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リベリア

リベリア

リベリア

「自由に対する愛がわたしたちをここへ連れて来た」。この言葉は,大西洋を横断して1822年4月25日にアフリカの西海岸の小さなプロビデンス諸島に上陸した移民が語ったものです。アメリカ植民地協会の後援を受けた自由民の勇敢な開拓者たちは,アフリカで最初の黒人の共和国であるリベリアを1847年に設立する準備をしました。アメリカのルイジアナ州ほどの大きさのこの国は,シエラレオネ,ギニア共和国,象牙海岸に隣接しています。

主に海岸の平野部沿いに位置し,いつも青々としているリベリアには,象,ヒョウ,珍しい小型のカバが歩き回るうっそうとした森林地帯があります。リベリアはゴムの産出国で,良く管理されたゴム園が国の端から端まで広がっています。低い山々では,世界で最も埋蔵量の多い鉱山から大規模な採鉱が行なわれています。

解放をもたらす真理がリベリアに到来

リベリアが建てられて20年後の1867年までに,合計1万3,136人が,主にアメリカからですが,リベリアに移住しました。首都モンロビアの外側のマノ川からカバラ川に至る海岸沿い,つまり,“リベリアのメリーランド”に,ロバーツポート,マーシャル,ビュカナン,グリーンビルおよびハーパーといった居住地が次々とできました。聖書研究者の一グループが「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」を学んでいたのは,1895年ごろ,アフリカのふくらんだ“ほほ”が引っこみ始める地点にあるパルマス岬のハーパー居住地においてでした。その集まりはリベリアにおいて,あるいは知られている限り西アフリカ全体において最初のものでした。リベリア人は,初めて,人を真に自由にする聖書の真理を伝えられたのです。―ヨハネ 8:32

ふたりの年配の兄弟,すなわちヘンリーとジョセフ・ギブソンがいつごろ,またどのようにして「シオンのものみの塔」を入手したのか知られていません。しかし,家庭聖書研究のクラスは定期的に開かれていました。そのことは,リベリアの元大統領ウイリアム・V・S・タブマンを含む多くの年配者が証言しているとおりです。タブマン氏はごく幼いころにその集会が開かれていたのを覚えています。「エホバの証人はどれほど昔からリベリアにいるのか」と嘲笑する人々は,「大統領によれば75年ほど前から行なわれています」と聞いて大抵黙ってしまいます。主の死の記念式は毎年ユダヤ暦のニサン14日に相当する晩に行なわれていました。ギボン兄弟たちは20世紀に入るころに亡くなり,聖書研究のクラスは明らかにその時から行なわれなくなりました。

しかし25年ほどたって,エホバの王国の音信はリベリアで公に宣明されたのです。1926年に,シエラレオネのフリータウン出身のクロード・ブラウンという聖書研究者が2,3週間モンロビアを訪問しました。そして,ものみの塔の西アフリカ支部のW・R・(“バイブル”)ブラウン兄弟が訪問する準備をしました。エホバの王国の力強い代弁者であるW・R・ブラウン兄弟は3週間にわたって毎晩モンロビアの下院ホールで話をし,多くの書籍も配布しました。非常な著名人を含む大勢の人は,真理に関する印象的な新しい事実が感動的に説明されるのを聞きました。

幾つかの宗派の教会員は,自分たちの宗教制度を暴露し,かつ根底から揺さぶる“バイブル”ブラウンの講演に心から感動しました。その講演は当時話題となり,古い人々は50年後の今なおそのことを口にします。ブラウン兄弟はリベリアを離れる前に,大統領候補に2度なったことのあるフォークナー氏が監督していた聖書の会を組織しました。フリータウンから“バイブル”ブラウンに同行したリベリア人のJ・G・ハンスフォードは,その会の信頼できる会員のひとりでした。牧師でさえ時折その研究会に出席しました。

反対に遭う

“バイブル”ブラウンが1929年に再びモンロビアに来るまでに,宗教的な反対が強くなっていました。1920年代の初めに著名なリベリアの女性たちが,ペンテコステ派の説教者であるジャニュアリ夫人の感情的な教えを受け入れました。特にその女性たちが政府のトップクラスの人々に圧力を掛け,「ブラウンの伝道は自分たちの教会を破壊する」と訴えました。“バイブル”ブラウンはその時の訪問で1度講演した後,滞在許可がもらえず,わずか1週間で退去させられました。とはいえ,彼はアフリカの他のずっと産出的な土地へ進みました。

しかし,そこの聖書の会は続けて行なわれ,やがてシエラレオネ出身のある証人の監督を受けるようになりました。1930年代の初め,経済状勢が深刻になり,ある人々はその証人の伝道が政府に敵対する扇動であると考えました。その結果はというと,彼は無理やり国境まで歩かせられ,追放されたのです。脅しを受けたために,他の人々の熱意はさめ,聖書の会は解散しました。

霊的な発展が始まる

リベリアにとってぜひとも必要とされていた好景気がファイアーストーン会社のお陰でもたらされました。同社は1926年にハーベルでゴムの木を栽培し始め,7年後には約220平方㌔の土地でゴムの栽培をしていました。しかし,リベリアにとって物質的にも霊的にも本当の意味で重大な年となったのは1940年代の10年間でした。物質的な点から言えば,第二次世界大戦が始まって,リベリアは,西アフリカで空軍基地を必要としていた連合軍の,いわゆる“地図”に載って注目をあびるようになりました。そして,ハーベルのファイアーストーンの近くのロバーツ・フィールドが空軍基地に選ばれました。間もなく,リベリアにはアメリカ兵があふれるようになり,お金と西洋の習慣が持ち込まれました。短期間でしたが,アメリカのルーズベルト大統領さえこの国を訪れました。その訪問がきっかけで,リベリアで最初の鉄道の外,近代的な港や舗装道路,橋が武器貸与法による基金でモンロビアに建設されることになりました。

国際的な資本家たちは,リベリアに良質の鉄鉱を産出する見込みがあることを一層知るようになりました。ゴム会社は,極東のゴム園に依存するよりも,西欧に友好的で大西洋を渡って行ける国にゴム園を持つほうが有利であると考えました。したがって,戦後,リベリアの歴史上先例のない好景気が始まったのです。生活水準一般が改善されたばかりか,今や政府は,切実に必要な教育と道路建設のための資金を有していました。

幸いにも,1946年には,霊的な発展も始まりました。ものみの塔ギレアデ聖書学校の第3期のクラスを卒業した宣教者のハリー・C・ベハナン兄弟が到着したのです。ベハナン兄弟は有能な黒人の音楽家でした。ヨーロッパの各地で,皇族の面前でもピアノのリサイタルを開いたことがあります。彼は,神への奉仕に対する並はずれた熱意,主の「小さな群れ」の油そそがれたひとりに全くふさわしい情熱を持っていました。(ルカ 12:32)そして,正真正銘の開拓者として単身モンロビアに来たのです。ベハナン兄弟は直ちに戸別による伝道の業を始め,6か月という短い期間に多くの人と顔見知りになって,500冊を超す書籍を配布しました。また,リベリアの他の場所に真理を伝えるため,屋根のない波乗り船で,モンロビアから直線距離で約240キロ離れたシノエ郡グリーンビルに行きました。

残念なことに,その愛すべき兄弟が植えはぐくんだたくさんの種は,兄弟の世話を受けて成熟することができませんでした。グリーンビルに帰って間もなく,ベハナン兄弟は,明らかに熱帯の暑さに負けて病気になり,病院で亡くなったのです。同兄弟の葬式には,大勢の人に混じって,アメリカ大使館の職員も出席しました。ベハナン兄弟について,リベリアのひとりの紳士は,「彼は偉大な目的を持つ人のように行動した」と語りました。そして,その目的は成し遂げられることになっていました。

宣教者は業を確立する

1947年5月,一そうの船が海岸沖に停泊し,ギレアデの訓練を受けたふたりの宣教者,ジョージとウィラ・マエ・ワトキンズは寄せ波船で任命地のモンロビアに運ばれました。ともに40代のその夫婦にとって順応性と辛抱強さが求められる新しい生活が始まったのです。幸いなことに,ワトキンズ兄弟はかつてアマチュアのボクサーだった人で,強健な体をしていました。ホテルに一週間泊まった後,ふたりは家具のなにもない部屋に移りました。兄弟が他の家具と一緒にベッドを作るまで,床の上に寝ました。

そこには水道がなく,水は井戸からバケツでくみました。その水は15分間沸騰してからでないと飲めませんでした。食物は,赤痢を媒介するアリの“部隊”から十分守らなければなりませんでした。コンロもあることはあります。鉄ビンが置ける3つの石がそれで,燃料はまきでした。

マラリアから身を守るために蚊帳と強い抗マラリア剤が役立ちました。宣教者たちは,また,もうひとつの敵に対処しなければなりませんでした。というのは,しばらくしてから皮のスーツケースを開けたところ,その下側や中味が白アリに食われていたのです。

ワトキンズ兄弟はリベリアにふたつの文化が並んで存在しているのを知りました。国民の大部分は20を超す部族民からなり,多くの異なる言語や方言を語り,地方行政官や部族のしゅう長を通して行使される土着の慣習法によって治められていました。一方,最初の移民の子孫は西欧の習慣を引き続き持っていましたし,西欧式の教育を受けた部族民の中で西欧の習慣にならう人も増加して行きました。英語が公用語になっていましたが,モンロビアの多くの部族民は当時英語をほんの少し話していたに過ぎず,大半の人は文盲でした。

全体的に知識欲がおう盛で,ワトキンズ兄弟姉妹が奉仕を始めてから15か月の間に,協会の書籍が1,000冊余も配布されました。しかし,教育のある多くの人は,「父にとって十分良かったものはわたしにとっても十分良いものです」と言って“新興宗教”を受け入れようとはしませんでした。大抵の場合,語彙が少ないとか読む力が弱いというハンディのある人々が非常に強い関心を示しました。そのような強い向学心のある人々を教えるうえでたいへん役立ったのは,「真理はあなたがたを自由にする」と題するものみの塔協会の書籍に出ているさし絵でした。

大勢の人は,地下から屋根裏まで20かそれ以上の小部屋がある大きな家のひとつの小部屋を“家”にしていました。多くの場合,その小部屋は寝る場所に過ぎませんでした。ですから,証人が再び訪問して関心を持つ人にもう一度会うのは容易ではありませんでした。しかも,人々はあちらこちらと良く引越しをするのです。それは,職が見付からなかったり,もっと良い住まいを探すためです。

そうした妨げとなる事柄にもかかわらず,間もなく,J・G・ハンスフォードの家の縁側でクリスチャンの集会が開かれるようになりました。ハンスフォードは20年以上も前にW・R・ブラウンから真理を聞いていました。真に柔和な多くの人が集会に出席し始めました。王国の奉仕に携わる人が15人の最高数となり,リベリアで最初のエホバの証人の会衆が設立された1948年9月に至るまで,どれほど膨大な忍耐強い努力が払われたかは,ただ想像できるのみです。同じ時にレティシア・マーチンは良いたよりを宣べ伝え始めました。彼女は聖書の真理を受け入れた最初のリベリア女性であり,しかも,1949年までに最初のリベリア人の開拓者,つまり全時間の王国宣明者になっていました。

真剣な努力によって増加がもたらされる

1949年の5月に,2番目の宣教者の夫婦,フランクとタレサ・ファウストが到着しました。その時までに,キャンプ・ジョンソン街道の往来のはげしい道に宣教者の家がありました。「真理はあなたがたを自由にする」という本を見せるため,ネオンサインが取り付けられました。その広告に関心を持った人の中に,フランク・パウエルという名の若者がいました。彼はひとりの宣教者に,「これは私の父の教会です」と言いました。その若者の父親はイエス・キリストの油そそがれた追随者のひとりで,40年間エホバの証人としてジャマイカに住み,フランクは子供のころ幾度か集会に行ったことがありました。今や再び神の民と交わるようになり,伝道の業に参加し始めました。1951年,彼は,ロンドンのウエンブリー・スタジアムで開かれたクリスチャンの大会にリベリア人でただひとり出席し,エホバ神への献身を象徴してバプテスマを受けました。彼の父の“教会”は彼の“教会”ともなったのです。

ネオンサインに出ていた本の題名は,フランク・ソンガーの興味をそそりました。彼はギニア出身のキシ族の人でした。そして,とうとう彼は宣教者に,『人を自由にするこの真理』とはなにかを尋ね,彼との聖書研究が始まりました。ソンガーは真理を知って非常に喜びました。やがて,彼の3人の妻のうちのひとりが死にました。しかし,残りのふたりのうちどちらを妻に選ぶべきでしょうか。ソンガーはふたりに,聖書からすればひとりの妻しか持てないことを説明しました。すると一方の女性は,クリスチャンになりたくない,いなかへ帰るほうがいいと即座に言いました。ところが他方のアルバータという女性は,ソンガーが行くところならどこへでも彼について行くと言いました。

その言葉はフランクを喜ばせました。それで,アルバータは,マノという別の部族の出身でしたが,彼の妻としてとどまりました。とはいえ,アルバータが真のクリスチャンになるだろうか,という問題は残っていました。アルバータは非常におびえているようでした。ワトキンズ兄弟がソンガーの家を訪問するといつでも,彼女は文字通り逃げたのです。その理由は,夫のソンガーが宣教者にわずかなお金を借りていたので,アルバータは,負債が返済されるまで彼女を抵当にほしいとワトキンズ兄弟から言われないかと思ったからです。

やがてアルバータは立派なエホバの証人になり,英語とキシ語をマスターしました。それは,真理が忠節な人にどんな力となるかを示すすばらしい例です。

ある日,イサクという名の,文字が読めない兄弟が宣教者の家に来ました。その兄弟がひとりの軍人に伝道したところ,彼は良く耳を傾けて聞き,だれか文字の読める人に来てもらいたいと言ったのです。ファウスト姉妹が在宅だったので,イサクは彼女を,リベリア国境部隊の音楽隊長であるA・G・L・ウイリアムズ少佐のところへ連れて行きました。同少佐は,インド亜大陸で生まれた,60代半ばの人で,職業軍人として長い経歴を持ち,カトリック教徒でもありました。ところが,実際のところ,彼は加護や成功の“まじない”に信仰を持っていました。

ファウスト姉妹は,その人が真理を探し求めていることにすぐに気付きました。幾度か定期的な訪問がなされてから,爆弾がさく裂しました。つまり,申命記 18章10-12節を根拠に,悪霊が力を及ぼしている“まじない”に頼っていることを暴露したのです。ウイリアムズ少佐は神のその宣言に心をひどくゆさぶられ,いろいろそろえてあった“まじない”全部をすぐに捨ててエホバに信仰を置きました。

ウイリアムズ少佐は軍隊をやめて肩書を「少佐」から「兄弟」に変え,熱心に王国の奉仕を始めました。そして高い地位にいる大勢の人に伝道しました。しばらくして,ウイリアムズ兄弟は体が弱くなり,家から出られなくなりましたが,人々は昼夜の別なくたえず彼のもとを訪れたので,兄弟は教えたり聖書研究を司会することに何時間も費やしたりしました。だれも訪問者がないと,門のところに行って良いたよりを伝えることができるよう通行人を呼び止めたものです。人々から深い尊敬を受け,やさしかったその老紳士は,キリスト・イエスの良い兵士として,1963年に亡くなるまでその手をゆるめませんでした。

そのグループに加わった5番目の宣教者は,1950年1月に到着したホイル・アーヴィンでした。スペンサー・トマスとリッチフィールド・レミというふたりの男性が一緒に彼と勉強しました。そのふたりは後になって神の民のためにたいへん尽力しました。アーヴィンは彼らの妻を研究に参加させようとしましたが,彼女たちは最初よそよそしい態度を取っていました。とうとう,レミ夫人がなぜ参加しないのかを知ろうとして,アーヴィンは何の悪気もなく「あなたは字が読めないのですか」と尋ねました。なんですって,とんでもありません。レミ夫人は自分に高い教育があることを示そうとして,聖書研究に加わり,真理も学びました。それからトマス夫人も参加するようになり,妻たちふたりは翌年バプテスマを受けました。ウィニフレッド・レミとオリーブ・トマスは熱心な開拓者として他の大勢の人が真理を学ぶのを助けました。

1950年,ふたりの宣教者,サイア兄弟とムロズ兄弟が,東アフリカに派遣される途中しばらく交わりました。5月にはモンロビアのジョンソン・ストリート17番にもっと大きな家が借りられました。そして,ファウスト夫妻は新しい任命地であるパルマス岬のハーパー市へ船で行きました。ワトキンズ兄弟姉妹が“自由の国”リベリアに着いてからその時までに約3年が経過していました。当時,28人の伝道者と8人の開拓者が中心となって良いたよりを定期的に宣明していました。ところで,当時始まったばかりの1950年代に,エホバへの奉仕は何を成し遂げるでしょうか。

50年後に再びハーパーへ

ハーパーで開かれていた「シオンのものみの塔」研究のクラスが,ふたりのギブソン兄弟の死で中断してから50年ほどたっていました。大西洋に突き出した,絵のように美しく,ヤシのはえたその岬で,ファウスト夫妻はすぐに答え応じる人々を見いだしました。わずか4か月後に,10人の伝道者が野外奉仕を報告していたのです。

それでもやはり,“予言者”たちからの反対がありました。それら狂信的な宗教家たちは1週間に数回白い衣を身にまとい,ちょうちんを持ち,歌ったり叫んだり太鼓をたたいたり,時々止まってはすり足で踊ったりしながら通りをねり歩きました。彼らは“いやし”の熱烈な信者でしたから,宣教者のひとりが病気になって病院に行かねばならなくなった時,宣教者の家を取り囲んで,「神のしもべが病気になって医者へ行くんだって。おまえたちは神のしもべなんかじゃない。この偽預言者め!」とあざけりました。それから数週間にわたり,偽りの宗教の信者たちは真夜中に宣教者の家に来て,物音をたてないで奇怪きわまりない身振りや動きをしました。それは,疑いもなく,魔法をかけて宣教者を追い出すためでした。

しかし,ファウスト兄弟姉妹は逃げ出したりしませんでした。しかも,ある日,その狂信者の一団の指導者がものみの塔の出版物を受け取ったのです。その指導者は,宣教者と話し合った後,教会の“聖なる場所”へ入る前にもはやくつをぬがなくても良いと自分の追随者たちに助言しました。その男の人は,聖書研究を通して自分の考えの多くが「悪霊の教」であること,真の神がエホバであって,そのお名前を無視すべきでないことを確信するようになりました。(テモテ第一 4:1,口語)それで彼は早速自分の教会の名前を「主の教会」から「エホバの幕屋」に変えました。そのグループの主立った“使徒”がモンロビアでそのことを知り,町におしかけて,本道からそれた弟子を教会の名前を変えたかどで訴えました。それに続く議論で会衆は分裂しました。ハーパーの指導者の方が勝ちましたが,さらに討議と研究を重ねた結果,彼は自分の教会が「エホバの幕屋」でないことを認識するようになり,その看板は取りはずされました。

次いである日,彼は驚く会衆に向かって偽りの宗教を公然と非難し,エホバの真の民を見いだしたと言明しました。それから証人に同行して戸別による伝道に参加し,自分が真理を見いだしたいきさつを多くの人に説明しました。彼は,以前の霊的な指導者によって再び法廷に呼び出されました。今度は,“予言者”たちの信仰を攻撃し,彼らの教会員を離れさせたかどで訴えられたのです。裁判官から宗教を変えた理由を尋ねられた被告は,「私は盲でしたが,今は見えるようになりました」と答えました。効果的な証言が全員に対してなされた後,その件は却下されました。ウィルモット・ブライト兄弟はそれ以来ハーパー市で王国伝道者として奉仕しました。

1951年にレミ夫妻はモンロビアからハーパー市に移り,新しい会衆を大いに援助しました。しばらくの間,ファウスト姉妹は29㌔離れたプリーボの私立病院に入院していました。入院中,彼女はウイリアム・デイビドという人と聖書を研究しました。間もなくその家族の他の人々も真理を学ぶようになりました。その中には文字の読めない3人の年配の女性がいました。ブロンディ,ターディ,カーディの3人はやがて姉妹となり,自分たちの言語であるグレボ語で熱心に真理を宣べ伝える姿はプリーボでおなじみになりました。

その時に勉強を始めたもうひとりの親族にフランク・ウイリアムズという人がいました。彼はリベリア生まれのリベリア人として初めてギレアデ学校に行った人です。彼の卒業式は1958年にニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた神の御心国際大会で行なわれました。ヤコブ・ワーも勉強を始めたもうひとりの親族で,小柄な人でしたが,知識と話す能力の面で非常に優れていました。

1952年にセオドー・Y・モーガンという名のリベリア人は黄金海岸(ガーナ)から家に戻ってパルマス岬の会衆と交わり,開拓奉仕をしました。モーガン兄弟は1895年にグレボ族の両親から生まれました。その時ちょうどグレボ族は岬の移住者と戦争することに決定したところだったので,その赤ん坊は「いざ戦争だ!」という意味のイエダトと名付けられました。ところが今や,イエダトの活力は霊的な戦いに費やされていたのです。

1952年8月までに,パルマス岬では20人の伝道者が4人の開拓者とともに奉仕していました。やがて大きな王国会館がハーパー市に建てられるようになり,プリーボに会衆が組織されました。岬の老人たちは昔をふりかえって次のように言えるでしょう。『ものみの塔はわたしが生まれた時からあり,わたしが死ぬ時でも存在するようだ』。

1952年11月はリベリアで王国の業が著しく発展した年でした。リベリアで初めての全国大会にふたつの小さな会衆が一同に集まり,パルマス岬からの出席者は遠路はるばる船でやって来ました。ブルックリン・ベテルのN・H・ノア兄弟とM・G・ヘンシェル兄弟の訪問が期待されていたので,その大会ではかつてないほどの熱意と喜びが示されました。

支部事務所の設立

モンロビア百年記念パビリオンに400名の人が来て,「神の道を考える時」と題するノア兄弟の公開講演を聞きました。リベリアの内陸部は文字通り全く手のつけられていない状態でしたから,王国伝道の業は始まったばかりであるというのが全体的な態度でした。将来の拡大をより良く監督するために支部事務所が設立され,リベリアの宣教者のひとりが支部の監督に任命されました。

モンロビアのジョンソン通り17番にあった宣教者の家はトタンぶきの小さな家でした。しかし,新しい建物の建設が1953年2月に始まり,それは10月に完成しました。王国会館は150人をゆったり収容することができ,宣教者の家には三つの寝室がありました。建物の近代的なデザインに多くの称賛の言葉が聞かれました。さらに大勢の人が集会に出席するようになったので,一般の人々は「エホバの証人はここに腰をすえるようだ」と感じました。

内陸に入る

1953年5月の末に,実の兄弟である(リベリア人の言葉を借りれば,「同じかあちゃんと同じとうちゃん」から生まれた)ジョン・チャルクとミカエル・チャルクがシエラレオネから来ました。このふたりの宣教者は30代の初めで,元々カナダ西部の出身でした。それまでにすでに4年間アフリカで奉仕し,そのうちの3年間はナイジェリアでそれぞれ地域監督また宣教者として働いていました。ふたりは西アフリカに特有の問題に関する実際的な経験と知識を豊富に持っていました。4人の宣教者が狭い所に押し込められていたので,ジョン・チャルクはカカタに新しい住まいを探しました。

ジョン・チャルクは,カカタに落ち着いた後,サララに住む年配のトマス・ホルマンを訪問し,それ以後毎月2,3日彼のところに泊まりました。2度目に訪問した時,その羊のような人はエホバの証人になる決意を表明し,結婚関係を正しました。そして,翌年の4月にバプテスマを受け,カカタ-サララ地区で最初の証人になりました。

1954年の初め,カカタの一軒の借家が宣教者の家となり,ミカエル・チャルクはそこで兄弟のジョンと住むようになりました。兄弟たちは羊のような人のところに行ったり,群れを作ったりするために膨大な距離を歩きました。ミカエル・チャルクは未開墾地を4時間も歩いて行ったナイエンで,本当に関心を持つ若者たちを見いだしました。しばらくの間,兄弟は週に2回彼らを訪問しました。そのためには,言うまでもなく徒歩で日帰りができるように朝非常に早く家を出なければなりませんでした。その若者たち,ウイリアム・ボニー,ウイリアム・モリスおよびジェイムズ・マリーは自分たちを助けるための努力を心から感謝し,その結果,王国の宣明者になりました。

9月の未までに,その離れた区域で7人の王国伝道者が奉仕を報告しており,1955年2月に会衆が設立されました。カカタの人々は良いたよりにどのように応じていたでしょうか。次の経験に注意してください。関心を持つあるグループとの聖書研究が終わった後,宣教者は,道のもっと先に行ったところの人々がエホバの証人を探しているが,そこへはいつごろ行くのかと聞かれました。次の週に,宣教者はその人たちを探すことにしました。一軒の家で彼は招じ入れられましたが,ていねいながらも次のようにとがめられました。「わたしたちはあなたがいつ来てわたしたちと勉強してくださるのかと思っていました。どうしてあなたはわたしたちをこんなに長く待たせたのですか」。文書が配布され,その時その場ですぐ聖書研究が行なわれました。さらに,ひとりの婦人は,「とうとうわたしたちのところへ来てくださったんですね」と言ってその兄弟を迎えました。そして王国の音信に感謝して,昼食をごちそうしてくれました。次の家では,たいへんうれしかったことに,そこの婦人が,「わたしはあなたのことを良く知っていますよ。あなたの仕事の性質を知っているのです。わたしたちはあなたをお待ちしていました」と言いました。その家族はみな集まって,聖書に関する討議を聞きました。実際,彼らは,自分たちもエホバのみ言葉を教えてもらいたいので定期的に訪問してほしいと言いました。

真理はハーベルを力強くゆり動かす

1953年5月,開拓者になっていたキシ族出身のフランク・ソンガー兄弟は,大規模なファイアーストーン農園の近くにあって,約3万人の従業員を雇っていたロバーツ・フィールドで一時的に鉛管工として働くためにモンロビアをたちました。次の日曜日,エホバの霊は,従業員の社宅のひとつで証言するようソンガー兄弟を動かしました。途中で彼は,自分と同じ部族の出身で,教会へ行こうとしていた男の人に会い,その人にエホバのお目的と新しい事物の体制について話しました。正にそのゴムの木の下でハーベル会衆は始まりました。その男の人,バヨ・ギボンドは真理を受け入れ,研究を申し込みました。最初の研究の後,彼は教会へ行くのをやめ,2度目の研究をして,3人の妻のうちのふたりを去らせ,残した妻との結婚関係を合法的なものにしました。その後,熱心かつ真剣に神のみ言葉を宣べ伝え始めました。

フランク・ソンガー兄弟は,王国の音信に対して驚くべき関心が持たれていることを知りました。彼は毎日,仕事がひけてから社宅へ行って証言したり聖書研究を司会したりしました。王国の音信を愛する人々は,ソンガー兄弟があちこちへ良いたよりを宣明しに行く時に自分も一緒について行きたいという気持ちになりました。やがて10人もの人々が彼に同行するようになっていました。その小さな一団が突然出現したので,多くの人々は心を動かされて聞きに来ました。そして,彼らは王国の音信をこよなく愛し,音信について大いに語りました。また,かつて頼っていた魔よけや護符や“まじない”を積み上げて燃やしました。

一夫多妻,淫行,姦淫が神に是認されておらず,エホバのハルマゲドンの戦いでぬぐい去られることを理解すると,多くの人は聖書の高い基準に従いました。(啓示 16:14-16)部族の法は一夫多妻を許し,淫行を黙認していたにもかかわらず,真理は,清い水のように,それら羊のような人々をそうした汚れから清め,彼らを勇気と喜びで満たしました。その人たちは一週間に1,2度真理を聞くだけでは満足せず,毎日教えてもらうことを望み,しかも,今度は自分たちが学んだことについて他の人々に話しました。

フランク・ソンガー兄弟がその地域を去った時,バヨ・ギボンドが関心を持つ人々の世話をしました。その聖書研究者たちは,自分たちで神の組織の方法を学び,それを実行に移しました。竹のベンチが作られ,ゴムの木の下で集会が開かれました。フランク・ソンガーがそこで奉仕を始めた日から6か月たつかたたないうちに,18名の人は野外奉仕に携わる資格を得ていましたし,集会には60名の人が出席していました。集会は秩序正しく,平和と喜びの精神に特色づけられていました。その精神はさらに他の人たちを引き付けました。人々は,異なる部族出身の人々を一致させるキリスト教のすばらしい力に深い感銘を受けました。

内陸部の町では大抵そうであるように,ハーベルでも文盲と不道徳は克服されねばならないふたつの大きな問題でした。やがて,文盲の人たちでさえ,聖書に関する首尾一貫した証言ができるようになりました。その人たちは最初聖句を暗記し,英語の聖書の言葉を指し示しながら暗唱しました。リベリアの文盲の女性たちがそのようにしている光景は家の人々を驚かせました。物神崇拝とキリスト教世界の偽りの教えはくぎで打ち付けられました。その代わりに,真の神エホバのお名前と誉れが高められたのです。ファイアーストーン農園へは全国から労働者が集まっており,その人たちや彼らの親せきは故郷の町と絶えず行き来をしていましたから,エホバの証人とファイアーストーンにおける証人たちの活動はリベリア全土で話題となっていました。

1954年6月,31名の伝道者からなるハーベル会衆が組織され,6か月以内にその会衆はリベリア最大の会衆になりました。ほとんどの伝道者が毎日証言した結果,会衆が組織された最初の年に,伝道者はひとり平均39.9時間を野外奉仕に費やしました。

新世社会大会

1953年にニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた新世社会大会に,リベリアから5名の人が出席しました。そのうちのひとり,バーニス・クレメントは,生来のアフリカ人で初めてニューヨークの大会に出席した人です。子供が生まれたばかりでしたが,彼女はその子供を連れて出席することにより問題を克服しました。この大会でクレメント姉妹は奮い立たされ,開拓者になろうと決意しました。2年後,その願いは実現しました。とはいえ,彼女は,7人の子供と経済的に頼ることのできない夫をどのように処理したでしょうか。パンやケーキを焼いて売って家族を養ったのです。夜にねり粉を作り,朝4時に起きてパンやケーキを焼いたり朝食を作ったりしました。午後1時までに全部の仕事を終え,良いたよりを広めることに携わる用意を整えていました。

モンロビアの各新聞はニューヨーク大会に関する長文の記事を掲げました。関心を持つ人々は,大会報告書に載ったリベリアからの出席者の写真を見て深い感銘を受けました。献堂式を終えたばかりの王国会館で11月に開かれたリベリアでの大会で,出席者は講演の録音を通してニューヨークにおける大きな大会の精神の幾らかを吸収しました。公開講演の出席者は115人でした。その大会と完成した王国会館により,リベリアのエホバの組織は改めて注目されるようになりました。

シノエは良いたよりを聞く

ニューヨークで開かれた1953年の大会から帰るとすぐ,フランクとタレサ・ファウストはシノエ郡のグリーンビルで宣教奉仕をする新たな任命を受けました。ファウスト兄弟姉妹はグリーンビルが実りの多い畑であることを知りました。しかしながら,関心を持つ人々の多くは長時間働いていましたし,夜外出することを好みませんでした。その上,ほとんどの人は文字がわずかしか読めないか,あるいは全く読めませんでした。彼らをもっと速く霊的に築き上げるためにどんなことができるでしょうか。

その人たちと朝早く勉強するのはどうでしょう。関心を持つ人たちはその考えが気に入りました。それで毎朝6時きっかりに平均15名の人が宣教者の家に来て,出勤前に聖書を学びました。それは,関心を持つ人々を強め,また,読む能力を改善するのに役立ちました。

1954年6月,リベリアの4番目の会衆が,グリーンビルの12人の伝道者をもって設立されました。リベリアにおける関心が高まっていたことは,1954年の主の記念式の出席者数から明らかです。というのは,1953年の出席者数はわずか118名だったのに対して,1954年には240名が出席したからです。

ついでながら,グリーンビルの宣教者の家は,石を支柱にしてトタン板を側面につけた小さな家でした。時々宣教者たちは家の壁を何かが通る音を聞きました。しばらく後に,彼らは,それが一つ屋根の下で自分たちと平和共存の方針を取っていた一匹の大きな蛇であることを知りました。

「躍進する新世社会」

リベリアの人々がエホバの組織を認識する上で本当に助けとなったものは,「躍進する新世社会」と題するものみの塔協会の映画でした。エホバの証人の世界本部や他の場所での活動を映し出すその映画は,1954年から上映されるようになりました。

グリーンビルで400名の人々は木曜日の夜にその映画を見に来ました。「あまりにも良いので,一度上映するだけでは残念だ」と言った人は少なくありませんでした。土曜日の晩に巡回監督が個人で勉強していた時,戸をたたく音がしました。「来て映画を上映してください。みんなが向こうで待っています。用意万端整えました。どうか来てください」。巡回監督が行ってみると,500名を越す人々が会場をうずめていました。人々は,最初の時よりもその時のほうが映画の価値をもっと良く理解しました。「[画面に写った]これらの人々は遊んでいません。働いているのです」,ということが何度も繰り返して言われました。人々から非常に尊敬されていたある男の人とその家族は映画の内容を真剣に考えて,集会に出席するようになりました。それから間もなく父親は王国の音信を宣べ伝え始めました。

別の共同社会でのこと,ある宗教グループの指導者は,かつて信者たちにエホバの証人の文書を焼くように命じたことがありました。「躍進する新世社会」の映画を見た後,その人は,「わたしは新世社会がこういうものだとは知らなかった」と言いました。その後,彼は真理に関心を示し始めたのです。関心を持っていたもうひとりの人は非常に深い感銘を受け,「私は今年中にバプテスマを受けてエホバの証人にならなければなりません」と言明しました。

ハーベルでは2,000人を超す大勢の人が大きな2方向のスクリーンでその映画を見ました。多くの人は,新世社会が行なっていた業に対する驚きを表明しました。その後数か月のうちに,ハーベルの会衆は急速に増加しました。優れた映画がそれに貢献していたことは間違いありません。

首都のモンロビアでは映画の初めての上映に500名の人が来ました。その後の伝道者の話によれば,家庭聖書研究をしていた人々は目に見えて強い関心を示すようになったということです。映画は数多くの共同社会で上映され,1年間にほぼ6,000人がその映画を見ました。

初めての巡回大会

カカタとハーベルに幾つかの会衆があったので,1954年4月にカカタで巡回大会を開くよう取り決めることができました。その巡回区全体で67人の伝道者がいましたが,興味深いことに,その40%に当たる26名の人がその大会でバプテスマを受けました。公開講演の出席者数は170人でした。また,その時初めて,ほとんどの伝道者たちは同じ巡回区の他の伝道者たちと顔を合わせました。その巡回大会はリベリアで最初の巡回大会であり,本当に意義のある有益な大会でした。

リベリアの他方の端,つまりパルマス岬とその周辺の王国宣明者はどうしていたでしょうか。そこの36人の伝道者は,パルマス岬から約72㌔離れたウエボでちょうど翌月の5月に開かれた,その地方で初めての大会に招待されました。ウエボへ行く途中,キャヴァラ川をカヌーでさかのぼらなければなりませんでした。しかも,それは予想よりずっと危険なことが分かりました。しかし,出席できた兄弟たちは,公開講演に65名の人が集まったので大いに喜びました。ウエボには,エホバの証人はおろか関心を持つ人さえいなかったので,それは注目に価することでした。

「勝利の王国」大会

1955年の顕著な出来事は,協会のブルックリン事務所のM・G・ヘンシェル兄弟と北ローデシア(現在のザンビア)支部のハリー・アーノット兄弟を迎えてモンロビアで開かれた「勝利の王国」大会でした。その時も,百年記念パビリオンが契約されました。「神の王国による世界の征服は近い」と題する感動的な公開講演に551人が出席したことは全く申し分のないことでした。バプテスマを受けた人は19名でした。

それは,ヘンシェル兄弟がノア兄弟と共にリベリアを訪れ,同国に支部事務所が設立された1952年からわずか3年しかたっていない時のことです。1952年当時,伝道者の数は11人の開拓者を含めて53人でした。それから3年の間に彼らの奉仕はどんな結果を生みましたか。18人の開拓者を含む,162名の人が宣べ伝える業を行なっているのを見るのは大きな喜びでした。1952年にはふたつの会衆しかありませんでしたが,今や会衆は五つになっていました。確かに,エホバの祝福は証人の業の上に注がれていました。

次いで,宣教者を派遣したり,リベリアの兄弟たちを資格ができ次第特別開拓者として用いることにより,未割当ての区域に真理を伝える計画が立てられました。協会の出版物をバサ語に翻訳する仕事も始められました。

グバンガへ進む

ワトキンズ兄弟姉妹は1956年の初めに新しい割当てを受け,モンロビアから約201㌔離れた,郡の中心地であるグバンガへ行きました。グバンガの住民はクペリ語を話しましたが,相当数の人は英語も知っていました。1956年4月までに,ふたりの新しい伝道者はグバンガですでに野外奉仕を報告していました。

1955年に政府は,内陸部の粗末な道路を改善して立派な高速道路にし始めました。その高速道路はグバンガを通り,やがてはリベリアの他の端のパルマス岬まで開通することになっていました。道路工事が始まった時,プリーボ出身のウイリアム・デイビド兄弟は工事を請け負った建設会社に雇われました。勤務時間が終わると,その兄弟は時間をうまく活用して,仕事仲間とか高速道路沿いの町や村の住民に伝道しました。

やがて,ふたりの同僚がデイビド兄弟に加わるようになりました。もっとも,そのうちのひとりはそれまでがんこな反対者でした。道路が内陸部へ伸びるにつれ,大勢の人に初めて王国の音信が伝えられて行きました。事実,道路工事に携わっていた兄弟たちは,関心を持つ多くの人がとこしえの命に至る道を進むように助けたのです。―マタイ 7:13,14

高速道路がグバンガまで走るようになった時,ワトキンズ兄弟は毎月と言っていいぐらい,途中関心を持つ人々を訪問しながらモンロビアに行きました。したがって,リベリアの幹線高速道路沿いに,つまり,道路工事がしばらく中断されたモンロビアからほぼ644㌔先のプトゥに至るまで,エホバ神のお名前と目的は多くの人に良く知られるようになりました。

ワトキンズ兄弟姉妹は,グバンガで聞く耳を持つ人を大勢見いだしました。ところで,ワトキンズ兄弟は辺ぴな地域を一層網羅するために,オートバイを手に入れました。間もなく彼は周辺の全部の町や村で良く見受けられるようになりました。強い関心が示された土地のひとつはセイングベイタウンでした。ひとりの“司祭”はその町の謙そんな人々の霊的な助言者でしたが,そのころ,有り金全部を持って姿をくらましたばかりでした。「私たちは神をあまりにも愛していますから,教えに来てください」。(リベリア人は“とても”という意味でそういう言い方をする。)人々はそう言いながら宣教者を温かく迎えました。住民はだれも文字が読めなかったので,毎週様々な主題で話が行なわれ,その後復習がなされました。やがて,そのうちの相当数が真理を受け入れて良いたよりを宣べ伝え始めました。

ある日,ワトキンズ兄弟は,死者に対する希望を説明した小冊子をひとりの若者に紹介しました。その若者は小冊子を喜んで求め,ワトキンズ兄弟に,座って自分と一緒に小冊子の半分だけでも読んでほしいとせがみました。その人と聖書研究が始まりました。真理に対する強い渇きがいやされ始めた時,その若者は有頂天になって喜びました。彼は,キリストの目に見えない臨在に関する情報に非常に感動したので,そのことを扱っている聖書の章全体を暗記しました。

真理が圧倒的な説得力を持っていたので,その若者は,一生懸命聖書を研究して王国を宣べ伝える業に専念しようと決心しました。ところが,若者が高い地位を得て成功し,家族に恩恵を施してもらうつもりで学資を出していた父親はそのことを喜びませんでした。ですから,経済的な援助を一切絶つことによって伝道の業に対する息子の熱意をくじこうとしました。父親のその処置は,息子をしてエホバに仕える決意を一層固めさせたにすぎませんでした。

その後,若者は重い病気になり,熱のために体が衰弱しました。父親は易者に病気の原因をつきとめてもらおうとしましたが,若者はそれを断わりました。先祖の力が働いたり,魔法がかけられたりして病気になったのではないことを知っていたからです。父親は息子を見捨てました。しかし,若者はやっとのことで遠い町の病院にたどり着きました。数日後,父親は,今ごろ息子は死んでいるに違いないと考えて,死体を引き取るための指示を送りました。ところが,彼は息子が悪鬼信仰に頼らずに回復したことを知ったのです。それで,息子が仕えている神に力があることを認めました。それ以来,その老人は,血に関する神の律法を守るようになりました。その若者はジョセフ・ラブラーと言う人で,1957年4月にバプテスマを受けました。翌年彼は開拓奉仕をするようになりました。

ある日,グバンガの外の小さな町で,ワトキンズ兄弟は,以前小冊子を配布したことのある若い男の人を再び訪問しました。ワトキンズ兄弟のオートバイの音が聞こえるや否や,その人の妻はカサヴァの茂みに逃げ込みました。「わたしたちをいけにえとして捕まえるためでなければ,こんな所へ見知らぬ人が来るはずはない」,と考えたのです。次の時に,その宣教者は歩いて来て,不意にその妻を訪問しました。そして,親しみ深くあいさつをしたので彼女は逃げませんでした。

ワトキンズ兄弟は通訳を使って,自分が愛している人々に良い農地をたくさん与えた“大しゅう長”の話をしました。人々はその“しゅう長”と彼のおきてに敬意を払っている限り農地を持っていることができました。人々はそうすることにひどく失敗し,“しゅう長”を冒とくしたり,土地で問題ばかり起こしていました。さて,情け深い“しゅう長”は,間もなく,問題を起こす人々を追い払って,感謝する人々に自分の所有物を与えようとしておられます。

そうした例えによって,そのいなかの女性は初めて創造者の目的を理解するようになりました。彼女は創造者のお名前がエホバであることも知りました。その偉大な天の“しゅう長”を喜ばせた人々に差し伸べられたすばらしい将来の希望は,彼女の心をあたため始めました。

間もなくその夫婦は聖書を学び,クリスチャンの集会に出席していました。妻は真理によってますます幸福になりました。しかし,それは長く続きませんでした。夫が富を追い求めてどこか他の土地へ越すことに決めたからです。夫は別の女性に関心を持つようになり,妻を虐待し,妻がエホバの証人とかかわりを持つことを一切禁じました。しかし,彼女はそれを拒み,両親と村の長老たちの前でこう述べました。「エホバが私に教えてくださったことを,あなたがたのだれも私の生がい中に教えてはくださいませんでした。ですから,私はやめることができません。私は今新しい希望を持っているのです」。

その女性の両親は若い男の人に花嫁金を返し,男の人の方は,「この女性はだれとでも自由に結婚できます。私の名前は二度とこの女性に付けられません」という離縁状を書きました。

離縁された妻は早速,エホバの民と再び交わりました。そして,ある日,かつて自分が避けていた年配の宣教者に同行して伝道の業に参加したのです。その日は彼女にとって忘れられない日となりました。間もなく,その女性はバプテスマを受け,後にある兄弟と結婚し,やがてその兄弟とともに特別開拓奉仕をしました。彼女はそれまで子供をもうけることはできませんでした。しかし,今や,クリスチャン婦人となったギバンク・ウオアは,霊的な“子供たち”をうむことから大きな満足を味わっていました。

ワトキンズ兄弟姉妹は,グバンガでの割当てから深い喜びを得ました。1957年4月までに,グバンガで17人の王国伝道者が野外奉仕に参加していました。翌年の初めに,リベリアで8番目の会衆が組織されました。

ボミ丘陵へ宣教者が入る

1955年12月末,ふたりの宣教者がガンビアから突然到着しました。そのふたりとは,レネ・レル兄弟とマタイ・ピエナー兄弟で共に南アフリカの出身でした。うれしいことに,ふたりに,人口が多いボミ丘陵の鉄鉱業地帯で業を開始してもらうことができました。

レネ・レルはリベリアの人々とすぐに親しくなりました。彼は,しばしば,関心を持つ人と台所で一緒に座り,リベリア風の“厚切り肉”の料理の作り方や食べ方を教えてもらいました。リベリア人が物事を行なう方法や理由を直接学んだのです。そして,彼らの特性に順応し,多くの部族民の信頼を勝ち得ました。リベリアの人にどこの生まれか,と聞かれると,レル兄弟は,アフリカで生まれた,と答えたものです。それを聞いた人たちは,大抵踊り上がって喜びました。あの人は自分たちと同じアフリカ人なのです。

数年後,レル兄弟は内陸部の巡回監督に任命されました。大会がやって来た時,レル兄弟や他の兄弟たちは森の中へ,簡易食堂用の獲物を取りに行きました。サル,ヤマアラシ,シカ,アライグマなど,ともかく捕えることができたものは何でも,おいしいシチューになりました。

1956年10月,ボミ丘陵の最初の王国伝道者たちが野外奉仕を報告し始めました。翌年の3月までに,そこには会衆ができていました。やがて,ふたりの熱心な姉妹,エステル・ブルエルとジャミマ・フラワーズがその小さな会衆で開拓奉仕をするようになりました。ブルエル姉妹は1970年に亡くなりましたが,フラワーズ姉妹はボミ丘陵で特別開拓者として奉仕し続けました。

グリーンビルでの地域大会

1956年の12月まで,全国大会はいつも首都のモンロビアで開かれていました。首都以外の場所で初めて全国大会を開く取決めが設けられ,モンロビアから海岸を南下し大西洋に面した,シノエ郡のグリーンビルで催されることになりました。モンロビアとグリーンビルを結ぶ道路がなかったので,料金の高い飛行機で行くか,便があまり定期的でない小さな船で行くかしなければなりませんでした。

モンロビアから数十人の出席者を乗せた船は,“ジュニア”という名前の,第二次大戦で使われた平底の上陸用舟艇でした。およそ三日間の船旅そのものも,決して忘れられない経験でした。伝道者の多くはそれまで一度も船に乗ったことがなく,船旅に付きものの事柄に全く用意がありませんでした。船の喫水は非常に深く,船はたいへん揺れるように思われました。船内には臭い油のカンがたくさんあり,おまけに雨が降ってきたので全員が狭苦しい場所に避難しなければなりませんでした。ほとんどの人が船酔いにかかりました。(幸いにも,大会後は比較的快適な大きな船が出席者たちをモンロビアに運んでくれました。)

わたしたちは大会が始まる約2時間前に会場に着きました。全員が寝不足で,よごれていて,病気で,空腹でした。しかし,第一日目のプログラムの終了までに,どの人も再び元気になっていました。そのように交通の便が悪かったので,優れた大会に出席できたのは,リベリアの246人の王国宣明者のうち80人ほどにすぎませんでした。しかし,グリーンビルの人々は良く答え応じ,公開講演には190名が出席しました。

公開講演の出席者の中に,監督教会派の学校の責任者であった牧師がいました。その学校の教師,トマス・J・ウィリアムズも講演に来ているのを見て,牧師は次の日に早速彼を解雇しました。いずれにしても,関心を持ったその教師は真理に入り,2年後にバプテスマを受けました。

おーい,コラフン行きだ!

1956年6月,バヨ・ギボンドはリベリア人で初めて特別開拓者に任命されました。最初,彼は引き続きハーベルで業を推し進めていました。しかし,1957年2月に,彼と妻のティティは新しい任命地のコラフンへ向けて出発しました。コラフンはモンロビアからほぼ483㌔離れていて,シエラレオネとギニアの国境が集まっているリベリアのすみっこにありました。やはりハーベル会衆から来た,特別開拓者に任命されたばかりのボーボー・タンバ・セイセイ兄弟がふたりに加わりました。

コラフンはギバンディ人の町では一番大きな町でした。しかし,そこにはキシ族の人も多数いて,聖書の真理に対する関心を示したのはほとんどそのキシ族の人たちでした。その年の末までに,キシ族の人であり,任命を受けたばかりのもうひとりの特別開拓者,ファラ・ニールは,キシ族の村にますます注意を向けていた他の兄弟たちに加わりました。1957年12月に小さな会衆がコラフンに設立されました。しかし,ターマというキシ族の村で非常に強い関心が示されていたので,ひとりの開拓者はそこで奉仕する割当を受けました。

その地域の村人の多くは,村で「豹」という言葉を使ってはならないとか,水を絶対に頭に載せて運ばねばならないとかいった迷信的なおきてや禁忌を固く守っていました。しかしながら,真理を学び始める村人が増えるにつれ,彼らはもはや軽信的な人々のおきてに従うことを望みませんでした。

こんな例があります。ターマで,農地からしっくいを運ぶ人は,それを頭の上に乗せて運んではならず,地面をころがして運ばねばなりませんでした。そのおきてを犯すと,町の女の人はみな子供を産めなくなる,と村人は信じていました。婦人たちの秘密結社のしげみの近くで採ったまきで米を炊くと,おなかがふくれて死ぬ人がいる,と言われていました。

ところが,あるクリスチャンはしっくいを頭に乗せて村に運び,その翌日に女の人が子供を産んで,おきては台なしにされます。兄弟たちは禁じられた場所の近くでまきにする木を切り,それで米を炊きますが,だれも死にません。もうひとつのおきてがもろくもくずれます。

そうしたことがあった後,近所の人たちは,火を起こす炭をもらいによく特別開拓者の家に来ました。特別開拓者はひとりのおばあさんに,「女の人たちの会のしげみから採ったまきでできたこの炭を使うのは怖くありませんか」,と尋ねました。おばあさんはこう答えました。「気にしないでください。……わたしたちは,古いものをみんな捨てたのです」。

しゅう長の中にはあらゆる機会を使って神のしもべを悩ました人たちもいましたが,人々はエホバの組織に群れをなして入って来ました。その結果,1958年8月にターマで会衆が設立されました。

それら新しい兄弟たちは,原則に付き従うなら物質的な利点を失うことになる場合,しばしば真理に対する愛を試みられました。巡回監督がリリオニ村を訪問した時,村人たちはひそひそ話をしていました。だれかが死んだのですか。そうではありません。村人たちにとっては,それよりも悪いことが起きたのです。一夫多妻主義で三人の妻を持っていた男の人がふたりの妻を全く自由な身にして家から出したばかりだったのです。しかもその人は,妻を手に入れるために花嫁金として支払った300㌦(約9万円)を請求しようとはしませんでした。それは全く前例のないことです。そのようなことをしたのはデイビド・サーという人で,彼はエホバの証人になっていたのでした。

デイビド・サーはクリスチャンの集会に定期的に出席し,また,自分の家族もなおざりにしませんでした。というのは,子供たちも,母親に背負われた一番年下の赤ん坊に至るまでサー兄弟について行ったからです。それ以前に彼はしゅう長の立場を退いていました。サー兄弟によれば次のとおりです。「私はイエス・キリストによる神の王国に仕えたいと思っています。そして,人はふたつのものに仕えられない,ということを知っています。しゅう長であれば,神の王国に調和しないことをしなければならないこともあるでしょう。そのために神の好意を失う結果になりかねません。たとえ,一介の労働者にならなければならないとしても,神の是認を得るほうが私には良いのです」。

村人が死んだ先祖に懇願したり先祖をたたえたりして,山の前で犠牲をささげた時,その兄弟はたったひとりそれに参加しませんでした。それから,農作業をする時期が来ました。人々は皆,いつものまじないのつぼを稲田に置きました。それによって田は確実に保護されて豊かな収穫があると考えられていたのです。サー兄弟はまたもやそうすることを拒みました。どの人も兄弟を気違いだと言いました。だれが彼を保護しますか。米はとれないでしょう。ところが,サー兄弟はこう答えたのです。「もしもエホバが豊作をもって私を祝福したいと思われるなら,そうしてくださるでしょう。しかし,たとえそうでなくても,私は,見知らぬ神に犠牲をささげたり,頼ったりすることは絶対にできません」。

何か月かたち,稲田は収穫を待つばかりになりました。その地域で一番豊作だったのは一体だれの田でしたか。なんと,わたしたちの兄弟,デイビド・サーのだったのです。エホバこそたたえられますように。村人たちはびっくりしてしまいました。他の共同社会からも人々が自分の目で確かめにやって来ました。そしてこう言いました。「確かに,エホバはあなたを祝福することができますね。犠牲もささげず,たんぼにまじないのつぼも置かないで,災いにかからなかったって言うんでしょう。ところが,お宅の米は全くすごいものだ。わたしたちはありとあらゆることをやりましたが,お宅と比べて御利益があったわけではありませんね」。

人々の態度は変わり,もはや敵対的ではなくなりました。なんと,サー兄弟のかつて反対していた弟が隣り村のエホバの証人を探して,エホバについて教えてほしいと頼みました。村人たちもみな,神のみ言葉の教えに深い敬意を持っていました。

キシ地方における発展

1958年7月は,バヨ・ギボンドとファラ・ニールにとって楽しい月でした。ふたりは,ニューヨーク市での神の御心国際大会に出席するため,特別開拓奉仕の任命地を少しの間離れたのです。その後,彼らはギレアデ学校の第32回のクラスに入りました。

1959年にギレアデから帰るとすぐ,ギボンドとニールは,ふたりを必要としていたキシ地方に割り当てられました。ニール兄弟はリンババという新しい地方に派遣されました。1960年の半ばに,そこにも会衆が設立されました。

1960年10月,キシ-ギバンディ地域の三つの会衆のための巡回大会が開かれました。伝道活動が始められてから3年あまりしかたっていませんでしたが,55人の伝道者と10人の開拓者がいました。もっとも,公開講演に291人が出席したのですから,関心を持つ人が大勢いたことが分かります。その大会で22名の人がバプテスマを受けました。

そのころ,ターマの兄弟たちは自分たちの王国会館を建てる計画をしていました。部族の主立った人々は建設をやめさせようとしたり,妨害しようとしたりしましたが,失敗しました。一年の間ひとりの兄弟は木を切って製材し,その間残りの人たちはその兄弟の代わりに稲の植え付けや世話をして米を収穫しました。作られた板材は遠方の自動車道路まで運ばれて売られました。兄弟たちは売上金でセメントとトタン板を買い,それを頭に乗せて何時間もかかる建築現場まで運びました。開拓者たちが基礎を作り,次いで,約50人からなるグループが総出で熱心に建て始めました。建物はわずか4日間ほどで完成しました。見ていた人たちは驚いて,「エホバの証人の言葉は強力だ」と叫びました。

文盲との闘い

キシ族とギバンディ族の人々の間で文盲は一大問題でした。それにもかかわらず,いたる所で良いたよりに対する強い関心が見られました。一度など,50人の村人がいるひとつの村から,だれか来て教えてほしいとの依頼を受けました。しかし,資格があって派遣できる人はだれもいなかったのです。文字の読める数少ない兄弟たちはすでに手がふさがっていました。キシ族とギバンディ族の兄弟たちが自分の言語の読み方を学ぶのはきわめて当を得たことでした。ヨハネの福音書のギバンディ語版はありましたが,少なくともリベリアでは,キシ語の聖書は部分訳すらありませんでした。その後,聖書の多くの部分がギニアで用いられているキシ語で出版されていたことが分かりました。そのキシ語はリベリアで使われているものとは幾分異なっていました。

当時巡回監督をしていたレネ・レル兄弟の助けを借りながら,兄弟たちはキシ語とギバンディ語の独自の入門書を考案しました。キシ語の入門書はさし絵の付いた立派なもので,モンロビアにある情報文化局がエホバの証人のために印刷してくれました。ギバンディ語の入門書はものみの塔協会の支部事務所が謄写印刷したものでした。それらの入門書を受け取ってから,兄弟たちは文字を読む勉強を熱心に始めました。1962年8月までに,キシ族とギバンディ族の兄弟たち47人が自分の言語を読めるようになっていたのです。キシ族の兄弟たちは,野外奉仕で用いるために,「御国のこの良いたより」と題する小冊子のキシ語版とチラシが発行されるのを楽しみにしていました。それらの出版物の原稿は,印刷のために協会のブルックリン本部へ送られていました。

カカタで国旗に関する問題が起きる

カカタに会衆が設立されてから約2年たった1957年に,忠誠を真に試みる問題が起きました。一公立学校で,ある朝校長先生が,「この学校に,エホバの証人になっていて国旗敬礼をしない生徒は何人いるんだ」と尋ねました。8人の生徒が前に進み出ました。校長と先生たちは非常に怒り,行政官を説得して少年たちを陸軍に渡してもらおうとしました。陸軍が,少年たちを裸にして25回ムチで打ち,国旗に敬礼させるためです。行政官は次のように述べてそうすることを拒みました。「あなたがたが,少年たちの動機はよこしまで政府に敵対的なものであると証明できないなら,わたしにそうする権威を与える法律はこの国にはありません。しかし,それが純粋に宗教的なものであれば,憲法はすべての人の信仰の自由を認めています」。

すると学校の当局者たちはすぐに兄弟たちを放校しました。親せき,友人,そして実質上共同社会全体は兄弟たちに反対して,こう言いました。「自ら教育を受けられないようにするなんて,おまえたちはばかだ。おまえたちはどんなことになるだろう。就職はできず,この国で無価値な者になってしまう」。放校された兄弟たちの多くはその境遇を利用して開拓奉仕をしました。後に,そのうちの3人,すなわち,ジョン・ロバーツ,サムエル・ブラウン,チャールズ・デイビドは特別開拓者になりました。

「生命を与える英知」地域大会

1957年の全国大会は12月18日から22日にかけてパルマス岬のハーパーで開かれました。それはパルマス岬で開かれた初めての全国大会で,リベリアの291人の兄弟のうち約90人が出席できました。前の年にグリーンビルで開かれた大会の時と同様,モンロビアからの出席者を船で運ばなければなりませんでした。しかし,今回はドイツの大きな貨物船が丸一晩の速さで彼らを運びました。出席者たちは甲板で歌をうたったり,「ものみの塔」誌の研究をしたりしてちょうど良い時に大会都市に着きました。

ヤシの並木のある岬の海岸を見渡せる,真新しい管理局の建物はエホバ神の「命を与える英知」を聞くのにうってつけの場所でした。8名の人はバプテスマを受け,公開講演に166人が出席しました。講演の後に上映された協会の最新の映画にはさらに大勢の人が来て,出席者は228人になりました。

ところで,出席者たちはどのようにしてモンロビアへ戻ることになっていましたか。万事は,ちょうど良い時に船が岸に現われるかどうか,また,その船が客を乗せてくれるかどうかにかかっていました。大会中,兄弟たちはそのことをエホバのみ手に全くゆだねて,心配しませんでした。それは確かに信仰の要ることでした。というのは,人が船を待ちながらパルマス岬で何週間も立ち往生することは珍しくなかったからです。

公開講演が始まる少し前に,岸に向かって来る一せきの船のかすかな輪郭が見えました。プログラムが終了するまでに船会社との話し合いがまとまりました。月曜日に出席者たちは,つり腰掛けとなわばしごでその海外航路の船に乗り,火曜日の午後遅く全員がモンロビアへ戻りました。それは奇跡に近いことだと考えられました。特に岬に住んでいた人々は,エホバがご自分の民のために確かに働かれたことに深い感銘を受けました。

「だれがあなたを葬るか」

教会で立派な葬式をしてもらうというだけの理由で,どこかの宗派の教会に属している人は少なくありませんでした。当然のことながら,寄付金が払えない人は,自分のために教会の鐘を鳴らしてもらえず,教会で葬式を挙げてもらえませんでした。病人をかかえた家族が,とどこおっていた教会への寄付金を支払うのに四苦八苦することは珍しくなかったのです。教会はそうした風習を利用し,「エホバの証人になったらだれにも葬ってもらえませんよ」と言って,教会員にわたしたちと交わることを思いとどまらせました。

長年の間,兄弟たちや交わっていた人々の中で亡くなった人がいませんでした。おまけに,証人が新しい事物の体制では決して死ぬことがないと伝道したので,人々は,「エホバの証人は死なないって本当ですか」と尋ねました。エホバの証人の組織は葬式をしてくれないと思って,人々は証人と交わるのをいやがりました。何人かの兄弟が亡くなった時,通常の葬式を行なうためにひつぎが王国会館に運ばれるのを見て,外部の多くの人々は驚いた様子でした。楽隊を雇って葬式の前に悲しげな音楽をかなでさせるという一般の風習に従わず,兄弟たち全員は整然とひつぎに従い,王国の歌をうたいながら墓地に通じる大通りを進んで行きました。それによって多くの人たちは,証人が仲間の信者を葬ること,しかも寄付金を要求せずにそうすることをはっきりと知りました。

エホバの証人が,あくる日の明け方まで賛美歌を歌ったり酒を飲んだりして通夜をしないことは,多くの人を動揺させました。通常,牧師が通夜を開始し,遺族は,たとえどんなに貧しくても,酒とさかなをふるまわねばなりません。酒がたくさん出されると,大勢の人が出席しますが,酒が少ないと,「なんて貧弱な通夜だ!」と大きな不平の声が出ます。そうした席で泥酔はごくあたりまえのことで,その結果,不道徳な行為がなされたり,激しい論争とかけんか,殺人さえ起きます。

エホバの証人が死ぬと遺族が真理にいない場合は大抵,通夜をしてほしくないという遺言があっても,通夜をすることでたいへんな論争があります。数年前にある熱心な兄弟の若い妻が死んだ時,その兄弟は,どうしても通夜をしようとする家族に激しく抵抗しました。その態度は家族に深い感銘を与えたので,兄弟自身が死んだ時,家族は自発的に通夜をしようとしませんでした。それは,同兄弟に対する真の敬意の立派なしるしとなる行為でした。

敬けんな結婚を支持する

業が拡大し始めるにつれて,結婚関係を扱った書類を発行してもらう必要のあることが分かりました。土地の慣習法のもとに結婚した夫婦において特に放縦な状態が見られました。親が娘に対する法外な花嫁金を要求することが多かったので,政府は,どんな場合にも花嫁金が40㌦(約1万2,000円)を超えてはならないという法律を作りました。また,その法律によれば,結婚登録の時に,土地のしかるべき当局者が結婚証明書を発行することになっていました。

しかし,事実上,多くの当局者は結婚の登録を実施したり結婚証明書を発行したりしませんでした。花嫁金をどうするかということは,夫,妻の両親,それに当事者双方の合意に任されていました。実際,“試験結婚”の形で生活している男女が少なくなかったのです。“試験結婚”の場合,花嫁金を全額払って女性を正式に自分の妻にするまでその女性と同棲させてもらうため,男性は女性の両親に5㌦(約1,500円)ぐらいの少額のお金を払っています。家族が花嫁金を全額支払ってもらうことを望まなかった場合もありました。その人たちは,急にお金が必要になった時にすぐ花嫁金を請求できると考えたのです。また,貧しい男性が何年もかかって少しずつ花嫁金を支払っているという場合もありました。

兄弟たちは,ただちに花嫁金を全額支払って,結婚証明書を手に入れるように勧められました。土地の当局者が結婚証明書を発行してくれなかった時は,兄弟とその妻が結婚宣誓書に必要事項を記入し,結婚証明書が発行されるまでそれが受理されました。何年か後に,内務局は,花嫁金が支払われたすべての結婚に対して速く証明書を発行するのが得策であると考えました。それは「正妻」証明書と呼ばれました。別の男性に自分の正妻が犯されたとか,奪われたとかという訴えがなされた場合,100ドル(約3万円)の罰金が科されました。ただし,告訴人は,問題の女性が自分の正妻であってめかけでないことを示す「正妻」証明書を提出しなければならなかったからです。

エホバの民は,結婚関係の書類の一番の利用者として広く名が知られるようになったので,モンロビアの内務局にはエホバの証人用の特別登録簿が用意されています。リベリア国内のどこかで,エホバの証人が結婚証明書を得られない場合,花嫁金の領収書を提示しさえすれば結婚証明書を発行してもらえます。

関心を持つ人で,良いたよりを宣べ伝えたいと望んでいる人が正式に結婚していない場合は少なくありません。したがって,結婚が数多く行なわれるようになりました。1957年に,エホバの証人の結婚に対する見解はハーベル中の話題になりました。というのは,ある日の午後,地域監督は7組の夫婦の結婚式を司会したからです。モンロビアの一新聞はそれを記事にしました。自分の目でそれを見るために大勢の人がやって来ました。事実,それらの結婚式に242人は出席したのです。

強くなって前進!

1958年1月にリベリア全国で初めて300人の伝道者が報告されました。バヨ・ギボンドがコラフンの,ある遠い町を訪問した後,そこの関心を持つ人々は,ほんとうのエホバの証人になるには良いたよりの宣明もしなければならないとの決意をし,自分たちででかけて行って,その一帯の人々に証言しました。その後,委員が数㌔離れた王国会館へ行き,人々に神の新秩序のことを伝えるのに186時間も費やした20名の人たちの名簿を手渡して兄弟たちを驚かせました。

神の御心大会

1958年の顕著な出来事は,リベリアの兄弟たちがニューヨーク市における神の御心国際大会に出席できたことでした。1953年には全部で5人の代表が同市での新世社会大会に出席しました。今回は何人が出席できますか。22人です。モンロビアの主要な新聞に代表団の写真が大きく掲げられました。後に,その大きな大会に関する九つの別個の記事がリベリアの新聞に掲載され,人々は,帰って来た代表者たちを路上で呼び止めて,すばらしい出来事について知ろうとしました。

1959年2月28日から3月3日にかけて開かれた,リベリアでの神の御心大会に対しても非常な熱意が示されました。2月の最後の週中,兄弟たちがグループになって続々とモンロビアに到着し始めました。内陸部からの出席者の中には,非常に大勢の親しみ深い兄弟姉妹に会ったことは言うに及ばず,初めて近代的な都市を見て畏怖の念を覚えた人もいました。13人の伝道者からなる一団はパルマス岬から約322㌔の道のりを九日かかって歩いて来ました。彼らは道中持っていた聖書文書を全部配布し,公開講演を15回行ないました。講演の出席者は全部で450人でした。

土曜日の午後に大会が始まるやいなや,国務省の役人が来て,国連の一機関が,大会の最終日である火曜日から大会会場の建物を使用する許可を大統領から得たと言いました。翌朝,タブマン大統領はその決定を認め,大会はフットボール競技場に移らなければなりませんでした。

アントワネット・タブマン球場を使用する手はずが全部整っていなかったので,日曜日の午前中のプログラムは極端に手狭な王国会館で開かれました。結局,球場は午後の半ばまでに空きました。大会の清掃部門がブラシとほうきをせっせと使って,観客席を手速くきれいにした後すぐ,喜びにあふれた大会出席者たちは新しい会場へさっと移りました。イス不足など問題にはならず,兄弟たちはコンクリートの階段にハンカチやマットやふろしきのような物を敷いて座りました。聴衆は5時間にわたるプログラム中ずっと,特に注意深く聴いていました。大会会場が得られたことに対する感謝がそのようにして自然に表われたように思われました。

その日,つまり月曜日の夜になった時,拡声装置と増幅器に接続していたものを除いて,球場のヒューズが全部切れてしまいました。その時講演をしていた支部の監督は,突然,球場内のまるで全部の,悪臭を放つ虫に取り巻かれたかのようになりました。会場内の唯一の光である,講演者のスタンドの上にある明かりに虫たちが寄ってきたのです。その講演中,強調の目的と,やっかいな虫を追い払う目的を兼ねた自然のジェスチャーがたっぷり使われました。次の話し手は,ブルックリン・ベテルから訪れていたノア兄弟でしたが,一部始終を見て,自分に虫よけの薬をたっぷりつけてから賢明にも,講演者のスタンドとマイクロホンを暗やみの中に移しました。そこでは原稿が読めるだけの明かりが得られました。そのようにして,ノア兄弟は虫の集中攻撃をうまくかわすことができたのです。その講演が終わるまでに明かりがついたので,聴衆はスタンドを出る時に足もとを見ることができました。

火曜日の夕方までに,大会は再び百年記念パビリオンに戻っていました。ノア兄弟はそこで518人の聴衆を前にして「神の王国による楽園の地」と題する話をしました。彼は,もっと多くの兄弟が文字を読めるようになる必要のあることを強調しました。「失楽園から復楽園まで」と題する新しい本は,多くの人にとって,単に全部のさし絵の意味を学ぶだけでなく,文章を残らず読む良い励みとなりました。

この大会で,最高記録の69人はバプテスマを受けました。さらに,この大会はリベリアの証人を大いに励ましたので,1959奉仕年度の終わりまでに415人の伝道者が奉仕を報告しました。それは連続第6番目の伝道者最高数であり,前年度の平均の42%増加に当たります。

文字を学ぶ

大会後,以前にも増して文字を読むことに強調が置かれました。会衆の中に読み書きのクラスが設けられ,政府の成人教育局から教科書が入手されました。年配の人の中には学ぶのが難しい人もいましたが,ほぼ申し分のない計算によれば,1962年に終了した5年の期間に合計109名の人が会衆の読み書きのクラスの授業を受けました。それが,王国を効果的に宣べ伝える能力の向上に著しく貢献したことは言うまでもありません。

兄弟たちが読むことに一層強い関心を持っていたことは,1959年に寄せられたある巡回監督の報告に示されています。彼は次のように書きました。「4か月前にここを訪問していた時,7歳ぐらいの幼いメアリーに会いました。メアリーは英語が分からなかったので,私はその時彼女に話しかけることができませんでした。ところが今ではメアリーは伝道者になっていて,聖書から立派に証言しますし,文書も配布します。しかし,メアリーは,とりわけ文字が読めます。彼女がビラを出して,表に記されている講演の主題だけでなく裏に書かれている聖書の話まで読んだ時には,うれしい驚きを感じました」。

3年間に伝道者数が2倍に増加

1961年8月までにリベリアの伝道者数はめざましくも620人に達しました。ちょうど3年前の1958年には301人が野外奉仕を報告していました。1958年の記念式の出席者は510人でしたが,2年後にそれは一挙に1,396人となり,1961年には1,710人という驚くほど大勢の人が出席しました。

1960年までにリベリアは三つの巡回区に分かれ,伝道者が長い旅行をしなくても出席できるように多くの場所で大会が開かれました。人々はそれらの大会で様々の部族が集まっているだけでなく,様々の人種が集まっていることに気づきました。ひとりの白人の巡回監督は次のように書きました。「ある晩,ペンテコステ派の男の人が私のところへ来てこう言いました。『ここで見ているようなことは,今まで見たためしがありません。白人が黒人の家に泊まって,黒人と交わったり食事をしたりしているのですからね。わたしたちのところにも宣教師がいます。宣教師たちはわたしたちに伝道しに来ますが,食事をしたり交わったり泊まったりするために家に来ることはありません。わたしたちはしばしばあなたがたを批判しようとしますが,ひとつだけ否定できないことがあります。それは,あなたがたが互いに愛し合っているということです。しかも,それは確かに真理の道です』」。

1958年から1961年にかけての3年間に伝道者の数は2倍に増加しました。会衆の数も増えて,9から18になりました。さらに,孤立した群れは20かそれ以上ありました。1962年の後半までにギレアデ学校の12人の卒業生がリベリアで奉仕していました。そのうちの4人はリベリア出身者でした。

反対の増加

特にコラフン周辺のキシ語を話す地域で,部族のしゅう長たちはエホバの証人の熱心な活動が自分たちの権威と力を脅かすと考えました。兄弟たちや関心を持つ人たちはもはや部族の「まじない」のおきてを守ったり,部族で先祖に犠牲をささげるためのお金を払ったりしませんでした。良心的な理由で服従しなかったために,兄弟たちは逮捕されたり不当な仕打ちを受けたりしました。また,首長とか地域の長官たちに訴えられたりもしました。彼らは訴えの一部をモンロビアの内務長官に伝えました。

率直に言って,緊張を高めた責任はある程度兄弟たちにもありました。兄弟たちは,時折,必要以上に土地の習慣を問題にしましたし,新しい人の中には,間違って,共同作業に出るのを拒否した人もいました。また,当局者に対する返事が必ずしもふさわしい敬意と柔和さを持ってなされなかった場合もありました。―テトス 3:1,2

リンババ地方で,兄弟たちは,自分たちの別個の社会を作るかのように,一か所に寄り集まって家を建て始めました。そうすることによって,兄弟たちはやっかいな村のおきてを免れたかもしれませんが,自治を求め始めるのではないかとみられかねませんでした。その結果,巡回監督のレネ・レル兄弟は,緊張を鎮め,証人の意図を正しく知ってもらうためにその地域の役人と長い話し合いをしなければなりませんでした。

「扇動的な教え」?

1963年の1月中旬ごろ,リベリア国内の愛国的な慣例に関する法律の修正案が国会を通過しました。その法律によって,国旗敬礼が毎日行なわれることになりました。また,国歌やそれに類する歌をうたうことが要求されました。そして,この法律に違犯すると,厳しく処罰されることになっていました。

同修正案の国会通過とほとんど同時に,政府の機関紙である「リベリア人の時代」は,1963年1月18日付で第一面に「政府は扇動的な教えの抑制措置を取る」という太い見出しを掲げました。その記事は,国旗に対して不忠節な態度を示したり,信者に国歌をうたうことを禁じたりして,国家に不忠節なことを教えているとして,エホバの証人を不当に非難しました。同紙はわけても次のように述べていました。

「法務長官によれば,最近,内陸部の一地区でその教えやそれら奇妙な教理の影響からある状況が発達していた。が,政府は問題が大きくなる前にそれをくい止めた。

「そうしたことが再び起こらないようにするため,その目的にそった措置が取られた。いずれかの個人もしくは団体が,『宗教的な,あるいは他の信条を装って』,市民または外国人に国旗や国歌に対して不敬な態度を取らせる宣伝をしたり,教えたり,影響を与えたりすること,さらには,ある個人もしくは団体に政府の権威や国の法律を軽視させようとすることを扇動罪とする法令は,大統領によって承認された」。

続いて,そうした事柄を教えている組織がやめない場合,その組織は禁止処分を受けるという,法務省の役人の言葉が引用されていました。

同じ1月18日に,同新聞の代表者はそれらの非難に対する証人の回答を求めて来ました。したがって,ジャマイカ出身でしたが,大いに尊敬され名前の知られていたG・ヘンリー・リケッツが手紙を提出しました。その回答は,国旗掲揚が(国旗そのものが神聖祝されているので)宗教的な行為であり,したがって崇拝の一形式をなす,というエホバの証人の見解を明確に説明していました。「カエサル」に属するものは「カエサル」に返すが,崇拝は神だけに帰すという証人の立場を擁護するために,アメリカ合衆国最高裁判所の意見を含め様々な出所からの引用が数多くなされました。―ルカ 20:25

その回答が「リベリア人の時代」紙に掲載された朝,支部の監督はギレアデ学校の第38期のクラスに出席するためにニューヨーク市に向けてたちました。彼の補佐のジョン・チャルク兄弟は支部事務所の責任をまかされました。その間,法務長官が兄弟たちの代表団と会うことを拒んだ後に大統領と会見する約束がなされました。

リケッツ兄弟の手紙が発表されてから四日後,法務省は,宗教的な信条を装って「扇動的な教えや影響」に関係した罪で同兄弟を逮捕すると発表しました。法務省はさらに,リケッツ兄弟が「エホバの証人はいかなる国の国旗に対しても敬礼を拒否する権利があることを主張しているにすぎない」と述べて国家の権威に挑戦したと主張しました。「リベリア人の時代」紙のその件に関する論説には,「危険な教理」という題が付されていました。

タブマン大統領および法務長官と会見する試みが何度かなされましたが成功しませんでした。その間にリベリア国内の空気が緊張していたことを述べておいたほうが良いでしょう。大統領暗殺の陰謀のうわさが流れていました。1月初めに,トーゴのシルワノス・オリンピオ大統領がリベリアに公式訪問をする直前に射殺されてリベリア国民は衝撃を受けました。オリンピオ大統領の写真がモンロビアの至る所に掲げられていましたし,また,実現されなかったその訪問のために数々の準備がなされていたのです。

その上,ある高位の軍人は投獄され,リベリアの国防長官は解任されました。この国で最も有名な学校であるリベリア大学とカティングトン大学に共産主義の種がまかれたと伝えられました。タブマン大統領はラジオ放送を通して,そうした教えが直ちに根絶されなければ,これら大学を完全に閉鎖させるつもりであると国民に発表しました。このように,政府を転覆するばく然とした計画があるとの疑惑が持たれていたため,エホバの証人および彼らが主張する「扇動的な教え」に対して寛容な精神は高められませんでした。

コラフンで火の手があがる

1963年2月半ばにコラフンで,タブマン大統領は行政官議会を招集しました。その席上,しゅう長たちはエホバの証人に対する不満を明らかにし,特別開拓者のバヨ・ギボンドが自分の政府を立てて支配しようとしていると非難することまでしました。第2日目遅く,大統領はエホバの証人全員を招集しました。40人ほどの兄弟たちがやって来ました。兄弟たちは,タブマン大統領がギボンド兄弟から取り上げた2軒の家の補償問題を話し合うものと考えていました。

その席でバヨ・ギボンドは,「おまえたちエホバの証人は自分たちの政府と法律を持っているというのは本当か」,と質問されました。それに対して彼はこう答えました。「いえ,そんなことはありません。エホバの証人は,キリストがご自分の追随者に祈り求めるよう教えられた神の王国を擁護していますが,それと同時に,この国の現政府を認めています。私たちはクリスチャンとして聖書の律法と原則に従い,それにのっとって生活します。しかしながら,政府の法律にも従い,かつ敬います」。

それにもかかわらず,証人たちは外に出て国旗を敬礼するように命令されました。それは緊張の一瞬でした。政府の役人,裁判所の職員,全国から集まった部族のしゅう長たち,僧職者,軍人,他の国の外交官など大勢の人が居並んでいました。それら著名な観衆の前で,兄弟たちの大部分は敬礼することを拒みました。そのため,ゴム製のこん棒を持った兵士が兄弟たちを攻撃しました。それから再び敬礼させられました。兵士たちがそばに立って兄弟たちの腕を持ち上げたのです。明らかに,それを自発的な敬礼と考えることはできません。

それから,数人のしゅう長たちが,「バヨこそ問題全体の原因だ」と主張しました。その結果,バヨ・ギボンド兄弟は,リベリアの“シベリア”と言われている,ベル・イエルという悪名高い刑務所に5年間送られることになりました。ところで,彼はあまりにもひどく打たれたので歩くことができませんでした。

後に,バヨ・ギボンドと他の兄弟たちは釈放されました。しかし,その前にもうひとつ国旗敬礼の式がありました。何が起きたかは後になるまで分かりませんでしたが,その時は,激しく打ちたたかれても兄弟たちは国旗を敬礼しなかったものと憶測されました。実際にどんなことが起きたかはあとで見ましょう。

チャルク兄弟は兄弟たちが釈放されたことを感謝する電報を大統領に送りました。兄弟たちが国旗に敬礼し,今後リベリアの法律に従うと約束したので釈放したとの返事が来ました。大統領は強制的に国旗敬礼をさせたことを言ったのでしょうか。それとも兄弟たちは実際に国旗を敬礼したのでしょうか。ギバンガで地域大会が開かれた時,事は一層明らかになりました。

逮捕と国外追放

コラフンで起きたことは他の兄弟たちの身にも起きました。南ビュカナンでリッチフィールド・レミ兄弟は郡の長官からある会議に呼ばれました。その席でレミ兄弟はすべての活動を中止するように通告されました。同兄弟と支部の監督の代理をしていた兄弟はそのことで法務長官のもとに行きましたが,彼は兄弟たちに会うことを拒絶し,その言い分を聞こうとさえしませんでした。それで,レミ兄弟は,大統領がメソジスト派の会合に出席することになっていた南ビュカナンへ戻り,国旗に対する証人の見解についてやっと大統領と話し合うことができました。しかし,それは,シエラレオネ人であるレミ兄弟の逮捕および国外追放命令という結果に終わりました。

レミ兄弟は兵士に打ちたたかれ,三日あまりの間食物を与えられませんでした。モンロビアに送られた時には,床一面が人間の排せつ物でおおわれた土牢に投げ込まれました。シエラレオネ大使館に訴えがなされ,またレミ兄弟が同国首相のいとこであることが分かってから特に,仲裁がなされました。1週間非人間的な扱いを受けた後,レミ兄弟は病院へ連れて行かれて,国外追放は延期されました。

ギバンガ大会

1月の末ごろにリケッツ兄弟が逮捕された後,1963年3月8-10日にギバンガで予定されているエホバの証人の宗教的な会合に差し障りがあるかどうか,法務省に問い合わせが出されました。法務省によれば,差し障りがないということだったので,集まりを開く計画は進められました。ギバンガはリベリアの内陸部の中央に位置していました。

大会が開かれる週の初めに,M・G・ヘンシェル兄弟が到着しました。ヘンシェル兄弟とチャルク兄弟は,エホバの証人の立場を説明するためにタブマン大統領との会見を取りつけようと,アメリカ大使館で多くの時間を費やしました。ついに,3月11日,月曜日の午前10時に会見が予定されたという知らせを受け取りました。ふたりの兄弟たちはギバンガへ行き,地方長官サムエル・B・クーパーの家に泊めてもらって丁重な世話を受けました。同長官は親しみ深く親切で,コラフンの出来事から影響を受けていないようでした。

大会の準備のため,兄弟たちは一生懸命働いて,プログレッシブ・ストリートの端にある広い区域を整地しました。大会のプログラムは英語,クペリ語,キシ語,バサ語で行なわれることになっていたので,幾つかの仮小屋が建てられました。土曜日の夜に,ヘンシェル兄弟は,「上にある権威」への服従に関する時宜にかなった講演をしました。(ローマ 13:1)リケッツ兄弟は土曜日に釈放され,翌日の朝到着しました。兄弟たちは大喜びしました。彼らは,それが,証人たち全員を一か所に集めて,国旗に敬礼するかどうか試す計画の一環だとはつゆ知りませんでした。

日曜日までに,ギバンガの多くの関心を持つ人々を含め400人ほどの人が出席しました。その日の朝に討議された日々の聖句はヤコブ 5章10節で,そこにはこう書かれています。「兄弟たち,苦しみを忍び,しんぼう強くあることにおいて,エホバの名によって語った預言者たちを模範としなさい」。その聖句はなんと適切なものとなったのでしょう。

集まっていたクリスチャンが,「信仰とよき良心を保つ」と題する講演を聞いていた午前10時30分ごろ,その地方の軍隊駐とん地のワーナー中尉が,クーパー地方長官の手紙を持って大会会場に来ました。その手紙には一部次のように書かれていました。「貴会員の忠節に関する一般の人々の印象を拭い去るため,この手紙を受け取った後直ちに,会合に集まっている信徒全員を地域練兵場まで行進させて,リベリア共和国の国旗に敬礼するよう命ずる」。

M・G・ヘンシェルと他のふたりの兄弟たちは地方長官に会うために大会会場から出かけました。アメリカ大使館を通して約束された,月曜日の朝の大統領との会見がすむまでは,いかなる処置も見合わせてほしいと要請しました。長官はそうすることを拒否し,大会出席者をひとり残らず練兵場へ連行するよう兵士たちに命令しました。兄弟たちは会場に取って返して,直ちに,スペンサー・トマスとフランク・ウィリアムズをモンロビアへ派遣しました。英国とアメリカの大使館に両国の国民が関係している事件を知らせるためです。兵士たちがエホバの証人全員を探すために防塞を作ったにもかかわらず,そのふたりはモンロビアにたどり着きました。

捕らわれの身となる!

兵士たちはトラックに乗ってやって来て,男も女も子供も残らず逮捕し,平穏な大会を解散させました。したがって,400名の人が町の中央を通って練兵場まで行進させられたのです。兄弟たちの一団は歩きながら王国の賛美の歌をうたいました。人々が至る所から来ました。外国人は写真を撮り,アフリカ人は驚いてながめ,兵士たちは,「だまれ,歌うのをやめろ!」と叫びました。

軍の練兵場に着くと,全員は旗ざおの周りに,外国人の証人を前列にして円形に並ばせられました。例の中尉が,どのようにするか2度やって見せました。だれも敬礼しませんでした。するとすぐ長官は「監禁しろ,全員だ」と命じました。兵士は,万年筆,眼鏡,書類かばんなど,兄弟たちの持ち物を公式に取り上げました。しかし後に,金銭,時計,宝石を略奪しました。入る限り大勢の証人が窓のない四つの部屋に押し込められました。そのうちのある部屋は実際には便所にも使われました。残りの人たちは,営倉の外の小さな囲いに詰め込まれました。兄弟たちは,その日曜日の午後6時ごろまで王国の歌をうたいながら,そこに居ました。

その時までに,兵士たちが3台のトラックに乗って,近くの兵営から来ました。それから,兄弟たちは,銃をかまえた兵士たちに両側を防御されながら,練兵場へ連れ戻されました。再び国旗の前に立たされましたが,ごく少数の人が妥協したにすぎませんでした。あとの人たちは,けられたり,ぶたれたり,ライフルで打ちたたかれたりしながら,高速道路の向こう側の原っぱに追い立てられました。その中には,子供を連れた女の人たちも含まれていました。子供たちの悲鳴は相当遠方まで聞こえたに違いありません。

その一団は,クツ,上着,シャツ,頭のおおいを皆ぬがされ,一晩中正座させられました。眠ったり,少しでも頭を横にしたりすることは許されませんでした。水を飲むことは幼児や赤ん坊にだけ許されましたが,中には近くの病院へ連れて行かれた赤ん坊もいました。何も敷いていない地面やあらい小石の上に座っていることは苦しいことでしたが,だれかが頭を垂れると,兵士はすぐにその人をたたいて目を覚まさせました。その長い夜の間中,兵士たちは休まずこのように罵倒し続けました。「おまえたちのエホバ様は今どこにいるんだ」。「ゴッド(神)の『G』も,ガバマント(政府)の『G』も『G』には変わりはない。我々の神は銃をくれた。おまえたちの神は何をくれたのか」。

月曜の朝の妥協者たち

夜明けになって,空気は緊張していました。日が暮れるまでに手で敬礼すれば,みんな楽になる,と兵士たちはしきりに言いました。2,3人の子供を除いて,証人たちはだれも日曜日の朝から食物を与えられておらず,飲む物も与えられていませんでした。連隊長は,けさは少しひどいぞ,と告げ,ムチを曲げながら,「けさは必ず敬礼させてみせる」と言いました。

国旗掲揚台へ向かう途中,クツ,ソックス,コートをぬぐように命令されました。ある兵士たちは証人たちの腕から時計をもぎ取りました。式が始まった時,敬礼する決心をした者は別になって,掲揚台に近いほうへ集まるように命ぜられました。驚いたことに,コラフン地区から来ていた60人かそれよりも多くの人は敬礼しました。その中には,ギレアデの卒業生であるバヨ・ギボンドもいたのです。彼の行為が他の多くの人に影響を与えたことに疑問の余地はありません。

コラフンから来た人たちはなぜ敬礼したのでしょうか。地方長官は,コラフンの兄弟たちを選び出し,おまえたちはコラフンで敬礼したではないか,と言いました。そして,今敬礼しなければ,全員をベル・イエルへ送るというのです。後に,ワトキンズ姉妹がギボンドに,コラフンで敬礼したかどうか尋ねた時,彼は「はい,でなかったら,わたしは殺されていたでしょう」と答えました。明らかに,兵士たちはギボンドが妥協するまで打ちたたき続けたのですが,ギボンドはそのことを言わなかったのです。ですから,今やついに,起きた事実が明らかになりました。

ギバンガで敬礼しなかった証人たちは,原っぱまで動物のように追い立てられました。ライフル銃で,特に頭をなぐられた人は少なくありませんでした。南ビュカナン出身のロダ・ブラウン姉妹はその時妊娠8か月でしたが,2度打ち倒されて地面にころがされました。モンロビアから来ていた,アイダ・ズィズィというもうひとりの姉妹は,赤ん坊を背中に負ったまま打ち倒され,意識不明になりました。その赤ん坊は死んだと思われましたが,後に病院で息を吹き返しました。7歳の幼い子供たちまでが武器を持った兵士たちに打たれました。

証人たちは,座ると,太陽を見つめるように言われました。兵士たちは,証人たちの眼がギラギラ光る太陽を確かに見ているかどうか確かめました。約30分ほどそうした非人道的なことを行なわせられた後,練兵場内の木陰を作っている木の下に身を寄せることが許されました。次いで,兵士たちは,ヘンシェル兄弟を含む数人の証人に,高速道路から400㍍はずれた所にある,寄生虫がうようよいる小川から水を汲ませました。宣教者のミュリエル・クリンク姉妹は,無理やり,川に入って水を頭に乗せて運ばせられました。すると,ひとりの兵士は姉妹の腹部をけりました。姉妹は強姦される危険にもさらされました。水が証人たちの所に運ばれた時,兵士たちはバケツをひっくり返し,長グツでコップを踏み砕いて,「敬礼しなけりゃ,水はやらない」,と言いました。しかし,結局,兵士たちは川の水を幾らか飲ませてくれました。証人たちは24時間あまりの後初めて水を飲むことができたのです。

当局は一度も食物を与えてくれませんでした。丸1日以上,何も食べずに過ごした後,数人の証人は大会会場へ行って,そこにある米でご飯を炊くことが許されました。皆のところへ運ばれたご飯は,ひとりにつきスプーン4杯ぐらいしかありませんでした。

最初の24時間中,手洗いに行けたのは数人の女の人たちだけでした。月曜日の遅くになってやっと男の人も,たびたび許されたわけではありませんが,手洗いに行くことができるようになりました。

午後6時の国旗敬礼式の時,ワーナー中尉は,敬礼を説得する将校たちの話を通訳する証人を求めました。2,3人の証人はたいへんそれをしたい様子でした。ところが,通訳をした人は,兵士たちが理解できない言葉で忠実を保つよう兄弟たちを励ますためにその機会を使わなかったのです。むしろ,「敬礼しても神の律法を犯すことにはならない。みんな敬礼しようとしているのだから,おまえも敬礼すべきだ」,という兵士の言葉をそのまま伝えました。それを聞いて,通訳をした人たちのほかに100名ほどの人が妥協し,忠誠を保ちませんでした。国旗の前に立っている間に,明らかに恐れの気持ちから,数名の人は意識不明になって倒れ,後に妥協しました。

それから,妥協した人たちは練兵場の草の生えた所に置かれ,妥協しなかった人たちは石がゴロゴロ敷いてある砂利道に置かれました。こうして,二日目の夜も,そこで正座させられることになっていたのです。しばらくの間,新しい手口の残酷な仕打ちが加えられました。全員が両手を頭の上にずっと挙げているように命令されたのです。そうしないとライフル銃でなぐられました。将校たちは,クリスチャンでない親族が忠実な人々に話すように仕向けました。そうした親族は,「子供たちのことを考えたらどうだ」とか「どうしてこんなことをしてくれるんだ」とか言って訴えました。ある人たちはそうした圧力に屈し,忠誠を曲げたのです。

今や,忠実な人たちのグループは,妥協した者たちのそれより小さくなっていました。その晩,確固とした立場を取っていた人々は,奇妙とも言える方法で小康状態を得ました。というのは,兵士たちの注意が妥協者たちの宿営の方に何度もそらされたからです。そこは混乱していました。エホバの霊が妥協者から確かに離れ去ったことは明らかでした。

「おまえたちはなぜ今まで我々をここに居させるんだ。なぜ最初の日に敬礼しなかったんだ。もはや,おれの神がおまえたちの神だ」と言って,圧力に屈した者たちをののしる兵士の声が聞こえました。妥協した者たちをあざけっていたひとりの兵士は,「自分の兄弟をどうしてやっつけなかったんだ」と言い,別の兵士はこう言いました。「さて,兵隊に二種類あるばかりか,クリスチャンにも二種類ある,つまり勇敢なやつと憶病なやつがいることが分かったぞ。おまえたちは米のために大会に来たにすぎないんだ。敬礼をしたおまえたちさえいなかったら,おまえたち全員はとっくの昔に無罪放免になっていただろうよ」。妥協者のグループも一晩中起こされていました。

3月12日,火曜日

午前中に兵士たちの交替がありました。新しい兵士たちは以前の者にまして残虐を好む者のように見えました。さらに数名の証人が妥協し,残りの人たちは原っぱに連れ戻され,またもや銃の台じりや短いムチでたたかれました。M・G・ヘンシェル兄弟は銃の台じりで打たれ,もう少しで失神するところでした。

ぎらぎら燃える太陽は,何もかぶっていない証人たちの頭に照りつけていました。ひとりの宣教者は日射病にかかりました。もうひとりの宣教者,ルネ・レルはあとで,「250度のオーブンの中に頭を突っ込んでいるようだった」と言っていました。

3月12日,火曜日の朝,外国人は強硬に釈放を要求しました。中尉はそれについて問い合わせに行き,すぐに戻ってきて,午前11時ごろ30人近い外国人が釈放されました。その人たちは全員,あの非道な仕打ちを受けながら忠実を守り抜いたのです。そこを去る前に,ヘンシェル兄弟は残されていたリベリア人の証人に向かって5分間の話をしました。彼らは共に祈りをささげ,新たな力を感じました。

大会会場は全く惨たんたる状態で,スーツケースというスーツケースはみな銃剣で切り開かれて,貴重品は盗まれていました。設備や,電気その他の備品はめちゃめちゃに壊されていました。釈放された証人たちは,飲物や食物,お金その他を持ってリベリア人のクリスチャンがまだ捕らわれていた場所に戻りました。しかし,地方長官はすぐにそれを中止させ,のちほど,事態は非常に難しいものになることをリベリア人の兄弟たちに告げました。また,兵士たちは,証人たちの髪を十字型にそりました。それは囚人であることのしるしでした。その“散髪”は割ったガラスのビンで行なわれたのです。その晩の国旗礼でさらに12人ばかりが妥協しました。

ジョセフ・ラブラー兄弟が後日語ったところによれば,兵士たちは,髪をそりながら,「こいつらは正真正銘のエホバの証人だ」と言いました。兵士たちは知らずにそのようにして証人たちを激励していました。

火曜日の夜には最もひどい仕打ちを受けました。髪がそられた意図は,証人たちに彼らが囚人であってベル・イエルへ送られる可能性のあることを気づかせるためでした。男の人はシャツを脱がせられ,女の人は,寒さをしのぐために身にはおる物や頭にかぶる物を着けることが許されませんでした。モーゼス・アンダーソンという全時間奉仕者は,ショートパンツだけで,片足で立たされて気を失いました。意識を失った人はほかにも数人いました。

証人たちは互いに優しい気遣いを示し合いました。機会さえあれば励ましの言葉を掛け合い,聖句を引用したり,神への忠実を保つ力を与えられるように祈りました。アンダーソン兄弟が気を失って倒れた時,そのグループの他の証人たちは,自分の身の危険をもかえりみずに彼を助けるためにとんで行きました。脈が感じられなかったので,アンダーソン兄弟は死んだのではないかと心配されました。証人たちは兄弟に服を着せて,兵士たちに救護所へ運んでもらいました。

日曜日の朝から食物らしいものを口にせず,水もろくに飲めず,土曜日の夜から一睡もせず,かんかん照りの太陽と,湿気の多い寒さにさらされていたことを考えれば,証人たちは全体としてすばらしい信仰と勇気を示したと言えます。祈りと相互の励ましと聖書の言葉を熟考することとが助けとなって,確固とした立場を保つことができたのです。

水曜日の朝 ― 試練が終わる

再び国旗の前に立たされた兄弟たちは,ゆるぎない立場を取ることを決意していました。ロダ・ブラウン姉妹は,妊娠8か月で,足をひどく打たれ,銃でたたき倒されたにもかかわらず,「私たちはここまで来ました。彼らにやりたいだけのことをやらせておきましょう。私は絶対に敬礼しません」と言いました。ただひとり,ナイジェリア出身のアポロス・エネだけが国旗に敬礼しました。彼の念願はリベリアを通ってアメリカへ行くことでした。

その国旗礼のすぐあと,クーパー長官は証人たちに釈放することを告げました。妥協したエネはそれを聞いた途端地面に倒れて激しく泣きました。モンロビアへ帰った彼は病気になり,1963年4月24日に死にました。

忠実を保った人々は,起訴され,財産は押収され,10年の投獄刑に処せられるであろうと言われました。男子全員はギバンガを離れる前に頭をまる坊主にそらなければなりませんでした。外国人の兄弟たちのほかに,およそ100名のリベリア人の証人は忠誠を保ってギバンガの迫害を切り抜けました。その人たちは,文字の読めない人や高い教育を受けた人などあらゆる階層の人から成っていました。ただし,彼らは忠実に集会に出席していた人たちでした。

子供たちは迫害下にあって実に立派でした。王国会館で集会中静かに座ることを学んでいたので,地面に何時間もおとなしく座っていました。

その迫害で兄弟たちが物質的に被った損害は6,000㌦(約180万円)に上ると推定されました。しかし,リベリアの会衆にとってはそれよりも大きな損失がありました。7人の会衆の監督(主宰監督)と9人の特別開拓者が妥協したからです。そのために,12ばかりの孤立した群れだけでなく,幾つかの会衆が解体しました。妥協した他の多くの人は真理にきわめて新しく,関係している問題を深く認識していませんでした。

釈放された時,ひとりの忠実な兄弟はあまりの幸福に圧倒されそうでした。それはさらに迫害されずにすんだからではなく,忠実を保ったからでした。その兄弟は,「ハルマゲドンを通過した後はこんな気持ちなのだろう」と考えました。ですから,彼の胸は希望でふくらんでいました。

年配のホルマン兄弟も忠実な人のひとりでした。厳しい試練を受けている間に,彼は気を失って近くの診療所に運ばれました。兄弟たちは,ホルマン兄弟は死んでいると思っていたので,彼がグループに戻って来た時にたいへん喜びました。ホルマン兄弟の髪も囚人のように十字に切られていました。彼は後日こう書いています。「私は生きてあれを切り抜けてほんとうに幸福でした。また,頭に囚人のしるしが付いていても恥ずかしくありませんでした。私は私と話す人たちにそのしるしを見せました。……70年の生がい中1度も囚人になったことがありませんが,もし今エホバのお名前のために囚人とされるなら,私は幸福です」。―マタイ 5:10-12

宣教者は国外に追放された

ギバンガ事件の後,兄弟たちは不安定な状態にありました。政府が彼らに敵してさらにどんな動きに出るかは,ただ想像できるにすぎませんでした。国旗に敬礼することを拒んだために,エドナ・ギァリ姉妹は会計局を解雇され,ドロシー・シーマンは教師の職を失い,ヤコブ・ワー兄弟はリベリア大学を追われました。また,子供たちは証人であるがゆえに各地で通学を妨げられました。

ついに,1963年4月18日,政府は27名の外国人の証人たちに国外へ出るよう命令しました。その中にはすべての宣教者が含まれており,彼らは法務省から次のような通知を受け取りました。「あなたは,言語道断かつ無礼にも,リベリア国旗に敬礼して然るべき敬意を示さず,この国の法律を故意に犯したゆえに,この通知の日付から2週間以内にリベリアを離れるよう命令する。それを行なわない場合は,国外追放手続が取られる」。

言うまでもないことですが,もしそれら外国人の証人がリベリアの国旗に敬礼していたら,彼らは本国からそちらの市民権を拒否したとみなされたことでしょう。

事のそうした変わり目に,多くのリベリア人の兄弟たちは,モンロビアや自分たちのことがよく知られていた他の共同社会を離れてシエラレオネなど別の土地へ行きました。王国会館では集会が開かれなくなり,もっと小さな集まりが各地で開かれました。ギレアデの卒業生であるリベリア人のフランク・ウィリアムズ兄弟は,宣教者が立ち退く前に幾らか訓練を受けていたので協会の支部事務所の仕事を遂行することができました。ギバンガのジョセフ・ラブラー兄弟は引き続き巡回の仕事に携わり,全国の兄弟たちを訪問して励ましました。

3月に野外奉仕を報告したのはわずか258人で,4月に報告したのは314人に過ぎませんでした。証人の数は半分に激減しました。200名ほどの人が妥協して信仰を捨てたのです。かなりの数の特別開拓者たち(その多くは妥協していた)は任命地へ戻らなかったので,証言するのをやめた孤立した伝道者が少なくありませんでした。そのことは,幾つかの小さな会衆にも起きました。ギバンガにいなかったある伝道者たちは,恐れのために証言活動をやめました。

外国人の兄弟がもはやいなくなった5月の間に恐れと不安はさらに明らかになりました。150人以上の人が活発に奉仕していたコラフン地区で,少なくとも半数が妥協しました。しかし,4月以降シエラレオネ支部はリベリアの一部を管轄することになり,コラフン地区で奉仕していた人々の報告はもはやモンロビアへ送られませんでした。(つい最近,その地区はリベリア支部の管轄を受けるようになりました。)

5月にわずか164人の王国伝道者しか奉仕の報告をしなかった理由はこうしたことに因ります。同じ月に,忠実な兄弟たちと妥協した者たちが全くひとつになって,食事を共にしたりなんでもいっしょに行なったりしている,という苦情の手紙がひとりの新しい兄弟から寄せられました。さらに,その兄弟は,従う人がだれもいないように思われると述べていました。6月に野外奉仕を報告したのはわずか100名でしたから,そうした所見には幾らかの真理があったに違いありません。

タブマンは回答する

宣教者がリベリアから出るように命令された時,ノア兄弟はタブマン大統領に手紙を書き,その処置に対する遺憾の意を表明するとともに,それを再考するよう強く勧めました。1963年4月17日付のその手紙は同年7月22日号(日本語では同年9月22日号)の「目ざめよ!」誌に掲載され,多くの注目を集めました。

1963年8月14日,タブマン大統領は,次の任期の継続を公式に認めた機会に演説を行ないました。同大統領はついにエホバの証人に言及する義務を感じて,アメリカ,英国,カナダの様々な人がリベリアの見解に抗議して寄せた手紙についてふれました。

演説の中で,タブマン大統領は次のようにも語りました。「エホバの証人は,この国でひとつの宗派として歓迎されます。しかし,目の前で行なわれる国旗掲揚式で国旗が上げられたり下げられたりする時に国旗に敬礼することをすべての人に求めている法律を守らなければなりません。もし,それができないなら,国旗掲揚式に近づかないでいただきたい」。エホバの証人は歓迎されているという言葉は兄弟たちを大いに励ましました。間もなく王国会館で再び集会が開かれるようになりました。

しかし,その演説が行なわれる以前から,兄弟たちは前よりもずっとおおっぴらに活動し始めていました。伝道者の活動は増加するようになり,8月に116名が,9月には153名が報告しました。

1963年8月8日号(日本語では同年10月22日号)の「目ざめよ!」誌にギバンガにおける残虐行為を一部始終伝える記事が掲載されました。おびただしい数の手紙がモンロビア,および各国のリベリア大使館にさっ倒し始めたので,関心は募る一方でした。リベリアはエホバの証人に対してなされた非人道的な行為を否定することができませんでした。

兄弟のひとりがギバンガで死んだといううわさが流れたので,大統領はその報告を直接調査すると述べました。それはギバンガの騒ぎの5か月後のことでした。

他の国々から寄せられた意見に加えて,リベリア人の実力者たちはエホバの証人に崇拝の自由を許すことに賛成の態度を示し,ある人々による暴力行為に嫌悪の念を持ちました。とうとう11月末にタブマン大統領は,ものみの塔協会の本部のM・G・ヘンシェルに電報を送り,国旗敬礼の問題とリベリアにおける証人の宣教者の活動について話し合うためにエホバの証人の代表者を12月4日にモンロビアで受け入れることに同意する旨を伝えました。

大統領との会見

代表団の中にはM・G・ヘンシェルの外に,クリンク兄弟,チャルク兄弟,およびナイジェリア支部のウッドワース・ミルズ兄弟がいました。ヘンシェル兄弟は,証人がリベリア人に聖書を教えることに関心を持っていることを説明しました。それは,彼らが単に「主よ,主よ」と言うだけでなく,神のご意志を実際に行なえるようになるためです。(マタイ 7:21)また,聖書教育は無神論的な共産主義に対する最大の防御となる点も指摘されました。次いで,ヘンシェル兄弟は,税金を支払うことや,ローマ 13章に述べられている「上にある権威」に服することに関する証人の見解を示した出版物を贈りました。

クリンク兄弟は,リベリアの人々が証人の福音宣明活動から得ている数々の実際的な益,多くの人が道徳的霊的に向上したこと,宣べ伝える業を通して人々が受けた貴重な訓練について話しました。チャルク兄弟は,政府の文盲をなくする運動に協力する読み書きの教育課程の成果を述べました。ミルズ兄弟は,証人はナイジェリアでクリスチャンとして良い評判を得ており,同国には3万7,000人の証人がいるが何も問題がないと語りました。タブマン氏は約30分間熱心に聴いていました。そして,証人たちの活動は「シオンのものみの塔」と同一のものかと尋ねました。それは証人たちが以前に用いていた名前であることを知ると,同氏は,彼がほんの少年だった1890年代に,故郷のパルマス岬で「シオンのものみの塔」誌を用いた聖書研究会が活動していたと語りました。ふたりのギブソン兄弟や,当時そのグループと交わっていたセトンという人の名前も挙げられました。

タブマン氏は次に,国旗敬礼法が最初監督教会派のJ・W・ピアソンという牧師によって提案された次第を話し,最初の違反者として逮捕されたのはその牧師の80歳になる父親だったと,愉快そうに語りました。また,8月14日の演説にもう一度ふれ,崇拝および良心の自由に対する強い信念を持っていることを再び断言しました。しばらく前のこと,大統領が郡部を訪問中にひとりのエホバの証人が彼と話し合ったことを楽しそうに語り,こう言いました。「その証人はわたしに伝道しました。わたしは彼の言うことに耳を傾けました。エホバの証人,彼らはたいへん良く聖書を知っています。彼はわたしを改宗させようとしましたが,わたしは彼に,『これから宗教を変えるには年を取りすぎている』と言いましたよ」。

その後大統領は,コラフンで起きたことを次のように説明しました。地方長官は大統領に,その地域のエホバの証人のある人たちがしゅう長の権威に服したり,それを認めたりするのを拒んだと報告した。それらの証人たちは村の共同社会から分離し,不法に所有していた土地に不当にも家を建てた。土地のしゅう長がその違法行為の責任を問うために彼らを呼んだところ,彼らは,エホバの証人なのでしゅう長の権威に服さないと言って出頭することを拒否した。そのため,長官は,兵士とともに加わって不法に建てられた家を取り壊す許可を大統領に求める手紙を書いていた。その事件を直接調査するためめにコラフンに到着したタブマン氏は,人々が権威を無視していたことを知りました。大統領によれば,彼らは国旗敬礼を拒否したからではなく,土地を不法に取ったため,また,しゅう長を侮って政府の代表者の権威を認めることを拒否したために処罰を受けた。

ギバンガ事件について,タブマン氏はそれを「憎むべき行為」であるとし,関係者たちはしかるべく処罰されると述べました。「このようなことが起きたことをたいへん遺憾に思う」と彼は言明しました。また,ヘンシェル兄弟がそこに居合わせて苦しみを受けたことを知って驚き,再び,「それは申し分けなかった」と言いました。

タブマン氏はさらに言葉を続け,リベリアから離れるよう要請された宣教者たちにぜひ戻ってもらいたいと言いました。国旗敬礼の問題については次のように語りました。『その法律は,儀式の際に国旗が上げられたり下げられたりする時すべての人は国旗に敬意を示すべきことを規定しています。「敬意」という言葉の意味は解釈によって左右されます。儀式の際,国旗が上げられている時や下げられている時に居合わせた場合,わたしは敬礼しません。気をつけの姿勢を取って脱帽します。わたしは法律の解釈者ではありませんが,民間人は軍隊式の敬礼をすることを求められてはいないと思います』。

それから大統領は代表団に,エホバの証人の業が共和国全土で妨げられずに続けられることを許可する大統領命令を必ず発行すると言いました。それは数日後に実施されました。その命令は「全国民に対して」一部次のように通告していました。「エホバの証人は,だれの妨害も受けることなく,その宣教の業と崇拝を続行するために国内のいかなる場所にも自由に出入りできる権利と特権を有する。彼らは個人および所有物双方に関する法律の保護を受ける。また,国旗が上げられる時もしくは下げられる時に気をつけの姿勢を取って国旗に対する敬意を示すことにより共和国の法律を守りつつ,その良心の声に従って自由に神を崇拝する権利を有する」。

新聞は問題のこうした解決を好意的に評しました。一般の人の多くは,最初に戻って来たふたりの宣教者に,エホバの証人が帰って来てうれしいと言いながら祝いの言葉を述べました。

再び築き上げる

学校当局は,大統領命令によってエホバの証人が国旗の前で気をつけの姿勢をして敬意を示す権利を持つようになったことを知りました。それはおおかたエホバの証人の子弟にも適用されました。しかし,中には,転校するように求められた生徒もいました。ずいぶん長い間放置されていたので,どちらかといえば注意は散り散りになった会衆を築き上げるという急務に向けられました。リベリア中に徹底的な証言がなされるようエホバが巧みに事を運ばれたことは明らかです。

言うまでもなく,兄弟たちは宣教者が戻ることにたいへん喜びました。ケニアへ再任命されたレネ・レルを除くすべての宣教者はその後数か月以内に帰りました。最初の宣教者たちが戻った1963年12月に216名の王国宣明者が野外奉仕を報告しましたが,1964年8月までにその数は,6名のリベリア人の特別開拓者と14名の正規開拓者を含む,307名になりました。

ギバンガのそう話的な出来事を経験した兄弟たちは,目がさめたような気持ちになり,忠誠の問題に関係した事柄を一層強く認識させられました。以前には,「兄弟,そんなことはここでは起こりませんよ。リベリアは別ですよ」と言う傾向がありました。多くの人はギバンガでの出来事に備えがしてありませんでした。本当の迫害が実際に起こることを想定していなかったからです。したがって,彼らは恐れに捕われて屈服しました。

妥協した者のうちかなり多くの人は敬神の悲しみを味わわせられました。その人たちは真に悔い改めていることの証拠を十分に示し,関係した問題に対するふさわしい認識も示しました。1964奉仕年度の末までに,リベリア支部が管轄していた地域にいた115名の妥協者中69名は復帰させられました。コラフン地区に住む,残りの妥協者は当時シエラレオネ支部の管轄下にありました。

「永遠の福音」大会

1964年4月に,モンロビアの近代的で新しい市公会堂で四日間の大会が開かれました。それは1963年の「永遠の福音」大会のプログラムにそって行なわれたものでした。エホバの民はエホバが与えてくださった勝利を祝うため,その美しい場所に集まりました。真の崇拝は,リベリアのクリスチャンの群れを滅ぼそうとするサタンの企てに対して確かに勝利を収めました。兄弟たちが,ギバンガでの厳しい試練以来初めて再会して喜んでいる光景があちこちに見られました。エホバに確信を持つことの喜びの精神がみなぎっていました。

ところで,一般の人々は招待に応じて,「世界の至上権をめぐる闘争でだれが勝つか」と題する公開講演を聞きに来るでしょうか。全国で王国伝道者として報告していた人々の数の2倍に当たる,520人が集まったので,皆はたいへん喜びました。

疑いもなく,僧職者たちは,エホバの組織が支持を受けていることのそうした証拠を見て「歯ぎしり」しました。後に確かな筋から分かったのですが,調査局の扇動に関するつづりには,3人の著名な牧師が署名した決議文が入っていました。偽りの非難に満ちたその決議文は,国旗に敬礼したり国歌をうたったりしないよう人々に教えて国家の権威を脅かすゆえにエホバの証人を禁止するよう政府に求めていました。さらに,その決議文は,証人の組織は実際には政治的なものであって宗教的なものでないと述べていました。その3人の牧師は今は死んで,存在していませんが,エホバの証人は生き続けています!

さらに強い霊性を持つよう進歩する

ギバンガの事件は,良いたよりを宣明していた多くの人々が,忠誠を守り,エホバに専心の献身をささげることに関係している事柄を十分に理解していなかったことを明らかにしました。(出エジプト 20:4-6。詩 3:8。ヨハネ第一 5:21)したがって,伝道者になる見込みのある人に伝道することを許可する前に,その人と忠誠や専心の献身の問題その他を話し合うことが決められました。ですから,バプテスマを受ける前に聖書研究が大いに求められました。いうまでもなく,そのためにエホバに献身する人の数は減りましたが,霊性はもっと高くなりました。

1964年から1969年にかけての5年間に,浸礼を受けたのは93人に過ぎませんでした。兄弟たち,特に開拓者たちは,可能な限り大勢の,読み書きのできる人と聖書研究をするよう励まされました。というのは,読み書きのできる人は他の人々を比較的良く教えられましたし,文盲の人よりも“耐久”力を示したからです。

モンロビアにおける拡大

今やナイジェリアから資格のある特別開拓者を受け入れる道が開かれました。最初に来たイソノデ・アクヒビは巡回監督としてしばらくの間リベリアで奉仕しました。もうひとりのエノク・エシオナイは1965年に到着し,初めパルマス岬で奉仕してから,しばらくの間巡回の業に携わりました。カナダからノーマン家族が来ました。続く3年間にさらに6人の宣教者が到着しました。

1968年にはさらに多くの宣教者が到着したので,急速に増加していた,モンロビアのシンコー地区にもう一軒の宣教者の家を借りることが必要になりました。1969年の初めに,シンコーのオールド街に立派な新しい建物を借りました。その建物に,宣教者の住まいと支部事務所を設けることができました。1970年にはローガン・タウン地区に3番目の宣教者の家が用意されました。ですから,1970年代の初めまでに,モンロビアの人口の多い三つの主要な地区(人口10万人ぐらい)にひとつずつ宣教者の家があって,奉仕活動がなされていました。

国旗敬礼の問題は相変わらず続く

何年にもわたって,学校における国旗敬礼は周期的に問題になりました。1965年に,モンロビアのあるメソジスト系の学校で3人の生徒,ベヴァリとケネス・ノーマン,リオナ・ウィリアムズは放校処分を受けました。13歳のリオナが父親にそのことを話すと,父親は彼女をたたいて,翌朝生徒全員の前で無理やり国旗に敬礼させようとして脅しました。説得したり,脅したり,さらにひどく打ちたたいても無駄でした。後に,リオナは別の学校へ行くことができました。

4人のエホバの証人の生徒が,がんじょうなとうのステッキでそれぞれ25回打たれ,もうひとりの生徒は国旗に対する誓約を復唱しなかったので放校された,ということもありました。しかし,国旗敬礼が大きな問題にされない時には,学校側は比較的寛容になることが分かりました。

1968年6月25日,「リベリア人の時代」紙が第一面に,「8人の生徒が国旗敬礼を拒否」という見出しの記事を掲げました。それらの生徒はエホバの証人と交わっていました。監督教会派の司祭でもある,サムエル・F・デニス教育次官はその生徒たちの国旗敬礼拒否を“非愛国的”であると非難しました。

支部の監督は,それ以来政府が証人の生徒にもっと道理にかなった態度を取るように希望して,数回にわたり同次官と話し合いました。生徒の崇拝の自由を否定すると,国旗に敬礼する生徒にさえ,国旗に対する敬意を教え込むのとは逆の影響のある点が指摘されました。リベリアの立場は啓もうされた政府の原則に反していることを示すために,ほかにも多くの論議がなされました。

教育次官はタブマン大統領とそのことを全部話し合わねばなりませんでした。次いで,話し合いの結果が支部事務所の代表者たちに知らされました。外国人移民の子孫の手から政権を奪おうとした著名人が関係した,長期にわたる謀反の企てのあった直後に,再び国旗問題が起きたことを述べておいたほうがよいでしょう。かつて,モンロビアの政府に対する部族の謀反行為にはリベリアの国旗に対するぼうとくが含まれていました。リベリア大学で,ある学生たちは政府と大統領をあからさまに批判しました。軽蔑を表現するひとつの方法として,非常に不敬な態度で国旗敬礼がなされました。

教育次官が明らかにしたところによれば,政府は,学校で国旗礼が行なわれている時にエホバの証人が気をつけの姿勢で立っている権利を認めるが,それは,政治グループが政府の寛容な態度につけ込む恐れがない場合に限る,ということでした。学校内で部族主義者の支配を支持する人々が,エホバの証人が国旗に敬礼しないことを理由に自分たちにもその権利があると主張して,国旗に敬礼しないことも考えられたのです。

この説明は政府の立場を理解するのに役立ちました。兄弟たちは,エホバの証人が政治的な意図を持っていないことを政府に納得してもらえたことを確信しました。しかし,事情によっては,国旗敬礼を避ける権利はエホバの証人の生徒に与えられない場合があることが明らかに感じられました。

後に,共和国の国旗に敬礼することを拒む生徒は放校され,「そうした不忠節な行為」を許可した校長や教師も解雇されるという通告が教育局から発行されました。その回状はさらに次のように述べていました。「国旗敬礼は崇拝もしくは礼拝行為と解釈されるべきではなく,国家および立てられた権威に対する忠節と敬意のしるしとみなされるべきである。そうすることを拒否するのは,犯罪もしくは扇動とみなされる」。

そのような話し合いがなされていた間に,「神は偽ることができない」と題する協会の最新の映画を大統領官邸で上映する許可を得るのは賢明なことであると考えられました。タブマン大統領と招待客にそれを見せるのです。証人の音信が専ら聖書に基づいており,将来に対する証人の希望はエホバの設立された王国を中心にしているという事実を,観客に印象付けるのにその映画は役立ちます。

タブマン大統領は,健康が優れませんでしたが,その映画会に出席し,映画を楽しんだように見うけられました。映画が終わってから,大統領は,何もかも聖書が述べている通りだと言いました。彼は,地上が楽園になり,人々がそこで永遠に住むということに深く感動しました。兄弟たちはタブマン氏に協会の最新の出版物を贈呈したほか,「新しい天と新しい地」に関して多くの説明をすることができました。(ペテロ第二 3:13)その映画会は,国旗問題に関する決定を変えるものとはなりませんでしたが,大統領が全地の神の民とその立場を一層はっきり知るのに確かに役立ちました。

再びギバンガで問題が起こる?

1968年8月24日の国旗の日,マノ川のエホバの証人のふたりの児童は,学校で行なわれた国旗をたたえる式に出席しなかったので,1週間の停学処分を受けました。その子供たちが学校に戻ると,校長は国旗を敬礼するように命じました。ふたりはそれを拒みました。郡の長官は,単に生徒を放校処分にしただけでなく,エホバの証人の家や職場に行って証人をひとり残らず警察署の訓練場に連れて来るよう警察に命じました。「あの者どもは国旗を敬礼するか,刑務所へ行って失業するかのどちらかだ」というわけです。

こうして,8人の活発な証人は一緒に集められ,国旗に敬礼するように命令されました。真理にきわめて新しく,バプテスマを受けていなかったひとりの人を除いて他の全員はその命令に応じませんでした。その人たちは,訓練場の石や岩のかけらの上をはだしで,くたくたになるまで2時間あまり走らされました。その厳しい試練の間に,16歳の生徒は屈して妥協しました。結局,5人の兄弟と56歳になるひとりの姉妹は独房に入れられました。

モンロビアに知らせが伝わると,内務長官に連絡が取られました。内務長官は,審問のためにモンロビアへ来るよう郡の長官と関係者に命じました。しかし,兄弟たちはタブマン大統領がアルジェから帰るまで釈放を19日間待たねばなりませんでした。その間,あらゆる侮辱を浴びせられ,当局者から言語道断な脅しを受けたばかりか,親族からの大きな圧力に勇ましく立ち向かわねばなりませんでした。ナイジェリア生まれのC・W・ヒューは,不動の態度を取るよう励ます立派な模範を示しました。年配のメアリー・ウィリアムズ姉妹はほとんどいつも気分が優れない人でしたが,驚いたことに,独房にいた期間1日も病気になりませんでした。

聖書劇がテレビで放映される

聖書劇が行なわれた地域大会は特に,リベリアの神の組織に対する偏見を大いに砕きました。というのも,1967年に大会で行なわれた劇がそのままリベリアでテレビ放送されたのです。その劇はヨシュアとイスラエル人を扱ったものでした。

上演時間が1時間のその劇はすばらしい出来ばえでせりふの間違いはひとつもなく,ひとつの動作も忘れられませんでした。英国人の番組ディレクターは非常に喜んで,兄弟たちのからだの動きと訓練のほどをほめました。人々の反応から判断して,大勢の人がその劇を見たに違いありません。エホバの証人に親切な言葉を掛けたことがほとんどないある男の人は,「皆があなたがたをどうして憎むのかわたしには分からない」と言いました。

「地に平和」大会

1969年にニューヨーク市で開かれた「地に平和」国際大会は,リベリアの兄弟たちが本当に大規模な大会を初めて見る機会となりました。リベリアから全部で41人が1969年の国際大会に出席しました。ある人たちはニューヨーク,ロンドン,およびニュルンベルクの大会に出席しました。七人の特別開拓者は援助を受けて出席しました。たとえば,そうした援助によって特別開拓者のダニエル・ターは眼を輝かせながら協会の本部,それにニューヨークとロンドンのふたつのすばらしい大会をじかに見ることができました。彼はうれしそうにはっきりこう言いました。「エホバはご自分に信頼を置く者を決してお見捨てになることはありません」。

12月にモンロビアの市公会堂で開かれたリベリアにおける「地に平和」大会では,公開講演に1,252名が出席しました。その月に良いたよりの宣明に携わったのはわずか582人でしたから,それは実にすばらしい出席でした。バプテスマを受けたのは45人でした。プログラムが非常に実際的かつ感動的だったので,数人の出席者は,「この大会は本当にわたしたちの心を動かしました」と感嘆しました。

「善意の人々」大会

実は,リベリアのエホバの民が催した大会の中で最も特異な大会は1970年の後半に開かれました。英語による主な大会は,モンロビアの,再内装され冷暖房装置の付いた百年記念パビリオンで12月3日から6日にかけて開かれ,様々な地方語によるプログラムは王国会館で行なわれました。

大会が始まる数日前に,「アメリカのエホバの証人,大会に出席する見込み」という見出しが新聞に掲げられたので,期待が高まりました。その大会はリベリア初の,本当の意味で国際的な大会になる予定でした。新聞で報道されてから2日後に,最初のふたりの外国人出席者はテレビでインタビューを受けました。

12月2日の朝,期待は喜ばしい現実となりました。ものみの塔ツアー4号の55人が空港で多くの兄弟に暖かく迎えられたからです。リベリア第一級のバスが客をモンロビアへ運ぶために待機していました。しかし,まずファイアーストーン農園を訪問します。訪問者の多くは,市内の各所で最新型の自動車が走り,ぜいたくな住宅や高層ビルが立っている,モンロビアのずいぶん近代的な様相を見て驚きました。

その日の午後,訪問者のためにパビリオンで特別なプログラムが行なわれました。そのプログラムでは,リベリアにおける証人の業の歴史が話されたり,宣教者にインタビューがなされたりしました。また,リベリアの部族民の四つの基本的な人種グループの説明がなされた時には,代表の兄弟たちが原地人の服装を見せたり部族の特色を話したりしました。次いでバサ語とクペリ語の伝道者たちによる「農場の生活」と題する色彩豊かな出し物がありました。彼らはリズミカルな動作をしながら,稲の畑の地ならし,種まき,草取り,鳥追い,収穫の様子,そして最後に乳ばちで精米する様子を歌いました。訪問した姉妹たち各人は,染めたヤシの葉の繊維で美しく編み,端にヒヨコの羽を付けたリベリアの扇子を贈られました。兄弟たちは,ヤシの実の堅い仁でできた指輪をもらいました。

その後王国会館で,アフリカとレバノン料理の豪華な宴がありました。旅行者たちは,ジャラフ・ライス,ポテトの葉,料理用バナナの揚げ物,ジンジャー・ビールなどのごちそうを食べました。発酵させたカサバから作った本物のフフという料理も試食しました。アフリカでの第一日目が終わった時,ひとりの旅行者は,「この後他の国に行かなくても,私たちは十分報われました」と語りました。

次の日の午前,リベリアの兄弟たちは訪問者たちと一緒に野外奉仕に参加し,証言活動を楽しみました。兄弟たちはいわば違った世界から来ていましたが,優しい兄弟愛によって真に結ばれていることを感じました。

その大会中,62名の人が大西洋でバプテスマを受けました。バプテスマの希望者は実に様々の背景を持つ人たちでした。ひとりの人は著名な弁護士でしたし,別の人は,平和部隊と共にリベリアに来たアメリカの女性でした。ガンタ出身で,信仰のゆえに放校処分を受けたばかりだった,かわいらしい17歳のネーニもいました。また,アンジェラインという若い夫人もバプテスマを受けました。彼女は,あくまで真理のゆえに,激しい殴打を受けても持ちこたえましたが,怒りにかられた夫にとうとう家を追い出されました。それから,かつてプロテスタントの説教者だった,77歳のベクルズ牧師がいました。

ものみの塔ツアー4号が金曜日の朝出発すると,次のツアーが到着しました。そのグループは40名の証人からなり,七年前にギバンガの原っぱでリベリアの兄弟たちと迫害を忠実に耐えたM・G・ヘンシェル兄弟も一行に加わっていました。同兄弟は,銃の台じりで思い切り打たれた頭や首が回復していて,金曜日の午後「わたしたちは知っているものを崇拝している」という適切な主題で話をしました。午後のプログラムの終わりに,ギバンガの原っぱにいた数十名の人たちは前に進み出て,その忠実な兄弟と握手したり(アフリカ人の習慣である)指を鳴らしたりしました。苦しい経験について語り合ったり,兵士がいろいろな兄弟に付けたあだ名を挙げて大笑いするという一幕もありました。その時の迫害に耐え立派な王国伝道者になっていた,しつけのよい子供たちも何人か出席していました。それは,引き続き確固とした立場を取るようにとの励ましやそうする決意の言葉で満ちた,珍しく,また喜ばしい機会でした。

翌朝,ヘンシェル兄弟と2番目の旅行グループを乗せた飛行機が離陸すると,別の飛行機が着陸しました。他の乗客に混じって一組の夫婦が現われたかと思うと,そのふたりが空港を急いで横切る姿が見えました。それは良く知っている人,ノア兄弟姉妹だったのです。ふたりの飛行機はフリータウンからアッカへ向かう途中リベリアにちょっと立ち寄ったのです。お陰で兄弟たちは喜ばしい交わりのひと時を持つことができました。

再び,国旗敬礼の問題

1963年以来,国旗敬礼の問題に関するエホバの証人の立場を説明するために多くの努力がなされていました。そのことは繰り返し,ラジオやテレビの放送やインタビューで取り上げられました。政府は最後に,大人が国旗礼中うやうやしく立っていることは許されると裁定しました。しかし,学童のことは全く考慮されませんでした。そのため,証人の大勢の子供たちが放校処分を受けました。公正な市民の中には,それらの子供に教育を受けさせないのは正しくないと感じる人も少なくありませんでした。しかし,証人の子供たちが放校処分を受けた結果,リベリア人のあるクリスチャンの尽力もあって,大統領自身とその問題について話し合うことになりました。

スペンサー・トマスは長年の間,建設技師としてリベリア政府の仕事をしていました。彼は,良い仕事をしたので,タブマン大統領に個人的に知られるようになりました。やがて,最も重要な建設工事の監督は,決まって彼に任されるようになりました。タブマン大統領の死後,後任のウィリアム・R・トベルトは,全国的な建築計画や各所を修復する計画を立てました。トベルト大統領はその工事の監督者にだれを望みましたか。それがなんとトマス兄弟だったのです。大統領の前に呼ばれてその仕事の申し出を受けた時,トマス兄弟は敬意を持ってそれを辞退しました。その理由について,彼は,自分がリベリアを離れるところであり,家族はすでに外国へ行っていると述べました。なぜ国外に出るのか聞かれると,トマス兄弟は,国旗敬礼の問題のために子供たちが十分な教育を受けられないことを話しました。

その後,1972年4月にトベルト大統領は6名のエホバの証人の代表団を迎えました。代表者たちは政府の再考を要望しました。その話し合いの間,大統領はあるリベリア生まれの証人に多くの質問をしました。その証人は非常に平静かつ穏和な態度で答えたので,大統領は,「君はどこでそういう訓練を受けたのかね」と尋ねました。幸いにも,その兄弟は神権学校のお陰であると答えました。ふたりの姉妹は,子供たちに良い学校教育を施すことを願いながらも,清い崇拝の原則を子供たちに教えることを神から求められている親たちの苦しい立場について話しました。後日,国旗敬礼の問題に関する10ページの詳しい資料が大統領に提出されました。大統領は偏見を持たずにそれを調べることを約束しました。

その資料は,国旗敬礼を免除することは「限られた特権もしくは優先権」を与えることでないと主張していました。むしろ,そうした免除は,憲法で保障されているように,「他からの妨害もしくは干渉なくして,良心の語るところに従って神を崇拝する自然の,譲渡できない権利」を支持していることが述べられていました。

大統領がその点に関して法律上の見解を求めたところ,法務大臣は法律家のグループにその問題を調べさせました。その結果はエホバの証人の権利を支持していました。法務大臣はその見解に賛成しました。しかし,裁定されたことは一度も公に発表されず,国旗敬礼の問題が必ずしも再び起こらなかったわけではありませんでした。

増加が続く

1973年までに,孤立した地域での王国伝道の業が大いに拡大したので,新しい会衆を設立することが必要になりました。その年の終わりまでにリベリアには22の会衆がありました。そうした大きな増加の世話をするために,もっと大勢の働き人が必要とされました。

1973年12月5-9日に開かれた「神の勝利」地域大会は多くの面で特別な大会でした。喜ばしいことに,外国から88人の兄弟姉妹が西アフリカの旅行の一環としてその大会に出席しました。リベリアの兄弟たちは米を作る農場の仕事を描いた色彩豊かな寸劇をしました。姉妹たちは,米を乾燥させ,それを乳ばちで砕いて箕でもみがらを除き,米を分けて料理できるように準備するまでを実演しました。その間,リベリアの農夫が仕事の時に歌う民謡が歌われました。最後に,兄弟たちはリベリアで採れるおいしそうな果物と野菜を見せました。

エホバの証人はかなり前からタブマン球場と契約していたにもかかわらず,金曜日になって,公開講演が開かれることになっていた日曜日の午後4時にサッカーの試合があることが知らされました。それで公開講演は日曜日の朝11時に変更されました。その時刻にどれほど多くの人が出席できるでしょうか。ブルックリン・ベテルから来たウィリアム・ジャクソン兄弟が講演を終えるまでに,2,225人が集まっていました。それは公開講演としてはそれまでの最高出席者数でした。大会でなされたすばらしい証言や,リベリアの証人と共に大会にあずかるため外国から来たクリスチャンの訪問者を迎えた喜びにより,すべての人は,エホバへの奉仕にさらに一層あずかりたいとの励みを得ました。

1974年4月7日,日曜日はリベリアのエホバの証人にとって非常にうれしい日でした。939人の伝道者はその日の主の晩さんに出席するようできるだけ大勢の人を招待することに努力を集中しました。良い反応がありましたか。エホバに大いに感謝すべきことに,全国で3,310名の人が証人と共に王国会館に集まりました。その奉仕年度の終わりまでに,160名の人が新たにバプテスマを受けました。エホバの援助を受けつつ協力の行なわれた実にすばらしい1年だったではありませんか。

前途を楽観的に見る

ワトキンズ兄弟姉妹がリベリアへ宣教者として来たのは1947年5月のことでした。ワトキンズ兄弟はこの国で王国伝道者が千人になるのを長い間待ち望んできましたが,ついに28年後にそれが実現しました。1975年5月に,1,027人の伝道者が野外奉仕を報告したのです。証人たちは,『その小さき者は千となる』という言葉にある喜びの幾らかが分かるようになりました。そして,エホバに深い感謝の念を抱きました。―イザヤ 60:22

1976年1月には伝道者が1,060名になりました。今は,これまで証言を受けていない孤立した地域で業を始める方法がないものかと考えられています。さらに多くの王国宣布者が特別開拓者の業に携われるようになることが望まれます。そうすれば,それら必要とされる土地に働き人を送ることができるからです。

リベリアでは,進歩を妨げるふたつの問題,すなわち文盲と不道徳に陥る傾向を克服するために引き続き努力が払われています。伝道者の約24%は今だに文字が読めませんし,15%はわずかしか読めません。過去5年間に130名の人は不道徳のために排斥されました。しかし,忠実な人々は業を行ない続けています。しかも,なすべき事はたくさんあるのです。

リベリアの167万人の人口を成しているのは,名目上のクリスチャン,回教徒および相当数の自然物崇拝者です。過去28年間に“クリスチャン”と称する人々に対しては十分の証言がなされました。しかし,硬い回教徒の区域にはあまり証言がなされていません。また,大部分の自然物崇拝者にもまだ音信は伝えられていません。そのほとんどは奥地全域に散在する村や町に住んでいるからです。

証人の宣べ伝え教える業は,主に,人口の集中している地域で引き続き行なわれています。しかし,特別開拓者が得られるようになったので,人口の多い他の土地にも次第に良いたよりが伝えられるよう希望しています。一般に「自由の国」と言われるこのリベリアの大勢の住民が,真の自由と永遠の命をもたらす真理を受け入れるようにとの祈りが,引き続きエホバ神へささげられています。