イリノイ州のロックフォードをう回してウィスコンシン州のマジソンでの大会に行きました。詳しいことをマリンダ・Z・キーファーに話してもらいましょう。「わたしたちの乗った汽車は6月2日正午にワバッシュ鉄道のデアボーン駅から出発することになっていました。友人たちは10時ごろから集まり始めました。それは長い間会っていない旧友に会い,新しい人と知り合いになる幸福で興奮に満ちた時でした。わたしたちがひとつの大きな家族であることを知るのに長い時間はかかりませんでした。……そして列車は1か月のあいだわたしたちの家となりました」。

いよいよ出発の時間です。キーファー姉妹の話は続きます。「汽車がプラットホームを離れて1万2,800㌔の旅に出る時に,見送りに来た友人たちは,わたしたちが見えなくなり,思い出深い旅行に出てしまうまでずっと帽子やハンカチーフを振りながら,『結ばれるきずなに幸いあれ』と『また会う日まで神共にあらんことを』を歌ってくれました。ミズーリ州のセントルイス他2,3の所から数名の人が乗って,一行の人数は最後に240名となりました。ラッセル兄弟は,8日間の大会が開かれていたアーカンソー州ホット・スプリングでわたしたちに加わりました」。

それは確かに霊的に築き上げる旅でした。キーファー姉妹は次のように語っています。「旅行中立ち寄る所ではどこでも大会が開かれていました。それはたいてい3日間にわたるもので,わたしたちはそれぞれの大会に1日滞在しました。滞在中にラッセル兄弟はふたつの話をしました。ひとつは午後に信者のために話され,もうひとつは夜に『墓のかなたに』と題し一般の人たちに対して話されました」。旅行の感想についてキーファー姉妹は,「道中得られた仲間の方々との親しい交わりや霊的に築き上げる話,また受けた教訓に対するわたしの感謝の気持ちはことばでは言い表わせません。これほどの特権を得たことをエホバに深く感謝しています」と語っています。

神の民のそれら初期の大会の様子は今日の大会と幾分異なっていました。一例として「愛餐」があります。初期の大会の特徴になっていた「愛餐」とはどのようなものであったか,J・W・アシェルマンはその思い出をこう述べています。「必要でなかったり,後に行なわれなくなった慣行が当時は祝福であると考えられていました。たとえば,講演者たちはさいの目に切ったパンのはいった皿を持って演壇の正面にずらりと並び,聴衆はパンにあずかる列を作って各の講演者と握手をし,『我らの心をクリスチャン愛のうちに結ぶきずなに祝福あれ』という歌に和するのです」。これがすなわち「愛餐」でした。それが感動的な経験であったことをエディス・R・ブレニスンはためらうことなくこう認めています。「相互の愛が心から満ちあふれ,喜びの涙となってほほを伝わりました。わたしたちは涙が流れるのを恥ずかしいとは思わず,それを隠そうともしませんでした」。

初期のクリスチャンは時に「愛餐」をしましたが,聖書はそれについて詳しく述べてはいません。(ユダ 12)それは物質的に富んだクリスチャンが比較的貧しい仲間の崇拝者を招いて宴を開いたことであると一部の人は考えています。しかし,それが初めどのような性質のものであったにせよ,聖書は「愛餐」を義務づけてはいないので,今日の真のクリスチャンの間では行なわれていません。

良いたよりを宣明する新しい方法

聖書研究者は,『御国のこの福音は,もろもろの国人に証をなさんため全世界に宣伝へられん,しかして後,終は至るべし』というイエス・キリストの預言を十分に知っていました。(マタイ 24:14)ですから,1914年という重大な年が近づくにつれて,神の民は世界的規模の,総力をあげての運動,つまりそれまでとは比較にならない教育と警告のわざに着手しました。彼らは良いたよりを宣明する大胆で新しい方法を使いました。

さて,1914年にさかのぼってみることにしましょう。自分が暗い講堂の中で幾百人もの人々に混じって席についていると想像してみてください。あなたの前には活動写真の大きなスクリーンがあります。驚いたことに,フロック・コートを着た白いひげの男の人の姿が現われ,筋書きを持たずに話し始めます。もちろんあなたは以前に映画に行ったことがおありかもしれません。しかし,この映画は普通の映画とは違います。その男の人は話し,あなたは彼のことばを聞きます。これはよくある無声映画ではありません。技術的にも,それが伝える音信の点でもこの映画は特別なもので,あなたに感銘を与えます。その男の人はチャールズ・テイズ・ラッセルであり,映画の題名は「創造の写真 ― 劇」です。

活動写真が優れた広報手段であることに気づいていたラッセルは,1912年に「創造の写真 ― 劇」の準備を始めました。完成したものは,スライドと活動写真を組み合わせた上映時間8時間に及ぶカラー映画で,録音も完備していました。「写真 ― 劇」は4部に分かれており,観客は,創造から地と人類に対する神の目的の最高潮であるイエス・キリストの千年統治の終わりに至る人間の歴史を見ることができました。スライドや映画は話と音楽の録音されたレコードと一致させてありました。それまでに有声のカラー映画がいろいろ試みられていましたが,商業的に成功したのはそれから数年後のことでした。1922年になって長編のカラー映画が登場し,せりふと音楽がいっしょになった商業映画が一般化したのは1927年のことです。ところが「創造の写真 ― 劇」はカラーで,せりふと音楽がついていました。それは一般の映画より数年も先がけており,しかも幾百万人もの人々に無料で上映されたのです!

協会は「写真 ― 劇」の作製に30万㌦というその時代にしては相当の資金を投じました。作製に要した労力について,ラッセルは次のように書いています。「神はご親切にも,『写真 ― 劇』に要する仕事の量に対してわたしたちの目を覆ってくださった。もし最初からどれほどの時間と経費と忍耐が必要とされるかを知っていたら,わたしたちはこの仕事を始めはしなかったであろう。しかし,わたしたちは『写真 ― 劇』がどれほど大成功するかをも前もって知らなかったのである」。えりすぐった音楽が録音され,蓄音機のレコードに吹き込まれた96のせりふが準備されました。世界史を描いたりっぱな絵の実体幻灯用スライドが作られましたが,それには幾百枚もの絵やスケッチを描かなければなりませんでした。カラースライドとフィルムはすべて手で描くことが必要で,その仕事の一部は協会の絵画室で行なわれました。しかも,予定の日に80の異なった都市で「写真 ― 劇」の一部を上映するため,4部一組の映画を少なくとも20組作ったのですから,その作業を何度もくり返し行なわねばならなかったことがわかります。

「創造の写真 ― 劇」がスクリーンに写し出したものは何でしたか。アリス・ホッフマンの話では,「『写真 ― 劇』はラッセル兄弟の映画で始まり,彼の姿がスクリーンに現われ,くちびるが動き始めると,それにぴったり合わせて蓄音器が回され,ラッセル兄弟の声が聞こえました」。

花が開くところやひよこがかえるところは,「写真 ― 劇」の忘れられない場面です。そうした低速度撮影の画面は確かに観客の心を打ちました。「画面が写し出されている時に,ナルシサスやユーモレスクといった珠玉の名曲が流れていました」とカール・F・クレインは語ります。

記憶に残る場面は他にもたくさんありました。マーサ・メレディスはこう語っています。「ノアとその家族が動物といっしょに箱船に入るところとか,アブラハムとイサクがモリア山へ歩いて行き,アブラハムがそこで息子をいまにも犠牲としてささげようとする場面を思い浮べることができます。アブラハムが息子,彼がいとおしんでいた息子を祭壇に乗せるのを見た時には涙が出ました。エホバがアブラハムをご自分の友と呼ばれたのも不思議ではありません。……エホバはアブラハムがどんな時でもご自分の声に従うことを知っておられたのですね」― ヤコブ 2:23

正式の「創造の写真 ― 劇」のほかに,「ユリーカ劇」というのがありました。「写真 ― 劇」は音楽も録音され,96の話が吹き込まれたものでしたが,ユリーカ劇のほうはレコードとスライドから成っていて,活動写真はついていませんでした。しかし,比較的人口の少ない地域で非常な成功を収めました。

「創造の写真 ― 劇」は,1914年中アメリカ全土において無料で上映されました。しかし,それは協会に対しても,上映に適した会場を借りる資金を寄付した土地の兄弟たちに対しても経済的に非常な負担を掛けたため,やがて,大ぜいの人々を集めて上映することは行なわれなくなりました。しかし,それは,人々に神のみことばと目的を知らせるうえで大きな働きをしました。

たとえば,C・T・ラッセルにあてた手紙の中でひとりの人は,「あなたがお使いになった手段を通して,妻とわたしは,はかり知れないほど大きな祝福を受けたことを天のみ父に心から感謝しております。真理を知り,それを自分たちのものにできたきっかけは,美しい『写真 ― 劇』でした」と述べました。リリー・R・パーネルはこう語っています。「人類に対するエホバの目的の,絵を使った説明は多くの考え深い人の関心を高めたので,(マサチューセッツ州,グリーンフィールドの)会衆は大きくなりました。それによって,聖書が生きた本となり,また,神の備えを活用する人々に神がどんな貴重な救いのための情報を与えておられるかが,考え深い人々に明らかにされているからです」。

ですから,長年協会の本部職員だったデメトリウス・パパジョージが,「聖書研究者の数が少なかったことや,比較的少額の資金でまかなったことを考えると,『写真 ― 劇』は一大事業でした。背後にエホバの霊があったことはまちがいありません」と語ったのももっともなことです。

『霊に燃えた』聖書文書頒布書たち

1914年に先立つ何年もの間,『霊に燃えた』クリスチャンの男女からなる熱心な聖書文書頒布者は,良いたよりを至るところに広めていました。(ローマ 12:11)聖書文書頒布者の奉仕が始まったのは,「シオンのものみの塔」誌に「一千人の伝道者を求む」と題する記事が載せられた,1881年のことでした。扶養家族を持っておらず,自分の時間の半分以上を主のわざに費やせる人々に対して,聖書文書頒布者もしくは福音宣明者として,大小の都市に出かけていくことが勧められました。その目的は何でしたか。同「ものみの塔」誌には,「あらゆる場所で誠実なクリスチャンを見いだすように努めてください……それらの人々に,み父の恩恵とみことばの美を知らせるようにしてください」,と書かれていました。そうした人々に聖書文書を手渡すことが目的だったのです。そして聖書文書頒布者たちは,文書を配布したり,「ものみの塔」の予約を得て受け取ったお金で自分の費用をまかなってよいことになっていました。

1887年5月の「シオンのものみの塔」誌は,聖書文書頒布者のために戸口で何を話したらよいかについての次のような優れた提案を述べました。「神および,あなたが光に導こうとする人々に対するにあふれ,神とそのお約束に対する信仰に満ち,現在のみならず将来もご自分の栄光のためにあなたを用いることを神が喜ばれるという希望にふくらんだ,大きな心を持ちなさい」。

エホバの奉仕に心から励んだ聖書文書頒布者たちは深い感銘を与え,都市や町や村など行く先々で注目されました。1890年代後期の「ゴスペル・メッセンジャー」誌上で,一記者は心を動かされて次のように述べました。「[アラバマ州の]バーミンガムの町で,『宗派的でないクリスチャン』と称する数名の人々が働いている。……それらの人はこの町で戸別の訪問を行ない,「千年期黎明」を販売したり,他の薄い出版物を流布している。また,あらゆる機会に自分たちの宗教を語り,日曜日には伝道する。『聖書文書頒布者』ととなえる彼らは,この町で二千冊以上の本を配布した。……さて,わたしたちがこのような方法で,文書や,自分たちが理解しているままの聖書の教理を広めることができないのはなぜだろうか。実際,わたしたちは方法に工夫をこらすことをしてこなかったのではないかと思う。また,前進し始めなければ,わたしたちを後退させるということを,神が徐々に示しておられるのではないだろうか」。

「そうです,昔,町や村は,聖書文書頒布者によって網らされました。彼らは農作物やにわとり,せっけん,その他と物々交換し,それを自分たちで使ったり,他の人に売ったりすることがありました。時々,人口のまばらな所ででは,農家や牧場主のところに一晩泊めてもらったり,干し草の山の中で眠ることさえありました……それら忠実な人々は,年を取るまで何年もの間行ない続けたのです」と,聖書文書頒布者のことをよく覚えているヘンリー・ファーリックは書いています。

長年にわたって,エホバは,忠実な聖書文書頒布者に十分の備えをお与えになったので,彼らが実際なくてはならないものに不自由な思いをしたことはありませんでした。(詩 23:1)クラレンス・S・ハゼイはこう語っています。「わたしたちは文書を配布して得た寄付でつましく暮らしました。それには,エホバの愛ある備えに対する信仰が必要でしたが,正直に言って,全時間奉仕に携わった何年もの間,ひもじい思いをしたことはなく,雨露をしのぐ場所も着る物も必要なだけ得られました。(詩 37:25)実にすばらしいことですが,エホバが必要なものを備えてくださったのです」。

昔は生活費があまり高くなかったとはいえ,聖書文書頒布者がぜいたくに暮らせたわけではありません。たとえは1910年当時を考えてみましょう。マリンダ・Z・キーファーは,聖書文書頒布者としてアイオア州カウンシル・ブラッフスで働いていた時のことを振り返って次のように書いています。「カウンシル・ブラッフスは比較的難しい区域でしたが,積極的な態度で当たればやってゆくことができました。当時の生活費は断然安いものでした。交通手段(徒歩)にお金はそれほどかかりませんでしたし,食費もそうでした。たとえば,パンがひと山5㌣(約15円),砂糖が1ポンド5㌣,ステーキが1ポンド25㌣で,ステーキが買えたら,それはたいへんなごちそうでした。部屋の家賃は手ごろで,トロリー・カーの料金は5㌣でした。1970年代と比べると,まるで別世界のようです」。

ジョージ・E・ハナンは1921年の末に聖書文書頒布の奉仕を始めました。生活費について彼はかつて次のように書きました。「わたしの食費は1週間4㌦(約1,200円)かかりました。1日1回は,温かい食事をとれましたが,ほかの2食は,文書と引き替えに得た乾燥したくだものか,少しの野菜ですませました。お金がなくなったらどうするのかと尋ねる人には,『エホバがめんどうを見てくださいますから,心配する必要はありません』と答えたものです。残りのお金が50㌦しかなくなったとき,全時間奉仕をやめた人がいると聞いたことがありますが,わたしは,50㌦でも,いや10㌦でも,あるいは1㌦(300円)でもあるかぎり,エホバが援助の手を差し伸べる必要がどこにあるだろうかと考えました。高級な生活をするための費用ではなく,必要な生活費であれば,たとえ高くついてもやっていけるようにエホバが援助してくださるということをわたしは確信していました」。

交通はどうしたのでしょうか。チャールズ・H・ケイペンは,ペンシルバニア州の幾つかの郡を「徒歩で」奉仕したということです。自転車が非常に便利だと考えた人もありました。ラルエ・ウィチィによれば,「1911年から1914年にかけて,聖書文書頒布者は,オハイオ州の自分の区画内の郡で奉仕していました。『聖書研究』を積んだ自転車を幾キロもこいで,一生懸命に奉仕しました」。もっとも,初めて自転車に乗って,たいへんな思いをした人もありました。

馬のほうがもっと楽だったかもしれません。マリンダ・Z・キーファーはドビンという年取った馬のことを懐かしそうに話してくれました。「ドビンはおとなしい馬でしたから,つなぐ必要は全くありませんでした。わたしが戸別に訪問している間待っていて,それから次の場所までわたしといっしょに歩いてくれたものです」。

しかし,どの馬も年取ったドビンのようであったわけではありません。それを経験したのは,聖書文書頒布者のアンナ・E・ジンママンとエステル・スナイダーです。ふたりの女性が,西部から着いたばかりの馬の引く貸荷馬車に乗っているところを想像してください。ジンママン姉妹はこんな風に話してくれました。その馬は,「何かが自分のそばを通りすぎるのを絶対に許しませんでした。汽車でさえそうでした。ところが,貸馬車屋の手前数キロのところを汽車が道に並行して走っていたのです。わたしは機関士に向かって,『馬車屋に馬を入れるまで汽車を駅に止めておいていただけませんか』と叫びました。機関士は,『いいですよ,ごゆっくり』と答えました。馬は相変わらず全速力で疾走し続けました。わたしたちが無事に馬車屋に着くと,そこの主人は,あんたがたが馬を借りに来た時には,わしはちょうど昼めしのさい中で,馬をならすように言いつけておいた小僧は馬をこわがって,お前さんにそれをやってもらっちまった,どうもすまんです,とわびました」。

そして,数年後には自動車も使われました。いうまでもなく,今日アメリカでは,ほとんどの場所で舗装された道路が完備していますが,数十年前はそうではありませんでした。ですから自動車の旅行にも問題はありました。例えばヘイゼル・クルルとヘレン・クルルはある経験を次のように書いています。「穴がふさいであったのですが,それがたいへん大きくて,埋められた土がとても柔らかだったものですから,自動車はドスンと軸までその穴にめり込んでしまいました。わたしたちがよく使っていたスコップはその場合まに合いませんでした。近所の親切な人がらばを貸してくれましたが,さらに,深くめり込んだ後部をこじ上げるための丸太とか,梁とか,木の枝が別にないかと道端をさがし回りました。こうして,前方をらばで引っぱり,中央でエンジンをかけ,後ろから力いっぱい押し,何度もくり返した末にやっとのことで自動車が穴から出た時には,ほんとうにほっとしました。でも,毎日それなりの喜びがあるものです。その事故が起こる前に,道路からはずれてしばらく歩いた所で,数件の興味深い訪問ができたのです。ですから,苦しい経験は喜びとつり合っていました。ダビデと同じように,わたしたちは心からこう嘆願することがよくありました。『ああ神よ ねがはくはわが泣く声をききたまへ わが祈にみこころをとめたまへ』― 詩 61:1」。

彼らが直面した問題よりもはるかに重要だったのは,聖書文書頒布者の伝道活動でした。彼らが人々の家庭を訪問するところに,わたしたちもついて行くことにしましょう。ウィリアム・P・モックリジはビンセント・C・ライスに加わって,1906年中,ニューヨーク州のシェネクタディで聖書文書頒布のわざを行ないました。彼の話は,わたしたちをその当時に連れていってくれます。「最初の日,一日中働いて一冊も配布できませんでした。しかし,わたしは優秀な頒布者でなければならなかったのです。その夜,わたしは,『石綿』のように燃えないものや物質的なものを思いから取り去り,どんな人が戸口に出て来ても気持ちよく話す,ライス兄弟の謙そんで親切な近づき方に見倣えますよう助けてください,とエホバに祈りました。すると,まもなく,協会から支給された『内容見本』を使って,たくさんの書籍を配布するようになりました。……[「聖書研究」の]最初の3巻は98㌣,また6巻全部は1㌦98㌣で『注文を取り』ました。ふつう,毎月1日か15日が『支払い日』になっていて,その日に注文のあったところに届けました」。

モックリッジ兄弟が「内容見本」を使ったという点に気づかれましたか。それは,「千年期黎明」(「聖書研究」)の全6巻の表紙をアコーデオン式に並べたもので,聖書文書頒布者や他の聖書研究者は,何年ものあいだそれを戸別の伝道の際に用いました。聖書文書頒布者は戸口でそれを腕いっぱいに伸ばして,各巻の主題について話し,注文を得ると後日に本を届けました。

パール・ライトは,「書籍の詰まったスーツ・ケースは重くて,配達日はたいへんでした」と正直に語っていますが,たしかにそのとおりでした。「聖書研究」の50巻分の注文を取ったとすると,その重さは18㌔ほどになりますから,女性はおろか,健康な多くの男性にとっても軽い荷ではありませんでした。しかし,しばらくして,ジェイムズ・H・コウルは,スーツケースに取り付けられる,車のふたつついたニッケルメッキ仕上げの付属品を考案しました。

アンナ・E・ジンママンによれば,それは「人目を引くものでした」。彼女は次のように語っています。「ペンシルバニア州ホリデイズバーグの町で聖書文書の頒布をしていた時のひとつの経験を思い出します。わたしは,車をつけたスーツケースを引いて,お昼どきの商店街を通って行かねばなりませんでした。そうすることは心配でしたが,ともあれ自分のわきにスーツケースを引きながら進んで行きました。すると,突然,身なりの良い紳士が後から礼儀正しく近づいて来て,わたしのスーツケースの取っ手を持ちながら,『しばらくの間わたしにこれを引かせていただけませんか。どんな具合になっているか見たいのです。あなたがずいぶん楽そうに引いておられますからね』と言いました。ところで,その人は商店街を通り抜けるまでスーツケースを引いてくださり,わたしは何もしなくてすみました。そして,その人が町の新聞の編集長であることを知りました」。翌日の地方新聞には詳しい報告が載っていました。

忠実な聖書文書頒布者たちは,無私の動機からエホバにより頼みつつ勤勉に働きました。そして彼らの努力は報われ,その活動の結果として,時々会衆が発展しました。深い満足と霊的に豊かな報いがありました,エディス・ケスラーと彼女の実の姉妹であるクララは,1907年に,聖書文書頒布の仕事を喜びのうちに始めました。ふたりは長い距離を歩き,「配達日」には多くの書籍を運ばねばなりませんでした。疲れたことは確かです。しかし,エディスの次のことばは,昔の忠実な聖書文書頒布者の考えを代表しているように思います。「わたしたちは若く,奉仕をしている時は幸福でした。自分の力を費やしてヤハに仕えることに大きな喜びを感じました」。

「なんぢを攻んとてつくられしうつはものは利あることなし」

忠実な聖書文書頒布者と他の聖書研究者が良いたよりを熱心に宣明していた間も,サタン悪魔は彼らを砕き滅ぼす手をゆるめたり,そうする努力をやめたりはしませんでした。もしも,彼らに神の保護が差し伸べられていなかったなら,サタンはその望みを遂げていたことでしょう。(ペテロ第一 5:8,9。ヘブライ 2:14)彼らは,神が昔ご自分の民に語られた次の約束のことばの真実さを悟りました。「すべてなんぢを攻んとてつくられしうつはものは利あることなし 興起ちてなんぢとあらそひ訴ふる舌はなんぢに罪せらるべし」― イザヤ 54:17

イエス・キリストは迫害されましたから,その追随者は,偽りの宗教を奉じる人々や一般の世から同様に扱われることを予期できます。(ヨハネ 15:20)しかし,サタンの攻撃は,時として,内部から来るものでした。つまり,それは,クリスチャン組織内の恥知らずの者たちによって引き起こされ,事実「わたしたちの仲間ではない」者たちの関係するでき事に端を発しています。―ヨハネ第一 2:19

1870年代に,C・T・ラッセルが,「朝の先ぶれ」誌の発行者N・H・バーバーと交わりを絶ったことが思い出されます。それは,ラッセルがあくまでも支持した,聖書に基づく贖いの教理をバーバーが否定したからでした。その後1890年代の初めに,組織内のある顕著な人々は,破廉恥なことに,ものみの塔協会を牛耳ろうとしました。反逆者たちは,ラッセルの人気を失わせ,協会の会長をやめさせるために考え出した実「弾」を爆発させる計画を立て,2年間ほどもくろんだ後,1894年に陰謀を起こしました。主として,C・T・ラッセルの仕事上の不正を申し立てるということを中心に苦情が出され,偽りの告発がなされました。実際,ごくささいな事がとりざたされましたから,告発者たちが,本来,C・T・ラッセルの名誉毀損を意図していたことは明らかでした。公平な仲間の信者が事情を調査してラッセルの正しさを認めたため,「ラッセル氏とその業績をふっ飛ばす」という反逆者たちの計画は完全に失敗しました。使徒パウロと同様,ラッセルは「偽兄弟」による苦しみを経験したわけです。しかし,その試練はサタンの謀りごとであることがわかりましたから,反逆者たちはクリスチャンの交友を楽しむには不適当とされました。―コリント第二 11:26

言うまでもなく,C・T・ラッセルの試練や苦難はそれで終わりませんでした。さらに,彼自身の家庭の事情により,非常に個人的な仕方で苦しまねばならなかったのです。1894年にもめ事のあった間,C・T・ラッセル夫人(旧姓はマリア・フランシス・アクレイで,1879年にラッセルと結婚した)はニューヨークからシカゴまで旅行し,その道すがら聖書研究者と会合して夫を弁護しました。彼女は教育を受けたそう明な女性でしたから,その時訪問した幾つかの会衆で非常な歓迎を受けました。

ラッセル夫人はものみの塔協会の理事でしたし,数年にわたって秘書および会計の仕事もしていました。さらに,「シオンのものみの塔」の定期寄稿者で,しばらくは同誌の共同編集者でもあった彼女は,ついに,「ものみの塔」に掲載する記事に関してより大きな発言権を要求するようになりました。それは,モーセの姉のミリアムの野心に匹敵するものでした。ミリアムは,神によってイスラエルの指導者となった弟に反抗して自分自身を目立つ地位に置こうとしたのです。それは神の不興を買う行為でした。―民数 12:1-15

ラッセル夫人のこのような態度を助長したのは何でしたか。1906年に,C・T・ラッセルは次のように書いています。「わたしはその時は気づきませんでしたが,反逆者たちが甘言を使ったり『女性の権利』を論じるなどして,妻の心に不一致の種をまくよう努力したことをやがて知るようになりました。しかし,[1894年に]衝撃的事件があった時,わたしは,主の摂理により,妻が反逆者に加担しているのを見るという屈辱は免れることができました。……事態が収まり始めると,『女性の権利』という考えと個人的な野心が再び頭をもたげるようになりました。わたしの理解によれば,ラッセル夫人は,わたしを弁護するために活躍し,その際の旅行中ずっと愛する友人たちから非常に暖かい歓迎を受けたことが災いして,自賛の気持ちを募らせたのです。……彼女は,しだいに,自分の書いたものでなければ『ものみの塔』誌に掲載するのは適切でないという考えに至ったように思われます。それで,わたしは,わたしの書いたものを書き直すようにという提案に絶えず悩まされました。最初の幸福な13年間彼女の特質であった謙そんさとはおよそ縁のない,そうした性質が強まっていることを指摘するのは,わたしにとってつらいことです」。

ラッセル夫人は非常に非協力的になり,緊張した関係が続きました。しかし,1897年の初めに夫人は病気にかかりました。ラッセルは彼女の世話を十二分に,しかも快く行ないました。その親切な世話が夫人の心に達して,夫人が以前の愛に満ちたやさしい心を取り戻すであろう,とラッセルは思いました。ところが,夫人は快復すると委員会を招集して夫と会見したのです。それは「特に,『ものみの塔』誌上で彼女がわたしと同等の権利を持っていること,また,彼女が望む自由を与えないわたしはまちがっているということを,兄弟たちを使ってわたしに教えるのが目的でした」,とC・T・ラッセルは書いています。しかし,事情が明らかになった時,委員会は,彼らも他の人々もラッセルによる「ものみの塔」の運営に干渉する権利を持っていないことを彼女に告げました。ラッセル夫人は,委員会に同意しかねるけれども,委員会の見地から物事を見るように努めたい,という主旨のことを述べました。ラッセルはさらにこう伝えています。「それで,わたしは皆のいる所で,握手をしてくれるかどうか彼女に尋ねました。彼女はためらいましたが,結局わたしに手を差し出しました。次にわたしは,『では,君がこれまで持ってきた考えを入れ替えたしるしに,わたしに接ぷんしてはくれないだろうか』と言いました。彼女はまたもやためらいましたが,最後にわたしに接ぷんし,さらに他の方法でも,愛情がよみがえったことをその委員会の前に示しました」。

こうして,ラッセル夫妻は,『接ぷんを交わして仲直りしました』。その後,夫人の要請で,ラッセルは,「アレゲーニー教会の姉妹たち」の集会を毎週開く取決めを設け,夫人をその指導者にしました。それは騒ぎを大きくし,C・T・ラッセルに対する中傷が広まる結果になりました。しかし,この問題も収まりました。

ところが,結局,敵意を募らせたラッセル夫人は,ものみの塔協会および夫との関係を自ら断つに至りました。彼女は,およそ18年間の結婚生活のあと,1897年に突然夫のもとを去ったのです,ほぼ7年間の別居中,C・T・ラッセルは夫人のために別個の家を備え,経済的な支持も与えました。1903年6月,ラッセル夫人は,ペンシルバニア州ピッツバーグの民事裁判所に合法的な別居の訴訟を提出しました。1906年の4月中に,それはコリアー判事と一陪審員によって審理され,およそ2年後の1908年3月4日に,「絶縁」という形で判決が下されました。判決文は次のとおりです。「要請により審理した結果,原告マリア・F・ラッセルと,被告チャールズ・T・ラッセルは,寝食を共にしないとの判決を下します」。判決文と,裁判所の書記が作成した判決記録には,ともに,「寝食を共にしない」となっています。これは,ある人々がとり違えているような,完全な離婚では決してなく,合法的な別居でした。「ブビエールの法律事典」(1940年,バンクス-ボールドウィン法律出版会社 発行)はこの処置を,「部分的もしくは限定的離婚であり,当事者は別居し,共に住むこと,すなわち夫婦生活を営むことを禁じられている。しかし,結婚それ自体には影響しない。ブラックストン評釈書第一巻440ページ」と定義しています。(314ページ)その312ページでは,「合法的な別居と呼ぶのがさらに適切であろう」とも述べています。

C・T・ラッセル自身,裁判所が完全な離婚を認めたのでなく,それが法律上の別居であることを十分に理解していました。1911年,アイルランドを旅行していた時,ダブリンで,「あなたが奥さんと離婚されたのはほんとうですか」と尋ねられた時,どのように答えたかをラッセルは次のように書いています。「『わたしは妻と離婚していません。同情心のある陪審員のおかげで,裁判所の判決は離婚ではなくて別居でした。そこには,わたしたち双方は別居したほうがさらに幸福であろうとはっきり述べられています。妻はわたしが残酷なことをしたと訴えました。しかし,証拠として挙げられた唯一の残酷な行為とは,彼女が接ぷんを求めた時に一度それを与えなかったということでした』。わたしは,残酷であるとの非難に異議を唱え,彼女ほど夫から大切に扱われた女性はないと信ずる旨を聴衆に断言しました。拍手がわき起こり,聴衆がわたしのことばを信じたことがわかりました」。

その点に関連して,1916年にピッツバーグで行なわれたC・T・ラッセルの葬式の様子も注目に価します。アンナ・K・ガードナーはその時のことをこのように話していますが,他の出席者たちも同じことを覚えています。「カーネギーホールでの式の直前,新聞に載った,ラッセル兄弟に関する虚偽の陳述を反ばくする,ひとつの出来事が起きました。会場は式が始まるずっと前から満員で,静まりかえっていました。その時,ベールをかぶった人が通路を通って棺に近づき,その上に何かを乗せるのが見えました。最前列の人にはそれが何かわかりました。それは,ラッセル兄弟のお好きだった,すずらんの花束で,『わたしの愛する夫へ』と記されたリボンがついていました。ベールの人はラッセル夫人だったのです。ふたりは離婚してはいませんでした。そしてこれはそれを公の前で認めるものでした」。

家庭内の試練がC・T・ラッセルにどれほどの心痛と感情的緊張をもたらしたかは,想像できるにすぎません。結婚上の問題が起きていたある時点でラッセル夫人にあてられた,日付のない自筆の手紙の中で,ラッセルは次のように書いています。「この手紙が届く時には,君が,『どんなことがあっても行末永く,死別するまで』愛し,従い,仕えることを神と人の前で自ら誓った者のもとを去ってちょうど一週間になることだろう。君がこのようになろうとは経験による以外には決して信じられないことだ。一時期,君ほどの愛に満ちた献身的な助け手は他にいなかったとわたしは真実に言うことができる。君がそうでなかったなら,主は君をわたしにお与えにならなかったに違いないと思う。主はあらゆる事をよく行なわれるからだ。このようにして主がわたしに示してくださった神慮に対して,わたしは今も感謝している。そして今なお,君が1日に少なくとも30回わたしに接ぷんし,わたしなしで生きて行けることなど考えられない,わたしに先立たれたらどうしようとたびたび話してくれた時のことを楽しい気持ちをいだきながら振り返っている……しかも,そうした愛の証拠のいくつかをほんの1年半前まで示してくれていたね。ところが,わたしが君をどれほど強く愛しているかを何百回となく断言し,今もなおそうしているにもかかわらず,去年1年のあいだに君の熱烈な愛は薄らいでしまった」。

ラッセルは,大敵対者が夫人を「しっかりとらえ」ていたことをまさしく感じていました。彼は,「わたしは君のために主に真摯な祈りをささげてきた」と語り,また夫人を援助することに努めました。とりわけ,彼は次のように書き送っています。「わたしの悲しみを話して君に負担をかけるつもりはない。愛と同情心と親切といった,キリストの精神にあふれた,かつての君の姿をわたしの脳裏にありありと思い出させる君の服や品物に時々出くわす時のわたしの気持ちを書いて,君の同情心に働きかけようとするつもりもない。わたしの心は,『あー,わたしが君を,それとも君がわたしをあの幸福な時代に葬り去ってしまったのだ』と叫んでいる。しかし,試練や試みはまだ十分ではないように見える。……どうか,わたしが言おうとしていることを祈りのうちに考えてほしい。そして確かに知ってほしい。わたしが痛切に悲しみ,胸の刺される思いがするのは,わたしが残りの人生航路をひとり寂しく行かねばならないからではない。わたしが知るかぎりでは,妻よ,君の落伍,君が永遠に失われてしまうからだよ」。

不道徳ではない

結婚生活上の問題でラッセルを圧迫するだけでは十分でないかのように,敵は,卑劣にも,ラッセルが不道徳を犯しているという趣旨のびろうな非難を彼に浴びせました。そうした故意の虚言は,いわゆる「クラゲ」の話にまつわるものでした。1906年4月に行なわれた裁判の時に,ラッセル夫人は,C・T・ラッセルが「わたしはクラゲのようで,あちらこちらと泳ぎ回り,これに触ったり,あれに触ったりする。もし,その女性が答え応じるなら,彼女を自分のものにし,そうでなければ,他の女性たちの方へ泳いでゆく」と言ったことがあるとボール嬢という女性から聞いた,と証言しました。証人台でC・T・ラッセルは,「クラゲ」の話を断固として否定しました。陪審員に対する説示の中で,裁判官が,「家族の成員であったその女性に関するそうしたささいなでき事は,原告の申し立ての根拠となり得ず,したがって本件とは関係を持たない」と述べたため,その事柄は裁判記録から全く取り除かれました。

問題の女性は,1888年,10歳ぐらいの時に,孤児としてラッセル家に来ました。ラッセル夫妻は彼女を自分の子どものように扱い,少女は,毎晩床に就く前に,ふたりにおやすみのキスをしました。(裁判記録90,91ページ)ラッセル夫人は,例の事があったのは1894年であると証言しましたが,その時少女が15歳を過ぎていたことはあり得ませんでした。(裁判記録15ページ)そのあと,ラッセル夫人は,3年間夫と共に生活してからそのもとを去り,それから約7年後に別居の訴訟を起こしました。夫人が作成した別居の訴状に,問題の事柄は何もふれられていませんでした。ボール嬢はその時生存していて,ラッセル夫人は彼女の住所を知っていましたが,ボール嬢を証人にすることはなされず,また,ボール嬢の証言を提出することも行なわれませんでした。C・T・ラッセルも,ボール嬢に出廷して証言してもらうことはできなかったでしょう。なぜなら,夫人がそうしたことを裁判に持ち出すという知らせ,もしくは通告を何も受けていなかったからです。さらに,申し立てのあったでき事から3年して,ラッセル夫人は委員会を招集し,その前で夫と幾つかの相違点について話し合いましたが,「クラゲ」の話はほのめかされることさえありませんでした。別居扶助料を要求する際,ラッセル夫人の弁護士は,「わたしたちは姦淫の罪で告発しているのではありません」と述べました。また,ラッセル夫人も,実際,夫が不道徳な行ないで罪があるとは考えていなかったということは,記録に(10ページ)示されています。彼女の法律顧問から,「あなたは,ご主人は姦淫の罪があると言っておられるのではないのですね」と尋ねられて,夫人は,「はい,そうではありません」と答えたのです。

チャールズ・テイズ・ラッセルが,家庭の問題やそれに関係した苦難を経験した試みの期間中,エホバは聖霊をもって彼を支えられました。そうした年月の間引き続き神に用いられたラッセルは,「シオンのものみの塔」誌の記事を書くかたわら,責任の重い他の仕事も果たし,さらには,「千年期黎明」(もしくは,「聖書研究」)の3巻を執筆しました。これは,今日のクリスチャンにとって,様々な試練に悩まされても神のご意志を行ない続けてゆく際の大きな励ましではありませんか! イエスの忠実な油そそがれた追随者たちを特に力づけるのは,ヤコブの語った次のことばです。「試練に耐えてゆく人は幸いです。なぜなら,その人は是認されるとき,エホバがご自分を愛しつづける者たちに約束されたもの,すなわち命の冠を受けるからです」― ヤコブ 1:12

奇跡の小麦

C・T・ラッセルの敵は,彼の家庭の問題ばかりでなく,他の「武器」も使って攻撃しました。たとえば,ラッセルが普通の小麦の種を,「奇跡の小麦」の名のもとに1ポンド1㌦,もしくは1ブッシェル60㌦で売った,と告発したのです。彼らは,ラッセルがそれから多額の個人的な利益を得たと考えました。しかし,そのような非難は全くの偽りです。では,真相は何ですか。

1904年のこと,K・B・ストーナーという人は,ヴァージニア州フィンカースルにある自分の庭で珍しい植物が育っているのに気づきました。それには142本の茎があって,それぞれに成熟した穂がついており,小麦の変種であることがわかりました。1906年に,ストーナーはそれを「奇跡の小麦」と命名しました。やがて他の人々もそれを手に入れて栽培し,驚くほどの収穫を得ました。事実,奇跡の小麦は幾つかの品評会で賞を獲得しています。C・T・ラッセルは,「沙漠はよろこびて番紅の花のごとく咲かがやかん」という聖書の予言や,「地はその産物を出さん」という予言に関係したことであれば,何にでも大きな関心を持ちました。(イザヤ 35:1。エゼキエル 34:27)1907年11月23日,アメリカ政府の農務次官,H・A・ミラーは,ストーナー氏が栽培した小麦を推薦する報告書を農務省に提出しました。アメリカ全国で,一般の新聞がその報告に注目しました。C・T・ラッセルもそれに注目し,「シオンのものみの塔」誌1908年3月15日号の86ページに,幾つかの新聞の論評と政府の報告書の抜粋を掲載しました。その結論の部分で,彼は次のように述べました,「たとえその話には半分の真実しか含まれていないとしても,それは,『世が始まって以来,神がすべての聖なる預言者たちの口を通して語られたすべての事がらの回復の時』に必要な物を備える神の力をさらに証明しています。―使徒 3:19-21」。

ストーナー氏をはじめ,奇跡の小麦を試みた他の様々な人々は,聖書研究者もしくはC・T・ラッセルの仲間ではありませんでした。ところが,1911年に,ペンシルバニア州ピッツバーグのJ・A・ボーネットと,インジアナ州ワバシのサムエル・J・フレミングという「ものみの塔」の読者が,奇跡の小麦を合計約30ブッシェルほどものみの塔協会に提供し,それを1ポンド1㌦で売るように,収益はすべて協会に寄付するので,宗教的なわざに使ってほしい,と申し出ました。協会は受け取った小麦を発送し,総額1,800㌦(約54万円)のお金を得ました。ラッセル自身はそれから1銭も受け取ってはいません。彼は,寄付された小麦を1ポンド1㌦で求めることができるということを,「ものみの塔」誌に発表したにすぎませんでした。協会自身,自らそれと知って小麦を求めたのではありませんし,受け取ったお金は寄付としてクリスチャン宣教のわざに用いられました。他の人々が小麦の販売を批判した時,寄付をした人々すべてに対して,不満があれば代金をお返しします,という知らせがなされ,小麦の代金として受け取られたお金は,事実,そのために1年間保管されました。しかし,返済を求めた人はひとりもいませんでした。奇跡の小麦に関する,ラッセル兄弟と協会の行動は全く公明正大でした。

チャールズ・テイズ・ラッセルは,神のみことばから真理を教えたゆえに,多くは宗教指導者から憎まれ,中傷されました。しかし,現代のクリスチャンはそうした取扱いを予期しています。なぜなら,イエスと彼の使徒たちは宗教的な反対者から同様に扱われたからです。―ルカ 7:34

『エホバこの民をすてたまはざるべし』

エホバは忠実な神です。預言者サムエルは,心をつくして神に仕えるようにと,イスラエルの民に助言し,こう言明しました。「エホバ其大なる名のために此民をすてたまはざるべし其はエホバ汝らをおのれの民となすごとを善としたまへばなり」― サムエル前 12:20-25

聖書研究者たちは,そのことの真実さを身をもって知りました。たとえば,1914年から1916年にかけて,彼らは失意や悲しみをもたらす経験をしましたが,エホバはご自分の民をささえられ,決してお見捨てになりませんでした。―コリント第一 10:13

大きな期待

その時には喜ぶ理由もありました。長年の間,神の民は,1914年を異邦人の時の終わりをしるしづける年として指し示していましたが,その期待は失望に至らなかったのです。1914年7月28日に第一次世界大戦がぼっ発し,10月1日が迫るにつれて,参戦する国や帝国は増えてゆきました。エホバのクリスチャン証人が聖書研究を通して知るとおり,妨げられることのない異邦人の世界支配の期間は,イエス・キリストを王として戴く神の天の王国の誕生をもって,1914年に終わりました。(啓示 12:1-5)しかし,1914年に関して他にも期待されていたことがありました。それについて,A・H・マクミランは,自著「信仰の行進」の中で次のように書いています。「忘れもしません,1914年8月23日に,ラッセル師は,北西部から太平洋岸を南下して南部諸州を回り,9月27-30日にかけて大会の開かれた,ニューヨーク州サラトガ・スプリングスを最後とする旅行にでかけました。わたしたち数人は,その年の10月の第一週に天へ行くとまじめに考えていましたから,それは非常に興味深い機会でした」。

ある聖書研究者は,1914年に天へ行くという考えを強く持っていました。ドワイト・T・ケンヨン姉妹はこう語っています。「わたしたちが考えていたのは,戦争が革命へ,また無政府状態へと進展し,当時油そそがれていた,つまり聖別されていた人々はその時に死んで栄化されるだろうということでした。ある晩,わたしはエクレシア(会衆)全体が汽車に乗ってどこかに行く夢を見ました。雷といな光がすると,たちまち仲間の人たちがあたり一面死に始めたのです。わたしは,それがごく当然だと思って死のうとしましたが死ねませんでした。それにはほんとうにあわててしまいました。それから突然わたしは死んで,大きな解放感と満足感を味わいました。この古い世に関する限り,万事がまもなく終わろうとしていること,また,『小さな群れ』の残りの者が栄化されようとしていることを,わたしたちがどれほど確信していたかは,これでおわかりいただけると思います。―ルカ 12:32」。

ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは,1914年中ベテルの食卓で,異邦人の時の終わりのことがしばしば討議の中心になったことを覚えています。ふたりによれば,ラッセル兄弟は時々長い話をし,忠実であるように勧めながら,時に関する事がらを再検討したところ,それはやはり正確のようであると述べ,さらに次のようにも語りました。「もしわたしたちが聖書に保証されているところを越えた事がらを期待しているなら,エホバのご意志に従い,信仰を持って思いと心を神の方法に合わせて調整し,関連したでき事の成就を忠実に見守り,かつ待たねばなりません」。

1914年のサラトガ・スプリングス大会での出来事は,その年に天へ「帰還する」というマクミラン兄弟の考えを特に際立たせました。兄弟は次のように書いています。「わたしは,水曜日(9月30日)に,『万物の終わりが近づきました。冷静にし油断なく見張り,祈りなさい』という題の講演をするように頼まれました。ところで,それは,いわばわたしの得意とするところでした。わたし自身そのこと,つまり教会は10月に『帰還する』ということを心から信じていました。その話の中で,わたしは,『わたしたちはまもなく帰還するのですから,おそらく,これがわたしの最後の講演となるでしょう』というふさわしからぬことを言ってしまいました」。

翌朝,1914年10月1日に,およそ500人の聖書研究者は,アルバニーからニューヨークまで汽船に乗ってハドソン川を楽しく下りました。日曜日に大会出席者はブルックリンで催しを開き,大会はそこで終わることになっていました。ベテルには多数の代表者が宿泊しました。10月2日,金曜日の朝食の席に,本部職員が出席していたことはいうまでもありません。ラッセル兄弟が入ってきた時には全員が着席していました。兄弟は,いつものとおり,「みなさん,おはよう」と元気にあいさつしましたが,その朝は変わったことがありました。ラッセル兄弟は,すぐ席に着くかわりに拍手をして,「異邦人の時は終わりました。その王たちの日は過ぎ去ったのです」とうれしそうに発表しました。「わたしたちは盛大な拍手を送りました」とコラ・メリルは高い声を上げます。マクミラン兄弟は次のように述懐しました。「わたしたちはたいへん興奮していました。その時わたしたちのからだが上がり始める,つまり,天へ向かって昇るしるしがあっても,わたしは驚かなかったでしょう。しかし,いうまでもなく,そうしたことは全く起こりませんでした」。さらに,メリル姉妹によれば,「しばらく間を置いてから,彼[ラッセル]は,『だれか,がっかりした人がいますか。わたしは失望していません。万事は予定どおりに動いています』と述べました,ふたたび拍手が起こりました」。

C・T・ラッセルは,少し話した後すぐに,A・H・マクミランに注意を向け,悪気のない様子で,「日曜日のプログラムをいくらか変更したいと思います。日曜日の午前10時30分からは,マクミラン兄弟が講演します」と述べました。それには全員が大笑いしました。ともかく,その前の水曜日に,マクミラン兄弟は,これがわたしの「最後の公開講演」になると思うと言ったばかりだったからです。数年後に,マクミラン兄弟はこう書いています。「それではなんとかして講演の準備をしなければなりません。わたしは詩篇 74篇9節,『われらの誌はみえず預言者も今はなし斯ていくその時をかふべき われらのうちに知るものなし』を基礎にして話すことにしました。この話はまえの話とは違っていました。わたしはこの講演で,次のこと,つまり,わたしたちのうちのある人々は,すぐにも天国に行くような少し性急な考えをもっているかもしれないが,われわれのなすべきことは,主が時を定めて,みこころにかなったしもべたちを天に迎え入れられる時まで,主のわざに忙しく携わっていることであるという点を仲間の人々に理解してもらうように努めました」。

C・T・ラッセル自身は個人的な憶測に対して警告していました。たとえば,1912年12月1日号の「ものみの塔」誌で彼は,異邦人の時の終わりについて論じたあと,次のように述べました。「最後に,わたしたちは,1914年10月とか1915年10月,あるいは他のなんらかの日付までではなく,『死に至るまで』捧げた[献身した]ことを記憶しましょう,わたしたちが預言の計算を間違うことをなんらかの理由で主が許されたとしても,時代のしるしからして,その間違いが大きいものであり得ないことを確信できます。そして,主のめぐみと平和が過去におけると同様将来においてもそのお約束どおりわたしたちと共にあるのであれば,いかなる時にも進み,もしくはとどまろうと,また幕のこちら側においてであれ向こう側においてであれ[地上であれ天であれ],主を最も喜ばせるよう主の奉仕に携わることをこれまでと同様に喜びます」。

頂点をなす1914年が始まった時でさえ,ラッセルは1月1日号の「ものみの塔」にこう書いています。「わたしたちは,に関する事柄を教理的な事柄と同様の絶対的な確実さを付して読まないでしょう。なぜなら,聖書の中で,時は基本的な教理ほど明確に述べられていないからです。わたしたちは今なお見えるところによってではなく信仰によって歩いています。しかし,不忠実また不信仰なのではなく,忠実を保って待っているのです。もし,教会が1914年10月までに栄化されないことが後日はっきりしたなら,わたしたちは,主のご意志がどのようなものであれ,それに満足するように努めるでしょう」。

したがって,聖書研究者の多くは1914年に大きな期待を寄せていましたが,「ものみの塔」誌を通して健全な警告を受けてもいたのです。あるクリスチャンたちが,自分たちはその年の秋に天へ『帰還する』と考えていたのは事実です。「しかし」,とC・J・ウッドワースは次のように語ります。「1914年10月1日は過ぎ去って,その日から幾年かたち,しかも,油そそがれた者たちはなお地上にいました。ある人々は不きげんになって真理から落ちて行きました。エホバに信頼を置いていた人々は,1914年を確かに注目されていた『終わりの始まり』の時であることを理解し,しかも,いわゆる『聖徒たちの栄化』に関しては自分たちの以前の考えは間違っていたことを認めました。彼らは,忠実な油そそがれた者たちになお多くの仕事が残されていることを知りました。わたしの父[クレイトン・J・ウッドワース]もそうした人々のひとりでした」。

しかし,1914年に対して寄せられていた大きな期待が実現したことに比べると,同年に天へ行くことが失望に終わったのは,実際,たいした問題ではありませんでした。聖書研究者が,1914年に異邦人の時が満了することを長年指摘していたにもかかわらず,その年の最初の6か月間は異邦諸国家に何も起こりませんでした。そのため,宗教指導者とか他の人々は,C・T・ラッセルとものみの塔協会を嘲笑しました。しかし,エホバがご自分の民をお見捨てになったり,彼らが誤導されるのを許されるようなことは確かにありませんでした。その民は,エホバの聖霊に動かされ,異邦人の時の終わりがその年の秋までは来ないと期待しつつ,証言のわざを続けたのです。月を追うごとに,ヨーロッパ全土で緊張は高まり,王国の音信に対する嘲笑も強まって行きました。しかし,国々が次々に第一次世界大戦に巻き込まれると,事情は変わって,エホバのクリスチャン証人のわざが注目を浴びるようになりました。

当時の新聞の典型的な反応は,ニューヨーク市の一流新聞であった「ザ・ワールド」に見られました。1914年8月30日付の同紙日曜雑誌欄は,「1914年にすべての王国は終わる」と題する記事を載せ,その中で一部次のように述べました。

「欧州における恐るべき戦争のぼっ発は異例な預言の成就となった。過去四半世紀の間,『千年期黎明派』としてよく知られる『国際聖書研究者』は,伝道者や出版物を通して,聖書に預言された憤りの日は1914年に明けるであろうと世界にふれ告げてきた。『1914年に注意せよ!』というのが旅行する幾百人の福音宣明者の叫びであり,彼らはこの風変わりな信条を携えて国じゅうを回り,『神の王国は近づいた』という教理を宣揚した。……

「チャールズ・T・ラッセル牧師は,1874年以来聖書のこうした解釈を提唱してきた人である。……ラッセル牧師は1889年に次のように書いている。『聖書の強力な証拠から判断して,この世の諸王国の最終的な終わりと神の王国の完全な設立は,西暦1914年の終わりまでに達成されることは確かな事実と考えられる。……

「しかし,苦難が1914年に頂点に達すると言うことは,奇妙であった。ラッセル牧師が華美で街頭演説者風の書き方をせず,非常に落ちついた,高等数学式の書き方をしたためであろうか,ともかく不思議な理由で,世間一般は彼のことばにほとんど考慮を払わなかった。同師の『ブルックリン・タバナクル』の研究者たちは,そのことは予期されていたことであり,この世は苦難の日が過ぎるまで神の警告に耳を傾けて聞いたことは一度もなく,また決してないであろう,と言う。……

「そして1914年に戦争が起こる。それは,すべての人が恐れてはいたが,だれも実際に起こるとは考えていなかった戦争である。ラッセル牧師は,『わたしが皆さんにそう言いました』とは言わず,また,現代の歴史に合わせて預言を訂正もしない。彼と研究者たちは甘んじて待っている。自分たちが1914年の真実の終わりであると考える10月まで待っているのである」。

確かに,聖書研究者は1914年10月に『帰還する』ため天に上げられませんでした。しかし,2,520年間続いた異邦人の時はその時に終わったのです。そして,あとになっていっそう十分に理解したように,エホバのしもべには,その後にほかならぬこの地上で,神の設立された王国を宣べ伝えるための膨大な仕事がありました。さらに多くの人が聖書の真理に好意的な反応を示すことは明らかでした。その点について,ラッセルは,1915年2月15日号の「ものみの塔」誌で次のように書きました。「主が,ご自分の民すべて,その見守る聖徒たちに行なわせるための膨大な仕事を現在持っておられることをはっきりと示すしるしがあります。……主の子どもたちの中には,『戸は閉められた』から,今後奉仕する機会はないという考えに支配されているように見える人がいます。そのような人々は主のわざに関して怠惰になります。わたしたちは,戸は閉められたと夢想して時間を浪費すべきではありません。真理を求めている人々,やみの中にある人々がいるのです。今はこれまでにない時です。これほど多くの人々が,良い音信を聞こうとしていることはかつてありませんでした。40年にわたる収穫の全期間を通して,現在ほど,真理を宣明する機会に恵まれている時はありません。大きな戦争や時代の無気味なしるしは人々を目ざめさせており,多くの人々は今や疑問を抱いています。ですから,主の民は,非常に勤勉になって,自分の手でなし得ることを力を込めて行なうべきです」。

「前途には膨大な仕事がある」

要するに,その時神の民は,堅く立って,『主の業においてなすべき事をいっぱい持つよう』にと告げられたのです。(コリント第一 15:58)何年か後にA・H・マクミランが語ったひとつのでき事は,ラッセル兄弟がエホバのしもべの前途に膨大な仕事のあることを確信していたことをさらに示していました。C・T・ラッセルは,午前中8時から正午までは,ふつう,「ものみの塔」誌の準備や他の執筆をしたり,聖書の研究をしました。マクミランはこう記しています。「その時間には,彼に呼ばれるか,よほど重要な用事のないかぎり,その書斎に近づく者はいませんでした,8時を5分ほどすぎたころ,速記者が階段をかけおりてきて,わたしに,『ラッセル兄弟がお呼びです。書斎までおいでください』と言いました。『わたしはまた何をしでかしたんだろう』と思いました。朝のうちに書斎に呼ばれるのは,ただごとではないのです」。マクミラン兄弟のその後の話を聞いてください。

「わたしが書斎にいくと,彼は,『おはいりください,兄弟。応接間のほうへどうぞ』と言いました。書斎を延長したところが応接間になっていたのです。彼は言いました。『兄弟,あなたは真理に対して初めと変わらない深い関心をおもちですか』。わたしは驚きました。すると彼は,『びっくりしないでください。これはわたしの望む答えを得るための質問にすぎません』と言って,自分の健康状態について話しました。もし休養をとらなければ,何か月も生きられないだろうということは,わたしにもよくわかっていました。彼は言いました。『そこでですね,兄弟,わたしがあなたにお話ししたかったのはこのことです。わたしはこれ以上仕事をつづけることができなくなりましたが,まだ大仕事が残っているのです。しかもこれは世界的なわざなのです……』。

「わたしは言いました。『ラッセル兄弟,あなたのおっしゃることは,わたしにはどうも納得がいかないのですが。つじつまが合わないように思えます』。

「『それはどういう意味ですか,兄弟』と彼は尋ねました。

「『あなたが亡くなられて,しかもこのわざが続行されるのですか。あなたが亡くなられる時にはわたしたちはみな満足して,あなたと一緒に天に行くのを腕を組んで待っていますよ。わたしたちも仕事をやめます』とわたしは答えました。

「『兄弟』,と彼は言いました。『もしそれがあなたの考えでしたら,あなたにはまだ問題がはっきりわかっていないようですね。これは人間がしているわざではありません。この仕事でわたしはべつに重要な存在ではありません。光はますます明るくなっています。前途には膨大な仕事があるのです』。……

「将来の仕事をかいつまんで話したのちラッセル兄弟は言いました。『そこでわたしは,ここにきてわたしに代わって責任をはたしてくれる人がほしいのです。わたしはまだ指示することはできますが,いままでのように,それを自分で行なうことができなくなりました』。それでわたしたちは,いろいろな人をあげて検討しました。最後にわたしが引き戸を通って廊下を出たとき彼は,『ちょっと待ってください。あなたは自分のへやへ行って,このことについて主に祈り,そしてマクミラン兄弟がこの仕事を引き受けるかどうか,わたしに知らせてください』と言いました。彼はわたしが何も言わないうちに戸をしめました。わたしは目のくらむ思いでそこに立っていたのを思い出します。ラッセル兄弟の仕事を助けるといってもわたしに何ができよう。彼のように実業家の能力をもつ者でなければこれはできない。わたしにできることは宗教を布教することだけです。しかしわたしは思いなおし,のちに彼のところへ行って言いました。『わたしにできることなら何でもします。どこに配属されてもかまいません』」。

神の民の前途に非常に多くのわざがあることを確信していたC・T・ラッセルは,身近な人々に,神の民の増加に備えをするよう告げました。また,組織を緊密なものにするために幾つかの変更を加え,さらに,自分では個人的に行なえない将来の物事に対してもいくつかの変更を勧めました。A・H・マクミランは事務所とベテル・ホームの責任者になりました。そのあと,健康が急速に衰え,1916年の秋までには極度に衰弱していたにもかかわらず,ラッセルは以前から取り決めてあった講演旅行に出発しました。

最後の旅行

ラッセル兄弟と秘書のメンタ・スタージョンは,1916年10月16日にニューヨークをたち,カナダ経由でミシガン州のデトロイトに向かいました。次いでふたりはイリノイ州のシカゴに行き,カンサス州を通ってテキサス州に進みました。ラッセルの健康状態は悪化し,秘書が彼の代理として予定の講演をいくつかしなければなりませんでした。10月24日,テキサス州サンアントニオで,ラッセルは「燃える世界」という主題のもとに,彼の最後の公開講演をしました。講演中,彼は演壇を三度降り,秘書が代わりに話さねばなりませんでした。

火曜日の夜,ラッセル兄弟と秘書および同行者は,カリフォルニア行きの汽車に乗りました。病身のラッセルは,水曜日には一日中床に就いていました。ある時,旅行の同行者が病めるラッセルの手を取りながら,「わたしは,これほど偉大な,信条を粉砕する手を見たことがない」と言ったところ,彼は,この手はこれ以上信条を粉砕することはないだろうと答えました。

ふたりはテキサス州デル・リオで,橋が爆破されて代わりの橋が掛かっていなかったので,1日足止めされました。木曜日の朝にデル・リオを出発したふたりは,金曜日の夜にカリフォルニアの連絡駅で汽車を乗り換えました。ラッセルは,土曜日終日激しい痛みに襲われ,すっかり弱り果てていました。一行は10月29日,日曜日にロサンゼルスに到着し,その夜C・T・ラッセルはそこで会衆に対する彼の最後の話をしました。その時までにラッセルはひどく衰弱し,立って話をすることができませんでした。「強力に,力を込めてお話しできなくて残念です」と言うと,ラッセルは,司会者に演台をかたずけ,椅子をもって来るよう合図しました。そして「どうか椅子に掛けることをお許しください」と言いながら腰を降ろしました。彼は45分ほど話し,そのあとしばらく質問に答えました。ドワイト・T・ケンヨンはその時のことをこう語っています。「わたしは,1916年10月29日にロサンゼルスで行なわれた,ラッセル兄弟の最後の講演会に出席する特権を得ました。兄弟は具合が非常に悪く,ゼカリヤ書 13章7-9節に関する話の間椅子に座ったままでした。わたしは,彼が最後に引用した民数紀略 6章24-26節から深い感銘を受けました」。

容態が悪化して,それ以上旅行を続けられないことを悟ったラッセルは,残りの講演予定を中止してブルックリンのベテル・ホームに急きょ戻ることにしました。10月31日,火曜日,C・T・ラッセルは危篤になり,それより早く電報で呼ばれた医師が,テキサス州パンハンデルで車中のラッセルを診察し,臨終の徴候を認めました。診察が済むと汽車は再び動き始めました。それから間もなく,1916年10月31日,火曜日正午過ぎに,64歳のチャールズ・テイズ・ラッセルはテキサス州のパンパで死亡しました。

「神は今も支配しておられる」

C・T・ラッセルの数々の試練,伝道活動,執筆の責任や他の任務はその活力に因るところ大でした。彼は,約32年間,ものみの塔聖書冊子協会の会長を務めました。また,報告によると,公開講演者として160万㌔以上旅行し,3万回を超える講演をしました。合計5万ページを上回る文書を著し,月にしばしば一千通の手紙を口述し,そのかたわら,一時は700人の講演者を擁した,世界を巡る福音宣明運動を指揮していました。さらに,ラッセルは自分で,史上最も教育的な聖書劇,「創造の写真 ― 劇」を編集しました。

ラッセル兄弟は,良いたよりを宣明するわざにおいて,非常に重要な役割を果たしましたから,多くの聖書研究者からたいへん惜しまれました。「翌朝,朝食の時,ベテルの家族のまえで彼の死を告げる電報を読みあげたとき,食堂は悲しみの声で満ちました」と,A・H・マクミランは語りました。神の民一般のあいだでは,様々な反応がありました。C・T・ラッセルがサン・アントニオのマジェスティック劇場で彼の最後の講演をした時,偶然そこに出席していたアーデン・ペイトはこう述べています。「ある人たちは,『これでおしまいだ』と言いました。そう考えたのは,エホバがご自分の民を導いておられることがわからず,ひとりの人間をあまりに重要視したからです」。1916年11月5日,日曜日に,ニューヨーク・シティー・テンプルで行なわれたラッセルの葬式の際,彼と親交のあった多くの人々は,大きな損失について話しましたが,引き続き忠実であるようにとも勧められました。別に,11月6日の午後2時から,ペンシルバニア州ピッツバーグ(アレゲーニー)のカーネギー・ミュージック・ホールでも葬式が開かれ,その日の夕刻,アレゲーニーのローズモント・ユナイテッド・セミトリーにある,ベテル家族の墓地で埋葬が行なわれました。

ニューヨーク市で開かれた葬式の午前中の集まりで,A・H・マクミランは,ラッセル兄弟が死ぬ少し前に彼と話し合った事がらを述べ,協会本部の仕事に関してラッセルが残した足跡についてもふれました。そのあと,マクミランはとりわけ次のように言明しました。「わたしたちの前にあるわざは膨大ですが,主は,それを成し遂げるために必要なめぐみと力をわたしたちにお与えになるでしょう。……おく病な働き人たちは,刈り入れの道具を下に置いて,主がわたしたちを家に呼ばれるまで待つ時が来たと考えるかもしれません。今はなまけ者のことばを聞いている時ではありません。今は活動の時,以前にも増して決然とした行動を取るべき時なのです」。

夜の集まりで話したJ・F・ラザフォードは,結論に入る前に次のように述べました。「愛する兄弟たち,ここにいるわたしたちを含め,地上にいるすべての人はどうしましょうか。わたしたちの主なる王のご計画に対する熱意を弱めるでしょうか。断じてそのようなことはないように。主のご恩寵により,わたしたちは熱意と力を増し加え,自分たちの走路を喜びつつ走り通すのです。恐れたり,たじろいだりするのではなく,主の王国の音信を宣明する特権を喜びつつ,肩を並べて信仰のために戦うのです」。

協会の会計秘書,W・E・バン・アンバーグのことばも注目に価しました。彼はラッセルの葬式で次のように語りました。「この膨大な世界的わざはひとりの人のわざではありません。それにしてはあまりに膨大すぎます。それは神のわざであり,それが変わることはありません。神は過去において多くのしもべを用いてこられたのであり,将来においても多くのしもべを用いられることに疑問の余地はありません。わたしたちは,人間や,人間のわざに献身したのではなく,神のご意志を行なうために献身したのです。神は,みことばと天佑の導きにより,それをわたしたちに啓示してくださいます。神は今も支配しておられるのです」。

神の民にとって,当時は確かに難しい時代でした。しかし,彼らはエホバに助けを仰ぎました。(詩 121:1-3)神は,ご自分の組織の中で重要な責任を担う他の人々をお立てになり,宣べ伝えるわざは続けられるでしょう。

試みの時を通過したばかりのエホバの民の前途には,何年かにわたる危機が待ちうけていました。1916年10月31日にC・T・ラッセルが死亡したことにより,ものみの塔協会の会長の席があきました。1917年1月6日の年次総会まで,実行委員会が協会を運営しました。その間,次の会長はだれか,という問題が持ち上がったことは言うまでもありません。ある日,バン・アンバーグ兄弟はA・H・マクミランに,「兄弟,このことについてどうお考えですか」と尋ねました。マクミランは答えました。「好むと好まざるとにかかわらず,ひとりしかいませんね。いまこの仕事に当たれる唯一の人物はラザフォード兄弟です」。「わたしもそう思います」と,バン・アンバーグ兄弟は,マクミランの手を取りながら言いました。J・F・ラザフォードはこうしたことについては何も知らず,選挙運動もしませんでした。しかし,1917年1月6日に行なわれた協会の年次総会で,彼はものみの塔協会の会長に指名され,選出されました。

その席上,ラザフォード兄弟は,新たに委ねられた責任を謙そんに受け入れ,信仰の仲間に対して「一致した祈りと深い同情,および限りない協力」を求めました。また,確信を込めて次のように述べました。「これまでわたしたちを導いて来られた方は,引き続きわたしたちを導かれます。どのようなことがあっても常に主により頼んで導きを求めつつ,心を奮い立たせ,思いを整え,進んで働きましょう。主はわたしたちを確実な勝利へと導かれます。主とわたしたちとの契約をきょう新たなものにして,クリスチャン愛の聖なるきずなをもって一致し,世界に出て行って『天の王国は近づいた』と宣明しますように」。

ラザフォードの経歴

ラザフォード自身は真理のための勇敢な闘士でした。彼は,ミズーリ州モーガン郡で,1869年11月8日に生まれました。彼の両親はバプテスト派の信者でした。ジョセフ・フランクリン・ラザフォードの実の姉にあたる,ロス姉妹から話を聞いたA・D・シュレーダーによれば,「家族はミズーリ州に住んでいて,父親は厳格なバプテスト派の信者でした。彼女の弟のジョセフはバプテスト派の『地獄の火』の教理を絶対に受け入れなかったため,ふたりが真理を聞く以前でさえ,家族の間で何度か激論が交わされました。ジョセフは常に正義感にあふれた信念の強い人でした。彼は幼い頃から,法律を勉強して裁判官になりたいと考えていました。父親は,彼が大学に行って法律を学ぶよりも農場にとどまることを願っていたため,ジョセフは友だちから金を借りなければなりませんでした。そのようにして,彼は,父親の農場で彼の代わりに働く人に賃金を払ったうえ,法律を学ぶ費用もまかないました」。

ジョセフ・ラザフォードは独力で学費を得て学校を卒業しました。とりわけ,彼は速記に熟達しました。その技術は,後になって,聖書関係の記事その他を速く書くのに大変役立ちました。在学中ですら,ジョセフ・ラザフォードは裁判所の速記者になりました。それによって,卒業するまで学費を納めることができ,実地の経験も得られました。学校教育を終了後2年間E・L・エドワーズ判事の指導を受けた彼は,20歳の時に,ミズーリ州第14法廷巡回区の公式報道官になりました。彼は22歳でミズーリ州弁護士会に加入が許され,クーパー巡回法廷の記録によると,1892年5月5日に,同州で弁護士を営む免許を得ました。そして,ドラッフェンとライト法律会社の法廷専門弁護士として,ミズーリ州ブーンビルで弁護士の仕事を始めました。

その後,J・F・ラザフォードは,ミズーリ州ブーンビルで4年のあいだ検察官を務め,さらに,同じミズーリ州第14法廷地域の特別判事になりました。正規の判事が裁判を開くことができない場合には,その資格を持つラザフォードが代理の判事をしたのです。法廷記録によると,彼が一度ならず特別判事の任務を果たしたことがわかります。こうして,彼はラザフォード「判事」として知られるようになりました。

ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは,J・F・ラザフォードから,エホバのしもべによって宣明されていた真理に彼が初めて関心を持つようになったいきさつを聞いたことがあります。ふたりは次のように話してくれました。「兄弟は何度か訪問してくださいましたが,ある訪問中に,兄弟は,月の光を浴びながら郊外へ散歩に出ようと言われました。歩きながら,兄弟は幼い頃のことや真理に関心を持つようになったいきさつを話してくださいました。彼は農場で育ちましたが,法律を勉強したいと考えました。お父さんは彼に農場を助けてほしいと思いましたが,結局,兄弟が独力で学費をまかない,農場で彼の代わりに働く人の賃金を払うという条件で,大学に行くことを承諾しました。夏休みのあいだ,彼はその約束を守るために本を売りました。……彼は,自分が弁護士になった時,だれかが事務所に本を売りに来たら買ってやろう,と自分に誓いました。その日は(1894年に)到来しましたが,仲間の弁護士が訪問者の応待に出ました。その人は,『聖書文書頒布者』のエリザベス・ヘッテンバッハ姉妹で,『千年期黎明』の三巻を提供していました。その弁護士は関心がなかったので彼女[と仲間の聖書文書頒布者,ビーラー姉妹]を帰らせました。自分の事務所から出て来て,本に関する事がらを耳にしたラザフォード兄弟は,誓いを思い出して彼女を呼び戻し,書籍を求めて家の書棚に置きました。本はしばらくそこに置かれたままでしたが,ある日,病気が治りかけていた時に,兄弟は1冊の本を開いて読みはじめました。それが,神に対するやむことのない専念と奉仕の始まりで,その時の関心は一生涯続くものだったのです」。

ラザフォードの家の近くでは,聖書研究者の集会が開かれていませんでした。しかし,クラレンス・B・ビーティはこう語っています。「1904年以来,わたしたちの家で集会が開かれました。ラザフォード姉妹とラザフォード判事は,[キリストの死の]記念式のために,ミズーリ州ブーンビルからやって来ました。……彼はわたしたちの家で初めて記念式にあずかり,仲間の人々に彼としては初めての巡礼者の話をしました。ブーンビルには,そのふたりを除いて真理に入っている人はいませんでした」。

ところで,J・F・ラザフォードはどのように伝道を始めるようになったのでしょうか。そのことに大いに関係したのはA・H・マクミランでした。彼は,1905年,ラッセル兄弟に同行して合衆国横断の旅行をしていた時に,カンザス・シティーで初めてラザフォードに会いました。しばらくして,マクミラン兄弟は一日か二日ラザフォード判事を訪問しました。ふたりの間では次のような会話が交わされました。

「判事,あなたはこのあたりで真理を伝道なさるべきですね」。

「いや,わたしは牧師ではなく法律家です」。

「それでは判事,こうなさってみてはいかがですか。聖書を1冊お求めになって,少数の人を集め,生命と死と死後の状態について教えるのです。人間はどこから命を得たか,なぜ死ぬようになったか,死とは何か,について説明し,証明として聖書を使い,ちょうど裁判の時陪審員に対して言われるように,『わたしが言ったことはすべてこれで証明されます』と言って納得させればよいのです」。

「それくらいならたいしてむずかしくもなさそうですね」。

その後どうなりましたか。ラザフォードは助言を受け入れて何かしたでしょうか。マクミラン兄弟の話では,「町はずれに近い,彼の自宅の隣にあった小さな農場で働くひとりの黒人がいました。そこにはおよそ15人から20人の黒人がいたので,彼はそこへ出かけて行き,『命と死および死後の状態』に関する話をしました。話の間中彼らは,『ありがたいことです,判事さん。どこでそんなことを習いなすったんです?』と尋ねました。ラザフォードにとってそれはすばらしい集まりでした。また,それは彼が行なった最初の聖書の講演でした」。

それから間もなく,1906年に,J・F・ラザフォードはエホバ神への献身を象徴しました。マクミラン兄弟は次のように書いています。「わたしは,ミネソタ州セント・ポールで彼に浸礼を施す特権にあずかりました。彼は,わたし自身がその日に水の浸礼を施した144名中のひとりだったのです。ですから,彼が協会の会長になった時,わたしはとりわけうれしく思いました」。

1907年,ラザフォードはものみの塔協会の法律顧問になり,ピッツバーグの本部で奉仕しました。また,1909年に協会が運営をニューヨークのブルックリンに移した時,交渉を担当する特権を得ました。そのために,彼は,ニューヨーク州の弁護士会に申請し,同州公認の弁護士になりました。同年5月24日には,弁護士として合衆国最高裁判所の法廷に立つことも認められました。

J・F・ラザフォードは,ものみの塔協会の旅行する代表者である巡礼者としてしばしば講演しました。また,聖書の講師としてアメリカを広く旅行し,要請のあった多くの単科大学や総合大学で話をしました。さらに,ヨーロッパ全土においても大勢の聴衆を前に講演しました。ラザフォードはエジプトとパレスチナを訪れ,1913年には夫人を伴ってドイツへ渡り,そこで合計1万8,000人の聴衆に話をしました。

彼の特徴

イエス・キリストは,ご自分の追随者すべては「兄弟」であり,『彼らの間でいちばん偉い者は,彼らの奉仕者でなければならない』と言われました。(マタイ 23:8-12)ですから,真のクリスチャンは仲間の信者のだれかを特別に重要視することはしません。しかし,聖書は,何人かの神のしもべたちの様々な特徴を明らかにしています。たとえば,モーセは柔和なことで知られていましたし,ゼベダイの子ヤコブとヨハネは,燃えるような熱心さで知られていました。(民数 12:3。マルコ 3:17。ルカ 9:54)ジョセフ・F・ラザフォードは,神の地上の組織の中で大きな責任を委ねられていましたから,彼の特徴や資質を見るのはなかなか興味深いことです。

「ラザフォードは仲間の人々にいつも深いクリスチャン愛を示しました」,とA・H・マクミランは述べ,こう続けています。「また,心のたいへんやさしい人でした。しかし,彼は,生来,ラッセルのように穏やかで物静かな人ではなく,率直で遠慮のない言い方をする人で,自分の感情を隠しませんでした。親切な気持ちで話している時でさえ,持ち前の無骨さのためにしばしば誤解されました。しかし,彼が会長になってほんのしばらくで,主がその仕事に適切な人物を選ばれたことが明らかになりました」。

1924年4月18日に,ラザフォードは,聖書研究者の古いロンドン・タバナクルで記念式の話をしましたが,その時のでき事から彼の性格をいっそう知ることができます。それについて,ウィリアム・P・ヒース姉妹は次のように書いています。「タバナクルというのは,協会が安く買い上げた古い監督教会派の教会堂で,今日の王国会館のように,日曜日の集会に使われていました。……講演者が立つ場所は,床から6㍍ほどの上の方にありましたから,講演者が聴衆に話す時にはその頭しか見えませんでした。ラザフォード兄弟がそこを『かいばおけ』と呼んだのはおそらくそのためでしょう。兄弟はそこから話すことを辞退しました。実際,彼は降りて来て兄弟たちと同じ高さの所に立って彼らを驚かせました」。

ラザフォード兄弟が初めてものみの塔協会の会長に就任した時には,勇気と忠実さと決意が必要とされており,彼はそうした資質を示しました。たとえば,エステル・I・モリスは,巡礼者であったラザフォードが,アイダホ州ボイゼの当時最も大きな劇場で大聴衆を前に行なった講演の模様を回顧して,こう話してくれました。「彼が偽りの宗教を暴露したために,土地の牧師数人が怒りだし,話を中断させて抗議しようとしました。ところが,兄弟が語気を強めて『おすわりなさい。法の保護を求めますよ』と言ったので,話は中断されずにすみました。近隣の町々から聖書研究者が集まり,あるホールを借りて小さな大会を開きました。兄弟は,この音信と宣教のわざは決して小さな事がらではないことを悟らせるようたいへん力強く語りました」。

一方,ラザフォード兄弟の一面に触れて感激した思い出を持つ,アンナ・エルスドンは,彼女の幼い頃のことを次のように書いています。「わたしたちはラザフォード兄弟と何度もお話ししたことがあります。ある時,わたしたち子ども数人がいっしょに呼ばれ,ラザフォード兄弟がやって来ました。わたしたちは,学校のことや国旗敬礼その他について多くの質問をし,兄弟はわたしたちに長い時間話してくださいました。別れぎわに,兄弟はわたしたち5人の手を,その大きな両手でやさしく握り,目には涙を浮べておられました。わたしたちが幼くても真理の深い事がらを話すので,喜ばれ,また感激されたのです。わたしはその時のことが忘れられません。ラッセル兄弟が慈愛深い方であったように,わたしたちはその大きなラザフォード兄弟の愛をも感じました」。

わざにおいて前進!

ラザフォード兄弟は王国を宣べ伝えるわざを決然として推し進めました。聖書研究者たちはエホバの聖霊の導きを受けて,多年,神の真理を宣明する驚くほど広範な運動を行なっていました。1870年から1913年にかけて,実に,2億2,825万5,719冊の小冊子とパンフレット,および695万292冊の書籍が配布されたのです。1914年の重大な年だけでも,エホバの証人は,7,128万5,037冊の小冊子とパンフレット,および99万2,845冊の書籍を配布しました。第一次世界大戦の拡大と,通信連絡の麻痺のため,1915年と1916年に出版活動は低下しましたが,1917年になると,わざは再び上昇傾向を示し始めました。なぜでしょうか。

それは,協会の新しい会長がブルックリンの本部事務所を早速再組織し,さらに,野外のわざを再び活発にする処置を講じたからです。しかし,ラザフォードが進めたそうした変化や計画は,C・T・ラッセルがすでに始めていたものでした。協会を代表する巡礼者は69人から93人にふえ,無料の小冊子の配布は,戸別の訪問によって定期的に行なわれたり,時々日曜日に教会の前で行なわれたりなどして,促進されました。また,「聖書研究者月刊」という4ページの冊子が新たに出版され,1917年だけでも2,866万5,000部が無料で配布されました。

C・T・ラッセルの生前に始められたひとつの新しい活動も促進されました。それは,「牧羊の業」と呼ばれるもので,現在エホバのクリスチャン証人が行なっている再訪問の先がけとなりました。ラッセルの時代,この活動は,自由投票で彼を自分たちの牧羊者に選んだ約500の会衆だけが行なっていました。それらの会衆にあてた手紙の中で,彼はその活動のことを,「公開集会や『劇』の上映で得たり,聖書文書頒布者のリストなどから得られた住所に基づいてできる,宗教的な事がらに幾らかの関心を持っていると思われ,また,真理に多少なりとも好意のありそうな人々を対象とした,重要な『追跡の業』」と述べています。

そのわざを行なうことに関心のある,会衆内の婦人たちは,自分たちの中から副官ひとりと,会計秘書ひとりを選びました。ひとつの都市は幾つかの地区に分けられ,それぞれ割り当てられた姉妹は,関心のある人として住所を受け取った人々すべてを訪問しました。訪問した人は家の人に書籍を貸し,借りた人はそれを読んで研究することができました。「それは無料の貸出しでしたから,『お金を持っていませんから』と断わる人はいませんでした」,とエステル・I・モリスは言っています。訪問の終わりに,まもなくその地域で行なわれる「神の経綸」に関する図表講演に家の人を招待し,関心を示す人々は出席するよう励まされました。その後,出席した人々には追跡の訪問が何度か行なわれ,「聖書研究」の第一巻,「世々に渉る神の経綸」を使って研究を始める努力が払われました。こうして,その計画の最終的な結果,人々が「クラス」に集められました。彼らはまず図表講演を聞き,後に「ベレアン・クラス」の定期的な出席者になりました。―使徒 17:10,11

協会の新しい会長,J・F・ラザフォードが,宣べ伝えるわざを再び活発にするために行なったことはほかにもあります。聖書文書頒布者の奉仕が拡大され,その合計は373人から461人に引き上げられました。1917年の初頭,彼らを援助するため,協会は,本部から定期的に出される奉仕のための指示を載せた,「会報」という新聞を発行し始めました。後日,1922年10月が過ぎてから,「会報」は一般の聖書研究者に毎月手渡されるようになりました。(同紙は,やがて「監督者」,ついで「通知」,後には「王国奉仕」と改名された。)H・ガンビル姉妹は次のように語っています。その後,「『会報』には,当時『戸別訪問』と呼んでいた証言が載せられ,それを記憶して野外奉仕で用いるように勧められました。わたしの義理の姉妹は,ひとつひとつのことばをそっくり覚えようとして,部屋から部屋へわたしのあとをついて回りました。彼女は是非ともそれを正確に覚えたかったのです」。「会報」に証言が準備して載せられていたことを思い出しながら,エリザベス・エルロドは,「その頃は,今のように,ひとりの人が別の人について行って,その人が有能な伝道者となるように訓練し,援助するという取決めがありませんでしたから,わたしはそれを感謝しました。そのようにして,統一された音信が広められたのです」。

わざを再び活発にする運動が続いている間に,1917年当時の協会の新しい管理部は,他の手段も取っていました。一例として,地方別に数多く催された大会があります。それらを通して,聖書研究者は,わざを推し進め,良いことを行なう点で疲れることがないように励まされました。

1914年の少し前に,C・T・ラッセルは,公開講演計画を進めることを強調しました。今や,公の演壇からものみの塔協会を代表して話す,資格のある講演者を増やす取決めを設ける時が来ました。それは,V.D.M.という取決めを通して行なわれました。V.D.M.とは,「神のみことばの奉仕者」という意味のラテン語,ベルビ・デイ・ミニステルを表わしていました。その計画の一環として,聖書研究者の会衆と交わる男女に質問表が配られました。

次に掲げるのは,V.D.M.質問表に出ていた質問の一部です。自分がどれくらい答えられるか試してみてください。(1)神は最初に何を創造されましたか。(4)神が罪人たちに課された,罪の刑罰は何ですか。罪人とはだれですか。(6)人間キリスト・イエスは生まれてから死ぬまでどんな生命体でしたか。(7)復活してからのイエスはどんな生命体でしたか。また彼は役職上エホバとどんな関係にありましたか。(13)メシアの王国に対する従順を通して人類世界にはどんな報い,もしくは祝福が及びますか。(16)あなたは,生ける神に仕えるため罪から離れましたか。(17)あなたは,自分の命とすべての力や能力を主とそのわざに全く捧げましたか。(18)あなたはその献身を水の浸礼で象徴しましたか。(22)あなたは,残りの生涯にわたってさらに有能な主のしもべとなるに十分の,しっかりした永続的な聖書の知識を持っていると信じますか。

協会のV.D.M.部門へ解答を出した人々は,それに対する「いくらかの親切な提案と示唆」を含む返事を受け取りました。とりわけ,それらの質問に自分自身のことばで答えることが望まれました。

ジョージ・E・ハナンはもう少し詳しく書いています。「これらの質問は,人が聖書の基本的な教理をどれほど良く知っているかを決める一つの指針とされました。献身した人で,85点以上の成績を取った人は,有資格者と見なされ,そうした兄弟はすべて,公開講演をしたり図表講演をする資格が与えられました。それらの質問は,『聖書研究』の6巻を読み,すべての参照聖句を調べるよう,協会と交わる人々全員を励ましました」。

このようにして,ものみの塔協会の新しい会長J・F・ラザフォードは,神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざを促進するための処置をただちに講じたのです。それは祝福され,1917年には,エホバ神を賛美する野外活動の増加が見られました。

『あなたがたの間の燃えさかる火に当惑してはなりません』

しかし,J・F・ラザフォードが会長に選ばれたことを,組織内のすべての人が喜んだわけではありません。事実,1917年の初め頃,数名の人が野心的になって協会の管理権を奪おうとし,非常に非協力的になりました。こうして,火のような試練の期間が始まりました。いうまでもなく,クリスチャンはこの世の敵から反対され,迫害を受けることを予期しています。しかし,クリスチャン会衆そのものの内部から起こる試練は予期されず,ずっと耐え難いものである場合が少なくありません。とはいえ,神の助けを受けるなら,そうした苦難のすべてを耐えることができます。ペテロは仲間の信者に次のように述べました。「愛する者たちよ,あなたがたの間の燃えさかる火は,試練としてあなたがたに起きているのであり,何か異常なことが身に降りかかっているかのように当惑してはなりません。かえって,キリストの苦しみにあずかる者となっていることを喜びとしてゆきなさい」― ペテロ第一 4:12,13

エホバとその「契約の使者」であるイエス・キリストは,西暦1918年に霊的な神殿を検閲するために来られ,「神の家」の裁きと精練し清める期間が始まりました。(マラキ 3:1-3。ペテロ第一 4:17)また,その他の事がらも起こりました。「よこしまな奴隷」のしるしをつけた人々が現われ,象徴的な意味で仲間の奴隷を「たたき」始めたのです。イエス・キリストはそのような人たちがどう取り扱われるかを予告されました。同時に,「忠実で思慮深い奴隷」級が明らかとなり,霊的な食物を分け与えることも示されました。―マタイ 24:45-51

「忠実で思慮深い奴隷」もしくは「忠実にして慧き僕」(文語)がだれかを見分けることは,その頃きわめて重要な事がらでした。それよりずっと以前の1881年に,C・T・ラッセルは次のように書きました。「キリストの体の各成員は,信仰の家の者に時に応じて食物を与えるという祝福されたわざに,直接また間接に携わっている,とわたしたちは信じます。『主人が時に及びて食物を与へさする為に,家の者のうへに立てたる忠実にして慧き僕は誰』でしょうか。それは,献身の誓いを忠実に遂行している献身したしもべたちの『小さな群れ』,すなわちキリストの体ではありませんか。また,大ぜいの仲間の信者である家の者に,時に応じて食物を与えている,個人的また集合的な体全体ではないでしょうか」。

ですから,霊的な食物を分け与えるために神が用いておられた「奴隷」はひとつの級であることが理解されました。しかし,時がたつにつれて,多くの人々は,C・T・ラッセル自身が「忠実にして慧き僕」であると考えるようになりました。そのために,ある人は被造物崇拝のわなに陥りました。そうした人々は,神がご自分の民に啓示するのをよしとされるすべての真理はラッセル兄弟を通して示されたのであり,それ以上のことは何ももたらされ得ないと感じました。アンニー・ポッゲンシーは,「そのため,ラッセルの業績に固執することを選んだ人々が大いにふるい分けられました」と書いています。ラッセル自身が「忠実にして慧き僕」であるというその誤った考えは1927年2月に一掃されました。

ラザフォード兄弟がものみの塔協会の会長になって間もなく,まぎれもない陰謀が起きました。反逆の種がまかれ,次いで問題が広がったのです。以下はその次第です。

第一次世界大戦ぼっ発後,C・T・ラッセルは本部からだれかを英国に派遣して,その地の聖書研究者を強める必要を認めました。そして,神の真理の知識を知る以前,ユダヤ教を捨ててルーテル教会の牧師をしていたユダヤ人,ポール・S・L・ジョンソンを派遣することを考えていました。彼は,協会の旅行する講演者として奉仕し,その才能はよく知られていました。ラザフォードが会長に選ばれるまでのしばらくの期間奉仕した執行委員会は,ラッセルの意志を尊重し,入国を容易にする書類を持たせてジョンソンを英国に派遣しました。彼は,英国におけるわざに関してできるだけ調べ,協会にすべてを報告することになっていましたが,英国本部の人事を移動するように言われてはいませんでした。しかし,1916年11月に英国で大歓迎を受けた彼は判断をゆがめ,ついには理性をもゆがめてしまったようです。そして,A・H・マクミランによれば,「ついに,彼は,自分がイエスのペニー(あるいはミナ)のたとえ話に出て来る『家令』であるというばかげた結論に達し,後には,自分を世界の大祭司であると考えました」。英国全土で行なった聖書研究者に対する講演の中で,ジョンソンは,自分をラッセルの後継者に仕立てて,ちょうどエリヤの外とう(「公式の衣」)がエリシャの上に落ちたようにラッセル師のマントが自分の上に落ちたと主張しました。―列王下 2:11-14

明らかに,ジョンソンの野望はその前からすでに芽生えていました。エダイス・ケッスラーは次のように回顧しています。「1915年にベテルを去ってアリゾナ州に向け出発する前に,わたしは長年の知り合いである一組の夫婦を訪問しました。わたしがそこに滞在中,ふたりはP・S・L・ジョンソンという名の巡礼者をもてなしました。サタンは,どんな方法ででも支配権を執ろうとして卑劣で陰険な方法をすでに示していました。ジョンソンは,『皆さんとお話ししたいと思います。居間に座りましょう』と言ったので,わたしたちは居間に行きました。彼はこんなふうに切り出しました。『姉妹,わたしたちは,ラッセル兄弟がいつなんどき亡くなられるかわからないことを知っています。しかし,その時に仲間の信者は恐れる必要がありません。わたしが彼の地位に就いて,わざを中断させることなくうまく引き継ぎます』」。

英国滞在中,ジョンソンは英国での活動を完全に牛耳ろうと努め,権威がないにもかかわらず,ロンドン本部職員のある人々を放逐しようとさえしました。大混乱が生じたため,支部の監督はラザフォード兄弟に苦情を訴えました。折り返し,ラザフォードは,本部職員ではないロンドンの兄弟数名からなる委員会を任命しました。委員は会合して事実を聴き,考量してからジョンソンの召還を推薦しました。ラザフォードはジョンソンに帰るよう命じましたが,ジョンソンは,手紙や電報で委員会は偏見を持っていると非難し,自分の行動を正当化しようとしました。さらに,英国における自分の地位を不可欠なものにしようとして,協会が彼のために作成した書類を不正に用いてロンドン銀行にある協会の資金を押収しました。後日その資金を使えるようにするためには,法律上の手続きをとることが必要でした。

ついにジョンソンはニューヨークに戻りましたが,J・F・ラザフォードを説得して再び英国に派遣させようと無駄な試みを続けました。ラザフォードが会長に適した人物でないと考えたジョンソンは,自分こそ協会の会長になるべきだとの信念のもとに,理事会に圧力をかけようとしました。ラザフォード兄弟は協会の会長として不適格であると見せかけることによって,彼は7人の理事のうち4人を自分の側に引き入れました。それら異論を唱える4人は協会の会長,副会長,会計秘書に反対し,会長から管理権を奪おうとしました。

J・F・ラザフォードは反対者たちと会合を開き,話し合おうと努めました。A・H・マクミランはこう語っています。ラザフォードは「わたしたち数人のところにまで来て,『わたしが会長をやめて,反対している人たちに責任を取らせようか』とさえ尋ねました。わたしたちは皆,『兄弟,主があなたを現在の地位に就けられたのです。辞任されたりすれば,主に不忠節になります』と答えました。さらに,事務所一同は,あの人たちが支配するなら,わたしたちはやめると脅しました」。

協会の1917年度年次総会の延長集会で,4人の反対派の理事は,協会の定款を修正する決議を提出しようとしました。それは,管理権を理事会の下に置くもくろみでした。また,それはラッセル兄弟が会長の間受け入れられていた組織の取決めに反し,株主の意志にも反することでしたから,ラザフォードはその動議を無効にし,計画は失敗しました。その後反対はいっそう強まりましたが,反対者の全く予期しない計画が進められていました。

「終了した秘義」

協会の会長の職にあった全期間を通じて,ラッセル兄弟は,副会長および会計秘書と共に,新しい出版物を出すことを決定していました。理事会は全体として相談を受けていませんでした。ラザフォードは同じ方針を取りました。それで,協会の3人の役員は大きな影響を及ぼす決定をしました。

チャールズ・テイズ・ラッセルは,6巻に及ぶ「千年期黎明」もしくは「聖書研究」を書き終えていましたが,第七巻を著すことについてしばしば語り,「鍵が見つかれば,いつでも第七巻を書きます。主がその鍵をだれか他の人にお授けになるなら,その人が書けばよいのです」と話していました。協会の役員は,ふたりの聖書研究者,クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーに,啓示,雅歌およびエゼキエル書を注解した本の編集を依頼するよう取り決めました。この共同編集者がラッセル兄弟の書いたものから資料を集め,「終了した秘義」の題名を冠し,「聖書研究」第七巻として出版しました。C・T・ラッセルの考えや注解を主体としていた同書は「ラッセル師の死後の著作」と呼ばれました。

1917年の半ば頃に新しい本を発表する時が来ました。その重大な日は7月17日でした。マーチン・O・ボウィンは次のように述べています。「〔ブルックリン・ベテルの〕台所で仕事をしていると電話が鳴りました。昼食を準備している最中でした。わたしは電話の一番近くにいたので,受話器を取りました。電話の主はラザフォード兄弟でした。『あなたのそばにだれがいますか』と彼は尋ねました。『ルイスです』,とわたしは答えました。兄弟は,すぐに書斎に来るように,『ノックはしないでほしい』と言いました。わたしたちはたくさんの本を手渡され,家族が昼食に来る前に,各の席に1冊ずつ置くようにと命じられました」。まもなく食堂はベテルの家族でいっぱいになりました。

ボウィン兄弟はさらに続けます。「いつものように神に感謝がささげられました。それから,始まったのです。……P・S・L・ジョンソンを先頭にして,……愛するラザフォード兄弟に反対するデモが始まりました。彼らは非難のことばを声高に上げながら,行ったり来たりし,ラザフォード兄弟の食卓のところに来ると立ち止まって兄弟にこぶしを振り上げ,兄弟をいっそう攻撃しました。……それがおよそ5時間も続いたのです。それから,全然手のつけられていないたくさんの食物と食器類をそのまま食卓に残して,全員が席を立ちました。かたずけに当たった兄弟たちには,それをする元気が全くありませんでした」。

このでき事によって,ベテル家族の中には反対者に同情する人のいることが明らかになりました。そうした反対が続けば,やがてベテルの活動全体は破綻をきたすでしょう。そこで,J・F・ラザフォードは事態を正す行動に出ました。協会の法的な仕組みに十分通じていたにもかかわらず,ラザフォードは,協会の理事会の現状に関して,ペンシルバニア州フィラデルフィアの著名な法人弁護士に意見を求めました。書面による解答によれば,4人の反対者たちは正式の理事ではありませんでした。それはなぜでしたか。

C・T・ラッセルはそれらの人を理事に任命しましたが,協会の定款によれば,理事は株主によって選挙されねばなりませんでした。ラザフォードはラッセルに,その任命が次の年次総会で投票により確認されねばならないことを話しましたが,ラッセルはその手続きを取っていませんでした。したがって,ピッツバーグの年次総会で選挙されていた役員だけが正式の理事で,任命されただけの4人は法律の上で理事会の成員ではありませんでした。ラザフォードは,騒動の起きた当初からそのことを知っていましたが,彼らが反対をやめるとの期待から,言い出さなかったのです。しかし,その態度から,彼らに理事の資格のないことは明らかでした。当然のことながら,ラザフォードは彼らを解雇し,4人の新しい理事を任命しました。その任命は,1918年の初めに開かれる次の法人総会で確認されるはずでした。

ラザフォード兄弟は前の理事たちをクリスチャンの組織からすぐ去らせるようなことをせず,巡礼者の地位を与えようと申し出ました。彼らはそれを拒絶して自らベテルを去り,アメリカ,カナダおよびヨーロッパ全土において,広範な講演や手紙による反対運動を始めました。その結果,1917年の夏が過ぎた頃には,聖書研究者の多くの会衆はふたつの派 ― エホバの組織に忠節な人たちと,霊的なねむけにおそわれて,反対者の上手な話の犠牲になった人々に分かれるようになりました。後者は非協力的になって,神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざに携わろうとしませんでした。

支配権を得ようとする無駄な努力

反対派のグループは,ベテルを去って間もなく,1917年8月にマサチューセッツ州のボストンで開かれる聖書研究者の大会を牛耳ることができると考えました。その大会に出席したメアリー・ハナンは,「ラザフォード兄弟は,彼らのそうした努力に警戒を怠らず,プログラム中演壇に上がる機会を彼らに一度も与えませんでした。兄弟は司会者を終始つとめたのです」,と伝えています。大会は大成功を収めて,エホバに賛美が帰せられ,反対者たちはそれを分裂させることができませんでした。

1918年1月5日の年次法人集会は,反対者にとって支配権を奪うもう一つの機会となることをJ・F・ラザフォードは知っていました。また,一般の聖書研究者がそうした動きに好意を寄せていないことも当然に確信していました。しかし,問題を扱えるのは,ものみの塔聖書冊子協会という法人団体の会員だけでしたから,一般の聖書研究者は選挙にさいして意志を表明する機会がありませんでした。それでラザフォードにはどんな手段がありましたか。エホバの献身したしもべすべてに意志を表明する機会を与えることです。こうして,1917年11月1日号の「ものみの塔」誌は,各会衆が一般投票をすることを提案しました。12月15日までに,813の会衆が票を送り,その結果,1万1,421票中1万869票がJ・F・ラザフォードを協会の会長として支持していました。そのうえ,その一般投票によって,1917年7月に再任命された理事会の忠実な成員すべてが,理事であることを主張する反逆者たちよりはるかに支持を受けていることも明らかになりました。

1918年1月5日の年次株主集会で,最高の得票数を得た7人は,J・F・ラザフォード,C・H・アンダーソン,W・E・バン・アンバーグ,A・H・マクミラン,W・E・スピル,J・A・ボーネットおよびジョージ・H・フィッシャーでした。反対者はひとりも理事会に入ることに成功しませんでした。次いで正式に選ばれた理事たちにより協会の役員の選挙が行なわれ,J・F・ラザフォードが会長に,チャールズ・H・アンダーソンが副会長に,W・E・バン・アンバーグが会計秘書にそれぞれ満場一致の票を得ました。したがって,それら3人は協会の役員として正式に選ばれ,主導権を得ようとする反対者の企ては完全に失敗したのです。

忠実な者たちと反対者たちの間にもはや和解の余地はありませんでした。反対者のグループは,「七人委員会」の下に全く別の組織を作りました。1918年3月26日までには完全な分裂が生じました。その日,彼らは神の民の忠実な会衆とは別にキリストの死の記念式を祝ったのです。しかし,反対派を作った者たちの一致は長く続かず,1918年の夏に開かれた彼らの大会で不和が生じ,分裂が起こりました。P・S・L・ジョンソンは別の組織を作って,ペンシルバニア州のフィラデルフィアに本部を設けました。彼はそこで「現真理およびキリスト顕現の告知者」を出版し,死ぬまで,「地上最大の大祭司」と称していました。1918年以降あつれきがさらにこうじて分裂を引き起こし,結局,ものみの塔協会から離れた当初の反対者のグループは多くの分裂した宗派に分かれました。

C・T・ラッセルの死に続く数年間に真理を離れた多くの人々は,かつてのクリスチャンの仲間に対して積極的に反対しませんでした。中には,自分の行ないを後悔して戻り,再び神の民と交わる人もありました。それが厳しい試練の時であったことは,メーベル・P・M・フィルブリックの次のことばからもわかります。「天的な賞を受ける立場にあった父と,心から慕っていた継母が落ちて行くのを知った時,ほんとうに悲しく思いました。心の置き所が定まるまで,多くの努力を払いましたし,どれほど涙を流したかわかりません。栄冠を失った者はどこか他で命が得られるという見込みのないことを十分知っていたからです。ふたりが第二の死に入ることを考えるのは耐えられないように思えました。けれども,エホバのご意志がなされることをわたしが心から願うようになったある日,祈っていると,エホバはわたしに大きな慰めを与えてくださいました。突然,わたしは,エホバの愛と公正は自分のそれよりはるかに優れていることがわかるようになりました。また,エホバがふたりを命に値すると見られないなら,他人の両親となんら異ならないのですから,わたしもふたりに執着できないということもわかるようになりました。その時以後,わたしは思いの平安を得たのです」。

エホバの忠実なしもべから当時離れた人々は,幾つもの宗派に分裂したばかりか,大方は信者の数が減少し,活動も取るに足りないものになるか,全く行なわれなくなりました。確かに,彼らは,イエスがご自分の追随者にお与えになった,全地で良いたよりを宣べ伝え弟子を作るという任務を遂行していません。―マタイ 24:14; 28:19,20

1917年と1918年の危機的な年に,どれほどの人が真のキリスト教を捨てたのでしょうか。不完全ながら,全世界でまとめられた報告によれば,1917年4月5日に行なわれたイエス・キリストの死の記念式に2万1,274人が出席しました。(1918年には,組織内外の困難な事情のため,出席者数は集計されなかった。)また,1919年4月13日の記念式には1万7,961人が出席したことが,不完全な報告により伝えられています。正確ではないにしても,それらの数字は,4,000人よりずっと少ない数の人々が,神に仕えるかつての仲間と歩みを共にするのをやめたことをはっきりと示しています。

厳しい試練を受けたクリスチャンたち

1917年から1919年にかけて,聖書研究者は,特にキリスト教世界の僧職者によって醸成された国際的な陰謀の対象ともなりました。「聖書研究」の第七巻,「終了した秘義」は牧師の怒りを引き起こしたのです。創刊から7か月以内に,その配布数は空前のものとなり,協会が依頼した外部の印刷業者は休むことなく85万部を印刷しました。1917年の末までには,同書のスウェーデン語版とフランス語版が発行され,他の言語の翻訳も進められていました。

1917年12月30日から,4ページ,タブロイド版の「聖書研究者月刊」の新しい号1,000万部が大々的に配布されるようになりました。「バビロンの倒壊」と題し,「古代バビロンはひな型 ― 秘義のバビロンは対型 ― なぜキリスト教国は今苦しまねばならないか ― 最後の結果」などの副題のついたこの冊子は,「第七巻」の抜粋を載せ,僧職者たちを非常に辛らつに扱っていました。最後のページにはくずれている最中の石垣の写実的な漫画が描かれていて,石にはそれぞれ,「新教」,「永遠の責め苦の教理」,「三位一体の教理」,「使徒継承」,「煉獄」などと書かれていました。その冊子は,聖書を根拠にして,僧職者の大多数が「不忠実,不忠節また不義な人々」であり,当時荒れ狂っていた戦争やその後の大きな苦悩に対し,地上の他のどんな級の人々にもまして責任があることを示しました。また,その12月30日には,冊子配布運動の一還として,広く宣伝された同じ主題の公開講演が行なわれました。

そのような冊子配布をしてみたいとは思われませんか。C・B・ヴェットは,「あの特別な日は決して忘れないでしょう」と言って,こう続けました。「その日はとりわけ寒い日でした。しかし,配っていた音信はまちがいなく熱いものでした。……わたしはそれを1,000部持って,アパートの戸の下に入れたり,時には,会う人に直接配布しました。わたしは,それが強烈な音信で,爆発的なお返しを受ける結果になることを知っていましたから,戸の下に配布するほうを好んだことは否定できません」。

1917年の末から1918年の初めにかけて,「終了した秘義」の配布数は次第に増えてゆきました。怒った僧職者たちは,その本のある箇所が扇動的な性質のものであると偽って非難しました。彼らはものみの塔協会を「とっちめる」ことにやっきとなり,イエスが地上におられた時のユダヤ教の宗教指導者のように,自分たちに代わって国にそれをしてもらおうとしました。(マタイ 27章1,2,20節と比較してください。)カトリックとプロテスタントの僧職者は共に,聖書研究者がドイツ政府に使われていると偽って主張したのです,たとえば,シカゴ大学神学部のケイス博士は,国際聖書研究者協会のわざに関して,次のような声明を発表しました。「教理を広めるために1週間に2,000㌦使われている。資金の出所は知られていない。しかし,それがドイツ筋から出ている疑いは大いにある。政府が資金面を調査することは有益であるとわたしは信じる」。

1918年4月15日付の「ものみの塔」誌は,「この声明は,他の名目上の牧師による同様の告発と相まって,陸軍情報担当官が協会の会計の帳簿を差し押えたことと明らかに関係していました」,と述べ,さらにこう続けました。「協会がドイツ政府の益のために働いているという告発を裏付ける何らかの証拠が見つかるだろう,と当局が考えたことに疑問の余地はありません。いうまでもなく,帳簿はその種の事がらを何も示しません。協会が使用する資金のすべては,イエス・キリストとその王国の福音を宣べ伝えることに関心のある人々によって寄付されており,他の何でもありません」。協会の帳簿が差し押えられたことは新聞によって全国的に伝えられ,その結果嫌疑は強まりました。

1918年2月12日は,カナダの神の民にとって注目すべき日でした。その日,ものみの塔協会はカナダ全土で禁止されたのです。一般新聞の至急報はこう伝えました。「国務長官は,出版の検閲規定に基づき,カナダにおいて何冊かの出版物の所有を禁ずるよう指令した。その出版物の中には,国際聖書研究者協会により発行された『聖書研究 ― 終了した秘義』があり,これはその著者パスター・ラッセルの死後に出版された本として一般に知られている。またニューヨーク,ブルックリンにあるこの研究会の事務所で発行した同協会の『聖書研究者月刊』もカナダで頒布することは禁じられている。禁止されている本を持っているものは,5,000㌦以下の罰金,あるいは5年間の懲役刑に処せられる」。

なぜ禁止されたのでしょうか。マニトバ州ウィニペグの「トリビューン」紙はその点にふれて,次のように述べました。「禁止された出版物には,扇動的で非戦論的な箇所があると主張されている。『聖書研究者月刊』の最近号のひとつには,2,3週間前,聖ステパノ教会の牧師チャールズ・G・パターソンが説教壇から公然と非難した箇所がある。後程,法務長官はパターソンのところに人をやって,『聖書研究者月刊』の1部を求めさせた。検閲に関する命令が出されたのは,これによる直接の結果と考えられている」。

僧職者にそそのかされて生じたカナダの禁令後間もなく,陰謀は国際的性質のものであることが明らかになりました。1918年2月,ニューヨーク市の米陸軍情報局はものみの塔協会本部を調査し始めました。協会が敵国のドイツと連絡をしているという偽りの情報が飛んでいたばかりか,ブルックリンの協会本部がドイツ軍と通信する本拠になっているという報告が,偽りにもアメリカ合衆国の政府になされたのです。やがて,一般新聞は,政府当局者がベテル・ホームで使うばかりに設置してある無線装置を押収したと報道しました。しかし,真相はどうでしたか。

1915年にC・T・ラッセルは小さな無線受信機をもらい受けました。ラッセル個人はそれにあまり関心がありませんでしたが,ベテル・ホームの屋根に小さなアンテナを立て,数人の若い兄弟に受信機の操作方法を学ぶ機会を与えました。しかし,受信はあまり成功しませんでした。アメリカが参戦しようとしていた時,無線設備すべてを取りはずすようにという命令が出されました。そこでアンテナは取りはずされ,柱はのこぎりで切られて別の用途に使われました。また,受信機のほうは大事に包まれて協会の絵画室にしまわれました。そして,陸軍情報局員ふたりが,ベテル家族の成員からそれについて話を聞くまでの2年以上もの間,その受信機は全然使われていませんでした。局員は屋根に案内されて,受信機が以前設置されていた箇所を見せられました。それから,ふたりはしまい込まれていた受信機そのものも見ました。ベテルではそれが必要ではなかったので,彼らは承諾を得てそれを持って行きました。装置は受信機だけにすぎず,送信機ではありませんでした。ベテルには送信装置がありませんでしたから,どこかに通信を送るということは不可能なことでした。

エホバの民に対する反対と圧迫は強まるばかりでした。1918年2月24日,J・F・ラザフォードは,カリフォルニア州ロサンゼルスで3,500人の聴衆を前に公開講演を行ないました。翌朝,ロサンゼルスの「トリビューン」紙は,一面全部を使って講演の報告を掲げました。それは土地の僧職者の怒りを買い,聖職者協会は月曜日の朝に集まりを開きました。彼らは会長を新聞社の編集部へ送り,講演の記事を新聞に大きく取り上げた理由の説明を求めたのです。その週の木曜日,陸軍情報局は,聖書研究者のロサンゼルス本部を占有して協会の出版物の多くを没収しました。

1918年3月4日,月曜日,ペンシルバニア州スクレントンで,クレイトン・J・ウッドワース(「終了した秘義」の共同編集者のひとり)と他の兄弟数名が逮捕されました。彼らは陰謀という偽りの告訴を受け,5月に裁判が行なわれるまで拘禁されました。さらに,協会に対する外部からの圧力は急速に強まり,20名以上の聖書研究者は,兵役が免除されず陸軍の営舎と軍の刑務所に勾留されました。そして,そのうち数名は軍法会議にかけられ,長期刑を言い渡されました。1918年3月14日,アメリカ合衆国司法省は,「終了した秘義」の配布をスパイ法の違犯であるとしました。

神の民による反撃,それは必要なことでした。僧職者が,聖書研究者のクリスチャン活動に対する反対をそそのかしていることは暴露されねばなりませんでした。こうして,1918年3月15日に,ものみの塔協会は新聞と同じ大きさの2ページの冊子,「王国ニュース」第1号を発行しました。それには,「宗教的な偏狭 ― ラッセル師の追随者は,人々に真理を告げるゆえに迫害される ― 聖書研究者に対する処置は『暗黒時代』を思わせる」という大胆な見出しが掲げられました。その冊子は,何百万部も配布され,ドイツ,カナダおよびアメリカの聖書研究者が僧職者によってそそのかされた迫害を受けていることを確かに暴露しました。

興味深いことに同冊子は次のように述べています。「合衆国政府は,政治的,経済的機構であるゆえに,その基本的法律のもとに宣戦を布告し,市民を兵役に服させる力と権威を有することをわたしたちは認めます。わたしたちは,いかなる方法にせよ,徴兵や戦争に干渉する意向を持っておりません。わたしたちの仲間数名が法の保護を受けようとしたことが,迫害の手段として使われています」。

「王国ニュース」第2号は1918年4月15日に出されました。その冊子は,「『終了した秘義』はなぜ抑圧されるか」という衝撃的な見出しを掲げていました。そして,「牧師たちはこれに関係している」という副見出しのもとに,僧職者たちが政府に働きかけて協会を苦しめ,逮捕させ,『終了した秘義』に反対させ,かつ聖書研究者たちにその本のあるページ(247-253)を切り取らせるように圧力をかけた,ということを示しています。また,その冊子は,牧師がエホバのしもべに反対する理由を説明し,さらに,真の教会についての彼らの考えと戦争に対する立場を明らかにしています。

「王国ニュース」のこの号の配布と関連して,嘆願書が回されました。合衆国大統領ウィルソンにあてられた同書にはこう書かれていました。「我々,下に署名したアメリカ人は,自主的な『聖書研究』に対する僧職者たちの妨害を偏狭,かつ反アメリカ的,反クリスチャン的なものと考える。さらに,教会と国家を結合させる試みはいかなるものも根本的にまちがっていると思うものである。自由と宗教的自由のために,『終了した秘義』の抑圧に対して厳粛に抗議すると共に,人々が妨害なしにこの聖書研究の手引きを買い,売り,所有しかつ読むことができるように,政府がその使用に関し一切の制限を取り除くことを懇願する次第である」。

「王国ニュース」が初めて出されてからちょうど6週間後の1918年5月1日に,「王国ニュース」第3号が発行されました。それには,「激しい二大戦争 ― 独裁政治の滅びは必至」という見出しと,「サタン的策略は失敗の運命をたどる」という副見出しが付いていました。その号は,約束の胤対サタンの胤ということを扱っており,反キリストの発展過程をその誕生からカトリックおよびプロテスタント僧職者の現在の行為に至るまでたどっていました。(創世 3:15)そして,大胆にも,悪魔がそうした手先を使って,イエス・キリストの油そそがれた追随者の地上に残っている人々を滅ぼそうとしていることを示しました。

当時発行された「王国ニュース」を配布するには勇気が求められました。ある聖書研究者たちは逮捕されました。「王国ニュース」が一時的に没収されたことも時にあります。厳しい反対と迫害に遭ってはいましたが,エホバのしもべたちは神への忠実を守り,クリスチャンのわざを行ない続けました。

残虐行為が行なわれる

僧職者と一般信徒による反対が強まるにつれ,エホバのしもべに対して残虐行為が行なわれました。後日ものみの塔協会が発行した一出版物は,聖書研究者が経験した信じがたいような迫害のいくつかを報告しており,その一部は次のとおりです。

「1918年4月12日,オレゴン州メッドフォードにおいて,E・P・タリアフェロは暴徒に襲われ,福音を宣べ伝えたかどで町から追放され,ジョージ・R・メイナードは裸にされてペンキをぬられ,町から追い出された。自宅で聖書研究をすることを許したためである。……

「1918年4月17日,オクラホマ州ショーニーにおいて,G・N・フェン,ジョージ・M・ブラウン,L・S・ロジャーズ,W・F・グラース,E・T・グライアおよびJ・T・タルが投獄された。審理の際中,検事は次のように言った,『お前たちの聖書を持って地獄へ行ってしまえ。お前たちが打ちのめされて地獄へ行くのは当然だ。お前たちを絞首刑にしなければならない』。オクラホマ・シティーのG・F・ウィルソンが弁護士の役を買って出たところ,彼も逮捕された。各人55㌦の罰金と法廷の費用を支払うことを言い渡されたが罪状はプロテスタントの文書を配布したというものであった。審理を行なった判事は判決の後で暴徒をそそのかしたが,暴徒は裏をかかれた。

「1918年4月22日,テキサス州キングスビルで,L・L・デイビスとダニエル・トーレは,市長と郡判事の率いる暴徒に追跡されてつかまり,令状もなく逮捕された。デイビスは職場で解雇された。1918年5月,オクラホマ州テクムセーにおいて,J・J・メイは捕えられ,脅されたり,ののしりを受けた後,判事の命令で13か月間精神病院に監禁された。彼の家族は,彼の身に起きたことについて知らせを受けなかった。……

「1918年3月17日,コロラド州グランド・ジャンクションにおいて,聖書研究の集会が,市長と第一線の新聞記者および著名な実業家からなる暴徒によって解散させられた。……

「1918年4月22日,オクラホマ州ウインウッドにおいて,グラウド・ワトソンは最初,投獄されてのち,伝道師,実業家その他からなる暴徒の手に故意に渡された。彼らはワトソンを打ちのめし,黒人に彼をむち打たせた。そして,なかば意識をとりもどすと再びむち打った。それから,体中にタールと羽毛を浴びせ髪の毛と頭皮にタールをすりこんだ。1918年4月29日,アーカンソー州ウォルナット・リッジで61歳のW・B・ダンカン,エドワード・フレンチ,チャールズ・フランク,グリフィンと名のる人物,D・バン・ホーセン夫人が投獄された。暴徒が刑務所に押し入り,最も口ぎたなく彼らをののしったうえ,むち打ち,タールと羽毛をあびせて町から追い出した。ダンカンは26マイル(約42㌔)歩いて家に帰らなければならなかったが,かろうじて回復した。グリフィンはめくらも同然になり,受けた暴行がもとで数か月後に死んだ」。

その時から長年経た後でさえ,T・H・シベンリストは,オクラホマ州シャタックにおいて自分の父親に起きたことをよく覚えており,次のように書いています。

「1917年の9月に,わたしは学校に入学しました。3月ごろまでは万事が順調に進んでいたのですが,その頃になって,全校生徒に赤十字のバッジを買うことが求められました。わたしはその知らせを昼に家へ持って行きました。父は仕事に出ており,母はその時ドイツ語しか読めませんでした。しかし,『クラス』を訪問中の巡礼者のハウレット兄弟がその問題を扱ってくださり,バッジは買いませんでした。

「役人が仕事中の父を連行して,『終了した秘義』の上に立たせ,それもシャタックの目抜き通りのまん中で,国旗に敬礼させようとしたのは,それからまもなくのことでした。父は刑務所に入れられました。……

「それからほどなくして父は再び連行され,さらに3日間勾留されました。その時には食物をほとんど与えられませんでした。そして釈放された時の事情は全く異なっていました。真夜中ごろ3人の男が刑務所『破り』を装って押し入り,父の頭に袋をかぶせて,はだしのまま父を町の西のはずれまで連れて行きました。そこはごつごつした土地で,ぶたくさの一種がいっぱい生えていました。彼らはそこで父を上半身裸にして,先に針金のついた荷馬車用のむちで打ちました。それから熱いタールと羽毛をかけて放置し,死ぬにまかせようとしたのです。父はなんとか起きあがって町の周りをはって歩き,南東に向かいました。それから北に方向を取って家に帰ろうとしました。しかし,父の友人が見つけて,父を家に連れて来てくれました。わたしはその晩は父を見ませんでした。しかし,家では生まれたばかりの赤ん坊がいましたから,特に,母は大きな衝撃を受けました。祖母のシベンリストは父を見て気絶しました。弟のジョンはこうしたことが起きるわずか2,3日前に生まれたばかりでした。しかし,母はすべての重圧に耐えて気をしっかりと持ち,エホバの保護の力を決して見失いませんでした。……

「祖母と,父の異母姉妹であるカティエおばさんが,命を取り留めるよう父を介抱し始めました。タールと羽毛が肉に食い込んでいたので,傷を直すためにがちょう脂を使い,タールはだんだん出て来ました。……父は襲撃者の顔を見ませんでしたが,声でだれであるかわかっていました。父はそのことを決して彼らに言いませんでした。実際,その事件について父に話させようとするのは難しいことでした。しかし父の傷跡は死ぬまで消えなかったのです」。

「へびのように用心深く」

「終了した秘義」と他のクリスチャンの出版物が禁止されたため,エホバのしもべたちは困難な事態に陥りました。しかし,彼らには神から与えられたなすべきわざがあり,彼らはそれを行ない続けて,自分たちが「へびのように用心深く,しかもはとのように純真なこと」を証明しました。(マタイ 10:16)それで,聖書研究の手引きは,しばしば,屋根裏とか石炭置場,床の下や家具の中などに隠されました。

C・W・ミラー兄弟はこう語っています。「当時わたしの家は土地の聖書研究者の拠点となっていましたので,兄弟たちは真夜中にトラックで文書を運んできました。わたしたちはにわとり小屋に本のカートンを隠し,ロード・アイランド・レッド種のにわとりと木の葉でごまかしました」。

その頃のでき事を思い出して,D・D・ルーシュはこう書いています。「リード家では,家の裏手の外に本を隠しました。警官がやって来て隠し場所に近づいた時,リード家の人たちは息を凝らしました。ちょうどその時,雪の大きなかたまりが屋根から落ちて,隠し場所をすっかり覆ってしまいました」。

「律法をもて害ふことをはかる」

幾世紀も昔,詩篇作者は,『律法をもて害ふことをはかる悪の位はなんぢに親しむことを得んや』と問いました。(詩 94:20)エホバのしもべは,神の律法に抵触しない諸国家の法律すべてに常に従っています。しかし,考えればわかることですが,単なる人間の命令と神の律法が相反する場合には,クリスチャンは使徒たちと同様の態度を取り,「人間より神に従」います。(使徒 5:29)時としてクリスチャンのわざをやめさせようとの意図のもとに法律が誤用されることがあります。また,敵が神の民を害する条令を通過させるのに成功する場合もあります。

1917年6月15日,選択的徴兵条令が合衆国議会を通過しました。それは,人的資源を強制徴集するものでしたが,宗教上の理由で戦争に参加できない人々に対する例外も設けていました。どのような道を選ぶべきかをラザフォード判事に問い合わせる全国の若者からの多数の手紙がものみの塔協会に寄せられました。そのことについて,ラザフォード判事は後日次のように語りました。「アメリカの多くの若者から,このことに関してどんな道を取るべきかを尋ねられました。問い合わせてきた若者に与えたわたしの助言は,どの場合にも次のような趣旨のものでした。すなわち,『もしあなたが良心上参戦できないなら,選択的徴兵条令第3条により,徴兵免除を申請することができます。理由を明記した徴兵免除申請書を作成して提出すれば,徴兵局はその申請を認めるでしょう』。わたしは,議会の条令の適用を受けるように勧めたにすぎません。わたしは,首尾一貫して,国の法律が神の律法に相反しない限り,市民すべては法律に従うべきであると主張しました」。

第一次世界大戦中,エホバのしもべに対する明らかな陰謀が明るみに出ました。それを推し進めるために,多数の僧職者がペンシルバニア州フィラデルフィアで1917年に会議を開きました。彼らは,その時,首都ワシントンにおもむいて,選択的徴兵条令とスパイ法の改正を求めるための委員会を任命したのです。同委員会は司法省を訪れました。僧職者たちの要請で,スパイ法の修正案を作成して合衆国上院に提出するよう,司法省の役人,ジョン・ロード・オブライアンが選ばれました。その修正案は,スパイ法の違犯行為はすべて軍事法廷で裁判を受け,有罪者には死刑が課されるというものでしたが,その法案は可決されませんでした。

スパイ法の改正を議会が手がけていた時に「フランス修正案」として知られる条項が提議されました。それは,「良い動機から,正当と認め得る目的のために真実のことを」語る人々を同法の規定から除外するものでした。

ところが,1918年5月4日,上院議長は,司法長官から1通の覚え書きを受け取りました。「議会報告」(1918年5月4日,6052,6053ページ)に載せられたその覚え書きは,一部次のように述べています。

「軍事情報局の見解は,その第3条第1項が,『良い動機から,正当と認め得る目的のために真実のことを』語る者に適用されないとする,スパイ法の修正に真向から反対するものである。

「経験が示すとおり,そのような修正は,法律の価値を無効にすることはなはだしく,また,いずれの裁判をも,真実なこととは何かとの解決不能な難問をめぐる非実際的な論争と化せしめるであろう。人間の動機は,論じるにはあまりにも複雑であり,『正当と認め得る』ということばは非常に融通性があって実際に適用することは難しい。……

「この種の宣伝の最も危険な例のひとつは,きわめて宗教的なことばで書かれ,大量に配布されている,『終了した秘義』と題する文書である。その趣旨は,兵士たちをして我々の大目的に不信を抱かせ,徴兵に反対してもよいという気持ちを持たせることにほかならない。

「ブルックリン発行の王国ニュースには,『終了した秘義』および他の同様の文書に対する制限を取り除き,『人々が妨害なしにこの聖書研究の手引きを買い,売り,所有しかつ読むことができるように』すべきであるとの要求を記した嘆願書が印刷されている。修正案が通過すれば,我が方にこうした有害な影響が再びもたらされることになろう。

「国際聖書研究者協会は,純粋に宗教的な動機を装っているが,その本部はドイツ当局の手先となっていることが以前から報告されている。……

「修正案が通過すれば,アメリカの威信は大いに弱まり,敵国を有利にするだけである。戦争において重要なのは動機でなくて結果である。したがって,法とその執行者は,動機については判事のあわれみ,ないし歴史家の判断にまかせ,望ましい結果を得るように努めることと,危険な結果を防止することとに心がけるべきである」。

司法省のこうした努力の結果,修正されたスパイ法は「フランス修正案」なしに1918年5月16日,承認されました。

「我々はおまえたちをどのようにやっつけるかわかっておる。それをしてやるぞ!」

その頃,聖書研究者と交わっていた数人の若者が兵役に召集され,良心上の理由でそれを拒否したために,ニューヨーク州ロング・アイランドのアプトン隊に送られました。その部隊を指揮していたジェイムズ・フランクリン・ベル大将は,J・F・ラザフォードをその事務所に訪ね,国の内外を問わずどこでもベルから割り当てられた仕事をするよう,それらの若者に教えることをラザフォードに勧めました。ラザフォードはそれを断りました。しかし,陸軍大将はしつこく迫ったため,ついに彼は次のような要旨の手紙を書きました。「あなたがた各人は,積極的に兵役につくかどうかを自分自身で決定しなければなりません。自分の義務であると信じ,全能の神の目に正しいと見なすことを行ないなさい」。ベルはこの手紙に満足しませんでした。

2,3日後,J・F・ラザフォードとW・E・バン・アンバーグはアプトン隊にベル大将を訪れました。ベルは,幕僚やバン・アンバーグを前にして,ラザフォードに僧職者たちのフィラデルフィア会議について話しました。そして,問題を上院へ提出するためにジョン・ロード・オブライアンが選ばれ,スパイ法に対する違犯はすべて軍事法廷で裁かれて死刑が課されるという法案が上程されたということを語りました。ラザフォードによればベル陸軍大将は「少なからざる憤りを示し」ました。彼はさらにこう伝えています。「彼の前の机の上には書類の包みが置いてありました。彼はそれを人差し指でたたきながら,わたしに向かってすごみを効かせてこう言いました。『その法案は通過しなかった。ウィルソンが拒否したからだ。しかし,我々はおまえたちをどのようにやっつけるかわかっておる。それをしてやるぞ!』。それに対して,わたしは,『陸軍大将,わたしは逃げ隠れなどいたしません』と答えました」。

「ふたりの証人」に対する致命的な打撃

1914年10月の初旬が過ぎると,キリストの油そそがれた追随者は,異邦人の時が終わって,諸国民はハルマゲドンにおける滅びに近づきつつあることを宣布しました。(ルカ 21:24。啓示 16:14-16)それら象徴的な「ふたりの証人」は,1,260日,すなわち3年半の間(1914年10月4-5日から1918年3月26-27日),諸国民に対するその陰うつな音信を宣明したのです。それから,悪魔の野獣的な政治体制は神の「ふたりの証人」に対して戦いを挑み,ついには,「粗布を着て」預言をすることによって責め苦を与えるわざに関する限り,彼らを殺し,宗教上,政治上,軍事上および司法上の敵たちに大きな慰めをもたらしました。(啓示 11:3-7; 13:1)これは預言されていたことですが,その預言は成就しました。しかし,どのようにしてですか。

1918年5月7日,ニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所は,ものみの塔協会の主要なしもべたち数名に対して逮捕状を出しました。そのしもべたちとは,J・F・ラザフォード会長,W・E・バン・アンバーグ会計秘書,クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャー(このふたりは「終了した秘義」の共同編集者だった),F・H・ロビンソン(「ものみの塔」誌の編集委員のひとり),A・H・マクミラン,R・J・マーチンおよびジヨバンニ・デチェッカでした。

翌日の1918年5月8日,ブルックリン・ベテルにいたそれらの人々は逮捕され,結局全員が勾留されました。その後間もなく,彼らはガービン判事により連邦裁判所で審問され,大陪審員によってすでに答申されていた起訴状をつきつけられたのです。すなわち次のように告発されました。

「(1,3)戦時中のアメリカにおいて,アメリカ合衆国の陸海軍の兵役に対して,不法かつ故意に,反抗,不忠実,拒否の態度をおこさしめた。個人的な懇請,手紙,公開講演により,また,『聖書研究,第七巻,終了した秘義』と呼ばれる本をアメリカ合衆国中に配布し,公に流布することにより,さらにアメリカ合衆国中に『聖書研究者月刊』,『ものみの塔』,『王国ニュース』と呼ばれるパンフレットに印刷された記事,あるいはその他のパンフレットを配布し,公に流布することによりこれを行なった」。

「(2,4)アメリカ合衆国の戦争時に,アメリカ合衆国の徴兵応召事業を,不法かつ故意に妨害した」。

起訴状は主として「終了した秘義」のひとつの節に基づいていました。そこにはこう書かれています。「新約聖書のどこにおいても,愛国主義(偏狭にも他の民族を憎むこと)は勧められていません。あらゆる箇所で常にいかなる形式の殺人も禁じられています。しかしながら,地上の諸政府は愛国主義を口実にして,平和を愛する人々に自分自身や愛する人々を犠牲にしたり,仲間の人間を殺すことを求め,それを天の律法により命じられた義務であるとして称揚します」。

ラザフォード兄弟,バン・アンバーグ兄弟,マクミラン兄弟,およびマーチン兄弟は,チューリッヒにある協会のスイス支部の監督に500㌦(約15万円)送金したことに基づき,敵国と取引きをしたかどで再度起訴されました。罪を問われた各の兄弟は,それぞれの起訴状につき2,500㌦ずつの保釈金で勾留されました。兄弟たちは保釈出所し,1918年5月15日に出廷しました。審理は1918年6月3日にニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所で行なわれ,兄弟たちはふたつの起訴状に対して「無罪」を訴え,すべての告訴に対して全く無実であると考えていました。

予備審問であらわに示された感情のために,被告人たちは,ガービン判事が自分たちに偏見を持っていると感じる理由を示した宣誓供述書を提出しました。やがて,裁判を主宰する人として,アメリカ合衆国の地方判事,ハーランド・B・ハウが連れて来られました。A・H・マクミランによれば,被告人たちはハウの考え方を知りませんでしたが,政府側は,彼が「特に同法に関する訴追に好意的であり,同法違反を問われた被告人に対して反感をもっている」ことを知っていました。マクミランは次のようにも語りました。「しかし,わたしたちは長い間それを知らずにいたわけではありませんでした。裁判に先立ち,判事事務室で開かれた最初の弁護士会議から,ハウ判事は敵意をはっきりと表わし,『わたしはこれら被告人たちにできるだけ刑を与えるつもりだ』ということを示しました。しかし,その時はすでにわたしたちの弁護士が判事側の偏見に対する供述書を提出するのに遅すぎました。

マクミランによれば,最初に答申された起訴状では被告人は,アメリカが宣戦を布告した1917年4月6日から1918年5月6日の間のどこかの時点で陰謀を企てたことになっていました。命令申請の段になって政府は,告発された罪が犯されたのは1917年6月15日から1918年5月6日の間であると明確に述べました。

法廷での模様

アメリカ合衆国は戦争中でしたから,扇動のかどで告発された聖書研究者の裁判は非常に注目を集めました。一般の人々の感情はどうであったかといえば,戦争努力の推進に対して好意的でした。法廷の外では,兵隊たちがバンドを鳴らしてブルックリンのバラ・ホール近くを行進したりしていました。法廷内では審理も15日を経て,おびただしい証言が山と積まれました。法廷内に入って審理の模様を見てみましょう。

被告のひとりであった,A・H・マクミランは,その場のふん囲気を知る手がかりとして,後日次のように書きました。「裁判の時政府は,もしある人が町角に立って,人々を軍隊にはいらせないことを目的として主の祈りをくりかえし唱えるならば,その者は刑務所へ入れられる,と言いました。このことからもわかるように,政府は,まったく勝手な解釈をしました。彼らは人が何を考えているかわかると思いました。ですからわたしたちが,徴兵に影響することに荷担したことは一度もなく,兵役を拒否するようすすめたことも一度もないことをいくら証言しても,彼らは自分たちの尺度で物事をおしはかり,わたしたちに反対しました。証言はなんの効果もありませんでした。キリスト教世界の一部の宗教指導者とその政治上の同盟者たちは,どうあってもわたしたちに罪を着せることを決意していたのです。検察当局は,ハウ判事の同意を得て,有罪を証明しようとし,わたしたちの動機が尋常でないこと,そしてわたしたちの行動からその目的を推測すべきことをがん強に主張しました。わたしは,ある小切手 ― それが何の目的のための小切手かは彼らにはわからなかった ― に連署し,またラザフォード兄弟が理事会で読んだステートメントに署名したというだけの理由で有罪とされたのです。それでさえ,はたしてわたしの著名であったかどうか彼らは証明することができませんでした。この不正はあとで控訴する助けになりました」。

ある時,協会のかつての役員が呼ばれました。提示されたふたつの署名を見た彼は,ひとつはW・E・バン・アンバーグの署名であると言いました。記録の写しにはこう記されています。

「問. わたしはあなたに確認のための参照物件31号をお渡ししますから,マクミランとバン・アンバーグのふたつの署名もしくは署名と称されるものを見ていただきたい。そして,まず,バン・アンバーグについてお尋ねしますが,あなたの意見では,それは彼の署名を謄写版で印刷したものですか。答. そう思います。そうであることを認めます。

「問. マクミラン氏のものについてはどうですか。答. マクミラン氏のものであるとはっきり認められるわけではありませんが,わたしはそうだと思います。

被告側の答弁について,マクミラン兄弟は後日次のように書きました。

「政府の申し立てが終了した後,わたしたちの答弁になりました。要するに,わたしたちが示したのは次のことでした。協会が純粋に宗教的な組織であること,成員は,チャールズ・T・ラッセルによって解説された聖書を信仰の原理として受け入れていること。C・T・ラッセルは生涯中に『聖書研究』の6巻を執筆出版し,早くも1896年には,エゼキエル書と啓示を扱った第七巻の出版を約束していたこと。ラッセルは臨終の際だれか他の人が第七巻を書くであろうと述べたこと。彼の死後まもなく,協会の管理委員会は,C・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーに原稿を書いてそれを検討のために提出する権限を与えたが,出版することは何も約束しなかったこと。啓示を扱った原稿はアメリカ合衆国が戦争に入る前に書き終えられており,全部の原稿(神殿に関する章を除く)は,スパイ法の制定以前に印刷業者の手に渡されていたこと。したがって,起訴されているような陰謀を行なって同法に違犯することはあり得なかったこと。

「わたしたちは次のことを証言しました。すなわち,いついかなる時にも,団結し,お互いに同意し,陰謀を企てて,徴兵に何らかの影響を及ぼす事がらや戦争遂行に当たる政府に干渉する事がらなど行なわなかったこと。いかなる形であれ,戦争に干渉する意図はないこと。わたしたちのわざは純粋に宗教的であり,政治的なものでは全くないこと。徴兵を拒否するよう会員に懇請したことはなく,だれかに助言もしくは励ましを与えることも一度もなかったこと。手紙類は,法律的に言って当然に相談できる既知の献身したクリスチャンである人々にあてられていたこと。わたしたちは国が戦争することに反対するのではなく,献身したクリスチャンとして,人命を奪う戦いに参加できないこと」。

しかし,その審理中に話されたり行なわれたりしたことすべてが公に隠しだてなくされたわけではありません。後にマクミランはこう報告しました。「審理を傍聴していたわたしたちの仲間のある人が,後日わたしに話してくれたのですが,政府側の代理人のひとりは廊下に出て,協会内で反対を引き起こしたことのある者たち数人と低い声で話をしました。彼らはこう言ったのです。『あいつ(マクミラン)を逃さないでくれ。一味のうちで一番悪いのだ。他の者たちといっしょに捕えなければ,あいつが仕事を続けさせるだろう』」。その時,野心的な者たちがものみの塔協会を支配しようとしていたことを思い出してください。後ほどラザフォードがベテルの責任を委ねた兄弟たちにこう警告したのも当然でした。「以前,協会とその仕事に反対した7人の者が裁判に出席し,わたしたちの告発者を援助したということを知らされました。それで愛するみなさん,彼らの中のある者が協会をのっとろうとしてあなたがたのきげんをとるというような巧妙な手口を弄してもそれにのらないように注意してください」。

長い裁判の末,ついに,待たれた判決の下される日が来ました。1918年6月20日午後5時,訴訟は陪審員へ回されました。J・F・ラザフォードは後に次のように回顧しています。「陪審員は評決を下すのに長い間手間取りました。後から陪審員のひとりがわたしたちに話してくれたのですが,結局,ハウ判事が,有罪と評決するよう指図しました。4時間半ほど審議した後,午後9時40分に陪審員は評決をもって戻り,「有罪」と言い渡しました。

刑の宣告は6月21日に行なわれました。法廷は満員でした。被告人たちは,何か言うことがないか聞かれた時,答えませんでした。続いて,ハウ判事による刑の宣告が行なわれ,彼は腹立たしげにこう言いました。「これらの者たちが携わっている宗教的宣伝活動はドイツ兵の一個師団よりも有害である。彼らは政府の法務官に異議を唱えたばかりか,あらゆる教会の牧師すべてを公然と非難した。その刑は厳しいものでなければならない」。

確かにそのとおりになりました。被告人中7人は80年の懲役を言い渡されたのです。(それぞれ4つの異なる訴因で20年づつの判決を受けた。)ジヨバンニ・デチェッカの刑の宣告は遅れましたが,最終時に,40年,すなわち同じ4つの訴因でそれぞれ10年の刑を言い渡されました。彼らは,ジョージア州アトランタの連邦刑務所で服役することになりました。

裁判は15日間続きました。おびただしい量の証言が記録され,訴訟手続きはしばしば不公正でした。事実,その裁判には125を上回る誤りが含まれていたことが後に明らかにされたのです。上告裁判所が全部の訴訟手続きを公正でないと最終的に宣告するには,そうした不正の2,3を挙げるだけで十分でした。

その時傍聴席にいたジェイムズ・グウィン・ジーは,「わたしは行って兄弟たちがこの不公正で筋の通らない裁判に服させられていた間中ずっと兄弟たちと共に苦しみました」と述べ,さらにこう続けています。「今だに忘れられないのは,裁判官がラザフォード兄弟に弁論の機会を与えようとしなかったことです。『この法廷で聖書は通用しません』と裁判官は言いました。その夜,わたしはM・A・ハウレット兄弟とベテルに留まりましたが,10時ごろ,兄弟たちが有罪となったという知らせを受けました。刑が宣告されたのは翌日でした」。

不正な有罪判決を受け,厳しい刑を言い渡されたにもかかわらず,ラザフォード兄弟とその仲間は恐れませんでした。興味深いことに,1918年6月22日のニューヨーク・トリビューン紙は次のように報じました。「ジョセフ・F・ラザフォードと『ラッセル派』の他の6人は,スパイ法違反で昨日ハウ裁判官により有罪と宣告され,アトランタの刑務所で20年間の服役を言い渡された。『これはわたしの生涯で,もっとも幸福な日です。自分の宗教上の信念のために,地上で罰を受けることは,人間の最大の特権のひとつです』,とラザフォード氏は法廷から刑務所へ向かう途中語った。有罪の宣告を受けた者たちが大陪審室につれて行かれてからすぐ,ブルックリンの連邦裁判所の事務所では,今までにない非常に珍しいデモンストレーションが彼らの家族や親しい友人たちによって行なわれた。全員が古い建物を『結ばれるきずなに幸いあれ』という歌で鳴り響かせたのである。彼らは,ほとんど輝かしいといった顔つきで,『これはすべて神のご意志だ。いつか世界は,このすべての意味を悟るようになるであろう。さしあたり,わたしたちは試練の時にわたしたちを支えてくださった神の恵みに感謝し,来たらんとする「大いなる日」を待ち望もうではないか』と語り合っていた」。

兄弟たちは上告している間に,二度にわたり保釈されるよう努力しましたが,最初はハウ判事により,二度目にはマーチン・T・マントン判事により差し止められました。そうしている間に,兄弟たちは,まず,ブルックリンのレイモンド・ストリート刑務所に入れられました。A・H・マクミランによれば,そこは,「今まで入った中で一番汚い穴倉」でした。クレイトン・J・ウッドワースはそこを「ホテル・ド・レイモンディ」とおどけて呼びました。その不快な刑務所で一週間過ごした後に,ロング・アイランド・シティー刑務所でもう一週間過ごしました。そして,ついに,アメリカ合衆国の独立記念日に当たる7月4日,不正にも有罪とされたそれらの人々は,ジョージア州アトランタ刑務所へ汽車で送られたのです。