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インド

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インドはアジア大陸南部の半島にあります。その国土は非常に広く,それゆえに亜大陸と呼ばれるのももっともなことです。

インドは地形学上幾つかの区分に分けられます。北部の山岳地帯には,頂上に雪をいただく高峻な,世界に名高いヒマラヤ山脈があります。また,ここにはガンジス川やブラマプトラ川などの水系の源があります。

ヒマラヤ山脈の南には大高原地帯が扇状に広がっており,その東端は肥よくなガンジス川のデルタ地帯,西端のラジャスタンは半乾燥性気候の砂漠になっています。ガンジス川の谷間はたい積層が厚く,地上で最も肥よくな地域のひとつです。しかし,また,この流域は世界で二番目に人口密度の高い所でもあります。

西のアラビア海から東のベンガル湾まで伸びているのは,デカン高原として知られる半島の高台部です。その西の端は,息を飲むような壮大な景色で知られています。畏怖の念を起こさせる山の頂からは幾筋もの滝が時を経たみぞをつたわって落ち,神の創造の美を呈しています。様々な色合いの緑でおおわれた谷間は一望の下にはるかかなたまで見渡せます。この西側の尾根は三つの重要河川,すなわち,ゴダバリ川,クリシナ川,コーバリ川の水源となっています。

インドには野生動物にしても家畜にしても種々様々の動物がいます。珍しいユキヒョウがヒマラヤ山脈にひそんでいるかと思えば,南部の密林には働き者のゾウがいます。西部では,姿を消しつつあるアジア産のライオンが保護されている一方,ほとんどの森で見かけるのはピューマです。堂々たるトラも減少しつつありますが,大抵の森にいます。いなくなりかけているサイは現在北東部においてのみ解放されています。また,野生のカモシカ,バッファロ,犬,ハイエナ,クマ,シカ,サルがあちこちにいます。

家畜の中でも水牛は特に乳を採るために飼育されています。農作業には今だに雄牛を欠かすことができません。また,ロバも荷役に使われています。

住民と宗教

インドの住民は世界人口の約七分の一を占め,主に七つの人種から成っています。しかし,優勢なのは北方人種とドラヴィダ族の二つです。前者は(インド北部に住んでいる)一目で分かるようなヨーロッパ人の特徴を持ち,ドラヴィダ族は(主として南部に住んでいる)ほっそりした体格で,黒い皮膚をしています。

インドの憲法は15種類の言語を公用語として認めています。そのうちの主要なものはヒンディー語で,1億8,100万人の人々が用いていると言われています。とはいえ,およそ872もの言語や方言が様々な部族と人種グループによって用いられているのです。現在のところ,英語は引き続き商業および工業用語となっています。

ヒンズー教は最も古くからインドにある宗教で,西暦前6世紀にペルシャ帝国がインドまで版図を拡大した時に広まりました。その他土着の宗教である仏教とジャイナ教があります。これらはどちらも,西暦前6世紀,ユダヤ人がバビロンに捕らわれたころに発生したものです。後の西暦15世紀にはシーク教が興りました。8世紀に初めて回教徒がインドに侵略しました。現在,全住民の約10%は回教徒です。インドの人口,6億900万人のうち,キリスト教世界の諸宗派に帰依している人々は2.5%にすぎません。1973年当時,インドにはクリスチャンと称する人が1,400万人近くいました。その多くは南インドのケララ州に住んでいます。

真のキリスト教がインドに到来する

ある人々は,使徒のトマスがインドの国に初めて真のキリスト教の種を植えたと唱えています。しかし,それは確かな裏付けのない,単なる伝説にすぎません。もっとも,マケドラス市の郊外には聖トマスの山という小高い丘があります。使徒トマスはそこで殉教の死を遂げたとされており,丘の頂上には彼にささげられた宮があります。仮に伝説が真実であれば,サタンは王国の子たちである立派な種の間に「雑草」をまくことに首尾よく成功したとも言わねばなりません。なぜなら,背教したキリスト教が南インドのその地区で繁栄しているからです。―マタイ 13:24-30,36-43

しかしながら,以下の話は伝説などではありません。アメリカに渡っていたS・P・デイヴィという,自然科学の一学徒は1905年にものみの塔協会の初代会長であるチャールズ・テイズ・ラッセルに会いました。ラッセルとしばらくの間聖書研究をした後,デイビィは王国の業を開始するためその同じ年に生まれ故郷のマドラス州に帰りました。彼と同じくタミル語を話す人々に宣べ伝えた彼は,やがてインド半島の最南端にあるナゲルコイル市内およびその周辺に40ばかりの聖書研究グループを作りました。

1905年には,A・J・ジョセフという21歳の学生も聖書の真理を探求し始めました。ジョセフと彼の両親は英国国教会の共同社会に属していました。ジョセフは幼いころから両親によって聖書に対する深い認識を教え込まれたものの,疑問ばかりを感じていました。アドベンチスト派の出版物数冊に接したジョセフは,もっと明確な聖書の説明を知りたいと思っていました。三位一体と幼児洗礼の教理に混乱させられていましたが,父親や他のだれかから納得のいく説明をしてもらうことはできないことを知っていたのです。

ジョセフの父親は,南インドのアドベンチスト派団体の責任者であるP・S・プリコデンに手紙を書いて,三位一体を説明した本を持っていないかどうか尋ねるようにと勧めました。プリコデンは探求心のあるジョセフに,チャールズ・T・ラッセルの著書である「神と人間との和解」という本を送りました。ジョセフ青年はその本を通して,エホバ神の至上権,エホバとみ子イエス・キリストの関係および聖霊の意味を理解していました。「聖書研究」という双書の一冊であるこの本を読み,そこから協会の住所を知った彼は,間もなくアメリカからラッセルの著書をすべて取り寄せました。そして,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌の定期購読者になり,「聖書研究者月刊」やそれに類する冊子を配布することも始めました。

1906年の初めごろ,ジョセフの家族は王室保護州であるトラヴァンコール(ケララ)の,香料とゴムの貿易中心地であるコッタヤムという市場町の近くに住んでいました。熱心にも,ジョセフは「代々にわたる神の計画」(「聖書研究」第一巻)を故郷の言語であるマラヤラム語に翻訳し始めました。次いで,ジョセフの父親といとこのオンメンおよび青年ジョセフ自身が真理を友人や親族に熱心に広める際に用いたのは,「研究」第七巻と「代々の図表」です。彼らは,自分たちが新たに見いだした信仰を他の人々と分かち合うため,稲作をしている村やココナツの農園およびその周辺の,蚊がうようよいるたんぼや暑くて湿気の多い密林を歩きました。

1906年の終わりごろ,ジョセフはひどい肺病にかかり,医者の勧めで比較的乾燥した気候のクッダパという町に移りました。そこは彼の家から北東に約644㌔離れたマドラス州の東部,ヴェリコンダとパルコンダにはさまれた川の流域の肥よくな土地にあります。彼はその機会を捕らえて聖書を徹底的に研究しました。そして,回復しないうちに,アメリカのラッセル兄弟から受け取った冊子を配布して熱心に真理を広めました。また,そうするために,その時彼が住んでいた土地の人たちが使っているテルグ語を学ぶことさえしました。モンスーンの土砂降りの雨に遭っても,しゃく熱の太陽に照りつけられても,町や村で人々に王国の音信を伝えようと努力しました。

重要な訪問

「ものみの塔」誌を毎号貪るように読んでいたジョセフは,ラッセル兄弟が1912年の世界旅行の途上インドを訪問することを知りました。マドラス市が訪問地となっていましたから,ジョセフはその機会にラッセルの講演を聞き,彼と直接話し合うことができました。ラッセル兄弟はマドラスのYMCAホールで講演しました。スケジュールが一杯だったにもかかわらず,彼は2時間にわたってジョセフと面談しました。その結果インドに聖書の真理を広める真の基礎が置かれました。ラッセルとその一行は,海港のある商業都市カルカッタとボンベイのほか,宗教都市ベナレス,歴史的な都市ラックナウ,およびトリバンドラム,コッタラカラ,ナゲルコイルプラムおよびヴィザガパタムなどインド全国で講演を行ない,将来の発展のための基盤を作りました。

ラッセルが汽車でマドラスからトリバンドラムに着くと,駅で出迎えたS・P・デイヴィはラッセルの頭に花の冠をかぶせて典型的なインド式の歓迎をしました。英国政府の代表者であるインド総督代理は彼を快く迎え,自分の公邸に滞在するように招待しました。総督代理は協会の初代会長がその町のヴィクトリア・ジュビリー公会堂で話をする取決めを設けました。ラッセルは,デイヴィが住んでいたナラカドという近くの村でも講演しました。後にその村の名前は“ラッセルの村”を意味するラッセルプラムと変えられ,そこは今日までその名前が付いています。

このような集まりのことは,トラヴァンコールのマハラージャ(土侯)の目に留まり,彼はC・T・ラッセルを宮殿に招きました。そのヒンズー教徒の支配者はラッセルを非常に丁重に扱い,彼の写真が欲しいと言いました。後に,ラッセル兄弟の写真はマハラージャの宮殿に掲げられました。ラッセルもマハラージャに聖書と「聖書研究」6巻を贈る手配をしました。

さらに南のナゲルコイルでラッセル兄弟はヨシュア・ヤコブ兄弟に迎えられ,花の冠を受けました。その土地でラッセル兄弟の聖書講演はロンドン・ミッション教会の会員の間に大きな騒ぎを引き起こしました。ヤコブ兄弟は,それからしばらくして次のようなことがあった,と回顧しています。「ある日,わたしが教会のすぐ外で講話をしていると,ひとりの乱暴者がわたしを地面に打ち倒しました。わたしは立ち上がると,こう言いました。『わたしたちはメシアの再臨を宣べ伝えているのですから,わたしたちにこんな仕打ちをすべきではありませんよ』。その取っ組み合いの結果,わたしたちはそれらロンドン・ミッション教会の会員数人が真理に入るのを助ける機会を得ました」。

そうした出来事の後しばらくして,S・P・デイヴィはひどいアルコール中毒者になりました。彼はラッセル兄弟からもらった資金で集会を開くための土地家屋を購入していましたが,経済的に苦しくなると,それを土地の伝道団に売却したのです。彼によって聖書研究のクラスに集められた人々はちりぢりになり,その多くは元いた教会に戻りました。しかし,中には忠実を保ってジョセフ兄弟と共に王国の業を行なうようになった人もいました。

トラヴァンコールは王国の音信を聞く

一方,C・T・ラッセルは,良いたよりを宣明する業を全時間の仕事とするようジョセフに勧めていました。ジョセフは健康に自信がありませんでしたし,謙そんにも自分の限界を知っていました。その上,役所におけるこの世の地位を捨てるのは一大決心の要ることでした。ジョセフは全く自信を持てないながらもラッセル兄弟の要請に喜んで応じました。彼は昔のエレミヤのように,重い責任を担うことはできないと感じました。―エレミヤ 1:4-8

ジョセフは援助を求め,それはかなえられました。アメリカのR・R・ホリスタ兄弟がインドで働くよう割り当てられ,1912年に到着したのです。彼とジョセフは,ココナツやしの美しいトラヴァンコール州全域に協会の出版物を配布するためそれをマラヤラム語に翻訳する計画を立てました。

最初に完成したのは「聖書研究者月刊」から採られた「時代のしるし」でした。ホリスタ兄弟はそうした冊子を大量にネヤッティンカラにいるデヴァサハヤム兄弟に届けることをジョセフに割り当てました。ネヤッティンカラはトリバンドラムの南東約16㌔の所にある,米を生産している町です。デヴァサハヤムも協会の代表者として働いていました。

ジョセフは雄牛が引く荷車で旅行し,その道すがら冊子を配布しました。牛はのろのろ歩きながら小道を通り,ちらちらと水が光る緑の稲田に沿って進み,びんろうじゅの森を通り抜けました。その間にもジョセフはうなりを上げる虫や苦しい条件を耐え忍び,自由を得させる真理をキリスト教世界に属する人々に広め続けました。トラヴァンコールの数多い川を歩いて渡り,ヤシにふちどられた入江をぐるっと回って,ジョセフは「命のことば」を広めながらその絵のように美しい地域を南へ南へと下りました。そしてついにネヤッティンカラでデヴァサハヤムとばったり出会ったのです。―フィリピ 2:14-16

トラヴァンコールはインド中で最も文盲率の低い所として有名でした。それは恐らく,キリスト教世界の,教育的な布教活動がマラヤラム語を話す人々の間で盛んに行なわれていたためと思われます。その教育プログラムは色々な種類の人々,すなわち海岸の漁師,平野部で米作りをする農夫,茶園の労働者,チーク材を切り出す人々,あるいはゴムの生産に従事している人々などの間で行なわれ,インドの他のどの州におけるよりも多くの自称クリスチャンを生み出しました。トラヴァンコールとその隣りのマドラス州は聖書の真理を広めるうえで実りの多い畑だったので,わたしたちの業は前進しました。しかし,ジョセフは満足ではありませんでした。彼はさらに援助を求めました。ホリスタ兄弟がインドに永住しなかったからです。

ラッセル兄弟は,ロンドンのA・A・ハートとシンガポールで聖書文書頒布者をしていたS・J・リチャードソンにインドへ移るよう要請しました。したがって,1913年にハートが到着するとすぐ,ジョセフとハートはデヴァサハヤムに会うためネヤッティンカラに行き,三人で業を促進する計画を立てました。ところが,デヴァサハヤムは忍耐しませんでした。送られた出版物を彼がどうしたのか何も分かりません。ただ,はっきりしているのは,デヴァサハヤムがインドに大勢いる独立的な“説教者”のようであった,ということです。つまり,彼は人々をキリストに導くより,むしろ自分に従わせようとしたのです。その働きはむだに終わりました。

しかしながら,忠実なジョセフ兄弟と仲間のハート兄弟はトラヴァンコール北部のティルヴェラを一時的な拠点にして,そこから同州の北部を網らしました。その当時行なっていたのは主に冊子を配布することと「代々にわたる神の計画」に関する公開講演を行なうことでした。業はよく発展しました。その北部地方では特にそうでした。やがてリチャードソン兄弟がシンガポールから到着し,マドラス市で奉仕し始めました。彼は主として,読み書きができて英語を話し,すでにクリスチャンと称していた英印混血人のグループに宣べ伝えました。こうして,1913年に小さな聖書研究グループがマドラス市に作られました。

反対が少なかったわけではありませんが,トラヴァンコールで業は急速に発展しました。いわゆる“クリスチャン”の伝道所とか主要な町のほとんどで公開講演が行なわれました。間もなく多くの土地で小さな聖書研究のグループが作られました。しかし,ほどなくして第一次世界大戦がぼっ発しようとしていました。

アメリカおよびヨーロッパとの通信が戦争のために一切途絶える可能性があったので,ハートとリチャードソンは1914年11月に英国に呼び戻されました。熱意にあふれたジョセフはひとりで事を行なっていくのに最善を尽くしましたが,間もなく再び外部からの援助を求めるようになりました。そこで,ラッセル兄弟はロンドンのハートにインドへ戻るよう依頼しました。ハート兄弟は1916年7月に到着するとすぐインドの北部地方に行き,とりわけ英印混血人に聖書研究用手引き書の英語版を配布しました。それら英国人の血を引いた人々は,彼らの信仰や生活の仕方からして名ばかりのクリスチャンにすぎませんでした。

幾つかの重要な“初めてのもの”

1916年,兄弟たちはインドにおいて初めての,エホバの民の大会を取り決めました。それはマドラス州南部のチルチラパリ市で12月に開かれ,ハート兄弟がこの「聖書研究者」のインド大会を組織しました。少なくとも4名の友人がセイロンから出席して,その歴史的な大会の出席者は全部で35人でした。

この時,ものみの塔協会の「創造の写真-劇」から採られた「ユリーカ劇」というスライドが広範囲に用いられました。大勢のインド人は,地球と人間に対する神の目的を視覚を通して伝えるこのスライドを見ました。言うまでもなく,当時は電気が今日ほど普及していませんでした。それで,スライドはアセチレンガスの発電機を使って上映されました。

「死者はどこにいるか」および「主の再臨」に関する小冊子が多数発行されました。兄弟たちは,また,「代々にわたる神の計画」のマラヤラム語版が1冊の本になって出たので感激しました。多くの,心の正直な教会員が霊的に目覚めさせられ,各地の村で聖書研究クラスに交わりつつありました。トラヴァンコールの海岸に面した平野部に沿って,例えば,コッタヤム,アイマナム,チンガヴァナム,タラパディ,ミーナドム,アャークナム,カンガサ,ヴァリヤマラ,ナーマンクザイなどでそうした小さなグループが次々に生まれました。事実,ミーナドムはインドで最初に会衆が設立された所です。

反対と禁令

1917年に「終了した秘義」が発行されると,本格的な試練が始まりました。A・A・ハート自身が,彼の援助によって開始された業そのものに反対し始めたのです。トラヴァンコールの信者の中にも「終了した秘義」につまずいて,ハートの側についた者がいました。ハートはトラヴァンコールの「聖書研究者」にあてて公開状を作成しました。また,そこへ戻って行き,自分を支持してものみの塔協会に反対するよう兄弟たちを説得することに努めました。ある者たちは落ごし,アメリカで同じような反逆の先頭に立っていたポール・S・L・ジョンソンのさん下に入りました。しかし,全体的に言って,そのような努力はインドにおいてはあまり効を奏しませんでした。

ところが,別の方向から反対が来ました。1918年にアメリカでラザフォード兄弟と彼の仲間数名が扇動という偽りの告発を受けて逮捕および投獄された時,そのニュースはインドの新聞にも載りました。その結果,英国政府はインドの兄弟たちに敵対的な処置を取り始めたのです。

A・A・ハートは,協会に対して不忠実になっていたのですが,その時セイロンと南インドの伝道を終えるところでした。トラヴァンコールのコッタヤムにあるジョセフ兄弟の家に着いたとたん,彼はその土地の土侯から通告を受けました。それは,英国人の統治者の指示に基づき,一週間以内にインドを離れよ,というものでした。ハートはオーストラリアに行きました。次いで,ものみの塔協会の書籍が禁止されました。もっとも,手もとの在庫文書を隠す努力はなされました。

そうした事情にもかかわらず,禁令の下で王国の業は発展し続けました。K・K・イペ兄弟が真理に接したのはその時,すなわち1919年のことでした。イペはヒンズー教徒でしたが,ミッションスクールに通っていた時に初めて聖書を目にしました。彼は「ブレズレン(同信の友)」の組織とも幾らか交わりを持っていました。しかし,コッタヤムで真理を聞いた時,イペは「りっぱな羊飼い」の声を認めて“聖別された”,すなわちエホバに献身しました。―ヨハネ 10:14,15

イペ兄弟が住んでいた地域ではポール・ジョンソンの追随者が非常に活発に働いていました。それで同兄弟は彼らのことをどのように思ったでしょうか。彼は正直にこう語っています。「ヒンズー教を離れたあと何が何だかさっぱり分かりませんでした。私はジョンソン派の人々にだまされ,しばらくの間彼らについて行きました。しかし,間もなく彼らの教えの誤りが分かるようになり,すぐに彼らと手を切ってエホバの民の側につき,今日に至っています」。

わたしたちの業は禁令下の間聖書だけを使って行なわれました。公開講演と聖書研究の集会は,忠実な人々により,衰えることのない熱意をもって引き続き開かれました。1920年にプトゥパリのK・C・チャコは「大いなるバビロン」から逃れてエホバの側に立ちました。トラヴァンコールで彼が出席した最初のクリスチャンの集会について,チャコは,「司会者が姉妹に祈りを割り当てることは当然のこととして行なわれていました」,と語っています。しかし,事態が正された時,兄弟たちはそれに応じました。

反対に遭っても真理は広まる

禁令は1920年に解除されました。その後間もなく,ジョセフ兄弟はマラヤラム語の「代々にわたる神の計画」を再び印刷させてほしいと,ラザフォード兄弟に願い出ました。資金は与えられ,1923年に1,000冊が印刷されました。このことは再び,特にトラヴァンコールにおいて業を大きく促進させました。

真理が広まるにつれ,僧職者からの反対も大きくなりました。英国国教会の牧師,T・J・アンドルーは魂という論題の公開討論会をジョセフに申し込み,それは受け入れられました。アンドルーはソッタカドという町にある自分の教会の建物を会場として提供し,討論会はビラで宣伝されました。こうして日曜日の午後に約300人が出席しました。命題はこうでした。「人間の魂は不滅で永遠で決して死ぬことがない,と聖書ははっきりと教えている」。アンドルーはそれを証明し,ジョセフは否定することになっていました。

アンドルーがまず1時間話しましたが,用いた聖句はひとつで,『それ人のことは己が中にある霊のほかに誰か知る人あらん』という,コリント第一 2章11節だけでした。ジョセフはたくさんの聖句を使って答え,霊と魂の違いを示しました。それは非常に良い印象を与える結果となり,討論会のあとジョセフのもとにやって来て,もっと話が聞きたいと言った人は少なくありませんでした。その上,農業地帯のトラヴァンコールの真ん中にある,ソッタカドというこの小さな町で新しい会衆が設立されたのです。

ジョセフは今度は,さらに多くの全時間奉仕者をインドにほしいと協会に申し入れました。4人の兄弟が選ばれました。すなわち,ジョセフのいとこのK・C・オンメン兄弟,ソッタカドのマニ兄弟,コッタヤムのK・C・チャコおよびタラパディのK・M・ヴァルギーズです。ヴァルギーズは学校の教師で,マラヤラム語をたいへん上手に書ける人でした。彼は数年にわたり,ジョセフがマラヤラム語で書いた原稿を印刷所へ回すために複写しました。その5人の兄弟たちはチームになって働き,トラヴァンコールの町々村々を旅行し,講演をしたり,聖書研究のクラスの司会を実際にやって見せたり,冊子や他の聖書研究用手引きを配布したりしました。

ジョセフ兄弟は次にインドの他の地域にまで業を拡大しようと努めました。彼は17年ほど前にマドラス州のクッダパ(現在のアンドラプラデシ)で療養していた時にテルグ語を学んでいました。今や彼はハイデラバードという古い州で聖書の冊子を広め,講演を行なう旅行に乗り出しました。旅行中に偶然,ものみの塔協会の出版物の抜粋を幾つか載せた,「千年期光」と題するテルグ語の雑誌を見つけました。ジョセフはそれに励まされてラザフォード兄弟に手紙を書き,協会の出版物の幾つかをテルグ語で発行する許可を求めました。その結果「死者はどこにいるか」と題する小冊子が2,000部と,「主の再臨」と題する小冊子が5,000部出版されました。それからジョセフは,それらの小冊子を配布しつつ,当時のハイデラバード州を広範囲に旅行しました。また,インドにあるキリスト教伝道団住所録を手に入れ,それを使ってキリスト教の伝道所の大半を訪れることができました。

一方,インドの他の場所でも,聖書の真理を広める試みがそれぞれ別個に行なわれていました。人々にジミー・ジェイムズとして知られていたフレデリック・ジェイムズという英国の兵士は除隊して平和の神,エホバに献身して,北の連合諸郡(ウッタル・プラデシ)のカォンポレ(カンプル)に住みつき,そこで電気技師の仕事をしました。

ジェイムズ兄弟は,ひとりきりでしたが,とりわけ軍隊の以前の仲間に神のみ言葉を伝道しました。真の関心を特に示した兵士はジャック・ナタンでした。英軍にいた時,彼はジェイムズという名の「おかしな男」が主の再臨について知っていることを牧師から聞いたことがありました。しかし,ナタンはなかなかジミー・ジェイムズを見つけることができませんでした。ついに彼を見つけた時,ふたりは,ナタンの営舎まで5マイル(約8㌔)の距離を歩いて帰りながら,えんえん午前3時まで話し合いました。ナタンは自分が知りたかった事柄の説明が得られたことをすぐに認めました。そして,1921年に,カォンポレのジェイムズの家で行なわれた主の晩さんに出席しました。その時の出席者は全部で5人でした。その後ジャック・ナタンは仲間の兵士に伝道し,1923年に英国へ戻るとすぐ除隊してエホバ神に献身した生活にいそしむことができました。彼は現在,カナダのオンタリオ州にあるトロントのベテル家族の一員として奉仕しています。

熱意を見せつけられた反対者たち

1923年の半ば過ぎ,故郷のトラヴァンコール州に戻っていたジョセフは,コッタヤム南部のバラムという村で聖書の講演をしました。道端の,影を作っている木の下で一群の聴衆に向かって話をしていると,ひとりのあばれ者がジョセフに飛びかかり,彼のたれ下がったひげ(以前体が弱かったので,のどと肺を守るために医者の勧めで生やしていた)をつかんで集会を中断させました。ジョセフ兄弟はコッタヤムのはずれで自由の身になるまで約6㌔の間文字通り引きずられました。しかし彼の熱意はくじかれませんでした。

その不愉快な場面を目撃したひとりの通行人はジョセフの家にやって来て彼を慰めました。そして,自分が住んでいるチンガヴァナムに来て一週間滞在し,聖書講演をするように,とジョセフに勧めました。神を恐れるその男の人は竹とヤシの葉で集会場を建て,ジョセフは集会の宣伝ビラを印刷してもらいました。丸一週間におよそ300名から400名の人々は,神のみ言葉の教えを受けることができたのです。その親切な人は真理を受け入れ,チンガヴァナムには会衆が作られました。

これらの出来事は大いに注目を集めました。ローマ・カトリック,シリア・キリスト教会および英国国教会は一緒になって真理に反対し,エホバの証人を無神論者と呼びました。証人が三位一体を信じないからです。彼らはチャールズ・テイズ・ラッセルの品性を汚す中傷的な記事を公にしました。それでジョセフは,J・F・ラザフォードが著した「天国における大いなる戦い」と題する小冊子を入手し,その地方で彼が知っている,英語の読める牧師すべてにそれを配りました。こうした反対が回教徒とかヒンズー教徒からではなく,クリスチャンととなえる人々から起きていたことにどうか注目してください。そのころ兄弟たちが開く集会には,憎しみのこもった圧力や乱暴な妨害が何らかの形で必ずありました。反対者たちが好んで行なったのは,叫んだりドラムやあきカンを打ち鳴らして王国の音信をかき消すことでした。それは彼らにとって王国の音信をやり込める唯一の方法だったのです。

コゼンチェリはトラヴァンコールの,こしょうとしょうがを生産する地域にある村で,マートマ(聖トマス)改革教会派の拠点となっています。「創造の写真-劇」をコゼンチェリの人々に見せることになりました。しかし,適当な会館を見つけることがなかなかできませんでした。やっと,その土地の公立学校を使用する許可が得られ,ジョセフは道具を持ってそこに着きました。やがて彼がアセチレンのバーナーの付いたプロジェクターを組み立てて「写真-劇」を上映していると,誤導された狂信家たちが怒った司祭たちに率いられて現われ,騒々しい叫び声を上げて集会を混乱させました。警察に救助を求めましたが,助けは得られませんでした。

もっと南にあるクンダラは,ヤコブ派の堡塁になっており,そこには同派の神学校がありました。クンダラでも反対を受けました。堂々としたヤシや青々としたバナナの木が生い茂る平和な環境の中で,ジョセフ兄弟は「代々の図表」を説明しながら講演していました。するとその時,司祭に率いられた群衆がこちらへ向かって来ました。彼らが打ちたたくカンの音や耳をつんざくような金切り声で,話し手の言葉はかき消されました。狂信的なならず者たちは「代々の図表」を引きちぎって持って行ってしまい,他の者たちはジョセフ兄弟に牛のふんを投げつけました。ヒンズー教の男の人が,この騒ぎは何事か,と仲裁に入り,このようなことをするとはイエス・キリストの模範に従っているのか,それともキリストの反対者たちの模範に従っているのかと司祭に尋ねました。そして,警察を呼ぶと脅したため,司祭はこそこそ逃げ去り,群衆も散って行きました。

業を推し進める

トラヴァンコールにおける業は発展していました。「代々にわたる神の計画」のマラヤラム語は流布され,1920年には「時は近づけり」(「聖書研究」の第二巻)が印刷されました。

1924年には,協会のスイス支部事務所から紙を入手し,「現存する万民は決して死することなし」と題する小冊子のマラヤラム語版が発行されました。

同じ年,ラザフォード兄弟は,ミーナドムに土地を買って集会場を建てるための資金をジョセフに送りました。そこにはインドで最も古い会衆があったのです。その建物はヤシの木で縁どられた田んぼと,枝もたわわに実がなっているパラミツの木立に囲まれていて,たいへんすばらしい集会場所となりました。

A・J・ジョセフ兄弟が,「主の再臨」や「死者はどこにいるか」などの講演をしながら汽車でインド中を回る長い旅に出たのも,1924年のことでした。その講演旅行は,トラヴァンコールのコッタヤムから北東に向かい,遂にはカルカッタに至りました。

次いで彼は,黄麻で有名な州都カルカッタから北西に進んでヒンズー教の巡礼地アラハバードへ行き,それから北上して,織物工業の盛んなカォンポレに着きました。次の講演地はタージ・マハルのある都,アグラでした。それから彼は北西に向かい,アンバラの陸軍駐とん地に行きました。そして遂におよそ5,798㌔の旅を終えて,ずっと南にある家に帰ったのです。単独でそれを行なった努力は確かに立派なものです。しかし,それはエホバの力によって成し遂げられたのです。(フィリピ 4:13)こうして,インドの「土」は,この広い国で神の民がその後行なう業のために整えられていました。

翌年はジョセフ兄弟が個人的に悲しい経験をした年でした。彼自身にそのことを話してもらいましょう。「1925年には,私の家族にたいへんな不幸が起きました。非常に悪質の赤痢のために私の3人の子供が死んだのです。それは私と妻にとって大きな打撃でした。しかし,私たちは復活に対する信仰をしっかり持つことによって慰められました。エホバは,勇気と不屈の精神を持ってその不幸に耐え,業を推し進めるよう私たちを支えてくださいました」。

拡大が始まる

第一次世界大戦の病的な興奮が消えると,「インド全土」において王国の業を確立するもうひとつの試みがなされました。1926年5月に英国のロンドンにあるアレクサンドラ・パレスで開かれた「聖書研究者」の大会で,ジョセフ・F・ラザフォードは,インドにおける王国の業を拡大強化するためにそこへ行ける人がいないか,と英国の兄弟たちに尋ねました。ジョージ・A・ライトとレスリー・シェパードが選ばれましたが,ある理由からエドウィン・スキナーがレスリー・シェパードに代わりました。

若くて独身のライトとスキナーは1926年7月に船でロンドンをたち,その月の終わりごろ,インド特有のモンスーンの豪雨が降る中をボンベイに到着しました。ふたりをさん橋に出迎えたのはA・J・ジョセフと,アブラハムという名前の彼の仲間でした。ジョセフは数日間滞在し,インドですでに業がどの程度行なわれ,どんな結果が得られているかということをふたりに話しました。ふたりは,「ものみの塔」の読者であることが分かっている,関心のある人々,とりわけ,国有の電報局や鉄道に勤める英印混血人の住所氏名を手に入れました。それらの人々は,一家族とか小さなグループ単位ではるか北のクエッタから南のマドラスまでインド中に散らばっていました。したがって,以前より中心部に位置していたボンベイのものみの塔の事務所は,インドの王国の業に対してより良い便宜を図ったり,指示を与えたりすることができました。

ライト兄弟とスキナー兄弟は,ボンベイ市の中心地区にあるラミングトン街に一軒の家を借りました。支部の運営は変更され,エドウィン・スキナーが新しく支部の監督になりました。その拡張された支部は,区域として膨大な人口を有する広範な地域,すなわちインド,ビルマ,セイロン,ペルシャおよびアフガニスタン全域を管轄しました。

最初,彼らは,ふたつの公開講演,すなわち「現存する万民は決して死することなし」および「死者はどこにいるか」の宣伝に努力し,講演会場として,ボンベイのドホビ・タラオにあるウエリントン・シネマという古い映画館を借りました。その結果,出席して住所氏名を教えてくれた人々数名と接触できました。関心を示した人々に引き続き援助がなされ,数名の人が支部事務所に集まって聖書研究をするようになりました。その人たちは,当時のマドラス管理の西部にあるマンガロールで主に活動していた,ドイツ・バーゼル・ルーテル派伝道団と交わる名目上のクリスチャンでした。その地方の言語はカナラ語ですが,講演は,商工業上ボンベイの人々が普通に用いていた英語で行なわれました。

ライト兄弟とスキナー兄弟の隣りに住んでいた人たちは,たまたま,英印混血人共同社会に属する名目上のクリスチャンでした。その人たちは新しく来たふたりに,“クリスチャン”が多く集まっている所,特に英語が読める英印混血人共同社会の中で“クリスチャン”が大勢いる所はどこかを親切に説明してくれました。兄弟たちはその地域を訪問して,人々に「神のたて琴」を広く配布しました。その時兄弟たちはボンベイ市北部のパレル地区に行きました。そこには,大インド半島鉄道の大きな機関区およびそれに付属する娯楽施設や公会堂がありました。

ふたりの兄弟はその鉄道協会会館を借りて,聖書の公開講演をさらに宣伝しました。それは成果を上げました。ジョージ・ワラが見いだされたのです。彼は鉄道の機関区に勤めている人で,以前に協会の出版物を幾冊か持っていたことがあり,王国の音信のこともすでに幾らか知っていました。ある仕事仲間の家で毎週聖書研究をする取決めが設けられました。したがって,それはボンベイ市における組織的な王国伝道の業の始まりだったのです。ジョージ・ワラは非常に熱心なエホバの証人になりました。彼は最後まで忠実を保ち,1963年に亡くなりました。

内陸部に進む

1926年当時,ボンベイの支部事務所にはふたりの兄弟しかいませんでした。したがって,一方が単身で危険を冒して内陸部に入って行き,他方がボンベイにとどまって支部の仕事をしなければなりませんでした。スキナー兄弟はまず,関心を示していて,聖書研究者として知られている人を探すために区域を調べて回ることにしました。そして汽車でマドラス市に行き,ライトマン兄弟に会いました。ライトマン兄弟は夫人と3人の子供をかかえ,ロヤプラム地域で非常に貧しい暮らしをしていました。その家で小さなグループが毎週集まって聖書研究をしていました。その時マドラスに配属されていた英国兵が関心を示していました。彼は親切にもスキナー兄弟に宿舎を提供してくれました。

三日後,スキナー兄弟はインドを横断して東海岸からま反対の西側へ進み,当時土侯が支配していた原住民の州,トラヴァンコールのコッタヤムに行きました。そこは,A・J・ジョセフの熱心な活動によって王国の業が初めて根を降ろした所です。そして,王国の業はかなりの規模で発展していました。スキナー兄弟は1週間ほどトラヴァンコールに滞在して,小さな大会を開きました。そのようにして彼は,約40名の非常に活発で熱心な兄弟姉妹に会うことができました。

スキナー兄弟はさらに南へ進み,紅茶の産地で,現在スリランカと呼ばれているセイロン島を初めて訪れました。そしてコロンボで,ヴァン・トウェスト兄弟が牧していた約20名の聖書研究者からなるコロンボの会衆を援助しようと努めました。

再び効果的な旅行に出る

1927年の初めごろ,スキナー兄弟は再び旅行に出かけました。このたびは,インドの北部に入り込むのです。「ものみの塔」誌の予約者の住所氏名を携えた彼は,デリーから数㌔南にあるアグラを皮切りに出発しました。アグラでスキナー兄弟は,電報局に勤務する英印混血人のフランク・バレットに会いました。

彼は以前にヒンズー教の聖都であるアラハバードに配されたことのある熱心な働き人でした。ふたつの“聖なる”川,すなわち,普通ガンジスの名で知られたガンガ川とジャムナ川の合流点でヒンズー教の神々を拝むために,大勢の巡礼者たちが定期的にアラハバードを訪れました。バレット兄弟は人がたくさんいる所に露店を出して協会の出版物や冊子を並べ,寄付と引き換えに,あるいは無料でそれらを配布しました。彼は,アアバディ・ズィンダギ(「永遠の生命」)に関する冊子を(ローマ字化された)ヒンドスタニー語に翻訳することに率先しました。

スキナー兄弟はアグラから北に向かって進み,東パンジャブ州にある軍の宿営地アンバラに行きました。彼はそこで,国有電報局の宿舎に住むクラレンス・マニングを見いだし,王国の良いたよりを広めるために自分でできるだけのことをするようにと彼を励ましました。支部の監督,スキナー兄弟が,インド北部で1月にたいへん寒い日があるということを知ったのはアンバラにいた時のことでした。彼はこう述べています。「忘れもしません,夜,マニングの家族と食卓についた時,寒いのでオーバーを着ていました。その地方の家は,夏の厳しい暑さをしのげるように,壁が厚く,天井は高くしてあり,1月に備えての暖房設備はありませんでした」。

スキナー兄弟は(「五つの川」という意味の)パンジャブ地方をさらに進み,インダス川の支流であるサトレジ川を渡って大学都市ラホールに立ち寄りました。ラホールは回教が優勢な,パンジャブ州の最主要都市です。彼はそこでもうひとりの電報局員,V・C・W・ハーヴィに会い,彼の家に泊まりました。ハーヴィは公会堂で公開講演を開く手はずを整えました。そして,一般の人々の信頼を得るため,ひとりの社会的に影響力のある真理にいない弁護士を説得して司会者になってもらいました。その後スキナー兄弟は来た道を通ってボンベイに帰りました。

王国の証言活動を拡大する

1926年の終わりごろ,日曜日の午前中に戸別の証言活動が行なわれるようになりました。ボンベイではそれによって王国の活動が一層促進されました。とはいえ,その主眼は文書を配布することであり,関心がはっきり示される,といったまれな場合を除いて,聖書研究を勧めるために再び訪問することは念頭に置かれていませんでした。当時なお,家庭で個人的に聖書を教える取決めはなかったのです。むしろ,人々はグループで研究が行なわれる集会場所に来るように,との招待を受けていました。兄弟たちはハルマゲドンが今にも来ると信じ,王国の音信を伝える文書を持って区域をできるだけくまなく回ることに努めました。

最初の数年間,ライト兄弟とスキナー兄弟は交替で遠隔地,特に“クリスチャン”が集まっている土地に旅行しました。それはただ文書を配布するだけの旅行で,普通,英印混血人の“クリスチャン”の共同社会がある,鉄道職員住宅地を主な対象にしていました。どこの鉄道職員住宅地にも,20ないし30世帯から数百世帯はいました。機関士が徹夜で運転する“走る部屋”がしばしば兄弟たちの宿舎になったものです。

インドに着いて1年たったころ,スキナー兄弟は1926年に発行された「神の救い」と題する本の紙表紙本1万冊の船荷を受け取りました。考えてみてください,たったふたりの開拓者に1万冊の書籍が届いたのです。支部事務所にはそれだけの文書を入れる場所がありませんでした。それでふたりは早速,もっと広くて便利な建物を探しました。土地の新聞に広告を出したところ,コラバの郊外に広い物置部屋の付いたアパートを借りることができました。こうして,支部事務所はバイクラの中心地区から南の郊外にあるコラバ通り40番に移り,12年の間その機能を十分に発揮しました。

「神の救い」の船荷を受け取ってから間もなく,スキナー兄弟はパンジャブ州の北部へ二度目の旅行をしました。今回は,重要な小麦貿易港カラチに船で行き,そこに一週間滞在しました。彼は,例のごとく,名目上のクリスチャンを探しました。その時も特に鉄道職員住宅地と英印混血人地域で働き,「神の救い」を多数配布しました。

インダス・デルタにあるカラチを汽車でたち,863㌔離れた北方の町クエッタに行きました。クエッタは当時,英領バルチスタンの首都で,海抜1,676㍍の所にあります。そこには,ワルター・ハーディングという「ものみの塔」誌の読者がいました。ハーディングは鉄道の警備員で,鉄道職員住宅地に住んでいました。彼の妻はクエッタの教会の会員で,夫が宣明する聖書の真理に幾らか反対していました。

スキナー兄弟は陽気なタイプの,メソジスト派の牧師を紹介されました。その牧師は彼を夕食に招きました。スキナーはそこで他のメソジスト教会員に会って,神の王国と地上に復興される楽園の希望について話すことができました。ハーディング自身は,キリスト教世界のその前しょう地の‘荒野で叫ぶ’ただひとりの声のようでした。

息子のひとりに死なれたあと,ハーディング夫人は真理を理解しました。子供たち全員も真理をつかみ,その中の何人かは全時間奉仕する開拓者になりました。ハーディング一家は後にラワルピンジ,カラチ,ラホールに移りました。こうして,彼らのおかげで王国の業はインドの北部でしっかりと確立したと言えます。その地域は後に独立し,「神聖な土地」という意味のパキスタンになりました。

ラジオを使って良いたよりを宣明する

ラジオを使ってさらに広く王国の証言を行なう試みがなされました。1928年,ボンベイに放送局が開設され,王国の音信をそこから放送する許可が下りました。

スキナー兄弟による最初の10分の話は,はるか遠くのカォンポレにいるジェイムズ兄弟に聞こえました。ジェイムズ兄弟はその後,スキナー兄弟の話に関する注解を記して,支部事務所に手紙を送りました。しかし,そうした話が2,3回放送された後,放送設備をそれ以上使うことが許されなくなりました。正統な教会だけが宗教番組の放送をしてもよい,というのがその理由でした。

色々な言語の人々に伝道する

インドでは主に15の言語が使われているのですから,ともかく言語のことが問題になり,兄弟たちはもっと多くのインドの言語で王国の音信を伝える方法を探しました。トラヴァンコール州では,すでに「代々にわたる神の計画」のマラヤラム語版がありましたが,今や,「神のたて琴」と「人びとへの自由」という小冊子がマラヤラム語で印刷されました。

次に出版されたのは,「世界の諸勢力はなぜよろめいているのか ― その救済策」と題する本のカナラ語版です。それは,ボンベイのバーゼル伝道団の“クリスチャン”や,彼らの出身地である南部の州の人々に配布するためでした。

海岸にある,コーヒーとビャクダン材の輸出の中心地,マンガロールは,ローマ・カトリック教徒と新教徒の人口がかなり多い所です。そこには,ばく大な資産と大学を持つ,ドイツ・バーゼル・ルーテル派伝道団の中心施設がありました。マンガロールに旅行したスキナー兄弟は,そのバーゼル伝道団の会員であり,薄いカナラ語の宗教雑誌の編集者でもあったアイマン氏のもてなしを受けました。スキナー兄弟と聖書について話し合った後,アイマン氏は「神の救い」の本の抜粋を出版することを取り決めました。このようにして,教会員たちは自分の言語で聖書の真理をさらに知ったのです。また,スキナー兄弟がバーゼル伝道団大学講堂で公開講演をする取決めも設けられ,講演の終わりに「神のたて琴」が紹介されました。間もなく,その同じバーゼル伝道団の会員たちがカナラ語の「神のたて琴」を手引きにして毎週聖書研究をする取決めが作られました。

トラヴァンコールにおける証人の業は,困難をものともせずにずんずん進展しました。兄弟たちは体を休める宿舎もほとんどなく,焼けつくような太陽の下を何キロも徒歩で旅行しなければなりませんでした。1928年にはインドで,41人の活発な伝道者と13人の開拓者が交わる14の会衆が550の公開集会を開き,約4万人の出席者を迎えるという成果を上げました。

実に,その時までに,「クラスの同労者」と呼ばれていた忠節な働き人は62人いて,エホバの王国の音信を広めるためにインドで最善を尽くしていました。インド全国に業を拡大するためにはもっと多くの働き人が必要なことは明らかでした。それで,さらに多くの開拓者を求める申請が協会の本部になされました。それは受け入れられ,4人の英国人が英国からボンベイへ向かって船出しました。クロード・グッドマンとパートナーのロン・ティピンは1929年の8月に到着し,ほんの数か月後にグロスターのイワート・フランシスとパートナーのスティーブン・ジレットが着きました。4人はボンベイの兄弟たちの簡単な紹介を受けたり,インドのやり方を少し教えられた後,それぞれの区域を割り当てられました。

パンジャブ州での成果

今や,パンジャブ州で王国の音信を広めるために一層の努力がなされました。クロード・グッドマンとロン・ティピンは短い船旅をしてカラチに行きました。

次の経験はエホバがご自分のしもべをどのように顧みられるかを示しています。見つけた一番安い宿で1週間暮らしたころ,ロン・ティピン兄弟はカラチの大きなホテルの女主人に証言しました。その人は文書を求め,兄弟がどこに泊まっているかを尋ねました。そして,その答えを聞くと,ふたりの兄弟がカラチに居る間彼らを自分のところに泊めたいと申し出ました。開拓者たちは協会から個人的な手当てを受け取っていなかったので,それは,ふたりにとってすばらしい備えでした。そのおかげで,業を拡大するための資金を確保しながら品位のある方法で奉仕を続けることができたからです。

グッドマンとティピンはカラチから北に向かい,シンド州にある砂漠の町ハイデラバードに行きました。そこからふたりは別れて,ティピンはハーディング一家を援助するために北のクエッタに向かい,グッドマンはマニング家の人々を励ますためにアンバラへ行きました。1930年の夏は暑さが非常に厳しくて,英語を話す人々の大半は,ヒマラヤ山脈にある海抜2,012㍍のムスーリーという高原の涼しい避暑地へ行ってしまっていました。グッドマンはそうした人たちに王国の音信を伝えるため,汽車や馬に乗ってそのあとを追いかけました。

その時,グッドマンは,モハンダス・K・ガンジーがある富裕な商人に招かれてムスーリーにいることを知りました。彼は次のように伝えています。

「当時ガンジーという名前は,彼が英国の統治からインドを独立させようとしている,非常に取りざたされている政治家であるということ以外,私には何の意味もありませんでした。ただ,彼も一個の人間であり,他の人と同様に王国の音信を大いに必要としていました。ですから,区域を奉仕していてガンジーが滞在している家のところに来た時,私は直接面会させてもらおうと決心しました。しばらくして,ガンジーは普通の簡素な手織り布を身にまとい,手につえを持って現われ,私を散歩に誘いました。私たちは美しい庭を歩きながら話しました。そして私は間近に到来する新しい世の中がどんなものかを説明しました。ガンジーは,彼を招待してくれた人が協会の出版物を書だなに持っているから,それを読みましょう,と言いました」。ですから,インドに独立を得させ,「建国の父」と呼ばれるようになった人物は,暗殺される17年前に,神の政府の支配を受け入れる機会を直接与えられたのです。

アンバラにしばらくいたあと,グッドマンは再びティピンといっしょになりました。ふたりはパンジャブ州のラホールに向けて出発しました。ラホールの周辺の村々から多くの手紙を受け取っていたからです。それらの手紙の筆記者は自由契約の牧師であることが分かりました。兄弟たちは,パンジャブ語が話せませんでしたし,パンジャブ語の聖書文書もなかったので,その牧師を通訳にして「代々の図表」に関する講演をすることしかできませんでした。大勢の人が講演を聴きに集まりました。ところが,村人の主な関心は,証人の“伝道団”に学校や病院を建ててもらうことであることが分かりました。

有蓋自動車による証言

1929年に,インドにおける奉仕活動の新たな特色となったのは有蓋自動車でした。それは所帯道具類が備わっている自動車で,ふたりの兄弟が乗り,文書も十分積み込まれました。協会はそのような自動車を使ってさらに辺ぴな地域にまで王国伝道の業を広めることができるようになりました。また,ホテルや公共の交通機関に頼らなくてもすむようになりました。各搭乗員たちは,“動く宣教者の家”で生活しながらその広大な亜大陸をくまなく回って,いわゆる“クリスチャン”たちが大勢いる土地を探し,彼らに救いの良いたよりを広めました。

巡回する兄弟たちは,多くの場合,キリスト教世界の伝道所を訪れ,バンガロー風の快適な住宅で牧師のもてなしを受けました。そのころ,「大いなるバビロン」とエホバの組織にははっきりとした違いがあるということはあまり理解されていなかったのです。(啓示 17:3-6; 18:4,5)しかし,公開講演がなされ,協会の文書が読まれると,対立が生じました。白人の牧師の中には,聖書から宗教的な教育を施すことよりも,自分たちの学校や施設で少年や少女たちに職業訓練を施すことの方に関心を持つ人がいたのです。

当時,有蓋自動車での旅行は,むこうみずとも言える場合がしばしばありました。というのは,道は大抵牛車の道でしたし,川には橋がなかったからです。乾燥期には川床はほとんど干上がって砂地となり,水がちょろちょろ流れているにすぎません。そこを渡るにはタイヤの空気を少し抜かねばならないことがよくありました。また時には自動車から荷物を降ろし,浅い水の流れを歩いて渡ってそれを運びました。無事に渡ると,先へ進む前に兄弟たちは手押しポンプでタイヤに空気を入れ,荷物を再び積まねばなりませんでした。雨期には,二そうの簡単な舟をつないで,一種のフェリー輸送が行なわれました。二そうの舟についた板材を台にして,その上に自動車や小型のバスを乗せて運ぶのです。牛車の道は言うまでもなく泥のみぞになりました。危険はありましたが,以前に行くことのできなかった地域に聖書の真理が伝えられました。

初期のころのある時,ジョージ・ライトは,もうすぐ暑い季節になるという時に有蓋自動車で連合諸郡(ウッタル・プラデシ)を旅行していました。スキナー兄弟はカォンポレで彼に加わりました。ふたりは,ジェイムズ家で一晩泊めてもらい,星のきらめく屋外で眠りました。日に焼けた家の中は非常に暑かったからです。それから,ヒマラヤ山脈の有名な避暑地である,海抜1,951㍍のナイニタールへ向け362㌔の旅に出かけました。ナイニのタール,すなわち湖まで狭くて曲がりくねった道を登って行ったのです。ナイニタールで唯一の自動車道路はナイニ湖の周囲を走る平らな道路ですが,そこを使うことが許されていたのは総督の車だけでした。他のすべての乗り物は,湖の近くの商店街にある市営の駐車場に駐車することが求められていました。

兄弟たちはYMCAのホステルを宿舎にして,険しい山腹に散在する住宅を訪問しました。道は山の斜面をジグザグ型に上っていたので,戸別訪問の業は幾分骨の折れる仕事でした。ライト兄弟よりも丈夫な体つきで,年も少し若いスキナー兄弟は高い方の斜面を受け持ち,心臓が丈夫でないライト兄弟は低い方の斜面の家々を訪問しました。それらの家庭で多くの文書が配布されました。

兄弟たちはナイニタールから山の間を縫ってラニケートへ行きました。そこは既婚の英兵が配置されている宿営地でした。そこでは協会の文書が幾らか配布されました。ふたりはラニケートからさらに進み,自動車ではそれ以上行くことができない所,すなわちアルモラに着きました。そこからは,ヒマラヤ山脈の息を飲むような,雪をかぶった壮大な峰々を仰ぎ見ることができました。この辺境の町アルモラにはすでにキリスト教世界が建てた伝道所が幾つかありました。それで,その孤立した土地の人々もエホバの設立された王国に関する証言を受ける機会が与えられました。

人里離れた谷間に入って行く

ネパールの近くの山岳地帯にいる時,スキナー兄弟とライト兄弟は,キリスト教世界の有名なメソジスト派司祭のスタンレー・ジョーンズ博士がサスタール(七つの湖)という人里離れた谷間にアシュラム,つまり草庵を持っているということを聞きました。スキナー兄弟はこう話してくれました。「私たちはその著名なアメリカの宣教師に面会するために出かけました。曲りくねった砂利道を自動車で走り,やっとそこに着きました。そして,本館と幾つかの小屋からなる非常に広々とした屋敷がその谷間に半ば埋もれているのを見つけました。本館は,壁から壁までじゅうたんが敷きつめられた広い食堂が備わっていて,快適になっていました……

「私たちは本館に行って,スタンレー・ジョーンズ博士に取り次いでもらいました。ジョーンズ博士は私たちを快く迎え,自分やアシュラムに住んでいる20人ぐらいの宣教師たちといっしょに昼食をするよう勧めてくれました。食事は全くインド式で,全員が床にすわり,サリーという金属の皿に盛ったカレーライスを指で食べていました。ジョージ・ライトと私にはスプーンを付けてくれました。

「昼食後,それらの宣教師たちの業について公開討論が行なわれました。彼らは全員がプロテスタントでしたが,属している宗派はまちまちでした。発展のためのかぎは個人主義であり,宣教師たちは独立独歩の線に沿って行くべきだという点をジョーンズ博士が強調したのをよく覚えています。彼らの伝道活動の聖書的な根拠については全く話し合われませんでした。食堂を出るとすぐ,私たちはジョーンズ博士を聖書の教理に関する話に引き入れようとしました。しかし,彼はそれを断わり,協会の本を受け取ろうともしませんでした」。

その地点でスキナー兄弟は回れ右をし,ライト兄弟がナイニタールで業を続けている間に,彼はバスで山を降りてキャスゴダムの兵站駅に出ました。そこから汽車でラックナウに行き,太陽で焼け付く広大な平野を横切って,亜大陸の反対側にあるボンベイへ向かいました。

パンジャブ州における発展

1931年の初め,スキナー兄弟は再びパンジャブ地方の旅に出かけました。それは一年のうちで涼しい季節に行なわれる年中行事になることになっていました。その旅行は普通1月に始まりました。スキナー兄弟は,大きなかんがいシステムに沿って村落がまばらにある,大インダス川流域河川地帯を特に選びました。

カニワルに住むサムエル・シャドという名の,“クリスチャン”で学校の教師をしているインド人は,協会の小冊子をウルドゥー語に翻訳することを申し出ました。また,スキナー兄弟が村々を回る時に通訳をしてくれるとも言いました。ふたりは名目上のクリスチャンばかりでなる部落をたくさん選び,そこを回ったのです。部落に行くにはラホールからまず汽車で出発し,次には大抵,馬が引くトンガ(2輪の乗り合い馬車)に乗り,それから時として馬に乗りました。彼らは各部落で2,3日費やしました。

村人たちは,屋根を草か板でふき,天日で焼いた泥で作った家に住んでいました。家の中の設備は原始的なものでした。寝る時にはチャーポイという,木のわく組みとより合わせたロープが付いた,4本脚の簡易ベットが使われていました。

しかし,それらの部落を訪問することは必ず楽しくてさわやかな経験になりました。というのは,農夫たちは砂糖きび畑や穀物畑から帰るとすぐに,聖書を手に持ってチャーポイの上に座るのが常だったからです。中にはフッカー(60㌢から90㌢の柄の付いた,水で冷やすパイプ)をふかす人もいました。ともかく,その人たちは聖書の真理の説明を聞きながら,聖句をあちこち引きました。彼らはみな,ローマ・カトリック以外の,キリスト教世界の様々な宗派に属する名目上のクリスチャンでした。その地域にはカトリックのグループはほとんどありませんでした。

公開講演は,ライウィンド,レナラ・カードおよびオカラなどもっと大きな所で開かれました。やがて,何人かの人が開拓奉仕を自発的に申し出ました。しかし,第二次世界大戦のぼっ発と共に,そうした関心はほとんど失われてしまいました。とはいえ,土地には真理の種がまかれ,後にギレアデの卒業生がそこへ来た時には受け入れ態勢が整っていました。それは,パキスタンという新しい国ができた時でした。

そこの人々は伝道団の監督官によって非常に虐げられていました。伝道団は政府から開こん地を交付され,今度はその土地を耕作者たちに貸していました。耕作者たちは毎年収獲物の代価の一部を伝道団に納め,それの合計が地所の金額になったら,土地は耕作者のものになる,という同意がかわされていました。しかし,ほとんどの場合,それは机上の空論に過ぎませんでした。雨が少なかったり,時に本格的な干ばつがあったりすると,収獲物の代価は減少し,その結果,耕作者たちはいつも伝道団に負債を負っていました。

それらの人々は,王国の音信を聞いた時,伝道団との関係を絶ちたいと思いましたが,絶つことができませんでした。また,あえて絶とうとしませんでした。開こん地を取り上げられて非常な苦しみを受けた例はたくさんありました。多くの人は妥協し,大いなるバビロンの手中から逃れることはありませんでした。第二次世界大戦がぼっ発し,ボンベイの支部事務所と緊密な連絡を取ることができなくなると,その地域を開拓して王国の音信を伝えるうえで大きな働きをしたサムエル・シャドですら,生活の糧を得るためにキリスト教世界の組織に戻り,大いなるバビロンにしっかりと捕らえられたまま死にました。

パリへ行って,帰る

協会は,フランスのパリで1931年5月に国際大会を開催する取決めを設けました。出席する許可を得たスキナー兄弟は,ヨーロッパまでの船の切符を取る時間がなかったので,ペルシャ湾を渡ってから陸路を採り,バスラ,バグダード,イスタンブールを経てパリに至りました。

パリ大会でスキナー兄弟は,ものみの塔協会の二代目の会長であるジョゼフ・F・ラザフォードと個人的に話し合う特権を得ました。インドにおける王国の業を強化するため,スキナー兄弟は有蓋自動車として使うための自動車をもう一台購入する許可を得ました。

インドの区域の新しい働き人

英国のシェフィールドで家族と短い休暇を過ごしている時に,スキナー兄弟は,ランダル・ハプリー兄弟とクラレンス・テイラー兄弟に会いました。ふたりは聖書文書頒布者(現在の開拓者)でした。インドでエホバに仕えたいと思うか,という質問に,ふたりはその気持ちがあると答えました。それで,協会の許可を得て,ハプリー兄弟とテイラー兄弟,それに聖書文書頒布者のジェラルド・ジェラードは,ロンドンのさん橋から船出して,1931年9月にボンベイに着きました。3人がインドの土を踏んだ時,待ち構えていたスキナー兄弟はその開拓者たちを歓迎しました。

ボンベイに1週間ほど滞在して,暑さとねっとりした湿気に慣れてから,その聖書文書頒布者たちはそれぞれの新しい任命地に移って行きました。ハプリーとテイラーは景色の美しい西ガーツを通ってプーナに行きました。間もなく,ふたりは相当規模の大きな軍事基地の住民に協会の出版物を配布することに忙しくなりました。

プーナで奉仕を始めて2,3か月後に,ふたりは病気のため193㌔離れたボンベイまで急きょ戻らなければなりませんでした。そして,回復するとすぐ,インドの北西部にあるシンドとパンジャブ地方で奉仕するという新たな任命につきました。ハプリーとテイラーは文書が入っている箱と,寝巻きなどの入った巻きぶとんを持ち,汽車で出かけました。アラバリ丘陵をうかいして,マーワー合流点,ルーニ,ハイデラバードを経てカラチに着きました。三等の座席で三日間汽車にゆられる旅は愉快なものではありませんでしたが,それが一番安上がりな方法でした。

ハプリー兄弟とテイラー兄弟はフロレンス・シーガーという人のところに泊めてもらい,カラチの大きな区域で神のみ言葉を広めました。彼はふたりになみなみならぬ人間味のある親切を示してくれました。彼らはそこからインダス平原を出て北のキルタル山脈を越え,海抜約1,676㍍のクエッタに行きました。クエッタの町自体は広々とした平地にあり,中には標高3,353㍍もある山々に周囲を囲まれていました。うれしいことに,平野部の暑さに比べてそこの気候はさわやかだったので,ハプリーとテイラーは王国伝道の楽しい日々を何日も過ごしました。しかし,間もなく,ふたりの兄弟は再び移動していました。今度は,昔ムガール帝国皇帝の本拠だった,英領インドの首都デリーに向かっていたのです。

デリーはふたつの区域,すなわちオールド・デリーとニュー・デリーから成っています。そこは先に訪れた町々よりもずっと大きな都市だったので,ハプリー兄弟とテイラー兄弟は通常よりも長い時間を費やせました。デリーで,文書を配布するのはやさしいのですが,イエス・キリストの贖いの犠牲によってのみ命を得ることができるということをヒンズー教徒や他の人々に納得させるのは,なかなか容易ではありませんでした。

デリーの夏は耐えられないほど暑かったので,ふたりはヒマラヤ山ろくの丘の中の避暑地,ナイニタールを訪れました。そこには白人の学校が幾つかありました。したがって,ナイニタールの住民やそこへ避暑に来ていた裕福な職業人のほかに,学校の教師たちにも聖書の音信を伝えることができました。

ナイニタールでの業を終えると,ふたりの兄弟たちは広範囲に及ぶ汽車の旅に出発しました。その旅行のために,彼らはその後の二年半の間忙しい生活を送りました。それぞれの土地では,そのころの開拓者の慣例に従い,いわゆる“クリスチャン”の地域を探し出して,書籍や小冊子を多数配布しました。その方法でインドの広い範囲,特に連合諸郡を網らしました。ヒンズー教の不道徳な“神”クリシュナが誕生した土地であるといわれているマトゥラ,アクバル皇帝の古い都市アグラ,鉄道の重要な接合点ラックナウ,皮革産業の町カォンポレ,回教徒とヒンズー教徒の聖地アラハバード,ヒンズー教の“永遠の”都ベナレス,これらすべての都市はハプリー兄弟とテイラー兄弟の旅行でも訪問地となり,エホバのお目的と組織に関して学ぶ機会を与えられました。

こうした事柄と時を同じくして,クロード・グッドマンとロン・ティピンがビルマの任命地からインドに戻っていました。ふたりはモンスーンの季節に内陸港カルカッタの波止場に着きました。彼らは,途切れることのない大勢の人垣を見て,こんなに多くの人であふれているこの町で良いたよりは一体どのようにして受け入れられるのだろうと考えました。彼らが知る限りでは,カルカッタでただひとりも「この道」に属している人はいませんでした。(使徒 9:1,2)ふたりは,フリー・スクール通りの家具のなにもない部屋を確保しました。そして,ダンボールの箱をイスとテーブル代わりに使い,ベッドの代わりには床を使いました。人々の大半はベンガル語しか分からなかったので,開拓者たちは英語を話す少数の人々だけに証言せざるを得ませんでした。こうして業はカルカッタにおいて始まったのです。

「王国は世界の希望」

1931年7月に,聖書研究者は,「エホバの証人」という名前を採択しました。そして,特別の運動として,「王国は世界の希望」と題する小冊子が指導的な国々の牧師や政治家および大実業家たちに配られ,わたしたちの新しい名前がそれら第一線で活躍する著名人に通知されました。

この運動はついにインドにおいても行なわれ,1932年の大半は,「王国」の小冊子を,インドで使われているいろいろな原語に翻訳する作業に費やされました。インド北部の開拓者たちは,パンジャブ,ボンベイ,連合諸郡の人々に読んでもらえる,ウルドゥー語とグジャラート語そしてヒンディー語版が入手できたので大いに喜びました。トラヴァンコール州とマドラス州の兄弟たちは,「王国」の小冊子のマラヤラム語とタミル語版の配布に一意専心していました。一方,開拓者たちは英語版のそれを牧師に配ることも活発に行なっていました。英語版の小冊子7,320冊と,インドの教会の言語の小冊子1万4,603冊のうち2,468冊は,インドにいるキリスト教世界の僧職者の手に渡りました。翻訳の業の規模が大きくなるのを見るのは喜ばしいことでした。

有蓋自動車でインド中部を横断する

有蓋自動車を使っての証言の業も発展していました。そのころ有蓋自動車は2台あってインド中の道を行きかっていました。1932年8月,クロード・グッドマンとロン・ティピンは,昔マハラッタ人の兵士の首都で,今は農産物の交易中心地であるジャンシまで派遣され,そこで協会の有蓋自動車の一台を引き継ぎました。グッドマンとティピンはすぐに運転の仕方を覚え,必需品を積み込みました。その中には英語の文書のほかに,ウルドゥー語とヒンディー語の小冊子が入ったダンボールの箱が幾つか含まれていました。

それら勇敢な開拓者たちは,インド中部を端から端まで横断する道を切り開きました。彼らは川を渡る専門家になり,神のみ言葉を人々に伝えるまでは事実上やめませんでした。川を渡る時に決まって行なうこととして,タイヤの空気を少し抜くこと,排気操置をマニフォールドの所からはずすこと,ファンベルトを取りはずすこと,点火操置の線にグリースを塗ること,クランクケースや通気孔に栓をすることがありました。エンジンがうなり声を立てると,必ず,好奇心の強い原地人がどこからともなくひょいと姿を見せました。サンバルプルの町の近くにあるマハナジ川を渡る時には,スプリングが折れてしまいましたが,彼らはできるだけつくろった上に,カタックまで押すことに決めました。それで途中の町々で証言をしないで一気にカタックに行きました。

ランプルを通過した後,彼らは有蓋自動車を16㌔先の密林の中に止め,そこで夜を過ごす支度をしました。後ほど,珍しいことに,一台の車が通る音が聞こえました。その後もう一度車の音がしました。間もなく,寝ていた兄弟たちは大きな叫び声で起こされました。警察署長に伴われた警官隊がいたのです。先ほどその土地のラジャー(首長)が通りがかり,有蓋自動車の明かりを見ました。ラジャーは兄弟たちに,ランプルに戻るように,そうしないなら武装した護衛兵に一晩中“自動車”の番をさせると言いました。インドにはゾウやトラがいて危険だから,というのがその理由です。兄弟たちは,しぶしぶ,護衛されながら“重い足取り”で引き返しました。次の日,彼らはランプルで奉仕することにしました。みながラジャーの話を聞いていたので,兄弟たちは有名人と言っていいくらいになっていました。そして手持ちの文書をほとんど配布したのです。兄弟たちは,ヨナが“乗物にのせられて”任命地のニネベへ連れて行かれたことを思い出しました。―ヨナ 1:17; 2:10; 3:1-3

今度は南部へ

カタックはマハナシ川の三角州にあって,オリッサかんがい用運河系の中心地です。兄弟たちはいわば“びっこ”を引いてたどり着いたこの町で,故障した自動車を止めて休ませました。数日かけて有蓋自動車を修理し,ボンベイから文書の補給を受け,生活の必需品を補充すると,グッドマンとティピンは車輪の向きを南に変え,インドの東海岸沿いの道をコモリン岬に向けて走りました。

ふたりの開拓者たちは密林で眠り,川でからだを洗い,道々証言しながらゆっくりと南下しました。何日までにはどこに着くかということをボンベイの支部事務所に知らせたので,補給の文書を送ってもらえました。こうして,多数の書籍や小冊子が配布され,聖書から希望を得る機会が多くの家族に差し伸べられました。

プリで兄弟たちは,重さが1万8,144㌔あり,ヒンズー教の偶像ジャガンナートを載せた大きな山車を見ました。これは異教の神であるヴィシュヌとクリシュナを崇拝する宗派の名前で,その偶像は毎年町中を引き回されます。その前で大勢の信者がひれ伏し,その他の多くの信者は太い綱を引きます。人を自由にする真理を知っているということは何という祝福でしょう。―ヨハネ 8:32

放送と映画を使って証言する

1933年,フローレンス・シーガーはボンベイの支部事務所を訪れ,インドで使用するようにと,協会が製作した蓄音機を寄付しました。電池で動くその蓄音機にはそれ自体のアンプと40㌢の回転盤が付いており,その型のものとしてはインドで最初の蓄音機でした。その贈り物のおかげで,インドにおける証言の業は新たな特色を持つようになりました。有蓋自動車を宣伝カーに変えることもできたのです。蓄音機を用いての業は,その年に小さな大会が開かれたバンガロールで開始されました。

有蓋自動車は,数え切れないほどの土地に救いの音信を携えて行くという,非常に貴重な働きをしました。二つのラッパ型の拡声機を自動車の屋根に乗せ,アンプに接続することは数分でできました。こうして,市場,公園,大通り,など人がいるところならどこにおいても,聖書の講演がレコードから放送されたのです。日曜日には,教会の近くで,礼拝が終わって信者が家に帰る時に,「煉獄」,「三位一体」,「牧師はなぜ真理に反対するのか」などの講演が放送されました。多くの人が自動車のところにやって来て文書を求めることは少なくありませんでした。牧師はしばしば暴力をけしかけようとしました。文明に暗い原住民たちが,“声”がどこから出ているのか突き止めようとして,有蓋自動車の上のあちこちによじ登ったこともありました。

有蓋自動車の一台は映画を上映しました。遠隔地のインド原住民は生まれて初めて映画というもの,つまり「創造の写真-劇」を見たのです。

ジョージ・ライトは有蓋自動車を宣伝カーとして使うために自動車の発電機を買い,有蓋自動車のエンジンに手製の接ぎ手を付けて自家発電をし,「創造の写真-劇」のスライドを映写しました。当時は,兄弟たちは設備を動かすために工夫をしなければならなかったのです。ライト兄弟はしばしば,機関車の親切な工夫長から機関車のヘッドライトを手に入れ,それを映写用の電球として使いました。

そのころ,スキナー兄弟はライト兄弟といっしょに連合諸郡を旅行しました。ある町で,「創造の写真-劇」を上映するために学校の講堂を借りました。ジョージ・ライトは講堂内の上部にいてスライドを映写するかたわら,エドウィン・スキナーは自動車の中にいて,電圧計から目を離さず,電球が切れないように標準の速度が守られているかどうかを見ていました。

野外における勇敢な働き人

1930年代の半ばには,インド全土に文書をゆき渡らせるべく,方言に翻訳された文書の生産が長足の進歩を遂げ,いろいろな小冊子がタミル語とウルドゥー語で入手できるようになりました。インドにおける証人の業の歴史上初めて,文書の生産高は6桁台に達し,1934年には書籍および小冊子が10万2,792冊配布されました。

そのころ,背が高く,やせていて陽気な開拓者,ジェラルド・ジェラードは9か月の間カルカッタの人々に証言しました。彼は,主に暑さのために健康を損ねていました。しかし,不都合なことすべてを償うような経験をしたのです。ジェラードはカルカッタの家内工業をしている家々で証言の業をしている時に,英国のロンドンにいる父親がエホバの証人だという男の人と知り合いになりました。ジェラード兄弟はその人,すなわちウィリアム・キングの関心を育て,キングはまっすぐ真理に入りました。

ジェラードの後のパートナーは船長をしていたことのあるヴァンダベクという兄弟でした。彼はカルカッタでジェラードと共に愛の手本となって働き,実際に腸チフスのためにそこで亡くなりました。それは心の痛む出来事でした。ヴァンダベク兄弟が亡くなったのは日曜日の夜でした。ジェラードはパートナーを月曜日の朝葬り,その日の夜にキリストの死の記念式を執り行ないました。

やせていましたが元気の良い,看護婦をしていたモード・ムルグローブという女性はボンベイですぐに真理に入り,1935年に開拓奉仕を始めました。そして,マイソレ州の州都であり,上等の絹の産地として知られたバンガロールで奉仕するよう直ちに派遣されました。バンガロールは海抜949㍍の,気候の良い土地なので,英軍の大きな宿営がありました。インドの非常に成果を収めた開拓者のひとりであるムルグローブ姉妹は,その町で全時間伝道の生涯を始めました。

1930年代後半のインド

そのころ,ランダル・ハプリーはインド南東部の大部分を旅行していました。ネガパタム(現在のネガパッチナム)でジョージ・プラン・シンという若い開拓者が彼に加わりました。シンはかつてシーク教徒でしたが,マラヤにいた時に真のキリスト教を受け入れました。ハプリーはいっしょに働きながら,その若い開拓者が証言の能力を向上させるのを助けることができました。

北方のパンジャブ地方では,インド人の開拓者4人と他の王国の宣明者6人が多くの良い業を成し遂げていました。その肥よくな地方には集会が定期的に開かれている町と村が16あり,そこに166名の関心を持つ人々が集まっていました。正しい指導と弱い人を強めることの必要性は明らかでしたから,忍耐して業を行なうには決断力と勇気が求められました。救世軍は,その組織から脱退してエホバの証人と交わるようになったという理由で,8名の人を彼らが耕作していた土地から追い出しました。そうしたことはありましたが,パンジャブ地方の畑はまだまだ広大で,働き人は少数でした。

1938年12月,オーストラリアの支部の監督アレックス・マックギルヴァリはアルフレッド・ウィックと共にインドを訪れました。ボンベイの南東129㌔にある小高い避暑地ロナヴラで大会が開かれました。浸礼を行なう場所になっていた近くの湖の水深を調べるために,クロード・グッドマンとイワート・フランシスは湖水に入り,しかも,そこで泳いでから家に帰って報告を作りました。2週間後,グッドマン兄弟は恐ろしい腸チフスで重態になって入院し,イワート・フランシスは亡くなりました。恐らく腸チフス菌で汚染された水から感染したのでしょう。非常に有能な開拓者のひとりを失ったことは確かに業にとって打撃でした。

マックギルヴァリ兄弟の訪問の結果,協会の同意もあって,オーストラリアの支部からインドへ小さな印刷機が送られることになりました。

1926年から1938年にかけて,インドにおいては苦労の多い開拓奉仕の業が膨大な規模で行なわれました。幾千幾万㌔にも及ぶ旅行がなされ,おびただしい数の文書が配布され,非常に多くの土地に伝道がなされていました。しかし,それにもかかわらず,増加はほとんど見られませんでした。1938年に,全国で18人の開拓者と273人の「会衆の伝道者」からなる合計300人ほどの証人がいました。それらの忠実な兄弟たちは24の会衆のどれかと交わり,インド中に散らばっていました。とはいえ,兄弟たちは良いたよりの宣明者,また教え手であるべきことの必要性をさらに自覚させられていきました。野外奉仕を報告したり,再訪問や家庭聖書研究をしたりする面で業はしだいに組織的になりました。

しばらく前から,インドの支部事務所をコラバ通り40番の建物からもっとふさわしい建物に移した方が良いと考えられていました。その許可が下りて,ボンベイ支部は同市の下町にある商業地区のバスティオン通り17番に移りました。そこは以前の建物より設備が良いばかりか,鉄道の駅や協会業務と関係のある他の中心地区に近くて便利でした。しかし,そこに移って間もなく第二次世界大戦がぼっ発しました。

戦争が猛威を振るっていた間

戦争による統制はどんどん厳しくなったため,支部事務所は再び以前の建物に移されました。北のシンドとパンジャブでは,王国の業はふたつの大都市,カラチとラホールに多かれ少なかれ限られるようになりました。それらの地方の他の場所では伝道の業があまりなされませんでした。しかし,現在のパキスタンに当たる所では幾らかの進歩が見られました。

当時インドを支配していた英国政府は,募兵できるように,英国人である白人の男子全員に名前を登録させました。インドのエホバの証人は「カエサル」のその要求に従い,支部の監督であるスキナー兄弟は,クリスチャンの中立の立場を明らかにした手紙を添えて,名前の一覧表を送りました。―マタイ 22:21。ヨハネ 15:19; 17:14。テモテ第二 2:3,4

クリスチャンの中立の立場が説明された結果,その国家兵役法に服した兄弟たちは兵役から免除されました。ただし,英国政府は証人の男子の開拓者を何らかの国営事業に携わらせようと努め,郵便の仕事をすることに何かさしさわりがあるか尋ねました。スキナー兄弟の回答の主旨は次のとおりでした。郵便業務には何のさしさわりもないが,クリスチャンの仕事は人々に神の王国を宣明することだから,その活動に携われなくなることにはさしさわりがある。結局,この世の権威は,開拓者たちが良いたよりを宣明するという神から与えられた奉仕を引き続き自由に行なうことを許してくれました。

偽りの宗教の影響に抵抗する

偽りの崇拝の悪い影響は1940年に起きた事件で実際に明らかになりました。ある小さな町で,ローマ・カトリック教徒の一群が,民力で証人の録音再生機の使用を禁止させようとして,『定めによって難事をたくらむ』,ことに努めたのです。(詩 94:20,新)3人のカトリック司祭を含む150名の人が署名した嘆願状が治安判事に送られました。それは自分たちの教会に対して侮辱的な事が言われていると訴えるものでした。治安判事は問題を調査するとすぐ,150名の署名者に,エホバの証人に干渉しないようにと勧告しました。

同じ年に別の町で,もう一件の宗教的ないざこざが起きました。それは,教会の牧師が,“自分の群れ”に文書を配布していることを理由にふたりのインド人の開拓者を襲ったという事件です。開拓者たちは直ちに,クリスチャンらしからぬその“戦い”に注意を引くチラシを印刷し,その地域一帯にそれを配りました。有蓋自動車が急きょくり出され,聖書の講演が放送されました。その結果,インド人の“クリスチャン”の一群はキリスト教世界とキリスト教の違いに気づくようになり,王国の音信を宣べ伝えることに活発に携わるようになりました。

遠い地方へ船で行く

トラヴァンコールのへんぴな,並木のあるにごった入江に,船を用いて良いたよりが伝えられました。マラヤラム人の開拓者たちの一行は,オールでこいで動くいなかの船を雇い,入江にある孤立した村々を尋ねて,一千人を上回る人々に公開講演をしたり文書を配布したりすることができました。船でなければ行けない16の村で,書籍と小冊子が600冊配布されました。こうして,水田やほっそりしたヤシの木が多いその土地にまで,神の王国に関する効果的な証言がなされたのです。

トラヴァンコールでますます多くの努力が払われる

1941年ごろ,マラヤラム語の「ものみの塔」誌が初めて協会の印刷機で印刷されるようになって,トラヴァンコールにおける業は重要な地点に差しかかりました。読者は,協会のオーストラリア支部が1938年にインドに小さな印刷機を送ったことを覚えておられることでしょう。開拓者のクロード・グッドマンはマラヤラム語を話す兄弟たちのための「ものみの塔」の印刷を監督する立場に任命されました。

グッドマン兄弟は次のように述懐しています。「私は印刷について何も知りませんでしたし,『ものみの塔』誌が印刷されることになっていたマラヤラム語も知りませんでした。第一の難関は印刷関係の書物を読むことで切り抜け,第二の難関は,自分が本で読んでいることをK・M・ヴァルギーズ兄弟に説明する時に指話法を使って克服しました。数か月して,私たちは,以前民間会社が印刷していたのと同じ程度の,いやもっと良い質のマラヤラム語の雑誌を印刷していました」。印刷機械が導入されたことにより,インド南部における王国の業は,疑問の余地なく,大きな前進の歩を進めました。

厳しい世情に抗することができず,有蓋自動車を使っての業は廃止されることになりました。戦時中の制約のためにガソリンがはなはだしく不足し,食糧が配給になったので,あまり遠くまで旅行することができませんでした。さらに,インドの支部事務所が外国の支部事務所から受けていた経済的な援助が激減しました。したがって,有蓋自動車を売却し,資金を王国の活動の他の面に用いることはエホバのご意志とみなされました。とはいえ,有蓋自動車は,インド全域に神の王国の証言を広めるうえで,十分かつぼう大な仕事を行ないました。

禁令下で良いたよりを宣明する

1941年の春のある日,開拓者のアンダーウッド兄弟は,任命地である,ビハール州のパトナで戸別に伝道をしていました。突然,警官が現われ,彼を逮捕して警察署まで連行しました。そして,兄弟がかばんに持っていた文書を全部押収しました。後に,アンダーウッド兄弟が所持していた特定の出版物数種類が政府によって公式に禁止されました。ビハール州で行なわれた事は自動的にインドのどの州においても行なわれました。こうして,政府は,1941年6月14日付で告示21-C号を公布して協会の出版物すべてを没収しました。

ものみの塔協会のボンベイ支部事務所は警察の手入れを受け,文書全部を持ち去られました。しかしエホバのみ手は短くありませんでした。大量の文書を蓄えておく必要がなくなり,ブルックリン本部からの経済的な援助も削減されたので,支部事務所はコラバ通りにある比較的小さくて経費もかからない場所に移りました。「ものみの塔」誌は禁止されていたにもかかわらず,戦争中に一号も欠けませんでした。エホバは,兄弟たちに霊的な食物が供給されるように取り計らわれたのです。ボンベイ港に着く商船には,しばしば,エホバの証人の水夫が乗っていました。彼らは「ものみの塔」誌の最新号を支部事務所に必ず届けました。

次いで,恐れることなく,しかし用心深く原紙が切られ,謄写版で記事の内容を印刷して,インドのあちらこちらにいる兄弟たちに配られました。数年後には数冊の小冊子のほか,「真理はあなたがたを自由にする」および「王国は近し」という書籍が謄写印刷および製本されて兄弟たちに配布されました。したがって,エホバのやさしい配慮により,禁令下にあった全期間を通じて聖書研究のかては豊かに備えられました。

兄弟たちは野外において,戦争ヒステリーに冒された政府の役人の干渉を受けました。南のコッタヤムでは,ある日警察の貨物自動車が協会の発送基地の外に近づき,小さな印刷機械を没収しました。その印刷機械は第二次世界大戦が終わるまで警察に保管されていました。北のカルカッタで開拓者たちは警官に呼びとめられ,持っていた文書すべてを没収されました。

英国人の総督リンリスグロウ卿に,崇拝の自由を請う訴えがなされましたが,彼はエホバの民の言葉を少しも聞こうとはしませんでした。しかし,兄弟たちは‘あくまで戦う’ことを決意していました。「神と国家」と題する小冊子がすべての州議会と,キリスト教世界の教育機関の多くに配られ,また,「神権政治」と題する小冊子ができるだけ多くの僧職者に配られたのです。

1942年1月,忠実で愛すべきジョセフ・F・ラザフォードは亡くなりました。ものみの塔協会の新しい会長である,ネイサン・H・ノアはすべての支部と連絡を取り,愛のこもった近づき方で支部との意思の疎通を図りました。敵意に満ちた戦時体制のさ中に,このように本部と接触して本部を身近に感じられるのは心強いことでした。

間もなく,家庭聖書研究運動が新たに始められました。王国の宣布者各人は自分の区域を組織的に網らし,関心を持つ人の住所氏名などをノートに付けて,できればその家庭で定期的に聖書研究を司会するために再び訪問するのです。さらに,英語が話せるインドの全時間奉仕者全員は,野外で1か月に175時間奉仕する特別開拓者になるようにとの招待を差し伸べられました。

北のラホールで,ジャコブ・フォハンというペルシャ人は,英国人であるパートナー,クラレンス・テイラーと共に特別開拓奉仕をしていました。突然,1942年3月にふたりは何の理由もなく逮捕拘留されました。テイラーは釈放されましたが,フォハンは3か月の間拘留されました。繰り返し上訴したり,面会したりなどして,フォハン兄弟が投獄されている理由を政府当局者が述べることを求める努力がなされました。ジョンソンという英国国教会の一牧師が警察にフォハン兄弟に関する悪質で偽りの報告をしたという疑いが強かったからです。そのような報告をしたかどうか直接尋ねられた時,ジョンソンはそれを否定しました。フォハン兄弟は,どんな嫌疑がかかったのか教えられませんでした。しかし,釈放された時,彼は勇敢にも同じ区域で伝道し続けました。

もうひとりの開拓者,ケイト・マーグラー姉妹にも問題が起きていました。7月のこと,ニルギリ丘陵のコタギリという町の南にあるきれいな丘の避暑地において,一週間以内にその地域から立ち退くようにという命令を受けたのです。その命令はローマ・カトリック教徒である,マドラス郡の郡長が出したものでした。コタギリに彼女がいることは“戦争の効果的な遂行にとって有害”であるというのです。その若い姉妹は『人間より神に従う』ほうを選び,神から与えられた伝道の業を続行しました。(使徒 5:29)彼女は逮捕され,マドラス郡ベロールの女子刑務所における禁固18か月の刑を言い渡されました。上訴の結果,マーグラー姉妹は約6か月拘留された後釈放されました。

ボンベイの事務所にいた支部の監督とその同僚たちは,しばらくの間,戦争兵器が夜の街路を通る時の大きな音をがまんしていました。支部事務所が,英国の戦車や野砲その他重装兵器が蓄えられているボンベイの軍用地に通じる道にあったので,夜中は気が狂うほど騒々しかったのです。したがって,協会の許可を得たうえで,支部事務所は再び移転しました。今度は,もっと静かなバイクラ地区のラブ・レイン167番地にある,以前よりも安くて広い場所でした。1960年に協会がボンベイの北方21㌔のサンタクルズの効外に土地家屋を購入するまでの18年間,そこはインドにおけるクリスチャン活動の中心となりました。

協会の印刷機は没収されていましたし,外部の印刷業者は証人の仕事を引き受けるのを恐れていたので,インド南部の,マラヤラム語を話す兄弟たちは野外奉仕で用いる文書を手に入れることができませんでした。それにもかかわらず兄弟たちは聖書だけを使ってあくまでも証言活動を続けました。ただし,英語の文書はわずかながら持ち込まれていました。ローマ・カトリックの反対が強くなり,一度などは,カトリック教徒の暴徒が講演者に牛のふんを投げつけて公開講演を中断させました。翌日,講演をした兄弟は勇敢にもその同じ村で全部の家を訪問して命を得させる音信を人々に伝えました。

政府から文書を禁止されていましたが,証人たちは印刷物を入手する努力を決してやめませんでした。1942年に,ブルックリンから「希望」と題する小冊子の見本が届きました。その小冊子がインド統治の防衛に抵触しないことは全く明らかだったので,支部事務所は政府に,それを印刷しても没収しないことを保証してくれるように要請しました。かなり後になって,中央政府は,ぬかりなくも,ふさわしい場合に地方自治体がそれを禁止することを認めつつ,その小冊子を例外とすることを許しました。「希望」の小冊子はボンベイのユニフォーム印刷会社で印刷されました。小冊子の裏には次の文章が記されていました。「インド政府の承認のもとに,この小冊子は1941年6月14日付の政府通告第21-C号の適用を受けません」。

当時開かれた神の民の注目に価する大会のひとつは,1943年1月にボンベイで開かれた大会でした。その三日間の大会は,それまでにインドで開かれた英語による大会の最も大きなものとなり,セイロンから来たふたりの人を含めて77人の伝道者が出席しました。

誠実な努力は報われた

大勢のビルマの兄弟姉妹たちは日本に占領されたビルマから逃れて,インドの首都ニュー・デリーに避難しました。ゆったりと広い並木道があり,堂々とした儀式が行なわれるはなやかなこの町に,エホバの証人の小さな会衆が作られました。フィリス・ツァトスという姉妹に,デリーの英軍本部で働いている親せきの人がいました。ある日,その親せきの人は彼女に3人の英国兵を紹介し,その人たちとの聖書研究が始まりました。そのうちのひとりの軍人はピーター・パリスターという人で,彼はエホバの証人になってしばらくの間英国で巡回監督をし,後にケニア支部の監督になりました。3人のうち一番年長の兵士はエホバの証人である妻を英国に残して来ていました。彼女は夫に「ものみの塔」誌を毎号忠実に送りました。デリーの兄弟たちは各号の「ものみの塔」誌をボンベイの事務所に送り,ボンベイの事務所はインドに流布するためにそれを複写しました。

何㌔も南東にあるプーナでは,開拓者の姉妹たち,すなわち,モード・ムルグローブとイーデス・ニューランドが熱意を持って自分たちの割当てに専念していました。何の前触れもなく不意に,地域行政官はふたりにプーナを去るよう命じました。ボンベイ市に対して訴えがなされましたが,同市は行政官の命令を支持し,ふたりの開拓者たちは同じ郡内の他の場所に任命されました。ところが,その高圧的な処置は一般の人々に知られるようになりました。フレッド・ハストというバプテスト派の伝道師はそのことを新聞で読んで,すぐに,ものみの塔協会の文書を探し始めました。彼は本屋という本屋を全部歩いて,ついに「立証」という本を見つけました。その本でインド支部の住所を知って手紙を出したところ,エドウィン・スキナー兄弟の直接の訪問を受けました。ハスト牧師は「三位一体」の教理が非聖書的であることを直ちに認め,真理に関心を持ち始めました。妻は彼に激しく反対しましたが,彼は正しい心を持っていました。慎重な考慮の末,バプテスト教会を脱退して,生計を立てるためにオーストラリアに行き,たいへん活発なエホバの証人になりました。

トラヴァンコールで誠実な努力が引き続きなされ,その地における証人の業は着実に発展しました。業は基本的にはインド原住民に対してその土地の言語でなされました。トラヴァンコールで日給の平均が8アンナでしたから,兄弟たちはこの世の物質に関しては非常に貧しい状態にありました。1943年当時,8アンナはアメリカのお金にして約2セントに過ぎませんでした。兄弟たちの家は干したヤシの葉で作った小屋とかラテライト(乾燥すると固まる鉄さび色の粘土)でできた小さな家でした。生活が苦しかったので,そこの人々は生計を立てることに没頭して,証人が携える音信に耳を傾ける暇がほとんどありませんでした。しかし,そうした事情ゆえに人々が唯一の救済策である神の王国を求めるようになったという場合も幾つかあります。

インドのあちらこちらにポツン,ポツンと派遣されていた特別開拓者たちは奉仕のすばらしい記録を作っていました。その中には,ジョージ・ライト,クラレンス・テイラー,ランダル・ハプリー,ジェラルド・ジェラード,ジャコブ・フォハンのような筋金入りの開拓者がいました。人口の大部分はキリスト教の信仰を奉じていない人々で,心の中で聖書をきらっていましたから,本当に奉仕活動のできる区域はまれにしかありませんでした。家がまばらにしかなかったので,聖書研究ができる見込みもありませんでした。関心を示しそうな人とか聖書の音信を心から理解できる人を探すには多くの時間と体力が要りました。摂氏27度から46度の気温の中を,そのような区域で毎月175時間野外奉仕するには,体力と霊的な力の両方が必要でした。しかし,エホバの過分のご親切によって,それらの忠実なしもべたちは立派に事を果たしました。そして長年にわたる奉仕の成果を見ることができたのです。というのは,1943年までにインドには37の会衆があり,合計20人の開拓者と381人の伝道者がいたからです。

禁令下でも業は進む

ニューヨークのブルックリンにある協会の本部との連絡が断たれたため,兄弟たちは経済的に非常な圧迫を受けていました。しかし,この時もエホバの手は短くありませんでした。(イザヤ 59:1)業を続けるための寄付が各地から寄せられたのです。

デリーにおいては,六つの異なる宗派(英国国教会,長老派教会,メソジスト派,バプテスト派,ローマ・カトリックおよび‘アメリカ派’)に属する13人の牧師が一緒になってエホバの証人を攻撃し,「デリーのすべてのクリスチャンへの警告」という題の悪質なチラシを発行しました。それには,エホバの証人は政治的な理由で禁止されているといった偽りの主張が載せられていました。バシル・ツァトス兄弟はそれに似た割付で同じ題を付し,それ以外は聖書の直接的な引用ばかりを載せたチラシを作りました。それは協会の指示で行なわれた事柄ではありませんが,バシル・ツァトス兄弟と印刷者は共に起訴されました。

こうした問題は,エホバの民が,神の王国を宣べ伝えクリスチャンの弟子を作るというきわめて重要な業を続けるのをやめさせるものとはなりませんでした。一例として,1944年1月に,ボンベイで大会が開かれましたが,その時の会場はローマ・カトリックの力が特に強い区域であるバンドラにありました。また,同じ年に,再び行なわれるようになった,「兄弟たちのしもべ」の奉仕(巡回の業)もインドに導入されました。特別開拓者のひとり,ロナルド・ティピンは英語を話す伝道者たちを巡回するためにその業の訓練を受け,デリー,カルカッタ,ボンベイ,バンガロールおよび他の四つの土地の会衆を訪問しました。コッタヤムの文書発送基地のしもべであったA・J・ジョセフは,彼の方言が使われている土地の28の会衆を訪問する巡回の業を始めました。

トラヴァンコールの兄弟たちを十分組織化することは一朝一夕にできることではありませんでした。だれもが時計を持っているわけではなかったので,集会に時間通り来たり,集会を一定の時間内で終わらせたりすることはきちょうめんに守られませんでした。時には,太陽の位置とかおなかのすき具合いが時刻を判断する目安にされたのです。家庭聖書研究の時など,兄弟たちは夢中になるので,1時間で研究を切り上げるのは全く不可能なことのようでした。トラヴァンコールのそれら忠実な人々は「ものみの塔」誌の研究記事を手で写さねばなりませんでした。にもかかわらず,毎週定期的に行なわれる研究について行けなくなるということはありませんでした。

禁令の解除

今や情勢は,協会の文書に対する禁令解除の方向へとゆっくり進展しました。インドにいた英国人将校のもとで子供の世話係として働いていた若いスイス女性,マーグリト・ホフマンは協会の出版物に接して,しばらくの間ボンベイの支部事務所と通信していました。そして,勤め先との契約が切れると,バプテスマを受けて開拓奉仕を始めました。ニュー・デリーで開拓奉仕をしていた時,ホフマン姉妹はマドラス出身の国会議員の家を訪問しました。その政治家は,証人の業に関する姉妹の説明に耳を傾けました。ホフマン姉妹は証人の活動に対する政府の禁令のことを持ち出して,それが牧師の扇動によるものであることを話しました。友好的なその指導者は,国会でそれについて質問することを承諾しました。

一方,バシル・ツァトス兄弟は物理療法の仕事をしていて,総督内閣の食糧相であるスリヴェスタバ卿の治療に当たっていました。治療中,ツァトス兄弟はスリヴェスタバ卿に証言し,禁令や証人の業に対する僧職者の態度について話し合いました。ツァトス兄弟は,ボンベイ支部の責任者であるスキナー氏が内務大臣のジェンキンズ氏にその件を知らせようと幾度か試みて成功しなかったことも話しました。うれしいことに,スリヴェスタバ卿は次のように語りました。「では,心配せんでもいい。ジェンキンズ君は数日たてば引退し,わたしの親友が内閣に入って彼のポストに就くことになっているのだから。親友が就任したら早速スキナーさんに上京してもらって,フランシス・ムダエ卿に紹介しよう」。

スキナー兄弟がデリーを訪れて,新たに中央政府の内務大臣に任命されたフランシス・ムダエ卿と会見する取決めが設けられました。それに続いて,禁令が敷かれた理由を国会で公式に質問することによって証人を支持してほしいとの訴えが,中央立法府の議員全員に対してなされました。証人の件を扱うクリスチャンでないふたりの国会議員に,十分な詳細を上程する13の質問が知らされました。国会でそれが上程される日取りが決まり,スキナー兄弟とマーグリト・ホフマンおよびバシル・ツァトスはその日来賓席に着きました。

「インド政府がものみの塔聖書冊子協会の出版物を禁止しているのは本当か。もしそうであればその理由は何か」という質問がなされた時は緊張の一瞬でした。フランシス・ムダエ卿は,「その禁令は予防の意味で設けられましたが,政府は同禁令の廃止を決定しました」と答弁しました。それを聞いた時の兄弟たちの感激と喜びを想像してください。その声明は1944年11月21日に出され,18日後の12月9日に禁令は正式に撤回されました。今やエホバの証人は協会の出版物を輸入したり印刷したりすることができ,また,当局の干渉を受ける心配もなくインド全国に配布することができました。

1944年の最後の週にジュブルポール(ジャバルプル)で大会を開く計画が立てられました。そこはボンベイの北東991㌔にある,軍事および鉄道の面で重要な町でした。また,中央諸郡(マドヤプラデシ)におけるキリスト教世界の伝道の中心地でもありましたから,その町は,エホバの証人がもはや政府の禁令下にいないことをキリスト教世界に知らせるのに理想的な場所でした。3年半たって初めて,証人たちは当局の干渉を心配せずに街頭や家庭で一般の人々に文書を配布しました。

ボンベイで,反対があっても拡大

禁令は確かに,ボンベイにおける拡大の妨げとはなりませんでした。カンズ兄弟はベンジャミン・スワンズという人の住所を受け取りました。アーサー・カンズと同様,ベンジャミン・スワンズはインドの南西海岸にあるサウスカナラ地域の出身で,ふたりともカナラ語を話しました。スワンズは聖書の知識を持っていましたし,カナラ語の新聞の記者でもありました。しかし,彼は,同じ宗教の共同社会,すなわちドイツ・プロテスタント・バーゼル伝道団に所属する他の20名ほどの人々と一緒にボンベイ電話局に勤めていました。

ほどなくして,スワンズは職場の同僚に話しかけ,やがて,他の人々も彼の家で行なわれた聖書研究に加わらせました。1か月たった時,ベンジャミン・スワンズ自身が数人の友人のグループとの聖書研究を司会していました。そして,9か月以内に,すなわち1946年の初めにバプテスマを受けたのです。ローズ・ロベロ姉妹によって,「真理はあなたがたを自由にする」と題する本をカナラ語に翻訳する仕事が始められていましたが,それを完成させるという割当てが直ちに彼に与えられました。それ以後,スワンズ兄弟は1966年の12月に亡くなるまで「ものみの塔」誌をカナラ語に翻訳しました。彼の娘のジョアンナ・スワンズは協会の任命によって父親の後を継ぎ,「ものみの塔」誌をカナラ語に翻訳する仕事を続けました。

ある晩,ボンベイ会衆の多くの伝道者がフロラ・ファウンテンで街頭伝道をしていた時,カトリックの,手に負えない若者の一群が現われ,自分たちの宗派を宣伝する小冊子を売り始めました。だれかが立ち止まって証人に話しかけたり,雑誌を求めようとすると,カトリックの若者は自分が持っている小冊子をその人の鼻の下に乱暴に押しつけて,証人たちの邪魔をしようとしました。

毎週毎週カトリックの運動家たちは手口を変えました。その後のある時のこと,カトリック教徒の乱暴な人々が大勢でひとりの証人を取り囲み,証人が人々から見えないようにしました。そうしたことをされて証人は彼らをこわがるどころか,大胆になりました。兄弟たちは,「なぜ法王は自由と戦うのか」といった標語を大声で叫んで応酬しました。それは通行人の笑いを誘いました。反対者たちはきまりが悪くなってかき消えてしまったので,その区域は証人たちに残されました。

戦後の社会不安

1945年の第二次世界大戦終結と共に,インドの国情は急速に悪化し,国中が不安に包まれました。失業者はおびただしい数に上り,釈放された政治犯らはインド独立のための闘争を再び開始しました。英国はインド人の自治を認める案を出したとの発表がなされ,政情は急激に無政府状態に近いところまで混乱しました。宗教諸団体は権力を得るために,または生存そのもののために互いに争い,とうとうカルカッタとボンベイにおいて激しいなぐり合いを始めました。インド海軍と空軍は反乱を起こし,郵便局と電報局のストライキで通信はまひしました。ききんと死の影が国中につきまとい,多くの人々を脅かしていました。これが1945年の社会状況だったのです。

当時起きたある出来事について,ジェラード兄弟に話してもらいましょう。「反白人暴動が起きていた時に暴徒に捕まるのは愉快なことではありませんでした。しかし,私たちはいつもエホバのことを考えていました。私は,約50人からなる暴徒たちが最初私を殺すと脅しておきながら,どうやって殺したらよいのか分からなかった時のことを覚えています。その暴徒たちは,私が伝道者だということで遂に私を逃してくれました。別の時,私たち3人は左右両側から暴徒に捕まえられました。苦難が始まるまで心臓がドキドキしますが,いったん始まると,考えもしなかったほど平静になります。エホバの霊が自分の恐れを中和してくれているように思われます。ただエホバを信頼するのです。ただそれ以外にありません。すると,不思議なことに,万事がうまく運ばれてゆきます」。

国全体は不満で煮えくり返っていました。しかし,その荒れ狂う海のような人間社会のただ中で,数から言えば微々たる人々の一集団がしっかりと立っていたのです。状勢に動揺したり,神を崇拝して神の王国を伝道する決意をゆるめたりすることなく,エホバの証人は,神の民と共に喜ぶようにと人々に告げていました。―申命 32:43

混乱のさ中にあって霊的に生きる

カルカッタの発足して間もない会衆を励ますため,協会は1946年にそこで大会を開きました。「平和の君」と題する講演は,そのころ起きた恐ろしい流血騒ぎの醜い傷を和らげ,いやすものとなると考えられました。ムスリム連盟は8月16日を直接行動日と宣言しました。その日におびただしい数のヒンズー教徒がカルカッタで虐殺され,資産を略奪されたり破壊されたりしました。カルカッタは共同社会間の野蛮きわまりない騒乱の場と化したのです。

1940年以来,ムスリム連盟は回教徒のパキスタン州を分離させる運動を起こしていました。著名な弁護士であったM・A・ジンナーは,回教徒の勢力が最も強いインド北西部を分離する構想を提唱しました。シンドとパンジャブ地方で,ヒンズー教徒と回教徒間の憎しみの感情は頂点に達していたのです。カラチ,ラワルピンディおよびラホールのそうした状況下で,数人の開拓者たちは王国の業が続けられるように努力しました。しかし,一般の人々は恐ろしい状況のために取り乱していました。インド人の伝道者の多くも協会と共同して伝道の業を推し進めることをやめました。恐らく,その人々はもともと隠れた動機で,つまり経済的な支持が得られることを期待してエホバの証人になったのでしょう。そのため,後にパキスタンとなったその地方での業は衰退してしまいました。

ヒンズー教徒の考え方を探る

インドという区域全体について言えば,王国の伝道者が最初に直面する問題は,考え方の共通な立場を見いだすのが難しいことです。ヒンズー教の学士は,ひとつの物事を真実であるとも,また真実でないとも受け取ります。こちらが火は燃えると考えるなら,それはこちらにとって真実ですが,ヒンズー教徒が火は燃えないと考えるなら,それは彼にとって真実なのです。また,ヒンズー教徒はこちらの入念で論理的な論議が真実であると認めても,次の瞬間には正反対のことを認めます。どちらも真実だというのです。

ヒンズー教徒が聖書に表面的な敬意を示すことはありますが,実際には聖書に対して何の敬意も示していません。彼にとって,真実と誤りといったものはなく,すべてのものは真実であり,同時に誤りでもあるのです。善悪というものはなく,善は悪であり,悪は善です。神というものはなく,サタンというものもありません。わたしたちは神であり,サタンでもあります。すべてのものは神なのです。今あなたが座っているイス,それには命がないと思いますか。それはあなたがより高度の心波を見つけられない,つまり,ヒンズー教徒によればあなたよりも高度な知的能力を持つイスと対話できないからだ,というわけです。ヒンズー教徒に言わせれば,そのイスも神なのです。

非常に有益な訪問

一握りの開拓者たちが長年の間悪戦苦闘し,また,ギレアデ学校を卒業した宣教者が奉仕しようとしていたのは,このような土地柄の区域でした。ギレアデ学校を卒業した宣教者が1947年に初めて到着した時,N・H・ノア兄弟もインドを訪問しました。それははるか昔の1912年にラッセル師が訪れて以来初めての,ものみの塔協会会長の訪問です。

ノア兄弟はM・G・ヘンシェルを伴い,1947年の4月14日,月曜日に飛行艇でビルマのラングーンをたちました。ふたりはカルカッタの近くのフーグリ川に着水して川岸の兄弟たちの出迎えを受けました。状勢は決して穏やかではありませんでした。ヒンズー教徒と回教徒との間は険悪になっていましたし,カルカッタ市内の数か所には戒厳令が敷かれていました。老朽化してがたがたになったバスに乗って同市内をくまなく回った時にノア兄弟とヘンシェル兄弟が受けた印象は次のようなものでした。

『まず私たちの目を引いたのは人々の服装でした。男性は大抵ドーティを着ていました。それは,数メートルの木綿の布を腰の周りに巻いてウエストで締めただけのように見えました。多くの人は頭に色彩豊かなパグリーを付けていました。パグリーはターバンのようなものでインド人であることのしるしとなっています。所によってはトルコ帽が目立ちました。おもしろかったのは,立派な身なりをしたヒンズー教徒が西欧式のワイシャツを着ているのですが,そのすそをぴらぴら出していたことです。女性ははでな色のサリーを着て,腕や足首に金や銀の輪を一杯付けていました。中には耳輪や鼻輪を付けている人もいましたし,鼻の両側に宝石をはめ込んでいる人もいました。……

『次に私たちは雌牛が歩道を歩いているのを初めて見ました。その牛は当然のことをしている様子ですし,人々はみな牛の思い通りにさせているように見えました。それからさらに幾頭かの雌牛と神聖な雄牛を見ました。それは私たちにとって初めてのことでした。私たちは雌牛が牧場や納屋の前庭とか納屋の中にいるのは見慣れていました。ところが,人口400万人の都市の目抜き通りを自由に歩いて,通りに面した店の野菜などを勝手に失敬し,追い払われると別の店に行ったり,歩道にだれかが落とした物を食べたりするのを見るのは初めてでした。こうしたことは,訪問した他の国々では決して見られなかったものでした。牛たちは“神聖な”動物でした。……

『間もなく私たちは王国会館に着き,15人の兄弟たちと会合しました。警察は戒厳令を出したので,ある人々は来ていませんでしたが……私たちはその兄弟たちに世界の他の場所の兄弟たちの愛とあいさつを伝え,また,霊的な面の警告を与えることができました。……一般に,その大都市全体は暑くてじめじめしていて,空気がよどんでいるのですが,その夜には気持ちのよいそよ風がありました。寒いというほどではありませんが,100名の人が出席してノア兄弟の話を聞いていたその集まりにはちょうどよい気候でした。……その集会は私たちがカルカッタで兄弟たちといっしょに開く最後のものでした。つまり,私たちは別れを告げたのです』。

ボンベイでは支部事務所での仕事がたくさんありました。報告はさらにこう述べています。「私たちは1日中,こじきの叫び声やタクシーとバスの絶え間ない警笛の伴奏に合わせて仕事をしました。街路にあまりにも大勢の人がいるので,自動車の運転手はずっと警笛を鳴らし続けているのです」。

大会は,ボンベイ大学の経済社会学部の講堂で開かれ,良いスタートを切りました。会場は市の中心のとても気持ちの良い場所にありました。初日の4月22日,火曜日に114名が出席し,6名がバプテスマを受けました。

ノア兄弟とヘンシェル兄弟が大会の二日目に会場へ向かう途中,ヒンズー教の迷信をよく表わす出来事がありました。次のように報告されています。「大会会場に向かう途中,水を運んでいる男の人に会いました。その人は近くの井戸からくんだ『聖』水を運んでいるのだそうです。その井戸はヒンズー教徒たちに神聖視されていて,ある人々はそこの水を定期的に飲みます。聞くところによると,しばらく前にひとりの不可触賤民は水が欲しくなって,その井戸にバケツを降ろして自分用に水をくみました。それによって井戸は『汚され』たため,騒動が起きました。しかし,それは水を清めるものではありませんでした。水を再び『神聖』にするために信心家が行なえるただひとつのことは,聖牛のふんをバケツに7杯取って,それを水に投げ入れることだったのです。そのあと,ヒンズー教徒は再びその『聖』水を飲んだり,神聖な目的のために用いることができるようになりました。また,その井戸はボンベイでコレラの最も強力な感染源のひとつであるとも伝えられています」。

その朝のプログラムで,ノア兄弟はインドにおける業と将来の計画のあらましを話しました。兄弟たちは,それを快く受け入れ,また,インドにおける業が再組織されるという発表に喜びました。カラチ,デリー,マドラス,トラヴァンコール,カルカッタ,セイロンおよび他の多くの土地から120名の人々が出席しました。それらの人々が示した,王国の良いたよりを宣明するという決意には顕著なものがありました。

「すべての人びとの喜び」と題する公開講演には504名が出席しました。それは特に東洋の人々の益を図った内容の講演でした。その大会が終わって別れを告げるのは容易ではありませんでしたが,訪問した兄弟たちは苦悩する国,インドをあとにしました。

燃え上がる国!

1947年2月20日,英国政府は1948年6月までにインドを手離す意向を表明し,政権の移行を進めるためにマウントバッテン卿を任命しました。ムスリム連盟は流血の暴動を起こしてそれに応じました。殺人,略奪,放火および暴力行為一般が東ベンガル,パンジャブおよびノースウエスト・フロンティア郡を激しく揺り動かしました。その結果,国民会議派はインドの分割を承諾し,パキスタン州が分離しました。

8月15日には決定的な惨事があり,インドは回教のパキスタンとヒンズー教のインドとに分れました。狂信,恐れ,窮乏に刺激されて,ヒンズー教徒,シーク教徒,回教徒は,ナイフや手おのや剣や火など手もとにある武器をなんでも使って互いに撃ち合いました。また,隊を組んだ集団が2方向から旅行するという先例のないことが起きました。幾百万人もの人が移動していたのです。回教徒はインドからパキスタンへ逃れ,シーク教徒とヒンズー教徒はパンジャブ地方からインドへ逃げました。ある通信員は長さが116㌔に及ぶ一隊もあったと伝えていますし,別の報告によれば,全く記録的な40万人に上る難民の,護衛された一団もあったということです。悲しみと飢えと死体が両方向にえんえんと続いていました。悪いことに,報復行為が連鎖反応的に繰り返され,残酷な仕打ちや虐殺がなされました。抑制されることのないその大破壊のさ中にあって,コッテリル兄弟は分離運動のパキスタン側にいて,カラチの兄弟たちに仕えていました。

コッテリル兄弟の次の割当ては,暴動の中心のひとつであるデーラドンで巡回大会を開くことした。出札係は,悪夢のような旅行になるからやめるようにと勧めましたが,コッテリル兄弟は,「エホバのご意志なら,なんとかあちらに行こう」と考えました。彼は次のように書いています。

「それで,カラチの兄弟たちと2,3日楽しく過ごした後,私は出発しました。汽車は,気のせいか用心深く,ムルタンとモントゴメリーを通って北へ向かいました。ラホールに近づくと,パキスタン側からもインド側からも多くの難民が逃げており,混乱の状態がまざまざと見られました。同じ車室にいたひとりの熱心な回教徒は祈とう用の敷物を幾度となく敷いてアラーに祈りました。言うまでもなく保護を求めるためです。その光景は第二次世界大戦中のロンドンを思い出させました。プラットホームで夜を明かした後,インド行きとされていた汽車に乗りました。車内は込んでいて,人々が恐怖にかられているのが感じられました。私のいた仕切り車室はシーンとしていました。私は『ものみの塔』誌を読み,隣りの男の人に『目ざめよ!』誌を読むように渡しました。私たちがいた一等の仕切り車室は6人用に作られていましたが,結局40人が入っていました。

「各駅のプラットホームには大勢の人がひしめき合っていました。いなかを旅行していて,ラクダや馬,小馬,やぎ,羊を連れた難民の一団を多数見ました。幸い,私はだれかが殺されるところを見たことは一度もありませんでした。もっとも,列車の乗客が大量虐殺されていました。ちょうど私たちの前に出た列車の乗客も虐殺されたのです。アムリツァルでは,長柄の付いた長い剣で武装したシーク教徒が,適当ならばいつでも殺す用意をして各車両を調べました。私はただ,ご意志であれば安全で平静にさせてくださいと,み子キリスト・イエスを通してエホバに祈りました。神のみ言葉である聖書をずっと読み続けている時,本当に平静な気持ちでした。

「車両の屋根の上には,男女,子供,そしてやぎまでが,荷物や身の回り品といっしょに群がって乗っていました。クエーカー教徒のアメリカ人が……米軍の配給食料包をくれました。私はビスケットとチョコレートを食べました。ついに私たちは境界線を越えてサハランプルに着きました。そこで私は,車内で『目ざめよ!』誌を読んでいた若い男の人といっしょに,なんとかして食べ物を手に入れました。私はその人が,回教徒のインド兵で本部に帰るところであることを知りました。彼は私にその時が人生で一番恐ろしい時だと言いました。回教徒であることが他の人に知られたら,彼は殺されたでしょう。その汽車の乗客の中で唯一の回教徒だったと思います。

「翌日私はバスでデーラドンに行き,『幸福なるかな,平和ならしむる者』という時宜にかなった講演をしました。そこは特殊な地域で,シーク教徒と回教徒が互いに殺し合っていました。ジェラルド・ジェラード兄弟と私は姉妹たちを家まで無事に送り届けました。大会の最後のプログラムの時には,厳しい戒厳令が敷かれていたので,出席者は6名ほどでした。次に行ったのはカルカッタで,そこではランダル・ハプリー兄弟が兄弟たちのしもべをしていました。私たちはチョウリンギーのYMCAホールで巡回大会を開きました。そこで初めてベンガル語を話す兄弟たちに会えたのはうれしいことでした。次いで,トラヴァンコールまでの非常に長い汽車旅行が始まりました。タラパディで,マラヤラム語を話す兄弟たちは開会の賛美の歌をうたう時,古い兄弟たち全員が聖歌隊のように座っていました。……マラヤラム語の友人たちに,私たちがエホバの証人であるということについて助言する必要がありました。考えてもみてください,政府の国勢調査の表に書き込む際に自分の宗教を『ラッセル派』とした人々がいたのです。

「私は回れ右をしてバンガロールに行き,そこで兄弟たちに会って,巡回大会を支持するようにというエホバの招待を受け入れる必要を認識するよう説得しました。マドラスに行って,小さいながらも楽しい大会を開いた私は,タミル語を話す兄弟たちに深い愛を抱くようになっていました。マドラスからボンベイに戻り,マラーティ語を話す地域で宣教者の任命を受けていたカーマイケル兄弟と再びいっしょになりました。

ギレアデからさらに援助が来る

1947年にギレアデ学校の8回目のクラスを卒業したホーマーおよびルツ・マケイにとって,インドの新しい住まいは故郷のカナダとは全く対照的でした。長い船旅のあと,ふたりはボンベイで同級生のディック・コッテリルとヘンドリー・カーマイケルや他の兄弟たちの出迎えを受けました。

1947年の初めに,ノア兄弟はボンベイのベテルの台所に立って見渡し,簡潔明瞭に,「これはアメリカ女性を悲しませるだろう」と言いました。ところでルツ・マケイはベテルの料理と掃除の割当てを受けていましたから,彼女に話してもらいましょう。『そこは私がそれまでに見たことがないような家でした。台所に流し台はなく,すみの壁に水道があるだけでした。そこには,水が床にあふれないようにコンクリートの細い枠が付いていました。水は1日中出てはおらず,断水の時のために蓄えておかねばなりませんでした。コンロはシグリと呼ばれる小さな金属製の入れ物で,炭を燃やすようになっており,一度にひとつのナベしか使えませんでした。冷蔵庫はなかったので,毎日市場で食料を買いました。すべての物にはカバーを掛けておかねばなりませんでした。食物を出しておくと牛が寄って来ることが経験を通して分かったからです。持って行かれた卵は1個だけではありませんでした。教訓を学ぶ前にプディング,あるいはパイのまん中の部分が食べられてしまったこともありました』。

人々の状態について,マケイ姉妹はこう述べています。「まず,人々の非常に貧しい状態や生活の仕方を見て,そうした条件のもとで自分たちはどうやって行ったらよいのだろうと考えました。それはとても気のめいることでした。でも,時がたつにつれて,人々が真理を学ぶのを助ける必要が大きくなり,そうした考えは押し出されてしまいました。私たちは,ハルマゲドン後の新しい事物の体制こそ現在の古い体制を除き去るための唯一の解決策であると,繰り返し繰り返し自分たちに言い聞かせました」。

ホーマー・マケイは一部の時間を割いて,ボンベイ地方の兄弟たちのしもべとして働く任命を受けました。受け持ちの巡回区は広くて人口も多い所でしたが,王国宣明者はほとんどいませんでした。ひとりの孤立した伝道者を訪ねるために,ボンベイからハイデラバードまで約792㌔の道のりを15時間ほど汽車にゆられて旅行しました。別の時には,ボンベイから491㌔離れたアーマダバードに旅行して孤立した家族を訪問しました。ホーマー・マケイはそこで開かれた公開講演の経験を回顧して,こう書いています。

「アーマダバードは人口が百万を超える,大きな紡績の町です。私たちは講演の会場を借りました。ところが,唯一の宣伝はその週中に少し業を行なったことと,会場となる建物に手製のプラカードを掛けたことでした。関心を持つ家族の外に,出席したのは3人の回教徒だけでした。私は,500人収容できる大きな会館に7人ほどの聴衆を迎えていたのです」。

自分たちの印刷機で再び印刷する

第二次世界大戦直後に,協会はアメリカからチャンドラ・アンド・プライス活版印刷機の購入許可を得ることができました。結局その印刷機はボンベイの支部事務所から3㌔ほど離れた小さな車庫にすえ付けられました。マラヤラム語の活字はトラヴァンコールから運ばれ,英語の活字は幾らか購入されました。クロード・グッドマン兄弟はK・T・マシューの助けを得て作業を開始しました。以前,「ものみの塔」誌のマラヤラム語版は,ラブレーンの支部事務所で活字が組まれてから民間の業者の所で印刷されていました。ところが今や,活字を組むことも印刷も自分たちでできました。ただし,その他の言語で印刷することは外部の印刷業者にすべてまかせなければなりませんでした。

ところで,「ものみの塔」誌のマラヤラム語版を最初に印刷していた協会の印刷機は足踏み式だったので蒸し暑い夏の間は重労働でした。しばらくして協会は印刷機に付ける電気モーターを購入し,操作上の問題を取り除きました。

ボンベイで新たに見いだされた関心

1949年のある日,ハシャ・カーカダ1世とサテタネイサンがフロラ・ファウンテンの近くで街頭の雑誌活動をしていた時,ロキー・デスーザという人にカナラ語の雑誌を配布しました。その人が住んでいる所は寮のようになっていて,50人ほどの独身の男性が生活していました。その建物の一部は男子のクラブに使われ,外部の人もそこへ遊びに来ていました。特にそのクラブの会員は全員が,インド西部のコンカン海岸にあるブラーマヴァール地域出身の自称クリスチャンたちでした。ロキー・デスーザを訪問する週ごとに,カーカダ1世とサテタネイサンはクラブの異なる会員に会って聖書の話し合いをしました。関心はしだいに高まり,20名から30名の人々と聖書研究が定期的に行なわれるようになりました。

他の会員から反対が起こりました。共同広間には十字架と燈のともったろうそくの付いた大きな祭壇がありました。聖書研究をしていた人々は間もなく,神が偶像崇拝を喜ばれないことを悟ったので,クラブから十字架を全く取り除く機会をうかがっていました。その建物の内部に水しっくいを塗る時が来て,祭壇は春の大掃除をするために取りはずされました。でもそれは再び取り付けられませんでした。十字架と祭壇がなくなってしまったからです。そのためにクラブの会員の間に動揺と分裂が起き,祭壇をどうするかについて多数決で決めることになりました。真理に関心を抱いていた人々がからくも過半数を得て祭壇を取り除く承認を得ました。クラブの会長のP・P・ルイスは,ロキー・デスーザや他の大勢の人々と同様に献身した証人となりました。日曜日の午前中にクラブで定期的に公開講演が開かれ,そこの住人でない会員の幾組みかの家族を含む40人から50人の人々が出席しました。この新たに見いだされた関心がそのように発展したことは,ボンベイにおける業にとって確かに刺激となりました。

巡回の業の最初のころの思い出

1949年,ヘンドリー・カーマイケルは新しい割当てを受け,巡回監督としてインドを東西南北に旅行する業に取りかかりました。新しく訪問地となった所がありました。そのひとつはコラル・ゴールド・フィールズで,そこには医者のポンニャ兄弟と,ロバート・ラシュトンおよびその家族が土地の会衆とともに働いていました。コラル・ゴールド・フィールズの訪問は,幾つかの面で興味深いものとなりました。カーマイケルは次のように書いています。「コラル・ゴールド・フィールズは,名前が示しているように,金鉱のある所で,その金鉱は世界で最も深いと言われています。世界で一番深い単一立て坑である,地下1,981㍍のクリフォード立て坑に入るのは胸のわくわくすることでした。そんなに深い所に,仕事場や消防部門,火薬庫,車両が走る網の目のような線路があるのですから,採鉱の規模の大きさには全く目を見張らせられます。ところが,私は地下2,743㍍ものヒースコート立て坑に入る機会を得ました。そこは,巨大な冷房設備が付いていたにもかかわらず,温度が摂氏43度でした。私は,金の薄い層まで新しい切り込みを入れている岩膚に穴を開けさせてもらうことができました。……

「その年の際立った出来事は,トラヴァンコールの12の会衆と孤立した一家族をひとつの巡回区にすることでした。8月,マラヤラム語を話す兄弟たちのために通訳を務めるA・J・ジョセフ兄弟を伴い,私たちはいろいろな乗り物を使って966㌔を旅行し,さらに徒歩で129㌔行きました。私は今だに,ハイレインジのアップサラを訪問した時のことを思い出します。そこへ夜遅く着いたところ,草ぶきの王国会館で兄弟たち全員が話を聞くために待っていてくれたのです。……

「カンガサの会衆を訪問するために,バスに乗って田舎に出かけました。座席はバスの幅一杯に差し渡した木のベンチで,乗客は,やぎやニワトリその他の家畜を含む購入品を持って両側から,もうそれ以上乗れなくなるまで詰め込まれます。(ただし,人数は制限されていません。他に乗って行きたい人がいれば,その人はバスの横とか後部の,足場があって手でつかめる所ならどこにでもぶらさがりました。また,屋根の上にもびっしり人が乗っていて,まるで大勢の人の下でエンジンが音をたてているようでした。)

「それは旅行のほんの最初の段階に過ぎませんでした。私たちはある場所でバスを降り,一列になってヤシの森の中を歩き始めました。やみが降りたので,ヤシの葉をよじって小道を照らすたいまつにしました。道は果てしなく続いているように見えましたが,数時間後に私たちは到着して温かい歓迎を受けました。……

「トラヴァンコールは気候が蒸し暑くて,様々なヤシの木に豊かにおおわれ,水田や小さな村があちらこちらにありました。住民の現金収入は多くないようですが,自分たちに必要な物をたくさん栽培したり,屋根をふいたり食器を作るなど,ヤシの葉を十分に活用しています。また,ヤシの実の殻から色々な道具を作っています。稲作地帯はかんがい用水路が縦横に交差していて,歩けるのは切り倒されたヤシの木に沿った所だけです。そのために戸別による証言は一層危険でした。私が驚いたのは,公開講演が取り決められた時に,ヤシの森のまん中の広場,つまりいなか道の交差点に連れて行かれたことでした。私はそこで忍耐強く待ちました。だれも来ないものと決めようとしたちょうどその時に,兄弟たちが大勢でやって来ました。兄弟たちが集会場所をどのように知ったのか,私には今だに分かりません。結局200人から300人が聞きに来ました。そして,1時間だけの話では満足しなかったのです。その集会は一大行事でしたから,兄弟たちはできるだけひとつ残らず聞きたいと願っていました。しゃがんだり,倒れた木の上や地面に座ったりして,注意深く耳を傾け,聖書で確かめていました。……

「そのトラヴァンコールの旅行の最高潮となったのは,1949年9月2日から4日にかけてタラパディで開かれた三日間の大会でした。スキナー兄弟がボンベイから来て公開講演をし,それに800名が出席したのは本当に喜びでした」。

宣教者たちはカルカッタでがん張る

カルカッタに新たに派遣された宣教者たちは,その地方の言語であるベンガル語を学ぼうとしました。カルカッタで王国の業を始めるのを助けるため,1949年に協会は「喜びを抱く国々の民」と題する小冊子のベンガル語版を発行しました。当然ながら,宣教者たちが異なった状況に順応するのに少し時間が掛かりました。マリー・ザヴィツ姉妹は次のように回顧しています。「ある日,街頭伝道をしていた時,私が振り向くと,長さ3㍍ほどの大きなにしきへびを持った男の人が立っていました。そして,そのへびはまっすぐ私を見ていたのです。へびが嫌いだったので,私はキャーと言って道を走り去りました」。それは,生活の資をかせごうとしていた旅回りのへび使いでした。

ザヴィツ姉妹はさらにこう続けます。「戸別の証言活動をしていた別の時に,ひとりの婦人が雑誌を求めたのですが,それを階段に置いてほしいと私に言いました。私はその通りにしました。すると婦人は雑誌をそこから取り,寄付のお金を渡す時にそれを私の手の中に落としました。自分の手が私の手に触れないようにするためです。その婦人は,自分が非常に神聖だと思っていたので,私の手から雑誌を受け取ろうとしなかったのです。私は心が傷つけられました。そうした行為はカースト制のならわしから来ていました。

「ある時私はインド人の“クリスチャン”と聖書研究を始めました。そして,その人をもうひとりの研究生のところへ連れて行きました。その途中,私が書籍を配布したことのある男の人に道で会ったので,私たちは立ち止まって,その人と書籍について話しました。次の時,私がそのインド婦人と研究するために行くと,彼女はもう私と一緒に外へは出かけないと言いました。理由を尋ねたところ,彼女はこう答えました。『私はインド女性でしょう。ですから,道で男の人と話しているところを見られては良くないのです。近所で恥をかきますから。たとえその人が親せきの人であっても,道で男の人に話しかけることはできません』。しかし,しばらく後に彼女は,再び私と一緒に出掛けてもよいと言いました。また,やがてその問題を解決しました。その人は真理に入って,ついに特別開拓者になり,今ではひとりであちらこちら歩き回っています」。

ジェラルド・ザヴィツは思い出をこう語ります。「私たちは最初そこは産出的な区域だと思いました。ところが間もなく,人々の関心が表面的なものだということが分かりました。人々は喜んで耳を傾けましたが,信じませんでした。自分自身の哲学に依然として執着していました。私は,まず,たとえばカルマという概念について人々と推論してみようと考えました。カルマの理論によれば,すべてのものは神の意志に従ってあるのであり,すべてのものには常に何らかの良いところがあると教えられています。それで私は,非常に具体的な例としてモハンダス・ガンジーの暗殺を取り上げようとしました。確かにそれは悪魔的な犯罪で,良いところなどあるはずがありません。しかし,そうではなく,何か良いところがあり,ただ私たちが理解できないだけだというのです。それで,私はその理論について人々と推論しようという考えを捨てました。カルカッタで2,3人のヒンズー教徒が真理に入りましたが,インド人の“クリスチャン”と研究するほうが有益だと思っています」。

ベンガル語の区域で見られた一層の発展

1949年の後半,ギレアデの卒業生であるヘンドリー・カーマイケルはベンガル地方を巡回訪問しました。彼は次のように書いています。「カンチラパラで新しく設立された会衆を訪問していた際,カルカッタの北約126㌔の所にあるチャプラという村へ行く取決めがなされました。キリスト教世界の牧師と宣教師たちは,チャプラで公開講演を開かせないようにあらゆる手を尽くしました。しかし,それにもかかわらず,ある明るい月夜に60名ばかりの人が屋外の空き地に集まりました。人工の照明は土ろうのランプでした。講演が終わってから,ベンガル語を話すひとりの老婦人は,『私は生がい牧師の話を聞いてきたのに,そういうことがみな聖書に書かれていることを知らなかったんですからねえ』と言いました」。

カーマイケルはさらにこう書いています。「チャプラで戸別に訪問している時,最初ふたりの連れといっしょだったのが,最後には15人ほどの人が私について回っていました。家は,地面から60㌢ぐらい高くした,天日で焼いた泥の壇の上に建てられ,ヤシの葉でふいた屋根はそのまま下まで伸びて,雨が中に降り込まないように泥の壇に重なっています。中に入るように招かれると,壇の上にあがってから,かがんで中に入り,他の15人の人全員といっしょに床の上に座りました。私が聖句を論じる時,全員が耳を傾けて,それについて推論したものです。その地域では,夜中過ぎまで聖書を説明し,それでも夜明けには起きて野外でさらに良いたよりを広める,ということがしばしばありました」。

進歩を一べつする

1949年までにインドにはひとりの巡回監督がいて,29の会衆に交わる270人の伝道者と23人の特別開拓者に仕えていました。会衆の内訳はマラヤラム語の会衆が13,ベンガル語の会衆が1,英語の会衆が15です。

1950年1月26日に,インド共和国が新たに誕生したところ,協会のボンベイ支部は,印刷機械をセリの郊外からラブ・レインの事務所の近くにある倉庫へ移すことに余念がありませんでした。その印刷機は比較的新しいものでしたが,降ろす時に木の支柱がぼきんと折れたため,機械は地面に落ちて大切な部分が壊れました。しかし,修理され,間もなくふたたび良く作動するようになりました。

サイクロンと土砂くずれを切り抜ける

巡回監督のヘンドリー・カーマイケルがダージリンを去ろうとしていた時に,猛烈なサイクロンがその地域を突き抜けました。そのサイクロンは二日間で1,270㍉の豪雨を降らせたため,おびただしい数の土砂くずれが起きました。ブスティス,つまり,村々は土砂に押し流されてあとかたもなくなり,住民は死亡して,その地域一帯が荒廃しました。実際,カーマイケル兄弟が泊まっていた所の隣りの家が土砂で流されました。兄弟のいた所の真向いに岩や荒石がうず高く積もり,水と泥が中に入って来ました。ダージリンが他の地域から孤立して,復旧に何か月もかかることを聞いて,ヘンドリー・カーマイケルと開拓者のメルロイ・ウェルズ-ジャンズは一か八か自分たちの力で脱出を試みることに決めました。その上,ふたりはその巡回旅行の次の地点でバプテスマを施すことになっていました。

カーマイケル兄弟の報告は次の通りです。「まず私たちは,山の尾根をうかいする軍用道路まで305㍍登りました。そこに着いてみると,道路はあぜんとするほどひどい状態にありました。……うず高くなった荒石と木の山をやっとのことで乗り越え,遂にグームにたどり着きました。そこから,空腹につきまとわれ,くたくたになりながら,幹線道路を難儀して歩いて行きました。山から土砂が音をたてて私たちの後ろに落ち,道を押し流してしまうことがしばしばありました。一度,土砂がふたりの間に落ちたことがありますが,私たちは再びいっしょになることができました。とうとう,立ち往生せざるを得なくなりました。私たちの前に,幅約12㍍,深さ610㍍の谷が大きく口を開け,激流が音をたててその山峡を下って谷間に落ちていたのです。そこに掛かっていた鉄橋で残っていたのは,枕木でつながれた2本のレールだけでした。それが,とどろく水のそばまでぶらさがって,宙に揺れていました。……

「私たちはその夜,尾根の端の鉄道の小屋に避難しました。小屋の上には,いつ何時たくさんの石の山が落ちてくるか分かりませんでした。言い表わせないほど苦しく,眠られない夜を過ごしたあと,外に出ると,目の前には再びあの1対のレールがありました。……雨は土砂降りで,風がレールをゆさぶっていましたが,とうとう私たちふたりは向こう側に行きました。しかし,問題がなくなったわけではありません。間もなく着いたソナダで,もうひとつの谷にぶつかったのです。ところが,このたびは鉄道線路が残っていませんでした。……私たちはがけのきわを914㍍の高さまで登りました。時には非常に注意深く,背中をがけの表面にあて,危険な岩だなをそれがなくなるまでじりじりと進むこともありました。地すべりでその岩だなさえも押し流されてしまったので,どこか他の登り口がみつかるまで道を逆戻りしなければなりませんでした。ついに,私たちは野グマの巣くつの森を通り抜けてがけの上にはい登り,一泊二日の旅をしてカセオングに進みました。おなかがすき,泥まみれで,足は水ぶくれができたり血が出ていましたが,それを除けば無事安全に着きました。私たちの到着を見たローマ・カトリックの司祭は町の人たちにそれを知らせました。とはいえ,私たちの訪問の目的は達成されました」。

報われた,南インドへの旅

スキナー兄弟が南インドへ旅行して,サウス・カナラとトラヴァンコールの兄弟たちを訪問することが決まりました。巡回監督のヘンドリー・カーマイケルは,大手術をして回復したばかりでしたが,支部の監督に同行しました。ふたりの兄弟は沿岸航路の汽船でボンベイをたち,マンガロールに寄港して週末を過ごしました。そこでふたりは,カナラ語の「ものみの塔」誌をかなり定期的に学んでいる14人の関心を持つ人々のグループを見いだしました。英語が良く分かる人はだれもおらず,通訳もいませんでした。したがって,公開講演は,英語の集会で,スキナー兄弟が話し手であると宣伝されました。講演の宣伝はわずか1日行なわれたにすぎませんでしたが,90名の人が出席したのは驚くべきことです。

次の訪問地のコチンでは,その地方での発展を促すために大会が取り決められました。コチン州の人々は,トラヴァンコールの人々と同様にマラヤラム語を話していましたが,英国の支配の下で,コチンはトラヴァンコール州とは別個の州になっていて,独自の土候および政治体制を持っていました。しかし,その時までに,マラヤラム語が話されている地域での業はトラヴァンコール州の南部にほとんど限られていました。コチン大会の開会のプログラムに210名が出席しました。30名から40名の関心を持つ人々がトラヴァンコールから来ました。大会での証言活動に110名の証人が携わりました。20人から30人の姉妹たちが公開講演を宣伝するプラカードを下げて町中を歩いたのを見て,コチンの人々は目を見張りました。そうしたことはコチンでいまだかつて見られたことがなかったのです。コチンは司祭が在住し,ローマ・カトリックの浸透している都市です。ところが,公開集会の最終的な出席者は1,022人で,それまでにインドで開かれた最大の大会になりました。うれしいことに,25名の人がバプテスマを受け,英語を話す5名の人々が会衆を設立したいと強く願っていました。

増加を分析評価する

全国に宣教者を派遣したことは安定させる力となりました。また,それらの宣教者と一致して働いたインド人の兄弟たちに自信を持たせました。

カルカッタでヒンズー教徒との聖書研究がたくさん始まっていました。それはヒンズー教の人々への突破口となりましたか。ベンガル語を話すヒンズー教徒との家庭聖書研究が38件司会されており,「これはほんの始まりにすぎません」と報告されていました。ところが,その希望に満ちた言葉には決まって次のような表現が続いていました。「彼らは英語の力を付けるために,儀礼上,比較研究の目的で学びましたが,自分たちの宗教を絶対に変えないという決意を持っていました」。一報告は大方のヒンズー教徒の態度を明らかにする一般的な真相をこう述べました。「啓示宗教に対してばく然とした反感があり,彼らは,贖いという考えを受け入れられない」。

クリスチャンであるととなえていない人々との聖書研究が何件ぐらいあるか知るため,1950年に兄弟たちに対して質問表が送られました。その結果,インド全土で,ヒンズー教徒と仏教徒および他の“クリスチャン”でない人々との家庭聖書研究が114件司会されていることが分かりました。およそ100件の研究が始まりましたが続きませんでした。そのうち34人は集会に出席しており,11人は野外奉仕に参加し,ふたりはバプテスマを受けていました。質問表の答えによれば,1951年には,31件の減少に当たる83件の家庭聖書研究がなされていました。ところが,名目上のクリスチャンでない13人の人が証言の業に参加しており,3人がバプテスマを受けていました。したがって,増加は主に,クリスチャンであるととなえる人々の間に見られました。その年に59人の新しい弟子が献身してバプテスマを受け,証人の数が新最高数の499人になったのは励ましとなりました。

プーナでの問題

幾つかの宗教的な政治運動,特に,1948年にモハンダス・K・ガンジーを殺したグループとして全国に知られていたR.S.S.すなわちラシュトリヤ・セヴァ・サング(国のしもべ)は,真のキリスト教がインドに広まることを好みませんでした。1951年10月に彼らはプーナの巡回大会で騒ぎを起こそうとしました。10月14日にスキナー兄弟はヒンズー教が根深い土地にあるゴクハレ・ホールで公開講演をする予定になっていました。ところがクリスチャンに敵対的な一群の乱暴者が集会を妨害したため,兄弟たちは,「インドから出て行け!」というやじの中を立ち去らねばなりませんでした。また,暴力ざたになる恐れもありました。警察ですら法と秩序を回復することができませんでした。

兄弟たち全員はプーナの王国会館に集まって,大会のプログラムを最後まで行ないました。その後,スキナー兄弟とカーマイケル兄弟は警察の派出所に行って苦情を申し立てました。それから,10月31日にもう一度同じ会館で,ただし警察の保護を得て公開集会を開く計画が立てられました。兄弟たちは再び宣伝活動を組織し,マラーティ語と英語のビラを1万枚配布しました。集会が始まる時刻になった時,ふたりの警察官と約12人の巡査が会場にいました。スキナー兄弟が自己紹介するかしないうちに,またもや騒ぎが起きたのです。警察が仲裁に入りましたが,すぐに劣勢となり,間もなく,口々に叫ぶ人々が集まって大群集になりました。そのため,集まった兄弟たちや関心を持つ人々は危険にさらされているかに見えました。

ところが,会館の敷地の側に裏門のある隣家の人と取決めが設けられていて,騒ぎが起きた時には門を開けて兄弟たちを逃がすということになっていたのです。したがって,警察が玄関で大勢の人を相手に戦っているすきに,兄弟たちは静かに列を作って,気づかれることなく全員無事に逃れました。後日,新聞はその事件を大々的に報道しましたが,記事の多くはエホバの民に好意的ではありませんでした。支部の監督は,エホバの証人の,憲法で保障された言論および崇拝の自由の侵害を抗議する手紙をボンベイ政府の内務大臣にあてて,またその写しをネール首相とボンベイ州の検察官にあてて送りました。

明るい見通しをもたらした訪問

1952年1月にノア兄弟とヘンシェル兄弟が到着したことは,インドにとって際立った出来事となりました。ふたりはパキスタンのカラチで別行動を取り,ヘンシェル兄弟はデリーとカルカッタへ,ノア兄弟はボンベイとインド南部へ行きました。

マドラスでノア兄弟は宣教者のグループと会合を開きました。同じ日の午後4時に57人の兄弟たちは話を聞きに集まり,6時には95人が公開講演に集まりました。

翌日,ノア兄弟とスキナー兄弟はコチンから湖を隔てた所にあるエルナクラムで開かれる大会に向かっていました。笑みを浮かべた260人のトラヴァンコールの兄弟たちはその旅行者を出迎えるために待っていました。「私たちは通訳を通してしか兄弟たちと話せませんでしたが,兄弟たちの神権的な愛は他のいずれの土地のエホバの証人にも見られるのと同様にはっきり感じ取れました」,とノア兄弟は書いています。大会の出席者は,「神を真とすべし」と題する本のマラヤラム語版の発行に深く感動しました。夜の公開集会の出席者は700人でした。

「翌日,私たちはボンベイ行きの飛行機に乗り,私はボンベイでヘンシェル兄弟と再び一緒になって,デリーとカルカッタの経験を聞きました」,とノア兄弟は書いています。デリーでヘンシェル兄弟は,特にインドの兄弟と戸別の訪問をしている時に関心を持つ多くの人を見いだしました。第一日目の夜の話は兄弟たちから大いに感謝され,二日目の公開集会にはそれまでの最高数に当たる73人が出席しました。

カルカッタではヘンシェル兄弟の訪問で75名の人が王国会館に詰め掛けました。そこの小さいながらも発展しつつあった会衆は,5人の宣教者,すなわち,ザヴィツ兄弟姉妹,マジョリ・ハドリル,フロレンス・ウィリアムズおよびジョイス・ラークの援助を受けていました。ノア兄弟は次のように述べました。「絵画や織物の展示で有名な美術館が公開講演の会場として借りられ,205名の人が,『宗教は世界の危機に立ち向かうか』という質問の答えを聞きました。ここでも再び,関心を持つ新しい人々が見られ,将来の発展が期待できました」。

興味深いことに,ノア兄弟は次のようにも書いています。「ダージリンのネパールの国境の近くで働いている一開拓者は,中国から迫害を逃れて来ていた幾百人ものいろいろな宗派に属する宣教師のことを話してくれました。ダージリンはそれほど大きな町ではありませんから,そんなに大勢の宣教師が一体そこで何をしているのだろうかと考えざるを得ません。その兄弟の話によれば,それらの宣教師はあまり働いていません。ある宣教師たちは小さな子供を集めて賛美歌を教え,その子供たちに約束の米を与えています。子供たちが寄って来るのは食物のためで,国が食糧不足の時にはさらに大勢の人がやって来ます。しかし,子供たちは聖書の教えについては何も学ばないのです。無料で三時のお茶を出す宣教師もいます。人々が集まり,子供たちが歌をうたっている時に写真が撮られます。宣教師たちは,自分たちがどんな“成果”を上げているかを示す証拠として,そうした写真をアメリカその他の土地へ好んで送るのです。それを根拠にして,彼らはさらに多くの金を求め,こうして欺まん行為をしています。

「真理はそうしたごまかしや偽善を暴露するので,それら宗派心の強い宣教師たちはエホバの証人,およびエホバの証人の宣教者がインドにいることを大いに憤慨しました。そして,医療を与えない,子供に教育を施さない,あるいは職を解雇すると脅して,人々に真理を拒否させようとすることが少なくありません。しかし,だれが人々の真の友であるかはすぐに明らかになります。政府の交代で時おりいわゆる異教徒が政権を執ると,偽のクリスチャンの宣教師たちはしばしば,暮らしやすい土地へ引越して行きました。したがって,使徒的な要求に従っていないため,……偽りの宗教が人類の期待にそむいている点で大いに非難されるべきなのは彼らです」。

次に予定された主な大会は1952年1月14日にボンベイで開かれました。その時,非公開のプログラムの中で宣教者たちは,それぞれの土地の主要な言語を学ぶように励まされました。

ノア兄弟はさらにこう続けています。「カナラ語の『神を真とすべし』が発表された時,その大会は大きな喜びに包まれました。公開集会中にはさらに一番興味を引く出来事がありました。私は共産主義のソ連国旗のしるしが付いた脅迫状を受け取ったのです。そこには,数か月前プーナで開かれた公開集会を妨害した騒ぎのことが書かれていました。警察に連絡が取られましたが,万事は円滑に進んで784名という大勢の出席者は話を聞きました。話の後,多くの人から質問がありました。43名の人が水の浸礼を受けたことを述べておかねばなりません」。

ところで,その大会でバプテスマを受けた人のうち29人は,1949年にカーカダ1世とサテタネイサンが見つけたある共同社会のクラブから来たカナラ-コンカニ語を話す兄弟たちでした。大会中,ノア兄弟はアーサー・カンズに話しかけ,カナラ-コンカニ語を話すそれらの兄弟たちのうち6人が特別開拓者としてその言語が用いられている区域へ引越すのを見たいと語りました。カンズがそのことを兄弟たちに伝えると間もなく,ジョン・マベンとレイフル・ロイスというふたりの開拓者は必要の大きな所で奉仕するためにボンベイをたちました。そのあと,他の人々もそれに続き,その中にはルザリオ・ルウィスもいました。彼はクンダパーに行ってからブラーマヴァールへ行き,そこで会衆を設立するため精力的に働きました。

ノア兄弟の,1947年と1952年の2度の訪問の間の短い期間に増加が見られました。1947年に英領インドにはわずか198人の伝道者がいたにすぎませんが,1951年の11月には514人という伝道者の最高数が得られました。その上,23人の宣教者と18人のインド人の開拓者がインドで奉仕していました。もっともなことながら,協会の本部から来た訪問者は,この広大な国で王国宣明の業を強化することに明るい見通しを持ってインドを離れました。

宣教者は励ましの源

確かに,1952年中,宗教的な反対にもかかわらず増加が続きました。ジェフリーズ姉妹がカルカッタの宣教者の家にいるマジョリ・ハドリルと一緒に働くためにボンベイを去ったので,インド人の開拓者の姉妹ナスリーン・マルがマーグリト・ホフマンの新しいパートナーになりました。

バンドラで,ホフマン姉妹とマル姉妹は,貧困にあえぐ人々が小屋に住む非常に貧しい地区で奉仕している時に,ローマ・カトリックの司祭の激しい反対に遭いました。その司祭はマーグリト・ホフマンがウィリアム・パーマーという人と聖書について話し合っていた小屋に入って来たのです。彼はすっかり腹を立てていて,ホフマン姉妹の手から小冊子を数冊ひったくると,姉妹をけろうとしました。そして,小冊子をずたずたに引きちぎり,これは“自分の羊”だと言いながら暴力を振るいかねない様子をしました。近所の人々がたちまち周りに集まり,子供たちは,姉妹が再び近くに来たら彼女をののしるようにそそのかされました。しかし,マーグリト・ホフマンはがん張り通し,その騒動があった小屋の男の人は王国の定期的な伝道者になりました。ウィリアム・パーマー兄弟は,正しいことに対して確固とした立場を取る勇気を持つ人でした。その小さなひと群れの小屋から生まれた7人の王国伝道者は,結局ローマ・カトリックの「獄屋」から逃れたことを大いに喜びました。

インドの首都デリーに宣教者の家が新たに設けられました。1952年の始め,カナダ人の兄弟バーナード・フンクとピーター・ドチェクはギレアデを卒業してインドに到着し,間もなくデリーに派遣されました。協会は,デリーの発展途上にある小さな会衆でふたりと協力して働くよう,ジョージ・シン兄弟とアーサー・スタージョン兄弟をマドラスから移しました。

新しい宣教者たちは,非キリスト教徒の人々を扱う場合にどんな困難があるかをすぐに悟りました。たとえば,バーナード・フンクには,「ヒンズー教徒は論題に取り上げられたすべての事柄をはぐらかし,ごまかしているように見え」ました。彼はまた,彼らに責任を回避する傾向があることにも気づきました。「家の人は兄の所へ行ってくださいと言い,そのお兄さんは父の所へ行ってくださいと言い,お父さんに当たる人は地主の所へ行ってくださいと言う」,といった具合なのです。さらに,フンク兄弟が気づいた点として,キリスト教世界の教会は,宗教から何か物質的な益を得ることを期待するよう人々に教えたため,「内心では他の動機を持ちながら,関心を持っている様子をしている人が少なくありませんでした」。

また,社会習慣が崇拝と直接結び付いているため,『宗教を変えることはほとんどの習慣をやめることを意味し,多くの人は自分がそうすることなど考えられなかったのです』。それでも,宣教者たちは辛抱し,王国の音信を宣明してインドの証人たちの励ましの源となっていました。

ブラーマヴァールでの良い結果

宣教者の影響で,ブラーマヴァールにおける王国の業も発展しました。インドのコンカン海岸のブラーマヴァール地域付近には,小さな島が点在する入江がたくさんあり,それら小島の多くには,真理に関心を持つ家族がいました。カーマイケル兄弟は巡回の業でその地方を回った時のことを次のように回顧しています。「入江の淀の間の連絡手段は,長いさおで進む丸木舟でした。私たちが屋外にいる幾百人もの群衆に話し掛けると,関心が示されました」。

その同じ巡回訪問に関して,アーサー・カンズは次のように書きました。「ブラーマヴァールと近くの村々の付近では,川の中の幾つかの島で研究が増え,関心が高まりました。シリア人の血を引き,ローマ・カトリックの背景を持つそれらの“クリスチャンたち”は真理を学びつつありました。私たちは泥で作った家の中の石油ランプの周りに座って,勉強したり,王国の歌をうたったりしました。そこの村々の相当数の“クリスチャン”はエホバの証人になっています。真理はもともと,ボンベイの共同社会のクラブに属するエホバの証人の親族から彼らに伝えられたのです」。

ブラーマヴァールとその一帯の巡回旅行中,ある村の草のむしろで作った劇場で公開講演を行なう取決めがなされました。130人が講演を聞きに来たのですが,暴風雨に襲われて全員がびしょぬれになりました。兄弟たちはそれにもめげず,翌日に同じ集会を開くことを宣伝しました。その時300人が出席し,多くの人は開拓者に訪問してもらうために自分の住所氏名を残して行きました。近くの町で公開集会が開かれましたが,反対のために公会堂を借りることができず,屋外で開くことになりました。宣伝がなされると,町中は興奮に包まれ,150人が話を聞きに集まりました。そこでも何人かの人の名前が得られたので,カナラ語の開拓者たちは新しい任命地で良い出発をすることができました。

宣教者の入国上の問題

そのころから,特にアメリカ人の宣教師がインドに入ることは難しくなりました。ヒンズー教徒たちは総じて“クリスチャン”の宣教師の存在を快く思っていませんでした。宣教師の活動を削減するよう政府に訴えるヒンズー教の小さな宗派は絶えず幾つか存在していました。1953年にはその運動が活発化し始めました。しかし,所々で抗議されたり妨害されたりしたほかは,エホバの証人の業全体には影響がありませんでした。

訴えを聞いた政府は,キリスト教世界の宣教師数人の業を調べ,政治に干渉していると思われる2,3人の宣教師を処分することさえしました。しかし,エホバの証人はひどい妨害を受けなかったので,神に感謝できました。一般の新聞紙上では“クリスチャン”の宣教の業に対する賛否両論が大いに戦わされました。伝道活動反対の主唱者たちは,一般の人々に宣教師の業への反発心を持たせるために公開集会を設けました。一新聞は,「ヒンズー教の過激派マハサバ党党首は,公開集会の席上,インドにいる5,000人の宣教師の活動はインドの一致団結にとって脅威であると語った」,と伝えました。

1952年,ものみの塔のひとりの宣教者はなかなかインドへ入国することができませんでした。入国ビザを得るのにずいぶん苦労した後,ハワード・ベネシュはインドに到着し,バンガロールで宣教奉仕をしていたマリ・トムソンと結婚しました。ふたりはバンガロールに落ち着きましたが,ベネシュ兄弟はインドに長く滞在することが許されませんでした。政府は1年たって彼のビザの延長を拒否しました。したがって,協会はベネシュ兄弟姉妹を東パキスタンのダッカへ派遣して,そこで王国の業を拡大するように努めさせました。東パキスタンにはそのふたりしかエホバの証人がいませんでした。

アメリカの市民権を持つ数人のギレアデ卒業生は1953年に宣教者としてインドに任命されましたが,入国をきっぱりと拒否されました。それ以来,英国連邦の市民権を持っていて,ギレアデの訓練を受けた人だけがインドに任命されました。インドも英国連邦の一員だからです。

マラヤラム語だけの大会

トラヴァンコールのエルナクラムに宣教者の家が設けられたので,マラヤラム語だけの大会を開くことが決められました。開催地として選ばれたのはハイ・レインジの上にあるアップサラという村で,巡回監督のV・C・イティが大会を組織しました。そこは,最寄りの郵便局から茶園を越えて24㌔も離れた所にありました。とはいえ,1953年にはそこに約20名の伝道者からなる小さな会衆がありました。土地の兄弟たちは,こしょう,しょうが,その他の香料を栽倍して生計を立てていました。その大会に出席したスキナー兄弟は次のように回顧しています。

「兄弟たちは,編んだヤシの葉で作り,竹を支柱にした,パンダルという保護用の屋根を建てました。それは屋根だけで,周囲をおおうものはついていなかったので,心地よい風が吹き抜け,暑さを幾らかしのぎやすくしました。また,携帯用の発電機を借りて,ステージの上方の三つの電燈と30ワットの拡声操置を設備しました。半径8㌔から16㌔の範囲に渡って,のぼりやポスターやビラを用いて宣伝がなされました。最初のプログラムは,関心を持つ大勢の人々を含む283名の出席者を得て始まり,公開集会には522名が出席しました。しかし,さらに多くの人は,パンダルの外の木に設置したふたつの拡声器を通して遠くから聞くことができました。残念ながら,公開集会の時に雷雨が起こり,明らかに雨のために出席しなかった人もいました。付近の川で27人が浸礼を受けました。

「私がとてもうれしかったのは,ふたりの宣教者がマラヤラム語と取り組んでいたことでした。ダグラス・フレイザーは英語で話をしましたが,紹介の言葉をマラヤラム語で5分間話し,結論の部分でもマラヤラム語を話しました。彼の兄弟のドナルドは,土地の兄弟ふたりの援助を得て,40分に渡る実演を全部マラヤラム語で行ないました」。

新世社会大会

エホバの証人の新世社会大会が1953年にニューヨーク市で開かれることになりました。インドからも代表者が出席するという発表がなされると,インドの兄弟たちの間に興奮のざわめきが起こりました。A・J・ジョセフ兄弟の末娘のグレシーはインド人のナスリーン・マルと一緒にギレアデ学校へ行っていたので,ジョセフ兄弟はたいへん喜びました。彼らは他の大勢の宣教者たちを自分の国へ連れて来ることになるとはつゆ知りませんでした。1953年にニューヨークで開かれた有名な国際大会に出席した人の中にはA・J・ジョセフ兄弟もいました。後に,その代表者たちは,“山びこ”とも言うべき大会をボンベイで開いて,自分たちが聞いた良い事柄をインドの兄弟たちと分け合いました。ボンベイの集まりには358人の兄弟たちが出席し,48人がバプテスマを受けました。「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」と題する公開講演を聞くため,最終的に707名の人が集まりました。

拡大の基礎

その大会の直後,インドにおける一層の発展の基礎が敷かれました。グレシー・ジョセフ姉妹およびナスリーン・マル姉妹と一緒にギレアデ卒業生たちが新たに到着したからです。トラヴァンコール州のトリッカーに2番目の宣教者の家が設けられました。宣教者の家族はそこでマラヤラム語を話す人々に奉仕する任命を受け,ジョセフ姉妹がマラヤラム語を教える人になりました。

さらに北の,アメドナガーではオーストラリア出身のパーシー・ゴズデンという新しい宣教者がコッテリル兄弟に加わりました。ふたりは一緒にマラーティ語を話す人々を対象に奉仕しました。もっと北の,東パンジャブにあるサトレジ川の平野では,ジュルンダにもう一軒の宣教者の家が設けられ,ナスリーン・マルを含む5人の宣教者がそこに任命されました。姉妹は自分が使っているウルドゥー語が話されている区域で働けるようになったのです。このように,新たに13名のギレアデ卒業生がインドに到着したので,それら十分に訓練を受けた働き人の数は31人になりました。

シーク教徒が真理を受け入れる

そのころ,ボンベイのサムエル・ワラが街頭伝道を行ない,公開講演を宣伝していた時に,ひとりの若いシーク教徒が立ち止まってビラを受け取りました。ターバンを巻いたそのシーク教徒が講演を聞きに王国会館へ入って来た時の兄弟たちの驚きを想像してください。その男の人は名前をハージト・シン・ダジャラといい,「神を真とすべし」と題する本を用いて聖書研究をすることに同意しました。

シーク教の男性は髪を長く伸ばし,ひげを決してそりません。そして,非常に自慢にしている長い髪を巻いて頭の上でボール型にまとめ,それをターバンでおおいます。ですから,ある日,そのシーク教徒の紳士が髪を切って西洋風のヘヤースタイルにし,ひげをきれいにそって,ボンベイの王国会館に入って来た時には,兄弟たちはもっとびっくりしました。言うまでもなく,彼は非常に謙そんだったので教えられたことを受け入れ,また,恐れずに真理の道に従ったのです。ハージト・シン・ダジャラにとって,エホバに献身してバプテスマを受けることは容易ではありませんでした。打ちたたかれたり,キリスト教を棄てなければ殺すと脅されて,2度ほど父親の家から追い出されました。後に彼は開拓奉仕を申し込み,次第に進歩して,ギレアデの訓練を受ける機会を差し伸べられるまでになりました。

インド人の証人によるりっぱな業

インド人の兄弟たちは野外で優れた働きをしていました。デリーには,中央政府の役所に勤める年配のアディソン兄弟がいました。同兄弟は毎日バスを待ちながらそこの職員に証言しました。多くの人はそれを痛烈に批判しましたが,中には調べる人もいました。間もなく,ひとりのヒンズー教徒が聖書を学び始めて,集会に出席しました。その人はすぐに神権学校に入り,野外奉仕に定期的に携わるようになりました。そして,ジュルンダの巡回大会でバプテスマを受けました。新しく兄弟になったR・P・ニガムはヒンズー教徒であるおいのI・P・ニガムにも聖書を研究させ,彼も定期的に集会に出席し始めました。

インドの南部では,非キリスト教徒に真のキリスト教を広めることも盛んに行なわれるようになっていました。バンガロールの南のはずれで農場を経営していたエリック・ファルコンという若い兄弟は,自分の農場で働いている人たちに真理を紹介し始めました。ファルコンの農場の労働者はほとんどが文盲で,テルグ語を母国語としていました。ファルコン兄弟はテルグ語を知っていましたから,その人たちに真の神エホバとみ子イエス・キリストについて話すことができました。その農場には約100名の労働者がそれぞれの家族と一緒にいたはずです。ついに,それら労働者のうちの20名ほどの人がエホバに献身してバプテスマを受けました。文盲であったにもかかわらず,彼らは,キリストと神の王国について自分たちが学んだ事柄を他の人々と分かち合うため,週末に近隣の村々に出掛けました。

プーナで再び騒動が起きる

1954年の記念式の時に,プーナで再び騒動が起きました。アーメドナガーで宣教者として働いていた,リチャード・コッテリルはプーナへ行って記念式を執り行なうように任命されました。そこの小さな群れは土曜日に記念式を祝い,コッテリルはとどまって翌日に公開講演を行ないました。彼は起きた出来事を次のように話してくれました。

「『ものみの塔』研究が終わるか終わらないうちに,かつて集会を妨害したことのある指導者のひとりに率いられた,マラーティ語を話す大勢のヒンズー教徒が,講演の直前に入って来ました。ひとつの文章が終わったころ,彼らは『マラーティ語で話せ! マラーティ語で話せ!』と叫びました。プーナでそれまでに何度もマラーティ語の講演を取り決めて行なったことはあるが,その講演は英語でなされると宣伝されていたことが伝えられました。しかし,彼らは問題を起こそうとしていたのです。私たちは,外の庭に居たのでホテルの広間に入ろうとしました。ところが彼らは私たちにそこで講演をさせませんでした。それから,警官にムルグローブ姉妹とニューランド姉妹,そして私を派出所に連行させました。指導者のひとりは一段高くなった演壇に立って,……『我々はスキナーさんを愛する』,とお経を唱えるように言いました。すると,『だが,インドから出て行け』という声が一斉にしました。『コッテリルさん,我々はあなたが好きだ』と声がかかると,『だが,インドから出て行け』という声が一斉にします。あとで,私たちは,プーナの兵営地の人々がエホバの証人から文書を買わないようにと言い渡されたことを聞きました」。

その事件があって間もなく,コッテリル兄弟とパーシー・コズデン兄弟はアーメドナガーからプーナに移されました。プーナは比較的大きくて,様々な国の人が集まっている地域でしたから,それは実際的なことのように思われました。プーナの,マラーティ語を話す大勢の家族は真理に対して幾らかの関心を示していましたから,ふたりの宣教者がそこに小さな会衆を設立することができました。ふたりの活動を援助し励ますため,その年に,「神を真とすべし」のマラーティ語版が協会によって備えられました。

無益な反対

宣教者のりっぱな模範のお陰で,インド人の兄弟で特別開拓者になる人が引き続き増加しました。コンカニ-カナラ語を話す兄弟のひとり,ルザリオ・J・ルウィスは特別開拓者になって,故郷である,ブラーマヴァール付近のコンカン海岸で奉仕していました。彼の精力的な活動は,土地のカトリックの指導者の目に留まらずにはすみませんでした。その指導者は教会員をそそのかして兄弟の業に反対させました。一度など,教会員たちは兄弟のカヌーを焼いてしまいました。ルウィス兄弟はそれに乗り,ブラーマヴァールの潟に沿って証言しながら旅行していたのです。それにもかかわらず,彼は自分の割当てに専念し,心の正直な人々は答え応じました。一例として,カトリックの牧師と指導的な人々は,ルウィス兄弟をその地域から追い出そうとして,兄弟の活動に禁令を課すよう試みました。しかし,ルウィス兄弟はパテルと呼ばれる村長に訴えました。パテルは両方の言い分を聞くため,カトリック教徒とルウィス兄弟を交えた会合を開きました。ルウィス兄弟が神から任命された業について聖書から説明するのを聞いた後,その村長は,ヒンズー教徒だったにもかかわらず,ルウィス兄弟がとどまって伝道活動を続けてもよいと発表しました。

しかし,それでカトリックの反対がなくなったわけではありません。彼らはルウィス兄弟を殺させようとしたのです。ある晩,ルウィス兄弟は一日中野外で奉仕して家路に着き,暗い密林の中の道を歩いていました。池に近づいた時,ひとりの乱暴者が兄弟に飛び掛かって,兄弟を池に突き落としておぼれさせようとしました。ふたりは水際で格闘し合っていました。幸いにも,だれかが通り掛かったので,暴漢は逃げ去りました。そうしたことがあってから,ルウィス兄弟は自分の区域へ通うのにいつも違った道を取るように計画しました。

ある村で,関心を持っている人の生後十日になる子供が亡くなりました。そこの村人たちは,真理に関心を持たない言い訳に,「私が死んだらだれが私を埋めてくれるのか」とよく言いました。ですから,その子供が死んで,村人たちは,エホバの証人はその死体をどうするだろう,と考えました。

村のカトリック教会は子供を教会の墓地に葬らせてくれなかったので,ルザリオ・ルウィスは忙しくなりました。当局に願い出て,エホバの証人が自分たちの墓地に使える土地をもらいました。ルウィス兄弟はりっぱな葬式の話をし,大勢の人がそれを聞いて,関心が非常に高まりました。ついでながら,1954年から22年間に,ルザリオ・ルウィスは,94名の人が神の王国の献身した伝道者になるよう援助しました。

種々の制約に対処する

「宗教は人類の為に何を成したか」と題する本は,仏教や回教やヒンズー教に関する重要な事実を載せているので,アジアの人々から大いに喜ばれました。しかし,ある人々はキリスト教以外の宗教に関してそこに書かれている事柄を好みませんでした。それでインド政府は1955年に,その本を一般の人々に配布することを禁じました。ただし,兄弟たちは個人用に持つことを許されたので,その出版物を一緒に学んだり,自分たちが学んだことを野外で用いたりすることができました。

宣教活動を純粋に社会的,教育的,あるいは医療的な仕事に限定するため,外国人の宣教師全体に種々の制限が課されて行きました。そして,キリスト教の伝道団の諸活動を調査する委員会が政府に設けられました。1955年に,「キリスト教世界それともキリスト教 ―『世の光』はどちらですか」と題する小冊子が同委員会の委員長に送られました。彼はその小冊子を受け取った旨を述べて次のような返事を寄せました。「キリスト教世界がキリスト教と異なっている(貴協会の小冊子にはそう書いてあります)ように,キリスト教も神のみ子,イエスとは異なっています。人間の精神は,(寺院とか教会とかモスクといった)既成の宗教を脱しおおせたのであり,その人の経典や心が愛ある親切で活気に満ちていたのと同様,真理を持つ大きな天がいの下で人間と人間が出会うために新しい光を求めているように私には思えます」。この筆者はヒンズー教徒でした。彼が述べていることは,恐らく,教育を受けた普通のヒンズー教徒の一般的な考えを反映していることでしょう。ヒンズー教の神殿に絶対入らない人は少なくありません。ヒンズー教徒は真理の追求者であると自認していますが,人間の哲学に頼っているのです。―コロサイ 2:8

宣教者たちの調整

今や,グジャラートのアーマダバードに新しい宣教者の活動中心地ができました。ボンベイ市の外で,グジャラート語を話す人々の区域を開拓する始まりとも言うべきものでした。アーマダバードはヒンズー教と回教とジャイナ教の建築物が混じり合っている所として有名で,綿および絹工業の町へと発展し,レースや宝石や木彫りなども生産しています。やがて,そこの,クリスチャンととなえていた,グジャラート語を話す家族が大勢真理を受け入れました。

コッテリル兄弟は巡回奉仕の任命を受けました。その活動範囲は事実上インドの一方の端から他方の端に及びました。トラヴァンコール,バンガロール,マドラスの宣教者の家を訪問し,それから北のカルカッタ,ダージリンそしてカリンポンへ行きました。1955年,ヒマラヤ登山の出発点であるダージリンで,コッテリル兄弟は,エドマンド・ヒラリーと共にエベレストの初登頂を成し遂げた,シェルパのテンジン・ノルキーに会いました。コッテリル兄弟はテンジンに証言し,永遠に生きて,完全な状態でエホバのうるわしい山々を楽しむことができると話しました。テンジンは好意的な態度を示し,「新しい世を信ずる基礎」という小冊子を読むと約束しました。

いろいろな事が起きて,宣教者の家には幾人かの欠員がありました。たとえば,ナスリーン・マルはカンプル(カォンポレ)に任命されていましたが,重病にかかって大手術を受けなければなりませんでした。そして回復しなかったのです。ナスリーン・マルの死は宣教の活動分野にとって打撃でした。

順応する上での問題

1955年7月,ニューヨーク市のヤンキー野球場でギレアデ学校の第25回卒業式が開かれました。その中には,かつてボンベイ・ベテルにいたことがあり,トラヴァンコールで開拓奉仕を経験したこともあるマムモーティル・アプレム・チェリアがいました。そのグラスからは彼の外,数人がインドに割り当てられました。

1955年11月17日に,ジューン・ライデルとブレンダ・スタッフォードというふたりの宣教者がボンベイに着きましたが,その時,街路で暴動が起きていて,射撃やバスの焼き打ちがありました。むろん,それによって新しい環境に順応するという問題が少なくなったわけではありません。ライデル姉妹(現在のジューン・ポープ姉妹)は初めのころの印象を次のように語っています。「長い航海の末ついに船が停泊し,私たちは上陸したのですが,暑くてまるで毛布にくるまっているように感じました。突然,美しい婦人の姿が目に入りました。その人は私が生まれて初めて見るような優雅な服装をしていました。そうです,それはサリーでした。その婦人はインドのお姫様のように見えました。婦人は私たちに合図をしました。近づいて話し掛けると,その人は自分をアグネス・カムラニであると紹介しました。私たちはその姉妹の自動車に乗せてもらいました。その道中,カムラニ姉妹は真理にいる夫がかつてはヒンズー教徒だったと話してくれました。主人は映画のコメディアンですが,あなたが珍しいものに驚く様子を見て,主人の方が愉快な気分になるでしょう,ということでした。……

「夜にはジャッカルがほえたので,トラもいるかもしれないと思って,急いで全部の窓を閉めました。最初の週に,カムラニ家にどろぼうが入りました。どろぼうやら暴動やらで,わびしさはつのる一方でした。

「それに,貧困,疾病,熱暑,とりわけ哲学的なヒンズー教徒の考え方のおかげで,インドでの割当てに耐えてゆけるとすれば,それはエホバの霊の援助による外ないということをますます感じるようになりました。エホバは,ご自分に仕える者に絶えざる配慮を示して,常に避け所となってくださいました。この国で証言をするのは十分価値のあることでした。私はそれを特権だと思っています。他の全ての国におけると同様,ここにも愛すべき人々がいます。エホバに仕えるようだれかを援助することにわずかながらあずかることは,どんな不足も補って余りあります」。

スタッフォード姉妹とライデル姉妹はカンプルに任命され,モス姉妹とハドリル姉妹に加わりました。ふたりは1,347㌔の汽車の旅に出たのですが,たいへん神経質になっていたので,戸や窓に全部かぎを掛けました。スタッフォード姉妹(現在のブレンダ・ノリス姉妹)は,旅行の途中で大いにあわてた経験を次のように語っています。「汽車がジャンシ接続駅に入って止まった時,ジューンと私はプラットホームの売店でバナナを買うことにしました。それで私が勇敢にも汽車から降りてバナナを買っていると,突然汽車がかなりの速さで動き出したのです。私は急いで汽車のあとを追い掛けました。速く走れば走るほど,汽車も早く動いているように思えました。ジューンは汽車の窓から,私にもっともっと走るようにと言いながら,気違いのように手を振っていました。すると,汽車は,動き出した時と同様突然に止まりました。別の線路に入れ換えられていたのです。私は,見知らぬ土地にたった独り取り残されなかったことが分かって,ほっとあんどの胸をなで下ろしました。でも,プラットホームを走った自分の姿を驚いて見つめた人々の目の前を逆もどりしなければならなかったのは,恥ずかしくてしかたありませんでした」。

宣教者たちをマンガロールへ派遣

クリスチャンセンとノリスという新しい宣教者は,協会の取決めで,マンガロールを本拠にしてカナラ語を話す人々の区域で王国の業を始めることになりました。そのふたりにも,環境に順応するという問題があったことでしょう。英国人とネパール人の混血のジョイス・ウェバー姉妹と結婚して間もないヘンドリー・カーマイケル兄弟は,そのふたりの宣教者をマンガロールに連れて行き,適当な住まいを見つけて,ふたりが任命を果たせるようにするという割当てを受けました。カーマイケル兄弟はこう語っています。「マンガロールで非常に多くの人々が恐ろしい象皮病にかかっているのを見た時の,ふたりの驚きと不安の表情を忘れることができません。その町では4人にひとりが象皮病にかかっているといわれていました。しかし,蚊帳の中で眠ればそれに感染せずにすむことを話すと,ふたりは安心しました」。

マンガロールで家を探して住まいを整えるために2週間かかりました。その間,3人の兄弟はホテルに泊まりました。ノリス兄弟は後にこう述懐しました。『その2週間,私たちはぼうっとした状態で歩き回りました。その間,不慣れな環境や珍しい光景に慣れることができました。最初に見た象皮病の人は,私が会った中で一番ひどい患者でした。私たちはその人を2週間毎日見ました。というのは,その人はヒンズー教のバラモンのこじきで,ホテルの私たちの部屋に毎日お金を乞いに来たからです。最初から私たちはこじきを喜ばせないことを学びました。

『マンガロールで初めて食事をした時のことですが,給仕は汚い腰布をまとい,バラモンのしるしである2,3本のひもを肩に掛けているだけでした。彼は,雑に作った木のテーブルの上に大きなバナナの葉を3枚置き,そのこちらからあちらへ水をかけました。それでバナナの葉を洗うように,というわけです。次に,たいたご飯をどっさり持って来て,バナナの葉の“皿”の真ん中に置きました。そして,幾つもの容器から,様々の野菜のカレーをスプーンで取ってくれました。でも,私たちはどれがどれか区別が付きませんでした。どれも皆,香辛料でひりひりしていたからです。スプーンやフォークがなかったので,自分の指を突っ込みました。やがて,目から涙が流れ,鼻が出て,舌はひりひりして来ました。クリスチャンセン兄弟と私は互いに顔を見合わせて,自分たちは一体何を食べているのだろうと考えました』。

しかし,順応するための様々な問題にもかかわらず,宣教者たちはがんばり通しました。ノリス兄弟は次のように書きました。「私たちは任命地に落ち着き,カナラ語を話す30人の伝道者,ハーシャ・カーカダ2世およびレイフル・ロイスというふたりの特別開拓者からなる会衆と共に働きました。ハーシャ・カーカダ2世兄弟は私たちにカナラ語を教えてくれました。間もなく私はスワンズという婦人と聖書研究を始めました。その婦人は英語が全く分かりませんでした。毎週金曜日,私たちはいっしょに座って,カナラ語の『神を真とすべし』をゆっくりと調べました。それは私にとってカナラ語の良い勉強になりました。別の任命地に移る時が来た時,スワンズ夫人はすでに集会に出席し始めていました。私たちはカナラ語の兄弟たちに対する純粋の愛を培いました」。

タミル語を話す人々の間における進歩

1956年に,協会がタミル語の「ものみの塔」誌を月に1回印刷するようになり,インドおよび世界のタミル語を話す人々の間において王国の業が長足の進歩を遂げました。インドの方言で訳された「ものみの塔」誌はそれで4種類になりました。他の3種類とは,1927年以来印刷されているマラヤラム語,1953年から印刷されているウルドゥー語,1954年から印刷されているカナラ語です。

有能で信頼の置ける翻訳者を得ることは絶えず大きな問題となっていました。タミル語版の場合,マドラスにふたりの子供を持つ未亡人の姉妹がいました。リリー・アーサーというその姉妹は生計をたてるために学校の教師をしていました。協会はアーサー姉妹を特別開拓者に任命したので,姉妹はマドラス市で翻訳と実際の開拓奉仕に全時間をささげることができました。リリー・アーサー姉妹はエホバへの崇拝に励み,神の民のために奉仕するりっぱで信頼できる働き人となりました。彼女の娘のラスナは『エホバの精神の規整』をもって育てられ,特別開拓者になって,やはり特別開拓者だったリチャード・ガブリエルと結婚しました。その3人は協力して,協会の出版物をタミル語に翻訳する仕事を行ない,マドラスで開拓奉仕をもしました。―エフェソス 6:4

リリー・アーサー姉妹は,1956年ごろから長年にわたってタミル語の兄弟たちが示した進歩について話してくれました。「伝道の業を行ない始めたころ,私たちが使っている言葉で書かれた文書がありませんでした。タミル語で王国の音信を伝えることはとても難しく思われました。私たちはキリスト教世界の語彙をまだたくさん使っていましたから,タミル語で証言活動をする時には,タミル語しか知らない家を飛ばしました。私自身,牧師の娘だったので,そうした語彙を一杯使っていました。タミル語の人々に真理の清い言語を説明するには,その前に,古い語彙を完全に捨て去って新しい神権用語を学ばなければならなかったのです。タミル語の『ものみの塔』誌は,私たちタミル語の兄弟姉妹すべてがそれをするのに役立ちました。私は長年にわたり,兄弟たちが『ものみの塔』誌の助けで新しい語彙を次第に増やして,はばかりのない言葉で効果的な証言をするようになるのを見る特権にあずかってきました。その結果,エホバの祝福の表われとして,タミル語の兄弟が増加したのです」。

変化の時

新しいインド共和国は領土内の調整をする必要を認めて,州を再組織する大計画を1956年に実施しました。小さな州が幾つか合併されて大きな州になったり,大きな州が小さく分割されたり,名前が変更されるなど,それまでの州の多くに調整が加えられました。州を再組織する上での主な決定要素は言語でした。例えば,かつてのトラヴァンコール州とコチン州ではマラヤラム語が使われていました。それで,そのふたつの州と,マドラス州の中でマラヤラム語を話す地区が統合されて,新たにケララ州となりました。マドラス州の中でカナラ語が使われていた地区は同州から分離し,カナラ語が主に用いられているマイソレ州に併合されました。そうした処置は,ある地区,特に変化が大きく感じられる境界線上の人々の憤りを買いました。憤まんは爆発して暴力を伴う不穏な状態や撃ち合いが起こり,当時起きたボンベイの暴動の一因となりました。ボンベイ市はマハラシュトラ州に組み込まれたのですが,グジャラート語を話す人々がそれに激怒したのです。そして,ボンベイ市街で暴動を起こしてその怒りをぶちまけました。しかし,最終的には状勢は落ち着き,人々は新しい州の配置に慣れて行きました。

新しいケララ州のローマ・カトリックの共同社会は伝道の成果の見られるところでした。K・T・ヴァルギーズ兄弟はトリバンドラムでヨセフという名前の若い男の人に接しました。その人は,家族の反対があったにもかかわらず真理の側にしっかり立つようになりました。両親は彼にローマ・カトリックの司祭になるための教育を受けさせたいと考えて,ポルトガル領ゴアにあるカトリックの学校に入れました。しかし,健康がすぐれなかったためにヨセフはトリバンドラムに帰り,K・T・ヴァルギーズ兄弟が働いていた事務所で働くようになりました。ヴァルギーズ兄弟はその21歳の男の人に聖書のことを巧みに話し,また,ローマ・カトリックだけが真理を教えていると考えていたその人の多くの反論にやさしく答えました。質問の答えが聖書から与えられると,彼は家庭聖書研究に応じました。そして間もなく自分が本当に真理を学んでいることを確信し,カトリックの教理上の間違いが分かりました。ヨセフはかつて,トリバンドラムの「聖マリア部隊」の一員でした。その組織はエホバに対する彼の忠誠をくじこうとしましたが,成功しませんでした。彼はやがてバプテスマを受けました。

励ましとなる訪問

1956年にインドは,ブルックリン・ベテルの代表者であるF・W・フランズの訪問を受けました。フランズ兄弟は世界一周の奉仕旅行の途上,インドにも立ち寄ったのです。兄弟は,パキスタンの検疫所で8時間も待たされた後,とうとう一刻も猶予せず9日間で,約束した予定を果たさねばなりませんでした。フランズ兄弟は,12月24日,月曜日の午前10時ごろにニュー・デリーのスティーブン・スミスを訪ねて人々を大いに驚かせました。デリーの宣教者やインド人の兄弟たちはその日の夕方6時40分にパラム空港でフランズ兄弟を出迎えることにしていました。しかし,同兄弟はすでに来ていて,ほとんどの兄弟たちはそれを知らなかったのです。それで順序は逆になり,フランズ兄弟がインドの兄弟たちを出迎えるためにパラム空港に行きました。彼が,関心を持つある人の車から降りて,出迎えの人々に会った時には,大きな驚きと喜びがありました。インドの一般的風習に従い,十代の姉妹がフランズ兄弟の首に古式ゆかしいバラと菊の花輪を掛けて,この広大な亜大陸への歓迎の意を表しました。

その翌日は“クリスマス”でした。インドではヒンズー教徒が名目上のクリスチャンといっしょに12月25日を最大限に利用し,互いにカードを送ったり,いわゆるクリスマス気分を味わったりします。デリーの兄弟たちはその休日を利用して雑誌活動をしました。午前中,全部で28人の兄弟姉妹が野外奉仕に参加し,フランズ兄弟とスミス兄弟はいっしょに働いて,戸別の証言を代わる代わる行ないました。

それから兄弟たちは共同公益事業局講堂に集まりました。おいしい食事の後,午後4時から85人の聴衆を迎えて,「新しい世の平和は現代に実現する ― なぜ?」と題するフランズ兄弟の講演が行なわれました。ヒンズー教徒,シーク教徒,ジャイナ教徒,回教徒,自称クリスチャンも出席していました。話の後,講演者は聴衆と自由に話し合い,聴衆が関心を持っている事柄を詳しく討議して楽しみました。

大会は1日開かれただけでしたから,次の日にフランズ兄弟はデリーの名所に案内されました。バーラ・マンダーという近代的な寺院の展示には,ブラフマー,ヴィシュヌ,シバおよび女神ドゥルガーなどヒンズー教の神々の像がありました。主な入口の左側には,サンスクリット語,ヒンディー語,英語で次のような言葉で書かれていました。「ヴィシュヌとして知られている者は本来はルドラであり,ルドラなる者はブラフマーであり,一個の実在者が三つの神,すなわちルドラ,ヴィシュヌ,ブラフマーとして機能するのである」。キリスト教世界の三位一体の教理と驚くほど似ているではありませんか。

フランズ兄弟は次に,二日間の大会が予定されているカルカッタへ行きました。大会の宣伝に200枚のポスターと5,000枚のビラが使われました。二日間の大会のプログラムの中には,午前中の野外奉仕活動が一度含まれていましたし,ベンガル語のプログラムもありました。その時,フランズ兄弟は通訳を通して69人のベンガル語の兄弟に話をし,エホバの組織と神権的な伝道方法に異議を唱える人々の言うことに耳を傾ける必要のないことを強調しました。また,開拓奉仕を行なって王国の宣明をするようにと強く勧めました。

大会の二日目に10名の人がバプテスマを受けました。その内訳は,ベンガル人3名,ヒンドスタン人3名,ビハーリー語の人ひとり,英印混血人3名でした。その晩,大会出席者にとってたいへんうれしいことに,美術館はカルカッタでかつてないほど大勢の人で一杯になり,261名の人が「新しい世の平和は現代に実現する ― なぜ?」という講演を熱心に聴きました。最後のプログラムに135名がとどまって,フランズ兄弟の,清さと従順と忠実さをもって組織にとどまることの必要性に関する話を聞きました。次の日の朝,49人の兄弟は,ビルマのラングーンに向けてたつフランズ兄弟をダムダム空港まで見送りました。

励ましを与えた,もうひとりの訪問者

F・W・フランズ兄弟がデリーとカルカッタにいた時,N・H・ノア兄弟はボンベイを訪問していました。同市で一番立派な講堂,サー・コワスジ・ジェハンガー講堂は,鉄道利用者協会が会議を開くためにすでに契約していました。ところが,その協会の書記が会議の日取りを変更してくれたので,ノア兄弟のボンベイ滞在中にその講堂を使用することができました。そして,そのために請求されたのは,会議の三日目が中止になることを会員に知らせるための郵便代だけでした。

大会の前に数週間にわたって十分な宣伝が行なわれ,そのかいがあったので,兄弟たちは満足しました。それまでインドで開かれたエホバの証人の大会で一番大勢の,1,080名という一般の聴衆が講堂をうずめたからです。講演の主題は,「新しい世の平和は現代に実現する ― なぜ?」でした。

ノア兄弟は1956年のインド訪問について次のように語りました。「スキナー兄弟と私は,私たちの業の世話をする支部事務所と小さな印刷施設そして王国会館の建設用地を探すためにボンベイ市内をあちこち歩かねば……なりませんでした。……やがて,良い場所が見つかり,協会の建物を建てて,現在のラブレインの所から移る見込みができました。……大会の閉会の言葉の中でそのことが発表されると,兄弟たちは,インドに新しい建物が建つということで喜びのあまり,非常な興奮に包まれました。その発表は,多くの人口を抱えた大きな国インドにおいて業が拡大していることのもうひとつの証拠だったからです。……

「インドの兄弟たちは,同国で初めて自分たちの簡易食堂を設け,それがうまく行ったのでとても喜んでいました。支部の兄弟たちは朝早く起きて,大勢の人々に食物を備える準備のために会場へ行きました」。

霊的な備えの増加

1957年,ベンガル語の「ものみの塔」の最初の号が発行されました。それ以来,カルカッタのような都市やカンチャパラ地方のへんぴな町々など,ベンガル語の地域の兄弟たちは,自分たちを霊的に支えると同時に弟子を作る業に用いる記事を定期的に読むことができました。

1957年中,協会はタミル語の「ものみの塔」誌を毎号2,100部発行して,その一部をセイロン,ビルマ,シンガポール,フィジー,モーリシャス,南アフリカ,スリナムに郵送しました。しかし,その後,タミル語の「ものみの塔」誌は,謄写版刷りでなく活字で印刷されるようになりました。

インド人の開拓者たちは粘り強く業を行なう

さて,インド人の開拓者の働きぶりを見てみましょう。珍しいことに,ある孤立した開拓者はヒンズー教の男の人に聖書を学ばせることができました。関心を抱いたそのヒンズー教徒には,インドのほとんどの巡礼地を訪ねたサンヤシ(ヒンズー教の苦行者)となっていた兄弟がありました。そのサンヤシはしばらくの間自分の兄弟といっしょに暮らすようになり,彼が聖書を学んでいることを知ってびっくりしました。そして,自分も聖書を読み始めたのです。それがきっかけとなって,兄弟と開拓者の双方を相手に,大いに話し合いがなされました。開拓者は次のように書いています。「驚いたことに,何年もの間香油もクリームもつけていなかったきたなくてもじゃもじゃの髪とひげが消えてなくなりました。その人は……兄弟といっしょに『ものみの塔』の研究に出席したのです」。

神の御心大会

1958年にニューヨーク市で開かれたエホバの証人の神の御心大会に,インドから21人の代表が出席しました。その時ギレアデを卒業した4人の学生,ノエル・ヒルズ,ジェラルド・セドン,アリス・イティ,サラ・マシューはインドの出身でした。

インドでは1958年10月27日から30日にかけてボンベイにおいて神の御心大会が開かれました。ボンベイの兄弟たちはインド全国からやって来る兄弟たちのための宿舎を一生懸命捜しました。インドの昔の土侯の,空き家になっていた宮殿が借りられたのですから,エホバの祝福があったことは明らかです。65人の兄弟たちは,持参の寝具を使ってそこの大理石の床の上に寝ました。ムスリムの慈善団体は新築したばかりの4階建てのホテルの半分を全部貸してくれたので,50人ほどの兄弟たちが泊まれました。

大会のプログラムは七つの言語で行なわれました。「神の御国は支配す ― 世の終わりは近いか」と題する公開講演に合計1,009名の人が詰めかけたのは大きな喜びでした。また,その大会中に45名の人が水のバプテスマを受けてエホバへの献身を表わし,新たに兄弟姉妹となりました。

伝道者が一千人を超す!

その時までに40人のギレアデ卒業生がインドのそれぞれの任命地で奉仕していました。彼らはインド人の兄弟たちと交わりながら勤勉に働きました。1958年はそれら宣教者全員にとって大きな喜びの年でした。伝道者の数がインド史上初めて一千人を超えたからです。1958年の伝道者数の月平均は正確には1,091人でした。王国伝道者が初めて千人になるまでに53年間かかりました。

インド全国に一千人を超す伝道者がいたほか,1958年の記念式の出席者数からすればさらに千名の人が関心を示していましたから,地域の業と巡回の業を強化する必要がありました。そうすれば組織全体が強められるのです。

そのころ,ポープ姉妹はK・ピーターズという医師の夫人で,セブンスデー・アドベンチスト派の学校の教師をしている人と聖書研究をしていました。その夫人は,いったん真理を確信してからは,白人の第一線に立つ“牧師”の訪問を受けても立場を変えませんでした。そうしたことがあった後,牧師はポープ姉妹に,「あなたはインド人の一番良い働き人を奪おうとしている」と言いました。確かに,ピーターズ姉妹はたいへん熱心な証人になりました。また,協会の出版物をヒンディー語に翻訳する仕事に携わり,高等教育を受けて身に着けていた能力を十分に生かしました。

インドの伝道者の増加に伴い,あらゆる種類の人々が神の音信に答え応じていました。そして,多くの場合,現在の事物の体制の習慣から抜け出すのに長い時間がかかりました。必要な変化をすることができない人や,古い生き方に戻る人がいました。1952年に排斥の妥当性が明らかにされて以来,インドで排斥の問題は目立って多くは起こりませんでした。ところが,1959年に1年間で14名が排斥されたため,支部事務所はエホバの組織を清く純粋に保つ必要に注目せざるを得ませんでした。その時までに81人が排斥されていましたが,それは組織が一層強くなるのを容易にしました。

改善が必要な状態

地域と巡回の業を行なうのに一定の方法というものはありませんでした。例えば,巡回大会は都合の良い時にだけ開かれました。会衆は巡回監督の訪問を定期的に受けていたわけではありません。巡回訪問は二日間か三日間で,主に特別集会から成り,巡回監督が多くの長い話をしました。しかし,その訪問は拡大されていた野外活動を向上させる機会とはみなされませんでした。

巡回監督だったハディン・サンダーソンの当時の状態に関する報告によれば,ケララ州のある会衆には100名を超す人々が集まり,そのほとんどはバプテスマを受けていて,定期的に集会に出席していました。ところが,伝道者として報告を出していたのは16人にすぎなかったのです。「あなたはラッセル派ですか」と聞かれると,大抵の人は「そうです」と答えたものです。兄弟たちは太陽の位置に基づいて集会に集まりましたから,決まった時刻に集会が始まるということはありませんでした。ある会衆は,集会が始まる時刻の5分前にベルを鳴らしましたが,実際に始めるのは兄弟たち全員がそろってからでした。兄弟たちは集会場所の片側に座り,妻や姉妹たちは他方の側に座りました。土地の宗教的な慣習に従っていたのです。ですから,集会で家族がいっしょに座ることはありませんでした。

サンダーソン兄弟は,また,巡回大会は大いに喜ばれたけれども,プログラムにあまり注意が払われなかった,と報告しています。兄弟たちはプログラムが終わるとステージに上がり,ポピュラーな映画音楽を聖書の替え歌でうたうのがならわしでした。公開講演の司会者は必ず長い紹介の言葉を話しました。ひとりの兄弟など,講演者を紹介する前に20分も話しました。

サンダーソン兄弟が地域監督をしていた時には,聖書の原則が教えられたばかりでなく,組織に関する詳細な事柄にも強調が置かれました。巡回監督が訓練され,次いで他の監督たちが援助を受けました。兄弟たちは進んで行なう精神を持っていましたが,やり方を知らなかったのです。会衆を定期的に訪問すること,および巡回区を組織的に訪問することが計画されました。今や初めて,各巡回区は,半年に一度大会を開くことができるという具合に,計画的になりました。

1959年の12月の初め,インドには八つの巡回区がありました。サンダーソン兄弟姉妹が経験した旅行は骨の折れるものでした。同兄弟は次のように語っています。「私たちはマドラスの宣教者の家にトランク類を置いていましたが,そこに泊まる部屋はありませんでした。それで,マドラスを通過する時に6か月分の必要品を持ち出したものです。日曜日にバンガロールで大会を開き,次の火曜日には,2,679㌔離れたダージリンに着くことになっていました。途中,汽車の乗り換えが5回ありました」。当時,ひとつの地域を一周する距離は,トリバンドラムからボンベイとアーマダバードを通ってデリー,ダージリン,カルカッタへ行き,次いでマドラスに南下し,バンガロール経由でトリバンドラムへ戻る約6,437㌔に及びました。

新しい支部の建物

その間に,ボンベイでは著しい進展が見られました。インドの証人の増加に伴い,野外の兄弟たちを援助するために,より良い便宜を図ることのできる新しい支部の建物が必要になりました。それで,1959年11月に,ボンベイ市の中心から20.9㌔北にある,サンタ・クルズ・ウエストという快適な住宅地に建物を建設する契約が結ばれました。敷地そのものは縦が38㍍,横が27㍍で,請負業者は1959年11月2日に建設作業に取り掛かりました。セメントは配給制になっていたので,なかなか手に入りませんでした。協会は必要なセメントを全部入手したものの,様々な手続きを踏まねばならず,手間取った末にようやく入手できました。

次の12か月間で,コンクリートの枠組みにレンガを積んで作った2階建ての建物ができました。正面全体は石細工で上化粧されていて,建物に美しさと威厳を添えています。その一方の端に,両側が灰色の大理石でできた正面玄関があり,階段の両側は作り付けの箱型の花壇になっています。入口のロビーは,地上の楽園を描いた食刻ガラスで飾られ,美しい応接室にもなっています。1階には食堂,台所,倉庫,支部事務所があります。その建物には,さらに,六つの寝室と150人を収容できる照明の行き届いた広い王国会館があり,平屋根の上は青空集会にちょうどよいスペースになっています。そして建物全体を楽園のような美しい庭が囲んでいます。

建設が始まってわずか12か月後の1960年11月に引越しが行なわれました。その新しい支部の建物をエホバに献堂する式は翌月,すなわち地帯の監督であるG・D・キング兄弟がインドを訪問した12月に行なわれました。話し手のひとり,スキナー兄弟はインドにおける王国の業の初期のころのことや,その時までの発展ぶりを,ゼカリヤ書 8章23節の預言と関連付けながらかいつまんで話しました。献堂の話の中で,キング兄弟は,そのりっぱな建物の与え主であるエホバ神に感謝を表わし,建物は専ら神のご意志を行なうために用いられるべきであると語りました。

多くの言語グループに伝道する

ある開拓者は,兄弟たちが言語の問題をどのように克服しなければならなかったかを話してくれました。インドで多くの言語が話されていることは大抵の人に知られていますが,それが実際にどれほどの問題を起こすかはっきり分かってもらうのは,時として容易ではありません。その開拓者は,ある町のタミル語を話すカトリック教徒たちが強い関心を示しているのに気づきました。といっても,その町では普通タミル語は用いられていませんでした。開拓者は生来カナラ語を話し,英語も知っていました。彼は月に2回,そのタミル語を話す人々との聖書研究を司会しましたが,そうする上での問題を克服するために,タミル語と英語の両方が分かるインド人を連れて行き,その人の協力を得て,英語の手引き書を使って家庭聖書研究を司会しました。ひとりの姉妹は次のように書いています。「先週の火曜日の研究にいらっしゃるとほんとうによかったですね! カナラ語を話す人,マラーティ語を話す人,英語を話す人が全部で12人集まりました。話された事柄をひとりの兄弟はカナラ語の人たちに説明し,別の兄弟はマラーティ語の人たちに,そして私はヒンドスタニー語でマハラシュトラの人たちに説明しました。とても楽しい集まりでした」。

兄弟たちは弟子を作ることに巧みになったので,さらに多くの文書,特に地方語の文書が必要とされました。したがって,協会は1960年にマラヤラム語の「目ざめよ!」誌を発行するようになりました。それによって,インドの言語の「目ざめよ!」誌は一歩前進しました。1961年,マドラスでタミル語の「目ざめよ!」誌が発行されました。それまでに,協会は六つの地方語 ― マラヤラム語,カナラ語,タミル語,ウルドゥー語,マラーティ語,ベンガル語 ― の「ものみの塔」誌を発行していました。1959年から1961年にわたる3年間に発行された他の出版物(書籍と小冊子,もしくは書籍か小冊子)の地方語版は九つの言語で配布されました。すなわち,ベンガル語,グジャラート語,ヒンディー語,カナラ語,マラーティ語,テルグ語,タミル語,マラヤラム語,ウルドゥー語です。このように,協会はインドの人々に王国の音信を伝えたいという気持ちを起こさせるために誠実な努力をしました。

A・J・ジョセフ兄弟は,約55年間,協会のマラヤラム語の主な翻訳者でしたが,そのころ,老齢のために衰えていく一方でした。そして,とうとう翻訳の仕事を続けることができなくなり,1961年に77歳でその責任を取り除かれました。

助けとなった,王国宣教学校

1961年の国勢調査によると,インド人の人口は4億3,900万人を上回り,読み書きができるのはそのうちのわずか24%であることが明らかになりました。そして,人口に対するエホバの証人の割合は30万3,129人にひとりでした。さらに,インド人の97%は未割当ての区域に住んでいました。したがって,エホバの証人は人口のわずか3%に過ぎない,439万2,347名の人々を対象に伝道していたことになります。確かに,『働き人は少なかった』のです。―ルカ 10:2

兄弟たちに一層資格を得させ,その努力を実らせるためには,強力な訓練の業が確かに必要でした。その目的で,協会は1961年12月からインドで王国宣教学校を開くようになりました。最初のクラスに入ったのは,巡回監督,特別開拓者,宣教者,会衆の監督からなる25名の英語を話す人々でした。生徒たちはボンベイ・ベテルで生活したり働いたりすることによって支部の組織がどういうものかを学びました。そして,その経験を感謝しました。

王国宣教学校の2番目のクラスの卒業式は特に印象的でした。生徒の中に,郷里の町から遠く離れた土地へ新たに任命された人がいたからです。今や新しい区域が開拓されるようになりました。M・A・チェリア兄弟,M・C・ジョセフ兄弟,およびP・J・マシュー兄弟は,ボンベイから4,023㌔ほど離れた遠いアッサム地方のシロンへ特別開拓者として派遣されました。

その3人の兄弟たちは,シロンでの最初の2か月間に200件を優に上回る数の予約を得ました。いうまでもなく,宗教指導者たちはすぐに騒ぎ出しました。ある時,そこの神学校のローマ・カトリックの司祭が学生数人を連れて,チェリア兄弟,ジョセフ兄弟,マシュー兄弟に面会したいと言って来たので,彼らとの話し合いが行なわれました。その司祭を悩ました最初の問題は三位一体の教理でした。皆の話から推して,兄弟たちがその話し合いで勝ったことは確かです。というのは,二日後に学生のひとりがP・J・マシュー兄弟に会って,「おまえのおかげで『神父様』は途方に暮れておられる。あの方は私たちの教授なんだ」と言いながら兄弟を打ちのめすと脅しました。それからエホバの証人に対する数々の警告が教会の説教壇から出されました。しかし,それにもかかわらず多くの良い研究が始められたのです。

1963年の初め,12か月ぐらいの期間にわたって,68人の生徒はインドにおける2回目の王国宣教学校から益を受けました。その生徒たちは,カナラ語,英語,マラヤラム語の三つの言語グループにほぼ等分されました。インドの五つの言語が話せたR・J・マシラミ兄弟はその三つのクラスを教えることができました。マラヤラム語のクラスはケララ州で開かれ,他のふたつのクラスはボンベイ・ベテルで行なわれました。

地帯の訪問は進歩を促す

地帯の監督が年に一度訪問することにより,インドの支部および野外で働く兄弟たちは,明らかに,ニューヨークにあるものみの塔の世界本部と一層の一致を図ることができました。M・G・ヘンシェル兄弟は地帯の監督という立場で,東欧諸国から山岳地帯のアフガニスタンを経由してインドに向かっていました。そして,ボンベイ支部を訪問するために,1962年2月3日,ボンベイのサンタ・クルズ空港に着きました。

ヘンシェル兄弟の訪問に合わせて計画された地域大会に出席するため,インド中の兄弟たちはボンベイに来ました。南のケララ州のいなかから来た人々は近代的な都市を初めて見ました。北の遠い所からやって来た人々もいました。一家族はヒマラヤのネパールから四日もかかって遠路はるばるやって来ました。ふぶきの中を出発し,熱帯の猛暑の目的地に着いたのです。

あるプログラムの中で,ヘンシェル兄弟は770名の大会出席者に向かって,悪魔が神の民を聖書からそらせようと努力しているので聖書の知識を取り入れることは大切である,と話しました。また,恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆく必要を強調しました。(フィリピ 2:12)さらに,世界中の兄弟たちの業を写した美しいカラー・スライドも上映しました。エホバがご自分の名前をどのように全地で宣明させておられるかについての話は非常に感動的でした。それによって,大会に出席していた兄弟たち全員は,エホバの地上の組織に忠節に従う決意を強められたに違いありません。

出席者たちは,英語を含め九つの異なった言語を使っていたので,講堂は幾つかの言語グループに分けられ,英語の話が拡声器を通して各グループに伝えられました。すると,通訳はその話を聞いてそれぞれの言語に通訳しました。その大会は,確かに,インドのエホバの民の一致した組織が前進する上でもうひとつの踏み石となりました。

ヘンシェル兄弟の地帯訪問の結果として,幾つかの有益な調整がなされました。宣教者がインドを立ち退く場合に備えて,支部の様々な責任を果たせるようインド人の兄弟を訓練しておくことは有益であると考えられました。インドに宣教者を招いたり,長く滞在させることには大きな問題があったのです。

出版物に課された制約に対処する

ところが,インド政府が新しい政策を打ち出して来たため,増加しつつあったインドのエホバの民にとって事態は容易でありませんでした。国産品の売れ行きを伸ばすため,輸入品に種々の制限が課されました。インド地方語の出版物を国内に持ち込んではならないという,政府輸入貿易管理局がそのころ出した公式規則により,協会の英語の出版物の輸入を禁止する試みがなされました。当局は英語の出版物に対する規則を緩めましたが,英国製品の輸入量は大幅に制限されました。その結果,1962年以降,協会の支部事務所は1年に1度だけ,しかも英語の出版物に限って輸入許可証の申請をすることが許されたのです。

その障害をかわすために,協会は地方語の出版物を印刷する権威をインド支部に与えました。そのために,兄弟たちはもうひとつの障害,つまり十分の量の新聞印刷用紙を獲得するという問題にぶつかりました。印刷用紙も輸入制限されていて,政府の許可を得ずにそれを購入することは違法になっていました。協会の発行部数の必要に応じて,印刷用紙の購入量は制限を受けていました。雑誌の発行部数を多くしようとすると,それは大きな問題となります。しかし,煩雑な手続きをしなければならなかったにもかかわらず,インド支部は野外の兄弟たちに地方語の出版物を供給し続けることができました。

ゴアでの出発

ポルトガルの飛領土ゴアは絶えずインド政府の『肉体のとげ』でした。1961年,インド軍はゴアに進撃してポルトガル人の支配者たちを放遂しました。そして,ゴアを民間政府の手に委ね,1962年に撤退しました。

開拓者をゴアに入れる努力がなされましたが,最初の数か月間は,許可なくしてはだれも入ることができませんでした。その制限が取り除かれても,ゴア人でない人が入ることは困難でした。それにもかかわらず,協会は,ゴアのサルシーティ地区のマーガオに特別開拓者のベネディクト・ダイヤスとグレッタ・ダイヤスを派遣することに成功しました。ゴアはローマ・カトリックの強固な要さいだったので,最初の数年間は進歩がゆっくりしていました。しかし,ルザリオ・ルウィス兄弟は人々の関心を高め,進歩的な会衆を設立しました。

旅行する監督たちに対する援助

インドの巡回区は広いので,旅行する監督が会衆と孤立した群れの間を旅行するのに,1日かかる場合がありました。それらの兄弟や妻たちは,場所によっては,寝具類の用意ができない非常に貧しい証人の家に泊まらなければなりませんでした。裸ベットのホテルに泊まることもありました。寝具類があっても,だれかが使ったままだったり,なんきん虫がついていました。それで協会は巡回監督とその妻に寝具類,シーツ,まくら,タオル,ポリバケツ,洗面器そして石けんまで支給するようにしました。そのため,旅行する兄弟たちは汽車の長旅にいつもたくさんの荷物を持って行かなければなりませんでした。しかし,そうした不都合にはそれだけの価値がありました。なぜなら,巡回監督とその妻は身の回りの必要を満たしたり,夜十分に休息を取ることができたからです。したがって信仰の仲間に対してもより良く奉仕できました。

アンダマン諸島とニコバル諸島へ進む

インドのエホバの民は,自分たちの区域の外に王国の音信を伝えるためのあるゆる機会を探してきました。1963年,マリアムマ・エノス姉妹はアンダマン諸島のポートブレアとその付近に真理の種をまき始めました。

アンダマン諸島とニコバル諸島は,ビルマとスマトラの間を805㌔も伸びている高い海底山脈の一部で,ベンガル湾の海上に突き出した部分です。そして十度海峡がふたつの諸島を分けています。アンダマン諸島は大小約239の島からなっており,ニコバル諸島には19の島があります。首都は南アンダマンにあるポートブレアです。

アンダマンとニコバルに住む11万5,133名の人々の大部分はもともとインド人で,アンボイナの木やチーク材工業および,ゴム,コショウ,コーヒー,ココナツ,カシューナッツの栽培で生計を立てています。

それらの島には1964年までに,巡回監督を派遣して励ましや訓練を与えられるほど十分の数の伝道者がいました。ロバート・マシラマニ兄弟が初めてポートブレアを訪問した時,彼は,マリアムマ・エノス姉妹の夫と同じ石切場で働いていた3人のヒンズー教徒を紹介されました。その3人は共に聖書の真理に強い関心を示していました。そのうちのひとりは以前ヒンズー教のシバ神に帰依していた人で,誓願を果たすために髪とひげを長く生やしていました。その長い髪とひげはお寺で短く刈られることになっていました。しかし,それほどまでに宗教に熱心でありながら,誓願をかけていた期間中にその人はとばくをやめることができませんでした。

戸別に伝道していた時,マシラマニ兄弟はメソジスト教会から出て来た,テルグ語を話すふたりの人に会いました。ひとりは土地の教会の会長で,もうひとりは会計係でした。

マシラマニ兄弟が2度目にアンダマン諸島を訪問している時,教会の会長であるアサーバダムさんははっきりと関心を示しました。そして,自分の家族といっしょに教会を脱退し,後に献身してバプテスマを受けました。続く数回の訪問で,会計係のソロモン・ラジュさんは同じ会衆の他の家族といっしょに脱退し,バプテスマの段階に進みました。時がたつにつれ,かつてヒンズー教徒だった人が多数ポートブレア会衆の一員になりました。

デリーにおける「永遠の福音」大会

1963年に世界を一周した「永遠の福音」大会は,形を整えつつあった,インドのエホバの組織の前進に確かに寄与するものでした。その国際大会に出席するために583人の代表者が世界を一周しました。

世界一周大会の一環であるニュー・デリー大会について,エドウィン・スキナー兄弟は次のように報告しています。「兄弟姉妹がグループで空港の税関の中に出入りし,訪問者を援助したり,保健所や移民局,税関の手続きの案内をしたりする許可をもらっていました。さらに,優雅で色彩豊かなサリーや北インドのサルワルカミーズという服を着たインド人の姉妹たちが,花輪を掛け,ナマステ(『ようこそいらっしゃいました』の意)というインド古来のあいさつをして代表者ひとりひとりを迎えました。……訪問者の到着は四日間にわたりましたが,昼夜の別なく到着のたびに同様の歓迎がなされました。

「代表者たちは27か国から出席しました。ある数人のグループは,アフガニスタンのカブールから道づたいに,険しいハイバル峠を越えてパキスタンを通り,インドまで来ました。……セイロンからは110名の人が,『アダムズ ブリッジ』として知られる,インド本土とセイロン島を隔てている海を船で渡り,デリーまで片道2,304㌔を汽車でやって来ました。寝台設備や冷房がなく,原始的な手洗いの付いた3等列車でインドを2,000㌔も旅行することがどんなものかは,経験しなければ本当には分かりません。それでも兄弟たちは幸福でした。

「南インドの兄弟たちも大きな隊を組み,デリーまで1,600㌔を優に超える同じような長い汽車旅行をしました。その兄弟たちにとって,それは外国へ旅行するようなものでした。生まれて初めて,人々が別の言語で話すのを聞き,故郷のケララ州やマドラス州とは全く異なる土地で,異なる型の家に住み,異なる服装をしているのを見たからです。そして,外国の兄弟たちに会うためにわずかしかない蓄えを使った人は少なくなかったのです」。

大会会場の様子をスキナー兄弟はこう記しています。「大会は,インドご自慢の印象的な美しいホール,ビグヤン・バーバン(科学館)で開かれました。その立派な建物には,1,069人収容できる豪華な講堂があります。

「講堂の中はカーペットが敷き詰められ,冷房がきいていて,出席者は快適なイスに座りました。各イスには筆記用のテーブルとイヤホーンが付いていました。イヤホーンにはセレクター・スイッチと音量のスイッチが付いているので,ステージの話に加えて,通訳される四つの言語のうちのどれにでもスイッチを入れて聞くことができました。講堂の半分ほどはインド人の出席者が占め,カナラ語,マラヤラム語,タミル語,ウルドゥーおよびヒンディー語で講演を聞きました。マラーティ語を話す兄弟たちのことも忘れられてはおらず,ステージの上で直接に通訳がなされたり,別の部屋で話が聞けるようにされたりしました」。

世界一周をしていた583人の訪問者は,政府の経営で320部屋ある立派なアショーカ・ホテルに宿泊しました。五日の間,食事時の食堂は主に大会のバッジを付けたエホバの証人で占められていました。証人たちがあまりにもなごやかにおしゃべりしているので,ホテルの職員は,いつの間にか,「このテーブルに座っている兄弟たち」とか「あそこにいらっしゃる兄弟があなたにお話しなさりたいそうです」とか言っていました。

キリスト教世界のある宗派の信者はホテルのマネージャーに,“エホバの人々”全部をどう処理しているのかと尋ねました。マネージャーはこう答えました。「あの人たちはうちのホテルに泊まったお客の中で一番行儀の良い人たちです。うちに余裕があれば,あの人たちを千人でも喜んで泊めますよ」。そして,マネージャーは,「今の583人のお客全部より,50人のお客に手をやく場合があるのです」と付け加えました。

ところで,大会のプログラムについてはどうでしょうか。それは確かに霊的な益をもたらすものでした。一例として,「新世社会内の婦人」と題する話の中で,F・E・スキナー兄弟は,インドには忠実で有能で円熟したクリスチャン婦人が大勢いることを指摘しました。ところが,家庭で奴隷のように重荷を負わせられ,勉強の時間がほとんどなかったり,勉強するよう励まされることもない女性があまりにも多い,とも語りました。同兄弟は,キリストが妻のような会衆に配慮を払ったと同様の仕方で妻に配慮を払うよう夫たちに訴えました。―エフェソス 5:21-33

デリー大会の重要な日は8月8日の木曜日でした。その日のプログラムの中で決議文が読み上げられ,901人の出席者の熱烈な支持によって採択されました。感動的な講演のひとつに,「神が全地の王となる時」と題するノア兄弟の公開講演がありました。雨のひどい晩であったにもかかわらず,その時の出席者数はインドでエホバの証人が業を開始して以来最大の1,296人で,うち外部の人は350人でした。

F・W・フランズ兄弟は,「あなたはいずれの神の証人ですか」という講演をしました。イザヤ書 43,44章に基づくその講演は,数年間エホバの証人と交わりながらも神に献身していなかった,聴衆の中のひとりのヒンズー教徒にとって転換点となりました。異教の崇拝者は一本の木を切り,その半分で神の像を彫ってひれ伏し,残りの半分で火を起こして身を暖めたりパンを焼いたりする,というフランズ兄弟の説明を聞いて,そのヒンズー教徒はそれが全く無益なことだと悟りました。その晩,彼はエホバ神への献身を表明して,翌日バプテスマを受けたのです。

44人のバプテスマ希望者の中には,アラハバードから来たアナベル・ラーシャスがいました。彼女はそれまで,肉身の兄弟のジョージが両親の反対に遭いながら確固とした立場を取り続けているのを見てきました。そして自分も野外奉仕をすることを禁じられていました。インドでは女性が自分の権利を主張して人間よりも神に従うのはまれですが,ラーシャス嬢は自分ができる限り野外奉仕を行なっていました。(使徒 5:29)やっとのことで大会に来た彼女は,すでに献身していたので,バプテスマを受けました。

野外奉仕での新しい経験

世界一周の旅行者たちが一番楽しんだのは野外奉仕でした。それら訪問者のほとんどは幾度か英語で証言することができました。

ユダヤ人の血を引くアメリカの一兄弟は,ヒンズー教徒の紳士と聖書について話し合いました。その紳士は言葉をさえぎってこう言いました。「しかし,その音信はわたしたちよりも西欧の人たちに必要ですね。わたしたちは平和を愛する国民で,平等を信じています。黒人を白人から差別しているのはあなたがたではありませんか。どうしてわたしがあなたがたの聖典を読まねばならないのですか」。兄弟は自分がアメリカ,すなわち,いわゆるキリスト教国の代表者として訪問しているのではなく,聖書の原則に従う人々のグループの代表として訪問していることを巧みに指摘しました。そして,神は不公平でなく,どの国民でも義を行なう人が神に受け入れられることを聖書が教えている,と言いました。(使徒 10:34,35)いわゆるキリスト教国がそうした良い原則に従わなかったという理由だけで,聖書は無価値にならないことも話しました。むしろ,聖書にはあらゆる国民に益となる知恵が収められているのです。ヒンズー教の紳士はその話に感謝し,兄弟自身がユダヤ人の子孫で差別とはどういうことかを知っていることを聞いて特に喜び,文書を受け取りました。

目を見張るような見学

訪問者たちは,また,計画されていた見学に出かけて幾つかの新しい経験をしました。土砂降りの雨の中を歩いて,インドのモンスーンとはどんなものかを経験しはしましたが,訪問者は快活で,見学を初めから終わりまで楽しみました。ぬれたレインコートを着て水びたしになったくつをはき,しずくがたれるかさを持って,今度は順にバスに乗り,インドのバザールをありのままに見物しました。若い時に片端になり,切断した足と手で四つんばいになってはっているこじき,人力車,牛車,三輪車,歩行者,自動車,それにどこにでもいる雌牛,これら全部が混雑した狭い道でひしめき合っていました。煙がたち込めた小さな喫茶店や食堂がいたる所にあります。そこでは上半身裸の男たちが炭火を使ってインド人の好物のチャパティその他のごちそうを素手で作っています。

一匹の水牛が女王のように通りをのそりのそりとやって来ます。インドの人々は水牛からミルクを得ています。通りの曲がり角では,ひとりの男の人が消火栓の前にしゃがんでのんびりと水浴を楽しんでいます。すると,そうした中を,回教徒の葬式の行列がやって来ました。それは男ばかりの行列で,おおいのない担架に死体を載せて交代で運んでいます。回教徒は死体を埋葬しますが,ヒンズー教徒は,決まって,まきの上でおおいをせずに焼いて火葬にします。

主婦の客を目当てに歩道に並べられた野菜を雌牛が食べています。外国の代表者を少なからず驚かせた事のひとつは“聖牛”に関する話でした。寺院のしもべは儀式に使うために雌牛の尿を集め,飲料にする“聖水”の中へそれを数滴たらすことさえするのです。ヒンズー教徒ばかりでなくゾロアスター教徒もそのようにします。

「永遠の福音」大会はインドの王国の業が前進する上でひとつの里程標となりました。特にイランとアフガニスタンからニュー・デリーに来た兄弟たちは,祝福されていることを感じました。自分の国では大会が楽しめるほど人数が多くないからです。外国の仲間のしもべと会って,彼らといっしょに働くことは,インドの兄弟たちにとって珍しい経験でした。新秩序社会には国家主義的な障壁がなく,一致の証拠があるのですから,本当にうれしいことです。

様々な方法で援助を受ける

兄弟たちを援助し教育する優れた方法として,「ものみの塔」誌に掲載される忠実なクリスチャンの生がいの経験を用いる方法があります。1964年4月15日号の「ものみの塔」誌にA・J・ジョセフ兄弟の経験が載りました。キリストの油そそがれた追随者であることを表明していたジョセフ兄弟は,1964年12月18日に80歳で亡くなりました。同兄弟はインドに王国の業を確立する上で確かに大きな働きをし,インドのエホバの証人の組織がひとりの人から2,000人を超えるまでに成長するのを見ました。1905年にジョセフ兄弟が真の神であるエホバを探し求め始めてから59年が経過していました。非キリスト教の国,インドで,なるほど進歩は緩やかでした。しかし,1964年には神権組織がインド全国に明確な形を整えていたのです。

1968年バンガロールのラージャ・ヴェンカタラマ・ホールで開かれた地域大会で,その土地の狂信的なヒンズー教徒数人は集まりを台無しにしようとしました。彼らは土曜日の夜に,公開講演を宣伝するのぼりに牛のふんを塗りつけ,日曜日には入口のドアと壁に塗りつけました。兄弟たちは午前のプログラムが始まる前にそれをすっかりきれいにしたので,一般の兄弟たちには気付かれずにすみました。新聞の宣伝が行き届いたので,州当局が大会に関心を持ち,デニス検事を任命して,大会のプログラム全部に出席し,大会で何が行なわれているかを当局に逐一報告させました。

デニス検事が大会の監督のホンガル兄弟に伝えたところによれば,彼が報告することになっていたのは,大会で改宗が行なわれるか,特定の共同社会とか宗教が批判されたか,政策に批判が加えられたか,ということでした。大会の最終日にホンガル兄弟は,どんな感想を持ったかを検事に聞きました。デニス検事は,すべての部門が円滑に運営され,兄弟たちが進んで協力しているなど,自分が見聞きしたことに深い感銘を受けたと答えました。

すると,ホンガル兄弟は心をなごませる調子で,どんな報告をするつもりかをデニス氏に尋ねました。検事は次のように答えました。「私はそのことで困っています。報告は与党の大臣のもとに送られることになっていますから,もし国会で野党の議員がエホバの証人の大会のことを問題にしたら,大臣は大会に関してはっきりとした情報を与えなければなりません。しかし,私が,どの講演者も『啓示を,マルコを,詩篇を調べてください』とばかり言っていたと報告したら,大臣も野党の議員も報告が一体何を言っているのか推測しかねることでしょう。それで,私は報告をごく簡単にし,問題となることは何も行なわれていない,と述べるだけにとどめるつもりです」。

1968年中の一連の大会で際立った点は四つの集まりの合計出席者数が3,132人で,122人がバプテスマを受けたことでした。当時インドのエホバの証人は全部で2,337人でしたから,それは注目に価します。したがって,インドの神権組織が引き続き成長する可能性は十分にありました。

1964年から1968年の大会を通して,インドの兄弟たちは組織を効果的に運営するように訓練されました。1968年のバンガロール大会の時に,ヴィクター・ホンガル兄弟が大会の監督,プラバカー・スワンズ兄弟が大会司会者を務め,大会の運営全部がインドの兄弟たちの指示の下に行なわれたのは喜ばしいことでした。その上,幾年もの間,ケララ州で大会はすべてインド人の兄弟の手で運営されました。強固で一致したクリスチャンの組織が,インドではっきりと形を整えつつあったことは疑いありません。

開拓者の増加

エホバが,必要に答えて全時間の伝道者になるようご自分の民を動かされたので,開拓者の数は年ごとに増えました。1965年から1970年にかけて,179人の開拓者(66人の特別開拓者と113人の正規開拓者)が増加したので,1970年までに開拓者の合計は375人になりました。開拓者たちはインドの野外活動のバックボーンとなって聖書研究の業を大いに伸ばし,1970年には毎週平均3,024件の研究を司会していました。

クリスチャンの中立が試みられる

1965年に起きた宣戦布告のないインド・パキスタン戦争の動乱中,エホバの民は少数ではありましたが,海のように不安定な大勢の人々のただ中にあって燈台のように立ち,神の組織という安全な領域を人々に知らせていました。燈火管制のために夜の集会を開くのが難しくなるなど,不都合なことも起きました。ボンベイ市民は午後8時以降の外出を禁じられ,それまでに屋内に入っていなければなりませんでした。しかし,その48日間の戦争で王国の業は少しも打撃を受けませんでした。

アラハバードでノリス兄弟は,伝道中に戸別訪問の記録を付けていたという理由だけで,パキスタンのスパイであると訴えられました。彼は狂信的な国家主義者によって打たれ,また,その国家主義者が集めた暴徒たちから,不審な行動を取るなら宣教者を襲うと脅されました。呼ばれた警察は“宣教者”の方を逮捕し,攻撃した者たちを自由の身にしました。その地域の警視は,「住民はあまりにも国家主義的になっている。勝手に制裁を加えないよう彼らに要請した」と言い,その事件を却下しました。しかし,神の民は動ずることなく,命を救う重要な業を続けました。

インドとパキスタンの敵対感情は募る一方だったので,どちらの政府も一層強行な国家主義的手段を取りました。そうした手段はエホバの証人の学童に深刻な問題を引き起こしました。すべての学校で国歌を歌う儀式が行なわれるようになったので,エホバの証人の子供たちはクリスチャンの中立という問題に直面したのです。儀式の参加を免除してもらえない例が2,3ありました。数人の子供は放校処分を受け,学校に行かなくなった子供たちもいました。与えられた聖書的な助言に基づいて行動した兄弟たちもいますが,その他の親たちはそうした助言を無視したようです。

ケララ州の地域監督は1965年に,エホバの証人が取っているクリスチャンの中立の立場について多くの学校長に説明することができました。一例として,旅行する監督のフンク兄弟は,エホバの証人の子供が通っていたある学校の校長に話しました。学校長は同情を持って説明を聞き,エホバの証人を国旗礼から免除することを認めてくれました。ところが,次の試験の時に,学校長が不在だったため,ローマ・カトリックの教師は,その朝国旗礼に出なかったという理由で,エホバの証人の子弟に試験を受けさせませんでした。その高等学校に子供を通わせていた父兄の嘆願状を添えた説明の手紙が,ケララ州カンジラッパリの地域教育委員会に送られました。しかし,それによって事態は好転しませんでした。高学年の子供たちの中には,世俗の教育を受けられなくなったので,開拓者になり,命を得させる教育を引き続き追い求めると共に,他の人もそうするよう助けた子供もいました。

インドの最高裁判所に出入りしていたニュー・デリーの一弁護士は,「インドの法学生」という雑誌を編集していました。その弁護士は,1965年6月8日号の「目ざめよ!」誌(日本語は1965年8月22日号)に掲載された,「国旗と忠誠の誓いと神」と題する記事の全文を再刊する許可を協会から取得しました。それによって,議論の的になっていた国旗問題がインドの法曹界にはっきりと提出され,その問題に関するエホバの証人の聖書的な立場が明らかにされました。―出エジプト 20:4,5。ヨハネ第一 5:21

拡張された出版活動

インドの国語であるヒンディー語で「ものみの塔」誌を出版する準備がなされるに及んで,出版活動はさらに推進されました。様々な手続きをしなければならなかったので,当局の許可が下りるのが非常に遅れました。まず,雑誌が発行される都市,その時はランチ,の治安判事の前で協会の代表者が宣言しなければなりませんでした。その後の数週間,事はそれ以上進みませんでしたが,ついに1965年11月に印刷の許可が与えられました。ヒンディー語の「ものみの塔」誌の創刊号は1966年1月に1,500部印刷されました。

1966年の初めのある日,セカンダラバードのある交差点で伝道者と待ち合わせていた特別開拓者のジョージ・グレゴリー兄弟は,インド聖書協会の支店長が店から出て行くのを見ました。グレゴリー兄弟はすぐにその人に近付き,「新世界訳聖書」を提供しました。支店長はそれを他の数冊の小冊子と共に喜んで受け取りました。数日後,グレゴリー兄弟はその聖書協会の支店長から,「新世界訳聖書」をさらに3冊ほしいという手紙を受け取りました。それを届けた時,グレゴリー兄弟は,聖書協会がテルグ語の聖書の改訂版を準備しているのを知りました。テルグ語の翻訳グループは「新世界訳」に大変感心して,改訂版にそれを使うことにしていたのです。土地の司祭は,「新世界訳」はそれまでの英語訳聖書の中で一番すぐれている,と語ったそうです。

司祭と支店長は,その次に開かれた公開講演を聴きに王国会館へ来ました。ふたりはグレゴリー兄弟に,翌日テルグ語翻訳委員会が作業しているところを見てはどうか,と勧めました。グレゴリー兄弟はその勧めに応じ,そこでさらに4冊の「新世界訳聖書」を配布しました。

妨害にもめげなかった

宣教者をインドに入れることがますます難しくなったため,インド人の兄弟が進んで特別開拓奉仕に入るのを見るのは喜ばしいことでした。宣教者がインドを去った場合に限って,その代わりとして新たに宣教者の入国が認められました。1965年から1970年にかけて,様々な理由から大勢の宣教者がインドを去りました。

さらに後になって,政府は,同数の宣教者を交替させてもよいという譲歩をしなくなりました。もはや,外国の宣教者が得られないのです。

宣教者の分野にそうした妨害があったにもかかわらず,インドにおける業は進歩しました。インド人の兄弟たちはより強い霊性を得,特別開拓者になったり監督の立場に就いたりして自分を役立てました。したがって,例えば1965年から1970年にかけて,インド人の兄弟たちが多数巡回監督に任命され,そのうちのふたりは元ヒンズー教徒でした。インドからインド人の巡回監督が生まれていたということは,神権組織が円熟しつつあったことの証拠です。

祝福となった「真理」の本

1968年に,「とこしえの命に導く真理」と題する聖書研究のすばらしい手引き書が出版されました。この本をヒンディー語,カナラ語,マラヤラム語,タミル語,テルグ語,ウルドゥー語で出版するには,翻訳,照合,校正,植字,印刷といった膨大な仕事が必要でした。印刷は外部の印刷会社が行ないましたが,支部事務所が,印刷所のある町で働く特別開拓者を用いてその作業を監督しました。翻訳者はすべて,インドの言語ばかりか,英語にも真理にも良く通じたエホバの証人でした。

支部事務所が遠隔地からその全作業を監督するのは,霧がかかっている時に管制塔がレーダーで多くの飛行機を導くようなものでした。それにもかかわらず,エホバの過分のご親切によって作業は成し遂げられました。その結果,「真理」の本の地方語版を使って,関心を持つ人々との家庭聖書研究が数多く司会されて行きました。

次のような例があります。40名の人がグループでマラヤラム語の「真理」の本を用いて勉強し始めました。それを聞いた司祭は,説教壇から,エホバの証人は大酒飲みで乱暴者であると非難しました。ひとりの婦人がさっと立ち上がり,大声でこう言いました。「それはうそです。私の息子は,あなたの教会に行っていた時は大酒飲みでした。でも,エホバの証人と勉強するようになったので,今は,ご覧のとおり,酒びんでなくて聖書を手に持っています」。

さらに,このような経験がありました。ひとりのローマ・カトリック教徒が一週間で「真理」の本を読みました。伝道者が再び訪問すると,その人は,「あの本はすべてのクリスチャンに必要です」と言いました。すぐに研究が始まりました。そして,霊と真理とをもって神を崇拝するという主題に入りました。(ヨハネ 4:24)次の週,伝道者が訪問すると,全部の宗教画が壁から取り除かれ,その代わりに,「わたしとわたしの家の者たちとはエホバに仕えます」という簡潔な聖句が掲げられていました。―ヨシュア 24:15

短いながら有益な訪問

その間,ノア兄弟は極東を奉仕しながら広範囲に旅行し,インドとヨーロッパを回ってブルックリンへ帰りました。1968年5月に行なわれたその訪問でノア兄弟が主として関心を払ったのは,支部事務所を視察することでした。同兄弟は,1960年に建てられて以来初めてインド支部の建物を目にして喜びました。彼はボンベイの野外劇場で兄弟たちに話もしました。「あなたがたは忘れてはならない」という主題のその話に,600人を超す人々が出席しました。

ノア兄弟の訪問は,また,当面の印刷上の問題や経費について話し合う機会になりました。「ものみの塔」誌は七つの言語,すなわち,ベンガル語,ヒンディー語,カナラ語,マラヤラム語,マラーティ語,タミル語,ウルドゥー語で発行され,「目ざめよ!」誌はマラヤラム語とタミル語の二つの言語で出版されていました。協会が印刷するのは財政的に不可能だったので,印刷の仕事はすべて外部の印刷会社によって行なわれていました。

ノア兄弟は,インド製の「ブラドマ」という住所打出し機および,それに付随するあて名印刷機を購入することを許可しました。それによって,雑誌を早く発送することができましたし,開拓者と会衆の住所のファイルを一層効果的に保つことができました。

そのころ,支部の倉庫が手狭になっていたので,ノア兄弟は外に車庫を建てることを承諾しました。したがって,主な建物の中にあったガレージは,在庫文書の新たな倉庫に使えるようになりました。

証人の業が及ぼした影響

偽りの諸宗教が争って大きくなっていた時に,エホバの清い組織が一層顕著な存在になりつつあったことは,インドの大きな宗教の信者に,静かながら効果的な影響を与えていたことから分かります。絶え間なく落ちる水滴が岩をうがつのと同様,エホバの組織の絶え間ない活動は,王国の音信に対するがんこな抵抗を弱めました。ほとんどのヒンズー教徒は,聖書を研究してエホバが予告された目的を意味深く調べようとはしません。キリスト教世界の教理と悪質な慣行が,誠実なヒンズー教徒に偏見を持たせる大きな原因となりました。しかし,中には少しずつ真理に応じる人もいたのです。1969年におけるインドの全伝道者数の6%はかつてヒンズー教徒でした。

特別開拓者のブーサパティ兄弟はハイデラバード市で奉仕していた際に次のような経験をしました。「あるヒンズー教徒の家庭を訪問中,父親と4人の子供が,正義の新しい体制が到来するという見込みに深く感動し,猛烈な関心を示してすぐにテルグ語の小冊子を求めました。そして再び訪問した時に聖書研究が始まりました。

「父親は,機械工でしたが,間もなく別の一家族を研究に加わらせたので,全部で10人から12人が毎週それに参加しました。『真理』の本のテルグ語版が届くと,わたしたちは早速それを勉強し始めました。『真理』の本の内容は簡潔めいりょうなので,どんどん進歩しました。親族は,ヒンズー教徒だったため,反対し始め,研究をだめにしようとしました。ところがしっかりとした基礎が置かれていたので,その家族は圧力に耐えました。そして,集会場所が6㌔も離れていたにもかかわらず,すぐ集会に出席し始めました。また,バビロン的な宗教とのつながり一切を断ち切って,良いたよりの定期的な伝道者になりました」。

ヒンズー教徒の一家が9か月間にそうした進歩を遂げるということは,インドでは,たいへん喜ぶべきことです。むろん,そうした事が成し遂げられた誉れはエホバに帰されます。

一方,1969年当時,インドの王国伝道者の93%は,かつてキリスト教世界の様々な宗派と交わっていた人々でした。実際のところ,1969年のインドのエホバの証人の相当数はかつてローマ・カトリックの信者でした。そのひとりに,ケララ州メルカブマトンの若い神学生がいました。その人はローマ・カトリックの司祭になるために神学校で7年間勉強していましたが,そのころ,多くの不公平や不正を目にしました。それで彼は,ローマ・カトリックの教えが真理でないことを確信し,神学校をやめました。その人のおばさんはエホバの証人でした。おばさんが尋ねて来た時に,彼はおばさんが聖書を良く理解していることに興味を持ちました。彼女は,ハイレインジのお茶どころである,ヘブンバリーにある自分の家に来るようおいに勧めました。

以前神学校の学生だったその人がヘブンバリーに滞在中,そのころ巡回監督をしていたV・P・アブラハム兄弟はそこの会衆を訪問しました。彼はその若いカトリック教徒に会い,集会に出席させました。なんという違いでしょう! 青年は証人たちの間にみなぎっている真の愛と一致をすぐに認めました。深い感銘を受けてメルカブマトンへ戻った青年は,協会の出版物を使って聖書を熱心に研究し始めました。特別開拓者のA・D・サムエルがその研究を司会しました。集会は32㌔も離れた所で開かれていましたが,青年は定期的に出席しました。間もなく,彼は良いたよりを他の人々と分かち合うようになり,友人,親族,以前行っていた神学校の当局者に新しい崇拝の方式について知らせました。

正直さと決意

廉潔な崇拝者の組織は,インドで,ゆっくりながら確実に大きくなってゆきました。そして,真のクリスチャンの原則を守ることで知られるようになりました。そのことに注意を引いた例が,アンドラ・プラデシのガジャラコンダにあります。そこには,エホバの証人の小さな会衆がありました。その会衆のひとりの姉妹は,出席者の記録をごまかすことが普通に行なわれていた学校で教師をしていました。教師たちがなぜそういうことをしていたのかというと,それは学校当局に良く見られるためでした。前述の姉妹は記録をごまかすのを拒みました。そして,学校長に呼ばれ,学校全体の平均に影響することなのに,なぜ正確な記録を提出したのか説明させられました。学校の不正直なやり方に合わせられないのなら,別の学校へ転任させると脅されましたが,姉妹は,聖書で訓練された良心とクリスチャンの正直さに忠実な態度を取り続けました。学校で高い立場にある人々に,自分が理解しているキリスト教とはどんなものかを説明したところ,明らかに,彼らは深い感銘を受けました。というのは,その姉妹は同じ学校で教べんを取ることができたからです。

インドに一致したクリスチャンの強い組織ができていたことをさらに示していたのは,マドラス市の兄弟たちが大胆にも自分たちの王国会館を建てようと努力したことです。マドラス市公共土木工事局の土木技師だったF・P・アントニー兄弟は,土地の購入と建物の建築の監督をまかされました。協会はそこの会衆のために貸付金が得られるよう取り計らいました。マドラスの隣りのヴェペリー地区のブリック・キルン街道にふさわしい土地が購入されました。満足のゆく設計がなされた後,150名ほどの人を収容できる立派な新しい王国会館が建設されました。その後会衆は急速に進歩し,インドで最も大きな会衆になりました。そして遂にふたつの会衆に分会したため,マドラス市内の会衆は合計四つになりました。

「地に平和」大会

この大会はボンベイ,マドラス,コチンで開かれました。14の州から500人の兄弟がボンベイへ来ました。その中には,北方のヒマラヤの王国,シッキムからはるばるやって来た人々もいました。ボンベイは人口が過密なことで有名ですから,宿泊施設のことが問題になりました。大会会場の真向かいにローマ・カトリックの女子の学校があり,そこの校長はたいへん協力的で,証人が学校を宿舎にするのを許してくれました。約80人の兄弟たちがそこに泊まりました。思いがけなく確保できたもうひとつの宿舎は,ある兄弟の母親が働いていたマハラージャのバンガローで,30人の兄弟たちがそこに泊まれました。それから,ボンベイのジャック・ディシルバ兄弟は,自分が勤めている会社を説得して,会社の客のために取っておかれていたデラックスなアパートの使用許可を得ました。そこに30人の兄弟が泊まりました。ボンベイ大会は五つの異なる言語で司会されました。驚いたことに,ヨナを扱った聖書劇が行なわれている最中,近くの修道院から10人のローマ・カトリックの尼僧が入って来ました。

「地に平和」マドラス大会は広々としたミュージアム・シアターで開かれました。ただし,テルグ語のプログラムは別の会場で行なわれました。本会場内のタミル語の兄弟たちのために,話されることはすべて通訳されました。会場の外の場所には,簡易食堂用にパンダル,つまり草ぶき小屋が設けられました。公開講演の出席者数は814名で,42名の新しい人が水の浸礼を受けました。

3番目の,そして最後の大会が開かれたのはコチンでした。コチンは現在のケララ州の西海岸にある海港で,インド海軍の基地になっています。会場はネール記念館でした。幾百人もの兄弟は,安価で便利な会場内に泊まれたので喜びました。宿舎を探す仕事に,コチンの市長までが協力してくれました。普通は公務員しか使用できない政府経営のバンガローを多数使わせてくれたのです。無料の宿舎全部は信頼できる伝道者に割り当てられました。宿舎を提供してくれた人に良い印象を持ってもらうためです。家の人の中には大会に出席した人も少なくありませんでした。大会が終わって泊めたクリスチャンに別れを告げなければならなくなった時,その人たちは涙を浮べていました。

公開講演に出席した1,253人のうち,153人は開拓者でした。そこでも43人はバプテスマを受けました。

シッキムの人々に伝える

山の多いシッキム州はものみの塔協会インド支部の管轄下に入っています。ポープ兄弟は,シッキムの起伏の多い土地に住む兄弟たちのところへ旅行した時の模様を次のように語っています。

「主な交通手段は汽車です。汽車の方が普通好まれています。比較的険しい地域では,ジープやバスを乗り回さねばならないことがよくあります。ここではもっと道路に適した乗り物が必要とされますが,ないことが多いのです。……それで,乗客の神経と冷静さが大いに試されます。ヒマラヤ山ろくの丘を通ってダージリンへ行く旅行中にそのようなことがありました。1,2㌔行くごとにジープの前輪がガタガタとひどく震動するようになってしまいました。それで,ジープが勝手に走らないようにするために急なブレーキをかけなければなりませんでした。片側ががけのような急斜面になった狭い山道の険しい坂を突破してから,検問所で停車させられました。そこでの詳しい点検で,ハンドル装置に欠陥のあることが分かりました。機械の作用が前輪まで達しないうちに,ハンドルが右か左に120度遊ぶようになっていたのです。その大きな欠陥のことを知らされたのに運転手は,シク ホジェガと言い張りました。それは“だいじょうぶだ”という意味です。わたしたちは山道をそれから全くそれずになんとか80㌔走りました。ですから,恐らく運転手が“だいじょうぶだ”と言ったことは正しかったのでしょう。ですが,わたしたちはひどい頭痛を感じましたから,わたしたちが運転手の言うほど“だいじょうぶ”でなかったことは明らかです。

「シッキムの国境近くを訪問したことは大きな喜びでした。シッキムの中に入ることはできませんでしたが,兄弟たちはいつも休暇を取って,近くのダージリンにいるわたしたちに会いに来てくれたものです。朝早くに,ドアをそっとたたく音のすることが時々ありました。兄弟たちが感謝のしるしに卵やみかんや野菜を持ってきてくれたのです。ということは,旅費や交通の便の関係がありましたから,その兄弟たちはシッキムから22.5㌔の道のりをしばしば徒歩でやって来たことになります。その週中に彼らは,家族の年寄りに別状がないか確かめるために同じく徒歩で村まで帰り,それからまた戻って来ました。

「それが特に珍しかったのは,その家族がかつてはヒンズー教徒でしたが,家族のひとりが熱心にリードしたので,家族の他の人々が大いに励まされたということです。現在兄弟になっている,その熱心な人は真理の響きを聞いてそれが好きになったのです。彼は,シッキムの孤立した山岳地帯に住み,平和な楽園へ戻る道を探し求めている人々の良い助けとなっています」。

シッキムの大半はヒマラヤ山脈で占められており,仏教が国教とされています。7,299平方㌔の,山がちな領域の約4分の1は樹木で覆われています。針葉樹の大木の地帯は北シッキムの雪線まで伸び,ランはこの小さなヒマラヤの州に色どりを添えています。シャクナゲは山腹全体を覆っており,高山植物が比較的高い所にある谷間や小道にジュウタンを敷いたように花を咲かせています。シッキムにはエホバの王国の伝道者が22人おり,彼らはそうした絵のような環境の中で,ほとんどが仏教徒とヒンズー教徒からなる推定19万4,000人の住民に良いたよりを宣明しています。

「良いたより」はネパールに達する

世界で唯一のヒンズー教の独立国家である,お隣りのネパールもインドの神権的な活動の領域に含まれます。ネパールはヒマラヤ山脈の南斜面に位置しており,北はチベット,東はシッキム,南と西はインドとそれぞれ国境を接しています。人口はおよそ1,200万人です。この国は,世界最高峰のエベレスト山があるということと,世界で,一番強い兵士に数えられるグルカ人を生んだ国としてその名をとどろかせています。

しばらく前,ネパールに国籍を持つA・B・ヨンザン兄弟の家族がインドのカリンポングからネパールの首都カトマンズに引越しました。ネパールでは改宗することは禁じられているので,野外奉仕は制約されていますが,その家族はネパールの人々に神の王国の良いたよりを宣明する上で優れた働きをしました。ヨンザン兄弟は世俗の仕事の関係で政府職員や皇室とも身近に接することができます。その結果,協会のキリスト教の出版物は皇族のもとにも達しています。

組織上の発展

1971年にはインドに,神権組織の新たな特色となるものの基礎が敷かれました。七か所に広く分散して開かれた「神のお名前」地域大会を通して,初期のクリスチャン会衆を統治していた使徒的な取決めのあらましが説明されたのです。「民主主義政体と共産主義のまっただ中における神権組織」と題する講演の中で,資格のある,霊的な長老たちの一団によって今日の会衆を管理することが望ましいということが説明されました。民主主義のインドで最も共産主義的な要素の濃いケララ州における大会で,そうした講演がなされたのも非常に適切でした。

その大会は,インドで初めて神の業が行なわれるようになった土地におけるそれまでの大会のうち,一番大きなものでした。コッタヤム市には大会が開けるだけ大きなホールがなかったので,警察の大練兵場を借り受けました。そこに,ココナツヤシの葉でできた,日かげを作る大きな天がい形のひさしが建てられました。暑い熱帯的な環境の中で,2,259名の人は,クリスチャン会衆が将来どのように統治されるかという話を聞きました。

1972年の初めに,巡回の業は徹底的に再組織されました。訪問中の巡回監督は記録や数字にあまり注意を払わず,野外奉仕の面で兄弟たちを励まし,会衆の霊性を高めることに重点を置きました。

1972年9月,インドの諸会衆は長老たちの一団による管理を実施し始めました。それは,会衆の霊的な安定を図る上で大きな前進となりました。インドの大部分の会衆はその取決めを熱心に受け入れました。

しかし,その取決めは,霊性が比較的低いことや地方の問題を扱う点で経験が乏しいことを明らかにしました。初めに起きた問題を通して,任命されたある兄弟たちが間違った動機を持っており,霊的な資格に欠けていることが分かりました。長老の取決めも諸会衆が霊的助けを必要としていることを正しく示しました。例えば,(ひとりかふたりの兄弟しか住んでいない土地を含む)合計247の会衆のうち,1976年の半ばまでに長老として任命されたのはわずか121名にすぎませんでした。したがって,奉仕のしもべに任命された416名のうち多くは監督の代理として奉仕しなければならなかったのです。

インドに及んだ全般的な影響として,監督の水準が高まったことに疑問の余地がありません。また,長老の取決めの実施以来,その年のうちにインドのエホバの民は22%増加しました。しかし,さらに重要なことに,組織の新しい取決めは,神の業が人間に依存していないことを教えました。むしろ,会衆の頭としてのキリストに注意が向けられ,長老たちは,兄弟たちのために働く互いに依存し一致した一団として任命されました。

未割当ての区域が開拓される

インドの北東端にあった未割当ての区域が開拓され,真理は一番到達しがたい地域に伝わって行きました。北回帰線内に位置するその部分は七つの別々の区域から成っています。北には,チベットおよび中国と境を接するアルナチェル・プラデシがあり,南には,ビルマの国境地沿いに,まずナガランドが,次いでマニプルがあります。マニプルの南東にはミゾラムとトリプラがあります。バングラデシュとブラマプトラ渓谷の間に位置しているのはメガーラヤです。最後に,大きなブラマプトラ川をまたいでいるのがアッサムで,その一部はベンガルやインドの他の地方へ通じるビンの首の形をしたあい路になっています。

それらの地域は主としてヒマラヤ連峰の東端のふもとにある小高い丘からなり,高度が海抜792㍍から1,463㍍の所にあります。そそり立つ峰々,勢いよく流れる川,滝,湖,緑の谷間や牧草地など,景色がすばらしく美しい所です。谷間ごとに,独自の方言を持つひとつの部族が住んでおり,そうした部族は幾十もあるのです。幾つかの部族は女家長制を堅く守っています。また,最近まで首狩りをしていた部族もあります。そのような部族が,今や初めて神の王国の音信を聞くようになりました。

数年の間,王国を宣べ伝える業は,アッサムのシロンに割り当てられていた特別開拓者たちによってなされました。真理はそこから広まったのです。バスマタリ兄弟はシロンで真理を学び,その後,新たに見いだした“宝”を親族や仲間の村人たちと分け合うためにディガルドングという密林の村へ向けて出発しました。(箴 2:1-5)そのためには,約200㌔の道のりを,最初は汽車に乗り,それからバス,次に牛車を使い,最後は森の中を歩いて行かねばなりませんでした。

バスマタリ兄弟は間もなく活動を開始し,簡素な王国会館を建ててクリスチャンの集会を定期的に開き始めました。後に,彼を訪れた特別開拓者はバスマタリ兄弟の家で18名の人々が集まっているのを見てびっくりしました。その人たちは聖書に関する質問をたくさん持っていました。特別開拓者はこう報告しています。「12名の人々はすでにルーテル教会を脱退して王国会館の集会に出席していました。16年間ルーテル派の説教者をしていたのに,その宗派との関係を一切絶っていた70歳の男の人に会ってたいへん励まされました。その人はその結果生計手段を奪われましたが,はっきりこう語りました。『私は「大いなるバビロン」を出て,現在は神の組織にいます』」。ディガルドングの会衆はアッサムの遠い地方にある近隣の村々に良いたよりを広めています。

真理はまた,メガラヤ州のカシヒルズにも伝わっています。そこでは,部族間で女家長制が行なわれており,家長の地位は妻の側にあって,息子や娘は母親の姓を名乗ります。ところが,カシ族のひとりの女性が真理を受け入れて,生活を改める必要に気付きました。その女性は長老派教会に属していましたが,ある男性と20年間同棲生活をして7人の子供をもうけていました。牧師はそれを認めていたのです。さて,真理を知った彼女は自分たちの生活についてその男の人と話し合いました。正式に結婚して,一家の頭になってほしいという女の人の言葉を,男の人は突飛なことだと感じました。その人は最初,頭としての責任を担うことを拒みましたが,やがて自分の立場を認めました。ふたりは正式に結婚し,女の人と子供たちは男の人の姓を名乗るようになりました。やがて,そのカシ族の女性はバプテスマを受けました。子供たちと一緒に集会に出席したり,カシヒルズの他の人たちに王国の音信を宣べ伝える業に携わったりする時の,その人のうれしそうな様子を見るのは励ましです。

バングラデシュでの責任が加わる

1971年12月当時,インドは隣国のパキスタンと交戦中でした。戦争がぼっ発した12月3日,インド軍は東パキスタンに侵入し,3日後には新しい国,バングラデシュが生まれました。13日間の戦争は1971年12月16日に終わり,バングラデシュがパキスタンおよび同盟国のインドから分離独立しました。1973年,ものみの塔協会のボンベイ支部は,バングラデシュにおける業を管轄するようにとの要請を受けました。その地域に,協会の雑誌の予約購読者は幾らかいましたが,知られる限り,活発な王国伝道者は住んでいませんでした。それらの予約購読者に手紙が送られました。しかし,聖書を研究することに積極的な関心を示して答え応じてきたのはひとりの人だけでした。インド人の開拓者が居住することは許されませんでしたが,特別開拓者のP・シン兄弟とP・モンドル兄弟は一定の期間バングラデシュに派遣されました。

「神の勝利」大会

1973年9月にマドラスで開かれた「神の勝利」全国大会は,さながら小規模な国際大会のようでした。9か国の兄弟たちが出席し,プログラムは英語の外に九つのインドの言語で行なわれました。その大会はインドでそれまでに開かれた大会のうち最大のもので,公開講演に3,225人が出席しました。また,バプテスマを受けた人は175人で,ひとつの大会でバプテスマを受けた人の数としては最大の人数でした。

大会会場として使われたアボッツバリーでは,同じ月の初めに“由緒ある結婚式”が行なわれ,そのために仮小屋が建ててありました。ところが,その場所は散らかし放題になっていたのです。そこをかたずける仕事は,大会前に働きに来ることのできた数人の兄弟の手にはとても負えそうにありませんでした。ところが,大会監督のバーナード・フンク兄弟は次のように話してくれました。「大会のちょうど一週間前にインディラ・ガンジー首相がマドラス市を訪問しました。そして,偶然にも,大会会場となる場所で首相が話をすることになったのです。したがってその場所はすっかり片付けられ,『神の勝利』大会に間に合うように“化粧直し”がなされました」。

「王国ニュース」が良い働きをする

マドラス全国大会のすぐ後に,「王国ニュース」という冊子が非常な熱意をもって配布されました。その活動は,資格を得て間もない人が伝道活動を始めるのを助ける上でたいへん良い刺激になりました。その冊子配布がどの程度効果をあげているか,実際にはだれにも分かりません。ただ,その業によって多くのことが成し遂げられていることに疑問の余地はありません。

一例として,南インドのマドライで,ひとりの男の人は,通常の戸別による配布活動を通して「王国ニュース」を受け取りました。その人は遠く離れた村に住む父親の所を訪れた時にその冊子を持って行きました。村の説教者だった父親は冊子に興味を持つだろうと考えたからです。案の定,父親は関心を示しました。ソロモンというその父親は,さらに情報を得るため支部事務所に手紙を書きました。それで,タミルナドのマドライ会衆に連絡が取られました。

マドライ会衆の監督で,特別開拓者でもあったアレグザンダー兄弟は一度その人を尋ねて行ったことがあります。バスで行ける所まで行ってから,焼けつくような太陽の下を10㌔歩いてとうとうソロモンという人を尋ね当てました。すぐに聖書研究が始まりました。数か月後,マドライで開かれた1975年の「神のお名前」地域大会で,ソロモン兄弟はバプテスマを受けました。冊子の配布は確かに良い結果がありました。

支部施設の拡張

全国的な活動の増加とボンベイ大会の必要に応じて,インド支部の建物を拡張しなければならないことが1973年に認められました。新しい設計図はインド人の一級建築士によって作成され,建築工事は1973年12月8日に開始されました。工事を監督したのは,必要の一層大きな所で奉仕していたフランク・スキラーというカナダ人の兄弟でした。

屋上に屋根が作られ,そこはボンベイの証人が使う美しい大会ホールに変えられました。それはインドで最初の大会ホールで,約600人の兄弟がゆったりと入れました。大会ホールはまた,ボンベイのふたつの会衆が王国会館として使用しています。

協会はその工事で,それまで使用していた王国会館を,ふさわしい大きさの事務所と予備の寝室に改造することができました。そして一階にあった元の事務所は雑誌と予約部門および倉庫として用いられました。

1974年6月15日は,その建物の「献堂の日」と定められ,それを目標にして,建築工事はどんどん進められました。増築部分は計画通りに完成し,献堂式は予定の日に行なわれました。

シッキムはインドに併合される

1974年9月,インド議会はシッキムをインド連邦の“仲間”の立場に置きました。当時,シッキムには21人のエホバの証人がいました。シッキムとインドの政治的な関係からして,シッキムの野外奉仕報告とインドのそれとを一緒にするのはふさわしいと考えられました。

ガングトクはクリスチャン活動が精力的に行なわれている所です。そこには4人の特別開拓者が会衆とともに働いています。シッキムにはその外にチュングバングとサムドングにも会衆があります。

1976年,英国のロンドンに住んでいた,シッキム人で長老のロバート・ライ兄弟は,チュングバングに王国会館を建てる資金を持って,妻と一緒に自動車ではるばるシッキムまで行きました。ふたりは2か月足らずで,60人を収容できるがんじょうな建物を建てることに成功しました。それを完成させた後,ライ兄弟姉妹はロンドンの家に帰りました。

1975年 ― 記憶に残る年

確かに1975年はインドの兄弟たちにとって心の踊るような年でした。その年の初めに,統治体のふたりの成員であるN・H・ノア兄弟とF・W・フランズ兄弟の,記憶に残る訪問がありました。インドの遠方の証人たちはふたりの話を聞きにボンベイへ旅行しました。霊的に築き上げられる二日の間,新たに増築された支部の建物は948名の人ですみからすみまで一杯になりました。ノア兄弟は,とりわけ,若い男子が会衆内の責任を担えるようになるよう励ましました。

それに続く,感動的な出来事は3月27日に行なわれた主の晩さんでした。その時の出席者数はインドで初めて1万人を超えました。それによって,インドの4,531人の証人がいかに忙しいかが分かりました。また,それは証人たちとって,エホバの奉仕を一生懸命行ない続ける励みとなりました。

血の問題

一方,野外の兄弟たちは聖書に付き従う必要性を一層深く認識するようになっていました。このような例があります。バンガロールの近くのパラダイス・ファーム会衆と交わる特別開拓者のムニヤムマ姉妹は,腹部に危険な腫瘍ができて血液を多量に失い,衰弱しました。姉妹が輸血を拒むと,教会が所有している病院は彼女を受け入れることを拒否しました。ムニヤムマ姉妹はもうひとつの病院へ連れて行かれましたが,そこでも輸血なしで手術することを断わられました。その時までに彼女の容態は危険な状態になっていました。一方,第一病院の内科医長を親せきに持つ,バンガロールのマル兄弟は,ムニヤムマ姉妹の治療を引き受けてくれるようその親せきの医師を説得しました。医師は輸血なしで手術をし,ムニヤムマ姉妹は命を取り留めました。それはその病院を経営している教会の当局者にすばらしい証言となり,病院の職員はみなエホバの証人を尊敬するようになりました。現在ムニヤムマ姉妹は開拓奉仕の割当てに戻って,他の人々と命の音信を分かち合っています。

証言を拡大する

王国伝道の業は遠い北東の区域に伸びていました。一例として,マニプルのインパールで,特別開拓者のK・V・ジョイはタンクル・ナガ族の十代の若者を見付けました。その若者は聖書をすぐに研究し始めましたが,間もなくバプテスト派の信者の仲間から圧力を受けて疑問を持ち始め,研究をやめました。ところが,グレースという名のそのナガ族の若者は後に教科書の中で神のお名前であるエホバを見付け,一般に行なわれている“クリスチャン”の慣行が異教に起源を持っていることも知りました。そしてジョイ兄弟と聖書研究を再び始めました。

さて宗教的な共同社会の圧力が激しくなりました。その若者はこう報告しています。『私の部族の指導者は,新しい宗教を捨ててバプテスト教会へ戻るか,250ルピーの罰金を払うか,部族の習慣に従って殺されるか,三つにひとつを選べと言って私を追い出しました。私はその脅しを無視しました。やがて,兄のアンガムといとこのナリシングと私は教会を脱退しました。1975年中に私はエホバへの献身を象徴してバプテスマを受けました。それから間もなく,アンガムとナリシングもバプテスマを受け,最近まで首狩りをしていた私の部族の人々に真理を広めるために村にとどまりました。今でも私の村には,恐ろしい過去を思い出させる頭がい骨を玄関に掛けている家があります』。

神の真理は,印刷物の形でも北東の部族地域に広まっています。1973年から1975年にかけて,その地方の約17人の特別開拓者たちにより,4,769冊の書籍およびそれの約2倍も多い雑誌が配布されました。その特別開拓者たちのほとんどは,インドで一番エホバの証人が多いケララ州の出身でした。南インド出身のその開拓者たちは1,931㌔近くも離れた故郷を喜んで離れました。新しい言語を学び,全く異なる性質の人々の間で奉仕するのですから,それは彼らにとって外国の任命地に行ったようなものでした。数年以内に真理は広がり,その部族地区で50名の人がバプテスマを受けました。ある人たちは文書を各々の方言に翻訳する仕事に用いられるようになりました。

さらに多くの働き人が得られるようになったので,協会は,王国の伝道に関する限りそれまで“開発途上にあった”大都市で業を開始しました。例えば,ビハール州のパトナに宣教者の家が設けられました。そこではアルフォード一家が奉仕していました。バーバラ・アルフォード夫人と4人の子供はインド人でしたが,カナダへ移住し,そこで真理を見いだしました。やがてジョセフィーン・アルフォードはギレアデ学校へ行き,インドに任命されました。それで母親のバーバラ・アルフォードと子供たち全員は,パトナ市の宣教者の家で奉仕するため自発的にインドへ戻ったのです。

出版活動の発展

インドでは,大体地方語ごとに州が決められており,各州には独自の言語があります。ひとつの言語の書籍の印刷は,その言語が用いられている土地でなければできませんでした。それで,良い印刷所があり,特別開拓者に印刷を監督させることのできる土地を見付けなければなりませんでした。大抵の場合,開拓者を訓練して良質の本を生産する方法を教える必要がありました。その訓練は支部事務所からの通信によってなされ,そのために交わされた手紙は膨大な量に上りました。開拓者たちは,印刷されたものを正確に校正する資格を身に付けるために自分自身の言語の知識を増やすこともしなければなりませんでした。このような‘リモートコントロール’方式で,ボンベイ支部事務所は11の異なった土地で印刷組織を運営しています。

しかし,しばしばその取決めの中には,協会が求める高い品質の書籍を生産する方法を印刷会社に教えることも含まれています。各地の印刷業者は,自分たちが質の良い印刷ができるのは主として,協会の出版物の印刷を扱う開拓者たちの入念な監督を通して受ける訓練のお陰であると感じていました。

エホバのしもべたちは昔から,インドの多くの言語で聖書の真理を伝えることに関心を持ってきました。早くも,1912年にものみの塔協会の初代会長であるC・T・ラッセルは小冊子をインドの主要な六つの言語,すなわち,ヒンドスタニー語,グジャラート語,マラヤラム語,テルグ語,マラーティ語およびタミル語に翻訳する取決めを設けました。1976年の初めまでに,インドの支部事務所は自分たちの区域のために20の異なる言語の文書を備えていました。過去5年間に,それ以前の5年間における印刷数の500%を上回る63万6,677冊の書籍がインドで印刷されました。「ものみの塔」誌は七つの言語で発行されていますが,近いうちにもう2種類増える見込みです。「目ざめよ!」誌はインドの二つの言語で発行されています。インド支部から他の73か国に雑誌が郵送されています。こうした出版活動すべてを行なうために,支部事務所の外で50人を超す兄弟たちが翻訳,印刷,郵送の仕事をしています。

最近のインドの政策により,文書を国内に入れることはひどく制約されています。4万ルピー(約150万円)相当の出版物を輸入する申請が定期的になされていましたが,その額は年々削減されて1万ルピー相当に制限されました。1975年に5万ルピー相当の書籍を輸入する許可証を申請しました。その許可証が届いた時の喜びを想像してください。エホバが祝福してくださった結果,インドに霊的な食物が豊かに供給されたのです。

地域大会は着実な増加を如実に示す

毎年定期的に地域大会が開かれ,一層徹底した証言を受ける都市の数は全国的に増加して行きました。そして大会はエホバの目的に関心を示す人の数が着実に増えていることを如実に表わしてきました。例えば,1975年に15か所で開かれた「神の主権」大会で243人がバプテスマを受け,公開集会には6,061人が出席しました。その時のインドの王国伝道者の数は4,300人でした。

そうした大会で聖書劇を上演するために支部の仕事は増えました。小さな支部事務所において,あるいはその監督下で劇のテープを10の言語で作製するためになされた仕事の量を考えてみてください。まず,台本が翻訳されます。次いで声を吹き込む人は,聖書中の人物になりきるように訓練を受けなければなりません。次の大きな問題はテープに吹き込むことです。支部事務所で作製されたのは四つの言語のテープだけで,残りは野外の兄弟たちによって作製されました。多くの場合,設備は限られていましたし,登場人物全員の数だけ有能な兄弟と姉妹を見付けるのは困難でした。

非常に簡素な家がテープの吹き込みをする“スタジオ”になったこともありました。兄弟たちはしばしば午前1時ごろになってから吹き込みを始めます。というのは,そのころならあたりが静かになっているからです。カエルの鳴き声を止めるために,近くの池に石を投げる仕事がふたりの兄弟に割り当てられたこともありました。地域大会のプログラムを準備するには,6か月の間相当厳しい仕事をしなければなりません。けれども,人々が自分の言語で行なわれる大会に出席して感謝してくれることを思えば,1分1秒が価値のあるものとなります。

支部の新しい管理

他の国と同様インドにおいても,1976年の初めに,王国を宣べ伝える業の監督は,交替する司会者と永続的な調整者を持つ支部委員が行なうことになりました。この取決めは,特に一層重い仕事の荷を負い,起こり得る問題を扱う上で進歩的な方法であると考えられました。それによって,監督する責任がもっと土地の兄弟たちに委ねられました。また,支部委員を構成している人々は,野外の活動との接触が増えるので,野外の問題をより広く把握することができます。

神とともに行なう将来の業のための基礎

この世代のうちに起こるすばらしい出来事を切に期待して,インド,ネパール,バングラデシュのエホバの証人は,エホバの目に見える組織から離れないことによって前途の試練に備えています。一番最近の伝道者最高数は4,687人で,1976年4月14日に行なわれたキリストの死の記念式には1万1,204人が出席しました。インドで,イエスの油そそがれた追随者であることを表明した真のクリスチャンはわずか11人でした。

インドは,広大な土地と多くの人口を有する国ではありますが,エホバの設立された王国に関する証言を受けています。特に1912年以来,聖書の真理はインドにあふれている大勢の人々に宣明されてきました。聖書や他のキリスト教の文書を多数配布したり,宣伝カーを使った公開講演,蓄音機の業,戸別に証言をすること,再訪問および家庭聖書研究などの方法を用いて,人々に真理を伝える努力が大いになされました。非常に厳しい気候条件,病気に冒される危険,その他の苦難があるにもかかわらず,聖書の救いの音信を聞く機会は大勢の人々に与えられました。そして,数千人の人々が好意的に答え応じたのは喜ばしいことです。

インドでは,神権組織が,異なる言語地域に散在する孤立した伝道者の群れから,密接に結び合って一致したクリスチャンの福音宣明者の一団へとしだいに成長しました。偽りの宗教に原因する無関心,時々狂信者が起こす騒動,ふたつの世界戦争中の禁令,政治闘争その他の問題があったにもかかわらず,組織はそのように成長したのです。こうした状況にあって,エホバは常にわたしたちとともにいてくださいました。わたしたちはエホバの証人として,『神とともに働いて』いることを深く感謝しています。―コリント第二 6:1

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1930年代に「良いたより」を伝えるのに用いられた有蓋自動車。録音再生機を積んでいる

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ボンベイの支部事務所