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スペイン

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スペイン,と聞くとあなたは何を思い浮かべますか。闘牛ですか。フラメンコの踊りですか。それともエル・グレコやゴヤの絵でしょうか。

スペインと言えばそれらが思い浮かぶのは当然でしょう。スペインは非常に変化に富んだ国です。スペイン人はケルト人とムーア人の特徴を備えており,幾世紀も昔にスペインに侵略したそれら二つの人種の血を引いていることがわかります。四つの言語,すなわちスペイン語,バスク語,カタルニャ語およびガリシア語の外,幾つかの方言が用いられています。ガリシア語はポルトガル語に近い言語です。また,アラビア語が無意識にたくさんそう入される場合が少なくありません。アラブ人がイタリア半島を8世紀間占領した名残として,スペイン語の語彙にはアラビア語の言葉がたくさん含まれているからです。

スペインは,標高3,000㍍を超すそそり立つピレネー山脈によって,フランスその他のヨーロッパ諸国から隔てられています。また,西は大西洋,東は地中海と接していますから,島国といってもおかしくありません。スペインの中央部はメセタとよばれる高原であり,その北側を,堂々としたピコス・デ・エウロパを含む山脈が走っています。また南側には雪を頂く有名なシエラネバダ山脈が横たわっています。興味深いことに,スペインは平均高度がヨーロッパでスイスに次いで2番目に高い国です。ちなみに,雨は主に北部で降りますが,雨量はヨーロッパで最低です。ですからスペインが「太陽の輝く国」と呼ばれ,毎年多くの旅行者が北欧から押しかけるのも無理はありません。

スペインの聖書研究者にとってたいへん興味深い一つの点は,この国の気候や地形や食物がパレスチナのそれと似ているということです。スペインにも“オリーブの山”がありますし,ここでは今でも雄牛やロバが使われています。また,スペイン全国を旅行していると,しばしば,牧草地を求めながら羊とやぎを導いている,犬を連れた羊飼いに出会います。収穫時には,農家の人たちが吹きさらしの脱穀場で立ち働き,小麦を簸る姿が今でも見られます。南部の都市にはナツメヤシの茂るところもあり,庭や公共広場にはオレンジやレモンの木が生えています。

スペインの宗教

スペイン人は基本的には信仰心のある人々です。大多数の人は司祭に対する信頼を失っているものの,神を信じていない人は少数しかいません。1936年7月から1939年4月に及んだ内乱で,百万人を上回るスペイン人が死にました。これほど多くの人命が犠牲にされたことにより,宗教と政治の悪い実がすっかり露呈しました。そのどちらも殺人と復しゅうの行為に関係したのです。共和派(共産主義,社会主義,自由派からなっていた)は司祭,尼僧,および教会に忠実な官公吏を次々と殺し,一方,右翼(軍隊の支持を受けたカトリック・ファシズム)は国中で暴れて,ローマ・カトリック教会に不忠実な者を殺しました。

スペイン内乱は今なお消えない傷跡を残しました。それは,古い世代がエホバの証人の伝道の業に対して示す反応に表われています。内乱,つまり“聖戦”に参加した伝統的なカトリック教徒は,“異端”をはびこるままにしておくべきでなく,ましてやバチカンと政教条約を結んでいる国においてそれを許すべきではないと考えていました。あらゆる面における教会の主な支持者たち(保守主義者,進歩主義者,オプス デイ,その他)は,中産および上流階級の人々で,彼らの物質的な利益と繁栄は現状を維持することと切り離せない関係にあります。しかし,特に都市部では,人々は一般に教会に対して無関心であり,教会を利用するのはバプテスマを受ける時とか冠婚葬祭の時,たまにミサに出かける時に専ら限られています。

第二バチカン公会議が1962年から1965年にかけて開かれて以来,カトリックの国スペインにおける宗教事情が変化したことに疑問の余地がありません。スペインのアルカラにあるマドリード大司教が1965年12月8日付で次のように書いている通りです。「第二バチカン公会議は,教会とクリスチャンの世界に,我々の住む世界に関する歴史的および超絶的な新しい精神,新しいヒューマニズム,新しい希望,新しいビジョンを残して今日終了した」。その「新しい精神」と「新しいビジョン」のために,宗教および政治指導者たちは,1967年に施行された信教の自由の法律をも含む,彼らの多くが本来望んでいなかった幾つかの変化を受け入れなければなりませんでした。その一つに1967年の信教の自由法があります。その法律によってエホバの証人が伝道する状況は180度変化し,大多数の人は比較的寛容な態度を示すようになったのです。

最初の種がまかれる

これまでスペインの人々,地理,現代の歴史および宗教を簡単に説明しましたが,ここでこの国における真のキリスト教の足跡をたどってみましょう。言うまでもなく,スペインで伝道した最初のエホバのクリスチャン証人は恐らく使徒パウロだったことでしょう。パウロは手のつけられていない区域で奉仕したいという強い願いを持っていたので,スペインへ王国の良いたよりを伝える計画を立てました。―ローマ 15:22-29

では,20世紀においてはどうでしょうか。1919年7月1日号の「ラ・トルレ・デル・ビヒァ」(スペイン語の「ものみの塔」誌)に,スペインに住むあるクリスチャン婦人の一番年下の娘から寄せられた手紙が掲載されました。その手紙の中で,幼いマリアは,「神様がお母さんと私にお与えくださったお役目を果たすために」お母さんとパリに行けるのでうれしい,と書いています。また,一か月後のスペイン語の「ものみの塔」には,マドリードに住む一姉妹から送られた手紙が掲載されました。その姉妹はカトリック教徒の隣人の一人から無記名の手紙をもらったのです。その手紙は一部次のようなものでした。「奥さん,気をつけなさい。あなたはわなにかかっている。あなたの活動は監視されている。それは確かですぞ。あなたは神の代理者である法王と聖役者に服従することを拒み,その人たちが代行している神聖な務めを言葉や悪い手本で踏みつけている。……何にもなりはしないのだから,気違いじみた努力はやめなさい。穏やかにお勧めするが,手を引くか,どこか外の土地へ行きなさい。さもないと,あなたの身に災いが及びかねませんぞ」。協会に手紙を寄せた姉妹の名前も,またその手紙の中で述べられていた人物の名前も不明です。しかし,王国の音信を快く思わない人がいたことは確かです。

とはいえ,真理の種はスペインにまかれていました。ものみの塔協会の2代目の会長であるJ・F・ラザフォード兄弟は,スペインに適当な足掛りを作って王国の業を開始させる必要性を非常に強く感じていました。そのころ,アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィアにフアン・ムニィスという名のスペイン人の熱心な兄弟がいました。ラザフォード兄弟はその兄弟にスペインへ行くように要請したのです。1920年の末か1921年の初めごろ,ムニィス兄弟は自費でスペインへ旅立ちました。そして故郷,スペイン北部のアスツリアスに帰って実の姉妹のもとに身を寄せました。アスツリアスの鉱山地帯,それがムニィス兄弟の証言する区域でした。

1923年の4月から5月にかけてスペイン語の「ものみの塔」誌に掲載されたムニィス兄弟の手紙によれば,同兄弟は町で4日間過ごして,主に社会主義的な傾向を持つ男の人たちに証言しました。その人たちは,世の中を変えるのは社会主義だと主張しました。一方,ムニィス兄弟は神の王国が世界的な変化をもたらすと言いました。それを聞いていた一人の人は最後にこう述べました。「ぼくたちとあの人の違うところは,彼には神があるが,ぼくたちにはない,ということだ」。

それからほぼ一年後のもう一通の手紙の中で,ムニィス兄弟は次のように書いています。「さて,新政権(プリモ・デ・リベラ将軍の軍事独裁)が樹立されましたが,この政府は僧職者の言いなりになっており,しかも『剣を手にして』いますから,『見よ,わたしは……あなたがたとともにいるのです』という主の言葉を覚えていないなら恐れに捕らわれます。……政府や僧職者の好みに合わないことを言ったり書いたりする人はだれかれなく……正当な理由なしに投獄されます」。―マタイ 28:19,20

ムニィス兄弟は3年の間円熟したクリスチャンと接することもなく一人で頑張っていましたが,幾分落胆していたことは確かです。ムニィス兄弟には激励が必要だったので,ラザフォード兄弟は,マドリードで協会の会長が講演する許可が下りるかどうか調べてほしいという手紙を出しました。しかし,ムニィス兄弟はその許可を取り付けることができず,したがってラザフォード兄弟が申し出た訪問は延期されました。ですがやはり,その二人の兄弟は1924年5月にパリスホテルで会合しました。スペインの情勢を考慮した末,ラザフォード兄弟はムニィス兄弟を別の任命地に派遣するほうがよいと判断しました。それから間もなく,ムニィス兄弟は,アルゼンチンに移ってほしいという手紙を受け取りました。

それは,ラザフォード兄弟がスペインにおける業を放棄したということですか。断じてそのようなことはありません。わずか数か月後に,南アメリカで成功を収めていたジョージ・ヤング兄弟がスペインに任命されたのです。やがて,全国的な規模で証言を始める手段が講じられました。

注目すべき訪問

ヤング兄弟は,1925年にスペインに着くとすぐ,ラザフォード兄弟の訪問の許可を得ようと改めて努力しました。そして,この度それは成功したのです。バルセロナとマドリード,その後ポルトガルのリスボンで公開講演会を開く取り決めが設けられました。その思い切った企てが成功したのは,ヤング兄弟がイギリスの大使に助けを求めたからでした。大使はヤング兄弟を政府の役人に紹介してくれたのです。2,3日遅れて,政府は集会を許可する命令を出しました。

ビラで講演を宣伝することは許されないことが分かっていたので,ヤング兄弟は新聞に広告を出しました。バルセロナの集会は日曜日の朝11時に予定されていました。ラザフォード兄弟の一行が会場となっていた劇場に近付くと,騎馬巡査隊数隊と政府の特別親衛隊が来ていました。そして,ステージに近い個室に入ったとたん,ラザフォード兄弟はバルセロナの副長官に迎えられ,丁重なあいさつを受けました。副長官は講演中ずっと演壇の上にいました。専門の通訳が雇われましたが,正確を期するために講演の内容は前もって翻訳され,ラザフォード兄弟は英語で,また通訳はスペイン語でそれを読みました。講演会は何の妨害もなく行なわれました。最後に聴衆は住所カードに署名することを求められ,合計702という多数の住所カードが集まりました。出席者は2,000人を上回っていました。名前と住所を知らせた人たちは,訪問して聖書に対する関心を高めることのできる人たちでした。

マドリードにおけるラザフォード兄弟の講演も新聞広告で宣伝されました。講演会の形式はバルセロナでのそれと同様で,劇場の外に護衛兵が配置され,場内にはマドリードの副長官がいました。この度も副長官が講演の間中演壇の上にいました。仕切席の一つにはイギリスの大使がいました。スペインの役人を含め,外にも何人かの有力者が出席していました。マドリードの講演会の出席者は1,200人で,そのうち住所を知らせてくれたのは400人ほどでした。

ラザフォード兄弟は,講演の内容が新聞に掲載されることを願いましたが,当時スペインでは,政府の許可がなければそうした性質の記事が新聞に掲載されることはありませんでした。ところが,エホバの助けによって,新聞を通して真理が広められる道が開かれたのです。マドリードで,講演の後,副長官とラザフォード兄弟は個室で話を交わしていました。そこへ大手の新聞社の社長が入って来て講演者に紹介されました。ラザフォード兄弟はその機会を捕えて,通訳にこう言いました。「講演の内容を新聞に載せるのはスペインの人たちの益になるとは思いませんか,と長官に聞いてください」。長官は,「それは悪くはないでしょう。新聞に載せてはいけない理由は何もありません。いい考えじゃありませんか」,とすぐに答えました。新聞社の社長はその場でそれを特種記事にしました。話が難なくまとまり,講演の内容は1925年5月12日付の「インフォルマシオネス」に掲載されることになりました。事実,その記事は後に小冊子の形に印刷され,スペイン全国に郵便で配布されました。こうしてへんぴな土地にも真理を伝えることができました。

1925年5月にラザフォード兄弟がリスボンで講演した時,フアン・アンドレス・ベレコチェアという名のアルゼンチン人が初めて真理に接しました。それ以来,ベレコチェアは真理を熱心に擁護し,フアン・カルロスとアルバロという二人の息子に真理を話して聞かせました。その家族は内乱のためにやがてスペインを去らねばなりませんでしたが,アルバロを通して再びスペインと接触し,その影響を受けるようになりました。というのは,アルバロがものみの塔ギレアデ学校を卒業し,1953年,妻と共に宣教者としてスペインに任命されたからです。

支部事務所の開設

スペイン訪問が成功を収めたので,ラザフォード兄弟は,スペインにものみの塔協会の支部を設立して,ジョージ・ヤングを責任者とすることにしました。マドリードに住むエドゥアルド・アルバレス・モンテロ兄弟の家が支部の公式の住所になりました。1925年8月から新しい支部は,民間会社に印刷させた4ページの薄いスペイン語の「ものみの塔」誌を配布し始めました。

その年,協会のマドリード支部は徹底的な活動を行ないました。「神のたて琴」と題する本のスペイン語版を5,000冊,「現存する万民は決して死することなし」と題する書籍を1万冊発行し,さらに,ラザフォード兄弟の講演を収めた小冊子と「死者はどこにいるか」と題する小冊子を含む24万7,000部の小冊子を配布したのです。年度末の報告によれば,王国の音信は「スペインのすべての都市と町,およびカナリア諸島,バレアレス諸島,モロッコのスペイン領の主要な町々に伝えられました」。

そのころ(1925-1926年)ヤング兄弟は,地球と人間に対する神の目的を概説した,スライドと活動写真と録音からなる「創造の写真-劇」と題する協会の映画を上映していました。また1926年6月には,神権的な発展に伴ってラジオが用いられるようになりました。マドリードとバルセロナの大きな放送局のうちの二つの放送局がラザフォード兄弟の二つの講演を放送してくれました。こうして,スペインのすみずみばかりか近隣の国々にも証言がなされたのです。

1926年5月,イギリスのロンドンで開かれた注目すべき大会中,神の民は「世界の支配者たちへの証言」と題する決議文を採択しました。ヤング兄弟はスペインの新聞にそれを掲載してもらうように努め,それはついに成功して,1926年10月3日付の「ラ・リベルタド」紙に決議文の全文が載りました。支部は通常の発行部数である7万5,000部に加えて,数千部余分に決議文を印刷し,それを政府の役人,市長,司祭および枢機卿全員に郵送しました。

僧職者の反対は無駄に終わる

むろん,そうした活動が僧職者に全く注目されなかったわけではありません。僧職者たちは力を行使し始めました。数人の兄弟たちは逮捕され,文書を没収されました。職場を解雇された人や,迫害のために村を出なければならなかった人もいました。人々は新聞や説教壇から,「ものみの塔」誌を読まないようにと警告されました。事実,パンプロナの司教はその布告の中で,神の民の出版物を「異端的,中傷的で厳しく禁ずべきもの」としています。アリカンテ州アルコイで,2人の聖書文書頒布者,フランシスコ・コルソ兄弟とマクシモ兄弟は逮捕されて当局者の前に連れて行かれました。そして,数日間監視を受けた末,直ちに町から出るようにと命令されました。しかし,二人を取り調べた警察部長は聖書と「神のたて琴」の本を求め,「ものみの塔」誌を予約しました。警察部長はコルソ兄弟に確信を込めてこう言いました。「スペインで人々に真理を語っているのはあなたがただけです」。

1926年10月中,少数ながらも活発な王国宣明者の一団は,スペインで3番目に大きな都市であるバレンシアで2万2,000冊の「ものみの塔」誌を配布しました。そこの僧職者は,兄弟たちがフリーメーソンであり,マノ・ネグラ(マフィア)の一味であるという偽りの非難をして抵抗しました。バルセロナの南西88㌔の地点にあり,イベリア人とローマ人によって作られた古い都タラゴナで11月に6,000冊の雑誌が配布された時,迫害は頂点に達しました。カトリックの学校の男子児童を使った不正な方法で協会の文書が集められ,それは修道院の庭の司祭長たちが居並ぶ所で焼かれました。タラゴナ市はその事件を記念する公休日を作りました。もっとも,市民の多くは大いに憤慨し,市の当局者たちも公平な見方をしていましたから,非常に多くの人が「ものみの塔」誌を予約しました。

カタロニアの主要都市で,国際都市でもあるバルセロナではどんな反応があったでしょうか。そこでは聖書頒布者のサトゥルニーノ・フェルナンデス兄弟が群れの人々とともに奉仕していました。「ものみの塔」誌は1926年12月と1927年の1月に禁止されましたが,それまでに8万冊が配布されていました。二人の兄弟たちがバルセロナの群れの小さな集会場所を用意しようと骨を折っていましたが,集会を開くことは許可されませんでした。そうした反対の背後にいたのは,外でもなく,バルセロナの事実上の支配者である,同市の司祭だったのです。それにもかかわらず,フェルナンデス兄弟は友人の家で毎晩聖書の集会を開き続けました。その集会には平均10名が出席していました。

もっとも,反対は効を奏さず,証人の業はエホバの祝福を受けて発展してゆきました。1927年協会の支部はマドリードのフランシスコ・コルソの家に移りました。当時スペインでは文書の生産費は非常に低く,以前4ページだったスペイン語の「ものみの塔」誌は8ページになっていました。また,アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスで印刷されていた16ページのスペイン語の「ものみの塔」誌も入手できました。

良い土にまかれた種

1920年代に王国伝道の業は,スペインの二つの大都市,すなわちマドリードとバルセロナで集中的に行なわれました。時にはちょっと変わった証言方法が取られることもありました。バルセロナで聖書文書頒布者として働いていたサトゥルニーノ・フェルナンデス兄弟は,公共広場に協会の書籍を陳列し,歩道に「代々にわたる神の計画」の大きな図表を広げて,関心を示す人と会話を始めました。フアン・ペリアゴが1927年に真理を学ぶようになったのは正にその方法によりました。ペリアゴはフェルナンデス兄弟がもう一人の人と地獄の火の教理について激論を闘わせているのを聞いていてその内容に興味を覚え,文書を求めたのです。こうして真理の種がまかれました。それがきっかけでペリアゴは神の真理に関心を持つようになり,以来長年にわたってエホバに奉仕しています。

お針子だったカルメン・ティエルラセカ・マルティンの場合は次の通りです。その女性はマドリードに住む義兄から協会の文書を幾冊か受け取りましたが,そのことをすっかり忘れていました。ところが,1927年10月に,メアリー・オーニールという名の外人女性の家に就職したところ,その婦人がフランシスコ・コルソの妻だったのです。ちなみに,“ティエルラセカ”という名前は“乾いた土地”を意味しますが,真理の種に関する限りカルメンは“乾いた土地”ではありませんでした。

勤めていた時の様子について,カルメン・ティエルラセカはこう述べています。「私は午前中小さな部屋で裁縫をし,昼食後も裁縫を続けました。4時ごろ,数人の人がやって来るのに気付きました。にぎやかな話し声から判断して,私は,今日はご主人と奥様の接客日で,パーティーでもなさるのだろう,と思いました。すると,突然静かになり,それからピアノの流れるような美しい調べとともに歌声が聞こえてきました。それはきれいな賛美歌のようでした。私はかつてそのようなものを聞いたことがありませんでした」。

お分かりの通り,それは聖書研究者(エホバの証人は当時そう呼ばれていた)がクリスチャンの集会を開いていたのです。全く“偶然に”,カルメン・ティエルラセカは,スペイン語の「ものみの塔」誌の発行所となっていた家に就職していたのです。そのころジョージ・ヤングはすでにスペインを去っており,証人の業はエドアルド・アルバレスとフランシスコ・コルソの監督下にありました。1930年の12月までコルソの家が協会の支部になっていました。

1920年から1930年までの10年間に,スペイン全国で何人かの人がバプテスマを受けました。たとえば,1927年に,マラガのマヌエル・オリベル・ロサドは,バプテスマを施してくれる人を派遣してほしいという手紙をマドリード支部に出しました。実際のところ,1929年になってフランシスコ・コルソがロサドを尋ね,4月14日に公衆浴場でバプテスマを施しました。

記録に残っているもう一つのバプテスマは1928年6月に行なわれたバプテスマで,その時マドリードの一群の兄弟たちは一日マンサナレス川に行きました。大きな喜びに包まれながらも飾り気のない雰囲気の中で,カルメン・ティエルラセカと一人の兄弟がバプテスマを受けました。ついでながら,そのバプテスマは決して感情に基づいたものではありませんでした。なぜなら,バプテスマが行なわれる2日前に,その二人はエドアルド・アルバレスとフランシスコ・コルソに会い,受けようとしているバプテスマが重要な段階であることを話し合ったからです。

業は勢いを増す

マドリード,バルセロナ,マラガ,ウェスカ,およびあちらこちらの町々の小さな群れと,10人ほどの孤立した奉仕者が野外で働いていたので,王国伝道の業は1929年から勢いを増し始めました。したがって適切にも協会は,ニューヨークのブルックリン本部から送られたミーレ縦型印刷機を使ってマドリードで印刷を行なうようになりました,その機械は1936年まで雑誌と小冊子の生産に用いられました。

当時,伝道活動の一環として,演壇から一般の人々に良いたよりが伝えられました。時には,プロテスタントの牧師がそのための会場を貸してくれました。マラガで,ある兄弟が四つの異なる宗派の信者に話をしたところ,話が終わってから,監督教会の牧師はこう述べました。「今晩のようにすばらしい聖書の解説を聴いたことがありません。この人は真実を語っています。私たちはみな眠っているのです。私たちが必要としているのは,このような人が教会にもっと大勢いてくれることです」。むろん,すべてのプロテスタント信者がそのように好意的だったわけではありません。バプテスト派は,「群れから羊を盗み,危険な文書で国中を満たしている」聖書研究者を根絶するという考えで団結するために特別集会を開きました。

1927年以来マドリードの支部はエドゥアルド・アルバレス・モンテロによって運営されていました。しかし,1930年の春,それまでリトアニアで奉仕していたヘルベルト・F・ガブレールがスペインに移されて支部の監督になりました。その後間もなく,集会は,他の国々で一般に取られている手順に従ってずっと組織的に行なわれるようになりました。また,それまでスペインにおける証言は非公式のものでしたが,間もなく戸別の伝道活動が良い出だしで始まりました。

初めて戸別の伝道活動に参加した時の思い出を,カルメン・ティエルラセカはこう話しています。「私はエホバにお祈りして,エホバの業を行なうために自分をみ手にゆだねました」。戸別の伝道活動のために特別の訓練を受けないで,どんな具合いだっただろうと思う方もあるでしょう。さて,最初の家で女の人がティエルラセカ姉妹から小冊子を受け取りました。ティエルラセカ姉妹は話を続けて次のように語っています。「次の家でもそうでした。その後次から次にどの家でも出版物を求めてくれたので,持って行った8冊の小冊子を全部配布してしまいました……不安や気後れや神経の高ぶりは消えて,私は言い知れぬ喜びを感じていました。私はご親切と援助を示してくださったことに対してエホバに心から感謝しました」。

言うまでもなく,戸別訪問による王国伝道の業は今や進行中でした。将来それは多くの祝福された結果を生むことになっていたのです。

内乱前の政治的背景

1931年より以前には,スペインはアルフォンソ13世を王とする君主国でした。1930年に軍事独裁者のプリモ・デ・リベラ将軍が失脚し,ベレンゲル大将がそのあとを継ぎました。しかし彼も1931年2月にその地位を追われました。アルフォンソ13世が王位を守るためにアスナル提督に新政権の樹立を要請したからです。その政権が行なった自治体選挙において,主要な都市では共和制を望む左翼が勝利を収めました。アルフォンソ13世は,すべてを失ったことを悟り,大虐殺が起こることを恐れて亡命しました。こうして1931年4月にスペインは共和制になりました。それはカトリック教会にとって恐ろしい打撃となり,教会は間もなく新政体の影響を感じるようになりました。その同じ1931年にトレドの首座大主教であったセグラ・イ・サエンス枢機卿は国外に追放されました。1932年中にはイエズス会修道士が禁令下に置かれてスペインから追放されました。もっとも,彼らは隠れたり偽装していたので実際には追放されませんでした。

1933年に中道右翼派が政権を執るに至って,国内の分裂は明らかになりました。その連立内閣は僧職者を弾圧する法律の執行を一時停止し,国会が解散した1936年1月まで政権を維持しました。選挙の結果,左翼の共和派,社会主義人民戦線派そして共産主義者が再び勝利を得てそちらに政権が移りました。

こうした政治の変動は証人の業にどのような影響を与えたでしょうか。共和派が最も強い町では兄弟たちは,宗教文書を配布していたために,教会の手先のファシストであるとして町から追い出されました。また,当然のことながら,ファシスト-カトリック・アクションの拠点では,禁書である聖書を配布していたために兄弟たちはプロテスタントかフリーメーソンとみなされたのです。

政治的変動の結果,僧職者の権力が失堕し,人々は信教の自由が一層認められるようになったのを感じました。伝道の業にとってそのことはある程度好都合でしたが,人々の多くは,今や以前の宗教的な欺まんに目覚めたために,宗教と名の付くものを一切退け,神をさえ否定していました。とはいえ,エホバの証人のクリスチャン活動は速やかに行なわれてゆきました。

過渡期

フランシスコ・コルソはガブレール兄弟がマドリードにいることを快く思っていないようでした。そして,1931年までに真理から離れ,ついには妻をも捨てたのです。したがって,支部の事務所と印刷所はコルソの家から出なければならなくなり,1931年1月に新しい場所に移りました。

1931年は,神の民が「エホバの証人」という名前を採択した年として顕著な年です。アメリカのオハイオ州コロンバスでは1万5,000名の人がその決議に参加したのに対し,マドリードではわずか15名がそのために集まりました。

その時期に外にも幾つかの変化がありました。たとえば,「ものみの塔」誌の“マドリード”版が1931年9月号をもって廃止されました。もっともブルックリンからは引き続き「ものみの塔」誌が送られていました。その表紙に描かれた塔には十字形の窓が三つついていました。また,「ラ・トルレ・デル・ビヒァ」という表題の上には,聖書研究者によって長い間用いられていた十字架と王冠の記章がついていました。しかし,1932年1月号の表紙は全く新しくなっていて,十字架と王冠は姿を消していました。

そうした変革はマドリードで急速度に進行しました。1932年の主の晩さんの時には,十字架と王冠の模様の縫取が付いていたテーブルクロスも姿を消していました。ガブレール兄弟が,「兄弟たち,それは廃止しなければなりません。それを使わないでください。やめてください」と言ったからです。同様に,洋服のえりにいつも付けられていた十字架と王冠のバッジも使われなくなりました。ものみの塔協会の会長を務めたC・T・ラッセル兄弟とJ・F・ラザフォード兄弟の写真はどうなりましたか。マドリードのエホバの証人の集会場所には二人の写真が壁に掛かっていましたが,それも取りはずされました。

英国から開拓者が援助に来る

1931年中,協会はロンドンとパリを含む幾つかの都市で一連の大会を開きました。ガブレール兄弟はロンドンとパリの大会で話を行ない,処女地同然のスペインで自発的な奉仕者の援助がぜひとも必要であることを説明しました。その結果,3人の開拓者,すなわちアーネスト・イーデン,フランク・テイラー,ジョージ・クックがその挑戦を受け入れることを申し出ました。

1932年の7月にはすでに,3人のイギリス人の開拓者はビスカヤ県の県都である工業都市ビルバオで伝道の業を開始していました。ビスカヤ県はバスク地方として知られる地域の一部で,そこではバスク語が話されます。ついでながら,複雑なバスク語はスペイン語と親縁関係を全く持っておらず,その本当の由来は不明です。

開拓者たちは,伝道の目的を説明したスペイン語の証言カードを用いてビルバオで証言を行ない,多くの文書を配布しました。家の戸がたまたま開いている時には,玄関の中に入って行ってよかったものと思われます。そうした積極的な近付き方をして,ある日,アーネスト・イーデンはたった一軒の家で30冊の書籍を配布しました。そのいきさつはこうです。イーデン兄弟は戸が少し開いていたので,それを押し開けて中に入りました。通路を通って行ったところ,リハーサルが行なわれていた劇場の舞台の上に出てしまったのです。イーデン兄弟はその機会を捕えて,スペイン語よりも英語を多く使って良い証言を行ない,持っていた書籍全部を配布しました。また,後からさらに多くの文書をそこへ届けたのです。

イーデン兄弟はややショッキングな経験もしました。一人のこざっぱりした身なりの婦人が,ほの暗い高級アパートに招じ入れてくれました。イーデン兄弟の話はこうです。「その人は私をきれいな部屋に通してくれました。そこには12人ほどの女性がいましたが,どの女性も裸でした。そこは高級な売春宿だったのです。私はそのことにはかまわずに,自分が来た目的を話して文書を紹介しました。女主人は書籍を求め5,6人の女性が小冊子を求めました」。イーデン兄弟は,そういう特殊な場所で証言したことのあるクリスチャンは少ないだろう,と語っています。

ビルバオにおける3か月間に,開拓者たちは,書籍を459冊,小冊子を1,032冊,そして「黄金時代」誌(現在の「目ざめよ!」誌)に匹敵する「ルス・イ・ベルダド」誌を509冊配布しました。ビルバオは宗教がたいへん盛んな土地でしたが,そのように良い成果がみられました。区域の多くはアパートが立ち並ぶ所で,大抵の家の戸には,いわゆる「聖心」の絵が飾ってありました。そこには,大抵,血の流れる自分の心臓を手に持ったイエスとマリアが描かれていました。そのぞっとする絵を飾る人はイエスとマリアによって煉獄にいる期間を幾らか免除される,と考えられていました。

マドリードへ向かう

ビルバオでの奉仕を終えると,開拓者たちはスペインの北岸に沿って証言を行ない始めました。旅行中,文書をどのように入手したのでしょうか。前もってマドリード支部から鉄道の駅に箱詰めの文書を送ってもらう取り決めを作ったのです。開拓者たちは旅行中文書の倉庫に立ち寄って,すでに到着していた文書を受け取りました。

それら勇敢な開拓者たちは,雨の多い北部の山岳地帯を離れて南に針路を取り,レオン,パレンシア,ブルゴス,バリャドリード,サラマンカ,セゴビアおよびマドリードの各都市を通りました。内陸にあるカスティリャの高原,メセタに来た時,開拓者たちは美しい風景を楽しみ,また,聖書の土地のそれと大へんよく似た生活様式に興味をそそられました。ぶどう酒の貯蔵と運搬に動物の皮が用いられています。土製の水がめを頭に乗せている女性の姿も見えます。照明には,小さなオリーブ油のランプがまだ使われています。そして,多くの土地では自動車やバスを見かけることはほとんどなく,交通手段はロバとラバです。ぶどう酒は今だに,素足の男たちがぶどうを踏むという方法で作られています。もみからもみがらを分ける脱穀場の周りでは,雄牛がからざおを引きずっているのです。そして,多くの人は穴居生活をしていました。実際,現在でもある地方では穴居生活が行なわれています。もっとも,住まいとなっているほら穴は清潔で快適になっています。ほら穴は夏涼しくて,冬温かいのです。

イギリス人の開拓者たちがマドリードにいた時,思いがけないことに,ドミンゴという名前の若い羊飼いが彼らの隊ごに加わりました。ドミンゴはナバルラというへんぴな村からやって来たのです。それにはこんないきさつがありました。ある日,羊の番をしていた時,ドミンゴは道路わきのみぞの中に「ルス・イ・ベルダド」誌を見つけました。その雑誌を読んだところ,大へんおもしろかったので,雑誌に出ていた書籍を幾つか注文し,冬の間中それをむさぼるようにして読みました。ところが,ドミンゴがその新しい「道」を発見すると,反対が起こり,真理が攻撃されるようになったのです。(使徒 9:2)ドミンゴは出版物の発行者がどんな人たちか調べるためにマドリードへ出掛けました。ドミンゴが住んでいたパンプロナという町からマドリードまで400㌔余りあります。しかし,ドミンゴはそこまで歩いて行ったのです。ドミンゴは生まれて初めて故郷の村を離れました。マドリードに着くとすぐに協会の事務所を捜し当て,イギリスから来た開拓者たちと聖書を学び始めました。聖書が真理であることを納得すると,ドミンゴは無条件で伝道の業を志願し,開拓者になりました。

真理は三方向に広がる

1933年の夏になって,開拓者のジョンとアーネストとフランクはそれぞれ別の区域に分かれました。アーネスト・イーデンはドミンゴを連れ,北西に向かって出発しました。一方,フランクは,ポルトガルと同じくらい広い,スペイン南部全域を割り当てられました。その魅力的な区域はアンダルシア地方全体を含み,南海岸のウェルバからアリカンテに及びました。また,ジョン・クックは,マドリードの南方約64㌔の古代都市トレドに行きました。トレドにはローマ人と西ゴート族が築いた城壁,ムーア人のイスラム教寺院と門,さらにユダヤ人の会堂があり,そこはさながら,石でスペイン史をつづる博物館のようでした。

さて,1930年代初めの開拓者たちの働きをちょっと見てみましょう。当時,一般の交通機関はバス,汽車,馬車およびラバでしたが,乗客が持ち込んだもの,鶏とかあひる,やぎ,そして一度など大きなメカジキといっしょに旅行しなければなりませんでした。また,地震で列車が脱線したこともありました。こうしたことを考え合わせて,テイラー兄弟は自転車を利用しました。自転車の前から後ろまでがんじょうな荷台を取り付け,フレームにもそれに合う箱を付け,当時伝道で用いたレコードを入れる袋を後部に付けて,自転車に工夫をこらしました。後になってからですが,犬の襲撃を防ぐために,石投器をハンドルに掛け,選んだ石の弾をそれに込めました。アルメリア地方のゴーストタウンや古い鉱山地帯を通過する時,飢えた犬の群れがその見慣れない動く物体に襲い掛かって来たのです。ある時フランクは後ろから襲われ,一本しか持っていないズボンを破られてしまいました。幸い,親切な女の人たちが針と糸を貸してくれました。フランクは即刻その場で,道の真ん中に座り,ほころびを直しました。そして,針を返すとすぐにその土地の人たちに伝道しました。様々な出版物を配布することができました。人々は本当に関心があったからというより,同情にかられて求めたものと思われます。

テイラー兄弟は伝道の時にできるだけ町の同じ道を通らないようにしました。左翼の共和主義者からカトリック支持の宣伝をするファシストの手先と間違えられることが多かったので,彼らを刺激しないためにそうしたのです。シウダードレアルのビラマンリクエという町で,神の名前が出ている本を持っているからフランク・テイラーはファシストだ,といううわさが広まりました。テイラー兄弟の言葉通り,そこの人たちにとって「神はカトリックを,カトリックはファシストを意味した」のです。ともかく,市の立つ広場で,怒った50人ほどの共産主義者たちがテイラー兄弟を取り囲んで,「あいつをやっつけろ。くたばってしまえ」と叫びました。とても逃げられないように思えましたが,フランクはカトリック教徒だった宿の女主人に言われた通り,「危機」と題する協会の小冊子の中から強い言い回しで書いてある一節を読み始めました。声を張り上げて読んでから,「自分で読んでください」と言って,その小冊子を首謀者の手にさっと渡しました。するとどうでしょう,驚いたことに,群衆のある者たちはフランクの肩を持ち,別の者たちはフランクを攻撃して大きな叫び声を上げ,互いに殴り合いをしそうになったのです。テイラー兄弟はそのどさくさにまぎれて無事に逃げることができました。

テイラー兄弟はエホバがそのように救い出してくださったことを感謝しました。が,事はそれで終わったわけではありません。朝の6時半に自転車で出掛けたところ,驚いたことに,広場が200人ほどの人でほぼ一杯になっていたのです。その人たちは,テイラー兄弟がバスで町を出るのだと思って待ち伏せていたのでした。テイラー兄弟は自転車を持っていてよかった,とどれほど思ったかしれません。すると,「あそこにいるぞ」という大きな声がしました。「本当に,私は今だかつてないほど速くペダルを踏みました。町から完全に出て次の村に向かうまで自転車を止めませんでした」。

そうした状況の中で

幸いなことに,いつもそれほど危険だったわけではありません。良いたよりを伝道する機会はたくさんありました。しかも,喜んで耳を傾ける人が少なくなかったのです。1930年代の半ばに伝道でレコードが使われるようになると,フランク・テイラーはそれを十分に利用しました。実際,小さな携帯用の蓄音機を持っていて,喫茶店でレコードを聞かせたものです。蓄音機を片手に持ち,テーブルからテーブルへ歩きました。講演のレコードが終わると,短い紹介の言葉を添えてキリスト教の出版物を提供しました。それは実に斬新な証言方法でした。しかし,「宗教や政治の話はお断わり」という張り紙のしてあることがよくありましたから,分別を働かせ,用心することが必要でした。

山岳部の村へ行くのはたいへんな仕事でした。道がぬかるんでいて,荷役のラバしか通れない状態になっている時には特にそうでした。自転車に乗るどころか,それを肩にかついで運ばなければならないのですから。テイラー兄弟は詳しい様子を次のように書いています。「最初,村に入るのはたいへん楽しい経験でした。細工品,野菜,肉が,大抵,ほこりっぽい道や乾いた川床のあちこちに広げられています。だれかが道端の丸いすに座って髪を刈ってもらっています。時には歯医者が,同じように丸いすに座っている患者の歯を抜いています。中でも目につくのは,でっぷり太った司祭たちがあたりをぶらついていることでした。酒場やとばく場で5,6人の司祭がテーブルの周りでたばこをふかしているのは珍しくありませんでした。司祭たちは典型的な僧服を着ていましたが,そのどれもほこりだらけで汚れていました。文書が配布されると,司祭たちはすぐさまページを荒々しくめくり始めます。お分かりのように,ローマ・カトリックの検閲官のしるしを捜しているのです。それが見つからないと,きまって『共産主義だ』と非難し,直ちに警察に知らせました。したがって見つかればたちまち逮捕されました。そういうことが幾度となくあったので,私は賢くなり,狭い通りを出たり入ったりしながら容易に身をかわすことができました。私はそれを『ねことねずみごっこ』と呼んだものです」。

問題は,町で捕まらないと町から出る時に必ず捕まえられたということです。多くの町は町はずれで一種の税関管理を行なっていたので,警察はそこでテイラー兄弟を待ち伏せていたのです。それから尋問に何時間も無駄な時間が費やされ,すぐに釈放されないために失望させられました。テイラー兄弟はイギリス人だったのでいつもイギリス領事と連絡を取ることを求めました。当局は,訴えの対象となる罪を見いだせないので,結局テイラー兄弟を釈放したものです。

アルメリアに入るとすぐ,テイラー兄弟は,草木一本生えていない,乾燥し切って荒れ果てた砂漠にぶつかりました。鳥の姿さえなく,ただ日に2回ロバのものさびしい一隊が砂ぼこりを上げて通るだけで,動く物影はどこにも見当たりませんでした。しかし,アルメリアにはその埋め合わせとなるものがありました。テイラー兄弟は聖書研究者の小さな群れを発見したのです。かたことのスペイン語しか話せませんでしたが,2,3か月ほどその謙そんな兄弟たちと交わって大きな喜びを得ることができました。その間に政治情勢が悪化し,アルメリアの街路でそ撃がありました。そのため,アルメリアでの最後の集会に出席して,自転車で宿舎に帰る時,テイラー兄弟は頭上に白いハンカチを振って砲火の間をくぐらねばなりませんでした。

1935年の夏,海岸の町々で証言した後,テイラー兄弟は,当時約16万人の人口を持っていたムルシアに着きました。そこで,天井に細い明かり取りのある地下室を宿舎にすることができました。少なくともそこは,シロッコという焼けるような熱風がサハラ砂漠から地中海を通って吹いて来る間,涼しい場所でした。そうした熱さの中で伝道することはテイラー兄弟にとって大きな試練でした。時には,暑さのために一時的な精神錯乱を起こすことさえありました。

ドイツの兄弟たちと援助し合う

1930年代の初め,政治的に混乱したドイツの情勢はエホバの民にとって次第に困難なものになっていました。その結果,やがて12人のドイツ人の開拓者たちがスペインで奉仕するためにやって来ました。一つのグループは文字通り熱い歓迎を受けました。というのは,一行の乗った列車がバルセロナの駅に到着した時そこは政府に対する反乱のさ中だったからです。出迎えに行ったアーネスト・イーデンはその地域一帯が戦場と化していることを知りました。そして銃弾を避けるために郵便局に飛び込んで,撃ち合いが終わるまで2時間待たねばなりませんでした。やっと駅に着くと,ドイツの兄弟たちは平然として待っていました。本当に困ったのはそれからです。ドイツの兄弟たちは英語もスペイン語も話すことができず,イーデン兄弟はドイツ語を話せませんでした。しかし,それにもかかわらず,ドイツの兄弟たちは3か月間訓練を受けてスペイン語で伝道することができるようになりました。

マドリードとバルセロナにいた少数のエホバの証人たちは,ドイツの兄弟たちの窮状に心を痛めていました。それで,他の国の証人たちと同様,アドルフ・ヒトラーに,エホバの証人に干渉するならヒトラーとナチスがどんな結果になるかを警告する電報を打って,エホバの証人に対するナチスの扱いに抗議しました。

その期間に証人の活動は活発化して,イエズス会にそそのかされた分子によるあからさまな反対が起きました。ある町で開拓者たちは,「『ユダヤ系フリーメーソン』の傾向を持つ文書を流布している」と訴えられました。別の町では2人の姉妹が投獄され,「ヒトラー主義的性格の小冊子」を配布しているとして罪に問われました。さらに他の場所で,兄弟たちはプロテスタントというらく印を押されました。それは,何も知らない大多数のカトリック信者に関する限り,兄弟たちが最も悪質な異教徒もしくは異端者であることを意味しました。

開拓者たちは使命を果たし続ける

1934年の末か1935年の初めごろ,ジョン・クックとエリク・クックはバルセロナを後にして南の沿岸地域で奉仕しました。他方,アーネスト・イーデンは引き続きバルセロナ県の町々で伝道を行ないました。

ジョン・クックとエリク・クックは最初に地中海沿岸を南下し,ローマ人によって建てられた有名なタラゴナとそのすぐ近くのレウスという町に行きました。進路を北へ向けてレリダ県に入った二人は,プラデルという村で,雑誌を予約購読していたサルバドル・シレラを見つけました。シレラは真理を学んで,バルセロナの彼の下宿屋でクリスチャンの集会を開かせてくれた人でした。

近隣の町と村でサルバドルといっしょに数日の間伝道した後,ジョンとエリクはサルバドルに伴われて145㌔離れたウェスカへ自転車で行きました。その旅行はしがいがありましたか。確かにそれは有意義な旅行でした。というのは,雑誌の予約購読者のネメシオ・オルスが3人を温かく迎えてくれたからです。また,オルスは真理を一気に吸収しました。ところが,オルスは3人の兄弟たちと交わりたいという願いが強く,そのことに熱心なあまりやや軽率な行ないをして妻にしっと心を起こさせました。その結果,オルスの妻は兄弟たちにぬれぎぬを着せてひそかに警察に訴えたのです。ガーディア・シビル,すなわち地方警察がアパートに来てジョンとエリクを逮捕しましたが,本部で事は解決しました。

二人は様々な機会にネメシオを訪問しました。そして,サルバドル・シレラも招待して,1935年4月17日にウェスカで死の記念式をするのは良いと考えました。ジョンはその提案を手紙に書いてネメシオに送りました。ネメシオから返事を受け取った時,ジョンはすっかり驚いてしまいました。その手紙には,ウェスカで死の記念式が開かれることに感激したこと,そのためすでに子羊を買ったことがしたためられていたからです。ネメシオの熱意はほめるべきものでしたが,明らかに彼は記念式のことをまだ十分に理解していなかったのです。アパートの4階の狭い部屋で何日間も子羊を飼うことがどのようなものであったか想像できるでしょうか。ともかく,記念式は祝われ,それはイエス・キリストの追随者の小さな群れにとって大切な出来事でした。実際,その記念式は当時のスペインの兄弟たちにとって大会が開かれたようなものでした。

ウェスカ地方が十分に網らされたと感じたジョン・クックは,エリクと共にアラゴン地方の首都サラゴサへ向かいました。サラゴサはスペインの聖母マリア特別崇敬の中心地でもあります。1936年当時そこの人口は17万人でした。サラゴサの北部をエブロ川が貫流し,その南岸に,有名な大理石の柱があり,幾つものせん塔を持つ大聖堂,すなわちピラール寺院が立っています。カトリックの伝説によると,パレスチナにまだ生存していたという処女マリアがそこで西暦40年に使徒ヤコブに現われたことになっています。その伝説には歴史的な根拠も聖書的な裏付けもありませんが,何世紀もの間にラ・ピラリカ(聖母マリアのピラール)に対する盲目の信仰が発達したのです。

そのころ,バプテスマが施されることはきわめてまれでした。そうではあっても,ジョン・クック兄弟は,そうするだけの十分な理由がなければバプテスマを施しませんでした。事実,ネメシオ・オルスはウェスカからサラゴサまで72㌔の道を自転車で3度もやって来ましたが,クック兄弟は彼に,バプテスマに対してゆるがない決意をしているという確信を持つまでもう少し待ちなさい,と言い続けました。そして,結局,1936年5月にサラゴサに近いエブロ川でネメシオ,アントニオ・ガルガリョ,ホセ・ロマノスにバプテスマが施されることになりました。

その当時,開拓者たちは融通をきかさねばなりませんでした。家の人が文書を求めたくてもお金を持っていない場合,卵やイチジクや自家製のパンなどの食物と文書を物々交換したものです。クック兄弟はこう語っています。「私は生卵と厚切れのパンとコップ一杯のワインで簡単に食事を済ますことに慣れました。……ですから,粗削りで簡素な生活でしたが,とても幸福でした。スペインのようなカトリックの本拠で文字通り開拓の業を行ない,少数の真に羊のような人々を見いだしているということに私たちは大きな感動を覚えました」。

ファシストと間違えられる

エリク・クックとアントニオ・ガルガリョがメディアナの村で証言していた時,ある女性から,二人がファシストの手先で時のスペイン共和国に反対していると偽って訴えられました。その根拠は,ただ,その女性が二人から求めた小冊子に神とキリストのことが書かれていた,ということだけでした。クック兄弟によれば,その村の人々はほとんど全員共産主義者でした。村人にとって,神とキリストを扱ったものはすべてローマ・カトリックであり,したがってそれはファシストでした。村人にそれ以外のことを納得させることは不可能でした。

最初に大勢の女性が集まりました。次いで町のふれ役がクック兄弟に,村から出て行け,さもないと地方警察に知らせると言いました。兄弟たちは村から出て行きませんでした。そのため後に警察がやってきました。本署で巡査部長が小冊子を念入りに調べ,クック兄弟とガルガリョ兄弟に質問しました。そして結局,問題になる箇所は一つもないが,村人から苦情が届いているので,さらに調査しなければならないだろう,と言いました。それから,巡査部長は,一番近い町の副官なら兄弟たちの業の合法制についてより良い決定が下せると考えて,クック兄弟にその副官へ手紙を持っていくように告げました。

エリクとアントニオが車の跡のついた道を進んでいる時,上着を着ていない数人の少年が二人に付いて畑を走っていました。間もなく,一人の男と数人の少年が兄弟たちの後ろから近づいて来ました。クック兄弟の話では,総勢20人余りが一か所に集まりました。クック兄弟はさらにこう語っています。「二人は私たちがファシストの宣伝者だと言いながら私たちの腕をつかみました。私が逃げようとすると,一人の大胆な少年が私の腹部をくまでで突きました。別の少年は,私が読もうと思って持っていた英語の『立証』と題する本を取り上げ,『見ろ!イタリア語だ!この二人はファシストの手先に違いないぞ』と言いました。アントニオは説明しようとしましたが,その人たちは理性的に考えることができなくなっていました」。

アントニオの書籍を入れるかばんは自転車からもぎ取られ,文書は地面に捨てられました。もう一人の攻撃者はエリックの後部から書籍のかばんをもぎ取ろうとしました。その間に他の者たちはまきにする小枝を集め,本をばらばらにして焼く用意をする者もいました。

「絶望に思えたちょうどその時」と言って,エリクはこう語ります。「私たちは彼らの態度が変わったのに気付きました。そこにいた女たちは逃げ出し,私たちの手首をつかんでいた手がゆるみました。後ろを振り向くと,地方警察の4人の巡査が道を曲がって来るところだったのです。どんなにうれしかったでしょう。アントニオが言ったように,エホバは事態がある所まで進展するのを許し,それから介入されたのです」。

その後,兄弟たちは市の長官の前に出頭しました。市の長官は証人たちの業にけん疑が掛けられたことに驚いていました。そして,これはそのころの不安な政治情勢のためでもあると述べました。正にその通りでした。その経験は,スペインの人々が政治的にすべりやすい道,やがて彼らを恐ろしい血の粛清に陥れる道を歩んでいたことをはっきりと物語っていたのです。

内乱!

1936年2月に総選挙が行なわれ,2年続いた中央右翼の支配に代わって,再び左翼の人民戦線が政権を執りました。この最後の人民戦線政府のもとで,すう勢は崩壊の方向に向かい,事態は急速に進展しました。7月13日に,著名な右翼の君主制主義者であったホセ・カルヴォ・ソテロが暗殺され,それが引き金になって全国的反乱もしくは暴動(スペイン人の政治的見解による)が起こりました。反乱は7月17日にアフリカで始まり,7月18日にフランシスコ・フランコ将軍はラジオ放送を通じてその説明をしました。スペイン内乱がぼっ発したのです。50の県のうち,21県は共和派を支持し,29県は全国的反乱を支持しました。マドリード,バルセロナ,バレンシア,ビルバオなどの主要都市は共和派に忠実でした。

内乱は宗教的かつ政治的復しゅう戦争で,百万人を上回るスペイン人の命を奪いました。内乱が起きていた3年間,人々は,ロス・ロホス(赤,すなわち共産主義者)か,聖戦をして神に仕えていると信じて疑わないカトリックの死刑執行人の手で情け容赦なく殺されるのではないかとおびえながら生活しました。古い負債は致命的な方法で帳消しにされました。すなわち,だれかが匿名で貸主を告発し,犠牲になった貸主は寂しい野原で射撃隊に銃殺されたのです。

クリスチャンの活動は影響を受けた

こうした情勢はスペインのエホバの証人の業にどのような影響を及ぼしたでしょうか。内乱を生き抜いた人,カルメン・ティエルラセカ姉妹の目を通してその時の出来事を見ると,当時の兄弟たちの気持ちが一番良く分かるのではないでしょうか。同姉妹は次のように書き記しています。

「マドリードでは,恐怖と混乱と苦しみの波が荒れ狂いました。人々は,長年僧職者に圧迫されたので,教会に対する怒りのあまり,過激な行動に走り,教会を焼き,像をこなごなに打ち砕いてそれを市中に引き回しました。でも,そうした混乱が突然起きたにもかかわらず,私たちは敬意を示され,干渉を受けませんでした。

「モンタニャの兵舎は,私たちの小さな集会場の近くにありました。そこは血みどろの戦場となり,その地帯全域は軍隊が占領しました。外国人の兄弟たちは直ちに国外に出なければならなくなり,私たちだけが残されました。その後間もなく,協会に所属するすべての物がアリェ・デ・カダルソ(先に支部事務所が移った場所)から持ち去られました。どこに持ち去られたのか私たちには皆目分かりませんでした。そこに保管されていた多数の書籍と小冊子は持ち去られたり焼かれたりしました。真理を印刷するための紙,賛美を印刷するための機械,私たちが聖書を研究するのに使っていたいす,業を組織していた事務所,そのすべてが本当に残念なことに無くなってしまったのです。……スペインにおける業は沈黙の海にのまれたかのようにすっかり影をひそめてしまいました。こうしたことに私ははかり知れないほど悲しい気持ちになりました。私たちは独りぼっち,完全に独りぼっちになっていました。『羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されて』,各人が自分でやってゆかねばなりませんでした」。―マタイ 9:36

内乱がぼっ発する直前に,二人のクック兄弟は休暇でイギリスへ行きました。1936年までにフランク・テイラーはセビリャ県とカディス県での証言活動を完了し,次はバレアレス諸島に行こうと決めていました。そして,できれば船でジブラルタルを経由して行こうと考えていました。ラ・リネアという国境の町へ行ってみると,かつてのどかだったその町が略奪と焼き打ちに遭い,ファシストとその配下の白いターバンを巻いたムーア人の部隊の手に陥落していました。テイラー兄弟が税関へ行こうとして空き地を横切っている時,機関銃やライフル銃やピストルの弾が文字通り雨あられと降って来ました。しかし,テイラー兄弟はそれをなんとか切り抜け,日が暮れてから,ジブラルタルの国境まで緩衝地帯を走って横断しました。「弾丸が2,3度私のそばを走りました。しかし,私は自由の身でした。うれしくて歌をうたいました」,とテイラー兄弟は回顧しています。

一方,アーネスト・イーデンはスペインから追放されましたが,その前にしばらくの間地下牢に入っていました。その地下牢はちょうど両端が開いていないトンネルのようでした。そこでイーデン兄弟と一人のドイツ人の兄弟は毎日,ロールパン1個とどんぶり一杯のコーヒー,それに煮まめを約0.5㍑食べて生活しました。「私たちはそこに2か月いました。そのような食事は体重を減らす食事にもってこいだと思います」,とイーデン兄弟は語っています。スペインから追放された二人は,険しい山脈に登って行き,下りの道ではころんだり,倒れたり,傷ついたりしながら歩いてフランス側にたどり着きました。フランスに着くと,二人は別れ,アーネスト・イーデン兄弟はついにイギリスへ渡りました。

内乱ぼっ発当時,アメリカの市民権を持つO・E・ロッセリィ兄弟は,アフリカ西岸沖にあるスペイン領のカナリア諸島で伝道していました。ロッセリィ兄弟がでこぼこ道に沿って散在する家々で証言している時,待ち伏せていた二人の兵士が飛び出してきて,ロッセリィ兄弟を拘引しました。ロッセリィ兄弟は刑務所に12日間勾留された後,国外に追放されました。その“罪状”はというと,「ファシズムとは何か」と題するパンフレットを配布していたということでした。そのパンフレットには,クリスチャンはファシストでも共産主義者でもなく,来たるべき主の王国について証言している,ということが書かれていたのです。

こうして,スペインでのエホバの証人の活動は内乱によって大きな打撃を受けました。1936年7月から11年間,外部からの世話を受けることのできない完全に孤立した状態になったのです。スペインの一人一人の証人はゆらめくろうそくのともしびのようになり,息づまるような霊的薄暗がりの中で忠誠のほのおをともし続けようとしました。屈服した人がわずかにいましたが,大多数の人の話は,その厳しい年月の間,エホバの霊の打ち勝ちがたい力の支えがあったことの証拠となっています。

孤立していた間試練に直面する

内乱の最中およびその後,エホバを喜ばせようとした人すべては様々な試練に遭いましたが,特に男の人たちが試されました。内乱が始まった時に,共和派が支配する地域に住んでいた人々は,共和派といっしょに戦うことを期待されました。一方,“反乱”側の地域に住んでいれば,右翼のカトリック勢力に組して戦うことを求められたのです。この問題が1936年に起きたことを忘れてはなりません。兄弟たちはクリスチャンの中立について基本的に理解していたものの,1939年11月に英文で出版されたクリスチャンの中立を扱った「ものみの塔」誌の益にはあずからなかったのです。したがって,兄弟各人は,何らかの方法で忠誠を保たねばならないことを知っていましたが,疑問を解決するために目に見える組織と連絡を取ることができなかったばかりか,後に与えられた中立に関する明確な理解を持ってもいませんでした。

当時どんな問題があったか,実例として,3人の幼い子供を持っていたウェスカのネメシオ・オルス兄弟の場合を考えてみましょう。戦争が始まってから2,3日後に,オルス兄弟は共産主義者かフリーメーソンのけん疑で取り調べを受けました。取り調べに来た人々は,出征する兵隊に無理矢理拍手を送らせようとしました。また,ウェスカのファシストのグループに入れようとオルス兄弟に圧力を掛けました。オルス兄弟がそれらを断わると,将来仕返しをするための“ブラック・リスト”に名前を載せられました。

1936年8月のある晩,オルス兄弟は逮捕され,警部の尋問を受けて投獄されました。結局サラゴサの刑務所に入り,敷ぶとんのない監房で12日間過ごしました。二重にした毛布を床に敷いて寝たのです。他の囚人たちに証言したため,その後13日間独房に入れられました。そして,ついに1936年12月16日に釈放されました。

しかし,それで問題がなくなったわけではありません。オルス兄弟の一家はアンソに引っ越したのですが,1937年の冬にオルス兄弟はそこの市役所から召集令状を受け取ったのです。クリスチャンの中立を守りたかったのでそれに応じなかったため,再び投獄されました。しかし,結局,健康上軍務に不適格であるという理由で釈放されました。その後,オルス兄弟の一家はウェスカ県内のもう一つの町,バーバストロに引っ越しました。ネメシオはそこで再び時計の修理業を営み,その時から約10年の間神の民との接触を全く失いました。

終戦後は,数人の兄弟たちと真理に関心のある人々を含め,スペインの人々にとって非常な苦難の時代でした。各地で食糧と燃料のはなはだしい欠乏が見られました。そうした状況下で,ある兄弟たちはクリスチャン愛を示すことができました。(ヨハネ 13:34,35)例えば,レリダのプラデル村に住んでいたサルバドル・シレラは,土地を耕作して食糧を確保することができました。バルセロナの兄弟たちはそのようなわけにはいきませんでした。バルセロナでは,当時一日の賃金が平均12ペセタから14ペセタでしたが,いなごまめ5個が1ペセタもしていました。また,パンとかオリーブ油などの基本的な物品が欠乏していました。したがって,シレラ兄弟が,都市に住む困窮している兄弟たちに分ける食糧を持ってバルセロナにやって来た時,フアン・ペリアゴ兄弟がどれほど感謝したか想像できます。

新政権は先の共和政府のこん跡を一掃する決意をしていました。そのために,郵便物と新聞は厳しい検閲を受けました。したがって,ナティビダト・バルクエニョ姉妹とクララ・ブエンディア姉妹がブルックリンのものみの塔協会に文書を注文する手紙を出したところ,それは何の役にも立ちませんでした。というのは,その手紙は検閲官に途中で抜き取られ,スペイン国外に送られなかったのです。2,3日後,警察が二人の姉妹の家に来て質問し,一人の姉妹の家を捜索しました。そして二人に,“誤った信仰”に関心を持つのをやめるようにと警告しました。

当時,投かんする書状の封筒に必ず愛国的な言葉を書かねばなりませんでした。そうしていない郵便物は配達されなかったのです。したがって,神の民は,中立の立場を維持するために協会へ手紙を出しませんでした。

もう一つ要求されていたのは,国歌が聞こえてきたら,たとえそれがラジオの放送であっても,またどこにいる場合でも必ず起立して,ファシスト式の敬礼をすることでした。兵営で国旗を上げている時や下げている時にそのそばを通る場合,あるいは,軍隊が国旗を掲げて通過する場合にも,起立して敬礼することが求められました。そうしたある日,アントニオ・ブルネット・フラデラとルイス・メディナがバルセロナの通りを歩いていた時,兵士の大隊が国旗を掲げて行進してきました。アントニオとルイス以外の人はみな気をつけの姿勢を取って国旗に敬礼しました。すると,指揮をしていた将校は軍隊を止めて,敬礼するよう二人の青年に脅すような調子で命令しました。二人が拒否すると,将校は二人の右手をつかんで敬礼する格好に持ち上げました。ところが,一方の青年が,「私たちは敬礼してはいません。敬礼しているのは,私たちの腕を持ち上げているあなたです」と言ったのです。怒った将校は二人の腕を降ろすと,ピストルを抜いて二人に突き付け,「さあ,敬礼するだろうな」と言いました。兄弟たちは今度も拒否しました。「何だと,敬礼しなければ,撃たれることが分からんのか」。返ってきたのは,「神がお許しになるなら,私たちはあなたに殺されることになるでしょう」という言葉でした。それを聞いて失望した将校はピストルを革袋に収め,二人の青年を逮捕連行しました。それでも2人は忠誠を守りました。興味深いことに,アントニオ・ブルネットはその時まだバプテスマを受けてさえいませんでした。彼は数年後の1951年6月になってバプテスマを受けたからです。

カトリック教会が再び権力を持つようになったので,エホバの証人の子弟に,特に学校教育を受けさせる点で面倒な問題が起こりました。公立の学校で教育を受けるには,子供がバプテスマを受けたカトリック教徒であることを証明するバプテスマの証明書を示さねばならなかったのです。ナティビダト・バルクエニョは娘たちに教会でバプテスマを受けさせていませんでした。ですから,娘たちが学齢に達した時,必死に探してやっと,バプテスマの証明書にあまりこだわらない学校を見つけることができました。

それでも問題はありました。というのは,その教区の司祭が,全校生徒に日曜日の朝教会へ行くことを強制したのです。出席したことを確認するため,各生徒に青いカードを配って,生徒が教会に入る時にそのカードに印を付けました。月曜日の朝ごとに,学校でそのカードの検査が行なわれ,教会に行かなかった人がいないか調べられました。その時のことを回顧して,ナティビダトの娘の一人はこう語っています。「もちろん,私のカードには一つも印が付いていませんでした。月曜日が来るたびに,私と先生はその問題に直面しなければなりませんでした。ある月曜日,ついに先生はこう言いました。『いつまでもこのままにしておくわけにはいきません。あなたがミサに出席するか,私がこの問題を上司に提出するかです』」。ナティビダトの娘は家に帰ってそのことを母親に話しました。母親はそれに対処するために,ただ使徒 17章24節を娘に教えました。それは,神は手で作った神殿に住まわれないことを述べている聖句です。幼い娘は,その聖句を引いて,ミサに出席しない理由を教師に説明しました。それは功を奏しました。というのは,それ以後,その教師は月曜日の検査の時にナティビダトの娘を困らせなくなったからです。事実,司祭が月曜日に青いカードを調べるためにやって来る時,その教師は問題が起きないようにナティビダトの娘のカードを隠しました。

トルラルバで真理の種が成長する

内乱とその余波によって,神の民は確かに試みられ,多くの問題に直面しなければなりませんでしたが,植えられた真理の種は実を結び続けました。例えば,トルラルバ・デ・カラトラバで長年掛かって幾らかの実が生み出されました。実際,そこに最初の種がまかれたのは,ホセ・ビセンテ・アレナスが初めて真理を聞いた1931年のことでした。時がたつにつれて,非公式の証言がなされ,いろいろな人が少しずつ感化を受けました。ものみの塔協会の出版物を読んでいた人々に加えて,数人のプロテスタント信者もいました。その人たちは協会の出版物に示されている理解とプロテスタントの教えとを混同していたのです。事実,そのうちの一人は一方で協会の文書を頒布しながら,マドリードにあった英国および外国聖書協会の聖書文書頒布者の活動もしていました。不穏な時期に,集会は秘密に開かれ,エホバの証人というよりもプロテスタントの信者といえる人々によって司会されていました。

1946年までに,小さないなか町トルラルバの聖書研究者のグループはスペインで一番大きな聖書研究者のグループになっていました。その人たちは当時なお手もとにあった協会の出版物を学んでいました。研究を通して,バプテスマを受けなければならないことに気付き,1946年9月2日に近くのグアジアナ川でバプテスマを行なう取決めを設けました。その日,非常に簡素で厳粛な雰囲気のうちに9名の人がバプテスマを受けました。バプテスマの話は行なわれず,9人が川に入ってバプテスマを施されました。次いで全員川岸にひざまずき,一人一人が神に祈りをささげたのです。2週間後に再びバプテスマが行なわれ,さらに3人の兄弟が受浸しました。そのグループには女性も何人かいたのですが,不思議なことに,女性はだれもバプテスマを受けませんでした。また,詳細を言えば,もう一つ興味深いことに,“プロテスタント”の分子は,グループの主導権を維持しようと努めていたにもかかわらず,そのバプテスマに一切関与しませんでした。

1946年9月26日,グレゴリオ・フエンテス兄弟はペドロ・ガルシア兄弟の実の姉妹と結婚しました。結婚式の客の中に,聖書の知識を豊富に持っていたために,ほとんど族長のように考えられていた一人のプロテスタントの信者がいました。その人物は,将来トルラルバの活発な聖書研究者のグループの牧師になりたいと考えていたのです。結婚式がすむと,その人物は全員で主の夕食を祝うのはどうかと提案しました。そして話を行ない,その中で主の夕食に定期的にあずかることの必要を強調しました。出席者全員は,そのプロテスタントの“羊飼い”の指示に従って表象物にあずかりました。その人物は再び主の夕食を祝うために11月にまた来ることをほのめかしました。

ところが,ある兄弟たちはその出来事に確信を持てず,その人物がもどって来る前に聖書と協会の出版物を徹底的に調べて,自称“牧師”を論ばくするために必要な証拠を見付けました。彼は到着するとすぐに,グループの中のだれ一人“主の夕食”を祝う準備をしていないこと,またグループの人たちが自分に従わないことを知って失望しました。言うまでもなく,その人物は二度と再びやって来ませんでした。

新聞記事がきっかけで,本部との連絡が再開

1946年の顕著な出来事は,アメリカのオハイオ州クリーブランドで開かれた,8万人という出席者最高数を見た喜びを抱く国々の民の神権大会でした。言うまでもなく,スペインはその大会に代表者を派遣しなかった国の一つでした。内乱ぼっ発後10年たってなお,スペインのクリスチャンと世界の他の国々にある神の組織との間の連絡は途絶えていたのです。しかし,その際立った大会は世界中で新聞種になり,スペインの新聞でさえそれを報道しました。そうした新聞記事はわい曲されており,偽りで満ちていました。が,そのおかげで,エホバのクリスチャン証人の統治体と,スペインで機能を果たしていた神の献身した民の小さな群れとが再び連絡を取り合えるようになりました。

新聞は,エホバの証人が1946年から1948年の間に核爆発で世界が滅びることを期待していると報道しました。3人の兄弟はそれぞれ別個にその“ニュース”をスペインの新聞で知りました。マヌエル・アレクシアデス兄弟はそれをマドリードの新聞で知り,直ちにその“預言”に関する問い合わせの手紙をアメリカのニューヨーク市ブルックリンにある協会の本部に送りました。一方,ラモン・セルラノは別の新聞でその記事を読み,ラモン・フォルネに知らせました。ラモン・フォルネも協会に手紙を書きました。同じ時,トルラルバの兄弟たちはそのニュースを見て,同様に協会のブルックリンの事務所と連絡を取りました。1946年の大会がきっかけとなって,スペインの兄弟たちが再び全世界のエホバの目に見える組織と連絡を取れるようになる,とだれが考えたでしょうか。実際のところ,悪魔を喜ばせたに違いない偽りの報道が,はからずも悪魔に不利な結果を生んだのです。

スペインの兄弟たちがどれほど喜んだか知れません。「子供たち」,「新しい世」,「真理はあなたがたを自由にする」,「王国は近し」などのクリスチャンの文書が少しずつですが再びスペインに入って来るようになりました。それらの書籍はスペインの兄弟たちに贈物として送られましたが,それは本当にすばらしい贈物でした。スペインの兄弟たちは,霊的に乾いた砂漠を10年ほどさまよった末,ついに再び真理のオアシスを発見したのです。

統治体との接触が回復される

そうした接触の結果,エホバの証人の統治体は,1947年の5月にスペインの群れを訪問する取決めを設けました。アメリカのニューヨーク市,ブルックリンにあるものみの塔協会本部からF・W・フランズとH・C・コヴィントンが5月7日に到着し,二人はその晩マヌエル・アレクシアデス兄弟の家の食堂で11人のスペインの兄弟たちと共に最初の集まりを開きました。出席者全員は,「ものみの塔」誌を定期的に購読すること,またキリスト教の最新の出版物を一つ残らず入手することを願っていました。しかし,訪問した兄弟たちは事実上すべての兄弟たちがたばこを吸っていることに気づきました。もっとも,その場では喫煙について何も触れませんでした。翌日16人の兄弟たちと共に二度目の集会が開かれました。

トルラルバ・デ・カラトラバから来ていたペドロ・ガルシアとグレゴリオ・フエンテスはその二つの集まりで確信を強めました。トルラルバにいたグループは,ブルックリンの兄弟たちに会いに来てもらうように招待するかどうかということで意見が分かれたため,ペドロとグレゴリオをマドリードに派遣して状況を判断させたのです。さて,モーセの時代の忠実なスパイに幾分似て,二人は良い印象を受けたので,アメリカから来た二人の訪問者と共にそちらへ向かうという電報をトルラルバのグループに打ちました。

それには,まず,シウダードレアルまで汽車で行き,それから,ややおんぼろでがたがたした古いタクシーに乗ってトルラルバへ行きました。午前1時35分に到着した一行は,待っていた大勢の兄弟たちの出迎えを受けました。

その朝,訪問者は地方警察の本署に行って,自分たちが来ていることを登録しました。その晩,集会に24名の人が集まり,霊的に大いに元気付けられました。ところがその訪問は小さないなか町の一般の人々にも影響を与えました。例えば,ビエンベニド・ゴンサレスはこう回顧しています。「二人は,特に町の人々にとって,見せ物的な存在でした。フランズ兄弟は,町の標準からして普通の体格をしていましたが,普通とは決して言えないソンブレロ,つまり帽子をかぶっていました。そのソンブレロは山が高い上につば広で,そのあたりでは見かけないものでしたから,フランズ兄弟がいることはすぐに分かりました」。

日曜日,トルラルバの群れの人々と最後の集まりが開かれ,38名の人は一つの部屋にひしめきあいながら,その集まりを楽しみました。会衆の組織について説明がなされ,群れの業を監督する兄弟が任命されました。それはホセ・ビセンテ・アレナス兄弟とフアン・フェリクス・サンチェス兄弟の二人です。その集会で喫煙の問題が取り上げられました。というのは,自分たちのほとんど全員が喫煙するのに,二人の訪問者はたばこを吸わないということに群れの人々が気づいたからです。群れの兄弟たちが質問をすると,コヴィントン兄弟は,自分もかつてはたばこを一日に50本ぐらい吸っていたが,王国の真理を知って喫煙の習慣がクリスチャンの生活と相いれないことに気づいた,という自分自身の経験を語りました。そうした話の後でも,その群れで喫煙の問題はなくなりませんでした。たばこをやめたくない人々がいたのです。

集会後,訪問者たちが町から出発することを地方警察に連絡しました,とはいえ,町にただ1台しかないタクシーはパンクしていましたから,マドリード行きの汽車が出る16㌔離れたシウダードレアルまでどのようにして行けたのですか。フランズ兄弟は後日こう伝えました。

「真夜中に,私たちは馬車屋の戸をたたいて主人を起こしました。馬車屋は覆いのある2輪馬車をくたびれた馬につなぎました。その馬は首の下にジングルベルを付けていました。トルラルバの友人数名に別れを告げると,私たち4人は御者の付いた馬車に乗り込みました。そして,鈴をシャンシャン鳴らしながらやみの中をがたごとと西へ向かったのです。……午前3時にシウダードレアルの駅に着きました」。

訪問者は汽車に乗り,マドリードに無事に着きました。その日の後刻,マドリードの兄弟たちとの最後の集会が開かれ,12人の出席者の中から一時的な主宰監督と「ものみの塔」研究の司会者が任命されました。

翌日フランズ兄弟とコヴィントン兄弟は飛行機でバルセロナへ行きました。バルセロナでは,同地の会衆を組織的に運営するための奉仕委員が一時的に任命されました。任命を受けたのは,ラモン・フォルネ兄弟,ラモン・セルラノ兄弟,フランシスコ・セルラノ兄弟です。

5月15日,二人は汽車でバルバストロへ向かいました。目的地まで10時間掛かりました。途中,汽車は有名なモンツェルラト山のそばを通りました。その山には,指が天を指しているような一板岩でできた風変わりなせん塔があります。また,山の上の方には,「モンツェルラトの聖母マリアの像」のある修道院が建っています。その像は,一説によると長年その下でろうそくがともされて黒くなったため,「黒い処女」とも呼ばれています。

バルバストロで二人の兄弟はネメシオ・オルス兄弟とその家族および関心を持つ人々の歓迎を受けました。そこで二晩続けて集会が開かれ,ネメシオは一時的な主宰監督として奉仕するように任命されました。

その後訪問者はバルセロナにもどって,1947年5月18日に20名ほどの人々に話をしました。そしてラモン・フォルネは,バルセロナをたつ前に,スペインにおけるエホバの証人および証人たちの会衆の全活動を監督する一時的なしもべに任命されました。

王国奉仕の新しいが開かれた

1947年12月,統治体の他の成員,すなわち,N・H・ノア兄弟とM・G・ヘンシェル兄弟がスペインのクリスチャンを訪問しました。二人の兄弟はスペインにいる信仰の仲間を霊的に援助することができました。その二人に同行していたのは,ものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業していたジョン・クック兄弟でした。そうです,1936年,スペイン内乱がぼっ発する直前にスペインから離れたあのジョン・クック兄弟で,この度は,スペインとポルトガルにおける証人の業を組織するためにイベリア半島に任命されたのです。

援助を必要とした土地の一つはバルセロナで,そこには,個性の違いから分裂が生じたために二つの別個の群れがありました。クック兄弟がバルセロナの空港に着いた時,二つのグループからそれぞれ数人の兄弟たちが出迎えに出ましたが,お互いに他方の群れの兄弟たちにあいさつしようとしませんでした。最初の1,2週間,状況は非常に難しく,兄弟たちは無秩序で実質的に野外奉仕を行なっていませんでした。しかし,短期間のうちに,クック兄弟は二つのグループの合同の「ものみの塔」研究を開くことができました。それ以来,雰囲気は少しずつ良くなりました。もっとも,傷ついた感情がいやされるには長い時間が掛かりました。

スペインでの業を再び活発にするための重要な第一段階は,戸別の伝道活動を再開することでした。そのことが提案されると,「でも,クック兄弟,ここはロンドンでもニューヨークでもありません。フランコ支配下のスペインですよ。戸別の業はできるはずがありません」,という抗議の声が聞かれました。クック兄弟はそうは考えませんでした。それで,自分の考えに従って行動を開始し,警察に見付からないように,あるいは実際に密告されないように,あちらこちら所々の家を訪問しました。クック兄弟に模範を示されたので,他の兄弟たちもそれに倣い始めました。そして,巧みさと思慮を示し,カトリックの聖書を用いるなら,自分たちも確かに家から家に伝道できるということを間もなく悟りました。こうして,内乱後初めて組織的な戸別伝道の活動が行なわれた1948年に,スペインで34人の王国伝道者が報告されました。

マドリードの群れはバルセロナの群れよりも弱く,先に立つことのできる有能な兄弟がいませんでした。群れの中に有害なプロテスタントの信者がいたにもかかわらず,カルメン・ティエルラセカやナティビダト・バルグエニョのような姉妹たちは組織の指導に黙ってつき従っていました。集会は,マドリード市のはずれのバリェカス地区にあった,そのプロテスタントの人物の家で開かれていました。彼はずっと以前にトルラルバ・デ・カラトラバで証人の群れを牛耳ろうとした人物で,ジョン・クック兄弟が到着する前は,「ものみの塔」研究を司会していました。それは時に3時間近くにも及び,その人物は30分も注解することがありました。当時マドリードには有能な兄弟がいなかったので,クック兄弟は実際に事態を改善することができませんでした。

クック兄弟はマドリードから汽車に乗ってシウダードレアルに行き,そこでトルラルバ・デ・カラトラバから来た兄弟たちの出迎えを受けました。最初の数日間は万事が順調に進み,地方警察の厳重な監視を受けながらも兄弟たちと幾度か良い集会を開くことができました。ところが4日目ごろにジョンは病気で寝込んでしまったのです。熱があり,肺に異常を感じました。水分をたくさん欲しがりましたが,その町の水は確かに良くありませんでした。さらに悪いことに,町には適当な医師がいませんでした。ジョンにとっても,また,地方警察からけん疑をかけられているその“やっかいな”外人を持て余していた兄弟たちにとっても,日に日に事態は悪化していきました。ついに,ジョンは非常な努力を払ってバルセロナへもどりました。バルセロナではラモン・セルラノとフランシスコ・セルラノがジョンを出迎え,自分たちの家で必要な世話するように取り計らいました。しばらくの間,医師が1日に3回往診しました。兄弟たちもジョンは死にかけていると思いました。しかし,クック兄弟はセルラノ家の看護のおかげで苦難を切り抜けたのです。

医師は,元気になるまで数週間山岳部で過ごすようクック兄弟に勧めました。それでネメシオ・オルスがバルバストロの自分の家で療養するようにクック兄弟を招きました。ところがそこでも問題が起ころうとしていました。

マキスのメンバーとして逮捕される

バルバストロでジョンとネメシオは,典型的ながら珍しい経験をしました。ネメシオは,ビセンテという名前の,関心を持つ人にクック兄弟が来ることを前もって手紙で知らせました。さて,おんぼろバスが止まって訪問者たちが降りると,一人の司祭と重装備をした4人の地方警察隊員からなる険しい顔つきの歓迎団が待っていました。そばには,質素な農夫の服を着たビンセンテが,旅行かばんを運ぶロバを連れ,心配そうな面持ちで控えていました。あいさつの後,一行は荷物をロバに乗せて,村に通じる小道を登り始めました。ところが,二人の警察隊員は一行の前を進み,残りの二人の警察隊員と司祭は後からついて来ました。兄弟たちはわなに掛かったのです。村に近づいた時,後から一人の隊員が,「止まれ。手を挙げろ」とどなりました。「私たちはそのことにとやかく言いませんでした。警察隊員は私たちが武器を持っていないか調べてから,兄弟の家に行くように命令しました。一方,司祭は,自分の一計が非常にうまくいったので,こっそりと立ち去りました」,とクック兄弟は語っています。

何があったのでしょう。実は,ビンセンテはネメシオの手紙を家族に読んで聞かせたのですが,カトリック信者だった女中がそれを聞いて,司祭に告げたのです。代わって,司祭は危険人物がビンセンテの家に来ると地方警察に内報しました。当時その地方では,フランスに本部を置くスペインの政治的な亡命者たち,すなわちマキスがしばしば国境を越えて不愉快な攻撃を仕掛けてきていたので,そこの地方警察は警戒態勢を取っていました。それで,司祭たちは,ジョンとネメシオにマキスの手先であるというぬれぎぬを着せたのです。

ビンセンテの家で,エホバの証人の本当の立場を説明したところ,警察隊員たちは帰ってゆきました。しかし,3人がくつろいでコーヒーを飲んでいた時,警察隊員はもどって来て3人を逮捕したのです。というのは,3人が不法集会を開いているとされたからです。フランコの布告によって,3名以上の人が許可なくして集会を開くことは禁じられていました。その結果,最寄りの地方警察本部で真夜中から午前5時まで尋問が行なわれました。その後,3人は,空屋になった修道院の牢屋に入れられ,4人の兵隊と一人の伍長によって警備されました。そこで数日の間,床に汚いマットを敷いて眠り,人を雇ってグラウスという町の宿屋から食事を運んでもらいました。しかも,それは,クック兄弟にとって静養しなければならない時期だったのです。

3人は,非常に礼儀正しくていねいな警官たちに再び尋問されました。三日目に県知事から,3人全員を釈放するようにという電報が届き,兄弟たちはやっとのことでビンセンテの家にもどりました。そして訪問が計画通りに行なわれました。

クック兄弟はネメシオの家に3週間ほど滞在してからバルセロナへ帰りました。バルセロナでは業が順調に発展し,40人ほどの王国伝道者がそれに参加していました。そのころスペインで行なわれた記念式に96人が出席し,18人が表象物にあずかりました。表象物にあずかった人の多くは,マドリードに住むプロテスタントの“兄弟”の影響で思い上がった考えを持っていました。しかし,そうしたことが許されたのは1950年まででした。同年,ついにその人物に対して司法上の処置が取られたのです。より明らかな理解が得られたので,表象物にあずかる人は1956年には3人に減少していました。

スペインで緩慢ながらも着実な発展が見られたので,ジョン・クック兄弟はポルトガルへ行くことになりました。それは1948年8月のことで,クック兄弟は1951年7月までスペインにもどりませんでした。しかし,出発するまでの8か月間,クック兄弟は兄弟たちと交わり,スペインにおける物事を安定させることができました。サタンのあらゆる妨害にもかかわらず,神権的な秩序は確立されてゆき,その成果は必ず現われるはずでした。

トルラルバで問題が起きる

1948年3月18日,ホセ・ビセンテ・アレナスとペドロ・ガルシアはトルラルバ・デ・カラトラバの町長と地方警察隊長の前に呼び出されました。会見の目的は兄弟たちが集会を開いたり,他の人々に伝道したりするのをやめさせることでした。ペドロは,自分たちは当局者に敬意を持っているけれども集会と伝道の業をやめることはできないと答えました。(使徒 5:29)しかし,それで事はすみませんでした。

4月10日,地方警察は,ニューヨークのブルックリンから協会によって送られた文書の小包を横取りして没収し,文書を受け取った兄弟たちは県の民政長官によって罰金を課されました。ある兄弟たちは罰金を払いましたが,自分たちは罪を犯していないという理由で罰金を払わなかった兄弟たちもいます。その後,協会は文書をバルセロナに送り,バルセロナの兄弟たちはそれをトルラルバへ送る手段を講じました。とはいえ,明らかにトルラルバの群れはより一層エホバに信頼を置く必要がありました。したがって,責任のある立場に兄弟たちが新しく任命され,それによってトルラルバの群れの霊性が改善されました。

トルラルバの群れの大きな問題は喫煙の習慣でした。その群れに交わっていた男性のほとんど全員はたばこをたくさん吸う人たちでしたが,ジョン・クックが居るときにはたばこを吸わないようにしていました。ところが,ある日,ビエンベニド・ゴンサレスはジョンの目の前でたばこを吸って,わざと問題を表面化しました。その結果,喫煙の問題は再び明るみに出て,ビエンベニドの言葉通り,ジョンの「助言はある人々が汚れた習慣をやめる新たな刺激となりました」。

バレアレス諸島に戦後初めて真理の種が植えられる

王国伝道の業はスペインの他の場所でも発展していたでしょうか。そうです,発展していたのです。スペインの地中海沿岸から東方約160㌔の沖合にバレアレス諸島があります。そこの主な島はマリョルカ(マジョルカ)島,メノルカ(ミノルカ)島,イビサ島およびフォルメンテラ島です。1940年代になるまでそれらの島ではカトリックが何の邪魔も受けずに独占的な勢力を持っていました。しかし,マドリードに住むギリシャ人の実業家で,マリョルカ島にも屋敷を持っていたマヌエル・アレクシアデス兄弟のおかげでそれが変化することになったのです。

ある日,電報局でマヌエルは従業員の一人に証言し始めました。その従業員は,特に関心を持っていたわけではありませんが,熱狂的なカトリック信者だった妻の熱をこの機会にさませるかもしれないと考えて,音信に耳を傾けました。こうして,マヌエル・アレクシアデスは,マリョルカの北東岸にあるプエルト・デ・ポリェンサという小さな町のカトリック・アクションの責任者をしていたプルデンシア・フォント・デ・ボルディに証言することができました。その婦人は協会の文書を数種類求めました。

プルデンシアはその後友人を訪問して,友人に小冊子を贈りました。その友人は深い感銘を受けたので,それを娘のマルガリタに渡しました。さて,マルガリタと彼女の母親は真理に対する関心を示し,他の出版物も手に入れて,プルデンシアと聖書研究をするようになりました。ところが,その研究たるや大変なもので,午後の3時から8時まで行なわれたのです。実際のところ,一度などマルガリタは,研究の時間が来た時に,また5時間も研究するのかと思って自分の部屋に隠れたことがありました。しかし隠れていた5時間の間に居留守を使ったことについて考え,自分のしたことが恥ずかしくなりました。マルガリタはエホバに祈り,あの婦人と5時間も勉強するのは困るけれども聖書研究はぜひしたい,という願いを言い表わしました。

1949年,マルガリタと母親は自分たちで研究予定を立て,2年間それに従って研究するかたわら,近所の人や友人に非公式の証言をしました。1953年に事態は良い方向へ向き始めました。その年,ジョン・クックは二人を三日間にわたって訪問したのです。しかも,パルマ・デ・マリョルカでの集まりに26人の聴衆が集まったのは驚くべきことでした。

その時マルガリタは26歳になっていて,他の人を教える能力がありましたから,ジョン・クック兄弟は講演の終わりに先手を打ち,集会に来ていた関心を持つ人々と十の聖書研究を取り決めました。マルガリタは三日間の訓練からエホバの組織に対する深い認識を教え込まれ,また,開拓奉仕,つまり良いたよりの全時間の伝道者として奉仕することに興味を持つようになりました。1953年,ニューヨーク市におけるクリスチャンの大会に出席中のクック兄弟はマルガリタに開拓者の申込書を送りました。マルガリタは喜んでその申込書に記入しました。事は運んで,マルガリタはその年の8月に特別開拓者になりました。

ギレアデ学校第15期生のポール・ベイカーは宣教者としてその時すでに1年余りマリョルカにいました。ポールは1952年3月25日にマリョルカに来たのですが,到着して間もなく,二つの家族との聖書研究が始まり,やがてその家族を合同して最初の「ものみの塔」研究を司会するようになりました。到着してから2週間後に記念式が行なわれ,21人が出席しました。表象物にあずかった人はいませんでした。その月の終わりまでに,初めて5人の伝道者が野外奉仕活動を報告し,全部で四つの聖書研究を司会していました。ベイカー兄弟は,1957年にスペインから追放されるまで,パルマ・デ・マリョルカ会衆の大黒柱となって働きました。

バルセロナとマドリードにおける著しい進展

今振り返っている数年間に,スペインにおける王国伝道の業の監督者は数回変わりました。ジョン・クック兄弟が到着して間もなく,ラモン・フォルネに代わってルイス・ブが任命されましたが,ブ兄弟はその後しばらくしてアルゼンチンへ帰らねばなりませんでした。それで1950年にペドロ・ペレス兄弟がその責任の立場に任命されました。しかし,ペレス兄弟はかつて無政府主義者でしたから,政情が不安定だった当時,次第に警察の厳しい監視を受けるようになりました。いうまでもなく,ペレス兄弟は政治活動を一切やめていましたし,また,そのことを警察に説明してありました。しかしながら,いろいろな問題を考えて,ペドロは協会に手紙を書き,業を世話する立場に別の兄弟を任命することを提案しました。その結果,アルゼンチン出身のジョージ・ミラリェス兄弟にその特権が与えられました。

ここで再び,マドリードの群れの様子を簡単にお話しするのはふさわしいと思われます。その地域では,プロテスタントの見解を持つ,前述の人物が「ものみの塔」誌の研究を司会していました。彼は雑誌に書かれている事柄にプロテスタント的な自分自身の考えを加えていました。実際のところ,集会が終わると,何たることでしょう,出席していた男性はたばこを取り出し,煙をくゆらせながらよもやま話をしているという話でした。

マドリードのバリェカス地域の事情を知ると,トルラルバ・デ・カラトラバ出身のペドロ・ガルシア兄弟はマドリードへ赴き,1949年12月16日にマドリードの兄弟たちと会合を開きました。プロテスタントの人物はその時除外されていました。その会合で話し合い,協会と連絡を取った結果,会衆の責任を担う立場にルイス・フェイト兄弟とエウロヒオ・ゴンサレス兄弟が任命されました。

1950年4月1日の主の記念式の時に,マドリードで非常に劇的な進展が見られました。3月31日,ペドロ・ガルシアはマドリードに到着して,まずプロテスタントの人物と主の記念式のことについて話し合うために出掛けました。記念式の日時や,だれが表象物にあずかるべきかという点で意見の一致に達することはできませんでした。それにもかかわらず,そのプロテスタントの人物は記念式の話をしようとしていたのです! 翌日ペドロがそのかなり年配の“兄弟”といっしょに集会場へ行ったところ,そこに20名ほどの人が来ていましたが,その多くはペドロの全く知らない人たちでした。その人たちがだれであるか尋ねると,あの“兄弟”が集まりに招待したプロテスタント信者とアドベンチスト派の信者であると教えられました。その人物はこうかつにも自分の仲間を招いて出席者数を水増ししていたのです。

ペドロ・ガルシア兄弟は素早く行動し,主の記念式が始まる前に群れに対して話をすることをエウロヒオ・ゴンサレスに勧めました。ゴンサレス兄弟はものみの塔協会から受け取った手紙に従い,記念式の日付や表象物にあずかる人に関する問題をはっきり説明しました。さて,それはプロテスタントの“兄弟”が予期していなかった爆弾的宣言でした。集まりは混乱のうちに散会しました。プロテスタントの人物とその追随者たちは席をけって去り,ペドロ・ガルシアは記念式の話をし終えました。

こうしたことがあって,プロテスタントの人物の勢力はくじかれました。彼は「忠実で思慮深い奴隷」の指導を受け入れず,会衆内の責任ある立場に任命された兄弟たちに敬意を示しませんでした。(マタイ 24:45-47)その結果,集会は彼の家で行なわれなくなり,マドリードのベンタス地区にあったエウロヒオ・ゴンサレスの家で開かれました。

スペインで初めて開拓者が任命される

ジョン・クック,ケン・ウィリアムス,ベルナルド・バックハウス,ポール・ベイカーなど,ギレアデの訓練を受けた宣教者の到来で,スペインの少数の王国宣明者の中にも開拓者精神を持つ人が現われるようになりました。1949年にスペインではわずか53人の伝道者が六つの群れに交わっていたにすぎません。その中からバルセロナのマリア・ゴメスが最初の開拓者になりました。

1950年に,伝道者数は93名という新最高数に達しました。翌年その数は121人になり,1952年には145人になりました。その年4人の特別開拓者が任命され,1952年はスペインの畑にとって一転換期になりました。4人のうち3人はスペイン人で,トルラルバ・デ・カラトラバのマクシモ・ムルシア,マドリード出身のルイス・フェイトとマルハ・プニャール,もう一人はブラジル人のライムンド・アボレッタでした。1977年にスペイン支部の下で働いている特別開拓者の数は591人になっていました。

組織を強める

統治体の成員は1950年代にも引き続きスペインを訪問して兄弟たちを築き上げました。例えばF・W・フランズ兄弟は1951年7月に再びスペインを訪れました。その訪問で記憶に残る出来事はマドリードの外で開かれた野外集会でした。その時トルラルバから来た数人の兄弟たちはすでに1946年にバプテスマを受けていましたが,再浸礼を受ける決心をしました。バプテスマを施してくれた人自身がバプテスマを受けていなかったからです。フランズ兄弟はスペイン語でバプテスマの話を行ない,ジョン・クックがハラマ川でバプテスマを施しました。統治体の成員がスペイン語で兄弟たちに直接話したので,出席していた28人の兄弟は大いに励まされました。

グラナダでは用心しなければならなかったので,兄弟たちはホテルの部屋で集まりを開きました。アンダルシア地方の真ん中にあるグラナダには,アラビアに関連した物やアラビアを思い出させる事物がたくさんあります。F・W・フランズ兄弟とジョン・クック兄弟は,アラビア人もしくはムーア人 ― スペインではこちらのほうがよく知られている ― により主として13世紀と14世紀に建てられたアルハンブラ宮殿を見物しました。興味深いことに,アルハンブラ宮殿のモザイク,タイル,しっくい細工のすべては,回教が偶像じみたものを忌みきらっていることを示しています。というのは,どのデザインも幾何学模様や唐草模様や飾り文字しか使っていないからです。

ついでながら,1950年にアルゼンチンのある兄弟は故郷のグラナダを訪れて,数人の人に真理を紹介しました。間もなく4人の人が「ものみの塔」誌を予約購読し,一般に公開されているアルハンブラ宮殿で私的な“集会”を開いていました。その集会は実際には討論会でした。後にそれはグラナダのはずれのサクロモンテのほら穴住居に移されました。興味深いことに,その小さな群れは毎年一回主の記念式の時に,サクロモンテの丘の人里離れた所に行き,日が沈んでいく間そこで「ものみの塔」誌の記事の朗読を行なっていました。やがてグラナダにクリスチャン会衆が設立されました。

1952年2月,N・H・ノア兄弟とM・G・ヘンシェル兄弟は再びスペインを訪れました。その時バルセロナで五つの「ものみの塔」研究が組織され,スペインにおけるその後の集会や伝道の指針が与えられました。当局者と不必要に問題を起こさないために十分注意する必要があったので,集会の出席者を8人ないし12人に抑えておくことが提案されました。その訪問中,ベルナルド・バックハウス兄弟は,会衆を訪ねて奉仕する巡回の業に任命されました。

スペインでは出版物が不足していたため,ざん新な取り決めが設けられました。戸別の業で本当に関心のある人に会ったなら,その人に書籍を貸して聖書研究を始めます。次いで兄弟たちはその人の名前と住所をブルックリンの協会の本部に知らせ,そこからその関心のある人に書籍が郵送されます。伝道者は送られた書籍に対する寄付を受け取り,貸してあった書籍を返してもらうのです。この取り決めは後に廃止されましたが,しばらくの間有用な目的を果たしました。

ノア兄弟とヘンシェル兄弟は1953年1月に再びスペインに来ました。この度はジョン・クックが二人に同行できる最後の訪問になりました。集会はバルセロナとマドリードで開かれ,良い出席がみられました。マドリードで,訪問した兄弟たちはクック兄弟およびバックハウス兄弟と協議し,スペインとポルトガルを一つの支部の管轄に置いてジョン・クックを支部の監督とすることが決定されました。

その訪問中,ノア兄弟は用心深くあるように,大会を開く場合は特にそうするように勧めました。100名以上の大きな大会を開こうとするよりも,30人から40人,つまりピクニックへ行くぐらいの人数に抑えておくほうがよいと感じたのです。そうした“ピクニック”大会は,エホバの証人の業が合法的なものになった1970年までスペイン全国の山や森で開かれました。警察の干渉を受けたことはほんの2,3回にすぎません。

1953年7月,ジョン・クックはニューヨーク市で開かれたエホバの民の国際大会に出席するよう招待されました。大会後クック兄弟はポルトガルへ行き,ニューヨーク大会の主なプログラムを再現するためにリスボンの近くで“ピクニック”大会を開きました。その後マドリード行きの汽車に乗ったのですが,スペインの国境に着いた時足止めされて,入国を禁止されました。1954年5月にもう一度スペインの国境を渡ろうとしましたが失敗しました。ジョン・クックの名前は“ブラック・リスト”に載っていたのです。ジョン・クックはスペインへもどって宣教者の業を続けることが全くできませんでした。しかし,王国の伝道はしっかりした足場を得,エホバの聖霊の働きの下に前進しました。もっとも,ジョン・クックはアフリカで宣教奉仕を続けて,今も南アフリカのベテルで奉仕しています。

組織的な迫害

スペインで組織的な伝道の業が始まると,組織的な迫害も行なわれるようになりました。スペインのプロテスタントの信者は3万人を上回っていたものと思われますが,文字通り隠れていたので,カトリックの僧職者の反発を買いませんでした。ところが,ほんの一握りのエホバの証人の活動がすぐにカトリックの僧職者の怒りを買ったのです。権力をほしいままにしていたカトリックの僧職者たちはついに挑戦を受けたからです。それで彼らはどうしましたか。宗教裁判所が置かれていた時代におけると同様,告発を行なったのです。が,その汚い仕事を国家の手に任せました。

そうした迫害がどのように行なわれたか,ナティ・バルクエニョの娘,ナティビダト・プニャールの経験をお話ししましょう。1953年のある日,17歳のその娘は特別開拓者といっしょに野外奉仕に携わっていました。再訪問をしていた時,一軒の家で男の人が現われ,攻撃的な態度でいろいろ質問をし始めました。その人は声を張り上げました。すると家族の他の成員も出て来ました。最後に,その人は自分が警察官であることを明らかにしました。そして,カトリックの教会堂がある場所へ二人の証人を連れて行き,僧服を着けてはいませんでしたが司祭のような話し方をする人に引き合わせました。そこから二人は派出所に連行され,そこで書類かばんを調べられて小冊子と聖書を没収されました。二人はかなりの時間尋問を受けました。もう一度尋問を受けた後,秘密警察の社会部隊の隊長のところへ連れて行かれました。そこへ着くとただちに,土牢のような牢獄へ入れられました。間もなく,ナティは自分が泥棒や売春婦や女同性愛者といっしょの監房にいることが分かりました。しかし,そうした状況においてさえ,ナティは機会を捕らえて証言をしました。

その晩,他の囚人が床に着いた時,ナティはある部屋に連れて行かれて再び尋問されました。最初は“友好的な”質問でしたが,間もなくもっと特定の質問がなされました。尋問に当たった隊長は伝道の業の指導者,伝道を行なっている人の数や住所その他を知りたがっていたのです。隊長は,ナティその他の証人たちがいっしょに写っている写真や協会からの手紙など,特別開拓者の部屋から押収した物を取り出して見せることさえしました。

ナティは首尾よく答えて信仰の仲間を守りました。実際,ナティは,外国人の兄弟たちの住所を知らなくてほんとうによかったと思いました。やっと尋問が終わり,元の監房にもどされました。翌日,独房として使われるような,囚人一人を入れる小さな監房に入れられました。勾留期間の上限である三日が満ちるまでそこで二日間過ごしました。

しかし,それで事が済んだわけではありません。数週間たってから,再び警察裁判所に出頭しなければなりませんでした。そして,世間の物議をかもしたと非難されました。ナティを訴えたのは問題をけしかけた警官でした。ところが,驚いたことに,状況は突然一変したのです。その警官はこう言いました。「物議などありませんでした」。裁判官に答えを強く求められると,警官は,「あの人たちが聖母マリアを信じていないと知ってわたしは怒りました」,とだけ答えました。結局その事件は却下されました。ところで,裁判所を去る時に,告訴した警官はナティとその仲間のもとにやって来て,「私はあなたがたが普通の人間とは違う人たちだと思いました。それで私を許していただけないでしょうか」,と言いました。

ナティはこれ以外にも投獄された経験を持っています。2年後,同じ理由,すなわち神のみ言葉を伝道したかどで同じ刑務所へ送られました。ナティの実の姉妹のマルハも,良いたよりを宣明したためにやはり投獄されました。投獄されていた間,彼女は囚人の女同性愛者やねずみを撃退しなければなりませんでした。しかし,そうした経験をしても,その姉妹たちはエホバに仕え続けたので,エホバは二人の誠実な努力を祝福されました。

スペインにおける聖書

忘れてならないことですが,スペインでは長年の間人々が聖書をほとんど教えられてこなかったため,1950年代になっても,聖書はプロテスタントの危険な本であるとみなされ,高等教育を受けていないカトリック信者は読むべきでないと考えられていました。ビンセンテ・パラモがマドリードでくつ屋に伝道した時の経験は,人々が聖書をどれほど知らなかったかを典型的に示しています。くつ屋は大声で次のように言って,パラモ兄弟の証言をさえぎりました。「ところで,あんたはここへ来てわしに聖書を話してくれているんだが,わしが聖書を知らないとでも思っているのかい。わしは『ドン・キホーテ』を七回も読んでいるんだよ」。「ドン・キホーテ」は言うまでもなくスペインの作家,ミグエル・デ・セルバンテスの有名な小説です。

別の時,ある姉妹は一人の婦人に証言していて,聖書という言葉を繰り返し使いました。それはスペイン語でサンタ・ビブリアと言います。その婦人はとうとうこう言ったのです。「私は教会のカレンダーに出ている聖人をほとんど全部知っていますが,そのサンタ・ビブリアという聖人のことは一度も聞いたことがありませんわ」。その婦人はサンタ・ビブリアすなわち聖書を,サンタ・マリアやサンタ・ルシアなどのカトリックの聖人と混同していたのです。

さて,ビルバオのベコニア地区出身のシンフォリアノ・バルクインは次のような経験をしました。ベネズエラから来たいとこが神の真理を話してくれたので,バルクインは司祭のもとに行って,図書室から聖書を借り,自分が交わっているカトリック・アクションの仲間と聖書を調べさせてほしいと言いました。「聖書でなくても,ほかに調べるべき本はたくさんあります」,というのが司祭の答えでした。シンフォは納得できなかったので,自分のバレラ(プロテスタントの)聖書をもう一人の司祭のところへ持っていきました。その司祭はイザヤ書 7章14節を開くのに30分近くも掛かりました。その後,シンフォは,ラジオの宗教番組を担当していた有名な司祭に,教会は詩篇 37篇に書かれている通り柔和な人が地を受け継ぐと教えないのはなぜか,とためらうことなく質問しました。(11節。マタイ 5章5節と比較してください。)その司祭はこう答えました。「あのう,それはただ,柔和な人間はこの世で長生きするという意味に過ぎませんからね。……それに,その聖書ですが,あなたはそれを私に置いて行きますか。それとも自分で焼きますか」。それからしばらくして,公に対面した時,シンフォ・バルクインが聖書を非常に巧みに用いたので,その司祭は,「こんな短期間によくもこれほどの訓練ができたものだ」ともらしました。

王国を伝道する業で聖書を使うことさえ問題となりました。例えば,ある日一人の少年が,聖書についてもっと説明を聞きたいのでまた家に来てほしいという手紙を持って,トレドのエングラシア・プニャール姉妹の家へ来ました。プニャール姉妹はその家に2度訪問して女の人に話をしたことがありましたが,今度はその人の夫が姉妹と話をしたいというのです。事情が分かったので,エングラシアの息子のマノロがビセンテ・パラモといっしょにそこへ行きました。女の人が玄関に出て来て,主人を呼んできますと言いました。主人はやって来て,あなたが持っている本を見せてください,とマノロに言いました。それはナカール・コルンガ聖書でした。男の人はその聖書を手に取り,こう言ったのです。「おまえはこの本を間違って使っているから,これを返してもらいたければ,あした教区司祭のところへ行って受け取るんだな」。それからその人は荒っぽい言葉を浴びせてからマノロをなぐり,帰れと二人に言いました。

次の日,マノロは聖書を取り返すために教区の教会へ行きました。すると,司祭は他の人々の面前でマノロを非難し,数回なぐりました。それから警官を呼んでマノロを連れて行かせました。マノロの母親のエングラシアも勾留され,二人とも五日間投獄されました。その間に警察はエングラシアの家へ捜索に行きました。エングラシアの十代の娘のパズが母親は刑務所にいると警官たちに告げました。エングラシアがまだ刑務所にいると聞いて警官たちもびっくりしました。それでさっそく,エングラシアを釈放するようにという電話をかけました。法律によれば,勾留期間は三日までとなっているのに,エングラシアは五日間も勾留されたからです。

僧職者と警察の活動は激化する

戸別の伝道の業が増大するにつれ,司祭,特にバルセロナの枢機卿から反動が起きました。その枢機卿は自分の司教管区の公報に司教教書を発表しました。そして,それは1954年3月19日から21日にかけて3回にわたり「ラ・バングアルディア・エスパニョラ」というバルセロナの新聞紙上にそっくりそのまま掲載されました。その教書の中で,貧しい人々を経済的に援助して改宗させようとしているプロテスタントと,戸別訪問をして書籍,小冊子,雑誌を提供し,ビラを配布しているもう一つのグループはカトリック教会の敵であるとはっきり述べられていました。長文の司教教書の中でエホバの証人という名称は一度しか述べられていませんでしたが,そのもう一つのグループがエホバの証人をさしていることは明らかでした。

同教書は当局者に,法律を実施するように,またプロテスタント諸宗派の公の宣伝活動と改宗活動とを許さないように要請していました。それにはさらにこう述べられていました。「我々は慎重を期するゆえにどくむぎの存在を許している……しかし,どくむぎがまかれるのを許すことはできない」。結論の中でカトリックの忠実な信者に五つの勧めがなされました。そのうちの最後の勧めは次の通りです。「法律を利用する。これは最後の手段である。しかし,事件が起きた場合には,カトリック教徒の間にごびゅうや異端がまかれるのを阻止するためにその手段を用いなかったり,用いることができなかったりすることがあってはならない……時には,法律に訴えると脅すだけで彼らの努力をくじくことができる」。その教書に付いていた回状には,この戦いは真の十字軍であり,枢機卿自ら「カトリック統一のための十字軍の先頭に」立つということが書かれていました。

ラジオ放送,学校,教会およびカトリック・アクションはこぞってエホバの証人と戦う召しに応じ,証人たちを家に招じ入れておいてから警察を呼ぶようにと人々に勧めました。宗教的な独占者たちは大いに動揺していました。しかもその原因となっていたのはバルセロナ全市で活動していたわずか130名の伝道者だったのです。宣教者のアルバロ・ベレコチェアとマリナ・ベレコチェアの二人は“危機一髪”のところで司祭と警察の手から逃れました。ある時,巡回監督としてパラレロ会衆を訪問していたアルバロ兄弟は,伝道者のホアクイン・ビバンコスおよびエルアルド・パラウといっしょに証言していました。一軒の家でこの二人の伝道者が再訪問をしていたところ,相手の婦人は敵対的になって二人の目の前で戸をバタンと閉めました。それから彼女は警察に電話を掛けている様子でした。

その間,アルバロは建物の戸口で見張っていたのですが,二人の男が自分の方へ走って来るのが見えました。二人はアルバロ兄弟を無理矢理建物の中に押し込み,壁に押さえ付けると手さげかばんを取り上げてから乱暴に身体検査をしました。言うまでもなくその二人は秘密警察官でした。一人がアルバロのそばにいる間に,もう一人は階上に行き,ビバンコス兄弟とパラウ兄弟にピストルをつきつけながら降りて来ました。三人は派出所に連行されましたが,その途中でパラウ兄弟はひそかに数枚のメモを破って捨てました。万一そこに他の兄弟たちの名前が書かれていて,その兄弟たちも罪に問われるようなことがないためです。この度は兄弟たちは警告を受けただけですみ,事件はビアライエタナの中央警察本部に回されませんでした。全く“危機一髪”のところで事なきを得たのです。

マドリードでは警察も証人に一層激しい敵対行動をとるように刺激されました。1953年から1958年にかけて,特別開拓者のマクシモ・ムルシア兄弟は,短くて1晩,長くて1か月間の投獄を11回も経験しました。ですから,ムルシア兄弟はマドリード市内のあちこちの派出所の寒くて汚い監房を覚えました。

宣教者が国外に追放される

警察は警戒心を強めるようになり,1954年に,ギレアデを卒業した宣教者の一人が国外に追放されました。ベルナルド・バックハウスはその年の冬ビルバオで非常な悪天候に遭いながら奉仕したので,バルセロナへ行ってミラリェス家に滞在しました。その時腸チフスにかかっていることが分かり,かなり長期間ミラリェス家に滞在しなければならなくなったのです。

スペインの多くのアパートの例にもれず,ミラリェス家でもパイロットバーナーの付いた小さなガスの湯沸かし器が使われていました。ある晩一家が眠っている間にそのパイロットバーナーが消え,ガスがもれて部屋に充満しました。どういうわけか,その家の娘は何かおかしいと気付き,よろめきながら玄関に行って助けを求めました。救急車が来て,ミラリェス姉妹とバックハウス兄弟に酸素吸入が行なわれました。言うまでもなくその出来事は近所の人々の間でちょっとした騒ぎを起こし,新聞にも報道されました。新聞には関係者の名前が掲げられたので,ベルナルド・バックハウスの名前も出ました。

次の日,秘密警察の検査官が来て,バックハウス兄弟は知られている宗教活動のゆえに好ましくない人物であるということを当人に明らかにしました。バックハウス兄弟は健康上の理由で直ちに追放されませんでしたが,回復するとすぐスペインを去らねばなりませんでした。バックハウス兄弟がポルトガルへ行ったためスペインの宣教者は,パルマ・デ・マリョルカのポール・ベイカー,バルセロナのケン・ウィリアムスとベレコチェア夫妻のたった4人になりました。

当時,協会の支部事務所が代金を払って使用していた私書箱も安全でなかったことをお話ししておくのはよいでしょう。私書箱はこわされ,通信物は開封されたのです。したがって,警察はある特別開拓者を尋問した際に,その特別開拓者の手紙を写真に撮ったものを見せて,彼女が支部事務所と連絡を取っていたことを証明することかできました。あらゆる通信物は侵されないと述べていた法律とはそのようなものだったのです。

ファランヘ党は攻撃を推し進める

1954年にスペインで200人の王国伝道者が伝道したことはファランヘ党という政治組織のバルセロナ支部をあわてさせました。ファランヘ党の月刊雑誌の1954年10月号は第一面に,「異端に注意! エホバの証人は悪魔的にも転覆を計り家庭訪問をしている」という見出しを掲げました。その8ページと9ページには,スペイン語の「目ざめよ!」誌や協会の2種類の小冊子の一部が掲載されていました。その引用文は,一緒に載せられているその無礼な記事よりも,エホバの証人についてもっと客観的な見方を示していました。その記事には,「我々の祖国にその宗派の種をまくため」スペインに初めて派遣された重要なエホバの証人としてベルナルド・バックハウスとジョン・クックの名前すら挙げられていました。

200人のエホバの証人は,カトリック教会を捨てたという理由で,スペイン人の風上に置けない者とされました。また,共産主義的なうすのろや性的倒錯者として描かれもしました。その外にも「ディエス・ミヌトス」という雑誌と「ヘラルド・デ・アラゴン」という新聞に,批判的な記事が載りました。しかし,そうした攻撃に遭っても兄弟たちの熱意は少しも弱まりませんでした。

好都合な故障

F・W・フランズ兄弟が再びスペインに来たのは1955年の8月と9月でした。フランズ兄弟が,アルバロ・ベレコチェアおよびマリナ・ベレコチェアと共に訪れた土地の一つにトルラルバ・デ・カラトラバがありました。その小さな町にあるペドロ・ガルシア兄弟の仕事場に近付いた時,一行が怪しまれないために,アルバロはエンジンを切って,あたかも故障が起きたかのようにして車を止めました。アルバロは車から降りてエンジンのおおいを開け,故障を見付けたふりをしてからある家に行って,この近くにガレージか修理工場がないでしょうかと尋ねました。家の人がガルシア兄弟の家と仕事場を教えてくれたことはいうまでもありません。ペドロはやって来てエンジンを見てから,故障はすぐに直りそうもないので車をうちのガレージに入れてもらわなければいけないでしょうね,と言いました。それで車は仕事場に入れられて戸が閉まりました……そして,大きな喜びです。ペドロの家で待っていた兄弟たちは訪問者の周りに集まり,訪問者と肩を抱き合ってあいさつしました。

夜になって,訪問者たちは集会が開かれることになっていた場所へ行くために町の一角を通らねばなりませんでした。人目に付かないようにするためにアルバロとフランズ兄弟はその地方特有のベレー帽をかぶり,羊の皮のコートを着ました。二人は会衆の人たちが待っている穀倉まで,やみの中を一人の姉妹の後について行きました。実際のところ,会衆の人たちはすでに3時間も待っていましたが,さらに2,3時間とどまって,訪問した兄弟たちの話を聞いたり兄弟たちと交わったりしました。ついに,夕食後,3人の訪問者は“故障の直った”車をガレージから出して,暗やみの中に走り去りました。

その訪問中,F・W・フランズ兄弟はパルマ・デ・マリョルカへも行きました。それは8月30日のことで,その時に開かれた集会に75人が出席しました。当時パルマ・デ・マリョルカの伝道者はわずか32人でしたから,その出席者数はすばらしいものでした。

逮捕!

翌週の週末にはバルセロナで大会が予定されていました。大会といっても,実はティビダボ山の森の中にある秘密の空き地で集会を開くことになっていたのです。出席者数が数百人にもなってきたので,アルバロ・ベレコチェア兄弟はその大会が首尾よく秘密のうちに終わるかどうか心配になってきました。マンレサから来たある兄弟から,週中に警察がその兄弟の家を捜索して,大会の取り決めを知らせる「通知」(現在の「わたしたちの王国奉仕」)の折り込みを持って行ったということを聞いて,心配は一層大きくなりました。一人の姉妹が,大会の会場へ来る人々の中に警察の捜査官を見たと言ったので,アルバロはさらに驚きました。しかもその検査官はピクニックへ行くような服装をしていたのです。ベレコチェア兄弟はどうしたらよいかフランズ兄弟に相談することにしました。その答えはこうでした。「事を進めていって,エホバが許される事態にまかせましょう」。

なかでも,フランズ兄弟はその朝プログラムを扱いました。フランズ兄弟の話の後,アントニオ・ブルネト2世の司会で経験が話されました。ブルネト兄弟がサラゴサから来た年配のマリアノ・モントリ兄弟をインタビューしていた時,一大事が起きました。ポール・ベイカーは次のように回想しています。「その兄弟がちょうど経験の最後の言葉を述べている時に,私は,演壇の後方の坂の下の,木を伐採して作った空き地にあった乗り物の後ろに一台のジープが止まったのに気付きました……ピクニックの服装をした4人の男がジープから降りて,大会が開かれている地点まで坂をすばやく登り始めました。それからすぐに走り出しました。青いジーパンをはき,スポーツシャツを着た小柄な男が先頭を切っていました。多くの兄弟たちはすでに4人に気付いていて,これからどんな“実演”があるのだろうと思っていました。呼べば聞こえる所に来た時,前方にいた小柄の男は大声を張り上げて,「だれも動くな。動くと撃つぞ」と叫びました。その男はピストルを振りまわしていました。……それは確かに新しい“実演”でした。小柄な男は仲間を戦略上の要所に置き,カメラを全部引き渡すように指示しました。それまで私たちの間にまぎれていたもう一人の共謀者が現われ,今やどの人も,それが秘密警察による検挙であることを悟りました。

大会に来ていた兄弟たちはバルセロナの警察本部へトラックで連れて行かれました。全員が一度にトラックに乗れなかったので,ある兄弟たちはトラックが引き返して来るのを辛抱強く待っている間に証言をしました。会話から察するところ,警察は政治的なグループを手入れしていると思っているようでした。実際のところ,フランズ兄弟,ベレコチェア兄弟,ウィリアムス兄弟およびベイカー兄弟といった外国人を含め,兄弟たちの大半は結局警察本部へ行きました。警察はすべての兄弟たちについて詳しいことを,指紋までを知っていました。大会の会場で警察が最初に行なったのはカメラを全部没収することでした。その晩カメラは中のフィルムを抜き取られて返されました。そのようにして,警察は多くの兄弟たちの写真を入手し,また,後日罪証となる写真が外国の新聞に載らないようにしたのです。

尋問を受けている最中に,兄弟たちは警察の中で何かただごとでないことが起きているのに気付きました。実は,アルバロ・ベレコチェア兄弟の母親と義理の姉妹が会場から逃げ出して,米国市民であるF・W・フランズ兄弟の逮捕を知らせるためにアメリカ領事館へ行ったのです。領事館は警察に連絡を取りました。言うまでもなく,それは警察が1番望んでいなかったことでした。こうして,アルバロを除いてすべての外国人は釈放されました。

ベレコチェア兄弟が下宿に連れて行かれた時,ちょうど家宅捜索が行なわれている最中でした。しかし,次のように事が運んだため何も発見されなかったのです。フランシスコ・セルラノ兄弟はなんとか警官の手をくぐり抜けて,その日の午後早く家に帰りました。同じ時,テレサ・ロヨ姉妹は大会の午後のプログラムに出掛ける途中フランシスコの家に立ち寄って,警察の手入れがあったことを知りました。ロヨ姉妹はアルバロとマリナの下宿の前のアパートに住んでいたので,フランシスコはロヨ姉妹に,すぐ取って返してアルバロの下宿からつづりを持ち出し,それを隠すように告げました。ロヨ姉妹はテレサ・カルボネルの助けを借りて言われたことを行ないました。ですから,警官は文字通りむなし手で立ち去りました。彼らは,へびのように用心深い“はと”を扱っていたのです。―マタイ 10:16

警察のこうした攻撃によって,兄弟たちや関心のある人々はどんな影響を受けましたか。ほんの少数の人が人間への恐れに屈したものの,兄弟たちに対してそれ以上の処置は取られませんでした。また,何らかの経済的な影響を恐れたためと思われますが,その少数の人々はエホバの民との交わりを絶ちました。しかし,ほかの人々はその経験によって強められ,鼓舞され,一層強く団結したのです。

ですから,業は低下しませんでした。1955年中,伝道者の最高数は366人で,1956年にはその35%増加に当たる514人という新最高数が得られました。特別開拓者は12人から21人に増加し,ギレアデ学校を出た宣教者は4人から9人になりました。活動のあらゆる面が活気に満ち,増加がみられました。

1955年から1957年にかけて,支部事務所の仕事はアルバロ・ベレコチェアが行ない,ケン・ウィリアムスとドメニク・ピコネがそれを手伝いました。ティビダボ大会で警察の手入れを受けた後もアルバロは引き続き自分の宿舎で事務所の仕事をしていましたが,1956年9月に,事務所はフランシスコ・ロドリゲスとアントニア・ロドリゲスの家に移されました。一方,文書の小包みの発送は,ブルネット兄弟が提供してくれた同兄弟のラジオ店の小さな部屋で行なわれました。

旅行する監督として巡回中のこと

1950年代半ばにアルバロ・ベレコチェアはしばらくの間巡回監督として奉仕しました。兄弟たちを霊的に築き上げようとしました。が,幾つかの問題もありました。

例えばバルバストロ“会衆”は消えていました。どうしてそういうことがあり得たでしょうか。実は,その“会衆”は名目上存在していたに過ぎなかったのです。組織と経験に欠けていたため,良いたよりの伝道に携わることはおろかエホバの組織に交わってさえいない人々が伝道者として数えられていました。もっとも,ネメシオ・オルスと彼の息子たちは証言をするように確かに努力していました。特に時計の修理の仕事をして回りながら非公式の証言をしていました。

アルバロ・ベレコチェアにとってトルラルバ・デ・カラトラバの初めての巡回訪問は幾分印象的でした。ベレコチェア兄弟はマドリードから汽車でダイミエルへ行き,午後10時に着きました。3人の兄弟が駅に来ていましたが,トルラルバまで15㌔の道のりを行くための乗物が見えませんでした。しかし,その後3台の自転車が目に入りました。そうです,4人で3台の自転車を使うのです。兄弟たちは万事計算していました。3人が交替で,ハンドルと座席を結ぶ横棒に巡回監督を乗せて運ぶつもりだったのです。それは冬の寒いやみ夜でした。走行中,はぁはぁとかうんうんという声がしばしば夜のしじまを破りました。またその人影はいなかを横切る時に時々息を殺して“荷物”の積み換えをしました。

旅行は苦しいものでしたが,その訪問はトルラルバの小さな会衆にとって霊的な励ましになりました。人口5,000人の小さなトルラルバの町の少数のクリスチャンたちが長年の間にスペインの各地に影響を及ぼしたことをつけ加えておくのはふさわしいことと思われます。かつて文盲だった羊飼いたちは読み書きを学んで,エホバへの奉仕を拡大することのできる土地へ移ったのです。

1950年代 ― 開拓者が増加した時期

1950年代に,多くの王国宣明者は奉仕のより大きな特権を得ようとしました。そのため,全時間伝道者は1950年に一人だったのが,1960年には102人に増えました。特別開拓者は1950年に一人もいなかったのが,同じ期間に40人になっていました。その時期に良いたよりの全時間の宣明者が目立って生み出されたのはバルセロナとマドリードです。

開拓者たちはどんな働きをしていたでしょうか。マラガ県の場合を取ってみましょう。1957年の末にカルメン・ノバエス姉妹とアニタ・ベルドン姉妹がマラガ県で奉仕し始めました。二人は,1936年にフランク・テーラーがマヌエル・オリバー・ロサロを訪問した時以来その地方で初めての開拓者でした。いうまでもなく,オリバー兄弟は協会と接触を失っていて,姉妹たちはその兄弟のことを全く知りませんでした。オリバー兄弟は数年後の1964年ごろになって“再発見”されました。とはいえ,カルメンとアニタは一生懸命に働きました。それで8か月以内に15名の人が「ものみの塔」研究に出席し,6人の王国伝道者が二人といっしょに野外奉仕に参加していました。

その当時,開拓奉仕は大いに必要とされていたでしょうか。そうです,大変必要とされていたのです。例えば,1956年に良いたよりを活発に宣明する伝道者が514人いましたが,それらの伝道者は主にマドリード,バルセロナ,バレンシアおよびパルマ・デ・マリョルカの人々でした。したがって,組織的な証言を受けていたのは50の県庁所在地のうちわずか四つの都市にすぎなかったのです。それが21年後の1977年には,50の県全体で482を超す王国会館が建っているのですから,スペインの畑に対してエホバの手は短くなかったことが分かります。また,そのことは,スペインの会衆の伝道者,開拓者および特別開拓者の勤勉な働きを如実に物語っています。

さらに訪問を受けて励まされる

統治体の成員がスペインに対して示した関心についても,確かにエホバの手は短くありませんでした。そのころ集会でも野外奉仕でも絶えずつらい経験をしていた兄弟たちはそうした訪問を通して必ず意気を高められました。教会が好んで使った手は,“忠実な”信者に,警察を呼んで兄弟たちを告発させることでした。それは,普通の教会員が聖書から自分の信仰を擁護する備えをしていないことを認めることと同じでした。

1956年11月,F・W・フランズ兄弟は再びスペインを訪れました。五日間の滞在をマドリードとバルセロナで過ごし,二つの都市の幾つかのグループに話をしました。1955年の時とは対照的に,万事が円滑に進み,集会は妨害を受けませんでした。この度の訪問は極秘の内に行なわれました。したがって兄弟たちでさえ,フランズ兄弟が到着するまで知らなかったのです。こうして,当局者との問題は回避されました。

1957年の1月にN・H・ノア兄弟はヨーロッパと中東の旅の途上スペインに五日滞在しました。その訪問に関するノア兄弟の報告は一部次の通りです。

「バルセロナにいる協会の代表者たちは非常に精力的で,兄弟たちを小さな群れや会衆に組織して,それらの群れのすべてに僕を任命しています。バルセロナのすべての群れに話をすることは私にとって大きな喜びでした。5時から11時まで,5軒の家で1時間の話をし,小さな群れと会合した晩が一度ならずありました。兄弟たちの幸福そうな顔や,真理を聞いて喜ぶ様子を見たり,互いに交わったりするのはとても楽しいことでした。……

「バルセロナの兄弟たちとたいへん楽しい時を過ごした後,私はマドリードへ足をのばして,そこの兄弟たちと1日過ごしました。私は様々の小さな会衆に,一晩に四つの会衆に話をしました……今や一つの業がスペインで開始されました。それは決して絶えることがないでしょう。なぜならスペインの兄弟たちは熱心だからです。兄弟たちは伝道したいと願っています。そして,神は兄弟たちを祝福しておられます」。

警察の攻撃が激化

攻撃を受けていた時代には,聖書文書を持っているところを発見されるだけで逮捕されました。一例として,マドリードで四人の開拓者は,ある姉妹の家から出て来たところを地方警察に捕まえられて派出所に連行されました。開拓者たちはその日その付近で伝道しませんでした。しかし,四人が姉妹の家に入るのをだれかが見て,反カトリックの教えを広めていると告発したのです。巡査部長はこう言いました。自分の管轄している地域で開拓者たちが聖書文書を携行していた,ということは,保安本部にその件を報告しなければならないということである。

もう一つの例として,汽車の時間を尋ねに駅へ行ったある開拓者は警官から身分証明書を見せるように求められました。その開拓者は身分証明書を提示できなかったため,手さげかばんを調べられて聖書文書を発見されました。その“罪”で開拓者は500ペセタの罰金か一か月の拘留を言い渡されました。彼は一か月の拘留の方を選びました。

迫害が明らかに宗教的な敵から加えられたこともあります。重い心臓病にかかっていた18歳の開拓者,カルロス・ルビニョの場合がそうでした。病院で修道女たちはカルロスに,告白をして聖さんを受けるようにとしつこく言いました。司祭は像を持ってきて,「あなたは死にかけています。あなたの唯一の望みの綱は,この像にせっぷんして私に告白し,最後の礼拝をすることです」と言いました。カルロスはか細い声しか出せませんでしたが,それを拒否し,そういうことが聖書のどこで命令されているか教えてほしい,と司祭に尋ねました。腹を立てた司祭はカルロスの母親に向かって,「これはどういう宗教ですか」と聞きました。母親はエホバの証人ではありませんでしたが,「聖書の宗教です」とすぐに答えました。それを聞くと司祭はふんぞり返って歩いて行き,カルロスが持っていた聖書を焼くように修道女たちに指示しました。その聖書は偶然にもカトリックのナカール・コルンガ訳でした。母親はそうはさせず,聖書を隠して家へ持って行きました。彼女は偽りの宗教の実を十分に見ました。

やはりカルロスは死にました。しかし,彼は自分が確信したところに忠実でした。次に問題が起きたのは,カルロスの両親が教会外で葬式をするように取り決めた時です。その結果,父親は国家公務員の職を捨てなければなりませんでした。また,住んでいた家から追い出されました。数年後,父親も母親も真理を受け入れ,他の二人の息子もエホバに忠実に奉仕し続けました。弟のリカルド・ルビニョはクリスチャンの忠誠を守ったために6年間投獄されました。

兄弟姉妹たちに対する攻撃として,フランスやモロッコで開かれるクリスチャンの大会に出席するために必要な旅券を発行してもらえないということもありました。文字通り何十人もの証人たちが,警察のリストにエホバの証人として名前を載せられているために外国の大会に出席できなかったのです。今日に至るまで,17歳以上の未婚の若い姉妹たちは,3か月間社会奉仕課程を受けなければ旅券をもらうことができません。その課程は夜間に開かれ,病院や同様の施設での社会奉仕活動のほかに,政治および宗教教育が施されました。

宣教者はスペインから出ることを命ぜられる

1955年9月の事件や,大勢が出席して失敗に終わったティビダボの大会以来,アルバロ・ベレコチェアは,警察が自分と妻のマリナを国外に追放する処置を取るのではないかと恐れていました。1956年の夏,マリナがロンドンで二週間の休暇を過ごすように招待されたとき,そのことが試されました。というのはマリナはスペインに在住していたので,バルセロナの警察本部に出国査証を請求しなければならなかったからです。

マリナは2時間待たされた後,近付いて来た私服の警官に,ロンドンへ行きたい理由を尋ねられました。マリナが説明すると,警官は矢つぎばやにこう質問しました。「あなたはご主人の宗教を信じているのですか。ティビダボで何が起きたか知っているでしょう。……その宗教の信者ですか。聖書の伝説を信じているのですか。あなたはエリヤが天から火を降らせたことを信じているのですか」。マリナは「はい,そうです」と答えました。警官は返答をしてこう言いました。「いいですか,実際には,エリヤは賢い男で,みぞにこっそりガソリンを入れておいてそれに火をつけたんです。あれが奇跡だと信じるのはばかだけですよ」。こうして会話が続きました。最後に警官は一つのつづりを指差して,「あの中にはあなたのご主人に関する情報が入っています。それはあなたにも不利なものです」と言いました。しかし,そうしたことがあったにもかかわらず,マリナはロンドンへ行く許可を与えられました。

1957年1月,ベレコチェア兄弟姉妹は2年間の滞在許可を更新してもらうために警察本部に出頭しなければなりませんでした。二人は長時間待たされた末に事務所に呼ばれ,48時間の猶予を与えるから荷物をまとめてスペインから出るように,と命令されました。アルバロは激しく抗議しましたが,何のかいもありませんでした。一つ許可されたのは,2日の猶予を10日にしてもらうことでした。

こうした緊急事態に面して,アルバロは支部事務所の仕事をケン・ウィリアムスの手にゆだねました。それからマリナとともに汽車でマドリードへ向かいました。大勢の兄弟たちが二人を見送りに駅に来ていました。兄弟たちすべてにとって,それは悲しい時でした。マドリードに着くと,アルバロはアルゼンチン大使館(彼はアルゼンチン人だった)へ行って事情を話しました。大使館の仲裁で,スペイン当局は猶予期間を1か月に延長することを認め,最終期日を2月18日としました。アルバロはポルトガルへ行く査証を取ってから,協会の映画の一つを持ってスペインの北部を回る取り決めを設けました。

ベレコチェア兄弟がマドリードへもどると,ポルトガルでなくてモロッコへ行くようにという任命の手紙が来ていました。そのために,再び警察へ行って別の出国査証を請求することが必要になりました。ベレコチェア兄弟は先回長々と話した出国査証の担当者の所へ行かないで,通常の急送公文書課へ行って事情を説明しました。すると,翌日もう一度来るようにと言われました。再び行ってすぐ,査証がもう一か月延長されていることに気づきました。警察の組織は確かに不可謬ではなかったのです。それで,スペインを離れなければならない最終期日は3月18日になりました。ベレコチェア兄弟は時間を無駄にする人でなかったので,南部で協会の映画を見せてからバルセロナへ帰る道すがらあちらこちらで映画を上映する取り決めを作りました。

わなに掛かって追放される

バルセロナへ着くと直ちに,アルバロとマリナは下宿屋に部屋を借り,テレサ・カルボネルの家のもとの住まいへ行くことにしました。二人は戸のかぎを持っていましたが,部屋に入る前に,警察がそのころやってきたかどうかを近所のクリスチャンの姉妹たちに尋ねました。姉妹たちは,「いいえ,何事もありませんでした」と答えました。それで,ベレコチェア兄弟姉妹は廊下を横切ってもとのアパートへ行き,戸を開けました。ところが,なんとそこには警官がいたのです。

警官はベレコチェア夫妻に手錠を掛けようとしましたが,二人は絶対に逃げないと言いました。二人はビアライエタナの警察本部に連行され,かんかんに怒っている署長と対面しました。「おまえたちが出く行くまで48時間の猶予を与えたのだが,2か月たってもまだスペインから出ないのだな!」,と署長はどなりました。アルバロは説明しましたが無駄でした。

マドリードへ電話が掛けられ,ベレコチェア夫妻を即刻追放するようにという指示が折返し与えられました。アルバロはアルヘシラス国境地方を経由してモロッコへ行くことを主張しました。それで二人は,バルセロナから1,450㌔離れたアルヘシラスまでずっと一人の秘密警察官に護衛されながら旅行しました。船に乗った時,その警官は旅券を返してくれました。それは1957年3月11日のことでした。

再びスペインへ!

モロッコでアルバロ・ベレコチェアは支部の監督として奉仕しました。そして,数か月後,ポルトガルとスペインへ旅行するように依頼されました。入国査証を得るために,オーストリアのウィーンにあるスペイン領事館へ行き,入国を許可されました。さて,国境を越えるために,彼は両親を伴って自動車でフランスを通り,イルンから入りました。国境の警察は何も質問しませんでした。こうしてベレコチェア兄弟は再びスペインに入ったのです。

それから,マドリードとバルセロナに立ち寄り,1957年12月5日までバレンシアにいて,23名の人に「幸福な新しい世の社会」と題する協会の映画を見せました。次の晩,ベレコチェア兄弟はもう一つの集会に出席しました。集会の半ばに戸を激しくたたく音がしました。戸を開けると,3人の秘密警察官がピストルを抜いて踏み込んできたのです。身分証明書がすばやく調べられた後,7人の兄弟が逮捕されました。しかし,マルガリータ・コマス姉妹は他の姉妹たちと共に残ることが許されたので,すぐに出掛けて行って映写機類を隠しました。

7人の兄弟たちは派出所に連行されて尋問を受けました。アルバロの番になった時,クックやバックハウスその他の兄弟たちを知っているかどうか尋ねられました。係官はアルバロの答えに満足できなかったので,腹を立て,殴るぞと脅しました。しかし,明らかに警察は,アルバロが追放された人間であることを知らず,彼を旅行者とみなしていました。午前3時ころアルゼンチンの領事が突然派出所に来ました。警官たちはそのことに非常に腹を立てました。もっとも領事の前では感情を表わさないように注意していました。アルバロは,翌日旅券を取りに来るようにと言い渡されて,釈放されました。

ベレコチェア兄弟が翌日行ったところ,事態は深刻になっていました。警察はベレコチェア兄弟が3月に追放されたことを知って激怒していたのです。ベレコチェア兄弟は逮捕されて独房に入れられました。そこのベッドは石のベッドで,戸には鉄格子のはまった狭い窓が付いているだけでした。2,3時間後,看守が来て戸を開け,ベレコチェア兄弟を小包と毛布の載ったテーブルのある所へ連れて行きました。そして,「おまえの兄弟がよこした品だ」と言いました。バレンシア会衆はクリスチャン愛と気遣いを示して食物,毛布その他の物資を備えてくれたのです。

しばらくしてからベレコチェア兄弟は再び尋問を受けました。フランス側へ追放されることが決まっていましたが,ベレコチェア兄弟はポルトガルへ行かせてほしいと頼みました。それは受け入れられました。しかし,兄弟を護衛する一組の地方警官を調達できるまで刑務所で待つようにと告げられました。それはまずい,とアルバロは思いました。刑務所へ行ったきりどうなったか分からなくなった人があることを領事から聞いていたからです。それで,アルゼンチン領事と話させてほしいと頼みました。それは許可され,電話で話すことができました。新たな事態に驚いた領事は,直ちに仲裁に入りましょうと言いました。

アルバロは監房にもどされました。しかし,その夜遅く,次の日にバレンシア空港から飛行機でたつことになったとの知らせを受けました。アルバロは釈放されたのです。ただし,明日旅券を取りに来るようにと言われました。

ベレコチェア兄弟はさっそく兄弟たちのところへ行きました。そして,兄弟たちが1,500ペセタの罰金か30日間の拘留を言い渡されたことを知りました。兄弟たちは,罪を犯していないので罰金を払わないということで全員が一致していました。

翌日,すなわち1957年12月9日,アルバロ・ベレコチェア兄弟は飛行機でマドリードへ飛び,そこからポルトガルのリスボンへたちました。こうして,同兄弟の,喜びと祝福に満ちた4年間にわたるスペインでの宣教奉仕は終わったのです。したがって他の人々が業の指導をしていかねばなりませんでした。

パルマ・デ・マリョルカにおける迫害

エホバの証人の活動は,あらゆる方面からの反対や宗教的な迫害に悩まされながら苦しい状況下で行なわれていました。例えば,1954年に,パルマ・デ・マリョルカで宣教奉仕をしていたポール・ベイカー兄弟は,彼が英語の教べんを執っていた学校における宗教活動に関して初めて警告を受けました。ある日校長はベイカー兄弟を校長室に呼び,警察があなたのことを聞き込みに来ましたよ,と内緒で話してくれました。警察は彼が学校で宗教を教えているかどうかを知りたかったのです。ベイカー兄弟は如才なく振る舞っていましたし,授業時間を使って宗教の問題を持ち出したりしてはいなかったので,校長はポールのことを良く言うことができました。もっとも,ポールはそうした警告に感謝しました。

1957年4月のある日,パルマ・デ・マリョルカで特別開拓奉仕をしていたフランシスコ・コルドバ兄弟は野外奉仕のための集まりに姿を見せませんでした。その晩の集会にも現われなかったので兄弟たちは心配し始めました。翌日コルドバ兄弟の宿舎を調べたところ,その前の晩宿舎にもどらなかったことが分かりました。いろいろ心当たりをあたってみましたが見つからなかったので,ある姉妹が警察に行ってコルドバ兄弟の行方を尋ねることが決まりました。案の定,コルドバ兄弟は一緒に伝道していた兄弟とともに逮捕されていたのです。二人に食物を差し入れることはできましたが,面会することはできませんでした。

記念式の時が近付きました。警察が今にも行動しそうだったので,ポール・ベイカーも出席できない場合を考慮に入れた取り決めが様々な群れに対して設けられました。さて,一日か二日後に私服の警官がベイカー兄弟の間借りしている部屋に現われ,ベイカー兄弟を派出所に連行しました。ポールはそこで一再ならず尋問され,その答えをタイプしたものを与えられました。それから,その内容を確認して,数ページに及ぶその文書に著名するように求められました。それがすむと,ベイカー兄弟は監房に連れて行かれ,そこでついにコルドバおよび彼とともに野外奉仕をしていた兄弟と一緒になりました。兄弟たちはその“監獄”で一晩過ごし,翌日裁判官の前に引き出されました。しかし,興味深いことに,兄弟たちを護衛した警官はその事件に強い関心を持ち,たくさんの質問をしました。

証言聴取は法廷ではなくて裁判官の事務所で行なわれ,裁判官と護衛の警官のほかはだれもいませんでした。兄弟たちは伝道の業をどのように行なっているかを巧みに説明しました。兄弟たちの教えていることが無害であることを裁判官に分かってもらえました。しかし,裁判官は,兄弟たちが改宗を勧める罪を犯していると述べました。とはいえ,勾留期間が兄弟たちにとって十分の戒めとなったものと考えた裁判官は,今後もっと慎むようにと兄弟たちに忠告して,処罰を与えることはしませんでした。

護衛の警官はそのことに大変喜びました。しかし,兄弟たちの持ち物が刑務所にあったので,警官は兄弟たちを連れて刑務所へもどらなければなりませんでした。それで兄弟たちを監房の担当責任者のところへ連れて行って,3人が釈放されたことを知らせました。ところが,他の警官が,未決定の事柄がほかにもあると不平を言ったので,兄弟たちは再び監房に閉じ込められました。

数時間後,ポールは独房から尋問室へ連れて行かれました。そこで,“ほかにもある事柄”とは何かが分かりました。バルセロナからポールあてに小包が届いていたのですが,その上書きは「ラジオ」となっているのに実際はスペイン語の最新の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が50部入っていたのです,したがって,ベイカー兄弟は幾つか偽りの罪状を挙げられていたうえに,密輸罪にも問われたのです。

ポールは,その小包がスペイン本土から送られたものであって,外国から来たものでない以上どうして密輸と言えるのか,といって道理に訴えました。さらに,予約購読者が雑誌を受け取ることは法律上認められており,小包の雑誌は予約購読者のためのものであって一般に配布する雑誌ではない,と言いました。しかし,何を言っても聞き入れられず,もう一晩刑務所で過ごさねばなりませんでした。結局,3人の王国宣明者はパルマ・デ・マリョルカ県刑務所に15日間送られました。

その刑務所では新しい区域が開かれました。兄弟たちは他の囚人と自由に交わって証言をすることができたのです。記念式の日が来たとき,刑務所にいた兄弟たちが考えたのは外の兄弟たちのことでした。3人の兄弟は4月26日に出所し,何人かの兄弟姉妹たちに迎えられました。それらの証人たちは二人の資格のある兄弟,すなわちポール・ベイカーとフランシスコ・コルドバがいなかったにもかかわらず,三つのグループで記念式を行なったのです。

“出国の勧め”が続く

下宿に着くとすぐに,ベイカー兄弟はスペイン語とフランス語と英語の雑誌が警察に全部持って行かれたことを知りました。翌朝,食事をしに行くと,人目を引く見知らぬ人物が近くでコーヒーを飲んでいるのに気付きました。それはベイカー兄弟を監視するように派遣された秘密警察官だったのです。

特別開拓者のフランシスコ・コルドバの方は,島から追放されてスペイン本土にもどらねばなりませんでした。

1957年5月3日,金曜日,ポール・ベイカーはパルマのイギリス領事館でジーン・スミスと結婚しました。ハネムーンには島を横断してアルクディアへ行き,船に乗ってメノルカへ行きました。どこへ行っても,二人の後にだれかが“影”のように付きまとっていました。どう見ても,ハネムーンに理想的な状況ではありませんでした。

5月の末にポールは在住許可の更新を申請しました。警察本部に数回足を運んだ末,認可が更新されないこと,また,出国の予定日時を連絡すべきことを申し渡されたのです。ベイカー兄弟は,6月12日にバルセロナからジブラルタルへ行く船の切符の予約をしました。

バルセロナに着いてからも,ベイカー兄弟姉妹はわざとらしく変装した秘密警察官に尾行されていました。こんなことがありました。二人が裏通りのホテルに部屋を取ったところ,次の日の朝,二人が乗ることになっていた船の名前入りのシャツを着た“水夫”が偶然にもぶらぶら道路を横切っていたのです。ポールが非常な危険人物とみなされていたことは明らかでした。いうまでもなく,こうした事柄が起きたのはベレコチェア兄弟姉妹が最初に追放されて間もなくのことでした。警察は“指導者”を追い払っているつもりだったのです。

ベイカー兄弟姉妹がスペインを離れる日にさん橋へ行くと,バルセロナ会衆の数人の兄弟が見送りに来ていました。バルセロナに残る4人の宣教者,すなわちケン・ウィリアムス兄弟姉妹,ドメニクおよびエルサ・ピコネも来ていました。とはいえ,その4人がスペインにいるのも時間の問題で,彼らも間もなく国外に追放されることになっていました。

1957奉仕年度の末に,まだスペインにいたギレアデ学校の卒業生の数は9人から4人に減少していました。“事務所”をバルセロナからマドリードに移すのは賢明なことと考えられました。

開拓者たちが投獄される

僧職者は,エホバの証人が戸口へ証言に来たらだれかれかまわず警察に通報するように,と引き続き教会員にけしかけていました。その結果,1957奉仕年度中に13人の開拓者と6人の伝道者が逮捕され,伝道や聖書研究の集会に交わったかどで2日から36日間投獄されました。

例えばセビリャで開拓者たちが投獄されました。1957年3月,マルガリータ・コマスとマルハ・プニャールがセビリャに任命されました。そこではすでに特別開拓者のホセ・ルビニョとマノロ・シエルラが奉仕していました。アンダルシア人の形式ばらない性格に慣れるのは容易ではありませんでした。というのは,聖書研究とか再訪問とかを取り決めても,行ってみると,家の人はその後ほかの計画を立てて家にいなかったということがよくあったからです。また,狂信的な要素にも対処しなければなりませんでした。セビリャは聖母マリアの崇拝に捧げられた都市で,ラ・マカレナとビルゲン・デ・ラ・エスペランサという二人の有名な“処女”もしくは像が崇拝に用いられています。その二つの像にはそれぞれ信者や追随者がいて,ちょうど競い合う二つのフットボール・チームのようです。宝石をちりばめた二つの像をかついで市街をねり歩く時には特に,各の“処女”の熱心な崇敬者たちは互いに競い合って自分たちの“処女”をたたえる賛美歌をうたいます。セビリャで最も大きな教会はかつて回教のモスクがあった場所に建てられた大聖堂です。この大聖堂の塔はラ・ギラルダド(風見)と呼ばれています。塔のつけ根から3分の2の所までは回教の尖塔で,上の3分の1はルネッサンス形式になっており,明らかにカトリックの感化を受けていることがよく見えます。

セビリャにいた4人の開拓者は有名なトルレ・デル・オロ(黄金の塔)の前の広場で毎朝決まって集まり合っていました。ある日,姉妹たちはやって来たのですが,兄弟たちは現われませんでした。姉妹たちはこれは少しおかしいと思いました。しかし,午後集まる時間まで待って,兄弟たちがやって来るかどうか遠くから見ていることにしました。しかし,兄弟たちの姿は見えませんでした。次の日,マルガリータとマルハは兄弟たちの宿舎へ行き,兄弟たちのことを慎重に尋ねました。その家の女主人は,二日前に警官が来て兄弟たちを連れて行ったことを話してくれました。

心配していたことが今や確かになったので,姉妹たちは警官がいつ何時兄弟たちの宿舎に現われるか知れないと思い,用心してその日のうちに内密のメモや書類を破棄しました。その晩,姉妹たちは重い心で自分たちの宿舎にもどりました。宿舎の女主人が戸を開けてくれたとき,その顔の表情から客が来ていることが分かりました。姉妹たちを待っていたのは二人の警官でした。

夜だったにもかかわらず,姉妹たちは派出所に連行されて尋問を受けました。兄弟たちはすでにそこに来ていて,二日間尋問を受けていました。セビリャの警察は,ホセ・ルビニョが奉仕していたことのあるグラナダの警察から情報を得ていたために,尋問は一層めんどうなものになっていました。警察は開拓者の兄弟たちの宿舎で見付けた書類ばかりか,グラナダの証人から取り上げた写真も持っていました。警察は二人の兄弟に対して交互に尋問し,責任を持っている兄弟たちがだれか,またどこにいるかを聞き出そうとしました。ホセとマノロはそれぞれ冷たい独房に入れられました。そこにはベッド代わりに石の長いすが置いてありましたが,尋問がだらだらと何時間も続いたので,最初は睡眠を取ることができませんでした。

また,姉妹たちも尋問中に苦しい思いをしました。警官は姉妹たちが言わないことでも言ったことにしようとしたので,気をつけて答えなければなりませんでした。例えば,姉妹たちが,神の王国もしくは政府を宣べ伝えていると言うと,尋問の係官は,「ではおまえたちは既成の人間の政府すべてに反対している,そういうわけだな」と言いました。姉妹たちは,自分たちが信じている事柄をそのように解釈されては困る,と言いました。それはエホバの証人の活動に政治色を持たせようとするものだったからです。

尋問の後,姉妹たちは,泥酔して絶えず吐いている女性のいる非常に狭い監房に入れられました。ひどい悪臭がしていましたが,その晩はそこで過ごさねばならないようでした。しかし,夜がふけてから,ひとりの警官がやって来て,今晩あなたがたをこんな所に置いておくわけにはいかない,と言いながら二人を監房から出してくれたのです。そして,自分の事務所へ二人を連れて行き,朝までひじ掛けいすで眠るようにと言ってくれました。姉妹たちは看守の親切と,ひどい監房から出してもらえたことに対してエホバに無言のうちに感謝しました。

姉妹たちは,まるで極悪な犯罪者であるかのように次から次へと質問され,36時間食物を与えられませんでした。しかし,別の警官が二人に同情してコーヒーを持って来てくれました。結局,兄弟たちも姉妹たちも県の刑務所へ連れて行かれました。そして,そこで新たな試みに遭ったのです。

県の刑務所に着くとすぐ,兄弟たちは頭をそられ,それから監房に入れられました。その時から毎日,国旗が掲揚されたり下ろされたりする際に忠誠が試みられました。

尼僧が看守だった!

刑務所に着いて,姉妹たちは仰天してしまいました。というのはなんと尼僧が看守だったからです。受付にいた尼僧は二人に何を盗んだのか尋ねました。マルガリータはそれ以上我慢できなくなり,大きな声でこう言いました。「私たちは売春をしたり,盗みをしたからここに来たのではありません。真の神の証人であるためにここに連れて来られたのです」。それを聞くと,尼僧は驚きの叫びをあげ,疫病にとりつかれたかのように急いで引っ込みました。

その刑務所では尼僧たちが囚人に,『主の祈り』,『アベ-マリア』その他の毎日の朗唱を行なわせていました。また,勤行中囚人に物語を話して聞かせたり,いっしょに踊りをおどったり,ロザリオの祈りをしたりしました。マルガリータとマルハは証言をし始めましたが,間もなく尼僧から突然やめさせられ,他の囚人に話し掛けることを禁じられました。

事情が考慮された結果,一人1,000ペセタの保釈金で二人を釈放することが決定されました。姉妹たちはお金を持っておらず,セビリャに援助してくれる人もいなかったため,刑務所でその月を過ごしました。それは愉快な経験ではありませんでした。なぜなら,ほかの囚人全部のいる大部屋に入れられたからです。囚人たちは主として泥棒,売春婦,同性愛者たちでした。マルハとマルガリータが他の囚人の前で衣服を脱いでシャワーを取るのを拒んだところ,囚人を懲らしめるための2㍍平方しかない監房で暮らさなければなりませんでした。その監房のすみにはトイレに使う穴があり,天井には小さな窓が付いていました。ベッドもいすも,その他の家具も,マットレスもありませんでした。一人の看守は姉妹たちに同情して,水を1㍑ほど持って来てくれたので,二人は顔や手を洗うことができました。

食物はどうだったでしょう。それは,少なくとも,おいしいものではありませんでした。1日に2回,重ソウのたくさん入ったひよこ豆を支給されましたが,姉妹たちはそれで気分が悪くなりました。また1日に一人につき1枚のパンしか支給されませんでした。

刑務所に入ってから1か月して,4人の開拓者はそれぞれ1,000ペセタの保釈金を払うことができました。それで刑務所から出られたのですが,罪が晴れたわけではありませんでした。実際のところ,その事件は一度も裁判に掛けられず,開拓者たちは保釈金を取りもどすことができませんでした。

特別開拓者たちは,警察に追われることやそのために町から町へ移動することに慣れたことを申し上げておきましょう。彼らがどこから収入を得ているか説明できないとき,あるいは世俗の仕事を持っていることを証明できないときには,浮浪罪に問われて生まれた町に送還されました。

ガリシアで真理の種が植えられる

神の民が迫害を受けていたにもかかわらず,スペインにおける王国伝道の業は前進していました。そうした地域の一つに,スペイン北西部のガリシア県がありました。真理の種はそこにどのように植えられましたか。

真のキリスト教は,ヘスス・ポセ・バレラとその妻の努力によってガリシア県に足場を得ました。二人はウルグアイのモンテビデオに住んでいるときに,親戚を通して真理を知りました。時がたつにつれて二人は知識を増し,ヘススはスペインにいる実の姉妹とその夫,および自分の息子のホセに真理を伝える責任を感じるようになりました。それで1957年にヘススと彼の妻は親族に神の真理を伝える決心をして故郷のガリシアへもどりました。最初二人は喜んで迎え入れられましたが,二人が新しい宗教を持って帰って来たことが分かると,皆の態度は一変し,ヘススの母親は,二人を乗せた船が沈んでしまえばよかったとさえ言いました。母親と実の姉妹は,同じ家に住んでいながらヘススと一切口をききませんでした。

しかし,ヘススはあきらめずに,盲目の偏見という障壁を少しずつこわし,やがて聖書研究を始めることができました。その家族は司祭が強い権力を持つ小さな孤立した村に住んでいましたから,それまでになるのは容易なことではありませんでした。司祭の影響で,人々の多くは悪に染まるのを恐れて聖書に触れることさえいやがりました。もっとも,ヘススの忍耐は報われました。なぜならヘススの家族が真理を受け入れたうえに,ヘスス自身予想していなかったことですが,長期的な影響があったからです。

真理の面で進歩するにつれ,その人たちは,証言をするのに辺ぴな田舎に住んでいるのは不便であることに気づくようになりました。また,真理を受け入れたとき,持っていたダンスホールを鶏小屋に改造しました。こうして,小さな農場と家畜,それに同じ建物内に持っていた雑貨店によって経済的な支えを得ました。ヘススと彼の義理の兄弟,ラモン・バルカは農場を管理し,店も続けました。

しかし,かなり大きな区域に行くには,31㌔離れたラコルニャという都市まで出掛けなければなりませんでした。ラモンの妻が正規開拓者になり,ヘススの息子のホセが特別開拓者になると,それは不便なことでした。結局,二つの家族は農場と店を売って県庁のある都市へ引っ越しました。そこで彼らは発展しつつあった会衆のためにいっそう役立つことができました。

思えばおよそ20年前,良いたよりを広める目的を持ってウルグアイからスペインに帰国した一組の夫婦が誠実な努力を払ったことがきっかけとなって,現在ラコルニャには三つの会衆があり,伝道者と開拓者が300人ほど交わっています。これはすばらしいことだと思います。

必要の大きな土地で奉仕するためにやって来た人々

1957年7月にドイツのキールで開かれた地域大会において,必要の大きな所で奉仕するという主題の話が行なわれました。ホルスト・ミーリンクとハインリッヒ・ニッセンという二人の若いドイツ人の正規開拓者はその話に大変心を動かされ,スペインへ行く決心をしました。そしてそれを実行し,1957年10月19日に汽車でバルセロナに着きました。

エホバの証人が5万7,000人近くもいる国から780人しかいない国へやって来た兄弟たちにとって,スペインの事情は大いに異なっていました。しかも,スペインでは「聖書」という言葉を使っただけで会話ができなくなってしまいました。しかし,それらの兄弟たちが持っていた一つの利点は,一般にスペイン人はドイツとドイツ人に大変関心を持っていたということです。

したがって,その二人を文字通り先頭にして,その後も引き続き主にドイツ,イギリス,アメリカからエホバの証人がやって来ました。特に過去において王国の宣明者の必要が非常に大きかったスペインで奉仕するためです。

外人にとって伝道の業が一層骨の折れるものとなった一つの要因は,戸別に伝道する際絶えず警戒する必要があったということです。外人は逮捕されれば十中八九国外に追放されました。話し合いの最中や証言をし終えた後で家の人の反応を注意深く観察することは余分の緊張を招きました。戸が閉まると,証人は家の人が電話を掛けたかどうか確かめねばなりませんでした。戸がバタンと閉められたか,それともていねいに閉められたかということにも気をつけます。また,近所の人が家から急いで出ていかなかったか注意することも必要でした。警察に通報される恐れがあるからです。いうまでもなく,伝道している場所の付近に警官がいないのを確かめることは非常に大切でした。聖書と聖書文書は目立たないように,冬ならレインコートやオーバーの下に入れて運ぶ必要がありました。しかし,夏は文書を隠すのが容易でなかったので,ある伝道者たちは書籍を折帳ごとにばらばらにし,集会や聖書研究で使われる部分を持って行くようにしていました。

必要の大きな土地で奉仕するためにイギリスからスペインに来ていたテイラー兄弟姉妹は,1959年にスペイン北西部のビーゴという港に特別開拓者として任命されました。ビーゴは国際港だったので,テイラー兄弟は外人であってもあまり目立たないと考えられました。ところが,ほどなくして司祭が感情を高ぶらせ,テイラー夫妻の戸別訪問のことをラジオを通じて教区民に警告しました。二人は容易に見分けられたのです。というのは,スペイン人であるテイラー姉妹が主に話をし,兄弟は外人だったからです。

間もなく警官が来て二人を逮捕し,派出所へ連れて行きました。テイラー兄弟姉妹は食物も与えられずに一日中尋問を受けました。釈放された時,旅券を返してもらえず,火曜日と土曜日ごとに警察に出頭するよう命じられました。ロンはその事件をイギリス領事館に報告しました。すると,旅券は返されましたが,15日以内に国外に出るように言い渡されました。

結局,ロンと妻のラファエラは2年間ジブラルタルで奉仕し,そこの会衆の基礎をすえることができました。二人がジブラルタルを離れるとき,会衆の伝道者は25人になっていました。英国国教会の牧師の圧力がついに成果をあげ,テイラー兄弟姉妹は,1961年12月にレイ・カーカップと妻のパットとともにジブラルタルを離れるように要請されました。彼らもやはり必要の大きな土地で奉仕するために,イギリスから来ていたのです。

テイラー兄弟姉妹とカーカップ兄弟姉妹は1962年1月にセビリャに任命されました。そこにはすでに4人の特別開拓者がいましたが,ほぼ50万人の人口に対して伝道者は21人しかいませんでした。したがって,なすべきことはたくさんありました。1963年,ロン・テイラーはバルセロナで巡回の業をするように任命されました。また,しばらく後,レイ・カーカップも同じ割当てを受けました。これまでずっと,スペイン人の兄弟たちの中に巡回および地域の業を行なう資格のある兄弟が少なかったために多くの外国の兄弟たちがそれらの業に用いられたのです。

ギレアデ学校からさらに援助が来る

1958年中,宣教者のボブ・クレイと妻のクレオはスペインを去ってモロッコへ行きました。その結果,1,2か月の間スペインにはギレアデ出身の宣教者が二人になってしまいました。しかし,1958年3月に援軍がやって来ました。レネ・バスクェスと妻のエルシーおよび二人の独身の兄弟が到着したのです。四人は,初めてのこととして,会衆に対する定期的な巡回訪問を確立するという目的を持ってやって来ました。

1958奉仕年度には33%の増加があり,スペインで初めて伝道者が1,000人を超えました。それはその年の8月のことで,1,006人の伝道者が野外奉仕を報告しました。それまでになるのに,(1947年に業が復興してから)11年かかりました。ところがそれからわずか3年で,伝道者数は2,000人になり,さらに2年して3,000人を超えました。1969年までに,活発な証人は全部でほぼ9,000人になっていました。それ以来,雪だるま式に増加して,スペイン支部が管轄している区域の王国宣明者は約4万人に達しました。

カナリア諸島でエホバへの賛美が歌われ始める

アフリカの西海岸沖に,スペイン領の13の島からなる群島があります。そのうちの7つの島,すなわちテネリフェ島,ラパルマ島,ゴメラ島,イエロ島,グランカナリア島,ランサロテ島,フエルテベンツラ島は,カナリア諸島の主だった島です。1958年の総人口は約94万人でした。

内乱後カナリア諸島に初めて真理が伝わったのはいつでしたか。1958年に関心を持つ一人の人がバルセロナからカナリア諸島に引っ越しました。その年の9月,カール・ワーナーは巡回監督としてそこを訪れ,エホバの証人によってなされる初めての聖書講演を行ないました。出席者は6人でした。それは小さな始まりでしたが,ともかく始まりには違いありませんでした。講演がなされた場所は県の主都であるラパルマ・デ・グランカナリアでした。カールはそこへ特別開拓者を派遣することを勧めました。それはすぐできませんでした。しかし,別のところから援助があったのです。

1958年のニューヨーク市における神の御心国際大会でノア兄弟は,必要の大きな土地で奉仕することに関して話をしました。デンマーク人のギエデ夫妻はその話を聞いて関心を持ち,21歳のジョンという息子とともにデンマークを離れてカナリア諸島に住む決心をしました。ジョンは,両親にとってよい状況かどうかを調べるためにまず1959年2月にカナリア諸島へ行きました。同じ理由ですでに来ていたアーヴィン・ピープルというアメリカ人の兄弟に会ったことはジョンにとって大きな喜びでした。最初二人は,カナリア諸島に引っ越してきていたある関心を持つ家族の家に身を寄せました。

事を始めるにあたって,兄弟たちは二人とも同じ問題,すなわち言葉の問題を持っていました。ところがその問題は思いがけないことから解決したのです。ある日二人は,再訪問に行くことになっていた家が見付からないので,往来にいた男の人に道を尋ねました。その男の人は教師をしていて,学校の経営者でもありました。兄弟たちは会話を始め,その人が自分の学校で英語を教えてくれる人をほしがっていることを知りました。さて,兄弟たちはスペイン語を教えてくれる人が必要でした。それで取り引きをしたのです。兄弟たちがその人の学校で英語を教えるなら,彼が二人にスペイン語を教えてくれるというわけです。同時に,それによってアーヴィンとジョンは新しい方面の人々と接触することができ,その結果やがて王国伝道者の家族が生まれました。それはスワレス家で,その家のアンヘリネスという娘は後に特別開拓者になりました。

カナリア諸島におけるエホバの証人の後の歴史を左右することになったもう一つの進展がありました。ホセ・オルサエスは1959年4月にマドリードでピラール(ピリ)・ベニトと結婚し,翌月の5月にはカナリア諸島で妻とともに特別開拓者として奉仕していました。

ラパルマに着いてすぐ,ホセ・オルサエスは身体に障害のある一人の男の人がそこの群れを支配していることに気付きました。その人物は最初バルセロナで証言を聞き,協会の文書にあまり基づかないで,自分の考えを教えていました。ホセが正規の手順に従って集会を進めるようになると,その人物と彼の妻は真理から落ちました。重要視されたい,自分の教えを広めて偉くなりたいとの欲望を持つ人間によって昔から幾度となく繰り返された事柄を,彼らも行なったのです。そして多くの例にもれず,その人物も自分が重要視されないことが分かると,援助の手が差し伸べられたにもかかわらず真理を捨てて後ろのものにもどって行きました。

とかくするうちにジョン・ギエデの両親がデンマークから到着しました。今や特別開拓者たちが模範を示したので群れの活動は活発になり,1960年の4月までに伝道者が6人から21人に増えていました。そして12月には29人という最高数に達しました。むろん,こうしたことは反対者に気付かれずにすみませんでした。彼らの存在は1960年12月に明らかになりました。

手入れを受けた聖書研究者のグループ

1960年12月24日の夜,ラパルマ・デ・グランカナリアで兄弟および関心を持つ人々17名が聖書研究のために集まり合っていました。その中には,ホセ・オルサエス,その妻のピリ,彼らの生後3か月の娘,および巡回監督のサルバドル・アドリアがいました。夜の八時半に5人の警官が,ピストルをポケットに隠し持って突然アパートに乗り込んで来ました。一人の警官は,アパートの借家人であるホセ・オルサエスに向かって,おれは普通こういう集まりに銃を撃ちながら踏み込むことにしているのだぞ,とがなり立てました。

警察は押し入っただけでなく,アパートの周りを取り囲んでいました。一体どうしたというのでしょう,それは温和な聖書研究者のグループの集会でなくて,まるで無政府主義者か秘密に活動している共産主義者の集会を手入れしているようでした。

警察官の常識として,犯罪者を扱う際にまず行なうべきことは犯罪者から武器を取り上げることです。この手入れでもそれが行なわれました。全部の聖書が没収されたのです。次いで警察は子供たちの名前を控えてから彼らを家に帰しました。14人の大人とホセの娘は警察本部へ連行されました。赤ん坊が空腹のために泣き叫んだにもかかわらず,晩と次の朝の食物は支給されませんでした。母親と赤ん坊の釈放を繰り返し嘆願したにもかかわらず,それは聞き入れられませんでした。

犯罪者を逮捕したときに行なうもう一つの大切な事柄は指紋を取ることです。それで14人全員が指紋を取られました。ただ,赤ん坊は容赦されました。食物を与えられず,一睡もせずに18時間過ごした後,兄弟たちは釈放されました。しかし,ホセ・オルサエス兄弟と巡回監督のサルバドル・アドリア兄弟は別で,石の長いすしかない暗くて汚い牢屋に入れられました。二人はその時いっしょに祈りました。その夜8時に二人は,丸一日食物を与えられないまま法廷に連れ出されました。結局11時に尋問が始まり,それは3時間に及びました。尋問に当たったのは裁判官と裁判官の秘書および検察官でした。彼らの質問は,ホセがカナリア諸島で“非カトリック教派”を創始する指導者として派遣されたことを立証しようという意図のもとに行なわれました。また,証人の活動は破壊をもたらすものであることもほのめかされました。

尋問が終わると,兄弟たちは,すでに3人の男が床に寝ている狭くてベッドのない監房に連れて行かれました。翌朝,県の刑務所へ移され,寄生虫のうようよしている監獄の独房に入れられました。聖書を差し入れてくれるように頼みましたが,聞き入れられませんでした。ですから,牢屋で一人きりになったホセ・オルサエス兄弟には黙想する時間がありました。彼は,この度の攻撃で29人の伝道者からなる小さな群れがどう反応するだろうか,と考えました。

カナリア諸島のみならずスペイン各地で行なわれた警察の手入れの背後には何があったと考えられますか。普通警察がこうした事柄で自ら行動を起こすことはありません。もっと重要な事件でしなければならないことがたくさんあるからです。エホバの証人の場合は次のような順序で圧力がかかり,一斉検挙が行なわれます。まず僧職者が主教にエホバの証人の活動のことを知らせます。代わって主教は民政長官に知らせ,民政長官は警察を発動させるのです。僧職者たちは内務長官にも知らせ,内務長官は全国の警察本部に通知します。ラパルマ・デ・グランカナリアの温和な聖書研究者のグループに対する警察の検挙や,スペインの他の場所の神の民に対する攻撃の背後にそうした圧力がかけられていたことには,実際に公式の証拠があります。

オルサエスの事件の結果

ホセ・オルサエス兄弟は数日間勾留されて尋問を受けた後に釈放されました。聖書研究者のグループが元気なこと,留守中に兄弟たちが妻子の世話をしてくれたことを知って,ほっとしました。オルサエス兄弟はお金がなかったので保釈金を払わずに釈放されました。裁判は1961年の10月に行なわれたので,それまで待たねばなりませんでした。

一方,「全体主義の異端審問所がスペインで復活」と題する記事を掲載した1961年9月8日号の「目ざめよ!」誌が英語とスペイン語で同時に発行されました。9月の末ころ,ホセは再び警察本部に呼び出されました。彼はなぜだろうと首をかしげていましたが,間もなく分かりました。警官が上記の「目ざめよ!」誌の記事をオルサエス兄弟に読んで聞かせ始めたからです。警察は自分たちのことが世間に暴露されたことにすっかり腹を立て,オルサエス兄弟をうそつき呼ばわりし始めました。ホセは地が口を開けて自分を飲んでほしいと思いました。また,怒りに燃えた6人の警官に取り囲まれて,自分は生きて帰れるだろうかと思いました。しかし,尋問の最中に,「目ざめよ!」誌の記事が保護になっていることに突然気付きました。警察は自分たちの行為が再び「目ざめよ!」誌に載る可能性があるのでオルサエス兄弟に手出しすることを恐れていたのです。

あるとき,警官たちは,「目ざめよ!」誌の記事の中の3か月の赤ん坊に関する部分は偽りであると言ったことがありました。ホセはそれに答えて,私はその子の父親ですから,それが真実であることを知っています,と穏やかに答えました。さて,ホセはその厳しい試練を生きて切り抜けました。そして,当局がエホバの組織をもっと丁重に扱わねばならなくなっているのを知って大変喜びました。

ホセの裁判は1961年10月に3人の裁判官によって行なわれました。そのうちの一人が裁判長を務めました。その事件は新聞で報道されなかったにもかかわらず,裁判所の待合室には兄弟たちや関心のある人々,また法律家,医師,その他の人々が大勢詰めかけ,60名を超す人々が裁判を傍聴しました。

検察側は,オルサエス兄弟がラパルマ・デ・グランカナリアの聖書研究グループの“指導者”であることを証明しようとしました。しかし,被告の証人たちは彼を指導者として認めませんでした。さらに被告の弁護士は,弁論の結びで要約として,スペインの権利の章典を引用し,20人までは事前の許可なくして集会を開くことができることを証明しました。また,オルサエス兄弟が問われた改宗罪に関しても,再び権利の章典を引用し,言論の自由をうたった第12条を適切な強調を置きながら読みました。

長時間にわたって説得力のある弁論が行なわれ,一般の人が被告は無罪になると考えたにもかかわらず,“有罪”の判決が下され,3か月の実刑が言い渡されました。しかし,兄弟たちは最高裁判所に上訴しました。

2年4か月後,ホセ・オルサエスの事件は最高裁判所で裁判を受けました。その間にも,エホバの証人の事件は山とたまっていきました。1960年以降,迫害の怒とうがスペイン全土に広がったからです。そしてそれがようやく弱まったのは1966年になってからのことです。

兄弟たちを元気づけた判決

1964年3月2日,様々な国から来た200人ほどの人でぎっしり詰まった最高裁判所の法廷で公開裁判が行なわれました。裁判所の外でも大勢の人が判決を聞こうと待っていました。

弁護士は要約の中で特に,1880年6月15日の集会法は依然として有効であることを指摘しました。その第二条には,公開集会とは20名を超す人々の集まりで,20名を超える時にのみ合法的な目的で集まる許可を政府に申請しなければならないことがはっきりと述べられています。弁護士はラパルマのエホバの証人がその法律に従うためにあらゆる努力を払っていることを証明しました。さらに,「不法団体」とは国家の安全を脅かす犯罪を行なうことを目的とした団体であると理解されていると述べ,エホバの証人の集会は聖書の朗読と注解に基づいていることを明らかにしました。また,国家の安全を犯す行為をする者は神に反抗していることになり,そのような人間はエホバの証人になることを許されない,とエホバの証人が教えていることも説明されました。

最後に弁護士は次の点を指摘しました。すなわち,国家は「すべての人が苦しめられることなく個人の信仰を持ち得,崇拝行為をなし得る」ことを保障している以上,審理中のその事件でスペインの権利の章典の第六条が明らかに犯されている。オルサエス兄弟は警察によって苦しめられただけでなく,17名の人々の集まりで聖書を教えているところを発見されて裁判に掛けられ,有罪となったのです。

さて,検察側が弁論を行なう番になりました。弁護の内容の短い概要を述べた後,検察官は「私自身も弁護人とともに,被告の赦免を請願します」と述べ,法廷を騒然とさせました。

どのような判決が下されましたか。判決にはこう言明されていました。「不法結社の罪を問われている本件の被告ホセ・オルサエス・ラミレスを赦免し,訴訟費用を免除する」。

その判決は1964年に下されたにもかかわらず,スペインの兄弟姉妹たちを元気づけました。過去4年間攻撃の矢面に立っていた一団の忠実な特別開拓者たちの場合は特にそうでした。スペインの多くの県でエホバの証人は逮捕投獄され,グループで聖書研究しているところを逮捕された場合には罰金を課されましたが,その判決はそうした宗教的不寛容を打ち砕きました。それはまた,聖書を研究することを目的として私的に集まる権利の擁護への,先例となる第一歩でした。

容赦のない迫害

しかし,内務大臣は,エホバの証人をスペイン国内から根絶することを依然として強く願っていました。それで1966年2月24日,さらにもう一通の回状がすべての民政長官に送られました。最低2,500ペセタの罰金を科する処置はあまり効果がないので,内務大臣は法務大臣と協議して,次のような勧告を与えることを提案しました。

「したがって,私は内務大臣閣下の命令に基づき,そうした活動をしているところを発見された前述の宗派の信者を浮浪者および犯罪者裁判所へ告発することを閣下に勧告する。そうすれば,彼らを扱うそれらの裁判所は処置を講ずる目的を見いだせる。また,改宗活動の結果犯される罪の告発と処罰,および犯罪者裁判所が下す有罪判決における保安措置を妨害することもない」。こうして,エホバの証人の伝道活動の息の根を止め,脅迫してその業をやめさせようとする最後の必死の努力がなされました。それは正に,「定めによって難事をたくらんでいる」ことでした。―詩 94:20,新。

クリスチャンの中立を守る

当時のスペインの政治体制下で,エホバの証人は僧職者その他からの迫害に直面していたほかに,クリスチャンの中立に関連した問題にも対処しなければなりませんでした。(ヨハネ 15:19)その時代の大勢の若い証人たちは聖書の個人的な研究を通して,イザヤ書 2章4節および他の聖句から諸国家の事柄に関して厳正中立の立場を取らねばならないと判断しました。だれかがそのことについて若い証人たちと話すと,彼らは,神のみ言葉の個人的な研究に基づく自分の良心的な決定であると述べました。各人がそれぞれ自分で選択したのです。しばらくの間スペインの当局者はその中立の立場を理解せず,ある兄弟たちを厳しく処置しました。しかし,近年そのような良心的なクリスチャンに対してずっと寛容な見方を取るようになり,はるかに理解のある仕方で彼らを扱います。それら若い証人たちが苦しい状況下で忠実さを示していることは他の人々にとって励ましとなってきました。彼らが忠誠の道を歩んだ経験の幾つかをここでお話しするのは喜びです。

1958年2月,マドリード出身のヘスス・マルティンは,モロッコにあるスペインの包領,メリリャで兵役に就くように命令されました。ヘススはクリスチャンの中立の立場を取ったためにひどく打ちたたかれ,最後にロストロゴルド(ふくれた顔)として知られた営倉に入れられました。その時メリリャ駐とん地の軍隊および民間の最高権威を握っていた陸軍中将の扇動によって,そこで残酷な仕打ちを受けました。もう一人の“忘れられない”人物は営倉長で,残忍暴虐な人間でした。

営倉に入ってから8日後にヘスス・マルティンは約20分間立て続けに馬のむちで打たれ,その上侮辱されたりけられたりして,とうとう半ば意識を失って床に倒れてしまいました。営倉長はそれでも満足できず,ヘススの顔を深ぐつで地面に押し付け,頭から血が流れるまでそうしていました。ヘススが人に助けられて営倉長の事務所へもどると,毎日同様の殴打があることを申し渡されました。また,残忍な営倉長は手足をもぎ取ってやると言って脅しました。

その後,地下の監房でヘススはエホバに力と援助を祈り求めました。監房ではねずみ以外にだれも話し相手がいませんでした。ヘススは毎日ライフルを突き付けられながらピッケルで石を砕く8時間の労働に出かけました。それは囚人の気をくじくことを意図した,目的のない労働でした。

ところで,毎日殴打するということはどうなりましたか。翌日ヘススは傷に塗るオリーブ油を与えられ,頭に包帯をされました。そのような状態でヘススは2回目のむち打ちを受けるために連れ出されました。今度は,割り当てられた伍長がむちを打ち,営倉長は,それが正しく行なわれているかどうかそばで見ていました。そうした野蛮な仕打ちは看守や兵士たちの憤りを買うほどでした。ヘススは決意がぐらつき始め,毎日こんな仕打ちを受けてほんとうに耐えられるだろうかと考えました。

三日目,ヘススは砕石作業に召集されました。しかし,午前中の半ばになって,またもや営倉長の事務所に呼ばれました。そこには軍の裁判官がいたので彼はほっとしました。その裁判官はヘススの事件を調べて起訴するために来たのです。裁判官はむち打ちのはっきりした跡と包帯とを見て,何があったのか尋ねました。ヘススは,後で仕返しをされるかもしれないので,話すのを大いにためらいました。が,ありのままを裁判官に話しました。それを聞いて,裁判官は,あなたが再び打たれるようなことは絶対にないと言いました。これこそ前の日のヘススの祈りの答えでした。その後6年間の投獄中,ヘススが再び虐待されたことはありませんでした。それでヘススは,エホバが忠実な者の祈りに答えてくださることを確信しました。―箴 15:29

アフリカで1年3か月過ごした後,ヘスス・マルティンはスペインのオカニャ刑務所に移されました。興味深いことに,ヘススは不服従のかどで15年の投獄,および扇動のかどで4年の投獄を宣告されました。というのは,ヘススの例から他の人々が影響を受けたと考えられたからです。したがって,1年6か月の兵役を拒否したために19年間投獄されることになりました。その後,ロストロゴルド刑務所で不従順であったという理由でさらに3年の刑を言い渡され,刑期は合計22年になりました。ちなみに,ヘススが受けた15年の刑は,スペインにおいて中立の問題でこれまでに下された刑としては最も長いものです。

刑務所の中で霊的な健康を守る

オカニャの刑務所にいた間,ヘスス・マルティンには幾つか都合のよいことがありました。最初,刑務所の職員たちは,ヘススの刑務所歴を見て彼が非常に反抗的な囚人であると判断しました。しかし,やがてヘススが模範的な囚人であることが分かりました。彼は非常に模範的だったので,刑務所の帳簿係となり,刑務所の仕事場での働きに応じて全囚人に手当を支払う責任を任されました。数か月の間ヘススは50万ペセタ(当時の米貨にして約1万ドル)の手当の支払いを行なわねばなりませんでした。

オカニャにおける一つの利点は両親の訪問を受けることができたということです。もっとも一度に15分しか話すことが許されませんでした。それでヘススはどのように霊的な健康を維持しましたか。ものみの塔協会の出版物を持つことは全く許されていませんでしたが,ヘススはナカール・コルンガ訳聖書を持っていました。しかも,彼はなんと,外典や注解その他を含めその全体をわずか20日間で読んだのです。

ヘススは他のクリスチャンたちも中立の立場を取っていることを知り,兄弟たちの一人が自分の入っている刑務所に入れられるようにと切に祈りました。4年間事実上孤立していましたが,その祈りは聞かれ,アルバート・コンティジョクが彼の刑務所に入って来ました。ヘススとアルバートは一緒に研究をし,また,刑務所内で比較的公然と伝道しました。事実,二人は自分たちで「神を真とすべし」と題する聖書の手引きの“第三版”を作りました。入所して間もない方の兄弟は聖書の内容をよく覚えていたので執筆をし,ヘススはその翻案および校正に当たりました。

その後1961年に,クリスチャンの中立の立場を守ったためオカニャ刑務所送りになった三人目の人,フランシスコ・ディアス・モレノが入って来ました。その三人の若者は,「王国のこの良いたより」と題する小冊子をやっとのことで一冊手に入れました。ヘススは自分が働いている事務所のタイプライターを使って,その小冊子の写しを数部作ることができました。囚人仲間との研究を三人で15件司会したこともあります。

クリスチャンの中立の立場を守っていたその三人は,新しい聖書文書を求める気持ちが大変強かったので,そのために幾度か危険を冒しました。例えば,1963年9月24日の,「慈しみ深い聖母マリア」の祭りの時にこんなことがありました。それは特別の祭日で,カトリック教会が囚人と捕虜のためにとりなしを行なうことになっており,普段訪問することを許されていない人々が刑務所を訪れることができました。それで,その日ホセ・オルサエスと妻のピリはエステル・リディアという名の2歳の娘を連れて刑務所を訪問しました。エステルはヘススの“めい”として中に入ることを許され,ヘススに衣類を一箱渡しました。その中には協会の堅表紙の本も2冊入っていました。別の時に,ヘススの両親は「すべてのことを確かめよ」と題する本の英語版を送りました。しかし,刑務所の職員は,そうした本をヘススの手に渡すのは軽機関銃を銀行泥棒に与えるようなものだと言って,その本をヘススに渡そうとしませんでした。

1963年にアントニオ・サンチェス・メディナが来て,オカニャ刑務所の中立を保つクリスチャンのグループは3人から4人になりました。アントニオはすでに他の場所で刑務所の苦しみを経験しており,オカニャ刑務所の3人の証人と交わることができるようになる前に,30日の謹慎期間を経なければなりませんでした。しかし,他の囚人との連絡を絶たれていたにもかかわらず,アントニオは話をせずに証言する方法を考え出しました。ある囚人が真理に関心を示すと,アントニオは聖書のクロスワードパズルを作って,その囚人に答えさせたのです。色々なクロスワードパズルを使って自分の聖書を調べさせました。

最初の30日の期間が終わろうとした時,アントニオは逆もどりさせられました。サラゴサの刑務所にいた時に,アントニオは兄弟たちに関心のある囚人のことを知らせる手紙を書き,それをマットレスの中に隠して,刑務所の外へ送る機会を待ちました。しかし,監房が検査され,手紙はみつかってしまいました。さて,アントニオはその罪をオカニャで償うことになり,手紙を書いたことと変節したこととの罰として懲戒用の牢屋に20日間入れられることになっていたのです。

アントニオは“管”,すなわち,冷たくて暗い牢屋が並んでいるトンネル状の穴に連れて行かれました。彼の監房には,洗面器,トイレ,アルミニウムの皿とスプーン以外に何の家具もありませんでした。夜になって,マットレスと汚れた毛布2枚を支給されました。しかし,読む物も筆記用具もありませんでした。アントニオは退屈な20日間をどのように耐えようとしましたか。クロスワードパズルを考えることにしたのです。しかし,紙も鉛筆もありません。それで,皿の取っ手の片方を折り取り,それで監房の床のタイルの上に書いて床を大きな聖書のクロスワードパズルに変えたのです。聖書中の人物や聖書の一節を思い出すことに夢中になっていたので,20日間はたちまち過ぎてしまいました。

確かに,霊的な健康を維持する方法は色々ありました。オカニャ刑務所にいた中立の立場を取る四人のクリスチャンは数冊の雑誌と文書を手に入れていました。しかし,読むことは全く秘密に行なわねばならず,文書は隠さなければなりませんでした。そのために四人はチェスの道具一式をそろえ,チェスの台の入れ底に文書を隠していました。

用心しながら集会を開く

オカニャ刑務所の四人のクリスチャンは一緒に集まって聖書研究をする必要があることに十分気づいていました。(ヘブライ 10:24,25)したがって,ついに四人は毎週集会を開くことを取り決めました。もっとも非常に用心して集会を開きました。

オカニャ刑務所では,各大部屋に囚人が約80人いて,2段式の寝だなが平行に並んでいました。四人の証人は隣り合わせた二つの寝だなを使っていました。したがって,一人が寝だなの上段に横になって耳をそば立てながら看守が来るのを見張り,残りの三人は寝だなの下段に座って,プログラムの自分が割り当てられた部分を果たすことに最善を尽くしました。頭上の拡声器から音楽やフットボール試合の実況放送が流れ,他の囚人たちも騒がしかったので,聖書に関する事柄を話し合うのは容易なことではありませんでした。しかし,四人の若者たちはそれをやり遂げ,そうした状況下で1962年にイエス・キリストの死の記念式を祝うことさえしました。

一人はついに釈放された

1964年の夏にヘスス・マルティンは再びオカニャ刑務所で一人になっていました。他の三人は1963年にそこを出たからです。フランシスコ・ディアス・モレノは一つの刑期を終えましたが,再び,今度はスペイン領サハラのエルアユンに出頭しなければなりませんでした。アントニオ・サンチェスとアルバート・コンティジョクも同様の経験をしました。しかし,四人は離れ離れになる前に,新しい駆け引きをすることにし,全員で条件付きの釈放を願い出ました。それは,模範囚であれば一年間服役するごとに3か月の仮出所を許可されるというものでした。

そうした努力の結果,三人の願いは退けられましたが,ヘスス,マルティンは許可されました。マルティンは25か月の仮出所が認められ,25か月後に軍当局に出頭することを求められました。こうして,1964年8月,ヘススは6年6か月の刑を終えて刑務所から出ました。何らかの理由で再び呼び出されることはありませんでした。

バプテスマを受けていなくても忠誠を守った人

フランシスコ・ディアス・モレノはオカニャで1年過ごして二度目の刑期を終え,1964年1月に2か月間仮出所しました。彼はサハラに行く前,三度目の軍法会議にかけられるまでの期間を,自分を霊的に築き上げるために用いました。1964年4月までに,フランシスコはサハラ砂漠のずっと奥地にあるラサヒヤという懲戒用の牢屋に送られていました。そこにはすでにアルバート・コンティジョクとフアン・ロドリゲスがいました。興味深いことに,その時までにフアンは中立の立場を取って3年間投獄されていましたが,バプテスマを受けたエホバの証人になっていませんでした。神への献身を象徴して浸礼を受ける機会を得ないうちに聖書の真理に基づく立場を取っていたのです。

フアンが投獄された当初,わけても,フアンの中立の立場を破ろうとするたくらみがなされました。言うまでもなくカトリックの司祭だった刑務所の教戒師はフアンに,もう一人の証人が協会からの最新の指示を携えてフアンに会いに来ると告げました。

なるほど,水夫の服を着た若者がエホバの証人であると名乗ってやって来ました。フアンと水夫と司祭が会話を始めたとたん,“エホバの証人”と名乗るその水夫はたばこの箱を取り出して,フアンに一本勧めました。フアンがその“兄弟”にどんな書籍を読んだか尋ねると,水夫は「グリーン・リーブズ」やその他フアンが聞いたことのない書名を挙げました。それでフアンは,次に司祭が一人でいるところを見かけた時,会わせてくれた証人が本物かどうか今後確かめる必要があると告げました。

フランシスコとアルバートとフアンがラサヒヤでエルアユンへ送られるのを待っていた時,兄弟たちはキャンプの外にある井戸の一つでフアンにバプテスマを施すことにしました。しかし,キャンプの外に出ることは全く許されませんでした。では,乾燥し切った砂漠でどうやってバプテスマを施すつもりだったのでしょうか。実は,キャンプの中に覆いの付いた大きな水ためがあり,それには水を入れたりバケツでくみ出すための二つのあながありました。とはいえ,そこには深さ15㌢の水しかありませんでした。

しかし,1964年4月19日の夜,三人の若者はすでにテントの中にいて給水車が到着する音を聞きました。そうです,給水タンクに水が入れられているのです。考えてもみてください,人を浸せるだけの水があるのです。聖書に基づく簡潔な討議をした後,三人は砂地をひそかに横切って給水タンクへ行き,フアン・ロドリゲスはバプテスマを受けました。

エルアユンで忍耐する

例えばサハラ砂漠のさらに奥地の前哨地点だったアウサで投獄されていた時のように様々な経験をした後,四人の中立を守るクリスチャン,すなわちアルバート・コンティジョク,フランシスコ・ディアス・モレノ,アントニオ・サンチェス・メディナおよびフアン・ロドリゲスはついにエルアユンの刑務所に入れられていました。そこは条件のきわめて厳しい所でした。建物は長方形をしており,監房のとびらは有刺鉄線とガラスの破片で覆われた刑務所の壁に向いていました。その壁の四すみには,自動小銃を持って番をする監視人の詰め所がありました。監房は狭く,間口が2㍍,奥行きが3㍍で,一つの監房に2,3人の囚人が入れられていました。運動の時間は毎日午前と午後の1時間しか与えられませんでした。しかし,その刑務所は海岸からわずか25㌔ほどの地点にあり,そのために気候が緩和されたので,砂漠の他の土地におけるよりも暑さをしのぐことができました。

最初,中立を守る四人のクリスチャンは集会を開いただけでなく,伝道をして聖書研究を司会することができました。例えばフランシスコは,殺人を教唆したかどで死刑の宣告を受け,その後30年に減刑された若者と話すことができました。ある日その若者はフランシスコに話し掛けてきて,母親が聖書を送ってくれたと言いました。その若者の母親とおばに当たる人は福音派の新教徒でした。フランシスコは若者の聖書を巧みに用いて神のお名前に関する証言を行ないました。関心が高められ,「神を真とすべし」と題する本を用いて聖書研究が始まりました。わずか2,3週間後にその若者はスペイン南西部のカディズにあるサンタカタリナ刑務所に移されました。しかし,真理はすでに若者の心の中で働いていたのです。若者は引き続き進歩し,ついにバプテスマを受けました。若者の母親とおばも今ではバプテスマを受けた証人です。こうして,マーセリーノ・アルティネスは捕らわれの身にありながら真の自由を見いだしました。

エルアユンでは他の囚人との研究を15件も司会するまでになりました。ついに刑務所の当局者は弾圧を加え,エホバの証人を他の囚人から離しました。運動の時間でさえ,他の囚人たちの運動の時間とぶつからないように変更されました。他の囚人たちを“変節させる”余地は全くなくなろうとしていました。

新しい戦術を取る

4,5年刑務所にいましたが,職員側に何の変化もなかったので,投獄されていた中立を守るクリスチャンたちは自分たちの立場をもっとよく弁護するために軍事裁判裁定を調べ始めました。戦術の一つとして,自分たちの苦境をしかるべき責任者たちに知ってもらうため,政府の大臣たち全員に手紙を書きました。有罪判決を受けた殺人者がわずか7年で釈放されることもあるのに,それら中立を守る証人たちは文字通り終身懲役刑を宣告されたのです。

法律上の問題の一つは,軍法会議の際エホバの証人が,裁判記録に載せることのできる供述書を作成できないことでした。フランシスコ・ディアス・モレノはそうした事情を根底から変えようと決心しました。軍事裁判規定の中で,囚人の最終的な供述は記録に収めなければならないことが書かれていたので,エルアユンの軍法会議に臨んだ時,同兄弟は,検察官と弁護人が神経をとがらせながらそれぞれの弁論を行なうまで待ちました。その後,起立して,何か言うことはないかと尋ねられたのです。

「はい,あります,閣下」とフランシスコは答えました。それから,準備しておいた宣言書を読み上げ始めたのです。裁判を主宰していた将校は幾度か朗読をさえ切ってやめさせようとしました。しかし,フランシスコが確固とした態度を表わすのを見て,彼を裁判官席に呼び,「君,どういうつもりなのか」と聞きました。フランシスコは,供述を正式に裁判記録に載せていただきたいだけです,と答えました。「では,それを調べて,事情を検討しよう」という答えが返って来ました。

フランシスコは言いました。「失礼ですが,閣下,供述を調べ検討するという問題ではありません。私の供述が収められなければならないということです。さもないと,裁判は無効になります」。

その論議は申し分なかったので,主宰の将校の態度は和らぎ,フランシスコの供述書は裁判記録に添付されました。それ以後,エルアユンの軍法会議において中立を守るクリスチャンは必ずそうした供述書を作成することができるようになりました。

リスコの営倉とそこの司令官

カナリア諸島のサンフランシスコ・デル・リスコ営倉は,中立を守るクリスチャンにとって指折りのひどい刑務所でした。そこの司令官は「ピサモンドンゴス」というあだ名の悪名高い将校でした。そのあだ名をそのまま訳せば「はらわたを踏みつける者」という意味です。その司令官はサディスト的な暴力を加えては喜んでいました。フランシスコ・ディアス・モレノはその営倉にしばらくいました。そこに着いた時,フェルナンド・マリンとフアン・ロドリゲスがすでに何か月も前からいたことを知りました。

間もなくフランシスコは司令官と対面しました。「おまえはエホバの証人か」,と司令官は尋ねました。「はい,そうです」と答えると,「またしても国賊だ!」と司令官は大声でどなり,繰り返すことのできないような言葉も使って,フランシスコの身体検査をするように命令しました。フランシスコはたまたまポケットに雑誌を1冊入れていたので,それを渡さなければなりませんでした。曹長が引き続きフランシスコの身体検査をしている間,司令官はいったん席をたってまたもどって来ました。身体検査が手間取っているのに業を煮やした彼は,自ら手早く身体検査を終えました。しかし,フランシスコが腹巻の下に隠し持っていた数冊の雑誌を見落としたのです。こうして,復活に関する新しい情報の載っている「ものみの塔」誌が数冊その営倉に持ち込まれました。

三人の証人は他の囚人から隔離した一つの監房に入れられ,他の囚人に話し掛けることが許されませんでした。中庭には白線が引かれ,他の囚人たちはそれを越えてはならないことになっていました。したがって,囚人たちは監房の窓越しに兄弟たちと話をすることができませんでした。それまでの9か月間にフェルナンド・マリンに話し掛けようとした囚人たちは激しく殴打されました。隔離の表向きの理由は,エホバの証人が残りの囚人たちによって堕落させられないようにということでした。しかし,幸いにも,兄弟たちはサンフランシスコ・デル・リスコにそれほど長くいることにはなっていませんでした。

カディズ刑務所の会衆は増加

1965年10月,フランシスコはカナリア諸島からカディズにあるサンタカタリナ刑務所に送られました。長年の間,同刑務所はエホバの民の間で有名でした。というのは,その刑務所に入れられたエホバの証人は100人にも達していたからです。しかも,捕らわれている信仰の仲間を励ますためにカディズに行った幾百人もの兄弟たちがそこを訪れました。1972年5月,グラント・スーターが,その後レオ・グリーンリースが訪れています。二人は統治体の成員で,その刑務所の大きな会衆に話をする特権を与えられました。実際,刑務所内の会衆は同じ町の刑務所外の会衆よりも大きかったのです。

興味深いことに,過去数年間,カディズのサンタカタリナ刑務所に収容されている兄弟たちは外で開かれたすべての巡回大会と地域大会のプログラムを行ないました。少なくとも1度など,収容されているエホバの証人の結婚式に外国の新聞記者を迎えました。そのことが報道されたので,良心的参戦拒否者に対するスペインの法律が残念ながら適正でないことに広く一般の人々の注意が向けられました。同刑務所内で幾つかの結婚式が行なわれましたが,最初の結婚式は,1967年11月に民事裁判官の司会で行なわれたフランシスコ・ディアス・モレノとマルガリータ・メストレの結婚式でした。

しかし,カディズのサンタカタリナ刑務所では問題が少なかったと考えるべきではありません。例えば,しばしば食事に血の混じったソーセージが入っていました。証人たちは血に関する神の律法を守ることを決意していたので,それを食べることができませんでした。(創世 9:3,4)ところが,証人たちは刑務所の中で立派な組織を作り,ふさわしい食物を買うための資金を得るために仕事をする班を幾つか設けました。また,集会や言葉の勉強や他の活動の計画も立てました。手紙による証言の取り決めも設けられましたから,毎月かなりの人が当時の「休暇開拓者」になれました。希望の光が時折差しては消えるという状況下にあって,そうした取り決めのおかげで時間が一層速く過ぎました。兄弟たちは失望することには慣れていたものの,その当時の不安な状態が兄弟たちの士気に役立ったわけではありませんでした。

一例として,1970年3月に報道機関は,政府が,良心的参戦拒否者を扱い,新たな法的手段によって状況を是正する徴兵法を準備していると発表しました。それは当時刑務所にいた多くの兄弟たちに期待を持たせました。同年9月,法案はスペイン議会の一委員会で討議されました。その委員会は,法案を承認せずに政府にさしもどして改訂を求めるというきわめて異例の処置に出ました。そのニュースが刑務所に伝わった時,兄弟たちは冷水を浴びせられたように意気をくじかれました。1971年に政府は再び,議会の防衛委員会の過激論者に喜ばれる一層厳しい法律を上程しようとしました。しかし,法案の当初の意図が全く変わっていることに気づいた政府は,その徴兵法をそれ以上検討することをさし控えました。

バスク地方で初の中立の問題

中立を守ったクリスチャンが過去において長年の間刑務所で過ごした記録に是非とも加えなければならないのは,バスク地方ビルバオ出身のアドルフォ・ペニャコラダとログロニョ出身のエミリオ・バヨの忠誠の記録です。二人は数年の間時を同じくしてスペインの刑務所にいました。

1963年3月16日,アドルフォ・ペニャコラダは彼の父親が35年前に兵隊として服役したことのあるブルゴスの兵舎に出頭しました。4日間は制服が与えられませんでした。5日目にアドルフォは自分の良心的参戦拒否の立場について連隊長と長い話し合いをしました。結局,連隊長は話し合いに成功しないことを悟って戦術を変え,アドルフォに向かってどなると,彼を“ブタ箱”へ入れるように命じました。ブルゴスは軍隊と教会の歴史を誇る都市ですから,アドルフォが良心的参戦拒否の立場を取ったことはそこの軍部の話題になりました。ブルゴスで一人の男が軍服を着用することを拒否したという,考えられないことが起こったからです。

全軍隊はアドルフォに話し掛けることを禁止され,それを破った場合は罰すると告げられました。何人もの将校たちが入れかわり立ちかわりアドルフォの監房に来て,アドルフォの考えを変えようとしました。しかし,アドルフォが証言したので,将校たちは帰る時には必ず何かを考えさせられていました。アドルフォは,「恐れてはならない。わたし自らあなたを助ける」という言葉を含め,エホバに言及している聖句を監房に掲げました。(イザヤ 41:10,13,新)エホバという名前は多くの物議を醸しました。そしてアドルフォは確かに信頼と確信をエホバに置きました。

長年の間にアドルフォはいろいろな将校から様々なことを言われました。例えば,隊長の副官だったある中尉は次のように語りました。「アドルフォ,大多数の者が私と同様の考えを持っているのだが,我々は君に驚嘆している。我々は君が生活できないようにしてきた。だが,条件を厳しくすればするほど,君は一層笑顔をたたえ,親切な言葉を掛ける。……君を見ていると私は初期のクリスチャンのことを思う」。

やがてアドルフォは全く信頼されるようになり,監房のとびらに錠が下ろされなくなりました。そして,様々な兵士が聖書に関する質問を持って彼のもとにやってきたものです。一人の兵士は,「私は聖書を学びたいと思います。私はあなたが真の宗教を持っておられることが分かりました」と言いました。

看守の一人はぜひとも聖書を読みたいと考え,アドルフォの監房に入って来て聖書を読みました。その際,彼は,だれかがやって来て自分たちをびっくりさせないように,アドルフォに監房の外で“看視”をしてもらいました。囚人が見張りの番をしたのです。

ログロニョ出身の,中立を守るクリスチャン

1963年9月,アドルフォは軍法会議に付されるために陸軍裁判所に連れて行かれました。そこでエミリオ・バヨに会えるようになりました。バヨも同じ時に裁判を受けていたのです。その時より2年前にログロニョでエホバの証人が警察の手入れを受けた時,二人もその中にいたのでお互いに顔見知りでした。

エミリオは,21歳になった時,ナバルラ県のトゥデラの兵舎に入れられました。それはたまたま,アドルフォがブルゴスの兵舎に入れられたのと同じ,1963年3月16日のことでした。次の日,エミリオは軍服を受け取るのを拒み,新兵といっしょにミサに出席しませんでした。そのため土牢に閉じ込められ,屋外の運動をほとんど許されずに文字通りひとすじの日の光もささないその牢屋で最初の10週間を過ごさねばなりませんでした。ベッドは毎朝持ち去られ,夜にもどされました。そしてだれにも話し掛けることが許されませんでした。ある指揮官の全くの親切によっていすがあてがわれたので,日中腰を掛けることができました。

その最初の10週間が過ぎると,エミリオは軍法会議に付されるためブルゴスに移されました。その日,移動中にエミリオは,保護官に手錠でつながれていましたが,10週間話せなかった埋め合わせをしました。片方の手に手錠を掛けられながら,自分の聖書をできる限り用いて,列車の中で証言しました。護衛官は手錠のかかった手を隠そうとしましたが,エミリオは自分がキリスト教の信仰のゆえに鎖につながれていることを人々に知ってもらうために,その手をずっと出していました。

アドルフォとエミリオの軍法会議は別々に開かれましたが,その結果は同じで,二人共3年と1日の投獄を言い渡されました。11月,二人はブルゴス民間刑務所に移送され,そこで一般の犯罪者やあらゆる種類の罪人といっしょに暮らさなければなりませんでした。

まずアドルフォが到着しました。刑務所の所長はアドルフォに厳しくこう言いました。「私はおまえたちを知っているし,おまえたちの手口を知っている。ここで改宗活動をちょっとでもしようとすれば,営倉で腐れてしまうぞ」。幸いにも2,3日してその所長は別の人に取って代わられました。それでエミリオとアドルフォは伝道をしたため刑務所の中は短期間のうちに上を下への騒ぎとなりました。むろん,二人の手許にあった唯一の文書はカトリックのナカール・コルンガ訳聖書でしたが,それだけでも十分でした。二人がその週に話したことは,日曜日のミサが行なわれるまでに教戒師の耳に達していました。しかし,兄弟たちは他の囚人からばかりか新しい所長からも敬意と賞賛を得ていたので,教戒師は二人が伝道するのをやめさせたり,二人に手出しをしたりすることができませんでした。所長は二人に大変感心して,マドリードからさほど遠くないミラシエルラのオープン・プリズンに二人を移すことを推薦しました。

エミリオとアドルフォは1964年1月にその新しい刑務所へ向かって出発しました。途中,アビラとカラバンチェルの刑務所を通り抜けなければなりませんでした。そして,ついにミラシエルラの刑務所に到着しました。

ミラシエルラのオープン・プリズンでの生活

ミラシエルラには信頼できる囚人用の小屋がひとかたまりあって,そこの囚人たちは,主として外人用のシャレー風の別荘を建築している建設会社の仕事をしていました。囚人たちは作業時間中に外部の人たちと交わったので,そこは事実上自由の身同然の場所でした。アドルフォとエミリオにとって休息期間は短いもので,正確には7か月に過ぎませんでした。しかし,少なくとも小休止が得られました。仕事はきつく,1年近く体を使っていなかった二人の若者にとっては重労働でした。

アドルフォとエミリオはあらゆる場合に機会を捕らえて証言をし,良い結果を得ました。例えば,ある人と聖書研究が始まり,その人は後にバプテスマを受けたクリスチャンになりました。そればかりか,兄弟たちは間もなく「ものみの塔」研究を組織し,その時まだ使われていなかった鉄道のトンネルの入口で集会を開きました。4名が線路の上に座ってその興味深い研究を楽しんだものです。

しばらくして,アドルフォとエミリオは別荘内の比較的軽い仕事を割り当てられました。それで二人は別荘の所有者数人に証言できました。また,服役中の兄弟たちを日曜日ごとにクループで訪れた兄弟たちによっても立派な証言が行なわれました。看守や囚人たちはエホバの証人の間に愛があることを見たからです。―ヨハネ 13:34,35

アフリカへ

アドルフォとエミリオの刑期はミラシエルラで終わり,二人は1か月の間自由の身になりました。もっとも,スペイン領サハラのエルアユンへ行くようにとの指示を受けていました。彼らは自由になった1か月間を,信仰の仲間と交わったり,自分たちを霊的に築き上げるために用いました。身体的にも霊的にも元気を取りもどし,9月の末に,自分たちが新たに入るアフリカの刑務所に向けて出発しました。

エルアユンに着くと,二人は,中立を守る3人のクリスチャン,すなわち,フランシスコとアルバートとフアンがすでにそこに入っていることを知りました。しかし,その兄弟たちに会える道はありませんでした。アドルフォとエミリオはその3人の信仰の仲間とぜひ話したいと思いました。特に,決定を下す際細かい点が問題となるものと考えられたので,新しい刑務所でどんな問題があるか知りたかったからです。

アドルフォとエミリオはエルアユンからハウサに送られました。二人はそこにアントニオ・サンチェスがいることを知っていました。少なくとも,その兄弟から何か情報が得られるだろうと思いました。ところが,二人が着いた時,サンチェスはわずか数時間前にそこを出ていたのです。事態は全く絶望的に見えました。が,そうではありませんでした。二人が野営地の床屋へ行ったところ,ベニト・エゲアとかいうその床屋はアントニオ・サンチェスと聖書を学んで日の浅い人でしたが,役立つ情報を与えてくれました。兄弟たちは,別の土地へ移されることが決まるまで,その人と引き続き聖書研究を行ないました。エルアユンへ移されるのですか。そうではなく,1,000㌔南のビヤ・シスネロスへ移ることになっていました。そこはエホバの証人が一度も送られたことのない軍事基地でした。アドルフォとエミリオは新しい畑を耕すことになっていました。ついでながら,キャンプの床屋は後日バプテスマを受け,特別開拓者にさえなって長年奉仕をしました。

1964年12月21日,しのつく雨の中を,二人を護送するトラックは砂漠を横断し始めました。その窮屈な旅は数日間続きました。ビヤ・シスネロスの兵舎に着いた翌日の朝,目覚めたとたんに,部隊の隊員の一人が同性愛関係にまつわるねたみからもう一人の隊員を殺したというニュースを聞きました。アドルフォとエミリオが移されたのはそのような所だったのです。今や二人は兄弟たちとエホバの地的な組織から完全に孤立し,エホバ神を除いてはだれにも相談できませんでした。したがって,二人は熱心にエホバに導きを求めました。2,000人から3,000人の兵士の中で,軍服を着けずに動きまわっていたのは彼ら二人だけでした。

エミリオとアドルフォは自分たちが常に正しい決定をしているとは思いませんでした。しかし,二人はエホバを喜ばせようと努めました。そして1965年の2月,二人の中立の立場ははっきりと明るみに出ました。全部隊が大演習のために兵舎を離れるように割り当てられましたが,二人の兄弟はその命令に従おうとしなかったのです。そこで,副官は突いたりけったりして二人を小屋から出し,兵士の最後の列に並ばせました。それから「前進せよ」との命令が出ました。全部隊は動き出しましたが,じっと動かないアドルフォとエミリオの二人がぽつんと残されました。幸い,隊長は二人を丁寧に扱い,兵舎の看守に引き渡してくれました。

それから間もなく,アドルフォとエミリオは懲戒部隊に入れられていました。その任命に当っていた部隊は囚人たちに対して事実上好きなことができ,殺すことさえ許されていて,それが何の問題にもなりませんでした。起立するように命令された時,兄弟たちはそれに従いませんでした。看守は二人をののしり,担当の伍長は二人をげんこつでなぐったり,たたいたりし始めました。アドルフォは幾つもの打ち傷を負い,最後には目にあざができました。

アドルフォとエミリオは懲戒部隊に1か月いました。二人は兵舎でどんな仕事もしようとしないので,毎日日の出とともに3㌔離れた場所まで連れて行かれました。そこで石を砕いたり砂を掘ったりしなければなりませんでした。食物は十分でなく,クリスチャンには食べられない物であることが多かったので,兄弟たちはおなかをすかせて疲れ切っていました。時折,看守は二人を哀れに思い,兄弟たちが暑さを避けて近くのほら穴の日かげで仮眠を取るのを許してくれました。しかし,大半の看守は専横で,囚人たちは許可を得ずに話したり何かをしたりすることを禁じられていました。

その年の4月にアドルフォとエミリオは懲戒部門から出ましたが,ビヤ・シスネロスの神経戦争にこれから先いつまで耐えられるだろうか,と思いました。身体的な苦痛と精神的な緊張とは別のものです。戦争機運が高まっている中で中立を守り,神への忠誠を保つには絶えざる闘いがありました。祈りは聞かれ,二人は7月に飛行機でエルアユンへ送還されました。ハウサで軍服を拒否した件でまたもや軍法会議に付されるためです。

二人が入ったので,エルアユンの中立を守るクリスチャンは7人になりました。1965年当時,兄弟たちは知るよしもありませんでしたが,1970年になって初めてそのうちの一人が釈放され,1973年になっても4名は以然投獄の身だったのです。

1966年1月,7人は散り散りになり,4人はカディズのサンタ・カタリナ刑務所へ,残りの3人はバレアレス諸島のマホンにあった営倉に送られました。ですから,例えば3年の間投獄生活を共にしたアドルフォとエミリオは別々になりました。エミリオ・バヨとアントニオ・サンチェス・メディナはマホンに送られ,1966年4月に到着しました。その後間もなくフリオ・ベルトランが二人に加わりました。3か月間の旅行中,カディズ,ビカルバロ,マドリードおよびサラゴサに立ち寄りました。

二人の兄弟がサラゴサに着いたのは4月4日で,次の日はイエス・キリストの死を記念する日に当たっていました。二人は死の記念式の計画を立て始めましたが,バルセロナへ旅行する支度をするようにと言われました。バルセロナへ向かう列車の中で,兄弟たちは看守の許可を得てぶどう酒の小びんを買い,それを隠しました。別の看守に禁じられるとも限らなかったからです。さて,午後6時ごろになった時,エミリオとアントニオは,聖書の主題を考えることによって特別の祝いを行なう時刻が来たことを看守に説明しました。看守はそれを許してくれました。こうして,看守と,証人たちが手錠でつながれている二人の囚人が聞いている所で,兄弟たちは45分間の話をして記念式を祝いました。列車の仕切客室は最初あいていましたが,話の終わりごろには4,5名の人が話に耳を傾けていました。その話は,列車がちょうどバルセロナの駅に入った時に終わりました。

良心的に信仰を守ったことは大きな証言となった,

中立を守って投獄されていたクリスチャンの忠誠を破ろうとする努力は常になされました。例えば,エミリオ・バヨとアントニオ・サンチェス・メディナがマホンに着いた時,しばらく前からすでに一人の兄弟,フランシスコ・ディエス・エレルがそこにいたことを知りました。興味深いことに,ベルナルド・リナレス伍長はエレルと親しくなって神への忠誠を破らせる任務を受けていたのですが,その兄弟はそれとは知らずに伍長と大変親しくしていました。しかし,エレルは神への忠誠を失いませんでした。それどころか,フランシスコや後にはエミリオおよびアントニオと長くつき合っているうちに,とうとうベルナルド・リナレス自身がエホバの証人になりました。1967年7月,彼は刑務所の所長に,軍服を脱いで良心的な参戦拒否者になると言いました。それを思いとどまらせようとする努力がなされましたが,どのようにしても無駄でした。リナレスは逮捕され,軍法会議を受けることになりました。しかし,マリョルカ地区の部隊長はベルナルドを除隊させたので,事はそのままになりました。ベルナルドは民間にもどり,エホバへの奉仕を活発に行ないました。

中立を守るクリスチャンたちは様々な問題に遭遇したにもかかわらず,スペインの刑務所内で霊的な成長と発展が見られました。例えば,カディズの群れは,数が増加し続けて行ったように,その霊性も引き続き高まって行きました。優れた進歩が見られ,兄弟たちは1968年8月5日に刑務所の中で王国会館の献堂式をさえ行ないました。それはスペインで業が正式に公認される2年前のことです。

これまで名前を挙げた兄弟たちのうち何人かは1970年代初めに釈放されたことをお話ししておきましょう。アルバート・コンティジョクは,4回有罪の判決を受けて合計19年の刑を宣告されましたが,11年間服役した末1970年に釈放されました。フランシスコ・ディアス・モレノは,合計26年の刑のうち11年6か月と19日の間服役して1972年4月に出所しました。フアン・ロドリゲスは11年の刑期を終え,1972年5月に釈放されました。また,1974年2月に他の大勢の兄弟が釈放されました。その中には,12年間投獄されていたアントニオ・サンチェス・メディナ,11年間服役したアドルフォ・ペニャコラダとエミリオ・パヨ,そして,10年後に釈放されたフェルナンド・マリンがいました。

スペインで他の多くの兄弟たちが中立を守ったために投獄されたことはいうまでもありません。しかし,その期間はむだにはなりませんでした。そうしたことがなかったなら,エホバの証人やその信仰および忠誠について耳にすることがなかったかもしれないスペインの広い防衛地区に証言がなされたからです。中立を守るクリスチャンは無数の兵舎や軍および民間の刑務所に入れられたので,軍部や刑事当局者たちに大規模な証言,すなわちスペイン各地に影響を与える証しがなされました。したがって,忠誠と中立の記録はスペインの軍事および司法上の記録に書き記されました。それはエホバの証人が神の言葉聖書の,公正で平和を追求する原則に忠実であることの証拠となっています。

1958年以来,825人の兄弟たちが合計3,218年の刑を宣告され,そのうち1,904年間スペインの軍および民間の刑務所で服役しました。この忠誠の記録に対する恐らく最も適切な評は,カトリックの作家であるヘスス・ゴンザレス・マルバーの言葉でしょう。彼は「カトリック教徒の模範」という副題のもとに次のように書いています。

「それを認めるには我々がけんそんにならねばならないのだが,勇敢なエホバの証人の模範とはそのようなものなのである。この点で彼らは我々に福音伝道の理想を示した。刑期が幾月も,また幾年も延期されたにもかかわらず,自由を奪われることを恐れなかった。また,至福の精神からは今だに大きくかけ離れている世間から独りよがりなあざけりを受けることも恐れなかった。……かくも嘲笑され迫害されているエホバの証人が,このキリスト教徒の非凡な精神力を示すことにおいて我々に先んじ,しかも我々の中の最も意志強固な者たちが敢然として足を踏み入れた血塗られた道を歩くことによってのみそれを行なっているという事実は,大先覚者なる我らがカトリック教にとって不面目この上ないことである。主は自己防衛においてさえも武器の使用を許さないという精神をお示しになった。正直かつ誠実であれば,エホバの証人の方が我々よりもその精神を理解していることを認めざるを得ない」。

中立を守るクリスチャンに影響した最近の事情

スペインで中立を守るクリスチャンにとって,比較的最近の事情はどうですか。良心的参戦拒否者の場合は1度だけ投獄し,刑期は最低3年と1日から最高8年に限るという法律が1973年に制定されました。それまでは,軍隊に入ることを拒否してクリスチャンの中立を守るという罪が繰り返され,刑期が次々に延長されましたが,その法律によってそうしたことはなくなりました。

その法律のおかげで,さっそく,3年以上投獄されていた人は全員釈放されることになり,114名の兄弟たちが自由になりました。その後,1976年7月30日にファン・カルロス王が一般大赦を布告し,その結果さらに204名の兄弟たちが自由になりました。その兄弟たちは直ちに「神聖な奉仕」地域大会に出席し,忠誠を保った経験を話して大勢の出席者を励ますという大きな喜びをはからずも味わうことができました。

今でもスペインには中立を守って投獄されているクリスチャンがいますか。1976年の秋に,公然たる参戦拒否者の徴用には一種の義務履行猶予期間がありました。1976年12月には,宗教上の理由で兵役を拒否する人々は,当座の18か月間の軍事訓練の“代わり”に3年間他の仕事をしてもよいという法令が出されました。

しかし,その問題に対して若い証人たちはどんな見解を持ちましたか。すでに150人を超す若い兄弟たちは,良心上の理由で兵役を拒否しておきながら,兵役の代用とみなされる活動をするのは偽善的であるとの信念を表明しました。その結果,それらの兄弟たちは現在勾留されています。兵役に代わる仕事に従事することを拒否するために,そのうちの大半の兄弟たちは軍法会議による裁判を待っています。

軍事当局者は厳しくて仮借のない反応を示しました。1977年6月,大勢の兄弟たちは最高刑である8年を宣告されました。1977年7月に成立した新政権がその厳刑を緩和し,より道理にかなった公正な法律を実施するか否かは今後に待たねばなりません。

前途の業のためによりよく組織する

中立を守ったクリスチャンの幾つかの経験を考慮したので,1959年当時にさかのぼり,その時のことをかいつまんでお話しすることにしてはどうでしょうか。その年の幾つかの出来事によって兄弟たちは前途の業のためにより組織的になるよう助けられました。

1959年4月,ものみの塔協会のブルックリン本部からM・G・ヘンシェルが地帯の監督としてスペインを訪問しました。ヘンシェルは,その時協会の支部事務所の責任者だったレイ・ドシンバールに良い助言を与え,巡回区を一つから四つに増やすこと,兄弟姉妹たちの霊性を築き上げるために巡回監督は4か月に1度訪問することを勤めました。

当時スペインには,ギレアデを卒業した宣教者が二人の姉妹を含めて7人いました。そのうちの四人は巡回監督として奉仕していました。その奉仕年度中に,ビルバオ出身でかつて熱心なカトリック教徒だったシンフォリアノ・バルキンはスペイン人で最初の巡回監督になりました。同奉仕年度(1958年-1959年)の末に,五つの巡回区に分けられた30の会衆に1,293人の王国伝道者が交わっていました。

実際には,一つの会衆の各群れがそれ自体で小さな会衆のような機能を果たし,すべての集会は群れごとに司会されていました。ですから巡回監督は各群れを訪問しなければなりませんでした。群れが二つしかない場合,訪問は1週間で終わりましたが,群れが三つも四つもある場合,訪問は2週間に及びました。後年,10の群れを持つ会衆が現われるようになると,巡回監督が一つの会衆を訪問してそこのすべての群れで奉仕するのに5週間かかりました。

ヘンシェル兄弟の1959年の地帯訪問にあわせて,スペインの兄弟たちのためにそれまで行なわれたことのない特別のうれしい催しが開かれました。国境を越えてすぐの所にある,南フランスのペルピニャンでスペイン語の大会が開かれ,兄弟たちの多くは経済的な援助を受けてそれに出席できたのです。南スペインに住んでいる兄弟たちのためには,モロッコのタンジールで大会が開かれました。

困難な時代に,活動する組織を保つ

今お話ししている時代に,スペインのエホバの民は苦難と迫害を経験しました。霊的な健康を維持し,他の人々と王国の音信を分かち合うために,兄弟たちが聖書文書を必要としたことはいうまでもありません。ですから,マドリードの何か所かに文書の小包がたくさん送られていました。マドリードに文書の在庫が比較的多くあったので,そこから大量の文書が発送されました。1960年に支部“事務所”がマドリードからバルセロナに移った時,ギレアデ卒業生の一人がその発送の仕事の責任者になりました。

支部の業務一切は暗号で扱われ,当然ながら兄弟姉妹たちは支部事務所がどこにあるか全く知らなかったということをお話ししておきましょう。ギレアデ卒業生の兄弟が働いていた場所はクエバ(ほら穴)と言われていました。なぜかというと,協会の文書はある文房具店の地下室にひそかに貯蔵されていたからです。“ほら穴”,つまり地下室に行くには,落し戸を上げ,段ばしごを使わねばなりませんでした。しかし,文書を荷造りする作業は勘定台の奥の狭い部屋で行なわれました。その狭い場所に食器棚と折りたたみ式のテーブルを入れて,小さな発送部門が設けられたのです。兄弟はそこで何時間も,冬期にはしばしば身を切るような寒さの中で作業をしたものです。もちろん,店に来る客に,外国人が働いていることを気づかれないように注意しなければなりませんでした。ですから,その兄弟は,あたりに客がいる時には話をすることができず,姿を見られてもなりませんでした。彼は1964年までその業を行ない,それから巡回監督になりました。

ところで,困難なその時代に支部が幾度か移転したことについてお話ししましょう。1948年から1957年にかけて,スペインの業は主としてバルセロナの様々な住所を使って指導されました。一つの住所がどのぐらいの間用いられるかは,警察の動きがどれほど活発かということによって決まりました。支部の書類のとじ込みはスーツケースに入る大きさにされたので,いつでも素早く逃げることができました。様々な兄弟たちが大きな危険を冒して自分の家を支部の事務所として使わせてくれたので,そうした“夜逃げ”の取り決めを設けることができました。

レイ・ドシンバールが1957年に支部の監督になった時,運営の中心はマドリードに移りました。しかし1960年,マドリードで警察の圧力を受けたので,支部は再びバルセロナへ戻されました。そして,最初は兄弟の家が使用されましたが,後に宣教者が借りた個人のアパートが用いられました。1961年の春,トルレ,すなわち(庭付きの)一軒屋がバルセロナ郊外のサン・フスト・デスベルンに見付かりました。ついでながら,その家を使用していた時に,レイの妻のジーンが結核になり,ドシンバール夫妻は1963年に不本意ながらスペインを去りました。

サン・フスト・デスベルンのその家が使用され始めてから2年して,兄弟たちに警戒態勢を取らせる出来事が起きました。電気会社の者だという二人の人が電気設備を検査したいと言って来たのです。二人は全部の部屋の電燈を点検するつもりでした。それが警察の策略だという証拠はありませんでしたが,そう思えたので,支部は再び移されました。今回その場所は,バルセロナから約16㌔離れたサン・クガト・デル・バイエスという町にあった,一戸建ちで庭付きの郊外住宅でした。しかし,1967年にその家は泥棒に入られました。金銭を盗まれただけでなく事務所の中も見られたので,速刻場所を変えたほうがよいということになりました。2日の間に支部はバルセロナのあるアパートへ慎重に移されました。1971年11月に13人のベテル職員がスペインのエホバの証人協会の現住所であるカイエ・パルド65番に移転するまで,そのアパートはベテル・ホームと支部事務所でした。

7年の間,支部の業は三軒の家で同時に行なわれました。全部の仕事が主要なベテルの家に集中したわけではないからです。諸会衆と協会は互いにどのように連絡を取り合いましたか。郵便物を受け取るのにバルセロナ市の幾つかの住所が用いられました。その住所はどれも,数人の兄弟が働いていた中央の市場と連絡を持っていました。

文書を印刷し発送するにも注意しなければなりませんでした。印刷の一部は謄写版でなされました。1960年ころ,発送部門はバルセロナにあったフランシスコ・セルラノのアパートの中庭の小屋に移されました。その小屋は冬の間非常に寒いので,ネベラ(冷蔵庫)と呼ばれるようになりました。そして,その名称は,発送部門がバルセロナの古いゴシック様式の地区にあったある姉妹のアパートに移転してからも,発送部門の呼び名として長年用いられました。主要な支部事務所のある所は,それがどこにあるかに関係なくカスティーヨ(城)と呼ばれました。

“食物”の供給は保証されていた

その時代,協会の聖書文書を公に外国から送ってもらうことはできませんでした。したがって,大きな問題の一つは文書の不足でした。しかし,イエスの約束通り,忠実な人々は「時に応じて」養われました。(ルカ 12:42)外国からの旅行者は,文書をスペインに持ち込むのを大いに助けてくれました。非常によく用いられた住所の一つはバルセロナのカリエ・メネンデス・イ・ペラヨにあった宣教者の家兼事務所でした。1965年から1971年までエリク・ベブリジがそこの責任者でした。新しい宣教者の多くはその家で最初の2,3か月を過ごし,ヘイゼル・ベブリジ姉妹からスペイン語を学びました。また,ギレアデ卒業生で経験豊かな二人の宣教者,テモテ・ディクモンとジュディス・ディクモンも,バレンシアの新しい宣教者の家に移る前にしばらくの間そこで奉仕しました。

西ヨーロッパの各地やアメリカから文書を持った旅行者が大勢バルセロナの宣教者の家を訪れました。近所の人たちはそのアパートに外人が住んでいることを知っていましたが,非常に多くの国に大変大勢の友だちがいるのはどうしてだろうと考えたがりました。訪問者の国籍は自動車のナンバープレートから分かってしまったのです。

興味深い話があります。ある時フランスから一人の兄弟が,重いスーツケースを持って文字通りよろめきながらやって来ました。スーツケースに書籍が入っていたことは言うまでもありません。宣教者の家を出る時,さげたスーツケースには何も入っていませんでしたが,その兄弟は怪しまれないためにやはりよろめきながら歩いて行きました。

後になって,スペインの兄弟たちは文書を入手するためにフランスへ行ったものです。ペルピニャンの行きずりの家数軒と週ごとの手はずが取り決められました。ある兄弟たちは自家用車で行きました。電車やバスを使って行った兄弟たちもあります。1月から3月にかけて,「年鑑」を入手するためにその活動は特に盛んに行なわれました。兄弟たちは是が非でも霊的な食物を入手するつもりでいました。

1966年から1970年にかけて,協会の文書の生産は外部の様々な印刷業者によってなされていました。しかしながら,幸いにも1970年7月にエホバの証人の業が合法的なものになったので,輸入許可証を取得し,1971年1月から協会の雑誌を通常の方法で輸入するようになりました。この取り決めのおかげで,雑誌を含め大量の文書を輸入することが可能となっています。しかも,今では一度に15㌧から20㌧もの書籍がコンテナーで運ばれて来るのです。

読者はネベラ(冷蔵庫)のことを覚えておられますか。それは小屋からアパートに移された発送部門のことでした。長い間,そこは非常に手狭でした。1970年に移転が可能になり,協会はバルセロナに2階建ての倉庫を借りました。1階は20㌧ほどの文書が入る広さがあり,2階には仕事台と1㌧の文書か雑誌が置けました。そこは日当たりの非常に良い場所で,以前のネベラとは全く対照的でした。したがって,その新しい場所は,「太陽の家」という意味にもなるエル・ソラリウムと呼ばれました。

1972年にベテルの新しい建物ができた時,1階が発送部門にあてがわれました。そこには,ゆったりとした作業場と少なくとも100㌧の文書を置くスペースがありました。1972年6月に,文書を積んだ最初のコンテナーが到着した時,町の人たちの間で大騒ぎになり,近所の人々でさえ何事が起きているのか一生懸命に見ようとしました。ラピスティアン・ローラーという,ころの原理を応用して物を運ぶ道具を見たのは初めてという人は少なくありませんでした。そのローラーは長さが27㍍で,コンテナーから発送部門の向こうの端までカートンを運ぶのに十分の長さでした。当時ベテルの職員はほんの少数だったので,コンテナーが着くと,事務所の職員がほとんど総出で積荷を降ろす作業に加わりました。作業は2時間も掛からずに終わりました。

こうして簡単に振り返ると,エホバが霊的な面で常に豊かな備えを与えてこられたことがはっきりと分かります。確かにスペインでは長い間キリスト教の文書を入手することが困難でした。しかし,エホバの手は短くありませんでした。エホバは時に応じて霊的な食物を豊かに備えて兄弟たちを祝福し続けてくださいました。

異端者弾圧の精神が興る

スペインで異端審問が行なわれていた時代に広く見られた宗教的不寛容の精神が,エホバのクリスチャン証人に関連して再び興りました。わけても,エホバの証人はフリーメーソンであるとか,フリーメーソンから経済的な援助を受けているとかいう偽りの非難を受けました。カトリックの国でそれは大きな罪なのです。1958年から1960年にかけて,グラナダの警察はそうした見方を取りました。そればかりか,神の民を容赦なく追跡しました。

例えば,1958年10月に特別開拓者としてグラナダへ任命されたマヌエル・ムラ・ヒメネスは次のような経験をしました。1960年10月5日,マヌエルは聖書研究の司会を終え,町角に立って信仰の仲間と雑談をしていたところ,一人の秘密警察官が彼に声を掛けて,書籍を入れていたマヌエルのかばんを開けるように求めました。当然,その警察官はかばんの中に聖書文書が入っているのを見付け,伝道を禁じる警察命令を破ったとマヌエルにいいがかりをつけました。他の兄弟たちの名前を控えてから,警官は自分と一緒に派出所へ来るように,とマヌエルに言いました。マヌエルはその時のことをこう語っています。「あなたは私が町で友人と話をしていたというだけで逮捕しようとしている,なぜ逮捕されるのか私は知りたいと言いました。するとその警官はすっかり腹を立てて,『おまえを逮捕するのは,私がこのバッジを付け,ピストルを持っているからだ。このピストルでおまえの頭を穴だらけにすることができるんだぞ』と言い,ピストルを取り出して私に突き付けました。それはグラナダで最も主要な通りの一つの真ん中でのことでした」。

マヌエルは市庁舎に連行され,他人に聖書を教えたこと,また,「教理,典礼,儀式を踏みにじったり,国家の伝統の廃止を公然と支持したりして,カトリックの信仰を故意に侮辱するような仕方で小冊子を頒布し,聖句を読んだこと」で罪に問われました。

マヌエルは,5万ペセタ(米貨で833㌦)の保釈金が払えるまで仮拘留を宣告されました。マヌエルはそのように法外な保釈金を払えなかったので,43日間刑務所に入っていました。20日間は独房に入れられ,その後,彼の宗教についてだれかに話すことを禁止され,話せば罰せられると告げられました。

刑務所の教戒師(カトリックの司祭)は本来囚人に霊的な慰めを与えるべきですが,マヌエルに霊的な慰めが決してないようにしました。その司祭は刑務所の書棚から一冊しかなかった聖書を取り除かせ,マヌエルが別の囚人から四福音書を一冊もらうと,それを取り上げました。看守は絶えずマヌエルをどなりつけ,他の囚人のだれも受けないような仕打ちをして,生活を耐えられないものにしようとしました。このすべての扇動者はだれでしたか。ほかでもない,刑務所の司祭だったのです。

そうした迫害に遭っても,グラナダにおけるエホバの証人の業は他の場所におけると同様にやむことはありませんでした。1960年11月18日に釈放された時,マヌエルは協会の支部事務所にあてて一部次のように書き送りました。「おかげさまで,エホバにより,私は自由の身になりました。また,うれしいことに,出所してすぐ,会衆が神権的な活動に立派に携わっているのを見ることができました……当地では,地区の研究司会者がすべての物事を組織的に指導する能力を示してきました」。興味深いことに,その群れの研究の司会者は後にグラナダ会衆の監督になりました。

宣教者の逮捕

1960年3月,一人の宣教者はマドリードのウセラ会衆に巡回訪問をしました。パトリシオ・ヘレロ兄弟は,マドリードからわずか2,3㌔離れているビヤベルデという孤立した区域を奉仕するのを援助してほしい,とその宣教者に申し込みました。そのような地域で外人は人目に付くことが考えられましたが,聖書の真理に対してすでに関心を示している人々と聖書研究を始める業を行なうことにしていたので,大丈夫だろうと考えられました。しかし,宣教者がビヤベルデに足を踏み入れた途端に問題が始まりました。

パトリシオは用心して,巡回監督が着いた時バス停に近づきませんでしたが,その後,二人が連れ立って再訪問へ行くところを,司祭のその土地のスパイに見付かりました。二人の兄弟は,心臓が悪くて寝たきりの婦人と聖書研究を始めました。そろそろ二人が立ち去ろうとしていた時,宣教者は,大勢の婦人がそのアパートの入口に整列しているのを窓から見ました。しかし,兄弟たちはその婦人の病状を悪化させたくなかったので,彼女に何も言いませんでした。

秘密警察官は二人の証人を見付けるために各家を訪問し始めました。とうとう,再訪問が行なわれているアパートの戸がノックされました。家の人は4歳の娘に玄関へ出るように言いました。「書籍の入ったかばんをさげた二人の男がここにいるか」,と警官は荒々しく尋ねました。4歳の子供は全く無邪気に,「ママのお友だちならいるよ」と答えたので,警官は立ち去りました。

帰っても安全だと思える時まで,その再訪問は延長されました。警察はバス路線を見張っているに違いなかったので,兄弟たちは鉄道線路にそってマドリードに歩いて帰ることにしました。ところが二人が線路に着いた時,警察は待っていました。彼らは,道路と鉄道を規制したので,遅かれ早かれ獲物は捕まることを知っていたのです。宣教者がひとことも言わないうちに,警察は明らかに彼の体格から判断して,「おまえは外人だな」と言いました。その宣教者は背丈が1㍍80㌢を超えていたからです。

兄弟たちが派出所で座って待っていると,突然戸がバタンと開いてちょっとの間あいていました。一人の男がうなずいているのが見えました。それは兄弟たちを訴えた司祭のスパイで,兄弟たちは犯人だと確認されました。次いで警察はほしい情報を得るために計略を使い始めました。しかし,兄弟たちは聖書の討議をした婦人の名前を明かさないことを決意していました。

警察の尋問は有益な経験

ほしい答えが得られなかったので,脅しや力づくで情報を得ようとして別の“強い”警官が起用されました。その警官は,兄弟たちが爆弾を仕掛けるためにビヤベルデに来たのだと言い,どこにいたか言わないのはそのことの証拠であると言いました。宣教者は米国大使館と連絡を取らせてほしいとしきりに頼みましたが,警察側は一歩も譲らず,連絡を取らせてはくれませんでした。

強硬な手段で望ましい結果が得られなかったので,兄弟たちを欺く次の手段が取られました。もう一人の秘密警察官がやって来て,君のやり方は下劣でひきょうだと“強い”警官を非難し始めました。むろん,それはみな芝居でした。“強い”警官は不平を言いながらわきへ退きました。それから新しい警官は『やさしく』こう話し始めました。「最近,実際にこの辺で爆破事件があったのです。ですから,私たちが関心を持っているのは,あなたがたの話を証明することです。私たちはあなたを知らないし,あなたがたがおっしゃったような心臓病の人が近所にいることを知らなかったからです。あなたがたが聖書に関心のある知り合いを訪問していただけであることが本当なら,直ちに釈放されます。しかし,別に悪いことはしていなかったと言いながら,疑いを晴らす情報を提供してくださらないのですから,私たちが疑い深くても文句はいえませんよ」。

そうしたやさしいことばをたっぷり聞かされたので,真実を証明するためにその“やさしい”警官だけがパトリシオに同行してその家に行き,警官は家の人に何も言わないということで話がまとまりました。警官は家の人が本当に心臓病であることを確かめるだけという話でした。

警官とパトリシオが出かけるや否や,宣教者はマドリードの商業地区にある保安本部へ急行させられました。宣教者は,パトリシオが帰って来て自分たちの話の真実性を証明するのを待つべきだと保安本部に抗議したところ,警官は,パトリシオも間もなくマドリードの商業地区へ連れて来られるときびしく言い返しました。警察の虚偽と欺きは効を奏し,それを信じた兄弟たちは警察のわなに掛かってしまいました。その宣教者にとってそれは忘れることのできない教訓でした。兄弟たちの訪問を受けた婦人は,警察が手入れをしている時に故意に兄弟たちをかくまったかどで警察からひどく迫害されたことが後で分かりました。その婦人は恐れから,それ以後再訪問を受けようとしなくなりました。

保安本部の警官が一番知りたがっていたのは宣教者のスペインの住所でした。宗教に関しては何も質問されませんでした。また,書籍を入れるかばんの中を調べられもしませんでした。どのみち,かばんの中にはカトリック訳の聖書しか入っていませんでした。しかしながら,その後間もなく,宣教者は再び出頭を命ぜられ,スペインから出てほしいと言われました。宣教者がその申し出を承諾しかねると答えると,自発的に出国しないなら強制的に追放する,と申し渡されました。それは「あなたと我々双方にとってきわめて不快な経験となるだろう」,と警察部長は述べました。

追放の動機を尋ねたところ,警察部長はただ一般的に答えて,人が国外に追放される理由として三つあげられる,すなわち政治的,社会的,「もしくは宗教的」な理由であると言いました。さらにこう述べました。「いいかね,スペインには2種類の人間しかいない。カトリック教徒か信仰を持っていない人間かだ。我々はそれ以外の人間を許すことはできない」。それで,宣教者は1960年6月6日にフランスのペルピニャンへ引っ越しました。しかし,「自発的に」出国したので,いつかスペインにもどれるという望みは持っていました。実際,彼は3か月もたたないうちにスペインにもどり,長年の間支部の監督として奉仕しました。尋問を受けたその経験は非常に有益でした。後日,その経験に基づいて,警察の質問にどう答えるかを兄弟たちに教える奉仕会のプログラムが作られました。そのプログラムを通して,兄弟たちは警察の巧妙な計略に備えることができ,わなに掛かって王国の関心事や信仰の仲間を裏切ることがないように助けられました。こうして兄弟たちはイエス・キリストの次の警告を実際に適用できました。「ご覧なさい,わたしはあなたがたを,おおかみのただ中にいる羊のように遣わすのです。それゆえ,へびのように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい」― マタイ 10:16

ギレアデ学校への招待

長年にわたり,ものみの塔ギレアデ聖書学校の大勢の卒業生がスペインで奉仕し,彼らの立派な働きから兄弟たちは益を受けてきました。しかし,1958年にはスペインから初めて,開拓者のホセ・セウドがギレアデ学校に出席しました。ついでながらセウド兄弟はアルゼンチンで奉仕するように割り当てられました。

1961年の初め,巡回の業をしていたサルバドル・アドリアと彼の妻のマルガリータ・コマスはトルラルバ・デカラトラバの群れを訪問しました。郵便配達人がかなり部厚い手紙を届けてくれました。サルバドルはわきへ行ってそれを読みました。次いでマルガリータは,「ギレアデの招待だ!」という叫びを聞いたのです。数か月間,二人はその日が来るのを待ち望みながら英語を勉強していました。ところが,次に大きな打撃を食らいました。サルバドル一人が10か月の特別な課程に招待されていたからです。マルガリータはすぐに,『ミ ゴソ エン ウン ポソ』,すなわち『わたしの喜びは井戸に下った』というスペインの言葉を考えました。

その年の夏,アドリア兄弟姉妹はパリにおける神の民の国際大会に出席しました。そこで,スペインにはまだ業が開始されていない,非常に必要の大きな区域があるという話を聞きました。マルガリータは,夫がギレアデ学校に行っている間そうした区域に任命してもらうよう支部事務所に申し出ることにしました。大会の終わりに二人はM・G・ヘンシェルと話しました。ヘンシェル兄弟はマルガリータに,3か月夫と一緒にロンドンへ行って英語をマスターし,それがよくできたら,夫と共にギレアデの招待が受けられる,と語りました。マルガリータは感激と驚きのあまり気絶せんばかりになりました。

したがって,実際に物事がそのように運んだので,アドリア兄弟姉妹はスペインにもどらず,3か月間ロンドンのベテルに行きました。そこで英語の勉強を終えて1961年11月にニューヨーク市に向けて出発し,ギレアデ学校に出席しました。その後,二人はギレアデの訓練を受けた最初のスペイン人の夫婦としてスペインへ帰国しました。

今日,69人のギレアデ学校卒業生がスペイン各地で奉仕しています。彼らはスペインの兄弟姉妹たちの励ましの源となっており,その働きは大いに感謝されています。

ガリシアにおける警察の攻撃

エホバの証人が長年の間迫害を受けたもう一つの土地はガリシアです。1960年の末ころ,フランシスコ・コルドバと妻のマルガリータ・ロカは,1958年以来ラコルニャ(ガリシア)で特別開拓者として改宗活動を行なったかどで,それぞれ1,000ペセタ(米貨で20㌦)の罰金を課されました。実際のところ,二人は戸別に伝道しているところを捕まったのでも,その地域のだれかに告発されたのでもありませんでした。ただ警察が先手を打ってきたのです。二人は罰金に異議を唱えましたが,聞き入れられませんでした。

そのころ,集会はホアネにある農場で開かれていましたが,非常に注意を払わなければなりませんでした。農場には店舗が付属していたので,夜昼の別なく絶えず顧客の行き来がありました。したがって,集会は,外のホルレオという,ガリシア地方の典型的な狭い長方形の穀倉で開かれました。集会は午後10時か11時に始まり,真夜中過ぎまで続いたものです。人の出入りがある時には,近くの農場の人に気づかれないために,そのつど明かりが消されました。ある人は,終日野良仕事をした後,集会に出席するために22㌔の道のりを自転車でやって来ました。特別開拓者のフランシスコ・コルドバとヘスス・アレナスはその群れを訪問して集会を指導するのに往復77㌔を要しました。

1961年12月,警察は不意にその農場にやって来ました。そこではラモン・バルカと彼の妻のカルメンおよびカルメンの兄弟のヘスス・ポセが日常の雑用に精を出していました。法的権限が何もなかったにもかかわらず,警察はその農家を家宅捜査し,ナカール・コルンガ聖書をも含めて,発見した文書を押収しました。三人のエホバの証人は逮捕されて,カルバリョという近くの町で10時間に及ぶ尋問を受けました。二日後,三人は地方判事の前に出頭しました。その判事は,三人が家で個人的に宗教を実践できることを認めましたが,信仰の公の表明に相当する事柄に携わることは許されないと主張しました。3週間後にその結果が明らかになり,各人に500ペセタの罰金が言い渡されました。罰金を払わずに上訴し,法律に基づいて公正な裁判を求めるというのが兄弟たちの方針だったので,罰金は支払われませんでした。

県知事への報告の中で,警察部長は,その家族の行状が「あらゆる点で好ましいものであり,不都合な背景は何もない」と述べ,「地方警察は」ラモン・バルカを「秩序正しい人物であり,現体制に逆らっていないとしている」とも述べました。彼はさらにこうつけ加えています。三人はエホバの証人であるが,「カトリックの信仰が非常に根強い当地方で信徒を増やすことが難しいことは明らかなので,この村で改宗活動がなされたことはまずあり得ない」。したがって,警察部長によれば,証人たちは恐らく「自分たちの家で聖書の評釈書を個人的に読むことだけをして」いました。しかし,バルカ夫婦が主都のラコルニャにいる証人をしばしば訪問することが指摘され,「スペインの霊的な一致」とやらを脅かす罪を犯したとみなされました。

押収された聖書研究の資料に関して,警察部長は「彼らがそれを前述の宗派の友人や未来の会員に配ったことは考えられる」という意見を述べました。つまり,ある行為を意図したと考えられるということが告訴の根拠となっていました。家宅捜査中に幾つかの住所が発見されました。それらの住所が「彼らの改宗活動で訪問を受けたことは間違いない」が,「そうした行為はそれほど大きな影響を持たないと考えられる」,と警察部長は結論しました。

このように比較的好意的な報告がなされたにもかかわらず,罰金は課されました。公式の通達はその理由の手がかりを与えています。県知事は次のように述べてその行為を正当化しました。「上級警察本部の新しい報告を考慮しただけでなく,内務大臣の秘密回状の内容をも考慮した……同回状は,三人の被告が所属する『エホバの証人』派の活動を警告している」。

その秘密回状は1961年3月に出されたもので,エホバの証人に対して少なくとも2,500ペセタの罰金を課すよう知事たちに指示を与えていました。したがって,県知事の側からすれば,証人たちはわずか500ペセタの軽い罰金で容赦されていたのです。

その事件は最高裁判所に上訴されました。最高裁判所はそれを非公式に,被告と弁護士のいない所で審理することにしました。1964年6月27日,法廷は三人の被告が「スペインの霊的な一致」を脅かしたことを理由に有罪の判決を下しました。スペインの権利章典はカトリック以外の宗教を個人的に行なうことを許しているということを認めつつも,法廷は,三人の証人が改宗活動に参加して,国家の霊的な(カトリックの)一致を侵害した十分の証拠があると裁決しました。

コルドバで中世的な精神が見られた

迫害の焦点となったもう一つの土地はコルドバでした。コルドバは南スペインのアンダルシア地方にある都市で,当時約20万の人口を有していました。長年の間ムーア人に占領されていたので,コルドバにはムーア的なアラビアの強い伝統があります。そこの有名な建造物の一つは,カトリックの礼拝場とされてきたメスキータ(モスク)です。その建物は世界でも有数の広大な宗教建造物で,長さが180㍍,幅が130㍍あります。また,それは19の身廊から成っており,建物にたくさんあるアーチは850本の柱で支えられています。その同じ町で,宗教的寛容が示されて以来ユダヤ教の会堂も保護されています。ところが,1960年代のコルドバの事情はそれとは全く異なっていました。

1960年代の初めにコルドバで迫害を受けたエホバのクリスチャン証人の中に,開拓者のマヌエル・ムラおよびアントニオ・モリアナがいました。二人は1961年2月にコルドバに任命されました。ある日二人の警官が来て,少量の古い文書を押収し,その開拓者たちを派出所に連行しました。派出所で,警察は兄弟たちに尋問しましたが,有益な情報を何も得ることができませんでした。そこで彼らは兄弟たちをたたき始めました。最初は手でたたきましたが,その後ゴムのこん棒で背中やすねをたたきました。最後にはマヌエルの目にあざができました。しかし,それでも警察ははっきりとした情報を聞き出せませんでした。

その開拓者たちは派出所から刑務所へ連れて行かれ,そこに4日間留置されました。それから,アントニオは2,000ペセタの罰金を,またマヌエルは5,000ペセタの罰金を10日以内に支払うように通告されました。マヌエルはその県から立ち退くように命ぜられたので,間もなくバルセロナへもどって新しい任命が来るのを待ちました。しかし,アントニオ・モリアナはそうしたことがあったにもかかわらず1962年5月までコルドバで活動を続けることができました。

今お話しした経験は典型的な例にすぎません。事実,多数の開拓者が警察の圧力を受けてコルドバから立ち退かざるを得なかったのです。しかし,実際のところ,警察自体が,エホバの忠実な僕たちの敵である僧職者から圧力を加えられていたのです。

いつ何時逮捕されてコルドバ市から追放されるか分からなかったので,そこでの業は非常に用心して行なわねばなりませんでした。戸別に協会の文書を提供することは行なわれず,文書を携えて行くことすらなされませんでした。出版物は,家の人が本当に関心を示した場合に再訪問をして提供しました。また,家々を道に沿って一軒一軒訪問することはせず,区域全体であちらこちらの家を離れ離れに訪問しました。大きな建物の場合,一度にすべての居住者を訪ねるということは行なわれませんでした。ですから,警察が,区域で証言活動をしている証人を見付けることは非常に困難でした。

さらに,伝道にはカトリックの聖書だけが使われました。しかし,それすら,エホバの証人が手にすると危険な武器であると考えられたのです。僧職者はでき得る限りあらゆる方面に圧力をかけ,当局者をけしかけて,証人と研究している人を追跡逮捕させました。警察が進んで僧職者の手先になる場合もありましたが,しぶしぶそうしていた場合もありました。むろん,それは市や県によって異なりました。コルドバの場合,警察は進んで彼らの手先となりました。

恥知らずな攻撃

エホバの証人に対する最も恥知らずな攻撃の一つは,コルドバ県南部のルセナに近いロス・ラストレス農場で1962年の半ばに起きました。そこのモンタルバン家族は真理を受け入れて,付近の農場の人々に真理を伝道し始めました。間もなくクリスチャンの集会が組織され,20名から30名の人々が出席していました。

5月28日のこと,地方警察の非常に粗野な軍曹が,もう一人の衛兵といっしょにモンタルバン農場に来ました。軍曹は一家の主人を出せと言い,農場で行なっている聖書研究をやめなければ,主人を刑務所へ入れると脅しました。

それから4日後の6月1日,隊長と軍曹と二人の衛兵がふいに農場にやって来ました。彼らは,政治活動に対する,「匿名で出された苦情」のことをあれこれぶっきらぼうに語りました。そして,聖書を学ぶためにその農場に来る人全員の名前を教えるように求めました。それらの人のほとんどはモンタルバン家の親族でした。経験不足から浅はかにも,主人はその人たちの名前を教えてしまいました。次いで兵隊たちは,家宅捜索令状を持っていなかったにもかかわらず,農場を捜索しました。その後もう一つの農場に行きました。そこの主人は聖書を学んでいる人でしたが,外に出かけていました。それにもかかわらず,彼らはその家を捜索し,出版物を幾らか持ち去りました。

その時,家族の中でただ一人バプテスマを受けていたフアン・モンタルバン・オルテガはあからさまに侮辱を受け,内縁関係にあると言って非難されました。彼が英領のジブラルタルで結婚して,スペインのカトリック教会で結婚式を挙げなかったというのがその理由でした。隊長はその農場を訪れた報告を書き,そこに居た人々全員に署名することを命じました。またもや経験不足からわなに掛かり,約28名の人がその報告に署名しました。とはいえ,彼らは次の言葉を付け加えるように強く要求しました。「私たちは聖書を,それが神の霊感を受けた言葉であるゆえに学んでいます。すべての国民に救いの証しをする目的で聖書を伝道し,それを知らせなければならないこと,またそれから終わりが来ることが聖書の中に述べられています。マタイ 24:14」。

6月15日,コルドバ市の知事はそれら謙そんないなかの人々に合計4万ペセタ(米貨で666㌦)の罰金を課しました。罰金を課されたのは12人で,その額は,内務大臣の回状の中で勧められていた最低の2,500ペセタから最高5,000ペセタに及び,最高額を課せられたのは4名でした。その人々は,あの典型的な文句,すなわち「エホバの証人派を支持して改宗活動を行なうことにより,スペインの霊的な一致を脅かした」かどで告発されました。

その,関心を持つ人々のグループは上訴することを願いました。そこで父親のアントニオ・モンタルバンと息子のフアンは,自分たちを弁護してくれる法律家を捜すために県庁所在地のコルドバへ行きました。コルドバの法そう界にとって不面目にも,彼らを進んで弁護し,援助しようという法律家はだれもいませんでした。したがって,モンタルバン父子は法律に関する限られた知識に従って最善を尽くし,罰金の合計額の3分の1を供託して,12人の被告全員のために上訴しました。しかし,モンタルバン父子以外の10人の被告のために上訴するには公証人が署名した法的な認可が必要である,ということをだれも教えてくれませんでした。そうした専門的なことを盾に取って,知事は10人の上訴を棄却しました。しかし,供託金を返してはくれませんでした。したがって,コルドバ市へ行った父子の上訴だけが有効でした。知事と内務大臣は二人の上訴を棄却しましたが,それが有効だったために,最高裁判所で審理されました。しかし,その最終的な結果は,兄弟たちおよび宗教的な表現の自由の敗北でした。

迫害されていた時代に発展が妨げられたにもかかわらず,現在コルドバ市には四つの活発な会衆があって約350名の伝道者がいます。また,コルドバ県にはさらに八つの会衆があって,ロス・ラストレス農場からほど遠くないルセナにも会衆があることを考えると励まされます。

とぎれることのない迫害に対処する

スペインのエホバのクリスチャン証人が絶えざる迫害を受けたことは,警察当局が,1959年から1966年にかけて内務大臣から送付された回状を心に留めていたことを示しています。コルドバ,サンセバスチアン,ハエン,カステリオン・デラプラナ,ムルシアの開拓者や,シウダードレアルの5人の伝道者の群れは,逮捕されて勝手に投獄され,そのうえ罰金を課されるという経験をしました。多くの場合,罰金の最低額である2,500ペセタが取り立てられました。とはいえ,自発的に罰金が支払われたわけではありません。そのことは明らかにしておく必要があります。というのは,最高裁判所で審理される場合,罰金は事前に供託しなければならず,裁判に敗れると,それは自動的に没収されたからです。一方,裁判に勝つと,供託金の返還を要求することができました。しかし,大抵の場合,そのお金がもどるのに,法律で規定されている供託の最低期間よりも長い時間がかかりました。

法律上の援助を得るのは容易ではありませんでした。一例として,二人の若い特別開拓者フランシスカ・ロペスとフランシスカ・アルマルサの経験が挙げられます。1960年代の初めにパレンシアの県庁所在地で奉仕していた二人は,伝道をしたかどで一再ならず重い罰金を課されました。一度,上訴するためにお金を払って弁護士を雇いましたが,その弁護士は上訴するのを怠りました。そのため,二人の開拓者の姉妹は刑務所で30日間過ごさねばなりませんでした。

その一弁護士の無責任な態度は,スペイン全土に見られた一般的な状況,すなわち,法律家たちにエホバの証人を弁護する意欲が欠如していたことを示す例です。良い意図をもって手がけてくれた弁護士が一,二いましたが,エホバの証人を弁護すると弁護士の職がうまくゆかなくなるかもしれないと言って脅されると,一夜にしてその士気が失われてしまいました。エドアルド・アフリアという弁護士はその例外で,エホバの証人を勇敢に弁護して,関係者をさわやかな気持ちにしてくれました。その弁護士はエホバの証人ではありませんでしたが,法の定めに従い正義に対して実に献身的な人でした。彼は数えきれないほど幾度もエホバの証人を弁護し,最高裁判所の法廷で弁護したことさえあります。

最高裁での勝利

最高裁判所で行なわれた法的な戦いでスペインのエホバの証人が勝利を収めたことは何度かあります。その幾つかをお話ししましょう。

1963年,警察の検査官は,フランシスコ・アロンソ・バリェと妻のエスペランサが所有する,マラガ市の「モンテ・カルロ」という下宿屋を訪れました。バリェ夫妻は,認可されていない集会を開いたかどで訴えられ,家宅捜索を受けました。また,わずか8歳と4歳の幼い子供たちまでが指紋を採られました。集会に出席していた人の一人,フェルナンデス兄弟も,働いていた理髪店で非常ないやがらせを受け,その結果とうとう店をやめさせられてしまいました。その時の警察の手入れで,4人の被告にそれぞれ500ペセタの罰金が課せられ,再犯のフェルナンデス兄弟には2,000ペセタの罰金が課せられました。フェルナンデス兄弟はエホバの証人であるという理由で一年前に罰金を課され,罰金を払う代わりに15日間刑務所に入っていたことがありました。

5人はその事件を内務大臣に訴えました。しかし,エホバの証人はその活動からして「スペインの霊的な一致を脅かす」と考えられるということを理由に,訴えは退けられました。そのため,最高裁判所に上訴したところ,1966年10月20日に同裁判所はマラガの知事の判決を無効にしました。最高裁の判決理由は次のとおりです。私的な集会においてなされる聖書に関する注解は一般に公言されている教理と一致しているので,改宗を勧める宣伝とみなすことはできない。さらに,集会に20名を超す人々が出席したという証拠がないので,許可のない不法集会であるということはできない。集会を開くことに関して,これは注目すべき勝利でした。

1964年から1967年にかけての3年間に,エホバの証人が上訴した50余件の有罪判決のうち38件は最高裁判所でも有罪となったということは注目に値します。裁判に敗れたのは大抵の場合伝道活動に関する事件でした。判事たちは,伝道活動をカトリック以外の宗教の信仰の公の表明であるとし,したがってそれは当時存在した法律に反するものとみなしました。

1964年6月10日,二人の若い姉妹,センチアガ・サンチェスとエンカルニタ・ガルシアは,故郷のトルラルバ・デカラトラバへ帰るためにバスに乗って待っていたところを逮捕されました。二人はシウダードレアルの派出所へ連行され,そこで午後8時から午前4時30分まで尋問されました。そして,「エホバの証人派に属し」,「上記の宗派の改宗活動を行なうためにこの県庁所在地へ行く」ことを理由にそれぞれ2,500ペセタの罰金を課されました。二人の姉妹たちが尋問を受けた同じ夜に,さらに3人の“容疑者”が逮捕され尋問を受けました。その結果,最低要求額である2,500ペセタの罰金を課されました。それは内務大臣に上訴されましたが,大臣は罰金を認めました。最後の手段は最高裁判所に上訴することでした。

最高裁で問題となったのは,尋問中に自らエホバの証人であると認めることそれ自体が有罪の根拠となり得るか,という点でした。法廷は次のように述べました。「警察は,個人的に尋問したことを除けば,文書もしくは直接間接の証言を得るといった,確証要素となり得る行動を取らずに,あるいはそうした努力を払わずに供述書を作成した」。また,判事たちは,警察の尋問は不正確なばかりか証拠が何もないことを見て取りました。「いかなる場合でも,仮定の根拠となる事実を真実な事柄と考えるためには」証拠が必要です。ゆえに法廷は,「尋問」によって「推定されるのは人の信念だけである」との結論を下しました。また,公然の改宗活動を行なった罪に関しては,「どの事件の場合でも証明がなされておらず,供述書は証明しようとさえしていない」と判定しました。こうした理由で,5人の被告は無罪となりました。もっとも,罰金用に供託したお金は一銭ももどりませんでした。

有罪判決が支持される場合は多くても,裁判で勝つことはごくまれでした。しかし,投獄,罰金,任命地からの追放を経験しても,開拓者たちは伝道活動を熱心に行ない続け,使徒たちの模範に忠実に従いました。(使徒 5:27-29)会衆の伝道者たちはしばしば迫害の影響を受けましたが,攻撃の矢面に立ったのは開拓者たちでした。しかも,多くの場合会衆において交わりや集会から激励を受けることなどない孤立した任命地にいる開拓者が迫害を受けました。

くるみの殻に入っていた真理

ある兄弟たちが,刑務所にいる信仰の仲間の霊的かつ物質的必要を珍しい仕方で満たしたという経験をお伝えして,わたしたちの話をここでいったん区切りたいと思います。事が始まったのは1961年12月7日で,その日フェリックス・ロップはオビエドの小さな群れの研究を司会していました。何の前ぶれもなく,二台の自動車で来た警官がそこに踏み込み,家宅捜索して聖書と聖書文書を押収しました。フェリックスとキューバ人のセルヒオ・クルス兄弟は刑務所に送られました。次の日,二人の妻たちが派出所に出頭するように求められました。2日間尋問を受けた後,彼女たちも投獄されました。4人全員は写真を撮られ,指紋も取られました。次いで判決が下されるまで10日間勾留されました。知事は,「エホバの証人と呼ばれる宗派のためにオビエドで秘密の改宗活動をした」かどで,4人に対して合計1万7,000ペセタの罰金を宣告しました。仮釈放は認められませんでした。

さて,4人の証人が捕らわれていた間,外の兄弟たちは4人の物質的霊的必要を気遣っていました。それで,ある日信頼の置ける囚人がフェリックスに食べ物の入った包みを届けてくれました。その中にくるみの袋が入っていました。フェリックスは届けてくれた囚人にくるみをひとつかみ与え,袋の半分をセルヒオに持っていってもらいました。少ししてから囚人がもどってきて,「くるみの中にこんな物が入っていたよ」と言いました。その中には,「すべてのことを確かめよ」と題する本のページが入っていたのです。フェリックスは急いでくるみを開けました。すると,どのくるみにもその本のページが入っていました。一人の兄弟が全部のくるみを上手に開けて中味を取り出し,ページを一枚ずつまるめてその中に詰め,くるみの殻をのり付けしたのでした。フェリックスとセルヒオは,見付からずに読めるように,図書室から借りた本の中にページを隠しました。

12月の末ごろ,フェリックスと妻のマリアは約1,130㌔離れた出身地のバルセロナへ送還されました。その旅行は六つの汚れて陰気な刑務所を通ってだらだらと11日余りも続きました。その間ずっと,フェリックスは一般の囚人と手かせでつながれていました。バルセロナに着いても苦難は続きました。さらに尋問が重ねられたからです。37日間様々な刑務所で過ごしてからやっと仮釈放されました。

証人の子供たちも苦しみに遭った

迫害を受けていた長年の間,スペインのエホバの証人の子供たちも反対その他の苦しみを経験しました。例えば,1961年10月20日,トルラルバ・デカラトラバ(シウダードレアル)の小学校で全校生徒がミサに行くために整列させられました。そこに住む証人の子弟で9歳になるフアン・ガルシアはわきへ寄り,以前したように,別の宗教をしているのでミサには出席できないということを教師に説明しました。教師はその子供に,教科書を持って学校から出て行きなさい,二度と来てはならない,と言いました。

フアンの父親は学校へ行って教師と話し合おうとしました。しかし,教師は,カトリックの学校にカトリック教徒でない児童を置くことはできないという立場を変えませんでした。父親は教師に,町の学校はみなカトリックであること,憲法はすべての児童が教育を受けられることを保障しているのだから,宗教上の理念の問題で息子を放校するのは公正な行為でないことを指摘しました。しかし,教師は譲らず,子供の復学を許しませんでした。

トルラルバ・デカラトラバの市長はその事件を上級の権威者のところへ持っていきました。1962年2月,教師はフアン・ガルシアを復学させることを要請されました。そうしている間に,フアンはその不寛容な態度のおかげで3か月以上も授業を受けられませんでした。

わずか数㌔離れたカルリオン・デカラトラバという小さな町でも同様の事件が起きました。その町の場合,教師は10歳のフェリックス・アングトをたたいて無理矢理ミサに連れて行きました。それから,フェリックスの実の兄弟と姉妹もろとも彼を放校しました。それはトルラルバ事件が解決してから3か月後に起きた事件でした。

バルセロナのマンレサでも,ホセ・ベルモンテの息子で11歳になるフアニト・ベルモンテに関して同様の問題が起きました。教師は全校生徒に起立して国旗敬礼をするように命令しました。フアニトは起立しましたが,敬礼をしませんでした。教師はフアニトをたたき始め,彼の手を無理矢理上げて敬礼させようとしました。しかし,失敗しました。それでフアニトを放校処分にしました。―出エジプト 20:4-6。詩 3:8。ヨハネ第一 5:21

フアニトの父親のホセは,学校教育を受けるのに国旗敬礼は先要条件でないことを指摘して教師と話し合おうとしました。また,暴行殴打し,フアニトを放校するという横柄な手段を取った教師よりも息子のほうが,国旗によって表象されているものに対してもっと敬意を表わしているということも説明しました。しかし,教師は話し合うことを断わり,父親の目の前で戸をバタンと閉めました。

問題はそれですみませんでした。教師は,家庭で非合法的な聖書の集会を開いていること,および彼の言うところの国旗に対する不敬な態度を理由に父子を告発したのです。職務を果たすために警察は兄弟の職場へ行って逮捕しました。その結果,ホセ・ベルモンテは,息子をそそのかして国旗に対する不敬な態度を取らせたという申立てにより,バルセロナ知事から5,000ペセタの罰金を課されました。

十代の証人たちも迫害された

1962年10月,正規開拓奉仕をしていた16歳のヘスス・ラポルタはスペインの東地中海岸のカステリオン・デラプラナへ移りました。彼と組んで開拓奉仕をしていたのはフロレンティノ・カストロでした。二人が移って来たおかげでカステリオン・デラプラナの群れは王国伝道者が合計5名になり,伝道活動が活発になりました。当然のこと,そのために僧職者と土地の警察の注意を引くようになりました。

伝道の業によって1963年7月までに,カステリオンばかりか,オレンジの豊かに実るその地方に散在する近隣の町々に少数の信者が生まれていました。7月5日,フロレンティノが逮捕されました。それから3日後に警察はヘスス・ラポルタが下宿屋にいるところを見付けました。二人とも非合法的な宣伝および改宗活動を行なった罪で告発され,30日間刑務所に入れられました。

1963年12月,ヘススは特別開拓者に任命されました。そうしている間に彼の14歳の妹がカステリオンでヘススといっしょに住むようになりました。1964年4月2日,警察はヘススの留守中に彼の家に侵入し,家宅捜査令状を持っていなかったにもかかわらず家じゅうをくまなく捜して,聖書と聖書文書,および家のかぎを押収しました。警察はその家に侵入した時に正規開拓者のフロレンティノ・カストロがそこにいるのを見付け,彼を逮捕しました。また,捜査中に,17歳の正規開拓者フアン・ペドロ・ルイスがやって来たので彼も逮捕しました。その二人の兄弟たちは,罰金を課されたことを訴える時間がなかったため,刑務所に20日間入っていなければなりませんでした。

警察はヘススの家を手入れしてからずっと彼を捜していました。そして,ほぼ一週間後に逮捕しました。ヘススは5,000ペセタ(米貨で83㌦)の罰金を言い渡されました。彼はただちに上訴しましたが,8日間刑務所に入れられていました。その間彼の十代の妹は保護者がいないまま,一人でほっておかれました。

当局者はそれらの若者たちを情け容赦なく迫害し,1964年9月に再び攻撃を加え,またもやフロレンティノ・カストロとフアン・ペドロ・ルイスを逮捕しました。「プロテスタントのエホバの証人派」の「宣伝計画および改宗活動」を行なったかどで,二人にそれぞれ5,000ペセタの罰金が課されました。したがって,フロレンティノは1年と3か月の間に同じ罪で三度罰金を課されたことになります。

1966年2月4日,最高裁判所はヘススの罰金に対する上告を審理しました。弁護側は,被告を非とする裏付けもしくは証拠が提出されていないという点に基づいて論を進めました。被告が訴えられたことはなかったのです。検察側は,ヘススの以前の評判と,彼が改宗活動に携わっていることで知られているという警察の話に基づいて論議しました。最高裁判所は有罪判決を支持し,エホバの証人ならだれでも有罪とされる危険な判例を作りました。しかし幸いにも,以前お話ししたとおり同じ年の11月にシウダードレアルにおいて無罪の判決が下されたために,その効力は打ち消されました。

1966年にフロレンティノは,開拓者ではありませんでしたが,依然カステリオンで奉仕していました。3月22日の午後12時15分に二人の警官がフロレンティノの職場へ来て彼を逮捕しました。警察本部での尋問中,警察は群れの他の兄弟たちに関する情報を得ようとして彼を二度なぐりました。フロレンティノは職場から連行されたので,浮浪者でないことは明らかだったにもかかわらず,スペインの浮浪者法に基づいて起訴されました。しかし,6日後,マドリードから彼を釈放するようにとの命令が届きました。明らかに,告発の根拠が何もなかったからです。

厳しい迫害を受けていたその当時,カステリオンにおいてなかなか進歩が見られませんでした。したがって,開拓者が奉仕するようになってから4年後の1966年3月までに,その地方の王国伝道者の数はあいかわらず13人にすぎませんでした。

1967年に信教の自由法が承認を得たにもかかわらず,カステリオンの警察はなおもエホバの証人を苦しめようとしました。従って,1970年4月,16人の大人と5人の子供が個人の家に集まって聖書研究をしているところを手入れしました。警察は家宅捜査令状を見せましたが,聖書研究の邪魔をしたことに気づくと,兄弟たちが派出所に出頭するという条件で立ち去りました。派出所で警察は,不法集会を開いたことをとがめ,兄弟たちを地方裁判所に起訴しました。設立されて間もない,信教上の自由に関する委員会の注意を喚起する処置が講じられました。それによって警察はそれ以上手出しをすることができなくなりました。また,それは,同委員会が幾つかの点で信教上の自由を保障できる証拠でもありました。

1970年までにカステリオン会衆は驚くべき発展を見ました。4月に79人の伝道者を報告しましたが,6月までには108人に増えていました。それから間もなく,ブルリアナとバルドゥクソという近隣の町々に別個の群れが作られました。その後エホバの証人協会が適法と認められると,カステリオン会衆は自分たちの王国会館を建てた最初の会衆となりました。その会館は200人を優に収容することができます。1971年の春,支部の監督によってその献堂の話が行なわれました。警察に9年間苦しめられた末,これはなんと大きな状況の変化でしょう。警察は内務大臣の命令や同文通牒にあくまで従いました。にもかかわらず,エホバの証人を根絶するための内務大臣による8年間にわたる運動が失敗したという例がここにもあるのです。

アルメリアにおける逮捕

当時,警察の弾圧は各地へ次々と広がり,スペインの南岸にあるアルメリアという都市もその例外ではありませんでした。若い特別開拓者,エステル・シリアス・エバンヘリオとアナ・マリア・トルレグロサは1962年3月にアルメリアで奉仕する任命を受けました。4月中に二人は,巡回監督のエンリケ・ロカと彼の妻の訪問を受けました。ロカ夫婦は二人の開拓者のアパートに宿泊しました。

ある朝,玄関の戸をたたく音がしました。エステルはどなたですかと尋ねました。「警察だ」との返事です。「警察ですって」,エステルは大声で言いました。警察は知りませんでしたが,それは巡回監督夫婦にとって一大事です。機転のきくエステルはただちに判断して,正式の家宅捜査令状を持っているかどうか警官に尋ねました。警官はそれを持っていませんでした。しかし,エステルは彼らといっしょに派出所へ行くことにしました。むろん,エステルが派出所へ行っている間にエンリケと彼の妻はアパートを立ち去りました。実を言うと,ロカ兄弟は急いで出かけたので寝室を整えるのを忘れてしまいました。ですから,警察がアパートに踏み込んだ時,幅の狭いシングルベッドがあったほか,床にロカ兄弟が使ったマットレスと彼が忘れて行ったパジャマがそっくりそのままあったのです。

警官は,そこにだれが寝たのかエステルに尋ねました。「私です」と彼女は答えました。「何だと,両方のベッドで寝るのか」,と警官は言いました。エステルは冗談めかそうとして,「マットレスは大変気持ちがいいものですから,ベッドで寝るのに飽きるとマットレスを使うのです」と答えました。それを聞くと,警官は笑ってそれ以上質問しませんでした。

姉妹たちは派出所の監房に四日三晩勾留され,絶えず尋問されました。尋問は大抵別々に行なわれました。それは本格的なものでした。エステルは強い光をあてられ,周りを取り囲んだ警官から質問を浴びせられました。エステルはややうすのろのふりをしたので,警官たちから見ると彼女の答えはしばしばつじつまの合わないものでした。しかし,警官がエステルの矛盾をつくことに成功した時,こう尋ねました。「矛盾ですって。きのう私が署名したものを見せていただけませんか」。警官はそれを彼女に渡して読ませました。エステルは再び同じ間違いをしないようにそれを全部注意深く読みました。彼女はそのようにうすのろだったわけではありません。難しい質問を尋ねられると,よく考えさせてほしいと言い,その時間を利用してエホバに助けを祈り求めました。―サムエル前書 21章12節から15節と比較してください。

親切な裁判官

次に開拓者たちは裁判所に連れて行かれ,そこで裁判官から質問を受けました。そしてもう一通の供述書に署名しなければなりませんでした。スペインの裁判の手続きによれば,警察が宣言もしくは供述を取った後,被告は裁判所へ連行されて裁判官の質問を受けます。その後裁判官は訴訟事実があるかどうかを判断するのです。訴訟事実があれば,裁判官は刑罰を決定します。別の行政上の手続きを取ると知事が事件を扱うこともできます。その場合,警察の報告と被告の供述に基づいて判決が下されます。エホバの証人が関係するほとんどの事件は後者の方法で裁かれました。

姉妹たちが裁判官に対する供述に署名すると,裁判官はさらに幾つかの質問をしました。もっともそれは親切な態度で行なわれました。裁判官は二人に,あなたがたは供述に署名したのだし,あなたがたに不利になるようなことはこれ以上記録されることはないから,心配しなくてもよい,と言いました。エステルはその機会を捕え,裁判所の職員や警官など14名ほどの人々の前で証言しました。彼女が話し終えると,驚いたことに,裁判官は,自由に帰ってください,警察の家宅捜査で没収された物品は持っていってもよいですよと二人に言いました。

しかし,姉妹たちが外の廊下に出ると,事情は一変しました。二人の私服の警官が近づいて来て,未決定の問題を扱いたいから,いっしょに派出所まで来てもらいたいと言いました。エステルとアナ・マリアが派出所へ行ったところ,知事は二人にそれぞれ2,000ペセタの罰金を課したこと,また罰金を払わないなら刑務所へ入れられると告げられました。それで二人は刑務所へ行きました。

刑務所の中で二人には新しい区域が開かれました。というのは,そこの囚人仲間や職員や修道女に伝道することができたからです。しかし,修道女たちは二人が他の囚人に証言できないようにするために自分たちの権限内であらゆる手を使ったので,そうする方法を見つけるのは容易ではありませんでした。娯楽の時間になると,囚人たちはあたりを散策できましたが,エステルとアナ・マリアは例外で,監房から出してもらえませんでした。しかし,それは何の妨げにもなりませんでした。なぜなら,姉妹たちと話したいと思う囚人たちは二人の監房の窓辺にあったいちじくの木に登って話し掛けてきたからです。他方,姉妹たちはベッドを壁に立て掛けてそれに登り,証言を続けました。修道女たちがあたりに来て,話ができない時,姉妹たちは王国の歌をうたったものです。他の囚人たちはそのことに驚きました。他の人はみな悲しい気持ちでいるのに,どうしてあの人たちはあんなに幸福でいられるのだろう,と考えました。

一か月間刑務所に入っていたことは,エステルにとって思いがけない形で益になりました。聖書全巻を通読する時間と機会が与えられたからです。

グラナダで特別開拓奉仕をしていたミグエル・ヒルは,姉妹たちを助けてくれる弁護士を捜すためにアルメリアに派遣されました。弁護士は,姉妹たちの事件を扱った裁判官と話しました。その裁判官は彼女たちが受けていた仕打ちに憤慨し,二人に会うために刑務所に来ました。ところが,二人は独房に入っているという偽りの口実で中に入ることが許されませんでした。裁判官はぜひ二人に会わせてほしいと言って,とうとう会うことができました。裁判官は姉妹たちにあらゆる手助けをしたい,と申し出て,二人の家族を安心させる手紙を書くことすらしてくれました。また,二人が釈放されたら自分もうれしいと言って,刑務所を出たあかつきには良い業を続けるようにと姉妹たちを励ましました。エステルとアナ・マリアにとって,そのように親切な仲裁が入ったことは大きな励ましとなりました。

二人はついに出所しました。その時ミグエル・ヒルが出迎えに来てくれたので大喜びしました。ついでながら,あらゆる証拠からして,二人が一か月間刑務所に入れられたのは,アルメリア市のペスカデリア地区の司祭の働きかけによるものでした。その司祭は人々に不安をいだかせていました。また,姉妹たちを警察に告発したのも彼だったに違いありません。

言うまでもなく,アルメリアで警察に襲われたのはその時だけではありません。しかし,その事件は,同市の一裁判官が親切を示してくれたという点で注目に値します。時が経るにつれて,アルメリアの会衆は増加しました。市役所との交渉がやや難行した末,1972年にアルメリアの兄弟たちは王国会館を献堂しました。現在そこの会衆には124人の伝道者と8人の正規開拓者および2人の特別開拓者がいます。

マリョルカでの絶えざる戦い

スペイン本土のエホバの証人の経験を幾つか回顧しましたが,ここでマリョルカ島の証人の活動を見ましょう。1961年にマリョルカの兄弟たちの立場は悪化しました。文書の小包みを受け取っていた人々すべては監視され,手さげかばんに文書を入れて歩いている証人は,いつ何時警官に呼び止められて一週間“閉じ込められる”か分かりませんでした。その年の6月までに,兄弟たちは家にいても警察の訪問を絶えず受けて煩わされるようになっていました。

いつ問題が起きるか分かりませんでした。例えば,ある時,アントニオ・モリナとガブリエル・バグエルがパルマ・デ・マリョルカで伝道していたところ,家に入って「王国のこの良いたより」と題する小冊子を説明してほしいという人に会いました。まず,その人は眼鏡を取りに行きました。それから,その人の奥さんは牛乳を買いに出かけました。2,3分後,彼女は“牛乳”,つまり,二人の私服の警官を連れてもどりました。その警官たちは兄弟たちに質問をし始めました。アントニオとガブリエルは二人に身分証明書を提示するように求めました。すると,一人は地方警察の中佐で,もう一人は准将であることが分かりました。それは全く酸っぱい“牛乳”でした。そればかりか,その家の人も地方警察の隊員だったのです。兄弟たちは尋問を受けてから刑務所へ連れて行かれ,15日間勾留されました。

パルマのエホバの民にとって状況はお話にならないほどひどいものでした。いたるところにスパイや敵が潜んでいて,エホバの証人が神の言葉について話をしたら陥れようと待ち構えているように思えました。例えば,1962年5月27日のこと,三人の子供の父親であるフェリックス・ランブレラスと,たびたび逮捕されたマヌエル・ムラの妻,カタリナ・フォルテサ・デ・ムラは,真理に関心を持つある婦人と話していました。三人がそうしている時,廊下の向い側に住んでいる警官が家から出て来て階下に降りて行きました。証人たちがその建物を出ると,彼が二人を逮捕しようと待ち構えていました。そして二人はそれぞれ1,000ペセタの罰金を課されました。

1963年11月14日,ハイメ・サストレとアントニア・ガリンドは戸別に伝道している最中に逮捕されました。二人は知らずに,地方警察の隊員に聖書の話をしていたのです。ハイメの妻は夫の居所を教えてもらうために警察に行きましたが,警察は彼女の夫が勾留されていることを否定しました。しかし,彼女は知事の事務所へ行き,知事の秘書を通して,夫が地方警察本部に勾留されていることを確かめました。夫の安否を問うために地方警察本部へ行ったところ,夫が今度逮捕されたら,3か月間投獄されると告げられました。その後投獄される時は,牢屋のかぎが捨てられて一生そこから出られない,ということでした。彼女は夫に会うことを許されませんでした。しかし,結局のところ彼女も彼女の夫も罰金を課されました。二人は上訴しましたが,知事はそれを棄却しました。

1963年12月25日,インカ会衆の5人の兄弟たちはペトラという未割当ての町で証言しました。インカへ帰る列車を待っていた時,兄弟たちは,その日の午前中に会った狂信的な人物が駅にちらっと姿を見せてから立ち去ったのに気づきました。それから間もなく,地方警察の隊員が現われ,兄弟たち全員に派出所まで同行するように求めました。兄弟たちは所持品を調べられ,聖書を含めて全部の出版物を没収されました。それぞれ供述をしてから釈放されました。後に5人のうち4人が罰金を課されました。

最高裁判所の判決

1965年12月10日,最高裁判所は,マリョルカの事件を幾つかまとめて扱うことを決定しました。したがって,フェリックス・ランブレラス,カタリナ・フォルテサ・デ・ムラ,ハイメ・サストレ,アントニオ・ガリンド,およびペトラで逮捕されたインカ会衆の4人の兄弟の上告に対する裁判を行ないました。

そのすべての事件に対する一括した判決は,エホバの証人は自分たちの宗教を個人的に実践するだけにとどまらなかったというものでした。証人たちは,「広く宣伝したりひんぱんに家庭訪問をしたりして改宗活動の活発で意識的な手先であることを公にすることを好んでいるが,それは明らかに禁令の域を超えている」,という点が主張されました。上告は棄却され,全員が裁判に敗れました。

当局者がエホバの民に対してどんな立場を取っているかに疑問の余地はありませんでした。彼らは,恐れを抱かせたり,必ず投獄したりすることによって神の僕を根絶する決心だったのです。インカの一兄弟は自分が個人的に知っている,地方警察の中尉に会いに行きました。会話の中でその中尉は次のように語りました。「これまで我々は君たちに害を加えないように努めて来た。しかし,今我々が受けた命令は君たちを『撲滅せよ』ということだ。私は自分の制服を失うよりも,君たち全員が絞首刑になるのを確かに見とどけるつもりだ。……我々は知事から,インカの全住民を戸別に訪問して,君たちが来たら我々に通報するように告げよとの命令を受けた。我々が受けた命令は,君たちを見つけたらその場で手錠を掛けて刑務所へ送るように,ということだ」。

僧職者の責任

そうした迫害の背後にはカトリック教会がいて,証人たちが虐待されるのを僧職者たちが大いに喜んでいたのは言うまでもありません。一例として,マリョルカの司教は1962年9月18日にラジオを通じてこう述べました。「実際にだれが善を行なっているか分かるようにわたくしたちを助けてくださったことに対して,神に感謝いたします。善良な神のみ言葉を偽り伝えているのが実際にだれであるかが分かるようにわたくしたちを助けてくださったことに対して,神に感謝いたします。あの者たちをご覧なさい。投獄され,訴えられ,罰せられています。……一方カトリックを見てみましょう。カトリックが引き続き以然として真の宗教であることに対し,再び神に感謝いたします」。その感謝は神にではなく,カトリックの独占の存続に努めた知事と地方警察にささげられるべきでした。

エホバの証人と狂信的に戦ったのは,インカの町のクリスト・レイ教区の司祭でした。彼は証人を非難するラジオ放送をしたり,神の民を中傷する記事を書いたりもしました。そればかりか,その司祭は家々を回って,エホバの証人が配布した文書を集め,それを焼けるようにしました。10年後,それは妙な結末を見ました。ルイス・サラザールが1971年にインカで休暇を過ごした際,たまたまその司祭の家を訪問したところ,家に招じ入れられました。聖書について少し話し合った後,司祭は,自分がエホバの証人に反対した過去の行ないの許しを請いたいと言いました。司祭は自分の非を認め,自分が非クリスチャン的な態度を取ったことに気づいていました。そして,書だなに協会の書籍を持っていることを示してから,次のように述懐しました。「この世の中に善人もしくは聖人がいるとしたら,その人はエホバの証人です」。

迫害によって強められる

マリョルカにおける幾年間もの苦しい経験は,エホバの民を強めるのに役立ったにすぎません。1972年12月,伝道者がマリョルカには500名,イビサ島には26名,メノルカ島には40名いました。今日,その数字はマリョルカ950名,イビサ61名,メノルカ91名となっています。興味深いことに,スペイン全国では伝道者が人口908人につき1人の割合ですが,パルマでは385人に1人の割合になっています。

特に困難をきわめた1958年から1967年にかけて,エホバはスペイン全土のご自分の民を目に見える組織を通して援助なさいました。その期間中,大都市では大抵何らかの形の迫害がありました。ここでは,開拓者およびエホバの証人一般が受けた虐待の代表的な例をわずかに挙げているにすぎません。

ウエルバとアリカンテでも事件が起きました。マンレサ(バルセロナ)では1962年に14名の人が,いっしょに聖書を研究したかどで逮捕されました。もっとも,後にその告発は取り下げられました。マクシモ・ムルシアと彼の妻が1960年に15日間投獄されたサラゴサでは,アメリカ人の一家族が,家を聖書の集会に使わせたという理由で司祭と警察から苦しめられました。さらに,1961年に宣教者のカール・ワーナーが国外に追放されたことが挙げられます。そうです,迫害の事件は数え切れないほどありました。その10年間にスペイン全土で絶えず弾圧が加えられました。しかし,あらゆる苦難は兄弟たちの信仰を強め,エホバは兄弟たちが神のご意志を続行するのを助けられました。その結果,引き続き急速な増加が見られました。

カトリックとプロテスタント双方の僧職者の反対は決してやみませんでした。言うまでもなく,彼らは長年にわたって内務大臣の積極的な協力を得ていました。内務事務局長が1966年に発行した同文通牒第5号の次の引用を見ると,政府が信教の自由に関する法案を作成していたにもかかわらず彼らの心が一向に変化しなかったことが分かります。1966年2月24日付で発行されたその同文通牒には,すべての知事に対する指示として一部次のように書かれていました。

「『エホバの証人』として知られる宗派の信者が全国で行なっている非合法的な改宗活動を抑えるには,さらに強力な例証となるものを得ることが必要である……というのは,金銭でかたずくような現行の方法は,そうした活動をやめさせるのに十分な効力を持たないからである。……したがって,私は内務大臣閣下の命令に従って皆様に次のことを勧告する,すなわち,その活動に携わっているところを発見された上記の宗派の信者すべてを」浮浪者法違反の事件を扱っている裁判所に告発することである。それから1年半後に信教の自由に関する法案が実施されるようになり,エホバの証人に対する一般の人々の態度は比較的好意的になりました。また,その新しい法律が生まれた結果,当局者もずっと柔軟性のある態度を示すようになりました。

著名な法津家が法廷での闘争を分析する

厳しい迫害を受けていた期間にエホバの証人が行なった戦いは,スペインの法そう界に対してきわだった証言となりました。証人たちは公正な裁きと信教の自由を獲得するためにできる限りすべての事件を最高裁判所に上訴したため,多くの弁護士や裁判官が神の民と初めて接触することになりました。かつてサラマンカ大学の法学教授で,現在サラゴサ大学で教べんを執っている,スペインの著名な法学者,ロレンソ・マルティン-レトルティリョはエホバの証人のそうした態度に注目しました。そして1970年に,信教の自由と社会秩序に関する法学上の研究論文を発表しました。

その論文は,最高裁判所で扱われ,同裁判所がスペインにおける個人の信仰の表明を定義し,かつ“スペインの霊的な一致”という文句を解釈せざるを得なかった多くの事件を78ページにわたって分析しています。

その教授は,考察した事件の起訴事実を法学的に研究した結果次のように書き記しています。「以下のような行為は社会秩序に反するものと裁可され,起訴されているという結論に達するのは難しくない。すなわち,集会を開いて聖書もしくは他の宗教的なテキストに注釈すること。宗教の宣伝文書の所持。宗教の宣伝を目的として,友人あるいは見知らぬ人の家を訪問すること。同じ目的で旅行したり人と会ったりすること。その他。したがって,それは集会の多くに見られる宗教的な儀式の挙行……あるいは宗教的伝道活動の問題である」。

エホバの証人のことはその論文のほとんどどのページにも述べられていますが,特に第3章には「エホバの証人に対して特別に下される裁定」という表題が付されています。そこには一部こう書かれています。「10年間の法制を研究し,社会秩序の上から下された,宗教的な行為に影響する政府の裁定を調べると,必ず注意を引く一つの事実がある。すなわち,考慮の対象となったほとんどすべての事件において,訴訟参加をしたのはただ一つの宗教グループの信者であるということだ。行政処分に対して上訴したのは事実上すべての場合,『エホバの証人』の信者である」。

そうした結論の結果として,マルティン-レトルティリョ氏は次のような疑問を提起しています。「カトリックでない宗派の中で,制限を越えて活動しているグループは『エホバの証人』だけだろうか。特別な危険や重要性を有しているから,あるいは特別な活動をしているから,もしくは他の事情があるゆえにこのグループは特に注意を要する,と行政機関は考えているのか。……お分かりいただけるように,これらは今私が解決できない,そして解決しようと努力しない疑問である。……しかし,そうだからといって,研究の対象となった期間中,宗教の問題に関して,裁定はどれも一様に,決然とした宗派の信者だけに限られていたことを知って当惑すると言わざるを得ない」。

マルティン-レトルティリョが分析を通して得た基本的な結論の一つは,エホバの証人が,その活発な改宗活動,良心上参戦を拒否する立場,および証人の文書の中にスペインの政体に批判的なものがあることを理由に公の迫害を受けたということです。言うまでもなく,エホバの証人は実際には政治的に中立です。(ヨハネ 17:16)それでも,以上のことからこう結論することができます。すなわち,プロテスタントの宗派が公に迫害されないなら,それは明らかにその宗派が公の伝道活動に携わっておらず,クリスチャンの中立の立場を守ってもいないということです。しかし,その二つの事柄はイエス・キリストの真の追随者に対する基本的な要求です。

王国宣教学校から益を得る

厳しい迫害を受けていた期間,霊的な援助と導きを与えるためのあらゆる努力が払われました。それで,1961年12月,協会のスペイン支部は王国宣教学校の最初のクラスを組織しました。むろん,他の国々におけるように1か月間の,あるいはその後に設けられた2週間の学校を開くことはできず,2か月にわたる夜間の学校が開かれました。最初の二つのクラスはバルセロナで開かれました。人々の注意を引かないために,一クラスの生徒数は12人から15人にとどめられました。

1962年から1968年の4月にかけて,347人のしもべと開拓者たちが王国宣教学校で訓練と指導を受けました。学校がバルセロナで開かれた時,支部の職員は監督たちと個人的に親しくなって,彼らがかかえていた問題に耳を傾けることができました。講義はベテル家族の5人の成員が担当しました。スペインでは今日までに1,342人が王国宣教学校に出席しました。

大会で築き上げられる

“地下”活動をしていた間中,巡回大会を開くために設けられた特別な取り決めを通して霊的な食物が与え続けられました。兄弟全員を一堂に集めることは危険なので,大会のプログラムを各巡回区の全会衆に行き渡らせる特別の方法が採られました。監督たちはプログラムの写しを受け取り,それから大会に出席しました。そのようにして,出席者数は100人から200人ほどに抑えられました。さらに,大会の会場も用心深く選ばれ,大抵は屋外の森や山や海岸などでした。その時にもやはり,近所の家からかなり離れている場合には,個人の家も大いに活用されました。ともかく,出席した監督たちはプログラムを注意深く聴いてノートを取りました。そして後日,各自の会衆でその大会のプログラムを取り扱ったのです。

大会開催地が警察に絶対見付からないように十分警戒しなければなりませんでした。1969年の巡回大会中に問題が起こったことがあります。セビリャの警察が個人の家の中庭で大きな集会が開かれているのをかぎつけ,パトロールカーとトラックでやって来たのです。そこには,約250人の兄弟と関心を持つ人が出席していました。男子全員と独身の姉妹たちは尋問のために警察本部へ運び去られ,書籍は全部没収されたままもどってきませんでした。10人の兄弟は4日間勾留されました。逮捕された人の中に,姉妹のご主人で,真理に反対していたものの好奇心から大会に出席していた人が含まれていました。その人は刑務所内での兄弟たちの振る舞いに大変感銘を受け,釈放されるとすぐに聖書の研究を始めてバプテスマを受けた兄弟になりました。その時の警察の手入れは世間に広く知れ渡りました。恐らくそのためと思われますが,兄弟たちに対して法的な処置は全く取られませんでした。

外国で開かれた地域大会に出席する

迫害下にあったその期間中,地域大会はどうなっていたでしょうか。兄弟たちはどのようにして地域大会のプログラムの益にあずかりましたか。毎年列車やバスを借り切り,フランスやイタリア,あるいはスイスへ行って地域大会に出席したのです。

例えば,スペインの兄弟たちは1969年にローマの大会に出席して大きな喜びを味わいました。そのほとんどはかつてカトリック教徒だったので,法王の“裏庭”で大会が開けたことを考えて興奮しました。兄弟たちが,「ローマ法王よりもローマ法王礼賛者たる」スペインで大会を開けなかったということは,むろん,おかしな話でした。ちなみに,スペインのある証人たちは,かつて初期のクリスチャンと関係のあった地下墓地を訪れました。それは大いに興味をそそりました。スペインの兄弟たちはその時なお,迫害者から隠れて秘密の集会を開く“地下墓地”の期間にあったからです。

1970年7月,エホバの証人は公認され,スペインで大会が開けるようになりました。しかし,1971年の地域大会をフランスのトゥールーズで開く契約がすでに結ばれていました。ところが,いよいよという時になって,コレラがスペインを襲い,フランス当局はスペイン語の大会を許可しませんでした。したがって,バルセロナに適当な会場を見付ける処置が直ちに取られました。大きな問題を幾つか克服した末,バルセロナにある二つの闘牛場のうち,ラス・アレナスという名の古くて汚いほうの闘牛場を借りることができました。ぐずぐずしている時間はありませんでした。兄弟たちは闘牛場をきれいにするため懸命に働きました。事実,管理人は,その闘牛場が30年来そんなにきれいになったのを見たことがないと言いました。そして兄弟たちの精神に驚嘆しました。

ところがその後“爆弾”が落ちたのです。バルセロナの知事が留守になり,その代理者は手続き上の理由で,すなわち,大会より丸10日前に許可を申請しなかったという理由で,大会の開催許可を出してくれませんでした。そのことが闘牛場で働いていた兄弟たちに知らされたのは,大会開催予定日の前日でした。遠方に住む大勢の証人たちはすでに大会に向かう途上にありました。そしてバルセロナに到着して悲しい知らせを聞いたのです。しかし,それらの証人たちはスペイン人特有の順応性を発揮して,その旅を観光旅行に切り換え,ベテルその他興味深いところを訪問したほか,幾つかの王国会館を訪問しました。こうして,旅行から霊的な益を幾らか得たのです。後日,代わりの大会が各地で開かれ,合計2万176人が出席しました。バプテスマを受けたのは483人でした。

最近でもクリスチャンの大会を開こうとすると様々な問題にぶつかりました。しかし,エホバのご援助によって,ともかくそうした問題を克服してきました。1970年代の今までに霊的に築き上げられるすばらしい大会が何度も開かれました。

最近,スペインの兄弟たちが外国へ出かけて大会に出席しなければならなかったのは1973年でした。それは,スペインで国際大会を開くのに適当な会場を借りることができなかったからです。兄弟たちは再び貸切りの飛行機,列車,バス,あるいは自家用車を利用しました。その結果,ベルギーのブリュッセルにある万国博覧会会場に1万9,000人もの人々が参集しました。多くの国から来た,フランス語やフランドル語やポルトガル語を話す3万1,000人の兄弟たちと交わったので,スペインの証人たちはその「神の勝利」国際大会を大いに楽しみました。また,1,273名の新しいスペイン人のクリスチャンが献身を象徴してバプテスマを受けた時はほんとうに感激しました。

1970年,エホバの証人は合法化された

1967年に信教の自由法が通過するまで長年の間,エホバの証人はスペインにおける組織が合法化されるように努力しました。初めてその試みがなされたのは1956年でした。その時,請願書と,定款の写しをバルセロナの知事に提出して承認を求めました。しかし,それは成功しませんでした。1965年にも努力がなされ,ノア兄弟はスペイン政府に書面で訴え,ものみの塔協会とエホバの証人が合法化されるにはどんな手続きを踏めばよいのか尋ねました。しかし,またしても具体的な成果は得られませんでした。

ラス・コルテス(スペイン議会)でえんえんと議論がたたかわされ,法律および教会関係の専門家がさらに長い時間をかけて草案を作成した末,1967年6月28日に信教の自由法が可決採択されました。それは信教の自由を認める法律ではありましたが,宗教に統制を加えるものでもありました。というのは,その法律の施行により,ローマ・カトリック以外の各宗教は法務大臣の精査に応じることが義務付けられていたからです。また,その法律は信者に対する厳しい統制を可能にし,毎年会計報告をして収入源と支出の明細を提示することを求めていました。

プロテスタントの宗派はその法律を喜ばず,公認申請をおくらせました。そのため政府は登録期日を1968年5月まで延期しました。しかし,恐らくものみの塔協会は登録申請を行なった一番最初の団体で,1967年12月12日に申請書を提出しました。1969年5月31日発行の法務省人名要覧によると,最初に登録されたのは改革長老派教会で,1968年5月に一つの礼拝場と一人の公認の牧師が認められたことになっています。人名要覧のその号には105の宗教団体名が載っていました。ブレスレン,クリスチャン・サイエンス,モルモン教,ユダヤ教,ペンテコステ派,英国国教会,バプテスト派,アドヴェンチスト,アッセンブリー・オブ・ゴッド,福音派,回教など実際ほとんどどの宗派も載っていました。ただし,エホバの証人は例外で,名前が出ていないため特に異彩を放っていました。エホバの証人の認可は1970年7月10日まで待たねばなりませんでした。公認の宗教団体の一覧表が再び作成された時,エホバの証人は131番目に載っていました。それはともかく,スペインにおけるエホバの証人の合法化はついに達成されました。

1975年12月15日付の最新の名簿には238の宗教団体が載っています。その名簿は全部で83ページからなり,各宗教団体が都市および町ごとに,また崇拝場所ごとに載せられています。名簿全体の37%は完全にエホバの証人によって占められています。したがってエホバの証人がスペインでカトリック教会に次いで大きな宗教グループであることに疑問の余地はありません。

認可されると,王国会館を設けたり,ベテルホームの適当な建設用地を取得する計画がさっそく進められました。最初の王国会館は1970年12月19日にバリオ・デル・ピラールという,マドリードの繁華な下町にある新計画のビル街で献堂されました。

1971年2月中,ノア兄弟はスペインを訪問し,マドリードとバルセロナで公開講演を行ないました。その出席者の合計は1万4,000人でした。ノア兄弟にとってさえ,それほど大勢のスペインの兄弟たちに,しかもスペインで実際に話をしているとは信じがたいことでした。

ノア兄弟はその訪問を利用して支部事務所によさそうな建物を幾つか調べ,バルセロナのカルレパルド65番地にあった6階建ての建物に決定しました。現在そこに支部事務所とベテルホームがあります。建物の購入手続きが完了すると,改造する作業が組織されました。バルセロナの各会衆から自発奉仕者が募られ,大工,レンガ工,左官,ペンキ塗りその他の技術を持つ開拓者たちが召集されました。建物は一度も使用されたことのない新しいもので,実は元々工場として設計されていました。ですから,各階に仕切りの壁もなければ諸設備も付いていませんでした。したがって,協会の設計士は最初から,ノア兄弟が残していった提案に従って各階を設計することができました。兄弟たちは13か月働いて,新しい事務所と16人の奉仕者のための居室を備えたホームを完成しました。

1972年6月2日,ノア兄弟は新しいスペイン支部の建物を献堂し,翌日バルセロナで一流の闘牛場であるラ・モニュメンタルにおいて1万3,350人の兄弟たちを前に講演をしました。ノア兄弟の訪問と闘牛場での講演は新聞で広く報道されました。しかし,それはまた,エホバの民に対する反対を強める結果にもなりました。“上流社会”のある分子は,そうしたことがエホバの証人に許されたことを喜ばず,信教の自由委員会に一層圧力をかけて,生えそろった宗教的な「翼を切り取らせ」ようとしたのです。それ以後,地域および巡回大会の施設の使用許可を得る際にかなり問題があります。

すでに述べたとおり,認可が下りたので王国会館を持てるようになりました。1970年12月から1977年5月にかけて482の王国会館が法務省によって認められました。マドリード,バルセロナ,バレンシアなどの大都市では家賃が高いので,幾つかの会衆が一つの王国会館を使用して経済的な負担を軽くしています。現在バルセロナ市内だけで16の王国会館があり,それらを50の会衆が使用しています。さらに,バルセロナ県の92の会衆は別に75の王国会館で集会を開いています。マドリードでは25の王国会館を46の会衆が使っています。現在享受している自由と,それらのすばらしい集会場所を与えられたことに対して,わたしたちはエホバに感謝しています。

アンドラでメシアの王国を宣明する

さてここで,スペインとフランスの国境にはさまれた山岳部にある小独立国アンドラについて少しお話ししましょう。スペイン側にセオ・デ・ウルヘルという町があります。現在アンドラはフランスの大統領とウルヘルの司教との共同主権の下に治められています。セオ・デ・ウルヘルのカトリックの司教の軍隊とフランスのフォア伯爵の軍隊との間にあった血なまぐさい争いを終わらせるため1278年に共同統治が定められました。

現在アンドラの人口は約3万2,500人で,そのほとんどは四季を通じてやって来る観光客相手の店やホテルで働いています。アンドラの物価はスペインやフランスの物価よりずっと安いので,主に商業活動が行なわれています。いなかには牧羊や農業,またたばこの栽培をしている人が今でもいます。しかし,今日そうした職業はあまり重要視されておらず,一般に物質主義の風潮が見られます。

以前にも時折証言がなされていたものの,スペインの一家族がバルセロナからアンドラに引っ越して組織的な伝道をする決意をしたのは1962年のことです。その家族とはマヌエル・エスカミルラ一家です。経済的な問題や健康上の問題があったにもかかわらず,その家族は7年間アンドラにとどまりました。そしてそこでクリスチャンの小さなグループが少しずつ成長してゆきました。

最初に関心を示した人はロセ・ボロナトでした。彼女はバルセロナにいるおばから証言を受け,さらに,アンドラをよく訪れたフランス人の姉妹からも励まされたことがありました。エスカミルラ家は集会を開き始めました。出席者はロセを加えて4人でした。すぐに問題が起きました。ロセは職を失い,間借りしていた部屋から追い出されたからです。次いで,真理に好意的でない婚約者のことで決定を下さねばなりませんでした。ロセは真理を選び,婚約は解消されました。ところがそれから間もなく,バルセロナの兄弟たちはその男性に証言をすることができました。そしてその人は真理を受け入れ,1964年に彼とロセはそろってバプテスマを受けました。1969年にマヌエル・エスカミルラが家族を連れてアンドラを去らねばならなくなった時,彼の兄弟のミグエル・バルベがグループの責任者になりました。1971年11月,ミグエルと彼の妻はアンドラとセオ・デ・ウルヘルの区域の世話をする特別開拓者になりました。

奇妙なことですが,フランスとスペインで信教の自由が認められているにもかかわらず,現在84人の伝道者からなる活発な会衆があるアンドラでエホバの証人が王国会館を持つことは許されていません。なぜでしょうか。セオ・デ・ウルヘルの司教が封建主義的な影響を及ぼして,妨害したからです。一方,兄弟たちは引き続き個人の家で集会を開いています。そのことがそこで奉仕している二人の長老の負担を一層重くしていることは言うまでもありません。

モロッコにあるスペインの飛び領土

モロッコの北部地中海岸にスペインの飛び領土が二つあります。タンジールからほど遠くないセウタと,ずっと東にあるメリリャです。スペイン軍はその二つの領土に守備隊を置いています。セウタで王国宣明者が必要だったため,かつてバルセロナにいたリカルド・グティエレスとコンスエロ・グティエレスが伝道者から一挙に特別開拓者に任命されました。リカルドはセウタの守備隊にいたことがあり,アラビア語を少しとフランス語を話せました。セウタではスペイン語のほかにその二つの言語が使われています。

グティエレス兄弟姉妹は,7歳の息子がいたにもかかわらずその任命を受け入れました。そして1969年1月にセウタで奉仕し始めました。貴重な奉仕をささげ,忠実な模範を示したコンスエロは6年後にがんで亡くなりました。現在セウタ会衆には31人の伝道者と3人の特別開拓者がいますが,グティエレス兄弟姉妹はその基礎を築くのに貢献しました。セウタ会衆には王国会館もあります。その王国会館はエホバの証人の集会場所としては北アフリカ全域で唯一の合法的な会館です。

メリリャにはスペイン人の社会以外にユダヤ教徒と回教徒の社会がありました。ですから1970年にメリリャに任命された開拓者たちには興味深い奉仕区域がありました。最初に警察との問題にぶつかりました。警察は開拓者が戸別に伝道奉仕するのをやめさせようとしたのです。しかし,協会のスペイン支部が法的な手続きをした後は,開拓者たちに干渉しなくなり,没収した文書をそっくり返してくれました。

守備隊の駐とん地に強い軍人的な考え方に対処するのに様々な問題を経験するにもかかわらず,5万3,000人の人口を有するメリリャからこれまでに20人の王国宣明者が生まれています。

検閲の緩和

1970年にエホバの証人協会が認可されたことに伴い,協会のすべての出版物は政府の正式の検閲を受けなければならなくなりました。大方の出版物は流布を許可されましたが,「読み書きを学ぶ」と題する出版物は禁止文書の一覧表に載せられました。「すべてのことを確かめよ」と題する本もしばらくの間禁止されました。一年の間,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の半数を超す号が一般の人々への配布を禁じられました。しかし,協会は幾つかの件に関して法に訴えたので,これまで1年以上,すべての号を自由に配布することができています。多くの方面で全般的に統制が緩和されたので,エホバの証人の状況もよくなったことは間違いありません。

統治体の成員の訪問

ここ数年間に,統治体の様々な成員の励ましある訪問を受けました。スペインの兄弟たちはそれらの訪問を大いに感謝しました。1974年にN・H・ノア兄弟とF・W・フランズ兄弟はいっしょにスペインを訪問しました。二人はバルセロナの闘牛場で大勢の兄弟たちに話をすることになっていましたが,その日は12月25日で宗教的な祭日に当たっていたため,当局の許可が下りませんでした。急きょ計画が変更されました。開拓者と年長者全員が特別の集会に招かれたのです。会場はバルセロナから21㌔ほど離れたところにあった,使用されていない工場で,大会ホールのために購入することが考えられていた建物でした。5,000人を超す人々が詰めかけて,業の世界的な拡大に関するノア兄弟の話を聴き,次いで,詩篇 91篇に関するフランズ兄弟の説明にじっと耳を傾けました。それから1年余り後に,レイモンド・フランズ兄弟はその建物を献堂するために招かれました。そこは,1,300人分の座席,広々とした簡易食堂そしてバプテスマ用のプールを備えたすばらしい大会ホールに変えられていました。

それより前の1975年11月,映画館を改造したマドリードの大会ホールがF・W・フランズによって献堂されました。そのほか,1974年5月にM・G・ヘンシェル,1976年にL・K・グリーンリースの訪問がありました。ヘンシェル兄弟はバルセロナの闘牛場で2万2,417人の兄弟たちに話をしました。これまでに一つの大会で最高の出席者数を記録したのはL・A・スウィングル兄弟の訪問の時でした。1977年5月1日,バルセロナのラス・アレナス闘牛場に2万7,215人の聴衆が集まりました。スウィングル兄弟はマドリードとカナリア諸島の集まりでも話を行ないました。したがって4回の講演の合計出席者数は4万5,617人に上りました。

新聞とラジオの報道

多くの場合,新聞はエホバの証人とその大会を公正で偏ぱなく扱いました。マドリードの日刊新開「エル・パイス」は,弁護士のフリオ・リコテ兄弟との会見をもとに,一ページを割いてエホバの証人の教理と歴史を扱いました。エホバの証人を弁護する記者も何人か現われました。例えば,一人のカトリック教徒は1976年11月12日付の「スル」紙の中で次のように書いています。「エホバの証人に対していろいろ誤った解釈がなされているようだが,彼らを支えている強力な信仰をだれも疑い得ない。この宗派でなく,この宗教においては,神の目に最もいまわしい三つの罪,すなわち,うそ,姦淫,盗みは全く許されていない。この点で一般の人々は証人から大いに学ばなければならない」。別の記者は,「ホハ・デル・ルネス・デ・ヒホン」紙(1976年6月21日付)の中で,「サンタンデルの司祭とエホバの証人」という見出しのもとにこう書いています。「たまたま,エホバの証人は,……大多数のカトリック教徒よりも深くて詳細にわたる聖書の知識を持っている」。

兵役の良心的拒否や輸血拒否の問題で,証人たちのことがしばしば報道されてきました。故フランコ将軍の婿にあたる著名なスペインの外科医は,自分が担当していたラジオの医学番組で輸血の問題を討論するために,もう一人の医師と司祭に加えてエホバの証人も招きました。その討論に参加した兄弟の中には,輸血の問題に関する証人の立場をよく弁護できる法律家もいました。さらに別の時,バルセロナの放送局は証人の代表者たちを招いてインタビューをし,聴取者からの質問に答えさせました。その二つの放送は一般の関心を高めるのに大いに役立ちました。

スペインの女王が感銘を受ける

1976年には大学で立派な証言がなされました。発端となったのは,マドリード大学の医科の学生だったエホバの証人が仲間の学生に証言したことでした。そのうちの何人かは,学生と卒業生の益を図って設けられた教授会間の現代人文学科で他の研究に参加していました。その結果,エホバの証人は,「新しい人間とその将来」という主題で講演をするように招かれました。二人の証人がその主題を発展させて,新しい人格の様々な面や,地球に対するエホバの目的を明らかにしました。その講演がきっかけで,後日,エホバの証人の教理に関する講演を9回にわたって行なってほしいという要請がありました。学生の中にスペインのソフィア女王も混じっていました。女王は論議に注意深く耳を傾け,ノートを取り,各講演の後に行なわれた討論に十分参加しました。魂と地獄の火に関する講演の後,女王は,提起された質問に答えるのに,これほどの知識を持って手ぎわよく聖書を使う人をほかに知らないと述べ,「あなたはどんな問題についても聖書からお答えになれるようですね」と語りました。

その連続講演は非常な反響を呼びました。研究課程はすでに終了していたにもかかわらず,女王が特別の関心を示したので,「血,医学および神の律法」と題する講演が最後に行なわれました。病理学者である一兄弟が行なったその最後の講演には数名の医師と僧職者が出席し,明解なすぐれた証言がなされました。

ベテルの拡大

もともと,カルレパルド65番地の最初の支部の建物は将来業が拡大した時に手狭になることが分かっていました。しかし,信教の自由がどれほど許されるか1970年にはっきりしていなかったので,初めは規模を小さくしておくのが最善であると考えられました。それ以来,協会は同じ区画の角にある三つのアパートを購入しました。そこは15人のベテル家族の住まいとして用いられています。1975年,協会はさらに二区画離れている二つの大きな倉庫を取得しました。文書を貯蔵する場所がなくてすでに困り果てていた発送部門にとって,それはまさに恵みでした。現在,約2年間野外活動で用いるのに十分の文書を貯蔵することができます。したがって,もしストライキや紛争がある場合でも生じる問題を回避することができます。

アフリカ西海岸沖にあるカナリア諸島の会衆の必要をより良くまかなうために,協会は,サンタクルス・デ・テネリフェに一軒の倉庫と小さなアパートを購入しました。それで六つの大きな島にある25の会衆はその文書倉庫から文書と雑誌を受け取っています。

前途にある大きな業

スペインには,まだなすべき膨大な業があることは明らかです。定期的に良いたよりの伝道を受けていない人がおよそ百万人はいるものと思われます。特別開拓者は増やされており,現在,エクストレマドゥラ,アンダルシア,ガリシア,アスツリアスなど主として非常に必要の大きな区域で600人を超す特別開拓者が伝道しています。

ある場合,それらの土地にとどまり続けるには,大きな忍耐と勇気が求められます。例えば1976年6月にイエクラという町で一人の姉妹が狂信的な夫に殺されました。その前に夫は妻と兄弟たちを脅迫し,イエクラの特別開拓者に暴力をふるうことさえしていました。殺人が起きたのは,王国会館が献堂されてわずか9日後のことでした。後に暴徒がやって来て,王国会館の窓を割り,正面に赤いペンキを投げつけてから,兄弟たちを「パシオナリアの子」(有名な女性の共産主義の弁士)ときめつけた文字を戸に書いて立ち去りました。

それから間もなく,一人の若者が集会に出席し始めました。ところがその若者は町の非行少年のグループに入っていることがわかりました。しかし,彼は真理を受け入れて生活を改め,バプテスマを受けました。それは,若者が心を入れ替えたことに驚いた親せき知人の多くに証言するのに役立ちました。例えば,ある日もう一人の若者がやってきて,かつてはならず者だったのに今では羊よりもおとなしくなった友だち(バプテスマを受けたかつての非行少年)にエホバの証人がどんなことをしたのか知りたいと言いました。今でこそ聖書を勉強し,集会に出席していますが,その二人目の若者は王国会館に赤いペンキを投げつけた一味の仲間だったのです。

『スペインへの旅の途中でともかくあなたがたに一目会いたいと希望しています』とパウロがローマ人へあてて書き送ってから,およそ1,923年たちました。(ローマ 15:24)現在天にいるパウロは,親切で楽しいこの国の20世紀のクリスチャン兄弟姉妹たちの間に霊的パラダイスがはっきり存在しているのを見て喜んでいるに疑いありません。現在の事物の体制に残されている時があとどのくらいあるか分かりません。しかし,エホバのご意志であれば,ここスペインで一層の増加が期待されており,さらに大きな拡大が計画されています。統治体は,新しいベテル・ホームと工場をバルセロナ近郊に建設することを許可しました。それが完成すればこの国でスペイン語の雑誌を印刷することが可能になり,将来の発展に対して備えをすることができます。

現代のスペインのエホバのクリスチャン証人がその活動によって得たすばらしい成果に対して,賛美と感謝がキリストを通してエホバ神に帰せられますように。

[136ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

スペイン

ラ・コルーニャ

オビエド

ビルバオ

サンセバスティアン

レオン

ブルゴス

ログロニョ

パンプロナ

ウェスカ

セオデウルゲル

パレンシア

バリャドリード

サラゴサ

バルセロナ

タラゴナ

サラマンカ

セゴビア

マドリード

カステリョン・デラプラーナ

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