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第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

円滑な移行

それまでの25年間協会の会長として忠実かつ熱心に奉仕していたラザフォード兄弟は1941年の末までに重い病気にかかっていました。長年の間骨身を惜しまずエホバへの奉仕に携わってきた同兄弟は,その時72歳でした。1942年1月8日,彼は地上での王国の奉仕を死をもって閉じました。協会の理事会は2,3日以内にブルックリン・ベテルで会合を開き,ネイサン・H・ノアを新しい会長に選びました。ラザフォード兄弟の死後に示された野外の兄弟たちの反応はラッセル兄弟が亡くなった時の兄弟たちの感じ方とは大いに異なっていました。1942年には,「わたしたちはこれからどうしたらよいのか」という叫びは聞かれませんでした。むろん,ラザフォード兄弟が亡くなった時に真理の敵は歓喜し,「やつらの指導者かつ講演者がいなくなったからには,その業も間もなく崩壊するだろう」と言っていました。しかし彼らはその点に関してすぐに幻滅を感じました。

亡くなる少し前の1941年8月にラザフォード兄弟はアメリカ,ミズーリ州セント・ルイスの大会に出席しました。その大会の顕著な催しのひとつは「子供たちの日」で,「子供たち」と題する新しい書籍が発表されました。この際立った大会の特色をなすプログラムは,1942年4月に開かれたヨハネスバーグの大会で小規模に繰り返されました。その時の出席者は1,700名に上り,その中には新しい書籍を受け取って喜びにあふれた340名の子供たちが含まれていました。その大会で,それまでの最高数の2倍を上回る400名の人々が神のご意志を行なうために献身を象徴しました。大会組織は初めて簡易食堂を運営し,6,000食を供しました。それは大成功を収め,またそのおかげで出席者は十分に交わる時間を持てました。兄弟たち全員はたいへん元気づけられ,そう快な気分になり,深い幸福感を抱きながら家に帰りました。

その大会で特に励ましを受けたのは,開拓奉仕を始めて間もない大勢の若い開拓者たちでした。1942年,開拓者の数は南アフリカで65人に増えました。そのひとりにピエ・ウェントゼル兄弟がいました。彼はケープ州のボニーヴェイルという小さな町で真理の側に立ち,1941年の12月までにキンバリーで開拓奉仕を始めました。1945年,フランス・ミューラーが彼の仲間になりました。ミューラーは学校を卒業したばかりの16歳で,プレトリア会衆と交わって奉仕の面の良い訓練と経験をすでに相当積んでいました。そのふたりの若い兄弟たちはヨハネスバーグの南方約48㌔にあるヴェリーニギングという町に割り当てられました。ふたりは一生懸命働き,一方の兄弟はその年に月平均210時間奉仕しました。

反対者たちが悲観的な予言をしたにもかかわらず,1942年に,ラザフォード兄弟が亡くなった後も,王国の業は低下しませんでした。それどころか以前より速い速度で拡大したので,同奉仕年度末にジョージ・フィリップスは前年度の最高数の26%増加に当たる1,582名という伝道者新最高数を報告することができました。1931年当時100名ほどに過ぎなかった小さな群れとはたいへんな相違ではありませんか。

兄弟たちのしもべ

協会の新しい会長ノア兄弟は業の進歩を指導しましたが,初めて行なわれるようになった新しい事柄の中に兄弟たちのしもべの業がありました。南アフリカではその業は1943年2月に始まりました。(地帯の業は1942年に停止されていました。)兄弟たちのしもべは独身の男子でなければならず,忙しいスケジュールについて行くため非常に強健でなければなりませんでした。最初小さな土地は1日だけの訪問を受け,比較的大きな会衆は2,3日間の訪問を受けました。そのためには難しい条件の下で長い旅行をし,昼夜を問わずとんでもない時間に汽車やバスに乗らねばなりませんでした。その業の内容は会衆の記録を注意深く調べることばかりでなく,主として,野外で兄弟たちといっしょに多くの時間を過ごし,野外奉仕の面で彼らを訓練することでした。

ガート・ネル兄弟は1943年に兄弟たちのしもべに任命された人のひとりでした。彼は1934年,トランスヴァール州北部で教員をしていた時に真理を知り,以来王国の非常に熱心で活発な伝道者でした。ネル兄弟は地区のしもべおよび兄弟たちのしもべとしてアフリカ人とヨーロッパ人双方の多くの伝道者を援助する特権にあずかりました。彼の忠実かつ忠節な奉仕を今でも記憶している兄弟は少なくありません。ネル兄弟は出版物をアフリカーンス語に翻訳するため1946年にベテルに招待されました。

兄弟たちのしもべになったアフリカ人の兄弟にトマス・マッキールがいました。彼が真理を知るのを助けたのは,南アフリカで最初にアフリカ人の開拓者となった人のひとり,年配のムレンガ兄弟でした。ある日曜日の朝,ムレンガ兄弟が野外に出ていると,一群の人々が地面に寝ているのを見つけました。一体どうしたのかと尋ねたところ,その人たちは前の晩に教会で一晩中祈って眠らなかったのだと言いました。その時彼らの牧師,つまりその時のトマス・マッキール“尊師”はムレンガ兄弟にあなたのかばんの中に何が入っているのかと尋ねました。彼は,「死んだ人はどこにいますか」と題する小冊子を受け取り,翌週には書籍を数冊求めました。そしてその次の週に大会に出席したのです。間もなく彼は教会を脱退してバプテスマを受け,その年のうちにムレンガ兄弟と共に開拓奉仕をするようになっていました。後には,前述の通り兄弟たちのしもべになり,1945年の末に忠実さを全うして亡くなりました。

非常に効果的な新しい学校

協会の会長N・H・ノアによって新たに設けられ,これまで野外において非常な成果を上げてきた取決めは,毎週開かれている神権宣教学校です。この非常にすぐれた取決めは短期間のうちに効果を現わし,自分は公開講演者にとてもなれないと考えていた多くの兄弟がたいへん有能な講演者となったり野外で一層効果的に伝道できるようになったりするのを助けました。南アフリカ全国の兄弟たちはエホバのそうした備えを喜んで受け入れ,熱意を持ってそれを実施しました。

サムエル・メイス兄弟は1943年に学校の監督になった人です。1938年当時彼は共産党員でした。そのころ彼は「富」と題する本を求めました。それを読めば事業に関する良い知識が得られると期待したのです! サムエルはまた邪悪な霊者にも悩まされ,常々夜に恐ろしい経験をしていました。魔術師のところへ行きましたが何の助けにもなりませんでした。ところが,「ものみの塔」誌の研究に出席し始めたとたん,彼の生活はすっかり変化してよくなったのです。彼が何にも増して深い感銘を受けたのは様々な部族に属する兄弟たちが愛し合っていることでした。政党の党員の間には決して見られないすばらしい一致が兄弟たちの間に見られました。彼はリーフのアフリカ人の会衆で学校の監督となり,後に開拓奉仕を始め,巡回監督として用いられました。

神権宣教学校はアフリカ人の区域がさらに速く発展するのを促進しました。プレトリアで,ハミルトン・キャフウィットが組織した小さな群れは1945年までに181名の人々が交わる大きな会衆に発展していました。そのころ政府はアフリカ人をプレトリア市から離れた所にある原住民の小さな町へ移し始めました。アフリカ人の会衆は大きさにおいてすでにヨーロッパ人の会衆の2倍近くになっていたのですから,第二次世界大戦中にアフリカ人の区域ですばらしい発展が見られたことがわかります。戦争が始まった時,ヨーロッパ人の伝道者数はアフリカ人の伝道者数より2対1の割合で多かったのですが,終戦までにその情勢は変化し,多くの場所ではアフリカ人の兄弟のほうがヨーロッパ人の兄弟たちより優勢でした。

1945年までにヨハネスバーグには113名の人々が交わるヨーロッパ人の会衆がひとつと,合計500名を超すアフリカ人の兄弟たちが交わる4つのアフリカ人の会衆がありました。

南のケープタウンでも拡大は起きていました。ヨーロッパ人の兄弟たちの総数は135名でしたが,ケープタウンのソールト・リバー・カラード会衆は138名になっていました。それからじきに,カラードの会衆は分会して4つの新しい会衆が生まれました。

そのころ真理に入った人にアルビノ族のアフリカ人ニコルソン・マケタがいます。彼は1944年に大会でバプテスマを受けました。マケタ兄弟は1946年に開拓者になり,その後数年間巡回監督として用いられました。彼は英語を自由に使いこなせたので,ほとんどの大きな大会で英語からセソト語への通訳として用いられ,また,彼の故郷レソトで協会の出版物をセソト語に翻訳する特権も与えられました。

ニアサランドにおける進歩

1940年までにニアサランドのクリスチャン会衆の数は60に増えていました。王国の伝道に対する宗教家からの反対も増大しつつありました。ローマ・カトリックの僧職者たちは,もしニアサランドがローマ・カトリックの支配下にあったなら,証人の業はとうの昔にやめさせられていただろうと人々に語っていました。そして,いずれにしても法王は間もなく協会の活動を打ち壊し,「ラザフォードとエホバの証人全員を海の真ん中にぶち込む」と言っていました。

ある時に起きた次のような出来事は偽りの宗教の教師たちが用いた不正な手段を明らかにしています。シンヤンジャ語のレコードを聞かせることがローマ・カトリックのアフリカ人の教師5人を動揺させました。その5人は,蓄音器を持った者が村々を歩き回って,ハルマゲドンが来ている,ヨーロッパ人は皆滅ぼされるだろうと人々に話しているとの苦情を地域の長官に申し立てました。むろんそれは白人の役人に不安と敵意を起こさせようと故意になされたことでした。しかし,当局の調査によりその報告が誤りであることがわかって問題は落着しました。

アフリカ人の生活の中で迷信は普通大きな役割を演じています。しかし,真理はそうした精神的なかせからアフリカ人を解放します。その返報として,迷信の奴隷になっている人々がエホバのしもべたちに対して特別な武器を用いることは少なくありません。たとえば,エホバの証人が村から村へ伝道していると,その後からライオンが現われて村人の命を奪いました。そのために,エホバの証人はライオンに村人をねらわせるという迷信が出来たのです! ローマ・カトリックの教師たちがそうした迷信的な傾向を利用したのはいうまでもありません。

第二次世界大戦ぼっ発と共にニアサランドの王国の業に対する圧力はさらに強くなりました。といっても,政府は引き続き公正な態度を取りました。そのことは総督H・C・D・マッケンジー-ケネディ卿の声明にも表われています。彼は次のように語りました。「わたしはものみの塔の人々を25年前から知っています。彼らがある国々で迫害され認められていないことも知っています。この国でわたしは,法律を守る限り彼らが動き回るのをやめさせるつもりはありません」。アフリカ人の当局者の中にも王国の音信が伝わる道を開けておく上で役割を果たした人々がいました。

1943年までに業は非常によく増加したので月平均伝道者数は2,464人に上り,144の会衆が活動していました。ところがその年に総督と警視総監が新しく任命されました。大量に送られてきたシンヤンジャ語の「富」と題する本が政府によって差押えられ,1943年6月には政府通告第77号によって協会の出版物すべての輸入が全面的に禁止されたことが発表されました。しかし,ニアサランドの業はそれによって大きな影響を受けませんでした。国内にはすでに相当量の文書が在庫としてあったからです。

強力な影響を及ぼしていたのは,依然として活動し協会の名前に非難をもたらしていた「ものみの塔運動」の存在でした。1937年エリオット・カムワナはセーシェル諸島の流刑から釈放され,そうした偽りの運動のひとつの指導者として戻って来ました。ウィリー・カバラもラザフォード判事の指導下にいると偽って唱え,小さな団体を率いていました。こうした事情がありましたから,協会が伝道者として認められる人々に特別の身分証明書を発行し,その人々の名前を政府に知らせるのは良いことでした。このようにして,ものみの塔聖書冊子協会の指導下にあるエホバの証人と類似の名称を持つ異教の運動とがはっきり区別されました。

1944年中「エホバの新しい世」という表現がニアサランドの人々にたいへん人気を博しました。新しい世に関する講演をしたひとりの兄弟はこんな説明をしました。「アダムが罪を犯した時,彼は園の中で子供をひとりももうけませんでした。すべての人は“やぶ”で生まれたのです。そして,みなさん,わたしたちは今もって“やぶ”にいます。わたしたちはまだ園に戻ってはいません。しかし,この“マテケンニャ”[すな蚤]の世界を離れて完全に樹立された新しいエホバの世に入る時は今や近づきました」。ある場所では関心を抱く人々がここからそこへとエホバの証人のあとをついて回り,神のみことばの約束にじっと耳を傾けました。

翌年までに聖書の真理の輝かしい熱気は偽りの宗教の水びたしの区域を干上がらせていました。新しい世に関する講演を聞いた後,大勢のアフリカ人の牧師たちは一緒に,あるヨーロッパ人の宣教師のところへ行き,こう言ったのです。「あなたはこうした事柄をなぜわたしたちに隠していたのですか。今日,わたしたちは少年や少女たちが人々を訪問して,前代未聞のすばらしい事柄を話しているのを見ています。ところがあなたは,今や偽りであることが明らかにされた教理をわたしたちに伝道させてきたのです。わたしたちが説教のために人々の前に立つと,わたしたちは愚かに見え,何ひとつ根拠を持っていないのです!」

南ローデシアで困難に打ち勝つ

1939年当時南ローデシアにはヨーロッパ人の伝道者が約15名,アフリカ人の伝道者が46名ほどいました。アフリカ人の兄弟たちを大いに助けるものとして,この国で主に用いられているアフリカの言語シショナ語の小冊子が初めて備えられました。

先に紹介した,金鉱の孤立した伝道者,ジャック・マックラキーはその間に自分の子供たちを真理のうちに育てていました。彼の家は編枝の柱と泥でできた簡素なもので,床は,牛のふんを水でどろどろにして乾燥させたセンガで作られていました。牛のふんはそのようにすると固くなり,においもなく,毎日掃くことができます。ジャックは忠実に真理で子供たちを訓練しました。ひとつの方法として,聖書の数節を読んでから質問をして子供たちが理解したことを確かめるようにしました。一番年下のイアンはそのころたいへん幼かったのですが,そのようにして行なわれた勉強時間のことを覚えています。後に彼が開拓者となり,またギレアデ学校を卒業して宣教者となった時に幼いころのそうした訓練が役立ちました。

1939年にはまた,もうひとつのマックラキー家が現われました。それはバート・マックラキーとその妻カルメン,赤ちゃんのピーター,それに先妻との間にできたふたりの子供たちです。バート・マックラキーは1927年に初めて真理に接し,親族の多くが真理を受け入れるのを助けました。事実,マックラキー“一族”の名前はアフリカ中部と南部で知れ渡っています。

1939年に第二次世界大戦がぼっ発するとすぐ,南ローデシアにいたふたつのマックラキー家と他の伝道者たちは難しい状態に陥りました。政府は1940年11月15日に協会の文書の輸入および流布に対する禁令をさらに強化しました。「エンファティック・ダイアグロット」というクリスチャン・ギリシャ語聖書の英語の翻訳さえ禁止されたのです。それはその翻訳が戦争努力に対する反対を助長するという偽りの理由によりました。ケープタウンの支部事務所は時を移さず,英国の国王,首相,植民地相,南ローデシア総督および国会議員全員に嘆願状を送りました。それを受理したとの公式の通知はありませんでした。数日後,C.I.Dの係官が南ローデシア政府に代わってケープタウンにジョージ・フィリップスを訪れました。彼らは手紙の筆者の素性をぜひとも知りたいと願っていたのです!

バート・マックラキーの話では,文書が禁止された時に恐れから姿を消した兄弟たちも中にはいましたが,大部分の兄弟たちは一層の熱意を持ってがん張り,将来どんなことが起ころうとも文書を配布してその法律の合法性を試そうと決意しました。その結果は逮捕,訴追そしておきまりの有罪判決でした。書籍や聖書,蓄音器とレコードは,後日法定命令によって焼却するために没収されました。そうした訴訟事件の幾つかは南ローデシアの最高裁に持ち出されましたが,そのころは戦争熱や圧力のために協会に対して不利な判決が下りました。

ジャック・マックラキーによれば,当時ヨーロッパ人の証人の数は16名ほどで,その大半は禁止されている文書を配布したかどで1度か2度投獄されました。2度も3度も刑務所へ行った人々もいます。戦争に関連して中立の立場を取ったために多くの兄弟が投獄されたのもそのころのことでした。兄弟たちは刑務所にいる時を利用して良い証言を行なったので,彼らが釈放された後に幾人かの看守は証人たちと共に聖書研究に出席しました。

ある時バート・マックラキーの妻カルメンも逮捕されて普通どおり25ポンド(約1万6,000円)の罰金もしくは3か月の実刑を宣告されました。彼女はその時妊娠していました。上訴が成功しなかったために事件は長引き,その間にカルメンは女の子を出産しました。やがて婦人警官がカルメンを逮捕するために来ました。マックラキー兄弟は妻と赤ん坊がグウェロの刑務所へ連行されるのを見るという悲しい経験をしたのです。彼らは赤ん坊を家に置いておくこともできましたが,母子が一緒にいるのは母親にも子供にもたいへん良いことであると判断しました。幼いエストレッラが母親と獄中にいる間その子守をしたある女の殺人者は,母子が3か月の刑期を終えて釈放された時にひどく涙を流しました。

バート・マックラキー兄弟自身も2,3度投獄されました。刑務所で同兄弟はけがらわしい邪悪な行為をした罪人たちと交わっていました。その後にも先にもあれほど下劣なことばを聞いたことがないと彼は語りました。それでも,王国の音信に耳を傾ける囚人がふたり見いだされ,刑務所内でささやかなバプテスマの式が行なわれました。他の人が全員中庭へ運動に出てしまっている間にマックラキー兄弟がふたりの囚人にバプテスマを施したのです。

1942年,南ローデシアのヨーロッパ人の兄弟たちは「エホバの証人: それはだれで,どんな業を行なっているか」と題する小冊子を出版しました。彼らはそれを総督と他の役人たちに郵送し,一般の人々に配布し始めました。バート・マックラキー兄弟はその時のことをとても良く覚えています。事実,彼の妻はある日その業に携わっていた時に再び逮捕されました。しかし彼女の裁判は行なわれず,彼女は告発されませんでした。

1943年までに平均伝道者数は1,090人になり,王国伝道者の群衆は南ローデシアで急速に増加していました。翌年には幾つかの大会がアフリカ人の兄弟たちのために取り決められました。ブラワヨのアフリカ人大会に1,028名が出席し,ムレワの大会では公開講演に347名が出席しました。その2か所で50名の新しい人々はバプテスマを受けました。ヨーロッパ人の大会もブラワヨで開かれ,73名という出席者の最高数が得られました。兄弟たちは,文書の発送基地を開く許可が協会に与えられ,南ローデシアに公式の代表を置くことのできる日を切望しつつ業を続行する励ましをそこから得ました。

迫害に面して熱心さを保つ

1940年に北ローデシアのコッパーベルトで再び暴動があり,ひとつの町で数名のアフリカ人が殺されました。今度は敵はエホバの証人を“身代わりのやぎ”にすることに失敗しました。首謀者たちは全員ローマ・カトリック教徒でしたが,政府はそのことについてひとことも触れませんでした。コッパーベルトのエホバの証人たちはその時までにかつてないほど強く熱心になっていました。

1940年12月,協会の文書すべての輸入と配布を禁止する政府の布告が出されました。兄弟たちの家は手入れを受け,文書を所有していたかどで刑務所に送られた兄弟たちは少なくありませんでした。ある場合などは,ギブソン・チェンベとラモンド・カンダマというふたりの兄弟が,幾人かのしゅう長を含む大勢の人々の前で書籍を焼くのを拒否したために数回ひどく打ちたたかれました。土地の警察署長および行政官との話合いでそうした行為が行なわれたのです。ケープタウン支部あての報告書は検閲官に押えられ,ルエレン・フィリップスは保安長官に呼び出されました。事実が示されると,長官は調査することを約束しました。ルサカの政府司令部とロンドンの植民地局双方に抗議が申し込まれました。政府は調査委員会を任命し,同委員会は行政官と警察署長を懲戒したので,強制的に書籍を焼く努力はそれ以上なされませんでした。

次いで,すべてのヨーロッパ人とアフリカ人は2か月以内にものみの塔の出版物をことごとく最寄りのボマ(裁判所)に提出しなければならず,それを怠る場合は訴訟追行を受けるという政府の通告が1941年3月に出されました。言うまでもなく,真のエホバの証人はみなそれを拒否しましたから,さらに逮捕が行なわれました。協会の文書発送基地が手入れされました。文書発送基地のしもべ,ルエレン・フィリップスは大胆かつ確固とした立場を取り,手持ちの文書の提出を拒否しました。彼は6か月の実刑を宣告されました。同年の初めごろ,ルエレン・フィリップスは兵役を拒否したために一か月間刑務所で過ごしました。

次の年も事態は緩和しませんでした。ルエレン・フィリップスは兵役の問題でまたもや逮捕されました。が,彼は上訴しました。その審理が行なわれるまでに彼は3か月刑務所にいました。彼はその時の経験を次のように語っています。「3か月後に行なわれた上訴審は,首席判事閣下が裁判官席に着き,法務次官(時の勅選弁護士)が訴追に当たるという大ごとになりました。判事は幾つかの異なった章にはさんだ紙片が出ている聖書を取り出し,モーセが戦争の人であったのに反してエホバの証人はどんな権利があって戦争を拒否するのかと切り出しました。その忠実な人はキリストより1,500年前の人でクリスチャンではあり得なかったということに気づかせられると,判事は聖書関係の質問をだんだんしなくなり,やがて聖書をわきに置きました。もし使徒たちが生きていれば,彼らも恐らく被告席についているでしょうということを聞いて,彼は明らかに心を動かされました」。それでフィリップス兄弟は彼が実際に服役した期間までの減刑が言い渡され自由の身になって法廷を出ることができました。

迫害による苦難,食糧不足,そして禁令のための文書の欠乏にもかかわらず業は前進しました。文書不足を相殺するために,兄弟たちは質問および関連のある聖句を含む答えを用意して聖書研究に用いました。戦争のために自転車の部品とタイヤも不足していました。ですから,大半のアフリカ人は未開墾地の踏みならされてできた道の主な交通手段を奪われました。それにもかかわらず北ローデシアの業はすばらしい進歩を遂げていました。1944年の平均伝道者数は,1941年の116%増加に当たる3,062名だったのです。しかも,困難にもかかわらず伝道者たちは野外奉仕に毎月平均30時間を費やしていました。その時までに良いたよりは近くのコンゴにも広がっていました。

北ローデシアのヨーロッパ人はそれまでエホバの証人と公に交わっていませんでした。その理由は「1943年年鑑」にこうほのめかされていました。「わたしたちの音信の価値を認めるヨーロッパ人の多くには根深い恐れがあります。彼らはそのことを公にもしくは活発に知らせると自分たちの地位が危なくなると感じているのです」。とはいえ,政府当局者を含む数人のヨーロッパ人は証人たちにたいへん親切でした。事実,ある地域長官は彼の前任者がふたりの証人を誤って長く刑務所に留置した償いとして各に5シリング支払いました。別の役人は彼の下男(協会の文書を所持していたために投獄されていた)が刑期を終えた時彼を車で迎えに来て仕事場に連れて帰ってくれたのです! 多くのヨーロッパ人の態度がそのように変化したのは,兄弟たちが振舞いによって良い証言をしたために違いありません。「1944年年鑑」がこう報告している通りです。「協会の信者はこの(労働)部隊で最も良い評判を得ています。農場主や他の雇用者が特に彼らに来てもらいたいと名差しで言うことは良く知られています」。

オレンジ自由州で1916年ごろにジェピー・テロンから真理を聞いた一組の夫婦,すなわちブリジャー兄弟姉妹は1945年にヨハネスバーグからルアンシャへ移り,ブリジャー兄弟はそこのヨーロッパ人を対象に開拓奉仕を始めました。彼は町中を網羅して1,000冊の小冊子を配布したと語っています。その時彼は,ヨハネスバークで以前自分が研究を司会していたシーパーズ夫人と彼女の娘ジョベール夫人の家族に会いました。その家族全員は,今日のひ孫たちに至るまでが真理を受け入れました。ブリジャー兄弟はまた「クリスマスを祝うことに信仰を持っていない」数名の人々のことを聞きました。彼はその人々と会うことに成功し,こうして南アフリカで証人の業と交わりのあった他の4名の人々と接触しました。彼はその人たちと研究を開始し,彼らは北ローデシアで最初のヨーロッパ人の会衆の中核となったのです。

バロツェランドに進む

1945年には南アフリカ連邦からさらに援助があって,C・ホリデイ兄弟(この話の中で先に述べたM・ホリデイ姉妹の夫)が来ました。彼は「ルエレン・フィリップス兄弟を援助し,旅行するしもべとして」奉仕するようケープタウンの支部の監督ジョージ・フィリップスによって招かれました。ホリデイ兄弟は北ローデシア滞在中にバロツェランドを訪れました。そこはビクトリア滝の西方,大きなザンベジ川の上流にある約73万5,560平方㌔の地域です。ひとりの関心を持つヨーロッパ人と,案内者と通訳を兼ねたアフリカ人の「兄弟たちのしもべ」ひとりが彼に同行しました。

それは非常に困難な旅行でした。一行はまず私設の森林鉄道でマッセッセに行き,そこで途中下車して数人の証人たちと集まりを持ち,会衆の中核を整えました。次の行程では,借りた人夫がしらのトロッコを使いました。政府のトラックに乗れる場所までふたりのアフリカ人がそれを線路に沿って押してくれました。一行はそれでカティマ・モリロに行き,そこから再び他の車に乗せてもらってヌグウェシに行きました。ヌグウェシでは,彼らに会って荷物を運搬しようとセナンガから徒歩で来た兄弟たちの出迎えを受けました。その後セナンガまでほとんどの道のりを3そうのカヌーで旅行しました。ある地点で彼らはカバに出会ってぞっとする経験をしました。ホリデイ兄弟にとってほんとうに恐ろしかったことに,その大きなカバは一そうのカヌーを空中に持ち上げたのです。しかし,こいでいた人は巧みにバランスを取り,オールでカバを打ちました。それは効を奏してカバは泳ぎ去り,一同はほっと胸をなでおろしました。

セナンガに着いたとたん,彼らは集まっていた大勢の人々の歓迎を受けました。その出迎えのために,ある人々は陸路を8日か9日間旅行して来ていました。どの人もこれから何があるのかとたいへん楽しみにしていました。ヨーロッパ人の兄弟が訪問したのはその時が初めてでしたし,それまで白人を一度も見たことがない人も少なくありませんでした。彼らが聞いた非公式の大会は霊的に確かに元気づけました。

ムフリラの会衆を訪れた時,ホリデイ兄弟は原住民労務者のための特別区の区長であるフォード氏に会いました。彼は「ものみの塔の男子たち」の良い仕事と信頼性に深い感銘を受けていました。フォード氏は「エホバの証人の1946年年鑑」の中で次のように報告されている役人のひとりでした。「当局は今だに認めようとはしていませんが,個人的にはエホバの証人の清潔さ,礼儀正しさ,および勤勉さに対して敬意を抱いていることを示す人がいるという励ましとなる例があります。炭坑都市で現在わたしたちと交わっている大勢の人々(800名もの大きな集まりに出席する場合も珍しくない)はアフリカ人を直接監督している人々に深い感銘を与え始めています。その一例として,ムフリラ町運営委員会と4か月にわたって通信のやり取りがあった後,王国会館を建てるための土地が無料で与えられました。その誉れを当然に受けるべきなのは,わたしたちを大胆に弁護してくれた数名の役人です」。その種の建物としてそれは北ローデシアで最初のものでした。

こうして,1940年代の前半北ローデシアでは迫害にもかかわらず業がどんどん進んでいました。南アフリカ支部の管轄下にある他の国々においても同様でした。

バストランドの禁令下で伝道する

1940年代初め,フランク・テイラー兄弟姉妹がバストランド(現在のレソト)を訪れました。そこでは強い関心が見られ,ふたりはあちこちで文書を欲しがるアフリカ人に文字通り追いかけられました。しかし当局はふたりを監視し,文書を全部没収すると脅して彼らを無理やり立ち去らせました。

1941年の2月中に協会の文書をバストランドに持ち込むことが全面的に禁止されました。不思議に思えることですが,その禁令が課された時にはバストランドにまだひとりも証人が住んでいませんでした。ところが,禁止されていた間に王国の業が開始され,たいへん良く進歩しました。協会の宣伝カーに乗った兄弟たちは協会の講演のレコードを放送し,文書を配布しながら旅行しました。が,支部事務所がバストランドからふたりの伝道者の報告を初めて受け取ったのは1942年のことでした。最初のふたりの伝道者のひとりはL・ラモセナ兄弟で,彼は実際にはトランスヴァール州のヴェリーニギングという町で働いていた時に初めて真理を聞きました。ラモセナ兄弟は真理に対して非常に熱心で,自分の国で真理を広めたいと強く願ったため,家に帰ってテヤテヤネングという町を手はじめとして熱心に証言し始めました。

間もなく,ヨハネスバーグで真理を受け入れていたもうひとりの兄弟がラモセナ兄弟と一緒になり,ふたりは近隣の村々に自転車で行って良いたよりを広めました。彼らは小さな集会を開き,その群れは大きくなって行きました。一年後の1943年に伝道者は100%の増加に当たる4人になったのです。

レソトの戸別訪問による伝道の業は他の多くの国における場合と大いに異なっています。家の人が屋内にいても屋外にいても,伝道者は明るく,そして親しみ深く「コーツォ!」とあいさつします。それは「平安!」という意味です。家の人も「コーツォ!」と答えます。次いで伝道者は家に招じ入れられ,席を勧められます。彼らは互いの健康について尋ね会い,型通りのあいさつがすむと伝道者は自分の用向きを切り出すことができるのです。

この国ではカトリック教会とフランス伝道団がしっかりと根を下ろしており,多くの人々はそのふたつの宗派のどちらか一方に属していますが,異教の先祖崇拝の伝統を依然として保持してきたバストー人は少なくありません。儀式的殺人,つまり,いわゆる薬効の目的で人体のある部分を得るために人を殺すことが最近まで行なわれていました。しかし,こうした障害にもかかわらず,王国伝道者の小さな群れは成長し,1948年には良いたよりの伝道者が9名いました。

しゅう長の多くはカトリック教徒なので,王国の業に反対することが少なくありません。しかしその中に心の正直な人々もいました。1951年,ある開拓者はレリベのしゅう長の村に行きました。彼は食事に招待されました。ふたりの僧職者も同席していました。その開拓者はしゅう長に証言し,要点を述べる際に各を聖書から証明しました。ふたりの司祭は気をいら立て,怒って席を立ちましたが,しゅう長はたいへん喜んで研究に応じました。その後しゅう長は自分が治めている地域の人々にも研究するように勧め,その結果あまりにも大勢の人が聖書研究を望んだので,その土地にいた開拓者はそれらの人たちすべてをもはや世話することができなくなりました。業は良く発展し,1951年までにバストランドには5つの小さな会衆がありました。また,翌年には平均53名の伝道者と10名の開拓者がいました。

タンガニーカで真理の光が輝く

さらに北方のタンガニーカでもアフリカ人の兄弟たちの間で業の進歩がみられました。1936年以来数年にわたってタンガニーカから協会のケープタウン支部に時たま寄せられた手紙は,アフリカのその地方で真理の光がかすかながら輝いていたことを示しています。1942年,158名の兄弟たちは伝道の業に幾らか携わりました。1945年の「年鑑」によれば,タンガニーカの報告は,迫害が増大し文書が没収されたことを伝えているものの,月平均75名の伝道者がひとり当たり8時間を上回る野外奉仕を報告しました。それらの兄弟たちを励ますには手紙による以外に道がありませんでしたから,協会はその方法を用いました。1945年までにタンガニーカの600万人近い住民は,144名の伝道者が交わるわずか3つの組織された会衆によって証言を受けました。彼らの伝道活動は主として口頭の証言,再訪問および研究からなっていました。時折り読み物が届くと伝道者たちは大喜びしました。そしてそれを全員の益となるように活用しました。1946年までに伝道者は227名に増加し,会衆は7つになりました。それらの兄弟たちは偽りの宗教の様々な組織から非常な反対を受けており,より厳重な監督とスワヒリ語の文書を大いに必要としていました。

1948年1月,チベンバ語を話す兄弟たちのしもべがタンガニーカの諸会衆を訪問すべく北ローデシアから派遣されました。彼はムベヤ地域の8つの会衆と共に働いて兄弟たちを励まし築き上げました。北ローデシアの国境にある残ったもうひとつの会衆は別の兄弟たちのしもべが奉仕しました。成果はまさに現われようとしており,しゅう長たちでさえ真理に関心を示しました。そのうえ,タンガニーカは今や北ローデシアに新設された支部の管轄下にありました。現在ケニア,ウガンダおよびタンザニアは協会のケニア支部の指導を受けています。王国の業はその地方で急速に拡大しており,エホバのお名前に大いに誉れをもたらしています。

新しい運動が始まる

1945年6月中に南アフリカで公開集会運動が始まり,野外の兄弟たちはその運動を熱烈に支持しました。神権宣教学校が開かれた結果今や多くの講演者がいました。用意された講演の筋書きは幾つかの主要なアフリカの言語に翻訳され,そうした区域の兄弟たちもその新しい運動を組織し始めました。

いうまでもなく,公の演壇から話をすることに恥ずかしさや恐れを感じた兄弟たちも少なくありませんでした。その中にヴェリーニギングで開拓奉仕をしていたピエ・ウェントゼルと彼のパートナーであるフランス・ミューラーがいました。その運動のことが「通知」(後の「王国奉仕」)で扱われた時,ふたりとも自分たちはそれに向いていないということを認めました。ふたりは公の演壇に立った経験が一度もなかったのです。しかし,「通知」に出ていた助言に励まされた彼らは,話を選んで準備に取り掛りました。講演の練習をするのにふたりは川の土手の静かな場所を選んで十分に離れると,“話し”始めました。ゆるやかに流れる“聴衆”,すなわち川に向かってです! 1か月ほどの間昼食の時間になると川に行き,本物の聴衆に向かって話す自信が十分にできるまで練習しました。ビラが注文され,大々的な宣伝がなされました。公開講演の当日37名の出席者を迎えたふたりはそのすばらしい出発に大喜びしました。

組織がより強くなった

迫害に関する限り,1945年はその前の年に比べてかなり平穏な年でした。といっても,幾つかの小さな事件はありました。そのひとつはキンバリーで起きました。キンバリーは,そこでダイアモンドの採掘が始まった1870年代以来ずっと重要なダイアモンドの鉱山都市です。キンバリーの町議会は,何ら明らかな理由もなく,町の(アフリカ人のための)指定地区にエホバの証人を入れて信仰を広めさせてはならないという決議を採択しました。アフリカ人地区の監督者は証人の活動をやめさせ,その集会場を閉鎖するようにとの指示を受けました。一地方新聞は,「ラッセル派,当地の指定地区で禁止さる」という見出しの記事を掲げました。

指定地区の監督であるオブライエンという名の男は直ちに行動を起こしました。彼は兄弟たちの留守に王国会館に押し入り,文書と蓄音器を押収して,蓄音器を運搬する小さな手押車をめちゃめちゃに打ち壊しました。それから意気揚々と,その切れ端をまきにするようにと見物人たちに手渡しました。支部も直ちに応酬しました。48時間以内に没収した物品を返し,手押車の損害賠償金を払うように,さもなければ訴訟を起こすと町議会に通告したのです。その結果,町議会は損害賠償金として10ポンド(約6,464円)を自腹を切って支払い,オブライエンはすぐに引き返して没収した物品を自分で王国会館に返却しなければなりませんでした。あげ句の果てに,地方新聞は,エホバの証人がまたもや勝利を収め,通常どおり指定地区で教育活動を推し進めているとの記事を掲げました。

ほぼ6年間も,うんざりするほど長く続いたヨーロッパの戦争は1945年5月にやっとのことで終結しました。原子爆弾が日本の抵抗を粉砕するまでしばらくの間極東では依然戦闘が続いていました。南アフリカ人は一般に深いあんどの息をつきました。しかし,証人たちは“禁令戦争”で勝利を得たものの,蛇の「胤」との長期戦はまだ終わっていませんでした。

とはいえ,神の民は大戦中に19か所で「一致した告知者の大会」を開きました。南アフリカにおける王国の業の歴史上初めて,兄弟たちはアメリカその他の場所の兄弟たちと同時に同じ良いものを楽しむことができました。プログラムや新しい出版物はすべてその場に間に合いました。

南のダーバンで伝道者の数はおよそ100名になっていました。その小さな一団は公開講演を宣伝するために強力な運動をしました。5万枚のビラ,2,000通の特別な招待状,1,000枚のポスターおよび大小多数のたれ幕が使われました。市民は電気に打たれたように強い衝撃を受けました。かつてそうしたものを見たことがなかったのです。公開講演の出席者数は900名で,そのうちの750名ほどは一般の人々でした。そうした一連の大会の全国の出席者数は新最高数に当たる5,001人に達しました。

ケープタウンの支部事務所の家族は今や14名に増えていました。彼ら全員は依然個人の家や下宿屋に住み,町の食堂で食事を取っていました。小さな印刷所は引き続き忙しく,1945年に最高記録である256万2,817部の印刷物を生産しました。1943年に出版された,「真理はあなたがたを自由にする」と題する新しい書籍がアフリカーンス語,ズールー語およびセソト語に翻訳されました。

このようにして,アフリカ南部における組織は第二次世界大戦をくぐって初めのころよりもずっと強く大きくなって現われました。文書の禁止,僧職者による“名誉きそん”運動,新聞による悪質な宣伝,裁判ざた,警察の手入れと逮捕など,反対者の行なったあらゆる努力にもかかわらず,業は進歩発展しました。南アフリカの会衆の数は2倍以上にふえ,115から244になりました。アフリカ南部全体で平均伝道者数は286%の増加に当たる3,179人(1939年)から1万2,289人(1945年)になりました。南アフリカ連邦における伝道者の増加はさらに驚異的で1939年の439名から1945年の2,991名になりました。これは580%もの増加です。

将来に対して築く

戦争中の驚くべき増加からして,将来も産出的であれば,南アフリカ,中央アフリカおよび東アフリカの王国の業は良く組織される必要がありました。記録が示すところによれば,1939年に3,179人だった証人は1946年には平均1万4,089人に増加していました。当時ケープタウンの南アフリカ支部事務所が管轄していた区域全体の人口は2,500万人でした。90%の人々は大陸の南半分に住み,アフリカ人の様々な部族に属していました。しかし,ヨーロッパ人(白人)の大半は南アフリカ連邦自体に住んでいました。

続く数年間もさらに驚嘆すべき増加の見られる見込みがありました。関心を持つ羊のような人々を一層良く世話するため,そうした区域でものみの塔協会の新しい支部が幾つか開設される予定になっていました。

多くの地域で証人の活動はまだまだひどい誤解を受けていました。1946年10月に開かれる大会に出席するため,数人の兄弟たちが北ローデシアからヨハネスバーグへ行こうとしたところ,移民局の役人はそれを許可しませんでした。ひとりの役人はこう尋ねました。「『ものみの塔』は破壊活動の罪を犯したのではなかったかね」。それら当局者に事実が提示されましたが,それでも兄弟たちは入国を許されませんでした。ヨハネスバーグのアフリカ人の町では数千人の人々が仮小屋で生活しており,兄弟たちのために十分の宿泊施設はないというのがその理由でした。当局者たちは,エホバの証人が訪れる兄弟たちの世話を自分たちでするということを認めたくなかったのです。

オハイオ州クリーブランドにおける1946年の大会で「神を真とすべし」および「凡ての良い業に備える」といった出版物が発表されましたが,南アフリカの兄弟たちは約2,3か月後にヨハネスバーグで開かれた大会でそれらの出版物を熱意を持って受け取りました。そうした出版物は,エホバのしもべたちがみことばの真の教え手としてさらに資格を持つ者となるためにたいへん役立ちました。蓄音器と聖書講演のレコードを用いる業はまだ続けられていましたが,今や,王国の働き人はどんな人種の人であれ,自分の口を使い自分自身で伝道し教える業にいっそうあずかる仕方を学ぶべき時が来ました。

当時巡回監督をしていたアフリカ人のひとり,M・ヌグルーによれば,その時期に様々な宗派のアフリカ人の僧職者が多数真理を受け入れたということです。スイス・ミッション教会のベスエル・リコーツォもそうした人のひとりで,ヌグルー兄弟が1946年にトランスヴァール州北部のグラスコプを巡回訪問していた時に会いました。彼は初めて真理を聞いた晩にそれを受け入れました。巡回監督が次に訪問した時,彼はシャンガーン族の首長の「クラール」(草ぶき小屋の群れ)で特別講演が行なわれるように取り決めました。その講演を通して強力な証言がなされ,数年後そこに大きな会衆ができました。リコーツォ自身は1947年1月に開拓者になりました。

巡回の仕事と大会

その当時,アフリカ人の巡回監督の仕事は危険を伴うことがありました。ヌグルー兄弟は,はんらんした川を渡る時に2度おぼれそうになったと述べています。今日でさえ,アフリカ人の巡回監督はひとつの会衆から他の会衆へ行くのに荷物を負って未開墾地を幾㌔も歩かなければなりません。しかも妻子を連れている場合が少なくないのです。

1947年2月に巡回区の新しい取決めが実施され,南アフリカは14の巡回区に分けられました。

幾つかの地域でアフリカ人が著しい関心を示しました。アフリカ人のある巡回監督は,一日に3度同じ公開講演をした経験を話してくれました。彼は新しい会衆を設立するためある地域に派遣され,1947年8月のある日曜日に公開講演を予定しました。出席者は173名で,そのほとんどは新しく関心を抱いた人々でした。彼は次のように書いています。「講演後,出席した人々は真理を聞きに来るよう他の人々を誘うために出かけて行きました。午後3時にわたしは2度目の公開講演をしました。午後5時には別の人々が大勢会館に来て,この会館で真理の話が行なわれていることを3時の講演を聞いた人々から教えられたが,その話をもう一度してほしいとわたしに真剣に頼みました。それでわたしは6時から7時までその日の午後3度目の講演をしました」。そのような強い関心は驚くべき増加を促すはずでした。

1947年4月,南アフリカで最初の巡回大会がダーバンで開かれました。その大会で地域監督として奉仕したのは,宣教者のためのものみの塔ギレアデ聖書学校の第5期生であり,南アフリカに来た最初のギレアデ出身の宣教者でもあるミルトン・バートレットでした。アフリカ人の兄弟たちは市の中心に近い市営住宅に水しっくいで上塗りした会館を使用しました。それは楽しい機会でした。当時ナタール州全部がひとつの巡回区に入っていましたから,兄弟たちはかなりの距離を旅行しました。

バートレット兄弟はその地方色豊かなアフリカ人の大会を次のようにたいへん生き生きと描写しています。「アフリカ人の証人たちの態度を見て感動させられました。彼らはとても清潔でおとなしく,きちんとした身なりをしており,さらに深く真理を学ぼうと非常に誠実で熱心な態度を示し,野外奉仕にもたいへん熱心でした。証人たちは指定地区のただ中(下宿屋の庭)にいたのですが,三つ足の付いた大なべを持っていて,動物をほふるとその指定地区内で食事を用意しました。どの証人も自分でほうろう引きの皿とコップ,そして大きなスープ用のさじを持って来ていて,出された食物をそれで食べました。ただし,とうもろこしの固いかゆを食べる段になるとそれを手で巻いて皿の底のスープに浸し,口にひょいと入れました」。

兄弟たちは巡回大会を非常に楽しみました。その年の支部の報告によると,ズールーランドのアフリカ人の兄弟たちは片道約125㌔の道のりを徒歩で巡回大会に出席しました。往復5日間歩いたのです。まさに支部の監督が次のように述べた通りです。「それらの兄弟たちの多くが示す熱意は実にすばらしく,彼らが熱心に学び,与えられた教えを心に取り入れようとしている様子は心を楽しくさせます」。

宿泊施設の問題も兄弟たちの悩みとはなりません。毛布や身の回り品の入った包みと書籍とか聖書を入れた小さな木の箱を持ち。赤ん坊は婦人たちが背負ってやって来ます。その木の箱はしばしば大会のプログラム中いすに使われます。大会場に着くのに2,3日かかる場合,喜んで家の片隔に泊まらせてくれる親切なアフリカ人が容易に見いだせます。野宿しなければならない時には毛布で夜露をしのぎます。

時折会館がないと,空を丸天井にして屋外で大会が開かれます。他方,柱を立てて防水布で覆った仮小屋が作られます。とうもろこしがゆと肉のおいしい食事がその場の必要を満たします。兄弟たちが自分自身の皿を持っていれば上等です。でなければ兄弟たちはひとつの皿から一緒に食べます。だれかがスプーンを持っていなかったら……,心配ありません,ナイフとフォークより前に造られた指があります。

喜ばしい訪問は霊性を築き上げる

南アフリカ,中央アフリカおよび東アフリカにおける1948年度の王国の業で最も顕著な出来事は,協会のN・H・ノア会長の待望久しい訪問でした。それはアフリカ南部のすべての兄弟たちにとって大きな喜びでした。その時新しい支部事務所と工場および宿舎を建てる土地がヨハネスバーグの近くに購入されました。

1948年1月3日から5日には南アフリカで全国大会が計画されていました。その大会はヨハネスバーグで開かれたのですが,当局の要請があって,ヨーロッパ人とカラードの兄弟たちは同じ場所に集まり,アフリカ人の兄弟は別の会場に集まりました。兄弟たちは簡単な知らせを受けただけでしたが,開会の話におよそ3,600人が出席し,ふたつの公開集会には9,246人が集まりました。全部で416名が浸礼を受け,うち378人はアフリカ人の兄弟でした。大会後,ノア兄弟と秘書のミルトン・ヘンシェルはケープタウンの支部事務所に3日間滞在してベテル職員に助言と励ましを与えました。

ケープタウン支部の監督下にあるすべての国と区域における伝道者は,1948年に2万7,000人をやや上回る最高数でした。同年にノア兄弟が訪問した結果,単なる文書発送基地が協会のケープタウン事務所に報告を送るかわりに,独立して機能を果たす幾つかの支部がアフリカの中央部に新しく組織されました。ここで,ケープタウン支部の監督下にあった中央アフリカにおけるそれまでの発展を考慮するのはふさわしいことと思われます。

制限が取り除かれ,王国の伝道は栄える

南ローデシア(現在は単にローデシアと呼ばれている)において,王国の活動に対する制限を取り除く戦いは続いていました。ケープタウン支部は制限撤回の申請を誠意を込めて幾度か送っていました。1945年にその申請を閣議の初めに考慮するとの保証を与えられました。あくる年ついに制限が取り除かれ,協会の文書をローデシアで再び自由に配布することができました。

1947年,バート・マックラキーは家族の状態からして再び開拓奉仕を始められると感じました。大きな驚きであり,また喜びであったことに,彼は,当時の南ローデシアのブラワヨに1947年7月1日付で協会の文書発送基地を開設するように任命されました。なににもましてエホバのおかげにより,南ローデシアで王国の業を確立し,ふさわしい代表者を置くための長く厳しい戦いは勝利を得たのです! その年までに伝道者の最高数は3,000人台を超え,82の会衆が組織されていました。

最初の文書発送事務所はどちらかといえば家族的で,バート・マックラキーは弟のジャック・マックラキーの家で仕事をしました。最初バート・マックラキーは自分ですべての仕事を行ない,その後,「ものみの塔」誌の記事をそれぞれシショナ語とシンヤンジャ語に翻訳するふたりのアフリカ人の兄弟を呼びました。かなりの間彼らは翻訳したものを謄写板で印刷し,丁合したり折ったりとじたりするのを手で行なって雑誌を作らねばなりませんでした。マックラキー兄弟自身が認める通り,完成した雑誌は改善する余地のあるものでした。1975年現在では,エランズフォンテイン支部の近代的な輪転機で非常に高い品質の雑誌が生産されています。シンヤンジャ語の雑誌は毎号2万5,000部,シショナ語の雑誌は毎号1万3,900部印刷されています。

そうした発展や改善のすべては当然ながら南ローデシアの王国伝道者の心に大きな喜びと励ましをもたらしました。しかし,1948年1月にノア兄弟とヘンシェル兄弟の訪問があるというニュースが1947年10月に伝わった時すべての兄弟たちがどれほど感激したかは想像に難くありません。ブラワヨとソールズベリーでノア兄弟がアフリカ人とヨーロッパ人に行なう講演を宣伝するため,幾千枚ものビラや何百枚ものポスターおよび多くののぼりが用意されました。ギレアデ学校を卒業した南ローデシアで最初の宣教者エリック・クックが現われたのもそのころのことでした。

1948年1月16日から18日にわたる大会期間中にハラリ町区の会館を使用する手はずが前もってなされていたのですが,原住民管理局がそれを取消したために難しい事態が生じました。当局はさらにアフリカ人の兄弟たちのために前もって取り決められていた宿泊施設をも解消しました。当局者が協会は“政府に反対している”との誤った考えを持っていることがわかりました。クック兄弟は,「エホバの証人の年鑑」からある1節を読んでそうした誤った考えを打破しました。そのことに深い感銘を受けた当局者は,ハラリの会館の使用を再び許可し,大会に出席すると見込まれていた幾千人もの人々が宿泊施設を利用できるようにしました。こうしてエホバの証人の大会を開く道は開かれ,その大会は6,000人台を上回る出席者の最高数を得て成功を収めました。

ノア兄弟は短い訪問中に時間を割いて政府の当局者を訪れ,英貨の国々のドル不足のために協会の文書に課された重大な制限に関して話し合いました。彼は,南ローデシアあての文書すべてを無料で送って通貨の問題を起こさないようにすると語って,役人とのその問題を取り除きました。

1948年9月1日付でその文書発送基地を支部事務所とし,エリック・クックを支部の監督とするという取決めをノア兄弟が設けたのもその訪問中でした。それは南ローデシアにおける王国の業にとって新しい章の始まりとなりました。その時伝道者は最高数の4,232名でした。

ニアサランドを目ざめさせる

そのころのニアサランド(現在のマラウィ)における業の歴史もほとんど同様の型を取りました。1946年までにエホバの証人の存在はニアサランドで本当に知られるようになっていました。伝道者数は初めて3,000人台を超え,兄弟たちは確かにこの国を目ざめさせていました。

公開集会運動はその時まさにたけなわで,あらゆる土地の人々を覚せいさせることに非常な成功を収めていました。いうまでもなく,偽りの宗教家たちはエホバの証人が自分の村で集会を開くのを邪魔するためにあらゆる努力を払いました。公開講演をするには村の村長から許可をもらわねばなりませんでした。ですから,村長が土地の宗教指導者たちの影響を受けると公開集会を開くことができませんでした。ゾンバ地区である教会の執事と長老たちは村長にその地位を取り上げると脅しました。しかし,その村長は取り上げたいのならそうしてもかまわないと彼らに言いました。それとは対照的に隣りの村の村長は,その村で公開集会を開く取決めをするために自分のところへやってきたふたりのエホバの証人を打ちたたきました。その人は裁判にかけられましたが,有力な人物であり,教会員でもあったので,アフリカ人の地方裁判所は「本件に関して我々は何もなし得ない」と言いました。しかし,それを聞いた地域委員は,裁判所と反対した村長双方に厳しい懲戒を与えました。

多くのしゅう長は自分の村で講演をするようエホバの証人に招待状を送り始めました。ひとりのしゅう長は,リズルという所で開かれた公開講演に出席して死者の状態に関する真理を聞き,そのすぐ後に宗教指導者たちが執り行なった葬式に出席しました。聴衆は,死んだ子供は「今天で天使になっている」と告げられました。その老しゅう長はぶつぶつ言ってしっかと立ち上がり,横にいたインドゥナ(彼の村の村長)の方を向いてかぎたばこを欲しいと言いました。彼はそれをすぱすぱ吸うと,「ふん,わしたちは死者がどこにいるかをリズルで聞いた。今のはみんなうそだ!」と言って退場しました。

エホバの証人の音信があまりにも強力だったので,偽りの宗教家たちは証人の表現や方法をまねしようとしました。「わたしたちも新しい世を伝道している」と言おうとしたのです。中には自分の教会員を再訪問しようとした人々もいましたが,彼らは数週間でそれをやめねばなりませんでした。

口頭により,また木にはり紙をして広く宣伝したある屋外の公開集会で,300名ほどの人々が講演を聞くためマンゴーの木陰に集まりました。講演者がミカ書 3章11節の『その祭司たちは値を取りて教えをなす』という聖句を引用した重大な時点で,たまたまひとりの牧師が自転車に乗って通りかかりました。彼は腹を立ててそこの村長に苦情を申し立てました。村長は,エホバの証人が公開集会を開いてはならないと裁定しました。むろん兄弟たちはそれを受け入れることはできず,原住民の裁判所に上訴しました。村長の裁定は破棄され,以後エホバの証人に迷惑を掛ける者は5ポンド(約3,200円)の罰金を科されることになりました。事態がすっかり収まったころには50名ばかりの関心を持つ人々が王国の活発な伝道者としての立場を取りました。

それまで反対していた村長の多くは友好的になり,自分が宗教指導者たちの影響を受けていたことを認めました。ある巡回監督がローマ・カトリック教徒でもあるひとりの村長のところへ行って,その村で公開集会を開かせてほしいと頼んだところ,こう言われました。「あんたがたがここで集会を開くだと? とんでもない。―― 村であんたがたが集会を開いて,今ではあそこの教会はつぶれてしまった。あんたがたを許可した ―― 村と ―― 村でも同じことが起きている。今度はわしの村に入って来て,わしらが築いた教会をぶちこわそうと言うのだな! 絶対にそうはさせるものか!」しかし,次の日の朝200人の兄弟たちは歌いながら村を行進して通りました。ローマ・カトリック教徒たちは叫んだりトムトムを打ち鳴らしたりして妨害しようとしました。ところが大勢の人々は群れをなして兄弟たちの行進に加わり,みんなで村から出た所に行って公開集会を開きました。その集会は大成功でした。

禁令と戦う

1946奉仕年度中に,政府によって差し押えられていた協会の文書の返還を求める嘆願状が回されましたが,それによってもニアサランドの人々を目ざめさせることができました。兄弟たちのそうした精力的な運動に,その幾分孤立した英国植民地は深い感銘を受けたのです。嘆願状には4万7,000人が署名し,そのことは確かに当局者を憂慮させました。

ケープタウンの支部は,1946年9月5日付でロンドンの植民地相に説得力のある長文の手紙を送りました。ニアサランドにおけるエホバの証人の振舞いはとがめようのないものであること,文書を禁止した責任を持つ人々はニアサランドで働いているイエズス会修道士の影響を強く受けていたこと,イギリス連邦の他の場所で協会の文書に対する禁令はすでに解除されていることがその手紙で指摘されていました。それに対する反応は励みになるものでした。というのは,ものみの塔とエホバの証人を共同推薦するため,東アフリカブロック(北ローデシア,ニアサランド,ケニアおよびタンガニーカ)を形成していた4つの異なる英領の総督たちが植民地局によって招集されたからです。総督たちは次の2点すなわち,(1)すべての人には崇拝の自由があるという原則,および(2)4つの地域に当時存在していたと同様の禁令は帝国の他のあらゆる土地で撤回されたことを心にとめるよう求められました。ところが当局者たちは,協会の文書を注意深く検討すると述べてその問題を棚上げしてしまいました。

訪問によって業は活発になる

1948年1月13日,ニアサランドにとってたいへん特異な出来事がありました。4人の兄弟を乗せた飛行機が近くの南ローデシアのソールズベリーから着いたのです。その4人とは,ノア兄弟,ヘンシェル兄弟,ケープタウンの支部の監督フィリップス兄弟およびニアサランドで援助する割当てを受けた新しいギレアデ卒業生のI・ファーガソンでした。ヨーロッパ人とインド人のための集会をブランタイア公会堂で開く取決めが設けられていました。当時ブランタイアにはヨーロッパ人が250人しかいませんでしたから,公開講演の出席者が40名であったのは上首尾でした。翌日その一行はリンベの近くで開かれたアフリカ人の大会に出席しました。その大会でビル・マックラキーは講演者の話をシンヤンジャ語に通訳しました。拡声装置が何もなかったので,プログラムを扱った兄弟たちは全員が聞こえるように大きな声で話さなければなりませんでした。ある時講演中に雨がひどく降ってきました。一般の人々は木の下や近くの家々に逃げ始めました。しかし,兄弟たちはその場にとどまり,ノア兄弟はかさをさしながら講演を最後まで行ないました。協会の会長であるヨーロッパ人が講演をし終えるために雨の中に立っていたという事実そのものは,協会に交わっている人々がアフリカの人々の福祉に対して真の関心を抱いているということを彼らに示すものとなりました。土地のヨーロッパ人であればそうしたことは絶対にしないからです。

その訪問中にノア兄弟は政府の幹事長および警察長官と会見し,協会の出版物に対する疑問や誤解を晴らすことができました。それら政府の代表者は文書の禁令を解除できるかどうか調べるために問題全体を再検討すると約束しました。

ノア兄弟の訪問によってニアサランドでの業は驚くほど活発になり,1948年は同国の王国の業の歴史上記念すべき年でした。伝道者の最高数は今や5,000人台を超え,新しい人々が急速にその隊ごに加わっていました。1948年までにニアサランドの伝道者数はある場所で急速に増加していたので,証言するのに十分な区域を見つけることは容易ではありませんでした。

1948年9月1日,ニアサランドに支部が設けられ,ビル・マックラキーが支部の監督に任命されました。それは,同国の王国の業がその歴史上さらに前進したことを意味し,兄弟たちを一層強める結果になりました。翌年の1949年には,ギレアデ宣教者学校を卒業したふたりの英国人,ピーター・ブライドルとフレッド・スメッドリーが到着しました。

真の崇拝は北ローデシアで前進する

その間北ローデシア(現在ザンビアと呼ばれている)は少しも遅れを取ってはいませんでした。増加の大部分は銅を産出する進歩的な地域を中心にしていました。そこコッパーベルトで組織はどんどん拡大していました。人々の大量の流入に対処するため,すべての全時間奉仕者およびその隊ごに加わりたいとの願いを抱く人を訓練してさらに有能な兄弟たちのしもべを生み出す10日間の課程が,文書発送基地で取り決められました。

真の崇拝のそうした前進はキリスト教世界の偽りの牧者たちを実際に悩ましました。ある教区牧師は,その勢いに抵抗しようとして,自分の教会員がエホバの証人のように人々の草ぶき小屋を訪問して彼らを“教会”に招待する取決めを設けました。しかし,ある人々は,その首尾一貫しない話を聞いてあきれ,あなたがたは“ものみの塔の人たち”のような音信を持っていないと教会員に語りました。教会員たちは努力が報いられずに意気消沈して帰り,彼らの会衆は少しも大きくなりませんでした。

北ローデシアでは村中で真理を受け入れたところが幾つかありました。キリスト教世界の宣教師の中には柔和な性質を示す人々がいました。たとえば,ムンブワのヨーロッパ人の宣教師は,エホバの証人の熱心さに深い感銘を受けて協会の書籍を読み,そこの会衆の主宰監督を訪問するようになりました。

そこでは証人たちが幾年もの間政府の役人によって苦しめられました。その役人は伝道者を投獄し,聖書研究のための小屋を破壊し,証人たちの集会を分裂させました。彼は不正行為をして罰金を科されたため,公明正大な人が彼に代わってその地位に就きました。文書発送基地の監督はその地域を訪問し,しゅう長と顧問全員が年4回開く集会で彼らと会見しました。その結果,地域全土で聖書研究のセンターを建てる許可が下りました。短期間にその地域の各地で草ぶきの小屋やそれよりがんじょうな建物がにょきにょき建てられ,村長たちでさえ研究に定期的に参加する姿が見受けられました。そのうちの14名は自分が真理を受け入れたことをしゅう長に告げました。しかもそのような人の数は増加し続けたのです。

バロツェランドでもしゅう長や皇族に対して優れた証言がなされました。というのは,2,800名の伝道者からなる巡回大会に出席するためにそこへ来ていた協会のヨーロッパ人の代表が,バロツェの最高支配会議であるコートラに話をする許可を得たのです。それで彼は王座の首長の隣りから,証人の業が異なっている理由と証人の音信の内容について説明することができました。そこにはしゅう長たち,家令および王室の人々が列席していました。その後,伝統に従って皇室の太鼓が打ち鳴らされました。

皇室の老人のひとりで真理を受け入れた人は,あまりの高齢で歩けませんでしたが,毎日ロバに乗って自然にできた小道の分岐点に行き,通る人々に呼びかけて彼らに証言していたものです。敵対者はその老人のロバをやりで殺しました。老人はたいへん悲しみましたが,ある伝道者から別のロバをもらったのでその業を続けることができました。

そのころ,関心を抱く人々にとって大きな負担となっていたのは文盲ということでした。多くの伝道者は聖句や聖書の話を暗記しました。とはいえ彼らは以来ずっと協会が取り決めた読み書きのクラスの助けによって自分たちのことばを読んだり書いたりすることを学んできました。

1947年初め,南アフリカ支部の監督はギレアデ学校からケープタウンへ戻る途中ロンドンの英植民地局を個人的に訪れていろいろ説明しました。それを確証するため政府に一通の嘆願状を提出しましたが,それには,有益なクリスチャンの教育活動であるということを知っている聖書文書配布の業の禁止処置を遺憾に思う4万909名の人々の署名が記されていました。その嘆願に答えて,北ローデシア政府は文書に関する見解を再検討することを約束しました。そして6月19日に,良く知られた「神の王国は近づけり」,「近づいた世界の再建」など数点が禁止文書のリストから除かれました。しかし,協会の公式の雑誌である「ものみの塔」は依然として禁止されていましたから,その不可欠な霊的食物を兄弟たちが入手できるようにする努力をゆるめることはできませんでした。事実,1947年の末には252の会衆に6,114名の良いたよりの伝道者が交わっていたので,その必要は以前にも増して大きくなっていました。

かつては道もなくマラリヤで悩まされた未開墾地のコッパーベルトは,1948年までに約2万5,000人のヨーロッパ人の本拠地となっていました。それは主として鉱山組合を増やすためでした。彼らは離れて来た国の生活水準よりも良い暮らしをしていました。同年まで,それら英語を話す人々に対して伝道することはほとんどできませんでした。

組織は援助を受ける

北ローデシアの組織は幸いにもこの段階で援助を受けました。ギレアデを卒業したふたりの宣教者,ハリー・アーノットとイアン・ファーガソンが派遣されたのです。アーノット兄弟が到着して間もなく,1948年1月にノア兄弟とヘンシェル兄弟は初めて北ローデシアを訪れました。

ノア兄弟とヘンシェル兄弟は,その訪問中にジョージ・フィリップスに伴われ,4日間にわたって開かれたルサカの大会で数時間を過ごしました。その大会はあるヨーロッパ人の婦人の地所で開かれました。彼女は,証人の敵からの圧力があってもその土地を使わせてくれるという約束を守ったばかりか,大会にも出席しました。そこは全く絵のように美しい環境でした。兄弟たちは粘土を集めて演壇を築きました。そこに柱が打ち込まれ,演壇を覆う草ぶきの屋根が作られました。その時まだ聴衆は,姉妹たちが講演者の左,兄弟たちが右という具合に分かれていました。ノア兄弟は兄弟たちがうたう賛美の歌にたいへん感動して,それを録音してほしいと頼みました。4日間の大会中,集まった3,103名の聴衆に対してシロジ語の「神の王国は近づけり」という小冊子が発表されました。

ノア兄弟は,協会が北ローデシアへ発送したいと考えている文書中のあるものに対して課された禁令のことで,1948年1月16日に内務長官および法務長官と会見しました。そのふたりが確信するところでは,30日から60日以内に禁令は解除され,協会の業にそれ以上の制限は加えられないということが告げられました。それによって協会の会長と秘書の訪問はふさわしい最高潮を迎えました。

ギレアデの訓練を受けた宣教者たちの特別な援助を得て,ヨーロッパ人の区域にもより良い注意が払われました。1948年の半ばにハリー・アーノットは宣教者としてルアンシャという町に任命され,しばらくニアサランドにいたことのあるイアン・ファーガソンはチンゴラに割り当てられました。間もなく戸別訪問による伝道が集中的に行なわれるようになり,胸の躍るような反応がありました。処女区域では聖書や聖書文書が相当量配布され,家庭聖書研究は急速に発展しました。1年足らずでふたつの小さなヨーロッパ人の会衆がそれらの町で設立され,ムフリラやキットウィーまで伝道の業を拡大する取決めがなされていました。

ギレアデ学校の卒業生の派遣は,進歩した神権組織上の益の幾らかを中央アフリカの全区域にあるエホバの民の会衆に伝達する優れた機会とみなされました。旅行する代表者全員と,その奉仕の資格があると思われる開拓者たちは“ミニ”ギレアデ学校の訓練を受けるためルサカの支部事務所に招待されました。巡回監督のためのその学校では,当時ギレアデ学校で教えられていた組織に関する基礎知識と聖書の教えの一部が取り上げられました。教科科目は,聖書に含まれる様々な論題,神権的な記録の付け方,神権宣教および関係諸事項でした。筆記による復習が行なわれ,夜の勉強のために宿題が出されました。また,アフリカ色豊かな“卒業式”さえありました。

協会の会長がアフリカのこの地方を初めて訪問した後,兄弟たちは,自分のことばで読み書きを習うことに普通以上の注意を払い,そのようにして神のみことばを学んだり,良いたよりを他の人々に伝道するより良い資格を身につけるよう励まされました。間もなく支部の監督は,各会衆に読み書きの群れを設ける取決めを作りました。最初に,政府の教育委員会から入手した教材がそうした読み書きのクラスの基礎として用いられました。授業時間はしばしば会衆の集会の延長となり,大部分の生徒は会衆の姉妹たちでした。「各人がひとりを教える」というのが,読み書きのできる人を増やす運動を促進する合い言葉となりました。夫は妻を教える時間を取るように勧められ,すでに読み書きのできる他の人々は時間を作って会衆内のひとりの人を教えるように励まされました。

新しい支部事務所

1948年9月1日に支部事務所が設立され,支部の監督はルエレン・フィリップスでした。当時北ローデシアには232の会衆があって,1万1,600人を上回る伝道者がいました。「ものみの塔」誌に対する禁令は解除されましたが,幾つかの書籍は依然禁止されていました。

北ローデシアの新しい支部は北方および東方の幾つかの区域を監督するようになりました。その中には,8月31日まで南アフリカ支部の管轄下にあった,当時ベルギー領コンゴとして知られていた区域も含まれていました。その時までベルギー領コンゴにおいて王国の業はどのように発展してきたのでしょうか。

混乱にもかかわらずクリスチャンの進歩が見られる

ベルギー領コンゴ(現在ザイールと呼ばれる,コンゴ共和国,キンシャサ)は,テキサス州とアラスカを合わせたよりも大きい,233万平方㌔を上回る広大な国で,2,300万を超す人口を有しています。この国はザンビアとアンゴラの北方に位置しており,コンゴ川流域の広いくぼ地が地形の主な特色をなしています。気候は全般に高温多湿で,国土の大部分は密林です。1885年にベルギーの統治下に入り,その結果公用語はフランス語,主要な宗教はローマ・カトリックになりました。

1940年代になって初めてコンゴで王国伝道の業が組織的に行なわれるようになりました。しかし,偽りの「ものみの塔運動」すなわちキタワラが起こったのです。グレスチャットが著した「キタワラ」と題する本(ドイツ語)はその71ページでこう述べています。「村中でものみの塔に入っていると唱えるところが幾つかある。といってもそれは単に,彼らが水に浸されてバプテスマを受け,世の終わりに関する様々な考えをばく然と受け入れ,ある仕方で生活するなら神は地上で報いを与えてくださると考えているということにすぎない」。

他の場所におけると同様コンゴでも,土着の「ものみの塔運動」を指すのにしばしば「キタワラ」という土地のことばが使われました。キタワラとは,「タワー」という語に「キ」という接頭語が付いてそれがなまったもののようです。ある人々は「ワッチタワー」が明らかに土地のことばになまった,「ワティキタワラ」というそれより長い表現を用いました。「Watch Tower Society」と「Watchtower」(運動)もしくはキタワラは非常に類似しているので,知らない人が両者を関連付けるのも容易に理解できることです。真理の敵たちは政府当局者に偏見を抱かせたり,エホバの真のしもべに困難をもたらしたりするためにその類似性をどれほど喜んで繰り返し用いたかしれません。

暴動,反乱,部族の衝突,そして実際,土着の人々の間で起きたいかなる目ざましい出来事も,すぐに「ものみの塔」運動と結びつけられることは少なくありませんでした。その名前は,公務員と当局者たちに関する限り悪臭となりました。それがその地域においてエホバのみ名とエホバの真の組織にどれほど非難をもたらしたかは想像しがたいことではありません。

先の説明の通り,そうした混乱は元々20世紀初頭のニアサランドにおけるジョセフ・ブースと彼の追随者の活動によりました。明らかにその教えは南へ西へと広がり,南北ローデシアへ,またコンゴへと入って行きました。

その後数年にわたって,協会は事実を説明した手紙をコンゴの当局者に送りました。しかし,当局者たちは,幾年もの間,「ものみの塔」という名前を用いた土着の宗教運動の活動とエホバの証人の業とを関連付ける立場を取りました。教会の影響と圧力はそうした事情と大いに関係がありました。

協会は円熟した代表者たちをコンゴに派遣する努力を定期的に絶えず払いましたが,それは成功しませんでした。指導と援助が必要とされました。しかし,エホバの組織はその是非とも必要とされていた援助を送る許可を与えられませんでした。そして何年間も当局者はエホバの真のしもべと土着の「ものみの塔運動」とを区別することができず,またそうすることを願いもしませんでした。

ベルギー領コンゴで迫害されている証人たちのために調停に入り,業に対する禁令を解除してもらうように努力するため,北ローデシアの文書発送基地の監督ルエレン・フィリップスがそこへ派遣されたのは1948年初頭のことでした。彼は総督や政府の他の役人と個人的に会見して証人の業を説明し,証人の信じている事柄と原則がキタワラと呼ばれる偽りの「ものみの塔運動」のそれとはどれほど違っているかを示すことができました。1948年3月15日付と4月7日付の公式の手紙は,事件が記録されるようそれら権威者に提示されました。会見中,総督は物思いに沈みながら,「そしてもしわたしがあなたを援助したら,わたしの身にどんなことが起こるだろう」と尋ねました。それは非常に適切な質問でした。というのは,コンゴはほとんど完全にローマ・カトリック教会の支配下にあったからです。

エホバの民の業がついに認められたとは何という祝福だったことでしょう。支部は,それ以上の混乱を避けるため,「ものみの塔協会」の代わりに「エホバの証人」という名称を公式名として業を開始しました。今や,偽りの「ものみの塔運動」に交わっている人々と真の証人とを区別することは速やかに行なわれました。

モーリシャスにおける顕著な発展

1933年に全時間の王国伝道者が訪問して成功を収めた後,特別な代表者たちが再びモーリシャス島を訪問するまで18年間の空白がありました。1952年になって初めて,「エホバの証人の年鑑」は,ふたりのモーリシャス人が第二次世界大戦中兵役に服している間にエジプトで王国の業に接したことを述べています。エジプトにおける伝道者たちの忠実な奉仕は実を生みました。そのふたりは軍隊にいましたが,非常な関心を持つようになり,協会のケープタウン支部に手紙を書いて文書を送ってもらい始めました。やがてふたりは仲間の兵士数人にも関心を起こさせました。モーリシャスに戻るやいなや,彼らは『光を輝かせる』ことに努め,実際1951年中にケープタウン支部へ報告を送りました。

その同じ年,ふたりのギレアデ学校卒業生,ロバート・ニスベットとジョージ・ニスベットは,業を永続的に確立するためモーリシャスに着きました。先にロバート・ニスベットが訪問して以来18年間に大きな変化が起こりました。もはや集会は禁止されておらず,教育は非常に改善されていました。マラリヤの危険は大いに除去され,生活情況は向上していました。教会は政治上の支配を失ってはいましたが,依然として強い影響力を持っているようでした。

ふたりのギレアデ学校卒業生は,1933年の訪問のことを覚えていて,再びエホバの組織と接触したことを大いに喜ぶ非常に大勢の人々を見いだしました。ある男の人はやって来た宣教者に,「ラザフォード判事はどうしておられますか」と尋ねました。このことは,9年ほど前にラザフォード兄弟が亡くなって以来,島の人々が諸発展を遂げた協会と全く接触していなかったことを良く表わしています。その男の人は「黄金時代」誌の1934年7月4日号と,良く読まれてぼろぼろになった「ラ・ハーペ・ド・ドュ(『神のたて琴』)」と題する本の18年前の版を見せました。彼は再び雑誌を予約し,家庭聖書研究を始めました。

ロバート・ニスベット兄弟の報告によれば,最初に関心を持った人々の中にふたりの姉妹,すなわちソベン夫人とヴァチャー夫人および彼女たち各の家族がいました。その人たちが最初の会衆の基礎となったのです。したがって,1951年に全世界の報告の中でモーリシャスは南アフリカの項の中で扱われ,それによると伝道者最高数は8人,開拓者の平均は2名でした。翌年までに伝道者最高数は13人に増えました。僧職者たちも依然活発に働き,人々に配布した文書をしきりに集めたり,破門すると言って人々を脅したりしました。

モザンビークを一べつする

本土に戻って,ポルトガル領東アフリカとしても知られたモザンビークで少し立ち止まり,そこでの進展の様子を見てみましょう。先に述べた活動を除けば,ヨーロッパ人を対象にした業はまだほとんど行なわれていませんでしたが,アフリカ人の間では進歩があったように思われます。業は,特に北部で着実に拡大し続け,1948年までに伝道者の数は4人の全時間野外奉仕者を含めて398人に増加しました。一方では,迫害が絶えず激しさを増し,ある人々は逮捕投獄されたり,流刑地や野営小屋へ追放されました。南アフリカ支部から送られる文書はモザンビークに着くと同時に押収されました。

スワジランドで「その道」を奉じる

スワジランドという小さな国はモザンビークに隣接し,他の三方をトランスヴァール州に囲まれています。スワジランドの西側の大部分は,美しい緑に包まれていますが,山の多い高地です。東側は起伏のほとんどないいなかになっていて,いばらの茂みに覆われています。そこは長い干ばつの被害を受けることがたびたびあります。

以前何十年もの間,スワジランドを訪れた開拓者たちは王ソブーザ二世に快く受け入れられましたが,組織を確立することはできませんでした。時を経るにつれ,ヨシュア・P・ムフロンゴという人が「この道」に入りました。(使徒 9:2)エホバの証人の教えを学んでみたいとの願いを彼に抱かせたのは,彼が通っていた学校の校長先生でした。その校長先生は,J・F・ラザフォードが地獄を信じたり,先祖崇拝をしたりしないようにと人々に教えていることを生徒たちにたびたび話しました。それでヨシュアはエホバの組織についてもっと学びたいと願うようになったのです。ところが,政府が証人の業をやめさせ,証人の文書を禁止したと聞いて彼は驚きました。たまたまヨシュアはヨハネスバーグで伝道者となっていたおばを通して様々な書籍を入手しました。間もなく彼と彼の母親は他の人々と良い音信を分かち合っていました。まだ生徒であった1943年中に彼は水の浸礼によって献身を表明しました。マコフィ・ングルー兄弟はその孤立した伝道者たちを訪問した時のことを良く覚えています。ヨシュア・ムフロンゴは学校を卒業したらすぐに開拓者になりたいと言ったので,ングルー兄弟はそうするように励ましました。確かに彼は後に開拓奉仕に入り,やがて,新しく設けられたスワジの巡回区の最初の巡回監督として奉仕しました。

1947年から1950年にわたる4年間に驚異的な発展が遂げられ,この国の伝道者の合計は5人から60人に増加しました。

この期間中スワジランドでは奇妙な事態が持ち上がりました。第二次世界大戦中にものみの塔協会の文書に課された禁令は引き続き効力を有していました。その布告によって,ものみの塔協会が発行したいかなる文書を配布することも罪となりました。矛盾したことですが,ソブーザ王自身は協会の出版物のほとんど全部を所有していることを自慢にしていました! 協会の文書に対する禁令は良いたよりが孤立した地域に広がるのを妨げました。兄弟たちや関心のある人々が協会の文書を所有していることを発見されると,警官からしばしば残酷に打たれたり,虐待されたりしました。当時南アフリカと英国保護領で唯一の地域監督であったM・E・バートレット兄弟は,1951年7月スワジランドを2度目に訪問していた時にその法律で初めてちょっとした問題を起こしました。禁止された文書を輸入したかどで告発されたのです。地域委員兼判事はバートレット兄弟に対してたいへん友好的で,協会の文書に対する禁令は時代錯誤であると考えました。彼はバートレット兄弟に,兄弟が持っている中で「一番問題となる」雑誌を数冊分けてほしいと愉快げに言いました。9月に行なわれた最終的な聴問会で,別の判事はバートレット兄弟を有罪とし,1ポンドの罰金を課しました。

聖書によれば一夫一婦制でなければならないということの大要が兄弟たちと関心を持つ人々に対してはっきり述べられたのも,地域監督のその訪問中のことでした。大部分の人々は神の完全なご意志と一致して生活を変えることを喜んで行ないましたが,ひとりの主宰監督は神の標準を受け入れることを拒み,少数の人々を永遠の命のことばから引き離しました。しかし,神を愛し,神の是認を追い求める人々は正しい原則にしっかりと立ち続けました。

ベチュアナランドにおいて禁令下で奉仕する

南アフリカを突き抜けて西に行くと,現在ボツワナと呼ばれているベチュアナランドに来ます。南アフリカ,南西アフリカおよびローデシアの間に位置し,その大部分が半砂漠であるこの国は約64万7,500平方㌔の面積を有しています。土地の人々はそのほとんどが非常に貧しく,主として家畜を飼育している外,豆,もろこしその他を栽培しています。また,食物を補うために狩猟も幾らか行なわれています。1970年の推定人口は63万人を上回っていました。

ここは1884年に英国の支配下に入りましたが,1967年に独立を勝ち得てボツワナとして知られるようになりました。区域の大部分は,様々な部族のしゅう長がその部族のおきてを敷き,配下の人々に恐るべき権力を振るう,幾つかの特別保留地に分割されています。それらのしゅう長たちはおおかたエホバの証人の業に敵対していました。

1929年に真理の種は初めてこの暑くてほこりっぽい国にまかれ始めたようです。ひとりの伝道者がその年ベチュアナランドで活発に奉仕しました。しかし,それはわずか2か月間にすぎませんでした。その後,1932年の終わりごろに南アフリカからふたりの開拓者がこの国を訪れ,アフリカ人に対しては行なわないという条件で宗教的な事柄を話すことが許されました。それにもかかわらず,1,676冊の文書がヨーロッパ人に配布されたのです。

1941年,戦争ヒステリーのために,当時そこには証人がひとりも住んでいなかったにもかかわらずベチュアナランドで協会の文書の輸入が禁止されました。年を取ったカーマしゅう長は,3つの宗教団体だけがベチュアナランドで教会を建てる権利を持つという法律を制定しました。その3つの宗教とはロンドン・ミッショナリー・ソサイアティー,セブスンデー・アドベンチストおよびローマ・カトリックです。

労働契約の下に人々が南アフリカとの間を行き来することはひんぱんに行なわれました。南アフリカの比較的大きな都市で働いた人々はそこで真理を聞き,ベチュアナランドへ戻って自分が聞いた良いことを話したものでした。また,ローデシアの兄弟たちやニアサランドの兄弟たちが,フランシスタウンといった場所で職を見つけ,そこで真理を語りました。したがって,1946年までにベチュアナランドには平均16名の王国伝道者がいました。

1950年代の初頭,協会は当局者に証人の立場を明らかにするためベチュアナランドへ代表者たちを派遣しました。が,あまり成功しませんでした。

1952年までに伝道の業に携わる人々は国中で平均114名いました。その後数年間引き続き増加がみられましたが,いろいろな問題も増えました。兄弟姉妹たちの中には政府に結婚を正式に届け出ていない人々がいましたし,新しい人々の多くはまだ道徳的にたいへん乱れていました。そうした事柄は支部からの手紙や訪問する監督たちの援助によって解決されました。今日組織の状態は霊的にも道徳的にも健全です。

セントヘレナにおける著しい増加

大西洋上,南西アフリカの海岸からかなり沖合いにある小さな孤島セントヘレナに再びやって来ます。島の少数の伝道者から時折り報告が寄せられ,協会はたまに注文を受けた文書を送りました。しかし,セントヘレナの証人たちは非常に多くの援助と訓練を必要としていました。したがって,1951年5月,南アフリカ支部はしばらくセントヘレナで奉仕するようJ・F・ヴァン・ステデンという開拓者の兄弟を派遣しました。

この小さな島の郵便制度は非常にお粗末です。それでだれもヴァン・ステデン兄弟を出迎えに来ませんでした。しかし,彼はついに,退職した警察官トーマス・スキピオの息子,ジョージ・スキピオに会いました。ヴァン・ステデン兄弟はその出会いの印象を次のように述べています。「わたしはそれでほんとうに安心しました。彼は,わたしが探していた当の人,すなわち彼の父親のところへわたしをすぐに連れて行ってくれました。彼らが長い間待ちに待っていた援助を得て喜ぶのを明らかに見るのはとてもすばらしいことでした」。ヴァン・ステデン兄弟は直ちに10人か12人ほどの小さな群れの集会を取り決めました。最初,彼は英語で考えを述べるのが困難でしたが,2,3週間後にはずっと流ちょうになりました。彼は,その人々が島のあちこちで「野外集会」をしていただけであることを知りました。兄弟たちは2台のバイオリンと1台のアコーデオンからなる小さな楽団を持っていて,それが野外集会の初めに王国の歌を演奏しました。人々が集まると,兄弟たちは即座の話をし(ふつう個人的な証言),いろいろな兄弟たちがそれにあずかりました。

兄弟たちが適正に組織されるよう援助するために多くのことがなされねばならないのは明らかでした。したがって,ヴァン・ステデン兄弟はすべての集会を司会することにすぐ取り掛かりました。土地の兄弟たちはすぐれた認識を示し,心から支持しました。ジェイムスタウンの一老婦人は自分の家の大きな部屋を王国会館として提供し,レベルウッドの別の家族も家をもうひとつの集会場所に提供しました。それらの集会は出席者全員にすぐれた印象を与え,その結果,初めて来た人々のうち数人は2度と再び欠席しなかったようです。こうして彼らは真理を学び,その後個人的な聖書研究を一度もせずにバプテスマを受けました。

しかし,集会に行くことは決して容易なことではありませんでした。小型の自動車を持っていたジョージ・スキピオは3人の人をそれに乗せ,かなり行った地点で降ろしました。その3人はそれから先歩いて行き,一方ジョージは引き返してもう3人を乗せ,ある所で降ろして再び引き返しました。彼はすべての人々を集会に連れて行くためにふつう午前中の大部分を費やしました。集会後同様の手順で人々を家に送りました。そのため彼らは時にどしゃ降りの中を歩き,ずぶぬれになって遅く家に着いたものでした。しかし,彼らは深い満足と心からの喜びを味わったのです。

ヴァン・ステデン兄弟は間もなく土地の兄弟たちを自分と一緒に戸別訪問による業にあずからせ,彼らを良く訓練しました。兄弟たちがあまりにも早く戸口で良いたよりを効果的に伝道するようになったので,ステデン兄弟はびっくりしました。

彼はセントヘレナに来て3か月後の1951年8月に浸礼式を取り決めました。適当な場所がなかなか見付からなかったので,池を掘ってセメントで固め,そこに水を入れることにしました。ところがその池に水をはる手間がはぶけたのです。というのは,浸礼式の前の晩に大雨が降り,翌朝池は満々と水をたたえていたからです。ヴァン・ステデン兄弟がバプテスマの話をしてバプテスマ希望者に起立するよう求めたところ,26名の人々が質問に答えるために起立して彼を驚かせました。彼はこう語っています。「わたしの喜びの杯は全くあふれ流れ,エホバがわたしを遣わしてそうしたすばらしい特権を得させてくださったことに対して心から深く感謝しました。話をした後わたしは冷たい水で26人全員にバプテスマを施しました」。そのバプテスマの後,小さな会衆がジェイムスタウンに作られました。2,3か月後にはレベルウッドにも会衆が発足しました。

王国伝道者たちのそうした活動や成果は敵の行動を誘発しました。土地の英国国教会の司祭は激しく反対し,関心を抱いていた人々のうち数人を真理に反対させることに成功しました。またセブンスデー・アドベンチスト派の牧師はヴァン・ステデン兄弟に議論を吹き掛けましたが,彼がそうしたことはたいへん気の毒なことだったでしょう。なぜなら,彼の論議の多くは新しい伝道者でも容易に反ばくできたからです。しかし,一番困った問題は警察部長からもたらされました。その人は,おまえを島から追っ払ってやると言って絶えずヴァン・ステデン兄弟を脅しました。同兄弟は次のように語っています。「彼は月に一度必ずわたしを法廷に連れて行きました。彼とわたしとたったふたりだけでです。彼はわたしに尋問し,その活動をやめるようにと勧告しました」。

しかし,ヴァン・ステデン兄弟や土地の伝道者たちはそうした反対によって少しも落胆しませんでした。兄弟たちが得た優れた経験は,天気が悪かったり岩だらけの土地で経験する苦労やあらゆる反対を補って余りあるものでした。たとえば,ある朝ヴァン・ステデン兄弟とジョージ・スキピオ兄弟が一軒の家に近付くと,男の人が聖書の朗読をしているのが聞こえました。その人がイザヤ書 2章を読むのがはっきり聞こえたので,4節のところに来た時にふたりは戸をノックしました。ふたりは親しみ深い年配の男の人に招じ入れられ,イザヤ書 2章4節を“糸口”にして王国の良いたよりをその人に伝道し始めました。彼らは研究を直ちに取り決めました。その研究はやがて定期的に司会され,遂にその老人はエホバに献身しました。

セントヘレナで過ごした13か月の間ヴァン・ステデン兄弟は多忙を極めました。週に18件の聖書研究を司会するに至った時には特にそうでした。彼は1952年6月にセントヘレナを離れて南アフリカに戻り,ケープ州東部で巡回の仕事をしました。セントヘレナに滞在した13か月間に,それまでに設けられていたふたつの小さな会衆の伝道者は41名の最高数に達したのですから,彼は立派な働きをしたといえます。

南アフリカにおける神権的な増加

ではここで南アフリカ連邦に戻り,25年前の南アフリカにおける事情や兄弟たちが経験した問題がどんなものであったか幾らかお伝えしましょう。「フンクとワグナルズ標準参考百科事典」第24巻は「南アフリカ連邦」の項で1956年6月の集団地域法にふれ,それを「4つの主要な人種グループ,すなわち,ヨーロッパ人(白人),アフリカ人(ニグロ),カラード(白人との混血)およびアジア人(インド人を含む)をそれぞれ特定の地域に分け,他の集団をそこから排除するためのものである」と述べています。ある人々はそれによって伝道の業に関する限り兄弟たちが問題を抱えるであろうと期待しました。ところが,兄弟姉妹たちにとっては,自分のことばで自分と同じ人種の人々に教えるほうがもっと容易でした。なるほどその法律は,ひとつの人種グループの人が他のグループの人に宗教に関する事柄を話させないようにすることを試みるものでありませんでした。しかし,聖書が勧めている愛に満ちたクリスチャンの交わりということになると,兄弟たちは主に各の人種グループ内で親交を楽しみ,同時にローマ 13章の原則に従っています。良いたよりは伝道されており,どの人種グループの人々も真理を学び,必要なクリスチャンの交わりを楽しんでいます。

エホバの証人は何年間か,借りた集会場を王国会館にしてきました。ところが,1948年にケープタウンの近くのストランドで奉仕するよう割り当てられた一特別開拓者は,南アフリカで最初の王国会館の建築を組織する特権を得ました。それは1949年と1950年のことでした。土地の伝道者であるゴードン湾のヴァン・ダ・ビル姉妹はその計画を経済的に大いに援助しました。ベテルの兄弟たちはそれほど遠くないケープタウンの支部からやって来て献堂式のプログラムを助けました。支部の監督,G・R・フィリップス兄弟は,『建物をひろうするためでなく,さらに王国会館を建てるよう兄弟たちを励ますために,その新しい会館に車をつけて国中引き回し』たいものですと語りました。それ以来,全国で多くの王国会館がヨーロッパ人とカラードの会衆によって建てられました。

その間にアフリカ人の兄弟姉妹たちに対して増々多くの援助が与えられました。1949年1月1日はズールー族の兄弟たちにとって重要な日でした。その日にズールー語の「ものみの塔」誌が初めて出されたからでした。その時創刊号はケープタウンの協会の事務所にある小さな手動の複写機で印刷されました。それは今日の「インカバヨクリンダ(ズールー語の『ものみの塔』)」のように鮮明で美しい雑誌ではありませんでした。しかし,その雑誌がズールー族の兄弟姉妹たちに時宜にかなって食物を備えたことに少しも変わりはありません。

大会に出席する兄弟たちのために初めて特別列車が取り決められたのもその時期のことでした。たとえば,1949年にヨハネスバーグからプレトリアの大会に行く「エホバの証人専用」列車には750人分の座席がありましたが,千人の乗客でそれは満員になりました。その人たちはおよそ12の異なった部族のアフリカ人だったにもかかわらず,手に負えない事件は1度も起きませんでした。その旅行は鉄道職員に大きな証言となったに相違ありません。それら様々な部族のアフリカ人はどのようにして仲良くやって行くことができたのでしょうか。その人たちの思いを作り変えた真理の力がなかったなら,アフリカの人々の間できわめて普通に見られる,部族間の争いがきっと起きたことでしょう。各部族は自分たちの方が優れていると考えているので,“派閥争い”がしばしば起こるのです。

1949年に「神権組織に関する助言」と題する小冊子が発表され,組織はさらに強められました。業を一層促進するために南アフリカには今や11人のギレアデ卒業生がおり,伝道者のほぼ10%は全時間の伝道活動に携わっていました。

その年の記念式には6,766名が出席し,265名は表象物にあずかりました。しかし,さらに大きな事柄のために舞台はセットされ,業に調整が加えられました。ケープタウンの小さな印刷所は同年640万部を上回る印刷物を生産しました。それは生産量の新最高数であり,8か国語からなる13万5,000冊近い雑誌や様々な種類の小冊子62万5,000部が含まれていました。

1949年と1950年に読み書きのクラスが始まり,1週間に3日か4日開かれました。また,クラスはズールー語,セソト語,ホサ語,ツワナ語,スペディ語および英語で司会されました。人々が読めるようになるまでには授業を約30回受けねばなりませんでした。

アフリカ人の部族で広く習慣となっている一夫多妻主義はアフリカの多くの兄弟たちにとって現実の問題となって来ました。1948年にノア兄弟が訪問した時,一夫多妻主義はアフリカの兄弟たちと話し合われた主要な点のひとつでした。最初,新しい人々の間には,最も愛している妻,大抵は一番年下の妻を残すという傾向がありました。しかし,後に協会は,最初に妻として迎えた女性を残して他の女性をすべて去らせるのが聖書的にふさわしいことを指摘しました。

1950年にニューヨークで開かれた国際大会に,南アフリカから41人が出席でき,9人はものみの塔ギレアデ聖書学校の16番目のクラスに入るよう招待されました。しかし,その国際大会に出席できなかった人々は,同年10月にリーフにおいて5日間にわたって開かれた「増し加わる神権政治」全国大会で同様の霊的な宴を持ちました。その大会には南アフリカ連邦,英国保護領,南西アフリカのあらゆる場所から6,000名を越す伝道者が出席しました。神権政治の明らかな証拠として,水のバプテスマの希望者が855名いました。公開講演には1万185名が出席しました。新たに発表され,兄弟たちを深く感動させた文書の中に「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」がありました。

1951奉仕年度中に2,000名を上回る人々が献身を水のバプテスマによって象徴したことは神権政治が増し加わっていたことをさらに裏付けるものでした。幾つか新しい会衆が作られ,当時の伝道者最高数9,586名が交わっていた43の巡回区を世話するためにもうひとつの地域が組織されました。

支部事務所の移転

アフリカ南部の業の歴史上大きな里程標となった事柄のひとつは,1952年の初めに協会の支部がケープタウンからエランズフォンテインに移転したことでした。1917年以来,業は区域の最南端にあるケープタウンから指導されていました。今や幾つかの理由から支部をリーフに移す必要が感じられました。南アフリカの人口はリーフに最も集中していて,その結果兄弟たちの大多数はヨハネスバーグから約160㌔以内にいました。南アフリカ支部はアフリカ南部にある他の支部のためにも印刷をしていましたから,そうした活動を行なって行くのにリーフは比較的中央に位置しており,それらの国々へ鉄道で輸送する際大きな節約となりました。

ノア兄弟とヘンシェル兄弟が1948年にこの国を訪れた時,エランズフォンテイン駅と郵便局に近いアクティヴィア公園のジャーミストンという新工業地帯の二箇所に土地を購入することが決定されました。当時,その地域は開けていませんでしたが,その決定は後にたいへん賢明な決定であったことがわかりました。そこは,南アフリカ最大の鉄道連絡駅ジャーミストンの中心部からわずか8㌔ほどの所にあり,南アフリカ連邦最大の都市ヨハネスバーグからわずか16㌔,国際空港ジャン・スムッツからちょうど8㌔ほどの地点にありました。しかし,土地を購入した町内会の商社に技術的問題があったため建築の予定が遅れ,やっと移転の運びとなったのは1952年3月末ごろでした。

移転がベテルの家族にとってどれほど大きな変化であったかを知るためには,それ以前の状態を考えてみなければなりません。ケープタウンの事務所や工場で働いていた兄弟たちはベテルの家族としていっしょに働いていませんでした。事実,「ベテル」という表現はケープタウン支部について使われることはめったになく,普通「事務所」と呼ばれていました。フィリップス兄弟姉妹は小さなアパートに住んでいましたが,家族の他の成員はケープ半島中のあらゆる伝道者の家を宿舎にしていました。ある兄弟は毎日仕事の行き帰りに約16㌔の道のりを汽車で通わねばならず,他の人々はバスを使ったり,歩いたりして通いました。朝食は各人が住んでいる所で取りました。宿舎がすぐそばにある人は昼食の時急いで家に帰りました。家に帰れない人は簡易食堂で食事をする費用として1日当たり1シリング6ペンスが余分に与えられました。夕食は家に帰って取りました。ベテル家族の「ものみの塔」研究は一度も行なわれたことがありませんでした。

毎朝7時45分に家族は小さな工場の更衣室に集まりました。その日の日々の聖句を討議し,祈りを捧げた後,8時に仕事を始めました。日々の聖句の討議に間に合うために,ある人々は6時前に起きてすぐ出掛けなければなりませんでした。

エランズフォンテインの新しい支部の建物は,アクティビア・パークの町に建てられた最初の建物のひとつでした。2階建てのその建物は約1,899平方㍍の床面積を持ち,1階には事務所,工場,発送部門,洗たく室およびボイラー室があり,家族は22の快適な部屋に住みました。加えて,家族の便宜のために2階には台所,食堂および図書室がありました。

新しい工場には付加的な印刷設備がたくさん据え付けられました。大きくて新品のG.M.A.平版印刷機がスウェーデンから到着しました。その印刷機なら,ケープタウンで以前に使われていた紙の4倍も広い紙を取り扱うことができました。もう1台のライノタイプ,大きな断裁機および中とじ機が据え付けられました。今やアフリカの幾つかの言語で「ものみの塔」誌を印刷することが可能になりました。読者のみなさんはズールー語の「ものみの塔」誌が以前に複写機で作られたことを思い出されるでしょう。新しい印刷機や設備が運転されるようになると,「ものみの塔」誌は8つのことばで,また「目ざめよ!」誌は3つのことばで印刷され,そのほかに1年間の「王国奉仕」が8つのことばで印刷されました。

孤立した区域で働く

1952年という年は組織を強化し,兄弟たちを強める時となりました。支部はまた未割当ての区域の運動を実施しました。兄弟姉妹たちは,どこの会衆によっても定期的に奉仕されていない約400の村や町に住む人々を訪問するために幾千時間も費やしました。その結果,1万人を上回る関心を持つ人々の名前が支部事務所に送られ,協会はその人たちに特別の手紙と見本の雑誌を送りました。

約20名のアフリカ人からなるひとつの会衆は,それまで未割当ての区域だった所に行った時に宿舎を得ることで苦労しました。農場主は警察の許可証を提示されない限り証人たちを泊めようとしませんでした。警察の派出所は遠方にあり,時刻も遅くなっていました。それで,その農場主の従業員数人は農場の近くに住むファースト・チャーチ・オブ・クライストの牧師のところへ証人たちを連れて行きました。彼は援助することを拒み,はなはだしく不親切でした。彼の教会員のひとりは同情し,牧師の態度を非難しながら証人たちを近くの空き家に連れて行きました。彼らが落ち着くやいなや警官がやって来ました。ヨーロッパ人の警官はたいへん思いやりがあり,区域の割当てカードを見て励ましてくれさえしました。警官を呼んだのは例の牧師でした。ところが翌朝牧師は態度を全く変え,前の晩の自分の振舞いをわびて教会を公開講演の場所に提供しました。そして自分の“羊の群れ”をその集会に招待したのです。その結果出席者は80名(うち60名は見知らない人々)でした。後の「ものみの塔」誌の研究に全員がとどまりました。しかも,その日文書を求めた人々の中に牧師も混じっていました。その後2回訪問した時に2度とも牧師は教会を公開講演のために提供しました。彼は講演に出席したばかりか,続いて行なわれた「ものみの塔」誌の研究にも出席しました。そうした活動の結果,その地域には活発な伝道者がひとりしかいなかったのが,遂に7名になりました。

有益な訪問

1952年に南アフリカにおける業の歴史上初めて伝道者の合計が1万人台を超えました。その年は南アフリカの王国の業の発展にとって確かに多事多難な年でした。その最高潮として,ノア兄弟とヘンシェル兄弟が11月にこの国を訪問しました。ノア兄弟は,地の利を得た良い土地にレンガとしっくいで建てられた2階建ての立派な支部の建物を見てたいへん喜びました。ケープタウンにあった宿泊施設のない小さな事務所とはなんと大きな違いではありませんか。ノア兄弟は建物を見学し,家族の成員すべてに会って喜びました。

2,3日後,ノア兄弟はフィリップス兄弟といっしょにインド洋岸にある美しい近代都市ダーバンを訪れました。彼は人種差別をする土地の規定に従い,3つの異なった場所で話をしなければなりませんでした。ノア兄弟はカラードの集会で15名のインド人が出席しているのを見て喜び,集会後その機会を捕らえて数人のインド人に話しかけました。ダーバンには非常に大勢のインド人が住んでおり,王国の音信はちょうどその時彼らに達し始めていました。

ダーバンのアフリカ人の集会は,日曜日の午後,市の南側にある新しい町ラモントヴィルで開かれていました。その集会でズールー族の兄弟たちがうたった賛美の歌はノア兄弟に深い感銘を与えました。夜にはヨーロッパ人の兄弟たちのための集会が市の中心部にある会館で開かれて435名が出席しました。

ヨハネスバーグに戻ってすぐ,ノア兄弟はバストランド,ベチュアナランドおよびスワジランドを管轄している英国高等弁務官の事務所を訪れました。1941年以来,その3つの保護領に協会の文書を輸入することが禁じられていたからです。ノア兄弟が訪問した時,それらの区域で400名を上回る証人が良いたよりを広めていたので,協会は禁令を解除してもらう試みを再三行なっていました。ノア兄弟は長官の第一書記官と話し合って彼の質問すべてに答え,エホバの証人が行なっている優れた教育の業を明確に述べることができました。にもかかわらず,禁令はその後も数年の間解除されませんでした。

その時までにヘンシェル兄弟が到着し,ガーミストンのヨーロッパ人の会衆が取り決めた励ましとなる集会がその町の公会堂で開かれました。リーフの兄弟たちが大勢来たので出席者の合計は725名でした。

12月8日,ノア兄弟とフィリップス兄弟は南西アフリカのウインドフークへ飛びました。そこにいた3人の宣教者たちはそのふたりの兄弟に会ったことや南西アフリカで一番最初の大会が開かれたことをたいへん喜びました。通常のプログラムには約10名,また公開講演には最高数の25名が出席しました。

エフランズフォンテインに戻ると,ノア兄弟とヘンシェル兄弟は,業を組織することに伴う数々の事柄や処理すべき幾つかの問題に注意を向けました。協会の会長は業の将来に影響する事柄に関して支部を援助しました。彼はまた旅行する監督たちに会い,多くの助言や励ましを与えました。

12月11日から14日にかけて大会が開かれ,ノア兄弟とヘンシェル兄弟の訪問の最高潮となりました。ヨハネスバーグで,座席の区別はありましたが3つの人種をひとつの競技場に集める許可を得ることに成功しました。南アフリカおよび保護領の全土からアフリカ人の兄弟たち全員が出席できるようにするために,個々の人の通行許可や16歳以上の人々の許可を得る膨大な仕事が必要でした。言語の問題があったので,開会のあいさつは3回,つまり,最初に英語,次にアフリカーンス語,最後にズールー語で行なわれました。ヨーロッパ人の兄弟たちは,興味をそそる舌打ち音が入るズールー語によるその話を楽しく聞き,話が終わるとズールー語を話す兄弟たちと同じように心から拍手しました。

ノア兄弟がアフリカ人の兄弟たちに対する話の中で強調した事柄のひとつは,真理をもっと十分に知り,野外でより効果的な伝道者になるために読み書きを学ぶ必要があるということでした。あいにく大会の4日間は大雨でした。事実,ある時など非常な悪天候のため話し手が演壇を離れなければなりませんでした。それにもかかわらず大会は大成功を収め,様々な人種の人々339名がバプテスマを受けました。土曜日の夜の出席者は5,441人に上り,公開講演には7,267人が出席しました。アフリカ人の兄弟たち全員は,与えられたすばらしい助言に感謝して喜びつつ家に帰り,南アフリカの王国の業を推し進める決意をしました。

1952年の下旬までに,それまで,またその時も南アフリカ支部の管轄下にあったすべての国の平均伝道者数は合計5万87名に上りました。21年前の1931年当時の,伝道者が100名という「非常に小さな群れ」が実に驚くほど増加したではありませんか。

新世社会大会

1953年にヤンキー野球場で開かれた新世社会大会に続いて,南アフリカで9つの大会が取り決められました。ヨーロッパ人の全国大会ひとつとアフリカ人およびカラードの8つの地域大会です。ニューヨークで行なわれた主要な講演が南アフリカでも話されましたから,それらの大会で兄弟たちは同じプログラムを楽しみました。その時初めて大会のバッジが使用されるようになり,以来南アフリカのエホバの証人の地域大会と全国大会ではバッジが必ず用いられています。バッジは知り合いになるのをずっと容易にし,兄弟たちの間に幸福で親しみ深いふん囲気を一層かもし出します。その9つの大会はいずれも出席者が多く,「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」と題する公開講演には合計1万1,000人が出席し,634人が浸礼を受けました。

目を見張らせるような新しい映画

「躍進する新世社会」と題する協会の16㍉の映画が1955年に上映され始めた時,兄弟たちは自分たちが用いる文書を生産するのに膨大量の仕事が必要なことを認識するようになりました。その映画を見る人はブルックリンのベテル・ホーム,協会の工場およびギレアデ学校の見学ができました。その映画は兄弟たちに驚くべき影響を与え,組織に対する兄弟たちの認識を大いに高めました。また,彼らは,エランズフォンテイン・ベテルの兄弟たちもいろいろなことばの文書を備えるために一生懸命働いていることに気づかされました。1955年8月に出版されたホサ語の「ものみの塔」誌の場合のように,別のことばの文書が新たに加えられる時は特にたいへんでした。

その映画はエホバの証人に対する偏見を打ち砕く点でも大きな働きをしました。普通ヨーロッパ人の地域監督がなかなか入れない幾つかのアフリカ人の地域で,映画を上映する許可がすぐに下りました。地域監督たちは発電機を携行したので電気のない多くの孤立した区域で映画を上映することができました。大勢のアフリカ人にとってそれは生まれて初めて見る映画であり,彼らはその特徴にびっくりしました。たとえば,アフリカ人の男の子は汽車がある方向に向かってばく進して行く場面から強烈な印象を受けました。それを不思議に思ったその子供は,翌日,自分が住んでいる土地の農場主に尋ねました,あの汽車はいつ戻って来るのですか,と!

カラードの兄弟たちの小さな巡回大会で,200名の人が会場に詰めかけました。暖かい夏の夕べでした。映画は会館の後ろの広い中庭で上映されることになっていました。あたりは上映するにはまだ明るかったので,兄弟たちは王国の歌をうたい始めました。一般の人々は間もなくその美しい歌に引き付けられ,たちまち650名の人々が中庭に集まりました。そして映画をたいへん感謝しました。

ブルックリンから再び訪れる

1955年10月,ミルトン・G・ヘンシェルは南アフリカを再び訪れました。内務省がいったん彼のビザを発行しておきながら後にそれを無効にしたので,最初ヘンシェル兄弟がここの大会に出席するのは不可能に思えました。同兄弟が到着することになっていた日のちょうど前日に,公開講演をしてはならないという条件付きではありましたが,必要なビザが再発行されました。急きょ,数名のベテルの兄弟が講演を準備し,必要な場合はヘンシェル兄弟の代役をするよう割り当てられました。ところが,ヘンシェル兄弟は到着すると内務長官と会見して許可を得たので,万事は最初の計画通りに進みました。その決定にすべての兄弟は大喜びし,ヘンシェル兄弟の代わりに急いで講演を準備した少数の窮地に陥っていたベテルの兄弟たちはほっと胸をなでおろしました。

3つの人種グループは1952年の場合と同様ウェンブリー・スタジアムに集まる特権を得ました。ただし,座席は,法律に従ってまだ人種別になっていました。兄弟たちはヘンシェル兄弟による基調をなす話を聞いてすっかり感動してしまいました。その話は,彼らが王なるイエス・キリストによって凱旋行列として導かれており,それは敵にとっては悪臭ですがエホバにとっては甘い香りであることを確信させるものだったからです。合計1万754人が「間近に迫った,神の王国による世の征服」と題する公開講演に出席し,407名が献身を浸礼によって象徴しました。新しく発表された出版物すべてが日曜日に入手できるようになり,大会はさらに盛り上がりました。それらの出版物は土曜日の夜遅くやっとヨハネスバーグに着いたのです。

神の御心国際大会

南アフリカのすべての証人たちは,1958年7月27日から8月3日にかけてニューヨークで開かれるエホバの証人の神の御心国際大会に注目していました。南アフリカの123名の兄弟姉妹にとり,団体で飛行機に乗ってロンドンおよびニューヨークへ行ったのは実にすばらしい経験でした。

南アフリカでは,ニューヨークの国際大会の後を追って,13の神の御心地域大会が次々に開かれました。その時南アフリカのために新しい出版物が発表されました。その中には「失楽園から復楽園まで」と題する本が含まれていました。それは,家族の聖書研究を司会したり,子供たちが聖書の知識を得るのを援助したりするうえでたいへん役立つことがわかりました。

1958年10月,南アフリカの兄弟たちはマラウィのアフリカ人の兄弟たちが災難に遭ったことを聞きました。大会の宿舎用に建てた大きな施設が猛火で全焼し,兄弟たちは衣類や持ち物すべてを失ったのです。南アフリカの兄弟たちは親切にも2,3日以内に約1,400㌔の衣類を集めてマラウィの兄弟たちに送りました。

もう一つの重要な訪問

翌1959年,ノア兄弟は再び南アフリカを訪問しました。その訪問と一致して大会が取り決められました。1952年と1955年に開かれたのと同様の,あらゆる人種を一同に会した全国大会を開く努力がなされました。ところが,政府当局者は許可することを拒んだため,支部はヨハネスバーグの別々の場所でふたつの大会を取り決めなければなりませんでした。特別列車が1,600人の兄弟たちをナタール州とズールーランドから運んで来ました。南アフリカ連邦および周辺の国々全域から兄弟たちがヨハネスバーグにどっと押しかけました。前もっての宣伝で関心が大いに高められ,幾百人にも上る人々が「神の王国による楽園の地」と題する公開集会および他のプログラムに初めて出席しました。ウェンブリー・スタジアムで開かれたヨーロッパ人の集まりには4,541名が出席し,一方,オーランド共同会館に1万2,648人のアフリカ人が集まりました。その会館は小さ過ぎたので,大きなテントを5つか6つ張って特別会場が設けられました。バプテスマを受けた人々の合計は546人でした。

ベテルが1952年にケープタウンからエランズフォンテインに移転した時,南アフリカの区域には伝道者が平均8,580人いました。が,1959年までにそれが1万4,451人に増加しました。ベテルは狭くなり,ベテル家族はその時の建物では間に合わないほど大勢になりました。ノア兄弟の訪問に先立って,ベテルと工場の増設計画が支部の監督によってブルックリンに送られ,協会の会長によって承認されました。建築工事は会長の訪問中に始まりました。増設部分は元の建物よりも大きく,小ぎれいで立派な建物でした。22の寝室が加えられたほか,ベテル家族のための王国会館もありました。工場の増設部分には新しい機械部門が設けられたり他の新しい設備がなされたばかりか,倉庫にする場所もたっぷりありました。生産量が示している通り,それらすべては確かに必要だったのです。エランズフォンテインの新しい工場が生産を開始した後の1年間に,74万冊を上回る小冊子と雑誌が生産されました。雑誌の生産数だけでも1959年までにほとんど200万冊になっていました。

ところで,その期間中に南アフリカ支部の管轄下にあった他の国々において業はどのように発展していましたか。3つの英国保護領,すなわちバストランド,スワジランドおよびベチュアナランドにおける業を見てみましょう。

バストランドで障害を克服する

普通のアフリカ人にとって真理を受け入れる障害となるのは,先祖崇拝や魔術から離れるのが難しいことです。バストランドの多くの人はクリスチャンであると唱えてはいますが,牧師はその人たちといっしょになって,死んだしゅう長や先祖の「霊」をなだめるための犠牲を捧げます。牧師も平信徒も等しく祈とう師に祈ってもらいます。

オランダ改革派教会が設立した学校のかつての校長ヨシュア・ソンゴアナは,1953年に巡回監督としてバストランド(現在のレソト)に派遣されました。彼と彼の妻がそこへ行った時バストランドはまだ魔術の一環として人をいけにえに捧げることで有名でした。そして,いけにえとして外人がねらわれているといううわさがありました。ソンゴアナ兄弟と彼の妻はエホバにあつくより頼み,エホバは確かにふたりの保護者となってくださいました。ふたりは兄弟たちからもたくさんの親切やもてなしを受けたのです。

マルティ山脈でソンゴアナ兄弟はひとつの孤立した群れから別の孤立した群れに行くのに馬を使わなければなりませんでした。初めて馬に乗ってマコホットロングからボベットに行くのに丸1日かかりました。一行が目的地に着いた時,馬に乗ることに慣れていた兄弟たちは元気でしたが,ソンゴアナ兄弟はすっかり痛れ果て,全身が痛んで座ることも横になることもできませんでした。帰る途中で一行ははんらんしているオレンジ川を渡らなければなりませんでした。ソンゴアナ兄弟の同行者たちは覚悟しておくべきことを彼に告げました。つまり,川の流れが渡れないほど強い場合,馬は川を泳いで渡れるように乗り手を落とそうとするというのです。ソンゴアナ兄弟は上手な乗り手ではありませんでしたから震え上がってしまいました。馬が川に入って行くと彼の不安は募りました。しかし,幸いなことに,全部の馬が無事に川を渡りました。

マルティ山脈では時々雪が降り,その後身を切るような風が吹きます。ある朝一行が起きて見ると,あたり一帯は雪に覆われてすばらしい銀世界に一変していました。区域まで歩いて行った時,みんなの足は雪にめり込みました。それは一行にとって全く初めての経験でした。暖を取るために是非とも火を起こさねばなりませんでしたが,まきも石炭もありませんでした。しかし,一行は見捨てられませんでした。もうこれ以上がまんできないと感じた時,関心を持った人が親切にも火をたくのに十分の乾燥した牛のふんをくれたのです。

1950年代にバストランドは着実に進歩し続けました。1953年中そこには平均67名の伝道者がおり,1959年までにその数は81%の増加に当たる111名になりました。

スワジランドで禁令が解除される

スワジランドではバストランドと同様の状況が見られ,しゅう長たちは全般にエホバの証人に対して好意的でした。この国の兄弟たちは禁令下で活動を続けていたにもかかわらず,首長が同情を示してくれたので,用心深くしている限り文書を配布することができました。伝道者たちは,自分たちが文書を売っているのではなく,関心を持つ人にそれを貸しているにすぎないことを示す証拠として,配布した本すべてに自分の名前を書きました。

1958年,地域監督のデニス・マクドナルドは,ゴドゲグン(現在のンランガノ)で唯一の献身した姉妹を訪問しました。彼女が協会の代表者の訪問を受けたのはそれが初めてでした。その姉妹は公開講演のために裁判所の庁舎に会場を予約しました。マクドナルド兄弟は,協会の文書が禁止されている国の裁判所の庁舎で講演をすることにいささか不安を感じました。

その地方自治体と幾らか関係のあった姉妹の主人は,「大変な聴衆」が集まりますよと請け合いました。その日曜日の午後,確かに「大変な聴衆」が集まっていました。オランダ改革派の牧師ふたり,英国国教会の牧師ひとり,土地の判事,警察官,犯罪捜査部の部長および関心を持つ人数名がいたのです。マクドナルド兄弟は,それらの人々がある目的を持って出席していることに気づきました。公開講演は神の王国の希望と対照させながら共産主義の失敗を暴露するものでした。その話はすべて録音され,考慮されるべく首都のムババネに送られました。協会の出版物に対する禁令が解かれたのはそれからしばらく後のことで,先の公開講演がそのことに関係していたことは大いに考えられます。

協会の映画,「躍進する新世社会」の上映も偏見を克服する助けになりました。原住民労働者のためのある大きな特別区で,ヨーロッパ人の監督者は上映を許可する前にその映画を見たいと言いました。試写会が催され,7人が出席しました。その監督者は深い感銘を受け,「この映画は普通とは違っていてたいへん興味深いですね。これは非常に大きな組織で,しかも良く組織されている」と述べました。その人は,エホバの証人が清い崇拝の側に立ち,政治やこの世的な事柄に関係していないことを得心しました。映画を見せてもらったことに感謝した彼は,「それを今晩この特別区の会館で上映してもかまいませんよ。巡査にあなたを応援するよう言っておきましょう」と語りました。その夜特別区の会館に902名の聴衆が集まりました。

その間,スワジランドでは良いたよりの伝道者の急速な増加が見られました。1953年に126名であったものが,1959年には129%の増加に当たる289名になりました。

ベチュアナランドでは忍耐が報われる

1956年,ヨシュア・ソンゴアナは巡回監督としてベチュアナランドに任命されました。土地の兄弟たち数人はすでに伝道したかどでしゅう長からむちで打たれていました。そのしゅう長は,チーフ・カーマがただひとつの宗教,すなわちロンドン・ミッショナリー・ソサイアティーのみを導入したことから,国内に別の宗教を入れることで兄弟たちを非難しました。ひとりの開拓者は2回むち打ちを受け,伝道活動をしたという理由で家畜を没収されました。しかし,しゅう長は彼が確固とした立場を取っているのを見て家畜を返しました。

到着後2週間してソンゴアナ兄弟は他のふたりの兄弟たちといっしょに逮捕されました。クゴトラ(裁判所)で彼らは他の宗教を持ち込んでいると訴えられ,弁護する機会を与えられませんでした。クゴトラに出席していた人々は有罪判決を要求しました。兄弟たちに対してしゅう長と彼のクゴトラから多くの非難がなされた後,ソンゴアナ兄弟は翌日ベチュアナランドを去るように言われ,土地の兄弟にはそれぞれ2か月の実刑が言い渡されました。ソンゴアナ兄弟はその地域を離れましたが,その国から出る代わりにずっと奥地に行きました。その後,彼は,しゅう長が考えを変えて土地の兄弟たちに執行猶予つきの判決を与えたと聞いて喜びました。

ソンゴアナ兄弟が2度目の訪問をしていた時再び逮捕されました。その時のクゴトラで強い関心が示されました。ロンドン・ミッショナリー・ソサイアティーの牧師が出席し,クゴトラの開会の祈りを捧げるようしゅう長から頼まれました。この度も,ソンゴアナ兄弟は,そこにはすでにひとつの教会があるのに他の教会を導入していると訴えられました。今回クゴトラはソンゴアナ兄弟に自分を弁護することを許しました。ソンゴアナ兄弟は伝道の内容と理由を示す聖句をたくさん引用しました。ロンドン・ミッショナリー・ソサイアティーの牧師は聖句をひとつも引かず,聖書を持ってさえいませんでした。数人の顧問は兄弟たちを釈放するようにしゅう長を説得し,このたびのクゴトラは神権的な人々の勝利に終わりました。

協会の文書に対する禁令が1959年に解除されるまで大勢の人々が逮捕されました。しかし,兄弟たちは真理の側に堅く立ちました。1953年に100名であった伝道者は1959年までに166名に増えました。それは実にすばらしい増加でした。

セントヘレナは霊的な益を享受する

ヴァン・ステデン兄弟の訪問後,セントヘレナの兄弟たちがエホバの目に見える組織と定期的に連絡を取っていたのは郵便と協会の出版物を通してのみでした。したがって,1955奉仕年度中に丸1か月間巡回監督と彼の妻の訪問を受けたことはセントヘレナの兄弟たちにとって特筆すべきことでした。この島にあるふたつの会衆は各12日間ずつ訪問を受け,その一か月間の活動は巡回大会をもって終わりました。公開集会の出席者数は105名で,3人がバプテスマを受けました。

霊的な益はセントヘレナの兄弟たちに流れ続けました。1956年中,「躍進する新世社会」という映画は8回上映され,観客の合計は1,000人を上回りました。孤立していた島の兄弟たちはその映画を通してエホバの全世界的なすばらしい組織について知ることができました。ひとりの人はこう述べました。「お話ししても恥ずかしいとは思いません。涙がわたしのほほをつたって流れていました。他の男性たちも同様でした」。というのは,「兄弟たちが愛のうちに共に働く様子を見たからです。わたしたちもあのように働くことができればよいのですが」。

1958年,「幸福な新しい世の社会」と題する映画が8回上映され,合計1,095人が出席しました。その映画を見た人はみな,世界各地で大勢の人々が大会に集っているのを見て驚嘆しました。

しかし,王国の種が最初にまかれた1933年以来,セントヘレナの伝道者で海外の大会へ個人的に出席できた人はひとりもいませんでした。1958年に初めて,ふたりの兄弟が神の御心国際大会に出席するためニューヨークまではるばる旅行しました。輸送の便が乏しかったため,ふたりは5月に出発して11月まで戻ることができませんでした。とはいえ,彼らはニューヨークですばらしい時を過ごし,大会で学んだり経験したりした良い事柄すべてをもって自分の国の兄弟たちを大いに喜ばせました。

モーリシャスにおいて進歩する

1953年までにヴァコアスの会衆は良い進歩を遂げ,ポートルイスにもうひとつの会衆がすでにできていました。法律に従って,宣教者は集会を警察に届け出ました。警察部長は,平和を破る宗教論争をしないかぎり差し支えないと答えました。しかし警察は慎重に行ないました。それで集会に最初にやって来たのは4人の刑事でした。偶然,出席していた兄弟たちの中に退職した刑事と,別の刑事の親族数人がいました。ですから,最初の集会はまるで警官の親ぼく会のようでした。刑事たちは,エホバの証人が穏やかで法律を守る人々であることを十分納得したようでした。

1955年にモーリシャスで引き続き進歩が見られ,伝道者は30名という最高数に達しました。同年末にミルトン・ヘンシェル兄弟はモーリシャスを訪問しました。そして,南インド洋の3つの島,すなわち,マダガスカル,レユニオンおよびモーリシャスにおける王国の関心事の世話をするため,モーリシャスに協会の支部事務所が設立されました。

マダガスカルで努力は実る

ふたりの開拓者,ロバート・ニスベットとバート・マックラキーが1933年に南アフリカからマダガスカルを訪れた後,何の活動もなされない22年間の空白があったようです。1955年,ミルトン・ヘンシェルとロバート・ニスベットは協会のモーリシャス支部の指導の下に業を確立すべくこの島を訪れました。間もなく特別開拓者がフランスから派遣されました。彼らは一生懸命働き,非常な成果を挙げてたくさんの聖書研究を司会しました。ほどなくして土地の伝道者たちが王国の良いたよりを広め始めました。1958年,小冊子が初めてマラガシイ語に翻訳されました。翌年,ここの業の監督はフランス支部に移されることになりました。

アンゴラで王国の活動が始まる

王国の種がアンゴラに初めてまかれたのは1938年のことでした。約124万5,790平方㌔のこの地域はアフリカの西岸にあり,南の南西アフリカ,北のザイール,東のザンビアに囲まれています。

ケープタウンからふたりの開拓者たちが1938年にここを訪れ,白人を対象に働きました。ふたりは3か月で聖書と書籍と小冊子を8,158冊配布し,関心を幾らか高めました。しかし,翌年第二次世界大戦がぼっ発したため,関心を抱いている人々と連絡を保つのはたいへん困難になりました。

12年後の1950年にひとりのアフリカ人の開拓者がモザンビークから追放されました。彼は裁判を受けませんでしたが,アフリカ西岸沖で赤道上にあるポルトガル領の小さなサントメ島に送られました。その島はアンゴラの区域に含まれていました。6か月以内にその島には彼と共に証言の業に携わる人が13人いました。

2年後,サントメのその小さな群れは21人の伝道者に増えました。サントメおよび隣のプリンシペ島は広さがわずか976平方㌔ほどで,人口が合わせて6万4,000人です。この島は実はポルトガル領下のアフリカ人の流刑地で,囚人たちはゴム,バナナおよびコーヒー栽培園で奴隷として働かなければなりませんでした。ですから,そこの王国伝道者たちの小さな群れは訪問したり励ましたりしてくれる人もなく,困難な事情の下でがん張り続けなければなりませんでした。それまでのところ伝道者とか王国の業のための組織はアンゴラにありませんでした。

しかし,1954年のこと,南アフリカの支部はアンゴラの南端にある漁港に所属する流刑地,バイア・ドス・ティグレスのアフリカ人の小さな群れから何通か手紙を受け取りました。差出人であるジョアオ・マンチョカは一通の手紙の中で,「アンゴラのエホバの証人は1,000人の人々からなっており,シマオ・ゴンサルヴェス・トコを指導者としています」,と述べました。この人騒がせなことばの背後にはたいへん興味深い話があります。

1943年,このシマオ・トコという人は,ベルギー領コンゴ(キンシャサ,現在はザイールと呼ばれている)のレオポルドビルのバプテスト派伝道団に所属する聖歌隊の指導者でした。彼は有能で,聖歌隊の隊長として成功を収め,そのグループは何百人にも増えました。ものみの塔協会の2冊の小冊子が彼の手に入り,彼はそれを興味深く読みました。トコは協会の出版物をさらに入手すべくブルックリンへ手紙を書きました。彼はしだいに王国の教えの幾らかを自分の歌や賛美歌(彼自身が作曲した)に取り入れたり,聖歌隊の比較的親しい仲間たちとの話合いに持ち出したりしました。ところが,シモン・キムバングの信奉者で心霊術をならわしにしていた人々がトコの研究グループに侵入しました。1949年,彼らは出かけて行って他の人々に語りたいという衝動にかられ,その多くがレオポルドビルの町へ伝道に行きました。しかし,ほどなくして,トコと彼の追随者の大半は逮捕投獄されました。刑務所にいる間に,トコは協会の出版物を,そして聖書をさえ用いることをやめました。彼らは霊媒のお告げの方に頼ったので,真理はキムバングの心霊術によって影が薄くなりました。そのグループの人たちはほとんどがアンゴラ出身でした。それで,数か月刑務所にいた後トコに従うことをきっぱりと拒否した人々はルアンダへ送り返されました。そのような人たちは1,000人ほどいました。

アンゴラに追放された人々の中に,ジョアオ・マンチョカというそうめいで霊的な事柄に関心のあるアフリカ人がいました。裁判の日,彼は禁止されたアフリカの一宗派で,キムバング主義と結びつけられた「ものみの塔運動」に属しているかどで告発されました。裁判官は彼を釈放しようと努めました。ただし,彼が自分の信仰を否定するならばのことです。マンチョカはトコの解釈のあるもの,特に彼が心霊術をならわしにしていることを受け入れてはいませんでしたが,トコを通して知った事柄の中に幾らかの真理があることを認め,自分が受け入れたものを捨てるならそれを失うことになるということを知っていました。したがって,自分が持っているほんのわずかな真理を捨てるより投獄されるほうを選んだのです。ポルトガル当局はそのグループが元々どのようにして出来たか,また彼らをどうすべきかということを決めかねていました。当局者たちは彼らが潜在的な破壊分子ではないかと疑っていました。とはいえ,その成員は非常に誠実で悪意がないように思えました。とうとう彼らは幾つかの群れにまとめられてアンゴラのあちこちへ分散させられました。トコと彼のグループに属する多くの人はアンゴラ北部へ送られ,コーヒー栽培園で働かされました。マンチョカは別のグループといっしょにルアンダにいました。

ルアンダでマンチョカは,グループの人々を説得して聖書を用いさせ,心霊術をやめさせようと努めました。彼は,サラ・ラモス・フィレモンとカルロス・アゴスティンホー・カディと共に聖書の真理を広めるために働きました。あるアフリカ人は,息子の教材にと「王国は近し」および「真理はあなたがたを自由にする」と題する協会の出版物のフランス語版を求めましたが,教材にはならないことがわかってそれをマンチョカに譲りました。マンチョカおよび,真理の価値をほんとうに認めていた彼の数人の仲間はそのことにたいへん感激しました。その後トコは南へ送られましたが,途中ルアンダを通りました。彼はその時までにがんこな心霊術者になっていて,自分の追随者たちに聖書の使用を禁じました。明らかに,「キムバング」の信奉者たちは彼に強い影響を与えて,彼を神のみことばから離れさせたのです。マンチョカと彼のグループの人々はそのことに落胆しました。そして,3か月の間,ものみの塔協会と連絡を取る道を開いていただきたいとエホバに熱心に祈りました。

トコの追随者の中にはマンチョカが教えている真理を好まない人々がいました。そうした人々はその小さなグループをポルトガル当局に告発し,トコの偽りの教理を創始した者たちであると偽って非難しました。その結果,マンチョカと彼の友人たちは21日間暗い監房に入れられました。監守のひとりがタイプライターとローソクをこっそり持って来てくれたので,彼らはローソクの明りの下でひそかに協会の小冊子の写しを原稿の形式で作成しました。彼らは4年の宣告を受けてバイア・ドス・ティグレスの流刑地に送られました。その宣告は6年に延長されましたが,それはみな偽りの告発によるものだったのです!

バイア・ドス・ティグレスでマンチョカと彼の仲間はトコの信奉者数人を見つけ,聖書を学ぶように励ましましたが成功しませんでした。そのため彼らはその人たちと交際を絶ちました。それからマンチョカは「真理はあなたがたを自由にする」という本(彼はそのフランス語版を持っていた)の幾つかの章を自分たちが使っているキコンゴ語に翻訳することにしました。そのころ,トコの信奉者のひとりは協会のソールズベリー支部に手紙を出し,スペイン語で書かれた返事を受け取りました。彼はそれが読めなかったので手紙をマンチョカのところへ持って来ました。それによってマンチョカは協会の住所を知ることができました。彼と彼の仲間はフランス語でローデシア支部に手紙を書き,その手紙は南アフリカ支部に回されました。こうしてバイア ドス・ティグレスのその群れは3か月間支部と通信し,文書も受け取りました。

その一風変わった群れのことがブルックリンに伝わると,ブルックリンの兄弟たちはすぐ,ポルトガルで数年暮らしてポルトガル語をたいへん流ちょうに話すジョン・R・クックという英国人の兄弟がアンゴラに行くよう取り決めました。クック兄弟は1955年1月22日にアンゴラに着きました。彼が最初に話し合ったのはルアンダの弁護士でした。その弁護士は,トコのグループが「マウ-マウ」(テロリスト)分子もしくは共産主義支持者とみなされているので十分気をつけるようにとジョンに助言しました。

ルアンダとベングエラのような町の通りを歩き,目じるしの星のバッジをつけたそのグループの人たちを見て,クック兄弟は,この人たちは将来の兄弟たちだろうかそれとも偽装した共産主義者にすぎないだろうかと奇妙に感じました。ロビトとベングエラで彼ら数人とだけ話しましたが,彼らが聖書を持っていてエホバという名前を知っており,ひんぱんに集会を開いているということがわかったほかは何の成果も挙がりませんでした。ルアンダには大きなグループがありました。彼はその人たちに話しかけ,グループの委員と話し合いました。しかし,彼らはトコの信奉者で,実際にはものみの塔聖書冊子協会に関心を持っていませんでした。例外だったのはアントニオ・ビズィという名の若者で,彼はクック兄弟の訪問を非常に感謝し,他の人々が協会の雑誌を予約するのを助けました。

クック兄弟は,南アフリカのエランズフォンテイン支部に第一印象を報告した後,バイア・ドス・ティグレスのマンチョカおよび彼の友人たちと連絡を取ってみるようにとの指示を受けました。ところが,バイア・ドス・ティグレスはアンゴラ南端の砂漠の海岸にある小さな漁港です。そこは実際に流刑地ですから,政府の厳しい監督下にあり,外界とほとんど接触がありません。ジョン・クックは長い間その問題で頭を悩ましたことを覚えています。彼は祈りのうちに問題をエホバにゆだねました。ついに彼は,自分の使命を説明し会見を求める手紙をルアンダの総督に出しました。気のもめる3週間がたって,彼は呼び出されました。支配している総督の右腕であったサンタナ・ゴディンホ氏に会うためです。長い話し合いの間に,その人はエホバの証人の活動と信仰に関してクック兄弟に質問を浴びせました。そしてとうとう,クック兄弟がバイア・ドス・ティグレスに行ってもよいと言ってくれたのです。それから彼は,「実は,わたしたちはあなたに飛行機の往復切符を無料で差し上げようと思います」と言って彼を驚かせました。それはおよそ1,920㌔に及ぶ旅行でした。

2,3日後,小さな6人乗りの飛行機が太陽の照りつける小さな部落,バイア・ドス・ティグレスの上を旋回してから砂地に設けられたコンクリートの急造滑走路に着陸しました。ジョン・クックは他の数人の乗客と共に飛行機から降りて来ました。幾つかの問題があった後,クック兄弟はそこの小さな群れと最初の会合を持ちました。その日はマンチョカにとって重大な日でした。彼は長年の間その日の来ることを祈りつつ待っていました。そしてついに真理を教えてくれた協会と直接接したのです。マンチョカは最上等の服で正装し,長い紙に書いた歓迎のあいさつを協会の代表者に向かって読みました。王国に関してしきりに知りたがっている羊のような人々を見て,クック兄弟がどれほど喜んだかしれません。彼は毎晩それらの謙そんで誠実なアフリカ人と共に過ごし,神のみことばを話し合ったり,業のことを話したりしました。彼らはクック兄弟に部厚い練習帳を見せました。それには,「王国は世界の希望」と「終わりの日」という小冊子が彼らのことばであるキコンゴ語に翻訳されていました。何年も前に手で書かれたそのノートは,長い間彼らの主な教科書のひとつとして用いられていました。クック兄弟は,彼らがエランズフォンテインから受け取った出版物を読んで真理をすでに十二分に把握しているのを知って驚きました。

その間に,クック兄弟は灯台に泊まって,灯台守といっしょに生活しました。その灯台守は関心を示して両方の雑誌を予約し,聖書を注文しました。そしてこう言ったのです。「クックさん,あなたはアフリカ人にばかり時間をかけておられますね。わたしたち白人のことはどうなんですか。わたしたちのために集会を開いてくださってもいいではありませんか」。それは実行に移され,きつい臭いのするある魚粉工場で日曜日に開かれた公開講演には,白人が10人,黒人が70人,計80人の聴衆が集まりました。それはアンゴラで開かれた最初の公開集会だったのです! 翌日クック兄弟は,その小さな群れの温かいふん囲気を感じながら週に1度来る飛行機でそこを去りました。彼は,協会の代表者として彼を受け入れるように勧めたトコのグループあての紹介状を持っていました。その紹介状があればあらゆるグループにもっと良く聞いてもらえると思ったのです。

マンチョカ兄弟はクック兄弟のその訪問を次のように回顧しています。「わたしは,これこそ神の支持を受けた真の組織であることをもはや決して疑いませんでした。手紙が届いたというだけで,遠方から無料で宣教者を派遣して重要でもないその差出人を訪問させるような組織が他にあるとは考えも信じもしませんでした」。

ところが,ルアンダのトコの委員会はマンチョカの紹介状に心を動かされませんでした。「わたしたちにどうすべきか命令するこの人物は何者ですか。そりゃ,トコさんがこのような手紙をあなたに持たせたっていうんなら話は違いますがね」,という具合でしたから,トコ自身に会ってみることになりました。

旅行中の出来事,および会った人々に対するジョン・クックの印象を簡単に説明した報告が,サンタナ・ゴディンホ氏に提出されました。間もなくクックは呼び出され,もう一度彼と会見しました。サンタナ・ゴディンホは報告に対する感謝を述べました。そして,トコ派に対する公式の見解は,それがまぎれもなく破壊的なグループであるというものであるが,自分やその他の人々はその見解に疑問を持っていると語りました。したがって,トコ派の間に入って探り出すことのできる人があればうれしいとのことでした。その後ゴディンホは,「ところで,クックさん,ほかにどこへいらっしゃりたいですか。あなたのご希望を言ってください。無料で往復切符を差し上げますよ」と言って再び驚かせました。ジョンは,アンゴラ中南部にある中都市サ・デ・バンデイラに近い未開墾地にいるトコに会わせてほしいと言いました。そしてそれは認められました。

それから間もなく,クック兄弟は政府の役人が立ち合いのうえトコと二度にわたって長時間会見しました。トコは背の高いそうめいな,まだ若い人物で,ものみの塔協会から来た人に会えてうれしいと語りました。彼とクック兄弟は,聖書に関する事柄とかトコのグループの構成について話し合いました。それからトコはアンゴラにいる彼の信奉者全員にあてて,クック氏は自分が文書を受け取っているものみの塔協会の代表者である旨を述べた手紙を書きました。クック兄弟は,総督の賓客として興味深い所を2,3か所見物した後,これで恐らくトコ派の千人の人々はもっと容易に真理を受け入れてくれるだろうと思いながらルアンダへ戻りました。

しかし,ルアンダのトコの委員会はその手紙を全く受け付けませんでした。彼らは牛耳を執っており,ほかのだれも勢力を得ようとはしませんでした。個人的にかなりの関心を示す人は大勢いましたが,小なくともそれがルアンダの指導者デイビッド・ドンガラの態度でした。とはいえ,ルアンダ滞在の時間は無駄にされませんでした。クック兄弟はたくさん証言し,1日に22件もの予約を得てすばらしい時を過ごしました。また,彼は1,2軒の白人の家族やトコのグループの成員たちとの聖書研究を始めていました。

新しい農業部落であるセラへ飛行機で無事に着いた後,事態は激変しました。サンタナ・ゴディンホが行政官の地位を失ったのです。彼はクック兄弟が難しい割当てを果たすうえで非常な助けとなってくれましたし,たいへん親しみやすい人でした。もはや無料で旅行することはできなくなり,5か月間のビザの延長を申請したところ,それも拒否されました。与えられた援助とか,わざにとって重要な人々に会ったり「処女地」にたくさんの良い種をまいたりする特権に対してエホバに深く感謝しつつ,クック兄弟は1955年6月に去りました。

王国の活動は開始されました。新しく生まれた区域は反対と迫害で窒息させられそうでしたが,エホバの過分のご親切と新しい兄弟たちのゆるぎない忠節とにより,発展し続けました。

勇敢な努力が続けられる

1956年6月,マンチョカとバイア・ドス・ティグレスに住む他の7人の新しい兄弟たちは,勇気を持ち機先を制して,バイア・ドス・ティグレスの所在するモサメデス地域の長官に手紙を書きました。その手紙の内容は一部次の通りです。『わたくしたちをエホバの証人の協会の実働成員として認めていただきたく,閣下に厚くお願い申し上げます』。兄弟たちは崇拝の自由がもっと与えられるように懇願しましたが,返って来たのはもっとひどい圧迫だけでした。それにもかかわらず,彼らのうちの10人は1956年にバプテスマを受けました。

一方,サントメ島では数名の兄弟たちが7年の拘留期間を終えていました。釈放されてモザンビークに戻された人々の中には,かつての主宰監督が含まれていました。

真理の光は曇らされない

真理の光はアンゴラで輝き,困難にもかかわらず曇らされることはありませんでした。そのうえ,ヨーロッパ人の区域はその光から益を得ることができました。

1956年10月26日,メルビン・パスローと彼の妻アロラはジョン・クックが始めた業を続行するためにルアンダに着きました。クック兄弟はルアンダの予約購読者と関心を抱く人々のリストをパスロー兄弟に送ってありました。しかし,予約者の住所はすべて私書箱の番号でした。郵便物は一切個人の家に配達されないからです。それでしばらくの間彼らは予約購読者を見いだすことができませんでした。その時,リスボンの支部の監督,ブリテン兄弟から,ベルタ・テクシエラという名前のたいへん関心を抱いている婦人がルアンダに帰国することを知らせる手紙が届きました。その婦人は,ルアンダに着いてすぐにパスロー夫妻の訪問を受けたのでたいへんびっくりしました。早速,彼女および彼女の家族との聖書研究が始まりました。彼女はまた,予約購読者の住所を得るという点でも助けになってくれました。というのは,その婦人には郵便局に勤めている親せきがあったからです。予約者のうち非常に大勢の人々が喜んで聖書研究に応じました。数週間もたたないうちに,それらの人々全員が友人や隣り近所の人々に話すようになりました。パスロー夫妻は,そうした人々を訪問するよう毎晩,そして午後などに招待されました。それで6か月以内に50人を上回る人々との聖書研究が司会されていました。

到着後間もなく,パスロー夫妻はアンゴラの様々な土地にいるアフリカ人の兄弟や関心を抱く人々から手紙をもらうようにもなりました。マンチョカ兄弟は,バイア・ドス・ティグレスにおいてまだ拘留の身でありましたが,パスロー兄弟姉妹に励ましの手紙を書きました。霊的な援助を必要としていたアフリカ人の兄弟たちもふたりを訪問しました。外国人でしたし,事情もあったため,パスロー兄弟はアフリカ人の兄弟たちの集会に決して出席しませんでした。しかし,クック兄弟がアンゴラにいた時に強い関心を示したアントニオ・ビズィは,自分が他のアフリカ人の兄弟たちを援助できるように,聖書研究や訓練を受けるため,定期的にふたりを訪問したものです。アフリカ人は文書を求め,そうした文書の多くは奥地へ携えて行かれました。パスロー夫妻は到着後2,3か月して,自分たちの部屋で「ものみの塔」誌の研究を定期的に行なうようになりました。ところが,それを始めた月の終わりまでに部屋は手ぜまになっていたのです。そこで,語学の学校を開いていたテクシエラ姉妹はその学校の奥の教室のひとつを提供してくれました。テクシエラ姉妹の授業は午後9時まで行なわれましたから,週中の集会はすべて午後9時過ぎに始めなければなりませんでした。それで週中の集会はあまり注意を引きませんでした。

アンゴラ全土から引き続き通信が届いていました。差し出し人は,兄弟であると自称するアフリカ人たちでした。しかし,そのころまでにアンゴラは戦争になっていたのでそれらの人たちと連絡を取ることはできませんでした。

それから間もなく,ヴィエイラ・ゴンサルヴェス氏と彼の妻との研究が始まりました。彼は司祭になることを目ざして6年間勉強していましたが,若い学生の司祭と彼らの振舞いにたいへん驚いて,実際に司祭にならないうちにやめました。ゴンサルヴェス氏は急速に進歩し,すぐに集会に来たり友人たちに話し始めたりしました。2か月目の末にはすでに他の家族の聖書研究を司会していました。

ルアンダに来て8か月後,パスロー兄弟はバプテスマを施す時機が来たと考えました。数人の人々が献身を象徴したいとの願いを言い表わしていたからです。その日,ポルトガルから南アフリカへ行く途中のひとりの兄弟,ヘンリーク・ヴィエラ兄弟が到着したので一同の驚きと喜びはたいへんなものでした。それで,ヴィエラ兄弟は講演をし,幾つかの経験を話してからルアンダでバプテスマを施しました。

その後間もなく,パスロー兄弟はビザを延長することができなかったため,直ちにゴンサルヴェス兄弟を招いて小さな群れの世話を引き継いでもらいました。この忠実な兄弟は,引き継いだ時には真理に対して赤子にすぎませんでしたが,逮捕投獄され遂にポルトガルへ追放されるまでの9年間がん張り通しました。

パスロー兄弟は正に時にかなって行動しました。2,3日後,パスロー兄弟姉妹が用事で町に出かけていた時秘密警察の自動車が突然ふたりのそばに止まり,6人の警官がどっと降りて,ふたりをあたかも狂暴な罪人のように取り囲みました。ふたりは自分たちの部屋へ連れて行かれ,持物をたくさん押収されました。その中には,秘密の伝言が書かれていると思われたのか,アロラの料理の作り方のメモが含まれていました。警官が聖書の在庫を運び出した時,パスロー兄弟は,「あなたがそれを読んでくださるとよいのですが」と言いました。その警官は答えました。「そこにはフットボールのことが書いてあるのかね」。そのことばに警官たちはどっと笑いました。その警官は自分たちがルアンダの司祭の手先にすぎないことを十分承知していたのです。後日パスロー兄弟姉妹は,関心を抱いたある人が学んだ良い事柄をすっかり司祭に話したことを知りました。

熱心なカトリック教徒である英国領事に対してなされた訴えは退けられました。その後警察部長はパスロー兄弟姉妹を彼の事務所に呼び出して,1週間以内に立ち去るようにと命令しました。彼のことばから,警察部長はパスロー夫妻を中央アフリカの悪名高い「ものみの塔運動」と結びつけていることが明らかになりました。彼を説きつける見込みはありませんでした。

1957年6月27日,パスロー兄弟姉妹は南アフリカに向けて船出しました。警官の態度を気づかったふたりは,兄弟たち,特にアフリカ人の兄弟たちに,見送りに来ないようにと言いました。しかし,愛のきずなは非常に強く,警官がいるいないにかかわらず,多くのアフリカ人を含む兄弟たちが“アデウス”(さようなら)を言いに来ていたのです! ふたりがちょうど渡り板を歩いて行こうとした時,それらアフリカ人の兄弟たちのひとりで,バイア・ドス・ティグレスから釈放されたばかりの兄弟が近づいて来て,パスロー兄弟の手に封筒を握らせると人がきの中に消えました。その封筒の中には,「パンを買ってください」との添え書きと共にせん別のお金が入っていました。船がゆっくりすべるように離れて行く時,パスロー兄弟姉妹はわたしたちの神を知るようになるよう人々を助けたという言い表わしがたい喜びを経験したことを深く感謝しました。

しばらくしてパスロー兄弟姉妹が聞いたところによると,そのあくる日,ラジオ放送は,共産主義者と“マウ-マウ”活動を打ち立てようとしたふたりの非常に危険な人物が国外に追放され,「幸いにも大きな危険はなくなった」と発表しました。数か月後にテロリストの活動が実際に激しくなった時,アンゴラの新聞は,ものみの塔の宣教者がテロリストの活動に加わるようアフリカ人を動かしたと偽りの報道をしました。白人の当局者に反逆させるため宣教者がアフリカ人にアメリカのドルを与えていると思われる写真さえ掲げられたのです!

なるほど,キリスト教世界の宣教師と宗教指導者たちはアンゴラのテロ活動と大いに関係していました。しかし,エホバの証人に限ってそうしたことはありませんでした! エホバの過分のご親切により,ものみの塔の宣教者たちはアンゴラに入国することができました。多くの問題や反対にもかかわらず,確固とした立場を取ってアンゴラで真理の光を輝かせる決意を持つ54人の兄弟たちからなる小さな組織を設立することができました。

パスロー兄弟姉妹との別離に伴う大きな興奮が収まってから,兄弟たちは静かに,そして忠実に務めを行ない続けました。兄弟たちを指導する円熟した人はいませんでしたが,集会は開かれましたし,伝道も困難な事情のもとで出来る限り行なわれました。

1958年に地帯の監督であるハリー・アーノットの短い訪問があり,アフリカ人にもヨーロッパ人にも大きな励ましとなりました。1959年,彼は再び地帯の監督としてルアンダに来ました。彼が空港に着いて数人の兄弟たちの出迎えを受けていると,突然警官が現われて兄弟たち全員を逮捕しました。アーノット兄弟は他の兄弟たちと別個に尋問されました。彼の書類かばんはすみからすみまで調べられました。アーノット兄弟は,ルアンダ市に住む「ものみの塔」の予約購読者のリストが警察の手に渡らないようにとエホバに祈りました。その大切なリストは同兄弟の切符入れの中にありました。国際犯罪防止委員会の署長は切符を調べましたがそのリストを見ませんでした。数々の質問をした後,署長はこう言いました。「アーノットさん,覚えておきなさい。アンゴラに関する限り,あなたはおしまい,おしまい,おしまいなんです。そしてものみの塔の組織もおしまい,おしまい,おしまいです」。

ちょっとしてから彼は他の兄弟たちがいる別の建物へ連れて行かれました。そこにはマンチョカ兄弟もいました。国際犯罪防止委員会の役人はマンチョカ兄弟の方を向くと彼をののしって,「おまえがどうなるかわかっとるか」と言いました。マンチョカ兄弟は彼の目をまっすぐ見て言いました。「わたしはこれまでも多くのことを忍耐してきました。ですからこれ以上あなたに出来ることと言えばわたしを殺すこと以外にはありません。しかし,わたしは信仰から離れるつもりはありません」。それから彼はアーノット兄弟を見やると,勇気づけるように笑いました。アーノット兄弟は次のように語っています。「彼は自分の置かれた状態を全く忘れているようでした。わたし自身がそうした状況に落胆しないようにということだけを気づかっていました。そのアフリカ人の兄弟が何年間も投獄された後にそうした勇気ある確固とした立場を取るのを見た時はたいへん意気を高められました」。

アーノット兄弟は飛行機に引き戻され,即刻アンゴラから立ち去らねばなりませんでした。一方,警察は会衆がテクシエラ姉妹の家で集会を開いていることを探り出しました。それで数人の警官は調査するため直ちにそこへ赴きました。彼らは捜したのですが,1階の戸を開けることができませんでした。戸の背後では兄弟や関心を持つ人々およそ50人が,アーノット兄弟が来て講演してくれるのを辛抱強く待っていました。

その時アーノット兄弟を出迎えた兄弟たちには,またマンチョカにさえも実際に何の害も加えられませんでした。マンチョカ兄弟は尋問のために7時間拘禁され,その間に警部は実際に彼を刑務所へ送るようにという公式の命令を示しました。ところが最後に警部はその命令を破棄してマンチョカ兄弟にこう語りました。「帰りなさい,マンチョカ。気をつけるんだぞ。あした,お前の家にあるものみの塔の文書を全部持って来るんだ。……ものみの塔のこんな仕事なんかやめて,自分の子供の面倒でも見るんだな」。

こうしたそう話的な事件があったので,その小さな会衆は集会の場所を変えねばなりませんでした。その後,アフリカ人は自分たちの会衆を組織するようになりました。しかし,土地の会衆は依然非常に小さく,1960年に報告のあった伝道者の最高数はわずか17名でした。アンゴラがポルトガルのリスボンにあるものみの塔支部の管轄下に置かれたのはそうした時でした。

翌1961年,アンゴラでテロリストの活動が起こり,兄弟たちに対して激しい迫害が及びました。続く9年間マンチョカ兄弟はあらゆる刑務所や野営小屋で過ごしました。彼は非常に多くの,種々様々な経験をしましたが,エホバに全幅の信頼を置き,静かな決意を持って,行く先々での迫害に立ち向かいました。彼はまた,行った場所で証言し,刑務所に居る間に多くのアフリカ人が真理に入るのを助けることができました。

1971年に再び大勢の兄弟たちが逮捕されてルアンダの刑務所に入れられました。その中には無私無欲で献身的なマンチョカ兄弟がまたもや含まれていました。しかし,敵の努力はエホバの打ち勝ち難いお目的と無限の力に比べれば取るに足りません。何ものも,全くどんなものも,アンゴラを含め人の住む全地で王国の音信が伝道されるのをやめさせることはできないのです。

拡大の用意

1960年の初め,エランズフォンテインのベテルは本格的な拡大のためにすっかり調整が施されました。エホバは来たる10年間に野外で必要なものを予知され,それを備えられたのです。今や増設された工場では3台のライノタイプに代わって5台のライノタイプが使用され,1年後にはもう1台設備されました。すでに使用されていたG.M.A.の平版印刷機に加えて,新品のハイデルベルグ活版印刷機とティムソン輪転機が設置されました。ティムソン輪転機の値段は3万7,000ラントを超えていました。

1960年,エランズフォンテインの工場は,月に1回白黒で印刷していた土地のことばの雑誌を,月に2回色刷りで大量に印刷し始めました。ツワナ語の「ものみの塔」誌のように,新しく月1回発行されるようになった雑誌もあります。コンゴ(キンシャサ)向けの特別なチベンバ語版の印刷は1965年5月に始まりました。普通のチベンバ語版の完全な題名は「ウルプング・イワ・クワ・カリンダ」です。しかし,コンゴには「ものみの塔」という名前に対する偏見があるので,その特別版の題名は「カリンダ」(「見ること」という意味がある)という簡単なものです。1966年には,南アフリカのことばであるスペディ語の「ものみの塔」誌が印刷のリストに加えられました。ですから,1970年までに,その工場は「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌各24冊を10の言語で印刷し,また15の異なった言語の「王国奉仕」を印刷していました。そのほか,工場は土地のことばによるたくさんの小冊子や,用紙類,プログラム,一枚刷り印刷物を山のように印刷していました。

1960年,3つの保護領,すなわちバストランド,ベチュアナランドおよびスワジランドで協会の文書に対する禁令が解除されました。したがってその霊的な食物はそれらの土地へ自由にどんどん入って行くことができました。ところで,そこの兄弟たちはどうしていたでしょうか。

バストランドでは困難のさ中にあって祝福を得る

バストランド(現在のレソト)の兄弟たちは月2回発行される「モルラ-コーア」(セソト語の「ものみの塔」誌)をほんとうに感謝しています。そのことは「ものみの塔」誌の研究への出席に反映されています。1960年,135人の伝道者と15人の開拓者からなる一団はこの国の人口63万4,000人の人々の霊的な必要を世話し,数々の困難をものともせずに押し進んでいました。

その時までに,“変化のきざし”はこの小さな英国保護領にも見られるようになり,国家主義の精神や独立の欲求が高まりました。そうした精神や欲求は1960年に彼らが獲得した自治によってさらにあおられました。行政機関は,アフリカ人がヨーロッパ人に取って代わって“アフリカ化”されつつありました。「自治」とか「独立」といったことばは自由と繁栄をもたらす呪文であると感じた人々は少なくありませんでした。しかし,エホバの証人は人間の唯一の希望として神の王国を示し続けました。

バストランドの大部分の人々は山岳部に散在する「クラールズ」と呼ばれる村に住んでいます。中には徒歩か馬でしか行けないような非常に高い所にある村もあります。巡回監督が孤立した群れに行くのに5日か6日かかる場合もありました。

開拓者たちは,バストランドのすみずみの人里離れた場所に王国の良いたよりを広めるうえですばらしい働きをしました。特別開拓者の一夫婦は,ドラーケンスベルグ山脈にある標高約3,200㍍の“南アフリカの屋根”の上のモコホットロングという地域に割り当てられました。夫のフィレモン・マフェレカはひとつの研究を司会しに行くのに幾つもの山を越えなければなりませんでした。朝の4時に出発し,急いで歩いて午前8時半までにそこへ着いたものです。彼は大抵その晩に帰宅し,翌日は別の方角に出かけました。彼らの努力は豊かに祝福されました。というのは,2年以内に10名の人々がその夫婦といっしょに王国の業に携わっていたからです。

そうです,バストランドでは良いたよりの伝道者たちはしばしば2時間から3時間歩いて区域に行き,1度に6時間も証言します。その日の途中で家に帰って食事をするのは実際的ではないので,1日中奉仕して夕方早く家に帰り,料理をして食事を取るようになりました。村から村の距離が遠いので,6時間働いても6軒の家しか訪問できないこともあります。とはいえ,それらの人々も神のみことばを聞く必要があるのです。

そのように孤立した生活をしている兄弟たちは大会の重要性を確かに認識しています。しかし,大会に出席するにはたいへんな努力がいりますから,彼らは正しくわたしたちの模範です。ひとりの特別開拓者はエホバの民の大会に行くのに山坂を越え,はんらんする川を泳いで渡り,徒歩で4日かかりました。一姉妹はひとりで3日馬に乗り,それから丸1日バスに乗って大会に来ました。また別の姉妹は妊娠6か月でしたが,山坂を越え雪をついて,約40㌔の道のりを徒歩で大会に行きました。献身したばかりの兄弟でさえ,援助してもらった特別開拓者といっしょに幾つもの山を越え128㌔余も歩いて大会に出席し,そこで献身を象徴しました。

中立を保つ

1966年バストランドは現在レソトとして知られる独立国になりました。当時266名いた王国伝道者は,その絶対的に中立な立場ゆえに当局者の多くから尊敬を勝ち得ていました。ところが首都のマセルで地域大会が開かれていた最中に,ひとりの警部と3台のジープに乗った警官たちが集会を中止するように命じながら会場になだれ込みました。責任を持つ兄弟たちは翌朝になって警察の署長に会うことができました。しかし,その署長は証人たちを知っていて,だれかが演壇からレソト政府は滅ぼされるべきだと言うことになっていたとの偽りの告発を却下しました。それから,集会をやめさせた同じ警部は,証人を保護するため大会に警備員を派遣するようにとの指示を受けたのです! むろん彼らは何もすることがありませんでした。兄弟たちはその機会を使ってひとりひとりに十分証言しました。

レソトで兄弟たちがクリスチャンの絶対中立の立場を守ったことは,政情が不安定で非常事態の時に彼らにとって真に身の守りとなりました。その時ヘッドマン・ヨナタンの政権を支持しない者たちに対して厳しい粛清が行なわれました。伝えられたところによると,反対者の草ぶき小屋が夜間にバリケードでふさがれて火を付けられ,家族もろとも焼き殺されたということです。エホバの証人はひとりもそうした目に遭いませんでした。

とはいうものの,真のクリスチャンたちは中立の立場を守ったがゆえの苦難を経験しました。1970年にレソトは何年もの干ばつでひどい食糧不足に見舞われました。ただし1970年には十分の雨量があったのですが,政府の支持者にだけもろこしの種を支給することが決められました。エホバの証人は中立でしたから,一粒の種も得られませんでした。南アフリカ共和国の兄弟たちはそのことを聞いて,レソトの兄弟たちへの救援資金を送る取決めを設けました。そのことはヨハネスバーグで開かれる全国大会のための準備集会で発表され,それらの集会の寄付箱に入れられた寄付金すべてを救援資金にすることが提案されました。兄弟たちの反応は圧倒的で,1,714ラントが寄付され,しかも寄付金は続々と寄せられました。事実,支部事務所は,「十分」の寄付が集まったことを兄弟たちに知らせる回状を送らなければなりませんでした。オレンジ自由州のヨーロッパ人のある兄弟は1週間以内に必要なもろこしの種を手に入れ,それをレソトの兄弟たちのもとへ送り届けました。また,困窮した人々すべてには,その人たちが必要物を自分でまかなえるようになるまで,食物を買うための現金が支給されました。それによって,レソトの兄弟たちは,南アフリカにいるヨーロッパ人の兄弟たちや他の兄弟たちが自分たちのことをどれほど気遣っていてくれるかを以前にも増して知ることができました。こうして彼らは南アフリカの兄弟たちを一層身近に感じました。

そうした愛のある取決めの益を受けたレソトの一姉妹は後にこう語りました。「わたしたちは家に何もない,とうもろこしの粉を買う10セント(約30円)さえないところまで行きました。その時南アフリカの白人の兄弟たちから食物を買うお金が届いたのです。わたしはただ泣くだけで何も言えませんでした。他の証人の方々やわたしは差し迫った問題を克服することができました。ですから,エホバのご準備により,わたしたちはこの大会に出席して霊的な宴も楽しむことができるのです」。

注目すべき里程標

エホバの組織がレソトの物質的なききんの救援物資を備えていた時,エホバも真理に飢え渇いた人々に優れた霊的な食物を備えられました。それは「とこしえの命に導く真理」と題する本のセソト語版で,1970年の半ばごろに入荷しました。この優れた手引書と6か月の研究課程によって増加が見られ,クリスチャンの活動はひとつの里程標に達しました。

1972年にはレソトにおける業がその発展途上においてもうひとつの注目すべき里程標に達しました。同国最初の本格的な王国会館が建てられたのです。首都のマセルでは「ものみの塔」研究の出席者数がしばしば200人を超え,平均出席者数は170人に増えていましたから,王国会館が必要なことは明らかでした。運送代を払うだけで近くの山から無料で手に入る砂岩が壁に使われました。経験のある兄弟たちが好みの形に石を切ったのです。

だれもがその建設を助けました。姉妹たちは,工事をしている人々に食事を運んだほか,水がめを頭に乗せるという昔ながらの方法で約3.2㌔もある建築現場まで水を運びました。子供たちは現場まで水の入ったドラムかんをころがして手伝いました。幾人かの年配の兄弟たちは建築の仕事に加わるためにおよそ32㌔も歩いて来ました。床にするコンクリートの厚板を敷き詰める下準備として地面を踏み固めるために,姉妹たちは王国の歌をうたいながらそのリズムに合わせて踊りました。現在兄弟たちはおよそ250名を収容できるがんじょうな王国会館を使用して喜んでいます。その建設費はわずか845㌦(約25万3,500円)でした。

開発途上にある他のアフリカの国におけると同様,子供たちは学校で,また兄弟たち一般はその他の場所で時折国家主義による問題に遭遇します。たとえば,最近のこと,証人の地域大会が終わった日に暴動が起きました。その騒ぎを起こした政党にかつて所属していたある新しい兄弟は,家に帰った途端兵士に逮捕されて地方裁判所に連行されました。暴動が起きていた間何をしていたかと質問されて,その兄弟はエホバの証人の大会に出席していたと言いました。しかし,当局はそれで満足せず,証拠を求めました。プログラム全部を読み終えると,隊長はその兄弟が無実であると宣べ,伝道活動を続けるようにと兄弟を励ましさえしました。村人たちはそのことに驚いてこう言いました。「あなたが祈りをささげている神は生きている神だ!」その兄弟は,大会に出席したことをどれほどよかったと思ったか知れません。

レソトの伝道者新最高数は688名で,しかも業はエホバの祝福の下に引き続き前進しています。しかし,国民1,477人につき伝道者ひとりという割合ですから,しなくてはならない事柄がまだたくさんあることは明らかです。したがって,わたしたちはエホバがご自分の定められた時にご自分の方法で業の速度を速めてくださるよう絶えず祈っています。

ベチュアナランドで禁令が解除される

ベチュアナランド(現在のボツワナ)は広大な国なので,1960年に禁令が解除されたという知らせがすぐに伝わらなかった所がありました。しゅう長の中には,自分の地域で依然として兄弟たちを困らせている者がいました。

南アフリカから来たヨーロッパ人の地域監督のひとり,デニス・マクドナルドは首長であるセレツィ・カーマの兄弟と会見して証人の業を説明しました。彼は,証人の業を妨害すべきでないことを述べた署名入りの手紙4通をマクドナルド兄弟に与えました。それはたいへん役に立ち,しゅう長たちの態度は変わりましたし,兄弟たちにとって物事は容易になりました。

1960年代の初め,会衆および孤立した群れのほとんどは鉄道沿線にありました。北西部のシャカウィとマウンを除き,内陸部はほとんど何も手がつけられていませんでした。特別開拓者のB・ムスチウィ兄弟はしばらくマウンで働きました。彼は,食物が乏しくて,1年間とうもろこしがゆばかりを砂糖も牛乳もかけずに食べたにもかかわらず,自分の割当てを忠実に果たしました。この兄弟はツワナ語の「ものみの塔」誌を活用し,雑誌経路を設けて新しい号が届くたびにそれを配布しました。雑誌を興味深く読んだ,ロンドン・ミッションの一説教者は教会でそれを示しさえして,聴衆にこう勧めました。「もしみなさんがこの雑誌を持ったものみの塔の人に会ったら,雑誌を求めて読みなさい」。それである人々は雑誌を手に入れるために開拓者の家にやって来ました。彼らはそれらの人たちと研究を始めました。

巡回の業

巡回監督がそうした孤立した兄弟たちを訪問するのにどんなことが関係しているか想像できますか。砂漠でも走ることのできる四輪駆動のトラックの後ろに乗って,暑い昼間や寒い夜を分かたず少なくとも960㌔ほどの道のりを旅行しなければならないのです。1964年に巡回監督をしていたアダム・マーラングは,孤立した人々を訪問するため時には1か月のうち10日間トラックに乗りました。

マーラング兄弟は北部がどれほど野蛮で原始的かを述べ,「シャカウィで講演した時,人々はいつも,わたしが服を着ているというだけでわたしをしゅう長のような者と考えます」と書いています。そこの人たちは衣類をほとんど身に着けていないのです。同兄弟は,公開集会を良く組織して進行させるのにたいへん難儀しました。まず人々を一緒にし,それから講演中に彼らを静かにさせておかねばなりません。人々はだれか他の人が話すのを座って聞くことに慣れておらず,講演が始まると,持ち出された要点を近所の人々と話し合う良い機会であると考えました。とはいえ,それら孤立した人々への訪問は,ふたりの人が神に献身し,合計6名の人が業に参加するという成果を生みました。

1965年から1966年にかけて厳しい干ばつに見舞われていたある時,水が非常に少なかったため,大会でバプテスマ希望者にバプテスマを施す水がありませんでした。別の時ですがフランシスタウンでも兄弟たちはたいへん困りました。その時の地域監督ピエ・ウェントゼル兄弟の話によれば,最初に行ったプールには水がありませんでした。そこで彼は,32㌔ばかり行った所にある乾いた川床の水たまりへふたりのバプテスマ希望者を車で連れて行きましたが,それも干上がっていました。さらに8㌔ほど進んで泥の水たまりまで来ました。その水たまりは中に家畜が立っていたので真っ黒に見えました。しかし,バプテスマを希望していたふたりの青年はそのためにちゅうちょしませんでした。それは水に違いありませんでしたから,ふたりはそこでバプテスマを受け,エホバのご意志を行なう献身を象徴しました。

証言の業はボツワナで前進する

ベチュアナランドは独立を獲得して国名をボツワナと改めました。この政変によって人々の生活はさほど変化しませんでしたが,伝道の業は影響を受けました。独立した新政権はボツワナの国籍を持たないアフリカ人に対して非常に厳しく,南アフリカから来ていた大勢の開拓者たちは追放されました。

ボツワナで証言はどのように行なわれるでしょうか。前置きのあいさつをし,その中で互いの健康について尋ね合うというのが普通の習慣になっています。それが済むと,みんなが座れるように長いすが何脚か運んで来られます。家族の他の成員,および訪問客がいればその人も呼ばれ,20名ほど集まることが少なくありません。大抵の家族は聖書を持っており,喜んで聖書を取ってくると話についてきます。

この国では,親が息子の嫁にしたいと思う少女のために4ポンドのお金と毛布1枚およびドレス1着を払うのが習慣です。少女がまだ10歳の時にそうしたことが行なわれます。その後も男性側の両親は,少女が結婚できるようになるまで引き続き彼女を扶養します。それは少女の了解を得ずに行なわれるのです。15歳の一少女は真理を知るようになった時,不信者とつり合わないくびきを負いたくないと両親に話しました。両親は,その少女のお金をもらっているので,彼女を無理に結婚させようとしました。しかし,少女は,そのような取決めが間違っていることを聖句を使って両親に納得してもらい,自分の好きなようにすることを許されました。

大会の会場にふさわしい場所がなかなか見つからず,いつも仮設の小屋を建てるのに多くの時間をかけなければならないので,兄弟たちはマハラッピィに自分たちの王国会館を建てるよう励まされました。彼らはそれを実行に移し,レンガを自分たちで作って焼きました。その王国会館は何年もかかって完成し,1967年に大会の会場として使用されました。

ボツワナのブッシュマン族はどうなのだろう,弓矢を使って狩りをし,今やっと文字で書き表わされつつある舌打ち音の入った言語を使うこの部族のだれかが,新秩序社会の一員となるだろうかといぶかったことがありますか。さて,ブッシュマン族の女性と同せいしていた男の人に真理が伝わりました。聖書研究が始まり,間もなく彼らは合法的に結婚しなければならないことを学びました。その男の人はブッシュマン族の女性と結婚するでしょうか。そうです,彼はその女性と結婚し,ふたりそろって巡回大会で浸礼を受けました。ふたりは1年以内に読み書きを学び,住んでいる土地の人々全員に優れた証言をしてさらに他の人々を弟子にし始めました。

1972年,ヨーロッパ人の有能な兄弟たち数人は,ボツワナの兄弟たちを援助するためそこへ移住するようにという召しに答え応じ,家族と共に南アフリカからやって来ました。いうまでもなく,そのためには幾らかの犠牲も払わねばなりませんでした。長期間ボツワナに滞在するためにはそこで世俗の仕事に就かねばならなかったので,ある人は開拓奉仕をあきらめることさえしました。しかし,英国から来たそれらの人たちはじめ数名の兄弟たちは,ボツワナの兄弟たちを築き上げるためにたいへん優れた働きをしました。そのうちのある人々はボツワナの非常に辺ぴな土地にまで移って行きました。兄弟たちは彼らがいてくれたことを当時も今も大いに感謝しています。そして業は前進しました。

合法性の問題が起きたが解決された

次いで衝撃的なことが起きました。政府がエホバの証人をふさわしい組織として公認することを新しく発布された法律に基づいて拒否したため,1973年7月20日に組織は違法を宣告されたのです。そうした“違法”の組織に入っているというだけで法律にふれ,最高7年の刑に処されました。

しかし,兄弟たちは変化した事情の下でもがん張り続ける決意でした。まず,禁令が出されそうなことが明らかになった時,支部事務所の兄弟たちは業を監督している人々と会合して助言と励ましを与えました。禁令が実施される直前,エホバの過分のご親切によってふたつの巡回大会がボツワナで開かれ,兄弟たち全員に優れた励ましと指示が与えられました。

ボツワナの憲法に基づいて政府の決定を上訴するため直ちに法的な手続きが取られました。そしてほんとうにうれしいことに,1974年2月20日,政府はエホバの証人を合法的な組織として公認したのです。それによって兄弟たちは禁令が敷かれる以前の状態に戻っただけではありません。今や彼らは公認の組織に対して差し伸べられている特権を活用できる立場にありました。したがって,近隣の国々から全時間の伝道者に来てもらうこともできました。

1975年3月,兄弟たちは284人という伝道者の新最高数を得て大きな喜びを経験しました。それは2,220人にひとりの割合で伝道者がいるということを意味します。確かにボツワナではまだ膨大な業がなされねばなりませんが,エホバの過分のご親切によってそれが成し終えられることをわたしたちは確信しています。

スワジランドでクリスチャンの活動が前進する

1960年,スワジランドの王国の業は繁栄しつつあり,平均伝道者数は380人でした。伝道者ひとり当たりの人口の割合はエランズフォンテイン支部の管轄下にある国々の中ですでに最高の割合でした。協会の文書に対する禁令は解除されており,一層の発展のための舞台は整っていました。

1960年代に至るまでほとんど発展しなかったのはヨーロッパ人の区域でした。1960年ごろ,ヨーロッパ人の伝道者数人がブレーマーズドープ(現在のマンズィニ)に引っ越しました。その中にスコットランド人のイアン・キャメロンがいました。彼は南アフリカの女性と結婚するまでエランズフォンティン・ベテルで奉仕していました。南アフリカ共和国の永住権が得られなかったため,スワジランドに住んで設立された神の王国の音信をそこのヨーロッパ人に伝えることにしたのです。マンズィニの伝道者の小さな群れは,スワジランドの全域,すなわち約1万7,353平方㌔の地域で奉仕することを決めました。そのためには,再訪問をしたり聖書研究を司会したりするのに160㌔を優に超える旅行を何度もしなければなりませんでした。

間もなく,音信に答え応じる心を持つ人々が現われ始めました。ヴィク・ダンキンと彼の妻アイリーンはスワジランドの特別開拓者として協会から割り当てられました。ローヴェルドを横断する砂利を敷いたでこぼこ道,ウススの森を通り抜けるすべりやすい泥道,ゴドゲグンへの曲がりくねった道,こうした道のために車はすっかりいたんでガタガタになりました。しかし,ダンキン兄弟姉妹はへこたれませんでした。間もなくその苦労が実り,ふたりは報われました。英語の会衆が組織されたのです。その成員のほとんどは,スワジランドにいる間に真理を学んだか,少なくともエホバに献身した人々でした。英語が話されていたとはいえ,その会衆は実は国際的で,会衆の伝道者は大英帝国の横断面を表わしていました。

それと同様の国際的なふん囲気はムババネの街路においてもはっきり見られます。民族衣装を着たスワジ人が,商店のウィンドーの中をのぞき込んでいるヒッピーやアメリカ平和部隊のそばをかすめて通ります。店の中ではポルトガル人の商人がりゅうとした服装のアフリカ人の公務員に応待しているかもしれません。こうした情況ですから,伝道者たちはしばしば何種類もの言語の出版物を持って行かねばなりません。

クリスチャンの中立が示される

植民地解放の世界的な動きに合わせて,スワジランドも独立の準備を進めており,人々は一層国家主義的になっていました。選挙の日が来た時,投票所の責任者は次のように発表しました。「わたしたち全員が投票するのに先立って,部落で投票を拒否する,シャデラク,メシャク,アベデネゴのような者たちが明らかにいる。依然として拒否し続けるなら,その者たちひとりひとりに出て来てもらおう」。その部落の孤立した伝道者たちは勇敢にも名乗り出ました。関心を抱いていた人々もそれに促されて証人の側に立ちました。投票は強制的なものでなかったので,それら中立なクリスチャンたちが訴えられることはありませんでした。

1967年9月に行なわれた独立記念式典の直前に,エホバの民は,様々な人種グループ間の一致をみごとに証明しました。スワジランドの英語の(ヨーロッパ人の)会衆は東トランスヴァールの巡回区に属しています。そこで,スワジランドで巡回区全体の大会を開き,アフリカ人の兄弟たちを招待する取決めが設けられました。会館は小さ過ぎましたが,それが真の兄弟愛を示す機会となりました。会館の中にヨーロッパ人の兄弟がたくさんいて,アフリカ人の兄弟はあまりいないことが知らされると,アフリカ人の兄弟たちのために席をあけようということばが次々に伝わりました。後に,アフリカ人の巡回監督は,非常に大勢のアフリカ人の兄弟が屋内にいる一方,ヨーロッパ人は外で立っている,と心配しました。英語とズールー語で行なわれた公開講演には652名の人々が集まりました。

国家主義的な精神は多くの部族的な慣習,たとえばウムクワショのおきてなどの復活を促しました。その部族的なおきてによって,女性は1971年8月までの2年間ウムクワショを身に着けなくてはなりませんでした。ウムクワショというのは首につける装飾品の一種で,象徴的な意味を持っています。婚約している女性は赤と黒の組合せのものを,その他の未婚の女性はみな青と黄色の組合せのものをつけました。その期間中すべての女性は性関係を持たないようにしなければなりませんでした。ただし,すでに婚約している女性は,土地のしゅう長に1ラント支払って相手の男性と性関係を持つことが許されました。そうした取決めが設けられたのは,その地方の王女シダンダをたたえるためでした。それは一種の被造物崇拝であり,お金と引き換えに姦淫を許すものでしたから,エホバの証人はウムクワショの期間を守ってそれを首に着けることを拒否しました。そのおきては部族的なものにすぎず,国の法律によって行なわせることのできないものであったにもかかわらず,堅い立場を取った若い姉妹たちの中にはつらい目に遭った人もいました。一例として,真理にいない両親を持つひとりの若い女性は,ウムクワショをつけなかったために刑務所に10日間入れられました。しかし,彼女が行っていた学校の校長が釈放するよう要求してくれたので,刑務所から出ることができました。

エホバの証人の子供たちは,両親からふさわしい訓練を受け,神から見て清く汚れのない崇拝の大切さを認識するように助けられてきました。(ヤコブ 1:27)子供たちの多くは,それが偽りの崇拝の一部であると気づくまでは校歌をうたったり祈りに参加したりしていました。その後は,どんな宗教行事にも参加しないという子供の数が増加しました。そのために大勢の子供たちがひどく打たれ,ほとんどの子供は放校処分を受けました。その時兄弟たちは自分で子供たちを教えたり,他の学校に通わせたりするようになりました。

困難のさ中にあって満ちあふれる祝福

ズールー語の「真理」の本は,スワジランドの兄弟たちに祝福となったもうひとつの道具です。この本のおかげでこれまでよりもはっきり真理が理解できるようになった,という人は少なくありません。確かに,この本は,誠実な人々が聖書の真理を学んでとこしえの命に至る道に来るのを助けています。

1972年中に,この国の兄弟たちは今日までのところ最後の地域大会を開きました。その大会のあと憲法が廃止され,大きな集会を開くには警察の許可が必要になったのです。証人は1974年10月にスワジランドで宗教的な組織として認められたにもかかわらず,現在まで警察は兄弟たちにその許可を与えることをがんとして拒否してきました。巡回大会を開くのにもいろいろ苦労がありました。そうした大会を開く唯一の方法は,様々な会衆が通常使っている集会場所に分散して開くことでした。

冊子を用いた業には熱烈な反応があり,最初の冊子が配布された1974年2月には伝道者の数が新最高数の750人に達しました。わたしたちの兄弟姉妹たちは非常に熱心で,1974奉仕年度中,ひとりの伝道者に対する1か月平均伝道時間はほぼ14時間ほどでした。事実,スワジランドで徹底的な証言がなされていない所は現在ほとんどありません。

他の国々におけると同様,王国をふれ告げることはキリスト教世界の僧職者を怒らせ,彼らは,証人の業を禁止させようと試みるほどになりました。そして,1975年4月2日,王ソブーザ二世の前でエホバの証人を非難しました。証人たちはだれかが死んでも悲しまず,敬意を持って死者を扱わないと言ったのです。その時兄弟たちはほんの数人しか出席していませんでした。それで王は,もっと多くの人がいる所で問題をさらに詳しく討議できるように,1975年5月3日に再び集まりを開く取決めを設けました。その集まりはロズィタにおいて屋外で開かれ,出席者全員は木陰の地面に座りました。王自身はその集会に出席せず,農業相が司会者を務めました。話したい人は手をあげ,司会者に呼ばれたならマイクロフォンのところに行って話すことができました。

まず,だれかが死んだ時にエホバの証人はどんな気持ちになるかについて,ひとりの兄弟が真実を述べようと努めたところ,絶えず妨害されました。もっとも,その日に話すことができた兄弟たちもいました。兄弟と姉妹は大勢出かけました。実際,証人たちの数は他の人々より圧倒的に多かったのです。証人はだれかが死ぬとその遺体をけったり,悪魔に滅ぼされたのだと言いながらひつぎを墓に投げ込む,といった偽りの非難がなされました。司会者は自分の思うままに人を指名しましたから,そうした偽りの非難を反ばくする機会を得ることは困難でした。その集まりは午前10時ごろから夕方の6時まで続きました。一日の終わりが近づいたころ,反対者たちは,人の死を悼むという点で証人たちを非難できないことに気づいたので,証人たちが国旗の敬礼や国歌をうたうこと,また兵役に服することを拒むといった他の問題を持ち出しました。その時までに日が沈んで来たので,司会者はそれら別の問題は次の機会に話し合うことにすると言いました。

数人の国会議員,また特に牧師は,エホバの証人がスワジランド全国で行なっている業を抑制しようと決意していました。エホバはご自分の意志が十分に成し遂げられるよう取り計らわれることを知っていますから,わたしたちはその問題をエホバのみ手にゆだねます。

南アフリカにおける組織の発展

1961年の下半期に南アフリカで会衆の監督のための王国宣教学校が開かれ,兄弟たちと王国の業に著しい影響を与えました。4人の教官が国内を旅行し,王国会館が教室になりました。そうしなければならなかったのは,距離的な問題があっただけでなくアフリカ人が一定の期間一地域から別の地域へ行くのを規制する,政府の人口移動統制政策のためでもありました。授業に出席した人々すべては,組織を通して与えられたエホバのこの愛ある備えに深い感謝を表わしました。

1961年5月,南アフリカ連邦は共和国になりました。それ以来,この国でもかつてないほど国家主義の精神が現われました。最初,そのために真の崇拝をしている人々が妨害されることはありませんでした。が,後日,エホバの王国に忠誠な人々に真の試練が臨みました。それについては後にお話ししましょう。

1961年10月から11月にかけて,3つの主要な人種グループのために開かれた「一致した崇拝者の全国大会」中,エホバの証人は彼らの一致とクリスチャンの中立を示す優れた機会を得ました。ヨーロッパ人の大会の開会日は総選挙の投票日とぶつかりました。大会に関するパンフレット(「どの政府が一致をもたらすか」)はエランズフォンテインの工場で印刷され,何万部も配布されました。その結果はといえば,公開講演にそれまでの最高数に当たる人々が出席しました。3つの大会の合計出席者数は2万2,551人だったのです。大会会場内に見られるあらゆる人種間の一致した平和な交わりは,外の騒々しい政治的分裂とあまりにも異なっていました。

やがて,エランズフォンテインで数々の調整がなされました。たとえば,アフリカ人の兄弟たちが,翻訳者とか速記者として奉仕すべくベテルに招かれました。アフリカ人の速記者たちは,文字をズールー語とかホサ語,あるいはセソト語に翻訳しながらタイプしました。ですから,兄弟たちは彼らの必要や問題に関する明確な助言を与えられたわけです。他の方言の翻訳者たちの多くもベテルに招かれました。訪問者がベテルの中を通ると南アフリカで“原住民の”仕事と考えられている部屋の掃除や建物の管理および洗たくをヨーロッパ人の姉妹と兄弟が行ない,アフリカ人の兄弟たちがタイプライターに向かって座っているのが見られるようになりました。

南西アフリカにおける宣教者の努力

そのころ,南西アフリカではどんなことが起きていましたか。1950年に3人の宣教者がそこで奉仕し始めました。彼らはウィントフークを皮切りに区域の他の部分へだんだん移って行きました。1951年,そのうちのふたりは北に移り,銅山の町ツメブでふたりの「失われた羊」を見いだして大きな喜びを味わいました。そのふたりはかつて組織と連絡を取っていたことがあり,間もなく,野外奉仕に活発に参加するよう助けられました。約64㌔南のグルートフォンテインでは,ドイツで真理に触れていたボグシュ兄弟姉妹が見いだされました。今や再び組織と接触したふたりは,また奉仕に参加し始めました。さらにふたりの伝道者がオチワロンゴに住んでいました。そのふたりは南アフリカ連邦から引っ越してきた人々でした。その後,何年も前から「ものみの塔」誌の予約購読者だった父親と息子が見いだされました。その親子は,献身の段階まで急速に進歩しました。

1952年の末までに南西アフリカの伝道者数は一足飛びに29名になりましたから,3人の宣教者は非常にうれしかったに違いありません。

1953年,さらに5人の宣教者が到着し,すでに南西アフリカにいた3人の宣教者の歓迎を受けました。その宣教者たちはウィントフークに住んだので,他の3人の兄弟たちはもっと北とか南の土地に任命されました。数週間ほどで,新しい宣教者はそれぞれ8つから10の聖書研究を司会していました。業はそれ以後発展しました。

しかし,ひとつの問題が依然として前面に立ちはだかっていました。それは,良いたよりをいかにして効果的にアフリカ人に伝えるかということでした。初期の宣教者のひとり,ジョージ・コエットはウィントフークのアフリカ人特別区(町)でアフリカ人を対象に幾らか奉仕したことがありましたが,当局者は僧職者の圧力に屈して,コエットに与えた特別区への立入許可を無効にしたのです。南アフリカから開拓者を招く努力は彼らに受け入れられませんでした。1959年に地域監督は特別区に入る許可を原住民行政官に申請しましたが,行政官はその申請を冷たく拒否しました。しかし,その週の後半に行政官は休暇ででかけたので,兄弟たちは町役場の吏員のところに行って特別区へ入る許可を願い出ました。その願いは聞き入れられ,「幸福な新しい世の社会」と題する映画が216人の認識あるアフリカ人を迎えて上映されました。

1953年以来,ディック・ワルドロンはアフリカ人特別区に入る許可を得ようと再三試みましたが成功しませんでした。その後ディックとコラリー・ワルドロン夫妻は自分たちに子供が生まれることを知りました。ふたりは任命地を離れなければなりませんか。いいえ,彼らはとどまることに決めました。後に,オーストラリアにいるコラリーのお母さんが重い病気になったという知らせが来ました。その時ワルドロン夫妻は南西アフリカのウィントフークをあとにしてオーストラリアに帰る決心をしました。ところが,彼らが出発する週に,アフリカ人とカラードを対象にして業を行なう許可がおりたという知らせが入ったのです! ふたりはどうするでしょうか。7年間も待ってやっと得た許可を返上しますか。ワルドロン兄弟は船の予約を取り消して,彼の妻と娘だけがオーストラリアへ行きました。母娘はオーストラリアで4か月過ごして帰ってきました。その間ディック・ワルドロンは多くの時間を費やしてアフリカ人とカラードに証言し,満足のゆく結果を得ました。アフリカ人とカラードのための最初の巡回大会では公開講演に100名の出席者がありました。

アフリカ人の民衆に伝道する

あらゆるアフリカ人に音信を伝えるためには,出版物を人々が話している言語に翻訳して印刷することがぜひとも必要でした。しかし,それまでのところ翻訳をする教育を受けたアフリカ人の兄弟がいませんでした。しばらく前,初期の宣教者の指示のもとに世俗の翻訳者によって幾つかの小冊子がナーマ語,クワンヤマ語およびヘレロ語に訳されました。それらは印刷されて配布されましたが,翻訳があまりにもあいまいで不正確なため,良い結果を生まないことがわかりました。今度もこの世の人々を用いなければならなかったとはいえ,もっと細かい監督が必要とされました。

ディック・ワルドロンは正確な翻訳を得るためにどんな努力をしたかについて次のように語っています。「真理を学んでいて,真理について幾らか知っている教員たちを主に用いましたが,わたしはそのそばに座って,彼らといっしょにひとつひとつの文章が真理かどうか確かめる作業をしなければなりませんでした。ナーマ語は語彙が限られています。たとえば,わたしは,『最初アダムは完全な人間だった』ということの要点を通じさせるように努めました。翻訳者は頭をかきながら,ナーマ語には『完全』という単語がないと言いました。『あ,わかった』,と彼は言いました。『最初アダムは熟した桃のようでした,ですね』。しかしながら,いろいろな問題があったにもかかわらず,やがて「新しい世の生活」と題する小冊子はヘレロ語,ナーマ語,ヌドンガ語およびクワンヤマ語に翻訳されました。

エーウィン・シュニードと彼の妻ゲートルードおよび娘のカリンは1956年にスワコップムンドという海岸の町へドイツから移住していました。彼らの親族はそこへ移住することを懸念していましたし,彼ら自身どんな生活が待ち受けているかはっきりわかりませんでした。どんな奇妙な人々に会うでしょうか。どんな異様な音を出す言語を学ばねばなりませんか。「暗黒」大陸で前途にどのような危険が横たわっていますか。ワルヴィス湾に上陸したその家族は,こともあろうにドイツ語を話す白人に迎えられました。事実,彼らの新しい故郷となる小さな町スワコップムンドは,建築様式や習慣また主に使われている言語からして,ドイツから持って来られたような町でした。後に,彼らの家族の他の成員も到着して,関心のあるほかの人々は真理を受け入れるのを助けられ,今や会衆を設立することが可能でした。

ケープ州のカラードの兄弟たちは漁業と関連してその区域に引っ越すようになり,特にワルヴィス湾でアフリカ人に良いたよりを広めるために多くの働きをしました。そうしたアフリカ人の大多数は,北部のオバンボランドのような故郷からわずか1,2年の労働契約で来ます。その後彼らは帰らなければなりません。したがって彼らの多くは協会の文書を数冊求め,それをオバンボランドに持って帰ります。フィレモン・カロンゲラというオバンボ族の人は,ワルヴィス湾で真理を十分に受け入れ,オバンボランドへ帰って伝道することができました。彼は実際そこでしばらくの間特別開拓者として働きました。

真理を受け入れた最初のホッテントット人

エラ・クライトンは南西アフリカで真理を受け入れた最初のカラードでした。彼女はナーマ(ホッテントット)語も流ちょうに話せました。ですから,彼女が真理を受け入れた最初のホッテントット人の援助者であったのも全く当然のことでした。

ホッテントットのその愛すべき年老いた兄弟,“オウパ”ヨド(おじいちゃん)ほど波乱に富んだ人生を送っている人はまずありません。少年のころホッテントットの戦争中にドイツ人に捕らえられた彼は,人生の大半をウィントフークで働いて過ごしました。ついでながら,その戦争は1890年ごろ終わりました。彼は教育をほとんど受けませんでしたが,部族のことばであるナーマ語ばかりかドイツ語とアフリカーンス語でも読み書きができます。エラ・クライトン姉妹が彼と聖書研究を始めた時,“オウパ”ヨドは70歳台の後半だったに違いありません。彼は教会の柱のような人物でしたから,彼が大いなるバビロンから退いたことは少なからぬ動揺を引き起こしました。南西アフリカのいろいろな所から牧師たちが,以前の宗教に復帰するよう説得するために彼の家に集まりました。“オウパ”ヨドは,エラ・クライトンに助けられて,牧師たちの試みを一切退けることができました。親せきの人々は泣いて懇願しましたが,無駄でした。“オウパ”ヨドは真理を見いだしたのです。

近年の発展

エホバは,多種多様な人種や国籍の人々からなるこの国でご自分の業の速度を速めておられます。1973年末に,エホバはレホボス地域のバスター族が証言を受ける道を開かれました。その年まで,エホバの証人が王国の音信を伝道する目的でそこへ入ることは許可されませんでした。その区域の北部,すなわち,ほぼ50万人のアフリカ人の「保留地」のある地方で,業の小さな足がかりが得られるようになりました。現在オバンボランドでは4つの伝道者の群れが働いており,国境を越えた所に住むひとりの特別開拓者が一時的な巡回監督として定期的にそれらの群れを訪問しています。エホバの証人たちはその「保留地」の人々に良いたよりを伝えるためあらゆる機会を捕らえてはいるものの,門戸が広く開けられて,その比較的広い地域に全時間の働き人を派遣できるようにと願い,かつ祈っています。

南西アフリカでは1947年にただひとりの人が真理をふれ告げていましたが,その後すばらしい拡大がみられました。そのひとりが増加して,1975年3月には王国をふれ告げる人の数が322名という最高数に達しました。もし,北部の区域をもっと十分に切り開くことがエホバのご意志であれば,南西アフリカのその地方からも十分の収穫を期待できます。

忠実な人々は特権を楽しむ

南アフリカでも,南西アフリカの“オウパ”ヨドのような初期の伝道者の優れた模範があり,そのうちの数人は今でも開拓者として働いています。彼らはエホバへの奉仕の数々の特権を楽しんできました。それら昔からの忠実な人々のひとりである,アフリカ人の姉妹,アニー・モセレバは最も古い特別開拓者でした。1966年,彼女は18年間開拓奉仕をした後91歳で亡くなりました。彼女はたいへん高齢だったので,地域社会の人々から非常に尊敬され,他の伝道者が成功しない所ですばらしい成果を上げました。彼女はたった1年間に8名の人が真理の側にしっかり立つのを助け,13件の家庭聖書研究を司会しました。

南アフリカのもうひとりの忠実な模範者はジョージ・フィリップス兄弟です。1927年以来彼は支部の監督として奉仕しました。兄弟たちは,彼のエホバに対する専念と彼が示した模範ゆえに同兄弟を深く尊敬しています。フィリップス兄弟はエホバの組織を常に忠節に支持し,真理のための真の闘士であり,粘り強い兄弟であることを証明しました。彼はほんの始まりの時期から1940年代の困難な時代を通じて業を導きました。そして南アフリカの組織が一握りの伝道者から1966年の2万人を上回る伝道者に成長するのを見ました。1966年の7月末にフィリップス兄弟はベテルを去らねばならなくなりましたが,彼の心は依然全時間奉仕にあり,しばらく後にケープタウンの近くのストランドで開拓奉仕をしました。

フィリップス兄弟から支部の仕事を引き継ぐことのできる非常に有能な兄弟がいました。それは,ザンビアのかつての支部の監督で,前の年に妻とともにそこから追放されていたハリー・アーノットでした。彼は,何年もの間地帯の監督として南アフリカに来て働いたことがあったので,そこの兄弟たちによく知られていました。アーノット兄弟は兄弟たちから十分の信頼を得,支部の監督として2年間奉仕しましたが,彼も初めての子供が生まれることになって,その奉仕の特権を手離さなければなりませんでした。

1968年6月以来,フランス・ミュラー兄弟が支部の監督として奉仕しています。彼は1960年から支部の監督の補佐を務め,奉仕部門で働きました。ミュラー兄弟は,夫人とともに1959年にベテルに招待されるまで,巡回監督とか地域監督として全国を回って奉仕していました。

支部の監督がめまぐるしく交代しても,業は何も損なわれず,万事は引き続き順調に運びました。エホバの業は一個人に依存してはおらず,エホバはご自分に用いられたいと進んで願う人をお用いになれるということが,すべての兄弟たちに再び明らかになったにすぎませんでした。

「真理」の本は羊のような人を助ける

1968年の地域大会中に,「とこしえの命に導く真理」と題する本が発表され,6か月間の聖書研究課程が導入されました。それから拡大が起き始めたのです!

南アフリカ共和国における文書の配布数は急上昇しました。再訪問と聖書研究も増えました。「真理」の本が入手できるようになった時,支部の発送部門はかつてない事柄を経験しました。1960年から1967年にかけて,年間平均9万冊の書籍が発送されていました。ところが,1968年にはそれが急に12万5,000冊を上回ったのです。次いで1969年に「真理」の本のアフリカーンス語版が現われ,同年末にはズールー語,ホサ語およびスペディ語の「真理」の本が発表されました。1970奉仕年度中,支部は44万7,000冊を超える書籍を発送しました。

「真理」の本は非常に多くの地方語で入手できたので,南アフリカの広い地域でできるだけ多くの農民に音信を伝えるために特別の努力が払われました。それらの農民の大部分は幾㌔も離れて住んでいますから,車でなければ会いに行くことができません。協会の支部事務所にはそうした農業地区の地図ができていて,会衆は農業地区の区域を申し込むように励まされました。それには良い反応があり,幾つかの会衆は自分たちの家から320㌔以上離れた区域を受け取りました。農民たちに王国の良いたよりを伝えるため,兄弟たちは幾千㌔も行きました。ひとつの自動車部隊は約500平方㌔を網羅し,100軒の農家を訪れて,90冊の「真理」の本を配布しました。真理に飢え渇く人々が多数見いだされ,兄弟たちは再訪問したり手紙を書いたりして彼らを援助しました。

南アフリカのポルトガル人の区域

アンゴラに関する先の記述の中で,ヘンリーク・ヴィエラが南アフリカへ行く途中ルアンダを訪れたことを述べました。彼はヨハネスバーグに定住し,そこの会衆のひとつで奉仕しました。しかし,ヴィエラ兄弟はポルトガルからの唯一の移民ではありませんでした。南アフリカが繁栄していて良い就職口があるので,ポルトガル人とかギリシャ人,また他の様々な国籍を持つ人々が何千人もヨーロッパから移ってきています。リーフには推定8万人ほどのポルトガル人が住んでいるのです。

1965年までにはすでに,ヴィエラ兄弟と彼の妻はそうしたポルトガル人の移民の中から相当の関心を示す人を見いだし始めていました。英語を知っているポルトガル人はめったにいなかったので,それらの人々が王国の音信を知るのを助けるためにポルトガル語を話す証人の必要性が感じられました。1966年1月に11人のポルトガル人の伝道者からなる群れがヨハネスバーグに作られました。ヨハネスバーグでポルトガル人は皆一か所に集まって住んでいるわけではありませんから,伝道者たちが1,2家族を見つけて証言するのに午前中一杯かかることも少なくありませんでした。ひと家族にも会えない日曜日もありました。それにもかかわらず,その小さな群れは非常に急速に発展し,1967年末までには約50名の伝道者をもって新しい会衆が発足しました。

その後ヨハネスバーグ市内および近郊におけるばかりか,いたる所でポルトガル人の間に着実な成長が見られ,間もなく,ダーバン,ポート・エリザベス,ケープタウンおよびブルームフォンテーンにポルトガル人の兄弟たちの群れができました。

それらの兄弟たちは時々故郷に帰ります。その主な目的は決まって,ポルトガルのカトリックの町や村に住む家族と友人に証言することです。一例として,ひとりの新しい兄弟と彼の妻は,休暇でポルトガルに帰った時,家族にどのように証言を始めようかといぶかっていました。ふたりが非常に驚き,また喜んだことに,家族のひとりは彼らに証言し始めたのです! それがその家族にとってどれほど幸福な再会であったかご想像いただけることでしょう。

南アフリカのギリシャ人の区域

リーフにほぼ3万人いるギリシャ人の中の真理に関心を抱く人々を世話するため,1969年初頭にギリシャ人の会衆がヨハネスバーグに作られました。当時野外奉仕報告を出していたギリシャ人の兄弟はわずか24人にすぎませんでした。ところがほんの1年4か月後にその会衆は,5名の正規開拓者を含む62人の伝道者を有するまでに成長し,一時開拓者も毎月3,4人いました。そこでも重要な奉仕の分野で優れた出発が見られました。

ギリシャ人はウィットウォーターズランド全域,100㌔ほどにわたって散在しています。したがって,電話帳を利用したり,英語とアフリカーンス語を話す会衆の援助を得て,ギリシャ語の会衆は,“区域”となるギリシャ人全員の住所録を作り始めました。ヨハネスバーグにギリシャ語の会衆が作られてからほどなくして,他の数か所,遠くはダーバンにおいてもギリシャ人の小さな群れが築かれました。

その人たちは,ギリシャ正教会の宗教的な束縛という重いくびきにつながれてきましたが,すぐに真理を認め,ためらうことなく決定を下します。彼らは大抵,聖書研究が始まった時から集会に出席しますし,友人や親族に証言し始めます。

国際的な趣のある大会

このような外国人がみな集まるのですから,南アフリカの大会は真に国際色を増してきています。地域大会とか全国大会では,外国人の兄弟たちのために特別席が設けられ,それぞれの言語でプログラムが聞けるようになっています。

「国際大会」といえば,1969年の「地に平和」国際大会は,それまで南アフリカの神権史上で起きた出来事すべてをしのぐものでした。まず期待が寄せられていました。次いでそれは実現し,南アフリカの500人を超す兄弟たちはロンドン大会に出席しました。また大勢の兄弟たちが,ニュルンベルクのマンモス大会を含む,ヨーロッパの他の場所での大会に行きました。

ある人々はそれ以前にも国際大会に出席したことがありました。しかし,大方の出席者にとってロンドンにおける1969年の「地に平和」大会は,終生忘れることのできない感動的な出来事でした。その中には,南アフリカから初めて国際大会に出席したアフリカ人の兄弟たちがいました。そのうちの10人は,大会旅行基金によって協会から派遣された全時間奉仕者でした。多くの兄弟たちにとって,飛行機で旅行することはおろか,飛行機を身近に見るのもその時が初めてでした。しかし,彼らに最も感銘を与えたのは物めずらしい飛行機旅行ではありませんでした。いうまでもなく,大会で与えられた霊的な食物から大きな感銘と益が得られました。しかし,それらアフリカ人の兄弟たちは,飛行機の中で白人の兄弟たちから受けた愛やもてなしに,また,英国で白人の兄弟の家に泊めてもらったことにも深く感動したのです。それは南アフリカでは法律によって禁じられていることです。レソトのニコルソン・マケタは,大会のプログラム以外で何が一番印象的だったかと聞かれてこう答えました。「ヨーロッパ人の兄弟たちと彼らの家でともに過ごし,兄弟たちが組織から与えられた家庭生活の助言をどのように適用しているかを見たことです」。

そうした経験はアフリカ人の兄弟たちに,エホバの証人は世界中全く同じであることを証明しました。彼らは,このような経験ができるようにしてくれた仲間のクリスチャンの寛大さにどれほど感謝したかしれません。

「地に平和」国際大会に出席した人々は霊の宴を非常に楽しんだので,1969年12月31日から1970年1月4日にかけて南アフリカで開かれる「地に平和」全国大会で再び同じプログラムを見聞きすることを楽しみに待ちました。しかも何と大勢の聴衆が集まったのでしょう! 三つの公開集会の合計出席者数は4万5,821名で,バプテスマを受けた人は1,294名でした。

セントヘレナにおけるすばらしい前進

1969年7月にロンドンで開かれた国際大会で,南アフリカの兄弟数名は,セントヘレナから出席していたジョージ・スキピオと彼の娘に会いました。スキピオ兄弟は彼らに,セントヘレナのような小さな島でくる年もくる年も同じ人々に証言するのは信仰と忍耐を真に試みるものとなると語ることができました。しかしながら,数年間にわたってセントヘレナでは驚くべき進歩が見られたのです。

区域は非常によく網羅されており,協会の文書もたくさん配布されているので,家の人に聖書を持ってきてくださいと言うと,「新世界訳聖書」を持って現われることが珍しくありません。「真理」の本が到着すると,聖書研究は1969年にひとり平均1.2件に増加しました。しばらく前から真理を知っていた大勢の人々がはっきりとした立場を取るよう助けられました。この本は,また,不活発な伝道者を元気づけるのに役立ちました。

伝道者の数は引き続き増加しており,王国をふれ告げる人々の歌声はセントヘレナでずっと大きくなっています。1975奉仕年度中,伝道者の数は99名という最高数に達しました。今や区域は狭くなり,ひとりの伝道者が平均51名からなる区域を受け持っていることになります。それでもなお,強い関心が示されています。

アセンション島の人々は良いたよりを聞く

セントヘレナの北西約1,000㌔の地点にあるこの島から初めて報告を受け取ったのは1965年のことでした。報告した人はB・テイラー姉妹で,ケーブル・アンド・ワイヤレス会社に勤務していた彼女の夫はその会社からアセンション島に派遣されていたのでした。ほぼ88平方㌔のこの島の人口は当時300人をやや上回っていたにすぎません。たったひとりで奉仕することはテイラー姉妹にとって確かに挑戦でした。しかし,彼女はその挑戦を受け入れ,毎月平均23時間奉仕し,3件の聖書研究を司会しました。

1968年までにアセンション島の人口は2,000人に増えていました。同年テイラー姉妹は英国に旅行しました。そこで,関心のある人々の世話をするためセントヘレナからジョージ・スキピオが渡って来ました。「この島の人たちは羊飼いのいない羊のようです」,と彼は語っています。強い関心を示す人々がいたので,スキピオ兄弟は自分の家族ごとアセンション島に渡ることにしました。それは伝道の業を大いに盛り立てました。

ある時,一件の聖書研究は夜の10時から行なわねばなりませんでした。というのは,交替制の関係で家の人が9時過ぎまで働く週があったからです。とても気温が高いので,ふたりは夜のベランダで研究したものです。そこは近所の人に見える所でしたから,ふたりは嘲笑されました。その人は進歩して,自分が真理を学んでいることに気づくと,こう言いました。「多くの人がエホバの証人でないのはなぜかが今わかりました。人々は近所の人からなんと言われるか,どう思われるかを恐れているのですね」。その家族は集会に出席し始め,集会を楽しみました。書籍研究で時が緊急なこと,しなければならない業がまだあることを聞くと,その人は翌日仕事仲間全員に証言し始めました。自分も学んでみるため聖書と書籍を求めてくれる人をひとり見いだしたので,彼は大喜びしました。

スキピオ兄弟と彼の家族は9か月後にセントヘレナへ戻らなければなりませんでした。しかし,彼らは手紙を書いて聖書研究者たちと連絡を取り続けました。それら関心を抱く人々のひとりに,午前中仕事の休み時間に開拓者であるスキピオ兄弟の家に来て,水を一杯くれませんかと言った若い男の人がいました。翌日彼はまた水を飲みに来て,しばらくその場に立っていましたが,聖書をわけてくれませんかと同兄弟の妻におずおず聞きました。彼女はすぐに聖書を手渡し,その若い男の人を書籍研究に招待しました。彼は自分の書籍を求めて書籍研究にやって来ました。同兄弟の13歳になる息子と研究を始めた彼は着実に進歩しました。

スキピオ兄弟が去った後,その若い男の人は真理の側にしっかりと立場を取りました。雇い主から軍の建物や教会の建物にペンキを塗るように言われた時にはそれを断わりました。職工長でさえ,どんなに議論しても彼の考えを変えることはできませんでした。

ここ3年の間,アセンション島から野外奉仕報告は1度も受け取っていません。島でただひとりの伝道者は英国へ定期的に旅行し,報告は滞りがちでした。わたしたちは彼女がどうなったのかはっきりわかりませんが,恐らくエホバは「おりの中へ」導かれるべき,この島の羊のような人々をなお知っておられるでしょう。―ミカ 2:12

血に関する神の律法を支持する

南アフリカでは時々血の問題が起こります。こんな例がありました。妊娠6か月のあるアフリカ人の姉妹は突然出血し始めました。病院では医師たちが輸血を命じました。マーシュ兄弟姉妹は自分たちの聖書的な立場を説明しましたが,医師や看護婦から嘲笑されたにすぎませんでした。姉妹は30分ごとに検査を受けました。その後,看護婦のひとりは,胎児の心臓の鼓動が聞こえないから,お子さんは胎内で死んだと思うと姉妹に告げました。それで医師は“死んだ”胎児を取り出したい,だが,そうするには輸血は絶対に必要だと考えました。姉妹は胎児が動くのを感じると言いましたが,病院側は子供は死んでいると主張しました。マーシュ兄弟姉妹はその病院を出て他の病院に行きました。途中,兄弟は,どんなことが起きても忠実を保つようにと姉妹を励ましました。他方の病院に着いて,自分たちの血に関する立場を説明すると,夜勤の看護婦はそのことを書いた声明書に署名するようふたりに求めました。検査の結果,子供はまだ生きていることが明らかになりました。治療が施され,姉妹は急速に回復しましたが,検査のため2週間ごとに通院しなければなりませんでした。医師は輸血なしで帝王切開をすることに同意しました。出産の時が来た時,姉妹は入院を許されました。ところが,医師たちが手術の準備をしている間に,姉妹はふたごの男の子を無事に出産しました。その兄弟姉妹は,エホバの律法に忠実だったことをほんとうによかったと思いました。

インド人の区域は産出的であることがわかる

南アフリカにはインド人が非常にたくさんいます。しかも近年,多くのインド人が真理に入ってきました。現在,トランスヴァール州とナタール州にインド人の会衆が幾つもあります。その中には,かつてヒンズー教徒だった人や,名目は教会クリスチャンだった人,また回教徒だった人がいます。しかし,現在彼らは南アフリカの他のエホバの証人たちと一致して,霊と真理とをもってエホバを崇拝しています。―ヨハネ 4:23

再度の拡大

ものみの塔協会の会長,N・H・ノア兄弟が南アフリカに来て支部の土地家屋を拡張する取決めを設けたのは1959年のことでした。それ以来ずっと,南アフリカと近隣の諸区域の兄弟たちはノア兄弟が再び訪れるのを楽しみにしていました。1970年までにベテル家族は68名で,人手が足りない状態でしたから,再びベテル家族を大きくする時が来ていました。1970年6月号の「王国奉仕」で,全国大会を開くために地域大会を取りやめることが発表された時,ブルックリンから訪問者があるかもしれないという希望が大きくなりました。ところが,11月になって初めて,「ノア兄弟来訪の予定!」という発表が「王国奉仕」に掲げられたのです。兄弟たちは大喜びでした。そして,彼らは,1971年1月7-10日に予定された「善意の人々」大会に是が非でも出席しようとしました。

南アフリカには人種差別があり,あらゆる人種グループはそれぞれの町に住んでいるため,3つの別個の大会を取り決めなければなりませんでした。ヨーロッパ人はミルナー・パーク・ショー・グランド,カラードはカラード地区のユニオン野球場,アフリカ人の兄弟たちは,何十万人ものアフリカ人が住んでいるソウェトの大きな団地にあるモフォロ・パークにそれぞれ集まりました。

モフォロ・パークはへりに木が立ち並んだだけの公園で設備は何もありません。ですから,アフリカ人の兄弟たちは,ヨーロッパ人の兄弟たち多数に助けられて,3万人分の座席を作り,様々な部門の施設を設けるという大仕事を行ないました。兄弟たちは予想される大勢の人々のために水洗便所さえ設備しました。現場を訪れた市役所の職員は,「わたしたちはあなたがたが行なっておられることに驚いています。あなたがたはふたつの町を建てられたのですからね」,と述べました。彼らは,公園内のズールー語とセソト語の区画のことを言っていました。

それらの大会で,初めての試みが大成功を収めました。それは,一団の俳優が無言で劇を演じている一方,大会のそれぞれの区画では同時にふたつの言語でせりふを聞くことができるようにするという試みでした。そのためには,幾時間もかけて膨大な仕事をしなければなりませんでした。しかし,兄弟たちは自分の言葉で聞くことの出来た劇の優れた教訓の益を余すところなく得ることができたので,その試みを深く感謝しました。

ノア兄弟は,自分に割り当てられた幾つかの異なるプログラムに間に合うように,ひとつの会場から別の会場へと忙しく走り回りました。彼が即席で行なった,「これは道です」と題する講演は特に感謝され,兄弟たちは,その講演から受けたすばらしい助言のことを後々まで語っていました。最高潮となったのは公開講演でした。カラードの大会に2,770人,ヨーロッパ人の大会に1万2,252人,アフリカ人の大会に3万3,757人が出席し,出席者の合計は実に4万8,779人でした。当時南アフリカには証人が2万2,000人ほどしかいなかったことを考えると,それはすばらしい出席でした。

ノア兄弟は出席していた兄弟たちに対する非常に励ましとなる閉会のことばの中で,エランズフォンテインの協会の工場,事務所およびベテル・ホームの拡張計画について述べ,また,伝道者がどのように援助できるかをも説明しました。

ベテルの家族そのものも,ノア兄弟の支部訪問を大いに感謝しました。ノア兄弟は,家族の成員の大部分が若い人であることに気づきました。そのほとんど全員は献身した両親に育てられた人たちで,ベテルにいることを喜んでいました。

エランズフォンテインのベテル家族にはかなり年配の人もいます。たとえば,アンドルー・ジャックは今80歳ですが,まだ午前も午後も仕事をしています。かつての「兄弟たちのしもべ」,ガート・ネルは現在71歳になりますが,それでも「ものみの塔」誌をアフリカーンス語に翻訳しています。エランズフォンテインの家族は,一致のうちにともに住み,ともに働く幸福な家族です。アフリカ人の兄弟姉妹14名を含むその成員は非常に多くの異なった背景を持っているにもかかわらず,この家族には愛と一致の温かい精神があります。ベテル・ホームの公用語は英語ですが,家族は多くの言語で人々に奉仕しています。つまり,ズールー語,セソト語,ホサ語,ツワナ語,スペディ語,ドイツ語,ギリシャ語,アフリカーンス語およびポルトガル語です。この家族は,南アフリカの兄弟たちばかりか,コンゴ(キンシャサ,現在のザイール),モザンビーク,ローデシア,ザンビアの兄弟たちにも仕え,彼らのために印刷の仕事をしています。

ノア兄弟がエランズフォンテインの建物の増築の規模と,増築の業は兄弟たち自身で行なわれるということを知らせると,圧倒的な反応がありました。寄付金が支部事務所にどっと届き始めました,多額の貸付金が寄せられ,協会の支部事務所は兄弟たちにもう十分ですと言わねばなりませんでした。ところが,そのころ南アフリカにはセメントが不足していたので,兄弟たちは必要量のセメントが入手できるかどうかあやぶんでいました。ちょうどその時,インド人の兄弟は電話をかけてきて,セメント500袋(1袋は50㌔入り)を寄付したいので受け取って欲しいと言いました。他の人々は協会が運搬用に使えるトラックを提供し,ひとりの兄弟は必要な化粧レンガを約64㌔遠方から運搬しました。開拓奉仕をしているあるアフリカ人の姉妹は,建築用の砂を売る会社に約15立米の砂の代金を払いました。兄弟たちは王国の業の拡大のために喜んで物質的なものを提供したのです。―箴 3:9,10

建築工事の全期間中,十分の資格を備えた建築家,大工,電気技師その他の職人が多数仕事をかって出ました。数か月間だけ来た人もいました。週末には近隣の諸会衆から幾百人もの人々が手伝いました。反響はすばらしく,建設の後半で仕上げに多くの援助が必要だった時,200名もの援助者が働いていたこともありました。兄弟たちは一緒に働くことを心ゆくまで楽しみ,彼ら全員の間に平和と一致の優れた精神が行き渡っていました。

ほとんどすべてが兄弟たちの手で行なわれました。建築家,機械屋,電気技師・鉛管工,大工などはみな献身した兄弟たちで,彼らは建築工事に携わることを喜んでいました。ですから,外部の会社が行なったことはほとんどありませんでした。また,この建築事業はあらゆる人種の兄弟たちが王国の奉仕にともに働く優れた機会となりました。人種差別の法律があるため,彼らは普通それぞれの地域社会,言語グループに分かれて別個に集まりました。ところが,そこではアフリカ人,カラード,インド人そして白人の兄弟たちが一致してともに働いていました。そうしたことはこの世では決して成し遂げられません。

兄弟たちの寛大さを示す一例として,1階にコンクリートを流した日のことが挙げられます。実際,手伝いに来た兄弟があまり大勢だったので,ある兄弟たちは別の仕事を割り当てられました。作業は,まだあたりの暗い午前6時から始められ,その日の午後4時30分までに184立米のコンクリートが流し込まれてコンクリート打ちは終わったのです。兄弟たちは幸福でした。また,彼らの間にはすばらしい精神がみなぎり,多くの人が金銭的な寄付をして,提供した労働を補いたいという気持ちを持っていました。1日が終わった時,兄弟たちは,生コンクリートの値段が割引額で3,300ラントであることを知りました。しかし,それらの働き人による寄付を合計したところ,生コンの費用よりも多かったのです! なんと優れた精神ではありませんか!

いたる所から支持が寄せられました。セントヘレナの二人の年若い姉妹からは次のような心温まる手紙が届きました。「親愛なる兄弟たち,この寄付をどうか建築資金にしてください。サンドラとわたしはナイロンのひもでバッグを作り,それを1ポンドで売りました。わたしは9歳で,サンドラは6歳です。クリスチャン愛とともに」。

建築作業は,承認された設計図が届いた1971年5月6日に開始されました。10月まで支部の監督は建築を12月末までに終わらせるように兄弟たちを急がせていました。「どうして急ぐのですか」と兄弟たちは尋ねたものです。とはいえ兄弟たちは作業を続け,建設作業は,仕上げとかペンキ塗りその他が残っているだけで,12月末までにほぼ完了しました。1972年1月30日,日曜日までに,その仕事は完成し,ベテルに古くからいる成員の多くがベテル・ホームに新たに増設された17の美しい居室に移りました。工場は今や800平方㍍ほど拡張されました。

1972年1月31日,月曜日の朝,支部の監督は協会の会長N・H・ノアとブルックリンの工場の監督M・H・ラーソンが南アフリカを訪問するため2,3時間後にジャン・スムッツ飛行場に到着すると発表しました。なんという驚きでしょう。また,それはなんとすばらしい訪問ではありませんか。ふたりの兄弟はその建物を非常に喜びました。2月2日,水曜日の夜に開かれた新しい建物の献堂式に出席した577名の兄弟たちも大きな喜びを味わいました。

こうした事柄はすべて,エホバの民が喜んで自らをささげたゆえに成し遂げられました。(詩 110:3)今や彼らには,献身した人々によって建てられた美しい建物があります。しかも,民間会社に依頼した場合の費用のおよそ半分の費用で出来たのです。エホバの献身したしもべが示した進んで行なう精神に対し,あらゆる賛美はエホバに帰されますように!

中立の立場が再び問題となる

1972年中,若い兄弟たちの中立の立場が南アフリカで激烈な論争となりました,以前エホバの証人は兵役を免除されていましたが,今や,アフリカで政治活動が非常に盛んなため,白人の若い男子すべては軍事教練を受けねばなりませんでした。対象となる若い兄弟たちは,それを拒んだため,一律に90日間の営倉送りになりました。彼らは制服の着用を拒んだので,下着だけでそこに閉じ込められました。ところが,90日の刑期が終わらないうちに,兄弟たちは制服を着るように再び要求され,それを拒絶するとさらに90日間の刑が言い渡されました。それらの若い兄弟たちは無期限に刑務所に入れて置かれるかに見えました。

時がたつにつれて,その問題はしだいに広く知られるようになり,公正な人々は,国会においてさえ,証人をはっきり弁護しました。やがて法律が変えられ,現在,軍事教練を受けることを拒んだ兄弟は1年間営倉に送られますが,その後は兵役を免除されます。以前中立の立場を取ったクリスチャンは独房に入れられましたが,今は営倉の一区画で互いの世話をするよう割り当てられます。ラグビー場や他の一般のスポーツ競技場で戦争に関係のない仕事をするかたわら,そこで自分たちのために幾らか庭作りをします。

困っている兄弟たちを援助する

1972年10月13日,南アフリカの新聞は,マラウィでエホバの証人が迫害され,ザンビアに逃げたことを報道しました。南アフリカ支部は,同国の兄弟たちがどのような形で援助できるかを問い合わせるためにザンビア支部と連絡を取りました。

ザンビア支部は直ちに調査して南アフリカへ次のような電報を送りました。「マラウィの避難民は雨露をしのぐ住まいを緊急に必要としている。軍隊の余剰テント,太いゲージのポリ塩化ビニルすなわちビニールのシーツ地,防水布かそれに類するものを入手できるか。輸入許可に関する詳細は電話する。関係者は約7,000人」。10月18日付で南アフリカのエホバの証人の諸会衆に救援が求められました。すぐさま寛大な反応があり,全国からお金と衣類が協会支部にどっと寄せられました。

軍払い下げの防水布1,000枚余が特別売出しで購入されました。その中には,小さな穴があいていたり破れた箇所があったりして,修理しなければならないものも少なくありませんでした。10月21日,22日の週末には,決して忘れることのできない光景が見られました。衣類を積んだ乗用車,箱型貨物自動車,トラックがひっきりなしにベテル・ホームに到着したのです。衣類を男性用,女性用,子供用に仕分けする場所が発送部門に2箇所設けられ,良い品物だけが包装されました。外では,約150人の兄弟姉妹たちが,防水布につぎを当てたり,ほころびを縫ったりしていました。10台以上の工業用ミシンが常時動いていたのです。自発奉仕を申し出る人があまりにも大勢で,多くの人に帰ってもらわねばなりませんでした。どの人も,ザンビアのシンダ・ミサレのキャンプにいる仲間の兄弟たちを援助することにあずかりたいと願っていました。

進んで提供された2台のトラックが日曜日の朝までに到着しました。その2台の大型トラックは,大きなズックの防水布948枚,衣類を詰めた大箱とかご157個,毛布1,111枚,幾巻きものロープ,ハンマー,のこぎり,シャベルその他を積んで10月23日,月曜日の午後にシンダ・ミサレのキャンプに向けて出発しました。その2台のトラックはほぼ34㌧の荷物を運んだのです。南アフリカの兄弟たちは,マラウィの兄弟たちのために熱烈な祈りをささげることに加え,そうした方法で救援にあずかれたことを非常にうれしく思いました。

その週の終わりまでにトラックはザンビアに着きました。1台のトラックはルサカで荷物を降ろして南アフリカに戻り,もう1台のトラックは,ザンビアの兄弟たちのそれより小さな5台のトラックと一緒に,ザンビアの兄弟たちから提供された食物や物品,寄付金を受け取ってキャンプに向かいました。兄弟たちが寄付したもの全部を運ぶのにキャンプまで3往復しなければなりませんでした。

トラックがキャンプに到着し,南アフリカとザンビアの信仰の仲間からおおう物や衣類および食物が送られたというニュースがマラウィの兄弟たちの間に広がると,兄弟たちの目からは喜びの涙がとめどもなく流れました。それこそ,ヨハネ 13章35節にある次のようなイエスのことばが真実であることの明白な証拠でした。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。

間もなく兄弟たちはマラウィに送還されましたが,その後さらに迫害されたため,モザンビークに逃げました。モザンビークのキャンプにいる兄弟たちに衣類と食物を数台のトラックに積んで送るためあらゆる努力が払われましたが,成功しませんでした。そこで南アフリカの兄弟たちは,衣類を10㌔ずつ小包にして郵送し始めました。小包1個の郵送料は4.44ラントでした。16㌧ほどの衣類がそのようにして送られたのです。そればかりか,兄弟たちは,食物を買うお金を寄付することによって難民キャンプにいるマラウィの兄弟たちに真の愛を示しました。南アフリカの大勢の兄弟たち個人からキャンプへ寄せられた寄付のほかに,10万ラント(約4,260万円)がマラウィの救援に使われました。南アフリカの兄弟たちは,モザンビークにいたマラウィの兄弟たちのために援助を差し伸べることができて喜びました。また,彼らはマラウィの兄弟たちに対して引き続き愛ある関心を示しています。

喜ばしい国際的な出来事

南アフリカのエホバの証人にとって,1973年は国際大会の開かれる年でした。まず最初,南アフリカから千人ほどの人が,ヨーロッパ,英国およびアメリカでの国際大会に出席するために出かけました。彼らの熱意はヨハネスバーグで自分たちが開く国際大会への熱意を盛り立てる助けになりました。南アフリカは初めて国際大会開催国に加えられ,ヨーロッパや世界の他の土地から大勢の人々がやって来ることが期待されました。

兄弟たちは3つの別個の大会,すなわち白人のための大会,カラードとインド人のための大会およびアフリカ人のための大会を開くことを計画しました。そして,日曜日の午後のひとつのプログラムの時だけ3つの大会を合同させる計画でした。大会期間中ずっとひとつの合同の大会を開く許可は下りないことを知っていたからです。ところがいろいろな問題にぶつかったのです。

まず,ヨハネスバーグでアフリカ人の大会を開くことは許可してもらえませんでした。したがって,アフリカ人の大会は5つの都市で開かれることになりました。それはエホバの民にとって敗北どころか祝福でした。というのは,大会に出席できないと思われた多くのアフリカ人の兄弟が,費用のかからない近隣での大会に出席することができたからです。

しかし,そのほかにも問題がありました。国家に軍事上の問題があったため,内務省はエホバの証人を好意的に見ませんでした。そのため,エホバの証人の大会に出席すると述べた訪問希望者の多くはビザを出してもらえませんでした。その中には,アメリカ支部の監督ミルトン・ヘンシェルと協会の会計秘書であるグラント・スーターも含まれていました。南アフリカの兄弟たちは非常にがっかりしました。

とはいえ,大会は神の勝利に変わりありませんでした。ヨーロッパから大勢の兄弟たちが観光客として入国し,南アフリカの兄弟たちとのすばらしい交友を楽しみました。ヨハネスバーグ地区のアフリカ人の大会は,同市の東方約32㌔にある都市,ベノニに移されました。1974年1月6日,日曜日,プログラムは午前9時に始まり正午に終わりました。前もってすべての手はずが整えられていて,正午から3時までの間にヨハネスバーグで開かれている2つの大会の出席者と,ベノニの大会の出席者全員は,最後の合同プログラムが開かれるヨハネスバーグのランド・スタジアムに移されました。3つの会場から一箇所,すなわちランド・スタジアムへの円滑な変更ぶりにはみな驚嘆しました。兄弟たちは自動車やバス,あるいは電車を使ってひとつの流れのように続々とランド・スタジアムに集まりました。会場は満員になり,出席者の合計は3万3,408名でした。多くの人は立っていました。

アフリカ人,カラード,白人の兄弟が一緒になってエホバを崇拝している光景は,そこにいたエホバの証人の目にほんとうに美しく映りました。人種差別などありませんでした。英語を知っている人はどの席でも座ることができましたから,兄弟たちはその機会を利用して他の人種の兄弟たちと一緒に座りました。ズールー語が好きな人はズールー語の区画,セソト語を話す人々はセソト語の区画に座ることができました。アフリカーンス語とポルトガル語の区画もありました。それは全くの“混交”社会であり,だれもが非常に幸福でした。事実,彼らはあまりにも喜びに満ちていたので,拍手をしすぎないようにさせることは困難でした。兄弟たちはかつてそれほどの幸福を経験したことがありませんでした。それで多くの兄弟たちはその機会のことを“忘れ得ぬ”午後と言いました。

どうしてそうしたことが実現したのですか。神の導きにより,しかもそれと気づかずに,兄弟たちは,国際的な異人種間の集まりのために設けられているヨハネスバーグのひとつのスタジアムを契約したのです。そのプログラムを行なうだけなら許可を得る必要がありませんでした。「神の勝利」大会全部の公開講演に出席した人の合計は5万6,286人で,1,867人がバプテスマを受けました。

孤立した区域に対する前例のない運動

1974年は王国の良いたよりの伝道においてこれまでに最良の年になりました。証人たちは,南アフリカの広大な農地とアフリカ人の“故郷”に住んでいる人々のところに行こうと努力しました。そうした土地の中には一度も証言を受けたことのない所がありました。ですから,孤立した区域の運動中,それらの人々すべてに会うために特別の努力がなされました。都市部の諸会衆は,幾百㌔も離れた区域の割当てを喜んで受け入れました。ヨーロッパ人の農家すべてと,農場にあるアフリカ人の部落全部が載っている特別の地図が購入されました。ヨーロッパ人の会衆は,アフリカ人の住人にも証言しながら,すべての農場を網羅しました。アフリカ人がヨーロッパ人の話すことばを理解できない所では,小型のカセット・テープレコーダーを使って,人々が用いている言語による聖書の話を聞かせました。文書を求める人がたいへん多かったので,その運動期間中に堅い表紙の付された書籍のほとんど全部がなくなりました。アフリカ人の会衆は,ヨーロッパ人が入ることを許されていない“故郷”を集中的に奉仕しました。3か月の運動期間中,14万冊の書籍,9万2,000冊を上回る小冊子,および多数の雑誌が配布されました。特別開拓者の幾つかのグループは,その運動中割り当てられた区域内の農場全部を回るために1,400㌔を上回る距離を旅行しました。

1974奉仕年度の末にはうれしいことに,バプテスマを受けた人がすばらしい新最高数である4,055人,平均伝道者数が14%の増加,そして伝道者の最高数は2万8,397人という報告をすることができました。「王国ニュース」の配布により,業は一段と活発になりました。

引き続き見られる神の祝福

王国を伝道する業は確かに着実に前進しています。なんと,1975奉仕年度には6月の初旬までにすでに2,462名がバプテスマを受けました。エランズフォンテイン支部の管轄下にある人々すべてに音信を伝えるため,孤立した区域の運動が1974年度よりも大きな規模で再び計画されました。

一方,雑誌の生産が増加して,エランズフォンテインの工場やホームおよび事務所は手狭になり,建物をまた拡張しなければなりません。この報告を書いている時点で,増設部の設計図は出来上がりつつあります。計画によれば,食堂,台所,洗たく部門を2倍に広げ,工場を約1,800平方㍍増築し,370平方㍍ほどの新しい事務所を建て,大きな王国会館を増設することになっています。

兄弟たちは,エホバの祝福を受けていることを示すあらゆる証拠から大きな喜びを味わっています。しかし,彼らは敵からの反対を予期しなければならないことも自覚しています。目下彼らはヨハネスバーグの最高裁判所で扱われている法律事件に忙しく携わっていますが,それは,アフリカ人の学童が宗教的な歌をうたうことや偽りの宗教組織の祈りに参加することをしなくても通学できる権利を擁護するためです。ヨーロッパ人の証人の子弟の多くも,理由は異なりますが放校されています。それは子供たちが軍隊式の行進に参加したり,国旗に敬礼することや国歌をうたうことを拒否するからです。こうした問題がどんな結果になるか,兄弟たちにはわかりませんが,エホバの指導を信頼しつつ,王国の良いたよりの伝道を推し進める決意をしています。

ジョンストン兄弟が使用した小さな事務所で1910年に発足した,職員ひとりの最初の支部のことを考え,現在の立派なベテル・ホームや,ローデシア,ザンビア,ザイール,ケニア,マラガシーおよびモーリシャスに設立された新しい支部とそれとを比較する時,その大きな違いに全く驚かされます。1924年にブルックリンから送られ,フィリップス兄弟が据え付けた手動給紙の小さな活版印刷機のことを念頭に置きながら,王国の雑誌や他の印刷物を大量に生産している機械設備の整った今の印刷工場の中を歩いてみると,なんという拡大ではありませんか! 1951年当時,別々に住んでいた21名からなる小さなベテル家族が,今では110名の兄弟姉妹の一致した幸福な家族です。なんという発展でしょう! 1931年には,この支部事務所が管轄していた区域全体で伝道者がわずか100名いたにすぎませんが,今日同じ区域に14万人を超す良いたよりの伝道者がいるのですから,兄弟たちはエホバに対する深い感謝の念にあふれています。神が今日行なわれることは,過去における他のご行動と同様にきわめて重要です。兄弟たちは詩篇作者の次のことばをふさわしくも自分たちのことばとすることができます。『これエホバの成したまえる事にしてわれらの目にあやしとする所なり』― 詩 118:23

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1952年に建てられた,エランズフォンテインのベテル・ホーム

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南アフリカのエランズフォンテインにある,ものみの塔協会の事務所と印刷工場