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第3部 ― アメリカ合衆国

第3部 ― アメリカ合衆国

第3部 ― アメリカ合衆国

リッチフィールドで暴力行為が勃発

王国農場が襲撃と焼打ちの脅威にさらされていたのと同じ頃,イリノイ州のリッチフィールドでもエホバの証人に対するいやがらせの火の手が上がりました。クラレンス・S・ハゼイは次のように回顧しています。「リッチフィールドの暴徒たちは何かの方法でわたしたちの計画をかぎつけ,わたしたちが奉仕のために町に入った時には,彼らは待ちかまえていました。町の司祭が教会の鐘を鳴らして合図すると,彼らは兄弟たちを取り巻き始め,町の刑務所に連れて行きました。数人の兄弟はひどく殴打され,暴徒たちは刑務所を焼き払うと脅しさえしました。そのうちのある者は兄弟たちの車を見つけてこわし始め,がらくた同然にしてしまいました」。

ウォルター・R・ウィスマンはこう語ります。「暴徒に殴打された後,兄弟たちは州の高速道路巡視隊によって刑務所に集められ,保護されました。一兄弟チャールズ・セルベンカは,国旗に敬礼することを拒否したため地面にたたきのめされ,顔に旗を押し付けられ,頭やからだのあたりをしたたかけられたり打たれたりしました。彼は兄弟たちのうち一番ひどく傷つけられ,殴打のあとが完全には良くならず,2,3年後に亡くなりました。後日,彼は話していましたが,これが比較的新しい兄弟にでなく自分にふりかかってよかった,自分はこれをがまんできるが,新しい人は弱くなって妥協するかもしれないから,と打たれながら思ったそうです」。

ウィスマン兄弟はさらに次のように回顧します。「リッチフィールド市は,それをやり遂げたことを非常に誇りにしていました。事実,何年も後の1950年代に,リッチフィールドは百年記念祭を催して,同市の100年の歴史で際立った出来事を描いた山車を作りましたが,その山車のひとつは1940年にエホバの証人を襲撃したことを記念するものでした。市の当局者はそれを同市の歴史上記念すべき出来事だと考えたのです。エホバが彼らに返報されますように」。

無視された訴え

エホバの証人に対する暴力的な攻撃が非常に激しくひんぱんに行なわれたため,アメリカ合衆国の首席検事フランシス・ビドルとエリノア・ルーズベルト夫人(フランクリン・D・ルーズベルト大統領夫人)は,そうした行為をやめるよう一般に呼びかけました。実際,ちょうどリッチフィールド事件の起きた1940年6月16日に,NBCの国内放送を通してビドルは次のように語りました。

エホバの証人は繰り返し襲われて殴打されています。彼らは罪を犯していません。しかし,暴徒たちは彼らが罪を犯したとして暴力的な制裁を加えています。法務長官は,そうした暴力行為をただちに調査するよう命じました

「国民は油断なく警戒し,とりわけ冷静かつ健全でなければなりません。暴徒による暴力行為は政府の業務をきわめて難しくしますから,それを大目に見ることはできません。ナチの方法をまねてみたところでナチの悪を滅ぼすことにはなりません」。

しかし,そのような訴えもエホバの証人に向けられたうしおのような憎しみをせき止めませんでした。

乱されたクリスチャンの集まり

そうした騒乱の時代,アメリカでは,クリスチャンたちは聖書の教育を受けるため平和裏に集まっている際中に襲われることがありました。その一例は1940年にメイン州のサコで起きた事件です。ハロルド・B・ダンカンの話では,ある時エホバの証人が二階の王国会館に集まってレコードによる聖書講演を行なう準備をしていると,1,500人から1,700人の暴徒が現われました。ダンカン兄弟は,ひとりの司祭が暴徒に加わり,会館の前にいた自動車の中に座っていたのをはっきりと覚えています。「(隣りの)ラジオ修理店の人はありったけのラジオのスイッチを入れてボリュームをいっぱいに上げ,講演をかき消そうとしました」とダンカン兄弟は述べ,こう付け加えました。「すると暴徒は窓に石を投げ始めました。懐中電燈を持った私服の警官は,石を投げる窓に光を当てました。警察署は一区画半しか離れていなかったので,わたしはそこへ二回足を運び,起きていることを知らせました。警察は,『おまえたちがアメリカの国旗に敬礼したら助けてやろう』と言いました。暴徒は会館の(小さな窓ガラス)70枚を石でこわしました。わたしのこぶしくらいある石がガートルド・ボッブ姉妹の頭をかろうじてはずれ,しっくいの壁の角を落としました」。

暴徒による暴力行為は,オレゴン州のクラマス・フォールズで開かれた1942年の大会中にも起きました。ドン・ミルフォードによると,暴徒たちはもうひとつの大会都市に講演を伝える電話線を切りましたが,講演の写しを持っていた兄弟がただちに引き継いでプログラムは続けられました。ついに暴徒は会場に押し入ったので,証人たちは自己防衛しました。とびらが再び閉まった時,暴徒のひとり ―「大きくて強そうな男」が建物の中で意識を失って倒れていました。その人は警察署員でした。顔のそばにバッジを置いてその人の写真が撮られました。ミルフォード兄弟はこう語っています。「わたしたちは赤十字を呼びました。担架を持ったふたりの女性が派遣され,その人は運ばれて行きました。彼は後日,『やつらが戦うとは思っていなかった』と語ったそうです」。警察は証人を助けることを拒否しました。そのため州の国民軍が暴徒を追い払うまでに4時間以上たっていました。

街頭の雑誌活動中に襲われる

いくつかの土地の警官はエホバの証人を保護することを怠りましたが,きまってそうだったわけでは決してありません。たとえば,L・I・ペインは,数十年前にオクラホマ州のツルサで街頭の雑誌活動をしていた時,ひとりの警官がいつもそばにいることに気づきました。「それで」とペイン兄弟は話します。「ある日わたしはどうしていつもそんなに近くにいるのかと警官に聞いてみました。担当区域は広いが,だれかがわたしを追い払ったりたたいたりすることがないようにその付近にいるのだという答えでした。その警官は小さな町で証人がどんな扱いを受けているかを新聞で読みましたが,このわざを妨害しようという人の気持ちが理解できなかったのです」。

しかし,エホバのしもべが「ものみの塔」と「慰め」誌を用いて街頭で証言している時にしばしば激しい暴徒の襲撃を受けたことは確かです。たとえば,ジョージ・L・マッキーは,オクラホマ州のある所で来る週も来る週も100人から1,000人を優に超す怒り狂った男たちが徒党を組み,街頭の雑誌活動をしている証人を襲ったと語っています。市長や警察署長,また他の役人は何ら保護の手を差し伸べませんでした。マッキー兄弟の話では,暴徒を率いていたのは,たいてい,名うての女強盗ベル・スターのいとこにあたる米国在郷軍人会連盟の指導者で,著名な医師でもある人物でした。まず,酔った手下が騒ぎを起こし,それから,玉突きの棒やこん棒,ナイフ,大きな肉切り包丁,銃で武装した暴徒がやってきました。彼らの目的,それは証人を町から追い出すことでした。しかし,王国の宣布者たちは土曜日ごとに何時間ぐらい街頭伝道をするかをあらかじめ決めていました。そして,暴徒はたちまち集まりましたが,証人たちは定められた時間いっぱい首尾よく奉仕できました。多くの雑誌が買物客に配布されました。

ある土曜日,15人ほどの証人はだし抜けに襲われました。マッキー兄弟は,「わたしたちは生きて逃げおおせるには,エホバ神と正しい判断に頼らねばならないことを知りました」と言ったあと,こう続けました。「なんの警告もなく,彼らは包丁とこん棒を持ってわたしたち三人の兄弟に襲いかかったのです。……腕を折られたり,頭骨にひびが入るほど打たれたり,ほかにもけがをさせられたわたしたちは,その土地の四人の医者へ行きましたが,四人ともわたしたちに必要な治療を施すのを断わりました。わたしたちは,ある同情心に富んだ医師の治療を受けるために80㌔離れた土地まで行かねばなりませんでした。心身の傷がまもなくいえたわたしたちは,次の土曜日に王国の良いたよりを携えて街頭に戻りました。こうした精神は,迫害のさなかの難しい期間全体を通じて示されました。

コナースビルの狂暴

暴徒による暴力行為のなかでも有名なのは,インディアナ州コナースビルで1940年に起きた事件でした。その町で数人のクリスチャン婦人が裁判にかけられ,「暴動を共謀した」という偽りの告発を受けました。裁判の第一日目に地帯のしもべのレインボー兄弟とビクター・シュミットおよびミルドレド・シュミットが裁判所を出ると,約20人の男たちが三人の自動車目がけて突進し,殺してやると脅して車を転覆しようとしました。

裁判の最終日,検察官は弁論の時間の多くを暴動を扇動することに用い,時には建物内の武装した人々に直接話しかけました。午後9時ごろ,「有罪」の評決が下ると,暴力のあらしが切って放たれました。シュミット姉妹によると,彼女と,裁判に立ち会った弁護士のひとりである夫のビクターはふたりの兄弟とともに他の証人からしゃ断され,200人ないし300人の暴徒に襲われました。彼女の話は次のとおりです。

「ほとんど間髪を入れずに,くだものや野菜や卵などありとあらゆる物が雨あられのようにわたしたちに浴びせられ始めました。後で聞いたのですが,暴徒たちはそれらをトラック1台分も投げたそうです。

「わたしたちは自動車へ走って行こうとしましたが,さえぎられて市の外へ通じる高速道路の方へ追いやられました。それから暴徒はわたしたちに突進して,兄弟たちを打ったりわたしの背中をたたいたりしました。わたしたちはのめったり,のけぞったりしました。その時までにはあらしがたけり狂っていました。雨は滝のように降り,風は吹き荒れていました。でも,自然力の猛威はその悪霊につかれたような暴徒の猛威に比べれば問題ではありませんでした。あらしになったので多くの者たちは自動車に乗り,わたしたちのそばを走りながら,叫んだりのろったりしました。のろいのことばには決まってエホバの名前を使ったので,わたしたちは心を突きさされる思いでした。

「でも,あらしにはおかまいなく,少なくとも100人の男は歩いてわたしたちに押し迫っていたように思います。オハイオ州スプリングフィールドから来たヤコビー姉妹(現在のクレイン姉妹)の運転する自動車に乗った友人たちが一度わたしたちを救おうとしました。しかし,暴徒は自動車を倒さんばかりにし,自動車をけったりドアをこわしたりしました。そして,その自動車からわたしたちを引き離すと,いっそうひどく殴打を浴びせました。友人たちはわたしたちを置いたまま自動車を走らせなければなりませんでした。わたしたちは追い立てられ,あらしはいっこうに弱まらず,暴徒は叫んだり,『やつらを川へぶち込め,川へぶち込め』と言い続けていました。絶えず繰り返されるそのことばに,わたしの心は恐ろしさでいっぱいでした。ところが川に渡した橋にさしかかった時,繰り返されていたそのことばが突然やんだのです。やがて,わたしたちはほんとうに橋を渡っていました。まるでエホバの使いたちが暴徒をめくらにして,わたしたちがどこにいるかわからないようにしているかのようでした。わたしは,『ああ,エホバ,ありがとうございます』と心の中で言いました。

「それから,大きくてがっしりした暴徒たちが兄弟たちを打ちたたき始めました。自分の愛する人が打たれているのを見るのはほんとうにつらいことでした。彼らが打ちたたくたびにビクターはよろめきましたが,決して倒れませんでした。そうした殴打はわたしにとって恐怖の殴打でした……

「彼らはたびたび背後からわたしに近づいてドンと突き,のけぞらせました。とうとう,わたしたちは他のふたりの兄弟と離ればなれになりました。ふたりで腕をがっちり組んで歩きながら,ビクターはこう言いました。『ぼくたちはパウロほどの苦しみに遭ってはいない。血を流すほどに抵抗してはいないんだ』。(ヘブライ 12:4と比較してください。)

「あたりはまっ暗になり,夜がふけて行きました。(あとで知ったのですが,11時ごろになっていました。)わたしたちが市外に出て,疲れきってしまいそうになっていた時,突然1台の車がわたしたちのすぐそばで止まりました。聞き慣れた声が,『速く! 乗ってください!』と言いました。そこにいたのは,なんと,あのりっぱな若い開拓者,レイ・フランズでした。わたしたちをそのすさまじい暴徒から助けに来てくれたのです。……

「その時も,わたしたちはみな,エホバの使いが敵の目をくらまして,わたしたちが自動車に乗るのを見えないようにしてくれたと感じました。暴徒から襲われる心配のない車の中には,レインボー兄弟と彼の妻のほか3人が乗っていました。その小さな車に全部で8人がなんとか乗れました。エホバの使いは,わたしたちが自動車に乗るところを敵に見えないようにしてくれたのだとだれもが思いました。暴徒たちはわたしたちに対してなおも激しく怒り,わたしたちを自由にする様子はなかったのです。まるで,エホバがその優しい腕をわたしたちに伸ばして救ってくださったように思われました。あとでわかったのですが,ふたりの兄弟はわたしたちから離された後,早朝ほかの兄弟たちに見つけられるまで干し草の中に隠れていました。ひとりの兄弟は物を投げつけられてひどくけがをしていました。

「わたしたちは朝の2時ごろ,ずぶぬれになり,冷え切って家にたどり着きました。あらしとともに温暖な気流が終わり,寒波に変わっていたのです。兄弟や姉妹たちはわたしたちを介抱し,ビクターの顔の5つの傷口をふさいでくれさえしました。愛する兄弟たちのやさしい世話を受けて,わたしたちはどれほど感謝したかしれません」。

しかし,そうした厳しい経験にもかかわらず,エホバはご自分のしもべを支え,強めておられます。「このようなわけで,わたしたちはまた異なる種類の試練に遭いましたが,エホバはそれを耐え,『忍耐にその働きを全うさせる』ようわたしたちをあわれみ深く助けてくださいました」とシュミット姉妹は語っています。―ヤコブ 1:4

暴徒による他の残虐行為

エホバの証人を標的とした暴徒の暴力行為は,多くを数えました。1942年12月のこと,テキサス州のウィンズボロで,街頭の雑誌活動をしていたエホバの証人多数が暴徒に襲われました。その証人の中に,兄弟たちのしもべ(巡回監督)をしていたO・L・ピラーズがいました。暴徒が近づいて来たので,証人たちはそうした状況で街頭のわざをするのは無理だと結論し,自動車の方に向かって歩き始めました。ピラーズ兄弟はその時のことを次のように語っています。「目抜き通りのまん中に,宣伝カーに乗ったバプテスト派の伝道師のC・C・フィリプスがいました。彼はキリストとキリストがはりつけにされたことを話していましたが,わたしたちの姿を見ると,さっそく説教の内容を変えました。フィリプスは,エホバの証人が国旗に敬礼しようとしないことを大声で熱烈に話し始めたのです。彼は米国国旗のために喜んで死んでも良いと述べ,国旗に敬礼しない者は町から追放されるべきだと言いました。わたしたちがその宣伝カーのそばを通った時,前方にもう一組の暴徒がこちらへ来るのが見えました。彼らはたちまちわたしたちのほうへ押し寄せて来て,警察署長が来てわたしたちを逮捕するまで,わたしたちを押えていました」。

その後,暴徒は警察署に入ってきて証人を捕まえましたが,署長は証人を守るために何もしませんでした。路上で,少なくともピラーズ兄弟自身はこぶしで続けざまに打たれました。同兄弟は次のように語っています。「その時,わたしは非常に不思議な助けを受けました。わたしは猛烈に打たれ,鼻や顔や口から血が吹き出ましたが,ほとんど,もしくは全然痛みを感じませんでした。打たれながらも,わたしにはそれが不思議で,み使いが助けてくれているのだと感じました。……ドイツの兄弟たちが,どうしてナチの火のような迫害を動じることなく忠実に耐えたかがその経験でわかりました」。

ピラーズ兄弟は意識がなくなるまで何度も打たれ,息を吹き返すと再び打たれました。とうとう息を吹き返さなくなると,暴徒たちは彼を冷たい水につけ,縦5㌢横10㌢の国旗に敬礼させようとしました。ピラーズ兄弟によれば,「それは大いなる『愛国主義者たち』が見つけたただひとつの国旗でした」。暴徒たちは旗を掲げると,ピラーズ兄弟の腕も上げようとしましたが,彼は手をたれて敬礼する意志のないことを示しました。間もなく彼らは兄弟の首に綱を巻きつけて地面に引き倒し,刑務所に引っぱって行きました。兄弟は彼らが,「このままこいつを絞首刑にしてしまおうじゃないか。そうすりゃ,証人どもを永久に除けるだろう」と言うのをぼんやり聞きました。彼らはそれをさっそく実行しました。ピラーズ兄弟は次のように書いています。「彼らは新しい1.3㌢ほどの絞首索をわたしの首に巻き,耳のうしろで結ぶと通りへ引きずって行きました。それから索は建物から出ているパイプに渡しかけられ,4,5人の暴徒が索を引き始めました。わたしが地面からつり上げられると,索が締まって,わたしは意識を失いました」。

気がついてみると,ピラーズ兄弟は寒々とした刑務所に戻っていました。医師は彼を診察して,「この人を生かしておきたいなら病院へ入れたほうがいいですね。出血多量ですし,瞳孔が開いています」。それに対して警察署長は,「これは,わたしが会った中で一番しぶといやつです」と言いました。「そのことばはわたしをほんとうに力づけました。それによって,わたしが妥協しなかったということを確信できたからです」とピラーズ兄弟は言っています。

医師が出て行くと,暴徒たちが列を作って寒いまっ暗な留置所に入ってきました。彼らはピラーズ兄弟の顔を見ようとマッチをすりました。兄弟は彼らが「こいつは死んでいるのか」というのを聞きました。だれかが,「いや,だが死にそうだ」と答えました。冷え切ってずぶぬれになっていたピラーズ兄弟は,自分が死んだものと思ってくれることを願いながら,ふるえないようにしました。とうとう暴徒たちは立ち去り,すっかり静かになりました。やがて戸があき,テキサス州警察がはいって来て,ピラーズ兄弟は救急車でテキサス州ピッツバークの病院へ運ばれました。彼は6時間も暴徒の意のままにされていました。それにしても,暴徒が兄弟を絞首刑にした時,何が起きたのですか。どうして死ななかったのでしょうか。「わたしはその答えをあくる日遅くなってから知りました」とピラーズ兄弟は語り,こうつけ加えました。

「わたしが回復を待っていたピッツバーク病院の囚人用の部屋へ,トム・ウィリアムズ兄弟が来ました。彼はサルファー・スプリングス出身の地方弁護士で,正義のための真の闘士でした。ウィリアムズ兄弟はわたしを懸命に捜しましたが見つからなかったので,町を相手どって訴訟を起こすと脅しました。すると彼らはわたしが病院にいることを明らかにしました。兄弟の顔を見るのは実にうれしいことでした。そして兄弟は,わたしが絞首刑にされたが索は切れたということが町中のうわさになっていると話してくれました。

「後日,連邦警察が公式の調査をして,大陪審による尋問がなされた時,ペンテコステ派の人々は進んで証言しました。彼らは,『今日はエホバの証人なら,あすはわたしたちです!』と言いました。そして,絞首刑のことについてはこう説明しました。『わたしたちは彼が索にぶらさがるのを見ましたが,それは切れたのです。索が切れるのを見た時,わたしたちはそれを切ったのは主であると思いました』」。

警察署長と他の役人は州の境界線を越えて逃亡したため裁判にはかけられませんでした。ピラーズ兄弟は回復して,その地域の兄弟たちのしもべとしての仕事に戻りました。

残酷な迫害に耐える

読者は,「わたしだったらそうした残酷な迫害にとても耐えられません」と言うかもしれません。自分の力では耐えられないでしょう。しかし,霊的に築き上げるエホバの備えを今活用しているなら,エホバはあなたを強めてくださいます。迫害を受ける一番の理由は,宇宙主権の論争に関連があります。事実上,サタンは,悪魔の試みを受けてエホバへの忠実を保てる人間はだれもいないと主張して,神に挑戦しました。神への忠誠を保ち,それによってサタンが偽り者であることを証明し,その論争でエホバの側を支持するのはなんという特権でしょう。―ヨブ 1:1–2:10。箴 27:11

暴徒による攻撃がアメリカのエホバの証人に幾度となく浴びせられた激動の時代以来,神の民はエホバに全く依り頼む必要を年ごとに認識してきました。彼らはクリスチャンの原則に一致して自分と愛する人々を守りますが,攻撃を予想して凶器を身に帯びることはしません。(マタイ 26:51,52。テモテ第二 2:24)むしろ,彼らは『自分たちの戦いの武器は肉的なものではない』ことを認めています。―コリント第二 10:4。1968年9月1日号の「ものみの塔」誌の536-542ページをご覧ください。

セント・ルイスでの神権的な大会

人類は第二次世界大戦に苦しみ,神の民に対して迫害が荒れ狂いました。しかし,『万軍のエホバは彼らとともに』おられました。(詩 46:1,7エホバは,ご自分の民が霊的な方法で良いものを豊かに備えられるよう取り計らわれました。その点で非常に注目に価したのは,1941年8月6-10日にミズーリ州セント・ルイスで開かれたエホバの証人の神権的な大会でした。

エホバのしもべたちはその大会に是非とも出席したいと考え,その多くがセント・ルイスに向けて旅行していました。A・L・マックリーリ姉妹は次のように語っています。「わたしたちはじきに,どの証人も身分を明らかにするために雑誌(「ものみの塔」誌か「慰め」誌)を自動車の窓に付けているのを知りました。それでわたしたちもそうしました。旅行中ずっと,わたしたちはそばを通り過ぎて行く全く見ず知らずの人々に手を振っていました。でも,笑顔で手を振ってくださるので,その人たちは兄弟だということがわかりました」。

カトリック・アクションと海軍従軍軍人会の圧力にもかかわらず,競技場の管理部はエホバの証人との使用契約を解消することを拒否しました。しかし,カトリック教会が宣伝したために,神の民に部屋を貸そうとしていた多くの家がそれを解消しました。「尼僧たちはエホバの証人に部屋を貸さないようにと戸別に言って歩きました」とロバート・E・レイナーは語っています。したがって,マーガレット・J・ロジャーズによれば,「セント・ルイスに着いた時,非常に多くの証人は宿舎がなかったので,競技場のグランドで寝られるように詰め物をしたマットを作らなければなりませんでした」。

宿泊施設に関する問題について,G・J・ヤンセン兄弟と姉妹は次のように語っています。「大会中,会場のグランドの芝生で証人の母親と子どもが夜寝ている写真が新聞に掲載されました。まさにそのとおりだったのです。市民は,彼らの偽りの教師よりもずっと思いやりがあり,あいた部屋を証人に貸したいという電話を宿舎部門にかけてきました」。まもなく,電報や電話,手紙,直接の訪問その他の方法で部屋が提供されてゆきました。王国の伝道者が街頭で人々に呼び止められて,宿舎を提供されるということさえありました。

ある証人たちは,到着すると,神権トレーラー市に向かいました。その町は大きくなって,677台のトレーラー,1,824のテント,寝台付きの自動車100台,トラック99台,バス3台で編成された人口1万5,526人の町になりました。「それは実に壮大なものでした」とエドナ・ゴーラは語り,さらにこう述べました。「通りには名前が付けられ,洗たく施設や適当な入浴施設その他の設備がありました。さまざまな州から来た人々がみな一致してトレーラーやテントやバスで生活するのを見るのはほんとうに壮観でした」。

際立った幾つかのプログラム

大会のプログラムは実に霊的な報いの多いものでした。たとえば,現在パナマで宣教者をしているヘイゼル・バーフォードは次のように語っています。「そこでは,最高主権者としてのエホバの宇宙支配と,エホバのしもべの忠誠がそれに関係していることが明らかにされて,わたしたちは感動しました。……エホバが全世界のご自分の民に対する非常に厳しい迫害をなぜ許しておられるかを以前よりもずっとはっきり認識しました」。「忠誠」と題する講演の中で,ラザフォード兄弟は,ヨブの時代にサタンが提起したのは,「もっとも厳しい試練の下にあっても,エホバは神に忠実と真実を証明する人をこの地上に置くことができるだろうか」という問題であったことを指摘しました。とはいえ,主要な論争は宇宙支配のそれであることが示されました。講演者がとりわけ聴衆に勧めたのは,それがエホバのお名前を立証し,正義を愛してエホバに仕えるすべての人々に解放をもたらすことを自覚しつつ,キリスト・イエスによる神権政府に完全にまた無条件に自らをささげることでした。

その大会では出席者を特に感激させたひとつの特筆すべきことがありました。1941年8月10日,日曜日はセント・ルイス大会で「子どもたちの日」になっていました。その朝早く,バプテスマの話が行なわれて3,903名が浸礼を受けましたが,そのうちの1,357人は子どもたちでした。しかし,その日はおとなにとってもそうでしたが,子どもたちにとって,とりわけ特別な日だったのです。プログラムには,「献身した父兄を持つ5歳から18歳までのお子さんで,指定席券のある方々は全員,演壇正面に当たる本競技場にお集まりください」と印刷されていました。ラザフォード兄弟の「王の子供たち」という講演は午前11時に予定されていました。

その時までに大会の聴衆は11万5,000人という驚くべき群衆になっていました。講演者の演壇の正面と,演壇の周囲のます席には異例の聴衆がいました。全員が5歳から18歳の子どもたちだったのです。ラザフォード兄弟が演壇にあがると,子どもたちは歓呼の声をあげ,拍手を送りました。兄弟がハンカチを振ると,大ぜいの子どもが手を振りました。やがて彼はその光景に文字通り晴れやかにほほえみながら演壇の前方へ大またに歩いて行きました。

J・F・ラザフォードはそれら子どもたち全員と他の大聴衆に向かって多くのことを語りました。たとえば,ドロシー・ウィルケスはこう語っています。「ラザフォード兄弟が,『大会への道すがらみなさんが目にされた有様は,将来与えられるものとは比べものになりません』と言われた時,地上での楽園の状態の希望がわたしたちにとってたいへん身近なものとなりました」。その日,幼い聴衆のひとりであったニール・L・カラウェイは,かつて次のように書きました。「……その話を終えた後,協会の会長は言いました。『皆さんひとりひとりに尋ねたいことがあります。神の意志を行なうことに同意し,イエス・キリストによる神権政府の側に立場を取り,神とその王に従うことに同意した人は全員起立してください!』

「わたしたちは皆いっしょに起立しました。『見てください。1万5,000人以上もの王国の新しい証人たちです』と協会の会長は叫びました。しばらく拍手が続いたあと彼は,『神の王国とそれに伴う祝福を告げるため,できるかぎりのことをする意志のある人は全員,はい,と答えてください』と言いました。すると,起立していた1万5,000人の子どもたちがいっせいに『はい』と大きな声で答えました。

「ついで協会の会長は言いました。『エホバの名前に誉れを帰するのに用いる道具ともいうべきものを受け取るなら,皆さんはそれを勤勉に使いますか』。わたしたちは『はい』と答えました。『では着席してください。その道具について話しましょう。主はこの本をあなたがたに対するメッセージとして準備してくださいました。題は「子供たち」です』。ものすごい拍手が起こりました」。ラザフォード兄弟の著した「子供たち」という新しい本が,競技場とトレーラー駐留地の特別席にすわっていた子どもたちに1冊ずつ無料で渡されました。

そのすばらしい機会にあずかった幼い子どもたちの多くは引き続き進歩した,とジョージ・D・キャロンは述べます。「彼らは開拓者になったり,ギレアデ学校に行って宣教者の割り当てを受けたり,ベテルに入ったりしました。またそうでなくても組織とともに進歩しました。今日,彼らは世界中の多くの会衆で主力またささえとなっています」。

1941年8月10日の日曜日午後,病身のJ・F・ラザフォードは大会の聴衆を前に最後の講演をしました。それは約45分間にわたるノートを使わない即席の話でした。

彼はエホバの民の指導的地位に関する非常に重要な事がらを次のように述べました。「わたしは皆さんが自分たちの指導者としての一人間についてどんな考えを持っておられるかを,ここにおられる外部の方々に知らせたいと思います。外部の方々にそれを覚えていただくためです。事が起きて発展し始めれば,必ず,ある人,多くの人々を従える指導者がいるといわれます。聴衆のみなさんで,ここに立っているわたしがエホバの指導者であると考える人がどなたかおられるなら,はい,と答えてください。(満場一致で否定された)

「わたしは主のしもべのひとりにすぎず,わたしたちは肩を並べ一致して働き,神に仕え,キリストに仕えていると思われる方は,はい,と答えてください。(全員がはいと答えた)

「そうです,みなさんは,このような人々の群れをわざへと動かすのに,わたしを地上の指導者としなければならないわけではありません。それは,にれの木のこん棒ででも悪魔と戦うであろう種類の人々です。そして彼らは霊の剣で戦っているのです。それにはもっと威力があります」。

その最後の講演中,ラザフォード兄弟は,王国の音信を伝道するわざを推し進めるよう聴衆に繰り返し勧めました。

ベス-サリムでの最後の日々

11月までに病状が非常に悪化したため,ラザフォード兄弟はインディアナ州エルクハートで手術を受けなければなりませんでした。その後,彼はカリフォルニアへ行きたいとの希望をもらしたので,「ベス-サリム」として知られたサンジエゴの住まいへ連れて行かれました。彼の身近な人々や非常に優秀な医師たちには,ラザフォード兄弟が治る見込みのないことがしばらく前からわかっていました。

かいつまんで言えば次のとおりです。ラザフォード兄弟は,エホバへの忠実さゆえに1918年から1919年にかけて不当にも投獄され,釈放後にひどい肺炎にかかりました。それ以後良いのは片方の肺だけになったため,冬のあいだニューヨークのブルックリンにいて協会の会長の仕事を果たすのは実際不可能なことでした。1920年代に彼は治療を受けていた医師の勧めでサンジエゴに行きました。そこの気候はたいへん良かったので,医師は彼にできるだけ長くサンジエゴで過ごすように勧めました。ラザフォードは結局その勧めどおりにしました。

やがて,ラザフォード兄弟が使用する家をサンジエゴに建てるようにと直接の寄付が寄せられました。その家はものみの塔協会の費用で建てられたのではありません。その土地と家屋について,1939年の「救い」と題する本にはこう記されています。「カリフォルニア州のサンジエゴには小さな土地があります。そこには1929年にベス-サリムという名前で知られている家が建てられました」。

ヘイゼル・バーフォード姉妹は,ラザフォード兄弟が1941年11月にベス-サリムに連れて行かれて以来,その最後の期間に彼の世話をした看護婦のひとりでした。「わたしたちは興味深い経験をしました。兄弟は,昼間はずっと寝室でお休みになり,夜になると一晩中忙しく協会の仕事をなさってわたしたちを動きまわらせたからです」と彼女は語ります。12月半ばのある朝,ノア兄弟を含む3人の兄弟がブルックリンから到着しました。バーフォード姉妹は次のように回顧しています。「3人はラザフォード兄弟と数日を過ごし,『年鑑』の年次報告や他の組織上の事柄を調べました。彼らが帰ったあとラザフォード兄弟はどんどん衰弱して,約3週間後の1942年1月8日木曜日に地上での忠実な生涯を終え,天のみ父の宮でのさらに十分な奉仕の特権へと移って行かれました」。その日の後刻,午後5時15分に,その知らせは長距離電話でブルックリンの本部に伝えられました。

J・F・ラザフォード死亡のニュースはブルックリン・ベテルでどう受け止められたでしょうか。「ラザフォード兄弟が亡くなったことを知った日をわたしは決して忘れないでしょう。発表は短いもので,兄弟たちの発言はなにもありませんでした」とウィリアム・A・エルロドは語っています。

円滑な移行

1942年1月8日木曜日は,72歳のジョセフ・フランクリン・ラザフォードが地上の生涯を終えた日となりました。彼は25年間ものみの塔協会の会長を務めました。協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルが1916年に死亡した時,聖書研究者たちは動揺し,多くの人々はどのようにして神の奉仕を行なっていくことができるだろうかといぶかりました。さらに,利己的な人々が協会を乗っ取ろうとしたため,その反対や企ては神の援助によって完全に克服されはしたものの,しばらくの間いろいろな問題が起きました。しかし,J・F・ラザフォードの死はそうした影響をもたらしませんでした。なるほど,神の民の敵たちはエホバの証人のわざがきしみながら止まると考えました。が,彼らは間違っていました。「神権組織は停止することもつまずくこともなく進みました」とグラント・スーターは語ります。

1942年1月13日,神の民が用いていたペンシルバニア法人とニューヨーク法人の理事会の全成員はブルックリン・ベテルで会合しました。それより数日前に,協会の副会長ネイサン・H・ノアは,祈りと黙想によって神の導きを熱心に求めるよう彼らに要請し,彼らはそのとおりにしました。その合同集会はエホバの導きを求める祈りによって始められ,注意深い考慮の末にノア兄弟が指名されて満場一致で協会の会長に選出されました。C・W・バーバーはこう語っています。「わたしの知っている人は,だれもノア兄弟の任命に疑問をさしはさむことすらしませんでした。どの人も肩を並べて彼を支持し,エホバの組織に対する専念を証明することを決意していました。また,協会の理事全員の間には完全な一致がありました」。世界中のエホバのしもべは一致し,伝道のわざを続行する決意をしていることを示す電報や手紙が多数寄せられました。

ネイサン・ホーマー・ノアは,1905年,ペンシルバニア州ベツレヘムでアメリカ生まれの両親から生まれました。16歳の時,聖書研究者のアレンタウン会衆と交わるようになり,1922年にシーダー・ポイントの大会に出席して改革派教会から籍を抜くことを決意しました。水による浸礼を受けて,エホバ神に対する献身を象徴する機会が訪れたのは1923年7月4日のことでした。その時フレデリック・W・フランズがブルックリン・ベテルからアレンタウン会衆を訪問していました。フレッド・フランズ兄弟はバプテスマの話を行ない,18歳のネイサン・H・ノアはその日リトル・リハイ川でバプテスマを受けた人々のひとりでした。その日のことはいつでも楽しい思い出となってきました。そして,これまで51年以上もの間,フレッド・フランズ兄弟と協力して奉仕する特権を得たことは,ノア兄弟にとってどれほど喜ばしいことでしょう。

2か月後の1923年9月6日にノア兄弟はブルックリン・ベテル家族の一員になりました。C・W・バーバーはその時の思い出を次のように話しています。「彼が着いたのは正午でした。わたしたちが昼食に帰ると,ひとりの若い兄弟がA-9号室の片方の洋服掛けに衣類やその他のものを一生懸命入れていました。変更があったことや,ノア兄弟がスタテン島のWBBRへ移された兄弟の代わりに入ったことを知らなかったために,わたしたちは彼をいさめてこう言いました。『君はここで何をしているんだい』。『この部屋はもう一杯で,詰まり過ぎているんだよ』。わたしたちは,その部屋にもうひとり入るのは多すぎると考えたのです。しかし,事は収まり,その若い兄弟はほかならぬN・H・ノア兄弟であることがわかりました。全くふさわしからぬ歓迎でしたが,わたしたちはその後しばしばその時のことを語り合っては大笑いしました。最初から,彼が与えられた仕事にもっぱら専念するためにベテルへ来た人であることは明らかでした。彼は発送部門で精力的に働き,種々の責任のある仕事を行なうことや,求められたことは何でも行なう点で急速に進歩しました」。

その後,彼は協会の工場の管理者になり,1928年2月8日にはラザフォード兄弟により「黄金時代」誌の共同発行者に任命されました。クレイトン・ウッドワースが編集者で,ロバート・J・マーチンが業務責任者,ネイサン・H・ノアは会計秘書でした。工場の監督であったロバート・J・マーチンが1932年9月23日に死亡すると,J・F・ラザフォードはN・H・ノアをその責任の立場で奉仕するよう任命しました。1934年1月11日,ノア兄弟は一般人伝道者協会(現在のものみの塔聖書冊子協会ニューヨーク法人)の理事のひとりに選ばれました。また,E・J・カワードの死に伴い,1935年1月10日には同協会の副会長に選ばれました。さらに,1940年6月10日,ノア兄弟はペンシルバニア法人の理事になり,副会長に選ばれました。そして,両法人の会長に選ばれたのは,1942年1月13日でした。彼は国際聖書研究者協会の会長にも選ばれました。仕事に対するノア兄弟の態度について,J・L・カントウェルは次のように回顧しています。「おびただしい迫害が進行していた1940年に,いくつかの支部は閉鎖されて行き,暴徒の活動が起こっていました。ある晩,わたしたちは工場で残業をしていました。『避難訓練』があって,その時の集まりを司会したノア兄弟は,なかでも次のように話しました。『事態はわざを行なうのに不都合に見えるのは確かです。しかし,ここにいるわたしたちすべてが覚えておきたいのは,もしハルマゲドンがあす来るなら,わたしたちは今夜一晩中工場で働きたいと思うだろう,ということです』」。

命を得させるために人々を教育する

エホバの民は野外奉仕で証言カードとレコードを用いていました。しかし,彼らは聖書に基づいて自分の考えを言い表わす能力を持っているはずです。また,自分たちの希望の理由を語ることができるはずです。それが,協会の新しい会長,N・H・ノアの考えでした。C・ジェイムズ・ウッドワースは昔を振り返ってこう語っています。「ラザフォード兄弟の時代には『宗教はわなであり,商売である』点が強調されましたが,今や世界的な拡大の時代が夜明けを迎えていました。聖書および組織に関する教育がそれまでエホバの民の知らなかった規模で始まったのです」。

聖書教育に重点が置かれることは続く数年間にさらにいっそう明らかになるはずでした。エホバの証人は命を得させる教育の時代に実際入っていました。

神権宣教課程

ヘンリー・A・カントウェルによれば,「ノア兄弟が協会の会長になってわずかひと月余り後に,当時『神権宣教高等課程』と呼ばれるものが取り決められました」。それは何でしたか。1942年2月にブルックリン・ベテルで開校した学校でした。

C・W・バーバーは次のように説明しています。「ブルックリン・ベテル家族の男子の成員すべては入学するよう招待されました……その課程ではまず学生全員に対して講義が行なわれました。姉妹たちは出席するよう招かれましたが,その時は学校に入れられませんでした。講義が終わると小さなクラスにわかれ,それぞれの教室で入学している生徒全員が話をし,訓練された指導員から個人指導を受けました」。L・E・ルーシュは,「学校の教官だったT・J・サリバン兄弟の準備した復習が毎月行なわれました」と付け加えています。

これは聞いたことのあるような事柄ではありませんか。エホバの証人の読者であれば,30年以上前にブルックリン・ベテルで始まったもの,すなわち神権宣教学校を知っておられるはずです。まもなくエホバの他の賛美者たちもこの学校から益を受けるようになりました。1943年4月17日と18日に全米247の都市で開かれた「活動への召し」大会で,「神権宣教課程」のことが発表され,実演で示されました。また,同じ題名の出版物が予告なしに発表されました。それは96ページの小冊子で,各会衆で新しく開かれる学校の司会方法を説明し,毎週の講話に関する情報を提供していました。任命された学校の教官は,司会者を務め,また男子の生徒が聖書に関する様々な題目に基づいて行なう6分間の話に建設的な助言を与えることになっていました。

今日の神権宣教学校に入っている人でしたら,おそらく初めて話が割り当てられた時不安に思われたことでしょう。しかし,1940年代初期の昔,学校自体が新しかった時のことを考えてください。当時はどんな様子でしたか。学校で初めて話をすることはある兄弟にとって全くの一大経験でした。ジュリオ・S・ラムはそのことをこう認めています。「ひざはがくがくし,手は震え,歯は鳴っていました。わたしは全部の話を3分で終え,6分間続きませんでした。それはわたしにとって演壇で話した初めての経験でしたが,わたしはやめませんでした」。アンジェロ・カタンザーロが初めて生徒の話をした時の題は,「とこしえの王」でした。彼は次のように語っています。「わたしはその時のことを決して忘れないと思います。母は,わたしが数日間毎夜寝ごとでその話をしたと言いました」。しかし,祈りとエホバへの信頼が重要な役割を果たしました。「彼らは喜んで努力しました。そして熟達して確信に満ちた講演者になるようエホバの霊が助けるのを見るのはすばらしいことでした」とルイザ・A・ワーリントンは述べます。

1959年の1月から,神の民の会衆に交わる姉妹たちにも神権宣教学校に入学する特権が与えられました。家庭で人々に6分間の聖書の話をするところを実演するのは姉妹たちにとって大きな挑戦となりました。今度は姉妹たちが胸をどきどきさせる番でした。グレース・A・エステプは,会衆の神権宣教学校で姉妹たちが割当てを果たした初めての晩に聖書の話をしました。彼女はこう述懐しています。「わたしはすっかりおどおどしていました。でも,良く知っているやさしい主題でしたから,なんとか果たしました。話をするのはとても難しいことでしたが,あとになって,エホバからのそのような増し加えられた祝福を喜びました」。あなたもそう感じておられますか。

なるほど,事のすべては1942年2月にブルックリン・ベテルで始まりました。しかし,今日,神権宣教学校は,全地にある神の民の3万4,576に及ぶ会衆で施されるクリスチャンの訓練の一環として定期的に開かれています。発足以来,神権宣教学校はエホバの民に多大の益をもたらしてきました。話す能力が改善されたりっぱなものになったことはほどなくして認められるようになりました。それで1945年以降は,10年間使用されたレコードに代わって,神権的な伝道者が戸口や人々の家庭で口頭による証言を行なうようになりました。

神権宣教学校の際立った特色は神のみことばの朗読です。それはこれまでプログラムに必ず含まれてきました。神権宣教学校で用いるように考えられた昔の出版物のひとつに,1946年に発行された「凡ての良い業に備える」という本がありました。メーブル・P・M・フィルブリクの話を聞きましょう。その本は「外典が付け加えられたいきさつや,聖書の記述と保存に関して深い理解を得させてくれました。わたしは,タルムードやマソレティック写本,その他多くの事柄について初めて知りました。一番良かったのは聖書の各本の分析でした」。

その後出された様々な出版物は神権宣教学校を考慮に入れて準備されました。そのひとつは,1963年に「ものみの塔」誌の大きさで出された「聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です」と題する本です。アリス・バブコックはその本を「まさに霊的な宝の倉」と呼んでいますが,他の大ぜいの人々もそう考えているに違いありません。この本も,聖書の66冊の本を徹底的に扱っており,聖書の各本が今日のクリスチャンにとってどのように有益かという点を特に強調しています。

現在神権宣教学校や個人研究の際に用いられている出版物の中に,6年間の研究の成果を示す本があります。90以上の国々の約250人の兄弟が資料を集め,ついで特別の編集員がブルックリンにある協会の本部で編集に当たりました。その結果,「アロン」から「ズジ人」に至る聖書に関係した論題を扱った,1,700ページに及ぶ本が生まれました。その題名ですか。それは「聖書理解の助け」です。1970年に完成した同書は確かにエホバ神が備えてくださったものです。

公開講演運動

1940年代当時,神権宣教学校は時を経ずして公開講演をする資格のある多くの兄弟を生み出しました。したがって,1945年1月には世界的な公開講演運動が始められました。講演者各人は自分が行なう話を準備しましたが,ものみの塔協会は主題を選んだり,そうした1時間の講演のために1ページの筋書きを用意するなどしたので,講演の内容は統一されていました。その公開集会運動は8つの連続講演で始められ,最初の講演の題は「人間は世を確立する者として功を奏するか」でした。

講演者ばかりでなく,他の王国宣布者たちもその運動に参与しました。すなわち,街頭や戸別の訪問でビラを配布して講演を宣伝したのです。講演を宣伝したプラカードをつけて,印刷された招待ビラの配布がなされたことも時々ありました。講演はしばしば王国会館で行なわれましたが,会衆の区域外の土地で会場を借りるなどして連続講演が計画されることもありました。クリスチャンの集会に定期的に出席している人は,今まさにそのような公開集会から益を得ています。

それら初期の時代には,言うまでもなく,公開講演をすることは大きな挑戦でした。新しいことだったからです。W・L・ペレは次のように語っています。「何年ものあいだ,わたしは公開講演をすることになっている日の前の晩にベッドのかたわらにぬかづき,エホバに喜ばれる仕方で講演する能力と力を与えてくださるようエホバに祈ってきました。神権宣教学校に入っている若い兄弟にも同じようになさることをお勧めします。エホバはわたしの切なる願いを常に聞いてくださいましたし,若い兄弟たちの願いも聞いてくださるからです」。―詩 65:2

エホバは全世界的な証言の備えを与えられる

30年ほど前といえば,人類は第二次世界大戦の苦しみを味わっている時でした。その頃,王国伝道活動を国際的に拡大する計画を立てることは,ある人々には非実際的に思われたかもしれません。しかし,エホバの霊は,前進するようご自分のしもべを強められました。命を得させる教育を施すことはきわめて重要な事柄でした。

1942年9月,ノア兄弟およびものみの塔協会の他の理事たちは,世界中の国々の宣教活動のために宣教者を訓練する学校を設立することを満場一致で承認しました。それはどこに建てられるのですか。ニューヨーク州北部のフィンガー湖地域にある協会の土地,すなわちサウス・ランシングに近い王国農場にです。

そこには1941年にものみの塔協会が完成した3階建ての大きなレンガ造りの建物がありました。その建物は,ブルックリン・ベテル家族の避難所として,迫害が厳しくなった場合にそこへ移れるように建てられました。しかし,その目的で使われたことは一度もありません。エホバは,その建物をすばらしい目的に用いるため,初めから物事を指導しておられたように思われます。いよいよ新しい神権的な教育施設の諸計画が立てられました。学校自体はものみの塔ギレアデ聖書大学と命名されることになり,後に,ものみの塔ギレアデ聖書学校と呼ばれました。

あわただしい活動が見られ,1942年10月には,A・D・シュローダーとマックスウェル・G・フレンドそしてエドアルド・F・ケラーが,統治体によって下書きされた教科課程の準備に取りかかりました。講義の内容を作成し,教科書を取り寄せ,図書を集めたのです。同時に,図書館や講堂,教室,居室その他の施設を備えるため,王国農場にあった幾つかの建物が改造されました。その数か月間は実に期待に満ちていました。

新しい学校へ入学する申込書を受け取った時の開拓者たちの驚きを想像してください。申込書が受理された時にはさらに大きな感激がありました。チャールズ・アイゼンハワー兄弟と姉妹は次のように述べました。「わたしたちは全くふさわしくないと思いましたが,特権に感謝しました。申込書は受理され,わたしたちは自動車もトレーラーも売って学校へ向かいました。それはギレアデの最初のクラスでした。新しい学校,新しい教室,そして教官も生徒も新しかったのです」。

1943年2月1日,月曜日待ちに待った開校の日が来ました。それは冬の寒い日で,王国農場の畑は雪でおおわれていました。しかし,本館には,既婚者と独身者とからなる49人の男子と51人の女子が大きな喜びを抱いて集まっていました。彼らと共に学校の献堂式に出席したのは,協会の理事,教訓者,知人,親族など全部で161名の人々でした。

F・W・フランズとW・E・バン・アンバーグおよび他の人々の話が行なわれ,ノア兄弟自身は歓迎のあいさつと献堂の話をしました。出席していたすべての人は,彼の次のことばに全く同意したに違いありません。「エホバ神はご自分の目的のためにこの土地と『ギレアデ』という名の建物を備えてくださいました。エホバにこそ,わたしたちはあらゆる感謝と賛美をささげます」。そのことに疑問の余地はありませんでした。同校の設立は神権的な大躍進でした。

聖書の調査,神権的野外宣教,聖書の公開講演,至高の法,聖書主題,これらは,勤勉な学生たちが5か月間の課程で注意を傾けた科目の一部でした。外国語も教えられ,最初のクラスはスペイン語を学びました。確かにたくさん学ぶことはありましたが,ギレアデの学生は授業のある日は毎日いくらかの時間をさいて農場や屋内の仕事をしました。そのことは,ひとつに,緊張をほぐす助けになりました。週中の晩は個人研究に充てられ,週末には王国伝道という命を救うわざを行なう優れた機会がありました。学生も教訓者も野外奉仕に携わったのです。

ギレアデ学校の初期のクラスが卒業した頃は,第二次世界大戦がなおも激しい時でした。したがって,アジアのみならず,ヨーロッパや西方の海洋諸島に宣教者を派遣することは実際上不可能だったため,彼らはまず,キューバ,メキシコ,コスタリカ,プエルトリコ,カナダおよびアラスカに派遣されました。以来,宣教者たちは「証しのために」王国の良いたよりを宣明するため,まさに地の果てまで出かけて行きました。―マタイ 24:14

ギレアデ聖書学校第35期生の卒業式は1960年7月24日に王国農場で行なわれました。第36期の学校は1961年2月6日,月曜日にニューヨーク市ブルックリンのコロンビア・ハイツ107番にあるものみの塔協会の諸施設を使って開校しました。学校が協会の本部で開かれるのはなんと有益なことでしょう。今や学生には,エホバの証人の統治体の成員を含め,協会職員と共に働く多くの兄弟たちによる講義を聞く機会があるのです。

ものみの塔ギレアデ聖書学校が開校してから30年たちました。今日まで5,500人を上回る学生がこの神権的教育制度に入りました。そのうちの2,500人あまりは今なお活発に全時間奉仕に携わり,世界中で王国の良いたよりを宣べ伝えています。

王国宣教学校

命を得させる神権的教育は,長年にわたって引き続き強調されてきました。1958年に新しい学校の教科課程を準備する仕事が始まりました。それは王国宣教学校と呼ばれる監督たちのための学校で,最初は教室での授業が96回と20の講話もしくは講義からなる,授業日数が24日の課程でした。それには王国の教え,野外宣教,講演,監督という科目が含まれていました。王国宣教学校に最初に出席したのは,アメリカの巡回のしもべ(監督)と,ギレアデ学校を卒業していない彼らの妻たちからなる25名の学生でした。その第1回の課程は1959年の3月9日から4月3日までニューヨーク州のサウス・ランシングに近いものみの塔の施設で行なわれました。同校は1967年4月9日にブルックリンの本部へ移されました。

時の経過と共に,2週間の教科課程の実施など王国宣教学校には調整が加えられてきました。また,同校は世界の多くの国々で開かれ,エホバの民に多大の益をもたらしました。教訓者があちらこちら旅行して地方の王国会館を使用することにより,長老たちに比較的便利な所で学校を開いてより多くの長老に益を与えている国も少なくありません。エホバの民は,そうした優れた訓練の施されたことをどれほど感謝できるかわかりません。王国宣教学校は,その責任と特権に対してクリスチャンの監督を備えさせるために多くの働きをしました。

命を得させる神権的な教育で無視することのできない興味深い面があります。ある人々は聖書の知識を求めつつも長年文盲でした。しかし,彼らの問題はわきへ押しやられなかったのです。多くの国々で,神の民の組織は読み書きの教室を開いてきました。その幾つかは政府当局者から非常な称賛を受けています。読み書きを学んだ男女の多くは引き続き進歩して,エホバに誉れと栄光を帰する豊かな奉仕の特権を享受しています。

「前進せよ」との合図が鳴る

1942年当時,ノア兄弟と彼の執行部の仲間は前途に多くのわざのあることを認識していました。実際,1942年9月18日から20日にかけて開かれた,エホバの証人の新しい世の神権的大会で,「前進せよ」との合図が鳴らされました。オハイオ州のクリーブランド市を主要都市としてアメリカ全国の他の51都市が結ばれました。

大会の基調をなす話はイザヤ書 49章と60章に基づく,「唯一の光」と題するもので,1942年9月18日金曜日の夜にF・W・フランズによって行なわれました。その講演で,「前進せよ」との合図は鳴り渡りました。ジュリア・ウィルコックスは次のように書いています。「『唯一の光』という基調をなす話が終わった時,手をたれてくつろぐ時が来たと考えた人は聴衆の中にひとりもいなかったと思います。それどころか,それは神の民がこの古い世のやみの中で唯一の光を放つべく,『起きて輝く』べき時でした」。

プログラムによると,F・W・フランズに続いてノア兄弟が「『御霊の剣』を執る」という主題で話しましたが,彼は「なすべきわざはあります。しかもたくさんあります」という意味深いことばでその講演を始めました。

前途にわざのあることは,さらに,9月20日,月曜日の午後に行なわれた公開講演の中でも幾度か指摘されました。その主題はというと,諸国家が第二次世界大戦に巻き込まれていた当時にしては,全く奇妙な主題でした。「平和 ― それは永続するか」という主題だったからです。

それが非常に重要な講演であることをノア兄弟は知っていました。エホバの助けを得て,彼は『全力を尽くして』その話をすることを決意しました。L・E・ルーシュはこう語っています。「数か月前から,彼が『平和 ― それは永続するか』という公開講演を大きな声で文字通り何十回も練習しているのが聞こえました。ベテルのわたしの部屋は会長の部屋の真下でしたから,彼が講演の練習をどれほど時間をかけて一生懸命行なったか直接に知っています」。

そのテンポの速い1時間の講演の中で,大胆にも,国際連盟は啓示 17章の緋色をした政治的野獣であることが明らかにされました。また,国際連盟はその時無活動の底知れぬ深みに入っていて,『いません』が,いつまでもあなの中にとどまるのではないことが指摘されました。(啓示 17:8)それは再起するでしょう。「しかし,このことに注意してください。すなわち,預言によれば,現在の全面戦争が終わって『野獣』が底知れぬ深みから出て来る時,『バビロン』という女を背中に乗せて出て来るか,あるいは野獣が現われるや彼女がその背中に乗るのです」。しかし,人間製の平和も緋色の野獣も存続しないでしょう。やがて,野獣自体が完全に滅ぼされます。

その講演を振り返って,マリー・ギッバードは次のように語っています。「国際連盟が底知れぬ深みから出て来て永続しない不安定な平和をもたらすとは,啓示 17章の預言のなんと正確な解明でしょう。ヨーロッパ戦勝記念日と対日戦勝記念日に我が国が喜びに包まれ,次いで1945年に国際連合が将来の平和に対する答えとしてたたえられるといった,その後の世界情勢にわたしたちが動揺させられないためのなんとすばらしい保護だったのでしょう。その講演は確かに実際的な適用の面から消えない印象を与えました」。結論も明快でした。エホバのしもべにはなすべきわざがあり,しかもそれを行なうために残されている時はわずかなのです。

訪問する,群れの牧者たち

同じ1942年の大会で,ものみの塔協会の代表者が神の民の諸会衆を定期的に訪問することが発表されました。(地帯のしもべは以前そうしたわざを行なっていましたが,彼らの活動と地区のしもべの活動および地帯大会を開くことは1941年12月1日以降中止されていました。)協会の旅行する代表者の派遣は,1942年10月1日から実施されることになっていました。そうした兄弟たちは「兄弟たちのしもべ」と呼ばれ,今日の巡回監督に対応するものでした。「その方々は,王国の関心事を推し進めるために会衆の記録を調べ,兄弟たちを援助しました。そうした事柄すべてを通して,わたしたちは,神が組織によってご自分の民を世話しておられることを自覚しました」とJ・ノリス姉妹は語っています。

1946年10月15日以降,このわざに関連して幾つかの新たな特色のある事柄が導入されることになりました。全体の区域は,各が約20の会(会衆)からなる巡回区に分けられます。旅行する代表者は1週間ずつ各の会を訪問して,戸別の伝道で証人たちを援助することに主として関心を払います。ひとつの巡回区内の全会衆は,年に二回一か所に集まり,「地域のしもべ」が主宰する3日間にわたる巡回大会を開きます。その後,この取決めには幾つかの調整が加えられました。そして,読者がエホバの証人のひとりであれば現在もその取決めから益を得ておられます。ともあれ,しばらく前はどのように行なわれていたのでしょうか。

それら進んで働く,神の羊の群れの牧者たちが払った努力の一例として1940年代の地域のわざを取り上げましょう。たとえば,1940年代の後半に,アメリカで地域のわざに携わっていた数少ない兄弟のひとりにニコラス・コバラク2世がいました。彼は1949年10月当時のことを,「わたしはその月に自動車で6,400㌔ぐらい旅行しました」と語っています。また,こう話します。「週末には5つの巡回大会を開き,しかもその間に幾つかの会衆で奉仕しました。ですから,わたしは旅行し,講演を行ない,証言し,記録を調べ,食事を取り,研究を行ない,読書をして,寝る時間はわずかでした」。ある週など,彼は約3,200㌔の旅をしてふたつの会衆で奉仕し,週末には巡回大会を開きました。もちろん,自動車でいつもそんなに長い旅行をしたわけではありません。コバラク兄弟は,「今ではずっと多くの会衆がありますから,旅行が楽になりました。エホバはわたしたちに寛大で,わたしたちをささえてくださいます」と自分の気持ちを述べています。

今日の巡回監督と地域監督は,仲間のエホバの崇拝者に強い関心を持っており,野外奉仕で彼らを援助したり,霊的に築き上げようと努めます。巡回大会も王国の関心事を促進するうえで大切な役割を果たしています。読者は,一昨奉仕年度中,アメリカで毎週平均20の巡回大会が開かれ,平均出席者数は1,605人だったことをご存じでしたか。年間の合計としては1,064の巡回大会が開かれ,170万8,143名が出席しました。

中立を守るクリスチャンは立場を取る

ものみの塔協会の新しい管理部が発足した1940年代の初めは,第二次世界大戦がたけなわのころで,クリスチャンの男子の多くはエホバへの忠誠の試みを受けていました。1940年に,当時まだ平和であったアメリカ合衆国で選抜的軍事訓練および軍役法が実施されました。それによって,18歳以上の青年を軍役に徴用することが可能となりました。しかし,その法律では,IV-D級の「専門の,もしくはしかるべく叙任された聖職者」は免除されていました。エホバの証人は,だいたいにおいて,聖職者としての扱いを受けられませんでした。エホバの証人は扇動的でありませんでしたし,人間の政府が行なう軍事的な事柄や他の事柄に干渉しようともしませんでした。しかし,証人たち自身はクリスチャンとして厳正中立の立場を維持することを決意していました。(ヨハネ 17:16)さらに,彼らは『その剣をうちかへて鋤とし』ていました。―イザヤ 2:2-4

数多くの裁判で,エホバの証人は軍隊へ行ってからでなければ法廷で免除を求めることはできないということが検事側によって論じられました。したがって,忠誠を保った人々は,多くの場合最高の5年の懲役と1万㌦の罰金を宣告され,連邦地域裁判所から刑務所へ送られました。ユージン・R・ブラント兄弟の思い出によると,興味深いことに,彼と他の6人の証人が刑を宣告された時,裁判官は彼のベンチの後ろの壁に掲げられている国旗を指差して,「おまえたちにはあの国旗が見えるか。ところで,わたしにはあの国旗にわたしの神のみ顔が見えるので,わたしは国旗を崇拝することに何ら抵抗を感じない。おまえたちも同じように考えるべきなのだ」と言いました。

刑務所の中で時間を有効に使う

刑務所での最初の夜は忘れがたい経験でした。開拓者だったダニエル・シドリック(現在ブルックリン・ベテルで奉仕している)はクリスチャンの中立ゆえに1944年に投獄されました。彼は,寝棚の一番上に横になり,鉄の戸が,「雷鳴のような音をたててしまる」のを聞いたことを覚えています。そうした戸の音がひとつひとつ近づいて来て,ついに彼の監房の戸が動き,ごろごろと音をたてながらゆっくりしまりました。彼はこう語っています。「突然わたしはどうしようもない胸の悪くなるような気持ちに襲われ,逃げ道のないわなにかかったように感じました。そのあとすぐに別の,同じぐらい強い気持ちがわいてきました。それによって,わたしの心は非常な平和と喜び,聖書に『いっさいの考えに勝る神の平和』と述べられているような平和で満たされました」。―フィリピ 4:7

シドリック兄弟は,他の多くの兄弟たちと同様,ついには連邦刑務所に入れられました。中立を守るクリスチャンはそこで何をしましたか。彼らは時間を有効に使いました。刑務所での仕事が暇な時は,聖書やものみの塔協会の出版物を研究するために集会を開くことが許されました。さらに兄弟たちは,スペイン語やギリシャ語といった外国語を学ぶなどして,一般教養を高めました。西ヴァージニア州のミル・ポイントの刑務所にいたクリスチャンたちについて,ルドルフ・J・スナルは次のように語っています。「わたしたちは会衆の書籍研究を開いていました。……また,兄弟たちは刑務所の宿舎ごとに奉仕会と神権宣教学校を開いていました。……日曜日には図書室でものみの塔研究を行ないました。……わたしたちが取り決めることのできたもうひとつの備えは,小規模な大会という特権でした。……ある夏など,野球をする広場を使って,ピアノや他の楽器を用意し,非常に教訓的なプログラムを行なうことができました」。

当時刑務所で行なわれたクリスチャンの教育的なプログラムの思い出を,F・ジェリー・モロハンは,「わたしたちの研究集会といえばどんな集会でも,きわめて良い出席が見られました。非常に教育的な集会でしたから,わたしたちはおどけて,レブンワース刑務所オナー農場‘石の壁大学’と呼んでいました」。

ものみの塔協会はそうした若者たちの霊的な福祉を気づかい,A・H・マクミランやT・J・サリバンなど数名の兄弟たちが彼らを定期的に訪問する取決めを設けました。もちろんのこと,聖書から助言と励ましを与えるためでした。

自由の身であろうと,投獄されていようと,エホバの証人は弟子を作るという任務を遂行する方法をさがします。(マタイ 28:19,20)なるほど,中立を守るクリスチャンに開かれた機会は制約されていました。しかし,そうだからといって,彼らの口びるを完全に封じてはいなかったのです。モロハン兄弟は次のように語っています。「わたしはある機会を最大限に活用しました。というのは,フランク・ライデンという名の終身刑を受けていた良い心の持ち主がわたしの最初の『推薦の手紙』となり,らばのかいばおけでバプテスマを受けたからです」。―コリント第二 3:1-3

恩赦の請願

1946年8月10日,オハイオ州クリーブランドにおけるエホバの証人の,喜びを抱く国々の民の神権的大会で,6万人に上る大会出席者はある重大な決議を満場一致で採択しました。それは不当にも有罪とされて投獄された4,000人を上回る証人に対する大赦を合衆国の大統領に請願するものでした。そうした情け深い処置が取られるなら,1940年から1946年にかけて徴兵委員や連邦法廷によって不法にもその権利を否定された中立を守るクリスチャンの市民権が回復されることになるのでした。エドガー・C・ケネディはこう語ります。

「驚いたことにそれらの人々全員の大赦を願う決議は協会の代表者によって合衆国の大統領に直接提出されるということが司会者によって発表されました。大統領だったのは第一次世界大戦中,わたしといっしょに軍役についていたかつての陸軍士官であるハリー・トルーマンでしたから,わたしはそのことを司会者室に伝えたほうがよいと思い,そうしました」。事情が変わったので,1946年9月6日金曜日午後12時30分に,協会の法律顧問ともうひとりの弁護士および開拓者であったケネディ兄弟は大統領と約40分間会見しました。ケネディ兄弟によれば,トルーマンは,協会の弁護士が決議の要旨を発展させて行政部の情け深い処置を請うところまで話すのを熱心に聞いていました。それから,「トルーマンは感情を高ぶらせて話をさえぎり,『わたしは自分の国のために戦わないようなバカ者はきらいだ。それに,あなたがたが国旗に対して不敬を示していることが気に入らない』と言いました」とケネディ兄弟は回顧し,さらに話を続けます。

「そこでわたしは自分が話す番が来たと思いました。わたしは自分がかつての仲間の士官であることを明らかにし,戦争中に彼の砲兵中隊が使用した弾薬はすべて,わたしの責任において供給されたことを話しました。そして,書類鞄から連隊士官たちを撮った一枚の写真を取り出して彼の机の上に置きました。彼はそれを見ると,自分も同じ写真を持っていて,彼の図書室の机の上方に掛けてあると言いました。それから,わたしは彼に,戦争で戦うより,クリスチャンの原則のために戦うほうが難しいと言って,エホバの証人が国旗に敬礼しない理由を手短に説明しました。彼は聞いていましたが,『わかった,ぼくが間違っていた』と言いました」。

ケネディ兄弟によれば,そのあと協会の弁護士が「最後に選抜軍役法のため刑務所に捕われているエホバの証人の釈放を願ったところ」,大統領はそのことばに注意を向けました。「そして,トルーマンは,その件について法務長官と検討する意向を述べました」。

やがてトルーマン大統領は特赦委員を任命しました。彼らは幾千もの法廷記録や徴兵委員のつづりを調査し,幾人かの人々に対する恩赦を推薦しました。しかし,1947年12月23日にトルーマンは1,523人に恩赦を与えたものの,そのうち恩赦を受けた証人はわずか136人でした。他の宗教グループで投獄された人は合わせて1,000人だけでしたが,それに比べ,エホバの証人は4,300人が投獄されていました。したがって前者は優遇されていたことになります。こうして,中立を守ったクリスチャンの大多数は,エホバ神への忠誠を保つ固い決意を持っていたというだけで差別待遇を受けたのです。

法律上の戦いは続く

1946年2月4日,最高裁判所はスミスエステプの件で次のように裁定しました。すなわち,エホバの証人に公正な聴問の権利を拒絶し,軍隊にはいってからでなければ証人たちは法廷で自分を弁護できないと裁定した下級連邦裁判所は間違っていたというものでした。1946年12月23日,ギブソンドデツの件において,同裁判所は法律を拡張し,良心的反戦主義者の収容所へ出頭することを怠った,もしくは出頭しても収容所に残らなかったゆえに告発されたエホバの証人が法廷で弁明することを許しました。

全時間の開拓奉仕者は,決まった会衆を持っていないゆえに,兵役や軍事教練の免除を受ける資格がないと検察側は主張しました。さらに彼らの論議によれば,会のしもべたち(主宰監督)は平信徒からなる会衆を持たず,エホバの証人からなる会衆を主宰しているゆえに,免除の対象にはなりませんでした。1953年11月30日,合衆国最高裁判所は,ディキンソンの件で,エホバの証人に有利な判決を下したため,そうした論議は敗れました。それは,すべての連邦裁判所が従うべき判例となったのです。

投獄されても信仰に堅く立つ

中立を守る非常に多くのクリスチャンが忠誠を保つがゆえに投獄された30年ほど前のことを考えて,ある人は,同じような状況下で自分だったらどうするだろうかといぶかるかもしれません。神の民を監禁するために敵がどんな口実を設けるかは実際に問題ではありません。中立を守った多数のクリスチャンが幾年か前にまさに経験したとおり,エホバの助けによって忠誠は保てるのです。1965年,共産中国の刑務所から7年ぶりに釈放されたスタンレー・アーニスト・ジョーンズは,ニューヨーク市のヤンキー野球場で3万4,700人を超える人々に向かって話をしました。獄中で彼は聖書のことばを思いめぐらし,しばしば祈り,エホバの霊の援助によって自分自身を霊的に強く保ちました。しかし,彼は話の中で次のようなことも言いました。「わたしたちが苦しみに遭うのは結局『十日のあいだ』にすぎません。言いかえるとその苦しみには終わりがあるということです。時がくればすべては終わります。ゆえに忍耐しなければなりません。神はわたしたちをその中から連れ出されます」。―啓示 2:10

仲間の宣教者のハロルド・キングは,共産中国の刑務所で5年近くを過ごしました。彼も霊的な強さを保った人です。彼が獄中で聖書にちなんだ歌を作曲しさえしたことをご存じでしたか。今日エホバの証人が使用している,「心に音楽をかなで…歌いつつ」と題する歌の本にはキング兄弟が刑務所の中で作曲したメロディーが載せられています。それは「家より家へと」という題の10番の歌です。ですから将来のことを恐れないでください。中立を守って投獄されたアメリカのクリスチャンや,共産主義中国の刑務所に監禁されるという厳しい経験をしたジョーンズ兄弟とキング兄弟を含む他の多くの忠誠を保った人々の場合と同様,エホバはあなたをささえることがおできになるのです。

救援の手が差し伸べられる

1945年9月2日,第二次世界大戦は終結しました。多くの土地で,ものみの塔協会の支部事務所がさっそく再開され,諸会衆は再建されました。霊的な食物が再び入手できるようになって,それは増加の一途をたどっています。しかし,戦争で荒廃した国々のクリスチャンは物質的なものも必要としていました。したがって,困窮していた仲間の信者へのクリスチャン愛を示すため,エホバの民は,結局2年半に及んだ世界的な救援運動を開始しました。(ヨハネ 13:34,35)アメリカ,カナダ,スイス,スウェーデンおよびその他の国の証人は,オーストリア,ベルギー,ブルガリア,中国,チェコスロバキア,デンマーク,英国,フィンランド,フランス,ドイツ,ギリシャ,ハンガリー,イタリア,オランダ,ノルウェー,フィリピン共和国,ポーランドおよびルーマニアのクリスチャンを助けるために食物を買うお金や衣類を寄付しました。

ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは次のように回顧しています。「第二次世界大戦が終わると,兄弟たちは刑務所から帰りました。その多くは病気で,物質的な持ち物を永久にはく奪されていましたし,その中には家族と引き離されてその生死がわからないという人もいました。しかし,そうした事柄すべてにもかかわらず,兄弟たちは霊的に驚くほどしっかりしていました。彼らは全世界の兄弟たちに迎え入れられました。彼らが第一に関心を持っていたのは,王国のわざのために再組織し,投獄される原因となったものと同じ良いたよりを宣明し,霊的な知識の埋め合わせをすることでした。あのようにひどい数々の苦難を経験した後でも兄弟たちがやみ難い願いを持っていたことからわたしたちはたいへん励まされました。そして,兄弟たちの物質的な必要物をわずかながら融通して援助する特権にあずかれたことは喜びでした。衣類とか靴その他の必需品が王国会館に集められて仕分けされ,兄弟たちのもとへ運搬するトラックに積み込まれました。こうして幾トンもの愛のこもった物資が供給されました」。

送られた衣類は合わせて約479㌧,食料品の合計はおよそ326㌧に上りました。加えて,この救援運動中に12万4,110足の靴が困窮していたクリスチャンに送られました。それらすべては金額にしておよそ3億9,672万2,000円になりました。そうした親切な贈物は感謝されました。あるお礼のことばについて,エステル・アレンは,「送られて来た感謝状にうれし涙が出ました」と語っています。ですから,一方には物質的なものが流れ出,逆の方向には深い感謝と励ましとなる忠誠の記録が流れたことになります。

長年にわたり,アメリカのエホバの証人は,国の内外を問わず仲間の信者を物質的に援助する様々な機会に恵まれてきました。1970年のペルーの地震の場合,リマの諸会衆は衣類や食料および金銭を集めて,約7㌧の物資をただちに被災地に送りました。またニューヨーク市のエホバの証人は10㌧を優に越す衣類を寄付しました。それは実際のところあり余るほど多くの衣類でした。さらに,ものみの塔協会は,被災地の兄弟が必要とするものを手に入れるために用いるよう,2万㌦(約600万円)をペルーの支部事務所に支給しました。1972年にニカラグアのマナグア市が地震で壊滅した時にも同様に援助が差し伸べられました。クリスチャン愛がそのように表わされるのを見る時,第1世紀のクリスチャンが善良な心から寛大さを示したことが思い出されます。―コリント第二 9:1-14

しかし,仲間のエホバの崇拝者に対する援助は,必ずしも物質的なものとは限りません。1961年にアメリカおよび他の国々のエホバのしもべたちが,スペインの当局者にあてて,同国の神の民に崇拝の自由が与えられるよう求める何千通もの手紙を送ったことを読者はご存じでしたか。また,1968年には,マラウィの当局者にあてて,その地のエホバのクリスチャン証人に対する非道な扱いを抗議する手紙が送られました。エホバのしもべたちはあらゆる場所の兄弟たちに対して真実の愛ある関心を抱いているのです。

歴史的な大会は真にエホバをたたえる

昔も今も,神の民の大規模な集まりは霊的に多大の益を受ける機会となってきました。しかも,それはしばしば大きな喜びの時となりました。(申命 31:10-13。ネヘミヤ 8:8,12)1946年8月4日から11日にかけて戦後初めて開かれた,オハイオ州クリーブランドにおけるエホバの証人の,喜びを抱く国々の民の神権的大会についてはまさにそのとおりのことが言えました。その大会は変わっていました。それまでは,いろいろな土地でラジオと電話の施設を用いて結ばれる多都市大会が開かれ,合計して大勢の聴衆が集まりました。ところが,喜びを抱く国々の民の神権的大会において初めて,神の民は世界各地の代表者をひとつの都市に集めるという大規模な国際大会を開いたのです。

大会前のなみなみならぬ仕事は出席者のために宿舎を見つけることでしたが,それは広範な戸別訪問のわざによって成し遂げられました。しかし,多くの出席者は証人たちのトレーラー・キャンプに宿舎を得ました。やがてそこに2万人の人々がひとつの共同社会を作って快適に,また安い経費で生活しました。いうまでもなく,出席者たちは物質的な食物を必要としました。ですから会場に設けられた簡易食堂はたいへん重要な役割を果たし,1時間のうちに1万5,000人から2万人がそこで食事をすることができました。

とはいえ,最も重要なのは霊的な食物であり,それは豊かに備えられました。たとえば,F・W・フランズは「収穫,世の終わり」について話しましたが,それは小麦と雑草もしくは毒麦に関するイエス・キリストのたとえ話を詳しく説明したものでした。(マタイ 13:24-30,36-43)また,L・A・スウィングルが「目ざめよ!」という主題で話をしたのもこの大会です。原爆がさく裂し,ジェット機が飛び,レーダーで制御され,電子時代を迎えた総合的な20世紀の世界は,人類が直面している真の問題に目ざめていないため,滅びのどたん場に向かっている,とスウィングルは語りました。ノア兄弟は「積極的な召しに対する答え」と題する話を行ない,「目ざめ,目ざめ続け,『目ざめよ!』誌を読む」よう聴衆に勧めました。そうです,「目ざめよ!」という新しい雑誌が,かつて「黄金時代」誌として知られた「慰め」誌に代って発行されることになったのです。幾年も後になって,ヘンリー・A・カントウェルは次のように言うことができました。「『目ざめよ!』誌がその名前にふさわしく,熟睡していた多くの人を目ざめさせて真の崇拝に向かわせたことに疑問の余地はありません」。

ある人々は,この大会で「神を真とすべし」と題する優れた基礎的な聖書研究手引きを受け取った時の感激を忘れないでしょう。その初版はおよそ6年以内に1,050万冊余りが出版されました。1952年4月1日現在をもって改訂された同書は引き続き配布され,1971年の初めまでに54の言語で合計1,924万6,710冊が出版されました。当時「神を真とすべし」は,ノンフィクションとして,20世紀の世界のベストセラー中第4位を占めていました。

8月8日木曜日は,1946年の大会で特に顕著な日でした。ノア兄弟は「再建と拡大の諸問題」という主題の話をしました。その時の思い出を,英国諸島のエドガー・クレイは後にこう書いています。「その夜,わたしは演壇上のノア兄弟のうしろにひかえていました。ノア兄弟がわざについて要約してから,ブルックリン・ベテルの家と工場を拡大する計画を説明すると,大聴衆から万雷の拍手が幾度もわき起こりました。演壇からみなさんの顔をはっきりと見ることはできませんでしたが,みなさんの喜びを感ずることができました」。

世界情勢を視察する

神権的な再建と拡大が行なわれねばならないこと,それは明白でした。そこで,喜びを抱く国々の民の神権的大会からおよそ6か月後の1947年2月6日に,協会の会長N・H・ノアと秘書のM・G・ヘンシェルは,世界一周奉仕旅行に出発しました。約7万6,472㌔に及ぶその旅行で実際に視察することにより,世界的な組織を強め統一するためにどんな措置を講ずべきかを決定することができました。

その旅行は多くの成果を上げました。とりわけ,旅行のあと,ギレアデの宣教者がアジアの幾つかの国と太平洋の島々へ派遣されました。王国の関心事は推し進められていました。神権政治は急速に前進していたのです。

増し加わる神権政治

エホバは『小さな者を千とならせ,小さい者を強大な国民とならせる』ことがおできになります。(イザヤ 60:22,新)エホバは,幾世紀も昔,バビロンに捕われていたイスラエル人を彼らの故国に復帰させられた時,そのことを行なわれました。同様に神は,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの束縛から霊的なイスラエルを救い出されました。そのうえ,彼らを祝福し,増加させられたのです。1938年,世界の王国宣明者の最高数は5万9,047人でした。それから戦争とクリスチャンに対する迫害の数年があり,その後神の民の間で組織的な再建が行なわれました。その結果,なんと,1949年までにエホバのクリスチャン証人は31万7,877人に達したのです。神権政治が増し加わっていたことは明らかでした。

したがって,神の民が,エホバの証人の増し加わる神権政治大会に参集するのはなんとふさわしいことだったのでしょう。彼らは,1950年7月30日から8月6日にわたる8日間の国際大会に出席するため,自動車,バス,汽車,船および飛行機を使ってニューヨーク市の有名なヤンキー野球場へ群れをなして集まりました。約1万人の外国人が繰り込んできたため,アメリカ移民局は不審を抱いてそれらの訪問者に失礼な差別待遇をしました。これに対して大会出席者は後に厳重な抗議をしました。

オハイオ州クリーブランドにおける1946年の国際大会の場合と同様,大ぜいの人々に食事を供するために大がかりな簡易食堂が設けられました。それは実に印象的なものでした。ニューヨーク・タイムズ紙は,「わたしは魅了されてしまいました。あれほどすべてのものが円滑に運営されている集まりをいまだかつて見たことがありません」と語った衛生局の検査官のことばを掲げました。

多くの出席者は個人の家やホテルに宿泊しました。しかし,1万3,000人を上回る人々は結局,ニューヨーク市から64㌔離れたニュージャージーに設けられた証人のトレーラー・キャンプに宿泊しました。マリー・M・グリーサムは次のように思い出を語ります。「ニューヨーク州とニュージャージー州全域から来た兄弟たちが,幾週間もかかって水道管を取り付け,ガスや電気の設備をし,洗面および入浴施設を設けました。……その町はニューヨークの大会会場と有線で結ばれていましたから,ニューヨーク市の大会のプログラムはすべてトレーラー・キャンプで聞くことができました」。

1950年8月2日水曜日が明けた時,一般のエホバの証人は,その『御言を宣べ伝える』日にどんなすばらしい祝福が待ち受けているか全く知りませんでした。その日の午後,ノア兄弟は,「国々の民に清き唇をあたえる」と題する話をしました。(ゼパニヤ 3:9)その中でノア兄弟は,ものみの塔協会が1902年に「エンファティック・ダイアグロット」として知られるクリスチャン・ギリシャ語聖書の翻訳の版権を取得し,1926年12月21日に初めて協会の機械で印刷したことを話しました。協会は,以後,ほかにも非常に注目すべき聖書の印刷を担いました。

ところが,1950年におけるその大会のプログラムでは,特別に感動的な事柄がありました。記念すべきその時に,ノア兄弟は大きな喜びをもって「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」の英語版を発表したのです。野球場とトレーラー・キャンプにいた8万2,075人の驚きに包まれ,大喜びした聴衆は深い感謝の念にうたれ,鳴りやまぬ拍手の嵐と熱烈をきわめる感激のうちにそれを迎えました。その聖書は大会出席者によって幾万冊も飛ぶように求められました。出席していたすべての人にとってなんと感動的な出来事だったのでしょう。

「君たち」はここにいます!

エホバの民は,アブラハム,ヨセフ,ダビデのような昔の忠実な人々が現在の邪悪な事物の体制の終わる以前に復活すると長い間考えていました。それら神の昔のしもべたちは,「古代の名士」とか「昔の忠実な人々」また「君」と呼ばれました。また,詩篇作者は次のように言明していました。「なんぢの子らは列祖にかはりてたち なんぢはこれを全地に君となさん」。(詩 45:16)ですから,以前エホバの民が大会へ行く時には,少なからぬ期待がありました。この大会は,それら復活した君たち,もしくは昔の人々のひとり,または数人が現われる大会となるのではないかと考えられたのです。

そのことを念頭に置いて,1950年8月5日土曜日晩に,F・W・フランズの話を熱心に聴く8万2,601名の大会出席者たちと思いをひとつにして加わってください。聖書を詳しく説明した心をとらえて離さないその講演の最高潮のところで,彼は次のように尋ねました。「この国際大会に集まった皆さんは,今晩ここ,わたしたちの中に新しい地の君となる人々が大ぜいいることを知って喜ばれるでしょうか」。

それに対してどんな反応がありましたか。以下は鮮明な思い出の幾つかです。「わたしは会場全体が驚きの息を飲んだのを覚えています。それからわたしたちは,期待しながら自分のまわりを見まわし始めました。……ダビデがいるのですか,それとも,アブラハムかしら。でなければ,ダニエルとかヨブがいるでしょうか。姉妹の多くは目に涙を浮べていました」。(グレース・A・エステプ)「わたしはとても興奮して,いすの端にすわり,ダッグアウトに目を凝らしました。昔の人のだれかが今にもきっと現われるに違いないと思ったからです」。(ドワイト・T・ケンヨン姉妹)「通路にいた人たちは,アブラハムやダビデ,もしかしたらモーセに会えるかもしれないと思って,講演者のいる観覧席を見るために野球場の入口に殺倒しました。聴衆は立ち上がり,ふんい気はつのりました。だれか長いひげをした人が演壇の方へ歩いていったりでもしたら,群衆を抑えることはできなかったに違いありません」。―L・E・ルーシュ。

ついで聴衆は水を打ったように静かになりました。講演者の一言半句も聞き逃すまいと耳をそば立てているようでした。講演者は,「君」と訳されているヘブライ語の本当の意味を説明し,今日の「ほかの羊」が昔のエホバの証人たちと同様信仰のために多くの苦しみを経験したことを指摘しました。したがって,キリストがそれら「ほかの羊」を必要に応じて「全地に君」とすることに何の異論もないはずです。(詩 45:16。ヨハネ 10:16)それから,フランズ兄弟は講演の結びにこう述べました。「わたしたちの目前にはすばらしい見込みがあるのですから,さあ,神権的な組織を維持してまいりましょう。そして,神にこの組織を新世社会として引き続き改善していただきましょう。わたしたちが,滅びのために留め置かれている現代のソドムを振り返ることなど断じてありませんように。むしろ,わたしたちは全き信仰を持って前途を見続けることを決意しています。では,みないっしょに,新世社会として着実に前進してまいりましょう」。

神権政治の増し加わる証拠

8月6日,日曜日の午後は大会出席者にとって感激の日でした。ヤンキー野球場は8万7,195人でうずめ尽くされました。さらに,歩道や付近のテントには2万5,215名の人々がいました。そのうえ1万1,297人の人々はトレーラー・キャンプに集まっていました。

したがって,ノア兄弟の行なった,「あなたは地上で幸福のうちに永遠に生きられますか」と題する非常に興味深い広く宣伝された公開講演には合計12万3,707名の人々が出席したことになります。その論理的で心を動かす講演は,地上で楽しく永遠に生きることのできる人々がいるということの聖書的な証拠を十分にあげていました。

新世社会として集まる

1953年には,神権史の上でのもうひとつの里程標に達しました。エホバの民は7月19日から26日を心待ちにしていました。アメリカほか96か国から集まった大ぜいの人々がニューヨーク市のヤンキー野球場をうずめました。8日間にわたる新世社会大会は,エホバのクリスチャン証人の間にある国際的な一致のすばらしい証拠を世間に提出するものでした。

このたびも,大会出席者のために個人の家の宿舎が多数確保されました。ホテルに宿泊した人々もいます。そのほか4万5,000人の人々は,野球場から約64㌔離れたニュージャージー州ニューマーケット近くの新世社会トレーラー市で生活しました。ついでながら,トレーラー市のマーケットは,クリスチャンの正直さについて土地のある仕入れ業者に無言の証言となりました。(ヘブライ 13:18)多くの証人たちは,野球場で自発奉仕をするために開店前に出かけて行き,マーケットなどが閉店してから帰って来たので,必要な品物を自分で取り,代金を防備のない盆に入れていました。R・D・カントウェルはこう語っています。「その紳士(仕入れ業者)はそれを見て驚き,とうとうこんなことを言いました。『カントウェルさん,はっきり言って,わたしの教会ではこんなふうにはできないでしょうな。教会員は信用できませんからね』」。

この大会の国際的な性格を際立たせていたのは,野球場の上段と中段の前面のまわりに一列に並べられた90本の色とりどりののぼりでした。出席者たちは,「香柏の国,レバノンからサラームス」とか,「ハワイからクリスチャンのアロハ」とかといったあいさつのことばを受けました。また,「北アメリカの日」や「太平洋諸島の日」などの地域別のテーマがそれぞれの日に設けられていました。

7月20日,ノア兄弟は大会の主題にそって,「新世社会として今生活する」と題する時宜にかなった講演を行ないました。その午後の思い出をC・W・バーバーはこう書いています。「大ぜいの人々がこのように『新世社会』として一同に会したので,その大群衆が一致結束していることを言い表わす良い機会が訪れました」。どのようにしてそれを表明するのですか。自分たちがひとつの一致した新世社会をなしているというエホバの証人の実感を明確に表わした決議を採択することによってです。その決議は野球場および別に設けられたテントそしてトレーラー市にいた12万5,040名の人々によって満場一致で採択されました。

警告が発せられる

この大規模な大会は,ウエブスター・L・ロウが「スリラーだ!」と呼ぶ,特筆すべきプログラムのあったことで確かに記憶に残るものとなりました。その特別の講演に関して,ロジャー・モルガンは,「1953年のヤンキー野球場で一番感銘を受けたのは,フランズ兄弟の『新世社会は北のはてから攻撃される』と題する話でした」と書いています。

そうです,1953年7月23日木曜日の夜には警告が発せられたのです。協会の副会長F・W・フランズは,エホバの民に対するマゴグのゴグとその一味による来たるべき攻撃を生き生きと描写しました。預言の主演者ゴグは,サタンを指すことが明らかにされました。また,フランズによれば,マゴグの地とは,(西暦)1918年までに天から放逐された邪悪な霊の勢力のいる地の近くの制約された霊の領域を言います。(啓示 12:7-9)講演者は,ゴグとその軍勢が現在エホバの民の間に繁栄,一致,安全があるのを見て攻撃して来ると述べました。しかし,エホバは新世社会を守ってその猛攻撃を切り抜けさせてくださいます。11万2,700名の聴衆は,そうした警告と,引き続きエホバにより頼んでキリストによる神の王国の良いたよりを宣明するようにという勧めをどんなにか深く感謝したことでしょう。

大会の感動的な閉幕

7月26日,日曜日午後,集まっていた出席者たちは特に感動的な経験をしました。N・H・ノアの,「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」と題する公開講演を聞くために,ヤンキー野球場と別に設けられたテントおよびトレーラー市に16万5,829人が集まりました。野球場だけでも9万1,562名の人々がいました。公開講演の少し前に,幾つかの門が開かれ,大ぜいの人々がグランドに列をなして入り,芝生にすわりました。そのうえ,協会のWBBR放送によって講演を聞いた人も大ぜいいました。

時間はまたたくまに過ぎ,聞き手を魅了した公開講演はやがて終わりました。折からの涼しいそよかぜは,閉会のプログラムにとどまった何万人もの人々をさわやかにしました。ノア兄弟は,詩篇 145篇に基づく1時間の話を行ない,エホバを賛美し,神としてあがめ,またエホバが宇宙主権者であることを宣伝し,その王権を知らせる必要を強調しました。「勝利の歌をうたえ」と題する歌と閉会の祈りにより,それまでに最大のクリスチャンの大会は喜びのうちに幕を閉じました。

神の御心国際大会

「今でも1958年と言えば,エホバの証人の頭に浮ぶ大きな出来事があります。それは,『大規模な大会』つまり,エホバの証人の神の御心国際大会です。実にすばらしい大会でした」と,アンジェロ・C・マネラ2世は書いています。この際立った集まりには,少なくとも123の国々や島々の人々が出席しました。中東戦争ぼっ発の脅威にさらされ,国際関係に緊張の見られていた1958年の7月27日から8月3日にかけて,エホバの民はニューヨーク市のヤンキー野球場とポロ・グランドに平和と一致のうちに参集しました。

大会に先立つ2週間ほどのあいだ,ノア兄弟は協会の支部の監督たちとその補佐たち80人余りと会合し,支部事務所の手続きに関する新しい本を討議しました。それはノア兄弟が,支部のうちで最も大きなブルックリンのアメリカ支部を直接に調査して作成したものです。大会中には,その人々との集まりのほか,それぞれ宣教者,特別開拓者,巡回および地域監督との有益な集会が開かれました。

オーニスト・ヤンスマは7月30日水曜日の出来事に感動して,「確かに神権史上長く記録にとどめられる重大な出来事だったと思います」と語っています。まさにそのとおりで,エルサレムにおいて1日におよそ3,000人の新しいキリストの追随者がバプテスマを受けた,西暦33年のペンテコステ以来の出来事がその日に起きました。(使徒 2:41)「神の御心に従うバプテスマ」と題する話を聞いたのちただちに,7,136名の人々(うち2,937人が男子で,4,199人が女子)が数キロ離れたオチャード・ビーチで浸礼を受け,エホバ神への献身を象徴しました。それは,近代にひとところで行なわれたバプテスマとしては最大のものでした。

この大々的な集まりで,三つの事柄,すなわち地的な楽園,霊的な楽園および天的な楽園に関する事柄が,ノア兄弟による「わたしたちの霊的な楽園を保つ」と題する講演の中で考察されました。非常に興味深いその話のあと講演者は,誤りを指摘する出版物でなく,正しい聖書の教えのみを扱った研究の手引きを発行してほしいとの要望がタイの宣教者から協会に寄せられたと語りました。そして,その宣教者たちを含め各地のクリスチャンの必要に答えて,協会は「失楽園から復楽園まで」と題する新しい書籍を出版したと述べました。平易なことばで書かれ,さし絵の豊富な「楽園」の本は,子どもにもおとなにも喜ばれてきました。グレース・A・エステプはこう語ります。「その世代の子どもたちは,『楽園』の本を集会へ持っていったり,文字など読めないうちから,さし絵を使って聖書の物語を全部話せるようになってお友だちに聞かせたりするなど,『楽園』の本を手にして成長しました」。

8月2日の土曜日は,「御心が地に成るように」の日でした。その日の午後,協会の会長は「御心が地に成るように」と題する感動的な話をし,そのあと「御心が地に成るように」と題する新しい書籍を発表して17万5,441名の聴衆を沸かせました。出席者たちは,預言の中でも特にダニエル書の預言に関する同書の説明を研究したいとどれほど強く感じたことでしょう。

「エホバに対する実にすばらしい証言であった」

8月3日,日曜日の,神の御心国際大会の模様はなんと説明したらよいでしょうか。出版された大会の報告は,「エホバに対する実にすばらしい証言であった」と述べています。実際そのとおりでした。エドガー・C・ケネディは次のように語っています。「日曜日は,出席者のだれもが忘れることのできない日でした。ヤンキー野球場での公開講演に人々が集まる様子は全く壮観でした。連綿と続く流れのように人々が野球場にはいり,スタンドをうずめ尽してグランドにまであふれ,きちんとした区画を作って芝生にすわるのが座席から見えました。それは,『大群衆』が,エホバの油そそがれた残りの者たちと共に神のお名前を賛美し,『神の意志』を行なうために彼らの側に集まって来ていることを示す,見る者を圧倒する光景でした。わたしたちは自分があの群衆の一部となれたことを神に感謝しています。野球場は収容能力の限界に来ており,ポロ・グランドでも同様でした。午後3時,司会者が講演者である,ものみの塔聖書冊子協会の会長N・H・ノアを紹介し,「神の御国は支配す ― 世の終わりは近いか」という講演の題を発表すると,25万人を超える出席者はしんと静まりかえりました。

そのとてつもなく大ぜいの群衆は25万3,922人でした。少なくはなかった金曜日の出席者数から考えると,一般の人々が6万人ぐらい出席したにちがいありません。その講演で大ぜいの人々が聞いたのは,神の王国が西暦1914年以来支配しており,世の終わりは間近いことを確信させる聖書的な根拠についてでした。

神のことばを入手できるようにする

命を得るための教育を人々に施し,神の王国の地的な関心事を促進させるには,王国を主題とする当の本そのものを人々が容易に入手できるようにすることがぜひとも必要でした。それはノア兄弟の長年の懸案でした。事実,彼は,協会の工場で働いていたころ,聖書全巻を印刷する際に役立つ資料を机の中に長い間持っていました。しかし,事情がなかなか許さず,その計画の実現を図ることができませんでした。ところが,協会の会長になると,ノア兄弟はただちにそれを実行に移しました。安い価格の聖書を生産することも大切でした。そうすれば,一般の人々が神のみことばである聖書を求めて読むことができるからです。

N・H・ノアは,1942年にオハイオ州のクリーブランドで開かれたエホバの証人の新しい世の神権的大会で「『御霊の剣』を執る」と題する話をしましたが,その中で,聖書は最大の攻撃用武器,すなわち「霊の剣」であると語りました。(エフェソス 6:17)結局,彼はエホバのしもべ一般の次のような考えを言い表わしたのです。「もし望む聖句を見つけることさえできれば,わたしたちは敵対者を寄せつけないでいられるし,嘆いている人を慰めることもでき,わたしたちにわかりきった様々な事柄を豊富な証拠を用いて他の人々にわかりやすく説明することができる。必要な聖句をすばやく見つける助けの付いた聖書さえあればよいのだが」。

その大会でそうした備えが与えられました。それは,ものみの塔版の新たな「欽定訳」で,ものみの塔協会が独自の印刷機で聖書全巻を印刷した最初のものでした。150人を上回る神のしもべたちが何か月も共同研究した結果,その聖書に付けるため,神の民が伝道のわざで用いるよう特別に企画された索引が編さんされました。ジェイムズ・W・フィルソンによれば,その聖書は「実際の必要を満たしました」。「自分たちが必要としていましたし,区域の人々に配布する必要のあるものでした。……わずか1㌦で配布できる,りっぱで安価な聖書があるのはすばらしいことでした。今日にいたるまで,それは真理にいない多くの人々の家庭で唯一の聖書となっています」。

ノア兄弟はもうひとつの基本的な考えを持っていました。それはあらゆる言語でエホバのお名前を保存するということでした。ヘブライ語聖書中に神のお名前を使った聖書の翻訳がありました。それは「アメリカ標準訳」でした。協会はその聖書の版権を買って印刷しました。その高く評価されたものみの塔版は1944年の,一致した発表者の神権大会で入手できるようになり,出席者を大いに喜ばせました。「わたしたちはこの聖書を再訪問と聖書研究でよく使いました」とエドガー・C・ケネディは言います。

聖書の新しい翻訳

実際には1946年以来,協会の会長は,より深い真理を得る土台となるような,原本の意味を忠実に表わしたクリスチャン・ギリシャ語聖書の現代語訳をほしいと考えていました。増し加わる神権政治大会が開かれていた1950年8月2日に8万2,075人の聴衆を前に行なった話の中で,ノア兄弟は,ブルックリン・ベテルで1949年9月3日にペンシルバニアとニューヨーク法人の理事会が合同の会合を開いたこと,また,ひとりの理事を除いて全員が出席したその席上,「新世界訳聖書翻訳委員会」が設けられていることを発表したと報告しました。同委員会はクリスチャン・ギリシャ語聖書の翻訳を完成しており,その所有権および管理権をペンシルバニア法人のものみの塔聖書冊子協会へ引き渡しました。工場では1949年9月29日に原稿の最初の部分を扱い始めました。

1950年8月2日のその午後,ノア兄弟は英文の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を喜びのうちに発表し,出席者は非常に感激しました。それは,以前翻訳された聖書の改訂版などというものではなく,全く新しい翻訳でした。新世界訳聖書翻訳委員会はウエストコットとホートという学者たちによる有名な優れたギリシャ語本文を使用し,他の人々の作成した幾つかのギリシャ語聖書本文をも参考にしました。この聖書は現代英語を使い,「ズィー(thee)」とか「ザウ(thou)」のような古語を使用していなかったので,現代の英語を話す読者に容易に理解できるものでした。

特に注目に値するのは,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」の本文中に「エホバ」という神のお名前が237回使われていることでした。翻訳委員会の前書きには,そのお名前を使用する確かな根拠がはっきりと示されていました。「新世界訳」には多くの優れた特色があったのです。

やがて,「新世界訳」はエホバの民全体のことばづかいに深い影響を与えました。たとえば,「新世界訳」は「ブレズレン(brethren)」の代わりに「ブラザーズ(brothers)」を用いています。それで神のしもべたちは現代のことばを用いるようになりました。(ローマ 1:13)さらに,1953年の初めには,「新世界訳」で用いられている「コングリゲイション」ということばが,神の民の集合した群れを表わすことばとして,「カンパニー」に取って代わりました。―「新世界訳」の使徒 20:17,コロサイ 4:15と比較してください。

数年の間に,「ヘブライ語聖書 新世界訳」の5巻が作られ,神の民のそれぞれの大会で発表されました。1961年の一致した崇拝者の大会で,エホバのクリスチャン証人は一巻にまとめられた「新世界訳聖書」を受け取り,とりわけ大きな喜びに包まれました。ついでながら,その時までに世界中で王国の宣布者は96万5,169人に増加していました。確かに,エホバはそれまで彼らの努力を祝福してこられたのであり,聖霊によって物事を進展させておられました。―コリント第一 3:6,7

聖書の生産は進む

エホバのしもべたちは,神のみことばを人々に行き渡らせたいという変わらぬ願いを抱いてきました。したがって,多くのいろいろな型の聖書が入手できるようになりました。たとえば,1963年に開かれたエホバの証人の「永遠の福音」大会を特色づけたのは,1961年に改訂された英語の「新世界訳聖書」のポケット版が発表されたことでした。さらに,引照と脚注および広範な付録が完備し,大きな文字で印刷されて一巻にまとめられた非常に有用な「新世界訳」の初版も英語で発表されました。しかし,イタリア人,デンマーク人,フランス人,ドイツ人,ポルトガル人そしてスペイン人の出席者が新たに発表された自国語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を受け取った時の喜びを想像してください。「ブラボー! ブラビッシモ!」とイタリア語を話す出席者は叫びました。あるドイツ人の大会出席者は「ドイツ人がかつて聖書に対していだいていた関心をエホバの証人が呼びさます絶好の機会です」と語りました。その後,前述のそれぞれの言語で「新世界訳」全巻が入手できるようになりました。

1971年の「神のお名前」地域大会で発表された出版物の中には,大きな文字で印刷された英語の「新世界訳聖書」の71年度改訂版が含まれていました。また,聖書を学問的な角度から研究したい人々には,1969年に発行された,「ギリシャ語聖書の王国行間逐語訳」と題する1,184ページの聖書があります。

エホバのお名前を人々の前に保ちたいという絶えざる願いに動かされて,他にも幾つか聖書の印刷事業が行なわれてきました。そのひとつに,ものみの塔協会が1972年に出版した故スティーブン・T・バイイングトンの「現代英語聖書」がありますが,それはヘブライ語のテトラグラマトンを終始一貫「エホバ」と訳出しています。

1950年以来,何百万冊もの「新世界訳」が世界中で配布されましたが,その多くは英語版でした。したがって,約1万4,700の見出し語と33万3,200の聖句を収めた「新世界訳聖書総合語句索引」が1973年に発表された時には大いに喜ばれました。ブルックリン・ベテル家族の多くの成員は,その編集,校正その他の仕事を勤勉に行ないました。この索引が備えられたことにより,望む聖句を見つける時間が節約されていることはまちがいありません。

今日,「新世界訳聖書」の全巻は7つの言語で,クリスチャン・ギリシャ語だけなら他のもうひとつの言語で入手できます。また,さらに4つの言語でクリスチャン・ギリシャ語聖書の翻訳が進められています。英語版の場合,聖書全巻の「新世界訳」の普及版は今でも1冊1㌦です。また,他の言語によるこの優れた聖書の翻訳を外国貨幣で求める場合はすべて,それと実質的に同じ額を支払います。価格がそのように安いのはなぜですか。聖書が人々の手もとに届き,そのうちの心の正直な人々がそれを読んで,聖書を「人間のことばとしてではなく,事実どおり神のことばとして」受け入れるためです。―テサロニケ第一 2:13

協会の印刷機のひとつが,ものみの塔版の「欽定訳」の第一冊目を出してから30年以上がたちました。その間,多くの献身した人々は熱心に働き,神のみことばの本を人々に得させ,その数はとどまるところを知りません。1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけて,協会のブルックリン印刷工場では聖書の全巻もしくはその一部が実に2,853万3,890冊も生産されたのです。また,聞いて驚かれると思いますが,1974年中,ブルックリンのものみの塔協会にある15台もの輪転機は聖書を印刷するために全時間運転されました。

聖書のこうした膨大な生産と相まって,聖書研究の手引きが数多く出版されました。「聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です」や,「聖書理解の助け」など,そうした手引きのすべては,さまざまな背景を持つ多くの人々を勤勉な聖書研究者また良いたよりの有能な神権的宣明者とするのを助けてきました。また,ある人々は聖書の真実性を疑っていましたから,それが実際に神から出たものであることを証明するために真剣な努力が払われました。その点で注目に価するのは,「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する192ページの本で,27の言語により1,876万8,000冊を上回る部数が印刷されました。1969年に発行された協会のこの出版物は,あたかも聖書に弱点があるため,この世の「権威者」の助けを必要としているかのように,聖書の真実性が考古学者の発掘した証拠に依存してはいないことを見事に示しています。それどころか,同書の主要部分は,聖書そのものの強力な証拠や合理性,および聖書を無視しては答えの得られない問題があるという事実に基づいて,聖書の強い説得力という観点から論じられています。「この本は,僧職者が聖書の信用を落とそうとさらにあからさまな努力を払うようになっていた時に出たので,多くの人々が弱った信仰を引き締めて聖書を誠実に研究するのを助けました」とウエブスター・L・ロウは語っています。

『生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです』

エホバの証人は神のことばを売り歩く者ではありません。(コリント第二 2:17)彼らは神のことばを自ら信じ,かつ誠実な心でそれを擁護しているのです。それゆえ,彼らは血に関する神の律法を堅く守ります。事実,エホバの証人は,体力を支えるために血を食べたり体内に取り入れてはならないという神のご命令に忠節に従っていることで世界中に知られるようになりました。(使徒 15:28,29)たとえ命が危険にさらされているような場合でも,クリスチャンたちは一再ならず,『生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです』と語ってきました。―ローマ 14:7,8

血の神聖さについては,1927年12月15日号の「ものみの塔」誌上で特に取り上げられました。なかでも,「神が報復を行なう一つの理由」と題する記事にはこう書かれていました。「神はノアに,すべての生き物は彼の食物となるが,命は血にあるから血を食べてはならないと言われました」。十数年後の「ものみの塔」誌(1944年12月1日号)はこう述べました。「ノアの子孫としてばかりでなく,イスラエルに与えられた神の律法下にある者として,……他国の人は,輸血によってであれ食物としてであれ,血を食べたり飲んだりすることを禁じられていました。(創世 9:4。レビ 17:10-14)」。その後,年を経るにつれ,いろいろな事柄がさらに明らかになってゆきました。

1945年7月1日号の「ものみの塔」誌は血に関するクリスチャンの立場を明確にしました。とりわけ同誌が指摘したところによれば,輸血の歴史は古代エジプトにまでさかのぼりますが,文献に残る最も古い例は1492年に法王インノケンチウス8世に施されたものであり,3人の若者の生命を犠牲にしたその輸血も法王の命を救うことにはなりませんでした。さらに重要なことに,「ものみの塔」誌のその号は,ノアに与えられた血に関する神の律法は全人類に対して拘束力を持つことおよびクリスチャンは血を避けるよう求められていることを示していました。(使徒 15:28,29)「ものみの塔」誌は要約して次のように述べました。

「したがって,至高の聖なる神は,ノアおよび彼のすべての子孫と結んだ永遠の契約に一致して,血の処理に関する明確な指示をお与えになりました。また,人類に命を得させるため神が血の使用を許された唯一の場合は,罪に対するなだめ,もしくは贖いとしての使用であり,その時でも血を直接人体に取り入れるのではなくて神の聖なる祭壇すなわちあわれみの座において用いられるべきでした。それゆえ,神の義の新しい世におけるとこしえの命を追い求めるすべてのエホバの崇拝者たちが,血の神聖さを尊重し,この重大な事柄に関して神の正義の規則に従うのは当然です」。

輸血に関するクリスチャンの立場は今や明らかにされており,あいまいなところはありません。サムエル・ムスカリエッロはこの問題に関して忠誠の試みに直面しました。ブロスコ・ムスカリエッロの話は次のとおりです。「弟のサムエルは,刑務所(クリスチャンの中立を守って入れられていた)から釈放されてまもなく,尿毒症を引き起こす連鎖球菌咽喉炎にかかりました。医師たちは手術が必要であると言いました。それは,いうまでもなく輸血を伴うものでした。そして,手術と輸血をしなければ,せいぜい2年しかもたないと言われたのです。サムは彼らのもとを去りました。それは1947年のことでした。……『ものみの塔』誌の記事(ふたりが特に注意を払っていたもの)に加えて,刑務所で聞いた……『血を取り入れることはいけない』という……(訪問中の)サリバン兄弟のことばがわたしたちの耳に鳴り響いていました。ちょうど2年たって,サムは危篤状態になり,再び病院へ運ばれました。圧力をかけられたわたしは彼のベッドの片わらに行き,『サム,医師たちは輸血したいと言っているよ』と言いました。麻酔で半分意識を失いながらも,弟はベッドから起きようとしました。(それは輸血を避けようとしてでしたが,輸血は施されませんでした。)……わたしの家族は(彼の死を)悲しみはしたものの,サムが死に至るまで意識をしっかり持ち,エホバに忠誠を保ったことから強められました」。

1950年代の初めに,エホバの証人の輸血拒否の問題が大きくなりました。1951年4月18日のこと,医師が輸血を施せるよう子どもを両親から引き離すために,イリノイ州のシカゴにおいて裁判が行なわれるという事態が起きました。生後6日のチェリル・ラブレンツは,赤血球が破壊されて行くという珍しい病気にかかっていると診断されました。医師たちによれば,輸血を受けなければ彼女は死ぬということでした。エホバのクリスチャン証人であった彼女の両親,ダッレル・ラブレンツとローダ・ラブレンツは正しくも輸血を神の律法の違反行為であると考え,それに反対しました。ふたりは幼児の永遠の福祉を気づかっていました。なぜなら,永遠の命は神の律法につき従う人々だけが享受する見込みだからです。しかし,両親が抗議したにもかかわらず,法廷命令によってチェリルに輸血が施されました。

ラブレンツの事件は,長い話のほんの初めにすぎませんでした。これまで20年以上にわたって,エホバの証人は血に関する神の律法を尊重するがゆえに注目を浴びてきました。マリー・M・グリーサムは,彼女の弟ダン・モルガンが経験した事柄をよく覚えています。ガンの末期にあった彼は,輸血をきっぱりと拒絶したためにニューヨーク市のある退役軍人の病院から三度追い出されました。四度目の入院が認められた時も,なお彼は輸血を拒絶しました。グリーサム姉妹はこう語っています。「それは1951年8月のことで,ダンは1951年10月に54歳で亡くなりました。ダンはとても幸福で平安そのものでした。死ぬちょうど4日前,彼は別の姉妹に,自分はまもなく眠りにつくけれども,忠実を保つことができ,またキリストの追随者の『小さな群れ』のひとりになるという大きな報いがあるので幸福だと語りました」。―ルカ 12:32。啓示 2:10

しかし,輸血を拒むなら死は避けられませんか。そのようなことは決してありません。グラディス・ボルトンの場合を考えましょう。彼女は,脾臓に通じる大動脈に脈瘤ができているので脾臓を切除しなければならないと医師から言われました。それで,輸血をしないという条件で手術を受けることに同意しました。医師は驚きながらも彼女の説明に耳を傾け,彼女が『代用血液』に反対しないことを認めました。そして,輸血なしで手術することに同意し,それは1959年5月21日に行なわれました。ところが,脾臓を除去できる状態になる前に動脈が破裂して,ボルトン姉妹は血液の70%あまりを失ったのです。手術室にいた医師たちや看護婦たちは輸血を勧めましたが,彼女の主治医は約束を守りました。ボルトン姉妹は2週間意識不明で,合併症が次々に起きたため,3週間酸素吸入を受けました。しかし,その医師は非常に注意深い人だったので,ボルトン姉妹は次第に回復しました。彼女は次のように書いています。「ある日,ふたりだけになった時,医師はこう言いました。『ボルトンさん,あなたの神エホバを絶対に見捨ててはいけませんよ。医学のあらゆる歴史や記録からすれば,あなたはとっくに死んでいるはずです。あれほど多量の血液を失って,しかも生きた人はいまだかつていませんからね』。わたしは答えました。『デイビス先生,わたしはエホバを捨てるつもりは毛頭ありません。でも,エホバの証人は今日信仰治療を教えてはいないのです。わたしたちは良い医師と看護婦の方々に感謝しています。それに,みなさんはわたしの命を助けるために一生懸命努力してくださいました。でも,血に関するエホバのご命令に従ったので,わたしたちすべては祝福されてきました』。医師はわたしの答えに満足げな様子で,わたしに礼を述べました」。ボルトン姉妹は1959年7月1日に退院しました。

長年にわたり,エホバ神は恵み深くも,血に関するご自分の律法を堅く守ろうとする人々に豊かな備えを設けてこられました。よどみなくあふれる霊的な援助の中には,1961年に発行された,「血,医学および神の律法」と題する64ページの小冊子があることを忘れてはなりません。あなたはこの小冊子を用いて,こうした重要な問題をあなたの医師と話し合ったことがありますか。

真の崇拝を促進する

エホバのしもべたちは,神の好意を享受するには清く汚れのない崇拝をしなければならないことを知っています。(ヤコブ 1:27)彼らは道徳的にも霊的にも清くなければなりません。(イザヤ 52:11。コリント第一 6:9-11)世の中一般が道徳的退廃の泥沼の深みへと次第に沈んできた比較的最近の数年間は特に,大会の話や「ものみの塔」誌の記事その他を通して,そうした点が適切にも強調されてきました。

1951年に,真の崇拝の擁護者たちは,「宗教」ということばについて大切なことを学びました。その中のある人々は,「宗教はわなであり,商売である」という示唆に富んだ看板をしばしば持って歩いた1938年のことを良く覚えていました。その頃の考え方によると,すべての「宗教」は悪魔に発する非クリスチャン的なものでした。ところが,1951年3月15日号の「ものみの塔」誌は宗教に関して「真の」とか「偽りの」とかという形容詞を用いることを認めたのです。さらに,「宗教は人類の為に何を成したか?」と題する興味深い本(1951年に出版され,英国ロンドンのウエンブリー・スタジアムにおける「清い崇拝」大会で発表された)はこう述べていました。「『宗教』と云う語については,その用い方から判断して,崇拝の方式又は形式と云う最も簡単な定義を下す事が出来ます。そしてそれが真の崇拝であるか偽りの崇拝であるかは問題でありません。このことは,宗教という語に対するヘブル語の言葉アボーダの意味と一致しています。何故ならば,そのヘブル語の言葉は,誰に捧げられるかということは問題ではなく,文字通りには,『奉仕』という意味だからです」。それ以来,「偽りの宗教」と「真の宗教」という表現がエホバの証人のあいだで普通に用いられるようになりました。

神の民は,真の宗教を実践し,道徳的にも霊的にも清さを保ってエホバに奉仕することを決意しました。そのことを特に強調したのは1952年3月1日号(英文)の「ものみの塔」誌で,「組織の清さを保つ」,「排斥の妥当性」および「復帰不可能な罪」といったきわめて重要な記事が収められていました。この雑誌はバプテスマを受けている悪行者で悔い改めない者をクリスチャン会衆から追放するのは適切であることを示しました。(コリント第一 5:1-13)また,罪を犯した者が後になって悔い改めるなら復帰が可能であることも指摘されました。―コリント第二 2:6-11

罪を犯して悔い改めない者を会衆から追放することが「ものみの塔」誌上で述べられたのはそれが初めてではありませんでした。しかし,1952年以降,クリスチャン会衆の霊的な清さを維持することの必要が特に強調されました。また,年の経過と共に,悔い改めた人々に対するあわれみ深い処置の大切さについての認識が深まってゆきました。(ヤコブ 2:13)したがって,監督たちはしばしば,会衆から追放しなければならないほど事態が悪化しないうちに誤った人々を霊的に回復させてきました。―ガラテア 6:1

クリスチャンは排斥された人々と友愛精神を持って交わることをしません。また,自分たちの中で邪悪な事柄が行なわれることを容認しません。しかし,もし排斥された人が誤った道を離れるならどうでしょうか。そうした質問にきわめて適切に答えているのは,1974年11月1日号に掲げられた「神のあわれみは,誤った道を行く者に帰るべき道を示す」および「排斥されている人たちに対して平衡の取れた見方をする」と題する記事です。それらの記事は,排斥されたそのような人々を命への道に復帰させるため,彼らに真実の励ましを与えてもよいことを教えています。

組織を清く保つうえで大きな役割を果たしてきたのは多くの大会の話です。たとえば,L・E・ルーシュは1964年の大会でF・W・フランズによって行なわれた「公のしもべの組織を清く保つ」と題する講演を特に取り上げて,次のように語っています。「彼は品行の悪い少女を公衆便所の汚いタオルにたとえました。道徳に関する歯に衣を着せない率直なことばを使った簡潔な話し方で物事が明確に説明されました。……なんと時宜にかなっていたではありませんか。それ以後のなだれのような道徳的崩壊に備えた賢明な助言だったのですから」。

聖書に基づく健全な助言は多年減ずることなく流れ続けてきました。霊的に言えば,数々の出版物はエホバの民に歩むべき適切な道を教えてきたのです。

王国の証言の拡大

1950年代には,王国の音信を宣明するわざの拡大に顕著な努力が払われました。実際,非常に重要な段階が1951年に踏まれたのです。同年の10月に首都ワシントンでのある大会の席上で,ノア兄弟は,アメリカの郡のうち,わざが全く行なわれていない,あるいは部分的な証言しか受けていない郡が半数近くある(3,062の郡のうち1,469)ことを明らかにしました。しかし,翌年の6月,7月,8月中にそうした区域で働くよう一般の伝道者か開拓者が割り当てられるので状態は変わるでしょうということでした。それには熱心な反応がありました。孤立した区域における同様のわざは今に至るまで行なわれてきました。

王国の証言を推し進めるうえでさらに顕著な段階となったのは1957年の「生命を与える叡智」地域大会でした。マリー・ギッバードは次のように書いています。「わたしたちはその時初めて,『必要の大きな所で奉仕する』という表現を耳にしました。実際,家族は宣教者のような奉仕をすることができました。それは,ギレアデ学校の訓練を受けて正式に宣教者となれない人や家族に,新たな奉仕の機会のとびらを開くものでした」。

かつて交わっていた会衆よりも王国の伝道者の必要が大きな,アメリカや海外の土地へ移った多くのクリスチャンたちは,同じ信仰を持つ仲間の人々を励まし築き上げてきました。また,新しい人々が神の真理の知識を得るのを助けたり,会衆の設立にあずかりさえしています。

良いたよりのよりよい伝道者となるために勉強する

ノア兄弟はクリスチャンの主要な目標に言及して,「だれもが戸別に良いたよりを伝道する能力を持つべきである」と言明しました。彼がそれを語ったのは新世社会国際大会の開かれていた1953年7月22日のことです。エホバの証人は,それまでの何年来,良いたよりを宣べ伝えるのにレコードや証言カードを用いていましたが,その当時はもはやそうしたことを行なっていませんでした。しかし,いっそうの訓練が必要でした。「すべての僕達の主な業」と題する話をしたさい,ノア兄弟は新しい戸別訪問の訓練計画を発表しました。巡回と地域のしもべ(監督)たちがそれに大いに関係しますが,会衆の任命されたしもべすべても各王国伝道者が戸別訪問によって良いたよりを定期的に宣明する人となるよう援助することになりました。巡回のしもべは,会衆を訪問している間に,訓練計画に従い新しくて未経験な人といっしょに働く戸別訪問の経験を積んだ伝道者を選ぶのです。さらに多くのクリスチャン証人に資格を得させるこの遠大な備えは1953年9月1日から実施され,まもなく軌道に乗ってどんどん進められて行きました。

ジェイムズ・W・フィルソンはこう語っています。「訓練計画は……非常にすぐれたものでした。内気な人は積極的な気持ちを持つように助けられました。ひとつの事,たとえば雑誌活動などしかできないと感じている人は,(神への奉仕の)他の事柄にもあずかってみるように助けられました。多くの人は他の人々を援助してみて,自分自身の能力を改善しました。

「霊の剣」を大胆にふるう

クリスチャンは「霊の剣,すなわち神のことば」をふるう資格を持っていなければなりません。(エフェソス 6:17)その点で,訓練計画は大きな助けとなりました。時の経過と共に,戸別訪問のための3分から8分の話と,再訪問で用いる10分から15分の話の様々な筋書が,ものみの塔協会により提案として準備され,奉仕の指示を与える月刊の会報「通知」およびそれに取って代わった「王国奉仕」に掲載されました。ある証人たちは,その後,イザヤ書 2章4節とかヨハネ 17章3節などのひとつの聖句に基づいた短い話をするほうがもっと容易もしくは簡便なことを知りました。

ウォルター・R・ウィスマンによれば,戸別の証言や再訪問のわざで聖書の話をするようになったことは,「神権的な進歩の一里程標でした」。一般の人々は神の民と聖書をますます結びつけて考えるようになりました。R・D・カントウェルは,「ほどなくして,古くから戸口で言われた,エホバの証人は『本の販売人』だという非難のことばがだんだん聞かれなくなりました」と語っています。

マートル・ストレインは,「わたしたちは戸別訪問の奉仕でなんとすばらしく進歩したのでしょう」と驚嘆しながらこう述べました。「人々にカードを手渡して読んでもらったり,レコードを掛けたり,家の中に入って神の目的の概要全体を1時間も話したりする必要はもはやありません。今では,主題を決め,2,3のまとをついた聖句を使ってよく準備した短い話を戸口でする方法をだれもが学んでいます。いずれも大切で時宜にかなった聖句に基づいている,たくさんの短い話を使うことができるのです。それに,わたしたちはぜひとも家の人を会話に引き入れたいと願っています」。このようにして,音信を受け入れるかどうかにはかかわりなく,人々は証しを受けてきたのです。

偽りの光を暴露する

エホバの証人は,人々の戸口で聖書を用いることにさらに熟達するようになる一方,かつて彼らの活動を特徴づけていた燃えるような熱意を少しも失ってはいませんでした。たとえば,1955年の初めに,エホバの証人は偽りの霊的な光を暴露する音信を恐れることなく宣明しました。

1955年4月3日,日曜日のこと,キリスト教世界に対して,また実際には偽りの宗教の全体制に対して大胆な裁きの宣言が発せられました。それはクリスチャンの講演者による公開講演の形で全世界いっせいに多くの言語で行なわれました。「キリスト教世界それともキリスト教 ―『世の光』はどちらですか」と題するその力強い講演は50万人を超す聴衆を集めました。

エホバのしもべは,キリスト教世界が偽りの光であることを人々にぜひとも知らせたいと願っていました。やがて,ものみの塔協会は強い要望に答え,その講演を小冊子の形にして30か国語で2,200万冊を発行しました。その配布にあずかりたいという強い願いを持った多くの人々は,1955年の4月に初めて野外奉仕に参加して新しい伝道者になりました。その月,全世界の王国伝道者の数は空前の最高数である62万5,256人に達しました。同年の7月の後半にエホバの証人は手紙とそれらの強力な小冊子を僧職者や編集者に郵送しました。

「ことば」とはだれか

キリスト教世界の偽りの光を暴露することは多くの僧職者に喜ばれませんでしたが,それでも彼らはエホバの証人から決定的な音信を受け取っていませんでした。全く,受け取っていないどころではなかったのです。多くの僧職者は聖書が神の霊感によるものであることを否定していました。他の人々は聖書を擁護すると主張しながら神をはずかしめる教理を教えていました。そうした偽りの教えの中に三位一体がありました。それに関して僧職者たちは,好むと好まざるとにかかわらず,1962年の後半にエホバのクリスチャン証人からひとつの音信を受け取りました。

それは,「ヨハネによれば『ことば』とはだれか」と題する64ページの小冊子の形で与えられました。三位一体の教理が明白な偽りであることを暴露したその小冊子は,1962年の11月中特別に配布されることになりました。王国宣明者たちはそれを戸別訪問のわざで提供したばかりか,ものみの塔協会が準備した補足的な手紙をそえてその小冊子を1冊ずつプロテスタントとカトリックの各僧職者に郵送しました。こうして,ヨハネ 1章1節の「ことば」は神ではなく,人間になる以前の神のみ子,イエス・キリストであることが大々的に証しされました。

動く大会

伝道のわざを行なうために必要なクリスチャンの勇気を培うことに大きく貢献してきたのは,定期的に開かれる神の民の大会です。その幾つかは他の大会と違った特色を持っていました。つまり,一部の出席者があちらこちらと旅行し,世界一周さえする動く大会だったのです。そうした大会はなんとすばらしい一致をもたらしたのでしょう。クリスチャンは外国にいる仲間の信者の経験や活動について読めますが,たとえ言語の障壁があってもその人々に会って彼らと交わるのは確かに報いのある経験です。異なる国籍や人種的背景を持つ神の民がともに集まる場合,同じ言語で意志を通じ合わせることはできないかもしれません。しかし彼らはひとつの言語,すなわち,神がご自分を愛する地上の人々すべてに親切にも与えてくださった真理というひとつの「清い言語」を話すのです。―ゼパニヤ 3:9

動く大会の中でも際立っていたのは1955年に開かれたエホバの証人の「勝利の王国」大会です。わずか10週間にアメリカや他の国で13の大会が開かれ,多くの出席者はその様々な大会へ旅行しました。ある出版物はそれについて,「第二次世界大戦以来最も多くのアメリカ人がヨーロッパに移動したことになろう」と述べました。

ものみの塔協会は42台の飛行機と2隻の汽船(アロサ・クルム号とアロサ・スター号)を借り切りました。船の中では乗客の益のために毎日霊的に築き上げるプログラムが催されたので,2隻の船はまさに洋上に浮ぶ大会ホールでした。

ヨーロッパの大会開催地のひとつはニュルンベルク市のゼッペリン牧草地で,そこには10万7,423名が集まりました。C・ジェイムズ・ウッドワースはこう語っています。「ヒトラーがエホバの証人に対して『絶滅だ』といきまいたまさにその場所で,クリスチャンたちが『勝利の王国』大会のうち最大の大会を開いたことを聞いて,アメリカにいたわたしたちは非常に喜びました。ヒトラーはどこにいましたか」。

世界一周大会

1963年には,6月30日にウィスコンシン州のミルウォーキーで始まり,9月8日にカリフォルニア州のパサデナで終わった,エホバの民にとって非常に興味深い事柄がありました。それは,エホバの証人の「永遠の福音」大会で,24を超す都市を結ぶ文字通りの世界一周大会でした。全部で583名の出席者は地球をかけ巡る旅行をしました。いく分異なる様々な旅程を取った旅行者たちも,ロンドン,ストックホルム,ミュンヘン,エルサレム,ニューデリー,ラングーン,バンコック,シンガポール,メルボルン,ホンコン,マニラ,ソウルおよびホノルルといった都市で仲間の信者の群衆とともに集まりました。

ロンドン大会へ出席した人々の多くは英国博物館を見学しました。そこでは,とりわけ,バビロンが崩壊した年を西暦前539年とするうえで資料となるナボニドス年代記を見ました。もうひとつ興味深かったのは粘土の肝臓で,それはバビロンの宗教の占いで用いられたものです。―エゼキエル 21:21と比較してください。

聖書の土地へ旅行した大会出席者は聖書にゆかりの深い多くの場所を見学しました。レバノンの杉やモアブの平原,あるいはヒンノムの谷を見て,旅行者たちは神のみことばに対する認識をいっそう深めました。

極東に到着した旅行する大会出席者たちは,他の土地における場合と同様に,そこでもバビロンの宗教のさまざまな影響を見ました。バンコックのワット・ポでは男根の象徴を見ました。産まず女たちはその前で子どもができるように祈ったのです。仏教のワット・サケットと同市内に見られる壁画は涅槃と苦しみの地獄の両方を描いています。ダンテの地獄編と大会出席者たちが見たものとが類似していることは,両者の宗教的な考えが共通の源から発していることを如実に物語っていました。

そうした偽りの崇拝の特色となるものを幾つか見たため,「偽りの宗教に対する神の裁きの執行」と題する大会の講演はいっそう感銘深いものとなりました。その講演中,聴衆は古代のバベル(バビロン)へ連れ戻されました。神がその町の塔建設者たちの言語を乱された時,彼らは不潔な宗教を携えて他の土地へ移って行きました。その宗教はさまざまな言語で行なわれるようになり,こうして,偽りの宗教の世界帝国が存在するようになりました。その起源がバビロンにあるゆえに,聖書の啓示の書はそれを「大いなるバビロン」と呼んでいます。(啓示 18:2)その感動的な講演と関連して,大会出席者たちは「『大いなるバビロンは倒れた』神の王国は支配す」と題する704ページの新しい英文の本を受け取りました。それは実際には2冊の本を合本したもので,最初の部分は古代バビロンとエホバの民との関係を考察しており,第2部には啓示の14章から22章の節ごとの分析が収められています。

視覚に訴える資料は弟子を作る助けとなる

その大会後数か月して,協会は考えを鼓舞する映画を完成しました。「力強い!」「感動的だ!」「啓発的!」「ショッキング!」これらは,「世界をめぐって永遠の福音を宣べ伝える」と題するこの2時間にわたるカラー映画に対する典型的な反響でした。それは,「神が全地の王となる時」と題する重要な公開講演に合計58万509人の聴衆を集めた,1963年の「永遠の福音」世界一周大会を特集した映画です。といっても,それは単なる紀行ものではありません。現在廃虚と化している一都市が今日の多数の人々の命に影響を与えていることをその映画ははっきり示しています。地上のほとんどすべての住民の生活様式に浸透しているいろいろな象徴物や儀式はその都市,つまり古代バビロンから発祥しています。大いなるバビロンから急いで離れなければならないことが強調され,世界各地の大会で示された真のクリスチャンの暖かさと愛が描写されています。また,観客は,大いなるバビロンを離れてただちに交わるべき組織のあることを知ります。従って,正義を愛する人々は,偽りの宗教の世界帝国を捨て,エホバの崇拝者と交わるよう促されるのです。―啓示 18:4,5

1963年に先立つ10年間,ものみの塔協会は弟子を作るための視覚に訴える資料として近代的な映画を用いていました。そうです,1953年の国際大会の後に協会は「躍進する新世社会」と題する非常に興味深い映画を発表しました。それは,その時から約40年前に作製された「写真-劇」以来初めての,協会作製の映画でした。上映時間が1時間20分のこの映画は,神の地上の組織の大きさ,ベテル家族によってなされる膨大量の仕事,エホバの証人一般の活動,彼らの大規模な大会および新世社会が効果的かつ円滑に機能を果たしていることを見る人に知らせるうえですばらしい道具であることがわかりました。H・A・カントウェルは,「新しく関心を抱いた人に組織の大きさや規模を知ってもらうのを助けるすばらしい手段でした」と語っています。

「幸福な新しい世の社会」と「エホバの証人の神の御心国際大会」と題する映画は,1955年と1958年の大きな大会の後協会が発表したものです。神のしもべたちは,「神は死んでいる」という哲学に対抗する手段としても映画を用いました。1966年に協会は,「神は偽ることができない」と題する,非常に興味深いカラー映画を作製したのです。この信仰を築き上げる映画は,神が生きておられ,地球と人間に対するご自分の目的を成し遂げつつあることを証明していました。カラーの,印象的な図解が所々にそう入されているその色彩に富んだ映画は,観客が聖書に出てくる基礎的な事柄を思いに浮べたり,それらがわたしたちの時代にどんな意味を持っているかをつかむのを助けました。ひとりの人はこう語りました。「その映画がおもしろかったのは,特に,『神は偽ることができない』ことを証明するのに聖書の預言の成就となる歴史上の出来事が用いられていたからでした。たとえば,写し出された様々な廃虚は,神が偽らなかったことをすべての人に知らせることのできる生きた証拠です。それらを見て,わたしは,神が今日および将来に起こると言われている事柄に対して神は偽る方でないことをいっそう確信しました」。

1966年にものみの塔協会が作製したもうひとつの映画,「遺産」は,今日の若者が直面する様々な誘惑を扱っていました。といっても,アンジェロ・C・マネラ2世によると,その映画は「新世社会の若者が行なっている事柄や,彼らがそうした誘惑を克服してクリスチャンのとるべき道に従っている」ことを知らせるものでした。協会が近年作製した他の映画と違って,その映画には録音帯がついていましたから,多くのテレビ放送局から放映されました。ですから大ぜいの人々がその映画を茶の間で見ました。「遺産」はさらに巡回大会や他の公の集まりでも上映されました。

ここ数年,巡回監督は神の民の会衆を訪問し,公開集会でスライドのプログラムを催してきました。最初のスライドの上映は1970年9月から開始されました。「エホバの証人の世界本部を訪問する」と題するそのスライドは,正しい行動を取らせる仕方で人々に神の組織を知らせるよう企画されていました。上映されたもうひとつのスライド,「諸教会の実情をつぶさに見る」はキリスト教世界の諸教会が真理と正義を愛する人々の居る所でないことを観客に認識させました。また,それは偽りの宗教の世界帝国から離れたいという気持ちを起こさせただけでなく,他の人々が大いなるバビロンから逃れるのを助けるわざにあずかるよう観客ひとりひとりを促したことでしょう。これらは,聖書の教えを授けるための視覚による資料として巡回監督が行なったスライドのプログラムのほんの数例にすぎません。

今までにない感動的なもの

「今の時代に対するダニエルのことばに耳を傾けなさい」。読者は,1966年の「神の自由の子たち」地域大会のこのプログラムを覚えておられますか。出席者が話に耳を傾けていると,びっくりすることが起こりました。ダニエル,3人の忠実なヘブライ人,それにみ使いのことばまで語るいくつかの異なった声が拡声装置を通じて聞こえてきたのです。音楽が聞こえ,3人のヘブライ人はネブカデネザルがドラの平野に立てた金の像をおがむ最後の機会を与えられました。しかし,3人は自分たちの忠誠を断固として守り,おがむことを拒絶してエホバの救出を経験しました。―ダニエル書 3章

聖書の教えを授ける今までにない新しい方法が使われたのです。会場にいた聴衆は,自分たちがあたかも古代のバビロンへ移されたかのように感じました。「エレミヤの忍耐 ― 今日必要なもの」と題する劇も同様に感動的でした。出席者たちは,まさに,エレミヤの忍耐を「見」たのです。古代エルサレムにいたそのヘブライ人の預言者の生活と時代を描く衣装をつけた俳優たちによって,彼らの目の前で聖書劇が演じられました。劇的効果は音響により高められ,すべての出席者は,エレミヤを殺せと口々に叫ぶ群衆の中にひとり立つ彼の苦難と忠実さをいっそう深く知りました。その劇はエホバの崇拝者が自分たちの神に信頼を置かねばならないことをなんと強調していたのでしょう! また,聴衆は,死に面してさえ忍耐して神の奉仕を行なうべきことを心に深く銘記させられました!

ですから,1966年は画期的な事柄,つまり,神の民の大会で人々を教える新しい方法が採用されるようになった年でした。それ以来毎年,聖書劇はエホバの民の大きな大会で必ず行なわれています。そうした聖書劇は,しばしば,ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業式で学生たちが古代と現代の人物にふんし,前もって上演されてきました。

劇から受ける祝福や益について,ジェイムズ・W・フィルソンはこう語っています。「聖書劇は,聖書の記録の教訓と助言をわたしたちの心に銘記させるのに非常に役立っていると思います」。実際,ある人々は大会の劇に心を動かされて誤った行ないを告白し,霊的な援助を請いました。―箴 28:13。ヤコブ 5:13-20

神の王国を擁護し,他のいかなる政府をも支持しない

エホバのクリスチャン証人は神の王国に忠節を尽くしており,長年にわたってくり返しそのことを表明してきました。たとえば,四半世紀ほど前の1950年8月1日火曜日,すなわち,エホバの証人の増し加わる神権政治大会における「神権的専念の日」を振り返ってみましょう。ノア兄弟は,「増し加わるその支配」と題する講演の中で,エホバの証人が共産主義を支持しているという宗教上の敵からの非難が全くの偽りであることを暴露する証拠をたくさん示しました。アメリカ政府の様々な部門がエホバの証人を転ぷく計画者や共産主義に好意的な旅行者のリストに載せることを拒否したばかりか,1879年以来出版されたものみの塔協会自身の記録もエホバのしもべが共産主義に反対していることを明白に証明していました。ノア兄弟は,無神論の共産主義が台頭し発展する道を備えたのは真のキリスト教でなく,偽善的なキリスト教であることをはっきり示しました。その話の後,協会の会長は共産主義に反対する宣言と決議を提出し,8万4,950人の大会出席者はそれを熱意を込めて採択しました。

それから数年たった1956年6月から1957年2月にかけて開かれた,エホバの証人の199の大会でひとつの請願が46万2,936名の出席者により満場一致で採択されました。各の大会からそうした請願が当時のソ連首相ニコライ・A・ブルガーニンあてに送られました。その請願はロシアとシベリアでエホバの証人が受けているか酷な扱いを詳しく記しており,投獄されている証人を釈放し,組織を持つことを許可するよう願っていました。また,証人が統治体と正規の連絡を保つことを認め,聖書文書の出版と輸入を許可するよう求めていました。そしてその請願は,エホバの証人が行なっている王国を宣べ伝えるわざに注意を促し,政治的利害や背景をいっさい否定しました。さらに,ものみの塔聖書冊子協会の代表がソ連政府の代表と会談することを提議し,証人の代表者がその目的およびエホバの証人が抑留されている収容所を訪れる目的でモスクワに行くことを提案しました。

1957年3月1日,全部をまとめた請願がものみの塔協会の理事7人によって署名され,ソ連政府に送られました。共産主義者はこれを受け取ったことについて一言もせず,回答を寄せることもしませんでした。それにもかかわらず,ソ連のエホバの証人は,神の王国を擁護し,他のいかなる政府も支持しない者として神のみことばを大胆に語り続けてきたのです。

エホバの証人は神の王国を忠節に擁護するだけではありません。キリスト教世界の僧職者たちが神の王国を擁護していないことにも人々の注意を促してきました。1958年8月1日金曜日に,神の御心国際大会で,ある非常に重要な決議が神の民によって採択されたのはそのためでした。大会出席者は午後のプログラムに出席するようにと呼びかけられ,19万4,418人が集まりました。彼らは,ものみの塔協会の副会長,F・W・フランズの「この大会はなぜ決議を行なうか」と題する話を注意深く聞きました。続いてノア兄弟が登場し,キリスト教世界の僧職者が今日地上で最も非難すべき者であることを単刀直入に述べた決議を力強く提出しました。その決議文は,また,エホバの民の神権的な諸原則を再確認し,キリストによる神の王国こそ救いの唯一の手段であることを恥じることなく宣明し,エホバがハルマゲドンで証言のわざを終わらせるまでは手をゆるめずに愛と平和と一致を保ちながら神の王国を宣べ伝えるというエホバの証人の決意を表明していました。ノア兄弟は読み上げられたとおりの決議の採択動議を提案し,賛成を得ました。その後ノア兄弟が大聴衆に向かって決を採ると,「はい!」という賛成の声がいっせいに聞こえました。

やがてその決議文を載せた小冊子が53の言語で7,234万8,403部印刷され,その大半は1958年12月に全世界で配布されました。また同決議文および決議を紹介した話の全文が1958年11月1日号の「ものみの塔」誌(日本語では1958年12月1日号)に掲載された結果,その情報は広範囲に伝えられました。

そうした配布は効果がありましたか。まさに効果的でした。たとえば,ピーター・ドミュラは次のように書いています。「1959年の春にわたしはひとりの青年に会いました。彼は決議に心を動かされて真理を学ぶようになり,献身して,後には開拓奉仕を始めました」。また,C・ジェイムズ・ウッドワースはこう述べています。「エホバの献身してバプテスマを受けた証人として,ここオハイオ州クリーブランド市にある幾つかの会衆で現在活発に交わっている何人かの人々は,その決議を読んで聖書を学ぶ機会を捕え,大いなるバビロンから出るようになりました」。―啓示 18:4

エホバのしもべたちは,1963年の世界を一周する「永遠の福音」大会で,自分たちが神の王国の擁護者であり,他のいかなる政府も支持していないことを示す優れた機会を得ました。彼らはひとつの決議を熱心に採択したのです。その決議文は,彼らがエホバを宇宙のとこしえの至上者と認めていること,また,諸国家が行なってきたように,政治的な像である国際連合を偶像視して崇拝をささげることを拒絶することを明らかにしていました。そのような偶像崇拝を行なってきた諸国家は,目に見えない邪悪な霊者たちによってハルマゲドンに導かれています。(啓示 13:11-18; 16:14,16)一方,エホバの証人は,キリストのもとにある天使たちの助けと神の聖霊およびみことばの助けによって,神のメシアによる王国と裁きに関する「永遠の福音」をすべての人々に宣明することを決意していました。(啓示 14:6)その決議は,世界を一周する「永遠の福音」大会で45万4,977人によって採択された後,幾つかの全国大会でも採択されました。また,それは,66の言語で発行された1963年11月15日号の「ものみの塔」誌(日本語では1964年3月15日号)に載せられ,全世界に知らされました。

「私たちすべてはなぜ決議に参加すべきか」と題する紹介の話のついたその概括的な決議文は,啓示 16章の七つの災厄すべてを含んでいました。したがって,1922年から1928年にかけて開かれた神の民の大会で提出された七つの連続した決議と関係資料の中で最初に明らかにされた幾つかの裁きの音信が含まれていました。ですから,そのひとつの包括的な決議によって,それ以前の幾つかの決議の採択に参加していなかった大ぜいの人々は,啓示 16章に預言的に述べられているエホバからの災厄が注がれることに自分たちが賛同し支持していることを公に言明したのです。また,エホバのしもべたちは,自分たちが神の王国の擁護者であり,他のいかなる政府もしくは政治的取決めも支持していないことをふたたび明白に示しました。

1969年の「地に平和」大会では,「神との平和を妨げる敵に臨む最後の災い」と題する講演の中で啓示 8章から11章で述べられている七つの象徴的なラッパが鳴ることについての説明がありました。そのあと,創造者との平和は神のメシアによる王国によってのみもたらされることを強力に示した力強い宣言が行なわれました。エホバの民はその宣言を採択し,神の裁きがキリスト教世界に対するものであることを主張しました。彼らは,あらゆる政治的論争に対して完全に中立な立場を取ることを宣言し,また,自分たちが神の王国に全き信頼を置いていること,そして,終わりが来るまであらゆる国々に神の王国を弛まず宣べ伝えることを十分明らかにしました。

1973年6月下旬から1974年1月にかけて世界の様々な土地で開かれた「神の勝利」国際大会でも,エホバのクリスチャン証人は自分たちが神の王国の擁護者であり,他のいかなる政府をも支持していないことを示しました。ミナに関するイエスの興味深いたとえ話が,大会の講演のひとつ,「地の新しい王のために富を得る」と題する話の中で取り上げられました。(ルカ 19:11-27)話に続いて講演者は宣言と決議を提出し,大会出席者たちは大きな声で賛同を表わして,それらを採択しました。そこで特に指摘されていたのは,2,520年に及ぶ異邦人の時は,西暦607年に地上のエルサレムが荒廃した時から始まり,西暦1914年にイエスがメシアなる王として即位した「天のエルサレム」の設立をもって満期となったということでした。(ヘブライ 12:22)人類世界はさし迫っている「大患難」についてさらに警告を受ける必要があることも示されました。(マタイ 24:21)エホバのクリスチャン証人は,引き続き神の勝利に信仰を置き,その警告を発し続け,病める人類の万能薬である神のメシアによる王国を宣明し続けることを決議しました。

したがって,エホバのしもべたちが神の王国の擁護者であり他のいかなる政府も支持しないことは既成の事実です。彼らが世界にあまねく宣べ伝えているのは,その王国の良いたよりです。彼らは神のメシアによる王国に対する忠節を再三再四表明してきたのであり,今後も全地で表明し続けます。

時宜にかなって与えられる霊的な食物

エホバのクリスチャン証人は,神の王国の擁護者という立場をどのようにしてしっかりと保ってきたのでしょうか。また,他の人々が信仰を失っている時にどのようにして「堅く信仰に」立ってきましたか。(コリント第一 16:13)それが可能となったのは,エホバ神が「忠実で思慮深い奴隷」級を通し,時に応じて霊的な食物を豊かに備えてくださったからです。―マタイ 24:45-47

1960年代のことを例にとって考えてみましょう。当時,宗教的および社会的変化のあらしがアメリカ全土に吹いていました。キリスト教世界の僧職者の多くが聖書のいろいろな箇所を神話と見ることはいっそう普通になっていく時代でした。また,彼らは聖書の道徳規範を旧式であると考え,さらにある人々は,「神は死んでいる」と言っていました。

1960年代が進むにつれて,社会的,心理学的,政治的および経済学的な要因のために,アメリカでは人種上の騒動,さらには暴力ざたまでが起きました。たとえば,いわゆる1964年の“長くて暑い夏”には,アメリカ南部全体に不穏な状態があり,ミシシッピー州で3人の市民権運動家が殺されました。北部の諸都市も影響を受け,暴徒にゆさぶられた都市も幾つかありました。1965年8月11日から16日にかけて起きたロサンゼルスの暴動だけでも,暴徒による闘争,略奪,焼打ちのために35人が死亡し,損害は金額にして2億㌦(約600億円)に上ったものと推定されています。

そうした宗教的社会的混乱のあらしのさ中にあって,アメリカや他の国々のエホバの証人はエホバを信頼し,みことばを堅く守り続けました。一方,エホバは彼らが正しく導かれるように取り計らわれました。そのひとつに,エホバの証人は,1962年の「勇気ある奉仕者」地域大会で「『従いなさい』― だれに?」および「『上なる権威』に服従 ― なぜ?」と題する講演や関連した幾つかの話から大きな益を受けました。それら重要な情報は同年末に「ものみの塔」誌に掲載されました。(日本語では1962年11月15日号から12月15日号をご覧ください。)

ローマ 13章に述べられている「上にある権威」もしくは「高位の権力」は,エホバの許しによって現在責任のある立場についているこの世の政治的権威であることが明らかにされました。今日の神のしもべたちすべてに対して,政治的な上にある権威に相対的に服従し,地上の政府の法律で神の律法に反しないものを軽視してはならないことが勧められました。―ローマ 13:1-7。使徒 5:29

L・E・ルーシュは,「エホバはこの世の政治支配者との関係に対するなんと賢明な指示をわたしたちに与えてくださったのでしょう」と感嘆しながら次のようにつけ加えました。「1964年に市民権の問題が沸騰激化し,街頭で暴動が起きたり,暴力的また無抵抗主義的な市民の不服従が見られることなど,わたしたちにどうして知り得たでしょうか。……行進や抗議,その時の社会問題に関係していた僧職者と同様の考え方をしていたかもしれません。まさに時をたがえず,1962年の夏の大会で,わたしたちは『時に応じて食物を』与えられました。(マタイ 24:45)……相対的な服従が明確に説明されました。わたしたちはエホバに対する自分たちの立場,またイエス・キリストの王国の支配によって除き去られるまで神が存在を許しておられる政治権威に対する自分たちの立場をそれによって守ることができました」。

そうです,確かにエホバ神は霊的な食物を豊かに備えてこられました。比較的最近の数年間にものみの塔協会が発行した書籍を置いてある書だなをちょっとご覧ください! ダニエル書を扱った,1958年発行の「御心が地に成るように」があります。『その時,神の秘義は終了する』および「『大いなるバビロンは倒れた』神の王国は支配す」と題する本は啓示全体を節ごとに考察しています。1971年に発行された本,「『諸国民はわたしがエホバであることを知るであろう』― どのように?」ではエゼキエルの預言が扱われています。また,ハガイ書とゼカリヤ書に記されている回復に関する預言の成就は,「人類のために回復される楽園 ― それは神権政治によるもの!」と題する本の中で20世紀という有利な時点から考察されています。

おとなばかりでなく子どもも豊かな霊的備えを与えられました。1958年に,さし絵が豊富で平易な文章の「失楽園から復楽園まで」と題する本が出版されました。1971年には192ページの「偉大な教え手に聞き従う」が発表されました。それは親が子どもといっしょに読むように編集された本で,「世代の断絶」を避けることにさらに貢献しました! また,この本はやさしい文章で書かれ,優れたさし絵がついているので,子どもたちに『自分たちのため』の本だと感じさせます。

弟子を作ることに重点が置かれる

エホバの民が入手できるクリスチャンの出版物の中には,彼らが良いたよりを宣べ伝え弟子を作るという使命を果たすのを助けるよう特に考えられたものが幾つかあります。(マタイ 24:14; 28:19,20)1946年に初版が出た「神を真とすべし」はそのひとつで,聖書の基本的な教理を扱った手引書でした。ついで1950年には,「これは永遠の生命を意味する」が出版され,聖書のより深い論題とクリスチャン生活に関する情報が与えられました。1965年に発行された「神が偽ることのできない事柄」と題する416ページの本もあります。この本は,聖書の基礎的な研究の手引きとして,王国宣明者たちに大いに活用されてきました。

エホバのしもべは,宣べ伝え弟子を作るわざに必要なものを絶えず備えられています。C・W・バーバーは,1967年の地域大会を振り返りながら,彼が「革新的」と呼ぶものに触れて次のように語っています。「エホバの組織は新たな興奮と喜びをもたらすものを常に備えています。その時に備えられたのは,運動用の新しい種類の本,つまり『進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか』と題する布表紙の小型の本でした。……その本は1冊25㌣で提供されることになっていました。考え深い人なら同書に大きな関心を抱くことは,その発表当初から明らかでした」。

王国宣明者はこの本を野外の奉仕で幾百万冊も配布しました。1968年の5月中は同書が教育者の手に渡るよう努力が払われ,優れた結果が得られました。マリー・ギッバードはこう語っています。「12歳の生徒からその本を受け取り,引き続き関心を高められた,ニューヨーク市ホワイト・プレインズの一教師は現在バプテスマを受けた証人になっています」。

わざの前進に拍車をかけたもの!

1968年にはもうひとつの注目すべき新しい事柄がありました。「すべての国の民に対する福音」地域大会を発表した「ものみの塔」誌は次のように述べていました。「金曜日には皆さんを喜ばせると同時に驚かせるものが用意されています。なぜなら,それは今後わたしたちが行なうわざに多大の影響を与えるからです」。

エホバのしもべたちは強い好奇心を抱いていました。どんな新しい事柄があるのでしょうか。その答えは,「偽りの宗教のない世界にかんする『福音』」と題する力強い基調をなす話のあとに与えられました。その話が済むと,ポケット版で192ページの新しい聖書研究手引きが発表されたのです。「とこしえの命に導く真理」と題するその本は大きな喜びをもって迎えられました。この本の興味をそそる章の幾つかをあげると次のとおりです。「神とはだれですか」,「死んだ人はどこにいますか」,「神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか」,「今の邪悪な事物の体制の終わりの日」,「幸福な家庭生活を築く」,「真の崇拝 ― 生活の道」。この新しい出版物は常に研究生に考えさせます。

しかし,大会の出席者を驚かせたのはそれだけではありませんでした。新しい「真理」の本は,6か月間の聖書研究プログラムで用いられることになっていたのです。この出版物は研究生に考えさせる方法を取っているので,ふつう研究生はその本を終えるまでに真理の側に立つか,あるいは反対するかどちらかの行動を取ります。エホバの証人は,得た知識に基づいて行動して明らかな霊的進歩を示さない人と何年も聖書研究をすることをもはやしません。

時宜にかなった備え

1960年から1965年にかけて,1年間にバプテスマを受けた人の数は6万人台でした。ところが,1966年に受浸者数は5万8,904人に減少しました。そうした事情のもとで,ある人が,わざは停滞しているだろうかと考えたのももっともなことでした。しかし,そうでないことは時が明らかにしました。

1967奉仕年度には7万4,981人がバプテスマを受けました。これは上昇でしたから,楽観的な見方をする理由がふたたびできました。次いで1968年となり,「真理」の本と6か月間の聖書研究プログラムが発表されたのです。エドガー・C・ケネディは,「多くの人々は,(地上における人類生存の)6,000年が1975年に終わるという2年前の発表とそのこととが密接に関連していると考えました」と語っています。C・W・バーバーも同様に,1968年を「転換点」と呼びながら「時が短くて緊急なこと」に言及し,こう述べます。「どこでも兄弟たちは奮い立って,良いたよりを広めるこの『よりやさしい』方法に勢いよく取掛りました。伝道者の数は再び世界中で増加し始めました。耳を傾けた人々がわざを行なう者となり始めたのです。……小さいながらも強力なこの弟子を作るための道具を生み出す上にエホバの導きがあったことは確かです」。

「とこしえの命に導く真理」の本の発行部数は驚異的な数に上っています。同書は現在91の言語で発行されていることをご存じでしたか。さらに,初版が出てから6年間に7,400万部印刷されました。この聖書研究の手引きは,大ぜいの人々が聖書の正確な知識を得て「命のことばをしっかりつか(む)」のを助けました。(フィリピ 2:16)エホバの証人による人々との聖書研究では,「真理」の本だけが使用されているわけではありません。しかし,現在彼らが全世界の人々の家庭で司会している135万1,404件の家庭聖書研究の大多数は,まちがいなく同書の優れた聖書関係資料に基づいて行なわれています。

エホバの王国を告げ知らせる出版物の洪水

今日,神のメシアによる王国の良いたよりは全地で宣べ伝えられています。そのわざで大きな役割を果たしているのは,事実上洪水のように出版されるエホバの王国を告げ知らせる文書類です。「ものみの塔」誌を例に取ってみると,かつて「シオンのものみの塔」と呼ばれた同誌の創刊号(1879年7月に出された)の発行部数は6,000部ほどにすぎませんでした。1975年現在,毎号の平均印刷数は,79の言語で約900万部に上ります。

1879年以来,「ものみの塔」誌は名称や形式の点でいくらか変更されました。最初は「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」という名前でしたが,現在の表紙は,「ものみの塔エホバの王国を告げ知らせる」となっています。長年の間「ものみの塔」の表紙は白黒の印刷でしたが,1939年1月1日号から新たに色刷りの表紙が登場しました。当時の雑誌は現在のものよりページ数が少なく大版でした。エホバの証人の増し加わる神権政治大会で発表された,1950年8月15日号は,表紙のデザインが変わり,色彩に富んださし絵がついていて,ページ数も16ページから32ページに増えていました。「ものみの塔」誌は神権政治の拡大に貢献しましたか。確かに貢献しました。1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけてだけでも,28億3,604万1,443部の「ものみの塔」誌が発行されたことを知って,読者はきっと驚かれるでしょう。

「ものみの塔」誌の姉妹誌である「目ざめよ!」は「黄金時代」誌と「慰め」誌に代わって発行されている雑誌です。「目ざめよ!」誌は,1946年8月22日号をもって創刊されて以来,神の義の新秩序がまさに今の世代に設立されるという確かな希望を示してきました。この雑誌も,王国を告げ知らせる洪水のようなおびただしい数の出版物のひとつです。1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけて,なんと26億75万1,501部の「目ざめよ!」誌(と「慰め」誌)が印刷されました!

見過ごしてならないのは,エホバの王国を告げ知らせてきた大量の書籍です。その中には1973年に発行された「神の千年王国は近づいた」と題する本も含まれています。驚かれるかもしれませんが,1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけて,ものみの塔協会は本部や全地の他の印刷施設を使って3億5,251万3,470冊の書籍を印刷しました。

印刷施設の拡大

このように,聖書文書は増加の一途をたどったため,アメリカにあるものみの塔協会の印刷施設ばかりか,世界各地にある協会の印刷施設をも絶えず拡張する必要が生じました。協会がニューヨーク市ブルックリンのアダムス・ストリート117番にある近代的な耐火建築の施された鉄筋コンクリートの建物に移ったのは1927年のことでした。約6,300平方㍍の床面積を持つその建物は非常にゆとりがあるように見えましたが,王国を宣べ伝え,弟子を作るわざの促進に伴い,協会の諸施設を拡張することが必要になりました。

1946年8月8日,ノア兄弟は喜びを抱く国々の民の神権的大会の席上でその点に関して大きな処置を講じることを明らかにしました。ブルックリンの協会の印刷工場とベテル・ホームが拡張されることを聴衆に発表したのです。かくして,もとあった工場に隣接した土地家屋が購入され,中をからにしてから取り壊されました。新しい工場の基礎工事は1948年12月6日に始まり,建築は1949年1月に開始されました。増築されたその9階建てのコンクリートの建物が完成すると,工場の床面積はほぼ2倍の広さになりました。1950年までにアダムス・ストリート117番の協会の印刷工場は市の一区画全部を占めました。

1954年中にものみの塔協会はペンシルバニア州ピッツバーグのビゲロー・ブルバード4,100番に新しい建物を完成しました。グラント・スーターによれば,「その建物は登録した事務所であるばかりかペンシルバニア法人の年次総会の中心施設であり,中には王国会館もあって」エホバの証人の幾つかの会衆が使用しています。1974年5月4日に至るまで長年のあいだ,王国宣教学校のひとつもそこで開かれました。

1950年代の半ばまでに王国を宣べ伝えるわざは急速に拡大していました。それより数年前の1944年に,協会は「ものみの塔」と「慰め」(現在の「目ざめよ!」)誌を1,789万7,998部印刷しました。ところが,1954年の発行数は合計5,739万6,810部に上りました。ですから,ニューヨーク市ブルックリンの協会の諸施設を拡張することはどうしても必要だったのです。それで,1955年の春までに新しい工場の基礎工事が始まり,1956年には13階建ての工場が完成しました。「ワッチタワー・ビルディング」と呼ばれたサンズ・ストリート77番にあるこの建物は,陸橋で結ばれているアダムス・ストリート117番の工場よりも広く,1万7,280平方㍍の床面積を持っています。1958年に協会は隣りの区画にあった9階建ての工場を取得しました。そこはもっぱら倉庫に使われています。

王国宣明者の数は1960年代の半ばまでに全世界で百万人を超えました。協会のブルックリン工場はまたもや手狭になったため,1966年から,それまでの工場に隣接した区画でもうひとつの大きな工場の建築工事が始められました。その11階建ての建物が1968年1月31日に献堂されたことにより,ものみの塔工場には約2万平方㍍の床面積が増えました。その時までに,協会のブルックリン工場の建物はそれぞれ陸橋でうまく連結され,市の4区画を占めていました。

1969年の末には拡張の度は目ざましい伸びを見せました。その年の11月25日に,ニューヨークのものみの塔聖書冊子協会は,ブルックリンにある十の建物から成る巨大なスクイブ製薬工場を取得しました。これによって5万6,951平方㍍の床面積が,エホバの証人の本部施設に加えられたことになります。C・W・バーバーは数年前にスクイブ工場の建設工事の一部を見たことを思い出します。エホバの組織はちょうどそこの土地を手に入れようと努めたのですが,スクイブ会社がそこを取得することに成功しました。バーバー兄弟によれば,「その土地はひどい砂地だったので,スクイブは建物の支持層を見つけるのにたいへん苦労しました」。彼はこうつけ加えます。「彼らはとうとう外観の立派な一群の建物を建てました。わたしはかねがねそれらの建物が協会のものだったらどんなによいだろうと考えていました。そしたら,どうでしょう,そのとおりになったのです!」

拡大を続けるベテル・ホーム

ブルックリンにあるものみの塔協会の工場施設の拡大に伴い,ベテル・ホームをそれ相応に拡張する必要がありました。それで1950年に12階の建物が増築されました。しかし,本部職員は引き続き増加したため,1958年12月8日には,予定されたベテルの付属家屋の敷地にあった建物,すなわちブルックリンのコロンビア・ハイツの建物を取り壊す作業が始まりました。建設工事は1959年に始まり,ほどなくして増築部分である12階の建物が完成しました。献堂式は,その新しい建物にある美しい王国会館で1960年10月10日,月曜日の夜に,ベテル家族や建設工事に関係した兄弟たち合わせて630人の出席者を得て行なわれました。本部職員そのものも1950年の355人から1960年の607人に増加していました。

ベテル・ホームのある場所,すなわちブルックリン・ハイツ地区は,1965年にニューヨーク市で初めて「歴史的地域」と命名されました。協会は12階建ての宿舎をもうひとつ建てたい意向でしたが,史跡委員会に協力して建築を制限しました。三つの古い建物の正面は保存され,7階建ての家がそれら三つの建物の背後に隠された形で建て接がれました。コロンビア・ハイツ119番にあるその新しい建物の献堂式は1969年5月2日に行なわれました。その隣りにある大きなアパートもエホバの証人が所有し,その大部分は本部職員の宿舎に使われています。ところで,1970奉仕年度の終わりまでに,ベテル家族(ブルックリンと協会の農場の正規奉仕者および一時的な奉仕者を含む)は1,449人に増えました。それに加えて,当時本部ではギレアデ学校の生徒70人が生活していましたから,その合計は1,519人になります。そのように多くの人々を収容する一助として,協会は近くにあるタワーズ・ホテルの三つの階を借り切りました。

拡大は続く

しかし,諸施設の発展はそこで止まりませんでした。グラント・スーターはこう語ります。「1964年に,協会は,ものみの塔ギレアデ聖書学校がかつて使用した建物を含む,(ニューヨーク州のサウス・ランシングの近くにある)王国農場の土地家屋の一部を最終的に売却する処置を取りました」。数年後にその売却は完了し,農場は縮小されました。

一方,ニューヨーク法人のものみの塔聖書冊子協会の理事会はニューヨーク州パイン・ブッシュ付近の農場施設を取得しました。広さが約327万6,440平方㍍のもとの農場は1963年に入手され,ものみの塔農場として知られるようになりました。そこには1968年に立派な宿泊施設が完成しました。やがてその付近でもうひとつの農場が取得されました。現在ふたつのものみの塔農場の広さは約6.86平方㌔に及びます。

ものみの塔農場では,協会の本部職員の食料となる野菜,くだ物,肉,酪農製品が生産されています。さらに,第一農場にはふたつの工場があって,第一工場には毎時1万2,500冊の雑誌を印刷することのできる輪転機が4台あります。第二工場には紙の倉庫や他の多くの設備のほかに14台の輪転機を設置できる十分の広さがあります。そこではすでに6台の輪転機が作動していますから,ふたつの工場にある輪転機は合計10台になります。完成のあかつきには,ふたつの工場の床面積は約3万6,000平方㍍になります。1974年10月までに,正規および一時的な働き人を合わせて460名を超す人々がものみの塔農場で奉仕していました。

ものみの塔協会はアメリカにある協会の印刷施設を拡張しただけではありません。拡大は世界中で合言葉となってきました。現在エホバの証人の印刷工場がある国はオーストラリア,ブラジル,カナダ,英国,フィンランド,フランス,ドイツ,ガーナ,日本,ナイジェリア,フィリピン諸島,南アフリカ,スウェーデンおよびスイスです。実のところ,エホバの民は全世界に37の印刷所を有しています。そして1955年から現在までに,彼らが世界各地に持つ大型の輪転機の数は9台から64台に増加しました。確かに,増大の一途をたどる聖書文書の需要を満たすのに,印刷施設は役に立ちます。

世界中でこのような拡大が見られたのはなぜですか。エホバの組織内でしかるべき決定をする責任を持つ人々が,聖書の知識を得るよう人々を助けることに関心を持っているからです。あなたもそれを目指しておられますか。あなたがエホバのクリスチャン証人であれば,そうであるに違いありません。本部の職員たちも同様の願いを抱いています。そうであるからこそ,彼らは聖書文書の生産に勤勉に従事してきました。彼らが力を合わせた結果,1974奉仕年度中にアメリカだけで,小冊子1,387万4,957冊,聖書および書籍4,518万9,920冊,冊子2億6,138万7,772冊が生産されたほか,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が合わせて2億6,850万9,382冊印刷されました。

こうした神権的な拡大のすべてに対する誉れはだれに帰されるべきですか。これは単なる人間の計画や誠実な努力の結果ではありません。誉れは,物事を成長させる神に帰されるべきです。神こそは,王国の良いたよりを宣べ伝える人々の努力を栄えさせた方です。―コリント第一 3:5-7

神の指導を受けた1世紀の跡をしるす

チャールズ・テイズ・ラッセルと数人の仲間が祈りを込めたまじめな聖書研究の集まりを開くようになってから,1970年までに,1世紀が経過しました。その全期間を通して,エホバのしもべは霊的な啓発と神の導きを享受してきました。80代のエディス・R・ブレニスンは,その年月の相当期間エホバの組織と交わってきました。彼女は1970年の「善意の人々」地域大会のひとつに出席して深く感動しました。ブレニスン姉妹は次のように書いています。「ボストンで開かれた1970年の大会に出席して,フェンウェイ・パークのあの大ぜいの群衆を目にした時,わたしは1902年にボストンのパーク・スクウェアにおける最初の1日大会に出席し,ラッセル兄弟の講演を聞いたことを思い出しました。それはほんとうに少数の集まりに過ぎませんでした。ついでですが,わたしが初めてマクミラン兄弟にお会いしたのはその大会です。68年後にボストンにおける大会会場の席にすわり,自分のまわりにあのような大ぜいのエホバの証人を目にした時のわたしの感慨は言い表わすことができません。ほんの少数しかいなかった昔におけると同様の聖霊,エホバに対する熱意と愛がわたしたちの心にあふれていました」。

その大会で司会者が行なった開会の話は,「100年におよぶ神の指導」と題するものでした。「その話から,1870年代の組織のこと,その小さな始まりや過去100年間の信じられないほどの成長など,組織についてそれまで読んでいたことを振り返ることができました」とマーガレット・グリーンは回顧しています。―ゼカリヤ 4:10と比較してください。

神の指導に服する

エホバのしもべは神の導きに服し続けることを決意していました。彼らは,1971年に開かれた5日間にわたる「神のお名前」地域大会でそのことの明らかな証拠を示しました。その大会はエホバというお名前を賞揚し,そのお名前によって代表される神の諸原則に従うことに関する教育を施しました。とりわけ,現代のクリスチャン会衆がより神権的に整えられることに関する情報が与えられました。

しかし,1971年の地域大会で明らかにされた幾つかの組織上の発達を考える前に,過去を振り返るのはよいことです。非常に注目すべきことが1930年代の末と1940年代の初めに起きました。最初に30年ほど前にさかのぼりましょう。

「成年に達した神権政治」

1944年9月30日から10月2日までの3日間はエホバの民にとって非常に重要でした。エホバの証人の神権政治大会とものみの塔聖書冊子協会の年次総会に出席するため,大ぜいのエホバの証人がペンシルバニア州のピッツバーグに参集しました。大会の興味深いプログラムの中には,T・J・サリバンによる「最終的なわざのための神権組織」,F・W・フランズの「活躍する神権組織」およびN・H・ノアによる「今日の神権的路線」と題するそれぞれの講演がありました。それらの講演の主題は同年の年次総会で取り扱われる業務の重要性を強調しました。したがって,何千人もの人々は1944年10月2日,月曜日に開かれるものみの塔の業務総会に出席するためピッツバーグにとどまりました。

「わたしがバン・アンバーグ兄弟とお会いしてことばを交わしたのはその時が最後でした。彼はわたしを見て開口一番,『ペレ兄弟,神権政治は成年に達しましたよ』と言われました」とW・L・ペレは語ります。ところで,協会のその高齢の会計秘書はなぜそのようなことを言ったのでしょうか。それは,その機会に見られた幾つかの進展によります。

最も重要だったのは,ものみの塔協会の定款を6か所修正する決議が通過したことでした。第一修正条項決議は,協会の目的を敷衍して,前途の世界的大規模なわざを正しく取り扱えるようにすることを提案したものでした。とりわけ,その修正条項は神の名前エホバを同定款に挿入するものとなりました。第三修正条項は,協会の会員としての資格を協会に対する金銭的寄付額に基づいて付与することを定めた従来の定款の規定を全く廃しました。それが実施されると同時に,協会の会員は500人以下に限られることになり,会員はすべてエホバに対する活発な奉仕に基づいて選ばれることになりました。「ものみの塔」誌1944年11月1日号はこう述べました。「この修正条項は国の法律が許すかぎりにおいて定款を神権的取決めに近づける効果をもつものとなるであろう」。六つの修正条項決議(第二,三,五,七,八そして十条に関する)はみな採択されました。

エホバの民は当時それに気づいてはいませんでしたが,彼らが1944年に組織に関して行なった事柄は明らかに聖書的な意味を持っていました。ダニエルの預言は,2,300の「夕と朝」つまりその日数だけ,象徴的な「小き角」(英米二重世界強国)がイエスの地上にいる油そそがれた追随者によって代表される「聖なる場所」を踏みにじることを予告していました。(ダニエル 8:9-14)それは第二次世界大戦中に起きました。

予告された2,300日の始まりには,「組織」と題する2部からなる記事が「ものみの塔」誌(1938年6月1日号と6月15日号)に掲げられました。第一部ではこう述べられていました。「エホバの組織は決して民主主義的なものではありません。エホバは至高のかたであり,その政府もしくは組織は全く神権的なものです」。第二部には,エホバの証人の諸会衆が採択した決議,すなわちすべての会衆の役員を務めるしもべたちは上から下までみな神権的に任命されるべきことを要求した決議が載せられました。

1938年6月1日から計算した場合,2,300日の終わりは1944年10月8日でした。また,1938年6月15日から計算した場合,それは1944年10月22日でした。その期間の終わりに際し,1944年9月30日から10月2日にかけてペンシルバニア州ピッツバーグで開かれた大会と年次総会で,組織に関する講演や調整が行なわれ,神権組織のことが再び強調されました。また,神権組織に関する記事が,1944年の「ものみの塔」誌(英文)の10月15日号(「最終的なわざのために組織される」)と11月1日号(「活躍する神権組織」と「今日の神権的路線」)に載せられました。したがって,試練の時となった2,300日が終了するころ,彼らはキリストによるエホバの神権政府を支持する点で以前にもまして強力な者であることを示しました。予告されたとおり,「聖なる場所」はその時「その正当な状態に回復され」たのです。―ダニエル 8:14,改訂標準訳。日本語の「ものみの塔」誌1972年3月1日号,135-152ページをご覧ください。

使徒的な会衆の機構

さて,1971年の「神のお名前」地域大会に話を戻しましょう。特に重要だったのは,初期のクリスチャン会衆の統治体の取決めを扱った幾つかのプログラムでした。

近年,エホバの証人の統治体は,聖書にかなった使徒的な会衆の機構に関する研究を行なってきました。そして,今日いくつかの調整をしなければならないことが明るみに出ました。近代においてそれまでの何年間,ひとりの円熟したクリスチャン男子が会衆のしもべ,もしくは主宰監督として奉仕し,任命された「しもべたち」がその人を補佐していましたが,使徒たちは各会衆を長老たちの一団によって管理しました。(使徒 20:17-28。テモテ第一 4:14)さらに,西暦1世紀に会衆の長老たちの一団には明らかに交替制が敷かれていました。したがって,会衆にふたり以上の長老がいる場合,長老たちの一団の司会者が毎年交替するのはふさわしいと考えられました。

長老と奉仕のしもべを選出する

エホバの証人の統治体は,「長老たちの一団」と奉仕のしもべたちの選出に関して益となる手紙を各会衆に送りました。1971年12月1日付のその手紙によれば,会衆内のバプテスマを受けた20歳以上の男子全員が対象とされました。(エズラ 3:8をご覧ください)長老たちと奉仕のしもべたちに関する討議に参加した兄弟たちは,1971年11月15日号の「ものみの塔」誌(日本語では1972年2月15日号)に掲載された,「民主主義政体と共産主義のまっただ中における神権組織」,「神権組織内の任命された役員たち」,「交替制の司会者職をもつ『長老たちの一団』」と題するそれぞれの記事を研究して十分に下調べを行ないました。加えて,「ものみの塔」誌1972年1月1日号(日本語では同年4月1日号)の,「あなたがたの間で賢くて理解があるのはだれですか」および「神の羊の群れを牧すべく任命された長老たち」と題する記事の注意深い研究も行なわれました。さらに,兄弟たちは,時間の許す範囲で,「聖書理解の助け」という出版物の「年長者」,「監督」および「奉仕者」の項を読みました。

会衆の委員と資格のある他の兄弟たちの会合では祈りがささげられました。彼らは,なかでも,神のみことばのテモテ第一 3:1-10,12,13; テトス 1:5-9およびペテロ第一 5:1-5に述べられている,長老たちと奉仕のしもべたちの資格を読んで検討しました。R・D・カントウェルはこう語ります。「初めてほんとうの意味で自分を直視したという人は少なくありませんでした。そして,自分自身と他の人々を評価する点でエホバの前に正直でなければならないということを全員が強く感じました。数名の人が資格を失わなければなりませんでした。この取決めは正直さと謙そんさを明らかにしました。組織に関する聖書の原則についての理解がこれほど深まらなければ,そのように明らかになることはなかったでしょう」。(とはいえ,その時より何十年も前でさえ,聖書の諸要求が,会衆の責任をになう人々を決める根拠とされていました。「エホバの証人のための神権組織に関する助言」〔英文〕の19ページ,および「親密一致の伝道」〔英文〕の26ページをご覧ください。)

会衆の兄弟たちの資格が分析された後,最終的に推薦状が統治体に送られました。1972年8月1日が過ぎると,監督と奉仕のしもべの任命状がそれぞれの会衆に送られるようになりました。

神の支配権を認識する

エホバの民はこうした組織上の取決めの完全な履行を心待ちにする一方,アメリカ,カナダ,英国諸島のエホバの民は,6月下旬から8月末の間にそれぞれの土地で開かれた,1972年の「神の支配権」地域大会に出席しました。その大会で,神の支配権に主要な注意が向けられました。

大会で発表された重要な出版物のひとつは,「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」と題する192ページの本でした。同書はとりわけ,クリスチャン会衆の機構上なされた幾つかの改善の要点を述べていました。「組織」の本と大会のプログラムが相まって,そうした再組織の実際的な側面が幾つか指摘され,またそれらを実施する方法が実演によって示されました。

その地域大会では,「神の支配権 ― 全人類に唯一の希望を与えるもの」と題する講演が行なわれるなど,神の支配権を認めることが強調されました。出席者たちは,とこしえの命を得るためには個人としてエホバの支配権を認めなければならないことを認識しました。とはいえ,新しい「組織」の本および様々の特筆すべき大会プログラムは,会衆として神の支配権を認めることの重要性を強調していました。

統治体は手本を示す

ところで,これから時計を1971年9月13日,月曜日の朝に戻すことにしましょう。7時,ものみの塔協会の本部職員は,ブルックリン・ベテル・ホームの幾つかの場所にある食堂の各人の席に着いています。これから,朝食に先立っていつも行なわれる日々の聖句の討議が始まるのです。協会の会長が本部にいる時には,通常彼が日々の聖句の討議を司会するのがそれまでのしきたりでした。きょうノア兄弟はベテルにいますが,食卓の上座にいません。かわりに,協会の副会長F・W・フランズはその討議の司会をしています。どうしたのでしょうか。エホバの証人の統治体は,朝の日々の聖句の討議と月曜日の夜に行なわれるベテル家族の「ものみの塔」研究の司会を統治体の成員が毎週交替で行なう取決めを設けたのです。

こうして,ブルックリンのベテルでは,神の民の諸会衆全体でそれが実施される1年前に交替制が行なわれるようになりました。しかし,それだけにとどまらず,別の取決めも設けられました。1971年9月6日にエホバの証人の統治体が採択した決議によれば,統治体の司会者はアルファベット順に毎年交替することになりました。したがって,F・W・フランズは1971年10月1日から1年間統治体の司会者になりました。適切にも,統治体は組織上の新しい取決めを実施する手本を示しました。

「これは神が行なわれることです」

長老と奉仕のしもべたちを定めた組織上の新しい取決めについて,ロジャー・モルガンは考え深げに,「これは神が行なわれることです」と言いました。その結果として及ぶ数々の益を考えたなら,他の人もそれに同意するに違いありません。最初の交替は1972年9月から実施されるようになり,10月1日までにほとんどの会衆は事情の調整を終えました。多くの場合,以前会衆のしもべの補佐をしていた人が主宰監督になり,それまでの会衆のしもべは神権宣教学校の監督となるという具合に責任が移行されました。それは,クリスチャンたちがエホバの支配権,ご自分の民の会衆に対するエホバの物事のやり方を認めていることの証拠でした。会衆の長老たちは毎年それぞれの立場を交替します。彼らは,自分たちに割り当てられた神の羊を牧するには互いに協力しなければならないことと会衆の霊的福祉とを念頭に置きつつ,一団となって働きます。―ペテロ第一 5:2

組織上の新しい取決めの益はたくさんあります。たとえば,エドガー・C・ケネディは,「万一会衆が統治体としばらくの間切り離された場合」,その取決めによって「団結をいっそう強めることができる」と感じています。また,グレース・A・エステプは,「これがエホバの組織の著しい前進であることは間違いありません。また,それは,神が今の事物の体制の後に来る時代に対する十分の備えをご自分の民に施しておられることを示しています」と語ります。「ものみの塔」誌は,1972年の地域大会の報告の中で次のように述べましたが,それには十分の理由がありました。「確かにエホバは,集めたご自分の民が組織として,神の支配権の下にハルマゲドンを切り抜け,神の新秩序にはいれるような状態に彼らを導いておられます」。

「神の勝利」国際大会

エホバのクリスチャン証人たちは,彼らが神の指導に服し,神の支配権に喜んで従う証拠を十二分に示してきました。1973年6月末から1974年1月にかけて開かれた,世界を一周する国際大会は,彼らが神の勝利を待ちわびていることを明らかに示すものでした。世界的な催しとして,だいたい5日間にわたる多くの大会が,アメリカ,カナダ,ヨーロッパ,アジア,中南米,南太平洋およびアフリカの各地で開かれました。神の民の大ぜいの人々は遠方の国々に旅行し,行った先々で霊的に築き上げる大会のプログラムを外国の仲間の信者とともに楽しみました。多くの場合,催しが行なわれたのは日中だけでしたから,出席者は早く宿舎へ帰ることができましたし,夜出歩くのが賢明でない地域での夜間の通行も避けられました。夜の時間は,たいてい,大会で見聞きした顕著な事柄を思い返すことに当てられました。

この大会における数々の特筆すべき優れたプログラムの中に,「エホバの日の臨在をしっかりと思いに留めなさい」と題する興味をそそる講演がありました。その講演は,クリスチャンがエホバの日を思いの中でおくらせるべきでないことをなんと力強く示したのでしょう! 悪化する世界情勢,長老たちと奉仕のしもべたちの取決めを含む神権組織上の諸発展,そして,「大群衆」を構成する人々が流れのように速い勢いで集まってきていることは,エホバの日が近いことを示しています。(ペテロ第二 3:11-13。啓示 7:9)その示唆に富む講演に続いて,「真の平和と安全 ― どこから得られるか」と題する192ページの本が発表され,大いに喜ばれました。

大会で発表された出版物の中には,「新世界訳聖書総合語句索引」(英文)と416ページの「神の千年王国は近づいた」という本が含まれていました。実に心を慰められたのは,「神の勝利 ― 苦悩する人類にそれが意味するもの」と題する公開講演でした。大胆にも,神の勝利をもってエホバがご自分を立証されるハルマゲドンの宇宙戦争にもっぱら注意が向けられました。「人の住む全地の王たち」は汚れた霊感の表現に駆り立てられて,全地の支配権をめぐる神との戦いに集められています。(啓示 16:13-16)したがって,人はその論争のいずれか一方の側を取らねばなりません。王の王であるイエスの側にいる人々だけが救われます。その人々だけが神の勝利の目撃証人となって,勝利の祝いに加わります。

1973年の6月と7月中にアメリカ全土の19か所で開かれた「神の勝利」国際大会で,1万5,851名の人々が水によるバプテスマを受けてエホバ神への献身を象徴しました。それらの大会に合計66万5,945人が参集して,エホバがご自分の民のために備えられた豊かな霊的祝福を享受しました。全世界では140の大会が開催され,合計259万4,305人が出席し,8万1,830名がバプテスマを受けました。勝利者であられる神に感謝をささげる十分のいわれがあるではありませんか!

特別なわざが増加に拍車をかける

ところが,「神の勝利」国際大会にはもうひとつの非常に重要なことがありました。それより数か月前に,大会のプログラムは王国を宣べ伝え,弟子を作るわざにかなりの力点を置いている,ということが「ものみの塔」誌上で述べられました。それにはさらにこう書かれていました。「特別なわざについての説明と実演があります。全世界のエホバの証人の全会衆は,大会後の定められた期間中そのわざにあずかります」。この特別なわざとは何でしたか。

その答えは,「武力衝突によらないで世に対する勝利を得る」という基調をなす話が終わった後に与えられました。その時,「人類にとって時は尽きようとしていますか」と題する4ページの冊子,「王国ニュース」第16号が発表されたのです。12歳以上で,それを配布することに関心のあるすべての聴衆に,その冊子が8部ずつ無料で与えられました。9月21日から30日までの10日間が同冊子の配布期間である,と講演者は発表しました。戸別に人々を訪問してそれらを直接手渡し,家の人が留守の場合は戸の下に置いてきます。ものみの塔協会はその冊子をひとりの伝道者につき100枚の割合で各会衆に送ることになっていました。すべての家庭に1枚ずつ配られることが望まれました。そうすれば,何百万部もの冊子の無料配布が確実に達成できます。エホバの民は王国を宣明するためのその特別なわざを将来行なうことに大きな喜びを抱きました。

こうして,他の土地におけると同様,アメリカでもエホバの証人は1973年9月末の10日間に「王国ニュース」第16号を何百万枚も配布しました。また,同年の12月22日から31日にかけてふたたび「王国ニュース」の大々的な配布に携わりました。このたびは,「宗教は神と人を裏切ってきましたか」という質問を投げかけ,その答えを示した第17号でした。1974年5月3日から12日までは,「神による政府 ― あなたはそれを支持していますか。あるいはそれに反対していますか」という非常に重大な質問を取り上げた「王国ニュース」第18号を携えて再び区域を網らしました。

神のみことばの真理を知っている多くの人々は,「王国ニュース」の配布に参加して他の人々と良いたよりを分かつよう心を動かされてきました。1973年の9月中に(アラスカとハワイを除く)アメリカでは,なんと51万2,738人の王国伝道者がこのわざに参加しました。そして,報告によれば,「王国ニュース」第16号が4,332万48枚配布されました。12月には,そのちょうど1年前に野外奉仕に携わった伝道者数より10万3,112名も多い,合計52万5,007人という驚くほど大ぜいの人々が,「王国ニュース」第17号を配布しました。さらに,1974年5月には,53万9,262人の働き人が野外奉仕に携わったのです!

幾つかの経験は,「王国ニュース」の配布が弟子を作るわざを確かに促進したことを示しています。たとえば,ふたりの伝道者はある紳士に1枚の「王国ニュース」を手渡して立ち去りましたが,あとからその人に呼び止められました。彼の家に引き返すと,その夫人に迎えられました。彼女は「とこしえの命に導く真理」という本をごみ箱でみつけて持っていました。そして,その本が述べていることが成就しているのを知って,ずっと眠られませんでした。それで聖書研究が始まり,婦人はクリスチャンの集会に定期的に出席するようになって,後に「王国ニュース」の配布に参加し,バプテスマを受ける計画をするところまで進歩しました。

長い髪をし,たばこを吸ったり麻薬を飲んでロックンロールの楽団で演奏をしていたふたりの実の兄弟は,1枚の「王国ニュース」によって関心を呼び起こされました。まもなく,そのふたりは,冊子を配布した証人と聖書を学んでいました。髪を切り,たばこや麻薬をやめ急速な霊的進歩を遂げました。そして,1枚の「王国ニュース」を受け取ってからわずか3か月で野外奉仕に携わり,「王国ニュース」の次の号を他の人々に配布しました。ふたりとも1973年の12月にバプテスマを受け,その後まもなく一時開拓奉仕のわざを楽しみました。

「大群衆」を集める

使徒ヨハネは,すべての国民と部族と民と国語の中から来た「大群衆」が神のみ座の前に立ち,神の神殿で昼も夜も神聖な奉仕をささげているのを見ました。(啓示 7:9,15)地的な希望を持つそれらの人々は,イエス・キリストの油そそがれた追随者たちが神から与えられた,王国の良いたよりを宣明するというわざを行なって彼らを助けてきました。その結果,幾千幾万もの人々が流れのように「エホバの家の山」につくのを見るのはなんと感動的なことでしょう!―イザヤ 2:2-4

「エホバの家」の中庭に集まったそれらの人々はエホバ神に献身し,そのことを水のバプテスマによって象徴しました。1958年7月30日のこと,ニューヨーク市で,「神の御心に従うバプテスマ」という話に続いて7,136名の人々が浸礼を受けました。それは西暦33年のペンテコステ以来の出来事でした。(使徒 2:41)1958年に行なわれたそのバプテスマは確かに世間の人々が無視することのできない事柄でした。その証拠に,H・L・フィルブリクは最近このように書きました。「大ぜいの人々がバプテスマを受けている場面の,とても良い写真が新聞に載りました。……新聞の読者はだれも,もはやエホバの証人を小さな『宗派』であると見なすことはできないと感じざるを得ませんでした。真理は進行していたのです!」

エホバの民は単なる数に関心を払ってきたのではありません。たいせつなのは,バプテスマ希望者が自分たちの行なっている事柄を理解していることです。ですから,1967年に「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する本が発表された時には大いに喜ばれました。その本の7ページから40ページには,円熟した兄弟たちがバプテスマを希望している人々と討議するための,聖書に関する80の質問が載っていました。アール・E・ネウェル兄弟と姉妹は次のように述べました。「会衆の委員の援助で80の質問を学ぶと,彼らは献身とバプテスマが一生涯歩むべき道であり,それに伴う責任を軽く見るべきではないことを認識しました」。もっと最近になって(1972年)出版された「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」という本にも,バプテスマを受けることを考えている人々と討議するための聖書に関する質問が載っています。会衆のいろいろな長老たちは,各人とのそうした討議を司会するので,バプテスマを考慮している人々は,聖書に関する自分の考えを言い表わし,エホバ神との関係をよく考える機会が与えられます。このような取決めは真の弟子を作ることに貢献しました。

弟子を作り,バプテスマを施すことがどのように増加したかを少し考えてみましょう。1968年にバプテスマを受けた人は8万2,842人でした。1969年から1973年にかけて79万2,019人がバプテスマを受けました。「大群衆」を集める努力は引き続き熱心に続けられ,毎年何万人もの人々がバプテスマを受けています。1974奉仕年度だけでも,実に29万7,872名の人々が浸礼を受け,エホバ神への献身を象徴しました。エホバの賛美となるこのすばらしい集めるわざにあずかれるのは,神の民にとってなんと心の躍ることでしょう! 今日,神の王国の良いたよりを伝道するエホバのクリスチャン証人は二百万人を上回ります。

「ずっと見張っていなさい」

イエス・キリストは,弟子たちを,自分が外国旅行から帰るのを見張っているようにと主人から命令された戸口番になぞらえ,邪悪な事物の体制に対して裁きを執行するためにご自分が到来するのを油断なく見張っていなければならないことをご自分の追随者たちに強調されました。イエスは賢明にも,「ずっと見張っていなさい」と忠告されました。―マルコ 13:32-37

「神の目的」地域大会は,エホバのクリスチャン証人が緊迫感を抱き,霊的にしっかりと見張る態度を取るのに大いに貢献しました。1974年6月から8月にかけて,アメリカ全国,カナダおよび英国諸島で85に上るそうした大会が開催されました。それらの集まりを通して,神の民は自分たちが時の流れのどの時点に生活しているかを認識するよう間違いなく助けられました。

三つの感動的な聖書劇は強力な教訓を与えるものでした。出席者たちは,エジプトの束縛から逃れて荒野をさまよっているイスラエル人に注目しつつ,信仰の欠如に対して警戒する必要を劇を通してはっきり学びました。もうひとつの劇は列王紀略上 13章に基づいたもので,神の権威に耳を傾けないとどんな危険があるかを示していました。さらに,使徒パウロの生涯とクリスチャンとしての彼の数々の業績を描いた劇はなんと心を打つものだったでしょう。その劇を見た人々は,エホバ神への崇拝と奉仕に対する新たな熱意に満たされました。

物質主義,悪霊の影響,また偽りの宗教に食い物にされることといった事柄に対してどのように身を守れますか。答えは,「エホバに堅く結び付いた信仰と希望によって保護される」と題する感動的な講演の中で与えられました。その話に続いて,「今ある命がすべてですか」という192ページの新しい本が発表されました。この本は偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンに強烈な打撃を与え,さらに,今の命がすべてではないことを信じる十分な理由を読者に提供しています。これは,神の義の新秩序における命と復活というすばらしい希望に対する信仰を築く本です。

イエス・キリストの油そそがれた追随者たちと,地的な希望を持つ彼らの仲間は,神の目的に貢献したいと願っています。彼らは,神の目的が失敗しないことを知っており,その確信は,大会で発表されたもうひとつの本の題名,すなわち「人間の益のために今や勝ち誇る,神の『とこしえの目的』」とその内容に具体的に表わされました。神の目的に信頼を置くべき確実な理由は確かにいくつもあるのです。それらの理由が特に明らかにされたのは,大会の最高潮となった,「人間の計画は失敗しているが,神の目的は成し遂げられる」と題する公開講演においてでした。アメリカで開催された69の「神の目的」地域大会に参集した89万1,819名の人々は,その講演や他の重要な情報に心を躍らせました。

他の土地のエホバの証人たちと同様,アメリカのエホバの証人は,人間がよろめく世界を安定させる努力を引き続き行なうことを知っています。しかし,人間の諸計画がいかに壮大であろうと,また,それらが成功すると人間がどれほど力説しようとも,エホバの民は神の目的だけが勝ち誇ることを知っており,神のみことばと王国を宣明するというすばらしい特権をエホバに感謝しています。

意味深いことに,イザヤの預言は,「すえの日に」エホバの家の山が山々の項を越えて堅く立ち,多くの人々がそこへ流れのように集まることを述べています。(イザヤ 2:2-4)わたしたちは今や「すえの日」にいるのです! 増加の一途をたどる「大群衆」の群がる様を見る時,わたしたちは時の緊急性を感じざるを得ません。今は,どこにいようと,エホバのしもべたちが自己満足に陥ったり,無頓着になったり,無活動になるべき時ではありません。彼らにはなすべきわざがあるのです!

わたしたちが時の流れのどの時点にいるかを考えてもご覧なさい! そのことの重要性は,1966年当時にわたしたちの思いに深く印象付けられました。その時,神の民は「神の自由の子となってうける永遠の生命」という興味深い本を受け取りました。大多数の人がすぐに目を留めたのはその本に出ている年表で,それは1975年を「人類生存の第6の1,000年の日の終わり(初秋において)」としていました。

それによって確かに幾つかの疑問が生じました。それは,大いなるバビロンが1975年までに没すという意味ですか。その時までにハルマゲドンが終わってサタンが縛られるのですか。ものみの塔協会の副会長F・W・フランズは,メリーランド州のバルチモアで開かれた「神の自由の子たち」地域大会で類似の質問を幾つか提起した後に,『それはあり得ることです』と述べました。ところが,彼は次のような要旨のことばを付け加えました。『しかし,わたしたちはそう言っているのではありません。神にとってどんなことも可能です。しかし,わたしたちはそう語ってはいません。それで,みなさんは,今から1975年の間に起きようとしている事柄をはっきり話すようなことがあってはなりません。みなさん,ただ重要なのはこのこと,すなわち時が短いということです。時は尽きようとしています。そのことに疑問の余地はありません』。フランズ兄弟はとりわけ次のように勧めました。「時間を最大限活用し,機会のある間にエホバへのあらゆるりっぱなわざを一生懸命行ないましょう」。

その時から数年がたちましたが,それは宣べ伝えるわざの緊急性が強まったということにすぎません。エホバのしもべたちは,ある特定の年まで自分たちの命を神に捧げたのではないことを知っています。彼らは永遠にわたって神に献身した民なのです! 今日,人類世界全体はわざを行なうべき神の畑であり,しかもそのわざは緊急です。エホバの民は,神とともに働く者として,その畑で神の目的や救いのための数々の備えを知らせるというなんとすばらしい特権を享受しているのでしょう! それら献身したクリスチャンたちは,エホバ神の過分のご親切に対し深い感謝の念を抱いて,「神とともに働」きつつ自分たちの活動を断固推し進めます。―コリント第一 3:9。コリント第二 5:18–6:2

神の聖霊の助けを得て,アメリカのエホバのクリスチャン証人たちは,全地にいる仲間の崇拝者とともに引き続き天のみ父に忠実に仕えて行きます。わたしたちすべてがエホバに対してゆるぐことのない忠節を表わしますように。終わりは近づいていますから,油断することなく,活動的でありますように。わたしたちは「ずっと見張って」いなければなりません。今は霊的に寝坊している時ではないのです! 失敗し得ずまた今後も失敗することのない,すばらしく比類のない目的を持たれる神たる方に,十分に目覚めて勤勉かつ忠実に奉仕すべき時です。