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ニューファンドランド

ニューファンドランド

ニューファンドランド

カナダの東岸沖に四方を海で囲まれたニューファンドランド島があります。イギリス連合王国の大きさの半分に満たない,世界で16番目に大きなこの島は53万の人口を有しています。ニューファンドランドは,高い断がいとあらしのつめ跡を残す絶壁があり,危険な砕け波の散るおよそ9,600㌔の曲りくねった海岸線と,素朴で荒削りの美とを持つ雄大な島です。住民はイングランド,スコットランドおよびアイルランドの血を引く勇敢な人々で,昔は漁師,きこり,わな猟師が主体をなしていました。海と岩がちの土地で生計を立てることは真に忍耐を試みるものでした。キリスト教世界の様々な宗派の僧職者によって長年の間支配されたにもかかわらず,たいていのニューファンドランド人は,神と神のみことばに対する敬意を持つたいへん独立心の強い人々です。エホバの現代の証人が真理の音信を植えるのにそこは間違いなくふさわしい土地です。

エホバの忠実なしもべであった40歳の優しい婦人エディス・メイソンは,1914年にカナダ本土のノバスコシア州で王国の音信を広めることに励んでいました。ニューファンドランドからわずか145㌔ほどのところにいた彼女は,しばしば島の人々のことをいぶかり,「あの人たちも音信を必要としているのだわ。音信はあの人たちをどれほど幸福にすることでしょう」と考えました。そして,優れた「創造の写真-劇」を島に持って行くことについて土地の兄弟たちに相談しました。創造からキリストの千年統治に至る神の目的を概説した有声のそのスライドと映画はニューファンドランドの人々を益するに違いない,と思ったのです。それを実行に移すには機が熟していないように思われましたが,彼女はその考えを捨てませんでした。

さらに,彼女はある晩静かに祈りをささげ,ニューファンドランドへ行ってひとりで開拓奉仕をする決心をしました。その決意は膨大な結果を生むことになっていました。エホバは,ニューファンドランドの真理に飢え渇く多くの人々を満足させるべく,その勇敢な婦人を用いようとしておられたのです。最初,メイソンは自分が話すことの価値を認めてくれる人にひとりも会えませんでした。しかし,彼女は,カーターズ・ヒルのスキッパー・ギボンの店へ用事で行く時一再ならずその店に引き付けられていました。彼女の話によると次の通りです。

「スクーナーのその老船長は下宿屋をしていて,港に入った北部の男たちと“冒険談”をするのが好きでした。“外港”から主都に来た船長や貿易商の多くはその下宿屋に泊まりました。まもなく,わたしは,日曜日にスキッパー・ギボンの店へ食事をしに行ったら,そうした人たちが大勢……炉辺に集まっているだろうということに気づきました。いつも……敬虔なふん囲気が満ちていましたから,その人たちに王国のことをきり出したものです」。その中に,寂しい北東岸の小さな村,キャット・ハーバーもしくはラムズデンから来た若い漁師,エリ・パーソンズとウェスレイ・ホーウェルがいました。ふたりは聞いた事柄に深い感銘を受け,「聖書研究」と題する書籍を数冊求めて遠く離れた郷里にそれを携えて行きました。

偶然にも,ウェスレイ・ホーウェルは開拓地の北側にあるメソジスト教会の信徒奉持者であり,メイソン姉妹から文書を求めた人々のひとり,エドガー・ギボンズは南側の教会の信徒奉持者でした。彼らはふたりとも,自分には伝道すべき事が今や確かにあると決心しました。ところが,ある日,牧師がウェスレイの事務所をわざわざ訪れ,「再び説教壇に戻っていただくのは構わないが,新しい宗教のことは話さないでもらいたい」と厳しい口調で言いました。ウェスレイがきっぱりと断ると,激怒した牧師は,『お断りになったあなたをご家族はのろいますぞ』と言い返して荒々しく立ち去りました。

それと同じころ,英国国教会婦人後援会の会長が,たまたま,ニューヨークのブルックリンにあるものみの塔協会の本部から来たA・H・マクミラン兄弟による講演の終わりの部分を聞きました。その主題は,彼女がそれについてなんでも知っていたはずの,主の祈りでした。1970年の12月,91歳という高齢で亡くなる数日前に,彼女ははるか昔のその晩のことを回顧して次のように語りました。「オレンジ・ホールは満員でしたが,ウェスレイ・ホーウェルはわたしたちの席をなんとかみつけてくださいました。マクミラン兄弟は主の祈りの意味を説明しているところでした。わたしは英国国教会に属する厳格な家庭に育ちましたが,その意味を知りませんでした。それはあたかも,生がい暗い穴蔵にいたわたしに,マクミラン兄弟がその瞬間明かりを付けてくださったかのようでした。わたしは,最後の話の一部分だけから真理を悟ったのです」。英国国教会婦人後援会のそのかつての会長はメアリー・グッドイヤー姉妹になりました。

足掛かりを得る

マクミラン兄弟がキャット・ハーバー(ラムズデン)にエホバの民の最初の会衆を組織したのは,1916年のその時でした。聖書研究の群れは十数名に増え,参加者の中には悪天候でも砂浜を越え岩だらけの海岸を回り,幾キロも歩いて来る人々がいました。

ひとり主都セントジョンズにいたメイソン姉妹は,当時なお聖書に忠節な人々が多くいたニューファンドランドに「写真-劇」をもたらすことを計画し,祈り続けていました。彼女がかつて聖書文書頒布者として働いていた土地の知り合いから寄せられた資金と,ものみの塔協会の会長チャールズ・T・ラッセルによる個人的な寄付の助けを受けて,メイソン姉妹はついにノバスコシアのブラック兄弟が協会のスライドと映写機を持って来るよう取り決めました。こうして,1916年5月5日に,セントジョンズで3週間にわたる「写真-劇」の上映が始まりました。土地の人々や,外港およびラブラドルから訪れる漁師と商人多数が見に来たので,座席が足りませんでした。晩の上映が14回,午後の上映が15回行なわれ,出席者の延べ総数は1万825人でした。

兄弟たちがカナダその他の任命地へ帰って行った後,メイソン姉妹はラムズデンの小さな群れを訪問することにしました。彼女はその機会を用いて,遠く離れたその小さな会衆の強い基礎を築きました。後に活発な伝道者となった相当数の人々はその時に初めて神の目的に対する真の認識を得ました。

年月が経過するにつれ,いろいろな兄弟が多数ラムズデンを訪れて発展途上にあった群れを養い強めました。クリッフォード・ロバーツ兄弟が“本土”から訪問した時のことはだれもが覚えています。その開拓地に住むひとりの老人は心臓病を患っていたため,訪問者の公開講演を聴きにオレンジ・ホールまでの長い距離を歩いて行く力がありませんでした。みんなが驚いたことに,その老紳士は近くの教会の建物を使用する取り決めを設けたので,ロバーツ兄弟はそこで数百名の聴衆を前に講演しました。講演の最中,教会の後部に現われたひとりの男が「このグループは教会を乗っ取った!」と叫んで一時妨害しました。終わりに当たって老人は,教会で真理が説かれるまで生きていたいと思っていたと述べましたが,その日,彼の希望はかなえられました。

その地方のジョセフィン・パーソンズ姉妹は,当時協会の旅行する代表者であった「巡礼者」のひとり,ジョン・カットフォース兄弟が1927年に訪問した時のことを記憶しています。彼女はくすくす笑いながら,次のような愉快な出来事を話してくれました。「ジョン兄弟が下宿屋で泊めてほしいと言ったところ,『あなたに合うような長いベッドはないと思いますよ』という返事でした。その時兄弟がどんなお気持ちだったかしらとよく思います。カットフォース兄弟は1㍍80㌢を超す大柄な人だったからです」。

ウェスレイ・ホーウェルの家族はウェスレイがキリスト教世界の教えからそれたことで彼をのろうだろう,と牧師が予言したのを読者は覚えておられるでしょうか。ところが祝福がもたらされたのです。初めの頃に聖書の真理を信じた人々の子どもや孫,またひ孫たち多数が今日ニューファンドランドの開拓者の隊ごに加わっているからです。

1945年,ラムズデン南部におよそ12名の活発な証人たちからなる会衆が組織されました。同年にラムズデン北会衆は「クーパー・ショップ」の2階を改造して王国会館にし,次いで1947年にはラムズデン南部に最初の王国会館が建てられました。ストレート・ショア(停泊所がないのでそう呼ばれている)に沿ってさらにムスグレイブ・ハーバー会衆とアスペン・コウブ会衆があります。それらの会衆を構成しているのは,キャットハーバーすなわちラムズデンの最初の証人たちの実の子孫と多くの霊的な子孫です。

初期の伝道

最初の頃の伝道活動は良いたよりの伝道者の愛や勇気や粘り強さを表わしています。道路はなく,2,3の狭い小道があったにすぎません。1930年代と1940年代にかけては大抵の場合,荒い海と荒天の中を船で旅行しなければなりませんでした。証人たちはしばしば船酔いに悩まされました。ウェスレイ・ホーウェルの娘のひとりはその経験をこう話してくれました。「船に25㌔ほど乗ってウェスレイヴィルに行き,それからテンプルマンまで8㌔歩いたものです。片手に[文書の入った]スーツケース,他方の手に蓄音機を持ち,わき水のある湿った沼地に煩わされながら,岩はだのごつごつした山道を登って行ったのですから,楽なことではありませんでした。蓄音器を踏石代わりにし,スーツケースを疲れたからだに引き寄せて,なんとか沼地に付かないようにすることがよくありました。……多くの場所では,家々を訪れて講演のレコードを聞かせるわたしたちを,一群の少年たちがつきまとって冷かしました。かつて嘲笑していたその少年たちのひとりはラムズデンで監督になりました。彼の妻と子どもたち,および年配の両親はエホバの証人です。そして,子どもたちのうちふたりは全時間奉仕に携わっています」。

エディス・メイソン姉妹とそのパートナーのウィットモア姉妹はその後どうしていたでしょうか。1918年,キリスト教世界の僧職者は有害な聖書研究者を,彼らの考えによれば,永久に消し去ろうと戦争熱を利用していました。無害な婦人の宣教者たちの次のような経験から,僧職者たちがどれほどこっけいなことをしたかがいくらかわかります。「ニューファンドランドは北米大陸の最後の拠点で,大西洋横断無線通信局はここから大西洋や対岸の連合諸国と無線連絡を取っていました。それで何者かが無線通信員をそ撃しようとしたため,わたしたちは数か月の間スパイ呼ばわりされました。ウィットモア姉妹とわたしはしばしばドイツの諜報員であるとのけん疑を受け,洋服の下に武器を持ってい(ると訴えられ)ました。人々は疑い深く,おびえきっていたのです。それで,1918年9月1日にわたしたちを無線通信員事件の容疑者として追放しました」。当然ながら,姉妹たちには全く身に覚えのないことでした。

1919年から1923年にかけて,ポート・ユニオンにひとつの小さな群れ,セントジョンズに5名の人,そしてラムズデンの群れ,という具合いに会衆はゆっくりと成長を続けました。セントジョンズでは牧師の訪問はもはやなく,羊の群れはいためつけられていました。1924年,忍耐強いメイソン姉妹は,この度は,“ニューファイ・ブリット”という鉄道と島の外港に止まる船を使って全島を奉仕するという決意を持ってセントジョンズに戻って来ました。

彼女はこう語っています。「1924年の夏から1925年にかけて,わたしは島の大半を旅行しました。時折,スサ,プロスペクト,クライドあるいはポーシャといった政府の郵便船に乗りましたが,そのたびにひどい船酔いをしました。港から港へスクーナーで行ったこともあります。夜中のとんでもない時刻に荒涼とした波止場に降ろされたものです。そんな時,ものさびしい霧笛の音だけがわたしの仲間でした。わたしは書籍を粉と砂糖のたるに入れて運んでいましたから,夜は大抵,入江を網らできるよう書籍を詰め変えたり分類したりして過ごし,次の目的地に向かいました。……通りがかりの船に乗せてもらうためにしばしば朝の4時に起きなければなりませんでした」。

新しいパートナーである,ハリファックス出身のアン・ダウデン姉妹とともに,メイソン姉妹は1926年の夏と冬の間休みなく働き,ニューファンドランドの海岸を船で進みながらあらゆる機会に王国を伝道しました。その年,彼女はそれを最後に島を離れました。何年も後になって,彼女は次のように回顧しましたが,そのやさしい目はそこひのために見えなくなっていました。「わたしは人々からなぜあの島が好きか尋ねられましたが,自分でもよくわかりません。人々が真理に対して霊的な目を開かれて喜ぶのを見たからでしょう。……わたしは自分の業の上にエホバのみ手があることを絶えず感じました。そして,その愛すべきみ名の立証にあずかったことをほんとうに幸福に思います」。メイソン姉妹がまいた“種”の多くはエホバの栄光を表わす丈夫な“木”に成長しました。

村の息子が帰る

1929年8月29日のことでした。場所は,荒れ狂う大西洋に面するアバロン半島の東の突端にある小さな漁村です。ベイ・ド・ヴェルデ生まれの若者,ジャック・キーツは“本土”にしばらく行っていて帰ったばかりでした。家族や友人が驚いたことに,ジャックは彼らに伝道し始めたのです。しかも,その信仰は保守的な村人の耳には全く奇妙に響くものでした。

幸いにもジャック・キーツの家族は彼の話に耳を傾け,その価値を認めました。次いで彼は,“ビリー・ジム”・キーツという名で通っていたいとこのウィリアムに証言し始めました。彼はすでに結婚しており,オレンジ結社で活躍する忠実な教会員で,聖歌隊のメンバーでもあり,大いに尊敬を集めていた人でした。ビリー・ジムは注意深く耳を傾けましたが,すぐにすべてを受け入れることをせず,裏付けを求めました。そして彼はそれを得ました。教会が教える‘火の燃える地獄’は重要な論議の的になりました。彼は果てしない苦しみの場所を信じたかったのではありません。ただ,もしそれが間違いなら,教会はどうなのでしょう。何をよりどころとするのでしょうか。話し合いは問題の核心に触れました。1930年の忙しい漁獲時にビリー・ジムは教会へ定期的に行きませんでした。その機会を利用して休むつもりでした。というより,ほんとうのところは彼の考えが変化しつつあったのです。真理の種はりっぱな土にまかれていました。(マルコ 4:8,20)それからほどなくして,ビリー・ジムは大いなるバビロンとのきずなをすべて断ちました。

その間に,すでに王国の教えを受け入れていた,ジャック・キーツの兄弟アイザックが衰弱し始めました。彼は死ぬ前に,牧師に葬式を挙げてもらいたくないこと,英国国教会の墓地に葬られたくないことを明らかにしました。家族は村の小高い所にあるわずかな土地に葬ることにしました。そのことは牧師とその支持者たちの激しい怒りを買いました。というのは,そこは“聖別された土地”どころではなかったからです。そのうえ,教区牧師は死亡証明書を作成することをきっぱり断りました。そのような事情でしたが,葬式はセントジョンズのアール兄弟によって司会され,遺体は‘聖別されていない’土地に埋められました。

牧師は,土地の住民の福祉にさしさわりがあるとして,普通の土地に埋葬したことに対する苦情を保健所に申し立てました。警察官と判事が事情を調査するためにやってきました。しかし,ふたりは証言を受け,万事支障がないことに満足して帰りました。それより先に,牧師は,エホバの証人を両親に持つ子どもと‘聖別されていない’土地に埋葬することを助けた人々の子どもを学校から締め出す手段に出ました。彼に謝罪する人の子どもたちだけが学校に戻って授業を受けられるのです。兄弟たちがその件を教育委員会に諮ったところ,牧師は,謝罪を受けることなく子どもたち全員を復帰させるようにと命ぜられました。証人の子どもたちは学校の友だちに無視されたり軽べつされたりしました。また教師たちも法にふれない範囲でその子どもたちに注意を払いませんでした。とはいえ,牧師は押しも押されもしない村の実力者という立場を大いに失いました。

ジャック・キーツは間もなくさらに遠方にも出かけ,時折り小型の馬や荷馬車,汽車や漁船を使って島の他の多くの場所で良いたよりを伝道しました。彼は,「人をすなどる」業を続けるために時々魚を取る仕事に戻りました。(マタイ 4:19)1939年,ジャックは重い病気にかかり,セントジョンズのサナトリウムで実質的に2年間過ごさなければなりませんでした。その後彼はディア・レイクに戻り,そこで家庭を持ちました。

ジャックのいとこ,ビリー・ジムは後に,ベイ・ド・ヴェルデ地区のジャックが残していた場所で奉仕を始めました。彼は妻とともに馬と軽装馬車を使って旅行して回り,耳を傾ける人に聖書の話のレコードを聞かせました。もっとも,その時代には大抵の人が聞く耳を持っていました。宿屋や食堂はありませんでしたが,人々は親切で,食事時になるといっしょに食事をするようにと言ってくれました。日が暮れて海が墨を流したようになり,つつましい家庭の窓べにランプの明かりがまばたき始め,野外奉仕の長い一日が終わるころ,「馬を納屋に入れて,ちょっと寄って行きなさい」という親切な申し出を受けたものです。馬を寝かせてやる一方,ビリー・ジムと彼の妻は家の人たちと朝の1時2時まで話をし,それから翌日の出発まで少し眠りました。

ビリー・ジムと彼の妻のほかにも霊的に成長していた人々がいました。というのは,1939年にセントジョンズからひとりの兄弟がバプテスマを施すために来た時,心を弾ませた6名のバプテスマ希望者がいたからです。険しい丘を越え,池までおよそ5㌔の道を徒歩でやって来た彼らは,そこで神への献身を目に見える仕方で表わしました。その後長い忍耐の期間が来ました。ベイ・ド・ヴェルデの人々は王国の業に無関心で冷淡になったからです。1965年,ふたりの特別開拓者が会衆を援助するように割り当てられました。その結果,自分の野外奉仕を改善するようすべての人を助けるプログラムが盛り込まれて,伝道者たちは訓練され,集会にしっかりした基礎が据えられました。また,1971年にはりっぱな王国会館が建ちました。

船で王国の良いたよりを伝道する

その時までに,ニューファンドランドの区域はまだほんの少し手がつけられたにすぎない状態でした。約10万8,800平方㌔のその区域に人口が5,000人を超す土地はわずか5か所あるにすぎませんでした。主都のセントジョンズでさえ,第二次世界大戦が終わった時の人口はわずか5万5,000人でした。したがって,人口の大半は約9,600㌔の荒涼とした海岸線に散在する小さな村や開拓地に住んでいたことになります。証人たちは海路を使って人々に近づくのが最善の方法であることに気づきました。

そのために,ものみの塔協会はこれまでに4隻の船を購入しました。最初の船は沿岸航路のモートン号で,長さが約20㍍のその洗練された船体は,波止場の人々の目に美しく映りました。協会から船の責任者に任命されたF・J・フランスキはもうひとりの兄弟と共に経験したことをこう語っています。

「1929年の5月初め,ジミー・ジェイムズとわたしは,協会が所有する沿岸航路のモートン号を責任をもって扱うためにカナダからニューファンドランドに派遣されました。……ニューファンドランドの人々は温かく親切で,もてなしの精神は際立っていました。ですから,人々はわたしたちの言うことに同意できなくても,話を最後まで聞いて,わたしたちを丁重に扱ってくれました。初めまごついたのは,ノックしても人が戸口に出て来ないという習慣でした。窓ぎわに座って,わたしたちが戸口の上り段のところに立っているのを見ても,玄関に出て来ようとはしないのです。……孤立した土地なので近親結婚が多く行なわれたため,人はだれも他人とは見なされず,したがって人々は他の人の家をその家族と同じように出入りしていたようです。……愛する人が海に行ったまま帰って来ないという悲しい経験はおそらくどの家にもありました。わたしたちは,多くのそうした遺族を訪れ,神の聖なるみことば聖書の明らかな真理で慰めました」。

経済恐慌はこの島に大打撃を与え,窮乏した人々は少なくありませんでした。老齢年金は年間わずか50㌦(約1万5,000円)でした。人口の90%は,重労働の割に見返りがきわめて少ない漁業に従事していました。魚は50㌔ほどが5.5㌦(約1,650円)かそれ以下で売られました。ですから,困窮は死や税金と同様に避けられないものでした。人々は聖書文書と交換に,手織りの衣服,ミトン,くつ下,セーター,あざらしの皮の製品,毛皮,鯨の骨とか象げの小さな装身具,魚の干物などを差し出しました。当然ながら,幾つもの入江でモートン号はある人々,とりわけ僧職者に歓迎されませんでした。彼らは証人を非難し,偽預言者と呼び,教区民にものみの塔の文書を読むことや証人を家に入れることをさえ禁じました。では,フランスキ兄弟の日誌を読んでもう一度そうした経験をしてみましょう。

「プレスク,ボナー,セント・キランズおよびパラダイスで奉仕しようと試みたがだめだった。自分の巣をかき乱されたくない『神父』から全員が警告を受けていたのである。フラット諸島の訪問はそのすべてを埋め合わせてくれた。港の入口には岩が非常に多い。それで平底の小さな漁船に乗った漁師がわたしたちの船を迎えに来てくれ,水先案内をしてくれた。男も女も大勢モートン号に乗ってきた。……かつてこれほどの歓迎を受けたことはない。わたしたちはその人々に音楽と講演を聞かせたが,人々は真夜中まで帰らなかった。彼らは真理に飢えていた。次の日,人々はわたしたちに花をあふれるほどくれた。……人々は貧しかったが,多くの文書を配布した。わたしたちは聖書に関するたくさんの質問にも答えた」。

次のシーズン,すなわち1930年に,モートン号は再び出帆しましたが,このたびは,船に詳しく,難しい状況の下で航海することに通じた,ローゼ・ブランクの漁師,フィリップ・パーソンズがフランスキ兄弟の新たなパートナーでした。それは適切なことでした。というのは,北の方を旅行し,ノートル・ダムとホワイト湾一帯のすべての島と海岸線で奉仕をすることになっていたからです。6月にそうした航海をすることはスリルに富んでいます。浮氷の最盛期だからです。“グローラーズ”(船乗りが北極地方から流れてきた巨大ではっきりした形を持つ創造物につけた名)は日を浴びて大きな城のように輝きます。それらは,浮ぶ四角な積木から,高い尖塔のある大聖堂の幻影に至るまで様々な形をしています。そして,果てしがないかに見える砕けた浮氷原があり,そのため航海には危険が伴います。衝突しないために,モートン号の乗組員は忙しくかじを取って,比較的大きな氷の塊をかわさなければなりませんでした。旅行の危険は,それまで耳にしたことのない人々に音信を伝道する喜びによって十分に報われました。何千冊もの文書が配布されたのです。

拡大は続く

セントジョンズ市の群れは人数が増え続けていました。そして,協会の旅行する代表者の訪問を何度も受けて益を得ていました。たとえば,1927年にM・A・ハウレットが訪れましたし,後にはカットフォース兄弟が来ました。協会のラジオ放送はノバスコシア局から定期的に流れていました。しかし,王国の音信をふれ告げるのに真の大胆さというものがありませんでした。会衆の中に,エホバの霊の流れを妨げる要素があるように思われました。1931年に「エホバの証人」という名称が採択されたことに伴い,分裂のあることが明らかになりました。ある人々は「聖書研究者」というあたりの良いことばのほうを好み,会衆の大部分の人に首尾よく影響を与えたのです。忠節で確固とした立場を取り,ものみの塔協会の全世界的な業を支持したのはほんの少数にすぎませんでした。「エホバの組織」と題する記事が載った,1932年8月15日号と9月1日号の「ものみの塔」誌は残っていた弱い人々すべてをふるい落しました。会衆でかつて「選出された長老」をしていた人の中には,その取り巻きと共に土地の有力者となり,牧師に取り入ることさえした者がいました。少数の忠実な人々は,今や,おじけづいた二心の者の影響から一切清められた有利な立場にいました。

さて,ここで,ニューファンドランド第二の町,西海岸にあるコーナーブルックに目を向けましょう。1923年にメイソン姉妹がそこにいましたが,その後羊のような人々を捜すこれといった努力はなされませんでした。そして1933年に,高速道路局に勤めていた,ニューファンドランド人のアール・シニョール兄弟は仕事でコーナーブルックに行きました。そこにいる間,彼は「死者はどこにいるか」という小冊子を配布し始め,小さな木工細工の店ですぐに耳を傾ける人を見いだしました。そこでいっしょに働いていたアルフレッド・ジョンソンとルベン・バーンズの目を開くには,その小冊子だけで十分でした。

まもなく新しい書籍研究の群れが組織され,その後カナダ支部から派遣されたロイド・スチュアートはバーンズとジョンソンの家族を中核とする小さな会衆を組織しました。当時の集会に参加していた幼いレタ・ジョンソンと少年のガス・バーンズは後にギレアデ学校の宣教者となり,ニューファンドランドにおける王国の活動の発展に大いに貢献しました。

やがてジョン・キーツがコーナーブルックのバーンズおよびジョンソン家族に加わり,王国の良いたよりを伝道する精力的な運動が始まりました。どんな機会も見過ごすことなく伝道されました。伐り出し場や漁村で,いかだ師たちに,夜行列車の中で,という具合いにあらゆる場所において聖書の話を聞かせ,聖書の真理について話し合いました。牧師が牛耳るコーナーブルックの町は全くの大騒ぎでした。

埋葬用の聖別された土地に関する問題がここでも持ち上がりました。兄弟たちは事を進めて亡くなった人を自分たちの‘聖別されていない’土地に葬ったので,町民と牧師はまたもやショックを受けました。宗教指導者とその行ないが疑問視されている今日,それがいかに重大な出来事であったかは十分理解されないかもしれません。が,その当時牧師のことばは法律に等しく,教会の既成の伝統を無視することは涜神行為だったのです。

主都を襲う

コーナーブルックがそうした騒ぎの舞台となっているころ,カナダ支部は,ニューファンドランドで王国の関心事の世話をする非常に献身的な一組の夫婦をセントジョンズに派遣しました。それがレイ・ギレスピーと彼の妻ベッティーです。文書の倉庫が建てられ,宣伝カーが用いられるようになりました。宣伝カーは区域をくまなく回り,その時のものみの塔協会の会長,J・F・ラザフォードの力強い声を各所で大勢の人々に聞かせました。ひどくろうばいした牧師が証人に対する暴力行為を扇動していた騒々しいその時代に起きた,次のような興味深い話があります。

『ギレスピー兄弟がベル島で宣伝カーからレコードをかけていたところ,一群の人々が兄弟に石を投げつけ始めました。ひとりの少年がそそのかされて石を投げ,そのひとつは蓄音器にあたってそれを止めてしまいました。その晩少年は悲しいいやな気持ちで家に帰りました。何年もの間,彼はそのことでしばしば思い悩みました。ある日,一開拓者が,すでに大人となっていた彼を訪問し,彼との聖書研究を始めました。研究の後,彼は長年心の重荷になっていたことを告白して楽になりたいと思い,犯した罪と後悔の気持ちを述べて許しを請いました。その人は後に証人になりました』。

1930年代はニューファンドランドのエホバの民にとって困難な時期でした。セントジョンズでは特に難しく,しばしば感情が激化し,わめき散らすこと,投石,ちょう発行為は日常茶飯事でした。そうした空気のところへ,アメリカで暴徒に襲われた経験のある,アーニスト・エリス兄弟姉妹が来ました。ふたりは数々の挑戦に面しました。たとえば,ある朝,エリス兄弟が市の東端で奉仕していると,僧職者にそそのかされた数人の女性が子どもたちといっしょに兄弟を襲い,聖書と書籍を破ってしまいました。アーニストはその場に立ち,警官に来てもらうまでそこを動こうとはしませんでした。兄弟がそのことを裁判にかけると,裁判官は公正な人で,襲った人々を厳しく罰し,市民を大いに驚かせました。勇敢にもエリス兄弟は,平和と慰めの音信を携えて同じ区域に何度も繰り返し行きました。

セントジョンズで,アーニストの隣りに住んでいた人は,プリンストンという外港から同市に着く人たちの知り合いでした。アーニストと話をした後,その人々はエホバの証人となってプリンストンへ帰って行きました。プリンストンでは関心が大いに高まり,後にそこからギレアデ学校を卒業した数名の宣教者が出ました。

エリス兄弟はまた,国際聖書研究者団体・ニューファンドランド会を組織して,土地の認可を得るべく努力を始めました。それは1940年の初めのことでした。

それまでに,アーニスト・エリスにうんざりしていた土地の当局者たちは,外国の宗教を伝道する外国人であるとして彼を追放する手段を講じました。ところがアーニストは兄弟たちを奮起させたため,島民からなる強力な代表団が突然当局者たちの前に現われました。彼らは一歩も譲らなかったため,アーニストは追放されませんでした。彼のための嘆願状に寄せられたおびただしい数の署名がそうした結果をもたらす大きな力となりました。“敵”の中にさえ,小柄な同兄弟のファイトに感心して嘆願状に署名した人がいました。その後,第二次世界大戦が険悪になり,エリス兄弟を再び追放しようとする企てが成功しそうなのを見てとったものみの塔協会は彼をアメリカに召還しました。それで,反対者たちは彼らの計画通りに彼を国から追い払ったという満足感を一度も味わいませんでした。

第二次世界大戦は1939年に始まりました。厳しい検閲が行なわれたため,「ものみの塔」誌を郵便で受け取ることはほとんど不可能になりました。しかし,セントジョンズのはずれにあるフォート・ペッペレルに駐とんしていた一アメリカ兵が関心を抱いて雑誌を予約しました。その兵士の郵便物は問題なく届いたので,結局兄弟たちは彼の雑誌をあてにすることができました。そして騰写版印刷機を購入し,それを使ってニューファンドランドの100名の予約購読者に雑誌を供給することができました。しかし,問題は増えるばかりでした。ニューファンドランド人ではない,義のための熱心な闘士たちは,公に追放されないまでも,島を離れるよう絶えず圧力を受けていました。次にどんな事が起きることになっていましたか。

先ほど述べたコーナーブルックで,少年ガス・バーンズは成人に達していました。彼の父ルベンは常にやさしい,真理に対してはき然とした人で,良いたよりを広めることに専念していました。彼は,関係している大論争やニューファンドランドにいる関心を持つすべての人々を団結させ,全島的な組織を設立する必要性についてガスにしばしば語りました。「わたしが若ければその仕事ができるのだが」,と彼はよく言ったものです。

ですから,彼の息子がやって来て,残りの人生を開拓奉仕にささげる決心をしたと言った日は,老人ルベンにとってうれしい日でした。ガスはその冬,セントジョンズに行く汽車の切符を買い,身の回り品を2,3調えるのに十分の資金を蓄えました。また,その計画を,島のパサデナにいる別の青年に話し,彼はガスに同行することを決意しました。こうして,1940年の春,ガス・バーンズとヘルベルト・ダーは主都に到着しました。その時ガスのポケットには5ドル27セント(約1,580円)しかありませんでした。しかし,多くの問題や困難があったにもかかわらず,その後の10年間に彼が経済的にそれよりも貧しくなったことは一度もありませんでした。

困難な時代

文書の倉庫で,バーンズ兄弟とダー兄弟は,今にも追放されようとしているカナダ人の開拓者,ドゥグル・マックレイに会いました。彼はふたりに,政府は協会のすべての文書に禁令を課そうとしているから,倉庫にあるレコードと書籍は没収される恐れがあると語りました。

兄弟たちはある計画を思いつきました。文書とレコードの大部分を,ハーウェル兄弟のスクーナーに積み込んでラムズデンへ発送したのです。そして多くはプリンストンや他の小さな町に送られました。当局者が倉庫を押えた時にはすでに遅く,中は空っぽも同然でした。

それと同時に,バーンズ兄弟とダー兄弟は王国の活動を,戦争の間,荒涼たる海岸沿いの遠く離れた外港に限定するのが最善であることに気づきました。ガス・バーンズはこう述懐しています。『わたしは決して船乗りとは言えませんでした。潮流やあらし,海図,羅針盤,また荒れ狂って収まることのない海の波浪や危険について何も知らなかったからです』。

将来に大きな期待を掛けて「王国丸 第1号」と名付けられた,長さが約9㍍ある協会のモーター・ボートを再び準備するには,創意と決意が大いに必要でした。非常に心強かったのはプリンストンの兄弟たちがいたことです。そこからボブ・モスが一行に加わったので,彼らは取り掛かった仕事に自信が持てるようになりました。バーンズ兄弟は次のように述べています。『海路を行く奉仕の最初の日は荒天で,わたしたちの乗った小さな船はあぶなっかしく波の間を縫って進みました。最初に立ち寄ったサルベージという港の人々は英国国教会の絶対的な支持者でした。ですから,わたしたちはすぐに石を投げつけられ,ドイツのスパイとして港から追い出されました。事実,村人のひとりはわたしたちが「ヒトラーは敗れ得ず」というレコードを掛けていると警察に通報したのです。わたしたちは穏やかに引き下がり,警官が捕らえに来ると一日中聞かされはしたものの,比較的静かな別の入江で業を始めました。陸に上がると,ボブとわたしは別れて反対方向に行き,一日の終わりころに会うことにしました。

『考えていたよりもずっと遅くなってやっとボブと出会いました。寂しい道の曲った所で,ボブは見上げるように大きな警官にレコードを聞かせていました。レコードは,ラザフォード兄弟がハルマゲドンで悪魔の側に立つ者たちを列挙するところに来ました。「ハルマゲドンにおいて悪魔の側には」と力強い声が響きました。「すべての国の陸軍および海軍,警察力,警察力,警察力……」,レコードはその部分を何度も繰り返しました。ボブは赤かぶのようにまっかになり,わたしは最悪の事態を恐れて逃げるべきだろうかと考えました。その時,突然,警官はその成り行きのおもしろさに大声で笑い出したのです。実際,彼はその後わたしたちの良い友人になりました』。

ガス・バーンズは話をこう続けます。『気の小さい,海におじけづいた一行が,デッド・マンズ・ベイ(死人の湾)の入口にあるキャット・ハーバー(現在のラムズデン)の危険な海岸に近づいたのは大波の日でした。土地の人でなければその危険な入江に入ることはとうていできませんでしたから,わたしたちは入江の外の岩の間をうろうろしていました。大きな漁船がこちらにやって来るのを見た時にはまったくほっとしました。わたしたちを迎えてくれた親切で堂々とした漁師はエルモア・ハウルでした。彼は,その後何年かにわたるわたしたちの活動の面で父親のようになってくれる人でした。ラムズデンでは兄弟たちがわたしたちを食べさせたり力づけたりしてくれました。また,いたんだ備品を取り換え船に食料を積み込んで,北方の幾つかの湾へとわたしたちを送り出してくれました。彼らは,メイソン姉妹やマクミラン兄弟のこと,また,1915年当時から真理を追い求めたハウル兄弟とパーソンズ兄弟のことを話してくれました』。

冬になると,船で旅行を続けるのは実際的ではなかったので,そのかわりに,レコードや聖書および文書をソリに積んで小道を行かねばなりませんでした。ガス・バーンズは時々1か月に500冊ほどの文書を配布したと語っています。他方,彼らは「スパイ」のけん疑も受けていました。少なくとも一度はそのためにソリの上に丸くなり,オーロラをながめながら野宿をしなければなりませんでした。ガスが外で眠ったその一晩のうちに,いわば“形勢が逆転”しました。村の人々はガスに非常な関心を抱くようになり,彼が「ドイツのスパイ」などではないことを確信したからです。

時の権威者たちは,“不法”文書を押収できると考えられる証人の家を手入れするようになりました。しかし,文書はごく少数の人しか近づいたことのない場所に安全に隠されたため,会衆や開拓者たちは時々手持ちの文書を補給して王国の業を続けてゆくことができました。もっとも彼らは家々を訪問する際まず聖書だけを用いていました。

1941年の早春,ガス・バーンズとボブ・モスはプリンストンに戻り,夏の航海に備えて船を整備するために数週間そこに滞在しました。それは,「救い」と題する出版物を使って毎週行なわれていた書籍研究と「ものみの塔」研究を十分組織的に行なうようプリンストンの群れを助ける機会になりました。ガスはこう伝えています。「その春そこにいた時に,わたしは,わたしたちがしていることに非常な関心を持つ,フォード・プリンスとビル・プリンスというふたりの少年としばしば話をしました。ふたりがその話に励まされて後に開拓者となり,ギレアデ学校を卒業して宣教者となって派遣されるとは,わたしはその時つゆ知りませんでした」。

はえある「王国丸 第1号」の二度目の夏の航海は控え目に言っても波乱に富んだものでした。それまでに何年も伝道してきたのですがモス兄弟とバーンズ兄弟はラムズデンでバプテスマを受けました。それからルイスポートに向けて出発しました。どんなことがあったか,ガス・バーンズは次のように語ります。『船が漏っていたので,わたしたちはルイスポートから数㌔離れた小さな入江に入りました。そこで漏れ穴をふさぐことに決め,その朝早く,文書や食料を森の中に運んで雨がかからないように防水布で覆いました。ところがわたしたちのいることがたちまち知れ渡りました。「屋根にスピーカーを付けた見なれない船で,おそらくドイツのスパイだろう」という具合いにです。突然わたしたちはカナダ陸軍の兵士たちに取り囲まれ,監視のもとにルイスポートに連行されました。そこではわたしたちみじめな囚人を見るために町中の人々がやって来ました。……わたしは責任者に会いたいと要求しました。それが拒否されると,隊長に,カナダ陸軍とニューファンドランド独立州間の協定からして,隊員たちは民間人に干渉し,警察の権威を侵害していると話しました。それからニューファンドランドの警察署に連れて行くようにと要求しました。警察はすぐに納得してくれ,わたしたちは自分たちの道を進んで行きました。隠してあった文書を積むとすぐ,さらに北方の半島に向けて出発しました。その後,警官や税関の役人がしばしば訪れましたが,その多くは禁止された文書を手に入れることすらできなかったので,わたしたちの好きなようにさせました。わたしたちは数千冊の文書を配布した興奮に満ちる夏を過ごした後,秋までにコーナーブルックに戻りました」。

1941年の暮れに,ガス・バーンズと彼の仲間はセントジョンズに戻って倉庫に住み,たいへん小さくなっていた群れを再び築き上げるべく努力しました。物質主義と恐れのために多くの人の愛が冷えており,『業は終わったのだろう』ということさえ言われていました。ある人々の場合,そう願っていたのでそう思うようになったことは確かです。ついで,1942年1月8日,ラザフォード兄弟死去の報が伝えられました。前途には何がありましたか。

ブルックリン本部と連絡を取る

その重大な質問の答えを伝道者たちがどのように得たかを,バーンズ兄弟はこう語ります。『エホバはわたしたちの必要をご存じでした。まるで奇跡によるかのように,1942年2月1日号の「ものみの塔」誌がわたしの手もとに届きました。それは時宜にかなった適切なものでした。「最終的に集める業」と題するその記事は,エホバが大規模な「すなどり狩る業」を行なわせる意図を持っておられることを示していました。ニューファンドランドの兄弟たちは文字どおりの漁や狩猟に通じていましたから,彼らを前途にある業に備えさせるのにそれはちょうど良い記事でした。兄弟たちはなすべき業がたくさんあることを知っており,それを行なう用意ができていましたが,協会の助けと指導を必要としていました。しかし,検閲その他禁令下における諸状況からして,どうしたらそれが可能ですか』。

フォード・プリンスがその仕事を自発的に引き受けました。やがて彼は,ドイツのUボートが多くの船を沈没させていることをものともせず,全商船乗組員としてある客船に雇ってもらいました。彼は自分の使命を知っていたのです。ニューファンドランドの兄弟たちは,耐航性のある良い船,文書および王国の業を促進するための他の物資を入手するのに援助を必要としていました。ブルックリンで彼は,協会のN・H・ノア会長の事務所にいるミルトン・ヘンシェルに事情を説明しました。そして,すべての問題に対して直ちに対策が講じられるとの約束を得ました。

フォードは船に仕事があったため食事をして行くことができませんでした。彼は次の日再びやって来ました。果たせるかな,文書とレコードの入った箱が彼を待っていました。しかしそれは始まりに過ぎず,その後彼は何度もそこを往復して,故郷の兄弟たちのための貴重な船荷を運ぶことになっていたのです。ノア兄弟の手紙によって,ガス・バーンズはもっと良い船を購入する資金が得られることを知りました。バーンズ兄弟はわずか600㌦(約18万円)で長さが12.5㍍ほどの美しいヨットを購入しました。こうして,まもなく,「希望」号という名の新しい王国船は,良いたよりを広めるわざに用いられました。

計画では,ポルトーバスクからプラセンシャ湾に至る南海岸を奉仕することになっていました。通関港のバーギオで税関吏と騎馬巡査隊が「希望」号に乗船しました。彼らは文書が禁止されているのを知っており,押収したいと思いましたが,それをためらってセントジョンズからの指示を待つことにしました。「希望」号の乗組員のひとりはこう語っています。

『その夜,霧がかかり海岸が暗やみに包まれたので,わたしたちはそれを利用し,持っていた平底の小さなつり舟で文書やレコードおよび備品の全部を運び出して寂しい入江に隠すことに決めました。彼らは見張りを置いていかなかったのです。その後思いがけない事が起こりました。真夜中ころに,沿岸航路の汽船が外海の岸の霧に包まれた港に停泊するために気笛を鳴らしながら進んでいるのを聞いたのです。わたしたちは直ちに羅針盤と海図を取ると霧をついて舟をこぎ,ついに汽船の方角指示灯の明かりを捕らえました。なわばしごを登って甲板を歩いて行き,首尾よく事務長に会って運んでもらいたい船荷があることを話しました。事務長は快く承諾してくれたので,わたしたちはすぐさま小舟をからにし,神権的な装具類すべてを112㌔離れた海岸まで運んでもらいました。予想していた通り,翌朝役人たちはわたしたちの荷物を全部没収するために来ました。しかし,何ひとつ発見しなかったのです。彼らはわたしたちを無期限に港に留めておこうとしましたが,わたしたちは政府に抗議しました。それで,わたしたちを釈放するようにとの命令が出されました。

『数週間後,わたしたちは,やみくも同然に文書を送ってあった港に着きました。土地の商人は好奇心から箱のひとつを開け,わたしたちが行った時には「敵」と題する本をたいへんおもしろく読んでいました。なんと,彼は,氏名と住所を控えておいた関心を持つすべての人々に文書を梱包して送るための便宜を図ってくれたのです。あの同じ沿岸航路の汽船が帰る時,それにはバーギオに至る途中の土地にあててきれいに梱包された何百冊もの文書と小冊子が積まれていました』。

強風と荒海の秋が来ました。「希望」号はニューファンドランドの南端にある,ブリン半島にいました。エプワースに行く途中で,「希望」号にまつわりついていた「スパイ」とか「密輸船」という汚名をぬぐうのに大いに役立った出来事がありました。ガス・バーンズの航海日誌によれば次の通りです。『荒海をものわびしい海岸線に沿って航行していると,遭難者が撃つ銃声が聞こえた。わたしたちは策を講じ,ついに首尾よく漂流している船に信号を送った。その船の13名はほとんどが女性と子どもたちであり,漂流して恐ろしい冬の海に飲み込まれそうになっていた。彼らは何時間も助けを叫び求めていたのである。わたしたちは温かい飲み物を供して一行を元気づけることができた。その後彼らの港コービンまで船を引いて行った。そこは町中がカトリック教徒であるが,人々はわたしたちに友好的になり,わたしたちは彼らに王国の音信を語ることができた』。

拡大する自由

ものみの塔協会発行の文書の輸入および配布に対する禁令は1945年3月に解除されました。それは確かにニューファンドランドにおいて王国の関心事が大きく拡大する時でした。7万5,000冊の文書がブルックリン本部に発注され,かつて倉庫があった場所に支部事務所が設立されました。またものみの塔ギレアデ学校の卒業生が大きな町で奉仕するよう割当てられ,諸会衆を訪問したり年に二回の築き上げる大会を組織したりする巡回および地域監督たちも任命されました。こうして組織はさらにしっかりと結合したものになりました。

まもなく支部の建物が手狭になったため,1946年6月6日にセントジョンズのペニーウェル通り239番にもっと広い場所を入手しました。新たに到着した宣教者のひとり,チャールズ・クレモンズは支部の監督に任命されました。セントジョンズとコーナーブルックの二大都市に宣教者を集中する取決めが設けられました。「希望」号は孤立した海岸沿いの村々に王国の音信を携える仕事を引き続き行なっていました。しかし何年かするうちに,道路が島を縦横に走るようになりました。他にも便利な設備ができ,海路による伝道は重要でなくなりました。南部とラブラドルの海岸を除き,実質上すべての開拓地に通じる道路がまもなく敷かれました。

とはいえ,1940年代には巡回監督はまだ旅行の苦労をいろいろ経験しました。たとえば,ジョージ・ストーバーは旅行中に危険な目に遭ったことをこう話しています。『帰りの旅は楽ではありませんでした。国中は冬のさ中で,約53㌔の道のりを歩いて行くうちに気温は零下29度ほどに下がりました。最初の晩,わたしは森の掘っ建て小屋で数名の人々といっしょに泊まり,機会を捕らえて彼らに話をしました。翌日,旅の最後の行程に入り,わたしは湖を渡り始めました。向こう岸に着く前に吹雪になり,小道が埋もれてしまったので,どちらへ行けばよいのかわからなくなりました。わたしは書類鞄を雪の上に置いてそれにすわると,導きを祈り求め,それから新たな確信を抱いて鞄を取り上げました。数歩行くと,湖の別の方角から来ている新しい小道にぶつかりました。わたしは,その小道がわたしの行先に通じていてくれるようにとひたすら願いました。だんだん暗くなってきました。もうじき小道が見えなくなることでしょう。その時頭を上げてまっすぐ前方を見ると,うれしいことに町の明かりが見えたのです。わたしはエホバのご配慮と世話に深く感謝しました』。

1946年,ガス・バーンズとフォード・プリンスは宣教者を訓練するギレアデ学校の戦後最初の国際クラスに招待されました。卒業後ふたりはニューファンドランドに戻り,バーンズ兄弟は巡回奉仕を引き続き行ない,プリンス兄弟は「希望」号の運転を監督しました。「希望」号は,1955年12月に廃止されるまで,王国の関心事のためになお多くの働きをしなければなりませんでした。数年間のその活動中,孤立した人々に大勢会いました。その多くは,増加の一途を示していた会衆に交わる王国の活発な伝道者になりました。

1946年から1947年にかけての奉仕年度はニューファンドランドの兄弟たちにとって際立った年となりました。8人の開拓者と38人の伝道者は合計2万5,000冊の文書を配布しました。しかし,1947年の一番の喜びは夏の大会であり,その時特別な歓迎を受けた訪問者はノア兄弟とヘンシェル兄弟でした。ものみの塔協会の会長がニューファンドランドを訪れたのはそれが最初でした。広く宣伝されたその時の講演の主題は「諸国民の永遠の統治者」でした。ノア兄弟自身もその宣伝に参加する喜びを得ました。「希望」号に乗船してセントジョンズ港を巡り,来るべき講演を音響装置を使って発表したのです。

ニューファンドランド人にバーニーとエバで知られるチャールズとエバ・バーニー夫妻は,区域が広範に散在するコーナーブルックの地域に宣教者として割り当てられました。ふたりが到着してみると,最初のグループは,関心を持つ2,3家族だけを残して引っ越していて,支部事務所には伝道活動が全然報告されていませんでした。しかし,続く6年間に宣教者たちはその近隣の丘陵地帯をあちらこちら歩きまわり,大きな変化をもたらしました。バーニー夫妻が去った時,コーナーブルックにはエホバを賛美し繁栄する会衆ができていました。

1945年の秋にニューファンドランドに割り当てられた最初の宣教者のグループとともに来たウォルターおよびグレース・ケイニッツはこの島ですでに30年間過ごしました。1962年,ふたりはアルゲンチアとその周辺の開拓地で働く割り当てを受けました。そこではよく,駐とんしているアメリカ海軍の職員に証言する機会がありました。とりわけ相当数の妻たちが王国の音信を受け入れ,彼女たちはやがてアメリカに戻って行きました。

1952年までにニューファンドランドには21の会衆があり,315人の伝道者が忙しく働いていました。その年にはまたM・F・ラティンが支部の監督に任命されました。

年ことに新しい会衆が設立され,王国の音信を広める努力を増し加えました。ギレアデで訓練された宣教者,バーナードおよびエリザベス・マーラーの努力により,1952年,ボナヴィスタに新しい会衆が組織されました。1953年にはジョオ・バッツ・アームに,1955年にはステフンビル,ムスグレイブ・ハーバーおよびマウント・パールに会衆が組織され,1957年にはギレアデ卒業生の活躍でポルトーバスクとエプワースに会衆ができ,1958年にはノリス・ポイントにも設立されました。その後,ルイスポート,ハピー・バレー,ベイ・ロバーツおよびウェイブリッジに会衆ができました。セントジョンズ市でも顕著な事が起きていました。会衆が非常に大きくなったため,1963年に幾つかの群れが作られたのです。

家族が必要のより大きな土地に移ることは,ニューファンドランドにおいて良い結果を生みました。それを通して1964年にラブラドルで,1967年にカーボニアで,1968年にショール・ハーバーでそれぞれ会衆が設立されることになりました。開拓者が勤勉に努力した結果,1969年にはスプリングデールとベイ・ベルテに他の新しい会衆が生まれました。以来ニューファンドランドの業の記録は神権的な進歩を物語っています。

ニューファンドランドにおけるエホバの民の記録を振り返ると,わたしたちの心はエホバに対する感謝であふれます。1916年に最初の会衆がマクミラン兄弟によって組織されてから1974年に至るまで,記録によれば,すでに360万冊を上回る文書が町や村や外港など同島全土で配布されました。また,その業に300万時間以上が費やされ,関心を抱く人々を養うために100万を超す再訪問が行なわれました。その結果はといえば,過去25年間だけで1,180名を上回る人々は神に献身し,水のバプテスマによってそれを象徴しました。1975年の5月には最高数である1,131名の伝道者が活動を報告しました。しかし,さらに多くの人が神の組織に引き寄せられています。なぜなら,1975年3月27日の主の晩さん式に2,041人が出席したからです。

この地の孤立した謙そんな人々に真理がもたらされ,かわってその人々が他の人々に伝道したことにはエホバのみ手の働きがあったのでしょう。(使徒 11:19-21と比較してください)良いたよりは遠く離れた場所にも広められました。王国をふれ告げるという偉大なわざにニューファンドランドの兄弟たちを用いることをわたしたちの神が今なお喜びとしておられることを知るのは励みとなります。他方,兄弟たちはそうしたすばらしい好意を受けていることを幸福に思っています。