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第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

雑踏している都会と未開で住民のまばらな奥地,近代的な住宅とアフリカ式の粗末なわらぶき小屋,こうした興味深い対照の見られる国へわたしたちといっしょにいらっしゃいませんか。いろいろな人種の人々の間を歩き,彼らが話すことばを聞いてください。この国の人口2,600万のうち数百万人は英語かアフリカーンス語(オランダ語の古語に起源を持つ)を話し,残りの人々はホサ語やズールー語のような言語を日常語としています。

これが南アフリカです。国土面積は約122万2,480平方㌔で,興味深い人々が住み,その多くは愛すべき人々です。その中には霊的に良い事柄を切望する人が少なくなく,彼らの願いはエホバのクリスチャン証人がふれ告げる聖書の真理によって満たされています。

まず歴史を簡単にお話しすると,18世紀と19世紀の2世紀間,南アフリカは激しい戦争の舞台でした。中央アフリカから南下する黒人の“潮流”とケープ州から北上する白人の“潮流”がぶつかって血みどろの戦争をしたのです。最もひどかったのは,オランダ系の農民であるブール人と英国人との間で1899年から1902年にかけて戦われたブール戦争でした。その結果,ナタール州,オレンジ自由州,トランスヴァール州およびケープ州の4植民地は英国の支配下に入りました。1910年にその4植民地はひとつの国になり,50年後の1961年にはそれが,白人の過半数票を得て南アフリカ共和国となりました。黒人は,彼らの“故郷”すなわちアフリカ人の各部族に指定されている広大な地域の一部以外の土地で投票権を持っていません。

短い旅行

では南アフリカをかけ足で旅行してみましょう。アフリカ大陸の南端に近いケープタウンから始めます。ケープタウンは立法上の都であり,この国最古の都市です。北東約800㌔余りの地点には,オレンジ自由州の州都で司法上の都と考えられているブルームフォンテーンがあります。さらに北東にあるプレトリアはトランスヴァールの州都で,南アフリカ共和国の行政上の都です。

南アフリカの地形で主な特徴となっているのは内陸台地です。土地は東部沿岸の平野から急に隆起しており,標高約1,500㍍から3,300㍍の大山脈をいくつか形成しています。台地は西に向かって次第になだらかになっています。かつてその大部分はインパラ,しま馬,とびれいよう,その他の美しい動物の大群がたくさんいるゆるやかな起伏の草原でした。今日では,内陸のかなりの部分が農地であり,野生動物のほとんどは,世界的に知られるクリューガー国立公園などの特別保留地にしかいません。しかし内陸北部は土地がさらに乾燥していてカラハリ砂漠になっています。北東部にはかん木の茂るブッシュフェルトがあります。

オレンジ自由州のキンバリーはダイアモンド採鉱の中心地として世界的に有名です。ケープ州には,一連の鉱工業の町を総称した“鉱脈<リーフ>”の“女王”として知られる,同国最大の都市ヨハネスバークがあります。リーフは1886年にヨハネスバークで金が発見されたことによって存在するようになりました。同市から南東に空路で約480㌔ばかり行ったインド洋岸にダーバンがあります。そこでは色彩豊かなサリーをまとったインド婦人をたくさん見かけます。

南アフリカには少なくとも9つの部族に分かれる1,250万人のアフリカ人が住んでいます。最大の部族はホサ族とズールー族で,それぞれ300万人を上回ります。次はバストー族,次いでツワナ族,ツォンガ族,スワジー族,ヌデベレ族,ヴェンダ族その他です。アフリカ人の“故郷”すなわち各部族に指定された広い地域には,アフリカの人口の半数余りが住んでいるにすぎません。そうした“故郷”や特別区の生活様式は普通きわめて原始的で,ほとんどの人は泥を主材とした壁とわらぶき屋根の小屋で生活しています。残りの人々は,ソウェトのようなアフリカ人の町で,地方自治体によって建てられたコンクリートとレンガの小さな家に住んでいます。アフリカ人の町はヨーロッパ人の市や町から数㌔離れたところにあります。政府は,人種集団をそれぞれ別個に独立して発展させるという政策を取っています。南アフリカはそのアパルトヘイトつまり人種差別政策のために厳しい批判を受けてきました。

アフリカ人は,キリスト教世界の主要な宗派のほかに彼ら独自の宗教を持っています。キリスト教世界の主流をなす教理を信仰する人々がいるばかりか,アフリカ人の説教者多数がそれぞれ独自の宗教を始めました。その結果南アフリカには世界で最も多くの宗派,少なくとも2,000の宗派があります。キリスト教世界の教会のひとつに帰依していると唱えながら,たいていのアフリカ人は何らかの形で先祖崇拝をし,死者を恐れて生活しています。そのことは“故郷”において見られるだけではありません。最新型の自動車に乗る多くの近代的なアフリカ人が死んだ先祖の霊を慰めるために時折やぎを犠牲にささげます。

世紀の変わり目にさかのぼる

20世紀になったばかりのころ,南アフリカは今よりも人口が少なく,のんびりしていて生活もずっと単純でした。国はブール戦争からちょうど回復しつつあり,この魅惑的な畑に良いたよりが届くのに機は熟していました。

1902年のこと,オランダ改革派教会のある牧師が,任命地であるトランスヴァール州のクラークスドープにオランダから派遣されました。彼は古本の宗教書を一箱携えてきたのですが,その中に「聖書研究」と題する本,英語の「シオンのものみの塔」,「聖書は地獄についてなんと教えているか」と題する小冊子が含まれていました。フランス・エバーソーンとストッフェル・フーリエはクラークスドープでその牧師に会いました。ふたりは彼の蔵書を見せてもらって,前述の出版物にたいへん興味を持ち,蔵書から持って行ってもよいとの許しを得ました。ふたりはその出版物に書いてある真理に深い感銘を受け,新たに会衆を組織することにしました。彼らが「ボルヒード・ヴァン・クリストス」(キリストの満ち満ちたさま)と呼んだその会衆は南アフリカにおける王国の音信の一番最初の足がかりでした。

そのふたりは集会を開いたり,戸別に訪問して良いたよりを広めたりし始めました。1903年にフランス・エバーソーンはものみの塔聖書冊子協会の初代会長C・T・ラッセルに手紙を書き,「巡礼者」すなわち協会の特別な代表者を南アフリカに派遣してほしいと頼みました。ラッセル兄弟は,今は事情が許さないが,できるだけ早く派遣しようと返事をしました。

1906年にスコットランドのグラスゴーからダーバンに移民したふたりの姉妹は良いたよりを非常に熱心に広めました。まもなく,他の人々がその町で真理に関心を抱き,1906年の末までには南アフリカに「シオンのものみの塔」の予約購読者が40名いました。

1907年にはジョセフ・ブースというある「尊師」が南アフリカにおける王国活動の舞台に登場します。彼は英国に生まれ,29歳の時にニュージーランドに移って牧羊業を営み,その後オーストラリアで商売を始めました。ブースはバプテスト教会に入り,しはらくしてアフリカで宣教師になることが神の命であると感じました。そして,1892年に自立した宣教師としてニアサランド(現在のマラウィ)に着きました。彼はアフリカ人のための平等および「アフリカ人のためのアフリカ」という思想に情熱を燃やして,様々な「工業伝道団」を設立しました。

1900年までにブースは彼の伝道団のほとんどと手を切ってアメリカに2,3度旅行し,そこでセブンスデー・バプテスト派に改宗しました。その後まもなく彼はその安息日派の伝道団を設立するためにニアサランドに戻りました。ほどなくしてセブンスデー・バプテスト派といざこざを起こした彼は,セブンスデー・アドベンティストとつながりを持ち,その派の伝道団を設立しました。アフリカの社会改革という彼の企ては政府当局者からひどくきらわれたため,ブースは政府当局者とも争いを起こしました。1906年にブースはキリスト教会に関心を持つようになり,英国のキリスト教会からは拒絶されたにもかかわらず,南アフリカのキリスト教会ケープタウン支部からいくらかの応答を得ました。そして同教会がニアサランドで伝道団を設立するのに尽力しました。「インディペンダント・アフリカ」と題する刊行物によれば,ブースは「宗教のヒッチハイカー」のように宗派から宗派へ渡り歩きました。

1906年末ころ,スコットランドにいたブースはラッセル兄弟の著作を数冊読み,まもなくアメリカに行きました。彼はラッセル兄弟に面会を申し込んだのです。ふたりの話し合いは非常に興味深く重大な討議になりました。ラッセル兄弟はブースの背景およびアフリカ人にアフリカを復帰させるという彼の主な意図についてほとんど知らず,また彼がニアサランドですでに役人や白人から好ましくない人物として見られていることや自分の企てを財政的に支えるため様々な宗教組織を利用したことなどを知るよしもありませんでした。そのうえ,ラッセル兄弟は広い区域を新たに開発する人物をぜひ欲しいと考えていました。それで協会はしはらくの間,ブースが宣教者として彼の知り合いの人々に伝道する経費をまかないました。

そのために多くの問題が起きることや,協会の名前に非常な非難がもたらされることなど,ラッセル兄弟は少しも気がつきませんでした。ともかく1907年の初めにジョセフ・ブースはアフリカに戻り,ケープタウンおよび南アフリカの他の場所で活動を開始しました。ニアサランドで好ましからざる人物であったブースは,長い間そこへ戻らなかったようです。ただし手紙を書いたり使いを送るなどしてニアサランドの区域と緊密な連絡を取り,その地に多大な影響を与えました。

1908年6月1日付の「シオンのものみの塔」誌には,L・ド・ビアの署名が付されたラッセル兄弟あての手紙が掲載されましたが,その手紙から当時どんなことが起きていたかを幾分知ることができます。それは一部次の通りです。「わたしはあなたが著された6冊の本にたいへん興味を感じております。また,わたしのふたりの兄弟も同様に興味を抱いております。そのひとりはオランダ教会の牧師で,読書家というだけでなく思索家です。彼は名誉退職してトランスヴァール州のプレトリアに住み,依頼を受けて説教をするかたわらオランダ教会の新聞の編集をしています。……

「それからブース兄弟とわたしの共通の友人であるJ・H・オール尊師がいます。彼は(当地の郊外にある)ウィンバークの独立組合教会の牧師で,あなたの著書に書かれている新しい真理の一部をすでに伝道しています。

「すでにお聞き及びの通り,わたしを含め全員が千年期の音信に関心を抱く非常に気持ちのよいささやかな仲間は,オール兄弟の教会に集って過ぎ越しを祝いました。5人のヨーロッパ人と29人の原地人からなり,3か国語で司会されたその集まりは感銘の深い大切な時となり,わたしたちの人生に新時代を招きました」。

「ものみの塔」誌の1909年1月15日号には南アフリカの業に関するさらに多くのニュースが掲載されており,それは次のように報告しています。「真理を原地人に伝道している3人の黒人の兄弟がいます。そのひとりは音信を伝えるために約3,200㌔北方にある自分の郷里に行きました。この兄弟は若いにもかかわらず原地人の言語を数種類話すことができ,英語をすらすらと上手に書きます。彼から寄せられた最新の報告は大いに励ましとなります。原地人は,大いなる喜びの良いたより,回復の音信に対して耳を開いているようです」。

約3,200㌔の旅をして北方の郷里に行ったと言われている若いアフリカ人はエリオット・カムワナでした。カムワナはトンガ族の出身で,ニアサ湖の西岸にあるバンダウェでリビングストン伝道団(スコットランド長老派)の教育を受けました。しかし彼は1900年にニアサランドのブランティールでブースに会い,ブースが設立したセブンスデー伝道団のひとつで2年後にバプテスマを受けました。その後南アフリカに来てしばらくの間鉱山で働き,ケープ州で再びブースに会いました。カムワナは,数か月間ブースのもとに滞在して幾らかの知識を得た後自分の国に帰ったものと思われます。ブースは1909年7月1日号の「ものみの塔」誌上で,ヨハネスバーグとプレトリアにおいてアフリカ人に冊子を配布したことを詳述し,次いでこう語っています。

「彼らは,自分たちの故国ニアサランドでエリオット・カムワナ兄弟がふれ告げていると話に聞いたものと同じ音信が当地にもたらされたことを大いに喜んでいます。

「ここにわずか3か月の間いるひとりの人は,エリオットが1日に300名の人にバプテスマを施したのを見たと言っています。また別の人によれば,ある所には700人の信奉者がいるとのことです。また,ニアサランドの約30か所には,『神の計画』を長老派や英国国教会よりもよいとして受け入れた3,000人にも上る人々がいることも聞きました。全員が必ずしも先に述べた人々ほどの関心を示しているわけではないが,幾らかの関心を持つ人が9,000人ばかりいることをエリオット兄弟自身も報告しています」。

ラッセル兄弟は,同報告の終わりころに,ニアサ湖のバンダウェのカルビン派スコットランド人伝道団の扇動でエリオット・カムワナが逮捕されたという真新しいニュースを含め,「カムワナ兄弟は昨年9,126名の人々にバプテスマを施しました」という短いことばでその報告を結んでいます。

そうした途方もない数字に関しては何の注解もなされていません。当時アメリカ全土でもバプテスマを受けた人の数はそれよりずっと下回っていました。ところで,カムワナはなぜ,またどんな方法を用いてそのような記録を作ったのでしょうか。

「ものみの塔運動」が始まる

実際,ブースもカムワナも偽りの宗教である大いなるバビロンをほんとうに離れておらず,聖書研究者もしくはエホバのクリスチャン証人になったとは決して言えませんでした。ふたりはわずかな期間,しかも表面的にものみの塔協会と関係を持ったにすぎません。1900年代の初期に真理を知っていたマージョリー・ホリデイ夫人は,ブースがダーバンの2階の部屋で開かれていた兄弟たちの集会をしばしば妨害しようとした話をしてくれました。わたしたちのクリスチャン姉妹である彼女はこう語ります。「たとえばこうです。わたしたちが『律法からの自由』という歌をうたっていると,彼は外に陣取って『律法から自由ではない』と応酬しました」。

ですから,ブースの霊的な見習生であるエリオット・カムワナが,協会の出版物に示されている真理を非常にゆがめて理解していたとしても不思議ではありません。しかし,彼がニアサランドに戻って実際に何を伝道したかは現在知るすべもありません。彼の運動の著しい特徴は屋外の劇的なバプテスマにあったということは間違いがないようです。とはいえ,カムワナが施したバプテスマは,エホバのしもべが行なう真のクリスチャンのバプテスマと何の関係もありません。カムワナがどんな話をし,どんな方法を用いたにせよ,彼の運動は長続きせず,だいたい1908年の9月から1909年の6月に至る短いものでした。政府が介入して彼を投獄し,その後セーシェルズ諸島に追放したのです。彼は1937年までニアサランドに戻ることが許されませんでした。しかしその年に帰った彼は,偽りの「ものみの塔運動」のひとつを引き続き指導しました。

非常に残念なことですが,カムワナが行なった事柄のために,中央アフリカの状況は長い間混乱をきわめました。ラッセル兄弟の著書をわずかばかり利用した幾つかの運動が興りました。それらは独自の考えややり方に幾らかの真理を混ぜていました。それで多くの人々は惑わされて道を誤ったのです。そうした運動のすべてが「ものみの塔」もしくは「ものみの塔協会」という名前を用いたわけではありません。事実,カムワナが率いる運動はやがて「物見の伝道団」という名前になりました。

ずっと後の1947年,それら偽りのものみの塔の分派がなお幾らかの混乱を引き起こしていたため,ニアサランドの王国伝道の業を監督していた兄弟たちはカムワナに手紙を書き送りました。署名入りの自筆の返信の中で,彼はこう述べています。「ニアサランドの黒人もヨーロッパ人も,物見の伝道団がヨーロッパ人のものみの塔聖書冊子協会と関係のない別個のものであることを知っているので,物見の伝道団(ムロンダ伝道団)はうわさに浪費する時間を持ち合わせていません」。

したがって事実からきわめて明らかな通り,カムワナはエホバの献身した真のしもべなどではありませんでした。また,彼が,様々な偽りの「ものみの塔運動」結成の先がけ,もしくは原因となったことは明らかで,事の発端は彼が1909年に行なった「火のように激しい」運動にあるようです。その時ニアサランドにいた,ヨハネスバークに住むアフリカ人のヌグルー兄弟はカムワナの運動が「草に付いた野火」のようだったと語っています。当時,大勢の人々が仕事と良い給料を目当てにニアサランドから移住しました。偽りの「ものみの塔運動」がそうした方法でローデシアやコンゴ一帯および南アフリカにまで広がったことは明らかです。

ダーバンは音信を聞く

ここで1906年当時のダーバンに戻りましょう。マージョリー・ホリデイと彼女の母親はモートンという夫人の隣りに住んでいました。スコットランドのグラスゴーにいたアーノット姉妹は実の姉妹であるモートン夫人に小冊子やパンフレットを絶えず送っていました。モートン夫人は,それらの小冊子をマージョリー・ホリデイの母親,アグネス・バレット夫人に回し,やがてふたりとも真理を受け入れました。その時ダーバンにはスコットランドから来たテイラー姉妹もいました。少し後にアーノット姉妹とその家族はグラスゴーからダーバンに移住することを決心しました。それで,ホリデイ姉妹によれば,ダーバンで実際に業を始めたのはアーノット,テイラー,モートンおよびバレットの4人の姉妹たちでした。真理を広めるために彼女たちが用いた主な方法のひとつは,海岸にいる人々に小冊子とパンフレットを手渡すことでした。

マージョリー・ホリデイ自身は10歳の時,長老派教会に脱退届を書いて大いなるバビロンから離れ,はっきりした立場を取りました。彼女は,1910年にアメリカの黒人のワイチュス兄弟がダーバンの小さな群れに加わったことも伝えています。ホリデイ姉妹は同兄弟がそこで非常に成功したと言ってから,一大事件が起きたことを話してくれました。ラッセル兄弟によるものと思われますが,明らかにワイチュス兄弟はアメリカに召還されました。ところが船がダーバンを出る直前に,兄弟はブースに誘かいされ,一室に監禁されてしまったのです。(ブースがなぜそうしたかは不明です。)ともかく,ダーバンの姉妹たちはワイチュス兄弟が閉じ込められている場所をやっとのことでつきとめ,バレット姉妹が兄弟を救い出すことに成功して,兄弟が乗船できるように波止場まで安全に送り届けました。

1910年までに良い種が幾らかまかれましたが,南アフリカでは奇妙な事が起きていました。ニアサランドの状況はかんばしくなく,ブースはダーバンで問題を起こしていました。円熟し信頼のできる人がこの広大な区域における王国の業を監督することは是非とも必要でした。

転換点

1910年は南アフリカにおける王国の業の新しい章が始まった年です。その時までにブースは,協会に関する限り終わりを遂げていました。この年の半ばころにラッセル兄弟は,30代の初めと思われるウィリアム・W・ジョンストンを派遣しました。彼はグラスゴー出身のスコットランド人であり,気まぐれで風変わりなブースとは正反対の,まじめで注意深く,信頼のできる人物でした。グラスゴーで数年間長老をしていたジョンストン兄弟は神のみことばに対する造けいが深く,すぐれた話し手でもありました。彼は,ブースの英雄的行為によってひどくゆさぶられたアフリカの区域で是非とも必要とされた「人びとの賜物」のひとりでした。(エフェソス 4:8)ジョンストン兄弟の主な使命はニアサランドに行って実情を調べ,兄弟たちに援助を差し伸べることでした。

ニアサ湖を発見した最初の白人は有名な探検家で宣教師のデイビッド・リビングストンです。それは1859年のことでした。その後国土は,スコットランド長老派やローマ・カトリック教会の宣教師により白人の居住地を求めて開拓されました。そして1891年にそこは英国の保護領となり,英領中央アフリカの一部となりました。ジョンストン兄弟が旅行した当時,ニアサランドの人口は約100万人で,白人の居住者はほとんどいませんでした。

ニアサランドに4か月ほど滞在したジョンストン兄弟は,100に近い村にそれと同数の教会があり,「真理を示す」という義務を負っている原住民が幾千人もいると報告しました。(ペテロ第二 1:12,欽定)彼は,「真理をかなりよく理解」している人が幾らかいるのを知りましたが,全体的な傾向には非常に失望しました。

ジョンストン兄弟は次のように語っています。「すべての牧師や教師に基金を寄付し,彼らに協会の有利な仕事を与えるためにお金をどっさり持ってわたしが現われた,とも考えた人々が中にはいたようです。わたしはその考えが間違っていることをその人たちに悟らせなければなりませんでした。……言うのも残念ですが,個々の兄弟たちとの交渉において,最後にはほとんどきまって何らかの形で財政援助をしてほしいと頼まれました」。彼はまた,ブースの影響が「ニアサランドで顕著」であることも知りました。7日目の安息日を守っている人たちがいたのです。「わたしはその問題に関する真理を示すべく自分にできるだけのことをしました。そして神のご援助によって少なくともそのうちの幾らかの人を束縛から解放することができました」,とジョンストン兄弟は述べました。

ジョンストン兄弟は組織らしきものを設立すべく努力し,安息日の問題を解決したあと,教え手として数人の原地人を選びました。彼はまた,多くの人々が「神のみことばに精通したいという強い願いにあふれている」ように見えたことを喜びました。南アフリカに戻ってしばらくの間,彼はニアサランドのそうした人々から報告を受け取りましたが,数年後には連絡がほとんど途絶えてしまいました。ブースとカムワナが始めた運動は15年間全く野放しにされていました。そうした状況が誤った土着の「ものみの塔運動」を生んだのも不思議ではありません。

広大な区域を持つ小さな支部事務所

1910年にダーバンに戻ってまもなく,ジョンストン兄弟はダーバンでものみの塔協会の支部事務所を開設するようにという指示をラッセル兄弟から受け取りました。職員がひとりしかいない新しい支部はダーバンのスクール・レインにある小さな部屋に過ぎませんでした。その部屋は事務所として使われ,時には集会場所にもなりました。しかし,その支部が管轄していた区域は途方もなく広く,おおざっぱに言って,赤道の南側のアフリカ全体を含んでいました。実際のところ,同支部管轄下の区域の中には,コンゴ,ウガンダおよびケニアなどのように赤道の北側にまで及ぶ所もありました。そのほかに含まれていたのは,インド洋上のモーリシャス島,モザンビーク海岸沖の大きなマダガスカル島(マラガシー共和国),大西洋の数百㌔沖にあるセントヘレナおよびギニア湾のサントメ島でした。しかしながら,預言者ゼカリヤの次のことばは確かです。『誰か小さき事の日をいやしむる者ぞ』― ゼカリヤ 4:10

努力は実る

ワイチュス兄弟のような謙そんな人の働きを侮るべきではありません。ある時同兄弟はダーバンで一軒の家を訪れ,「聖書研究」と題する本の全巻を配布しました。求めた婦人は自分ではそれを読みませんでしたが,ほどなくして娘のトンプソン夫人がグラスゴーへの船旅にそれを持って行き,旅行中に読みました。グラスゴー滞在中,ある人が訪れてチャールズ・T・ラッセルによる講演会の宣伝ビラを置いて行きました。トンプソン夫人が行ってみると,会場は大入り満員で夫人の入る余地がありませんでした。しかし,その時兄弟たちがオーケストラ・ボックスを開放してくれたので,トンプソン夫人はよく見える席で公開講演を聞き,大いに楽しみました。グラスゴーの一姉妹は夫人の南アフリカの住所を得,やがてW・ジョンストン兄弟が彼女を再訪問しました。トンプソン夫人は真理を受け入れ,ほどなくしてバプテスマを受けました。彼女は,1965年に98歳で亡くなるまで長年の間忠実で活発な伝道者でした。また夫人の娘とふたりの孫娘も熱心な証人になりました。ですからワイチュス兄弟が行なった訪問はたいへん実りの多いものとなりました。

その間ダーバンではジョンストン兄弟が毎日曜日の晩定期的にスミス通りのマソニック・ホールで聖書の講演をしていました。それまでのところ聴衆はほんの少数でしたが,その中にマイアダルという名前のノルウェー人がいました。彼の妻はセブンスデー・アドベンティストの忠実な信者で,ふたりは幾晩も教理について論じ合いました。ついにマイアダル氏はその話し合いに勝ち,まもなく彼と彼の妻および息子のヘンリーはジョンストン兄弟の講演を定期的に聴きに行くようになりました。三人は「公開聖書研究会」と呼ばれた日曜日の午前中の集会にも出席し始めました。

1911年からはまた,南アフリカでアフリカ人が真の関心を示したというはっきりとした記録があります。ダーバンから約48㌔離れたヌドウェドウェというアフリカ人の小さな郡のエレミヤ・クールースは,ヨハネス・チャンジェと呼ばれるひとりの男の人がケープタウンからそこへ来た時のことを覚えています。チャンジェはケープタウンで真理の知識を得,ヌドウェドウェの自分の郷里でそれをぜひとも広めたいと思っていました。エレミヤ・クールースの父親は大いに関心を抱き,地獄に関する新しい教理については特にそうでした。こうして聖書研究が始まり,しかも毎晩行なわれました。その小さな群れには大勢の人が交わりました。彼らは研究の資料として「聖書研究」を用いました。その人たちは数か月後にはすでに,教会に行っている他の人々に伝道するようになっていたので,土地の僧職者は心配し始めました。その結果,ウェスレイ派のメソジスト教会の会員は一緒に集まって問題を話し合いました。いろいろ論じ合われた末,新たに真理に関心を抱いた人々は教会から破門されました。彼らの集まりは恐らく,南アフリカで組織された真の崇拝者のアフリカ人の会衆の最初のものだったでしょう。

ジョンストン兄弟は1911年に多忙をきわめました。彼はトランスヴァール州のヨハネスバーグとオレンジ自由州のペリーに特別の旅行をしました。彼はヨハネスバーグで多くの訪問を行ない,その結果「バイブル・クラス」の集会が取り決められました。ペリーの公会堂では非常に良い集会が開かれました。市長が講演者を紹介し,市長代理がその話をオランダ語で通訳し,約250名の人々が聴いたのです。ジョンストン兄弟が当時神の民によって世界的に行なわれていたクラス拡大の業に忙しく働いていたことは明らかです。まもなく,プレトリア,バルフォア,ポート・エリザベスおよびヌドウェドウェでも集会が開かれるようになりました。

エホバのしもべは,少数ではありましたが,聖書の重大な音信を広めるために非常な努力を払いました。1913年2月1日号の「ものみの塔」誌に載せられた,南アフリカにおける業に関する1912年度の報告によれば,彼らは「一般人伝道者」と題する小冊子の英語版2万8,808冊,「万人の新聞」と題する小冊子の英語版3万冊,「一般人伝道者」のオランダ語版3,000冊を配布しました。また興味深いことに,1913年11月15日号の「ものみの塔」誌には文書がズールー語で入手できるとの短い知らせが出ています。良いたよりは南アフリカの多くの人々に知らされつつありました。

さらに,そのころ,ラッセル兄弟の説教が新聞に定期的に掲載されていました。1913年12月15日号の「ものみの塔」誌によれば,英国,南アフリカおよびオーストラリアの約600の新聞社が毎週彼の記事を印刷しました。全世界ではそれがほぼ2,000社に上りました。ジョンストン兄弟は南アフリカで説教の出版代理機関を組織し,1913年の末までに同国の11の新聞社は4か国語で説教を掲載していました。

1914年が来た!

月日がまたたく間に過ぎて,1914年に入りました。当時世界中の兄弟たちはその年に何が起きるかをいぶかっていたに違いありません。南アフリカの兄弟たちはその日付を大いに意識していました。そうした人々の中にダーバンのマイアダル家族もいました。ヘンリー・マイアダルはこう語っています。「わたしは1914年8月4日という日をよく覚えています。その日母は新聞を読みながら,わたしたち家族の者に,『ほらこれ! 戦争が起きたのよ。ラッセル師の本に出ていたとおりだわ』と言いました」。

海の向こうの英国では多くの人が関心を持って世界の出来事を見守り,「しるし」を認めていました。ジョージ・フィリップスという名の若い兄弟もそのひとりでした。彼は16歳の少年で,英国ファーネスのバロウで聖書文書頒布者をしていました。ジョージはその時,南アフリカにおける王国の業の発展に自分が重要な役割を演じようとは少しも知りませんでした。

北のニアサランドで真理に誠実な関心を抱いていた多くのアフリカ人もその日付に注意していました。ドイツ人はタンガニーカ(当時のドイツ領東アフリカ)の国境を越えたばかりであり,英国軍は国境を守る準備をしていました。ある人々は聖書の預言が成就しつつあることに気づいていました。

「独立したアフリカ人」と題する本の230ページは次のように述べています。「アフリカ人自身,戦争が彼らにもたらした不安定な状態に関する独自の記録を残した。実際,多くの人々にとって,世界が1914年10月に終わるというものみの塔の預言はまさに成就しようとしているように思われた」。そのことを確証していたのは,ニアサランドのアチャーワという兄弟がラッセル兄弟に送った手紙です。(1914年9月1日号の「ものみの塔」誌に掲載)その手紙にはなかでも次のように書かれていました。「聖書によれば確かにわたしたちは終わりの時代に住んでいます。……しかし,わたしたちは聖書の中で,救出者が訪れ,神の王国が到来し,諸国家すべては我らの神の方法を知ること,しかし,邪悪な者たちを神は滅ぼされることを読んでいます」。その手紙は続いて集会の模様を伝え,特別な場合には一度に何百人もの出席者があることを述べています。

「最初の南アフリカ大会」

この見出しのもとに,1914年8月15日号の「ものみの塔」誌はジョンストン兄弟の手紙を載せました。彼は次のように書きました。

「国際聖書研究者協会の最初の南アフリカ大会は今や歴史にその記録をとどめ,出席する特権にあずかった人々にすばらしい思い出となりました。その思い出は,幕の向こう(天)における,あらゆる大会中最もすばらしい大会に行くまで刺激となり励みとなるものです」。

ジョンストンは続けて,その大会がダーバンで4月10日に開かれたこと,人々が亜大陸のあらゆる場所からやって来たことを述べ,「1,600㌔近くも旅行したひとりの姉妹」についてふれています。ジョンストンはまた,「わたしたちは全くのところほんとうに『小さな群れ』で,最大の出席者数は34名でした」とも語りました。ジョンストン兄弟が34名と言ったのは聖書研究者のことで,公開講演の出席者はおよそ50名でした。出席者数から考えるとバプテスマを受けた人の数は多く,合計16人でした。兄弟たちは同じ週の週末にキリストの死の記念式をも行ない,32人が表象物にあずかりました。それらの兄弟にとって,57年ほど後(1971年)にヨハネスバーグで大会が開かれ,出席者の合計が5万人近くに及ぶことなど思いもよらないことでした。このことは確かに,『小さきものは千となる』という預言を思い出させます。―イザヤ 60:22

いわれのない非難

1915年の最初の数週間,ニアサランドは暗たんとしていました。すでにその時までに英国とドイツは国境で激しく戦闘を交え,その結果英国は勝利を得ていました。その闘いでアフリカ人の死傷者が多数出ましたが,さらに悪いことが続きました。1月23日に,アフリカの一宗派の教育ある指導者ジョン・チレンブウェに率いられた大規模な暴動がアフリカ人の間で起こったのです。彼は土地のヨーロッパ人数名を殺害し,全国的な暴動を起こそうとしました。しかしその企てはアフリカ人部隊とヨーロッパ人の将校および自発的な人々によってすぐに鎮圧されてしまいました。

ところが,後に,ものみの塔協会がその反乱と関係したという非難がなされたのです。事実,「第一次世界大戦の歴史」と題する公式の出版物は,チレンブウェのことを「いわゆる『ものみの塔』派に属する……狂信者」であるとしています。その後注意深い調査によって,真理に関心を抱くニアサランドの人々,また,カムワナの運動,すなわち偽りの「ものみの塔運動」の人々さえそれ自体としてはその暴動と直接関係がない,もしくはそれに対する責任がないことが証明されました。「独立したアフリカ人」という本はこの件に関する証拠を徹底的に調査し,324ページで次のような結論を述べています。「チレンブウェ自身はアメリカ人のものみの塔運動と何ら明らかな関係を有していなかった。彼の反乱計画とアメリカの同組織とを関連づけようとするのは間違いであると思われる」。チレンブウェはブースの改宗者のひとりであり,ブースはかつて協会と多少関係を持っていましたから,当然,真理の敵対者たちはその事実を使って非難し,協会を他人の身代りにしようとしたのです。実際,チレンブウェと彼の副官は非常に重んじられていた正統派の伝道団の成員でした。それらの伝道団も政府から激しく批判されました。

「独立したアフリカ人」の232ページには,また,ものみの塔協会の出版物は数人のアフリカ人に影響を与え暴動に参加させたという偽りの非難に関して興味深い注解が述べられています。「しかし,彼の教えの信者は千年期を迎える準備として現在の諸制度の転覆を早めるために積極的な行動を取るべきであると示唆している箇所は,ラッセルの著作のどこにもない(下線は発行者)点にも注目しなければならない。それどころか信者たちは神が介入されるのを忍耐強く待つように勧められているのである」。

拡大は続く

数か月後ダーバンにおいて兄弟たちはもう一度非常にすばらしい大会を開きました。その大会も死の記念式と合わせて開かれ,47名の人が表象物にあずかりました。ズールー語のクラスにはヌドウェドウェで38人,ヨハネスバーグで15人,ケープタウンで8人,ダグラスで6人,バルフォアで2人が出席しました。

1914年は到来し,そして過ぎ去りました。世界の出来事は預言の著しい成就となっていましたが,業はまだ終わっておらず,なすべきことはさらに多くあるように思われました。ジョンストン兄弟はラッセル兄弟にあてた手紙の中で「昨年は個々の人々にとってもクラス(すなわち会衆)にとっても試練や試みの続いた年でした」と述べました。しかしながら,1915年度の南アフリカにおける活動の報告を見ると,4,700冊を上回る書籍が配布され,無料の文書が7万5,131部配られ,312の集会が開かれました。業が停止することは決してありませんでした。

「創造の写真-劇」

1916年に「創造の写真-劇」が南アフリカに着きました。これはスライドと映画と録音を組み合わせたもので,地球と人間に対する神の目的を概説していました。「写真-劇」はケープ州で問題に遭遇したようです。そして,一般の「宗教感情を害する」恐れがあるとして同州の当局者により禁止されました。

しかし,ジョンストン兄弟の計算によると,1918年初頭までの18か月間に彼は約1万6,000㌔余を旅行して南アフリカの随所で「写真-劇」を上映したのですから,その業の規模がどれほどであったかを知ることができます。どこにおいても「劇」には多くの聴衆が詰めかけました。ケープ州では上映が禁止されましたが,ダーバン,ヨハネスバーグ,プレトリアその他トランスヴァール州,オレンジ自由州,ナタール州の様々な場所で上映されました。劇の上映は,大勢の人々が真理の側に集められる結果をもたらしませんでしたが,非常に広範にわたる強力な証言となりました。

ローデシアとトランスヴァールの初期のニュース

ローデシアの王国活動のことが初めて話に出て来るのは1916年のことです。ウィリアム・W・ジョンストンはラッセル兄弟にあてた手紙の中でこう述べています。「ローデシアの業に関するノデハウス氏あてのあなたの通信物は期日通りに受理しました。わたしはその方に詳細を問い合わせる手紙を書き,現在その返事を待っています」。

南アフリカにおける当時の証言の業は必ずしも都市に限られてはいませんでした。トランスヴァール州西部のコスターという小さな町に,真理の探究にいそしむジェピー・テロンという男の人がいました。有能な弁護士であったテロンは世界の様々な宗教が偽りであることに気づいていました。ある日彼は,ものみの塔協会が数十年も前から出版物を通して知らせていた,1914年に関する重要な預言のことを新聞で読みました。そこでテロンは出版物を注文して「聖書研究」と題する本を手に入れました。彼はたちまち真理を悟り,他の人々を助けたいという燃えるような願いを抱きました。また,しばしば僧職者たちと討論し,文字通りの火の燃える地獄といった偽りの教えの証明を求めました。

テロン兄弟は全く独創力の豊かな人でした。ある時期,彼は毎日煙を吐きながら町を走る小さな汽車の中で定期的に証言しました。駅で汽車に乗ると,機関室から後部まで,汽車が急な坂をゆっくりと上って行く間に乗客全員に出版物を提供して行きました。彼は時間を計っていましたから,汽車が丘の頂上に着いた時には自分の車付きの「区域」を終えていて,汽車から飛び降りるのでした。テロン兄弟はトランスヴァール州西部とオレンジ自由州で広く知られ,多くの人々が真理を受け入れるのを助けました。

トランスヴァール州北部では真理の光はそれまでに非常に広範にわたって輝き渡っており,文書の多くがひとりの人から他の人へと郵便で送られていました。北部トランスヴァールのニルストルームという小さな町で学校に通うふたりの若者の手にも文書が渡りました。そのうちのひとり,ポール・スミットによれば,彼の心に触れ,行動へと彼をかきたてたのは「聖書は地獄について何と述べているか」という小冊子でした。スミット兄弟自身のことばを借りれば次の通りです。「わたしたちふたりの生徒が教会の教理はまちがっていることを知らせた,それもあからさまに知らせたので,ニルストルームはまるで大暴風に襲われたように動揺の中心地となりました。ほんとうなんです。わたしたちは自分たちの務めを恐れることなくどんどん行なって行きました。当時妨げられずに活動する『市民権』を持っていたのは3つのオランダ改革派教会と英国国教会だけでした。ですから考えてもみてください。『水の出るホースが火の燃える地獄に向けられる』と,耐え難い苦痛の煙がたち上ったのです。しばらくの間町やその地域は新しい宗教の話で持ち切りでした。僧職者は,当然のことながら暗闇の手先として,偽りを伝えたり迫害したりするという良く知られた役割を果たしました。彼らが毎週行なう説教は何か月,いや何年もの間この『偽りの宗教』を中心にして行なわれました」。

困難にもかかわらず霊的に繁栄する

そのころの集会は,会衆の成員の挙手によって選出された「長老たち」が司会していました。執事は,窓を開ける,いすを整とんする,歌の本を配る,全般的な事柄を援助する,といった務めをし,彼らもやはり投票によって選ばれました。これが当時の会衆の取り決めでした。

1916年10月31日,ものみの塔協会の初代会長C・T・ラッセルが亡くなりました。彼は最後まで活発で忠実でした。そのニュースにエホバの民は悲嘆にくれ,驚きあわてました。ダーバンの兄弟たちの間では,「これからどうするのだろう」という声が上がりました。悲嘆という最初の反応のあと,試練の期間が始まりました。ラッセル兄弟の人格や活動はそれまでの王国の業を大きく支配していました。また,非常に多くの人々はラッセル兄弟個人に強く引かれていたため,兄弟の死後起こるべき変化に憤慨しました。マイアダル兄弟は,ダーバンでしばしば集会中に議論が起きたり,一部の人々が協会に背いていることを表わし始めて多くの問題を引き起こしたことを覚えています。分裂や問題は簡単に解決されませんでした。しがしながら,業は続けられ,それには明らかに神の祝福がありました。

1917年中に,協会の南アフリカ支部はダーバンからテーブル山の大きな岩塊のかげにあるケープタウンに移りました。それは発送の便を図ってのことでした。ケープタウン,プレイン通り123番の小じんまりした土地と建物がその後6年間支部事務所となりました。

南アフリカの兄弟たちの数は着実に増加していました。白人の「兄弟」の数は推定200人から300人である,とジョンストン兄弟は報告しています。その大半は四つの主要な群れ,もしくは会衆,すなわち,ダーバン,ヨハネスバーグ,プレトリアおよびケープタウンの各会衆に交わり,他の多くの人々は孤立していました。ヌドウェドウェでは約80名のズールー族の人々からなる活発な会衆がありました。また,バンクという場所にはバストー族の小人数の集会があり,イーストロンドンではホサ族の兄弟たちの集会がありました。

ジョンストン兄弟はある報告の中で,アフリカの兄弟たちに関する次のような興味深い事柄を述べています。

「原住民の言語で書かれた出版物がなかったにもかかわらず,そうした兄弟たちの現在の真理に対する理解には驚くべきものがあります。わたしたちはただ,『それは主のなされることであり,わたしたちの目には驚嘆すべき事柄です』と言い得るのみです。その兄弟たちは,全員がそうなのですが,神のみことばとして聖書に深い敬意を抱き,英語の本を読んで土地の言葉に翻訳できるアフリカ人の教え手から伝えられる真理に熱心に耳を傾けました。彼らにとって実際すべてが学ぶことばかりだったので,主の音信を示された時にすぐそれを受け入れました。彼らの献身が理解に基づく誠実なものかどうかは,良心的に行動したために受けた苦しみによって試されました。それら愛する兄弟たちのほとんどすべてはバビロンから正式にまた公に破門されました。すなわち,彼らが生まれた伝道団特別指定地区から追い払われ,彼らの世界である土地(アフリカの町)で危険人物というらく印を押されました。しかしそれらのどれひとつにもたじろぐことなく,彼らはキリストのために苦しみを受けることを許されていることを大いに喜んでいます」。

ニアサランドにおける業はすでに政府の反感を買っていました。自分たちの学校ががらあきになり,教会がからっぽになっていくのでねたみを抱いた宣教師たちが政府を扇動したのです。ジョンストンによれば,「その結果主だった兄弟数名は国外に追放され,モーリシャスのフラット島に抑留されました」。

新しい区域が開かれる

17世紀以来,ステレンボースクは教育,わけてもオランダ改革派教会の牧師を訓練するための教育の中心地でした。1917年にピエ・ド・ジェゲールは,ナイジェリアのオランダ改革派教会伝道団へ行くのに先立ち,ステレンボースクの大学で勉強していました。明らかに仲間の学生のひとりはすでに真理を受け入れて協会の出版物を研究していました。そのことは当然教会の当局者を悩まし,ピエ・ド・ジェゲールはその学生に話しかけて,キリスト教学生連盟が主催する週ごとの聖書研究会に出席するように誘うという任務を与えられました。その結果はというと,ピエ・ド・ジェゲール自身が真理を受け入れたのです。それがその僧職界をどれほど驚かせたかは想像にかたくありません。それから間もなく,ピエ・ド・ジェゲールは,魂,地獄および他の点について教授たちと何度も激しい議論を戦わし,しばらくして神学校を去りました。

その後,ピエ・ド・ジェゲール兄弟とオランダ改革派の神学博士ドワイト・スニマンとの公開討論会が取り決められ,1,500人の学生が出席しました。A・スミットはその時の模様をこう述べています。「ピエはあらゆる点でせき学の博士に迫り,教会の教理には非聖書的なところがあることを聖書から証明しました。学生のひとりはその結果を短く次のように要約しました。『ピエが間違っているなんて聞かされてさえいなかったなら,聖書からすべてを証明した彼は正しいとわたしは誓ったことでしょう』」。

ケープタウンにいる間,ジョンストン兄弟は事務所の仕事のほかに野外でも多くの時間を費やしました。そしてある日ステレンボースクに近いフランショークという小さな町を訪問しました。この町は南アフリカの比較的古い町のひとつで,最初は1688年にユグノーの逃亡者たちが住み着きました。そこにはまたカラード(黒人と白人の血が混じった子孫)も住んでいました。そして王国の種がその良い土地に落ちる時が今や熟していたのです。数年前に,頭脳が優秀で高潔な,フランショークに住むカラードの教師,アダム・ヴァン・ディエメンの指導の下に,数名の人々がオランダ改革派教会と絶縁して独自の宗教グループを作りました。ジョンストン兄弟が彼を訪問して文書を配布したのは1917年の末か1918年の初めだったに違いありません。ヴァン・ディエメン氏は個人用ばかりか,友人に譲るために大量の文書を求めました。彼の友人の中にダニエルズという名の人がいました。こうして,「神の経綸」の本がその息子である17歳のG・ダニエルズの手に渡りました。若いダニエルズにとって,それは生涯エホバに奉仕する始まりとなりました。ヴァン・ディエメンも真理を受け入れ,非常に活発に音信を広めるようになりました。彼はケープタウン付近のウェリントン,パール,ベルヴィル,パロウ,エルシーズ・リバー,ウィンバーグ,リトリートといった他の場所を訪問しました。そうした熱心な活動のために彼は教職を退いて良いたよりの全時間の伝道者となることを余儀なくされました。王国の音信は今やこの区域で良い出発をしたのです。

1918年に支部の監督,ウィリアム・W・ジョンストンは新しい割当てを受けました。オーストラリアとニュージーランドの区域は霊的に強くてすぐれた兄弟の監督を必要としていると考えた協会は,ジョンストン兄弟にそこへ行くよう要請したのです。彼の後を継いで支部の監督となったのはヘンリー・アンケッティルでした。彼はピーターマリッツバーグで真理を受け入れ,かつてはナタール州の国会議員をしていた人でした。アイルランド人の血を引く,退職した小柄な白髪の老紳士で,白いひげをたくわえ,やさしそうな表情をしていました。支部の監督の仕事は年齢的にいって彼にはたいへん重く感じられましたが,アンケッティル兄弟は次の6年間新しい責任を忠実かつ能率的に果たしました。

苦難の時代に表わされた信仰

支部の新しい監督,ヘンリー・アンケッティルは難しい時期にその務めを引き継ぎました。協会の職員はアメリカで投獄されており,証言の業はきわめて低下し,不忠実な者たちは明らかになりつつありました。そのことはダーバンにおいて非常に顕著でした。ラッセル師の死後間もなく始まった論争やもん着はその間ずっと激しさを加え,ジャクソンという名の,自分と自分の能力を過度に重視する人物の指揮下に今や最高潮をむかえました。彼と他のふたり,ピットとスタッブスは明らかに反対派の首謀者でした。

分裂は1919年に起きました。大勢のグループが,事実集会に出席していた人々の大半が敵対的となって,自分たちで別個の集まりを持つことに決めました。そして自ら「連合聖書研究者」と称して独自の組織を設立したのです。後に残ったのは姉妹たちが大部分を占めるわずか12人のグループでした。ヘンリー・マイアダルはその時苦しい立場に立たされました。というのは,父親は反対派に属し,母親の方はものみの塔協会に忠節を保っていたからです。しかし,彼は問題を慎重に考慮して祈り,協会は主に祝福された機関であるとの賢明な結論を下して母親と共に従いました。

アフリカーンス語を話す人々で,真理を知るようになる人は増加の一途をたどりました。ウィレム・フーリエもそのひとりです。彼は,フランス・エバソンと共にクラークスドープで最初に真理を学んだストフェル・フーリエのおいでした。実は,彼の父親は1906年ごろにオランダ語の「世々に渉る神の経綸」を一冊手に入れ,世界の諸宗教が偽りであることに気づいていました。ウィレム・フーリエは,コスターの弁護士ジェピー・テロンが僧職者と討論して,彼らに特別な挑戦をしたことを聞きました。それは,魂が不滅であることを僧職者たちが聖書から証明できたなら,1,000ポンド(約84万円)差し出すというものでした。そのころフーリエはまだオランダ改革派教会の会員でした。同教会は新しい教会の建設資金を必要としていたので,プレディカント(「説教者」)に,その挑戦に応ずる意志がないか問い合わせがありました。しかし,プレディカントはそれを断わりました。フーリエはそのことに失望し,後日教会を去りました。1919年ごろ彼は協会の出版物を受け取り,それを注意深く研究して,これこそ真理であると悟りました。やがて彼は野外奉仕に参加するようになっていました。

地獄に関する教会の教えは誤りであるとみんなに話してセンセーションを巻き起こした,ニルストルームのふたりの学生のことを覚えておられるでしょうか。ポール・スミットともうひとりの少年はふたりとも親友たちからよそよそしい態度を取られました。その後しばらくして,ポールの仲間は学校の理事会から職を提供され,彼の宗教を捨てるように強い圧力をかけられてそれに屈してしまいました。ポールは仲間を失って大いに涙を流しましたが,絶えずエホバに祈り,神の過分のご親切によって,真理に関して動揺することは決してありませんでした。彼は非公式の証言を用いたり出版物を他の人々に貸したりしてたゆまず伝道しました。彼はたったひとりだったので組織があることに気づかず,エホバに全くより頼んで助けと導きをあおがねばなりませんでした。少ししてから彼はピエ・ド・ジェゲールと数人の聖書文書頒布者の訪問を受けました。当時そうした個人的な訪問はほんとうにすばらしい助けであったに相違ありません。

真理にごく新しく,まだ少年であったにもかかわらず,ポール・スミットはエホバの祝福を受けて「推薦の手紙」を得るようになりました。(コリント第二 3:1-3)真理を受け入れて最初の「手紙」になったのは近隣の農家の息子でした。1922年ポールはヴォースターという家族と,出版されたばかりの「神のたて琴」と題する本を用いて研究を始めました。その家は七人家族で,スミット兄弟の家から約6.4㌔離れた所に住んでいました。ポールはヴォースター家の農場までそれだけの道のりを畑を通って徒歩で通いました。やがて両親とひとりの息子が証人になりました。こうしてポールは1924年までにニルストルームに13名からなるりっぱな群れを組織することに成功したのです。その群れはトランスヴァール州北部で最初のクラスもしくは群れになりました。

ところで,中央アフリカのニアサランドはどんな状態でしたか。M・ヌグルーは当時ニアサランドにいて,長老派教会の伝道師をしていました。彼によれば,第一次世界大戦後ニアサランドでは関心を抱いていた人々が真理をせっせと広めていました。1920年のそうしたころ,彼は「現存する万民は決して死することなし」と題する本を受け取りました。その本を読んで,「聖書に対して持っていた伝道師としてのわたしの理解は大いに揺さぶられました」と彼は語っています。

同じころニアサランドで真理を知ったもうひとりの人はジュニアー・フィリという名の若いアフリカ人でした。といっても,彼のバプテスマは秘密のうちに行なわれました。1915年に起きたジョン・チレンブウェの反乱が異端的な宗派に対する恐怖心と疑惑を引き起こしたため,ある種の宗教活動を続けることが難しくなったからです。ひとりの兄弟はバプテスマを受けたばかりのジュニアーの手を握り,今後は危険だがイエスの名において忠実に歩み続けなければならないと忠告しました。

フィリ兄弟は土地のバプテスト派の牧師からひどい迫害を受けました。その牧師はしゅう長を説得してフィリ兄弟を逮捕させ,治安判事の前に連れてこさせました。彼は禁止されているジョン・チレンブウェの派に属していると訴えられたのです。以前に属していたバプテスト派を離れた理由を判事から問われたジュニアーは,死者に関する教えに同意しかねることを述べ,判事にあなたはどう思うかと尋ねました。判事は,「わたしが見る限りでは,死者は墓にいますね」と言いました。ジュニアーは判事に同意してヨハネ 3章13節を引用しました。判事はその聖句を自分の聖書で調べて良い印象を受けました。ジュニアーは彼がジョン・チレンブウェの派にではなく,「国際聖書研究者協会」と呼ばれるところに属していることを判事に納得してもらいました。彼は釈放されたので,土地のバプテスト派の指導者たちはたいへん驚き,また失望しました。

さて,ニアサランドから南アフリカのケープ州まで約3,200㌔を一足飛びに下ってフランシュホークの黒人グループの様子を見てみましょう。その時までにフランシュホークのオランダ改革派教会はこの精力的な新しいグループを意識するようになり,何らかの処置を講じ始めました。若いダニエルズ兄弟の学友で,ヴァン・ニエカークという名の前途有望な聖書研究者は教師の資格を取り,良い就職口を提供されました。それには彼と彼の家族がオランダ改革派教会に復帰するという条件がついていました。彼らはその圧力に屈して,「霊的な捕らわれ」の状態に再び陥りました。後にヴァン・ニエカークがその土地を離れた時,ダニエルズが同様の申し出を受けました。が,彼はそれを辞退しました。そのことがあってから迫害が始まり,それがあまりにもひどくなったので,とうとう家族は引っ越さなければなりませんでした。反対者たちはその家族をほってはおかず,ある晩家にやって来て,ダニエルズの家族が自分たちといっしょに行動しないなら,魔術を使って一家全員を滅ぼすと言いました。ダニエルズはその答えとして,詩篇 23篇に基づく賛美歌の一節を引用し,エホバの保護により頼んでいることを示しました。

その後憎しみや反対は増大し,兄弟たちが夜にひとりで外出するのは安全でなくなりました。兄弟たちは,「ラッセル派」とか「ヴァン・ディエメンの魂のないグループ」,あるいは「にせ預言者」などといったあらゆる名前で呼ばれましたが,ゆるぎない立場を保ちました。彼らは,イエスが真の弟子たちについて述べた次の事柄が成就するのを身をもって体験していたのです。「あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう」― ルカ 21:17

支部の新しい建物

そのころ(1923年)支部事務所はレリエ通り6番にある新しい土地家屋に移りました。といっても,1階に大きな部屋がひとつあるだけでした。ケープタウン会衆はその部屋の95%を集会に使用し,アンケッティル兄弟は部屋の後部を小さく仕切って事務所に使っていました。翌1924年に会衆は別の建物に移りました。事務所は玄関の近くにある仕切った小部屋で,発送部門,倉庫,印刷所は全部部屋の後部にありました。たなが設けられ,印刷機が届いた時のために余地が設けられました。

ヨハネスバーグにおける発展

では,数年前にジョンストン兄弟が最初のクラスを設立したヨハネスバーグではどんなことが起きていたかを見ましょう。同市に住むイリス・トゥティ姉妹は5歳ぐらいの時に,人々の家の戸の下に冊子を差し込む業に携わるようになりました。彼女はまた,だれかが死んだり,生まれたり,結婚したりした時や,他の特別な機会に,母親がいろいろな「兄弟たち」に手紙やカードを書いているのを机のそばに立って長い時間ながめていたのを覚えています。トゥティ姉妹の母親がそうしたことをしていたのは,彼女が,ラッセル兄弟の設立した「フィラデルフィア連盟」の秘書だったからです。その連盟は,祝いごとや悲しみごとのある兄弟姉妹たちと兄弟愛のきずなを通して連絡を保つ仕事をしていました。

当時,アパルトヘイトに関する厳格な法律はまだ通過していませんでしたが,社会的にいって,白人と黒人との接触はほとんどありませんでした。しかしそうした事情は王国の証言活動の妨げとはなりませんでした。エノク・ムワレというアフリカの兄弟は,トゥティ姉妹の母親の援助を受けて1921年に真理を知りました。そして1年後に野外奉仕に参加し始めました。ムワレ兄弟はしばらくの間ヨーロッパの兄弟たちといっしょに研究しましたが,その後,「神のたて琴」を受け取ってからアフリカの兄弟たちは自分たちの群れを作りました。

「万民」運動

1921年に協会は,数年にわたって広範囲に行なわれた公開講演運動を開始しました。1918年の2月にラザフォード兄弟によって初めて行なわれた「現存する万民は決して死することなし」という講演が南アフリカで広く行なわれ始めました。支部の監督アンケッティル兄弟は,その時全時間奉仕に携わっていたピエ・ド・ジェゲール兄弟とパリー・ウィリアムズという名の英語を話す兄弟とを援助者にして南アフリカの比較的大きな都市をもれなく訪問し,英語とアフリカーンス語でその講演を行ないました。結果はたいへん良好でした。ケープタウンのオペラハウスで行なわれた最初の講演には2,000人が出席し,文書が大量に配布されて多大の関心が示されました。講演はオランダ語と英語で行なわれ,「万民」の本は英語版とオランダ語版とアフリカーンス語版が配布されました。1921年のその広範な旅行でそれらの兄弟たちは南ローデシア(現在のローデシア)のブラワヨとソールズベリーを訪れました。

講演会の聴衆は多いこともあれば少ないこともありました。「英語の講演にわずか80人ばかり,オランダ語の講演にもそのぐらいの聴衆しか集まらない町で講演するために何百㌔も旅行しました」とパリー・ウィリアムズは書いています。1923年8月31日付の報告は,P・J・ド・ジェゲール兄弟とウィリアム・ドーソン兄弟がその年70の講演を行ないました。その時のビラによると,ふたりとも講演者,また配布者という肩書を持っていました。ふたりは1か月に平均6回ほど講演をしたことになり,出席者の合計は9,376人でした。有名な講演である「現存する万民は決して死することなし」のほかに,「復活は近し」,「新しい世は始まった」,「諸国民はハルマゲドンに向かって行進する」といった人目を引く主題を含め多くの主題が扱われました。兄弟たちはそれぞれの講演会で受け取った住所を用いて2,483軒の家を訪問し,幾千冊もの文書を配布しました。

キリスト教世界の諸教会は音信の災熱をじかに感じ始めました。1923年の年度報告は次のように伝えています。「実際ひとつの町では,わたしたちの音信の浸透力によって使徒教会が完全に閉鎖され,業の関係者一同を喜ばせました。オランダ教会の新聞『カークボーデ』の一記者は先日I.B.S.A.(国際聖書研究者協会)に賛辞を呈して,わたしたちの教理には賛同できないが,オランダ改革派教会の信者にI.B.S.A.の熱意を勧めたいと語りました」。

配布者の活動

当時配布者として知られていた開拓者の業も行なわれ始めていました。1923年に全時間奉仕に携わっていたのは6名で,その人々が南アフリカでの証言の業をほとんど行ない,他の兄弟や関心を持つ人々は主として非公式の証言を行ないました。エドウィン・スコット兄弟は,それら全時間奉仕者のひとりでした。彼は,1922年9月に開かれたオハイオ州のシーダー・ポイント国際大会で採択された決議文を掲載した印刷物を配布する割当てを受けました。その小冊子はキリスト教国全域で3,500万部配布されました。忠実なスコット兄弟は英語版とアフリカーンス語版の小冊子の入った大きな袋を背負い,猛犬から身を守るため手には杖を持ちました。彼は南アフリカの4つの州にある64の町を訪れ,6か月に5万冊を配布しました。さらにその冊子は南アフリカとローデシアのあらゆる宗派の僧職者に郵送されました。「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」というのが,1922年のその有名な大会でラザフォード兄弟によって掲げられた号令で,南アフリカの一握りの兄弟たちはそれを実行する決意をしていました。

しばらくの間ヨハネスバーグのエクレシア(会衆)に交わっていたふたりの若い姉妹は1923年の初めに全時間奉仕に入りました。それは,レニー・テロン(コスターの弁護士テロン兄弟の実の姉妹)とエリザベス・アドシェイドという姉妹たちで,ふたりは教職をやめていっしょに配布者の道を踏み出したのです。ふたりはナタール州の北部とトランスヴァール州を3か月間旅行して3,188冊の書籍を配布しました。これはひとりが1か月に約500冊配布した割合になります。そのうちのひとりの姉妹の手紙が1924年1月1日号の「ものみの塔」誌に引用されましたが,そこには一部次のように書かれていました。

「わたしは汽車に乗って始終フルスピードで動いていたようです……汽車が予定より遅れて,夜がふけてから人里はなれた駅に着くことがよくありました。でも,そのお約束どおり,主は決してお見捨てになることはありません。いつの場合でも,主はだれかの心を動かしてわたしを助けさせたのです。神の忠実な御配慮を受けると人の信仰は強められ,愛は増します。

「ある日,わたしは『肝要な奉仕』というすぐれた記事を読み直して興奮のあまり眠れませんでした。とうとうわたしは起き上がって地図を広げ,わたしたちの道筋から分かれている支線沿いのバーバトンおよびその他幾つかの場所を抜かしていたことに気づきました。そこをほっておいてはいけないとすぐに決めたわたしはそのことを相手の姉妹に話しました。そして,わたしはそのまま進んで自分の区域を終わらせ,彼女がそちらへ行くことにしました。わたしが次に訪れた所はたいへん小さな場所で18軒の家を訪問したにすぎませんでしたが,(『聖書研究』を)49冊,『万民』の本を16冊,『たて琴』の本の大きな版を13冊配布しました。わたしはその前の晩にほとんど眠らず,3時間しか睡眠を取りませんでした。というのは,強い関心を抱いた数名の人々に夜の11時半まで話をし,それから朝の2時まで荷造りをして,汽車に乗るために5時半に起きたからです。わたしたちのちょっとした経験を全部お話しして,救い主が明らかにわたしたちを導いておられることをお伝えしたいのですが,それには時間が足りません」。これは今日のわたしたちにとってすばらしい模範ではないでしょうか。

ケープタウンにおける重要な変化

広い地域にわたり,多くの点で業は進歩していました。しかし,ケープタウンのアンケッティル兄弟はかなり年老いたので,仕事の荷が重くなりました。そこで協会の会長ラザフォード兄弟は新しい支部の監督を派遣することに決めました。アンケッティル兄弟は,王国の業が発展途上にあった困難な時期に「とりでを守」って,りっぱにやり遂げました。今やそれ以上の問題が南アフリカの区域を雲のように覆いつつありましたが,アンケッティル兄弟の後継者はそうした事態に対処することになっていました。

1924年までにケープタウンでは重要な変化が起きていました。協会は印刷機械を活字および備品と共に発送し,英国から兄弟たちが新たに到着したのです。ひとりは,しばらくの間英国支部で支部の監督を補佐していたトマス・ワルダーでした。彼は色白のがっしりした30歳ぐらいの若い兄弟で,アンケッティル兄弟の後を継いで南アフリカの支部の監督となるべく派遣されました。そのパートナーは彼より少し年若い,グラスゴー出身の金髪で背の高いスコットランド人,ジョージ・フィリップスでした。

1924年5月にラザフォード兄弟が大会に出席するためにグラスゴーを訪れた際,ジョージ・フィリップスは日曜日の朝に彼の司会者を務めました。ふたりが出番を待っていっしょにすわっていると,ラザフォード兄弟はジョージに言いました。「あなたはわたしが昨晩ワルダー兄弟を南アフリカに派遣すると発表したのを聞きましたね。あなたも彼といっしょに行きたいと思いますか」。「わたしがここにいます。わたしを遣わしてください」という答えが返ってきました。そこでラザフォード兄弟はジョージに,2週間で荷物をまとめ,家族やグラスゴーの兄弟たちに別れを告げて出発の準備をするようにと言ってから,こう語りました。「1年になるかもしれないし,それより少し長くなるかもしれませんが,ジョージ,いいですか,戦時中には休暇がないのですからあなたに片道切符をあげましょう」。

新たに任命されたそのふたりの兄弟が南アフリカに着いた時,全時間奉仕者は6名にすぎず,野外奉仕にいくらか携わっていたのはわずか40名でした。区域のほうはとてつもなく広大で,南アフリカ,バストランド,ベチュアナランド,スワジランド,南西アフリカ,南北両ローデシア,ニアサランド,モザンビーク,タンガニーカ,ケニア,ウガンダ,アンゴラ,それにセントヘレナ,マダガスカル,モーリシャスといったインド洋と大西洋のさまざまな島々が含まれていました。

まもなくブルックリンから手動給紙の活版印刷機が届きました。印刷屋をしていたケープタウンの兄弟の指導を受けて,ワルダー兄弟とフィリップス兄弟は修業に5年かかるところを5か月でひととおり身につけました。ふたりは,印刷屋にとって“PとQに気をつける(転じて,言行に気をつける)”とはどういうことかを悟りました。ほどなくしてその小さな印刷機はビラや冊子,また用紙類を幾千枚も生産するようになりました。さらに,他の文書がアフリカーンス語やいろいろなアフリカの言語で印刷されました。オレンジ自由州の農民で,イザク・ボタという名前の兄弟は「神のたて琴」がアフリカーンス語に翻訳されていると聞いて,印刷費を補助するために500ポンド(約42万円)をすぐに寄付しました。

問題がわき起こる

新しい支部の監督であるワルダー兄弟が最初に行なった事柄のひとつは南北両ローデシアとニアサランドに注意を向けることでした。アフリカのその地方の事情ははっきりわかりませんでしたが,協会の文書はすでにそこに達していました。

1920年代初めのローデシアにおける実情を今日はっきりと描くのは難しいことです。いずれにしてもキリスト教世界の僧職者は非常に恐れていました。1924年6月6日付の「ローデシア・ヘラルド」紙は南ローデシアで開かれた宣教師の会議に関する長文の報告を掲げましたが,その会議中に「ものみの塔運動」とものみの塔聖書冊子協会のことが話し合われました。使徒パウロのクリスチャン活動を妨げようとして『エホバの道をゆがめ』た呪術者エルマのように,キリスト教世界の僧職者はエホバの現代のクリスチャン証人に対して偽りの非難を浴びせました。(使徒 13:6-12)C・E・グリーンフィールドという僧職者はものみの塔協会が「教会のボルシェビズム」を宣伝していると非難しました。彼はその宣伝の源はロシアであると述べ,それをアフリカで許してよいだろうかと問いかけて次のような決議を諮りました。「ローデシアの宣教師によるこの会議の見解では,ものみの塔聖書冊子協会の教えは教会の真の宗教を覆すものであり,したがってこの国の人々にそれが宣伝されることはとりわけ危険である。ゆえにその活動を監視し,統制するよう政府に要請する」。

他の人々はこの決議を支持する話をしました。(南ローデシアにある)ワンキー炭鉱の経営者であるトムソン氏は,ひとつのプールで20人から30人が“束になって”バプテスマを受ける模様を話しました。その運動を押えようとした結果,改宗者は非常に増加し,当時伝えられるところによると約1,500人に上ったという報告がなされました。グリーンフィールドは,白人の勢力が覆されるという約束も宣伝されていると述べました。反対者がわずかにありましたが,その決議は同会議を通過しました。

そのころ宣教師と僧職者が好んで使ったのは,共産主義者という偽りのレッテルをつけて人々を恐れさせるといういつもの手口でした。わたしたちはソ連やボルシェビズムとの関係を否定するものの,ワンキーでものみの塔に属すると唱えた1,500人の信奉者たちがわたしたちの兄弟であったか,それとも偽りの「ものみの塔運動」のひとつに入っていた人々なのか定かではありません。とはいえ,「ものみの塔」という名前が1924年までに両ローデシアですでによく知られていたこと,ゆえに事情を明らかにする必要のあったことがその報告からわかります。

したがって1924年の終わりごろ,ワルダー兄弟はローデシアへ行き,「ものみの塔」という名のもとにどんな事が行なわれているのかを知るため南北ローデシアの政府当局者に会いました。彼は,当局者の話を聞いただけで,わたしたちの業に誠実な関心を抱いている人々と土着の運動に入っている人々とを分けるための処置を直ちに講じなければならないと思いました。翌年の1925年にヨーロッパ人の兄弟であるウィリアム・ドーソンが南アフリカから派遣されました。彼は南北両ローデシアでものみの塔協会と関係があると唱える指導者すべてを訪問しました。

その兄弟の報告によると,それらの人々の大部分は協会の文書が説明している真理をほんとうに理解していませんでした。他方,誠実な関心を持つ人々もいて,その人々は熟慮された援助と指導を必要としていました。ケープタウンのワルダー兄弟は協会の名前をかたる土着の運動との関係を直ちに否定し,関係政府に事実を知らせました。また,宗教分子が協会と関係している偽りの運動に対して協会がいかなる責任も負わないことをはっきりと述べた手紙をローデシアとニアサランドの当局者に送りました。

ドーソン兄弟がローデシアを訪れているころ,ムワナ・レサという人物は北ローデシアのアフリカ人の間に恐怖をもたらしました。ムワナ・レサ(「神の子」の意)はニアサランド出身のアフリカ人で本名をトム・ニイレンダと言い,コンゴを通って北ローデシアにやって来ました。伝えられるところによると,彼は土着の「ものみの塔運動」のひとつの信奉者で,自らを預言者に仕立てました。1934年7月1日付の「サンデー・タイムス」に掲載されたスコット・リンドバーグの記事によれば,彼はフォックスが著した「殉教者の本」を手に入れ,その本から昔白人が「魔女」を水責め椅子に縛って溺死させたことを知りました。それは彼に強い影響を与えたようです。彼は村から村へ伝道し,「アフリカはアフリカ人のものであり,白人は追い払わなければならない」と原住民に語ったのです。

ニイレンダはそれからララ(現在のコッパー・ベルトの南東部)のしゅう長チウィラと手を結びました。ふたりは,ニイレンダがチウィラの政敵に「魔女」のらく印を押してバプテスマでおぼれさせることをたくらみました。彼らを一掃してチウィラが王の選挙に勝つためです。リンドバーグ氏の話によると次の通りです。「それからトムはチウィラの政敵全員の名前を知らされました。彼はしゅう長たちを呼び集め,自分は部族から魔術を一掃するため神から遣わされた者であり,男も女も子どももひとり残らず川でバプテスマを受けなければならないと言いました。

「迷信的な原住民は,急流が丘陵地帯の曲がりくねった渓谷をぬって走る場所におびき寄せられました。トムは,白くて長い衣をまとって川のまん中の丸石の上に立ちました。

「彼は人々に,羊と山羊を分けるために神が自分を遣わされたと言ってから,ひとりひとりに川で浸礼を施しました。それを手伝ったのはチウィラの絶対的な支持者でした。彼らは政敵を頭が流れにさからうようにして水中につけ,おぼれさせたのです。

「人々は死んだ犠牲者のひとりひとりを立ったまま見つめながら賛美歌をうたいました。そして,ムワナ・レサを熱狂的にたたえる声が一晩中森にこだましました。

「その夜22人の原住民を溺死させたトムは国境を越えてベルギー領コンゴのカタンガ州に住むことにしました。そこならローデシア当局に逮捕されないからです」。

必要とされた浄化と援助

トム・ニイレンダはコンゴでさらに幾つかの残虐行為を犯した後,北ローデシア警察に逮捕されて有罪の判決を受け,ブロークン・ヒル刑務所広場で原住民のしゅう長たちの立ち合いのうえ絞首刑になりました。そうした悪魔的な行為は「ものみの塔」の名前と結びつけられました。しかし,ムワナ・レサはものみの塔聖書冊子協会もしくは当時聖書研究者といわれていたエホバの証人と何の関係もありませんでした。それどころか,リンドバーグ氏によれば,トム・ニイレンダは処刑される前に「刑務所内でローマ・カトリック教会に受け入れられて罪のゆるしを受けました」。それにもかかわらず,神の王国に敵対する,キリスト教世界の諸宗派の僧職者はその責任を本物のものみの塔聖書冊子協会に負わせ,当局者や一般の人々に偏見を持たせて証人を国内に入れないようにしようと懸命に努めました。ですから,北ローデシアで王国の業を確立するためには山のような障害を克服しなければならなかったことがわかります。

ニアサランドでもエホバの証人の立場を明らかにし,関心を抱く人々に援助を差し伸べる必要がありました。1923年12月15日号の「ものみの塔」誌には協会の代表者からの次のような報告が出ています。「わたしは最近警視総監である一少佐の訪問を受けました。同少佐は立派な人物で,現代のガマリエルです。ニアサランドにおけるわたしたちの業を調査した彼は,僧職者から聞いたわたしたちに関して広まっている驚くほどひどい虚言にうんざりしていました。少佐は,変装して原地人が集まる証人の集会に行ったこともあると語りました。そして,指導的な立場にある人々すべてを個人的に知っています。彼の話によると,真理は原地人の間で野火のように広まっているということです」。

いずれにせよ,協会が,事情を調べて調整を加えるべく,ジョン・ハドソンと彼の妻を1925年にニアサランドへ派遣したのは適切なことでした。ジョン・ハドソンは,ニアサランドに滞在した1年3か月の間多くの土地を旅行し,いろいろな所で講演したと語っています。彼は,兄弟たちの大部分が真理に関する知識や理解をほとんど持っていないことを知りました。したがって講演の中で,協会と連絡を保ってその指導や指示を受け入れることの大切さを認識するよう兄弟たちを助けることに努めました。

ジュニア・フィリ兄弟は,ハドソン兄弟が集会で妻といっしょにすわるよう兄弟たちに助言したとも語っています。アフリカの部族の生活習慣では,夫は妻といっしょに食事をしません。また教会や宗教的な集まりに家族で行ったときには男たちは通路の片方の隅に,女たちはもう一方の側にすわります。ですから,ハドソン兄弟はその点について良い助言を与えたことでしょう。

しかし,M・ヌグルー兄弟によると,「わたしたちは,ケープタウンの人たちから教えを受けなくても,自分たちが正しいと考えることをする」と言うグループが幾つかありました。ですからハドソン兄弟の訪問で,協会の指導に喜んで従おうとする人々とそうでない人々とが分けられたに違いありません。残念なのは,協会の指導に喜んで従おうとしなかった人々が依然として「ものみの塔」の名前を用いるといって譲らなかったことです。主要な指導者のひとりは明らかにウィリー・カバラ氏でした。その運動の著しい特色のひとつは死者の復活を信じないことでした。ヌグルー兄弟は,それら偽りの分子が税金を払うことを拒んだと語っていますし,彼らは自分たちが神の王国の支配者であると言いました。

ハドソン兄弟が訪問に関する報告を提出した後,ものみの塔協会のケープタウンの事務所はニアサランドの政府当局者に手紙を送りました。その内容は一部次の通りです。

「ニアサランドの私共の代表者は召還されたことを上記の協会に代わりお知らせいたします……当協会がハドソン夫妻を貴国に派遣したのは,独自の形態を持つある土着の『ものみの塔』教会が活動していることによりました。私共はその運動を是認することができません。それは当協会の教えを完全にわい曲しており,その追随者は主として私共の指示や権威に従おうとはしません。ゆえに私共はその運動との関係を一切否定します」。

ニアサランドでは真理にほんとうの関心を抱いていた人々が,しばらくの間協会の代表者の導きを受けずに独力で戦わなければならなかったのです。一方,兄弟たちが組織の指導を十分に受けていた南アフリカにおいて,真理はどのように進展していたでしょうか。

南アフリカのアフリカ人を援助する

ヨハネスバーグでは他のアフリカ人が真理を知るようになっており,良いたよりは指定地区や鉱山の宿泊所(アフリカ人の宿泊所)に住んでいる人々にまで広まっていました。そうした人々のひとりにヨタム・ムレンガがいました。彼は泊まっていた宿泊所に白人の兄弟が「創造の写真-劇」を持ってやって来たときのことを覚えています。ムレンガ兄弟は「劇」から大きな影響を受け,「聖書研究」の第一巻を入手した後まもなく,他のアフリカ人の兄弟が交わるヨハネスバーグの集会に出席し始めました。

当時,南アフリカに住むヨーロッパ人の兄弟の中のある人々はアフリカ人を援助していました。そのころ宿泊所の副経営者だったV・フッチャーもそのひとりで,多くのアフリカ人が真理を受け入れるのを助けました。その中にモザンビーク南部出身のアルビノ・メーレンベがいました。彼はフッチャー兄弟の伝道を受けて1925年に真理に接したのです。メーレンベは同年中にモザンビークの首都,ロレンソマルケスに戻り,それからビラ・ルイーザの彼の郷里にまで行きました。彼はそこでマッラクエネのスイス・ミッション教会の会員に真理を伝道し始めました。メーレンベは良い成果を得,まもなく真理はモザンビークにしっかり根を下ろしました。40名もの人々は集会に出席し,しばしば32㌔ほどの旅をしてやって来る人がいました。そうです,王国の業はもうひとつの区域に根を下ろし始めたのです。

迫害のために停滞しなかった

南アフリカで大いなるバビロンの主な手先となっていたのはオランダ改革派教会の指導者たちでした。彼らは多くの場合,真理の側に立つ人々を厳しく迫害し,第一世紀に不信仰なユダヤ人が使徒のパウロとバルナバに対して行なったように,その人々を町から町へ絶えず攻め立てて悩ましました。(使徒 14:2,5-7,19)その興味深い例となる出来事がオレンジ自由州で起きました。1920年代の半ばにボショフという町で行なわれたド・ジェゲール兄弟の講演会に有名な弁護士と彼の妻が出席しました。講演会には土地の高官も多数出席し,その中の数人は後で講演者を伴って喫茶店に行き,聖書に関する質問をしました。弁護士のテオ・デニッセン氏と彼の妻は深く感銘して文書を求め,やがてこれこそ真理であるとの確信を得ました。ふたりはまもなく友人や親族に証言しましたが,それはたちまち土地のオランダ改革派の牧師の憎しみを買いました。その後すぐに,デニッセン兄弟と彼の妻は教会を脱退しました。1925年の末までには彼らの親族3人と11人の友人も脱退し,彼らの脱退届は説教壇から読まれました。

デニッセン兄弟はオレンジ自由州のその地方でよく知られた人でしたから,彼が真理の側に立ったことは大評判となり,広範囲に証言がなされました。1927年に同兄弟とボショフの小さなグループは郵送の業に参加し,オレンジ自由州の非常に広範な地域に「世界の支配者たちへの証言」という決議文を含む約1万部の小冊子とパンフレットを郵便で配りました。1927年の4月,ボショフ会衆は全員でヨハネスバーグの全国大会に出席し,そのうちT・C・デニッセン兄弟姉妹を含む少なくとも13名の人々が浸礼を受けました。同じ年,小さなそのグループは日曜日の朝の戸別訪問活動を始めました。その奉仕活動を開始したばかりの全世界の兄弟たちと歩調を合わせるためです。土地に住む偽りの宗教の僧職者が非常に憂慮したことは明らかで,彼らは「ラッセル派」を非難する一連の説教を教会で行ないました。後にふたりの兄弟と3人の牧師による公開討論会が開かれました。その結果ひとりの巡査部長は真理を認めて自分の立場を明らかにし,死ぬまでその立場にしっかりととどまりました。

証人の成功に激怒したボショフの牧師は執事と長老たちに,教会員をひとり残らず訪問し,デニッセン兄弟を支持することをやめて兄弟が弁護士をやってゆけないようにさせるよう告げることを指示しました。1927年のうちにデニッセンの家族は移転せざるを得なくなり,ケープタウンに近いウエリントンの町に行きました。しかしそこでも土地の牧師が迫害の運動を進めたため,彼らはケープタウンに移らなければなりませんでした。

ところで,アフリカ人の間の状況がたいへん心配されたずっと北方の区域ではどんな様子でしたか。1926年,ジョージ・フィリップスは,ヘンリー・マイアダルを伴って南ローデシアを旅行するようケープタウン支部から派遣されました。ふたりは国境で呼び止められ,アフリカ人を対象にして業を行なわない限り入国を許可すると言われました。当局者は前述の宣教師会議の決議を認めて実施していたものと思われます。

ふたりが旅行先で用いたのは,町か都市に着くと会場を借り,小さなゴム印の印刷道具で宣伝ビラを印刷して人々を招待するというやり方でした。会場で関心を持つ人々の名前と住所を受け取り,「聖書研究」と「神のたて琴」を携えて彼らを訪問しました。そうした訪問を行なうための唯一の交通手段は自転車でした。ただし,町から町へ旅行するには汽車を使いました。新しい土地に到着するたびに,ふたりは必ず警察の“歓迎委員”の出迎えを受けました。捜査課はものみの塔協会から来たそのふたりのヨーロッパ人を注意深く監視し続けました。そんな風にして彼らはブラワヨ,クエ・クエ,ガトーマ,グウェロ,ソールズベリーおよびウムタリを訪問しました。ウムタリではグム夫妻が真理を受け入れました。ふたりの兄弟は炭坑の中心地であるワンキーにも行きましたが,そこで世界に比類のない景勝地のひとつである美しいビクトリア滝を見に行きました。また炭坑の中も案内してもらいました。しかし,ふたりは警察から課せられた制限を守り,炭坑で働いていた「ものみの塔」のアフリカ人たちと連絡を取ろうとしませんでした。4,200冊を上回る文書を配布し,数か所で人々の関心を高めたふたりは,数か月間の旅行を終え,1926年12月末にケープタウンで開かれる年に一度の大会に間に合うべく南アフリカに戻りました。

ケープタウンでのもうひとつの変化

ケープタウンの小さな支部では物事があまり順調に運んでいませんでした。以前に英国支部にいたことのある支部の監督,ワルダー兄弟は,比較的大きな英国の区域や古いロンドン・“タバナクル”における大きな集まりを取り扱うことに慣れていました。ケープタウンに着いた時から,彼には万事が全く異なっていて,あまりにも規模が小さく見えました。ワルダー兄弟が南アフリカで支部の監督をしていたしばらくの間,幾らかの進歩はあったのですが,兄弟にはそれが遅く思われました。物事の規模が非常に小さいということは彼にとって試みとなりました。ワルダー兄弟は南アフリカに3年半とどまった後,1927年の末ごろそこを離れました。

ラザフォード兄弟は時を移さず,ワルダー兄弟の補佐をしていたジョージ・フィリップスを支部の監督に任命し,業は続けられました。フィリップス兄弟にはその新しい責任を担うだけの十分な備えがありました。彼は1927年までの過去13年間全時間奉仕に携わり,野外においても事務所においても経験を積んでいました。また,エホバの組織に対する認識が深く,協会に対する強い忠節心と明哲な精神,そしてりっぱな闘志の持ち主でした。そうした資質は前途の多難な時代に大きな助けとなるはずでした。

南アフリカの業はまもなく速度を増し始めました。フィリップス兄弟は自分が若くして全時間奉仕を始めていたので,開拓者としてエホバに仕える喜びを味わうよう生がい他の人々を励ましてきました。ですから配布者の数がやがて増加し始めたのも不思議ではありません。

その人々が行なった業,迫害に面して示した忍耐,新しい区域にわけ入る不断の努力について読むと,聖書の使徒たちの活動に記録されているイエス・キリストの使徒たちの同様な経験を思い出さずにはいられません。

暴力行為が突然に発生する

当時,全時間のしもべの隊ごにはピエ・ド・ジェゲールとヘンリー・マイアダルがいました。もうそのころにはふたりは組になって国内を旅行し,講演をしたり訪問の業をしたりしていました。多くの場所で僧職者が反対をあおり,説教壇から,あるいは新聞を通して攻撃しましたが,暴力ざたになることはめったにありませんでした。ところが,ピエ・ド・ジェゲール兄弟とマイアダル兄弟がオレンジ自由州のデウェツドープという小さな町に来た時,反対は暴力化したのです。ふたりはいつものように会館を予約し,小さなゴム印でビラを印刷して講演を宣伝しました。その時は町の劇場が予約されていましたが,講演が行なわれる日の朝になって,劇場の持ち主は予約を解消すると兄弟たちに告げました。ドイツ改革派の牧師がその持ち主に,講演を行なわせるなら教会員は彼の劇場をボイコットすると言ったからです。

そのため兄弟たちは困りましたが,市役所に行って市の立つ広場で公開講演をする許可を得るとすぐに新しいビラを準備し,それをできるだけ速く配りました。講演会はその晩に開かれ,約75人が出席しました。

講演がまだそれほど進まないうちに,群衆は講演者に詰め寄ってやじを飛ばし始めました。やじは次第に激しさを増しました。と,突然,講演者の横に立っていたマイアダル兄弟は頭に強い一撃を感じ,もう少しで倒れそうになりました。幸いにも私服の警官がその場に居合わせ,成り行きを見ていました。群衆のうしろにはオランダ改革派の牧師がいて,人々を扇動し,そうした暴力行為を故意に行なわせていました。数名の人が逮捕され,翌日の裁判で罰金刑に処せられました。ふたりの兄弟は落胆することなく講演旅行を続けました。

1928年,「サタンを退け,エホバを支持する宣言」という反響を呼ぶ決議がミシガン州デトロイトの大会で熱意を込めて採択され,年に1度発表された一連の七つの音信の最後を締めくくりました。同じデトロイト大会で,ラザフォード兄弟によって行なわれた「人々の支配者」と題する感動的な講演が107の放送局を結ぶものみの塔中継放送によって放送されました。はるかかなたのケープタウンでは,少数の人が短波ラジオでその講演を聞いたのを記憶しています。しかし,アメリカからの放送に加えて,南アフリカ唯一の放送会社であるアフリカ放送会社を通じて幾つかの講演を放送する取り決めが設けられました。ケープタウン,ヨハネスバークおよびダーバンにある同放送会社の三つの放送局を通じて1928年中に七つの講演を放送する許可が下りました。こうして,良いたよりは遠く人里離れた土地にまで達し,多くの人々が王国の音信を初めて耳にしました。

さらに1920年代の後半には,戸別の業では達することのできない人々に証言するため,全国的な郵送の運動が兄弟たちによって行なわれました。ケープタウンの兄弟のひとり,フランク・スミスは5万冊の小冊子を農夫や燈台守,森林監視人,その他一風変わった生活をしている人々に送る費用を負担しました。包装したりあて名を書いたりする仕事はすべてケープタウン会衆の人々が行ないました。その結果,出版物の注文が多数寄せられ,それと共にそうした珍しい方法で伝えられた良いたよりが孤立した人々に慰めと喜びをもたらしたことを示す励ましある手紙が届きました。いうまでもなく正統派の宗教家たちはおきまりの反応を示し,教会誌の紙面を通じて全国的に何度も痛烈な攻撃を行ないました。

南西アフリカが良いたよりを聞く

南西アフリカの区域,すなわち砂漠か半乾燥地からなる約82万3,620平方㌔にわたる区域のかなりの部分にも王国の音信が達したのは,その郵送の業によりました。西海岸にずっと沿って約140㌔の幅に大きなナミブ砂漠が横たわっています。6万人の白人を含む61万の人口は広く散在し,南アフリカ人,ドイツ人,英国人といったヨーロッパ系の人々とアフリカ人のヘレロ族,オバンボ族,ナマ族もしくはホッテントット族,ダマラ族およびブッシュマン族からなっています。このほかに,初期の白人開拓者とホッテントットの混血であることを誇りにして自らを「バスタード」(文字通りには「混血」の意)と呼ぶグループがあります。

1928年当時,この国は,証言の業に関する限り,まだ全く手がつけられていませんでした。しかし,同年中に郵送運動が組織され,南西アフリカの最新の住所録を入手してそこに出ている人々すべてに「国民の友」と題する小冊子を1冊ずつ郵送することがなされました。そうした王国の種のひとつは珍しい方法で良い土に落ちました。

そのころ炭坑で働いていたバーンハード・バアデという人はいつも近所の農夫から卵を買っていました。ある日のこと,買った卵が「国民の友」の最初の数ページに包んでありました。バアデはそれを読み始め,読み進むにつれてだんだん興味を持つようになりました。次に卵を買った時,それが小冊子の残りのページに包んであったので,バアデはやっと続きを読むことができました。彼は手紙で文書を注文し,その後まもなく真理の側に立ちました。

翌年の1929年にレニー・テロン姉妹は南アフリカから南西アフリカのウィントフークに派遣されました。彼女はそこから汽車と郵便馬車を使って全長約八千㌔の旅をし,全国の主要な町すべてを網羅しました。人々の多くは前の年に小冊子を郵便で受け取っており,それに感謝していました。姉妹自身の配布数は驚異的で,4か月間に英語とアフリカーンス語とドイツ語の書籍および小冊子を6,388冊配布しました。

テロン姉妹が南西アフリカで励んでいる間に,パートナーのエリザベス・アドシェイドは南ローデシアに派遣されました。様々な土地で警察や判事からひどい反対を受けたにもかかわらず,彼女は勇敢に業を続けてこの国のヨーロッパ人の都市を全部網羅しました。

1929年までに南アフリカ支部の管轄下にある膨大な区域の非常に広範な部分に王国の音信が伝えられました。そのことについて,1930年の「年鑑」はこう述べています。「はるか北方にある英領東アフリカのケニア植民地,英領中央アフリカのタンガニーカとニアサランド,およびベルギー領コンゴから郵便で文書の注文を受け取っています」。

問題は進歩の妨げにならない

かつてニルストルームの学生だったポール・スミット兄弟は1920年代の後半にプレトリアにいました。彼はプレトリアの群れが危機的な状態にあったと述べ,とりわけ次のように語っています。「群れには何の進歩も見られませんでした。奉仕のための会が組織されたことは群れを揺り動かし,ふたりの人が離れて行きました。そのころ長老のひとり(ミュラー兄弟)は本を書くことに精を出していました。協会はそうすることを認めないと言っていましたし,わたしはやめてほしいと兄弟に願ったのですが,彼はその悪い行為をやめようとはしませんでした。その本を出版した後のある日曜日の朝,同兄弟は本を会館に持って来て,それを配布してほしいとクラスに要請しました。驚いたわたしは立ち上がり,協会はその本を認めていないこと,また協会の方針に反する人に対して,それがだれであれわたしは反対することを勇気を持って話しました」。そのことに動揺した長老たちは彼らの追随者とともに離れて行き,残ったのは年老いて病弱な姉妹とスミット兄弟姉妹だけでした。

その直後にステインバーグ兄弟姉妹がプレトリア地方に移って来ました。それは小さくなったプレトリアの群れにとって大きな励ましでしたし,その兄弟姉妹にも大いに益となりました。プレトリアの群れは厳しい清めの期間を経験しましたが,その時から着実かつ順調な進歩を見せました。

プレトリアにおけるヨーロッパ人のグループのことはそのくらいにしておきましょう。では,そこのアフリカ人はどうだったでしょうか。ハミルトン・カフウィット兄弟は1927年にブラワヨからプレトリアへ移りました。しかし,当時そこではアフリカ人の集会が開かれていなかったので,ヨハネスバーグにあるアフリカ人の集会に出席していました。その後1931年にムラウジという兄弟がニアサランドから来て彼といっしょになり,ふたりは「神のたて琴」を共に学び始めました。かなりの期間プレトリアのアフリカ人の兄弟たちはカフウィットの家で集会を開きました。今日でも,ヨーロッパ人の都市に近い町つまり“特別区”にあるアフリカ人の会衆の多くは一般の家で集会を開いています。アフリカ人のための王国会館を建てることは現在に至るまで政府および市当局から反対されてきたのです。

1930年1月,フィリップス兄弟は結婚し,彼の妻は支部事務所の職員に加わりました。支部の援軍が同年さらに到着しました。それはルレウェリン・フィリップスとジョージ・スペンスです。ルレウェリン・フィリップスはウェールズの出身で,ジョージ・フィリップスと血のつながりはありませんが,彼も開拓奉仕の経験を十分に持ち,ロンドン・ベテルで数年間奉仕していた人でした。

ケープタウンの支部がホサ語,ズールー語,セソト語といった地方語の小冊子を生産し始めたのも1930年代初めのことでした。「神のたて琴」がホサ語で,「王国は世界の希望」がズールー語で出されました。

東アフリカに進む

1931年,アフリカのもうひとつの広大な区域,英領東アフリカが開拓されるようになりました。そこは現在3つの国に分かれ,ケニア,ウガンダおよび(タンガニーカとザンジバル島からなる)タンザニアになっています。1930年代初期に英国の管轄下の州であったそれらの国は,アフリカにおける国家主義の台頭に伴い,次々に英国から独立を獲得したのです。1962年タンガニーカがイギリス連邦の独立したタンザニア共和国となり,ウガンダも同年独立し,ケニアは1963年に独立しました。その地方の住民は多くの国籍や部族の人々からなっており,数か国語の混交が見られますが,幸いにもスワヒリ語が全国共通の言語になっています。

宗教的にいって,“暗黒のアフリカ”という呼び名は当を得てきました。原住民の大多数は異教の崇拝の信奉者だったからです。キリスト教世界,すなわちカトリックとプロテスタント双方の宣教師団は東アフリカで何年も活発に働いていましたが,アフリカの他の場所におけると同様,『霊と真理をもって崇拝する』クリスチャンを生み出しませんでした。(ヨハネ 4:24)では,霊的に暗黒のこの地域に真理の光が初めて輝き始めたのはいつでしたか。

そのころ,ケープタウンでグレイ・スミスという新しい兄弟が補助的な配布者の奉仕に携わっていました。最初に真理を知ったのは彼の実の兄フランクで,1928年にグレイも真剣に学び始めました。彼は1929年にバプテスマを受け,その直後ぐらいに補助的な配布者の業を始めました。後に彼はフランクに加わって東アフリカへの非常に興味深い旅行をしました。

1931年,そのふたりは,東アフリカで良いたよりを広める可能性を調査するためにケニアへ派遣されました。当時ケニアは,約2万5,000人のヨーロッパ人を含むおよそ400万の人口を有する,英国の保護領でした。ふたりはキャラバンに改造した自動車を持ち,ケニアの海港モンバサ行きのサクソン・カースル号に乗って航海しました。モンバサからキャラバンで約640㌔旅行して首都のナイロビに行きました。そこへはすでに40箱の書籍を送ってありました。道が悪かったので,その旅行に8日かかりました。ふたりはナイロビを網羅して約1か月で全部の書籍を配布してしまいました。書籍の多くはゴアン族インデアンに配布されましたが,そのほとんどはカトリックの司祭によって集められて焼かれました。

南アフリカへの帰途,ふたりの兄弟はマラリアにかかりました。その時代にマラリアは非常に危険な病気でした。ふたりはダル・エス・サラームから出帆した船に乗りましたが,重体に陥ってうわごとを言うようになったので,ダーバンで船から降ろされ病院に入れられました。フランク・スミスはそのまま意識が回復せずに亡くなり,グレイ・スミスはやっと一命を取り止めましたが,4か月入院しなければなりませんでした。しかし,彼は1931年の末ごろケープタウンに戻りました。

そのころ,英国では,ロバート・ニスベットという名前の青年がロンドンのある薬剤研究所の良い職を捨てて開拓奉仕に入ろうとしていました。その時ロンドンにいたラザフォード兄弟は彼を呼んで,「わたしたちはケープタウンに行く人を捜しているのですが,あなたは行ってくれますか」と言いました。ロバートは承諾してすぐに支度を始めました。

ニスベット兄弟はケープタウン支部に着くとすぐ,東アフリカへ発送するばかりになった文書の船荷を見せられました。それはなんと200箱もありました! スミス兄弟たちの旅行のことやフランクの身に生じた悲しい出来事について聞いたにもかかわらず,彼は東アフリカに行く割当てを熱意を持って受け入れました。彼にデイビッド・ノーマンが加わり,ふたりは任命地に向けて旅行しました。彼らは,ケニア,ウガンダ,タンガニーカおよびザンジバル全域,そのとてつもなく広い区域を網羅することになっていたのです。

蚊帳をつって寝たり,東アフリカのすべての郵便局で安く買えるキニーネを毎日多量に飲んだり,日中はトピーすなわち日よけのヘルメット帽をかぶったりしてマラリアにかからないようにしながら,1931年8月31日,ふたりはタンガニーカの主都ダル・エス・サラームで証言活動を開始しました。ニスベット兄弟が次のように語っている通り,それは決して楽な割当てではありませんでした。「白い舗装道路の日の照り返し,猛烈な蒸し暑さ,ずっしりと重い文書を持って戸別に訪問しなければならなかったこと,これらはわたしたちが経験した苦労のほんの幾つかにすぎません。しかし,わたしたちは若くて体力があり,その割当てを楽しみました」。

精力的なふたりの兄弟たちは2週間で千冊ほどの書籍と小冊子を配布しました。その中には,書籍がいろいろな色をしているので“レインボー・セット”と呼ばれた書籍のセットが多数含まれていました。このことは僧職者の憤怒を買い,そうした文書を家に置くことすら信者に禁じた教会法1399号に教区民全員の注意を促す告知文が,カトリック教会の掲示板にはり出されました。書籍の大部分はインド人に配布されました。というのは,兄弟たちはスワヒリ語の文書を持っていなかったからです。それに,アフリカ人は十分の教育を授けられていなかったので,彼らに証言の業をすることができませんでした。

ふたりはダル・エス・サラームからザンジバルに進みました。その島は海岸から約32㌔沖にあり,かつては奴隷売買の中心地でした。町には,不案内な人ならすぐ迷ってしまいそうな曲りくねった狭い道が走り,たえずちょうじの香りが漂っていました。今でもザンジバルは事実上全世界にちょうじを供給しています。島の人口は25万人で,そのうちの約300人が当時支配していた英国人でした。スワヒリ族が大多数を占め,約4万5,000人がインド人とアラブ人でした。多くの書籍がインド人に配布され,アラブ人にも幾らか配布されましたが,ここでも人口の大部分を占めるスワヒリ族の人々は王国の音信を伝えられませんでした。

ザンジバルに10日滞在した後,ふたりは船でケニアの海港モンバサに行きました。ケニアの高地へ行く途中では新鮮な野菜や果物,温暖な気候を満喫しました。彼らは汽車で旅行し,ビクトリア湖までずっと道中の町々で業を行なってゆきました。それから長さ約400㌔,幅約240㌔のその内海を渡ってウガンダの首都カンパラに行きました。ふたりはそこで大量の文書を配布し,「黄金時代」誌の予約を得ました。80㌔ほど奥地のジャングルで,ひとりの紳士は友人が「政府」と題する本を熱心に読んでいるのを見ました。彼はカンパラに来てその文書を配布している青年を見つけ,全部の書籍を1冊ずつ求めて「黄金時代」誌を予約しました。

自動車で帰りの旅行を始める前に,彼らはさらに40㌔ほど奥地にあるもうひとつの町を訪れました。そして,アフリカのそんなにも奥地に印刷された王国の音信を初めて伝える器として用いられたことに感激しました。帰りは別の道を取り,ナイル川の源であるリポン滝を訪れるという楽しい経験をしました。モンバサへ帰る道すがら,鉄道沿線のさらに幾つかの町で奉仕しました。モンバサでは言いようのない熱暑の中で業を行なって文書を大量に配布し,2度開いた講演会では多くの出席者を迎えました。その後沿岸の土地をもう一か所訪れてから,ルランドヴェリー・カースル号に乗って南アフリカのケープタウンに向け約4,800㌔の航海に就きました。

東アフリカへの2度にわたる最初の旅行で,7,000冊を上回る書籍と小冊子が配布され,「黄金時代」誌の予約が多数得られました。そうした種の幾らかは間違いなく良い土に落ちました。数冊の小冊子を受け取った一紳士はケープタウンの協会に手紙を書いて,ラザフォード判事が著した本と小冊子を全部注文したからです。その人はタンガニーカのブンド(孤立した土地)にある金鉱の経営者でした。このように,献身的で熱心な開拓者が多大の費用と努力,また命そのものをも費やすことにより,音信は英領東アフリカに達して王国の業が進展しつつありました。

考えてみると,1931年にはその時南アフリカにいた少数の忠実な人々によって途方もなく広い区域で業が行なわれました。その年,南アフリカの区域で合計6万8,280冊の書籍が配布され,兄弟たちの信仰を強める8つの奉仕大会が開かれました。そうした広大な区域でいったい何人の人々がそれだけの業を行なったでしょうか。アフリカ南部全体でわずか100名ほどの伝道者がいたにすぎなかったのです。

エホバの証人として前進!

1931年を飾ったのは,オハイオ州コロンバスの大会から伝えられた「エホバの証人」という名前の採択に関する心を躍らせるニュースでした。その知らせは,南アフリカの小さいながら精力的な一団の人々を含め世界中のエホバの民に大きな喜びをもたらしました。神の傑出したお名前を用いることを考えて圧倒された兄弟も少なくありませんでしたが,それによって兄弟たちはアフリカ南部全域でエホバのお名前を宣明するという特権をなお一層認識することができました。そこでの王国の業とその発展はもうひとつの転換点を迎えました。

アフリカ南部の兄弟たちは「エホバの証人」という聖書的な名前に鼓舞され,1930年代初めに非常な熱意と決意をもって前進しました。霊的な武器と神権的な道具はどんどん備えられていました。1932年に一番強力な武器だったのは明らかに「王国は世界の希望」と題する特別な小冊子でした。エホバの証人はあらゆる国で,それを配布することに励み,区域内の僧職者,政治家および大実業家すべてを訪問するという運動に参加することに精を出していました。そうした人の多くはそれまで個人的に証言を受けたことがありませんでしたが,今や彼らにも機会が与えられました。

むろん,政府の高官や国会議員に面会することは多くの場合容易ではありません。それで兄弟たちは,国会議員が一年のある時季に司法上の主都であるケープタウンから行政上の主都であるプレトリアに移動する機会を利用しました。それらの人々が旅行に出るためケープタウンの駅で待っているちょうど良い時に,兄弟たちがやって来てその特別な小冊子を彼らに手渡したのです。彼らは1,600㌔近くの長い旅をするところでしたから,出版物を読んでその内容について考える十分の機会がありました。

1933年中にラザフォード兄弟の講演の録音が用いられるようになりました。アフリカ放送会社は放送用に録音された強力な音信をケープタウン,ヨハネスバーグおよびダーバンの3つの主要な放送局から月に一度放送することに同意しました。こうして音信は,南アフリカ,南ローデシアおよびアフリカ大陸を約3,200㌔入った遠い北ローデシアの多くの家庭に,そして疑いなく多くの心に達しました。講演を聞くとすぐ,人々は前よりも喜んで文書を受け取りました。ところが,1年後に宗教的な放送に関する諮問委員会が組織されました。この委員会は正統的な諸宗派の僧職者から成り,王国の音信の放送をやめさせるよう取り計らいました。

しかし,そのころの熱心な伝道者の業を阻止することは不可能でした。小さな町ではオランダ改革派の大きな教会が周囲数㌔内の主要な建物であり,農夫たちは聖さん式(アフリカーンス語ではナグマールと呼ばれ,実際の意味は「晩さん」である)が行なわれる日曜日に教会の広場に集まり合うのが常でした。彼らはそこにテントを張り牛車を置いてキャンプしました。兄弟たちはしばしば彼らの間で活発に奉仕し,その結果多くの討論が行なわれました。特に,アフリカーンス語を話す兄弟たちは真理の武器で霊的な闘いをするのが好きでした。後に,証言の集会でそうした遭遇戦のことがたいへん楽しそうに語られました。

フレッド・ルーディックは,トランスヴァール州北部で開拓奉仕を始めてまもなくひどいマラリアにかかりました。数人のアフリカ人が助けに来てくれ,野生の果実から調合した薬を作ってくれました。ルーディックはそのおかげで治りました。しかし,別の時,彼のパートナーのシドニー・マックラキーの場合にことはそのようにうまくいきませんでした。マックラキー兄弟は腸チフスの熱に冒されました。フレッドはこう語っています。「そのために彼の体重は2,3週間で約75㌔から41㌔に減り,シドニーは亡くなりました。わたしたちは彼を(ケープ州の)トランスキにあるカラの山脈近くに埋葬しました」。こうして,アフリカ南部の王国の業の発展途上でエホバの忠実なしもべがもうひとり自分の命をささげたのです。

ルーディック兄弟はしばらくの間トランスヴァール州北部のブッシュフェルトで奉仕し,ミュラー兄弟と彼の家族を含む孤立した群れと共に働きました。1930年の初めにミュラー兄弟はトランスヴァール北部全域とケープ州北部にまで入ってすぐれた業を行ない,多くの人が真理を知るのを助けました。

いうまでもなく彼らには問題もありました。そのひとつに,フレッド・ルーディックがカトリック伝道団の伝道所を訪問した時のことがあります。彼はそこで司祭に会い,自分が訪問した目的を説明し始めたところ,司祭の顔は次第に紅潮してゆきました。突然司祭は建物の奥に飛び込むと,銃を持って戻り,ルーディック兄弟にねらいを定めました。しかし,フレッドは平静を保ってくるりと向きを変え,背筋の寒い思いをしながらも自動車のほうに歩いて行きました。

その時までにルーディック兄弟は自転車を“卒業”して木製のスポークが使ってある1928年型のフィアット車を使用していました。彼とミュラー兄弟はその車で荒涼としたブッシュフェルトの広い地域を網羅しました。夜ライオンのほえ声を聞きながら木の下で眠らなければならないことも少なくありませんでした。といっても,たいへんなでこぼこ道を,次から次へパンクするタイヤを修理しながら旅行する野外での厳しい一日を終えた後ですから,ふたりはライオンがいようがいまいが死んだように眠りました。自動車のブレーキも難儀をもたらしました。サウトパンズ・バーグ・パースを越えた時には生皮のロープを前輪のスポークに結びつけ,急な坂を降りる時にそれを強く引っ張らなければなりませんでした。ゴムの焼けるにおいがして全く冷や冷やする経験でした。ふたりの兄弟はそうした経験をしてミュラー家の農場に戻ったときはほっとしました。そこではミュラー姉妹と子どもたちに温かく迎えられたものです。その子どもたちはすでに家庭で良い訓練を受けていました。何人かの子どもたちは後に全時間奉仕を行なうようになり,そのうちのふたりは今なお南アフリカ支部で奉仕しています。その一方が現在の支部の監督であるフランス・ミュラーです。

セントヘレナで証言が行なわれる

トランスヴァール州でこうしためまぐるしい活動が行なわれている間に,開拓者たちは,アフリカの西岸から約1,920㌔沖にある大西洋の小さなはん点のような島,セントヘレナへ行く準備をしていました。この島は広さがわずか122平方㌔ほどであり,5,000人に満たない住民はカラードが大半を占めていて非常に貧しい人々です。このへんぴな島は1815年から1821年にかけてナポレオンを流刑にするのに安心な場所と考えられました。その時セントヘレナは英国の領土でした。

グレイ・スミスは,東アフリカへの旅の後恐ろしい病気からすでに回復して,再び開拓奉仕に力を注ぐ用意が整い,セントヘレナへ行く準備をしました。この度の彼のパートナーは,前の支部の監督ヘンリー・アンケッティルの息子のハル・アンケッティルでした。ふたりは十二分の文書を携えて行き,島中を徹底的に奉仕して1,000冊近くの文書を配布しました。

その訪問の結果,トマス・スキピオという警察官は真理を受け入れて王国の音信を伝道し始めました。彼は60歳で警察を退職し,開拓者になって野菜作りで生計を立てました。彼の息子のジョージ・スキピオは,セントヘレナで後に組織された会衆の最初の主宰監督になりました。

父親のスキピオ兄弟は初めから王国の良いたよりを他の人々と分かつ責任を認識し,自分の親族や島の他の人々に大胆かつ広範な証言を行ないました。1年後には幾人かの人々が彼に加わって証言の業に携わっていました。蓄音器と聖書講演のレコードが入手できるようになると,彼はさっそくそれを求めました。その後何年かにわたり,それは,喜んで耳を傾ける人々に証言する最も効果的な方法であることがわかりました。

1935年までに6名の伝道者からなる小さな群れが島の唯一の町であるジェイムスタウンに組織されました。その小さな群れの伝道者たちの忠実な活動は成果をもたらし,群れは大きくなりました。新しい兄弟のひとりは喫茶店を持っていましたが,顧客にレコードを聞かせる機会を決して逃しませんでした。1939年までにはふたつの群れができていました。ひとつはジェイムスタウンに,もうひとつは数キロ離れたロングウッドにあり,そこはかつてナポレオンが監禁されていた所です。

南西アフリカに戻る

セントヘレナの訪問が大成功を収めた後,スミス兄弟は1935年に南西アフリカに行く決心をしました。彼はその旅行に妻と息子のひとりを伴い,幌つき貨物自動車に新しい録音再生機と数枚のレコードを積んで出かけました。

彼らはわずか5か月間で1万3,000冊もの書籍と小冊子を配布し,「黄金時代」誌の予約を70件も得たのですから,確かにすばらしい経験をしました。主としてルーテル派,カトリックおよびオランダ改革派の僧職者たちにはそれがおもしろくありませんでした。ある場所で,オランダ改革派の牧師は許可なくして書籍を販売しているとスミス兄弟を訴えました。しかし,治安判事はただ笑って,自分も文書を数冊求めました。

真理の種は再びふさわしい土に落ちました。南部に住むアブラハム・ド・クラークというひとりの人は文書を求めてそれを読み,ほとんどすぐに真理を確信しました。彼は新たに見いだした真理につき従い,自分にできる限りのことをして家族を教えました。エホバはその努力を祝福され,彼の妻および子どもたちの幾人かが真理を受け入れました。そして,南西アフリカで最初の証人のひとりであるこの“オオム”アブラハム(アブラハム“おじさん”の意)は,1960年代の末に亡くなるまでエホバに忠実に奉仕し続けました。

1930年代のスワジランド

さて,南アフリカの東側を越えて,もうひとつの色彩豊かな国,スワジランドに行きましょう。この国は三方をトランスヴァール州に囲まれ,東側はモザンビークと国境を共にしています。面積は約1万7,350平方㌔で,およそ42万の人口を有し,そのうちヨーロッパ人はわずか数千人にすぎません。

1930年代の初期に開拓者たちがスワジランドを訪れ,すばらしい証言がなされました。彼らは,町に住むヨーロッパ人を訪問するほか,スワジ民族の首長ソブーザ王二世をも訪ねました。この人は証人たちに対して非常に友好的で,証人たちは彼の部落ですばらしい歓迎を受けました。ソブーザ王は100名の護衛兵を召集し,音楽のレコードとものみの塔協会のJ・F・ラザフォード会長の講演のレコードを聞かせました。その場にいたF・ルーディック兄弟は,50人ほどの妻に囲まれた王に証言するのはたいへん興味深い経験だったと語っています。

別の時でしたが,ロバート・ニスベットとジョージ・ニスベットもこの王に証言しました。ラザフォード兄弟のレコードを幾つか聞いてたいへん喜んだ彼は,蓄音器とレコードと拡声機を買いたいと言いました。これには開拓者たちも困ってしまいました。彼らは文書をたくさん置いて行くということでやっと王に納得してもらうことができました。

モーリシャスとマダガスカルに達する

1933年,南アフリカ支部はふたりの経験を積んだ開拓者をモーリシャスとマダガスカル(マラガシー共和国)に派遣することを決定しました。アフリカ東岸沖のふたつの島へ行くという魅力的な割当てを受けたのはロバート・ニスベットとバート・マックラキーでした。ふたりは最初にモーリシャスに行きました。

ダーバンをたってモーリシャスに行く前に,ふたりは幾らかの時間をかけてフランス語を学ぼうとしました。主な言語はフランス語だと思っていたからです。ところが目的地に着いてみると,住民のほとんどはフランス語の方言もしくはなまりの一種であるクレオール語を話していました。ですから開拓者は人々の言うことがわからず,人々の方は開拓者の話が理解できませんでした。実際,ロバート・ニスベットの場合は問題がもっと複雑でした。彼にはスコットランドのアクセントがあったからです。ある時など家の人は彼にこう言いました。「わたしにはそのことばがわかりませんから,どうか英語で話してください」。

島で主に実力や権力を持っていたのはカトリックでしたから,まもなくふたりの兄弟が逮捕されそうになったのも不思議ではありません。司祭たちの扇動で警察に苦情が持ち込まれました。警察は南アフリカに電報を打って兄弟たちの素性を確かめ,ふたりの伝道する権利を擁護しました。ただし,許可なくして集会を開くことは禁じられていること,および兄弟たちの場合それは許可されないであろうということが申し渡されました。さらに,ラ・ヴィ・カトリーク(カトリック生活)という地方新聞は,ふたりの「偽預言者」について警告を出しました。そのためにふたりの配布は減少しましたが,見込みのある「羊」を探す彼らの喜びと決意は損なわれませんでした。

ローマ・カトリックの枢機卿ヒンズリーはふたりの開拓者と同じ時に英国からモーリシャスを訪れていました。それはある司祭をこの島の新しい司教に就任させる式を執り行なうためでした。島はその特別な行事のためにやって来たカトリックの高位聖職者や司祭であふれていました。それは開拓者たちにとって「王国は世界の希望」と題する小冊子を提供する絶好の機会となりました。ヒンズリー枢機卿その人に小冊子を手渡したのはロバート・ニスベットでした。枢機卿は騒ぎ立てずにそれを受け取りました。バート・マックラキーは新しく就任した司教ジェイムズ・リーンに手渡そうと試みました。彼は静かにそれを取るとずたずたに引き裂いてくずかごに捨ててしまいました。

当時モーリシャス島では交通費がたいへん安く,恐らく世界のどの場所よりも安かったことでしょう。たとえば,汽車に乗って島を一周し,それからバスと汽車でもう一度島を一周してもわずか半クラウン(約105円)でした。そのようにして開拓者たちは島中をくまなく網羅しました。彼らはフランス語の文書に加えてタミール語,ウルドゥー語,ヒンディー語といったインドの様々な言語や中国語の小冊子を配布しました。ある時,インドの一新聞の編集者は,ローマ・カトリックの教階制の罪を勇敢に暴露した「黄金時代」誌の長い記事を興味深く読みました。そして,その記事を続物として新聞に掲載し始めました。ところがそれが完結しないうちに警察が介入し,どんな結果になるかを編集者に厳重に言い渡したため,彼はその記事を掲載するのをやめてしまいました。しかしながら,僧職者から非常な反対を受けたにもかかわらず,ふたりの開拓者はその割当てを果たしました。

彼らの訪問はモーリシャス島の人々に対して大きな証言となり,ふたりが島を去った後には幾らかの非公式な証言を行なう小さな群れができていました。ニスベット兄弟とマックラキー兄弟はそうした労苦の生んだ実を心からうれしく思ったにちがいありません。では,ふたりがマダガスカルへ行った時はどうだったでしょうか。

アフリカの南東海岸沖にあるこの大きな島(世界で4番目に大きい)は長さが約1,600㌔です。東岸はモンスーンの風がもろに吹きつけ,豪雨が降ります。しかし,島の他の場所はそこよりずっと乾燥していますから,植物相は砂漠の植物から熱帯の密林まであって変化に富んでいます。

マダガスカルの人口は約600万で,多くの人種の混血した人々からなっています。遠い昔アラビア人とヒンズー人はマダガスカルに通商居留地を設けたものと思われます。それ以来ポルトガル人,フランス人,英国人はそろってこの島の植民地化を試みました。ついに占領したのはフランス人で,1896年にマダガスカルはフランスの植民地になりました。その時からフランスの文化と言語がこの島と住民に多大な影響を及ぼしました。したがって,1930年代にエホバの証人が王国の音信を携えて初めてマダガスカルに渡った時,勢力を持っていた宗教はカトリックでした。

ロバート・ニスベットとバート・マックラキーは1933年に船でマダガスカルに到着しました。ふたりは業を注意深く開始し,まず上陸した主要な港タマタブから始めました。区域をすばやく網羅して多くの文書を配布した後,奥地にある首都タナナリブへと進みました。

タナナリブへ着いてすぐに,彼らは,協会のギリシャ語の出版物を数冊持っているギリシャ人の店主に会いました。それはニューヨークのブルックリンにいる彼の親族から送られたもので,兄弟たちはそのことにたいへん励まされました。しかもうれしいことに,もてなしのよいそのギリシャ人は店の2階にあるひと部屋を無料で提供してくれました。

ニスベット兄弟とマックラキー兄弟はその時の訪問で群れとか会衆を設立することはできませんでした。英語がわかる人がほとんどいなかったので,ふたりにとって言葉が非常に大きな問題となったことはいうまでもありません。しかし彼らは文書を全部配布してしまうまでタナナリブにとどまり,それから南アフリカに戻りました。こうしてマダガスカルに真理の種がたくさんまかれたのです。

モザンビークでの初期の努力

まだ手のつけられていなかったもうひとつの大きな区域はモザンビークと呼ばれるポルトガルの属領でした。その広さは77万7,000平方㌔にも及び,主として平たんな低地が広がっています。人口は現在665万で,白人の占める割合はほんのわずかにすぎません。首都は南アフリカの国境に近い南のはずれにある重要な港,ロレンソマルケスです。もうひとつの重要な海港都市は数百㌔北にあるベイラです。

宗教の自由があることになってはいるものの,カトリック教会が幾世紀にもわたって宗教界を支配してきました。また,都市にはプロテスタントの小さな宗派が幾つもあります。農場では強制労働が行なわれ,アフリカ人の労働者はほとんど何の報酬も受けずに働かされました。またアフリカ人には過酷な処罰が課されました。比較的明るい面は,ポルトガル領東アフリカには公に人種差別がないことです。交通機関,銀行,商店あるいは他のどこにも「ヨーロッパ人専用」という標示や人種差別をするものがありません。この国にあるのは,アフリカ人の間に見られる,「非文化的」アフリカ人と,彼らがアシミラドスと呼ぶ「文化的」アフリカ人との区別です。アフリカ人はだれでも法律的な手続きを踏むことによって「非文化的」な身分から身を起こして「文化的」になることができます。幾つかの試験に合格して,皮膚の色には関係なく「黒」人から「白」人になるのです。そうしたい人は地方の裁判所に申し込み,ポルトガル語が読み書きできること,キリスト教(カトリック)に所属していること,一定の経済的基盤があること,ヨーロッパ式の生活を進んでする意志のあることを証明しなければなりません。肝要なのはその人が白人の生活様式を採用する能力があるということです。そのような人は許可証の請求権や選挙権を持ち,その人の子どもには自由に教育を受ける資格が与えられます。ただしその人は兵役に服さなければならず,高額の税金を払わなければなりません。この資格にかなうのはアフリカ人のうちほんの少数の人々にすぎません。

1925年,王国の種は地上のこの地のアフリカ人の間に良い土を見いだし,数年の間妨害もなく着実に成長しました。ところが1930年代の末に当局者は「ものみの塔」誌の予約者を調べ始め,相当数の人々が逮捕されました。モザンビークの南部で逮捕された人々は刑務所の中でニアサランドから連れてこられていた他の兄弟たちに会いました。ですから非常に大勢の人が一度に集まったわけです。2年から3年たってようやく最終的な判決が下されました。それによってある人々は12年の刑でサントメの犯罪者植民地に送られ,別の人々は10年の刑でモザンビーク北部にある野外労働用キャンプに送られました。判決文の中では,彼らを一箇所に置くとその地域が『あまりにも強力な彼らの教えに毒される』から彼らを一緒にしてはならない,ということが述べられていました。

判決を受けた人々の中に,マーラングアナという兄弟がいました。その兄弟には次のような思い出があります。マーラングアナ兄弟は北部の幾つかの場所で働きましたが,アントニオエネスという小さな港に近い大きなココナッツ園もそのひとつでした。ある日巡査部長が彼を調べに回って来て,彼が聖書の話を準備しているのを見つけました。巡査部長はそのことを犯罪者植民地の長官に通報しましたが,長官は何も害はないだろうと言いました。しかし,巡査部長はマーラングアナ兄弟をむちで打ち,彼を4か月間投獄しました。数年後,刑期を終えたマーラングアナ兄弟はビラ・ルイーザに戻りました。そこの王国伝道の業は停止していましたが,マーラングアナ兄弟が帰ったことによって,関心を抱いていた人々は新たな出発をするように助けられ,業はどんどん拡大しました。

こうして,モザンビーク南部のアフリカ人の区域では良い出発がなされましたが,ヨーロッパ人の場合はどうだったでしょうか。

ロレンソマルケスにヨーロッパ人が初めて到着して,白人であるポルトガル人に幾らか証言し始めたのは1929年のことでした。そのヨーロッパ人とはヘンリー・マイアダルで,彼はエディス・トンプソンと結婚するために開拓奉仕から退いていました。ふたりは,時に幾分の困難を感じながらも自分たちだけで業を進めました。しかし,熱心な配布者レニー・テロンとすでに結婚していたピエ・ド・ジェゲールが1933年にモザンビークのヨーロッパ人の区域を援助するため協会から派遣されました。ド・ジェゲール兄弟姉妹はそこのヨーロッパ人の区域をくまなく網羅し,英語とポルトガル語の文書を大量に配布しました。

1935年にほかのふたりの開拓者がロレンソマルケスに行きましたが,ほんの短期間滞在したにすぎませんでした。そのふたりの開拓者とはフレッド・ルーディック兄弟とデイビッド・ノーマン兄弟で,彼らはマイアダルの家族のもとに身を寄せました。ふたりは次のような話をしてくれました。「業を始めて5日目のことでした。公共広場でふたりの行儀の良い訪問者といった様子で腰掛けながらお茶を飲んでいると,デイビッド兄弟がわたしにこう言いました。『フレッド,あっちを見ちゃいけない。左手の向こうの方でふたりの男がぼくたちをかれこれ30分も見張っているんだ』……その日わたしたちが家に帰ると,エディス・マイアダル姉妹は,『秘密警察があなたがたおふたりを何度も捜しに来ました』と言いました。そのことばが終わるか終わらないうちに,箱型貨物自動車がサイレンをけたたましく鳴らしながら角をまがって来たかと思うと,わたしたちはたちまちブラック・マリア(犯罪人を捕らえたり輸送したりするための箱型貨物自動車)に押し込められました」。

ふたりは地位の高い役人,テキシエラ氏の前に連れ出されました。デイビッド・ノーマンは大胆にも,その陰謀の背後には司祭がいることを知っていると彼に言いました。非常に痛い所を突かれたテキシエラは,飛び上がるとこうどなりました。「もしおまえたちがこの国の者なら今すぐマデイラ島に送ってやるんだが,南アフリカの市民だから即刻追放してやる」。

その日,兄弟たちは,全員が銃や剣で完全に武装した警官の乗る自動車に前後を護られながら,南アフリカの国境に向けてロレンソマルケスを去りました。兄弟たちはまだ文書を幾らか持っていたので,国境につくとすぐ警官に証言して文書を配布し,みんなと握手して別れを告げました。

1937年にはモザンビークの司教からさらに訴訟が起こされました。マイアダル兄弟は出頭を命ぜられて巡査部長と面会し,司教から苦情の申し立てがあったことを告げられたのです。その苦情とは,協会の文書がモザンビークで配布された結果人々は武装蜂起して革命を起こしているというものでした。マイアダル兄弟は釈明しようとしましたが,部長は耳を貸そうとせず,引き続き文書を配布するならおまえを直ちに追放すると兄弟に申し渡しました。

しかし,マイアダル兄弟はそれに抵抗し,警察の決定を上訴するために総督との会見を取り決めました。総督は,親切にではありましたが,その問題を副総督のマノ氏に任せました。たまたまマノ氏は非常に道理をわきまえた人物で,名目上カトリック教徒でしたが,教会の教理の多くに不賛成でした。彼は協会の文書を最後まで注意深く読んで,それが革命を助長するという非難は誤りであるとの結論に達しました。書籍にたいへん深い感銘を受けたマノ氏はこれ以上処置を講じないと言いました。したがって,エホバの証人を除こうという司教の企てははばまれてしまいました。

一方,マイアダル兄弟の雇用者側は,兄弟が追放されるかもしれないということでたいへんいら立っていました。彼らがそうした態度を示すので,マイアダル兄弟は辞表を出しました。が,会社側は辞表を受理するかわりに,結局彼をヨハネスバーグの店に転勤させることに決定し,後の1939年にそれを実施しました。

しかし,ロレンソマルケスへヨーロッパ人の開拓者を派遣する試みが1938年にもう一度なされました。再びデイビッド・ノーマンがやって来ましたが,この度は英国から着いて間もないフランク・テイラー兄弟を新しいパートナーにしていました。ところがふたりが到着して2,3日たたないうちにまたもや警察が動いて,業をやめなければ即刻追放すると勧告して来ました。ケープタウン支部は,たくさん在庫していたポルトガル語の文書をマイアダル兄弟姉妹に託して南アフリカに戻るように,とふたりに指示しました。

そうしている間に,友好的で同情心に富み,人々からたいへん愛されていた総督がポルトガル政府によって左遷され,インドの小さなポルトガル植民地ゴアに移されました。彼の後を引き継いだ官吏は熱烈なカトリック教徒でした。

モザンビークにマイアダル家族がとどまれるのも今や時間の問題であると見て取った協会は,モザンビーク全国の政府の役人各人に文書を郵送するよう提案しました。マイアダル兄弟姉妹はポルトガル語の文書を入れた封筒を何百も作り,モザンビークを離れる日にそれらを幾つかのポストに投かんしました。

モザンビークのヨーロッパ人の間で目に見えるほど関心は高まりませんでしたが,アフリカ人の間では迫害を受けながらも着実な進歩が見られました。1940年までにモザンビークのアフリカ人の伝道者は38名という最高数に達しました。その人たちは4つの場所で別個に集会を開いていました。

ニアサランドで組織する

ハドソン兄弟が1925年にニアサランドを訪問した後,引き続き協会に導きを仰ぐ少数の人々はケープタウンの支部事務所と連絡を保っていました。次いで1933年,誠実な関心を持ち援助を必要としている,中心となる人々のいることが明らかになりました。そこで,ニアサランドにヨーロッパ人の代表者を置くことが申請され,総督はそれを快く受理しました。こうして1934年5月,南アフリカ支部の管轄の下に文書発送基地がゾンバに開設されました。ケープタウン支部事務所が判断し得る限りでは,当時ニアサランドに誠実な関心を持つ人々が100名ほどいました。バート・マックラキーはその区域の業を組織するために南アフリカから派遣されました。

マックラキー兄弟の落ち着き先はリチャード・カリンデの家であり,彼はそこに1か月くらい滞在しました。そのアフリカ人の兄弟は彼がニアサランドに居る間親密な同行者になることになっていました。マックラキー兄弟は業を開始するかしないうちにひどいマラリアにかかり,病院に2週間入院しなければなりませんでした。回復後,彼はニアサランドの協会の文書発送基地に使用するふたつの部屋を確保することができました。一方の部屋は事務所に,他方の部屋は寝室になりました。

マックラキー兄弟の主な仕事は,まず,いわゆる「ものみの塔運動」によってもたらされた混乱を正すことでした。それは兄弟が考えていたほど難しくはありませんでした。一例をあげれば,ニアサランドの警察署長は,アフリカ人による偽りの運動がものみの塔聖書冊子協会と何の関係もないことを認めていました。また,ケープタウン支部は事態を処理する際の明確な指導もしくは指針をバート・マックラキー兄弟に与えていました。彼はニアサランド各地にある群れを次々に訪問しました。それぞれの場所でカリンデ兄弟を通訳にして講演した後,「王国は世界の希望」と題する小冊子に載せられている決議文を簡単に読んだものです。その決議文はエホバの証人という聖書に基づいた名称に関するものであり,それに賛同する人は挙手によってそのことを表わすように求められました。大部分の人は手をあげました。が,後の出来事からわかるように,多くの人々は誠実な態度でそうしたのではありません。

マックラキー兄弟はその後も時々会衆を訪問しました。こうして多くの人々は偽りの「ものみの塔運動」とその指導者たちを支持することから手を引くように助けられました。そうした業を行なう際にマックラキー兄弟は数々の興味深い経験をしました。幾つかの会衆は踏みならされた道からずっとはずれた所にあったからです。彼が集会場所まで自動車を乗り入れるために,土地の兄弟たちが未開墾地に数㌔の道路を実際に作ったこともありました。非常に孤立したひとつの群れへはカヌーでなければ行けませんでしたが,ワニのうようよいる川を何㌔も旅行することはたいへん危険でした。マックラキー兄弟はカヌーをゆすらないように注意しながら中央のイスに座り,アフリカ人の兄弟たちが交代にかいでこぎました。同兄弟はその兄弟たちが宿舎と食物を備えてくれたことを心から感謝しましたし,彼らが霊的な事柄に対する認識を示したことをも高く評価しました。

マックラキー兄弟はニアサランドのヨーロッパ人の間でも奉仕し,ある時カロンガという所を訪問しました。そこに行くにはU字形の急な曲り道が幾つもあるリビングストニア山を自動車で下らなければなりませんでしたが,あまりにも急な曲り道のため,うまく通り抜けるには自動車をいったん止めてからゆっくりバックし,それから前進しなければなりませんでした。彼が会った人の中にはふたりのギリシャ人の実業家がいました。ふたりはギリシャ語の出版物を求め,ひとりは後にバプテスマを受けました。

1934年11月,南アフリカからふたりの開拓者がポルトガル領東アフリカを通ってニアサランドへ旅行しました。そのふたりはゾンバ,ブランタイア,リンベその他の土地にいる少数のヨーロッパ人に証言することができました。記録によれば,彼らはその旅行で700冊の書籍と小冊子を配布しました。ニアサランドのヨーロッパ人の間で戸別訪問による業が組織的に行なわれたのは明らかにその時が初めてでした。

こうして,しっかりした神権的な組織がニアサランドにようやく確立されてゆきました。野外奉仕の報告も集められ,1934年の平均伝道者数は28人でした。その後まもなく,マックラキー兄弟はケープタウンの支部事務所で奉仕するために呼び戻されました。彼の肉の兄弟であるビル・マックラキーは1935年3月17日にニアサランドの文書発送基地の管理に当たり,長年の間忠実にそこで奉仕しました。

ニアサランドにおいて関心を持つ多くの人々の間で神権的な組織が確立するにつれ,野外奉仕に参加して報告する人の数は急激に増加しました。1934年には28名であった伝道者数が1935年には340名になったのです。一方反対も激しくなり,キリスト教世界の宣教師の中には政府当局者をそそのかして兄弟たちの活動を妨害させる者もいました。そして,ひとつの小冊子と「黄金時代」誌を1934年11月付で禁止させることに成功したのです。しかし発展は続き,1937年までに会衆の数は48にふえ,伝道者の最高数は1,319名になりました。

ほどなくして,幾つかの講演のシンヤンジャ語のレコードが作られ,アフリカ人の兄弟たちにたいへん感謝されました。会衆の多くはお金を出しあって蓄音器を買いました。ニアサ湖でつりの会を催し,つった魚を市場で売って“蓄音器基金”の足しにした会衆もありました。北部では,兄弟たちが一本の巨木を買い,川に浮かべて村まで運び,幹をくり抜いてカヌーにし始めました。そのカヌーを売ったお金で蓄音器が買えるのです。それには伝道者が何か月も一生懸命に働かなければなりませんでした。しかし,それによって蓄音器が買えましたし,王国の活動をさらに効果的にすることができました。その年,「富」と題する本がシンヤンジャ語で出版され,会衆の人々にすばらしい霊的な糧が備えられました。その結果,文書発送基地のしもべは,兄弟たちの間にかつてこれほどの一致が見られたことはないと報告することができました。

英領東アフリカにおける新たな努力

先に述べた通り,英領東アフリカへは1931年にグレイ・スミスおよびフランク・スミス兄弟が,後にはロバート・ニスベットとデイビッド・ノーマンが訪問しました。それによって多数の文書が配布され,広範にわたる証言が行なわれました。しかし,今や再び訪問する時が来ていたのです。

東アフリカでの3度目の運動は1935年,南アフリカから行った4人の開拓者によって行なわれました。その4人とはグレイ・スミスと彼の妻,およびふたりのニスベット兄弟,すなわちロバートとジョージでした。今回彼らは750㌔の配達用有蓋貨物自動車2台を持って十分の用意をしていました。その自動車は,ベッド,台所,水道設備,予備のガソリン・タンク,取りはずしのできる蚊よけの金の網戸を備え,住まいとして使えるようになっていました。時には道路に草が3㍍も伸びていることがあったにもかかわらず,その自動車のおかげで一行は以前に証言がなされなかった土地に行くことができました。彼らはしばしば荒野で寝ましたから,夜ほえるライオン,穏やかに草をはむしま馬やキリン,不気味な様子をしたサイやゾウなど,野生生物の豊富なアフリカの心臓の鼓動を見,聞き,感じることができました。

タンガニーカに着くとすぐ,一行はふた手に分かれました。スミス兄弟と彼の妻はしばらくの間タンガニーカにとどまり,ニスベット兄弟たちはナイロビに進みました。スミス夫妻は後にナイロビでふたりに合流することになっていました。タンガニーカでスミス夫妻は逮捕され,南アフリカへ帰るように命令されました。しかし,スミス兄弟は,「生来の英国臣民」と裏書きされた南アフリカのパスポートを持っていたので,ナイロビに行くことにしました。ケニアのナイロビに着くと,スミス夫妻はすぐに警察署に行き,南へ戻る時に返してもらう100ポンド(約8万4,000円)の供託金を払って滞在の許可を得ました。

ふたりはウガンダに赴きました。カンパラに着いたとたん,そこは敵意のある土地で,警察が絶えず自分たちを監視していることを知りました。しかしながら,彼らは政府の追放命令によってウガンダを離れざるを得なくなるまでに多くの文書を配布することに成功しました。こうしてふたりはナイロビに戻り,そこでニスベット兄弟たちと合流しました。

ここでも彼らは当局者からの反対を経験しましたが,3,000冊を上回る書籍と7,000冊近い小冊子を配布し,「黄金時代」誌の予約を多数得るなど,すぐれた証言を行ないました。追放命令に対して激しい抗議がなされましたが,当局者から納得のゆく説明は与えられませんでした。

その活動中,ロバート・ニスベットは腸チフスにかかったため,一行は彼をナイロビ病院に残して帰路に着きました。スミス兄弟とジョージ・ニスベットはザンジバルに入ろうと試みましたが許可されず3人は南アフリカに戻りました。ロバート・ニスベットは全快し,後の1955年にモーリシャスの最初の支部の監督になりました。彼の弟のジョージはモーリシャスでしばらく宣教奉仕をした後,再び南アフリカに派遣され,1958年に南アフリカ支部で奉仕し始めました。

「暗黒のアフリカ」への道を切り開いたそれらの開拓者たちは,それに伴うあらゆる困難と危険に立ち向かうための大きな信仰を確かに持っていました。6人の開拓者のうち4人は,黒水熱,マラリア,腸チフスにかかって長期間入院しました。彼らの努力により,膨大な量の文書が配布され,1950年代にギレアデ学校の卒業生が始めることになっていた霊的に築き上げる業の基礎がすえられたのです。

南ローデシアではさらに進歩が見られる

南ローデシア(現在のローデシア)への訪問は,1929年に開拓者のアドシェイド姉妹が単身で訪れて当局者から数々の妨害を受けて以来行なわれていませんでした。次に南アフリカから開拓者たちが来たのは1932年5月でした。それは2台の車に乗った4人の開拓者,ピエ・ド・ジェゲール兄弟姉妹とロバート・ニスベット兄弟,およびロナルド・スナシャル兄弟でした。一行が国境に着いたのは土曜日の午後で,その時役人たちはテニスの試合を楽しんでいるところでした。兄弟たちは自分たちが国際聖書研究者協会の代表者であると言いました。役人は,試合に戻りたかったからでしょう,それ以上尋ねませんでした。ですから彼らは本物のものみの塔協会の代表者を入国させたことに気付きませんでした。しかし,まもなくたいへんなことになりました。ブラワヨで業を始めてからほんの2,3日して,開拓者たちはC.I.D.(犯罪捜査部)本部と警察署に呼び出され,長文の声明書を書かされたのです。

数日後,総督の命令で兄弟たちは48時間以内に立ち去るよう告げられ嘆願することは認められませんでした。彼らは法律関係の経験を持つある親切な人に相談し,その人の勧めで飽くまで嘆願し続け,決定が下されるまで立ち去ることを拒みました。そして,総督に送達してもらうべく,C.I.D.の課長に嘆願状を差し出したのです。翌日,英国と南アフリカの新聞はその事件を公に報じました。1932年5月30日付のケープ・タイムス紙によれば次のとおりです。「ブラワヨ発,土曜。宣教の業を行なう目的で3週間前に当地に着いた南アフリカ連邦からの4人のヨーロッパ人の訪問者は,次の月曜日までに当植民地から立ち去るよう命ぜられた。当局者から『好ましからざる住民もしくは訪問者』とみなされたのである。

「当局者は,その宣教師らが普及するものと思われる教理を否認していると伝えられる」。

一方,兄弟たちはロンドン支部に連絡し,協会はロンドン支部から南ローデシアの弁務官に電報を送りました。その結果決定は変更され,4人は,アフリカ人に伝道しないという条件で6か月間滞在することを許されました。南ローデシアのヨーロッパ人にすぐれた証言がなされたのはそれで3度目です。その時関心が著しく高まった記録はありませんが,南ローデシアの政府関係者のほとんど全員に個人的な証言がなされ,「立証」と題する本および「王国は世界の希望」の小冊子が手渡されました。

その滞在中,P・ド・ジェゲール兄弟は特別にローデシア首相モファット氏を彼の農場に訪問しました。ふたりは非常に友好的な会話を交わしたものと思われます。その結果,ド・ジェゲール兄弟は,アフリカ人の間でのものみの塔協会の業がしかるべき監督を受けられるようヨーロッパ人の代表者を派遣する許可の申請書を当局に書き送りました。それは1932年10月のことでした。ケープタウンの支部事務所はすでに1932年9月14日付で南ローデシア政府の植民地相に同様の手紙を送っていました。ところが,ケープタウン支部とド・ジェゲール兄弟の二重の努力も成功しませんでした。ローデシア当局は同国の僧職者に扇動されて,エホバの証人に対して門戸を閉ざしたように思われます。

ケープタウンの支部はそれで引き下がることなく,1932年の10月に,問題を非常に強く述べた長い手紙をローデシアの植民地相に再び書き送りました。折り返し送られて来た返事は次のようなそっけないものでした。「政府には,先に貴協会に申し渡した,貴協会の代表者に当植民地への入国を禁ずるとの決定を再考する余地はありません」。しかし,1年後の1933年11月に国務大臣に手紙を書き送って再度の試みがなされましたが,同様の返事が返って来ました。

ケープタウン支部は許可を申請し続け,王国の業を組織し指導する協会の特別な代表者を派遣する許可を求める長い手紙を,数年にわたり毎年ソールズベリー当局に書き送りました。政府はと言えば,決まって,許可しないとの返事を送ってよこしました。1934年にニアサランド当局が,文書発送基地を開設することと同国でヨーロッパ人の兄弟が業を組織することとを許可し,1936年には北ローデシアで同様の取決めが設けられたため,ケープタウンの支部事務所はその戦いに新たな攻撃手段を得ました。1938年には2通の申請書が出されたものと思われますが,2番目の申請書に対する回答として内務長官から寄せられた1938年11月16日付の書簡は次のように述べていました。「政府は,北ローデシアとニアサランドにおける認可の結果をさらに時間をかけて調べたうえでなければ貴協会を承認する用意がないことをお伝えするように,との指示がありました。また,貴協会の文書が同植民地の原住民に適しているのでないかぎり,政府が貴協会の承認に同意することはまず考えられません」。

しかしながら,ケープタウン支部と南ローデシア政府間で定期的なやりとりが行なわれたほかにも,南ローデシアにおける王国の業を促進する努力がなされました。1935年10月25日,「南ローデシア政府官報」は,伝道の業を規制するふたつの法案の本文を掲載しました。そのひとつは,「1936年,原住民伝道師法」と呼ばれるもので,原住民の伝道師や教師に証明書を発行して原住民による宗教運動を規制することを意図していました。議論沸騰の末,それは可決しませんでした。もうひとつの,「1936年,治安維持法」に関した法案は,扇動的な発言,新聞,書籍,写真およびレコードを禁ずるためのものでした。後に行なわれた議論から,その法案は特に協会の業を対象としたものであることが非常にはっきりしました。その治安維持法が王国の業に対して作り出された新しい武器であることはあまりにも明白でしたから,可決される以前に協会のブルックリン事務所は行動を起こしました。ラザフォード兄弟自身が,南ローデシア首相と国会議員全員に,彼らが危険な道を取ろうとしていることを警告する手紙を書いたのです。ケープタウン支部事務所はその手紙の写しを2万5,000部印刷し,南ローデシア住所録に氏名の出ている各ヨーロッパ人にそれを送りました。

ところがそれにもかかわらず,治安維持法は可決し,その直後に協会の出版物14冊(書籍7冊と小冊子7冊)は扇動的であると宣言されたのです。テストケースとして,直ちに数冊の文書が当時南ローデシアの諸会衆を訪問していたアフリカ人のカブンゴ兄弟に郵送されました。それらはブラワヨに着いたところで税関吏に押えられたため,協会はその返還の申請をもって応酬しました。事件は1937年5月に南ローデシア高等裁判所に持ち出されました。協会の弁護士であったビードル氏(後のローデシア首席判事)は問題の文書を注意深く研究していたので,裁判が始まる2日前に南アフリカ支部の監督ジョージ・フィリップス兄弟と打ち合わせた時には内容にたいへん精通していました。法廷では数日間にわたって書籍の価値が十分論じられました。ケープタウンから来たフィリップス兄弟は興味深くてまれな経験をしました。というのは,法廷で総督の横に座り,彼が適切な聖句を見つけたり出版物の問題の個所に関して適切な説明をしたりするのを助けたのです。ジャスティス・J・ハドソン判事は審理後,判決を下す前に書籍を読むことをほのめかしました。判決が下りたのは1937年9月23日でした。判事は被告側の論議の賛否両論を述べた後,次のように自分の見解を要約しました。「これらすべては,地上の諸政府すべての組織上および管理上の根本的な欠陥を是正することに注意を喚起すべく誠実に著された出版物であるとみなし得る。……したがって,わたしの考えでは,これらの出版物はどれひとつとして扇動的ではない」。

これは協会側の重要な勝利でした。しかし,政府は上訴をもってそれに答えたのです。その裁判は1938年3月15日に南アフリカ連邦の最高裁判所上訴部門で行なわれました。判決は1938年3月22日にN・J・ド・ウェット判事によって下され,それは南ローデシア裁判所の決定を支持するものでした。その事件はローデシアと南アフリカの新聞で広く報道されました。実際,ブラワヨ・クロニクル紙は判決文全文を掲載しました。こうしてすぐれた証言がなされ,協会の出版物は禁止処分を解かれました。

兄弟たちの業は順調に伸展していました。1938年までに王国をふれ告げる人の数は321名に増加し,20台の蓄音器が野外で用いられていました。会の組織,すなわち会衆の数はその時34でした。

1938年の初め,協会は,ヨーロッパ人の区域で働いて励ましを与えるふたりのヨーロッパ人の代表者を再び派遣する許可を申請し,それを認められました。「ただし,各人は前もって,もしくは到着した時点で,南ローデシアの原住民の間で文書を配布したり,公開集会を開いたり,宣伝したりしないことを約束した文書を提出する」ことになっていました。ですから,形勢は協会に有利な方向に向いていましたが,戦いは決して終わっていなかったのです。

1938年に協会が派遣したふたりの開拓者は,ロバート・ニスベットと南アフリカの人で開拓奉仕に全く新しいジム・ケネディでした。ベイトブリッジという国境検問所でふたりは当局に呼び止められて尋問を受け,結局6か月間の入国を許されました。彼らはヨーロッパ人を対象に奉仕して非常に楽しい時を過ごし,行く先々で多くの文書を配布しました。ある金坑では1日に200冊近い書籍を配布したのです。警察がふたりをずっと監視していたのはいうまでもありません。ふたりは土地の警察署に絶えず届け出なければなりませんでした。人々はふたりのことを聞いていたらしく,ほとんどどこでも彼らが来るのを待っていました。農夫は大抵もてなしがよく友好的でした。もっとも,農夫が「ものみの塔」と聞いて,ひらひらする布で興奮させられた牛のようになったこともたまにですがありました。

ふたりはブラワヨでマックグレゴーという兄弟に会いました。彼はスコットランドですでに真理にいましたが,霊的に冷えてしまいました。その開拓者たちに大いに励まされた彼は,しばらくして再び奉仕を行なうようになりました。開拓者たちはまた,12年ほど前にジョージ・フィリップスとヘンリー・マイアダルが接触したガン家族を見いだしました。その家族も不活発になっていましたが,ふたりの開拓者の力添えで霊的に元気を回復しました。こうして1938年に彼らはブラワヨで群れを組織することができました。それは約17名の関心を示す人々からなり,南ローデシアで最初のヨーロッパ人の研究グループでした。やがてマックグレゴー兄弟はローデシアにおける協会の代表者をつとめました。報告をまとめたり,同国の王国の関心事を世話したりするうえで彼の働きはたいへん役立ちました。

北ローデシアで反対に遭う

南ローデシアにおける戦いで証人たちは勝利を得つつありましたが,1925年当時ムワナ・レサが非常な問題を引き起こした隣国の北ローデシア(ザンビア)ではどうだったでしょうか。

ムワナ・レサの挿話的な出来事の後,難しい時期が数年続きました。南の国境にあるリビングストンからコッパーベルト地帯を通り,それに続くコンゴの国境まで鉄道が敷かれていましたが,その鉄道沿いの主要な都市のほとんどに関心を持つ人々の群れがありました。そうした群れは,ニューヨークのブルックリンにある協会の事務所とかケープタウンの事務所と手紙で接触するようになった人々で成り立っていました。通信は文書を注文したり寄付したりする場合に限られており,通信連絡を取る人が群れのリーダーとみなされ,群れに交わる人々もその人を自分たちのリーダーであると考えました。

世俗の権威から絶えず悩まされ,組織的な指導もなかったので,集会は大抵家庭での小さなグループの域を出ていませんでした。とはいえ,誠実で敬虔なクリスチャンは入手できる限られた資料を使って神のみことばを真剣に学んでいました。

導きを捜し求めていた人にトムソン・カンガレーという青年がいました。1931年,20代初めのトムソンは,世界的な不況でブワナ・ムクムワ炭坑が閉鎖になって職を捜していたところ,キトウェのヌカナ炭坑に新しい職を見つけました。まもなく彼は従業員のふたつのフットボールチームの監督者に任命されました。寄宿舎でトムソンといっしょだったのはゴールキーパーをしていた少年でした。ある日曜日,その少年は偶然にキトウェのエホバの証人の集会を見つけ,「聖書研究」という本のポケット版を持って帰りました。本の内容を理解しようというその少年の決意に刺激されたトムソンは,集会に行って自分の目で確かめることにしました。出席した集会では「神のたて琴」と題する本を用いることが特に強調されたので,トムソンはそれを手に入れました。彼の記録によると,トムソンはその新しい本の内容をむさぼるように吸収し,まもなくあらゆる感情を打破して心から神の業を行なうようになり,その年にバプテスマ希望者の資格を得ました。トムソン・カンガレー兄弟は1937年10月13日に開拓奉仕を始め,北ローデシアの支部事務所から割り当てられたタンガニーカとウガンダの地域に良いたよりを携えつつ,兄弟たちのしもべとして,また地域のしもべ(巡回および地域監督)として奉仕しました。

しかし,カンガレー兄弟が真理を知る2,3年前を振り返ると,伝道の業は北ローデシアで激しく反対されていました。北ローデシアの業を監督するヨーロッパ人の代表者を常時置いておくために,協会は1927年から1934年にかけてあらゆる努力を払いましたが,それらはことごとく拒否されたり無視されたりしました。その時期の最後のものとして,2度にわたり,1932年10月12日付と1934年9月20日付で申請がなされましたが,後者は受理されたとの通知はあったものの熟慮した上での回答は何もありませんでした。続いて起きた幾つかの事件から,当時,伝道の業を完全に押えようというたくらみが働いていたことは明らかでした。

その時までに,「神のたて琴」といった協会の出版物数冊と多くの小冊子がシンヤンジャ語で翻訳出版されました。「神のたて琴」は関心を持つアフリカ人が研究の手引きとして用いました。「エホバの証人の1935年の年鑑」の報告は,不完全ながら,南北ローデシアで一握りほどの伝道者により1934年度中に1万1,759冊の文書が配布されたことを示しています。そうした活動は偽りの宗教家と政治分子の怒りを招きました。彼らは土着の運動の信仰や悪行のことで協会の代表者を非難し,法律によって害そうと謀ったのです。―詩 94:20

『布告によって燃え上がった問題』

1935年5月3日,熱烈なカトリック教徒であるフィッツジェラルド法務長官によって北ローデシア刑法の修正案が立法議会を通過させられ,その修正案によってそうした害が仕組まれました。「1935年布告第10号」というその法律がものみの塔協会の文書をねらいとしていたことは明らかでした。フィッツジェラルド氏はこう述べました。「同法は扇動的な新聞の販売もしくは頒布を違法行為とする。また,検問所で小包みを開けて扇動的なものが入っていないか調べる権威を役人に付与する。最後に,非常に重要な点として,同法により政府は新聞,書籍もしくは文書の国内持ち込みを禁止する権威を持つ」。彼はさらに,当局者が他の人々の勧め,まぎれもなく,ビクトリア滝で開かれた宣教師会議の勧めに基づいて行動したことを認めました。立法議会の自由を愛する幾人かの成員はその法案に反対しましたが,それは通過し,敵がすぐに用いることの出来る道具となりました。したがって,1935年にコッパーベルトでぼっ発した暴動は,エホバの証人を攻撃するために敵が待っていたものにほかなりませんでした。

エホバの証人の敵が証人たちを『身代わりのやぎ』にしようと決意していたことは最初から明らかでした。暴動が起きた当時,南北ローデシアのエホバの証人は350人に過ぎませんでした。北ローデシアにおける業を他の国々で行なわれている方法に合わせるため,アフリカ人の証人たちは5月10-12日にルサカで非公式の大会を開いて,伝道の業と清いクリスチャン生活の必要性を話し合いました。ルサカの集会が5月末ごろに起きたコッパーベルトの騒動と何らかの関係があると考えられたことは確かで,C.I.D.(犯罪捜査部)は南北ローデシア全土にわたってエホバの証人の手入れを始めました。6月5日にルアンシャで6名のエホバの証人が逮捕され,3日間勾留された後起訴されずに釈放されました。ヌドラでは国立病院の付添人が,エホバの証人であるという理由で職を失いました。政府当局者の扇動により,エホバの証人は全国で同様の扱いを受けました。ケープタウンの支部の監督は官房長官にあてた1935年7月1日付の書簡で,そうした偽りの告発すべてについてエホバの証人を弁護し,エホバの証人に対する迫害をやめさせるために必要な処置を講ずるよう要請しました。

暴動の調査委員会が調べて2冊の本にまとめた証拠は,エホバの証人がその暴動にひとりも関係していなかったことを証明していました。それどころか,ヌドラの地域局長J・K・キース氏は次のように公表しました。「エホバの証人と組織としてのものみの塔そのものはストライキに全く加担しなかった」。

挙げられた証拠がはっきり示していたのは,カトリック教徒が優勢でエホバの証人に激しく反対していたアウェンバ族が暴動の背後にいたことと,主な原因は人頭税の値上がりとその値上げの方法にあったことでした。ロアン・アンテロープ銅山(ルアンシャ)の経営者もこう語りました。「だれかに暴動の原因を尋ねるたびに,決まって税金の値上がりということに落着いたようです」。

調査委員会の審理が1935年7月8日に始まる直前に,ものみの塔協会のケープタウン支部は,北ローデシアへのヨーロッパ人代表者派遣許可の粘り強い申請に対する回答を受け取りました。1935年6月24日付の北ローデシア政府の手紙は次の通りです。「政府は……この国の貴協会の信奉者に対するより良い監督および管理をもたらし得るそうした処置一切について今や何の反対もしません」。ピエ・ド・ジェゲールが派遣されることになりました。北ローデシア政府は,「もっと上級の協会職員」を望むと言ってそれに異議を唱えました。しかし,ジェゲール兄弟が派遣されるのは調査して報告するためであり,いずれ英国生まれの人が責任者となることを知って同意しました。ところが,ものみの塔協会とエホバの証人が偽りの告発によって調査委員会にかけられ,政府は,協会の出版物を「破壊的」なものであるとするために,幾つかの出版物の特別に選んだ「抜粋」を多数提出しました。ド・ジェゲール兄弟を間に合うように派遣し,協会を代表して証拠を提供してもらうことが決まりました。ジェゲール兄弟はそれらいわゆる破壊的な「抜粋」部分すべてを釈明するすぐれた証言を行ない,政府当局者であるJ・L・キース氏でさえ,聖書の抜粋が破壊的でないようにそれらも破壊的でないことを認めました。

委員会の判定は1935年10月2日に公表されました。要約すると,それにはこう述べられていました。「本委員会の断定では,ムフリラの騒動の直接的誘因は,鉱山の巡査が夜間に突然,税金が一律に15シリング値上がりしたと大声で言ったことであった。また,ムフリラのストライキが成功したという偽りの発表,それにおまえたちが老いぼれ女でないことを示せという原住民に対する挑戦的なことばがヌカナとルアンシャの騒動の直接的誘因であった」。しかし,エホバの証人の敵たちはものみの塔協会に関する次のことばにほくそえんだのです。「本委員会は,ものみの塔の教えと文書が民間および宗教の権威,特に原住民の権威を軽しめ,また,それが危険な破壊的運動で,最近の暴動の素地となる要因であることを断定する」。

それこそ証人の敵たちが望んでいたことでした。したがって,1935年10月4日に総督ヒューバート・ヤングは「1935年布告第10号」によって与えられた権威を行使し,協会の書籍全部を禁止しました。その中には,原住民に広く用いられていた唯一のシンヤンジャ語の本である「神のたて琴」や,10年前に絶版になっていた本が含まれていました。そしてついにJ・F・ラザフォードが著した2冊の小冊子を除くすべての出版物が禁止されました。

調査委員会の報告と,それに続いてなされた協会の文書の禁止処分のことは一般の新聞紙上で広く報道されました。そのほとんどは偏見と敵意を含んでおり,ケープタウン支部はどれに対しても真理を擁護しました。1935年10月16日,ヌドラの「北ローデシア・アドバタイザー」紙は協会が調査委員会に対して行なった証言,抗議および通信の全文を同紙の特別号に掲載したので,すぐれた証言がなされました。その特別号の中で編集者は,彼の事務所に来て禁止された文書を調べるようにと一般の人々に呼び掛けました。「当社の事務所には参考のために主な出版物全部がそろえてあります。……恐れないで,話題となっている事柄の全容を調べにおいでください」。調査委員会の報告が出版されるとすぐ,「政府」と「偏狭」という小冊子が説明書とともに北ローデシアのすべてのヨーロッパ人の手に渡りました。

いくらかの成功

「北ローデシア・アドバタイザー」紙は,北ローデシアの行政上の矛盾に注意を促して次のように述べました。「ニアサランド政府が1933年にこの人々を迎え入れたのに対して,北ローデシアの総督である彼(同一人物)が大いにためらった末に彼らの入国を許すのであれば,エホバの証人の考え方に賛成するか否かにはかかわらず,北ローデシアの行政に何らかの根本的な誤りがあることは明らかである。次いで2か月後,彼は何の正当な理由もなく国を離れるよう証人たちに要請している。一方いわゆる『土着のものみの塔』の原住民が不法行為をしたのは,政府が以前に彼らを入国させなかった事実によるものである」。

同紙編集者は,北ローデシア政府が協会に対してド・ジェゲールを2か月後に召喚するよう要請したことに触れていました。それは,「彼の滞在に対してヌドラのヨーロッパ人の住民から公式の抗議があり,彼の活動は人々を動揺させるように思われる」という理由からでした。それに答えてケープタウン支部は次の点を指摘しました。すなわち,北ローデシア政府は「状況全体を熟慮した上で」ヨーロッパ人の代表者派遣を許可したこと,および,ド・ジェゲール兄弟を北ローデシアへ派遣するのは同国における業の永続的な監督をはかるための準備段階にすぎないということをです。次いで,協会がヨーロッパ人のルレウェリン・フィリップスを代表者として派遣することが提案されました。協会は彼に業を永続的に監督させ,その時までに北ローデシアの新しい首都となっていたルサカで文書発送基地を直ちに開設することを望んでいたのですが,「その件は考慮中であり,決定は追って伝える」との手紙を受け取りました。支部の監督は,「L・V・フィリップスを貴国内で当協会の代表者とすべく派遣する手はずを完全に整えてよいか尋ねる」旨をしたためた手紙を1935年11月25日付で北ローデシアの国務大臣に書き送り,その問題を持ち出しました。それに対して,「しばらくの間明確な回答を送ることはない」との返事が来ました。

一方,真理の恐れなき闘士であるド・ジェゲール兄弟はヌドラにずっととどまり,協会の文書に対する禁令の有効性を試そうとして,1935年10月21日に2種類の書籍を地方新聞の編集者に提供しました。そのため彼は布告に基づいて告発され,ヌドラ治安判事によって2ポンドの罰金刑に処せられました。その事件は北ローデシア最高裁に上訴されました。

上訴中に,エホバの証人とものみの塔のことが英国の下院で問題になりました。サートル氏が,「北ローデシアでエホバの証人とものみの塔運動の支持者たちは確かに公正な扱いを受けている」かと質問したのです。植民地大臣J・H・トマス氏は,「取るべき方針に関して北ローデシア総督と協議中であると述べました」。

ケープタウンの支部事務所は直ちに行動を起こし,植民地大臣に次のような電報を送りました。「貴閣下が今後の方針を決定される前に北ローデシアでの当協会の業を説明させていただきたくお願い申し上げます。航空便で手紙をお送りします」。その日長文の手紙が同大臣に送られました。そこには,ムワナ・レサのそう話やコッパーベルトの騒動を含め,宣教師の会議に始まった,北ローデシアにおける証人の業を打ち砕こうとする陰謀が詳しく説明され,業を指導し,誠実なアフリカ人を援助するためにヨーロッパ人の代表者を置く努力がなされていることも述べられていました。その手紙はさらに,アフリカ人の証人が耐え忍んでいる迫害のことを述べた後,次のように訴えました。「閣下,北ローデシアにおいてエホバの証人に対してなされている不当な差別を終わらせるために,文書の禁令を解除させるために,そして私共の真の信奉者たちが妨害を受けずに自らの良心の声に従ってエホバ神を崇拝する天与の権利を行使することが許されるよう取り計らうために処置を講じていただきたくお願い申し上げます」。

これは望ましい結果を生みました。というのはケープタウン支部の監督は1936年3月に北ローデシア事務局から官房長官の次のような書簡を受け取ったからです。「ルサカに文書発送基地を設置するための貴協会の代表者としてP・J・ド・ジェゲール氏の代わりにL・V・フィリップス氏を派遣してくださるようにと申し上げるよう指示されました。……また,植民地国務長官にあてられた12月11日付の貴協会の書簡に関し,国務長官は同書簡で提起された問題を注意深く考慮したことをお伝えいたします。総督閣下はヨーロッパ人の代表者を北ローデシアに入国させるよう勧めておりましたが,国務長官はその提案を承認しました」。長い戦いの末ついに勝利が得られたのです。

もうひとつの戦いは続く

しかし,協会の文書は依然として禁止されており,上訴された事件は未解決のままでしたから,崇拝の自由を求める闘争は終わったなどととても言えませんでした。その事件は1936年5月20日に最高裁で裁判にかけられ,6月18日の判決で却下されました。ド・ジェゲール兄弟は枢密院に訴える許可を直ちに申請しました。1936年9月15日,ローデシア最高裁は上訴の許可を拒否しました。が,協会は崇拝の自由を求めるその闘争であらゆる手を尽しました。北ローデシアの協会の弁護士は,ロンドンの協会の弁護士の応援を得て事件を枢密院に訴える努力をしました。しかしそれは最終的に,ロンドン枢密院の審理委員会から審理を拒否されるという結果になりました。

1936年1月,南ローデシア立法議会の議員にあてられた協会の会長J・F・ラザフォードの特別書簡の写しが,北ローデシアの立法議会の議員,総督および新聞社にも送られました。

また同年中,南アフリカ連邦のエホバの証人は「黄金時代」誌425号5万部を熱意を込めて配布し,南北ローデシアではそれと同じ情報を載せた特別な出版物2万部が配布されました。そこには北ローデシアのエホバの証人の無実を裏付ける事実が述べられ,また,調査委員会が報告を発表した後に同委員会の委員長にあてて送られた協会の会長ラザフォード兄弟の非常に力強い手紙も掲載されていました。ですから,一般の人々は真理を抑圧しようとする真理の敵たちの陰謀についてよく知っていました。

別の仕事に取り掛かる

北ローデシアに文書発送基地を設けるための協会の努力はついに報われました。1936年7月16日,文書発送基地はルサカに開設されましたが,それは警察の派出所の真向かいにありました。ルレウェリン兄弟が文書発送基地のしもべに任命されました。とはいえ膨大な仕事が残っていたのです。それは,土着の「ものみの塔運動」の影響と監督の欠如に起因するあらゆる望ましくない要素を組織から清め,聖書の健全な教理で誠実な人々を教育し,しかるべき土台の上に業を組織するという仕事でした。

ルレウェリン・フィリップス兄弟が最初に行なったのは主要な都市を数多く訪問することでした。彼は当局者の取り計らいにより,そうした都市でものみの塔協会と関係していると唱える人々に大勢会いました。どんな事がわかったか,フィリップス兄弟は次のように語っています。「そのほとんどはヨナの時代の『右左をわきまえざる』ニネベの人々のようでした。多くの人々は誠実でしたが,誇りの強い人たちは,協会が他のどんな宗教団体とも比較にならない自主性を与えてくれると感じていました。また,ある人々は,ユダが述べたように,『不敬虔な者たち』で,『わたしたちの神の過分のご親切を(『火のバプテスマ』であると称して共有の妻を持つといった)不品行の口実に変えていました』」。

土着の「ものみの塔運動」が引き起こした混乱はさておき,禁令による文書の欠乏と大部分の兄弟たちが文盲であるという問題がありました。非聖書的な部族の習慣もたくさんありました。たとえば,集会で男性と女性は別々に座りました。また,アフリカ人は自分の妻を子供たちの母親,料理人,荷物運搬人,家をいっしょに作る相手と考え,真の伴侶もしくは『助け手』とみなすことは,たとえあってもごくまれです。―創世 2:18

その上,ほとんどの兄弟たちにとって,学んでいる真理を日常生活に結びつけるのは難しいことでした。兄弟たちは協会の文書を読んで王国が1914年に天で設立されたということを知っていましたが,それは何年前のことかと聞かれてもわかりませんでした。彼らの多くはこの世の政府がサタンの支配下にあることを知っていましたが,そうした政府と自分たちとの正しい関係を理解していませんでした。未開墾地の小さな村に孤立し,外の世界と接触がほとんど,あるいは全くないため,協会の出版物に述べられている事柄の多くは彼らには理解できないことだったのです。たとえば,村人の多くが政府と接触できる唯一のものはその土地の地域委員と原地人の裁判所でした。アフリカ人が宗教団体と接触を持つのは土地のミッションスクールを通してのみだったことでしょう。商業で知っているのは,自分で行なう物々交換のほかには土地の交易所だけでした。したがって協会の出版物が宗教と政治と商業のことをこの世の諸勢力であるとして論じている場合,それらの兄弟たちの頭に浮かぶのは土地のミッションスクールであり,地域委員であり,交易所でした。

大いに意欲を持ちながらも,理解が不足していたり生活の仕方に難点があるため聖書的にみて奉仕に携わる資格のない人々が少なくなかったので,実際の王国伝道者の数を調べ直す必要がありました。文書発送基地の取決めのもとにまとめられた最初の完全な年度報告によれば,1937年度中の毎月の平均伝道者数は756名で,最高数は1,081名でした。それらの兄弟たちは地区の監督として働く開拓者の訪問を受けました。その監督たちはまず文書発送基地で訓練を受け,教理上,道徳上および組織上の事柄を詳しく教えられていました。

それら訪問する兄弟たちは多くの苦難に耐えなければなりませんでしたから,割当てを固守するためにはエホバに対する真の愛が必要でした。鉄道の線路から約1,600㌔も離れた村がありました。北ローデシアには横断鉄道がひとつしかなく,それからコッパーベルトまで支線が出ていなかったからです。その兄弟たちは大抵の場合,関心を持つ人々からなる散在した群れに行くのに,乾燥した暑い危険ないなかを幾百㌔も自転車で,あるいは徒歩で旅行しなければなりませんでした。その上,新しい会衆を発展させるには多くの忍耐と強い愛が必要でした。組織と言えるようなものが生まれるまで少なくとも2か月は新しい会衆にとどまらなければなりませんでした。ある人々は主の組織の中の“しゅう長”になろうとする傾向を持っていて,そのために協会の取決めを受け入れるのをためらいましたから,訪問する兄弟たちはそうした傾向と戦わねばなりませんでした。しかしそのたいへんな労苦は報われました。1939年までに平均伝道者数は1,191人に増加し,7人が開拓奉仕をしていましたし,88の会衆が活動した1940年には2,378人という伝道者の新最高数が記録されました。

南アフリカのより強力な組織

そうした戦いが北方の区域で進展していたころ,南部のヨハネスバーグのアフリカ人の兄弟たちは,ずっと小規模ながら,「ものみの塔運動」の悪い分子に対する戦いで勝利を得つつありました。

また,ケープタウンの支部でも変化がありました。1933年3月,協会は南アフリカの支部事務所をケープタウンのもっと広い場所に移すことを取り決めました。それはボストンハウス623号館という,事務所に仕切られた大きな建物の6階のふた部屋と,隣りのプログレス小路にあるプログレス貸事務所の地下室でした。そこは文書の倉庫と発送に用いられ,小さな印刷機が置かれていました。その時の小規模な印刷を行なっていたのはフィリップス兄弟とケープタウンの地元の一兄弟でした。新たに支部が置かれたその場所は前よりも都心部にあって便利であり,ほぼ20年間南アフリカにおける神権組織の中心となることになっていました。

2年後の1935年,ラザフォード兄弟は印刷の知識を持ったアンドルー・ジャックという兄弟を,ケープタウン支部の印刷の仕事を助けるために派遣しました。彼は資格のある印刷職人であったばかりか,リトアニア,ラトビアおよびエストニアのバルチック諸州で全時間奉仕に携わった経験がありました。そこでの業が禁止されたため,国外に追放されて故郷のスコットランドに帰ったのです。南アフリカに着いて間もなく,アンドルー・ジャックはもっと多くの活字と他の印刷備品を入手する手はずを整えました。1937年,最初の自動印刷機が設置されました。その印刷機は過去38年間何百万枚ものビラと用紙を生産してきましたが,今日でもなお,南アフリカのエランズフォンテイン支部で力強く作動しています。

レコードを使った産出的な奉仕

野外では蓄音器がすばらしい働きをしていました。会衆の手で,また協会の宣伝カーでラザフォード兄弟の強力な講演のレコードが流されたのです。たとえばプレトリアの会衆は,市の真ん中にあるチャーチ・スクウェアーで毎日曜日の夕方に講演を放送する許可を得ました。しばらくして市議会に苦情が申し立てられたため,兄弟たちはその広場から蓄音器を片付けなければなりませんでした。しかし問題はすぐに克服されました。スミット兄弟の知り合いに広場を見下ろせるアパートに住んでいる人がいたので,そこの開け放たれた窓から日曜日の夕方の番組を,妨害されずに引き続き流すことができたのです。

1930年代の半ばに協会の宣伝カーのひとつを運転していたのはニスベット兄弟でした。彼はその車で近くのズールーランドの区域に住むアフリカ人の間を広く回りました。そこはナタール州北部の広い地域であり,長年の間ズールー族の故郷となってきました。特にナタール州北部の製糖工場と炭坑で大勢のアフリカ人が宣伝カーの流す音楽と講演を聞きに集まり,その結果多くの文書が配布されました。実際,後に「富」と題する本が特に宣伝された時,ニスベット兄弟の宣伝カーは「イモト・ヨブセビ」(「富の自動車」)として知られるようになりました。

1935年,あらゆる国の兄弟たちは啓示 7章に出ている「大群衆」についての新しい解明に心を躍らせ,油そそがれた者たちでない人々は幸福のうちに地上で永遠に生きるという見込みに歓喜しました。それ以来,「ほかの羊」級に関する理解が深まり,より多くの注意が「大群衆」に向けられ,それらの人の数はすぐに増加の一途をたどりました。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9

開拓者のアイリス・タチーはリーフ(“鉱脈”の意)として知られた炭坑地区で働いていた時,宣伝カーのひとつに乗って奉仕する特権にあずかりました。彼女は宣伝カーをこう描写しています。「それはとても小ぎれいな黒い箱型貨物自動車で,ピカピカにみがいてあって,てっぺんには拡声器が付いていました。両側には『王国の音信,神と王であるキリストに仕えなさい』という言葉が書いてあり,後ろのドアにはJ・F・ラザフォードの一番新しい講演を宣伝する麻のたれ幕が付いていました。その自動車はヨハネスバーグとリーフ全域で“聖書の車”として知れ渡るようになりました」。リーフの幾つかの会衆がその車を使うスケジュールを立てました。週末になるとそのスケジュールはぎっしり詰まっていました。というのは,車は,少年院,病院,市場,ヨハネスバーグ公会堂の上がり段など様々な場所で講演のレコードを聞かせながら広い地域を網羅するために用いられたからです。

政治的緊張が募っていた,第二次世界大戦ぼっ発直前のある時,公会堂の上がり段で「ファシズムと自由」と題する講演がレコードを使って行なわれました。その夜は特に大勢の聴衆が集まっていました。講演の最中に突然叫びや金切り声が上がり,びんやトマトが伝道者たちに投げつけられました。暴徒がまさに用具類に手をかけようとしたその時,警官が到着し,警棒を使ってその場所から人々を立ち退かせると兄弟たちの回りにさっと非常線を張り,兄弟たちが荷造りをして危険地帯から出るのを助けました。兄弟たちはエホバが保護してくださったことに深く感謝しました。

当時宣伝カーがすばらしい働きをしたことは疑いありません。全国津々浦々を回り,強力な拡声器から多くの人々に音信を伝えたのです。1937年までに5台の宣伝カーが常時用いられ,各にふたりの開拓者が乗りました。その上12台の大型蓄音器が全国のあちらこちらで用いられていました。ラザフォード兄弟の特別な呼び掛けがあって,携帯用の蓄音器を用いた業が本格的に始まったのもやはり1937年でした。ケープタウン支部はアフリカーンス語,シンヤンジャ語,セソト語,ホサ語およびズールー語のレコード作製に多忙でした。

1938年までに協会は80個所に会衆を設立し,30種類の言語の文書を扱っていました。「富」と題する書籍や「暴露」という小冊子その他当時の主な出版物は,カトリック教階制を率直に批判していましたから,カトリックの宗教指導者たちは心穏やかではありませんでした。彼らの新聞は国中にはんらんしているラザフォード判事のパンフレットと小冊子に関して人々に警告し,カトリック系の新聞は,会館からエホバの証人を締め出して公開講演を開かせないように示唆しました。

開拓者たちは耐え忍ぶ

南アフリカの開拓者たちは1938年までに全部で30人に達し,その中にはすでに名前の出て来た,ヨハネスバーグのアイリス・タチーがいました。ある時こんなことがありました。一軒の家で戸口に行くのに長い階段を登らねばなりませんでした。一番上に着くと,女の人がドアをさっと開けました。その人は怒りで顔を真っ赤にし,ののしり声を上げながらタチー姉妹を階段から突き落としてドアをバタンと閉めました。タチー姉妹は起き上がって散らかった持ち物を拾い集めました。泣きたい気持ちでしたが,祈るのが最善の解決策だと決めました。偶然にもその隣りの家の夫妻は実に親切な人たちでした。ふたりはタチー姉妹にお茶をごちそうし,隣りの家の女の人はたまたま牧師の奥さんであるだけに,そこで起きたことにたいへん驚いたと語りました。その訪問は非常に良い結果を生み,やがてその夫婦はバプテスマを受けたエホバの証人になりました。

他の伝道者たちもそうでしたが,開拓者たちはリーフ沿いの炭坑で文書が非常に良く配布できることを知りました。彼らは縦坑の頂上にいて,白人や黒人の坑夫が仕事を終えて出て来る時に出版物を提供していたものです。坑夫たちはまだヘルメットの先のランプの明かりをつけたままでしたし,地下道のねば土でぬれていました。アフリカ人の坑夫は自分のことばで書かれた出版物を手に入れることに非常に熱心でしたから,開拓者たちの前に行列の出来ることもありました。彼らは聖書とか書籍を家にいる子供たちを含め自分の家族にぜひとも送りたいと思っていました。数年後,タチー姉妹は,ヨハネスバーグで自分のことを覚えていてくれたアフリカ人の小さな群れに会う喜びを経験しました。その中のひとりはにっこり笑ってこう言いました。「あなたわたし覚えるか。わたし聖書買う。そしてわたし今聖書集会行く」。

牧師と対面

1930年代の後半に王国の音信はケープ州の非常に保守的な土地に根を下ろし始めました。そこはイーストロンドンの北方約62㌔のキングウィリアムズタウンの近くで,土地の農民およびその他の住民の多くは,19世紀半ばにそこへ入植したドイツ人の子孫でした。ですから,その土地で優勢な宗教はルーテル派でした。キークという人が王国伝道者から文書を入手したのは,ルーテル派の牧師の家の建築作業をしている時のことでした。彼はその内容を楽しみ,文書をさらに注文して,間もなく親族や友人に音信を広め始めました。彼らのほとんどはキーク氏が気違いになったと考えましたが,ついに親族数名が興味を持ち始めました。1938年,彼らはルーテル派の牧師3人とキーク氏とによる公開討論会を取り決めました。数百名の教会員を前にして行なわれたその討論会で,キーク氏はヒトラー政権下に用いられていた,詩篇数篇と他の幾つかの聖句が抜けているドイツ語の聖書を取り出しました。そのことは牧師たちを幾分当惑させました。が,強力な聖句が聖書から読まれた時,彼らはそれとは比較にならないほど感情を高ぶらせました。一度など牧師のひとりは実際に協会の文書をテーブルの上にたたき付けて,「こんな本がなんだ!」と言いました。その一幕があって,すでに関心を抱いていた教会員6名は真理を確信し,エホバの側に立場を取りました。

その討論会には非常に興味深い続きがありました。1938年に南アフリカの内務大臣は「富」と数冊の小冊子が「いかがわしい」ものであるとしてその国内持込みを禁止したのです。1938年3月,ブルームフォンテーンにある南アフリカの最高裁が協会の文書は扇動的でなく,破壊的な意図を持たないとの判決を下したにもかかわらずそうした処置が取られました。「富」と他の出版物は,ファシズム,ナチズムそしてカトリック教会の共謀をはっきりと示していることを覚えておいてください。それらの文書に対する政府の禁止処分を画策した責任者はルーテル派のある牧師たちであったことが後日明らかになりました。しかし,その後間もなく,その同じ牧師たちは,第二次世界大戦中に南アフリカでナチズムを推し進めていた疑いで拘禁されました。

協会は内務大臣に対して出版物の禁止を決定したことを抗議する訴えをしました。しかし大臣は考えを変えようとはせず,なんら説明も与えず,また裁判所に訴えることを許可しようともしませんでした。したがってケープタウン支部は「抗議」と題する4ページの大きなパンフレットを発行しました。それには,「南アフリカの宗教的不寛容,聖書研究の手引き書『富』を禁止」という見出しが肉太の活字で載せられていました。また,ケープ州東部に住むドイツ人のルーテル派の牧師が禁止処分を扇動したこと,1938年6月に禁止された性と暴力の雑誌のリストに「富」の本が載せられていたことを確証する証拠を掲げていました。英語とアフリカーンス語で出版されたパンフレットは全国で広範囲に配布され,「富」の本の注文が多数寄せられました。

地帯の業が始まる

同じ年,すなわち1938年に地帯の業が組織されました。それによって,協会の旅行する代表者たちは,会衆と孤立した伝道者を訪問して教育を施したり励ましを与えたりしました。

南アフリカで最初に地帯のしもべになった人にフランク・テイラーがいました。彼の妻のクリスティーンは英国から来て間もない人でした。クリスティーンは,アフリカ人の間で奉仕するのは風変わりだけれども興味深い経験だと感じました。彼女の夫は,クリスティーンが首飾りとスカートしか身に付けていないズールーの女の人に初めて小冊子を配布した時の彼女の表情を決して忘れないでしょう,と語っています。その女の人は,小冊子の寄付として「ティケイ」という硬貨(約20円)をなんと自分の縮れ毛の中から取り出したのです!

地区の業を始めて間もなく,フランクとクリスティーンはイーストロンドンに行き,キーク家,ホアマン家,シャンケンクト家といった関心を持つ家族からなる小さな群れを集める楽しい仕事をしました。それらの家族はキングウィリアムズタウンのドイツルーテル派教会から脱退しました。やがてその新しい人たちによりイーストロンドン会衆が組織されました。彼らの多くは今日なお健在で活発に奉仕しています。

王国の業は勢いを増す

1939年1月,「慰め」誌が初めてアフリカーンス語で出版され,南アフリカ支部はさらに前進の一歩を進めました。その時まで開拓奉仕のかたわら協会の書籍をアフリカーンス語に翻訳していたピエ・ド・ジェゲールは,翻訳の仕事を全時間行なうためにベテルへ招かれました。

そのために支部の小さな印刷部門にいたアンドルー・ジャックの仕事はさらに多くなりました。本文の活字は手で組まなければなりませんでした。協会が南アフリカで印刷した最初の雑誌が出来たのです。当時アフリカの地方語の雑誌は作られていませんでした。

そうです,アフリカ南部の王国の業は今や急速に本格的な発展を遂げていました。1939年,南アフリカの伝道者は新最高数の555名でした。そのうちカラードとアフリカ人はわずか180人だけであったことは注目に値します。毎月の平均伝道者数は次の通りでした。南アフリカ439人; 南ローデシア473人; 北ローデシア1,198人; ニアサランド1,041人; ポルトガル領東アフリカ17人; セントヘレナ11人。したがって,ケープタウン支部の管轄下にある区域全体で,野外奉仕に携わっていた伝道者の総計は3,179人でした。その年それらの伝道者は伝道の業に104万2,078時間を費やしました。こうしたことは,1935年に「大群衆」に関する解明が与えられてから増加の速度がずっと速くなり,多くの新しい人々が自分の立場を取ったことをはっきりと示しています。

戦争は王国の伝道者を奮い立たせる

1939年9月,ヒトラーがポーランドで電撃戦を開始し,世界はかつて経験したことがないほどの暴力と苦難の時期に突入しました。ナチ-ファシスト党は国々を次々に倒して行ったので,ヨーロッパの王国の業ははなはだしく損なわれました。ジャン・スムッツを新首相に迎えた南アフリカはドイツと交戦し,多くの南アフリカ人はアフリカの北部とイタリアで戦闘に加わりました。

南アフリカは主な戦場から遠く離れていましたから,他の多くの国に広がっていた戦時状態をあまり経験しませんでした。やがてある食品が不足したり他の制限が課せられたりするようになりました。しかし,アフリカ南部の王国の業は1940年までにかつて一度も見られなかったほどの発展と拡大の時期に入りました。戦争の驚くべき出来事は自己満足にひたっていた大勢の人々に衝撃を与え,彼らに聖書預言の成就について考えさせました。

その時までにアフリカーンス語の「慰め」誌はたいへんよく読まれるようになっていました。それでケープタウンのものみの塔支部は,今やアフリカーンス語の「ものみの塔」誌を発行する時であるとの判断を下しました。1940年1月,「通知」(後に「王国奉仕」と呼ばれた)には雑誌を用いての新しい業,すなわち街路での業,戸別に訪問する業および雑誌経路に関する大要が述べられました。さらに多くの雑誌が必要なことは明らかでした。自動鋳植機と折り機が設備され,印刷の経験があるダーバン出身の兄弟が小さな印刷部門のジャック兄弟を助けるために招かれました。こうして,ディ・ワクトリング(アフリカーンス語の「ものみの塔」)の創刊号は1940年6月1日現在をもってケープタウン支部で生産されました。

その創刊号を発行する時機の選択は完ぺきで,エホバの導きがあったことは明らかでした。1940年の最初の数か月はヨーロッパの戦争に関する限り非常に平穏でしたが,突然ヒトラーの機械化部隊が西ヨーロッパで猛攻撃を開始しました。その時まで南アフリカのアフリカーンス語を話す兄弟たちは,オランダから送られて来るオランダ語の「ものみの塔」誌に頼っていました。ところが5月に協会のオランダ支部が突如閉鎖され,供給が断たれたのです。ケープタウンの兄弟たちはそうした事態が起ろうとは知るよしもありませんでした。が,オランダ語の「ものみの塔」誌が来なくなった丁度その時に,新しく発行されたアフリカーンス語の「ものみの塔」誌がその間げきを埋めたのです!

兄弟たちは雑誌の活動を喜んで,また熱意を持って始めたので,雑誌の毎月の配布数は1万7,000部に上りました。他の,業が公に行なわれていた国におけると同様,雑誌のかばんが街頭に姿を現わし,伝道者たちは標語を大きな声で叫びました。

フィリップス兄弟は1940奉仕年度の末にケープタウンの事務所から,ラザフォード兄弟にあてて伝道者の著しい増加を報告することができました。南アフリカの伝道者新最高数は881人で,平均伝道者数は,前年度の50%増加に当たる656人でした。戦争は確かに南アフリカの王国伝道者たちを奮い立たせました。

カトリックの憎しみは禁令を生む

南アフリカのカトリック教会の主な刊行物「サザン・クロス」は1940年10月2日号にカナダで起きた出来事(1940年7月に王国の業が全面的に禁止された)に注意を引く主要記事を掲げ,悪意に満ちた次のようなことを述べました。「国家および教会の権威に対する忠節を非とするそれらの人々(エホバの証人)の活動は,原住民の人口が非常に多い南アフリカのような国においてはさらに危険である。政府がこの国で彼らの宣伝が広まるのを早く終わらせるべきことは明白である」。その直後,「ものみの塔」と「慰め」誌の予約者は検閲当局者によって逮捕され始めました。支部事務所が手紙でその理由を尋ねると,当局者は説明することを拒否しました。

そうした事柄すべての背後にはカトリック教会のいることがわかったので,「サザン・クロス」でなされたカトリックの攻撃に答えるべく「王国ニュース」の特別号が準備され,南アフリカ全土で20万部がたちまち配布されました。その後を追ってエホバの証人と彼らの業に関する事実の表明がなされました。その写しは国会議員と裁判官および新聞関係者全員に送られました。国会議員に対しては,1939年11月1日号の「ものみの塔」に掲載されたクリスチャンの中立に関する記事の写しも同封されていました。その後しばらくして警察はその「ものみの塔」誌の記事の写しを全部回収せよとの指示を受けました。首相に対して訴えがなされたところ,連邦統制局長から回答を受け取りました。それにはとりわけ次のように書かれていました。「貴協会の意図が恐らくこれまでも,また現在も最善のものであるとはいえ,戦争を順調に遂行するために政府が取る処置をあなたがたが妨害するのを許すことは認められません。貴協会がこの国の国民すべてをこうした考えに改宗させることに成功したなら,敵に対して積極的に抵抗する者がいなくなることでしょう。したがって,政府があなたがたに対する処置を取らずにじっとしていることを期待できると考えるのは無理です」。

支部は次の手段として政府あての嘆願状を作成しました。協会の出版物が差押えられたことについて訴え,クリスチャンの文書に対する禁令を解除して国内の崇拝の自由を回復するよう敬意を込めて政府に嘆願したのです。10日間という短い期間に南アフリカ連邦全国でヨーロッパ人5万人の署名が集められました。同じころ,「ものみの塔」と「慰め」誌が政府により禁止されたという公式の発表がありました。

政府はさらに,雑誌の荷物を到着と同時にそっくり差押える処置に出ました。ものみの塔協会の文書が全面的に禁止されたことが間もなく明らかになりました。真っ先に差押えられた小冊子は「神権政治」で,その後矢継ぎ早に6つか7つの文書の船荷が同様の運命になりました。それらの出版物は“いかがわしい”というのが差押えの理由でした。

こうした事はすべてカトリック教会の影響と戦争の非常事態に原因していました。というのは,禁止された出版物の多くは幾年もの間何の問題もなく国内持込みを許されていたからです。支部事務所は差押えられた文書を請求して訴訟を起こすに至りました。形勢はものみの塔協会にとって非常に不利に見えましたが,傍聴した兄弟たちは裁判官が公平な態度を示したので感激しました。彼は,禁令を出した首相はその理由を述べるべきであり,会見を認めて詳しい説明を聞くべきであるとの判決を下しました。

法律上の争いはしばらくの間続きました。戦いが1年続いた後の1942年4月になって初めて,出版物がいかがわしいと考えられる理由が提出されました。支部はそれらの点に対する答えを14日以内にするようにと言われ,その通りに行ないました。同時にフィリップス兄弟は裁判所の判決に一致して,個人的に説明したいとの意向を表明しました。しかし裁判所はそのための日限を定めず,月日は過ぎ去って行きました。その問題が解決を見たのは2年後のことでした。

1941年の8月中,ケープタウン支部事務所が発行するすべての通信物は検閲当局によって差押えられました。支部事務所は数週間後に野外の兄弟たちから受け取った手紙によってそのことを知り,抗議を申し込みました。それを受け付けたとの知らせはありましたが,説明は何もなされませんでした。協会が戦争努力に関する通信を行なっているとの当局の疑いは全く根拠のないことが明らかになりました。

1941年9月,内務大臣は非常時の規則の下に南アフリカにある協会の出版物すべてを差押える命令を出しました。そのため支部は非常な興奮に包まれました。午前10時に警察の捜査課が命令を執行するために到着しました。彼らは協会の在庫文書を全部持ち去るためにトラックで来たのでした。しかし,機敏だった支部の監督はすぐにその命令を検討して,それが非常時の規則に一致していないことを知りました。したがって彼は捜査課の警官を待たせておいて直ちに行動を起こしました。内務大臣が文書を差押えるのを阻止するため最高裁に対して差止命令を個人的に至急申請したのです。その申請は承認されました。正午に差止命令が出され,警察は空っぽのトラックに再び乗り込んで立ち去らねばなりませんでした。5日後,大臣は協会の訴訟費用を負担したうえ,先の命令を撤回しました。ケープタウン支部のベテル家族がその意義深い勝利をどれほど喜んだか想像していただけると思います。

戦いは続く

わたしたちの闘争は続きました。アフリカーンス語の「慰め」誌は,輸入に適用される関税法の下に禁止されました。それは南アフリカで印刷出版されていたのですから,明らかにその処置は間違いでした。にもかかわらず,クルーンスタドにおいてひとりの開拓者が雑誌を配布したかどで有罪になりました。上訴が行なわれ,最高裁はその判決を却下しました。後の1941年9月12日に「政府官報」は禁令が撤回されたことを公表しました。神権政治のもうひとつの勝利でした!

その感動的な処置については新聞紙上でかなり詳しく報ぜられ,それは王国の音信とエホバの証人の業のすばらしい宣伝になりました。その事件を一般の人々に知らせる必要を悟った支部事務所は,2冊の特別な小冊子,すなわち,「王国の音信を抑圧するのはなぜか」および「エホバの証人: それはだれで,どんな業を行なっているか」を発行しました。その2種類の英語とアフリカーンス語の小冊子は1941年10月中たいへん広く配布されました。

エホバの証人が行なっている業の説明をそれほど大規模に行なうことは是非とも必要でした。というのは,新聞の多くはエホバの証人に関し事実を歪曲して報道していましたし,証人たちは「第五列」であるとか「ナチ」であるといったうわさや非難が広がっていたからです。主要な日刊紙のひとつ,イーストロンドン・デーリー・ディスパッチは協会の会長J・F・ラザフォードを中傷する記事を掲げました。編集者がそれを釈明する手紙を掲載することを拒否したため,協会は新聞社を文書誹毀で起訴し,5,000ポンド(約323万円)の損害賠償を要求しました。兄弟たちが後へ引かないことを悟った編集者は,すぐに折れて謝罪広告を掲げ,訴訟の費用を全額支払いました。

禁令に対する反発

兄弟たちは禁止された文書を家の中に隠して禁令に反発しました。「へびのように用心深く」行動したのです。(マタイ 10:16)ヨハネスバーグで警察はあらゆる伝道者の家を手入れしましたが,伝道者たちは大抵,関心を持つある刑事から手入れのことを事前に知らされていました。プレトリアで,当時まだ学童だったフランス・ミューラーは,両親の指示を受けて,文書の入ったカートンを家の低い木の床の下にある狭い通路へ次から次へ引きずり入れました。貴重な書籍は,そこに入れておけば全く安全だったからです。そうした事情でしたから,伝道者が野外の奉仕で用いる文書は少ししかありませんでしたが,南アフリカで印刷されていた出版物,たとえば「子供たち」と題する本などは大いに用いられました。ケープタウンに住むカラードの一兄弟はそのことを次のように語っています。「供給は制限されていましたが,そのために業が低下することはありませんでした。わたしたちは人々に書籍を貸して研究を始めるようにとの指示を受けました。それを実行したところ,聖書研究の数が急に増えたのには驚きました。その時期に真理に入るようになった人は少なくありませんでした」。

伝道者は最高数の1,253人になり,彼らは一生懸命働いていました。その年に開かれたヨハネスバーグ大会の出席者はおよそ800名に上り,186名がバプテスマを受けました。多くの新しい会衆が組織され,その数は1940年の127から1941年の172に増加しました。

アメリカから送られる「ものみの塔」誌は禁止された文書のひとつでしたが,エホバは愛情深くも霊的食物を備えてくださいました。ケープタウンの兄弟たちが,「便利な食物」という名前の印刷物を作って発送する資料に事欠いたことは一度もありませんでした。「ものみの塔」誌を予約していて一号も欠かさずに受け取り,自分が読むとそれを必ずケープタウンの事務所に送ってくれた人のひとりにJ・J・ヴァン・ズィル兄弟がいます。彼の雑誌のあて名は,「ナタール州クランスコプ,南アフリカ警察巡査部長,J・J・ヴァン・ズィル様」となっていました。

ついに勝利!

南アフリカでの,神と神の王国の業に反対する戦いは確かに失敗しました。1941年から,禁令解除と協会の文書の返還を求める戦いはやむことなく続きました。1943年の末ごろ,支部の在庫文書は非常に少なくなったので,兄弟たちは差押えられた文書が戻されるように真剣な祈りを捧げていました。すると,事が運び始めました。新しい内務大臣が任命されたのです。禁令解除を求める手紙が支部の監督から検閲監査役にもう一度送られました。その手紙の写しは,前大臣が同意しながらも一度も実行しなかった個人的な会見を求める手紙と共に,新しい大臣に送られました。

1944年1月に会見が行なわれ,大臣は,差押えられた船荷の返還,雑誌に対する禁令の解除,および没収された他の出版物の返還に同意しました。彼はまた,非常事態の規則の下に出された,協会のすべての文書を破壊的であるとする規定を撤回することも約束しました。一週間後,支部はそうした事柄すべてを確認する手紙を受け取り,それから2,3日して大量の文書(約1,800カートン)が支部事務所に運ばれました。それは3年間差押えられていたにもかかわらず少しもいたんでいませんでした。支部と野外の兄弟たちがそのことをどれほど喜んだか知れません。彼らの祈りはかなえられ実にすばらしい勝利が得られました!

至る所で書籍が禁止される

第二次世界大戦の初期に大英帝国および他の国々の多くの場所で書籍に対する禁令がまるで流行のように盛んに出されました。それは昔エホバが預言者ダニエルに予告させた通りであり,「小さき角」(イギリス連邦はその一部)は「自ら高ぶり」,『真理を地に投げ打って』神の神聖な事柄に対して「罪」を犯しました。(ダニエル 8:9-12)アフリカ南部の3つの英国保護領,すなわち,バストランド,ベチェアナランド,スワジランドですら例外でなく,1941年2月に協会の文書が正式に禁止されました。それを解除してもらうためにあらゆる努力がなされたのですが,その禁令は1960年まで効力を持ちました。欽定訳聖書でさえ,ものみの塔協会が印刷したものであれば禁止されました。1941年にその三か国にはエホバの証人がひとりもいなかったにもかかわらず,そうした処置が取られたのです。

南西アフリカでの実りの多い年月

多事多端な年であった1939年は南西アフリカにおける業の歴史の新しい一章を開きました。そこにはまだ群れがひとつもなく,広大な区域が手をつけられずに横たわっていました。一組の開拓者の夫婦,バリー・プリンスローと彼の妻ジョアンはその区域へ行って人々に証言したいという強い衝動を感じました。

バリーはトラックを買ってそれを住宅自動車に改造し,戦争に伴うガソリン不足を適切にも見越して,ガス製造設備をその上に取り付けました。ヨハネスバーグから南西アフリカへ行くのにカラハリ砂漠を縦断しなければなりませんでした。道路はほとんどありませんでしたから,以前に通った自動車やロバの引く荷車のわだちの跡をたどらねばなりませんでした。しかもそのわだちの跡さえ全く消えていることがあったのです。

ふたりはついにウィントフークにたどり着き,そこからさらに北へ,伝道して文書を配布しながら前進しました。しばらくの間警察がふたりの後をつけ,彼らが配布した文書を集めていました。ふたりはとうとう逮捕されて,無免許販売のかどで訴えられました。協会の勧めで,彼らは,南アフリカで行なわれていた同様の裁判の結果が出るまで自分たちの裁判を延ばしてもらいました。2,3週間後にプリンスロー兄弟は出廷し,有利な判決が下されました。

ヨハネスバーグで大会が開かれるというニュースがふたりの耳に届きました。それに出席するには約1,600㌔の困難な旅行をしなければなりませんでしたが,彼らは行くことにしました。しかし災難が起きたのです。南西アフリカの大抵の河川は,豪雨の時以外は水の流れていない干上がった砂地の渓谷にすぎません。彼らの自動車は,そうした川のひとつを横切ろうとしていた時に動かなくなりました。その夜川に水がどっとあふれ,住宅自動車は二,三百㍍下流に押し流されました。翌朝ふたりは自動車が二つに裂けて車体が砂に深くめり込んでいるのをみつけました。彼らは出来るだけのものを引き上げ,災害に遭ったことと,大会に出席できなくて残念である旨を協会に知らせました。ところが,折り返しすぐに支部の監督からの贈物と,それを“短い休暇”のために用いるようにとの電報を受け取りました。

大会後ふたりは戻ると,壊れた住宅自動車を直すために自動車のそばでキャンプし,その傍らヨハンネスを通訳にしてオバンボ農場の労働者に証言しました。ヨハンネスと言うのは彼らが区域を旅行するに際して雇ったブッシュマン人であり,彼は恐らく真理を受け入れた最初のブッシュマンだったことでしょう。ブッシュマンは砂漠に住む遊牧民で,弓と毒矢を使った狩を主な生計手段としています。彼らはアフリカ南部のあらゆるアフリカ人の中でも特別に小柄で,中央アフリカのピグミーと比較し得るほどであり,非常に原始的な生活をしています。ブッシュマンは近づきにくい場所に住んでいるばかりか,語彙の限られた舌打ち音を連続的に用いることばを話すので,彼らと他の人々とが意思を通わせることはたいへん困難です。とはいえ,農場労働者になっているブッシュマン人もいます。文書の禁止と一般情勢のために協会はやがてプリンスロー夫妻を南アフリカへ召喚しました。

したがって,1929年,1935年および1942年に開拓者が南西アフリカへ行って多くの文書を配布したにもかかわらず,実際に区域を耕すことはなされなかったので,業の実はほとんど生み出されませんでした。しかし,1950年に南西アフリカにおける業の歴史に転換期が訪れました。その年,協会はギレアデ学校を卒業した4人の宣教者,すなわちジョージ・コエット,フレッド・ヘイハースト,ガス・エリクソンおよびロイ・ステフンズを送り,同年初めに宣教者の家がウィントフークに設けられたのです。

それら4人の兄弟たちは,文書を配布することだけでなく,主の「ほかの羊」を見いだして養うことにも力を注ぐことが求められていたにもかかわらず,彼らの配布は非常に良いものでした。(ヨハネ 10:16)それと同時に,宣教者たちは,南アフリカ連邦から近隣のアフリカ人居住地に移って来ていた5人のアフリカ人の兄弟と連絡を取ることができ,その兄弟たちを組織して会(会衆)を作りました。宣教者のひとりはまた,そのアフリカ人居住地で少なくとも25件の聖書研究を取り決めました。その区域での,特にアフリカ人の間での業はどう見ても,増加の見込まれる上々の出発をしました。

[77ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

アフリカ南部

ザイール(ベルギー領コンゴ)

ウガンダ

ケニア

タンザニア(タンガニーカ)

アンゴラ

ザンビア(北ローデシア)

マラウィ(ニアサランド)

モザンビーク

ローデシア(南ローデシア)

南西アフリカ

ボツワナ(ベチュアナランド)

スワジランド

南アフリカ

ヨハネスバーグ

ダーバン

ケープタウン

レソト(バストランド)

[94ページの写真]

ケープタウンの事務所において手で植字をしているジョージ・フィリップス

[100ページの写真]

ズールー族の家族