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ルクセンブルク

ルクセンブルク

ルクセンブルク

面積が2,585平方㌔,人口35万のルクセンブルクは世界で最も小さな国のひとつであり,フランス,ベルギー,ドイツに囲まれた,ヨーロッパの中心に位置しています。ルクセンブルクは,小さいながらも一個の自主独立国家です。高度に工業化されてはいますが,深い森やうねうねと続く丘のある気持ちの良い国です。しかも幸いなことに,ルクセンブルクには宗教,言論および結社の自由を保障する憲法があります。

幾世紀にもわたって,ルクセンブルクはカトリックの要さいとして名を成していました。しかし,今日政府はカトリック教会だけでなくプロテスタントやユダヤ教をも経済的に援助しています。カトリックの国ルクセンブルクには「現状を維持する」というモットーがあるのですが,現在700人を超す人々は,イエス・キリストが行なわれたように,神のみことばの良いたよりを戸別に宣伝しています。こうしたことがどうして起きるようになったのかは,エホバの証人の現代の歴史から知ることができます。

王国の音信がルクセンブルクに達する

早くも1922年から1925年にかけて,フランスのストラスブールの兄弟たちはルクセンブルクで聖書文書を配布しました。その時の配布は「挑戦」と題する小冊子に始まって「教会教職者級を告発する」と題する小冊子に終わりましたが,当時この国にエホバの証人はひとりもいませんでした。しかし,1929年に,ドイツのマクデブルクにあったものみの塔協会の事務所はアウグスト・リートメラー兄弟を開拓者としてルクセンブルクに派遣しました。同兄弟は1930年の夏にフランスのロレーヌ出身の開拓者である姉妹と結婚し,姉妹は彼に加わってその区域で働きました。ふたりは,「神のたて琴」,「神の救い」,「創造」,「政府」と題するそれぞれの書籍や幾つかの小冊子および「黄金時代」誌を配布しました。ドイツのダンチヒ出身のある開拓者の姉妹はこのふたりと共に短期間奉仕し,シュローダー兄弟も開拓者としてドイツのマクデブルクからここに派遣されました。

人々に音信をふれ告げるためのすばらしい道具は四部からなる「創造の写真-劇」でした。創造からキリストの千年統治の終わりまでを見せて聴衆に神の目的を知らせる,この特別の劇を上映するために,ドイツのマクデブルクの事務所は数人の兄弟をルクセンブルクに派遣しました。1930年に「写真-劇」はルクセンブルク市やエシュ-ズール-アルゼッティおよび他の多くの場所で上映されました。ルクセンブルク市では毎晩300人を超える人々が出席しました。エシュ-ズール-アルゼッティでも大成功を収めました。多くの人々が自分の住所を教え,それらの人々はリートメラー兄弟姉妹の訪問を受けました。

カトリックの反対が始まる

ルクセンブルクの宗教を長い間独占していたカトリック教会は,神のみことばの真理の進展をとどめるべく処置を講じました。彼らの扇動で警察の規定が設けられました。人々に「劇」を見させないようにし,「劇」が禁止されているとの印象を作り出すためです。そうした印象は,カトリックの新聞に掲載される偽りの報道によってさらに強められました。

それにもかかわらず,「写真-劇」の後に開かれた公開集会で受け取った住所を用いて,開拓者たちは真理にほんとうに関心を抱く,ルクセンブルクで最初の人々を見いだすことができました。南部で,キリストの足跡に真に従う者となるべく努力した最初のルクセンブルク人はフレッド・ゴーレスでした。そのきっかけについて,彼は次のように語っています。

「公開集会が開かれていたある晩,わたしは30代半ばの男の人と知り合いになりました。そして,学んだ新たな真理を他の人々に伝えたいとの願いを語り合いました。わたしの家でそのことについて相談した後,わたしたちは自分たちの決意をリートメラーさんに知らせました。その後間もなく,リートメラーさんは『王国は世界の希望』と題する,大量の小冊子と幾らかの書籍,それにいわゆる証言カードを1枚持ってきてくれました。わたしの記憶では,その証言カードは,片面がドイツ語,裏がフランス語という具合に2か国語で書かれていました。そこには,訪問の目的が述べられていたほか,世の終わりと地上がパラダイスになるという希望に関する簡潔な証言が載っていました。

「初心者であるパートナーとわたしは,ある日勇気を奮い起こして,初めての試みをしようと決めた街路に出掛けました。どのようにしたらよいのか,だれからも教えられていませんでしたし,ふたりとも以前にそれに類したことをした経験が全くありませんでした。それにもかかわらず,わたしたちは大いに勇気を奮い起こし,エホバに全幅の信頼を寄せました。エホバはわたしたちを援助してくださる,と心の中で考えました。そして,ほんとうにエホバはご自分の方法でわたしたちを助けてくださったのです。わたしたちは親しみ深い態度で人々にあいさつをし,証言カードを見せました。そして,人々が証言カードを読んでいる間にスーツケースを開けて文書を紹介しました。注目に値するのは,自分に答えられないような質問をされたらどうしようといった心配をせずに,最初からそれぞれひとりで家庭を訪問したことです。わたしたちは自分たちが説いているのは真理であることを知っていました。どんな事が起ころうとも,わたしたちはそのことから力と自信を得ました。

「わたしは最初に訪問した家をよく覚えています。義肢を付けていた,年配の親切な男の人がすぐ『創造』の本を受け取り,聖書を注文しました。わたしたちは親しい会話をし,わたしはできるだけ早く戻って聖書をお渡ししますと約束しました。……

「その後の家々では,懐疑的で音信を拒絶しさえした人々に会いましたが,最初の家でこのようにたいへん快く受け入れられた喜びから力を得て業を続けることができました。しばらくして警官が現われ,わたしたちの業をすぐにやめさせました。そして,ふたりのスーツケースを中味もろとも没収し,調書を作成すると家に帰るように命じました。わたしたちはほかに何ができたでしょう。いうまでもなく,その経験についてリートメラーさんにぐちをこぼしたところ,彼は文書を新たに支給してわたしたちを慰めてくれました。わたしたちは新しい,しかしこのたびは安いボール紙製のスーツケースを買い,再度試みました。わたしたちはしだいに賢明になり,また文書や道具類を何度も没収されてからのちは,文書をオーバーのポケットに隠しました。スーツケースを持たずに戸別の訪問をしたのです。このようにして,わたしたちは比較的目立たなくなりました」。

ルクセンブルク市で,1931年に「王国は世界の希望」の小冊子を用いてふれ告げる業を開始したのはおもにオイゲン・ロイターでした。しかし,ここでも反対に遭いました。ロイター兄弟は次のように回顧します。「リートメラー兄弟や他の開拓者たちは,戸別の伝道活動をしている時に,行商法でしばしば警察にやめさせられました。真理をふれ告げる業はことにカトリックの僧職者にとって肉体のとげになりました。宗教の自由が憲法で保障されていましたから,伝道をやめさせることはできませんでした。それで行商を口実にして証言をやめさせようとしました。ところがそれは成功しませんでした。そうした妨害のために,わたしたちの熱意はかき立てられたのです。法廷で有罪の判決を受けたり,時には無罪になったりしたにもかかわらず,関心を示して活発に証言に参加する人は増え続けました。警察はわたしたちを行商と文書の予約販売のかどで起訴しました。

「リートメラー兄弟が活動を始めてから3年して,当局は重大な対策を講じました。リートメラー兄弟はふたりの警官によってドイツの国境まで護送され,ルクセンブルクから追放されたのです。弁護士の話によると,当局の責任者たちは,ルクセンブルクのカトリック教会を保護するためにアウグスト・リートメラーを国外に追放したと彼に説明しました。数か月後に警察はエマ・リートメラー姉妹にも国外に出るよう勧告しました。ドイツから来た三人目の開拓者は,追放されることが目に見えていたので,その後しばらくして自発的にルクセンブルクを離れました」。

反対者たちはそうした手段によって伝道活動をやめさせるつもりでした。しかし,彼らは,真理の種がその間にしっかり根をおろすことを考慮に入れていませんでした。ついに,ルクセンブルクで初めて数名の人が水のバプテスマを受ける準備を整えました。1932年9月25日に,エシュ-ズール-アルゼッティのある私設の浴場でバプテスマが行なわれました。今や,ルクセンブルクにおける神権組織の基礎がすえられ,何ものもその発展を止めることができませんでした。

スイスから監督を受ける

1933年にドイツでエホバの証人のわざはナチスによって禁止されました。それでスイスのベルンにある事務所はルクセンブルクの兄弟たちと関心を持つ人々の世話をしました。聖書教育のための集会に関する指示ばかりか,法廷闘争に関する指示もそこから与えられました。伝道者たちは組織の面や,自分たちを霊的に強める面で援助されたのです。兄弟たちは公開講演者としてスイスからルクセンブルクに定期的に派遣されました。こうした親身の援助は間もなくさらに一層の良い結果を生みました。

1934年にすでに野外奉仕に携わっていた15名の伝道者たちは,多くの困難や反対にもかかわらず,同年中に3,164冊の書籍と小冊子を配布しました。北部の村々まで行くため,それら15名の伝道者たちは1日に130㌔ほどを自転車で走らねばならないことがよくありました。非常な努力を払った彼らは,徐々にルクセンブルクのあらゆる都市や村を訪れて伝道しました。

文書の配布が増加するにつれ,警察の報告書も同様に増えました。下級裁判所は首尾一貫して“文書販売の罪”という判決を満場一致で下しました。兄弟たちはそうした判決を何度も繰り返し上訴したので,事件は控訴裁判所に行き,ついには最高裁判所に達しました。それら上級裁判所すら下級の裁判所の判決を支持し,証人たちはまたもや有罪を宣告されました。

とはいえ,勇敢な闘士たちは,自分たちが伝道する人々はふたつのグループに分かれることに少しずつ気づくようになりました。ひとつのグループは僧職者の影響を受けて王国の証人たちに不親切であり,しばしば戸口で彼らを攻撃しました。このグループにかき立てられて,数人の警官は,「本を1冊でも配布したら,おまえたちを一番高い木からつり下げてやる」と言って王国伝道者を脅迫しようとさえしました。他の警察官たちは謝罪してこう述べました。「おわかりのように,わたしたちは召集されたのです。で,自分の任務を果たさなければなりません」。

1936年に王国伝道者の数は19名になり,3つの会衆に分けられました。また,そのうちの数人が外国の,より規模の大きい大会に初めて出席し,活動を続ける新たな力を得て帰ったのもその年のことでした。スイスのルセルネの大会で,その人たちはものみの塔協会の会長であるラザフォード兄弟に初めて会いました。この,エホバのための闘士が持つ勇気を目のあたりに見て,兄弟たちはどれほど深い感銘を受けたかしれません! J・F・ラザフォード兄弟はドイツからの出席者に対して,「穴にいるずるい古ぎつね」,アドルフ・ヒトラーのもとに帰ったら,神の王国は支配しており,この世のいかなる権力もエホバの王を失墜させることができないことを通告するようにと述べました。ついで彼は,ヒトラーに敬礼がささげられるときのように腕をかかげて,「キリスト万歳!」と言いました。こうした経験や講演のすべては,ルクセンブルクの兄弟たちを大いに築き上げるものとなり,彼らは活動を続ける勇気を再び奮い起こしました。

勇気を出した彼らは,証言カードを用いるほか,携帯用蓄音器をさらに活用して人々に聖書の講話を聞かせました。この方法はルクセンブルクの兄弟たちに大いに喜ばれました。というのは,伝道にそれを用いると,当局者は兄弟たちをあまり妨害できなかったからです。

ドイツによる侵略

1940年5月10日,ルクセンブルクは寝耳に水の侵略を受けました。事実,ドイツの軍隊はヨーロッパのほぼ全土にわたって一挙になだれ込んだのです。それについて考えるひまはありませんでした。エシュ-ズール-アルゼッティ市の当局者は全住民に,必需品を持って直ちにフランスの国境へ立ち退くようにと命じました。

その日,ルクセンブルクにおける大半のエホバの証人の活動は事実上やみ,伝道者たちは羊飼いのいない羊の群れのように散らされました。そして,続く5年間,彼らはそれぞれ厳しい試練に直面したのです。ルクセンブルクに住み,ドイツ軍のスパイをしていたドイツ人が通報したため,指導的な立場にあって広く知られた兄弟たちは保護拘置の処分を受けました。その兄弟たちはルクセンブルク市とトリーアの刑務所に数か月留置された後に釈放されましたが,伝道することを一切禁じられました。しかしながら,そうした困難な戦時下でも,いくらかの地下活動をすることができ,その結果数名の新しい弟子がバプテスマを受けました。ルクセンブルクのふたりの兄弟は,伝道を続けたとのけん疑で特に厳しい試みに遭いました。ルクセンブルクの証人で強制収容所に送られたのはこのふたりだけでした。

強制収容所で試みられた信仰

そのうちのひとり,ビクター・ブルッフ兄弟は次のような報告を寄せています。

「トリーアの刑務所で,わたしたちは署名をする見慣れた書類を渡されました。それに署名すれば,自分が誤った教理に従っていたこと,自分の信仰を否認したこと,ものみの塔協会の文書を所持していないこと,もはやそれを配布しないこと,文書を持ってわたしに近づく人をだれでも報告すること,およびドイツのすべての法律を尊重することを承認したことになるのです。ゲシュタポはあらゆる方法を使ってわたしたちを弱めようとしました。わたしが,書類に署名してそうした申し出を受け入れるのをあくまでも拒むと,わたしをブッフェンワルト・ワイマールの強制収容所に入れました。1941年1月2日のことです。まず,わたしたちふたりは3か月間流刑植民地に移され,良い食事や十分の休息を与えられずに石切場で働かねばなりませんでした。決して忘れられないこんなそう話があります。

「ブッフェンワルトに着くと,頭を丸坊主にそられて裸にされ,凍ったようにつるつるする通りの向こうにある浴場へ追い立てられました。それから再び通りを渡ってバラックに戻り,衣類を支給されました。そこの長いカウンターのところで,囚人服を,パンツから始まって一点ずつ囚人から渡されました。品物を支給する囚人の後ろにもうひとりの囚人がわたしと真向かいに立っていました。彼は収容所の外で何か変わったことがあるかと何度も尋ねました。わたしは返事をしませんでした。ゲシュタポは見張るためにしばしば囚人服を着て偽装していると刑務所で聞いていたからです。わたしはその囚人から尋ねられている最中にそのことを考えて,『わたしから何も聞き出させまい』と決意しました。わたしが衣類の最後の品を受け取ったとき,彼はこう言いました。『あなたはわたしに話してもいいんですよ。わたしもあなたと同類なんです』。それは正しくザールブリュッケン出身のエルンスト・ハセル兄弟でした。後で,彼がなぜそんなに知りたがったのかわかりました。兄弟たちは1937年に拘留されて以来組織から切り離されていたのです。そして,持っていた知識を常に熟考したり,毎日食卓を変えて話し合い,そうした知識を少しずつ交換していました。

「数か月後の1942年1月のことでした。収容所の職員は,収容所から支給されたセーター以外にセーターを持っている囚人は,東部戦線にいる兵士のためにそれを直ちに供出しなければならないという発表をしました。エホバの証人はみな,戦争目的のためには1枚のハンカチすら提供するのを拒否しましたから,1942年1月15日に閲兵場で全員が数時間立たされました。それからセーターを取り上げられ,罰として夜に働かなければなりませんでした。投光照明のもとで,小高い地域をならして競技場にしなければならなかったのです。通常の仕事が終わった後に,地面が固く凍る零下20度という気温の中でそうした作業をするのはたいへんなことでした。くつは没収されていましたから,木ぐつをはいて行進しなければなりませんでした。しかし,正にそうした苦しい時期にエホバはわたしたちを援助してくださいました。わずか3週間して,没収された衣類全部は,きちんと洗たくされ,修理がなされて刑務所のブロックに戻りました。それには,早計なことをしたということばも添えられていました。ベルリンの当局者はそうしたやり方を許さなかったのです。……

「わたしたちは1943年の春にわたしたちだけのブロックから立ち退かされ,幾つかの政治犯のブロックに分散させられました。そのようにしてエホバの証人の抵抗を頭打ちにしたいというのが収容所の手でした。ところがそれとは反対のことが起きたのです。今やわたしたちには,自分たちの信仰を他の人々に分かつ機会がさらに増えました。

「1944年2月,リブリンで職人が必要となったため,わたしがそこへ派遣されました。わたしたちをもはやルクセンブルク人でなくならせ,ましてやエホバの証人ではなくならせ,良いドイツ人に変えようという努力が払われました。わたしはそれを拒んだので,再び収容所に入れられました。わたし個人の衣服はからだからはぎ取られ,プラワイにある補助収容所に連れて行かれました。製材所だったその収容所では恐ろしい夜を経験しました。囚人は板の仕切りを隔てて警備隊といっしょにバラックで眠りました。ほとんど毎晩ゲリラと警備隊の間で撃ち合いが繰り返されたのです。

「ソ連軍が近づいたので,わたしたちはアウシュヴィッツに運ばれました。すでにしばらく前からアウシュヴィッツにいた兄弟姉妹は信用を得ていました。数人の姉妹たちは警備隊員に付き添われずに町へ歩いて行って,女主人のために買物をすることが許されていました。こうして,姉妹たちは外部の兄弟たちと連絡を取ることができました。姉妹たちは,難しくて危険の多い特別の任務を果たしました。青い表紙の学生用ノート数冊に『ものみの塔』誌の記事をすっかり書き写して,それをできるだけ多くの人々に回覧するよう努めたのです。わたしも幾つか手に入れて読みました。ひとつの主題を良く覚えています。それは,『苦悩する者たちへの慰め』です。

「ソ連軍が再び前進してきました。それはわたしたちが別の場所へ移されることを意味しました。それはドイツ中にわたる気違いじみた追跡のようでした。わたしたちの一部は締め切った家畜用の貨車に詰め込まれて送り出されました。その旅行用の食物はひと塊のパンだけで,それを3日もたせなければなりませんでした。しかし,その場合もエホバの知恵に頼ることができました。ひとりの兄弟が,『3日と言われたなら,このパンを6日分に分けたほうがいい』と言ったのです。実際のところ,10日かかることになっていました。停車した所でわたしたちは餓死しないように料理用バナナや草,また線路脇に生えているものをなんでも食べました。11日目にわたしたちはラヴェンスブリュックに着きました。その旅行の最後の数日間で1,500人を超す人々が餓死しました。死んだ人は一番後ろの車両に運ばれ,死体は何層にも山積みにされていました。

「非常バラックでわたしたちは他の囚人と有刺鉄線で分けられ,1日に半㍑の野菜スープとパンひと切れで満足しなければなりませんでした。

「ソ連軍はまたもや同収容所を激しく脅かしました。したがって,別の区域に移されることになり,そのために数日間行進しなければなりませんでした。わたしたち兄弟は離れ離れにならないようにいつも努力しました。49人の兄弟とひとりの関心を持つ人は一致団結し,互いに励まし合ったのです。ある晩,それまでになく激しい撃ち合いがありました。夜が明けて驚いたことに,ドイツの警備隊はいなくなっていました。数週間ほとんどふろに入っていなかったので体を洗ってから,わたしたち50人は何が起きたのかを知るために近くの村に行きました。するとそこで,公共の建物すべてがアメリカ軍によって占拠されているのを目にしました。

「それからわたしたちは村のはずれの牧草地に集合し,ひとりの兄弟が驚くべき解放をエホバに感謝する祈りをささげました。それは,1945年5月3日,ルプスでのことです。わたしたちはそのまま数日行進を続け,兄弟たちはそれぞれの家にたどり着くべくしだいに散っていきました。エホバは,困難で苦しい時を切り抜けるようわたしたちを助けてくださいました。エホバの援助なくしてはそれは全く不可能なことでした。

「1945年6月18日,わたしはエシュ-ズール-アルゼッティの我が家に着きました。非常にありがたく,またうれしいことに,そこで,わたしよりほんの5日早く帰っていた妻と子どもたちを見つけました。わたしたちがことばも交わさず互いに離れ離れになって以来,ほぼ2年の月日がたっていたのです。

「そうした困難な時期の間ずっとわたしの良い導きとなったのは,箴言 3章5,6節の聖句でした。そこにはこう記されています。『汝こゝろを尽してエホバにより頼め おのれのさとりによることなかれ 汝すべての途にてエホバをみとめよ さらばなんぢの途を直くしたまふべし』」。

戦後の再組織

第二次世界大戦の少し前に,ベルギーのブリュッセルにある協会の事務所はルクセンブルクのエホバの証人の活動を監督するようにという指示を受けました。戦争が終わると直ちに,同事務所はルクセンブルクにひとりの開拓者を派遣しました。それはルクセンブルク人の最初の開拓者であるエミール・シュランツ兄弟であり,彼は戦争中ベルギーで奉仕していました。彼は今度は自分の知っている兄弟たちすべてを訪問しました。会衆は新たに組織され,活動は繁栄を見ました。1946年度には,活発な30人の伝道者を報告し,39人という伝道者の最高数が得られました。

戦後組織に加えられた数々の変化によって,業は急速に発展しました。証言カードと蓄音器を用いて働くかわりに,兄弟たち自身が,神権宣教学校で受ける訓練を通して,公開講演をしたり戸口で証言をしたりする能力を身につけました。また,家庭聖書研究の業が促進され,それによって驚くほどの繁栄がもたらされました。

自由に伝道するためにさらに努力することは賢明でした。王国の関心事をより良く世話するために,非営利の法人組織として協会を設立することが決定され,1946年7月18日,ルクセンブルクのエホバの証人は彼らの歴史上重要なその里程標に達しました。認可されたことは,1946年10月23日付のアムツブラット・メモリアル紙上で発表されました。法人であるこの協会は兄弟たちにたいへん役立ってきました。

ブルックリン本部の兄弟たちによって築き上げられる

1947年に,ルクセンブルクのエホバの証人の歴史上もうひとつの大きな出来事がありました。初めて大規模な大会が開かれたのです。F・W・フランズ兄弟とグラント・スーター兄弟はその大会で兄弟たちに聖書から勧めのことばを与えました。協会のブルックリン本部から兄弟たちがルクセンブルグを訪れたのはその時が最初でした。当時幼かったひとりの姉妹はその時の感想を後にこう語りました。

「そのふたりの兄弟が台所でわたしたちといっしょに食事をなさったことは忘れられません。おふたりは,騒々しいボーリング場の横の,ルクセンブルクの大会会場よりずっと大きくてすばらしい会場で話すのに慣れておられることを,わたしは幾度も考えました。でも,そうしたことは,ふたりの兄弟にとって,徹底的に証言する妨げとはなりませんでしたし,少しの不平も言われませんでした。1947年6月11日の朝,ブリュッセルの兄弟がフランス語でバプテスマの話をし,6名の人が受浸して兄弟になりました。それはわたしたちにとってすばらしいことでした。その晩フランズ兄弟がドイツ語で行なった公開講演の主題は『すべての人の歓び』で,その講演に123名が出席しました。その年以後,兄弟たちは巡回大会などのような規模の大きい大会を組織的に運営してゆくように励まされました。

「その最初の大規模な大会がたいへん成功したので,兄弟たちはその後規模の大きい大会を勇気を持って組織し,次のように大胆に宣伝しました。4名から6名の人が一組になり,自転車の両側にプラカードを結わえ付けて町を乗り回し,通りを全部網らしました。他の兄弟たちは大会を宣伝する広告を体の前と後ろに着けて街路を行ったり来たりしました。わたしたちはたいていののしられ,時には石を投げられることもありました」。

1949年3月,ギレアデの卒業生が初めてルクセンブルクに派遣されました。それはネルソン兄弟とカミングス兄弟で,比較的小さな組織を大いに強めました。ふたりは率先して雑誌を用いた街路の業を始め,それはエホバの王国を一層広く宣伝するのに役立ちました。しかし,カトリック教会は証言活動をやめさせようと躍起になっていました。

協会の会長ネイサン・H・ノアは,1951年8月24日から26日までフランクフルト・アム・マインで開催された,ヨーロッパにおける戦後初めての大きな国際大会に出席しました。ルクセンブルクからも出席した人々がいました。その後ノア兄弟はルクセンブルクに立ち寄って兄弟たちに話をしましたが,それは大きな証言の機会となり,兄弟たちは今でもその時のことを話し合うほどです。このたびは立派な会場を借りることができ,兄弟たちは前の晩に用意万端が調うように努力しました。ところがなんと会場はぎりぎりまで他の人々が使っていました。それで兄弟たちは大いに奮闘しなければなりませんでした。わたしたちの前に会場を使用したふたりの人の会話が耳に入りました。一方の人は他方の人に「この協会の会長はどんな人かなんとか見たいものだね」と言っていました。それを聞いたある伝道者は機転をきかせてこう答えました。「お会いになれますよ。会長はあそこ,演壇の前ではしこに乗って,幕にする布を釘で打ち付けています」。そのふたりの人はあっけに取られてしまいました。カトリックに普通の人物崇拝とは大きな違いでした。翌日,他の兄弟たちと共に首都の通りを自転車に乗って自分の講演を宣伝するノア兄弟の姿が見られました。兄弟が,演壇から勧めた活動に自ら携わるのを目にするのは実にすばらしい,また実に気持ちのよいことでした。

ノア兄弟の短い訪問は業全般とその特別の集会に大きな祝福となりました。兄弟の話に205名が出席したその集会は,ルクセンブルクでそれまでに開かれた神権的な集会のうち最大のものでした。こうした事柄のすべては組織を強めることに寄与し,同年,伝道者の数が初めて100名を超えて,113名の伝道者が野外で活発に奉仕しました。

売り歩く者ではなく宣べ伝える者

1952年と1953年に,再び組織にかかわる大きな裁判事件がありました。未成年者を含む数名の伝道者がフィッシュバッハで伝道をしていたところ,警官に呼び止められました。公式の調書が作成され,伝道者たちは行商法違反で起訴されました。裁判が開かれた時,ある年若い伝道者は3人の裁判官の前でたいへん立派に自分を弁護したので無罪になりました。ところが,年長の伝道者たちの方は,同じ裁判において成人であるという理由で有罪になりました。

翌1953年,その裁判は神の民に大きな変化をもたらしました。協会の弁護士はルクセンブルク市の控訴裁判所における裁判で裁判官たちに,双方とも同一の伝道活動をしているゆえ,メルシュの裁判所が同じグループの一部の人を無罪にし,残りの人々を有罪にしたのは道理に合わないことをはっきりと印象づけました。そうした矛盾に,公訴官までが兄弟たちの弁護に乗り出しました。“売る”という言葉は売り手が生活手段となる金銭を得るという意味を含むが,それは,年齢に関係なく,エホバの証人に当てはまらない,ゆえにこの活動に関して“売る”という言葉は使えない,と上級裁判所で自ら証明したのです。その結果はといえば,1953年3月26日の公開裁判で地方裁判所は次のような判決を下しました。

「最新のルクセンブルク法によれば,両上訴人の行為は販売をこととしておらず,また販売するもしくは注文を受けることをしようとするものでもないという事実から,行商に関する法令1.1.1850に対する違反は当然犯されていない。ゆえに最初の判決を却下し,両被告を無罪とする」。

警察側の大半はエホバの証人のその大きな勝利に敬意を示し,それ以後裁判に掛けられることはありません。兄弟たちは,その民が今日ルクセンブルクで宗教上の自由を享受していることを神に感謝しています。

1952年のほぼ同じ時に,首都当局は,パラデプラッツにあるクレークル・ビルディングの市営宴会場の使用を証人に許可しました。それは大きな反響を呼びました。というのは,それまで市の許可を得てよくそこを使っていたのはカトリックだけだったからです。以来,エホバの証人に対する当局者の態度はますます好意的で寛容になりました。

支部事務所の設立

組織を強化するうえで,1955年はもうひとつの里程標となりました。同年秋にルクセンブルクに立ち寄った後,ノア兄弟はルクセンブルクにものみの塔協会の新しい支部事務所を開設することを決定したのです。したがって,ルクセンブルクはもはやベルギー支部の監督を受けなくなりました。その結果活動が拡大され,1957年にはすでに6つの活発な会衆が設立されており,伝道者は230人という最高数に達しました。雑誌の配布数は1955年の1万6,157冊から1956年の4万7,174冊に増加しました。

ルクセンブルクのように小さな国に住んでいる人は,しばしば物事を小規模に考えます。ですから,ニューヨークにおける1958年の国際大会にルクセンブルクから出席した16名の人々が,組織の大きいことを知って仰天したのも無理はありません。一行は信仰を強められて帰り,自分たちの国の仲間の証人にいろいろと報告しました。

ノア兄弟は1960年に再びルクセンブルクを訪問しました。その時ルクセンブルク市はエホバの証人に市の公会堂を使用することを許可しました。7月14日に502名の人々は公開講演に出席しました。こうした事柄のすべて,およびルクセンブルクの証人の信仰と忍耐により,1961年には伝道者が303名に増加しました。

翌年,11人の兄弟はドイツのウィスバーデンにある協会の支部で開かれた王国宣教学校に招待されました。それは兄弟たちを大いに訓練し,組織の一層の進歩に貢献しました。自分の会衆に戻った兄弟たちはずっと優れた方法で王国の関心事の世話をすることができたのです。

様々な言語で伝道する

ルクセンブルクは小さな国ですが,30を超す国々から来た人々が住んでいます。王国伝道者が戸別に訪問する時,多くの異なる言語を話す人々に会うのは珍しいことではありません。ですから伝道者たちは,それら様々な言語グループの間に王国の関心事を促進させるべく努力しました。一例として,忍耐強く徹底的に訪問することにより,ついに1963年11月,ルクセンブルク市に12人の伝道者からなるイタリア語の会衆が組織されました。1967年11月には,ベルギー支部の協力のもとにルクセンブルク市で初めてイタリア語の巡回大会が開かれ,342人が出席しました。

興味深いことに,ルクセンブルクの公用語はフランス語ですが,一般の人々は,ケルト語を母体として近隣諸国の言語を取り入れたルクセンブルクのことばを話します。

フランス語を話すお隣りのベルギーには,今だにドイツ語を話す人々が住む多くの町や村からなる小さな区域があります。そこでは数人の伝道者が活発に奉仕していましたが,自分たちのことばで良いたよりを聞く機会がさらに必要とされていました。1965年の春,その区域の人々はルクセンブルク支部の世話を受けることになりました。同年10月までには,オイペンのドイツ語を話す地域で22名の伝道者からなる会衆が働いていました。そして1970年の5月に,同地域で巡回大会を開くことができました。

しかしながら,ルクセンブルク支部の監督の下で業が順調に発展することは神の敵対者悪魔サタンの喜ぶところではありません。サタンもいろいろな方法で活発に働きました。1965年は兄弟たちにとってひとつの試練の年となりました。兄弟たちの間に誤解とか論争その他の問題をまくのはサタンの常とう手段です。1965年に兄弟たちの間でそうした問題が大きくなっていきました。そのため組織に幾つかの変化が加えられました。アントン・リートンヤが臨時に数か月支部の監督を務めた後,アルバート・シュタイマンがルクセンブルクに派遣され,支部の監督および地域監督に任命されました。その試練の間,大半の兄弟は堅い立場を取り,多くが詩篇 127篇1節を一層良く理解しました。そこにはこう記されています。『エホバ家をたてたまふにあらずば建るものの勤労はむなしきことなり』。エホバの組織は清く保たれねばなりません。ルクセンブルクで8年間奉仕していた一特別開拓者はその時のことを,霊的にいって,「国中が新たな繁栄を見た」と述べました。1965年には初の国際大会というすばらしい機会に恵まれ,3,835人の出席者が霊的な宴に集まりました。

支部事務所と宣教者の家にするため首都の非常に環境の良い地区にひとつの建物を購入するよう,ノア兄弟が取り決めたのは,1968年6月5日のことでした。この建物は証言活動と業の促進に大いに寄与しました。改造が行なわれてたいへん美しい王国会館もでき,他の多くの会衆はそれに刺激されて自分たちの王国会館の建設を真剣に考えるようになりました。

宗教上の対照

ルクセンブルクにおいてカトリック教会はかつての権勢を失いましたが,エホバの証人は霊的な繁栄と発展および祝福を豊かに享受しています。証人が訪問する人々の大方は礼儀正しいのですが,神のみことばにほとんど関心を持っていません。僧職者の間で聖霊の信憑性が疑われているのですから,それも驚くにはあたりません。事実,ルクセンブルク市のある牧師は,聖書は人間によって書かれたものであり,その人個人の宗教観の表現にすぎないと述べました。教会の出席者が減少したのももっともなことではありませんか。

しかし,それとは対照的に,王国の音信の伝道者は聖書を支持し,さらに一層エホバの奉仕にあずかりたいとの願いを表わしてきました。たとえば,1975年の6月には王国の宣布者が790名という最高数に達しました。

1958年のこと,政府の一役人は協会の支部事務所を訪れ,エホバの証人の発展ぶりに驚きました。証人はその時ルクセンブルクで2番目に大きな宗教団体である,とその人は内輪の話をし,業に対する経済的な援助を政府に要請するよう示唆しました。

証人たちは,むろん,そのような事はしていません。彼らが信頼を置いているのはエホバであり,『世界とそのなかに充るもの』や『山のうへの千々の獣』はエホバのものなのです。(詩 50:10,12)神が証人に増加をもたらしておられることは,1975年3月27日に行なわれた主の晩さんの祝いに1,519人が出席した事実からも明らかです。そのうちから,あるいは出席しなかった他の人々の中から今後どれだけの人が証人に加わってエホバの奉仕に参加するかはわかりません。そうではあっても,証人たちは業が成し終えられるまでルクセンブルクで良いたよりを伝道し続ける決意をしています。そして,自分たちが享受している言い表わしがたいほどの特権と豊かな祝福のゆえに,愛する天のみ父エホバに深い感謝と賛美をささげます。