フィリピン諸島
フィリピン諸島
中国大陸の南方,太平洋上1,854㌔にわたって真珠のように並んでいるのは,フィリピン共和国をなす7,083の島々です。フィリピン諸島の多数の島は日本ほど大きくありませんが,大英国ほど小さくもありません。群島の海岸線をつないだ長さは,アメリカ合衆国の海岸線の優に2倍はあります。30を超す良港のうち最も際立っているのはマニラ湾で,その海岸線は160㌔に及びます。マニラ湾が,アジアで有数の自然の良港であるとする人は少なくありません。
フィリピン諸島は赤道のすぐ北にあるので,気候は熱帯性ですが,海から心地よい風が吹くため,年平均気温は摂氏26度から29度です。高温多湿の気候に加えて雨量が多いので,熱帯性の植物が生い茂り,完全な不毛地帯はありません。どの島も岩の多い山地です。この群島は実は沈下した山脈の海面に出ている部分なのです。人口の大半は沿岸の平野部や,肥よくな山間に住んでいます。フィリピン諸島は太平洋を囲む火山帯に含まれて
いるので,活火山が幾つかあります。そのうちで最も畏怖の念を起こさせるのはマヨン山で,人によってこの山は世界で一番美しい円錐状火山であるとされています。この国は地理的に三つの主な部分,すなわち,ルソン島,ビサヤ諸島,ミンダナオ島に分けられます。北に位置するルソン島は最も大きく,その南東部は“しっぽ”のように細長くなっています。次に大きいのは南のミンダナオ島で,その二つの島にはさまれているのがビサヤ諸島です。
フィリピン諸島をなすこれらの美しい島々に4,200万人のフィリピン人が住んでいます。フィリピン人は主としてマレー人の血を引いており,親しみ深く,外向的また社交的で,ユーモアを解する人々です。そして,考えられるほとんどどんな事柄についても話したり意見を交換したりするのが好きです。生に対する彼らの関心は,音楽と踊りの好きなことに表われています。家族は非常に固く結ばれていますが,フィリピン人は見知らぬ人をも快く受け入れる人たちで,近所の人や訪問者をいつでも迎え入れます。都市部の外の農村地帯の生活は今でものんびりしています。人々のこうした性格は,フィリピン諸島で神の真理の音信が急速に広まったこととあながち無関係ではありません。
回教徒のマレー人がフィリピンへ移って来たので,西暦16世紀までにこの国の多くの地方で回教が優勢になっていました。ところが,スペインが占領し,カトリックが導入されて非常に広まったため,現在人口の83%はローマ・カトリックの信徒であると唱えています。アメリカ合衆国の援助の下に起きた1898年のフィリピンの革命で立ち退くまで,スペインは300年余りここを支配しました。後にフィリピン人は政府を作りましたが,アメリカはそれを承認しませんでした。1898年12月10日にパリで調印されたスペインとの平和協定により,フィリピンはアメリカに譲渡されたのです。こうしてこの国は一つの植民地支配者から別の植民地支配者の手に移りました。
アメリカの支配によって,英語が話されるようになり,また,宗教に関して比較的自由な気風が持ち込まれました。こうした事柄は,20世紀の初頭に聖書の真理の種を植え育てる業に大きな影響を及ぼさないはずはありませんでした。フィリピンではそれまで87の言語や方言が使われていましたが,それらに加えて,英語が教育と商業の分野で用いられるようになり,それは今日まで続いています。したがって,今のフィリピン人が英語の外に一つかそれ以上の言葉を話すのは普通のことであり,それによって様々な人種間の意思の疎通がなされているのです。
王国の音信がフィリピン諸島に伝わる
このようなわけで,1912年にマニラを訪れた著名なアメリカ人の宗教家は,フィリピン人が大部分を占める聴衆に向かって英語で講演をすることができました。講演者は,その時世界一周の講演旅行をしていた,ものみの塔聖書冊子協会の会長,チャールズ・T・ラッセルでした。ラッセルは1912年1月14日,日曜日に,マニラ・グランドオペラハウスで「死者はどこにいるか」と題する講演をしました。それによって,王国の音信は初めてフィリピンに伝わり,同国におけるエホバの民の現代の歴史が始まりました。
ラッセル兄弟とその同行者らが到着する以前に大々的な宣伝が行なわれていました。1月8日と11日と13日付の「マニラ・タイムズ」紙に掲載された有料広告記事は講演に対する関心を大いに高めました。ところが,幾つかの新聞はラッセル兄弟の評判を傷つけるような記事を載せたのです。それらの記事は,「ブルックリン・イーグル」その他のアメリカの新聞が掲げた偽りの非難を基にして書かれたに違いありません。ある新聞は,ラッセル兄弟が金もうけをしているとか,彼が「収賄者」で,無知な人々の熱烈な信仰心を利用している巡回説教師であるなどと書きたてました。ラッセル兄弟の一行は予定通りに来なかったという,偽りの報道をした新聞もありました。
こうした不利な報道によって,講演に対する関心は薄れたわけではありません。むしろ,関心はかき立てられたようです。それで千名ほどの人が出席しました。その集まりで,用紙に住所と名前を書けば文書を無料で送ってもらえることが発表されました。
オペラハウスでラッセル兄弟の紹介に当たったのは,外ならぬ,当時フィリピンに駐とんしていた2万人のアメリカ兵の司令官であったJ・フランクリン・ベル少将でした。それで,フィリピン「フリー・プレス」紙はその後の記事の中で次のように述べました。「ベル少将やホール将軍(10年前にフィリピンに住んでいた人で,ラッセル氏の同行者の一人)のような人物がラッセル師とその布教活動に関係しているのであれば,その活動に何か非常に悪い点があるとは言えない」。
フィリピンにおけるこの最初の,良いたよりの伝道が,マニラの人々に強い影響を与えたことは間違いありません。その講演のことは,あらゆる種類の人々の間で話題になったのです。また,配布された文書や講演そのものは真理の種をまき,強力な証言となりました。それはフィリピンのエホバの民の歴史にとってふさわしい出発でした。
1920年代には個別的な接触が見られた
ラッセル兄弟の訪問後,協会の代表者として次にフィリピンへ来たのはH・ティニー兄弟でした。ティニー兄弟はフィリピンで宣教奉仕をするため,1922年か1923年にカナダのブリチッシュコロンビア州のバンクーバーをたちました。一年ほど勤勉に奉仕して,多くの文書を配布し,マニラに聖書研究会を組織しましたが,病気のためにやむを得ず帰国しました。聖書研究会はフィリピンの人たちによって引き続き開かれ,それによって芽生えた関心は明らかに高まってゆきました。どうしてそう言えるのかというと,1920年代の半ばまでに,ペトロニロ・サラザルという名の人がニューヨークの協会の本部から文書を定期的に受け取って,それを配布していました。マニラ市のサンマルセリーノ通りにあったその人の家で聖書研究会が毎週開かれ,家の外には国際聖書研究者協会の集会場所であることを知らせる看板が掲げられていました。その当時から1930年代の初めにかけて10名ほどの人たちが毎週開かれる研究に出席しました。イエス・キリストの死の記念式も毎年祝われていたのです。
しばらくの間フィリピンで勤務することを命ぜられたアメリカの軍人(もしくはその親族)を通しても,エホバの民とその音信に接する機会が開かれました。陸軍将校の母親で,80歳位のある高齢の姉妹はフィリピンで病気になり,コレギドー島のフォートミルズにあった米軍の陸軍病院で治療を受けました。フィリピン人の看護婦は,その高齢の婦人が聖書から話すことに関心を持ちました。退院後,姉妹はその看護婦および外の5人ほどの人たちと週2度聖書研究を行ない,その集まりを「親友クラブ」と呼びました。
高齢の姉妹,アニー・D・バレットがアメリカへ帰ってしまうと,その看護婦は聖書研究者(エホバの証人はそう呼ばれていた)について何も耳にしなくなりました。しかし,1932年にランパート夫人というアメリカ人の患者が「自由」という小冊子と「神のたて琴」と題する本をくれました。その文書を読み終えないうちに,看護婦は驚いてしまいました。サタンが偽りの宗教を用いて人々の思いをくらましていると説明されていたからです。それで,従軍牧師とそのことを話し合いました。牧師はアメリカの聖書研究者たちのことを知っていて,彼らは厳しい迫害に遭っても増加していると話してくれました。また,『アメリカ全国で真のクリスチャンはあの人たちを除いて外にいない』と言ったのです。その言葉に励まされた看護婦は,アメリカ陸軍の軍曹だった,ランパート姉妹の夫君を通じて協会の書籍を3組注文し,それらを受け取り次第友人に配りました。
その看護婦,すなわちプリフィカシオン・ベネットは後にコレギドーの
陸軍病院をやめ,やがてマニラにあった協会の支部と連絡を取りました。そして,1935年に開拓者になり,その後10年間ルソン島とダバオ市で活発に真理を宣べ伝えました。ベネット姉妹は1977年5月に亡くなるまで開拓者として忠実に奉仕し続けました。組織的な業が始まる
初期に真理を知った人としてもう一人,ヴァン・ボリンというアメリカの軍人がいました。ボリンは職務上の旅行中,中国の上海<シャンハイ>にいる時,ごみ箱の中に「死者はどこにいるか」と題する小冊子があるのを見つけました。それは1932年のことです。その小冊子は,ボリンの上司が捨てたものでした。中尉はアメリカの親族からそれを送られたのですが,関心がなくて捨てたのです。後に,その中尉は,「政府」という本と「王国は世界の希望」という小冊子を受け取りましたが,それをヴァン・ボリンに喜んで譲りました。その後同じ年に,ヴァン・ボリンの連隊はマニラの基地にもどったので,ボリンはさっそくニューヨークのブルックリンのものみの塔協会に手紙を書き,文書を注文するとともにフィリピンで連絡の取れる人を教えてほしいと頼みました。協会はコレギドーのランパート軍曹の住所を教えてくれましたが,ボリンが連絡を取ろうとした時にはランパート一家はすでにフィリピンを去ったあとでした。
ヴァン・ボリンは受け取った書籍を引き続き読んでいました。そんなある日,マニラのKZRM放送局のラジオ番組を聞いていると,ものみの塔協会の業についての短い知らせと協会の文書を読むようにとの勧めが放送されたのです。リアルタド通りにある連絡先の紹介もなされました。そこに行くとすぐ,ボリンはものみの塔の代表者と会うことができ,エホバの民と交わるようになりました。当時,リアルタド通りで開かれていた集会の外に,マニラ地区の多くの場所で聖書の公開講演が催されていました。
そのころ,もう一人のものみの塔の代表者がフィリピンへ向かっていました。それは,ジョセフ・ドス・サントスというポルトガル系のアメリカ人で,1929年からハワイで開拓者をしていた人でした。サントスは,途中の大きな都市で王国の音信を伝えたり文書を配布したりしながら世界一周をしようと,1933年に「グレート・ノーザン」という汽船に乗ってハワイをたちました。幾らかの文書を携えて行きましたが,マニラで用いる文書を同市あてに送ってもらう手配もしました。ところが,船が横浜に着くと,持っていた文書全部を日本の当局者に没収されてしまったのです。それは明らかに,ドス・サントス兄弟と同じ船に乗っていた牧師たちが,船の到着前に日本の当局者に電報を打ち,兄弟を共産主義者であると通報したからでした。
共産主義者であるというぬれぎぬはマニラまでつきまとって来ました。マニラに着くやいなや,関税局に呼び出されたのです。関税局は協会の書籍を検閲することを望んでいました。フィリピンの共産党は1930年の11月に正式に結成され,政府は党員の疑いのある人々をもれなく監視していました。関税局長は,1週間で1冊の書籍を読み,それが共産主義の文書でなくて宗教的な文書であることを納得した様子でした。ところが,それから数か月して,情報部は私服刑事に,証言活動をするドス・サントス兄弟の跡をつけさせました。また,税関の弁護士は,兄弟の活動が共産主義の活動かどうかを見るために,自ら家庭聖書研究を申し込むことさえしました。結局,当局者はエホバの証人の業が純粋にキリスト教の活動であることを得心したので,ドス・サントス兄弟は,すでに存在していた10人ほどの兄弟たちからなる群れの集会に自由に参加し,マニラ市内とその周辺で証言することができるようになりました。
支部事務所の設立
ブラジルへ行って世界を一周しようというドス・サントス兄弟の計画は,ものみの塔聖書冊子協会のジョセフ・F・ラザフォード会長の手紙で急きょ変更になりました。その手紙は,フィリピンにおける王国伝道の業を監督し,協会の支部事務所を設立することを同兄弟に依頼するものだったのです。サントス兄弟はそれを喜んで引き受け,マニラ市のサンタ・クルスのリザル街1132番地に場所を借りて最初の支部事務所としました。こうして,1934年6月1日からフィリピン支部はその機能を開始したのです。
支部事務所の設立に伴い,集会と野外奉仕はもっと組織的になり,英語の「ものみの塔」誌の研究はドス・サントス兄弟によって毎週日曜日の夜に司会されました。後に,タガログ語による集会も金曜日の夜に行なわれるようになりました。その集会には,「王国は世界の希望」とか「王国へ逃れよ」,「危機」および「墓のかなたへ」といった小冊子の,すでにあったタガログ語版が用いられました。マニラ地区全域の兄弟たちがその一つの集会場所に集まりました。当時,マニラ市は今ほど人口が多くなく,交通の便もよかったので,市内を行き来することはたいへんなことではありませんでした。トランビア,すなわち路面電車は支部の前を通っていましたし,電車賃はわずか6センタボ(当時の米貨で3セント)でした。それほど遠くなければ,わずか10センタボで小型二輪ほろ馬車が使えました。また,節約したいなら,2センタボ(米貨の1セント)でカレテラ(馬車)に
乗れました。あるいは歩くこともできました。兄弟たちはよくそうしたものです。しかしながら,その小さな群れは集まって聖書研究をしていただけではありません。ドス・サントス兄弟は支部の仕事をするかたわら,毎日の半分を戸別の証言活動に当て,他の人々に良い模範を示しました。サントス兄弟の証言を通して初めに真理を聞いた人々の中に,アガスティン・ダグダグとナルシソ・サムソンがいました。この二人は今でも忠実にエホバに奉仕しています。
そのころ,証言には証言カードが使われていました。家の人にそれを読んでもらってから,文書を提供したのです。その熱意ゆえに,ほんの20名ばかりの王国宣明者たちは1934年だけで合計2万3,405冊の書籍と小冊子を配布しました。
さらに,新しい出版物が発行された時,それが政府の高官や公共の図書館に送られ,良い結果がありました。実際,第二次大戦中に「地帯のしもべ」として奉仕した人たちのうち二人は図書館で借りた文書を通して真理を知ったのです。フルゲンシオ・デ・ヘソスはマニラの国立図書館から「人々を分ける」という小冊子と「神の救い」と題する本を借り,本に押してあった支部の住所のスタンプから支部と連絡を取りました。マニラから100㌔あまり離れたカバナツアン市で学校の教師をしていたサルバドー・リワグは,同市にある国立図書館の支所で「創造」という本を見ました。その人はそれまでにも「死者はどこにいるか」という小冊子を求めたことがあり,それによって宗教的迷信や悪霊の影響から自由になっていました。リワグは毎晩悪霊に悩まされ,そのために睡眠不足になって健康を害していたのです。ですから,「創造」の本とその表紙の裏に押してあった住所のスタンプを見た時,ぜひもっと学びたいという気持ちになって,すぐマニラへ行き,リザル街の支部を捜し当てました。そして,手に入る書籍を全部求め,「ものみの塔」誌と「黄金時代」誌(「目ざめよ!」誌の前身)を予約しました。1934年10月,リワグ兄弟は良いたよりの全時間の宣明者となるために教師の職をやめました。その全時間奉仕は今日まで続いており,同兄弟は現在ケソン・シチーのベテルで奉仕しています。
支部がまだ揺らん期にあった時,神のしもべたちは神の組織に対する忠節を試みられました。ある人々はドス・サントス兄弟が支部の責任者に任命されたことに腹を立て,他の兄弟たちから分かれて別に集会を開きました。1930年代の末に,支部のグループから少なくとも二つのグループが分かれて,「エホバの証人」であると称しました。そのうちの一方はものみの塔ベテルおよび伝道協会という組織をフィリピンに作りました。それは
混乱を招きましたが,神は真理を誠実に求める人々がそのためにつまずくのをお許しになりませんでした。エホバに忠節な人々は性格の違いから来る争いに巻き込まれないようにして,神の組織にとどまりました。興味深いことに,分派を起こした者たちは基本的には協会の出版物に基づいて講演や討議を行なったので,彼らの講演や討議を聞き,それから神の真のしもべたちと接して,今でも忠節にエホバに仕えている人々は少なくありません。1935年から1939年にわたる,ルソン島での拡大
最初,業はマニラ市内とその周辺に限られていましたが,郡部へ拡大する必要のあることが間もなく明らかになりました。初期の開拓者であるパブロ・バウティスタは1933年と1934年にルソン島の南部と中部で幾らか業を行ないましたが,マニラの外で拡大が見られるようになったのは主として1935年以降のことです。支部の責任者は,フィリピンでまだ真理が伝えられていない地域で証言をするため,できる人すべてが開拓奉仕を始めるように励ましました。
当時開拓者になった多くの人はバプテスマを受けていませんでした。支部の責任者のドス・サントス兄弟でさえバプテスマを受けたのは1935年10月でした。1936年に「富」と題する本が発表されて初めて,フィリピンでバプテスマの必要性に適切な強調が置かれるようになったのです。その本の121ページにははっきりとこう書かれていました。『素直に水に浸されるという行為は従順さの表われであり,人が自分を主の御手に完全に委ねていることを示すものである。したがって,神の意志を行なうことに同意した人すべてにとって,バプテスマを受けることは必要かつ適切なことである』。
開拓者の群れが組織され,まず,ルソン島の各地に派遣されました。それらの開拓者の中には,バウティスタ家族,ラクソン家族,サルバドー・リワグ兄弟,ホゼ・メディナ兄弟,ヴァージニオ・クルス兄弟,ベンジャミン・サンパナ兄弟,エルヴィラ・アリンソド姉妹およびプリフィカシオン・ベネット姉妹がいました。そのころ,人々の関心を高めることよりも,戸別の訪問で文書を配布することに重点が置かれていましたから,マニラから広がった開拓者たちはたちまち区域を網らしました。とはいえ,家の人が羊のような性質を示す場合,兄弟たちは何時間かその家にとどまって,神のみ言葉から真理を教えました。
真理を学び,良いたよりを宣明する必要の大きいことを悟った人々で開拓者になる人々が外にも出てきたので,1930年代の末に開拓者の数は急激
に増加しました。イサベロ・タエザはそうした人の一人でした。タエザによれば,ルソン島北部で働いた同兄弟の群れの開拓者たちは,毎月,要求されていた150時間をはるかに上回る250時間ないし280時間も奉仕したということです。初期の開拓者の大半は真理に新しい人々でしたが,彼らの真心からの献身の表われを,タエザ兄弟はこう語っています。「わたしたちはアブラ川沿いやボントク山脈のあちらこちらを証言しながら一週間に平均80㌔から100㌔歩きました」。山岳部落には皮をむいた蛙など,開拓者たちにとっては珍しいものを食べる人たちがいたので,王国のたよりの全時間宣明者たちは食料としてしばしば糖蜜を携えていきました。資金がほとんど尽きた時,家族を持っていたタエザ兄弟は開拓奉仕を続けるために農地や持ち物の一部を売りました。開拓者たちは行く先々で,1912年にフィリピンを訪れたラッセル兄弟とその同行者たちが観察したのと同様の,神のみ言葉を学ぶ強い熱意を目にしました。1930年代に再訪問はあまり行なわれませんでしたが,大量の文書が配布された結果,ルソン島の津々浦々に真理の種が植えられました。個人的な世話がなされなかったにもかかわらず,真理の種の多くは霊的に飢えた人々の心の中で実を結んだのです。
そうした人の中に,バギオ市で建設工事の監督をしていた人がいました。その人の妻が開拓者から「富」の本と数冊の小冊子を求めたのです。
夫はすぐにその本を読み,妻と夜を徹して話し合った末,二人とも本に書いてあった真理を受け入れました。夫はダングワ運送会社の同僚に話すようになり,ある人たちは耳を傾けてエホバの証人になりました。「子供たち」と題する本が発行された時,工事の監督はそれを手に入れ,自分の子供たちを教えるのに用いました。その人は兄弟に会ったこともなく,クリスチャンの集会に一度も出席したことがありませんでしたが,4年の間,他の人々と聖書を研究したり,宗教について話し合ったりしていました。その人はアルフレッド・エステパ兄弟です。同兄弟は後に他の兄弟と交わり,戦争で家族を失ったあと,1949年にケソン・シチーのベテルに入りました。そして今でもベテルで忠実に奉仕しています。
それまで2年余り,文書と証言カードで奉仕していた開拓者たちは1937年にもう一つの備えを受け取りました。その年にラザフォード兄弟の聖書講演のレコードが使われるようになったのです。蓄音機は20ペソ(約2,500円)で購入することができ,毎週1ペソずつ分割して払うこともできました。それに加えて,マニラの支部は比較的長い講演のレコードを一般の人々に聞かせるために再生録音機を購入しました。ドス・サントス兄弟は,再生録音機を積んで宣伝カーに使えるパネル・トラックを買いました。
1939年までに2台の音響装置と24台の蓄音機がフィリピン全土で使用されていました。ビサヤ諸島とミンダナオ島へ
ルソン島でいったん業が開始すると,サルバドー・リワグ兄弟とホゼ・メディナ兄弟はビサヤ諸島とミンダナオ島に初めて王国の音信を伝えるように割り当てられました。二人はセブ市から始めました。そこの学生センターの建物の1階で証言をしていると,上の階で礼拝を終えてきたばかりの,長老派教会の牧師が兄弟たちと激しく議論し,とうとう怒って二人のかばんを外に投げました。その牧師の“羊たち”の一人で,フロレンシオ・ウドグという名前の男の人はそれを見ていました。また,開拓者たちの聖書に基づく論議に注目しました。それで,開拓者たちに近づいて,「だれが世を支配するか」と題する小冊子を求めました。後には,開拓者が持っていた書籍全部を求めたのです。開拓者たちは他の土地へ移って行ったので,1935年の6月までフロレンシオ・ウドグはたった一人で,バプテスマを受けていない伝道者として奉仕しました。フロレンシオは支部に手紙を書いて指示を求め,また,「会報」(現在の「わたしたちの王国奉仕」)を送ってもらっていました。当時,関心のある人はほんのわずかしかいませんでしたが,フロレンシオは小さな群れの奉仕の司会者に任命されました。
セブ市をあとにして,二人の開拓者はネグロス島のバコロド市へ行きました。そこで,世俗の仕事のためにマニラから引っ越していたナルシソ・サムソン兄弟と偶然に会いました。バコロド市で3人の兄弟は1935年6月3日早朝(アメリカでは6月2日)を待ちました。アメリカの首都ワシントンから直接に電波で送られてくるラザフォード兄弟の「政府」という講演を聞くためです。講演がはっきり聞こえたので3人は感激しました。マニラでは,支部の責任者と他の兄弟たちがその放送を聞くために放送局へ行きましたが,空電妨害ではっきり聞けませんでした。その朝,ルソン島のサンパブロ市でも別の開拓者のグループが放送を聞きました。それによってそのころフィリピンにほんのわずかしかいなかった兄弟たちが,全世界のエホバの民との結合をいっそう強く感じたに違いありません。
ネグロス島で数か月奉仕してから,開拓者たちは南のミンダナオ島へ移り,初めてサンボアンガ市に行きました。フィリピン警察隊に入って間もないコンラド・タグランが開拓者から数冊の書籍を求めました。ところが,ダクランは連絡を失い,その後開拓者を見つけることができませんでした。それで,彼は,開拓者たちがマニラの事務所へ郵便物を出すに違いない
と考え,郵便局の近くに立って開拓者たちが来るのを待ちました。数日後,ついに開拓者たちがやって来ました。ダクランはすぐに聖書を学ぶ援助を求めたのです。3か月間研究して,その人はサンボアンガ川でバプテスマを受け,間もなくビサヤ諸島の開拓者の群れに加わりました。第二次世界大戦中は,「地帯のしもべ」として,真理を広める上で重要な働きをしました。証言の拡大に役立ったこと
1930年代中,兄弟たちは,文書やレコードを使って戸別に証言する外,別の方法を用いて真理をフィリピン全土に宣べ伝えました。すなわち公開討論会を利用したのです。そのころのフィリピン人は公開討論会に大へん関心を持っていて,ほとんどどんな人でも公共広場で,特に宗教について意見を述べることができました。そしてかなり大勢の人々が聞きに集まったのです。ですから,兄弟たちは,後で自由な質疑応答の機会のある公開講演を行なったものです。時には他の宗教の指導者たちと正式な討論会を取り決めることもありました。もっとも支部はそれを思いとどまらせました。聖書の公開討論会は人々を真理に引き寄せる上で大いに貢献しました。今日エホバの証人になっている人々の多くは,公開討論もしくは討議で初めて王国の音信を聞いています。
例えば,サンボアンガ・デル・サーのある討論会で,リワグ兄弟はその土地の牧師と討論したのですが,その時の時計係は真理に関心を持ち,現在エホバの証人になっています。1940年代に討論会の形式はなくなりましたが,公共の広場や公園で話し合いをするというならわしは1950年代までまだ一般に見られました。したがって,フィリピンのエホバの民は王国を確実に知らせることのできるその方法を十分に活用しました。より多くの人に良いたよりを伝える上で大いに役立った,もう一つのことは,さらに多くの文書が土地の言葉で発行されるようになったことでした。
ですから,1935年から1939年にかけては,フィリピンの少数の王国宣明者が精力的に活動した時期であったことは容易にうなずけます。その5年間に,フィリピン諸島の各地の人々にほぼ50万冊の書籍と小冊子が配布されました。1939年までに14の会衆が設立され,159人の伝道者が野外奉仕を報告していました。ほとんど例外なく,文字通りあらゆる地方である程度まで王国の証言がなされ,将来大収穫を得るための種が植えられたのです。
戦雲が深まっていたとき,業は拡大した
フィリピンのエホバの証人の歴史上喜ばしい出来事が1940年3月21日と
22日にマニラ・グランド・オペラハウスでありました。1912年にラッセル兄弟が使用したその小さな会場において,フィリピンで最初のエホバの民の大会が開かれたのです。兄弟たちは全国各地から出席し,「政府と平和」と題する公開講演の宣伝に参加しました。その講演には,1939年6月25日にニューヨーク市のマジソン・スクウェア・ガーデンでラザフォード兄弟が行なった講演のレコードを使うことになっていました。プラカードをさげで情報行進をすることにより,マニラの市民に印象的な証言がなされました。兄弟たちは,前に「宗教はわなであり,まやかしである」という言葉,そして後に「神と王なるキリストに仕えて生きなさい」という言葉の書かれたプラカードを掛け,6㍍から9㍍の間隔を置いて歩いたのです。3月22日にレコードで行なわれた「政府と平和」と題する講演には,300人を超える人々が出席し,熱心に耳を傾けました。
その最初の大会に続いて,業をさらに効果的に行なうために9人の開拓者が「地帯のしもべ」に任命されました。それは今日の巡回監督に当たります。もっとも,当時の「地帯のしもべ」は広範な地域を旅行しました。地帯のしもべの訪問は確かに時宜にかなっていました。というのは,彼らはその後の危機の時代に重要な役割を果たすことになっていたからです。
地帯のしもべたちがそれぞれの「地帯」で組織的に奉仕したので,伝道の活動はそれまでよりもずっと迅速かつ円滑に進みました。1940年に九つの会衆が,また1941年には八つの会衆が新たに設立されて,その年会衆は合計31になり,伝道者の数は373名でした。1940年と1941年に30万冊余りの書籍と小冊子が配布され,10万8,548人がラザフォード兄弟の講演のレコードを聞きました。1941年4月11日の記念式には621人が出席し,16人が象徴物にあずかりました。
マニラのリザル街の支部事務所は手狭になったので,1940年1月に同じアパートの別の部屋を借りてやや拡張されました。しかし,それもすぐに狭くなりました。当時,ベテルの家に住んでいたのは,ドス・サントス兄弟とその妻および二人の子供たちだけで,外部から他の兄弟たちが時おり援助に来ていました。1940年の末ごろ,もっと大きな2階建ての家が4,500ペソ(約50万円)で購入されました。その資金のほぼ半分は支部の監督が払い,残りは関心を持つあるドイツ人が貸付けてくれました。マニラのサンタクルス区ナティヴィダド通りM番地1736号にあったその屋敷は広々としていて風通しがよく,本通りのリザル街の騒音が聞こえたりほこりが来たりしませんでした。地下は文書の倉庫に使われ,事務所と居室は2階にありました。サラつまり広い応接間はマニラの「会」の集会場所に用いられました。―詩 68:11,欽定訳(英文)。
その屋敷が購入されて間もなく,ベテルに新しい成員が一人増えました。それは南部地方で地帯のしもべとして奉仕していたナルシソ・デラヴィン兄弟です。1941年に2人の姉妹がベテルに入り,ベテルの家族は,ドス・サントス兄弟姉妹の2人の子供を除いて合計5人になりました。それらの奉仕者はだれも手当を求めませんでした。というのは,野外奉仕で文書を配布して受け取った寄付のお金で十分に必要をまかなえたからです。そのころ,マニラの物価は非常に安く,例えば,卵の目玉焼きとパンとコーヒーの朝食が10センタボ(米貨で5セント)もしませんでした。フィリピンのベテル奉仕者が個人の必要をまかなうために少額の手当を受け取るようになったのは第二次世界大戦後のことです。
しかし,そうした霊的な発展と繁栄のさ中に,戦争の脅威が感じられ始めたのです。第二次世界大戦はすでにヨーロッパで荒れ狂っており,フィリピンは1941年7月までに日本帝国の軍隊によって包囲されたも同然の状態になっていました。敵に対する恐怖心のために,ある人々はエホバの民がスパイではないか,あるいは共産主義者ではないかと疑いました。それゆえ,フィリピンに少数いた兄弟たちに圧力が掛かったのです。
ラユニオンのバラオアンで数人の開拓者が,その町で良いたよりを伝道する許可を得なかったために逮捕されました。他の開拓者たちが,その不公正な処置を言論と宗教の自由を奪うものであるとして抗議すると,その人たちも逮捕され,共産主義者であると訴えられました。兄弟たちは「裁判の手続」という協会の小冊子を使って自分たちを弁護しましたが,1週間後にラユニオンのサンフェルナンドにある地方刑務所に移されました。自由を愛するアメリカ人の弁護士が無料で弁護に当たってくれたので,兄弟たちは1か月後に釈放され,無罪であると決定されました。
別の地方で兄弟たちは「第五列」であるとか枢軸国のスパイであるとか訴えられました。宗教関係の新聞はそれをあおり立て,協会の意図が人間の政府を弱め転覆することにあると偽って述べました。そうした不当な非難はルソン島に限らず,ミンダナオ島やビサヤ諸島でもなされました。しかも,それには時に身体的な虐待も伴ったのです。
エホバの証人の活動を調べていた情報部の職員は2回にわたって支部事務所を訪れました。その人たちは協会の文書を読んで,証人の業に政治との関係が何もなく純粋にキリスト教のものであることを認めました。そして一人の職員は支部の監督に,「あなたがたの業が国の役人に誤解された場合には,情報部に知らせてください」と言いました。
戦争が近づいたために国家主義の気運も高まり,公立や私立の学校で義務づけ
られた国旗敬礼は激しい議論の的になりました。早くも1939年にエホバの証人の子弟数人が,国旗敬礼をしなかったために放校されました。エホバの証人が宗教上の理由で国の象徴物を一切拝まないため,その事が問題になると,新聞は証人のことをしばしば大きく取り上げました。そしてついに,時の司法長官ホゼ・アバド・サントスの見解に基づき,国旗敬礼を義務づけるという回状が全校に送られたのです。アメリカの最高裁判所がゴビティス事件で1940年6月にエホバの証人を有罪としたことが,そうした処置に何らかの影響を与えたことは間違いありません。戦火はフィリピンに及ぶ
フィリピン時間で1941年12月8日の午前2時少し過ぎに日本の航空部隊がハワイの真珠湾を爆撃して,事態は頂点に達しました。数時間後にミンダナオ島南部のダバオ市が空襲に遭い,同じ日の正午に,ルソン島のクラークとイバにあった米軍基地が台湾を基地とした日本の飛行機に爆撃されました。戦火はフィリピンに及んだのです。
最初の空襲から2,3日して,協会のフィリピン支部はブルックリンの本部へ次のような電報を打ちました。「あいさつを送ります。業は停とん。兄弟たちは『哀しむものをなぐさめる』ことを決意!」 この言葉を最後に,フィリピン支部は終戦までニューヨークにある協会の本部との連絡を絶ちました。
真珠湾が爆撃されてから4日後の午前10時ごろ,フィリピン保安隊の2人の隊員がナティヴィダド通りM番地の支部に来て,尋問のために支部の監督を連行しました。悪らつな宗教分子が支部の監督は第五列の最たる者であると当局に偽って通報したのです。2,3時間後,その日支部にいた3人のフィリピンの兄弟も同じ隊員によって拘留されました。本署に着くとただちに,兄弟たちは一般の犯罪者と同様指紋を取られ,写真も撮られて,翌日尋問を受けました。その際,こうかつな質問には注意して直接答えようとしないと,殴打されることが少なくありませんでした。尋問がすむと,ナルシソ・デラヴィン兄弟,アガスティン・ダグダグ兄弟およびメルコー・マニナング兄弟の3人はアズカラガ通り(現在のC・M・レクト街)にあったオールド・ビリビド刑務所に投獄されたのです。支部の監督のドス・サントス兄弟はその時すでにそこに入っていました。もっとも,サントス兄弟は他の兄弟たちから隔離されていました。3人の兄弟たちは2日間食物を与えられませんでしたが,エングラシオ兄弟は食糧を持ってきてくれました。
後に,4人の兄弟全員は,マニラの南方約25㌔のリザル県ムンティンルプ
の国家刑務所へトラックで連れて行かれました。そこでも指紋が取られ,写真を写されました。また,頭の上の部分を十字にそられました。それは,国賊の印だったものと思われます。ドス・サントス兄弟は再び他の囚人から隔離され,日の光の差さない独房に入れられてそこから出ることを許されませんでした。デラヴィン兄弟,ダグダグ兄弟およびマニナング兄弟は,政府転覆を擁護する謀反運動のメンバーであるサクダリスタ数人とともに広い監房に入れられました。兄弟たちはその人たちに恐れることなく証言しました。1941年の12月末に,それ以後政府を支持し,持っていた政治的信念を撤回するなら,すべてのサクダリスタは釈放されるという発表がありました。3人の兄弟たちは,自分たちがエホバの証人であって政府の謀反者ではないから,撤回すべきものがない,ということを直ちに監守に話しました。そうした確固とした宣言の結果,兄弟たちはサクダリスタから分けられて比較的良い待遇を与えられ,その夜遅く,ドス・サントス兄弟とともに釈放されました。
マニラの北約200㌔のパンガシナン県サン・ファビアンに住んでいたペドロ・ナバロ兄弟ほか数人の兄弟たちは,野外奉仕で用いる文書を取りに自転車でマニラへ行く途中で,真珠湾が爆撃されたことを知りました。その帰り道,アメリカ軍(USAFFE ― 米国極東空軍)が道路や海岸に展開し,一般の人々は丘へ疎開しているのを見ました。兄弟たちもパンガシナンへ着くとすぐ,家族といっしょに家を離れて,同州のロボングの丘のサン・ジャシントへ行きました。
1941年12月14日,それらの兄弟たち17人が逮捕されました。そして,フィリピン軍の当局者から,兄弟たちが宣明している王国は日本政府のことか,また,エホバとは日本の神の名前かという質問を受けました。兄弟たちは,王国とは神の王国のことであり,エホバとは全宇宙の神のことであるとはっきり答えました。すると,陸軍軍曹は木の幹にアメリカとフィリピンの国旗を並べて広げ,ナバロ兄弟に,上半身裸になってひざまずき,両方の国旗にせっぷんするように命令しました。そして,ナバロ兄弟が立ったままでいると,他の兄弟たちの目の前で倒れるまで容赦なく殴打されたのです。命令されて立ち上がると,すぐにまた打ちのめされました。兄弟は日暮れから次の日の午前1時半まで,4人一組の兵隊に交代で殴られました。その間わずか数回小休止があっただけです。ナバロ兄弟はその虐待でろっ骨がはずれてしまいました。
兵士たちの思惑に反して,そうした残酷な仕打ちを見ても兄弟たちは恐れ
ませんでした。そして,彼らも妥協することを拒んだので,殴打されたり,火のついたたばこの先を押し当てられたり,指と指の間に弾丸をはさまれてからそれらの指をまとめて強く握られたりしました。翌日,17人の兄弟はマナオアグ共同墓地へ連れて行かれ,射殺すると言われました。しかし,射殺されず,そのかわりに,午前8時から午後3時まで熱帯の太陽が照りつける中に放置されたのです。その後再び将校の尋問を受けました。それから兄弟たちはダグパン市の刑務所へ連れて行かれ,2,3日後に釈放されました。しかし,それもほんのつかの間で,次の日には再逮捕されてパンガシナンのタユグの刑務所に入りました。虐待はさらに続きました。ナバロ兄弟とそのおじに当たる人は鎖でつながれ,公共広場でいつものように殴打されたのです。その後ついに証人たちは軍のトラックでマニラに輸送されました。そのころ日本軍はしばしば橋や高速道路を爆破していたので,空襲があると兵士は道路のわきへ避難したものです。しかし,兵士たちは兄弟たちをトラックの中に残し,銃を構えていました。兵士たちは兄弟たちが路上で爆撃されることを願っていたのです。が,兄弟たちは死にませんでした。そしてマニラへ着くとただちにUSAFFEの本部で取り調べを受けました。その結果罪が晴れて釈放されたのです。
自由の身になった証人たちはマニラに数日とどまって,兄弟たちと連絡を取ろうとしました。しかし,最初に支部へ行った時に,支部は閉まっていました。次の日にもう一度行くと,うれしいことに,ドス・サントス兄弟に会えたのです。サントス兄弟は国家刑務所から釈放されて到着したばかりでした。1941年12月26日,アメリカ軍はマニラを無防備都市と宣言しました。日本軍はすでに首都に向かって進軍しており,2,3日でマニラを完全に占拠する形勢でした。それを察知した支部の監督は,文書その他の物資をできるだけたくさん持ってパンガシナンへ帰るようナバロ兄弟に強く勧めました。ナバロ兄弟とその外の兄弟たちが無事に帰って来たので,サン・ジャシントの兄弟姉妹たちはほんとうに喜びました。兄弟たちは一人残らず殺されたと思っていたからです。
一方,マニラでは,日本が占領するのも時間の問題になっていたので,支部の監督は協会の利権を守る処置を取りました。外国人の持ち家が侵略軍に没収されることは間違いなかったので,ナティヴィダド通りM番地にあった支部の屋敷は売りに出されました。文書はマニラの大勢の兄弟の家に分散され,支部の記録は破棄されたのです。日本軍は1942年1月2日にマニラに入り,“敵国”人居留者は抑留のため全員直ちにサント・トマス
大学に出頭せよという告示のポスターを市内のいたる所にはりました。支部の監督がそのにわか作りの収容所に入ったのは1942年1月26日のことでした。彼は1945年3月13日まで,3年余りそこに入っていました。妻はフィリピン人だったので夫のように投獄されませんでした。投獄された当初,ドス・サントス兄弟は時々妻や他の証人たちの訪問を受けることができたので,その機会を利用して有益な助言を与えました。しかし,その後,収容所が軍部の管轄下に入ると,そうすることはできなくなりました。ある時,サントス兄弟は新しく協会の会長になったネイサン・H・ノア兄弟から手紙を受け取りました。それは,ラザフォード兄弟が1942年1月8日に亡くなったことを知らせるものでした。
日本の占領中も引き続き発展した
戦前,アメリカとフィリピンの連合軍によって苦難を受けた時も,その後日本のフィリピン占領に伴って迫害が加えられた時も,エホバの証人は厳正中立の立場を守りました。兄弟たちは1938年と1939年の「年鑑」から,ナチス・ドイツで迫害された兄弟たちが神への忠実を保っていることを読み,それが大きな励ましとなっていました。しかも,エホバのお取り計らいにより,戦火がフィリピンに及ぶ前に,「中立」と題する小冊子が兄弟たちの手に届いたのです。ですから,兄弟たちは,重なり合う,あるいはしばしば共存する幾つかの相反する勢力に面した時に聖書的な立場をよくわきまえていました。
支部の監督が投獄されたり,マニラの支部が閉鎖されても,王国の良いたよりの宣明は途絶えませんでした。また,エホバの民の増加が止まることもありませんでした。その困難な時期の間,任命された地帯のしもべたちは大体において割り当ての地域にとどまり,状況が許す限りできるだけ忠実に,ゆだねられた王国の関心事の世話をしたのです。
日本の占領下の暗い3年間(1942年-1945年)に見られた王国の業の着実な発展の跡をたどるうえで,フィリピンを次のように五つの地方に分けて考えていくのが良いでしょう。それぞれ特有の経験を持っているからです。(1)マニラを含む,ルソン島の中部と南部,(2)ルソン島北部,(3)ビサヤ諸島西部,(4)ミンダナオ島北部とビサヤ諸島東部,(5)ミンダナオ島南部。
ルソン島の中部と南部
日本の占領軍がいったんマニラに侵入すると,市内の生活は難しくなり,大勢の人が郡部へ疎開しました。兄弟の多くも,マニラから75㌔ほど北
にあるラグーナ県のバイという町の疎開地区へ引っ越しました。そこで兄弟たちはいっしょに生活しましたから,事実上,マニラの会(会衆)の大部分がバイ町に移ったことになったのです。その兄弟たちは入手できる最新の出版物を定期的に研究し,毎週日曜日には野外奉仕に参加して,バイの周辺の町や村を組織的に網らしました。マニラに近かったので,戦争前に兄弟たちの家に分散してあった文書を取りに行くことができました。それを証言活動で用い,文書の蓄えがなくなると,関心のある人に書籍を貸しました。こうして,バイから良いたよりが広められた結果,約20㌔離れたカランバ市マキリングに住むルビオという家族が良いたよりを聞き,間もなく一家全員が真理を受け入れてバプテスマを受けました。ルビオ家は大家族だったため,その家族でマキリングに一つの会衆が作られました。後に,日本の攻撃のためにバイが危険になると,兄弟たちはマキリングへ移り,ルビオ家の広い屋敷内に住まわせてもらいました。そしてそこから周りの地域,バタンガス県にまででかけて証言しました。夜明けまでに区域に着けるように,しばしば午前3時に家を出て,たいまつで道を照らして行ったのです。日本の警備隊かフィリピン人のゲリラに襲われる危険があったので,兄弟たちはお互いに離れ離れになることが少なくありませんでした。それで,兄弟たちは移動する時と家に帰る時に必ず人数を数えました。
しかし,戦争が起きた時に必ずしもすべての兄弟がマニラを離れたわけではありませんでした。ある兄弟たちは市内にとどまり,いろいろな家で研究の集会を開いて,可能な限り良いたよりを宣明し続けました。隣のパサイ市には,活発な伝道者の群れがあり,1943年にその人たちはパンパンガ県の証人たちを対象とした小規模の大会をさえ計画しました。
ルベン・ラカニラオという若い兄弟は,戦争中,マニラの北方,すなわちパンパンガとブラカンの中心をなす平野で地帯のしもべとして働くように割り当てられました。この兄弟は自分の家族を含む大勢の人が真理を学ぶのを助けました。「富」という本を読んで水によるバプテスマの大切さを知ると,それら新しい弟子たちは白い衣服を付け,王国の歌(ラカニラオ兄弟が作詩してこの世の歌のふしをつけたもの)をうたいながら浸礼を受けました。占領された最初の年にそのグループで50人がバプテスマを受け,その外,深い関心を示して兄弟たちと交わる人が50人いました。その地域に一つの会衆しかなかったので,マンディリ,バタサンおよびパンパンサバの三か所で交代に集会が開かれました。
そのころ,日本に抵抗するフクバラハップ運動が組織されました。フクバラハップ
とは“抗日人民義勇軍”という意味の,タガログ語のフクボン・バヤン・ラバン・サ・ハポンを簡略化したもので,略してフク団と呼ばれました。戦後もフク団はフィリピン政府を転覆させる活動を続け,そのため後に法益の剥奪処分を受けました。85人ほどの兄弟がある私宅に集まって研究している時に,そこからちょうど30㍍離れた所でフク団と日本の兵隊が激しい遭遇戦を始めたことがありました。兄弟たちは,逃げ隠れすればエホバへの信仰が欠けていることになると思って,家の中にじっとしていました。5時間にわたるその戦闘中,一般の人で流れ弾に当たって死んだ人が数人いましたが,兄弟たちは全員無傷でした。
証人は,日本に抵抗するフク団に参加するのを拒んだので,しばしば日本の味方ではないかと疑われました。フク団は兄弟たちをゲリラ戦に加わらせようと定期的な試みをしました。彼らが特に関心を持っていたのはラカニラオ兄弟でした。ラカニラオ兄弟は能弁で優れた組織力の持ち主だったからです。また,真理に入る前に心霊術や予言に手を染めたことがあったので,フク団から“隠れた知恵”があると思われていました。最初,彼らは組織内の高い地位を提供して兄弟を誘い込もうとしましたが,後には圧力を掛けました。しかし,ラカニラオ兄弟は中立の立場をしっかりと保ち,地帯のしもべとして引き続き兄弟たちに仕え,ルソン島の中部諸県の会衆を訪問して兄弟たちを強めました。
この兄弟は兄弟たちの益を図って,過去の「ものみの塔」誌の記事を定期的にパンパン語に翻訳しました。タイプされたり,手で書かれた翻訳の原稿はそれぞれの家族に貸し出されたのです。家の頭の人たちは分担して質問を用意し,それを研究の司会者に渡しました。日々の聖句は手元にある一番新しい「年鑑」から翻訳されました。各家庭では賛美の歌をうたってからそれを討議しました。また,ラカニラオ兄弟は協会の「子供たち」という本のパンパンゴ語の翻訳を少しずつ進めていました。14人の兄弟たちがチームを組んでラカニラオ兄弟を取り囲み,ラカニラオ兄弟が口頭で翻訳するのを書き留めたのです。同兄弟はフク団から望まれていましたから,その翻訳の仕事を秘密裏に行ないました。ある時など,すいか畑の真ん中の小屋で仕事をし,兄弟たちが外で見張りをしました。だれかがあたりにやって来ると,タイプライターをかごの底に入れてその上に他の物を置き,違うことをしているふりをしました。
兄弟たちの信仰を築き上げるような記事を選んで翻訳が行なわれたので,兄弟たちは直面する問題に対して霊的に十分強められました。捕らえ
られて調べられることは幾たびにも及び,フク団と関係のある親族が間に入ってくれたおかげで死を免れたということが少なくありませんでした。とはいえ,主宰監督だったアーマンド・サーミエント兄弟の場合は,捕らえられてさかさに木に掛けられ,ナイフを投げる的にされて死んだのです。ですから,同兄弟は,クリスチャンの中立の立場を守って死に至るまでエホバに忠実でした。危険な情況下にあっても,兄弟たちは時折“地帯の大会”に集まり合うことができました。1943年9月に,パンパンガ県カンダバのマンディリ村に集まりました。その時には,ブラカン県アンガットの大勢の兄弟たちの外,パサイ市やマニラ市の兄弟たちも招待されました。
こうして,ルソン島中部の兄弟たちは戦争中も強い信仰を保ち,活発でした。終戦後,ラカニラオ兄弟は支部の指導の下に引き続き兄弟たちを築き上げました。しかし,1945年7月9日のこと,フク団の一味がラカニラオ兄弟の家に押し入り,兄弟にピストルを突き付けて,自分たちといっしょにフィリピン政府と戦うように命令したのです。ラカニラオ兄弟がきっぱりと断わると,ベルドゥゴ(死刑執行人)は兄弟の実の兄弟姉妹たちの目の前で三つ数えてピストルを撃ちました。ラカニラオ兄弟は30分後に息を引き取りました。家族は,「前進せよ,死に至るまで」という王国の歌をうたって兄弟を慰めました。その忠実な兄弟は最期の時を,忠実であるよう家族を励ましたり,復活の確かな希望について話し合ったりして過ごしました。
1945年2月,アメリカ軍が到着し,マニラのサント・トマス大学の囚人は釈放されました。ドス・サントス兄弟はアメリカ軍から治療を受けた後,ついに1945年3月13日に釈放されました。収容された時体重が61㌔あったのが,釈放された時には36㌔しかありませんでした。収容の末期に刑務所内でどんな経験をしたか,サントス兄弟は次のように語っています。「最後の数か月間はひどい飢餓状態がありました。毎日塩味の付いた薄いかゆが一人に一杯ずつ支給されました。カモテの皮や種その他,庭で手に入る青草などどんなものでも飢えた人々の食物になりました。恐ろしいほどの空腹感を少しでも和らげるためにです」。
最初,エホバの証人で収容所にいたのはドス・サントス兄弟だけでしたが,1944年1月に,ヴァン・ボリン兄弟とその息子で20歳になるジョンの2人が入って来ました。ボリン兄弟はアメリカ軍を解雇され,1941年にフィリピンへもどりました。息子といっしょに開拓奉仕をすることを決意していたのです。ふたりはサンボアンガ市に任命されましたが,そこに
行って間もなく戦争になり,1942年5月,同市で日本軍に投獄されました。1944年にサント・トマス大学に移され,そこでドス・サントス兄弟に会ったのです。3人はいっしょに定期的に研究する取り決めを設けました。また,その年,収容所の中で記念式を祝いました。収容されている間,3人の兄弟たちはあらゆる機会を捕らえて他の囚人に真理を伝え,また,エホバ神への忠誠を保ちました。
ドス・サントス兄弟は,釈放されると直ちにマニラ市オログエッタ通りのある医師のアパートを一時的に借りて支部事務所にしました。そこで,各地方からやって来た兄弟たちと再会の喜びを分かち合ったのです。また,戦争中にルソン島の南部と中部で優れた業が行なわれたことを聞いて,ドス・サントス兄弟はたいへん喜びました。ルソン島北部の兄弟たちもサントス兄弟に会いにやって来ました。
ルソン島北部
占領されて間もないころ,ルソン島北部の兄弟たちは比較的問題に遭わずにすみ,業を順調に進めることができました。記念式の時は共に集まる機会になり,4年間毎年行なわれました。最初の記念式は,占領直後の1942年に,ラユニオンのカバで行なわれ,100名ほどの人が出席しました。地帯のしもべのベンジャミン・サンパナ兄弟は,1943年から1945年にかけて記念式の時に“地帯大会”を開くように取り決めました。それらの大会では,その後1年間の奉仕の指示が与えられ,開拓者たちが特定の町で証言するように割り当てられました。当時正確な人数は記録されませんでしたが,1945年の大会の出席者数が,1942年の記念式の出席者数の5倍を上回っていたことは明らかです。したがって,エホバが戦時中に増加をもたらされたことが分かります。
それら忘れられない大会が済むと次の大会までの間,伝道者と開拓者たちは引き続き良いたよりを宣明しました。また,協会の入手できる出版物のうち最新のものだった「子供たち」と題する書籍を研究するために集まり合ったのです。便宜の上からも,また日本の当局者の目にふれないためにも,必要ならば所によって集会場所は週ごとに変更されました。
1944年の末ごろ,アメリカはフィリピンに断続的な爆撃をかけるようになりました。そのため,日本の占領軍は人々に一層厳しい統制を加えました。一方ゲリラも活動していたので,エホバの証人は腹背に敵の砲火を受けた格好にありました。ですから,所によって,家から逃げざるを得ない兄弟たちもいました。ラユニオンの兄弟たちは丘や密林に逃げ,バギオ市
の証人たちは爆撃を避けてほら穴に逃げました。しかし,どこへ逃げるにも,文書を携えて行って神のみ言葉の研究を続けたのです。注意をしてはいても,戦い合う二つの勢力と全く接触しないわけにはいかなかったので,日本人のスパイかフィリピン人のゲリラに殴打されることは幾度もありました。北方のアブラ県ブケイで,イサベロ・タエザ兄弟ほか全部で14名の開拓者は日本軍に逮捕投獄されました。日本軍はその兄弟たちを2,3日後に処刑するつもりでした。兄弟たちはこん棒かつるはしの柄で毎晩殴られ,3日間食物を与えられませんでした。処刑の当日,日本軍は慣例としてそのことを市長に通知しました。市長はそれを兄弟たちの親族に知らせたのです。しかし,兄弟たちの中に自分の知人がいるのを知って,市長は刑を宣告された証人たちのためにとりなしをしてくれました。幸い処刑は中止され,兄弟たちは釈放されました。兄弟たちがエホバのみ手の保護を感じたのは言うまでもありません。
後日,その同じ開拓者たちはゲリラに捕まりました。ゲリラは,自分たちの側につけ,さもないと殺すと言いました。その時,一,二の開拓者は恐れのために妥協しましたが,大半の開拓者たちは確固とした立場を取り,危害を加えられませんでした。それらの開拓者たちは当時の困難な時期に多くの熱心な業を行ない,アブラ県のブケイ会衆の兄弟たちを強めたほか,カガヤン県のアブルグとクラベリア会衆を設立する特権にあずかりました。
このように,エホバの民の業は占領中もルソン島で着実に発展しました。ところで,ビサヤ諸島西部など,南の島々の兄弟たちはどうしていたでしょうか。
ビサヤ諸島西部
戦争がぼっ発した当時すでに,バコロド市,イロイロ市,セブ市に会衆が設立されていました。つまり,その地域の三つの主な島にそれぞれ一つずつ会衆があったわけです。そこの兄弟たちは1942年から1945年にかけて次のような経験をしました。
戦争が始まった時,バコロド市の兄弟たちはカバタンガンの山岳地帯に移り,そこで集会に集まり合うことや証言活動を続けました。集団で野営し,それぞれ小さな小屋で生活したのです。また,ちょうど会衆がそこへ移ったようなもので,兄弟たちは定期的に集会を開いたり,野外奉仕の取り決めを設けたりしました。ある時その地域の人は日本の警備隊がやって来るのを知りました。そして,エホバの証人を除くすべての人が隠れまし
た。兄弟たちは戸と窓を閉め切って,エホバに祈りながら小屋の中でじっとしていました。逃げて隠れた人たちは一人残らず日本軍に捕まりましたが,神の民は少しの害も受けませんでした。兄弟たちは山岳地帯にしばらくいましたが,やがてバコロド市にもどることができるようになり,戦争中その町にとどまって,エホバへの奉仕を続けました。日本がイロイロ市を占拠した時,兄弟たちは同市の郊外にある,リガニス県のブンタタラ村へ疎開しました。そして,その村のグスチロ家で集会を開きました。そこで1度記念式を開いたこともあります。その時にはバコロド市の数人の兄弟も出席しました。ブンタタラ村が危険になると,兄弟たちは,比較的平穏な,イロイロ県サンタ・バーバラ町ビラダン村のブラス・パンプローナ兄弟の土地に引っ越しました。
ビラダンで,パンプローナ兄弟の土地に家を建て,王国会館も建てて集会を開きました。日中,兄弟たちは野良仕事をして作物を各家族で分け合い,夜には,「救い」の本と「子供たち」の本を用いていっしょに神のみ言葉を研究したものです。研究の進行状態に合わせてマニュエル・エニコラ兄弟がその2冊の本を口頭でヒリガイノン語に翻訳しました。後に,ある兄弟たちはグループで資金を蓄え,ちょっとした商売をして生活の足しにしました。その人たちは品物を売りにあちらこちらの町へ行き,ついでに証言や,時には公開講演をしました。そのようにして,ディングル,サンタバーバラ,カバツアン,ルセナ,リガニス,ザラガ,バロタグ・ニュイボ,ランプナオ,ジャニウェイ,カリノグなどの町々で証言がなされました。
マニュエル・エニコラ兄弟は以前に裁判所の速記者をしていたことがあったので,陸軍から,その地方の軍法会議の速記者にならないか,という誘いを受けました。『知事や王たちの前で証しをする』良い機会だと考えた同兄弟は軍のキャンプへ行って申し出を受け入れられない理由を話しました。(マタイ 10:18)その結果,連隊仮収容所に入れられてしまったのです。そこでは,かゆしか与えられず,後には,それさえ支給されなくなりました。エニコラ兄弟は水をたくさん飲んで飢えをいやしました。もっとも,アメリカ軍が接近してきたので,それよりひどい状態は経験せずにすみました。また,罪状も残されませんでした。後日,エニコラ兄弟はニューヨークのギレアデ学校で学び,しばらくの間ケソンシチーのベテルで奉仕しました。
セブ市では,兄弟たちは戦争の当初から大きな困難に遭いました。そのころ,リオデガリオ・バーラーン兄弟と,後に同兄弟と結婚したナティヴィダド・使徒 5:29)それで2週間後に再び逮捕され,このたびはセブ市の刑務所に入れられました。そこの所長は親切でしたが,エホバの証人が音信を公に伝えるのを許せば,他の人々の戦闘意欲をくじくことになると言いました。しかし,日本がセブ市を爆撃し始めると,囚人は全員釈放されたので,それらの証人たちも再び自由の身になりました。
サントス姉妹は他の数人の人たちといっしょにセブ市で開拓奉仕をしていました。市の当局者はその人たちを第五列であるとして,セブ市のツブランで5日間勾留しました。数冊の文書が見本として軍の本部に送られましたが,エホバの証人を釈放せよとの電報が届き,証人たちの罪が晴れました。人々に証言してはいけないと当局者から申し渡されましたが,兄弟たちは『人間より神に従い』,十分の在庫があった「子供たち」の本や「枢軸国の破滅 ― 嘆く者全てを慰めよ」と題する小冊子を用いて業を続行したのです。(1942年の末ころ,バーラーン兄弟とサントス姉妹はまたもや逮捕されました。今度はフィリピン人のゲリラが二人を捕まえて,日本人のスパイであるという供述書に署名させようとしたのです。二人がそれを拒否すると,ゲリラはその忠実なクリスチャンを模擬裁判に掛けてゲリラの本部へ送りました。二人はその後8か月の間,野営地から野営地へ引き回され,強制労働をさせられました。ある時二人は愛国主義的な歌をうたうように求められましたが,その歌の代わりに王国の歌をうたいました。その忍耐強い二人の証人は,ついに,自分たちが日本のスパイではなく,中立な立場を取るクリスチャンであることをゲリラに納得させることができ,1943年7月に釈放されました。
バーラーン兄弟とサントス姉妹は釈放された時,すり切れた服しか身につけていませんでしたが,それでも良いたよりの宣明を直ちに再開しました。幸いなことに,一人の少年から近くにエホバの証人がいることを聞きました。その人は,協会の「創造」と題する本を読んだことのある関心を持つ人であることがわかりました。その人は親切な人で,開拓者のグループの全員を自分の家に泊めてあげましょうと言ってくれたのです。それで開拓者たちはしばらくの間その人の家で週ごとの研究を行ないました。兄弟たちは1週間証言の活動をし,次の1週間は生活の糧のために働きました。バーラーン兄弟は家主の地所でとうもろこしを栽培し,サントス姉妹は帽子を編んでそれを市場で一つ1ペソ(約120円)で売りました。こうして,親切な家主の寛大な援助のおかげで二人は新しい衣服を買うことができました。その関心を持つ人は2か月研究した後バーラーン兄弟によってバプテスマを受けました。
今や開拓者のグループは11人に増えていました。それら11人はツブラン
の山地で奉仕し,スゴド,カトモン,カルメン,ダナオといった町々を網らし,ついにセブ島の西岸のトレドシチーに達しました。トレドシチーで「ものみの塔」研究(「ものみの塔」誌の古い号を用いた)を行なったほか,「暴露」と題する小冊子を使ってセブ語の勉強もしました。1945年,日本の占領が終わった時には,それらの土地で見いだされた関心のある人々の多くがすでにバプテスマを受けていました。通信機関が断たれていたので,ビサヤ諸島西部の兄弟たちは戦争が終わってもすぐに支部事務所と連絡を取ることができませんでした。ですから,1945年11月にリンガエンで開かれた戦後初の大会に出席できたのはほんの少数の人たちでした。事実,多くの人が出席した最初の大会は1947年3月にルソン島のマニラで開かれた大会で,それはN・H・ノア兄弟がフィリピンを初めて訪問していた時のことです。とはいえ,その間にも兄弟たちは良いたよりの宣明をきちんと続けていましたし,1946年3月にはヒリガイノン語を話す兄弟たちが自分たちでイロイロ市のサンタ・バーバラにおいて大会を催しました。
ミンダナオ島北部とビサヤ諸島東部
1940年にマニラ・グランドオペラハウスで開かれた大会の後,コンラド・ダクラン兄弟はミンダナオ島北部とビサヤ諸島東部の地帯のしもべに任命されました。そして,その年の4月か5月に最初の滞在地であるオザミス市に着きました。そこで関心が見いだされ,接触した新しい人々は間もなくダクラン兄弟や他の開拓者たちに加わって,サンボアンガからスリガオに至るミンダナオ島北部全域で証言を行ないました。
戦時下の圧力を受けて,兄弟たちはしばしば苦難に遭いました。軍の本部があった,ブキドノンのマライバライでジュリアノ・ヘーモサ兄弟はスパイ罪に問われて逮捕されましたが,後日釈放されました。後に開拓者のグループの全員が同じ罪で逮捕され,ギン-ゴーオグの刑務所に2,3日入れられました。逮捕の時マニラのソラノ兄弟もそれらの開拓者といっしょでした。その時も釈放されました。
証人たちは東に進み,ついにアグサンのブエナピスタに着きました。そこは戦時中証人たちの根拠地となる所だったのです。しかし,そこでも間もなく投獄されてしまいました。とはいえ,兄弟たちは喜びにあふれてエホバへの賛美の歌をうたって看守たちを驚かせました。また,看守たちに真理を大胆に語ったので,大勢の看守が音信に少なからぬ関心を示しました。その時ダクラン兄弟はアメリカ人の数人の将校の面接を受け,75の質問に答えてそれに署名をしました。その情報はオーストラリアへ送られた
に相違ありません。というのは,それからほどなくして,マッカーサー本部からエホバの証人は第五列の活動をしていないという通達があったからです。こうして兄弟たちは釈放されました。それは1942年の春のことです。このころ,ブエナビスタの「会」には100名ほどの伝道者がいて,四つの小さな群れに分けられていました。「子供たち」の本の研究は毎週行なわれ,奉仕会も取り決められていました。もっとも,奉仕会では主に,協会の出版物に基づく話や,良いたよりを宣明し続けることを励ます話がなされました。敵対し合う軍隊間の戦闘が始まると,証人たちは集会の場所をあちこちと変えました。戦闘を避けて丘陵地で集会を開くこともありました。兄弟たちは歌うのが好きだったので,聖書にちなんだ詩を作り,それにプロテスタントの賛美歌の節をつけて王国の歌にしました。アントニオ・ヤングゾンはオーケストラを組織し,フランシスコ・ボージャは四部合唱で歌えるように兄弟たちを指導しました。
公立学校が戦争で閉鎖になると,ブエナビスタの「会」は自分たちで学校を開きました。その学校は4学級からなり,各学級に一人ずつ教官がついていました。証人でない人々の子弟もその仮の学校に通いました。その人たちは授業の謝礼として教官にお金を差し出しました。聖書と協会の出版物が教科書として用いられましたから,ある人々はその学校で真理を学びました。
支部事務所との通信は完全に途絶えていたので,協会との連絡が回復するまでタグラン兄弟がその地域の業を監督しました。スリガオ県のアルジリア,マイニト,プレイシアおよびバグアグ,またアグサン県のカバドバラン,エスペランサ,ラス・ニーヴェス,リベルタード(ブトゥアン市)の各会衆はその期間に設立された会衆です。
開拓者たちばかりでなく,ブエナビスタの伝道者たちも遠方の区域で証言しました。ベンジャミン・ダティグは30人の兄弟たちを率いてカミグィン島の人々を訪問したことがあります。それには,タリサヤンまで100㌔の道のりを歩きそれから船に乗りました。多くの親は,小さい子供を子守りに頼んだりしないで自分たちといっしょに連れて行きました。カミグィン島の町々で野外奉仕をしている時に,証人たちは幾度かゲリラに捕まりました。そればかりか,本土に帰ると,幼い子供たちも含めて全員がタリサヤンの刑務所に8日間入れられたのです。
責任を持つ兄弟たちは,中立な立場を守ったためにフィリピン人ゲリラのお尋ね者の一覧表に名前を載せられていることが分かりました。それからは本名の代りに聖書の名前が使われるようになりました。ダクラン兄弟
は「カレブ」と呼ばれましたし,「ヨブ」,「シャデラク」,「メシャク」という名前の兄弟たちもいました。それが普通のことになり,本名が使われることはめったにありませんでした。今日でも,そうした兄弟たちは聖書の名前を使ったほうが互いをよく思い出せることが少なくありません。他の土地におけると同様,1944年には日本軍とゲリラ間の戦いが激しくなり,ミンダナオ島北部の兄弟たちに大きな苦難が臨みました。兄弟たちは両方の側から憎まれたからです。「ヨブ」と呼ばれていたジャヴィア・パユヤはゲリラの残酷な拷問を受け,それがもとで病気になり,間もなく亡くなりました。アグサン県のナシピトではサンティアゴ・サクロと妻のドミンガが日本人に殺され,その遺体は二人の家もろとも焼かれました。イシドロ・モンタは人間を刺す赤アリがうようよしている木に一晩中縛り付けられましたが,妥協しませんでした。また,命も失わずにすみました。ゲリラ軍のために弾丸を運ぶのを拒否したために,裸にされてひどく殴打された兄弟たちもいます。
1944年の末ごろ,こうした残酷な迫害の最中に,地帯のしもべはスリガオのバクアグで大会を開きました。アグサンとスリガオの兄弟たちが出席し,信仰を築き上げる話を聴きました。また,良いたよりを語り続けるようにとの励ましを受けました。さらに,その大会では孤立した地域で証言する自発奉仕者が募集されました。14歳から30歳の兄弟姉妹たち約50人がその奉仕を申し出,まず,スリガオの沖にあるシアルガオ島で働くために出発しました。そこの島々は比較的平穏だったので,証人たちは妨害されずに奉仕し,関心のある人々を大勢見いだしました。ダパ,ツブラン,ブルゴス,ニュマンシアに会衆が設立され,間もなくその地域で合計300人ほどの兄弟たちが証言活動を行なうようになっていました。
シアルガオ島にいる間に,兄弟たちは60人乗りのがんじょうな帆船を造り,それに「ミズパ」という名前を付けて各地へ証言に行くのに用いました。後に,さらに2そうの船,すなわち「神権政治1号」と「神権政治2号」がその“艦隊”に加えられました。ある日60人の兄弟たちは「ミズパ」に乗り組み,さらに遠くのレイテ島とボホル島という二つの大きな島を目ざして出掛けました。早くも1944年の10月にマッカーサー元帥の先発部隊はレイテ島に上陸していたので,兄弟たちが行ったころ,日本軍はフィリピンからどんどん放逐されていました。
証人たちはレイテ島のリロアンに上陸して二手に分かれ,島の東部と西部を回りました。その旅行で優れた業がなされ,サンタ・パズ,ソゴドおよび
ナホウォングに会衆が設立されました。片方のグループはマーシンに着くと再び「ミズパ」に乗ってボホル島に向かいました。ベンジャミン・ダティグに率いられたその一行は,ボホル島の北部にあるイピル,タリボン,ボホルに上陸して三つのグループに分かれました。ボホル島は円形に近い形をしているので,一つのグループは東へ,もう一つのグループは西へ,三つ目のグループは南へと奥地へ入って行きました。ボホル島には40を超す町がありましたが,こうして,全島を網らし,三つのグループは島の主要都市タグビラランで落ち合いました。その旅行中,兄弟たちはボホル島のセビリャで関心のある人々の群れに会いました。その人たちは神の民と交わったことがありませんでしたが,協会の出版物を用いて聖書を勉強し合っていたのです。サルヴァドール・マレサという人は戦前に,マニラで街頭伝道をしていた兄弟から出版物を幾つか求め,日本の占領中にそれを読みました。マレサはゲリラの闘士でしたが,自分の習慣の多くを改めるようになり,出版物から学んだ事柄に基づいて社会的な行事に出るのを拒みました。ゲリラの仲間だったイグナシオ・ダイゴはマレサの変化に気づき,興味を持ちました。それで二人は,他の人たちとともに聖書を章を追って研究し始めたのです。その人たちが,訪れた兄弟たちに会い,さらに多くの知識を得て大いに喜んだことは言うまでもありません。彼らは終戦後バプテスマを受けました。
一行はボホルを出て,レイテに残して来た兄弟たちと合流し,全員そろって「ミズパ」でシアルガオ島へ帰りました。その途中,暴風のために船がほんろうされ,一人の男の子が船から投げ出されてしまいました。しかし,ダクラン兄弟が海に飛び込んでその男の子を助けたので,死者を一人も出さずにすみました。その旅行の後,ブキドノンとミサミス・オリエンタルでさらに多くの業が行なわれて,バリンタド,ルンビア,インバタグ会衆が設立される結果になりました。
戦争中,ミンダナオ島北部とビサヤ諸島東部で非常に精力的な業が行なわれたので,支部事務所と再び連絡が取れるようになった1946年までに多数の会衆が設立されていました。その年,ダクラン兄弟はマニラの支部へ出向いて自分の所在を直接知らせました。それ以後,業は再び協会の支部の指示によって行なわれるようになりました。
ミンダナオ島南部
戦前,6人の開拓者たちと数人の関心を持つ人々はミンダナオ島南部のダバオ市で証言の業をしていました。その人たちはシプリアノ・セプルヴィダ
兄弟の家に定期的に集まって聖書研究をしていました。6人の開拓者たちとは,地帯のしもべに任命されていたサルバドー・リワグ兄弟,デシドリオ・パユヤ兄弟,リノ・イラグソン兄弟,フェリノ・コミドー兄弟,それにプリフィカシオン・ベネット姉妹とエルヴィラ・アリンソド姉妹です。1941年12月に日本人がダバオに上陸した時,イラグソン兄弟は同市の沖合いのサマル島にいました。後の証人たちは,占領軍を逃れる大勢の人々といっしょに,コタバト県へ疎開しました。5人の開拓者たちは何日間も密林の中を歩きました。木の根の間で眠り,野ビルに悩まされ,水のない時にはトウの樹液を飲んだのです。トウはサトウキビにやや似た植物で,横に切ると甘い汁が出て来ます。それを飲むのです。日本の侵略軍は近くに来ていて,時折,日本に従うよう人々に勧めるビラを飛行機でばらまきました。一枚のビラには,子供たちを祝福している法王の絵と,すべての人が「東南アジア共栄圏」に協力することを勧告する文章が付いていました。
コタバトで兄弟姉妹たちは,その地方の人たちやダバオから疎開して来ていた人たちと神のみ言葉について話し合いました。ピキトという町では,戦前に協会の文書を求めたある男の人が証人たちを助けてくれました。その人は自分の親族のペドロ・ブリラスとアニアノ・ブリラスを証人たちに紹介したのですが,ペドロとアニアノは真理を受け入れ,今なおエホバの民として健在です。日本軍がついにコタバトを占領すると,兄弟たちは,駐留軍に徴用されないために,各地を点々と移動しなければならなくなりました。町にいるのが危険になると,丘陵地に野宿したのです。そのようにあちらこちらと移動するのは大変でしたが,結果的には良いことでした。というのは,現在の多くの監督や奉仕のしもべになっている人の多く,特にカバカンとキダパウァンのそれらの人たちはその時に初めてエホバの証人に接しているからです。キダパウァンでグウィラモ・アレガドという人は兄弟たちに会って大変喜びました。というのは,その人はハワイでドス・サントス兄弟と聖書を学んだことがあったからです。それは,ドス・サントス兄弟がフィリピンに来る以前のことでした。アレガドの家族は全員が真理に入りました。そのころ兄弟たちが会ったのは,アレガド家とブリラス家の外に,アンテロおよびマカリオ・バスウェル,アルフレド・ナドング,アナスタシオ・ゴンサレス,アーセニオ・バーミュデス,そしてマニュエル・ガンパニアでした。
ある時,数人の兄弟たちは日本のスパイの容疑でゲリラに捕まえられました。ゲリラは,ペドロ・ブリラスが元軍人であったことを知ると,彼を
容赦なく殴りました。そして兄弟たち4人を一晩中起こしておいてから,収容するために密林の奥地へ連れて行ったのです。兄弟たちは,生きている豚が輸送される時のように,小さなかごに入れられました。そのかごはたいへん窮屈で,兄弟たちは横になることも立つこともできず,座っている以外にしかたがありませんでした。それでも兄弟たちは証言を続けました。その結果,護送隊の一人,ロレンゾ・ヘサンは真理を受け入れ,後にバプテスマを受けました。ブリラス兄弟たちの親族の一人がとりなしてくれたおかげで,捕らえられてからほぼ2か月後に兄弟たちは釈放されました。持っていた文書が紛失したり破損したりして,とうとう数冊の聖書しかない状態になりました。それで兄弟たちは6人ないし8人のグループを作り,各グループは2組に分かれて,食物のために働くことと証言に出掛けることとを一週間交替で行ないました。奉仕に出掛けた人たちは,大抵一冊しかない聖書を皆で共用しなければならなかったので,家々をいっしょに訪問しました。一人の兄弟が証言を行ない,後の兄弟たちが家の人の質問に答えるという具合いにして,全員が証言活動にあずかれるようにしたのです。
中立の立場を守ることは一層難しくなってゆき,1944年の秋が来ました。兄弟たちは,子供を含む200名ほどの大集団になって,人口の多い地域をできるだけ避けるようにしていました。その移動する“会衆”はやがてフィリピンで最高峰のアポ山のふもと,コタバト県マキララ市ラミタンに近い密林の中に住みつきました。
数人の兄弟姉妹たちは,戦闘がしばらくやんだ機会に郷里のダバオに帰っていました。サマル島でその人たちは以前と同様に忠実な奉仕をしていたリノ・イラグソンに出会いました。イラグソン兄弟は日本人や日本の軍隊に5回も逮捕投獄されましたが,サマル島に幾つかの群れを作ることができました。
1944年の末にアメリカ軍がタバオ本土に上陸した時,サマル島にいた兄弟たちは,他の証人とぜひ連絡を取ろうとして本土に移りました。50名ほどの人たちはまず,ダバオ市サンタクルクのバトにあったガリカノ・ピコトの家に行きました。ピコトはフェリノ・コミドー兄弟と接したことのある,関心を持つ人で,日本の指揮下にあった隣組の組長をしていました。彼は真理を受け入れて,会う人ごとに熱心に証言しました。良心上の理由から,組長の仕事をあまり行なえなかったので,結局組長を辞めさせられましたが,ピコトはそれを喜びました。サマル島から来た50人の兄弟たち
がしばらくピコトの家に滞在していた時,ピコトは近所の人たちや親族から,異端者をかくまっていると非難されました。それで,証人たちが捕まらないうちに,夜彼らを家から送り出したのです。兄弟たちは森を通り山を幾つも越え,ついにアポ山のふもとのリワグ兄弟のいる“会衆”に加わりました。会衆は“エホバシャンマ”と呼ばれ,証人はそれぞれ,「ヨエル」,「ヨナダブ」,「ダビデ」といった聖書中の人物の名前を付けられました。今日でもその時の名前で呼ばれている兄弟たちがいます。特にリワグ兄弟はゲリラと日本軍の“お尋ね者”の一人だったので,すぐに見分けられないように偽名が使われたのです。また,見知らぬ人がキャンプの近くに来ると,“チキ”と言ってそのことを他の人たちに知らせました。チキとは「ヤモリ」という意味のセブ語です。
その一年ほどの間,“会衆”は定期的に霊的な励ましを受けました。リワグ兄弟は7軒の小屋を交替に訪問して夜に行なわれる研究を司会しました。そのころまでに,ほとんどの文書はぼろぼろで使えなくなっていたので,リワグ兄弟は兄弟たちを強め励ますような日々の聖句と注解を準備しました。マカリオ・バスウェルはそれをイロコ語に,モーゼス・スペラはセブアノ語に翻訳しました。兄弟たちはその二つの言語グループにほぼ等しく分かれていたからです。エステル書やルツ記など,聖書の内容を扱った原稿も作られ,翻訳されました。それは,兄弟たち全員が一週間に一度集まって開く集会で討議の資料に使われたのです。リオヴィヒルド・コミドーはそうした資料を討議する際の質問を作りました。「子供たち」と題する本の概略を3部に分けて書いた資料も作られ,親たちはそれを用いて毎朝子供たちを神のみ言葉から教えました。
賛美の歌をうたうことも非常に大切な崇拝行為でしたから,モーゼス・スペラはイロコ語とセブアノ語の両方の言葉で賛美の歌を作りました。作曲された賛美の歌は,聖書研究と集会の始めと終わりにうたわれました。
食物を得るために,兄弟たちは小屋ごとに畑を作って米やカサバを植えました。ある小屋で食物がなくなると,他の人たちは,西暦33年のペンテコステの後エルサレムにいた初期クリスチャンたちが示したのと同様の精神で援助を差し伸べたのです。(使徒 2:42-45)最初の収穫があるまで,兄弟たちは野生の果物や植物の根を食べ,時にはイノシシの肉のごちそうを食べました。
戦争中,ゲリラや日本軍に発見されたことは数えられないほどでした。日本の警備隊がリワグ兄弟を本部へ連行したことがあります。リワグ兄弟
はそこで数時間にわたって隊長の尋問を受けました。ところが意外なことに,隊長はエホバの王国に関する証言を十分に聞いた後リワグ兄弟を釈放してくれました。リワグ兄弟はゲリラの一団に追われたこともありました。しかし,その時ある家の,木膚ぶきの天井裏に隠れて見つからずにすみました。兄弟たちは,コタバトの人里離れた場所にいたので,戦争が終わったことを知りませんでした。支部の監督はリワグ兄弟の居所をつかむため,手元にある,戦前使われていた幾つかの住所あてに手紙を出しました。やがて,マニラへもどるようにという知らせが本人に伝わり,リワグ兄弟は“会衆”を置いてダバオに行き,マニラまでの交通手段を得ました。
1945年の12月末ごろ,大きな“会衆”の大半の人は人里離れた密林の中の家を後にして,ほぼ150㌔遠方にある,ダバオ州のパナボへ移りました。大部分の人はそこにとどまって,支部事務所からの明確な指示を待ちました。リワグ兄弟とスペラ兄弟は1946年10月にマニラから帰りました。そして,かつてなかったほど大規模な証言活動を行なえるように兄弟たちを整え,奮い立たせたのです。13名の人はただちに開拓奉仕を始め,他の人たちは故郷に帰って良いたよりを伝道しました。間もなく,ダバオとコタバトの各地に会衆が次々と設立されました。それで,今ではフィリピンのこの地域に238の会衆があります。
戦後の再組織が始まる
戦争が終わった時,フィリピンは破産寸前の状態でした。全国で行方の分からない人が100万人を超えていました。内輪に見積もっても,フィリピンはその物質的な富のおよそ3分の2を失いました。最大の都市マニラの荒廃は余りにもひどく,ある歴史家によれば,マニラの荒廃に匹敵し得るのはスターリングラードとワルシャワのそれぐらいなものであろうと言われています。城壁に囲まれた古い都市マニラは,戦い合う二つの軍隊からの爆撃と,マニラの戦いを終わらせた激烈な市街戦とで破壊されました。それから2年後,当時のものみの塔協会会長ネイサン・H・ノア兄弟が初めてマニラを訪れた時にも,同市はなお廃虚のままだったのです。ノア兄弟はその時の様子を次のように報告しています。「かつて人々の住んでいた市内は,人影のない野原のようでした。一年前のヨーロッパでもこれほどひどい状態は見ませんでした」。
こうして,復興と再建の時になりました。そのことは国家全体についてはもちろんのこと,フィリピンにおける神の民の会衆の組織についても言えました。前途には多くの仕事がありました。
ドス・サントス兄弟は,1945年3月13日に釈放され家族といっしょになってから,まずマニラ市オロクエッタ通り1219-Bにあるアパートで支部事務所を再び開きました。アパートの隣には医者をしていたングソン兄弟の診療所がありました。そこは集会場所に使われました。
ドス・サントス兄弟は再びブルックリンと連絡を取りました。もっとも,航空便が使えるのは軍の関係者に限られていましたから,郵便物は,ふつう,船便で送るしかありませんでした。サントス兄弟は,戦争中にフィリピンの兄弟たちが得られなかった情報や出版物,そして「ものみの塔」誌の古い号を送ってもらいました。こうして,フィリピン支部は失った時間の埋め合わせをし,全世界のエホバの民の進歩に追いつくために遅れを取りもどし始めたので,物事が再び進展するようになりました。
やがて,ルソン島各地の兄弟たちから報告が入って来るようになりました。それらの報告や,2人の地帯のしもべから寄せられたおおざっぱな報告によれば,ルソン島でおよそ2,000名の王国伝道者が64の会衆に交わっているものと推定されました。したがって,占領中にその地域で31の会衆が新設されたことになります。もっとも,支部はその時まだビサヤとミンダナオの兄弟たちから連絡を受けていなかったので,その数字にビサヤとミンダナオの報告は含まれていません。戦前における最後の報告,すなわち1941年の報告によれば,フィリピン全体の伝道者数は373人でしたから,前述のおおざっぱな数字からも,1941年以来驚異的な増加が見られたことが分かります。それは,エホバから豊かな祝福が注がれた結果でした。また,それは,第二次世界大戦中やっきになって真の崇拝を滅ぼそうとしたサタン悪魔に対する実に見事な返答だったのです。
1945年7月から9月にかけて,ドス・サントス兄弟はルソン島の多くの会衆を訪問して励ましを与えました。7月に,サントス兄弟はパンガシナンの24人の会のしもべ(主宰監督)と特別の集まりを開き,戦時中に数人の兄弟が広めて小さな分裂を生んでいた個人的な考えや解釈を正すように援助しました。ハルマゲドンはもう始まっているという人がいたり,昔の預言者たちは復活したという人がいたりしたからです。その集まりではそれ以外にも比較的小さな誤解が正されて,兄弟たちは戦後の王国伝道の活動を一致して推進するように助けられました。
9月から「ものみの塔」誌が再び送られて来るようになり,フィリピンの証人は3年10か月ぶりで新しい「ものみの塔」誌の研究をすることができました。そのころ,1930年代にものみの塔協会から離れたグループの人々,およそ200人が,エホバの一致した民と交わりたいと言ってきまし
た。その人たちは喜んで迎え入れられ,兄弟たちに加わって戦後の業を行なうことができました。戦後初の大会
釈放されて間もなく,ドス・サントス兄弟はパンガシナン県のリンガエンで全国大会を開く取り決めを設けました。会場はアメリカ軍から借りたシソン講堂でした。当時,アメリカ軍はその講堂と周囲の土地をパンガシナン県から借り受けていたのです。そのすばらしい大会は1945年の11月9日から11日にかけて開かれ,2,000人を上回る兄弟姉妹が出席しました。その人たちはほとんど全員がルソン島の人たちで,60の会衆から集まりました。会場はヤシの木の茂る砂浜に近い,戦争の傷跡がなければ美しいはずの場所にありました。講堂にも爆撃の跡がありました。いすがなかったので,兄弟たちは仕事に掛かって竹のベンチを作りました。出席者たちは,竹とニッパヤシで作られた,かつての兵舎100戸に泊まりました。40名の人は比較的大きな兵舎に宿泊できました。また打ち捨てられた兵舎の食堂が簡易食堂に使われました。もっとも兄弟たちは食糧と器具類を持参して,自分たちで料理したのです。
大会が始まり,兄弟たちがプラカードを使って野外奉仕に出掛けると間もなく,一人のカトリックの司祭は大会をやめさせようとして人々に働きかけました。大会が違法であると司祭に言いくるめられた県知事代理は,兄弟たちに講堂とその敷地から立ち退くように命じました。パンガシナン県が許可しないのだから,アメリカ軍による許可は無効である,というのです。また,同知事代理は,シソン講堂のような公共物を宗教的な目的のために使わせられないと唱えました。兄弟たちが大会を中止することを拒むと,知事代理は兄弟たちを撤去するために軍の警察官を送りました。しかし,その警察官は兄弟たちの持っていた許可証を調べた後命令をただちに遂行せず,まず司令官に尋ねました。司令官は証人たちに「大会を続けるように」と告げ,警察官には「その人たちを守備せよ」と命令したのです。
こうして,大会は,撤退するために派遣された兵隊に守られながら成功のうちに閉会しました。「平和 ― それはつづくか」と題する英語の公開講演には4,000人ほどの聴衆が出席しました。その外の話はイロコ語とパンガシナン語で行なわれました。マッカーサーの軍隊が上陸して1年もたたないリンガエン湾で119名の集団バプテスマが行なわれました。その大会で「組織の指示」と題する小冊子が初めて発表され,関心を持つ人々と聖書研究を効果的に司会する方法を示す実演も行なわれました。そのように
して,教える方法が改善され,会衆でより良い指導がなされる下地が造られたのです。兄弟たちの多くは戦争中に真理を学んだ人たちでしたから,それは非常に必要とされていたことでした。大会後,大会委員だった3人の兄弟たちは,当局者の命令に逆らったかどで県知事から起訴され,ダグパン市第一審裁判所で有罪となって30日間の拘留を言い渡されました。その判決は上訴され,相当遅れた末に上訴裁判所で審理が行なわれました。後にフィリピンの副大統領になったエマニュエル・ペライズ弁護士が証人たちの弁護を行ない,下級裁判所の判決は破棄されました。それは重要な判決でした。フィリピン共和国全土の公立学校および公共の建物でクリスチャンの大会を開くエホバの証人の権利を守るために後年判例としてしばしば用いられたからです。
リンガエン大会がすんでから間もなく,地帯のしもべの業に代わって兄弟たちのしもべ(今日の巡回監督)の業が始まりました。サルバドー・リワグ兄弟は最初の兄弟たちのしもべになり,当時ルソン島にあったすべての会衆を訪問しました。1946年4月16日に祝われた主の晩さんには,全国で4,185名の人びとが集いました。
1946年8月までに,支部の施設は急速に発展する王国の業を処理するにはあまりにも手狭になっていました。ちょうど適切な時にエホバは道を開いてくださり,マニラ市サンタアナ区ヘラン2番インターナショナル2621号にある比較的広い場所へ移ることができました。そこは献身したあるエホバの証人の邸宅で,その家族は支部事務所と王国会館のための場所を喜んで提供してくれたのです。地下室は文書の倉庫に使われました。その家は今でも二つの会衆が王国会館に使っています。
フィリピン支部が36箱,重量にして数㌧の衣類を受け取ったのもそのころのことです。ひどい戦災に遭った人々のためにアメリカのエホバの民が寄付してくれたのです。支部が配給した救援物資は5,046名の人々に行き渡りました。フィリピンの兄弟たちがそうした親切に感謝し,心を暖められたことはいうまでもありません。それは,困難なその当時に兄弟たちがぜひとも必要としていたものでした。
1946年は,12月18日から20日にかけて開かれた「喜びを抱く国々の民」の神権的大会をもって終わりました。それは,同年8月にアメリカのオハイオ州クリーブランドで開かれた国際大会と同じ内容の大会でした。マニラ市サンタアナ区のフィリピン・レーシング・クラブにおける「平和の君」と題する公開講演には5,000人以上の人が集まりました。
協会の会長の二度目の訪問
フィリピンの神の民にとって重要な里程標となったのは,1947年3月31日から4月2日に開かれた「賛美をささげる諸国民」神権大会でのことでした。第一日目はマニラ市ヴィトー・クルス通りのリザル・メモリアル・コリセウムで開かれましたが,音響設備が悪くて,幾つかの言語で行なわれたプログラムもほとんど聞こえなかったため,二日目からは会場がサンタアナのフィリピン・レーシング・クラブに移されました。
ラッセル兄弟が1912年にフィリピンを訪れて以来初めて,ものみの塔協会の会長が訪問することになっていたので,兄弟たちはN・H・ノア会長に会うのを大変楽しみにしていました。その大会は戦後初めて開かれた本当の意味での全国大会で,ルソン島ばかりでなくビサヤ諸島とミンダナオ島からも兄弟たちが出席しました。ノア兄弟と秘書のミルトン・G・ヘンシェル兄弟は予定より遅れて4月1日に到着しました。二人は到着した時に,フィリピンの兄弟たちから大変な歓迎を受けました。
大会の最終日である4月2日の水曜日にノア兄弟は開拓者たちと会合しました。その席上,フィリピンの兄弟たちは初めて,アメリカにあるものみの塔ギレアデ聖書学校への入学を申し込むように勧められたのです。その朝36枚の申込書が提出されました。一方,同じ時に,マニラ湾で151名の新しい弟子にバプテスマが施されていました。湾内には,過去の戦闘を無言のうちに物語る,多くの沈没船の残がいの全ぼうが見えました。午後にノア兄弟は4,200人の聴衆を前にして「すべての人びとの喜び」と題する公開講演を行ないました。その講演全体は,KZPIラジオ放送局を通じて全国に放送されました。閉会の言葉の中でとりわけ,ノア兄弟は,4人のギレアデ学校卒業生が近いうちに到着するという発表をしました。フィリピンの兄弟たちは大きな期待に胸をふくらませました。
ギレアデ卒業生が初めて来る
その大会から3か月もたたない1947年6月14日,フィリピンに任命された3人のギレアデ卒業生が到着し,もう一人は1か月後に到着しました。その4人とは,アール・スチュアート兄弟,ヴィクトー・ホワイト兄弟,ロレンゾ・アルピヘイ兄弟およびニック・スケルパリク兄弟です。
フィリピンの兄弟たちは4人を波止場で出迎えて支部に案内しました。支部が狭かったので,到着したばかりの兄弟たちは,一区画離れたところにあるクリーニング屋の2階に一時的に住みました。1か月後,ホワイト兄弟とアルピヘイ兄弟は兄弟たちのしもべとして旅行するように任命され,
スチュアート兄弟はドス・サントス兄弟に代わって支部の監督に任命されました。フィリピン支部の形成期に重い責任を果たしたドス・サントス兄弟は姉妹と共に1949年の2月まで支部にとどまり,それからハワイへたつ準備をして,1949年7月17日にフィリピンを去りました。最初の巡回大会
巡回区の取り決めが実施されるようになり,1947年末までに12の巡回区ができていました。一連の12の巡回大会は1947年9月から12月にかけて開かれ,スチュアート兄弟は地域監督としてその全部の大会で働きました。それは同兄弟にとって,全国の兄弟たちの状態を視察し,兄弟たちをよく知る優れた機会となりました。
フィリピンの兄弟たちは,克服できないように見える問題を乗り越えて大会に出席しました。スリガオでのこと,ある兄弟は,乗った発動機船が台風のために沈没してただ一人の生き残りとなりました。その兄弟は持ち物のほとんど全部を失いましたが,それでも大会に出席したのです。一連の巡回大会が終わるまでに五つの台風がフィリピン全土を襲いましたが,兄弟たちがそのために大会の出席を思いとどまることはありませんでした。ルソン島北部でのこと,山に住んでいた兄弟たちは2そうのいかだに乗ってアブラ川を下り,ビガンでの大会に出席しました。河口に着くと,兄弟たちは帰りのバスの切符を買うためにいかだをほどいて丸太を売りました。
協会のブルックリンの事務所にあてた報告の中で,支部の監督は次のように書いています。「西洋文明に慣れた者にとって,各地の大会開催地に兄弟たちがやって来る様子は奇妙に見えました。兄弟たちは大きな米の袋,食物の入った包み,ふとんを持ち大勢の子供を連れてにこにこしながらやって来ました。その上品で温かな笑顔は,大会の日を追うにつれていっそうほころびました。米もまきも,旧式のコンロやふとんもありましたから,物質的な必要物はすべて整えられていました」。
マニラ市サンタアナ区の王国会館で開かれた巡回大会に,ラグナ県のビーナンという田舎町から関心を持つ人が数人出席しました。その人たちは真理を学んだ興味深いいきさつを話してくれました。その町には,セブンスデー・アドベンチストの一分派に所属する家が20軒余りありました。牧師はテオドロ・リエスという人で,ディ・ラ・パズ村に小さな教会堂を持っていました。最初その人たちはイエスの再臨を待っていました。ところがある日,近くの県の牧師が来て,イエスはすでに霊的な意味で王国の権力を執って臨在していると話したのです。その牧師は協会の出版物から
そのことを学んだのですが,どこからその情報を得たかを人々に告げませんでした。ビーナンの人たちは大いに話し合った末にその教えを受け入れました。後になって,ものみの塔ベテルおよび伝道者協会を代表する人物が彼らを訪問し,謄写版刷りの印刷物に基づいて聖書を教えました。その印刷物もやはりものみの塔聖書冊子協会の出版物が基になっていたのです。さらに後日,牧師とその人物が聖書に関する情報をどこから入手したかがわかりました。また,教会員たちはマニラ市のサンタアナ区で大会が開かれることを聞いて,それが本当に神の真の会衆であるかどうかを確かめるために代表を派遣しました。大会から帰った代表者たちが,真理を見いだしたことを人々に十分納得させたので,すばらしいことに,リエス“牧師”および20世帯を上回る人々からなる全会衆は真理を受け入れてエホバの民と交わり始めました。教会堂は王国会館に改造され,こうしてエホバの証人のビーナン会衆が発足したのです。半年後に,家族の頭たち全員はバプテスマを受けました。そのほとんどは今もなお活発にエホバに奉仕しています。高地のバギオ市で開かれた巡回大会で,スチュアート兄弟と巡回監督のスケルパリク兄弟は,当時山岳地域において一人で開拓奉仕をしていたロサリア・ソテロ(現在のロサリア・デリス)姉妹に会いました。ソテロ姉妹は戦時中に真理を聞き,マウンテン県における王国伝道の案内役となりました。自分がイゴロト族の出身でしたから,姉妹はイゴロト族や他の部族の人々に伝道することができました。その人たちの多くはクリスチャンではありませんでしたが,姉妹は親切に援助し,義の道にそって訓練しました。1977年には,かつてマウンテン県と呼ばれた土地に74の会衆がありました。聖書の真理によって山岳部の謙そんな人々が生活面で驚くほど良い変化をしたことは,周囲の人々に大きな証しとなっています。
以上のように,最初の一連の巡回大会は感激と成功のうちに終わりました。合計7,516人が「平和をつくり出す人たちは,さいわいである」という公開講演を聴き,366人はエホバへの献身を象徴するバプテスマを受けました。各大会で語られた経験からも明らかなように,フィリピンにはさらに発展する十分の可能性がありました。大会によって奉仕活動は強化され,兄弟たちはなすべき王国伝道の業に対する認識を持つように助けられました。また,そのことから,兄弟たちは,それ以後期待される大きな増加に備えることができました。
もっと多くの言語で翻訳する必要が認められる
初めてフィリピン全土を回ったその旅行中,スチュアート兄弟は次のこと
に気づきました。すなわち,兄弟たちの多くは英語を話せましたが,集会で注解したり演壇から話をしたりする時には自分たちの言葉を使うほうが話しやすいということです。それで,多くの会衆は協会の出版物を自分たちで翻訳していました。集会中に口頭で翻訳している会衆もあれば,前もって翻訳してタイプしているところもありました。マニラ会衆は「ものみの塔」誌をタガログ語に翻訳してそれを謄写版刷りにしていました。また,ブラカンのアンガットの兄弟たちは「神を真とすべし」と題する本を翻訳し,謄写版で印刷していました。しかし,聖書の真理が全く正確に翻訳されていたわけではないので,協会が翻訳を引き受けること,また,もっと多くの言語で文書を発行することが賢明だということが分かりました。タガログ語,イロコ語,セブ語で「神を真とすべし」の本の翻訳をする作業が始められ,1947年9月からはタガログ語に翻訳された「ものみの塔」誌が謄写版刷りで毎月二回発行されるようになりました。また,1948年からはヒリガイノン語とイロコ語の,そして1949年からはセブ語とパンガシナン語の「ものみの塔」誌が謄写版刷りで発行されるようになりました。1951年に,タガログ語,イロコ語,セブ語の「ものみの塔」誌はニューヨークにある協会の印刷工場で印刷されるようになりました。その後他の言語の雑誌もニューヨークで印刷されるようになり,協会はフィリピン支部のために「ものみの塔」誌を八つの地方語で,「目ざめよ!」誌を四つの地方語で生産するに至りました。現在ではフィリピン支部にある協会の印刷工場がそれらの印刷を行なっています。
タガログ語の「富」と題する本の後に地方語に翻訳された書籍はタガログ語の「神を真とすべし」で,それは1950年にニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた国際大会で発表されました。その時以来,協会はさらに76の書籍や多数の小冊子を,九つのフィリピンの言語で出版してきました。
新しい支部へ移る
1947年に急激な拡大がみられたため,支部事務所はさらに広い場所に移らざるを得なくなりました。早くも同年7月に,ヘラン通りにあった支部は送られて来る大量の文書を扱いきれず,ケソンシチーにあったある兄弟の映画撮影所の一区画にその一部を保管していました。8月に大きな台風が来て豪雨が降り,支部の地下室は水浸しになって,たくさんの文書が台なしになってしまいました。ですから明らかに,もっと安全な場所を文書の倉庫にすることが必要でした。
幾つもの候補地を調べた末,1947年9月にケソンシチーに理想的な場所
が見つかりました。それは高台にある約1万平方㍍の土地で,そこに大きな2階建ての建物が立っていました。協会はその土地と家屋を1947年12月に購入しました。マニラの兄弟たちはさっそく自発奉仕を申し出て,建物の掃除や修繕やペンキの塗り替えをしました。その建物は戦争中日本の占領軍が本部に使っていたもので,掃除をした人たちは屋根裏部屋に古ぼけた制服とヘルメットを多数見つけました。建物の後ろにはセンダン科に属していて実をつけるサントルの大木があり,それには囚人を処刑する時に縛った鎖と綱がまだ掛かっていました。その場所でたくさんの処刑が行なわれたので,近所の人の中には怖がって,そこに“幽霊が出る”と言う人もいました。しかし,自発奉仕者たちは楽しく働き,ベテルの家族は1948年2月1日までに新しい家へ移ることができました。フィリピンの兄弟たちが,そのように広い支部を持てたことをどれほど喜んだかしれません。建物の周りに広い敷地があったことは神の導きによるものと思われます。というのは,それによって支部の環境が静かになっただけでなく,後に支部の施設を拡張することができたからです。そこの住所は当時,ケソンシチーの郊外のサン・フランシスコ・デル・モンテ,ルーズベルト・ロード104番地でしたが,現在はルーズベルト街186番地に変更され,今なお支部事務所の所在地となっています。
拡大は続く
立派な新しい支部の施設に感激したフィリピンの兄弟たちは,以前にまして熱心に働きました。2回目の一連の巡回大会は,支部事務所が移転して間もなく始まりました。公開講演に合計9,701人が出席し,429人がバプテスマを受けました。それだけの人が最初の巡回大会から実質的に増加したのです。その後すぐ,1948年8月20日から22日にかけて,フィリピンで最初の地域大会がバコロド市の大学クラブ会館で開かれました。その会館は当時バコロド市で一番立派な講堂でした。公開講演に2,000人以上が出席しました。その大会のプログラムの中には会衆の組織に関する話があり,それは兄弟たちにとってたいへん参考になりました。
1949年にはさらに4人のギレアデ卒業生がフィリピンに派遣され,王国の業の拡大は一層速度を増しました。その年の12月に伝道者の数は7,952人という新最高数となり,1940年代の終わりを飾りました。9年前の1940年にマニラ・グランド・オペラ・ハウスで開かれた大会の時には出席者がわずか300人ほどでしたから,エホバはほんとうにすばらしい収穫を与えてくださいました。1949奉仕年度には,また,伝道者数が前の年よりも61%
増加していました。そして,その年の終わりに全国で14の巡回区と315の会衆がありました。1949年の12月にもう一つの前進が見られました。ニューヨークのサウスランシングにあったギレアデ学校で学ぶ特権を得た30人のフィリピンの兄弟のうちから最初に入学する3人がアメリカへ向けて出発したのです。その3人の兄弟たちの卒業式は,翌年の夏にニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた増し加わる神権政治大会で行なわれました。大会後に始まるギレアデの第16期のクラスに入学することになっていた5人のフィリピン人の兄弟もその大会に出席しました。それら8人の兄弟たちはギレアデを卒業した後,会衆を築き上げるために自分たちの国へ帰りました。そして,ベテル奉仕や地域あるいは巡回の業に任命され,自分たちが受けた訓練を業の発展のために大いに役立てました。
最初の宣教者の家がセブ市に開設されたのは1950年のことでした。1954年と1955年にさらに多くの宣教者が到着してからは,ダバオ市,カガヤン・デ・オロ市,サンボアンガ市,オーモク市,タクロバン市にしばらくの間宣教者の家が設けられました。それらはいずれもビサヤ諸島とミンダナオ島にある都市です。宣教者たちは任命地で会衆の組織を強め,効果的な野外奉仕ができるように伝道者を援助するなど,優れた働きをしました。宣教者のそうした業は,最後の宣教者の家が廃止された1962年10月以降行なわれなくなりました。というのは,そのころまでに,フィリピン人の伝道者と特別開拓者だけで業の責任が担えるようになっていたからです。それ以来,フィリピンにとどまった,あるいは後にフィリピンに任命された少数の外国の兄弟姉妹たちはベテル奉仕者として,あるいは巡回監督,地域監督,特別開拓者として用いられています。現在,ギレアデ卒業生でフィリピンにいる外国人はわずか12人です。
1951年の全国大会
1951年4月16日,ノア兄弟が到着しました。同兄弟がフィリピンを訪れたのはそれが2度目です。その訪問中,ノア兄弟は支部事務所を調査し,4月20日から22日にかけてケソン・シチーで開かれた全国大会で話をしました。大会会場は,支部から4区画ほど離れたところにある,一兄弟の二つの所有地でした。兄弟たちは腰掛けや演壇を作っただけでなく,会場全体を覆うパビリオンを竹で建てて,熱帯の太陽をさえぎる屋根をココナツの葉でふきました。
出席者のための簡易食堂には,東洋映画会社のかつての撮映所が使われ
ました。それまで兄弟たちは大会に食糧を持参し,自分たちで料理していましたが,その大会で初めて,国際大会の簡易食堂で行なわれるように並んで食事を受け取る方式が用いられました。当時,政府に抵抗するフク団が活動していたので旅行することはたいへん危険でしたが,兄弟たちはフィリピン全国からぞくぞくと集まり,開会日には5,459人が出席しました。真理に入っていた兄弟たちの大部分はイロコ語を話したので,最初の2,3の話を除いて他の英語のプログラムはイロコ語に通訳されました。
バプテスマのためには,簡易食堂の近くの土地にあった,ある姉妹の大きなプールが使われました。うれしいことに,そこで522名の人がバプテスマを受けたのです。
4月22日,日曜日の午後5時にノア兄弟は,「全土に自由をふれ告げよ」と題する公開講演を行ないました。場所は大会会場ではなくて,マニラ湾のそばのニュールネタという大きな公園でした。1万人を上回る大勢の聴衆が集まりました。
その大会でノア兄弟は,1951年の末までに,セブ語,イロコ語およびタガログ語の「ものみの塔」誌がニューヨークのブルックリンで印刷されるようになると発表し,聴衆を大いに喜ばせました。したがって,1947年以来謄写印刷されていた雑誌は姿を消すことになりました。そのころ兄弟たちは街頭の雑誌活動を非常に熱心に行なっていました。マニラの目抜き通りに文字通り並んで,英語の雑誌を使って良い証言をしていたのです。フィリピンの言語の雑誌が活字で印刷されるようになって,街頭の雑誌活動は大いに向上しました。また,予約を得るのもずっと容易になりました。
1951年の全国大会が開かれるころには,フィリピンの伝道者数は1万4,007人に達していました。しかも,引き続き発展する見込みは十分にありました。そして全国大会と協会の会長の訪問は発展を大いに促進させたのです。
良いたよりを宣べ伝える自由のために闘う
フィリピンのクリスチャン証人が増加し,全国の津々浦々に真理の音信が伝わるにつれて,反対が,特にカトリックの優勢な土地で起こるようになりました。時には,良いたよりを宣明する兄弟たちの権利を擁護するために闘う必要も生じてきました。―フィリピ 1:7。
ビサヤ諸島のアンティキュにあるシバロンで起きた事件はその一つです。1950年10月31日,火曜日の朝,シバロンの公共市場の近くで街頭伝道コリント第二 2章17節と比べてください。)判決を下した後,判事はソブレミサナ姉妹に,自分に会いに来るようにと言いました。ソブレミサナ姉妹はその通りに判事を尋ね,良い証言をすることができました。判事は聖書と「王国は近し」と題する書籍を受け取りました。また,その姉妹は法廷の速記者から「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の予約を得ることができました。
をしていた数人の兄弟姉妹が逮捕されました。それは巡回監督のペドロ・フェジデ兄弟が訪問していた時のことです。ギメノ・ギレラ兄弟とジョセファ・ソブレミサナ姉妹は,場所代を払わずに市場で販売行為をしたと訴えられました。そして治安判事から有罪の判決を受けました。しかし,それは上訴され,アンティキュ第一審裁判所は1952年3月5日に治安判事が下した判決を破棄しました。F・インペリアル・リエス判事はその判決の中で次のように指摘しました。「商業目的のため,もしくは営利目的のためにパンフレットを配布したのではなく,いわんやそれを販売したのでもない,ただ自分の宗教に関心を示す可能性のある人々にパンフレットを与えたにすぎない,という被告[ギレラ兄弟]の論点を本法廷は正しいものと認めざるを得ない」。この言葉はエホバの証人が行商人でないということを支持するものでした。(前述の判決が下りて間もなく,1952年4月20日,ルソン島東北部のカガヤン県ソラノで開かれていたエホバの証人の平和な巡回大会が,武装した人々によって中断されました。ついには町の当局者の中にも攻撃に加わる者が現われ,その結果,エホバの証人一人が死に,32人の負傷者が出ました。フィリピン警察隊の出動でそれ以上の流血騒ぎは食い止められました。その事件は裁判に掛けられ,大会の妨害者たちは法律に従って処罰を受けたのです。そうしたことがあって以来,平穏のうちに集まるエホバの民の権利は擁護されるようになりました。したがって,現在エホバの証人は,比較的平穏な状態の下に,毎年全国で200回近く巡回大会を開いています。
1952年6月6日から8日にかけて,イロイロ県サンタバーバラで巡回大会が開かれました。大会の会場は町の劇場でしたが,公開講演は公共広場で行なわれる予定でした。ところが,その広場は町のカトリック教会のすぐそばにあったので,大勢のカトリック教徒が,広場で講演することを許可したことに対する抗議の決起大会を開きました。新聞の報道によれば,5,000人もの人がその大会に参集したということです。町長はその圧力に屈して一度与えた許可を取り消したため,兄弟たちは大会会場で公開集会を開かざるを得なくなりました。公共広場で聖書の講演をする許可を得る
努力はその後も引き続き行なわれ,ついに,マリアノ・B・ペニャフロリダ県知事が言論および崇拝の自由のために調停に入ってくれました。こうして7月13日にその広場で講演を開く許可が下りたのですが,反対者たちは広場の周りに11台の拡声器を設置して,講演中にそれをボリューム一杯に鳴らし始め,講演者の声が聞こえないようにしました。サンタバーバラでのその事件は,民主主義国であるフィリピンの多くの人々を驚かせました。新聞はそれについて一か月余りにわたって大いに論評し,その多くはエホバの民に好意的なものでした。類似した問題は他の町でも起きました。顕著なものとして挙げられるのは,イロイロ県ティグバウナン,サンバレス県サンタクルス,パンガシナン県マンガルダンおよびタルラック県ゲロナで起きた事件です。ゲロナの町の広場では,講演者は,数丁の機関銃が自分に向けられている中で話さなければなりませんでした。後になって,講演を中止させようとした町長は妨害したことを謝罪しました。
そのころ,良いたよりを公に宣明する権利を要求するのに,兄弟たちが危険を冒したり,かなり攻撃的であったりしたことは確かです。しかし,法的な権利を守るために兄弟たちが大いに奮闘したことによって,強い偏見は打破され,神の民が法律を守るクリスチャンであることが立証されました。一方,それは,エホバの証人ばかりでなく,他の小さな宗教グループが言論および宗教のより大きな自由を得るための根拠となったのです。
戦後数年の間,多くの人々は,エホバの証人が宗教の名のもとに共産主義活動か他の反民主主義活動をしているのだろうと考えていました。それはエホバの証人が政治的な事柄に関して中立の立場を取ったからにほかなりません。しかし,証人の組織が純粋に宗教的なものであることは次第にすべての人に認められていきました。1952年,支部の監督は結婚式をとり行なったり,他の人に結婚式の司会をさせる許可を得ました。それによって,フィリピン政府がエホバの民を正真正銘の宗教組織であると認めたことがはっきり分かります。
ベテル施設の拡大
1953奉仕年度の終わりに,フィリピンの伝道者は2万120人という最高数に達していました。そして,487の会衆,30の巡回区,二つの地域に組織されていました。そうした増加に伴って増えた仕事を処理するため,1952年,ルーズベルト街の協会の敷地に,二つ目の建物の建設が始まりました。それは元からの建物とほぼ同じ大きさの,2階建ての建物で,兄弟たち
から募集された自発的な奉仕者によって,電気と配管の工事を除く一切の作業が行なわれました。工事を監督したのはベテルの成員の,アルフレド・エステパ兄弟でした。1953年に事務所,洗たく部門,発送および雑誌部門がその新しい建物に移りました。こうして,支部は2倍の広さに拡張されたのです。その年,27人の兄弟たちはニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれたエホバの証人の新世社会大会に出席し,様々な国から来た兄弟たちといっしょに集まり合う大きな喜びを味わいました。
特別開拓者の業が始まる
1954年の末に,フィリピンの兄弟姉妹の中から50人の特別開拓者を任命することが許可されました。1955年1月,それらの開拓者たちは人口の多い孤立した諸都市に任命されました。最初の50人の特別開拓者は優れた働きをし,そのうちの多くは今なおエホバの全時間の賛美者として忠実に奉仕しています。
特別開拓奉仕が開始されて,フィリピンの開拓奉仕の業は非常に盛んになりました。1955年には,50人の特別開拓者に加えて,正規開拓者と休暇開拓者が毎月平均846人いました。1960年までに特別開拓者は270人に達し,1,592名の人が正規開拓者もしくは休暇開拓者として奉仕していました。現在,特別開拓者は700人,正規開拓者は4,000人近くおり,その外大勢の人が補助開拓の業を行なっています。フィリピンで数年来優れた増加が得られた一つの理由は,多くの兄弟たちが開拓奉仕を行なったことにあります
「勝利の王国」大会
もう一つの顕著な出来事は,1956年4月13日から15日にかけて開かれた「勝利の王国」大会でした。その時,ノア兄弟は,秘書のドン・アダムス兄弟と当時日本の支部の監督だったロイド・バリー兄弟を伴って3度目のフィリピン訪問を行なっていました。日曜日の午後,「人類の創造者のもとに全人類をひとつにする」と題する公開講演を聴くために,1万7,259人がリザル記念フットボール競技場に参集したのはほんとうにすばらしいことでした。大会のプログラムは英語で行なわれましたが,同時通訳者がそれをイヤホーンで聴いてイロコ語とタガログ語に通訳しました。バプテスマの話の後,434名のバプテスマ希望者に対して,英語の外に八つの言語で二つの質問がなされました。
ダバオから200人の兄弟たちが一せきの船でやって来ました。また,遠いカガヤン峡谷からは大勢の兄弟たちが45台の貸切バスに乗ってやって来ました。それらの代表者たちは,大会会場とその時にマニラにあった26の王国会館の所在地を示す,きれいに印刷されたマニラの地図を渡されました。
DZBBラジオ放送局がノア兄弟をインタビューして,その模様を「ニュース・スクープ」という番組で放送したので,優れた証言がなされました。インタビューは30分の予定でしたが,番組の担当者が大いに関心を持ったため,15分も延びてしまいました。そのインタビューの模様は大会会場でも拡声器で放送されました。
F・W・フランズの訪問で築き上げられる
協会の会長の訪問からわずか9か月後に,フィリピンの兄弟たちは副会長のフレデリック・W・フランズ兄弟と交わる特権を得ました。1957年1月15日から17日にかけて3日間の全国大会を開く取り決めが直ちに設けられました。リザル記念フットボール競技場で行なわれた「この時代に訪れる新しい世の平和 ― なぜ」と題する公開講演に9,463名が集まりました。講演者のフランズ兄弟が演壇に歩いて行った時,会場から拍手が起こりました。というのは,フランズ兄弟がフィリピンの男性の正装である,絹と植物繊維で織った生地にみごとな刺しゅうのしてあるバロング・タガログというシャツを着ていたからです。それはフィリピンの兄弟たちが感謝の気持ちからフランズ兄弟に贈ったものでした。
その大会中,共産主義国ソ連におけるエホバの民の迫害を抗議する強力な決議文が提出され,それは大会出席者によって熱烈に採択されました。当時フィリピン共和国はソ連と外交関係を結んでいなかったので,フランズ兄弟は支部の監督およびもう一人の兄弟と共に,時の副大統領であり外務長官であったカルロス・P・ガルシア氏を訪れました。ガルシア氏は40分間の面会を許してくれました。そして,アメリカ政府を通じてソ連政府のしかるべき人物に決議文を送ることを了承してくれたのです。それから2か月後,ラモン・マグサイサイ大統領が飛行機事故で死亡したためにカルロス・P・ガルシア氏が大統領に就任しました。
1958年の国際大会
1958年の夏にアメリカのニューヨーク市にあるヤンキー野球場とポロ・グランドで神の御心国際大会が開かれましたが,フィリピンから81人の兄弟
たちがその大会に出席する特権と喜びを得ました。また,そこでフィリピンの3人の兄弟がギレアデ学校を卒業するのを見るという大きな喜びも味わいました。そうした国際的な集まりを通して,兄弟たちは,一致するように,またエホバの世界的な家族としていっそうまとまるように助けられました。国旗敬礼の問題
1940年にアメリカ合衆国最高裁判所がゴビティス事件を有罪としたことから起きた国旗敬礼の問題は,20年近くも一進一退の状態で争われていました。当時司法長官だったホゼ・アバド・サントスは,公立私立を問わずすべての学校が生徒に国旗敬礼を行なわせ,敬礼しない生徒を放校するべきであるとの見解を明らかにしました。バーネット事件でアメリカの最高裁がゴビティス事件の判決を破棄したことにより,フィリピンでも1948年にその時の司法長官ローマン・アサエタが先の判決を破棄するとの見解を発表しました。ところが1955年6月11日にラモン・マグサイサイ大統領は,公立および私立の生徒全員に国旗敬礼を要求する法案に署名してそれを法律としたのです。国旗敬礼をしない生徒は放校処分を受けることになっていました。
エホバの証人は出エジプト記 20章4節から6節に基づく良心上の理由から,法廷を通じてその法律からの免除を求めました。マスバテでゲロナ兄弟の子供たちが放校されました。マスバテの第一審裁判所は法律を支持し,エホバの証人を免除することを拒否しました。その事件はフィリピンの最高裁判所に持ち出され,1959年5月15日にゲロナ対文部長官の裁判が行なわれました。フィリピンの法制上類のないことでしたが,アメリカ人の弁護士が最高裁でエホバの証人の立場を説明することが許されました。良い証言が行なわれました。エホバの民が国旗敬礼をしないのは国旗を軽んじているからではなく,純粋に宗教的な,また良心上の理由からであるということが,著名な裁判官たちにはっきり説明されました。
それにもかかわらず,1959年8月15日,フィリピン最高裁判所は次のように裁定しました。すなわち,人間製の象徴物を敬礼することが宗教的な違犯になるにしても,エホバの証人の子供に国旗敬礼を要求することは許される,というのです。こうして,エホバの証人は不利な判決を受けましたが,聖書によって訓練された良心に飽くまで従い続けました。兄弟たちは,クリスチャンの良心を犯さない限り,学校の授業を利用しましたが,そうでない場合には,両親が家庭で子供の勉強をみることに力を尽くしました。
業の監督に当たる人々の移動
1960年代には,フィリピンにおける業を監督する人々に幾つか移動がありました。スチュアート姉妹の健康上の理由でスチュアート兄弟がフィリピンを離れたため,ルイス・リオネ兄弟が1960年4月1日付で支部の監督に任命されました。リオネ兄弟姉妹が家族の責任を果たすことになり,その代わりとして1963年3月1日付でウィリアム・D・ジョンソン兄弟が支部の監督になりました。ジョンソン兄弟姉妹も家族の責任が生じてカナダにもどったので,1966年5月1日にデントン・ポプキンソン兄弟が後任になりました。現在5人の支部委員がフィリピンにおける王国を宣べ伝える業の監督をしています。
M・G・ヘンシェル兄弟の訪問
1960年,ミルトン・G・ヘンシェル兄弟が地帯の監督としてフィリピンを訪れました。その訪問中,支部の組織的な拡大に関して多くの親切な援助が与えられました。また,3月24日から27日にかけて,パンガシナン県リンガエンのマグサイサイ記念球場で全国大会が開かれました。その時,話し手は英語でプログラムを扱いましたから,五つの言語で同時通訳がなされました。球場の隣のシソン講堂は1945年に戦後初めての大会が行なわれた所ですが,今回の大会では簡易食堂に使われました。また,658人がリンガエン海岸でバプテスマを受ける光景は実に感動的でした。それは,一つの大会でバプテスマを受けた人の数としては,1945年の戦後初の大会以来最も多い人数だったのです。また,「神が諸国民に平和を語るとき」と題するヘンシェル兄弟の公開講演には,それまでの最高数に当たる1万9,640人が出席しました。
一層の拡大に備える
ほぼ一年後の1961年2月5日に,全国各地の会衆の監督たちを訓練する王国宣教学校が開かれました。その一か月の課程は初めのうち英語で行なわれ,後に幾つかのフィリピンの言語で行なわれました。学校は初めベテルで開かれたので,ベテルは人で一杯になりましたが,各地から来た兄弟たちとの交わりを楽しむことができました。その後,遠いマニラまで船に乗って来るのが困難なビサヤ諸島とミンダナオ島の兄弟たちの益のために,セブ市,ダバオ市,イロイロ市で授業が行なわれました。
1か月の課程は1965年に中止されましたが,1966年の10月から,ベテルで2週間の王国宣教学校が開かれるようになりました。やがて学校は拡張され,全国の16か所で授業が行なわれました。今までのところフィリピン
の7,460人の監督たちが王国宣教学校に出席したのですから,実にすばらしい霊的な備えがなされたわけです。支部の9人の兄弟たちは,1961年から1965年にかけてニューヨーク市のブルックリンで開かれたギレアデ学校の特別な10か月の課程を受ける特権にあずかりました。帰国後その兄弟たちは,支部事務所や野外において責任のある立場で奉仕するように任命されましたから,支部の組織は強化されました。9人のうち7人は今でも活発な全時間奉仕者で,そのうちの5人はベテルの成員です。
1961年,協会はフィリピン支部に印刷を一部行なわせることにしました。そのために,同年7月にニューヨークの印刷工場から,ミーレ縦型印刷機とライノタイプ,断裁機および校正刷印刷機がフィリピン支部に届きました。こうして,1961年12月にフィリピンにおいて「王国奉仕」(現在の「わたしたちの王国奉仕」)の最初の号がビコル語,セブアノ語,ヒリガイノン語,イロコ語およびタガログ語で発行されたのです。ビラや用紙類その他の印刷も行なわれるようになり,1962年7月からはさらに四つの言語の,すなわちパンパンゴ語,パンガシナン語,サマル-レイテ語およびイバナグ語の「王国奉仕」が印刷されるようになりました。したがって,現在フィリピンでは9種類の「王国奉仕」が毎月印刷発送されています。
1961年までに伝道者の数は3万5,713人に増加し,会衆の数は929になっていました。印刷設備が入りましたし,王国宣教学校も開かれるので,支部はまたもや手狭になりました。ゆえに,今まであった二つの建物の隣に,ほぼ同じ大きさで同じ形の三つ目の建物が建てられることになり,1961年6月19日から工事が始まりました。その年の末に事務所が新しい建物の一階に移り,翌年の5月12日と13日に,その建物はエホバに献堂されました。5月12日,土曜日の夜,1,550人ほどの人がサルヴァドー・リワグ兄弟の献堂式の話を聴き,日曜日の公開講演には2,099人が出席しました。絶えざる拡大に歩調を合わせるための一助として,美しく近代的な建物がベテルに付け加えられたことに,兄弟たちは深く感動しました。
宣教者たちは国外に追放されそうになった
1959年に国旗敬礼の問題が有罪の判決を受けたためと思われますが,1962年9月29日に支部の監督は法務省の国外追放局から一通の手紙を受け取りました。それには1962年10月1日に出頭するようにと書いてありました。支部の監督はそこで,国外追放局が国旗敬礼の問題に関するエホバの証人の立場を調査していることを知りました。同局の役人たちは,外国人
宣教者たちから国旗敬礼をしないようにと教えられるフィリピン人が増えているので,宣教者を望ましくない者として国外に追放すべきであると考えていたのです。一人の役人はこう述べました。「君たちの組織は急激に伸びているが,今後大きくなればなるほど,国旗に敬礼しないフィリピン人が増えるだろう」。支部の監督は,そのような根拠が宣教者を追放すべきでない理由をしたためた覚え書きを20日以内に用意するように言い渡されました。覚え書きが提出されました。問題の綿密な調査と討議を十分に行なった末,国外追放局は,エホバの証人の宣教者たちが聖書を教えているにすぎず,フィリピンの国旗を敬礼しないようにとだれにも語っていないことを理解しました。また,次のことも認めました。すなわち,証人は,国の安全を妨げたり脅かしたりするどころか,模範的な市民であること,常に立派な振る舞いをすることによって国旗に対して十分の敬意を表わしているということです。ゆえに,同局より支部にあてられた1962年12月10日付の手紙にはこう書かれていました。「あなたがた,また『エホバの証人』の他の成員がフィリピンの国旗に敬礼することを拒否しているとの訴えは取り下げられましたので,どうかご了承ください」。外国人宣教者たちは,フィリピンの兄弟姉妹たちと共に引き続き奉仕することができるので大変喜びました。
そのことは広く伝えられ,こうして人々は,国旗敬礼に関するエホバの民の申し立てを聞く十分の機会を与えられました。
1963年の世界一周大会
それまで多くの国で順々に開かれて大きな成功を収めていた,5日間にわたる「永遠の福音」国際大会は,フィリピンでも1963年8月14日から開かれました。会場として,リザル記念フットボール競技場が契約されました。8月は雨季に入っていますが,屋根の付いた座席は予想される大勢の出席者の分だけなかったので,305㍍の青空スタンドの上に仮設のなまこ鉄板屋根が作られました。大会が始まる前日に台風がマニラを襲い,市内は大洪水に見舞われて大会の諸施設も被害を受けました。が,大会は予定通り8月14日に始まりました。
大会の話は英語でなされ,セブ語,イロコ語およびタガログ語に通訳されました。非常に喜ばしいことに,「神が全地に王となるとき」と題するノア兄弟の公開講演に合計3万7,806人が出席しました。特に感動的だったのは,フィリピンにおいてかつて例のない大きな集団バプテスマが行なわれたことで,2,342人がエホバ神への献身を象徴しました。
「永遠の福音」大会はフィリピンで開かれた最初の国際大会で,22の国から代表者が出席しました。外国からの出席者たちはフィリピンの兄弟たちの温かい歓迎を受け,マニラ市内の見物とケソンシチーにある支部の見学をしました。ラジオやテレビの番組で,それら外国からの訪問者多数がインタビューを受けました。また,新聞も多くの紙面を割いて大会を報じました。
近隣の国々を援助する
そのころまでにフィリピンの王国伝道者の数は大勢になっていたので,1964年には,経験のあるフィリピン人の開拓者を,王国宣明者の比較的必要なアジアの他の国へ任命することが考えられるようになりました。そして,その年に,2人の姉妹がタイ支部の監督の下に特別開拓者として奉仕するように任命されました。その2人はギレアデ学校の卒業生ではありませんでしたが,翌年から宣教者と同様の扱いを受けるようになりました。2人の姉妹は,タイ語を学び,アジアの隣国の人々とよくなじんで,新しい任命地で立派な働きをしたので,その後さらに多くの宣教者がフィリピンから送られました。
過去13年余りの間に香港,インドネシア,韓国,ラオス,マレーシア,台湾,タイおよびベトナムへフィリピンの兄弟たちが派遣されましたが,1977年6月現在その合計は78人です。これは,第二次大戦後にフィリピンで奉仕した51人の外人宣教者よりずっと多い数です。そして,アジアの他の国における良いたよりの宣明に幾らかでも貢献できるのは,フィリピンの兄弟たちにとって大きな喜びです。
ノア兄弟の訪問
N・H・ノア兄弟は国際大会に出席するためにフィリピンを訪問したほか,支部を調べる目的で1960年代に2回訪れました。最初の訪問は1964年12月に行なわれ,ノア兄弟はマニラ・ジョッキークラブで7,463人という大勢の聴衆に話をしました。1968年5月の訪問の時にも同じ場所で話をしました。その時には全国から9,669名の人が集まって,「あなたがたは忘れてはならない」と題するノア兄弟の2時間にわたる講演を聴きました。2度の訪問はいずれも非常に有益かつ励ましとなるもので,業を大いに鼓舞しました。
「地に平和」大会
今述べた,1968年5月のノア会長の訪問中に,翌年の10月22日から26日
にかけて開かれることになっていた「地に平和」国際大会の会場として,リザル記念陸上競技場を使用する交渉がまとめられていました。非常に多くの出席者が予想され,マニラには全員を収容できるほど大きな会場がなかったので,支部は近くに二つの会場を設けることにして,リザル記念フットボール競技場とリザル記念野球場を借りました。こうして,約5万人の座席が確保できたのですが,それだけでは不十分でした。というのは,「近づく一千年の平和」と題するノア兄弟の講演に6万4,715名もの聴衆が集まったからです。それで野球場の芝生や場外の通り,また通りの向こう側の簡易食堂にまで聴衆があふれました。プログラムはおおむね三つの主要な言語,すなわちセブ語,イロコ語,タガログ語で行なわれ,各言語グループごとに演壇が設けられていました。主な話は英語でなされ,他の言語に通訳されました。大会には25か国の代表が出席し,その中にはノア兄弟姉妹,F・W・フランズ兄弟,グラント・スーター兄弟姉妹,その他ブルックリン,トロント,ストラスフィールド,ロンドンのベテル家族の成員たちもいました。そうした円熟した兄弟たちと交わり,そのうちの数人の兄弟による大会の話を聴いたことは特権でした。
出席者たちにとって感激だったのは,多くの新しい出版物が英語でばかりか自分たちの言語でも発表されたことです。「とこしえの命に導く真理」と題する本が三つの言語で,また,「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する本が二つの言語で出版されたのは,兄弟たちにとってとりわけうれしいことでした。
「とこしえの命に導く真理」の本の英語版が1968年12月に初めてフィリピンで発表された時から,伝道者の数が急に増加しましたから,「真理」の本が伝道者の増加に大きく貢献したことは確かです。1968年当時,フィリピンの伝道者数は4万人をわずかに超えていたにすぎません。ところがそれから1年半もたたない1970年4月に,伝道者は5万4,789人という新最高数に達したのです。6か月間の聖書研究にその本が用いられることによって,業は大いに盛り上がりました。また,正義を愛する人々が非常に速く真理を悟って進歩するように助けられました。
「真理」の本は間もなく,フィリピンにおけるエホバの民の歴史上最高の配布数を持つ本になりました。1977年6月までに,英語とフィリピンの八つの言語の「真理」の本が,合わせて126万7,782冊配布されたのです。それまで最高の配布数を持っていたのは,20年間で40万2,610冊配布された「神を真とすべし」と題する本でした。したがって,「真理」の本の配布数はそれよりはるかに上回っていたわけです。
印刷事業の拡張
1970年代にもフィリピンのエホバのしもべたちは引き続きすばらしい進歩を示しました。1971年7月,リザルのマリキナにあるロドリグェス・スポーツセンターに集まってノア兄弟の話を聴いた1万7,071人の聴衆は胸を躍らせました。というのは,ノア兄弟が,フィリピン支部の印刷事業は拡張されると発表したからです。その発表によれば,新しい工場と宿舎が建てられ,輪転機や他の印刷施設が導入されます。そして,フィリピンで英語およびフィリピンの言語の「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌の印刷が行なわれることになるのです。
それは胸の躍るようなニュースでした。それまで「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌はブルックリンで印刷され,長年にわたってブルックリンの兄弟たちはフィリピンの人々のために良い奉仕を行なっていました。しかし,毎号の雑誌を地球の裏側まで発送することには明らかに問題がありました。したがって,フィリピンで雑誌の印刷がなされるようになることは大きな進歩でした。
1972年2月2日に当局から建築の許可が下り,その日に工事が始まりました。工事の大半は証人たちによって行なわれ,急速に進められました。フィリピン史上最大の雨量を記録したその年の8月25日までに,2,082平方㍍の工場の形が出来上がり,大きな木わくに入った重い機械の最初の荷が日本から届きました。
1972年9月,フィリピン大統領は,社会不安が高まったために戒厳令を宣言しました。それはちょうど支部が印刷を始める準備をしていた時でしたから,印刷の仕事にどんな影響があるかあやぶまれました。印刷できるかどうかという試験をすぐ受けなければならなくなったのです。それで,すぐにも印刷の許可を申請しなければなりませんでした。うれしいことに,戒厳令が敷かれてからちょうど6日後の9月28日に許可が下りたのです。
1971年から1973年にかけて,印刷と建築の特別な訓練を受けた14人の宣教者がフィリピンのベテルに任命されました。それらの宣教者は,初めは建設工事を助け,後に新しい工場で働くフィリピン人の開拓者たちの訓練を援助することができました。その訓練は1972年の10月に始まり,翌年2月には二つの雑誌が初めて印刷されました。
それ以来印刷の業は拡大しました。生産量が次第に上昇し,「ものみの塔」誌は八つのフィリピンの言語で,また「目ざめよ!」誌は四つのフィリピンの言語で印刷されるようになったのです。次いで英語の雑誌も印刷
されるようになりました。印刷部数の増加に伴い,2台目の輪転機を含む新しい機械類が1975年5月29日に設置されました。訓練に携わった14人の宣教者のうち今でもフィリピンにいるのは6人です。しかし,それらの宣教者によってなされた優れた訓練のおかげで,現在フィリピンの兄弟たちが印刷作業の一切を行なっています。また,ここで印刷された雑誌は海外の72か国へ送られているのです。1970年代におけるその他の変化
1973年にはもう一つの段階が踏まれました。アメリカ人にフィリピンで私有財産を持つことを特別に許可する協定が1974年7月に無効になることになっていたため,協会の資産すべてをフィリピンの法人に譲渡するのは賢明であると思われました。それで1973年10月19日,フィリピンのものみの塔聖書冊子協会が設立されました。それによってフィリピンのエホバの証人の立場は一層安定したものになりました。
そのころ行なわれた地帯の訪問も兄弟たちの励ましになりました。ミルトン・ヘンシェル,ネイサン・ノアおよびロイド・バリーといった統治体の成員が多くの聴衆に賢明な助言と導きを含む話をして大きな励ましを与えました。また,同年8月,マニラで国際的な大会が開かれた際には統治体の5人の成員が訪れ,フィリピンの人々に多大な益をもたらしました。
さらに,1972年10月から実施されるようになった会衆における長老制や,1976年2月1日より始まった支部委員の取り決めなどの変化によっても益がもたらされました。現在どの会衆においても,兄弟たちは,クリスチャンの長老に要求されている種々の資格にいっそう深い注意を払っています。そして,個々の人に対する監督の一団の行き届いた世話によって会衆は助けられています。
証言の業は1970年代に実質的な発展をみました。1969年に報告を提出した平均伝道者数は4万5,479人でしたが,1977年6月までにその平均は6万6,000人を上回っていたのです。将来の見込みも良いものです。同年の記念式には16万5,000人を上回る人々が出席し,キリストの犠牲とそれがもたらす益に対する関心を示したからです。
こうした増加に歩調を合わせて,ベテル家族も増えました。1948年に支部がルーズベルト街の新しい建物に移った時,一つの建物にわずか9名の人が住んでいたにすぎませんでした。ところが現在では,一つの敷地に五つの大きな建物があり,床面積の合計は4,670平方㍍に及んでいます。そこで89人のベテル奉仕者が様々な立場で信仰の仲間に仕えているのです。
このように,文字通りの処女地だった土地で一握りの忠実な証人たちが熱心に奉仕していた1930年代の昔から,物事はずいぶん進展しました。その“古老たち”の多くは今でも働いています。スペースの関係でここに名前の挙げられていない人も幾人かいますが,その人たちはみな自分たちの熱心な働きの良い実を見て喜びを味わっています。比較的最近奉仕を始めるようになった人たちはその人たちの熱意と専念の模範からいつも励ましを受けています。
フィリピンのエホバの証人のすべては奉仕の特権を大いに喜んでいます。エホバのみ手から多くの祝福をいただいているので,エホバの霊が自分たちのただ中で働いているのを認めています。また,エホバのお名前と王国を引き続き宣明すること,そしてエホバのご意志である限りフィリピンでさらに多くの弟子を作ってゆくことを決意しています。
[80ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
フィリピン
ルソン島
ピガン
サンフェルナンド
バギオ
リンガエン
カバナツアン
ケソンシチー
マニラ
ビサヤ諸島
マスバテ
シバロム
イロイロ
バコロド
セブ
レイテ島
タクロバン
ボホル島
タグビララン
シアルガオ島
ミンダナオ島
スリガオ
ブエナウィスタ
カガヤンデオロ
ディポログ
オサミス
サンボアンガ
コタバト
マキララ
ダバオ
フィリピン海
南シナ海
スル海
マレーシア