パプア・ニューギニアとソロモン諸島
パプア・ニューギニアとソロモン諸島
さあ,樹木に覆われた遠い島へおいでください。この群島はオーストラリアのちょうど北東に位置しています。そのうちの一つの島の東側は,パプア・ニューギニア本島です。その東には,マヌス島,ニューブリテン島,ニューアイルランド島,北部ソロモン諸島,その他パプア・ニューギニア独立国に含まれる幾百もの島があります。東方に位置しているのはソロモン諸島とそれに付属するサンタクルス諸島です。本島および,西イリアン(インドネシアの一部)の東の,それら遠方に散在する島々には280万人余の人々が住んでいます。ところが,そこで700を超す異なった言語が用いられているのです。
16世紀に,ポルトガル人やスペイン人を含む白人の最初の探検家たちがこれらの島を発見しました。「パプア」とは「細かい縮れ毛の」という意味のマライ語です。島を最初にパプアと名付けたのは,ポルトガル人の探検家ドン・ジョージ・デ・メネセスでした。この名前は適切でしょうか。ボリュームのある縮れ毛をしたパプア人の男性に会えば,だれしもそれがぴったりの名前だと思うに違いありません。一方,スペイン人の探検家デ・レテスはここの住民がアフリカのギニア海岸で見た人々と大変似ていると思った,ということです。かくして,世界のこの魅惑的な場所に「パプア・ニューギニア」という名前が付けられました。
第二次世界大戦前,パプア(南側)とニューギニア(北側)は別個に支配されていました。戦後は共にオーストラリア政府の支配を受けていましたが,結局,しばらく自治をした後,1975年9月16日にパプア・ニューギニアとして独立国となりました。ソロモン諸島は現在自治領ですが,独立するのもそれほど先のことではありません。
土地と人々
パプア・ニューギニア本島の中央には,世界でも有数の山脈があります。4,509㍍もあるウィルヘルム山のほか,3,960㍍を超す山が幾つもそそり立っています。その山々の間に,広くて草深く,人口の多い,山岳地方特有の谷が横たわっています。この地域には二つの季節,乾季と雨季があります。
島の大部分は降雨林で覆われています。昆虫は豊富で,色彩の鮮やかなことの多い大きな蛾とちょうが密林に彩りを添えています。鳥は600種を超え,美しい極楽鳥もいます。100種に及ぶ動物の中でも多いのは有袋類(子供を入れる袋の有る動物)です。島のあちこちに70種類のへびがおり,
その多くは有毒です。また,淡水にも海水にもわにがうようよいます。海水に生息するわにの中には世界最大のものもいます。白人の探検家たちが南太平洋のこの諸島に初めて来た時,ここには,赤茶色からまっ黒に至るまで膚の色の様々な土民が住んでいました。それら原住民はアジア地域から渡って来たものと考えられています。ここへやって来た最初の人々は,恐らく,背が低くてずんぐりした人々だったことでしょう。明らかに,その子孫の多くは現在パプア・ニューギニア本島および他の大きな島々の内陸部の高地に住んでいます。その広大な地域は遠隔地で近付きにくいため,中には,ごく最近になってようやく現代的な生活様式に接してその影響を受けるようになった人々がいます。
次にやって来たのは,比較的背が高くてやせ型であるメラネシア人だったものと思われます。その子孫は大体,全部の島の海岸地域に住んでいます。この人たちは過去50年程の間に現代的な生活様式にかなり接するようになりました。北の,マヌス島の地域には,ミクロネシア型の人が大勢います。その人たちは西方の,モンゴル人の特徴を備えた人々と大変よく似ています。東方には,白人を先祖に持つポリネシア人が住んでいます。しかし,今日,異人種間の結婚が比較的多いので,ここの島々の様々な住民を分類するのはますます難しくなっています。
「ライトベアラー」は霊的な光をもたらす
さて,1930年代の半ばに注意を向けましょう。当時,ものみの塔協会のオーストラリア支部は,南太平洋の多くの島々の住民に王国の音信を伝える責任を持っていました。どのようにしてその責任を果たせましたか。「ライトベアラー」(「光を掲げる者」の意)という名前の,設備の整った船を用いたのです。
この船は,兄弟たちからえり抜かれた乗組員を乗せて1934年の末にシドニーから出発し,インドネシアを目ざして北へ進みました。ところが,クィーンズランド州の東北部にあるケアンズという町からちょっと北に行った地点でエンジンが故障したため,パプアのポートモレスビーまで,帆を張って航海しなければなりませんでした。大波のために座礁する大きな危険に遭いながら,「ライトベアラー」はついに砂礁の中の狭い水路を通り抜け,ポートモレスビーの町のある湾に無事いかりを下ろしました。
それは1935年のことでした。その時,初めて,パプアの多くの住民が王国の音信を聞きました。「ライトベアラー」に積んだ拡声器を使った夜の催しが数日間行なわれました。それは音楽のレコードで始まり,その後,
聖書に関係した講演のレコードが掛けられました。岸にいた人々は非常な関心を示しました。その時,おびただしい数の文書がポートモレスビーの人々に配布されました。実際,後日パプアで良いたよりの宣明者となった人々の中には,40年前のその折に初めて真理に接した人たちがいます。ポートモレスビーで数日間証言した後,エンジンも直ったので,「ライトベアラー」の兄弟たちは西に向かって旅行を続けました。
その時に植えられた種に水が注がれるまでに,16年が経過しなければなりませんでした。しかし,16年後には,種を植え,水を注ぐ業をずっと大規模に行なうことができました。(コリント第一 3:5-7)そのいきさつは次の通りです。
自発的な奉仕者たちは豊かな祝福を受ける
1951年にN・H・ノア兄弟とM・G・ヘンシェル兄弟は,オーストラリアのシドニーで開かれた大会に出席し,一部のプログラムを扱いました。その時,島々で良いたよりを知らせる業を助けたいという気持ちのある人は,そのふたりの兄弟との特別な会合に出席するよう招待されました。その会合の終わりに,30名の兄弟姉妹たちは,島の人々に王国の音信を宣明することを自発的に申し出ました。
その中には,油そそがれた残りの者のひとりだった,中年のトム・キットとその妻ロウェナがいました。島々での奉仕には多くの危険が伴いました。しかし,キット兄弟は健康が良好であるとの証明書を医師から得て,結局1951年9月22日にDC-3型の飛行機でシドニーをたち,一晩掛かってパプアに着きました。当時,二百万人を超える人々の住んでいたその地域に,エホバの証人はなんと一人もいなかったのです。
明くる日,飛行機が着陸してとびらが開くと,一陣の熱風がキット兄弟を迎えました。そうです,熱帯に来ていたのです。空港からポートモレスビーまで11㌔ほど行く間に,同兄弟は,しおれた草や発育不良の樹木,そして第二次世界大戦中に軍隊が用いていた古い建物を目にしました。戦時中の名残りがまだたくさん見られました。
キット兄弟が無線技師として民間航空局に就職してから6週間後に,キット姉妹はポートモレスビーに着きました。当時そこには,ほとんどがオーストラリア出身の白人が二,三百人とパプア人が数千人住んでいました。
キット兄弟姉妹はその人たちにエホバと王国についてどのように話すことができたでしょうか。協会のオーストラリア支部から,「まず白人に証言する」ようにという勧めがあり,キット夫妻はその通りに行ないまし
た。しかし,白人は全般に王国の音信に対してしごく無関心でした。それでも,1951年の暮れに,白人の中で羊のような人が一人見付かりました。こんな具合にです。キット兄弟はラジオに興味を持っていましたから,放送局を見学したいという気持ちを抑えられませんでした。放送局ではひとりの青年が制御装置の前に座って,プログラム・レベルを看視し,2台の送信機の動きを監督していました。「こんにちは,お邪魔してもいいですか。私はトム・キットという者です」,とキット兄弟は言いました。
「あのトム・キットさんではありませんか。私はジェオフ・バックネルといいます」,という答えが返って来ました。その青年は,なんと,子供のころに神の民と交わったことのある人だったのです。彼は,オーストラリアのストラスフィールドにあるベテルで働いたり,協会の放送局の一つで働いたりしたことがありました。しかし,成長するにつれて真理に対する関心を失い,やがてパプアに来たのでした。
ジェオフの話を聞いてから,トムは,「そろそろ本腰を入れて研究をしても良い時機だと思いませんか」,と言いました。明らかにジェオフもそう考えていました。こうして,トムはその青年と定期的に聖書研究をするようになりました。ほどなくして,キット夫妻と連れ立ってパプアの人に良いたよりを知らせるジェオフの姿が見られました。
「大きな村」へ
キット兄弟姉妹とジェオフ・バックネルは人口数千人の村で証言し始めました。村の名前はハヌアバダといい,それはモツ語で「大きな村」という意味です。村の大半は,その土地の湾の水の上にあります。家々を訪問するには,たいてい今にも落ちそうな広い斜道を通って,厚板や丸太の上を歩いて行かねばなりませんでした。大胆な王国宣明者たちは数㍍下に海を見ながらぐらぐら揺れる丸太や板の上を歩いて行きましたが,自分たちがわざわざ死の危険を冒していると感じることが何度もありました。また,家の人たちの様子はと言えば,その当時,パプアの女性はだいたい,手製の草のスカートしか身に着けていませんでした。男性は長いラミ,つまり大きな布を腰に巻き,大抵シャツを着ていませんでした。小さな子供たちの大部分は何も身に着けていませんでした。
長年の間,ロンドン宣教師協会のような幾つかの宗教団体は村人に三位一体や人間の魂の不滅,地獄の教理を教えていました。土地の牧師や助祭は教区民に対して大きな権力を持ち,白人の宣教師は,丘の上の家から村
全体を厳重に監視していました。しかし,村人の中に羊のような人がいることが分かりました。宣教師の建物のそばに,幾本かの支柱でできている家がありました。その家の下は涼しかったので,女の人たちは好んでそこに集まり,おしゃべりをしながら敷物を作りました。そのようにして女の人たちが数人集まっているところへ,開拓者の姉妹が行きました。彼女は分かりやすい言葉で,身振り手振りをたっぷり使いながら,神の新秩序における,前途のすばらしい祝福のことをその人たちに伝えようとしました。それを聞いていた女の人たちの一人,ゲウア・ヘニは後に献身してエホバの証人となり,今なおハヌアバダの人々に王国の音信を恐れることなく宣明しています。その孫娘,レイ・ラピッラは現在,夫のフランシスと共にベテル家族の一員になっています。
ゲウアの夫はヘニ・ヘニという人で,この人と熱の入った聖書研究が行なわれました。真理が明らかになると,ヘニは自分を抑えられず,神の王国のことをどの人にも大胆に話しました。間もなく特別の訓練が始まりました。というのは,幾晩もまた幾週も,たくさんの村人との家庭聖書研究が行なわれたからです。
ヘニ・ヘニはそのころの研究の一つに15歳位のオダ・シオニという少年を連れて来ました。その少年はたいへん内気でしたから,うつむいて,顔を半分両手で隠し,一人ぽつんと座っていました。しかし,オダは英語がとてもよく分かり,話を熱心に聴いていました。シオニ少年はその小さなグループの人たちとだんだん親しくなっていきました。学んでいることの意味が分かりかけてくると,少年のはにかみは消え,間もなく,キット兄弟姉妹のやさしい英語をモツ語に通訳してふたりを助けるようになりました。
それは実にすばらしい集まりでした。二つのガスランプの下で,30人から40人ほどの,かっ色の膚をした人々が,大人も子供も男も女も一緒に輪になって座り,その輪の端にいる一人の白人とパプア人の少年とを興味深げにのぞき込んでいるのです。オダの顔は輝いていました。やさしい英語を自分の愛するモツ語に通訳しながら,オダは非常に印象的な身振りを用いました。こう通訳していたのです。「私たちが皆天へ行くわけでは決してありません。エホバはこの地球を美しい楽園にしてくださいます。愛する人々は地獄の火の中にいるのでもなければ,天にいるのでもありません。墓に眠っていて,間もなくイエスによって起こされるのです」。そこに居たパプア人の多くはその音信に感動して信仰を持ち,その良いたよりを他の人々に分かつよう強められました。
ハヌアバダにおける夜の研究が回を重ねるにつれ,証言の業に加わる人が次第に出てきました。ヘニ・ヘニとその妻のゲウア,ル・エノと妻のバオ,キド出身のオノ・ロゼ,マヌマヌ出身のマイアはそうした人々です。あのパプア人の少年,オダ・シオニは1958年に特別開拓者になり,後にしばらく巡回監督として奉仕しました。
証言の拡大
ハヌアバダで聖書研究を司会してもらっていた大勢の人たちは,パプアの海岸沿いに散在する村々から来ていました。その人たちは,家に帰ると,自分が学んだ事柄を友人や親族に話しました。話を聞いた人々の中には非常な感銘を受けた人たちがいます。例えば,興奮しやすいケレマの人々は集団でやって来て,自分たちと聖書研究をしてほしいと言いました。
1952年の初めに,キット兄弟姉妹は,ポートモレスビーから約24㌔離れたハイマという村の村長の訪問を受けました。ボボギという名前のその人は,コイアリスという山岳部族の出身でした。村長は文字が読めませんでしたが,英語が少し分かり,「どうか私の村人に真理を教えに来てください」と懇願しました。間もなく,キット兄弟姉妹は古い実用車に乗り,泥道や沼地を通ってハイマへ行きました。ハイマは15ないし20の家から成るこぎれいな村でした。ボボギは村人を集め,キット兄弟が村人に聖書の真理を話す際にその内容を一生懸命に通訳しました。
それが始まりで,その後数々の祝福が注がれました。現在,ものみの塔協会のニューギニア支部の管轄下にある地域に90を超す王国会館がありますが,実は,その最初のものは,ハイマの王国会館だったのです。さらに,最初の巡回大会が開かれたのもこの村で,数年後の1969年には,パプアで初めての,また唯一の国際大会がここで開かれました。その国際大会には60余りの言語グループから1,000人を超す人々が平和裏に集まり合いました。ついでながらボボギ兄弟はやがてハイマ会衆の監督となり,1974年に亡くなるまで忠実に奉仕しました。
野外の働き人が増加する
1953年,トム・キットと妻のロウェナはオーストラリアのメルボルンで開かれた全国大会に出席しました。その大会では,王国宣明者の必要がより大きな土地で奉仕することを討議するプログラムが設けられていました。そのプログラムで,トムはパプア・ニューギニアについて人を鼓舞する話をしました。その結果,ほどなくして,ドナルド・フィールダー兄弟姉妹は船でパプアに向かいました。パプアに着いた時,ふたりはたった5シリング(約130円)しか持っていませんでした。
到着したばかりのふたりにとって,新しい言語を学ぶことは大変な,しかし是非ともしなければならない仕事でした。「私,ここの言葉を覚えるなんてとてもできないわ」,とフィールダー姉妹は悲しそうに言いました。フィールダー兄弟は,ふたりで毎日十の新しい言葉を覚えてそれを黒板に書き,その黒板を寝室に掛けることに決めました。「その十の言葉を考えながら寝る。眠る時にその言葉のことを話し合い,目が覚めたらすぐにそれを見て,その言葉を使うんだ。夜眠れない時には,何をすればよいか分かるだろ」,というわけです。このようにして,ドンはやがて協会の出版物のモツ語とフラ語の優れた翻訳者になりました。
ソロモン諸島で関心が呼び起こされる
1953年,非常に珍しい事情の下にソロモン諸島で真理に対する関心が初めて呼び起こされました。ここで,そのいきさつをお話しするのは,またそのために,過去四半世紀にわたるソロモン諸島での王国の良いたよりの拡大をまとめてお話しするのはふさわしいと思われます。
まず,この本の裏表紙の見返しに付いている地図をご覧ください。この地図は,ソロモン諸島とパプア・ニューギニアを含むメラネシアにおけるキリスト教の発展をたどる上で役立つことでしょう。
最初にソロモン諸島の説明をしますと,この諸島は六つの大きな島と多くの小さな島から成っていて,そのどれも非常に美しい島です。大部分の島は火山の噴火でできたもので,高くて険しい山があります。気候は全般に蒸し暑く,日中の平均気温は摂氏29度,年間の平均降雨量は3,000ないし3,600㍉です。ほとんどの島は密林で覆われています。
今世紀の初め以来,ソロモン諸島の大半は英国の支配を受けてきました。現在全人口は約19万6,708人で,メラネシア人がその大部分を占め,ポリネシア人,ミクロネシア人,白人,中国人はそれぞれほんのわずか住んでいます。数多くの言語が使われているため,一つの共通語が必要で,現在,ピジン英語の一種であるソロモン諸島-ピジン語がその役割を果たしています。
昔,それらの島の住民は大抵独立し孤立した小さな部落に分かれて生活していました。村と村が戦い,人々は敵の首を取りました。人食い人種のいる所もありました。事実,マライタ島は最初「人食い島」と呼ばれたものです。その結果親しい交流がほとんどなされなかったため,多くの村は独自の方言を発達させました。したがって近隣の村の人々が話していることを理解できませんでした。ソロモン諸島を発見した最初の白人はスペイン人の探検家,メンダンニャです。彼は1567年にサンタ・イサベル,ガダルカナル
その他の島々に上陸し,それぞれの島に名前を付けました。メンダンニャは,古代イスラエルのソロモン王が金を得た場所という意味でこの群島を“ソロモン”と命名したと言われています。探検家たちに続いて貿易商人と宣教師がやって来ました。砂糖園の労働力が不足していたので,ソロモン諸島の人々は大量にかり出されて,フィジーやオーストラリアのクィーンズランドに連れて行かれました。かり出された島民はひどく扱われたために抵抗し,その結果,村人や貿易商人それに宣教師から死者が出ました。
第二次世界大戦中,日本はソロモン諸島の多くの島を侵略しました。が,大激戦の末,連合軍に排除されました。アメリカ軍がガダルカナルその他に上陸した時,島民は毛布からブルドーザーに至るありとあらゆる品物を信じられないほど大量に目にしました。その人たちは,お金や機械とはほとんど無縁の平穏な生活を村で送ってきたので,そのように富を見せつけられて当惑してしまいました。そして,戦争が終わり,村に帰ると,不満を感じたのです。そのために「前進支配」という活発な政治運動が起こりました。多くの人はその運動に参加し,人々に分配する船荷を満載した大きな船が幾そうも海の向こうからやって来ると信じていました。
ところで,ソロモン諸島に真理に対する関心を呼び起こした,前述の珍しい事情とはどのようなものだったのでしょう。「前進支配」運動がたけなわのころ,クレメント・ファアバスアという名の若いマライタ人はその運動に関係するようになり,後に逮捕されてオニアラの刑務所に15か月間投獄されました。クレム,と短縮形で呼ばれていたその青年は常々聖書を愛読していました。それで刑務所の中でも数人の囚人と聖書朗読をして時間を過ごしていました。ある晩,クレムは,自分と自分の属する南洋福音伝道団がどうして文字通りの地獄の火や三位一体の教理を信じているのかを説明しました。フィジーから来たひとりの囚人はそれを静かに聞いていましたが,話し合いの終わりに大きな声でこう言いました。「フィジーにはエホバの証人という新しい宗教があって,その人たちは文字通りの地獄の火を信じていない。また,三位一体も信じていない」。
そのフィジー人はエホバの証人ではありませんでしたが,「神を真とすべし」と題する本を持っていました。クレムはその本をむさぼるように読みました。クレムのノートは学んだ事柄や聖句で間もなく一杯になりました。出所するとすぐ,クレムは協会に文書を注文しました。そしてマライタ島の自分の家に帰り,「神を真とすべし」および「これは永遠の生命を意味する」と題する2冊の本が届くのを待ちました。その霊的な食物を受け取った時,クレムは大そう喜びました。次いで,西オーストラリアの
バート・ガーディナー兄弟からすばらしい手紙が届いたのです。ガーディナー兄弟は正規開拓者でしたが,病気のため車いすから離れることができませんでした。その後2,3年の間,同兄弟はクレムや他のソロモン諸島の人々と手紙で聖書研究をしました。1954年と1955年にクレムはラッセル諸島で世俗の仕事をするかたわら,白人とマライタ人に証言しました。マライタ島出身のカレブ・ジョージという人は証言に喜んで耳を傾け,後に特別開拓者となり,しばらくの間監督を務めました。
問題が起きる
その後クレムは休暇で帰郷し,その時に文書を携えて行って,真理を捜し求めている人々を見いだしました。その人たちの中にテモスィアス・アンサとスィルがいました。ところで,その時,南洋福音伝道団に所属するある男の人がクレムの家に泊まりました。その人は「神を真とすべし」を興味深く読んだのですが,クレムの個人的な手紙も読みました。クレムがラッセル諸島へ帰ると,その人は南洋福音伝道団の総会に出掛けて行き,その席で伝道団の教えに強く反対しました。伝道団の指導者たちはそれに腹を立て,そういうことをどうして知ったのかとその人に聞きました。その人は彼らにクレムのことを話しました。その結果,伝道団の指導者たちはクレムを地域委員に訴えたのです。
数日後,地域委員はクレムに会いにやって来ました。そして,クレムがものみの塔協会の書籍を自費で購入して何をしているか知ろうとしました。これは自分の私的な事柄だと思う,とクレムは答えました。話し合いの後,地域委員は立ち去りましたが,2,3日して,警官がクレムを訪れました。警官はクレムが持っていた書籍全部の名前を書き出し,聖書と「すべての事を確めよ」と題する本以外のすべての本を没収しました。さらに後日,クレムがマライタ島の家に居る時に警官がやって来て,オニアラの本署に出頭するようにと言いました。明らかになったことですが,クレムが他の人々に配布した文書が問題の原因だったのです。
クレムが遭遇した問題の根本原因を理解するには,リストン(レス)・カーニー兄弟の経験を考慮する必要があります。カーニー兄弟は良いたよりを宣べ伝えるため1954年の初めにソロモン諸島へ来ました。1954年4月3日,同兄弟はココナツ園で働き始めました。翌日の日曜日,カーニー兄弟は切手が欲しかったので,それを手に入れるために近所のメソジスト伝道団へ行きました。兄弟はそこで,前の日に兄弟の書類を取り扱った女性ともう一人の女性に会いました。二人の女性は礼拝に参加して行くように勧め
ました。しかし,カーニー兄弟はそれを辞退し,自分は神を信じているけれども伝統的に認められている教会のどこにも所属しておらず,また教会の教理の多くに賛成できないと言いました。その上,王国について証言しました。ところがカーニー兄弟が立ち去るや否や,二人の女性は,共産主義者が来た,と政府当局に通報したのです。次いでふたりは,メソジスト派の本部の人々に,エホバの証人が自分たちのところにいると知らせました。二日後,警官がカーニー兄弟のところに来て,おまえは共産主義者だと言いました。長い話し合いの末,警官は帰って行きましたが,カーニー兄弟は問題が決して解決していないことを知っていました。それで,周囲の村々で証言活動を続ける一方,世俗の仕事にも十分注意を払いました。
カーニー兄弟はココナツ園でよく働いていたので,昇進させられてガダルカナル島へ派遣されました。ところがそこには,快適な家や上等の家具等はおろか,衣食住の便が何もありませんでした。住む場所と言えばコプラを入れる古い小屋で,家具も蚊帳もなければ,食物の支給さえもありませんでした。夜になると,無数の蚊が襲来しました。2,3日してカーニー兄弟はマラリアにかかり,看病をしてくれる人がいなかったため数日後には黒水熱に冒されました。兄弟は助けを必要としていましたが,援助に来てくれる人を頼むメモを書くことすらできませんでした。
ある日,熱が非常に高くなったので,カーニー兄弟はもう命がないと思いました。ところが,大きなカヌーがやって来る,という土民の声をかすかに聞いたのです。そのカヌーには,薬や食物,蚊帳その他を持った支配人が乗っていました。1週間ほどでカーニー兄弟は回復し,そこのココナツ園の責任者の仕事を続けると同時に,海岸のあちらこちらの村々での証言活動を推し進めました。
1955年11月,カーニー兄弟は会社に,再契約をする意志のないこと,1956年3月に会社を辞めることを伝えました。3月に建設会社から仕事を提供されましたが,ソロモン諸島の滞在許可をもらうことができませんでした。
1956年3月30日,カーニー兄弟はオニアラに行きました。次の日の朝,二人の検事が兄弟を捕まえて,扇動的な文書を持っていないかどうか取り調べる必要があると言いました。検事たちはカーニー兄弟のかばんや箱類を徹底的に調べて,協会の書籍や小冊子数冊と「ものみの塔」および「目ざめよ!」誌を見つけました。検事は,扇動的な文書であるとの申し立てにより1956年3月23日に公の禁止処分を受けたものみの塔協会の出版物の長い一覧表を持っていました。カーニー兄弟はそうした事情を知りません
でした。したがって,彼の持っていた文書はすべて,ソロモン諸島で禁止されていたのです。1956年4月5日木曜日,レス・カーニーは次の日の朝裁判所に出頭するようにと申し渡されました。裁判官を務めたのは地区委員でした。カーニー兄弟は,扇動的な文書の不法所持に関して自分の「無罪」を訴えました。ラジオのアナウンサーが呼ばれました。アナウンサーは政府がエホバの証人の文書を扇動的であるとして禁止したことを放送したと証言しましたが,カーニー兄弟はその発表を聞きませんでしたし,警察の告知板にその種の知らせが出ているのを見たこともありませんでした。しかし,裁判官は彼を有罪とし,10ポンド(約5,000円)の罰金を科しました。カーニー兄弟は罰金を払いたくありませんでしたが,関心のある人々に送るよう手紙や文書をすでに用意してあり,その人たちを呼び寄せる時間や,自分の持ち物をまとめたりする暇がなかったので,罰金を払うのが一番賢明な道であると思いました。カーニー兄弟が罰金を払うや否や,警察は,兄弟がソロモン諸島にそれ以上とどまることを許されていないので,島を飛び立つ最初の飛行機でソロモン諸島から出るように命令しました。
こうして,1956年4月9日,レス・カーニーはオーストラリアに向かう飛行機に乗りました。とはいえ,カーニー兄弟は自分の最善を尽くして,しかも苦しい状況の下でエホバと王国を証ししたことに満足しました。時がたてば,このようにしてまかれた種が立派な実をつけるかどうかが明らかになります。
禁令下でも進歩が見られる
協会の出版物に政府の禁令が敷かれて2,3か月後,クレメント・ファアバスアは裁判所に出頭するように命令されました。審問で,裁判官はクレムに,おまえは何をしたのかと聞きました。しかし,クレムは何も言いませんでした。すると,裁判官は,質問はないかとクレムに尋ねました。クレムは質問しました。「ソロモン諸島には崇拝の自由を禁じる法律がありますか」。「いいえ,ありません」,と裁判官は答えました。「自由に宗教を変えることを禁じる法律がありますか」。「そのような法律はありません」,裁判官はそう答えた後,警察側に何か言いたいことがあるか,クレムが警察を困らせるようなことをしたことがあるかを尋ねました。クレムは問題を起こしたことがありません。「では,本件をどうすればよいのですか」,と裁判官は言いました。ものみの塔の出版物はソロモン諸島で禁止されており,クレムはその出版物を持っているので法律に違反している,と警察は言いました。
裁判官は5ポンド(約2,500円)の罰金を言い渡しました。それまでのところ,クレムはエホバの証人と一度も交わったことがありませんでしたが,カーニー兄弟が裁判に掛けられて,国外に追放されたことを聞いていたので,罰金を払いました。クレムは,それ以上新しい宗教を続けてはならないと強く警告されました。言うまでもなく,クレムはそのために活動をやめませんでした。
マライタ島に帰ってすぐ,クレムはカレブ・ジョージと再会しました。カレブは協会の幾らかの出版物を手引きにして聖書を熱心に研究していました。そのころ,巡回監督のT・セウェル兄弟がオニアラに来て,そこの人々に証言することができたという知らせが入りました。セウェル兄弟は,禁令を解除してもらうために高等弁務官と会見したが成功しなかった,ということも聞かれました。
レス・カーニー兄弟がオニアラの当局者に悩まされていたころ,オーストラリアのシドニーで「勝利の王国」地域大会が開かれました。その折,N・H・ノア兄弟は島々で奉仕することに関心のあるすべての人と会合しました。レイ・ペターソン兄弟は胸の躍るようなその話を聞いて,必要の大きな土地で奉仕する決心をしました。そして,1957年初頭に,同兄弟とその妻ドロシーはソロモン諸島で良いたよりを活発に宣明していました。
カレブ・ジョージがオニアラに行ってバプテスマを受けたのもその年の初めでした。同兄弟は早速,証言の業に励みました。1,2か月後,ペターソン兄弟は船で10時間掛かるマライタ島へ行き,そこで初めてクレム・ファアバスアに会いました。考えてみれば,クレムはほぼ4年間活発に王国を知らせていましたが,実際にエホバの証人に会ったのはそれが初めてだったのです。
ペターソン兄弟の訪問は短いものでしたが,バプテスマの話ができないほど短くはありませんでした。従って,クレムはエホバ神への献身を象徴するバプテスマを受けました。そうです,禁令が敷かれており,多くの困難がありましたが,神の民には豊かな祝福が注がれていたのです。―箴 10:22。
レイおよびドロシー・ペターソンがオニアラに任命されたことが,兄弟たちや関心を持つ人々にいったん知れると,二人の家は真理に渇くそれら少数の人々の寄り集まる場所となりました。聖書研究のためにマライタの人がペターソンの家に来ることも少なくなかったのです。そのことについて,ペターソン姉妹は次のように書いています。
「関心のある人々がマライタ島からオニアラの私たちの家にやって来る
ということはしばらくの間続きました。今振り返って,その人たちの当時の様子と,長年にわたってエホバがその人たちを形造ってこられ,現在その人たちをご自分の組織の様々な面で用いておられることとを考え合わせると,感慨無量です。今でもはっきり覚えているのですが,オニアラに来て間もないある日のこと,ひげもじゃで恐ろしい顔つきをした男の人が,私たちの家に向かって丘を登って来ました。私はまだ土地の人々に慣れていませんでしたし,町外れのその古い家にたった一人でいるということがたいへん気になっていたので,その人がこちらへ来る様子をじっとうかがい,通り過ぎてくれればよいと切に願いました。ところが,残念なことにその人は戸口にやって来ました。私は,必要ならできるだけ素早く戸を閉められるようにして戸口に立ちました。するとその男の人は私を見上げて,自分の祈りが聞かれたこと,およびここに来て私たちに会えたことに対する感謝を述べたのです。私は自分がその人を外見から判断していたことを恥ずかしく思いました。私は,ソロモン諸島の羊のような人々にエホバの霊が働くのを観察して数々の教訓を学ばねばなりませんでしたが,この経験はそうした教訓の最初のものでした」。しかし,喜びを経験する一方で,エホバの証人であるゆえに多くの問題にも遭いました。ペターソン兄弟は世俗の仕事を見付けることができませんでした。それで,ペターソン夫妻は,古い自家用車を売り,そのお金で妻のドロシーがニューブリテン島のラバウルへ飛んで仕事を見付けることにしました。レイはその間オニアラで仕事を探します。ドロシーはラバウルで仕事と住まいを見付けましたが,2,3か月後にペターソン兄弟はドロシーを呼び戻しました。自分も就職できたからです。
とはいえ,万事がうまくいったわけではありません。ペターソン姉妹が家に帰ると,レイは裁判に掛けられようとしていたのです。協会の文書のあるものはソロモン諸島で禁止されていたので,ペターソン兄弟はそれらの文書を協会に注文しないように気を付けていました。ところが,妙なことが起きました。「すべてのことを確かめよ」と題する本を注文した後で,ペターソン兄弟は,同書がソロモン諸島で禁止されているという告示を目にしたのです。兄弟はすぐ,ものみの塔協会のオーストラリア支部事務所に注文を取り消す電報を打ちました。その後,全く意外なことに,禁止されたばかりの「すべてのことを確めよ」が郵送されてきたのです。注文取り消しの電報は間に合わなかったに違いありません。
ペターソン兄弟が,次の便で送り返すためにその書籍を包装しているところへ,警官が捜査令状を持ってやって来て,書籍を押収しました。その結果,1958年の初めに,ペターソン兄弟は裁判に掛けられ,罰金もしくは一
か月の実刑を言い渡されました。兄弟は刑務所に入るほうを選びました。レイ・ペターソンが間もなく刑務所に入ることになっていたとき,別の問題が起きました。ペターソン兄弟姉妹が住んでいた古い家が取り壊されることになっていて,二人は別の家を探していました。町の中には見付かりそうにありませんでしたが,町から3,4㌔の所に古い空き家があり,レイはその家を借りることができました。二人が引っ越したばかりのところへ警官が逮捕にやって来たのです。ドロシーはたった一人になってしまいました。それから間もなく,真理に関心を持つその土地の二人の人がドロシーを保護する責任を引き受けました。ドロシーはその二人の思いやりのある援助を深く感謝しました。こうした事柄のために,オーストラリアの神の民から,愛のこもった経済的な援助すら寄せられました。
レイが刑に服していた一か月はのろのろと過ぎました。とはいえ,それにも良いことはありました。ペターソン兄弟は刑務所にいる間,多くの機会を捕らえて他の人々に王国の良いたよりを伝えたのです。
ソロモン諸島での巡回の業
協会の文書の大半が禁止されていましたから,事態は非常に緊張していました。三人の兄弟は罰金刑か実刑を言い渡され,一人は国外に追放されていました。ですが,ジョン・カットフォース兄弟が巡回監督としてソロモン諸島に来た時,兄弟たちは霊的な励ましを受けました。
関心を持つ人の多くは,クレム・ファアバスアとカレブ・ジョージが証言していたマライタ島に住んでいたので,カットフォース兄弟がそこの人たちを訪問することになりました。ペターソン兄弟は喜んでカットフォース兄弟に同行しました。沿岸航路の小さい船で荒い海を一晩旅行し,二人はマライタ島の主要な町であるアウキに近づきました。そこでは,クレムとカレブ,および大勢の新しく関心を持つようになった人々が波止場で待っていました。早速,カットフォース兄弟はクレムが司会する数軒の聖書研究に同行しました。クレムが教える点で良い能力を示しているのを見るのは大きな喜びでした。次いで,二人は数㌔歩いて,マギという名の,クレムの村へ行きました。そこの小さな草ぶきの王国会館は,にこにこした村人たちで一杯になっていました。村人たちは訪問者を歓迎し,確かな王国の真理をよく聴こうと待ち構えていたのです。
1958年の巡回監督の訪問は短いものでしたが,大勢の人が良いたよりの宣明者になるための土台を据えました。1958年8月ソロモン諸島で最初の会衆がオニアラに設立されたのです。
ジョン・カットフォース兄弟は1959年の5月に再び来て巡回訪問することができました。その二度目の時同兄弟はマライタ島を横断しました。その旅行で,集会を組織し,関心のある人々を野外奉仕に備えさせるのを援助したのです。1959年8月,マライタ島で最初の会衆がマギに設立されました。
1959年のその訪問中,カットフォース兄弟はたくさんの村を訪れました。その中のグワリという村では公開講演をしました。聴衆の中に南洋福音伝道団と交わる牧師で,マロン・モコフィという人がいました。その人は静かに,考えながら講演を聴いていました。その後別の村で,マロン・モコフィの姿がまたもや聴衆の中に見られました。講演が終わると,彼は静かにやみの中に消え,自分の村に帰って行きました。モコフィはエホバの証人が次の朝帰るのを知っていました。これこそ真理だと感じた彼は村の人たちを集めて,カットフォース兄弟とその同行者たちのためにごちそうを作りました。食事が終わった時,マロンはカットフォース兄弟に,教会に来て公開講演をしてはどうかと言いました。さて,それは,5年ほど後にグワリ会衆が生まれる発端となったのです。結局,教会の建物から異教の象徴物が取り除かれ,その建物は立派な王国会館に変わりました。マロンはエホバの証人になり,グワリ会衆の最初の監督を務めました。
“自分たちの宗教”を捨てる
1960年の暮,オニアラの兄弟たちは王国会館の敷地を整えることに忙しく携わり,また,証言の業にも励んでいました。そうしたある日,数人の兄弟たちはアーリ・ダイナウという,北マライタの人を訪れました。その訪問は,ソロモン諸島の証人の業の発展に多大な影響を及ぼすことになっていたのです。
そのことを理解するには,1940年代の末にさかのぼらねばなりません。当時,北マライタでも,人々は先に述べた「前進支配」運動に巻き込まれ,その指導者が多数投獄されました。その中にはシェム・イロファアルとその息子テモスィアスや,その他,南洋福音伝道団の多くの教師や指導者もいました。その人たちは,釈放されて家に戻ってみると,自分たちが伝道団から好意的に見られておらず,歓迎もされていないことを知りました。では,どうしたらよいでしょうか。
そのうちの多くの人は,指導者と仰いでいたシェム・イロファアルのもとに集まり,「基」を意味する「ボボア」という名の,自分たちの宗教を作ることにしました。そのグループには,伝道団を離れた1,000人余りの人々の教育組織を構成する40名の円熟した人々がいました。幸いにも,
シェムは謙そんで,神を恐れる人でした。定期的に村々を訪問し,人々を家庭に訪れて,仲間の人々に神の導きがあることを求める祈りに多くの時間を費やしました。アーリ・ダイナウはシェムの仲間の一人でした。1960年に聖書の真理に接した後,ダイナウはエホバの民の集会に出席し始め,間もなく,真理を見いだしたことを悟りました。1961年12月,ダイナウはそのことをシェムに手紙で知らせ,「失楽園から復楽園まで」と題する本を含め,協会の出版物を数冊彼に送りました。
シェムは出版物を読み,その内容について黙想し,祈りをささげました。知識が増すにつれて,シェムはそれまで自分がだまされていたことに気づきました。それで,配下の大勢の教師を一堂に集めて,自分が学んでいる事柄を話しました。シェムの一人息子のテモスィアスは幾つかの点について議論する傾向がありました。が,それもあながち悪いことではありませんでした。というのは,問題にされた点はその時解明されたからです。シェムは情報を得るためにダイナウに手紙を書き,また,エホバの証人についてさらに学ばせるために5人の教師をオニアラへ派遣しました。その5人全員は自分の疑問の答えを得,彼ら自身の言葉によれば,神の言葉の知識に関する限り自分たちが赤子のように感じました。
特別開拓者のノーマン・シャリーン兄弟は,北マライタにおける関心をさらに高めるために,そこのマルウに派遣されました。同兄弟はシェムと息子のテモスィアスに会い,約500人の聴衆を前にして公開講演をしました。そして,月曜日の午前7時ごろから聖書研究を行なうので参加するようにと発表したところ,約300名の人がやって来ました。
相当の議論が戦わされましたが,続く数日間に聖書の九つの顕著な主題が取り上げられ,大きな黒板に絵をかいて論じられ,裏付けの聖句が挙げられました。牧師や教師たちは耳を傾け,聖句を引き,聖書の証言の写しを作りました。疑問のすべてに満足のゆく答えが与えられました。木曜日にシェムは教師たちを傍らに呼んで,この宗教をどう思うかと彼らに尋ねました。アビヤタルという人を除く全員は,これが真理であることに同意しました。それでシェムは,すべての人がこの件を祈りのうちに考え,神の導きを求めてはどうかと提案しました。次の日,アビヤタルも得心しました。シャリーン兄弟は次のように伝えています。「すると,その人たちは私を呼んで,全員がエホバの証人になりたいと思っている,と私に言いました。そのことは,真理を学ぶ用意のある人が幾百人もいる,ということを意味しました」。
牧師たちは,自分たちが学んだ九つの聖書の話の要点をつかんでそれぞれ
の村に帰って行きました。村人に教えるためです。シャリーン兄弟の報告によれば次の通りです。「間もなく,教会の十字架が取り壊されて,教会の建物はエホバの証人の王国会館になりました。ボコロの美しい大きな教会は,北マライタで開かれる大きな巡回大会や地域大会の会場に改造されたのです」。シェムは,北マライタでエホバの証人としてバプテスマを受けた最初の人となり,やがて会衆の長老に任命されて長年の間エホバに忠実に奉仕してきました。
ソロモン諸島における近年の発展
ソロモン諸島における神の民の最初の巡回大会は1961年10月にマライタ島のクワイナケト村で開かれました。その時215名が公開講演に出席し,15名の人が水による浸礼を受けてエホバへの献身を象徴しました。
長年にわたり,協会の映画とスライドは,エホバの民が行なっている事柄を一般の人々に知らせるのに大きな働きをしました。ソロモン諸島でそれらの上映に1,000名を超える人々が集まることも少なくなく,一度など,「神は偽ることができない」と題する映画に1,511人が集まりました。
1962年の末にレイ・ペターソンが亡くなり,ペターソン姉妹はニューヘブリジーズ諸島で奉仕するためにソロモン諸島を離れたので,兄弟たちは悲しみました。しかし,ソロモン諸島の神の民は証言の業を推し進めました。兄弟たちに文書を供給するため,1965年に文書の倉庫がオニアラに設けられました。
巡回監督たちもその訪問中に一層の励ましを与えました。ところで,巡回監督たち,そして(結婚していれば)その妻たちは体が健康でなければなりませんでした。ある人はこう語っています。「1960年代の半ばごろ,巡回区は非常に大きかったので,巡回監督と妻は“週末”を歩いて旅行するのに費やしたと思われます。月曜日に4時間から6時間歩いて一つの会衆から別の会衆に行くことはごく普通でした」。
ソロモン諸島では「ものみの塔」誌,「目ざめよ!」誌その他の協会の出版物が政府によって禁止されていましたから,羊のような人々を霊的に養うことは長い間の問題でした。しかし,1968年1月に小さな版の出版物が発行されるようになって,霊的な食物が備えられました。「聖書研究手引き」と呼ばれるようになったその出版物は700名を超す予約購読者を持っていましたが,1976年12月号をもって廃止されました。
「廃止されたとは」,とお尋ねになる方もあるでしょう。その通り,もはや発行されなくなったのです。というのは,650人の署名入りの嘆願状を
政府に送った結果,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌に対する18年にわたる禁令が1974年12月30日に解除されたからです。その後しばらくは英語の雑誌が用いられ,次いで,喜ばしいことに,1977年1月1日号の「ものみの塔」誌からソロモン諸島-ピジン語の雑誌が発行されるようになりました。それに続いて,もう一つのすばらしいことがありました。それまでかなりの間,ソロモン諸島のエホバの証人の業を政府に認可してもらう試みがなされていましたが,1975年8月の地域大会の際にひとつの会合が開かれ,未来の法人団体の理事が選出されました。事務弁護士たちから絶好の機会であると教えられたからです。1976年に規約が起草され,それは1977年2月の会員の総会で承認されました。団体の登録官から次のような手紙を受け取った時,ベテルの家族は本当に喜びました。「ソロモン諸島のエホバの証人の理事会(法人)は,慈善団体令により正しく法人化されたことをここに証明する」。認可証の日付は1977年4月18日になっていました。エホバの証人が慈善団体として認可されたことにより,宣教者がソロモン諸島に入れるようになること,またそうでなくても王国を宣べ伝える業が促進されることが期待されました。
1977奉仕年度にソロモン諸島の王国宣明者は580名の最高数に達しました。また,3か所で開かれた「神聖な奉仕」地域大会には2,060名が出席しました。しかし,1977年4月3日の記念式には2,507人が出席しましたから,神権的な拡大の可能性は十二分にあるものと思われます。数百人の信仰の仲間と共に64人の開拓者たちが31の会衆で奉仕を続け,ソロモン諸島の人々に良いたよりを熱心に宣明しています。
パプアでの優れた進歩
さて,ここで,1953年に戻って,クリスチャンがパプアの西部に進んで行った話を続けましょう。そのころまでに,ポートモレスビーの大勢のパプア人は男女を問わず,必要の大きな所で奉仕するためにそこへ来ていた兄弟たちと一緒に良いたよりを証しするようになっていました。1954年3月までに業は非常に進歩したので,ポートモレスビーにハヌアバダ会衆が設立されました。
1955年7月,オーストラリア出身の旅行する監督,ジョン・カットフォースがハヌアバダ村の会衆を訪問しました。その時,「躍進する新世社会」と題する,協会の映画の一つが上映されました。考えてもみてください,その村で2回上映されたのですが,各回になんと1,000人を上回る人々が出席したのです。カットフォース兄弟の3週間の訪問中,その映画は13の
異なる機会に上映されました。電気のない辺ぴな村々では,兄弟たちは4台か5台の自動車のバッテリーをつないで十分の電力を得,画面を鮮明にすることができました。その映画は大勢のパプア人の目を見張らせました。映画というものを見たのはそれが初めてという人が少なくなかったのです。そのすばらしい訪問を最高潮にもっていくために,パプアで最初の巡回大会が取り決められ,ハイマで一日大会が開かれました。その時,65名の人が水のバプテスマを受けてエホバ神への献身を象徴しました。大会の最後の話で,霊性を高める適切な助言が与えられた後,真理を愛するパプアの人々は一列に並んで,一人一人,カットフォース兄弟に贈物を差し出しました。その中には,草で作ったスカート,木彫りのくし,貝がらのネックレス,美しい織物でできており羽根飾りの付いた扇子などがありました。カットフォース兄弟はそれらのパプア人の証人たちのもとにとどまりたいと強く感じましたが,オーストラリアで与えられている任務にもどらなければなりませんでした。
ニューブリテン島で良いたよりを宣明する
ニューブリテン島では,1956年7月にジョン・デヴィソンと妻のレナが到着して初めて王国の音信が伝えられるようになりました。その二人はウォーターフォールベイに居を定め,そこに2年半とどまることになっていたのです。それは忙しくも実りの多い日々でした。
デヴィソン兄弟は次のように書き寄せています。「真理に対する関心はすぐに示されました。しかし,人々の大半は文盲でしたから,その人たちに真理を理解してもらうのに大変苦労しました。私たちは聖書の話をたくさんタイプに打ち,文字の少し読める人々を教えてから,その人たちの助けを借りて,文字の全く読めない人々を教えました。やがて,それらのタイプされた聖書の話は,私たちに会って関心を持つようになった,船の乗組員たちによって,海岸の方々に運ばれました。……
「カットフォース兄弟が私たちを訪問してくださいました。宣べ伝え教えるのに大変役立つ教え方について話し合ったのはその時のことでした。手に入る材料に簡単な絵をかいてそれを用い始めたのです。その後,ベニア板で作った黒板とチョークを使うのが,良いたよりの趣旨を人々の心に銘記させるのに優れた方法であることを発見しました。
「この教授法が自然に発展して,学校の作文練習帳が用いられるようになりました。その練習帳には,クレヨンとかペンでかいた絵による聖書の話が収められていました。もっとも,それを作るのは大変な仕事でした。
私たちは,交わっているすべての人のための,聖書を討議する本の絵をかくのに何時間も費やしたのです。毎回新しい事柄が教えられましたから,すべての人の練習帳に詳しい絵を新たにかき加えなければなりませんでした。しかし,私たちの聖書研究生たちがニューブリテン人で最初の伝道者となるのを見た時,準備に苦労したことは忘れてしまいました。週末その人たちを伴って野外に出掛け,その人たちに自分で証言してもらった時には,本当に胸が躍りました」。とはいえ,ニューブリテンでの伝道は楽なことだなどと思わないでください。というのは,ニューブリテンはパプア・ニューギニアでも最も湿度の高い土地の一つで,雨が一晩に250㍉も降ることは珍しくないからです。
そのために大変な事が起こりかねません。デヴィソン兄弟は次のような経験を話してくれました。「ある時,私たちあての供給物資を運んでいた船は,しけのために,それを数㌔離れた海岸に降ろさねばなりませんでした。それを取りに行くのに,私たちはワニのうようよいる増水した川を渡らねばなりませんでした。丸木舟は激しく流れる川の真ん中でひっくり返ってしまいました。私はその下になって完全に水中に沈みましたが,丸木舟の突き出た横木にしがみつき,ついに頭を水の上に出しました。別の丸木舟がはるか川下で私たちの救助にやって来て,私たちが海に流される寸前のところで全員をなんとか助けてくれました」。宗教家の反対はむだに終わる
デヴィソン兄弟姉妹がウォーターフォールベイで奉仕にいそしんでいたころ,他の兄弟たちは王国の業を助けるために,ニューブリテン島のラバウルに入りました。そのうちの一人,ヘンリー・ニキ兄弟はこう語っています。「ここではカトリックとメソジストの伝道団がしっかりと根を下ろしていました。ラバウルから出る道沿いの土地は細かく分割されていて,一つの区画がカトリック教会のものかと思えば次の区画はメソジスト教会のものという具合いでした。原住民のトライ族の人々はたまたまどちらの区画に住んでいるかによってカトリック教徒かメソジストかになりました。“紳士協定”により,どちらも他方のなわ張りを侵すことはしませんでした」。
1957年7月末までに王国宣明者の数は6人に増え,ニューブリテン島で最初の会衆がラバウルに設立されました。伝道者たちが村から村へ証言して行くと,トライ族の熱心な人々が音信を聴きに集まっていました。「ところが」と言って,アレン・ギャナウェイは次のような話をしてくれました。「再訪問をすると,村長が来て私たちに二度と来るなと言ったり,乗って行った自動車から私たちがまだ降りないうちに,カラマナ ロトゥ(“新興宗教だ”)という叫びが草ぶきの家々に響き渡ったりしたのです。
まるで私たちには疫病がついているかのように,村人たちは私たちをがらんとした村に残して密林の中に姿をくらましました。
ラバウルから約48㌔離れたヴナバルという村で,エホバの証人の業に対する宗教家からの誤った反対がにわかに激しくなりました。村人はスルカ族の人たちで,トライ族の社会共同体の中に住んでいました。しかもその村は土地の所有権が争われている所でした。ヴナバルで聖書研究を司会していた人々の中にデヴィソン兄弟姉妹もいました。「私たちが研究を司会していた謙そんな人々は大変よく進歩しました。すると,ローマ・カトリック
教会は私たちの業を何とかしてやめさせることにしたのです」,とデヴィソン姉妹は語っています。こうして,1959年4月5日,日曜日,ジョン・デヴィソン兄弟が,大勢集まったスルカ族の人々との聖書研究を司会していると,ある伝道師に率いられたトライ族のカトリック教徒の暴徒多数が突然家に押し入り,叫んだりののしったりして研究をやめさせました。一方,別の暴徒たちは他の数軒の家で司会されていた聖書研究をやめさせました。そして彼らは,次の日曜日に証人たちが再び来たら,さらに強行な処置を取ると脅したのです。その妨害行為はココポの警官に知らされ,警官は事件を調査しました。
しかし,それで話が終わったわけではありません。デヴィソン姉妹の話によれば次の通りです。「次の週末,私たちがいつものようにその村へ行く支度に忙しくしているところへ,関心のある一人の人が村から息せき切ってやって来ました。町まで48㌔の道を自転車で駆け付けたのです。その前の日,白人の司祭が大勢のカトリック教徒を村に送って祭壇を建てたから,騒動が起こる,とその人は知らせてくれました。村人たちが反対していたにもかかわらず,司祭は,私たちがいつもそこで研究を司会する時間に村で礼拝をしようとしていたのです。
「その日曜の朝に騒動が起きそうだったので,私たちは事態を警官に知らせるためにココポに立ち寄りました。警部補は6人の警官を警察の車に乗り込ませ,私たちに先行して村に向かいました。道には何㌔にもわたってカトリック教徒が立ち並び,やじを飛ばしていました。村に着くと,当の司祭が数百人のトライ人と共に礼拝を始めようとするところでした。警部補は司祭が立っている所へ押し進みました。そして,村人はここで礼拝することを願っていない以上,率いて来た人々を連れて立ち退くよう,司祭に求めました。司祭は警察の言葉を無視して礼拝を行ないました。それは約1時間にわたりました。
「礼拝が終わると,警官は暴徒に道を開けさせ,私たちを呼んで村に入らせてくれました。私たちは心配せずに村に入りました。その時までに,関心を持つスルカ族の人々はぼう然として,大変恐れている様子でしたが,私たちについて家に入り,腰を下ろしました。司祭が,そのころまでに数百人に増えていた自分の『群れ』にトライ語で声高に話しているのが聞こえました。外の叫びが次第に大きくなったので,ギャナウェイ姉妹と私はとても不安になりました。でも,警官が家を囲んでいてくれるということに慰められました。集会が始まってから20分ほどして,警部補はとても心配そうな顔で部屋に入って来ました。暴徒が警察の手におえなくなって
おり,警官の数が不十分で私たちを保護できないから,集会を早く閉じられないか尋ねました。兄弟たちは研究をやめ,私たちは外に出ました。「それから大混乱が起きたのです。暴徒は悪鬼につかれたようになり,ののしったり,つばを掛けたり,こぶしを振り上げたりしながら私たち目がけて突進して来ました。一方,司祭は笑いながら腕組をして立っていました。警官は私たちをやっとのことで道路に出させてくれました。それから,警官は,暴徒に悩まされている,関心を持つ村人数人を助けるためにギャナウェイ姉妹と私を置いてもどって行ったので,私たちは二人だけになりました。見ると,恐ろしいことに,憎しみと怒りに燃えた目つきの男がこちらに向かって歩いて来ます。私は,私たちを覚えて復活させてくださいとエホバに祈りました。
「ちょうどその時,一人の背の高い人が走って来て,私の腕をつかみ,『恐れないでください。あの者たちがあなたがたに触れることなどさせませんから』と言いました。その人は急いで私たちを自動車のところへ連れて行き,ドアを開けて,自動車に押し込みました。私たちが自動車まで来た時,デヴィソン兄弟とギャナウェイ兄弟は警部補と一緒にやって来ました。警官は,関心のある村人数人を警察の車に乗り込ませ,私たち一行はようやくゆっくりと動き出しました。そして,数㌔走ってから車を止め,起きた事柄について話し合いました。警部補はそのような経験をして,まだ震えていました。そして,『警察に入って以来,こんなにきわどい命拾いをしたのは初めてです』と言いました」。
一方,事件のあった村では,暴徒たちは黒板を壊し,聖書を破り,残った村人たちに乱暴してから各の村に帰って行きました。警部補はその事件を裁判に掛けましたが,伝道師は罰せられませんでした。この暴徒行為に脅されて多くの人は交わらなくなりましたが,その騒ぎを経験したパウラス・ラモという原地人は真理を引き続き学び続けて献身した兄弟となり,今日まで長年の間忠実を保っています。現在,デヴィソン兄弟姉妹は忠実に巡回の業を行なっています。
ニューブリテンにおける証人の業は発展し続けて来ました。文字が読めず,最初は黒板にかいた絵を使って聖書を教えてもらわねばならなかった大勢の人は,会衆で毎週開かれる読み書きの学校を活用しました。その結果,多くの人は協会の出版物を自分で読めるようになったのです。そうした個人の進歩に加えて,ニューブリテンのエホバの組織は全体として前進しました。例えば,様々な障害や反対にもかかわらず,ラバウルに土地を取得して立派な王国会館を建てることができました。1960年代の半ば以来,業は拡大し,今ではこの島の12か所に会衆があります。最近,ニューブリテン
の伝道者数は216人という最高数に達し,1977年4月に開かれたキリストの死の記念式には699人が出席しました。ニューアイルランド島に真理が伝わる
パプア・ニューギニアの本島とニューブリテン島の北東にニューアイルランド島があります。その島の人たちも良いたよりを聞く必要がありましたから,1956年8月,ケン・フレイム兄弟と妻のロズィナはニューアイルランドのカヴィエング一帯で業を行なうためにそこへ着きました。真理に関心のある一人のパプア人のおかげで,フレイム兄弟姉妹は他の関心のある人々を見つけることができ,間もなく,真理を学びたいという人が6人ほど集まりました。しかし,その人たちをどのように教えるかということは問題でした。
1958年2月,ジョン・カットフォース兄弟はその群れを訪問し,フレイム兄弟姉妹に問題を克服するための良い提案を幾つか与えました。カットフォース兄弟は,黒板に絵をかいて聖書の教えを説明する方法を実際にして見せたのです。それからというもの,研究生は自分の考えを表現したり,人の形を棒線でかき表わして聖書の内容を示したりできるようになったので,目ざましい進歩が見られました。他の人に証言する場合,簡単な絵が手渡されました。それはちょうど,他の国で人々に小冊子が配布されるのと同じです。
カットフォース兄弟の訪問中,最寄りの劇場で「幸福な新しい世の社会」と題する協会の映画が上映されました。劇場の持ち主は,それが宗教的な映画であることから,会場費を無料にしてくれました。兄弟たちは,その映画会を,招待した人たちだけに見せる私的なものであることを説明しておいたのですが,持ち主は従業員に,今晩無料の映画会があると告げました。そのため,兄弟たちが関心のある人々多数と会場に着いた時には,会場が満員になっていただけでなく,外にたくさんの人が立っていて,すでに開いていた広い換気口からのぞける場所を見つけようとしていました。それで,拡声器をスクリーンのそばに置くのに二人の警官に人垣を分けて道を作ってもらわねばなりませんでした。15人から20人の観客を見込んでいたところへ,234人が出席したのです。
王国を知らせる業はニューアイルランドにおいて長年にわたり着実に前進して来ました。1976年の末ごろ,カヴィエングに立派な王国会館と単層住宅が新築され,手を貸すためにウイルキンソン兄弟姉妹がそこへ移り住みました。1977年1月に,ニューアイルランドの四つの会衆の伝道者は最高数の53人となり,同年4月3日の記念式には270人が出席しました。
本島の北半分で業が始められる
今やニューブリテンとニューアイルランドで証言の業が行なわれていたので,兄弟たちはパプア・ニューギニアの北半分,つまりかつてのニューギニアで業を開始することに注意を向けました。ポートモレスビーで最初の伝道者となったパプア人の一人,オダ・シオニは1957年8月,ニューギニアにいる二人の実の兄弟に会いに行きました。オダはニューギニアのワウで神のみ言葉に関する話を何度も行ないました。その話を聞いていた人の中に,ジャック・アリフィーというパプア人がいました。ほどなくして,ジャックと同じ会社に勤める多くのニューギニア人はオダの話に耳を傾けました。オダはモツ語で話し,ジャックがそれをメラネシア-ピジン語に通訳したのです。
ある時,土地の教会でいつもの礼拝が終わった後,オダは優れた証言をし,ジャックがピジン語にそれを忠実に通訳しました。教会の牧師はそれに我慢できなくなり,二人にやめてほしいと言いました。そしてさらに,600人を超す教会員に,エホバの証人とかかわりを持ってはならないと忠告したのです。
しかし,そうした反対に遭いながらも,オダは,滞在している家で引き続き優れた聖書の討議をしていました。ある晩遅く,研究をしているところへ巡査部長のジェリカが入って来て,オダとジャックを驚かせました。ジェリカはパトロール中に家の明かりを見て,窓の下で聖書の討議を聴いていたのです。その巡査部長は聴いた事柄に喜び,やがて妻と共にオダと聖書研究をするようになりました。その二人は,今度は警官のナモナと妻のマナグを自分たちの研究に誘いました。後日,マナグは献身した伝道者となり,今でもその地方で忠実に奉仕しています。ジャック兄弟は現在車いすに乗っていますが,引き続き忠実を保っています。
1958年の初め,ジョン・エンドアー兄弟姉妹は,新しい区域を開拓する上にエホバの祝福があることを願いながら,ニューギニアのラエで奉仕するためにオーストラリアから来ました。エンドアー兄弟は次のように書いています。「ラエは大変働きがいのある所だということはすぐに分かりました。[ジェイムズ]ベアード兄弟は私たちより早く着いて,すでに多くの人と研究を始めていました。ですから,私たちは祈りのうちに,どんなことをしてもとどまるという決意を一層固めました。2,3日して,原地人が軍隊の古いトタン小屋を見せてくれました。それは“住宅”になっていましたが,ほとんど手を加えられていませんでした。私たちはそこを借りることができました。その小屋には内張りがなく,気温が変わるたびに屋根から鉄さびが降って来ました。毎朝10時までに屋内の気温は摂氏43度に
なりました。それは私たちの寒暖計で計れる最高の気温でした。しかし,私たちは屋根の下で雨露をしのげること,関心のある人々と何の妨害もなく研究できる場所があることに心から感謝していました」。キリスト教の発展が見られ,その結果,1958年7月1日に,ラエおよびマダングに会衆が設立しました。また,1959年4月には,ニューギニアで三番目の会衆がワウに設立されていたのです。それから一年後,ニューギニアで初の地域大会がラエとマダングにおいて開かれました。
1958年12月にラエの劇場で「躍進する新世社会」と題する協会の映画が上映された際,証言の業に対する関心の程が明らかになりました。というのは,当時ラエの会衆に15人の兄弟姉妹しかいなかったにもかかわらず,その映画会に1,200名もの人々が集まったからです。
霊的な食物を供給するため,1960年代の半ばに16ページの「ものみの塔」誌がメラネシア-ピジン語で発行されるようになりました。同誌は1970年の1月から24ページになり,毎号の発行部数は現在3,500部を上回っています。さらにうれしいこととして,1972年の1月に24ページの「目ざめよ!」誌がメラネシア-ピジン語で初めて発行されました。
1962年までのところ,海岸にあるマダング会衆は実って刈り入れを待つばかりの広大な畑になろうとしていました。注意を払われていたのはその近くの村々だけで,遠くの村の大勢の人たちは神の真理を聞くために何㌔も歩かねばなりませんでした。この地域で真理はどのように発展していましたか。
1960年5月に開拓者のマタイ・ポウプとその家族がカナダから到着して,高まる関心の世話をする特別開拓者を導入する道が開かれました。こうして,ニューブリテンで奉仕していたデヴィソン兄弟姉妹は,業が急速に発展し始めていた地域を援助することができました。それはマダングから北岸沿いに48㌔行った地域でした。タギルディグ国立学校に隣接した政府の土地にある村の人々は大きな関心を示しました。その学校の校長は反対し,兄弟たちが政府の土地に住む関心のある人々と研究するのを妨害しました。が,遠い海岸のそれらの人たちは研究をやめませんでした。
次いで,マダングの教育委員は,九日以内に全員がその土地から立ち退くように命令しました。九日目の1962年12月24日,村人たちが物品を回収できましたが,警官が来て,残った家に火を付け,全焼させたり一部を焼いたりしました。近くのタギルディグ村の村長,ウディムはその難事を聞いて,人々が自分の土地にとどまるのを許可しました。
現在タギルディグ村には良い会衆と大会ホールがあります。最近ここで開かれた「神聖な奉仕」地域大会に500名を上回る人が出席しました。デヴィソン
兄弟と他の特別開拓者たちの優れた働きにより,海岸沿いの80㌔余りの地域やマダングから北に伸びる沿岸地帯に散在する六つの会衆で約140人の伝道者と大勢の開拓者が活発に奉仕しています。タギルディグ村で成長した少年たちの一人,ウルペプ・カリプは現在ベテルで奉仕しており,その近くの村で育ったもう一人の兄弟は地域の監督です。勤勉なクリスチャンたちは祝福を刈り取る
パプア・ニューギニアの村落地域で良いたよりを宣明するために近年誠実な努力が払われたことについて,ここで少しでも触れるのは極めてふさわしいことと思われます。一例として,1950年代末にフラ地域で起きたことを挙げられます。
1957年,ドナルド・フィールダー兄弟と妻のシャーリー,および娘のデビはフラ地域で良いたよりを伝えることにしました。フィールダー兄弟は土地を借りて,そこに大変快適な家を建てたのですが,政府から原地人の土地に住んではならないと申し渡されたのです。それで,フィールダー一家は舟を造って,近くの川の川口付近で舟の上の生活を始めました。言うまでもなく様々な問題がありました。何の設備もなくて洗たくをしなければなりませんでした。真水を得るには丸木舟で遠くまで行きました。蚊との戦いもありました。蚊があまり多くて食事は大抵蚊帳の中で取らねばならなかったほどです。そうした事情の下で,1958年9月に二人目の女の子が生まれました。フィールダー兄弟の特別開拓者の手当てだけで4か月間暮らさなければならなかったので,時には食物がほとんどありませんでした。事実,バナナ以外に食べる物がないこともありました。しかし,霊的な庭が実を生み始める兆しがあったので,その家族は真の喜びを味わえました。1958年11月に18人の伝道者からなる立派な会衆が設立されました。今日,フラのその会衆には40人の王国宣明者が交わっており,1977年4月3日に行なわれた主の記念式には114名が出席しました。
1957年の半ば過ぎに,ジョン・カットフォース兄弟がパプア・ニューギニアにもどって来ました。ここにずっととどまって兄弟たちと一緒に奉仕するためです。カットフォース兄弟は旅行する監督として数々のすばらしい経験をしました。例えば,ポートモレスビーから海岸沿いに約48㌔北へ行ったところにあるキドという所の一人の孤立した伝道者を訪問した時のことです。カットフォース兄弟と彼の同行者たちは舷外浮材の付いたカヌーで旅行していましたが,その途中,ディホという古い兄弟が荒い波のためにカヌーの後ろから投げ出され,海から引き上げられねばなりません
でした。しかし,一行が何時間も掛かってレッドスカーみさきを回ると,海の上に作られたキド村が前方にありました。カットフォース兄弟は次のように書いています。「私はキド村の唯一のエホバの証人,オノ・ローズに会えて大変うれしく思いました。彼は笑顔のとてもやさしい人でした。徳義心が厚いので,村の店の運営を任されていました。ロンドン伝道師協会の牧師たちは村人たちをひどく脅したので,村人の大部分は真理に反対しました。ただし,少年たちは好んで村の店に行ったので,オノは店で,そうした少年たちが王国とその祝福を洞察できるように親切に助けたのです」。
最初の夜,カットフォース兄弟は他の人たちと一緒に床に座り,オノとその家族,およびオノが店で話をした非常に大勢の十代の少年たちに真理を説明しました。カットフォース兄弟はこう続けています。「それから休止があり,その後オノは人々にその土地の言葉で話しました。次いでオノは手を私の腕に置き,部屋のすみの床にあったむしろを指差しました。『オノ,何の説明をしているのですか』と聞かれて,オノは次のように答えました。『エホバの民には分裂がありません。皮膚の色は違いますが,私たちは同等で,一緒に食事をし,同じ部屋で一緒に寝ます』。それは非常に珍しいことでした。というのは,当時伝道団の白人の牧師たちと原地人との間には大きな障壁があったからです。それは全く明らかでした。白人の牧師たちはいつも原地人の信者から離れて食事をし,会合のある時にほんの少しの時間交わるだけだったからです。エホバの証人の白人はパプア人の兄弟たちと一緒に働き,共に生活し,一緒に歩いたので,すばらしい愛のきずなが結ばれました。そのきずなは,兄弟たちが直面しなければならなかった多くの困難を克服するのに役立ちました。―ヨハネ 13:34,35。使徒 10:34,35。
オノは今でもキドにおり,そこの群れの世話をしています。キド村で王国の伝道をしているのはオノとその妻の二人だけです。しかし,孤立した証人として忍耐した20年間に,二人は豊かな祝福を受けました。1977年4月3日の主の記念式にその村から8名の人が出席したのは二人にとって喜びでした。
辺ぴな村々に達する
1958年6月,パプア・ニューギニアに二人の若い兄弟,ジェイムズ・スミスとスティーブン・ブランディが到着しました。二人は早速,土地の言葉であるモツ語の勉強に没頭し,ほどなくして,モツ語を上手に話せるよう
になっていました。その二人の兄弟は,パプアの新しい区域で伝道の業を開始するのに優れた働きをしました。わたしたちは辺ぴな村々にも王国を証言したいと強く願っていました。それで,1960年に特別開拓者たちがポートモレスビーから幾つかの辺ぴな村へ派遣されたのです。スミス兄弟はリオネル・ディングルと共に,ガルフ・ディストリクトのケレマに任命されました。スミス兄弟はモツ語をりゅうちょうに話せましたが,ケレマの人々はほとんどモツ語を知らないことが分かりました。したがって,もう一つの言語を学ばねばなりませんでした。さらに困ったことに,そこの人たちには文字がなかったのです。それで,スミス兄弟はモツ語を話すケレマの人々と幾晩も過ごしました。同兄弟は次のように語っています。
「私がモツ語の表現を言い,その人たちはケレマの言葉に訳しました。私はそれをローマ字で書き留めました。このような方法で,私は語彙を増やしただけでなく,聖書の話をすっかり書くことができました。その地域にいる白人で自分たちの言葉を話せた人は外にいなかったので,人々は驚きました。そして,私たちが人々と彼らの言葉で会話しようと努めたことが好感を持たれました。人々は私たちが自分たちに関心を持っていてくれているということが分かったからです。私たちは任命地で引き続き言葉や語彙を書き留めていきました。そして,私はケレマ語の文法を少しずつノートにまとめたのです。3か月で,私たちは人々となんなく会話ができるようになり,1961年には,公開講演をしたり,『ものみの塔』誌の研究記事を翻訳したりできるようになっていました。その後,兄弟たちは,ケレマ語のパンフレットと,『御国のこの良いたより』と題する小冊子を受け取って感激しました。それらの印刷物は原地の人々が真理を学ぶのを助ける上で貴重な道具となりました」。
スミス兄弟が非常に感心したのは,兄弟たちや関心のある人たちが集会に来るために大変努力することでした。多くの人は集会に出席するために幅が3㌔ほどの湾を渡らなければなりませんでした。天候が悪いと,それは多くの場合危険でした。記念式と巡回監督の訪問がちょうど重なったことがありました。スミス兄弟はその時のことを次のように語っています。「雨は土砂降りで,風が強く,湾は大変荒れていました。集会の時間が来ましたが,人があまり集まってなかったので,私たちは少し待ちました。予想通り,暗やみとしの突く雨の中から,50人ほどの人がずぶぬれになって現われました。だれも着替えを持っていませんでしたが,どの人も喜びのうちに腰を降ろして講演を聴きました。後で話してくれたところによると,その人たちが湾の半ばまで来た時に波が非常に荒くなって,乗ってい
た大きな丸木舟が沈み始めました。男の人たちや独身者たちは,幼い子供を持つ母親を舟に残して湾に飛び込み,うまく泳ぎ渡ることができました。そうした事故の起きる危険があるので,後に,湾の両岸でそれぞれ集会を開くことが決められました」。危険がたくさんありました。ある時スミス兄弟は湾の向こう側の書籍研究を司会することになっていました。渡し守りは,時刻が遅いので舟を出せないと言いました。空は一面に曇っており,湾は荒れていましたが,スミス兄弟は丸木舟に乗って出発しました。しかし,90㍍も行かないうちに,舟がひどく漏っているのに気づきました。水に飛び込んで,泳いで岸にもどるべきでしょうか。幸いにも,この地方の丸木舟は浮力があるので完全に沈んでしまいません。それで,スミス兄弟は舟にとどまっていました。ところで,スミス兄弟にその時のことを話してもらうのはどうでしょうか。彼はこう語っています。
「ある時など,砕け波の白い波頭しか見えませんでした。後で,それが砂州に当たって砕けた波であることがわかりました。砂州にさしかかると,まるで暴れ馬に乗っているように揺れました。私の舟は強い流れにさらわれて,とうとうマングローブの林に突っ込みました。それで,私は泥の岸に上がって丸木舟を引っ張り上げることができました。何も見えず,その地域にワニがいることを知っていたので,とても恐しく思いました。さらに悪いことに,雨がざあざあ降り出しました。かっぱの下で丸くなって待つ以外になすすべがありませんでした。真夜中過ぎに潮が変わり始め,雨が小降りになって,波も収まりました。私はハンカチで舟の穴をふさぎ,渡し守りの小屋へもどりました。結局,朝の2時ごろ家に着きました。開拓者は不必要な危険を冒すべきではないという趣旨の強い助言を受けた時,私はそれをもっともなことと受け入れました」。
その後,グレン・フィンレイなど数人の開拓者が,その地域で業を発展させることに加わりました。現在ケレマ湾の周辺に三つの会衆があり,その三つの会衆は,1975年暮にここで開かれた「神の主権」地域大会で400名を優に上回る出席者を迎えました。それら出席者の中には,トアリピ語の地域にある五つの会衆の代表者を含め,ガルフ州の人たちもいました。ところでその五つの会衆はどのようにして設立されたのでしょうか。
スミス兄弟がケレマに割り当てられているころ,スティーブン・ブランディとアレン・ホスキングは,さらに64㌔ほど東のサヴァイヴィリ村に任命されました。二人がどうしてその村に任命されるようになったかと言うと,先にポートモレスビーで,ブランディ兄弟がパプア湾のモヴィーヴ地域の,トアリピ語を話す人を見付けたことがきっかけでした。ブランディ
兄弟はこう語っています。「その人たちはサゴヤシのでんぷんやアシで編んだ敷物を売りにモレスビーに来て,村(サヴァイヴィリ)へ帰る船を待っているところでした。私は翌日研究を取り決め,その後,その人たちが村へ帰るまでほとんど毎日研究しました」。後に,ブランディ兄弟はその中の一人で,ミヴィリという人と手紙で研究を続けました。フランベジアという病気でミヴィリの顔は変形していました。ミヴィリは村人から尊敬されていて,関心を持つ人々の名前を書いた一覧表を送ってきました。
ついに,ブランディ兄弟は協会に手紙を出し,その後間もなく,同兄弟とホスキング兄弟はサヴァイヴィリへ行く船に乗り込んだのです。サヴァイヴィリに着いた時のことを,ブランディ兄弟は次のように話してくれました。「ミヴィリは走って来て私たちを迎え,家に連れて行ってくれました。そこでそれまで飲んだことがないほど濃いお茶をごちそうになりました。私たちはテントを持って行きました。多くの人が喜んで手伝ってくれたので,テントは大きなマンゴの木の下にたちまち立ちました。
「ほどなくして,私たちは新しい住まいが広い湿地の真ん中にあることを知りました。そこは,パプアの大きな川のうちの二つ,ラケカム川とタウリ川のデルタ地帯で,ワニと蚊の隠れ場だったのです。
「トアリピの人々に良いたよりを宣明することは,最初からエホバのご意志のように思われました。聖書研究の数がどんどん増えて,二人がそれぞれ20件の研究を司会するようになったのです」。
1950年代の半ばに,映画が上映されることはポートモレスビーでも珍しいことでした。ですから,1960年代の初期に,190㌔西方のデルタ地帯や河川部の村々で映画を見ることがどれほど珍しいことであったか想像がつくでしょう。したがって,1962年にモヴィーヴでものみの塔協会の「エホバの証人の神の御心国際大会」と題する映画が上映された時に800人もの人々が詰めかけたのも不思議ではありません。沿岸のクキピでは1,000人を上回る人々が,同じ映画を見ながら舌を鳴らしたり驚嘆の声を上げたりしました。
ホスキング兄弟が結婚すると,彼の妻はそこの女の人たちを大勢援助しました。二人はこれまでのことを振り返り,エホバが自分たちの働きを祝福してこられたのを見て大きな喜びを味わっています。現在その地域にはクリスチャンの会衆がたくさんあり,そこから若い人が何人か他の土地へ行って開拓奉仕をしています。
迫害されてもキリスト教は繁栄した
1960年5月25日に,政府は国際聖書研究者協会を正式に認可しました。それによって,証人の業は一層しっかりした基礎を持つようになりました。例えば,王国会館の建設用地を政府に申請することができました。また,1975年5月には,さらに優れた処置として,パプア・ニューギニア国際聖書研究者協会という法人組織を作りました。これは時宜にかなったものでした。なぜなら,それによって,同年9月に生まれることになっていたパプア・ニューギニア独立国によっても組織が認可されることが保証されたからです。
1960年8月,すなわち1960奉仕年度末に,パプア・ニューギニアとソロモン諸島には440名の伝道者がいました。そうしたすばらしい発展が見られましたから,パプアにものみの塔協会の支部事務所を設けるのは望ましいと考えられました。そして,人生の大半を神の民と交わってきた57歳のカットフォース兄弟が,最初の支部の監督に任命されました。パプア支部は,パプア,マヌス島,ニューブリテン,ニューギニア,ニューアイルランドおよびソロモン諸島における業を管轄することになっていました。
ところが,支部を開設する準備は妨害に遭いました。兄弟たちが輸血の問題を扱ったパンフレットを配布したところ,それに対して一般から批判の声が揚がったのです。例えば,行政長官と警視総監はそのパンフレットの配布に反対しました。また,1960年8月30日付の「サウス・パシフィック・ポスト」紙は「教会は輸血の問題に憤慨」という見出しを掲げました。それの関連記事の中で,教会の指導者たちは輸血に対するエホバの証人の立場に反対し,その機会を利用して,クリスチャンの中立の立場に関しても証人を非難しました。
カットフォース兄弟,フィールダー兄弟,アーサー・モリス兄弟は証人の立場を説明する目的で行政長官と警視総監を訪れました。が,快く迎えられませんでした。ラジオや新聞の報道に使われるニュース記事の原稿が用意されましたが,証人たちは自分たちに対する攻撃に対抗するのに主として人々を戸別に訪問する方法を取りました。
事が運び,カットフォース兄弟はついにすべての物事を組織することができ,支部事務所は1960年9月1日から仕事を開始しました。ついでながら,その時,ポートモレスビーのジム・ドビンズ兄弟の家の一室が支部事務所として使われました。
こうして,キリスト教は反対にもめげずに発展していました。1961年に敵たちは,証人が日食を利用して人々を脅しているとまで言うほどの極端に走りました。1962年3月,良いたよりの敵は,またもや,証人の活動に
対する一般の非難をあおろうと躍起になりました。「サウス・パシフィック・ポスト」紙によれば,退役軍人連盟のポートモレスビー支所は次のような動議を起こしました。「本会議は,扇動に近いエホバの証人の活動を遺憾に思い,同宗派を特別地域から即刻追放することを勧告する」。同連盟のゴロカ支所も,エホバの証人の活動に関する報告の裏付けが得られれば,「同派を禁止する処置を取るべきである」と語ったと伝えられました。いうまでもなく,そうした非難は偽りであり,反対していた組織の成員たちは,1962年3月27日付の「サウス・パシフィック・ポスト」紙に掲げられた,「ハスラクは宗派の禁止に“同意せず”」という見出しを見て大いに失望したに違いありません。その見出しの記事の中で,同紙は,「ポール・ハスラク特別地域大臣は今日,地域内のエホバの証人を禁止せよとの退役軍人連盟の申し入れを退けた」と述べました。また,特別地域大臣の次の談話を掲げていました。「私は,エホバの証人の活動が安全を脅かすという強力な証拠を何ら得ていない。……同派を正当に禁止する明白な根拠は何もない」。高地へ
1962年5月,支部事務所は,ポートモレスビーのキット兄弟の立派な新しい家に移されました。トム・キットと妻のロウェナが,必要のより大きな土地で奉仕するためにパプア・ニューギニアの高地へ移り,その家は空いていたのです。キット兄弟姉妹は高地の真ん中のワバグに向かっていました。
キット兄弟姉妹は二人とも旅行中にマラリアに襲われました。ワバグまであと110㌔という地点にあるハゲン山まで来た時,夜中に二人とも病気にかかりました。トムは重体に陥り,朝までに意識不明になりました。医者が呼ばれました。トムは二週間動いてはいけないと医者から言われました。しかし,キット兄弟姉妹は結局ワバグへの旅を続けました。
様々な苦難に遭ったにもかかわらず,二人は他の人々に王国の良いたよりを分かつためにワバグへ行ったのです。後に,ワバグに会衆が設立され,二人は祝福されました。これまで偽りの宗教や悪鬼崇拝と絶えず“戦わ”なければなりませんでした。とはいえ,エホバのご意志を学んでそれを行ないたいと願う人々がいたのです。キット兄弟姉妹はワバグで今なお良いたよりの宣明を推し進めています。
もっと奥地でも関心が見られたので,王国会館は美しい谷の先端の,高さ約2,400㍍の地点に建てられています。ワバグ会衆に特別開拓者として
任命されているマイケル・サウンガ兄弟はキット兄弟の片腕となって,その地方で関心を示す人々の世話をしています。高地のアサロ,バンズ,バイヤー川,ゴロカ,カイナンツ,クンディアワ,メンディ,ハゲン山で会衆を設立するに際して,多くの兄弟姉妹たちは他の優れた働きをしました。紙面が限られているので,ここでそのすべてを挙げることはできませんが,際立った働きの幾つかを紹介しましょう。
エルシー・ホースバーグ姉妹がよく努力してポートモレスビーの二人の若い兵士に証言したことから,高地東部のアサロに会衆を設立する基礎が置かれました。アサロは,パプア・ニューギニアの有名な“マッドマン”の本場です。
その二人の若者は上官たちから非常な反対を受けましたが,軍隊を辞めることができ,進歩を続けてバプテスマを受けました。そして,1970年代の半ばに特別開拓者としてアサロの地域に任命されたのです。そこは,一方の若者グヌレ・ウムマバの郷里でもありました。早速王国会館が建てられ,巡回監督の報告によれば,わずか3か月で三人の新しい伝道者が野外奉仕を報告し,21名の人が巡回監督の公開講演に出席しました。最近,大会の会場としても使える,もっと大きな会館が建てられました。
ここ数年間にさらに二つの美しい王国会館がゴロカとカイナンツにも建ちました。その建設には,ベヤー,ベネット,ゴッソン,コウィツ,リンケ,コルブランの各家族が大いに尽力しました。1977年の初頭,初めてのメラネシア-ピジン語の地域大会がその地域で開かれ,高地に住むすべての証人は喜びました。その大会の出席者は267人,バプテスマを受けた人は6人でした。このように,証言の業は内陸部に前進しつつあります。
反対は妨げとならない
1964年中,ニューギニアでは261人の王国宣明者たちが野外で奉仕していました。活発化する証人の活動は真理の反対者たちの注意を免れず,その年の末に,反対者らは証人がウィーワクの街頭で雑誌を提供するのをやめさせようとしました。ウィーワクの警部は,公道の通行を妨害したとして二人の兄弟を告発しました。証言聴取が行なわれた時,その警部は姿を見せず,自分の代わりに警部補を遣わしました。聴取が始まると,警部補は準備をほとんどしていなかったので,治安判事が警部補に代わり,証人として来た人々に質問しました。その人たちは皆警察官で,三人とも,起訴されたエホバの証人が通行を妨げなかったことを認めました。判事は明らか
に気を悪くし,「私は警部がなぜ本件を起訴したのか理解できません。本件を却下します」と言って閉廷しました。しかし,警部は業をやめさせる努力をしつように続けました。1965年2月,ウィーワクで戸別に証言していた兄弟たちは,結婚している警察官の住宅が立ち並ぶ区域に行きました。証言の途中で,兄弟たちは,その住宅の人たちに伝道してはいけないと巡査から言われました。警部がエホバの証人とかかわりを持つことを禁じたからだというのです。巡査はエバーハート兄弟に,警部に会いに行くべきだと言いました。エバーハート兄弟がそうするために伝道者たちを集めているところへ,警部が現われ,「この屋敷内に不法侵入したかどでおまえたちを訴えてやる」と言いました。後日,エバーハート兄弟とエディス・テイノー姉妹は,1965年2月17日に法廷に出頭するようにとの通知を受けました。囲いのある敷地内に無断侵入したという訴えに答えるためです。
エホバの証人たちは次のことに気づいていました。すなわち,被告人たちは刑法に基づいて訴えられたので,無罪になるには,犯罪の意図がなかったことを証明すればよいということです。明らかに警察側はそのことを考慮に入れていませんでした。なぜなら,法廷での弁論で彼らが問題の核心として強調したのは,エホバの証人が警部の許可を得ずに警察の敷地内に入ったということだったからです。最後の弁論で,警部はこう言いました。「私は被告たちの活動が罪であると言っているのではありません」。兄弟たちが幾つかの判例を挙げながら最後の弁明を行なってから,警察側は自分たちが事件の核心を突いたことに気づきました。すなわち,兄弟たちが警察の敷地内にいたのは不法でも罪でもないことを認めたことに気づいたのです。その後,1965年5月28日に,判事は「無罪」の判決を下しました。それ以来,戸別の証言活動が当局から問題にされることはありません。このようにすばらしい勝利が得られたことを確かにエホバに感謝できます。また,そのことは兄弟姉妹たちにとって大きな励ましとなってきました。
国旗敬礼の問題
1966年の初頭,ミルフォード・ヘイブル小学校で,エホバの証人の子供7人は教師に呼び出され,国旗敬礼に関して試されました。月曜日の朝,約300名の生徒の前で,その7人の子供たちは,国旗を敬礼するように求められ,敬礼しなければ登録簿から名前をはずして放校すると言われたのです。子供たちは一人も敬礼しませんでした。何の処分も受けませんでしたが,次の日の朝再び試験すると言い渡されました。同じことが行なわれ,出エジプト 20:4-6。詩 3:8)ついでながら,子供たちの父兄は,そうした式の参加を免除してほしいと書面で願い出たのですが,その女教師は上司の命令でそれはできないと言いました。
子供たちは今度も敬礼を拒否しました。しかし,二度目の時には,他の生徒たちから離されて放校されてしまいました。そのような事態になったのは,子供たちが救いをエホバに求め,そのみ言葉に付き従うことを決意していたからにほかなりません。(ラエ会衆の主宰監督であったR・L・スティーブンズはその上司と話し合いました。しかし,その人は,自分の管轄下の学校で国旗敬礼をしない児童はすべて放校するという立場を変えませんでした。
スティーブンズ兄弟は助けを求める手紙を教育庁に書き送りました。また,3週間後の1966年3月18日と19日に,その地方から出たニアル下院議員と,オーストラリアのカンベラにある特別地域省に訴え,問題の情報の写しを国連に送りました。
3月23日,学校の当局者たちは,パプア・ニューギニア行政管理官から電話で直接に,子供たちをただちに学校へ復帰させるようにとの勧告を受けました。また,スティーブンズ兄弟は3月26日に,オーストラリアのポール・ハスラク特別地域大臣から次のような電報を受け取りました。「3月19日付の貴下の電報の件。児童がすでに復帰させられた,との連絡を受け取った」。こうして,証人の子弟の権利が,オーストラリア政府や地方の下院の高官によって認められたおかげで,崇拝の自由が勝利を収めたのです。
1970年のパプア・ニューギニア教育条令ですばらしい備えが設けられたことに触れておきましょう。その条令の中で,「宗教もしくは信条の理由だけで児童を放校することはできない」ことが規定されたのです。(Part II,Division1,Section7,Subsection3,a and b)何人かの当局者は,国旗敬礼に対するエホバの証人の宗教上の見解に関連してこの条令を引用しました。最近,国旗敬礼のことを問題にする教師はほとんどいません。その条令から,もう一つ良いことがありました。というのは,1970年以来,エホバの証人は他の宗教諸宗派と同様,学校の宗教の時間に子弟を教えることができるようになったからです。
パプア・ニューギニア本島の北部および山岳地帯に住む150万人の人々の中には真理に耳を傾ける人が大勢いる可能性があります。そのことは,1977年の記念式に1,588人が出席し,同年に伝道者が459人の最高数に達したことからも明らかです。また,400件の家庭聖書研究が司会されました
から,ニューギニアの畑で今後も引き続き増加の見られることが期待されます。マヌス島,バルアンおよび北部ソロモン諸島
長年にわたって,遠くの島々に王国の音信を伝える努力がなされてきました。例えば,1958年にリストン・カーニーは,アドミラルティ諸島で最も大きなマヌス島での証言の業を開始しました。村々で証言していると,時には,75人もの人たちが集まって聖書の話し合いを聞いていることもありました。後日,カーニー兄弟とロン・バウマン兄弟はその島に,パプア・ニューギニア支部の地域内でも非常に美しい王国会館の一つを建てました。王国会館の庭は非常によく手入れされていたので,ある年そこの会衆は団体の庭園として最優秀賞を受けました。
カーニー兄弟は近くにあるバルアンでも良いたよりを宣べ伝えました。外の土地へ移っていった兄弟たちもいたため,1977奉仕年度中,マヌス島で8人の王国伝道者が証言の業にあずかりました。
ブーガンビル島で証言の業がなされるようになったのは,1969年にアレン・マックレイとその家族がそこへ移ってからのことです。その後,ほかの人たちも,必要のより大きな土地で奉仕するために,銅の産地ブーガンビルに移りました。現在この島には二つの会衆があり,隣のブカ島には一つの会衆があります。この二つの島は今日北ソロモン諸島として知られており,ここで50名余の伝道者が良いたよりを宣明しています。
原住民の言語で文書を発行する
業の拡大に伴い,キリスト教の文書を原住民の言語で発行する努力がなされました。1958年4月にモツ語の「ものみの塔」誌が初めて発行され,その面での大きな進歩が見られました。ここで用いられている700を超す言語や方言で文書を発行することは,むろん,不可能です。したがって,協会は二つの商業用語であるヒリ・モツ語とメラネシア-ピジン語で文書を翻訳することに専ら力を入れてきました。ゆえに,すばらしい備えとして,1970年に「とこしえの命に導く真理」と題する本がヒリ・モツ語とメラネシア-ピジン語で初めて発行されたのです。
さらに発展する時
発展が見られたのは文書の面だけではありません。1962年10月に協会は,王国会館の敷地の申請をしました。敷地はポートモレスビーのコキにありました。最初の申請は拒否されました。二度目に申請した時,国土委員
会は,エホバの証人に土地の借用を許可することを推薦しました。ところが,行政管理官の顧問団は,さらに検討するためにその推薦を保留にしました。当時の国土委員会会長,D・E・マキニス氏は,オーストラリア政府がエホバの証人をクリスチャンとして認めていることを証明し,その情報を顧問団に提出しました。1963年11月27日,エホバの証人は土地の申請が許可されたという知らせを受けました。マキニスが情報をまとめて提出したことが大いに助けになって,パプア・ニューギニアで今後も自由に良いたよりを宣明できるものと思われます。1964年1月,パプア支部はニュージーランドからクライド・キャンティを迎えて地帯訪問を受けました。キャンティ兄弟は,コキに建設を予定されていた王国会館に連結して支部事務所と宣教者の家を建てるように提案しました。その提案は受け入れられ,1964年10月に,支部事務所と王国会館を含む立派な2階建てのビルの工事が始まりました。1965年1月にはN・H・ノア兄弟が訪問して,新しい支部の建築工事の進行状態を調べました。その訪問中,ノア兄弟は,カットフォース兄弟が初の全時間の地域監督としてもっと多くの時間野外で奉仕するように提案しました。それに伴い,1965年4月付で,チャールズ・イスビル兄弟が,パプア支部の管轄下にある島々における業の監督をすることになりました。
1972年の初め,N・H・ノア兄弟とM・H・ラーソン兄弟はパプア・ニューギニアを訪れました。二人は支部の建築工事の様子を見て,幾つかの提案をすることができました。その時,イスビル兄弟に代わってジェイムズ・スミス兄弟が支部の監督に任命されました。イスビル兄弟は病気のためにアメリカへ帰国していたからです。同年8月にポートモレスビーで「神の支配権」地域大会が開かれた際,150人ほどの人々が支部を見学して増築部分を見,感謝の気持ちを言い表わしていました。それは,宣べ伝え弟子を作る業に対するエホバの祝福の明らかな証拠であると感じたからです。
王国の業が発展するにつれて,支部事務所の仕事も増えました。例えば,1976奉仕年度にパプアの伝道者は731人の最高数になりました。それは前奉仕年度の平均の17.5%増加に当たります。その時までに支部の建物は一部改造されて新しい事務所と印刷室が出来上がり,それらは従来の建物とうまくとけ合っています。現在9名の人が支部で奉仕し,事務,発送,印刷,翻訳その他の仕事を行なっています。また,支部委員はパプア・ニューギニア支部事務所の働きを監督する責任を担っています。
ポートモレスビーのエホバの民が立派な大会ホールを建てて献堂したのも1976年のことです。同年のある巡回大会の際,そのホールは600人を収容
しました。ホールの壁はちょうつがいで動く大きな戸のように作られているので,それを開けるとさらに大勢の人を収容できます。そのようにして,最近大会ホールで開かれた地域大会に983人が出席できました。王国宣教学校のこと
他の国におけると同様,ここでも,クリスチャンの監督を訓練するために王国宣教学校が開かれています。これまで幾年かにわたり,学校は様々な場所で開かれました。例えば,1961年に開かれた学校の一つのクラスは空き地に設置された,ヤシの葉の屋根の下で行なわれました。ある日,筆記の復習が“訪問者”によって一時中断されたことがありました。テーブルに座っていた兄弟たちの足下に一匹の毒蛇がはってきたのですから,兄弟たちが驚いたのも無理はありません。一人の兄弟がそれを見つけて,あぶないと言いました。しかし,皆は自制を働かせてじっと座っていました。恐らく視線を感じたのでしょう,へびは茂みの方へ行ったので,事実上全クラスがその後について行きました。
王国宣教学校はある意味で,パプア・ニューギニアの神権的な発展のよい指針と言えます。1974年と1975年にかけて開かれた学校の場合を考えてみると,授業を受けたのは全部で193名で,そのうち,129人はパプア・ニューギニアの兄弟であり,64人はソロモン諸島の兄弟でした。これほど多くの原住民の兄弟たちが,監督として学校に出席する資格を持っていたのは実にすばらしいことです。
霊的に報いの多い大会
これまでの年月を振り返ると,多くの大会のことが思い出されます。
そのうちの幾つかの大会は神権的な発展の真の里程標になりました。パプア・ニューギニアにおける最初の国際大会は1969年に開かれました。その大会について少しお話ししましょう。約千人の出席者が見込まれていましたが,それだけの人を収容できる競技場や建物はありませんでした。そのため,ポートモレスビーから23㌔ほど離れた叢林地帯の空き地が会場に選ばれました。草が生えているだけのその場所に,大会で必要な物全部を入れておく36の建物を建てなければなりませんでした。その会場で寝起きすることが予想される千人を上回る人々のために,宿泊する所を12か所設けねばなりませんでした。飲料水や入浴のための水も確保する必要がありました。炊事の用意をしたり,照明のために電気を使えるようにもしなければなりませんでした。その大会の準備に丸5か月ほど掛かりました。そして,確かにそうするだけの価値があったのです。
ニューヨークのブルックリンにある協会の本部から,F・W・フランズ兄弟がその年初めてパプア・ニューギニアを訪れました。出席者は予想を上回り,「近づく一千年の平和」と題する公開講演には1,116人が出席して熱心に耳を傾けました。その大会で,70名の人がエホバへの献身を水のバプテスマで象徴しました。それから何年かたちましたが,兄弟たちは今でもそのすばらしい霊的な催しのことを思い出したり,話したりしています。
1977年1月に,ブルックリンの協会の本部からM・G・ヘンシェル兄弟が初めてパプア・ニューギニアを訪問しました。競技場で行なわれた同兄弟の講演に1,100名が出席し,その後大会ホールで上映されたスライドの集まりに1,000名が出席したのは興味深いことでした。ポートモレスビーとその周辺の兄弟および関心のある人々だけで,ちょうど7年前の国際大会の出席者数と同数の出席者が集まったのはほんとうにすばらしいことです。
島々で開かれた注目すべき大会として挙げられるのは,1973年のポートモレスビーにおける全国大会とソロモン諸島での地域大会です。その二つの大会で合計96名の人がバプテスマを受けました。交通機関の面で“山のような”問題があったことを考えると,公開講演の出席者が合わせて3,500人だったのは実にすばらしいことでした。12人ほどの人からなる一グループは大会に出席するためにパプア・ニューギニアの背骨ともいうべき場所を横断し,約240㌔の道のりを徒歩でやって来ました。そのグループには二人の小さな子供を持つ夫婦も混じっていました。その人たちは標高
4,000㍍のヴィクトリア山を越え,途中,歴史に残る“ココダ隘路”を通ってポートモレスビーへ行きました。ポートモレスビーの大会は,パプア支部に関する限り歴史的な大会でした。というのは,三組の聴衆がそれぞれ自分の言語で聖書劇をみることができたからです。一団の俳優が英語で吹き込まれた録音に合わせて演技をしましたが,各登場人物のせりふがヒリ・モツ語とメラネシア-ピジン語でも聞こえるようになっていたのです。ですから,各言語グループの座席から劇をみると,俳優はあたかも自分たちの言葉で演じているように見えました。
伝道は続けられる
1970年代にも,エホバの証人は王国の音信を携えて伝道を続けてゆきました。パプア・ニューギニアで良いたよりを宣明してきた大勢の兄弟姉妹の努力や苦労のすべてをお話しすることはできませんが,最近の幾つかの経験を述べさせてください。
数年前,カラパという名のパプア人の兄弟が,政府の仕事でパプア・ニューギニアのウエスターン州に赴任しました。カラパ兄弟はあらゆる機会を捕らえて証言をしたので,現在,パプア・ニューギニアの奥地,スター山脈の山ろくの丘にあるニンゲルムに真のクリスチャンがいます。また,巨大なフライ川の流域で,世界最大の沼地として知られる地域の,インドネシアの国境近くにあるマレー湖畔にも活発な会衆があります。そこの人々の大半は文盲でしたが,スーストメヤー兄弟姉妹の大きな努力により,今では多くの人が読み書きを学んでおり,マレー湖のブセキにある会衆には王国伝道者が28人います。過去2,3年の間に20名の人がバプテスマを受けました。ちなみに,そこから最も近い会衆は400㌔ほど離れた場所にあり,その辺境の地の証人たちが一年間に目にする外部の人といえば,おそらく地域監督と巡回監督だけです。
しばらく前に,その会衆は孤立した区域に行って証言しました。シエグマー・スーストメヤー兄弟は一部次のように伝えています。「パリとスペの人々が住むその大きな村まで行くのに9時間かかりました。その人たちはかつては人食い人種でした。村は,魚のたくさんいるカイム川を105㌔下ったところにありました。“プクプク”[ワニ]やいろいろな種類のたくさんの鳥を見ました。恐ろしい旅でした」。
カヌーには7人の証人が乗っていました。それらの人は村人と良いたよりを分かつことを大いに喜んでいました。スーストメヤー兄弟はこう語っ
ています。「ブセキの兄弟姉妹は非常に熱心でしたから,その一人一人がだれかに証言しているのを見るのはうれしいことでした」。1972年当時の,パプア・ニューギニアの東端での経験もお話ししたいと思います。島はそこで,ワニのしっぽのように先細りになっています。周囲の島々を含むその地方には10万人を超す人々が住み,その多くは聖書を愛しています。実際,自分たちの言語で翻訳された聖書全巻のある部族が少なくありません。そうした翻訳のあるものには,「イエホヴァ」や「イエオヴァ」など,神のお名前に相当する言葉が見られます。
1972年,その地域に二つの小さな会衆ができました。1975年中,巡回監督のバート・スタンフォード兄弟はそこを訪問しました。海岸沿いのある村に妻を置いて,スタンフォード兄弟は6時間ほど歩き,何人かの関心を持つ人々からなる群れに行きました。川の流れは急で,しかもそこを12回も渡らなければなりませんでしたが,天候には恵まれていました。道は起伏の多い危険な土地を通っていました。では,その旅行にはそれなりの価値があったでしょうか。スタンフォード兄弟の次の報告から,判断してみてください。
「そこで暖かい歓迎を受けました。人々は私たちに会って喜んでくれました。そこの人たちが建てた,開拓者の家を兼ねた立派な王国会館を見て,私はうれしい驚きを感じました。その人たちは毎週ギマ・コホロナ[ヒリ・モツ語の『ものみの塔』誌]の研究を行ない,一人の若者が一生懸命その司会に当たっていました。火曜日の朝,群れの研究を行ない,私は84人の聴衆を前にして公開講演をしました」。
その若者は1971年のしばらくの間ポートモレスビーの会衆と交わっていたことがありました。どうやら,彼は賛美の歌もたくさん教えたようで,群れの人たちはヒリ・モツ語で上手に歌いました。巡回監督の感想は次の通りです。「研究や公開講演の初めに,全員がいっせいに王国の歌をはっきり大きな声で歌いだしたので驚きました。『ものみの塔』誌に出ている,楽園で一群の人たちが歌をうたっているさし絵……のようだと思えることがありました」。
1976年以来,特別開拓者たちがこの険しい山岳地域で働いています。1977年の初頭までに20人の王国伝道者が証言の活動に携わり,100人余の人がゴヴィゴヴィ会衆の集会に出席していました。こうした活動はそこの英国国教会派の人々を怒らせ,1977年2月5日,土曜日に,着飾った兵士の一団がやりその他の武器を振りかざして証人たちの住む村を襲撃しました。暴徒たちは兄弟たちや,女性を含む関心のある人々多数を殴り,負傷さ
せ,多くの場合血を流させました。王国会館は火を付けられて全焼しました。群れの人たちがどんな気持ちになったかご想像ください。翌日,証人たち全員は王国会館の焼け跡に集まって集会を開きました。初めの賛美の歌をうたう時,聞こえてきたのはレコードの伴奏と聴衆のすすり泣きでした。司会者でさえ涙をこらえることができませんでした。研究中も,司会者やほかの人たちのすすり泣きがとぎれては聞こえしていました。祈りのあと,皆は家に帰って寝ました。あるいは眠ろうと努めました。
しかし,特別開拓者のひとり,アギ・ゲノ兄弟は眠ることができませんでした。その村はほどなくして開かれる大会の開催地になるはずでしたが,会場がありません。それを心配したゲノ兄弟は皆を呼び集め,新たに王国会館を建てるのはどうかと相談しました。次の日から仕事に掛かってもよい,と全員が答えました。
それを聞いて,かつて大工だったその兄弟は,丸太,屋根をふく草,壁にする竹を集めるために男女子供を組織しました。以前の会館が燃えてしまってからわずか2週間で,同じ土地にもっと大きくて立派な会館が建ったのです。それはエホバの賛美となり,また,反対者を含む通行人の驚きとなりました。
予定されていた巡回大会はその会館で記念式に先だって開かれ,185人が出席し,17人がバプテスマを受けました。続いて行なわれた記念式には138人が出席しました。ゴヴィゴヴィ会衆に交わるエホバの民のすべては,反対にめげずに弟子を作る業を続ける決意でいます。
王国伝道の業を行ない続けた結果,1975年に,このミルネベイ州のさらに別の土地で発展が見られました。長老のマイナキ・トクワイマイ兄弟と妻のグウェンはヴァクタという小さな島の自分たちの家に引っ越しました。その島は,パプア・ニューギニアの東端から約160㌔北にあり,トロブリアンド諸島の一つの島です。一年たちましたが,その二人から支部事務所に何の通信もありませんでした。二人は霊的にどうなっていたでしょうか。巡回監督のスタンフォード兄弟は二人が「霊的に健康」なことを知りました。トクワイマイ兄弟姉妹は幾人かの親族からつまはじきにされましたが,機会を捕らえて他の人々に良いたよりを伝えていたのです。支部事務所は,二人の一年間分の奉仕報告をその時一度に受け取りました。
前途には多くの業がある
神の王国を知らせる業は,世界のこの地域で1951年以来どのように発展してきたでしょうか。初期には,オーストラリア,カナダ,アメリカ,ドイツ,
英国およびニュージーランドの兄弟姉妹たちがここに来て奉仕しました。それらの兄弟たちが監督というおもな責任を担わねばならなかったのです。しかしながら,現在,会衆と孤立した群れが128あり,226人の長老と218人の奉仕のしもべがいますが,そのうちの大半は原住民の兄弟たちです。実際,原住民の兄弟が少なからず巡回監督に任命されています。振り返ってみると,ソロモン諸島およびパプア・ニューギニアの本島やマヌス島,ニューブリテン島,ニューアイルランド島,北ソロモン諸島における王国の業を豊かに祝福してくださったことに対してエホバに感謝せずにはいられません。1951年にたった二人しかいなかった伝道者が,1977奉仕年度には2,096人という王国宣明者の最高数に達したのです。それら王国宣明者たちの努力とエホバの祝福により,同年の記念式には7,491人が集まりました。
なすべき業はまだたくさんあります。(コリント第一 15:58)ほんの6年前の1971年に,この地域の人口のほぼ9割の人は証言を聞いたことがありませんでした。その後事情は大いに改善され,恐らく150万人余りの人が良いたよりの伝道を相当程度受けていますが,なすべきことはまだたくさんあります。人口285万408人の46%に当たる130万人ほどの人に良いたよりを伝道する必要があるのです。したがって,「エホバ自ら王となられた」というたよりに『喜ぶ』よう,ここの多くの島の住民を援助する業に引き続きいそしんでゆきたいと思います。―詩 97:1。
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絵文字で聖書の真理を教えるジョン・カットフォース
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ポートモレスビーにあるエホバの証人の大会ホール