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カナダ

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インデアンのイロコイ族はこの国を,“一群の小屋”という意味のカナタと呼びました。しかし読者の皆さんは,カナダと言えば,毛皮を採るわな猟師,エスキモー,エルクじか,北極ぐま,それから,そうそう,“騎馬隊”つまり“おたずね者を必ず捕まえる”赤い外とうを着た王立カナダ騎馬警察のことをお考えになるでしょう。

しかし,現在のカナダにあるのはそれだけではありません。997万6,139平方㌔の国土を持つこの国は世界で二番目に大きな国で,東の大西洋から西の太平洋まで北米大陸に広がっています。南にはアメリカ合衆国が,北には凍て付く北極海が位置しています。

カナダの領土内にはそそり立つ壮大なロッキー山脈,光輝く数多くの川と湖,ごうごうと音をたてて落ちる世界的に有名なナイアガラの滝があります。黄金色に色づいた穀物畑が見渡す限り続く広大な草原,松,えぞまつ,かえで,もみ,かばの木の大きな森はわたしたちの目を楽しませてくれます。

これが2,300万人の人々の“故郷”です。この国では移民に対して比較的寛大な政策が取られているため,カナダの人口にはオーストリア人,オランダ人,ドイツ人,ギリシャ人,ハンガリア人,イタリア人,ユダヤ人,ラテン・アメリカの人々,ポーランド人,ポルトガル人,ロシア人,スカンジナビア諸国の人々,スペイン人,ウクライナ人,西インド諸島の人々,ユーゴスラビア人が含まれています。東洋からはアラブ人,中国人,インド人,フィリピン人,日本人,韓国人,パキスタン人が移住してきています。ずっと昔,白人が定住する以前,ここにはエスキモーと種々様々なアメリカ・インデアンが住んでいました。幸い,今でも少数のエスキモーと,クリー族,カユガ族,モホーク族,オジブワ族,クートネー族,ハイダ族などのアメリカ・インデアンが住んでいます。

1534年フランス人の探検家カルティエが来ました。そして1604年に,フランスによる最初の永久植民地が現在のカナダ東部に建設されました。1500年代の末には,英国が初めてニューファンドランドとその周辺の海岸に来ました。そして後に現在のノバスコシア,ケベック,オンタリオを含む地域に勢力を伸ばしました。1763年,カナダは大英帝国の一部となりました。もっとも,公用語はフランス語と英語の両方が使われました。1867年にカナダ連邦となり,1931年には,イギリス連邦の一構成国としてイギリスと同等の立場を得ました。現在カナダは十の州と二つの準州から成っています。

人口は,主として,アメリカ合衆国との国境に沿った細い帯状の地域に集中しています。そして,一平方㌔あたりの人口は北上するにつれて急激に減少します。国土の大半は住民のいない未開発の土地で,現在国土の12%の土地に人口の九割が住んでいるものと思われます。北の地方は,夏は快適で明るくても冬は厳しい,というのがその理由の一つです。

想像できることですが,多くの移民とともに彼らの興味深い習慣と様々な宗教がカナダにはいって来ました。ですから,仏教,回教,ユダヤ教,ヒンズー教に関係のある事物が見られます。しかし,より大きな宗教グループはいわゆるキリスト教の団体です。単独で最大の宗派はローマ・カトリックで,ほぼ1,000万人を擁しており,その大半はケベック州に住んでいます。連合教会は300万を上回る信徒を有すると主張し,英国国教会は250万の信徒がいると唱えています。残りの人口の多くは,長老派教会,バプテスト教会など比較的小さなプロテスタント諸宗派,それに東方正教会が占めています。もっとも,無宗教をとなえる人々も少なくありません。

東方に一条の光が差す

カナダに真の霊的な光が差し込みはじめたのは,遅くとも1880年のことでした。数人のカナダ人が,アメリカの熱心な親族知人から文書を受け取ったり,神の王国が,栄光を受けたイエス・キリストの働きによって,すべての事がらを回復するという励ましとなる音信を伝えられたりしたのです。(使徒 3:19-21。啓示 21:1-5)それら啓発的な出版物の一つ,1881年に発行された「考えるクリスチャンのための糧」はカナダの人々に好意を持って受け入れられました。キリスト教世界の諸教会で教えられている教理上の誤りを強力に暴露したその本は偽りの宗教というくもの巣を払いのけてしまいました!

その「良いたより」は,アメリカのペンシルバニア州アレゲーニー(現在ピッツバーグの一部になっている)に本部を有する,チャールズ・T・ラッセルと聖書研究者の少数グループによって宣明されていました。カナダの人は王国の音信にどの程度好意的に応じたでしょうか。オンタリオ州の一人の男性から寄せられた次の手紙(1882年1,2月号の「ものみの塔」誌に掲載された)は,聖書の真理に対する心からの感謝を表わしています。

「私が現在所属している教会からどのように脱退したらよいか教えていただけるでしょうか。私は教会に行くべきではないと思うのです。今の教会の教えを信じていないのに,教会へ行くならそれに同意することになるからです。私は長い間教会の教えを本当に信じてきたわけではありませんが,それより勝った道を知りませんでした。有り難いことに,現在,情況はそれとは異なっています。永遠の命の希望を抱きつつ,敬具」。

カナダ人の初期の聖書研究者の中には,かつて牧師をしていたと思われるウィリアム・ブルックマンがいました。ブルックマンの指導の下にトロントでクラスの集会が定期的に開かれました。

初期に聖書の真理を受け入れたもう一人のカナダ人は,トマス・ベーカーでした。この人はトロントの北西約80㌔にある小さな部落,オンタリオ州エルバの製材所経営者でした。ベーカーは非常に信仰の厚い人だったので英国国教会の日曜学校の学校長を務めていました。しかしブーンブーンと音のするその製材工場は,神の王国の壮大なニュースを伝える音も聞こえる所となりました。その様子をベーカーの娘のアニーは,「父はやって来る客すべてにパンフレットか小冊子か書籍をあげていました。もらわなかった人は一人もいなかったと思います」と述べています。

トマス・ベーカーはたいへんよく知られた人だったので,部落の定評ある教会から脱退したときに大勢の人から質問を受けました。事実あまりにも多くの人からそのことについて尋ねられたので,ベーカーは脱退した理由を説明する小冊子を発行したほどです。ベーカーは1906年に亡くなりました。葬式の話をしたのは,ベーカー自身から神のみ言葉の真理を教えられた人でした。

1880年代の末に聖書文書頒布者たち(全時間の王国宣明者)はカレブ・クランデルという人に「良いたより」を伝えました。クランデルは聖書文書を受け取り,クランデルズ・コーナーズ(現在ポートペリーの中にある)の自宅でその訪問者たちをもてなしました。その時そこに聖書研究の群れはできませんでしたが,カレブが少なくとも一度,トロントのメイシーホールで行なわれたC・T・ラッセルの話を聞きに行ったことが分かっています。クランデルはそこで見聞きしたことを大いに喜びました。彼はその時のことをよくこのように語ったものです。質問をするために演壇に招かれた数人の牧師たちは,ラッセルの聖書的で適切な答えを反ばくできなかったときたいへん腹を立てて,全員が一せいにラッセルを質問攻めにしようとしました。ラッセルはご静粛にと穏かに述べて牧師たちに紳士らしく振る舞うように求め,どの質問にも喜んで答えると言いました。牧師たちが聖書に基づく論議を反ばくできないのを見てクランデルは深い感銘を受けました。やがて牧師たちは演壇を降りて群衆の中に消え,それ以上騒ぎを起こしませんでした。

聖書の真理はカナダ西部に伝わる

一条の真理の光がカナダ西部の霊的暗やみに浸透したとき,カナダ東部で真理の光は幾分明るく輝いていました。1889年,マニトバ州カーベリーのウィリアム・フルーウェリングは,C・T・ラッセルの著した「千年期黎明」(後の「聖書研究」)双書の第一巻,「代々にわたる神の計画」を手に入れました。真理を見いだしたと確信したフルーウェリングは,特に1890年にブリティッシュコロンビアのバンクーバーに移ってからそれを他の人々に伝えました。心からそれを聞き入れた人にロバート・ポルロックがいました。まもなく聖書研究のクラスがポルロックの家で開かれるようになりました。わたしたちが知る限り,それはカナダの西海岸で開かれた最初のクラスでした。

後年,ウィリアム・フルーウェリングはアスキス(サスカツーンの西方約32㌔)とサスカチェワン州のワデナで聖書研究の群れを設立するのを助けました。晩年(1934年)にはサスカチェワン州のウィッチカンへ移り,その一帯にくまなく「良いたより」を宣明しました。ウィリアムは1945年にチテクレイクで亡くなりましたが,その地域で彼が始めた王国伝道の業は,彼の多くの親族によって引き続き行なわれています。

言うまでもなく,聖書の真理は他の方法によってもカナダの西部に伝えられました。フルーウェリングが初めて真理を学んだ同じ年,すなわち1889年に,ある善意の人が,アメリカのノースダコタ州ファーゴにある典型的な西部の馬市の広場の寝だなにいたカナダ人に一冊の雑誌をほうり,「ほら,メイ,これは君が興味を持つものだよ」と言いました。レスリー・メイは,ノースウェストテリトリーズのフォートキャペルの自分の農場で育てた馬の群れを売りにそこへ来ていました。メイは英国国教会の会員で,聖書の熱心な読者でもあり,自分が聖書で読んだことを他の人々に話しました。その善意の人がメイの寝だなに雑誌を投げ入れたのも不思議ではありません! さて,メイはその「ものみの塔」誌を通読し,さっそくそれを予約購読して,1924年に亡くなるまでずっと読み続けました。

C・T・ラッセルの最初のカナダ訪問

トロントで初めて一日の大会が開かれたのは1891年でした。その時までに,トロントの聖書研究者の数はその大会が開けるほどに増えていたのです。その大会で初めてパスター・ラッセルがカナダの信仰の仲間を訪れました。2月22日の午前のプログラムでラッセル兄弟は2時間あまりにわたって話し,400人を超す聴衆が集まりました。その日の午後にも行なわれた2時間にわたる話には,700人が出席しました。夕方,ラッセル兄弟はトロントの他方の端にある会衆で話をし,9時前には大会会場にもどって質疑応答のプログラムに出ました。その日は確かに忙しい一日でした。

業が急速に拡大するにつれて反対が起こる

カナダで「良いたより」を広める速度は増していました。1891年の初め,一聖書文書頒布者は次のように書いています。「ほんの短い期間カナダにいるあいだに,すばらしい関心が呼び起こされ,収穫の業が順調に始められるのを見たのは特権でした。……現在オンタリオで5,000冊を超す『黎明』(『千年期黎明』双書)が配布されました。しかも業は快調に滑り出したばかりなのです」。

しかし,この活動は牧師の反対を受けずにはなされませんでした。オンタリオの少なくとも二人のキリスト教世界の牧師は,『千年期黎明』の本を公衆の面前で焼き,同書の頒布者たちおよびラッセル兄弟を公然と非難しました。

その期間中,週間新聞ナイアガラ・フォールズ「レビュー」はC・T・ラッセルの説教を掲載しました。その新聞の編集者はジェームズ・E・アンガー兄弟でしたが,同兄弟は,「私は(1892年まで)町の貸馬車屋,安息日冒涜主義者,ホテル職員,ローマ・カトリック教会,プロテスタント教会からボイコットされました」と述べています。アンガー兄弟はついに新聞社を売らねばなりませんでした。しかし兄弟の子孫は今日まで活発なエホバの証人です。またナイアガラ半島のその地区に霊的に繁栄したクリスチャン会衆が20ほどあります。

1890年代の初期に牧師その他からの反対があったにもかかわらず,現役の僧職者やかつて僧職に就いていた人々の中に,考え方を聖書的に正す人々もいました。さらに,そのような人々は聖書の中にある真理を他の人々に教える責任を理解していました。その中の一人,ジョン・L・ローソンは1892年にラッセル兄弟にあててこう書き送っています。

「主はこれまで長年のあいだ私に,これら千年期に関する真理を受け入れる備えをさせてくださいました。私は1874年に,9年間務めていた英国の原始メソジスト派の牧師の職を去り(退職し)ました。……それ以来私は預言の研究をするように導かれてきました。あなたが著された双書ほど,この研究分野で豊富かつ完全な内容の本をこれまでに見たことがありません。この双書を読むのは私にとって実に“時に及びて与えられる食物”の宴に座っているようなものです。成就している預言の真理は,信仰の家の者にとってまさにそのようなものなのです。……

「私は,目ざめている聖別された人々の助けになりたいと思います。しかしこの未開墾地(カナダ)ではあまり働くことができないのではないかと思います。聖書文書頒布者に関する協会の取り決めがどんなものか,またそうした必要の特に大きな分野を知っておられるかどうか知りたいと思います」。

神の真理を学び,それを他の人々に宣明するのが急務であることを悟る人々が増加の一途をたどったので,王国活動は速度を増し続けました。そして聖書研究者のクラスは次々に設立されてゆきました。例えば1892年には,ブリティッシュコロンビアのビクトリアでクリスチャンの集会が開かれるようになりました。

マニトバ州カーベリーのマシュー・ネルソンが王国の音信を初めて聞き,それを受け入れたのはその年のことです。1893年にネルソンはマニトバ州のグランドヴューへ移り,そこで聖書の真理の種を植えました。関心のありそうな人に会うために,片道24㌔もある舗装されていない道を荷馬車を使って行くことも珍しくありませんでした。道がぬかるんでいるときにそれは楽なことではありませんでした。ネルソン自身の家族の中で,母親と姉妹たちおよび姻せき関係にある数名の人々がネルソンの努力に好意的に応じました。1914年11月22日に最初の会衆がグランドヴューに設立され,ネルソン兄弟は監督する特権を得ました。この非常に活発な“点火栓”(マシュー・ネルソンは土地の聖書研究者からそのような愛称で呼ばれていた)は,1945年に亡くなるまで仲間のクリスチャンすべての大きな励ましとなっていました。

マリチーム郡で業が始まる

1892年ごろ真理を学んだ人々の中に,ノバスコシア州ハリファクスのアーサー・N・マーチャントとW・T・ドーデンがいました。二人もクリスチャンが何かを行なうということを学びました。クリスチャンは「良いたより」を実践し,それについて話します。果断なマーチャントは,「良いたより」を宣べ伝えることほど大切な仕事はないという絶対的な確信を持って聖書文書頒布者になりました。そして,早くも1895年に組織的な証言活動を行ない,プリンスエドワード島を含むマリチーム郡全域をひんぱんに網らしていました。それによってその地方における将来のすばらしい発展の基礎が置かれました。

アーサー・マーチャントは幾つかの群れを設立したり,他の人に証言するよう人々を訓練したりして関心のある人々を霊的に援助しました。また,バプテスマという重要な段階を踏みたいと望む人々にバプテスマを施しました。

その業が行なわれた当時,旅行は今のように快適で便利で楽ではなかったことを忘れないでください。マーチャント兄弟にとって何キロも歩くことは珍しくありませんでした。時には自転車に乗ることもありました。冬は,自動車が使える時には自動車を利用しました。とはいえ,その時代には自動車のヒーターというものがまだありませんでした。エラ・ダウはマーチャントが無蓋車を運転していた時のことを覚えています。マーチャントがいなかの彼女の家に着いたとき「骨までこごえて」いました。「私はマーチャント兄弟の両足に塗布剤をすり込んでオーブンに入れ,いくらかでも暖まるようにしました」と,ダウは語っています。

マーチャント兄弟は長年のあいだ決して動揺することはありませんでした。第一次世界大戦中に,「終了した秘義」と題する本を配布したかどでハリファクスで逮捕されたことがあります。そして,保釈金はなんと一万㌦と定められました。裁判官から職業を問われたとき,マーチャント兄弟はためらうことなく「至高の神の奉仕者です!」と答えました。アーサー・N・マーチャントは1940年5月23日,忠実のうちに生涯を終えました。それにしても,彼はほぼ50年にわたる弟子を作る活動で実にすばらしい働きをしました。マーチャント兄弟が精励刻苦して奉仕した13万2,000平方㌔の地域には今日80を超す会衆があり,4,500人余りの活発なエホバの証人が交わっています。

『燃える火のよう』

マリチームといえば,神の言葉がついに「燃える火のよう」になり,神の言葉を語らずにはいられなかったカナダ人のことが頭に浮かびます。(エレミヤ 20:9,新)その人は1877年7月2日にカナダで生まれ,ノバスコシアのカトリック地域で長老派の両親に育てられました。その名前はアレクサンダー・ヒュー・マクミランです。

まだ13歳ぐらいの少年だったマクミランは,妹がジフテリアで死んだときこう考えました。「命とは短くてはかないものだ。今行なっていることが将来自分がどうなるかということと関係があるとすれば,永遠にわたってより勝ったものを得るという希望を抱いて今,主に仕えることに時間をあてないなら,非常に愚かだ。私としては,はっきりした態度をとって,主に喜ばれると自分の信じることを行なおう」。

マクミランは16歳のときに説教者になろうと決心しました。家を離れて学校へ通い,そこで神学校の受験準備をしました。しかしマクミランは,あることで神経衰弱にかかり,悲嘆に暮れて家に帰りました。父親は理解があって資金を出してくれたので,間もなく若者はアメリカのマサチューセッツ州のボストンへ向かいました。ボストンでマクミランは,C・T・ラッセルの著した「代々に渉る経綸」(もしくは「代々に渉る神の経綸」)を入手しました。そこに収められていた真理は,マクミランの内部で「燃える火のよう」になりました。マクミランはそれを抑え切れず,通りへ出て行って人々を捕まえては自分が学んだことを話しました。

ある日マクミランは,一面識もない人に近づいて,「あなたは神がアブラハムに与えられたすばらしい約束,つまりアブラハムの胤を通して地の全家族が祝福されるということをご存じですか」と尋ねました。その人はびっくりしてこう答えました。「どこのアブラハムさんのことですか。サレム通りで質屋をしているアブラハムさんですか」。

さて,少なくともマクミランは,少年のときの,説教者になるという目標に到達しようとしていました。1900年9月,その熱心なカナダ人は,エホバ神への献身の象徴としてバプテスマを受けました。それ以来長年にわたり,マクミランは「良いたより」を宣明しながら広範囲に旅行し,会衆を訪問して信仰の仲間を霊的に築き上げました。そして,1966年8月26日,89歳で亡くなり,ブルックリン・ベテル家族の成員として地上における忠実な生涯を閉じました。

築き上げる「巡礼者」の訪問

A・H・マクミランはC・T・ラッセルと親しくしていました。二人はともに,仲間のエホバの崇拝者たちに深い気遣いを示しました。ラッセルは一日大会が開かれている間,カナダの多くの聖書研究者の群れを訪問していました。しかし,新しい会衆もしくはクラスが多くの土地で設立されていたため,ラッセル兄弟がそのすべてを訪問することはもはや不可能でした。とはいえ,そうした訪問,行なわれた話,良い交わりは神の民を霊的に強めるうえで大いに貢献しました。それで1894年9月1日号の「ものみの塔」誌に,有能で任命を受けた兄弟たち多数が会衆を訪問することが発表されました。ものみの塔協会の旅行する代表者によるその奉仕は,後に「巡礼」奉仕と呼ばれました。巡礼訪問の典型的な一日とはどのようなものだったでしょうか。ラッセル兄弟にあてられた次の手紙から,いくらか想像できるかもしれません。

「(ジョージ)ドレイパー兄弟が訪問し,そして去りました。……私たちの集会は大きくはありませんでしたが,次のことは言えると思います。つまり,強い関心を抱いていることがどの人の顔にも表われていましたし,私たち小さなグループの全員と外部から来た数人の人々は,(トロントの)新しい会館で開かれたすべての集会から深い感銘を受けたということです。

「日曜日の朝10時30分におよそ40名の人は,象徴的な意味を持つ水のバプテスマを見るために……バーミイビーチに集まりました。その朝は明るくて涼しく,とても風が強かったので大波がうねっていました。そのためにバプテスマはむしろいっそう興味深い行事になりました。四人の姉妹と五人の兄弟が[バプテスマを受け]ました…私たち小さなグループは和気あいあいのうちに帰宅し,午後3時に再び会館に集まりました。愛するドレイパー兄弟が聖書に基づく貴重な事柄をさらに話してくださるのを聞くためです。

「午後7時に最後の集会が始まりました。会館には88名か90名が集まっていました。兄弟姉妹の友人知人がかなり大勢来ていました……9時30分ごろ,肥えたものの宴は一応終わりました。みんなの顔はこれ以上幸福そうな顔はないと思われるほど幸福そうでした。どの人も自分が聞いた貴重な事柄に歓喜していました」。

オンタリオ州ハミルトンのウィリアム・ハーシーは1905年までに,事情を調整して巡礼奉仕を始められるようになりました。ハーシーは経済的にゆとりがあり,ハミルトンにとどまることもできました。しかし巡礼者として北アメリカを横断したので,間もなく多くの人によく知られる人物となりました。そしてその奉仕をカナダとアメリカで長年の間行ないました。

ハーシー兄弟は1893年にバプテスマを受けました。兄弟は小柄でしたが,その物腰は印象的でした。子供や若者に特別な関心を払うことにも示されたとおり優しい性質の人でしたが,特に高齢になってからは白髪でいっそう優しく見えました。当時まだ子供だったある人は,その思い出をこう語っています。

「ハーシー兄弟は,夕食が終わると夕方の散歩に兄のジョーと私を畑へ連れて行ってくださいました。私たちは柱にもたれながらしばらくの間腰をおろして,耕された大草原の畑の向こうに太陽が沈むのをながめました。大草原に夕日の沈むのを見たことのある人なら,私たちの眼前に広がっていた光景がお分かりになるでしょう。大きくて丸い火の塊のように真っ赤に輝く太陽がゆっくりと沈んでゆくにつれて,地平線上の青い空は深紅色になり,オレンジ色の光がいく筋も空に広がっていました。私たちの周りの林では巣に帰る鳥の鳴き声が聞こえ,右手の牧草地では馬が草を食べ尽くして鼻を鳴らしました。それは,もの静かで献身的なその人と,神の創造や神の王国について話し合うのにうってつけの状況でした。その時のことを私は決して忘れないでしょう」。

ハーシー兄弟の訪問を受けてから50年もたった今日でさえ,その奉仕に対する感謝の気持ちを表わしながら懐かしそうに兄弟の思い出を語る人々がいるのも不思議ではありません。とりわけ高い霊性のにじみ出たハーシー兄弟の祈りに大人も子供も感銘を受けました。ある夫婦は次のように語っています。「ハーシー兄弟は私たち二人にとって大きな励ましの源でした。その祈りは人をたいへん励ますもので,私たちはまるで天の宮廷そのものに連れて行かれるような気がしました」。

ウィリアム・ハーシーは半世紀のあいだエホバおよび真の神の崇拝者の仲間に忠実に仕えました。そして1943年に地上におけるクリスチャンとしての生涯と奉仕を終えました。昔のそれら謙遜で敬けんな巡礼者の努力が,信仰で結ばれた兄弟姉妹を霊的に強めたことは容易に理解できます。

マニトバでさらに光が増す

「すべての事がらの回復」に関する壮大な音信がマニトバ州のラピッドシチーにまず伝えられたのは1898年でした。(使徒 3:19-21)そのときラピットシチーに来たのは聖書頒布者のジョフリー・ウェッブで,彼は,A・W・レフラーの雑貨店の奥のだるまストーブの周りに集まっていた業者たちに証言しました。材木置き場の経営者で筋金入りの英国国教会会員であるボウェン・スミスはしばらくのあいだウェッブの言葉に反ばくしていました。しかし,やがて確信するようになり,レフラーその他数名の人々とともにカナダのその地方で最初の聖書研究者のクラスを組織しました。

レフラーは他の人々を教える業に熱意を注ぎました。馬や一頭立ての軽装四輪馬車に乗り,周辺の区域の多くで熱心に証言しました。C・T・ラッセルがその地方を訪れて講演をした際,レフラーの馬と馬車が役立ちました。訪問者と御者が馬車に乗って広大な草原をあちらこちら旅行する様子をありありと想像することは今日でさえそれほど難しくありません。

月日がたつにつれ,レフラーの屋敷はカナダのその地方におけるクリスチャン活動の中心となりました。多くの聖書頒布者と巡礼者がそこに泊まりましたし,小さな大会も開かれました。会衆が組織されたとき,A・W・レフラーは最初の監督になりました。しかし,レフラーやその地域の他の聖書研究者たちの活動は,犠牲や,反対に対する忍耐なくして行なわれたのではありませんでした。当時人々は兄弟たちを“ラッセル派”と呼び,軽べつや憎しみを表わし,クリスチャンの歩みを難しいものにしました。しかし,兄弟たちは迫害に耐え,レフラー兄弟は1946年に亡くなるまで忠実に奉仕しました。

真理はアルバータで足掛りを得る

クリスチャンの決断力および自己犠牲の精神は,アルバータのカルマーでもエホバの祝福を受けました。1895年,聖書研究者のオーガスト・ダルクイストがノースダコタ州からカルマーに来ました。ダルクイストのあと,1899年にはスカンジナビアの“洪水”が続きました。すなわちアンダーソン,エングバーグ,ハンマー,メリン,ピーターソンといった名の家族がノースダコタのドゥラメール付近からカルマーに来ました。それらの家族はアメリカをたつときすでに活発な聖書研究者になっていました。

クヌド・ピーダーソン・ハンマーの家族もそれら開拓者家族の一つでした。1890年に聖書研究者から書籍を求めたとき,クヌドはノースダコタの叙任されたバプテスト派の牧師でした。ハンマー家の子孫の一人によれば,バプテスト派の牧師だったクヌドは「まもなくその本に真理が書かれていることを認めるようになりました。その結果1891年に,K・P・ハンマーは教会で立ち上がり,自分と妻と腕にだいた赤ん坊が『バビロン』から出て行くことを会衆の人々に知らせました。二人はハンナという乳のみ子を連れて偽りの宗教の領域から出て行き,二度と再びもどりませんでした」。

ハンマー兄弟は1892年に故郷であるノルウェーのスキエンを訪れました。その訪問でハンマー兄弟の母親と姉妹が王国の音信に関心を示しました。

その後の詳しい事情についてハンマー兄弟の子孫の一人はこう報告しています。「1899年,50名から成る一団の人々は計画通りに,貸し切りの客車一両に乗り込みました。一行はいっしょにカルマーへ行く計画だったのです。それは新しい国で新しい生活を始めようという,聖書研究者の組織された一団でした。発車まぎわに,K・P・ハンマーはチャールズ・テイズ・ラッセルから,協会の代表者としてノルウェーへ行き,そこで最初の会衆を設立しないか,という招待状を受け取りました。兄弟たちと協議の末,ハンマーはラッセルの招待を受け入れることになりました」。

ハンマー兄弟はノルウェーへ行き,彼の家族は他の聖書研究者たちの世話を受けながらカルマーへ向かいました。ハンマー兄弟はノルウェーにいた間に関心のある人を数名見いだしましたが,会衆は設立されませんでした。家族のもとに帰ったとき,家族はどんな状態だったでしょうか。先の報告は続けてこう述べています。

「帰ったK・P・ハンマーには驚くようなうれしいことが待っていました。熟練した木こりで大工でもあったジョン・フレデリクソンが,他の兄弟たちの助けを借りて,ハンマー兄弟の屋敷内にすてきな小屋を建てたのです。それは初期の時代に兄弟たちが互いに示し合った数多くの愛と親切の行為の一つにすぎません」。―ヨハネ 13:35

カルマーの聖書研究者たちは霊的な事柄を第一にしていました。その一人,アンドルー・メリンの息子は回顧してこう語っています。「郵便を受け取るたびに……燈油のランプの明かりしかないテーブルの周りで夜を過ごし,父が『ものみの塔』誌を読むのを聞いたものです。最初は英語の雑誌が届きましたが,後にスウェーデン語の雑誌が届くようになりました。それで母も同じように雑誌の内容が理解できました」。

メリン家の人々とジョン・フレデリクソンとK・P・ハンマーは,歩いたり馬に乗ったりして,「千年期黎明」双書を用いながら広範囲に証言しました。それらのエホバの証人たちは,カルマー地域のほとんどどこでもよく知られていました。その人たちが十分暇のある人たちだったというわけではありません。入植地にいましたから,馬や牛や手を使って(権利を取得するのに最低8ヘクタールの)土地を開墾するために一生懸命働かねばなりませんでした。それと同時に,食糧の大半を栽培することが必要でした。これら聖書研究者の家族の中には子供がやがて13人にもなった家族もいくつかありました。ですから兄弟たちは必需品を買うお金を得るために,アルバイトの口があれば,たとえ一日35セントにしかならなくてもその仕事をしました。そうです,兄弟たちは自己犠牲的で愛情深く,勤勉で忠実でした。ですからエホバはその人たちを豊かに祝福されました。

それらクリスチャンの家族が大きくなり,その人たちと交わる,関心のある新しい人々も増加したので,カルマーに丸太小屋の集会場所が建てられました。その時代にすえられた立派な霊的土台は多くの忠実なエホバの証人を生みました。また,初期の聖書研究者の家族の名前は,現在西カナダ全域でよく知られています。そしてカルマーには今日でも活発なクリスチャンの会衆があります。

新しい世紀の夜明け

当時各地で見られた業の進展の模様を一部始終述べること,また,エホバに仕えていた人々や家族の名前を全部挙げることは不可能です。しかし,神がご自分の民を祝福されていたことは明らかです。例えば1899年に行なわれた主の晩さんに関する報告によれば,小さいながらも増加していた群れがたくさんあったことが分かります。その年のオンタリオ州の出席状況は次の通りでした。ブラントフォード22人,ドーチェスター5人,ゴドリッチ4人,ハミルトン10人,ロンドン7人,ミーフォード5人,ナイアガラフォールズ7人,トロント21人。マニトバ州の記念式出席者数は次の通りでした。ブランドン8人,クライブ4人,ラピッドシチー10人。他の地域の報告の中にはブリティッシュコロンビア州ワーノック5人,ノースウェストテリトリーズ(現在のサスカチェワン)のレジャイナ7人,ノバスコシアのトルロ8人が含まれていました。その年キリストの死を記念するため集まった群れはほかにもあります。

ですから,確かに,新しい世紀の夜明けとともに,神の王国によるすべての事柄の回復を告げ知らせる業は,カナダ全土で根を下ろしつつありました。発展途上にあった聖書研究者の群れを強めるために,巡礼者たちは信仰の仲間を引き続き訪問し,霊的に築き上げる大会が各地で定期的に開かれました。

こうして,英国国教会会員,長老派の人々,バプテスト派の会員その他,時にはそうした組織の主立った人々の中にも偽りの宗教を勇敢に捨てる人があちらこちらに現われていました。(啓示 18:1-4)それらの人々は,同時に,自分たちが学んでいた聖書の真理を人々に知らせました。

反対を受けても増加する

拡大していたことは確かです。例えば,各地の聖書研究者のクラスの発展に伴い,個人の家で研究の集まりを開いていたのが,広い会場を借りて日曜の集会を開くようになりました。言うまでもなくそうした拡大は反対を招きました。エホバの民の発展と影響を妨害しようと心に決めていた批判的な宗教家の中には,時に行き過ぎたことをする人がいました。例えば,セシル・スコットの話によると1904年にニューブランズウィックのナシュワークではこのようなことがありました。

木材業者で篤信の人だったヘゼカイア・ロンドンは家の農場の一角に教会を建て,ロンドンの7人の娘全員は聖歌隊で歌っていました。ある日その人のもとに,聖書研究者でアメリカのコネチカット州に住む友人から文書が郵送されてきました。ヘゼカイアはそれらの文書を読んだあと,ペンシルバニア州アレゲーニーの「聖書の家」に手紙を出してさらに多くの文書を注文しました。それを読み終えてまもないある日曜日に地元の牧師が「国際聖書研究者とパスター・ラッセル」と題する話をしたのですが,ヘゼカイアはその話に驚いてしまいました。その説教は中傷的な内容だっただけでなく,事実とはおよそかけ離れたものでした。説教の半ばごろ,ロンドンは立ち上がって妻の手を取ると,聖歌隊にいた娘たちに「さあみんな,家へ帰るよ」と言い,9人全員が出て行きました。ヘゼカイア・ロンドンは教会の建物の寄贈者で,教会の財政の主立った支持者でもありましたから,その会衆はまもなく“崩壊”しました。牧師はいなくなり,建物は閉鎖されたのです。

それからまもなく,ヘゼカイア・ロンドンは巡礼者にナシュワークを訪問してもらうよう取り決めました。巡礼者が来る(一年に二回ぐらい)二,三週間前になると,ロンドンは月曜日の朝一頭立ての四輪馬車に乗って出かけて土曜日まで帰って来ませんでした。その小旅行でロンドンは周囲の広範な地域の人々にパンフレットと小冊子を配布し,訪問する巡礼者による講演に招待したものです。では集会場所はあったのですか。確かにありました! ニューブランズウィック,ナシュワークのロンドン農場にあったかつての教会が集会場所でした。今日ヘゼカイア・ロンドンの親族が30人もエホバの証人になっています。

世紀が変わってまもないころ,カナダ各地では神の民の会衆が発展を見ていました。しかし,所によっては,比較的大きな地域社会で10年かそれ以上昔に見られたような状況が依然として見られました。例えば,聖書の真理を受け入れた人が孤立していて他のクリスチャンと親密な交わりを持てず,巡礼者の訪問を受けることもめったにない,という土地がマニトバ州にありました。それにもかかわらず,それら孤立していた人々は堅く立っていました。そしてエホバはその人たちを霊的に支えられたのです。

マニトバ州スーリスの近くに住んでいたジョン・サンプル夫人がその例でした。この夫人は1897年に協会の文書を手にし,ジョン・カーズレイクという人から雑誌を受け取ったこともあったのですが,教会にとどまってその土地の日曜学校で教えようとしました。しかし,1903年,教会から脱退する日が来ました。サンプル夫人は教会で席から立ち上がり,出席者全員にキリスト教世界から離れなければならない理由を話しました。隣の家の人が彼女を教会に引きもどそうとし,何人かの説教者もかり出されました。しかしそのすべてはむだに終わり,サンプル夫人は立場を変えませんでした。後にその隣人ネイ夫人も真理を受け入れました。しかし,何もかも一人で行なわねばならなかったのです。サンプル姉妹の息子のジョンはその当時の母親の状況をこう述べています。「会衆の僕(主宰監督)はいませんでしたし,研究の僕もおらず,だれにも頼れませんでした。集会もありませんでした。あったのは,罪を深く悔いた心と使い古した聖書で,幾時間にも及ぶ長い祈りがささげられていました」。

「良いたより」はその後も心の正直な人々を引き付ける

神を喜ばせたいと願い,いかなる反対にも抵抗して神に仕えようとの決意を持つ,心の正直な人々は引き続き現われました。その一人に,かつて陸軍大尉だったウィリアム・メネレイがいます。メネレイは,1906年,ウィニペグにあった家へ帰る直前にスーリスの電報局の片付けをしていたところ,1893年から1894年にかけての「ものみの塔」誌を数冊見つけました。非常に古い雑誌でしたが,メネレイはそれを持って帰りました。彼の妻はそのうちの何号かを読み,夫に読むように勧めました。メネレイが読んだ最初の記事は,地獄に関するものみの塔協会の小冊子の転載記事でした。さて,それが発端となったのです。メネレイはさっそく協会の事務所に手紙を書いて,ウィニペグに信仰の同志がいるかどうか問い合わせました。そしてレジナルド・テイラー夫妻とハミルトン夫妻の名前を教えてもらいました。1906年以前に,同じ信仰を持つ人々がいくらか交わりを持っていました。事実,早くも1901年に「ものみの塔」誌の中でウィニペグは巡礼者の訪問地のリストに挙げられています。また1905年には,恐らくフランシス・ハミルトンが差出人だと思われますが,彼女が夫とともに主の記念式を祝ったことを伝えた手紙の内容が「ものみの塔」誌に掲載されました。しかし,ウィニペグで組織的な会衆が発足したのは,1905年もしくは1906年でした。

メネレイは地元だけで証言することに満足せず,郵便を使って広範な地域の人々に「パラダイスの中の盗人」とか「魂とは何か」といった,興味をそそる題のパンフレットや小冊子を送りました。それらは,はるかユーコンにまで送られました。ジョージ・ネシュは,サスカチェワンのカムサックに住むカーメンツ家やレインボー家も関心を持つようになったと報告しました。

ウィリアム・メネレイは一度C・T・ラッセルおよび他の聖書研究者たちと世界旅行に出掛けました。その旅行で世界的証言が大いに必要なことがはっきり分かりました。メネレイ兄弟は1960年1月21日に地上の生涯を終える最後の日まで忠実に歩みました。

1911年,マニトバ州ギルバートプレインズのチャールズ・カットフォースは活発なエホバの証人になりました。その父親H・W・カットフォースも関心を持ちました。H・W・カットフォースの家はその土地の聖書研究者の集会場所になりました。やがてチャールズ・カットフォースは聖書文書頒布者となり,ものみの塔協会の旅行する監督に任命されました。その息子のジョンは開拓者になり(1941年),旅行する監督として奉仕し(1942年),トロントの協会の支部事務所の職員となりました(1943年)。それから1946年にギレアデのものみの塔聖書学校に出席してオーストラリアに派遣されました。オーストラリアでジョン・カットフォースは巡回および地域監督として奉仕しました。その後パプア・ニューギニアへ派遣され,今なお忠実に奉仕しています。

オンタリオ州ハリバートンのジェイムズ・ギブソンも,C・T・ラッセルの著書に神の真理が説明されていることを認めた誠実な人の一人です。それは,ギブソンの妻の親族でオンタリオ州ニューリスカードに住むジェイムズ・ブラウンとアレクサンダー・ブラウンからその文書を送られた1907年のことでした。しかし妻のマーガレットは,その時それらの出版物を正しく評価しませんでした。しかしギブソン兄弟が1908年に亡くなったあと,ブラウン家を訪問しました。その孫娘によれば,六週間後に家にもどったとき,マーガレット・ギブソンは「真理をしっかりつかみ,真理以外は考えることも話すこともできないほどでした」。孫娘はさらにこう語っています。

「祖母は1929年に亡くなりましたが,そのときまで祖母がだれかに真理のことを話したり手紙で書いたりしない日はほとんどありませんでした。その昔,ハリバートンで祖母は一頭立ての四輪馬車を使って訪問に出掛けたものです。祖母はハリバートン付近の初期の入植者で,教会の活動に熱心な人でしたから周囲の区域の人々をみな知っていました。祖母の証言の仕方は初期クリスチャンのそれを思い出させてくれます。書籍と身の回り品をかばんに詰めて馬車に乗り,友人や隣人の家に出掛けました。そこへ到着すると,あなたがたが私の持っている音信を理解なさるまで滞在します,そのために来ました,と告げたものです。その家の人が耳を傾けてくれたなら,二,三日滞在して聖句を次から次へと紹介しました。夜遅くまでランプの明かりのもとでそうすることさえありました。そのような方法で祖母が業を続けたことにより,真理をすぐに悟った家族は少なくありませんでした」。

1911年までに,トロント会衆は拡大し,記念式の出席者が110名になるほどでした。それ以外のクラスもやはり発展していました。そのころ会衆は一般にクラスと呼ばれていました。1911年に,カナダ全土の108ものクラスが巡礼者の訪問を受けました。バンクーバーの群れがペンダーホールで開いていた日曜日の晩の講演会は,大成功を収めていました。サムエル・ウィザーズ(1971年3月9日に96歳で亡くなった)はそのころエホバの民と交わり始めたところでした。間違いなくウィザーズは真理に心を動かされました。「代々にわたる神の計画」と題する本の資料に深く感動し,三日間徹夜でそれを文字通り“むさぼり”読みました。三日目の夜,ウィザーズの妻は目を覚まして,「あなた,夜中の三時に“神をたたえよ”って何度も何度もおっしゃるなんて,どんなことがお分かりになったの」と尋ねました。明らかにウィザーズは多くの疑問の答えを得て喜んでいたのです。

王国の音信を宣明することを決意する

聖書の真理に関する知識を得た人々は,他の人々に王国の良いたよりを伝えたいとの強い願いを抱きました。ほんの一例に過ぎませんが,1912年のことジュリアス・W・ランデルは聖書研究者たちによって宣べ伝えられていた音信に接し,それに関して何らかの行動を取ろうと決意しました。ランデルの娘のオリブ・メイズは幾分詳しく次のように語っています。

「ジュリアス・W・ランデルは1903年に初めて真理を聞きました。ノースダコタ州(米国)の“フリーミッション”教会の日曜学校で教師をしていたときのこと,地獄がないという,聖書に基づいた講演を聞いたという話を同僚から耳にしました。その後1910年に,父は,開拓入植者として,北サスカチェワンのメイドストーン村から北へ32㌔離れた土地に来ました。ある日近所の人が進化論に関する本を父に貸してくれました。その本に「聖書は地獄について何と述べているか」と題する小冊子がはさんでありました。以前に友人が父に話した事柄の証拠がその中にありました。

「二年後,ウィニペグのフリー・プレス紙にメネレイ兄弟が掲載した広告が出ました。それには,『あなたは異邦人の時が1914年に終わることをご存じですか』という質問が出ていました。(ルカ 21:24,文語)父は文書を注文しました。『聖書研究』が郵送されて来ると,一週間昼も夜も休まずに読みました。燈油ランプのもとで夜遅くまで読み続けたのです。一週間たったとき,父は真理を見いだしたことを悟りました。それで書籍と聖書をこわきにかかえ,近所の家に良いたよりを伝えるために歩いて回りました。近所の人たちは,『ランデルは気が狂った』と言いました」。

しかし,気が狂ったというのは全く当たらない話でした。しかも,それは,ランデル兄弟のエホバに対する活発な奉仕のほんの始まりに過ぎなかったのです。同兄弟の娘の話はさらに続きます。「真理を全く確信した父は,数年のあいだ幾カートンもの文書を注文してはそれを配布しました。……その後1917年に,アルバータ州カルマーのアンドルー・ミリン兄弟があちこちのスウェーデン人の入植地に出かけて聖書講演をしました。私たちが住んでいたミルトンにも来ました。父はこの兄弟から初めて業を組織的に行なう面での援助を受けました。まもなく父の写真が広告記事に載るようになり,父はサスカチェワン川の南と北の,近隣のすべての地域の学校や講堂で講演をしていました」。

しかし,王国の音信を宣明するために聖書の講演だけをしていたわけではありません。ランデル兄弟は,旅行中いつもスーツケースに聖書文書を一杯入れていました。娘は続けてこう語っています。「競売かロイドミンスター・フェアのときに,自動車のところへ行けば必ず父がいました。一群の人々がその周りに立ったり座ったりして,熱心な話し合いが行なわれています。家へ帰る時刻には,文書を入れてきたスーツケースは空になっていました。あるとき,私たちが泥の穴にはまってしまい,そこへ二頭のらばを連れた人が通りかかりました。茶色のスーツケースの中にあった文書がその人へのお礼となりました。ノスバトルフォードのギリシャ料理のレストランで,店の主人と始まった話し合いに,店内にいた人全員が加わりました。話し合いが終わったときに,やはりスーツケースは空になっていました」。

王国の音信を他の人々に知らせるそうした決意は,確かに称賛すべきことです。神の民にそのような優れた精神があるので,「良いたより」を宣明するすばらしい業がなされていました。したがって1900年代の最初の10年間に,カナダの大半の地域で真の崇拝者が著しく増加しました。当時どの地域でも明らかな発展が見られ,幾つかの土地では目覚ましい増加がありました。1920年代にも同様の発展がありました。しかし,1920年代はそれら誠実な聖書研究者の信仰が試された時代でもありました。

僧職者から激しい非難!

カナダで最も初期に設立されたエホバの民の会衆の一つは,オンタリオ州ハミルトンの会衆でした。強くて非常に活発なその会衆は,当然ながら僧職者の不興をかいました。真理による強力な攻撃に対して,聖書を根拠にして受けて立つことができないので,僧職者たちは個人攻撃に出ました。僧職者たちは,一人の人,C・T・ラッセルを打倒するため必死になって非難しているように見えました。

ハミルトンでその手を使った牧師は,J・J・ロスという名のバプテスト派の大げさな説教者でした。ロスは1912年に下品な言葉遣いのパンフレットを書き,その中でラッセルに多くの偽りの非難を浴びせました。ラッセル兄弟は法律顧問J・F・ラザフォードの勧めに従い,ロスを名誉きそんで訴えました。そして証拠を提出するため,告訴人として裁判に立ち会い,ほぼ5時間にわたる長い反対尋問を受けました。裁判の後,そのバプテスト派の反対者は,ラッセルがギリシャ語の知識について問われたときに偽証罪を犯したと偽って非難しました。そしてラッセルを攻撃する二番目のパンフレットでその点を取り上げました。そのパンフレットの中で同僧職者は,法廷における反対尋問とラッセルの答えを次のように間違って引用しました

問「あなたはギリシャ語を知っていますか」。

答「ええ,知っています」。

ロスは,その質問から「アルファベット」という言葉を削除して,後になされた次のような質問の答えが先の答えと全く矛盾するように仕向けました。

問「あなたはギリシャ語に通じていますか」。

答「いいえ」。

法廷での実際のやりとりは公式の記録からはっきり分かります。(オンタリオ州ハミルトン市警察裁判所1913年3月17日)それによれば,C・T・ラッセルが偽証罪を犯さなかったことは明らかです。M・ジェイムズ・ペントンが著した「カナダのエホバの証人」と題する本によれば,(ジョージ・リンチ-スタウントン勲爵士が行なった)反対尋問は次の通りでした。

「質問『ではあなたはラテン語の教育を受けたと言っているのではないのですね』。

答え『はい,そう申しているのではありません』。

質問『ギリシャ語についてはどうですか』。

答え『教育を受けてはおりません』」。

そのあとラッセルは個々のギリシャ文字を知っているかと尋ねられ,「幾らか間違うこともあるでしょう」と答えました。前述の本によれば,そのすぐあとで「リンチ-スタウントンはラッセルに『あなたはギリシャ語に通じていますか』と質問し,ラッセルははっきり『いいえ』と答えました」。

したがって,事の次第に疑問の余地はありませんでした。裁判の後,ロスが偽って非難したように,C・T・ラッセルが偽証したことはありません。その事件自体は起訴陪審に持ち出されましたが,起訴陪審が起訴状案を返すことを断ったため,オンタリオ州最高法廷で審理されることはありませんでした。オンタリオ州の法律上の慣例によると,起訴陪審の前で話すことを許されているのは国選弁護人だけです。したがって,事件がどのように起訴陪審に提出されたか,そこでなぜ受け付けられなかったのかは分かりません。ロスはその後に著した幾つかの本の中で,このような未確定な結末をまるで大勝利を得たかのように扱っています。ロスおよび他の人々は,裁判に掛けられたのはラッセルではなかったことを忘れていたようでした。

反対者たちの気まぐれな行動に動じなかった

キリスト教世界の僧職者から憎しみを受けても,エホバの民は動じませんでした。1913年に一連の大会を開催し,それらの大会は成功裏に終わりました。例えば,ブリティッシュコロンビアのビクトリアの大会に1,000人が出席し,バンクーバーの大会には約4,500人が出席しました。西部の比較的大きな都市で大会が順次開かれたあと,トロントで一週間にわたる集まりが開かれました。その大会には1,200人ほどの人々が出席し,そのうちの約半数はアメリカ合衆国からの出席者でした。

200名を超す代表者たちはC・T・ラッセルといっしょに大会から大会へと旅行しました。一新聞はアルバータ州のエドモントンに大会の特別列車が来ることを報道し,さらにこう述べました。

「パスター・ラッセルは,自分が『地獄を否定する』説教者と非難されていることについて問われた際,次のように答えた。

「『私ほど地獄に関して説教している宗教家は世界にいません。しかし私が説く地獄は聖書に述べられている地獄であり,火や硫黄やくま手や紙やすりなどのある地獄ではありません。聖書の地獄は,原語のギリシャ語とヘブライ語,すなわちハデスとシェオルのきわめて理にかなった解釈であり,それは死んでいる状態,墓を意味しています』」。

後に開かれた1913年のトロント大会に関して,「ものみの塔」誌は次のように述べました。「この大会に出席した人々の中には,悪意を持つ人物が何らかの理由で人を中傷したり誤り伝えたりして宗教活動を損なおうとしていることに気づき,それが主な理由で出席した人々もいました。サタンおよび盲目にされ誤導されている彼の僕たちは,主の目的を損なおうと躍起になっています。主は,時には,ご自分に誉れとなるように,また真理が促進されるように,人間の怒りを圧倒されることがあります。例えば,パスター・ラッセルは反キリストだということを聞いたある人は,反キリストとはどんな人間か見に行きました。福音の喜ばしい音信を聞いてその人は心を奪われ,今ではとても喜んでいます」。

トロント大会では,大きなのぼりを持って会場に乗り込んで来る反対者たちもいました。そののぼりには「ラッセル派,千年期黎明主義者,悪魔たちの教理」という良く知られている言葉のほか,名誉を傷つける言葉が書かれていました。しかし,警察がそれら反対者たちを立ち去らせました。トロント・ニューズ紙(1913年7月25日付)によれば,その週中「トロントの反ラッセル派の活動」はトロント市内に限られていませんでした。同新聞は「福音伝道団全国連盟の一員であるボルチモアのフィリプ・シダースキ氏によると,反ラッセル運動の世界中の幹事たちにラッセル反対の文書が送られた」と報じていたからです。しかしニュース紙の見出しは,聖書研究者たちが反対者のこっけいな行動に「動じなかった」ことを伝えていました。

霊的な飢えが満たされる

1913年のトロント大会に出席した人の一人にタシー・レイコブがいました。レイコブは,マケドニアにいたとき地元のギリシャ正教会の聖歌隊でうたっていました。また,教会の建物の掃除をしました。掃除のとき,教会にあっても司祭によって一度も使われたことのない聖書を読むことができました。レイコブは聖書を読んで真理に対する飢えを感じるようになり,カナダへ移ってからもずっと真理を渇望しました。カナダで幾つかの宗派を次々に調べる機会がありましたが,どれにも満足できませんでした。反対する僧職者たちが分裂させようと躍起になっていたトロント大会にラッセル兄弟が出席した1913年当時,レイコブはブルガリア人からなるバプテスト派グループの首席長老でした。タシー・レイコブの息子,アンソニーの話は次の通りです。

「トロントのバビロン的な宗教家たちは,ラッセルが来るという知らせを怒りと軽べつとをもって聞き,『あのラッセルという悪魔が日曜日に町へやって来る』と言いました。父はそれをおうむ返しに言いましたが,声をひそめて,『やっぱり私はラッセルの話を聞きに行くよ』と語りました。そして,その話を聞いたことは父の人生の転換点となりました。羊が立派な羊飼いの声を認めるように,そのとき初めて父は,魂を満足させる音信を聞きました」。

魂に関するラッセルの二時間にわたる講演を聞いたあと,レイコブは「聖書研究」の一冊を入手してむさぼり読みました。その双書の他の巻も取り寄せ,同様の熱心さで読みました。レイコブの息子は,「真理の探求はついに終わりました」と述べ,こうつけ加えています。「それから大いなるバビロンからの劇的な脱退がありました。牧師は地獄の火と硫黄に関するいつもの説教の一つを行ない,聖句を故意にまちがって引用するという誤りを犯しました。しかし,それは“致命的な”誤りでした。首席の長老はさっと立ち上がり,牧師の語ったことをはっきりと否定し,聖書をまちがって引用したことに対して牧師を厳しく非難しました」。短いながらも激しい議論が起こり,その結果多くの教会員が目覚めました。

エホバの幸福な僕が奉仕を始める

トーマス・ジェイムズ・サリバンがエホバの喜びに満ちた僕として忠実な奉仕を始めたのは,1920年代のことでした。サリバンは,1911年にニューヨークのブルックリンで仕事をしていたときに,同僚がパスター・ラッセルは地獄を信じていないと言っているのを耳にしました。サリバンは,それまで,永遠の責め苦の教理と神の愛とのあいだの矛盾を解決することができなかったので,その話は印象に残りました。(ヨハネ第一 4:8)しかし,その青年は,1913年までその信仰についてそれ以上何も耳にしませんでした。

同年の11月,サリバンはマニトバ州ウィニペグにいて,鉄道会社が建設中のチェーン制のホテルの会計制度を設ける手伝いをしていました。職員の中にいつも聖書を携行している若い女性がいました。その人は,自分の仕事部屋にパスター・ラッセルの「聖書研究」六巻を飾っていました。また,聖書に非常によく通じていたので,経営者からも,聖書に関する多くの質問を受けるほどでした。では,T・J・サリバンにその続きを話してもらいましょう。数年前サリバンはこのように書いています。

「夜中か夜中過ぎまで仕事をしなければならないことが時折ありました。主要な交通手段が夜中ごろに止まり,その若い女性は遠い家まで歩いて帰らなければならなかったので,私はその人を送って行くことを申し出ました。私たちは歩きながら聖書について深い話し合いをすることができました。また,あたりの様子はそうした話し合いに正にうってつけでした。北西部の広々とした大草原を知っている人なら,そのことがお分かりになるでしょう。夜のその時刻に,気温は普通零下20度から40度ぐらいになりました。雪は歩道の両側に1㍍から1.5㍍積もっていました。頭上の冷たく澄んだ夜空と天をかすめ去る北極光は,神の創造の荘厳さ,壮大さを力強く物語っていました。そのような状況で神の目的について話し合うことは,私に強烈な印象を与えましたし,それは私にとって神聖なことでした。そのようなすばらしい創造者の愛と世話を受けようと全身を奮い立たせられる思いでした」。

T・J・サリバンは確かにその神の愛と世話を受けました。ウィニペグの聖書研究者たちと交わるようになり,1916年の主の晩さんに先立って,エホバの献身した僕としてバプテスマを受けました。ついでながら,サリバン兄弟は,カナダへ帰ったときに最初に会ったエホバの証人で,神の目的を知る上で兄弟に大きな助けとなった若い女性エブリン・フィンチ姉妹と1918年の9月に結婚しました。

1924年,サリバン兄弟姉妹はブルックリン・ベテル家族の成員となり,地上における残りの人生をそこで過ごして忠実に奉仕しました。T・J・サリバンは,1974年7月30日に86歳で亡くなるまでベテルにあって幸福かつ忠実なエホバの僕(晩年はエホバの証人の統治体の成員)でした。

「諸国民の定められた時」は成就!

待望の1914年が到来し,期待は大いに高まりました。C・T・ラッセル,あるいは「ものみの塔」誌が予告しなかったことまで期待していた人々もいました。推測が大いになされ,特に霊的に未熟な人々の中には,自分の期待がはずれたために失望した人がいました。しかし円熟した人々の多くはそうしたことの起こり得ることを理解できました。1913年の末に,鋭い洞察力を持つ一カナダ人は協会に次のような手紙を寄せました。

「天のみ父はご自分の民の信仰を様々な点で試みるのをよしとされますが,来年は私たちが神と神の言葉をどれほど確信しているかということが厳しく試みられるように思われます。

「しかし,私は愛する兄弟姉妹の信仰が非常に強固であることを知っており,兄弟姉妹が信仰の立派な戦いを終わりまで首尾よく戦い続けることを信じています。

「私はこれまで常にそう理解してきたのですが,パスター・ラッセルは,自分の,時に関する預言の解釈が絶対に誤らないと主張したことは一度もありませんでした。私はパスター・ラッセルの著作から常にそう受け取ることができました。

「1915年が来て,兄弟たちの多くが期待していた事柄が起きなかったとしても,それは私にとって少しも問題にはなりません。私たちは依然『汝のみ言葉は真理なり』ということを,そして一点一画も廃ることなくことごとく成就するということを知っています。さらに,時のしるしによれば,その日は間近いということも知っています。

「火のような試練が望むとき,『されば大なる報を受くべき汝らの確信を投げすつな』という霊感による言葉を思い出したいものです」。

この手紙が掲載された「ものみの塔」誌の主要な記事は,実際,すみやかに起きて急激な変化を生じさせると期待されていた事柄すべてが一年のうちに起きるとは限らないことを指摘していました。しかし,その記事は,「1914年という年は聖書が言う『異邦人の時』の最後の年です」と述べ,さらにこう語っていました。(ルカ 21:24,文語)「聖書の言葉からして,平和な統治が到来する前に予期される事柄が一年のうちにすべて成就するとはとても考えられません」。

1914年までに幾つかの会衆は非常に大きくなっていました。同年の記念式にトロント会衆では204人が,バンクーバー会衆では195人が,ウィニペグ会衆では105人が出席しました。しかし,いわば時に愛着を感じていた人と,愛の動機からエホバに仕えていた人とはやがて明らかになります。

創造の写真-劇

弟子を作ることに励み,“時計を気にして”いなかった人々は,その時代が興奮に満ちた時代であることを知りました。「良いたより」を大勢の人に伝える助けとなったものの中に,当時“町の評判”になった視聴覚資料がありました。「創造の写真-劇」と呼ばれるその資料は,スライドと活動写真から成り,話と音楽のはいったレコードが付いていました。カラーのスライドとフィルムはすべて手で描かれました。「写真-劇」は上映時間8時間に及ぶ長編で4部から成っており,観客は,創造から始まって地と人類に対する神の目的の最高潮であるイエス・キリストの千年統治の終わりに至る人間の歴史を見ることができました。

1914年という昔に録音の完備した八時間の豪華なカラー映画ですって? 製作者はだれですか。ハリウッドの“大作”の一つですか。そうではありません。「写真-劇」は国際聖書研究者協会によって作製されたものです。入場は全く無料で,寄付も集められませんでした。しかも聖書的,科学的,歴史的事実の盛り込まれたその有声カラー映画が上映されたのは,せりふと音楽がいっしょになった長編の商業的カラー映画が一般化するよりずっと前のことでした。

「写真-劇」の写真と録音は非常によくできていたので,最初の画面に登場して紹介の言葉を述べたC・T・ラッセルを本物のラッセルだと考えた観客が何人かいたほどです。その映画では,神が預言者エレミヤを通して奇跡を行ない,やもめの息子を復活させる場面が実に生き生きと感動的に描かれていました! 花が開くところや,ひよこがかえるところはほんとうに楽しい場面でした。そうです,「写真-劇」のそれら忘れられない場面は,微速度写真を使って作られたのです。

それぞれの会衆は「写真-劇」を宣伝して,一般の人々を招待しました。建物に張り出されたポスターの中には,たてが3.4㍍,横が4.3㍍の大きなものもありました。反響は驚異的で,劇場は来る週も来る週も大入り満員でした。

ハミルトンでは三週間にわたってグランドオペラハウスで上映され,トロントではグランドシアターで上映されました。映画が終わって大勢の観客が帰ろうとしていたとき,ヨーロッパで宣戦布告がなされたという衝撃的なニュースが初めて耳に入りました。それは,上映された映画で扱われたばかりの幾つかの点をそれらの人々の思いに強烈に印象付けたに違いありません。トロントでは,そのころ中央刑務所(後にキングストンに移った)でも「写真-劇」が上映されました。

できるだけ多くの人に「写真-劇」を見せるための確実な方法の一つとして,学校の生徒を招待することがなされました。例えば,1914年にノバスコシアのハリファクスで生徒が学校から「写真-劇」を見に行きました。ブリティッシュコロンビアのビクトリアでも同様の方法が取られ,幾つかの学級が出席しました。当時14歳だったチャールズ・W・フォーブズは,そうした方法で「写真-劇」を見,やがて聖書研究者になりました。フォーブズはその時のことを決して忘れず,こう語っています。「会場は満員で,私は他の人たちといっしょに立っていなければなりませんでした。しかし,偉大な創造者のみ手の業は見るに十分値しましたし,全能の神が造られたものを明らかに示していました。星の輝く広大な天空の画面を見たとき,特にそう感じました」。

カナダにいるポーランド人とウクライナ人にも「写真-劇」を見せる努力が払われ,西部の幾つかの土地のほかに,トロントとウィニペグのような大きな町でも上映されました。台本をポーランド語とウクライナ語で翻訳して録音することもなされました。

「写真-劇」は,非常に美しく立派な映画だったので,60年以上経た今日でも,画面やせりふや上映された場所まで覚えている人々がいます。ある人々にとって,その教育映画は特別な意義を持ちました。例えば,クリスタデルフィアンズという宗派に属していたデラ・スマートは,世の中の動きやその宗派の幾つかの教えに心を悩ませていました。そして,考えをすっきりさせるために,神の民を見いだす助けを神に心から祈り求めました。数日後,スマートは,トロントで「写真-劇」が上映されることを広告で知りました。第一回目の上映に出席して,自分の祈りが聞かれたと感じました。それは1916年のことです。現在スマート姉妹は90歳代ですが,今でもエホバに精一杯仕えています。

すべての人が喜んだわけではない

大抵の土地で役人その他の人々のよい協力が得られ,「写真-劇」上映のために劇場が無料で提供されたことも一度ならずありました。しかし,所によっては反対を受けました。例えば,トロントで僧職者たちは「写真-劇」を非難する説教をして,劇場の経営者に上映契約を取り消させようとしました。しかし,そのことはかえって「写真-劇」をさらに宣伝する結果になりました。

1917年ごろ,「写真-劇」はオンタリオ州のゲルフで上映されることになっていました。そこで起きたことは,上映が妨害された典型的な例であり,その背後にだれがいたかを示す出来事です。1974年に亡くなったジョージ・ハンフリーは,ゲルフ・マーキュリーという地方新聞に勤めていたよく知られた聖書研究者でした。晩年ハンフリーは,はっきり記憶に残っている次のような話をしてくれました。

「最初の日曜日の上映は,大勢の出席者があって成功しました。月曜日の夜,町議会は会議を開いて,『日曜日の活動写真の上映を禁止する』という決議文を作ろうとしました。言うまでもなく,それは『写真-劇』の上映を禁じる目的で行なわれたことでした。すると議員の一人がこう言いました。『みなさん,これには注意する必要があります。戦争目的のためにそうした活動写真が必要な場合はどうでしょうか』。それで決議文は変更され,『戦争目的以外で日曜日に活動写真を上映することを許可しないことを決議する』という文章になりました。

「私たちがその問題を解決しなければならないことはむろん明らかでした。映写技師と私は,町長と彼の部屋で会見する手はずを整えました。これに関連して,エホバは,私たちに勝利を与えてくださいました。私に有利なことが特に二つありました。町長は私の雇用者であるゲルフ・マーキュリー紙の社長J・I・マキントシュ氏と犬猿の仲でした。マキントシュ氏は私に,『ジョージ,事実をみんな集めてくれないか,それを記事にしよう』と言いました。私は,口では言い表わせないほどわくわくした気持ちでした。カトリック教徒だった劇場の支配人は,日曜日の映画上映に関する規則書を見せてくれました。そしてこう言いました。「町長に会ったらこのページを見せなさい。ここに出ている法律によれば,あなたは日曜日にそうした映画を上映する州の許可証を持っているのだから,町の役人であろうとほかのだれであろうと,あなたが日曜日に上映するのを妨害する者は700㌦の罰金を払わねばなりません』。その二つの武器を携えて,私たちは町長をその部屋に訪ねました。私たちは部屋に通されました。町長はいすに腰をおろすと私の目を見て,『私は君たちに反対する。君たちにあの映画を上映させないようにするためには合法的であろうとなかろうと,どんな手段でも使うつもりだ』と言いました。……

「私はまず例の規則書を見せました。『どこでそれを手に入れたんだね』と,町長は聞きました。劇場の支配人からです』と私は答えました。すると町長は電話で市政管理者を呼びました。その人がやって来ると,町長は事情を話し,『これに対して我々はどんな措置が取れるかね』と言いました。その名士は頭をかいて答えました。『その許可料を値上げできるでしょう』。町長はそれに賛成できないようでした。それで,町長は私をじっと見つめ,『君はマーキュリーに勤めているのかね』と聞きました。私は満面に喜びを表わして,『はいそうです』と答えました。町長は打ちのめされたような様子で,『私には君を止めたり,君に奨励したりする権威は何もないよ』と言いました。それを聞いて私たち二人は帰りました。

「私はマーキュリーの事務所へ行き,事の一部始終を伝えました。その日の夕刊は第一面に詳細を余すところなく掲げていました…その記事はほぼ縦一段に及び,見出しは,『写真-劇』の妨害は失敗,となっていました。次の日曜日,開館を待つ人々の行列ができていました。映画とそのあとの公開集会のために来た人々で,劇場はぎっしり詰まっていました。人々が,『牧師はどうしてこの映画に反対するのだろう』と言っているのが聞かれました」。

僧職者の反対が増す

僧職者たちもあらん限りの方法でエホバの民の業に反対していました。聖書研究者のチャールズ・マシューズが1914年に経験したことを例にとってみましょう。この人は,ニューブランズウィックのカナン駅とバーチ山の地域で,1914年に戦争が起こることを非常に熱心に伝えました。それで,ある人たちは,マシューズは気が狂っているから精神病院へ入れられるだろうと言いました。ところが,1914年に戦争がぼっ発したとき,その人たちは,「チャーリーの言ってることは正しいようだ。実際戦争が起きたよ。我々は,世界が高度に文明化しているから戦争など起こりっこないと思っていた」と言いました。

しかし,僧職者たちの反応はそれと異なっていました。僧職者たちは,今やマシューズが人々に与えている影響に対抗するため,何らかの処置を取らねばなりません。そこでR・M・バイノン牧師は,ニューブランズウィックのウエストモアランドのベリーミルズにあるインデアンマウンテン改革教会で講演する取り決めを作りました。その目的は,「ラッセル主義者」を暴露することでした。バイノン牧師には自分の見解を支持してくれる宣教師がついていました。マシューズは自宅で招待状を受け取りました。礼拝のとき,バイノン牧師とその仲間は,ラッセルと「ラッセルの」教理を非難し,その一人は,今自分たちが話していたことを論破できる人がだれかいますか,と言いました。しかし,マシューズが話そうとすると,二人はそれを許そうとしませんでした。とうとう牧師の一人が一息ついて,「アーメン!」と言いました。それに呼応して執事がすぐに,「そうです,アーメン! では,マシューズさんに話してもらいましょう」と言いました。マシューズは,聖書を使いながら30分ほど話し,それから聴衆に,御清聴いただき感謝します,と述べました。ある牧師はさっと立ち上がり,「この男は改宗していない。異教徒だ」と叫んで反対しようとしましたが,大勢の人は,その言葉を聞くと席を立って出て行きました。

牧師が明らかに不正直な行動をとることもありました。ウィニペグのジェイムズ・ケリーが「聖書研究」の一冊を読んで間もなく,次のようなことがありました。ジェイムズの娘であるフランク・ウェインライト夫人に話してもらいましょう。

「日曜日,父と母と私たち六人は,そろってフォートルージュ・メソジスト教会の復活祭日曜礼拝に出かけました。私はソールトン(という名の牧師)のそのときの説教を忘れることができません。とてもすばらしい説教だと思ったからです。ですから,父が顔をしかめたり,ひじで母の腕をつついて『あそこのところを覚えておきなさいよ』とか『彼が今言っていることを忘れちゃいけないよ』とか繰り返し言っているのが私には全く理解できませんでした。その興味深い説教が終わりに近づいたころ,ソールトン博士は,『聖書研究者』,特にその文書と一切掛かり合いになってはならないと会衆に対して強く警告し,聖書研究者の指導者であるチャールズ・テイズ・ラッセル師は姦淫と偶像崇拝を行なっていると[偽りの非難]語りました。私は,なぜそのようなことを言ってせっかくの説教を台無しにするのだろうかと思いました。……

「家までの長い道中,歩きながら父が母に,食事の支度をしなくてもよいから,いすに腰掛けて『ハルマゲドンの戦い』と題する本のある一つの章だけでも読むようにと言っているのが聞こえました。母はどういうわけか,それを読みながらとても動揺していました。そしてとうとう大声でこう言いました。『まあジム!……ソールトン博士はこの章の言葉を逐一引用なさったのね。この本のほかの箇所からも引用なさったに違いないわ』。すると父は母に,著者がだれだか表紙を見なさいと言いました。チャールズ・テイズ・ラッセルがその著者でした」。

僧職者たちが偽善的な方法でラッセルを攻撃したことは,正義を愛する人々の目を開ける結果になったに過ぎませんでした。ケリー一家は,翌週の日曜日から聖書研究者の集会に出かけるようになりました。

戦争ヒステリー

戦争が始まり,僧職者たちは聖書研究者を攻撃する新兵器を発見しました。しっと深い僧職者たちは,愛国主義の美名のもとに,敵意を表わし,クリスチャンの増加を妨害するようけしかけました。反対者たちは,戦争ヒステリーを利用して,中立の立場をとるクリスチャンに国家の安全を脅かす危険分子であるというらく印を押しました。それは,僧職者自身が,たとえ他の国々にいる仲間の僧職者たちの敵となっても戦争の擁護者とならねばならないということを意味しました。このような矛盾したことを行ない,「平和の君」を否定していながら,僧職者たちは一向気に掛けなかったようでした。(イザヤ 9:6,7,新)フランク・ウェインライト夫人はその時代を回顧して,僧職者の考え方の一例をこう語っています。

「私は,かなり率直にものを言う僧職者たちの一人が語った言葉が新聞に出ていたのを覚えています。その人は,『前線のざんごうの中で死ぬ人は天国への無料旅券を持っており,よもや神がその人を締め出されることなど考えられません』と語っていました」。

ある人々は,戦争を奨励した責任が僧職者にあることに気づいていました。1924年にトロント・テレグラム紙はこう報じました。

「ユニバーシティー大学の二人の若い学生,R・V・ファーガソンとW・S・マッケイは,トロント聖職者総連合に行って大学の反戦グループの見解を説明した。戦争でスコットランド警備隊に4年半いたと言われるファーガソン氏は,道義的責任を感じて従軍した人に会ったことがないと言明した」。

また,ファーガソンの次の言葉が引用されていました。「私たちは『クリスチャンの兵士よ前進せよ!』を歌い,汚い仕事ができるようにラム酒をあおったものです。多くの若者はめいていの状態で入隊し,ある若者たちは制服姿を見せるために入隊しました。宣伝に惑わされて入隊した若者たちもいました。説教壇は徴兵事務所となり,教会は組織的犯罪の片棒をかつぎました。聖職者たちは軍曹を徴募していましたし,大聖堂にはたれ幕が掲げられていました」。

確かに,戦争に対する戦時中の僧職者たちの態度は気づかれずに済みませんでした。ところで,真のクリスチャンの活動に対してはどんな態度をとったでしょうか。

ある僧職者たちのねらいは聖書研究者を沈黙させることだった,と言えばあさはかに聞こえますか,あるいは不当に聞こえるでしょうか。では,第一次大戦後に書かれた,「説教者はささげ銃をする」と題する本の中で,著者のレイ・H・アブラムズが語っている言葉を考えてください。アブラムズは戦時中における僧職者の役割を論じてこう述べています。「非常に多くの聖職者が,ラッセル派を取り除こうと積極的に努力したのは注目に値する。平時には裁判の対象にならなかった,長年来の宗教論争と憎しみが今や戦争ヒステリーの魔力で法廷に持ち込まれた」。

しかし,僧職者の反対行為についてさらに述べる前に,1914年から1918年にかけてエホバの民が他の注目すべき試練に遭ったことを指摘するのはふさわしいと思われます。

第一次世界大戦中,クリスチャンは中立を守る

中立を守り,第一次世界大戦に参加することを辞退したカナダのクリスチャンは,様々な苦しみを忍ばなければなりませんでした。(イザヤ 2:2-4。ヨハネ 17:16)それらクリスチャンたちは人に害を及ぼすような人々ではありませんでしたが,その多くは,投獄ばかりか,彼らを弱らせ霊的に破滅させる目的で与えられる非人道的な仕打ちを耐えなければなりませんでした。一例としてウィニペグのラルフ・ネシュとロバート・クレグがどんな仕打ちを受けたか見ましょう。1978年に亡くなるまでサスカツーンでエホバに忠実に仕えたジョージ・ネシュの報告は次のとおりです。

「ある日,(ロバート・クレグ)と私の実の兄弟のラルフは洗面所に連れて行かれました。兵士になることを再び拒否すると,熱い湯と水のシャワーを交互に浴びせられ,数回気が遠くなった末にとうとう気絶して意識不明になりました。見回りの将校にたまたま見つかるまでの数時間,二人は冷たい敷石の床の上に横たわっていました。……それから聖ボニファティウス病院に移されたものの,数週間全く衰弱しきっていました。ウィニペグの各新聞社は翌日の新聞紙上でそのことをかなり広く報道しました。しかし,さっそくオタワにある政府の公共情報局はその報道を中止せよと命じ,そのことがさらに報道されるなら戦争措置法により何らかの措置を取るとも言いました」。

クリスチャンの中立を保ったために過酷な仕打ちを受けたカナダ人の中には,ロバート・クレグとラルフ・ネシュのほかに,フランク・ウェインライト,クロード・ブラウン,ロイド・スチュアート,デイビッド・クック,エドワード・ライアン,ジョン・ギレスピーがいました。やがてこれらの人々は英国に送られ,ついに悪名高いワンズワース刑務所に入れられました。

その刑務所の生活は厳しく,中立を守ってそこに投獄されたクリスチャンたちは多くの辛苦と信仰の試みを忍びました。フランク・ライトはこう回顧しています。「あるとき,私たちは,軍事教練を拒否したために刑務所の庭の隔離された場所へ連れて行かれました。そこにはむちを手に持った制服姿の大勢の男たちが整列していました。私たちは一人ずつ庭の端から端まで走るように命令されました。走り方が遅すぎると,捕まえられて離れた所へ引っぱって行かれ,むちを持った男たちに背中と足を打たれてから監房にもどされました。そうした殴打に屈しないようエホバに力を求めた私たちの祈りは,聞かれたに違いありません。なぜなら,そうしたことは二度と行なわれなかったからです」。

クロード・ブラウンは,そのクリスチャンのグループの中で唯一の黒人でした。ウェインライト兄弟の話によると,ブラウンは「看守や兵士から特に手荒く扱われました。ワンズワースで,“おまえたちを従わせるか,さもなくばへたばらせるかだ”とか“ライオンでさえおとなしくさせてやる”とかといった標語が刑務所に掲げられているのだぞ,と脅されたとき,ブラウンはこう答えました。『しかし軍曹,私たちはライオンではありません。主の小さな羊です』。……[ブラウン兄弟]は釈放された後も引き続き忠実に奉仕しました。1923年に同兄弟はものみの塔協会から西アフリカで奉仕することを要請されました。それは,西アフリカにいた“バイブル”ブラウンとその妻の手助けをするためでした」。

エホバの助けと祝福は明らかだった

確かにエホバは,ご自分の民が義のために苦しむときに彼らを支えられ,その忠実さゆえに豊かな祝福をお与えになります。(マタイ 5:10。フィリピ 4:13)時には,残酷な迫害者がやがて“心を変えた”ことさえありました。また,忠実に証言したために良い結果がもたらされた場合は少なくありません。ジョージ・ネシュの次の経験はそうした例の一つです。

「[逮捕された]次の日,私は刑務所を指揮する将校の前に連れ出されました。他の人々,特にいっしょに暮らしていた家族も関係があることを私に白状させようと長い時間をかけた末,その将校は時計を机の上に置いて,3分以内に20の質問に答えなければ『六号室に連れて行ってただちに射殺する』と言いました。そして,『王と国のために戦おうとしなかった憶病なだれそれたち』はそのようにして処刑されたのだぞ,とも言いました。口で言い合いをしても効果がないので,将校はあらん限りの大きな声で『護衛隊軍曹!』と叫びました。軍曹は二人の新兵を連れて走って来ました。すると,将校は大声を張り上げて,『この憶病雌ぶたを六号室に連れて行って射殺しろ!』と叫びました。私はそれまで射殺された経験がなかったので,控え目に言っても心穏やかではありませんでした。しかし,神に助けを祈り求めました。軍曹たちは押したり突いたりして私を地下室へ連れて行き,『六号室』のところに来ると,戸をばたんと開けて私を後ろから思い切りけって中に入れました。私は射殺されませんでした。もっとも,殺されていたほうがよかったと思うことがその後の数か月の間に時折ありました。……

「その刑務所にしばらくいてから,そのころ展示場でテントを張っていた軍隊に移されました。それで,あたりの様子も行動も変わりました。兵站部付き軍曹の補給兵営の前に長く並んでいるテントの列と列の間に私が立っていると,二人の二等兵を連れた背の高い若い将校が向こうからつかつかとやって来ました。三人が私のことを話しているのが聞き取れました。将校は私の前に立って気をつけの姿勢をするように数回命令しました。私はそれに従わなかったので,玄人はだしのパンチをあごにくらい,投げ倒されて向かいのテントの列の張り綱のあいだにはさまってしまいました。私がそこから抜け出せないでいると,将校は私の上に飛び掛かり,首を締めつけました。しばらくひどい痛みがして,私は気を失いました。その時のことで今でも鮮明に思い出せるのは,燃えるような憎しみのために将校の顔がみるみる動物のような表情に変わったことでした」。

しかし,ネシュ兄弟はこうした経験やそのほかの苦しみを味わったにもかかわらず,こう語っています。「エホバは確かに決して私たちを離れたり,見捨てたりされないということを経験を通して日々学べたのはすばらしいことでした。私は祈りの中で幾度も,自分の忍耐が尽きたことを天のみ父に申し上げました。しかし,私に気を取り直させ,私を支えているのは神の力であるということをくり返し示してくれる事柄が必ず起きました」。

さらに,その苦しい期間に,ジョージ・ネシュは,エホバの目的を他の人々に伝えて自分自身の信仰を築き上げ,また種をまく機会を多く得ました。ネシュ兄弟の話は続きます。「まいた種の幾つかは芽を出して成熟したのです。例えば,私たちに[プリンスアルバートの]街路を運動のために行進させた軍曹の場合がそうでした。数年後,サスカツーンから数キロ離れたいなかの区域で奉仕していたとき,私はそのかつての軍曹ロジャー・バーカー氏に会いました。バーカー氏は私を温かく招じ入れてくれました。2,3回の訪問でバーカー氏と奥さんはサスカツーン会衆に交わり始め,真理に入りました」。

ジョージ・ネシュのことを「憶病雌ぶた」と呼んだあの将校のことを覚えておられますか。ネシュ兄弟は,数年後にヨークトンのある葬式でその将校に会いました。その時のことをネシュ兄弟はこう伝えています。「私が葬式を司会するために前に立ったとき,私たちは二人ともすっかり驚いてしまいました。葬式のあと,かつての少佐は私に墓地まで自動車に乗せていってほしいと言いました。それからすぐに,数年前私に対してした自分の仕打ちをあやまり始めました。少佐は私が何の恨みも持っていないことをなかなか信じませんでした。私たちは真理について活発に話し合いました。この経験もそうですが,他の思いがけない出会いからも,次のようなことが分かりました。すなわちあの試練の時代,たとえ心の中で一番大切にしていた事柄を話せなくても,私たちの行動によって多くの人々にはっきりとした印象を与えていたということです」。

苦しみに耐えた結果豊かな祝福を得た,という経験をもう一つ紹介しましょう。ある場所で投獄されていたとき,ジョージ・ネシュは,チャールズ・マシューズ兄弟と交わる機会や,同じ監房にいる一人の囚人に真理を教える機会がありました。ネシュ兄弟は次のように書いています。

「昼食や夕食に出掛ける前に雑談することが少しの時間許されていました。言うまでもなく,私たち三人は霊的な事柄を静かに話し合いました。私が話している監房仲間のルイス・ラッツはマシューズと私を強い関心の目で見ていたようです。後にその囚人は,私たち二人の間の一致のきずなが理解できずにそうしていた,と語りました。私はその囚人の隣のテーブルで仕事をしていました。それで彼は機会があるごとに私のところへ来て,私が投獄された理由を初めからもう一度話してほしいとしきりに言いました。私は,そのたびに,『仲間の人間を殺したくなかったからだよ』と答えていたところ,彼はやっとその意味が分かり,しばらくの間大声で笑っていました。私が彼のところへ行ってどうしておかしいのか尋ねると,『なにもかも全くおかしいよ。おれは,人を殺したので,終身刑になる。おまえは,人を殺さないので,終身刑になる』と答えました。……

「その囚人はすばらしい関心を示しました。私は自分が釈放されてから,オタワの仮釈放局に掛け合い,ようやく彼も釈放されました。16年間服役したその人は,真理にはいり,数年前に亡くなるまでずっと忠節でした」。

そうです,第一次世界大戦中にクリスチャンの中立を守るのは容易なことではありませんでした。義のために厳しい,残忍でさえある仕打ちを忍ぶことも簡単なことではありませんでした。それでも,そうした苦しみを忍耐したことはすばらしい結果を生みました。証言がなされましたし,迫害者の中にも感銘を受けた人々がいました。そして中立を守る王国宣明者の忠実さを見て,真のキリスト教を受け入れた人々もいました。(ペテロ第一 3:13-15)苦しみを受けはしましたが,エホバの民は,その困難な時代に確かにエホバの助けと祝福を得ました。

反対が頂点に達する

むろん,その時代カナダにいたクリスチャンすべてが投獄を経験したわけではありませんが,どの人も例外なく試みを受けました。明らかに敵がいたのです。それは,聖書研究者を沈黙させようと決意して反対していた僧職者たちです。確かに1914年から1918年にかけての期間は,真のクリスチャンたちにとって良心上の問題で苦しむ時となりました。徴兵される男性が増加の一途をたどるにつれ,また特に「聖書研究」双書の最終巻である第七巻,「終了した秘義」が出版されるに及んで,事態は頂点に達したように見えました。聖書研究者を北米の向こうへ“散らす”ための非常に悪らつで,今にして考えれば組織的と思える運動が展開され,それはカナダから始まりました

これはおおげさな言い方でしょうか。決してそうではありません。「説教者はささげ銃をする」と題する本が述べていることに注目してください。アブラムズ博士は次のように書いています。「事実の全体を分析すると,ラッセル派根絶運動の背後には,最初から教会と聖職者がいたという結論に達する。カナダで,1918年2月に,聖職者たちはラッセル派およびラッセル派の出版物,特に『終了した秘義』に反対する組織的な運動を始めた。ウィニペグ・トリビューン紙によれば,法務長官はラッセル派に対して注意を喚起させられた。また,同派の文書禁止措置は『聖職者の代表団』によって直接にもたらされたと信じられていた」。

1918年1月,カナダの指導的な僧職者たちは,国際聖書研究者協会の文書を禁止してほしいとの,地方官憲にあてた嘆願状に署名しました。関係していた反対者が決して少数でなかったことは,嘆願状の署名数が600名に上った事実から分かります。嘆願状に名前を挙げられていた出版物の多くは,30年余りもの間読まれていたものでした。それらの僧職者たちが聖書研究者に反対したのは,純粋に愛国主義の動機からでなかったことは明らかです。

僧職者の圧力を受けてカナダ政府が「終了した秘義」を禁止したことは,後にウィニペグ・トリビューン紙に載った次の言葉から明らかです。「禁止された出版物には,扇動的で戦争に反対する言葉が含まれていると申し立てられた。聖ステファノ教会の牧師であるチャールズ・G・パターソン師は,二,三週間前に説教壇から,『聖書研究者月刊』の最近号を公然と非難した。その後,ジョンソン法務長官はパターソン師に同出版物を一部ほしい旨書き送っている。検閲官から命令が出されたのはこうしたことの直接の結果であると考えられている」。

近年一般に公開されたカナダ政府の公式記録は,カナダの真のクリスチャンに対する1918年の反対行動の引き金を引いたのが正しく僧職者たちであったことを明らかにしています。そうではないかということが当時ほのめかされたとき,僧職者たちはそれを否定しました。しかし,その同じ時に主任検閲官のアーニスト・チェンバーズ大佐は,ブリティッシュコロンビア州バンクーバーの第一組合教会の牧師A・E・クック“尊師”から送られた手紙をファイルの中に持っていたのです。その手紙には同検閲官あてにこう書かれていました。

「私はバンクーバー聖職者総同盟の指示により,現在社会的にかなり重要であると私たちが感じている事柄にあなたの注意を促したいと思います。『国際聖書研究者』と称する,故ラッセル“師”の追随者たちのことをあなたもお気づきのことと思いますが……

「アメリカ合衆国で出版され,カナダに送られてそれらの者たちにより頒布される,同団体の宣伝文書を禁止するのも良いのではないでしょうか」。

主任検閲官チェンバー大佐は返事を書きました。“親展”と印したその手紙の中で,大佐はクック牧師に次のように述べました。

「拝啓……バンクーバー聖職者総同盟というような有力団体の見解を知らせるあなたのお手紙は,極めて重要な本件に関して確実な措置を取らせるうえで大変役立ちました。……

「それらの出版物の中ではあらゆる宗派の教会が無差別に激しく攻撃されています。たとえそうした攻撃の言葉を“軍事に好ましくない”と言うことはできないとしても,その事実は注目に値します」。

現在一般に公開されている,これら過去の極秘文書は,僧職者たちが1918年にエホバの民に対する措置の引き金を実際に引いたことを明らかにしています。そうです,忠実なクリスチャンたちは,イエス・キリストが行なった通り,僧職者の偽善を暴露しつつ恐れることなく勇敢に神の言葉を語ったために自由を否定されました。―マタイ 23:1-39

カナダの禁令が1918年2月12日に出され,アメリカで「終了した秘義」に対する公式の措置が取られたのが同じ年の3月14日であったのは非常に興味深いことです。アメリカでも僧職者たちからの申し入れがあった後に禁令が出されました。

信仰を持って業を続ける

「終了した秘義」と「聖書研究者月刊」ばかりでなく,聖書研究者の組織にも禁令がしかれました。その時期に際立っていたのは,エホバの民の信仰と決意でした。彼らは自分たちが何も悪いことをしていない,禁止されたのは僧職者たちが圧力を掛けたからにすぎない,ということを確信していたからです。ある人々は朝の六時とか夜の遅い時刻にパンフレットを配布しました。

不当にも禁止されたため,カナダのクリスチャンたちは,「へびのように用心深く,しかもはとのように純真」であることを示しました。(マタイ 10:16)例えば次の通りです。ジャネット・マクドナルドは,「禁止文書の所持者は5,000㌦以下の罰金および5年の実刑に処せられる」という発表を新聞で見ました。神の民はそのためにおじけづいたでしょうか。決してそのようなことはありませんでした。マクドナルド姉妹はこう書いています。「私たちはそのことを知るとすぐに,在庫文書をにわとり小屋に運びました。書籍がよごれないように壁と壁のすき間に新聞紙をはさみ,書籍を詰めて板とくぎでふたをしました。翌日町の巡査が来て,家にこの本を置いてないかと父に尋ねました。父は『いいえ』と答えました」。確かに置いていませんでした。在庫文書はにわとり小屋にありました。

カナダで清い崇拝を守る戦いが行なわれていました。T・J・サリバンは,「私たちは反対を予期して,『終了した秘義』をすばやく広範に配布するために,それぞれの在庫文書を準備しました」と書いています。そしてこう付け加えています。「法律的に禁止されるようになったとき,アメリカとカナダの兄弟たちは今度は嘆願書を回しました。それは,政府が同書に対する制限を解除し,人々が干渉や妨害を受けることなくその聖書研究用手引きを入手することを許可することを願う内容のものでした」。オンタリオ州ポートアーサーで嘆願書を回していたとき,サリバン兄弟ともう一人の兄弟は一般の人々から良い応待を受けました。しかし,反動もありました。サリバン兄弟によれば次の通りです。

「警察は捜索状を入手して,[ホテルの]私たちの部屋を捜索し,二人の私用の『終了した秘義』を見つけました。私たちはその晩留置所に入れられ,翌朝釈放されました。人々に事実を知らせるという点で,嘆願書を回したことより,逮捕されたり報道されたりしたことのほうがずっと効果があったと言ってもまず間違いありません。新聞は第一面を使って私たちの逮捕を大きく報じました……警察は,配布用として区域に送られた500冊か600冊の『終了した秘義』を押収しました。ところがその晩,新聞の報道が頂点に達していたときに,ポートアーサーの警官たちは,自分自身が読んだり友人に読ませたりするために『終了した秘義』を家に持って帰りました。その結果,手持ちの文書はすっかり配布されてしまったのです!」

警察は,家庭の書だなにあるものを含め,ものみの塔の出版物を発見押収するために各地の多くの家庭を捜索しました。聖書さえ押収されたのです。例えば,数年後サリバンが報告したところによると,T・J・サリバンとその仲間が逮捕されたというニュースがウィニペグに伝わるやいなや,このようなことが起きました。「軍部はトラック一台分の兵隊を派遣しました。兵隊たちはそのとき私たちが泊まっていた家を捜索して,禁止された文書を捜しました。軍部は私たちを逮捕したり,私たちの屋敷を捜索して物品を押収したりすることはできましたが,私たちを審理することはできませんでした。私たちはあくまで民間人でしたし,民間の裁判所は私たちを審理するのは自分たちであると主張しました。いずれにしてもウィニペグの民間当局者は,家宅捜索してクリスチャンの所有物を破損させていた軍部の横暴なやり方に反感を抱いていました。軍部は家宅捜索するときに,家の中を実際にひっくり返して,石炭,小麦粉,砂糖その他の物を取って全部いっしょにし,使い物にならないようにしていました。そのことは民間当局をたいへん悩ませました。それで,ある人々は,エホバの証人を扱う際にできるだけ親切にして,気遣いを示してくれました」。

友好的な人々が禁令を不当であるとして神の民を助けてくれたことは,驚くほど多くありました。信仰においては異なっていても,聖書研究者は害を及ぼさない良い市民であるということを,その人たちは知っていました。ある土地で警察部長は部下の一人(聖書研究者だった)に,聖書研究者が集まっていたI.O.O.F会館をその日の午後捜索するので忙しくなるから,一日休みを取ったほうがよいと忠告しました。発見した文書を押収するのがその目的でした。そのお陰で,兄弟たちは,あらかじめ文書を別の所へ移すことができました。捜索した警官たちが見つけた物の中に,「僕」という見出しで責任のある立場にいる人々の名前を記した一覧表がありました。それを見つけた警官は,重要物件を発見したに違いないと考えて,捜索の指揮を取っていた将校に急いでそれを見せました。しかし,その将校は聖書の用語を知らなかったので,不敬なことを言ってから,一覧表を見つけた警官に「あの者たちの僕などに用はない。親玉たちに用があるんだ!」と言いました。

ロバータ・デイビーズの話によると,別の時に,家宅捜索中の警官が若い女性に「これはあなたの本ですか」と尋ねました。その女性は「はい」と正直に答えました。すると警官は,「娘さん,私が見ないうちにそれを片付けなさい」と命じました。その人は後に警察をやめて,「あんな汚い仕事」はできないと聖書研究者の一人に話しました。そう感じていたのはその警官一人だけではありませんでした。

エホバの証人の文書を発見するために政府の役人が,謙遜なクリスチャンの私的な手紙を抜き取ったということが知られていました。しかし,そのようなことがあったり多くの家が捜索されたりしたにもかかわらず,大半の出版物は当局に見つかりませんでした。納屋,地下室,その他の場所に安全に隠されていたのです。

西部の典型的な実例として次のようなことがありました。地元の警官がベッドのマットレスのまん中を切り割いたり,階段のカーペットを破ったり,オルガンを引っ張って壊したり,穀物箱の粉をふるいにかけることまでして『終了した秘義』を捜しましたが,一冊も見つかりませんでした。しかし,実は,捜索中陣頭を指揮していた将校が座っていたスツールの座部の裏側に,『秘義』の本が一冊帯でしっかり止めてあったのです。

文書が発見されると,多くの場合持ち主は多額の罰金を科されるか投獄されるかしました。しかし考えてみてください,バンクーバーの地域で逮捕された10人の聖書研究者は,自分たちが所持していたゆえに3か月間服役することになったその問題の本を,刑務所の図書だなで見たのです。

内部からの問題

カナダの聖書研究者は,第一次世界大戦中にクリスチャンの中立を守って苦しみ,後には禁令下に置かれて苦難を忍んだほか,別の圧迫や問題をも忍ばねばなりませんでした。それは組織の内部から起きた問題です。しかし,そうした事態の発展を考えるために,時を少しさかのぼる必要があります。

C・T・ラッセルは,1916年の秋が来る前に体が弱っていました。しかし仕事を続け,講演の約束も果たしていました。例えば,信仰の仲間に仕えたいという強い気持ちから,ラッセルは1916年3月に再度カナダに来ました。その旅程は次の通りでした。トロント(3月11日),ピーターバラとリンゼー(3月12日),ミッドランド(3月13日),ノースベイ(3月14日),ニューリスカード(3月15日),ブレイスブリッジとバリー(3月16日),ゲルフ(3月17日),ブラントフォードとハミルトン(3月19日)およびナイアガラフォールズ(3月20日)。実に体力を消耗するスケジュールでした。

そうした厳しい日程には犠牲が払われていました。トロントの集会のとき,ラッセルはいすに座って講演をしなければなりませんでした。そのあと急激に衰弱し,1916年10月31日に亡くなりました。

ラッセルの死は,悲しみと失望と将来に対する不安を生みました。業は続行されるべきだったでしょうか。ラッセルは明らかに,真のクリスチャンの前途には大きな業があるという考えを抱いていました。1915年のバンクーバーにおける質問会で,ラッセルは次のように語っています。「なすべき大きな業があります。それを行なうには大勢の兄弟と多額の資金が必要です。それがどこから得られるか,私には分かりません。主は自分のなすべきことをご存じです」。

「なすべき大きな業!」 大勢の兄弟がそれを行なうのです! なんと胸の躍るような話ではありませんか。大部分の人はそう感じました。しかし,ラッセルが述べたその業の遂行に関して,ブルックリンから与えられる指示に反対の精神を表わし始めた者たちもいました。ラッセルの後任として正しく選出されたジョセフ・F・ラザフォードから職務を“引き継ぐ”ことを考え始めた者も二,三いました。そうした反抗の精神を示したのは,ブルックリンの協会の本部ですばらしい特権を得ていたある者たちだけではありません。カナダにもそうした考えを持つ者がいました。こうした事態に加え,1918年にラザフォードとその仲間が偽りの告発を受けて逮捕されたことは,誠実な人々すべてにとって耐えがたいことのように思われました。物事が崩れつつあるように見えました。試練の時が例外なくすべての人に臨んでいたのです!

トロントでは,約30名の人が会衆を去って自分たちのグループを作り,手紙や他の方法でキリストの追随者を引き離そうとしました。しかし,その活動は二年ほどで消滅してしまいました。モントリオールにも自分勝手に出て行った人々がいました。1920年代の初めまで続いた分裂は,バンクーバーとビクトリアの地域にも多大の影響を与えました。巡礼者をしていたことのあるチャールズ・ハードは,いわゆる“確固とした立場を取る”運動を始めました。それはカナダ西部全域のクラスに影響を与え,多くの会衆は数の点で“真っ二つに”裂かれました。ある反対者たちはそれぞれの土地で自分たち独自のグループを作り,ものみの塔協会はエホバから捨てられたという根拠のない非難をして協会を公然と攻撃しました。

こうした内部的な圧力は多くの人を動揺させました。しかし,やがて,ふさわしくない者たちが忠実な者たちから分けられているのだということが明らかになりました。(ヨハネ第一 2:19)大規模に伝道し教えるという,前途に横たわる業を行なうには真の信仰と勇気を持つ男女が必要とされるのです。

カナダの支部事務所

しかし,その時代は“悪いニュース”ばかりだったというわけではありません。大いに喜べることも数々ありました。王国伝道の業の発展に伴い,必要が生じたために,1918年1月1日付でウィニペグにものみの塔協会の支部事務所が設置されました。支部の最初の責任者としてワールター・F・ソールターが任命され,4名の人が職員として招かれました。

1920年,支部事務所はトロントに移されました。最初はダンダスストリート西270番のかなり広くて便利な所にありました。その建物の一部は,自動車の屋根の修理工場になっていました。(当時の自動車の屋根は金属ではありませんでした。)道に面して広々とした事務所が,そして裏手に発送する仕事場がありました。ビラと地獄に関する小冊子とを印刷するために,2台の小型印刷機が後日導入されました。そのころ支部には宿舎がなかったので,支部で働く人たちは,他の聖書研究者の家や下宿に寝泊まりし,食事のことも自分でしました。そのころの職員はW・F・ソールター,フランク・ウェインライト,チャールズ・カットフォース,ジュリア・ロエブ,ウィニフレッド・マッコーム,エドナ・バンアルステンでした。

禁令が解除!

その時期の喜びを増し加えたのは,「終了した秘義」,「聖書研究者月刊」,国際聖書研究者協会に対する不当な禁令が解除されたことでした。それは,禁令の正当な根拠であると考えられていた戦争が終わってかなり後の,1920年1月1日のことです。

興味深いことに,戦後カナダの僧職者たちは報道と信仰の自由が回復されることに異議を唱えました。そのための決議文を作成して態度を公にすることさえしたのです。彼らはなぜ戦時中の制限が取り除かれるのを望まなかったのでしょうか。僧職者たちが,破壊活動分子とされる組織に警告を与えた労働局のパンフレットの1920年8月号に,国際聖書研究者協会の名前を載せようとした事実から,僧職者の考えをうかがい知ることができます。しかし,ラザフォード兄弟は労働局に抗議しました。また,抗議文が印刷配布されて一般の人々に実情が知らされました。

新たな活力が与えられる

戦争が終わって大会が再び開けるようになったのは全くうれしいことでした。ラザフォード兄弟とその仲間が刑務所から釈放され,大会に出席できるようになったことを神の民がどれほど喜んだかしれません。1919年の大会はウィニペグ,カルガリーおよびバンクーバーで開かれました。1920年には同様の12の大会がカナダで開かれました。

釈放後の数年間にJ・F・ラザフォードと数人の仲間がカナダの大会に出席したことや,彼らの無実が証明されたことから,関心を持つ大勢の人が大会に出席しました。1921年にカナダの西部で開かれた一連の大会の場合もそうでした。その最初の大会は8月5日から7日にかけてウィニペグで開かれました。ウィニペグこそは,「終了した秘義」の本の禁止を扇動した僧職者と政治家の住んでいた土地でした。その禁止処分に続いて,ラザフォードと仲間の投獄などの迫害の波が来たのです。ウィニペグの一般の人々は,ラザフォード兄弟の訪問に対してどのように反応したでしょうか。推定6,000人が公開集会に出席しました。

戦後の時期は,エホバの民に新たな活力が与えられることによって特色づけられていました。その点で際立っていたのは,アメリカ合衆国オハイオ州シーダー・ポイントで開かれた1919年の大会でした。その大会は,各国の聖書研究者の,福音宣明の業に対する熱意をよみがえらせ,カナダの聖書研究者の場合もその例外ではありませんでした。その大会で「黄金時代」(現在の「目ざめよ!」誌)という新しい雑誌が発表されました。それは目の前にあった業を促進しました。それから1922年になり,シーダー・ポイントで再び感動的な大会が開かれました。その大会に出席した人々は,家から遠く離れた土地でも証言しようとの決意を抱いて家路に着きました。エホバの民には確かに新たな活力が与えられました。そして,王と王国を宣伝しようとしていました。

王国奉仕を拡大する

こうした精神は,王国の音信を宣明する業を拡大するよう神の僕たちを動かしました。もちろん,神の僕たちは1922年以前にも非常に活発でした。ちなみに1920年の1年間だけで,6万5,000冊を上回る「終了した秘義」の本がカナダで配布されました。しかし,その1922年のシーダー・ポイントの大会以後,“野外へ帰れ”というのが,王国の広報代理人のモットーになりました。そして,彼らは,自分たちの家の周りの区域だけでなく,カナダの広範な地域で証言することを決意していました。

例えば,チャールズ・V・ジョンソンはアルバータ州北部のピースリバー郡という遠い所で聖書文書頒布者の業を行ない,それ以前にそこで証言していた人々の活動をさらに徹底させました。1919年にニールソンという聖書研究者は,鉄道の線路にそってはるか北方のレサースレーブ湖まで行きました。そこは合衆国との国境から720㌔ほど北にあり,当時としてはかなり遠い場所でした。ジョン・ハミルトンは,1923年から1934年にかけてスピリットリバーの地域で開拓奉仕をしました。

サスカツーンの王国宣明者たちが用いていた方法について,ジョージ・ネシュは次のように書いています。「週末には文書を持った二人の兄弟が列車に乗って,それほど遠くない小さな町へ向かう姿をよく見かけたものです。行きに乗った列車がその日か次の日に折り返して来るまでは家に帰れませんでしたから,兄弟たちはそれまでの間その町で戸別に訪問する業を行ないました。翌日にならないと帰れず,町を網らしてしまって夕方の時間が少しでもあいているような場合,歩いて行ける距離,すなわち3㌔から6㌔以内にある農家まで二人が別々の方角に向かって歩いて行きました。そして半円を描くような形で奉仕をしたあと村か町にもどって汽車に乗り,家に帰りました。疲れはしましたが,伝えることのできた特権に喜びを感じていました」。

その時代の,「良いたより」の宣明者たちはどれほど勤勉だったでしょうか。文書を注文する際の間違いから,ある小さな群れに配布用の文書として「聖書研究」と題する双書が2,000冊余りも届いたとき,次のようなことがありました。間違いをした本人はこう語っています。「ある日私は帰宅するなり全く煙にまかれたような気がしました……建物の管理人が私にあいさつしてから,『君たちはいったい何を注文したのかね』と聞きました。私は『本を少し』と答えました。すると管理人は,『図書館の本でも注文したみたいだ』と言いました。……288組の本,つまり2,016冊の厚手の本をどうしたらよいでしょうか。私は,ものみの塔協会のトロント支部に手紙で事情を話してはどうかと言いましたが,パートナーはその提案に賛成せず,野外奉仕をさらに多く行なえば問題は解決すると言って譲りませんでした。ほんとうに興味深いことですが,一年たたないうちに『聖書研究』双書はすっかりなくなりました。それは会衆の兄弟たちの努力をよく物語っていました」。

聖書研究者たちは,王国奉仕を拡大するのに,自転車,一頭立て四輪馬車,“デモクラッツ”(二頭以上の馬が引く,四輪大型荷馬車)など,ありとあらゆる乗り物を使いました。また,古い自動車の車体を利用した馬車もありました。その馬車は,冬になると覆いが付けられて“カブース”と呼ばれました。車内には小さなまきのストーブがあって,乗客は暖を取ることができましたが,カブースがひっくり返ると火事になる危険がありました。屋根のない馬車の場合,一晩中焼いた自然の石を馬車の座席の足元に置いていくらか暖かくし,毛布と野牛の毛皮のひざ掛けで装備を完全にしました。

エホバの民は,初期の自動車で隊列を組んで広い地域を網らしたこともありました。自動車のドアの真下に付いているステップは調理台になったり,文書をえり分けたりする場所になりました。また,寝る場所が必要でしたから,テントを張る用具を持って行きました。

ロレッタ・ソーヤーは,聖書文書頒布者として一頭立て四輪馬車でサスカチェワンを奉仕した当時を回顧してこう語っています。

「私に割り当てられた区域は,家から北方へ約56㌔行ってサスカチェワン川にぶつかり,その川に沿って西に約56㌔行き,それから川に沿って折れ,鉄道の幹線にぶつかるまで南に下り,次いで東に進路を取って私の家にもどる線で囲まれた,2,300平方㌔の範囲でした。……

「夜,自分と馬の寝る場所がなかったということは,一度もありませんでした。エホバがいつも備えてくださったのです。少しお金を払わねばならないことがときにありましたが,意地悪な人や私たちを泊められないという人は一人もいませんでした。夜泊めていただけたばかりか,私も馬も朝食をごちそうになりました。そのうえ,広い大草原の冷たい秋の日に暖かく出発できるよう,足を温める石が焼いてありました」。

サスカチェワン州のワカーで小さなクラスが順調に発展し始めたのもそのころのことでした。それは,ワカーにおける王国伝道の業にはっきりとした影響を与えました。ワカーは聖書研究者の大会開催地となりました。時には400名もの人が他の地域から出席したので,聖書研究者のことがワカーで重大ニュースとなりました。ワカーのエミール・ザリスキーはその地方に住む同じウクライナ人たちに非常に活発に証言するようになり,すばらしい業を行ないました。ザリスキー兄弟は聖書頒布者の業を行ないましたし,しばらくの間巡礼者としても奉仕しました。1926年に,ワカーにおける主の記念式の出席者は104名を数えました。その小さな会衆から開拓者と宣教者が合わせて44人生まれています。ジョセフ・ルーベック,オルガ・キャンブル(この二人は現在ブルックリン・ベテルで奉仕している),ビクトリア・シーメンズ,ヘレン・ヘルドなど,そのうちの15名は今なお全時間奉仕を続けています。

拡大に備える

カナダにおける王国伝道の活動は,1922年と1923年に発展を見ました。1922年の記念式の出席者は2,335名に上りました。確かに,1920年代の初めは,カナダでキリスト教の発展が見られた時期でした。そして,エホバの民は将来を楽観的に見ていました。例えば,1923年12月15日号の「ものみの塔」誌はこう述べています。「わたしたちの新しい住居は照明が十分で快適でゆったりしています。床面積は520平方㍍で,現在の必要をまかなえるばかりか将来の拡大にも応じられる広さがあります」。

「新しい住居」ですか? そうです,協会の支部事務所のためにもっと良い場所が取得されたのです。もっとも,職員がそこへ入居できるようになったのはしばらく後のことでした。先のものより広いその土地家屋には,印刷施設の拡張が見込まれていました。今やカナダにおいては王国の宣伝をかつてなかったほど強力に推進することができました。

ケベックで王国を宣伝する

1923年,アレクサンダー・ディーチマンとピーター・アレン・ロバートソンは特別聖書文書頒布者としてケベックに派遣されました。その年にケベックの野外から寄せられた報告は次の通りです。

「私たちが一週間に[配布する]書籍の平均数は,あまり減少していません。現在,人々とやさしい話題について理知的に会話することができます。6月10日,日曜日の夜,バレーフィールドのルブフ会館で『写真-劇』を上映しました。会館はフランス人と英国人で満員になり,その直接の結果として25冊の書籍が[配布され]ました。私たちの下宿の主人から,家で『劇』を上映してほしいと頼まれたので,6月13日に行ないました。17人の大人が出席しました。その人たちはみなカトリック教徒のフランス人でした。英国人の牧師は6月18日に教会で私たちの『写真-劇』のスライドを使いたいと考えましたが,私たちはバレーフィールドで日曜過ぎまで待つことができませんでした。……プロテスタントの牧師たちは私たちを非常に温かく迎えてくれました……また一度も不平を言いませんでしたし,二人ともラッセル兄弟の著書を何冊か持っています。下宿で子供たちの一人は,私たちのほうが牧師よりもいい人なので,もう教会へ行きたくないと言いました。あらゆる傾向からみて,人々は目覚めてきています。王はその音信が伝わる道を整えてくださっています。あとは喜ばしいおとずれを携えて行く働き人を見いだすことです」。

そのころケベックで伝道する特権を得ていた人々の中に,ジャネット・マクドナルド(聖書研究者のハワード・マクドナルドと1928年に結婚する前のことですが)がいました。ジャネットは,1924年にモントリオールで「良いたより」を宣明し始めました。そのとき,オハイオ州コロンバスの大会で採択されたばかりの決議文を配布しました。その決議は「教会教職者級を告発する」と題する冊子に組み込まれ,偽りの宗教が人々を死に至らせるものであることをあからさまに暴露していました。後に,マクドナルド姉妹はこう報告しています。

「協会によって定められた計画に従い,私たちはグランビー,マゴグ,アスベストスなどの多くの町や東部郡区の他の土地へ行きました。反対を避けるために午前3時から戸別に冊子を配り始めました。ですから町が活気づいてくる7時か8時には,業は大抵終わっていました。私たちは数回警察に逮捕されました。警察は私たちを脅して町から追い出そうとしました。例えばマゴグで警察は私たちを裁判にかけました。有罪になりませんでしたが,釈放されるには15㌦支払わなければなりませんでした。私たちが15㌦を持っていないと言うと,警察は10㌦で釈放してやると言いました。10㌦も持っていないと言うと,5㌦にしてやると言われました。5㌦も持っていないと言ったところ,警察は私たちを釈放しました。

「コウティクックでは,1925年5月に,もっと大きな騒動に遭いました。コロンブス騎士会の指導的な会員に率いられた暴徒が,私たちを取り囲んでトラックに無理やり押し込もうとしたのです。私たちは鉄道の駅に走って行って待合室に逃げ込みました。駅長は暴徒がやって来るのを見て,両方のドアにかぎを掛けてくれました。暴徒たちはこぶしを振り上げ,窓をたたきながら周りをぐるぐる回りました。まもなく暴徒の指導者が警官を連れてもどって来ました。

「私たちは逮捕されて市役所に連行されました。そこで,ただちに法廷が開かれ,私たちは,僧職者を批判したとして“冒とく的誹謗文発表”の罪で告発されました。証人として呼ばれたのは地元のカトリックの司祭だけでした。私たちはシェルブルックに連れて行かれ,不潔で害虫のうようよいる刑務所に一晩閉じ込められました。私はそこでひどく殴打されたため,数週間も治療を受けねばなりませんでした。

「9月10日に,レメイ治安判事により裁判が行なわれました。レメイ判事は法律に従うことを決意していました。そしてこう述べました。『本件に冒とく的誹謗は認められません。よって被告に対する訴えを却下します』」。

その時代にケベックで王と王国を宣伝することは明らかに容易なことではありませんでした。それにもかかわらず,カナダの他の土地におけると同様,ケベックでも「良いたより」の忠実な宣明者たちは前進しました。なすべき大切な業があり,彼らはその業を行なう熱意にあふれていました。

王国の音信が“放送”される

1920年代の初めに,王国を宣伝する新しい手段が現われ,聖書研究者はためらうことなくそれを利用しました。1923年以前に,すでにラジオという新しい手段を幾らか用いていました。例えば,ブランドンのスミス・シャトルワースはCKX放送局を通して聖書の講演をしています。しかし,カナダの聖書研究者たちはまだ自分たちの放送局を持っていませんでした。

1923年の夏,サスカツーンのジョージ・ネシュは,戦時中に通信隊の士官をしていたことのある弁護士に会いました。ある時,ネシュは長さ18㍍ほどの丸太が数本地面にころがっているのを見ました。それが何かを尋ねたところ,信号塔にする丸太だという返事でした。ネシュ兄弟はそれで上等の送信塔ができると考えました。聖書の真理を放送する地方放送局を作ってはどうでしょうか。

協会のトロント支部から励ましを受け,サスカツーンの会衆はその計画を進めました。秋の暮れまでにサスカツーンの北西部の高台に土地と家屋が購入されました。先に述べた丸太のほか,他の備品も廃物利用の形で手にはいり,サスカツーンの聖書研究者は放送局を建てました。宗教団体の放送局としてはカナダで最初の部類に数えられる,その出力250㍗のCHUC放送局は1924年の春までに“放送”を開始していました。当時サスカツーンにはほかに一つの放送局しかなく,カナダ全国でもCHUCを除いて七つほどの放送局しかありませんでした!

どんな番組が放送されたのでしょうか。限られた放送時間内で聖書の講演,聖句に関する質問に答える番組,音楽番組が放送されました。講演や,質問に答える番組をしばしば担当したのは,放送にうってつけの声を持っていたウィリアム・フルーウェリングでした。リクエストによりヒルダ・エッセンが歌をうたい,サスカツーン会衆内の才能のある人たちが聖書研究者だったコスタ・ウェルズの指導で合唱しました。コスタ・ウェルズは,英国のロンドンのクリスタル・パレスにおいてS・ベッツ指揮下で合唱の仕事をしていたことのある人でした。

人々の反響はとてもよいものでした。寄せられた手紙は注意深く取り扱われ,関心のある人々に聖書文書が発送されたり,訪問がなされたりしました。CHUC放送局は辺ぴな地域に住む大勢の人々に伝道する手段として用いられました。例えば,マックカグー(サスカツーンから約185㌔離れている)のグラハムという主婦は良い反応を示して,キャロットリバーバリー地域で王国の音信を広め始めました。受信状態が特に良好な場合には,西アルバータのロッキー山脈のふもとの丘陵や,320㌔から480㌔離れた合衆国北部にまでCHUC放送が届きました。真理を捜し求める,非常に大勢の関心を持つ人々がいたので,拡張することがどうしても必要でした。ジョージ・ネシュはその点を指摘して,こう語っています。

「ほどなくしてどうしても拡張しなければならなくなりました。そのころハインツマン・ピアノ会社はサスカツーンの商店街にたいへん立派な店を建てました。私はそこの店長を訪れ,本店の一部を週に三回スタジオとして使わせてもらえるかどうか話しました。その代わり各番組の初めと終わりに,サスカツーン商店街のハインツマンビルディングのCHUCスタジオよりお送りしています,と放送することを考えていました。店長は最初半信半疑の様子でしたが,幹部の人たちに相談すると言いました。そして相談しました。2,3週間で私たちは,当時としては全く新しい方法,つまりリモートコントロールで放送していました。当時の放送局検査官の話によれば,私たちの小さなCHUC放送局はその分野の草分けとなりました。

ラジオ放送の拡大

1925年に,ものみの塔協会は,CHUC放送局の所有権を取得し,劇場だったレジェントビルディングを購入してスタジオをそこへ移しました。また,協会はトロントでCKCX放送局(1926年に開始)を運営しました。その際立った番組の一つは,パンテイジズ劇場で1926年にラザフォードが行なった「地上最大の戦いは近い」という講演でした。CKCXは王国の音信を放送する放送局の全国中継放送の中心となりました。ちなみにマーガレット・ラベルの話によれば,アナウンサーのネビル・メイスミス(聖書研究者になる前は舞台俳優だった)は,CKCXのコールサインを放送する前にチャイムを鳴らすことをした最初の人でした。その時から他の放送局もその型にならっています。

ラジオ放送の拡大に伴い,1926年に協会はエドモントンにCHCY放送局を開設しました。また,四番目の放送局としてバンクーバーにCFYCを設置しました。王国の音信を広めるこれらの放送局のほかに,協会や聖書研究者の地元の会衆は時折,各地の民間放送局の有料放送も利用しました。例えば,ノバスコシアのシドニーでCJCBが使われました。「王国は世界の希望」と題するラザフォードの講演が放送されたあと,J・A・マクドナルドという陸軍大佐は,ダニエル・J・ファーガソンにこう語りました。「ケープブレトン島の島民はきのう,世界のこの地方でかつて聞いたことのない良い音信を聞きました。それは全くすばらしい音信でした」。

国際的な放送網!

1927年は実に興奮に満ちる年でした。オンタリオ州のトロントは,7月18日から26日にかけて開かれる大会の開催地に選ばれていました。合衆国のすべての州から,カナダのすべての州から,そしてヨーロッパからさえ出席者たちが来ました。J・F・ラザフォードは「人びとへの自由」と題する公開講演をしました。一度にその時ほど大勢の聴衆に話した人はそれまでにいませんでした。コロシアムおよびフェアグランドの他の場所に,目に見える聴衆が1万5,000人ほどいたほか,リモートコントロールによってCKCX放送局の諸施設が十分に活用されました。それは53の放送局から成る国際的な放送網に組み込まれていたのです。そうです,幾百万もの人が,それまでに最大の放送中継によって音信を聞きました!

ナショナル放送会社の当時有名だったアナウンサー,グレアム・マックナミーはトロントへ派遣されて講演者を紹介する役を勤めました。別の特別な取り決めにより,その講演はオーストラリアと英国でも聴取されました。市長は大会出席者がトロント市に来ることを歓迎しました。ところが,その歴史的な出来事についてトロントの各新聞が沈黙していたのは興味深いことです。しかし,協会は大会の毎日の模様を伝えるために,「メッセンジャー」という独自の新聞を発行しました。

放送の自由のための戦い

聖書の真理を人々に伝える目的でラジオの効果的な利用が盛んになっていることに刺激されて,僧職者たちは政府の役人に大きな圧力をかけました。そのため,1928年3月8日に,カナダ放送協会は突然,国際聖書研究者協会の放送許可の更新を認めないと通知してきました。最初,理由が何も明らかにされませんでした。表現の自由に対するこうした攻撃に対して強い抗議の声が上がり,放送局に放送を続けさせるための請願運動がただちに開始されました。協会所有の放送局の放送に対する禁令解除を求める署名が最終的に46万6,938提出されました。

水産大臣でローマ・カトリック教徒でもあったP・J・A・カーディンは,政府当局者の立場を言い表わしました。名前を明らかにしませんでしたが,聖書研究者の放送に苦情を言う人が大勢いると断言し,こう語りました。「苦情を言う人々は,たいてい,放送内容のことをがまんならないもの,と述べている。聖書の話という名目で行なわれる宣伝は非愛国的で,我々の教会すべてに対して侮辱的であると言われている。証拠からして,伝道されているのは次のような事柄であるらしい。すなわち,既成の教会すべては堕落し,邪悪な勢力と連合している。社会の体制全体は悪い。すべての政府は非とされるべきである,などのことである。一般の人々の益のために聖書研究者の許可を更新すべきでないとの強い要請があった」。

この言葉から,苦情を言う人々を見分けることは難しくありません。言うまでもなく,カーディンは,苦情の中で報告された幾つかの点を前後関係から取り出して問題を実際よりも悪く聞こえるようにしています。それにもかかわらず,それらを根拠にして他者に批判的な放送局もしくは新聞は,事実上すべて継続することを禁じられました。請願の結果行なわれた議会の討論でその点が指摘されました。一人の議員は特に,問題点を極めて的確にまとめてこう語りました。

「さて,私は聖書研究者協会の会員ではありません。……しかし,私たちはいつ現政府の大臣を宗教的見解の検査官に任命したのかお尋ねしたいと思います。これまでいつの時代でも宗教団体は他の宗教団体を批判しています。偉大なローマ・カトリック教会は,時として異端者を手厳しく攻撃したことがあると思います。アタナシウス信条を奉じている英国国教会は,同信条を信じない人々に対して非常に強硬に反対していると思います。また,福音教会派の人々が,自分たちの伝道している教理を信じないなら大抵どこへ行くかを人々に語っているのを聞きました。聖書研究者は他の宗教団体を非難していると言われています。単に他の宗教団体の足跡に従っているというだけで,なぜ彼らを有罪とすべきでしょうか。カトリックとプロテスタントを等しく非難しているゆえに聖書研究者の活動をやめさせるなら,[オレンジ派の]センチネル紙とカトリック・レジスター紙の発行を禁止してはいけない理由が分かりません」。

「ものみの塔」誌は,この件に関する報告の中でこう述べています。「わたしたちは協会の弁護士の一人をオタワに派遣しました。政府関係者との会見の中で,指摘されていた唯一の理由が分かりました。それは,協会の放送が始まったために,ある説教者が話を中断させられたというものでした。しかし,協会の放送局は明らかに時間を守ったのであって,その説教者の方が時間を15分超過していたのです。ともかく,カナダ各地にある他の放送局の放送許可を拒否する理由が何もなかったことは言うまでもありません」。

もしカナダ政府がその独断的な行動を隠しおおせると考えていたなら,失望を感じたことでしょう。釈明の要求と抗議の声が高まりました。カーディン氏は明らかに強い反発を予期していませんでした。下院議員たちは,政府が行なっていることの釈明を求めました。問題を避けようと空しく努めるカーディンにとって,「たび重なる抗議」というような大ざっぱな表現を使えば十分に思えたかもしれませんが,議員たちは満足していませんでした。度量のある二人の国会議員,J・S・ウッズワースとA・A・ヒープスは水産大臣の貧弱な説明に納得せず,カーディンが受け取ったと言う手紙と苦情のすべてを提出するよう要求しました。

下院の外でも抗議が引き続き行なわれていました。46万6,938名の署名入りの大掛かりな嘆願状が議会に提出されました。さらに政府の行動に抗議する1,500通の電報とおびただしい数の手紙が送られました。カナダ各地で抗議集会も開かれました。

一方,議会では,公正が行なわれるのを見たいと強く願っていた議員たちが,カーディン氏に苦情の内容そのものを提出せよと要求して引きさがりませんでした。そうした苦情ゆえに,同氏は放送許可の更新を拒否する,と断言していたのです。どういうわけかすぐに提出されませんでしたが,繰り返し要求がなされた末ついに,1928年5月7日に苦情の内容が提出されました。

1928年5月31日と6月1日に下院で,問題に関するあらゆる角度からの討論が行なわれました。J・S・ウッズワースは討論の方向づけを行ない,苦情内容の提出が数週間遅れた後,主として,放送許可取消しを論じた新聞の切り抜きを見つけたことを巧みに指摘しました。カーディン氏は,許可を取消すという自分の処置の正当性を示す苦情がほとんどないことを見つけられたので,独断的な処置を取った後に記事を新聞に載せて自分の弱い立場を補強しようとしたのです。

下院で議員たちは次々に,エホバの民に対する政府の処置を攻撃しました。その中の一人,アービンという人は次のように述べました。「自分の子供にそのようなもの[ジャズ]か,それとも聖書研究者による徳を高め啓発する内容の番組かどちらを聞かせるかを選ばなければならないとすれば,自分が聖書研究者の宗教的な見解にたとえ同意できないとしても,前者の番組の一部を廃止してでも,聖書研究者の番組を残すほうがよい,と私は思います。実際,この件に宗教の問題を絶対に持ち込むべきではないと思います。宗教の自由と宗教的な寛容の原則は数世紀も前に定められていたはずです」。

午後11時に討論は終わらず,翌日の1928年6月1日に再び行なわれました。他の議員たちから答えに窮する質問を次々と浴びせられて,カーディンは決して守ることのできない立場を維持しようと苦闘しました。そして苦情を申し立てる人をバンクーバーで三人,エドモントンで五人,サスカツーンで六人,トロントで数人そろえていました。(「カナダのエホバの証人」,100ページ)つまり,ある議員がこう語った通りだったのです。「換言すれば,当局は許可を取り消し,それを行なった後に,自分たちの処置を正当化する証拠を捜し回りました。これは公正なことだとは思いません。このような行為を本議会で正当なこととしたくありません」。

政府の独断的な行動が明るみに出され,それと同時に証言がなされました。(マタイ 10:18)比較的小さなグループが国の中央舞台に立ち,国中の人々がそのグループの正当な要求に注目せざるを得ませんでした。

当局者たちは,請願書の50万に近い署名を無視し,社会が望むものを社会に提供しているにすぎないと主張して,その態度を変えず,放送許可の更新はなされませんでした。したがって他の放送局を通して王国の音信の放送を続けなければなりませんでした。毎週ラザフォード兄弟の講演のレコードを放送する放送局は,1931年までに21局になっていました。

カナダの国際聖書研究者協会

神の僕たちの活動が盛んになったことや,他の事情もあって,カナダの国際聖書研究者協会を設立することが必要になりました。この法人団体は,今日なおカナダのエホバの証人の益を図っています。例えば,同法人は支部事務所の不動産を所有しています。

カナダの国際聖書研究者協会が設立された1925年当時,トロントのベテル家族は12人でした。また,野外には王国を公に宣明する人々が平均1,000人いました。カンパニーすなわち会衆が70あり,聖書文書頒布者が71人いました。

法律上の闘いが始まる

こうした活動は再び反動を招きました。僧職者にそそのかされた役人と警官は,公に福音を宣明する業にますます干渉するようになりました。ケベック州のサンタンヌ ドゥ ポプレ,ウェストマウント,モントリオールで逮捕が始まりました。それらの事件およびカルガリーの事件は,表現の自由を獲得するために行なわれた法律上の一連の闘いの当初に勝利が得られた事件でした。

カルガリー事件に関し,カルガリー・ヘラルド紙は次のように報じました。「市内での宗教文書販売に許可証は必要なし。宗教文書の行商人は許可証を得てから販売しなければならないとする市の条令は,非営利の性質の宗教文書頒布には適用されない。土曜日に警察裁判所で行なわれた国際聖書研究者H・B・------------------の裁判で,サンダーズ判事はこのように判決を下した。H・B・------------------は先の条令に違犯したかどで告発されていた」。

「学校チーム」の業

多くの地域社会で効果のあった業を,エホバの民が1924年に組織したことをお話ししておきましょう。「学校チーム」と呼ばれたその業は,ある決められた地域で証言を行ない,地元の学校で講演会を開いて人々をそれに招待するという業でした。

ふつう,二人の聖書研究者がいっしょに働いて,この業を行ないました。そして,カナダ全国の大勢の人々に音信が伝えられました。奉仕者たちは地域社会を次々に旅行し,時には毎晩別の場所で講演することもありました。日曜日に二回講演をすることもありました。それは,確かに,怠け者が行なう業ではありませんでした。

有蓋自動車は業を促進した

いなかの地方で証言するために,王国宣明者たちは一度に数週間も家から離れて暮らさねばならないことが少なくありませんでした。そのような場合,宿舎をどうしたのでしょうか。ある会衆は有蓋自動車のたぐいを用いました。最初にそれを作ったのは,恐らくマニトバ州ポルタージュ・ラ・プレーリーのハリー・マーシャルだったと思われます。ところで,それはどんな自動車だったでしょうか。

寝たり食事をしたりすることができるようになった車体を自分で作り,それをシボレーかフォードのトラックの車台に取り付けたものでした。それまである人々が使っていたテントに比べると,その自動車はかなり改良されたものでした。それら有蓋自動車は,今日人気のある,トラックの後ろに載せる“キャンパー(小型運搬室)”の先がけとも言えます。

戸別に福音を宣明することが強調される

1927年になって,日曜日に戸別訪問をすることが強調されました。その証言活動に非常に驚いた人々もいました。日曜日は「主の日」で,だれも働いてはならないと考えていたからです。もっとも,その人たちは僧職者が日曜日に説教壇で“働いている”のを見過ごしていました。

二,三の地域で,警察がエホバの僕たちを悩ましたり逮捕したりすることがありました。しかし,証言の業は進行しました。驚いたことに聖書研究者の会衆の“長老”の中から反対する者たちが出たのです。その者たちは,戸別に訪問するのは,はしたないことだと感じました。少なくともそう言って反対したのです。しかし,今から思えばその業に反対したのは1916年およびそれ以後反対した者たちの残存者だったのです。今や,その者たちが主の業を行ない続けなければならないか,それとも,神の民の会衆が全体として,自分たちの特権であり責任であると考えている事柄に,その者たちが調和していないことを他の人々が気付くようになるかのどちらかでした。それで彼らの中のある者たちは,その時に落ごしました。

1920年代は,グループの着実な発展,公に福音を宣明する業の成功をもって終わりました。もっともその間に,王国の宣明者を沈黙させようとしてあらゆる方法に訴える僧職者たちとの闘いが続きました。しかし,多くの優れた成果がありました。例えば,有蓋自動車の業は,聖書研究者の会衆のない地方の人々に伝道するというすばらしい仕事を行ないました。1930年に聖書文書頒布者の数が125人という最高数に達したことは注目に値します。それは,1926年当時活発だった63名をはるかに上回るすばらしい増加でした。

フランス語を話す人々の間で拡大する活動の活発化

さらに,ケベック州とオンタリオ州のフランス語を話す人々の間で業が発展し始めたのも,1920年代のことでした。1927年までに,モントリオールで,18人から成るフランス語の会衆が活動していました。その人たちとそのほかのフランス語を話す王国宣明者たちは,ケベック州で「良いたより」を精力的に宣べ伝えていました。

そのころまでにオンタリオ州北部のチスウィックに30人から成るフランス語のクラスができていました。それは同州で最初にできた,神の民のフランス語の会衆でした。

「良いたより」を宣明するために船を使う

1920年代の末,ニューファンドランドの証言の業をさらに良く組織するためにJ・D・マクレナンがニューファンドランドに派遣されました。そして船でないと行けないニューファンドランドの外港に住んでいる人々に伝道するために,船が備えられました。しかし,カナダの西海岸沿いにある多くの入江と島はどうなっていたでしょうか。1930年にアーネ・バースタドとアーサー・メリンはチャーミアンという船に乗ってバンクーバーからアラスカまで王国の音信を宣明していました。それまでニューファンドランドとラブラドルの沿岸で証言していたフランク・フランスキが同年その二人に加わりました。三人の任命地は非常に珍しい地域で,画家にとって楽園のような所でした。山々が海まで迫っており,小さな村々や,そそり立つ山々にはさまれた水路に浮かぶ船が小さく見えます。潮の干満の差は,プリンスルパートで8㍍,アラスカでは11㍍にもなりました。

アーサー・メリンにとって,それは初めての経験でした。アーサーはアルバータ州で証言したことがあり,いとこのエルマー・メリンとピジョン湖やコンジャリング湖付近の地域で開拓奉仕をしたことがありました。しかし,今度の区域にあるのは海でした。フランスキはニューファンドランドにいたことがありましたが,太平洋は大西洋と異なっていました。しかし,バースタドは経験豊かな船乗りでしたから,二人は大船に乗ったような気持ちでした。三人は漁村,会社の町,木材の切出し場,孤立しているわな猟師と鉱夫を熱心に訪問しました。アラスカの税関のある港や遠方のインデアンの村々も訪問しました。接触した人々の多くは,やがて好意的な反応を示すようになり,最初の訪問の結果幾つかの会衆が設立されました。

チャーミアン号には,海上で数㌔離れた所からでも聞こえる強力な拡声装置が備わっていました。ですから,沿岸の人々に伝道するのにたいへん役立ちました。船の拡声装置を使って聖書の講演を放送したあとで証言するのはとても楽しいものでした。文書を容易に配布できました。午後とか夕方に100冊もの文書を配布することも時折ありました。

1931年,チャーミアン号はジョージ・ヤングとフランク・フランスキの指示の下に改造されました。バースタド兄弟姉妹は,その後数年の間,いろいろな人たちといっしょに沿岸地域で業を続けることができました。1940年,フランスキと彼の妻はチャーミアン号にもどり,政府の禁令で船による奉仕ができなくなるまでバースタド兄弟姉妹と共に奉仕しました。当局は後にチャーミアン号を没収しました。

第二次大戦後,フランスキは自分の船でその同じ区域の多くを回って優れた成果を上げました。ナムに住むスクーナー家のようにインデアンの数家族が真理を受け入れました。フランスキとジェイムズ・クインは,カナダのその地方で12か月間に協会の雑誌の予約購読の契約を1,500件も得ました。こうして,船は長年の間王国の音信を広めるうえで効果的に用いられました。

聖書文書頒布者たちは業を推し進める

1930年代の初めまでに,聖書文書頒布者たちは十分に組織されていました。一人でその奉仕をしていた人々のほかに,七つほどの“キャンプ”つまり集団がありました。それら聖書文書頒布者の“キャンプ”はブリティッシュコロンビア,マニトバ,アルバータ-サスカチェワン,ケベック,東オンタリオ,南西オンタリオおよび海岸地域にありました。それらの集団は自分たちの小麦をひき,食事を作り,文書と引き換えに新鮮な食料品を入手しました。天候が許せば数か月のあいだ有蓋自動車を数台連ねキャンプしながらいなかの地域で証言しました。冬になると,その聖書文書頒布者たちは都市の大きな家に住み,そこの区域を網らする面で地元の会衆を援助しました。そうした集団は,ひと冬に幾つかの都市へ移動することもありました。

そのころ,聖書文書頒布者たちは開拓者と呼ばれるようになりました。所によってそれらの人々は実際に“道を切り開き”ました。例えば,アーサー・メリンとデイビド・ハドランドは,ブリティッシュコロンビアのバーンズレーク付近およびその西方の地区で優れた働きをしました。1932年の夏に二人が奉仕した上記の区域には,王国の宣布者が一人もいませんでした。“A”型フォードや,後には別の自動車を使って二人は広い地域を網らしました。種はまかれ,エホバがそれを生育させてくださいました。今日その同じ地域に10の会衆があります。

当然のことながら,業を行なっていくにあたって問題や反対がありました。1932年にケベック州のホルで三人の開拓者が逮捕され,扇動的な文書を配布したとの偽りの告訴を受けました。三人は,エイケム判事による裁判の際に,ブルックリンから指示された手続きに従い自分たちだけで立場を弁明してその裁判に勝つことができました。負けていたなら5年から20年の刑を言い渡されるところでした。

ケベック州のシャーブルックで開拓者のフランク・リスターが逮捕されたのも1932年でした。その年,ケベック州のラシーヌで暴徒の襲撃がありました。当時そこで奉仕していた特別開拓者の一人,ジャネット・マクドナルドは幾つかの町で200名から300名の暴徒が組織されたと語り,こう回顧しています。

「私たちが人ごみをかきわけて行こうとすると,ある人たちはほかの人たちよりも攻撃的になって,私たちをけったり殴ったりしました。それはラシーヌで大詰を迎えました。町の助役の息子が怒ってデモレスト兄弟を階段の途中から投げ落としたのです。私は通りの反対側で奉仕していて,好意的な人からそのことを知らされました。その人はそこから立ち去るほうがよいと助言してくれました。デモレスト兄弟も私も同時にそこを去ることに決めました。しかし,暴徒の間を通り抜けるのは容易ではありませんでした。自動車を止めておいた場所にやっとのことで着いてみると,自動車はそこにありませんでした。ハワード(私の主人)と他の二人の兄弟が警察の派出所に保護を求めに行っていたのです。しかし,すげなく断わられました。ほんの2,3分して主人がもどって来ました。デモレスト兄弟と私がなんとか自動車に乗ろうとしていたとき,卵が雨あられのように降って来ました。ある店の主人が,暴徒のために,卵の入ったかごを通りへ出したのです。それは一月のことでしたから,割れた卵が凍りついてしまい,自動車は見るもあわれな姿になりました」。

証人たちは,デモレスト兄弟を除いて,だれも危害を被らずになんとか避難することができました。後日その事件の裁判が行なわれ,暴徒のリーダーの一人は罰金を課されて,自動車の損害賠償をしなければなりませんでした。

警察が,大西洋地域で奉仕していた有蓋自動車のグループを妨害しようとしたことも一度ならずありました。警察官たちは,免許証もしくは許可証を必要とする商業活動をしているかのように見せかけようとしました。そうしたことはニューカスル,デルハウジー,バサースト,キャンベルトン,グランドフォールズ,ニューブランズウィック州のエドマンズストンで起きました。しかし,妨害は派出所の段階までで,事がそれ以上大きくなることはありませんでした。ダニエル・ファーガソンとロデリク・キャンベルが,証人の活動は商業的なものでないことを承認する手紙を首都の当局者からもらっていたからです。その手紙を見せると,警察は大抵の場合証人に反対する処置をそれ以上取りませんでした。

ケベックをもっと詳しく調べる

すでに見た通り,1930年代中ケベック州は信教の自由のための戦場となっていました。ではそこの真のクリスチャンが受けた迫害の背後にはだれがいたでしょうか。さて読者のみなさんの頭の中にまだ何らかの疑問が残っているなら,その多事多端の10年間にわたるケベック州のエホバの証人の活動をもっと詳しく調べてください。そうすればエホバの民の主要な反対者がだれであるかが明らかになります。

1931年の冬の間,ケベック州で証人の業に対する激しい反対がありました。アルフレッド・オーレットは,毎日(一日に二度のことも時にあった)警官に捕まって派出所に連行されるということもありました。オビラ・ゴーシアも同様の経験をしました。「お前たちにはこの活動をする権利がない,と司祭が電話を掛けてきた」。警官はよくこう言ったものです。

1932年,ケベックの当局者はエホバの証人に対して扇動罪のぬれぎぬを着せるという,古代にも用いられた方法を使い始めました。それは宗教上の見解の相違に過ぎない場合がありました。(使徒 24:1-8と比較してください。)カナダで最初にその問題が起きたのは,ケベック州のホルにおいてでした。エミリー・セント・アムールとウィルフリッド・スパイサーが,扇動的な文書を配布したとの偽りの告発を受けたのです。しかし,治安判事はそれを却下しました。

1933年の秋,158人の証人を乗せた40台の自動車が一隊となって,大会のすんだモントリオールから出発し,約260㌔離れたケベック市に行きました。翌朝6時半に,各エホバの証人はあらかじめ指定された場所に着き,フランス語の3冊の無料の小冊子をいつでもすばやく配布できるように用意していました。1時間半以内に4万5,000冊の小冊子が全市に配られ,司祭たちの間に大きな騒ぎを引き起こしました。30人の証人がいっせいに逮捕され,扇動的な文書を配布したとの偽りの告発を受けました。なんということでしょう!

最終的にそのうちの6人だけが裁判にかけられることになり,拘禁されました。最初に審理されたのは開拓者のジョージ・バレットとジョージ・ブロンディの件でした。ケベック市の裁判官と陪審員による6日間にわたる裁判で,検察当局は証人としてカトリックの司祭二人とプロテスタントの牧師二人を召喚しました。その4人の証人は,エホバの証人の文書は扇動的だと思うと言いました。そうです,有罪の判決が言い渡されたのです。被告は,それぞれ300㌦の罰金か5か月の懲役を申し渡されました。ケベックの上級裁判所に上訴がなされましたが,それは成功しませんでした。上級裁判所は,エホバの証人がカトリック教会を批判することは扇動行為であると裁定したのです。そこで次に,証人たちはカナダの最高裁判所に上訴しました。最高裁判所は,起訴状の書き方が適当でないという,純粋に技術的な理由で有罪判決を破棄しました。したがって,カトリック教会の批判は明らかに扇動行為であるとするケベックの裁判所の判決は破棄されず,それはケベックの条例の一部として残りました。

そのことからすれば,エホバの証人がカトリック教会に関する事柄を批判するなら,いつでも扇動罪で有罪宣告を受けることになりました。当局者たちはそれに気づいていました。したがって,エホバの証人が扇動罪で告発されることは普通のこととなり,1935年から1940年にかけてはほとんどあらゆる事件が有罪判決を受けました。

選出された長老制の廃止は祝福だった

選出された長老の存在が会衆内の問題の原因になっていたことがありました。選出された長老とは当時の理解に基づいて投票により民主的に長老になった人々のことです。言うまでもなく多くの長老は霊的な思いを持ち,信仰の仲間に真の祝福となった敬けんな人々でした。しかし中には,単に上手な話し手であったり,でなければ説得がうまかったりするだけの人々もいました。それらの人たちは会衆の責任を担う点で必ずしも最適任者でなかったにもかかわらず,学歴や社会的地位があったり,非常に受けがよかったりしていたのかもしれません。公開選挙の時に緊張やにがにがしい感情の生じることが少なくありませんでした。

ものみの塔協会が奉仕の指導者を任命し,公の福音宣明の業を大々的に推進するようになったとき,戸別に証言することを望まなかった「選出された長老たち」は問題を起こし始めました。自分たちは福音宣明の業に参加しようとせず,他の人々にもその業を行なうのを思いとどまらせました。

長老や巡礼者の中には,不忠実になった人も幾らかいましたが,変わることなく忠実だった人々もいました。その優れた模範はジョージ・ヤングです。ヤング兄弟は勤勉に働き,クリスチャンらしい振る舞い,親切や思いやりの立派な記録を残しました。西欧のいたる所で,“福音説教者”ヤングとして知られていました。また,ヤング兄弟は非常に優れた講演者だったので,その講演が行なわれる劇場は大入り満員になりました。ヤング兄弟は巡礼者に任命され,カナダ全国で奉仕しました。また,西インド諸島の神の民の会衆を訪問しました。後に南アメリカに派遣され,中でもブラジルにおける王国の業の発展に助力しました。さらには,王国の業を組織的に行なうことを試みる目的でロシアへ派遣されました。しかし,政府の反対に遭い,ロシアを去らねばなりませんでした。そのほかにも数々の割り当てを長年にわたって果たした後,ジョージ・ヤングはエホバへの忠実を保ちつつ1939年に亡くなりました。

ですから「選出された長老」のいた時代を振り返ると,当時会衆の責任を担っていた多くの人々は非常に忠実に奉仕したことを認めなければなりません。しかし幾つかの問題もあり,何らかの解決が必要とされていました。

1932年に「選出された長老」制が廃止され,忠実な人々は大きな慰めと祝福を得ました。「ものみの塔」誌は,霊的な資格を持ち神権的に任命された人が聖書にかなう長老であることを明らかにしました。今や,秩序正しさ,平和と一致が神の民の集会の著しい特徴となりました。エホバの霊が注がれていることは明白でした。結果として進歩発展が見られました。

ラザフォードの講演の放送が禁止される

1933年,英国国教会の牧師に扇動されたカナダ放送委員会は,またもや,王国の音信の放送を抑圧しようとしました。このたびは,J・F・ラザフォードの録音された講演のすべてが禁止されました。カナダ全国の放送局にあてられた同委員会の公式の通告書の中に,個人の見解がはいり込んでいることにどうか注目してください。その通告書にはこう書かれていました。

「その放送台本あるいは講演のレコードをカナダ放送委員会に提出して承認されるまでは,反社会的な外人の扇動家であるラザフォード判事とかいう者の講演をカナダの放送局で放送することは許されない。委員長ヘクター・チャールズワース,署名」。(下線は発行者による。)

ところでチャールズワースにそうした措置を取るよう勧めたのはだれでしたか。ニューブランズウィック州セントジョンの「テレグラム・ジャーナル」誌の報告によれば,次の通りです。「放送委員会のヘクター・チャールズワース委員長は,セントジョンの英国国教会の牧師の一団から威厳のある苦情を聞いたと述べた」。(下線は発行者による。)その報告はそれらの牧師のうちの数名の名前を挙げていました。

放送禁止に対する大々的な抗議運動が全国的に始まりました。問題の諸事実を人々に知ってもらうため,手始めに「人々への重要な知らせ」と題する四ページの印刷物が135万部配布されました。次いで全国に請願書が回されました。40万6,270の署名が集まり,その請願書のことは新聞で大々的に報道されました。抗議の手紙と労働組合その他の組織の決議文が議会に続々と寄せられました。請願書は総督に提出され,それは議会の討論の火つけ役となりました。首相は問題を調査すると約束しましたが,そのために何の行動も取りませんでした。

問題を公正に扱うことを望み,不況時代に経済困難に陥らないようにしたいと考えていたある放送局に対するチャールズワースの回答は,同氏が禁令を存続させる決意をしていたことを示しています。「黄金時代」誌(「目ざめよ!」誌の前身)はこのように報告しています。

「カナダの一放送局は,チャールズワース氏に次のような趣旨の電報を打ちました。『当方は,ラザフォード判事の講演の内容に全面的に賛同しているわけではありませんが,その中に反社会的もしくは共産主義的な点を何ら見いだしていません。その放送の趣旨は,他の宗教形態を批判し,私たちが根本主義と呼ぶ同判事自身の信条を称揚する方向に向けられています。当方は,それが民主主義政府と対立しない限り,言論の自由のためにあらゆる種類の放送を認めるべきであると考えます。今日収入の減少は当方にとって苦しいことです』。少なくとも二週間放送を継続する許可を得るために,その放送局は電報文の補足としてチャールズワースに電話をかけました。しかし,答えは『可能性はない』というものでした」。

しかし真理は鳴り響いた!

放送は禁止されましたが,人々はカナダ全国でレコードに録音された聖書の講演を引き続き耳にしました。1931年ごろ,証言の業に録音再生機が用いられるようになったのです。それはレコードをかけたり,拡声器で音を大きくしたりできるようになっていました。カナダで使われた録音再生機は,協会のカナダ支部が設計して組み立てたもので,放送局で使われていたJ・F・ラザフォードのレコードと同じものをかけることができました。したがって,1933年に,宗教的な圧力を受けて放送ができなくなったとき,協会はポータブルの録音再生機をいっそう大々的に使い始めました。講演のレコードは会館や大会会場で盛んに用いられるようになっていきました。

自動車に付けて宣伝カーにすることができる型の録音再生機もありました。その強力な録音再生機でボリュームを最大にしてレコードをかけると,数キロ先まで音が聞こえました。カナダで採用された一つの新しい方法は,約12㍍の高さになるはめこみ式の支柱に拡声器を幾つか取り付けて,できるだけ遠くまで音が届くようにするという方法でした。

録音再生機の使用に対して僧職者から激しい反対がありましたが,人々は,概して,エホバの証人が行なおうとしていることを高く評価していました。多くの人がその方法で神の真理を学びました。人を考えさせる講演が人々の耳に達した結果,会衆が生まれました。

ブリティッシュコロンビアから次のような報告が寄せられました。「ラングリーで,一人の男の人は納屋の屋根を修理していました。そのとき『死者はどこにいるか』という問題を論じる声が聞こえてきました。人の姿は見えませんでしたが,話される言葉は一つ一つはっきり聞こえました。さらに,その人は自分が聞いたことをだれにも話そうとは思いませんでした。自分が気違いになったと人々に思われはしないかと心配だったからです。それで,そのことを全部自分の胸のうちにしまっておきました。次の日曜日の朝,ある人が『死者はどこにいるか』という全く同じ主題の小冊子を携えてその人の家を訪れたので,なぞが解けました! まもなくラングリーに,新しい弟子ばかりの会衆が設立されました」。

1930年中に,ポータブルの蓄音機は,証人の証言活動にも用いられるようになりました。まずそれは関心のある人々との聖書に関する討議を進める際に用いられ,後に戸別の証言活動にも用いられました。王国の音信はレコードによって紹介されたのです。ラザフォード兄弟の聖書の話のレコード(一つの話は四分半の長さだった)は英語を話す人々の区域で使われました。したがってその区域の人々は様々な主題の話を聞くことができました。カナダでそうしたレコードが用いられるようになったのは,1934年のことで,1938年の一年間に900台の蓄音機がカナダの証人に送られました。ですから,合計2,500台近い蓄音機が使用されていたことになります。

そうです,当時は王国奉仕が熱心に行なわれた時でした。1935年までに,カナダ全国の150の会衆で2,200人を超える「良いたより」の宣明者が活発に奉仕していました。また,1935年の末にトロントのベテル家族16名が支部の建物に入居するという必要な調整が加えられました。

内部の問題

証言の業は前進を続けていました。しかし,1936年は危機の年だったようです。組織の外にも中にも問題がありました。野外ではあらゆる方向から反対されました。ノバスコシアのチェテキャンプ付近で,王国会館の伝道者たちは人々から熱湯や,脱脂乳さえかけられました。マニトバ州のサンタンヌ・デ・シェーヌでは,暴徒たちが,アメリカ人の観光客数名の自動車をエホバの証人のものと勘違いして,石や卵やトマトを投げつけました。町の人々は当然のことながら当惑しました。ケベック州でも,証人の業に対する激しい迫害は,相変わらず続いていました。

しかし,組織の内部にも問題がありました。問題の原因は当時支部の責任者だったW・F・ソールターにありました。ソールターは1935年以来,ものみの塔の出版物に述べられていた「大いなる群衆」に関する聖書的な見解に全面的には同意していなかったようです。(啓示 7:9,文語)ソールターは,人々に「ハルマゲドンが終わるまで戸別に証言する必要はない」と言っていたのです! 人々がそうした見方をすれば,その「大群衆」に音信を伝える業は妨げられてしまいます。

ソールターは,自分がエホバの証人の新しい伝達経路となり,“万人救済”といった自説がやがて「ものみの塔」誌に掲載されるようになると考えていることが明らかになりました。ソールターは,また,ヨーロッパのある支部の責任者に,自分がものみの塔協会の次の会長になるつもりであると書き送りました。トロントのベテル家族の一員であるローラ・フレンチの話によれば,月曜日の夜に行なわれるベテル家族の「ものみの塔」研究のときに,ソールターは憂慮すべきことを言いました。そのため,ついには「ものみの塔」研究の司会者を選出するときに,大部分の人はソールターを退けてフランク・ウェインライトに投票しました。

問題が頂点に達することは必至でした。ラザフォード兄弟は,トロントに来てベテル家族の成員と5時間にわたって会合し,一部の成員が書いたソールターに関する苦情の手紙をそれらの成員に読ませました。それからラザフォードは,ソールターが兄弟たちを組織から離して自分の側につかせようとしていることの証拠を示しました。その証拠はカナダばかりでなく英国とドイツにもありました。ソールターは支部の責任者の立場から退けられ,2週間以内に支部から出るように言われました。(その時ほかに7名の人々が支部を出るように求められました。そのほとんどはソールターの支持者でした。)その会合の際,およびソールターを非とする証拠が次々に挙げられていく間,ラザフォード兄弟はソールターに対して非常に辛抱強く接しました。

支部の新しい責任者として,長年ロンドン・ベテルで熱心に奉仕していたパーシー・チャップマンが任命され,ベテル家族は再び平和になりました。しかし,ソールターが多くのエホバの証人と自分の追随者たちに送ったおびただしい数の手紙と文書は,ソールターが何ら悔い改めていないことをはっきりと示していました。したがって,1937年に,トロント会衆はソールターに対して排斥の処置を取りました。

再組織は霊的な強さを増し加える

その後の3年間に王国伝道の業は徹底的に再組織されました。カナダ全国が14の地区に分けられ,各地区には責任を持つ僕が一人ずつ置かれました。再訪問活動が強調されました。1938年に行なわれた会衆に対する調整により,平和と一致が促進され,奉仕が一層効果的に行なわれるようになりました。

この期間中,トロント・ベテルの職員にも幾らかの調整がなされました。例えば,オンタリオ,モントリオール,海岸地域で5年間開拓奉仕をしていたレオ・K・グリーンリースが1936年6月13日にトロントのベテルに入りました。グリーンリース兄弟はベテルで数々のすばらしい特権を得,やがて,カナダ支部事務所とカナダ国際聖書研究者協会の会計秘書になりました。そして,1964年にブルックリン・ベテルに招待され,現在エホバの証人の統治体の一員として奉仕しています。

1937年8月24日には,ジャック・ネイサンが英国から到着しました。ネイサン兄弟は,まずモントリオールに着き,それからトロント・ベテルに行きました。そして,1938年に当時地帯の奉仕と呼ばれていた,現在の巡回監督の活動のような奉仕を行なうようになりました。ネイサン兄弟はナイアガラ半島全域を網らし,北のキッチナーやゲルフまで行きました。その割当ての地域には20ほどの会衆があり,約700名の王国伝道者がいました。しかし,それ以来その地域の伝道者は著しく増加して来ました。

ネイサン兄弟がトロント・ベテルで奉仕を始めてから40年たちました。ネイサン兄弟は,今なおそこでエホバにほまれとなる活動を続けています。しかし,カナダの野外にいる信仰の仲間に仕えた初めのころの業を振り返ってみるとき,ネイサン兄弟が当時良い訓練を受けていたことは明らかです。というのは,その後まもなく,伝道者たちは難しい状況に直面しなければならなかったからです。ネイサン兄弟は,そうした状況下で彼らを励まし,王国伝道の活動が組織的に行なわれるようにするためにカナダ全国の兄弟姉妹と接触を保ちながら,大切な役割を果たしました。ですから,初めのころの奉仕は,ネイサン兄弟にとってそのための備えとなったのです。

ニューファンドランドにおける業

ものみの塔協会のカナダ支部はニューファンドランドにおける王国宣明の業の監督をしていました。しかし,1936年の夏にそれは変更されました。協会の船積みのすべてはニューヨークで行なわれ,ニューファンドランドに小さな文書の倉庫があったので,アメリカ支部がニューファンドランドの業を監督するのが最善であると考えられたのです。

1938年に,ニューファンドランドは再びカナダ支部の管轄下にはいりました。この取り決めは,ニューファンドランドに別個の支部が設けられた1945年まで続きました。1949年にニューファンドランドはカナダを形成している連邦の一部になりましたが,協会の支部は独立したままになっています。

1930年代が終わりに近づく

胸の躍るような拡大と会衆の発展が見られた10年間が終わろうとしていました。そうです,カナダの1930年代には着実で健全な増加を示す証拠がありました。王国宣明者の数は1931年に798人でしたが,1939年には4,269人に増えていました。同じ期間に開拓者は126人から294人に増えました。

しかし,戦雲が広がり,1939年に再度国際的な緊急事態が生じました。それに伴い,興奮した愛国主義的な分子はたちまち極端に走り,他の人々に無理な要求をするようになりました。エホバの証人は,学校における国家主義的な儀式に関係した問題,世俗の仕事に関係した問題,中立を保つ決意をしているゆえに生じる問題に直面しました。そしてついに,1940年代の半ばに,重大な問題に直面せざるを得なくなりました。

またもや禁止される!

1939年に第二次世界大戦がぼっ発したのを機会に,宗教上の敵たちは再びエホバの民の活動をやめさせようとしました。特にケベックにおいてそれまで法律上の戦いで敗北を喫していたので,それらの敵は舞台裏に隠れ,政治家たちを誘い込んで自分たちの命令に従わせました。

1940年の夏は,戦争で連合国の主張を支持した西欧諸国にとって暗い時でした。ヒトラーの軍隊はヨーロッパの大半をじゅうりんしており,フランスは数週間で降伏しました。このような緊張した空気の中で,ケベック州出身でローマ・カトリック教徒だった,カナダの法務大臣エルネスト・ラポワントは,1940年7月4日の下院の席上,こう発表しました。「私は下院の皆様に,エホバの証人の名で知られている組織を違法とする枢密院令を提出いたしたいと思います」。

こうして,警告もなく,自分たちの立場を弁護をする機会も与えられずに,突然,エホバの証人とカナダの国際聖書研究者協会は,1940年7月4日に禁止されたのです。トロントのアーウィン通り40番の不動産および国際聖書研究者協会の名義で銀行に置かれていた基金は,当局によって没収されました。1940年7月5日,支部事務所は王立カナダ騎馬警察隊によって封鎖されました。

カナダ政府は,協会の文書の輸入と配布を阻止するために,ペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会(米国)とニューヨークのものみの塔聖書冊子協会(米国)をも違法であると宣しました。それは国際聖書研究者協会が禁止されてから約一か月後のことでした。ですから,幸い,印刷設備と文書の一部をアメリカへ送る時間がありました。しかし,このたびは間違いなく,カナダのエホバの証人は息の根を止められたかに見えました。

僧職者の扇動による禁令を証人は生き残った!

1940年7月4日の禁令が引き金となり,迫害の波がただちにカナダのエホバの証人を襲いました。さっそく次の日に,騎馬警察隊は,エホバの証人の個人の家と王国会館を家宅捜索して,聖書および他の聖書文書を押収し始めました。協会の支部事務所は警察に占拠されました。

禁令の発布に続いて,幾つかの地域では迫害が実際の魔女狩りのようになりました。例えば,ケベック市とモントリオール市で,主の晩さんを祝う集会が解散させられました。子供たちは学校で放校処分を受け,敬けんな両親から引き離されました。多くの証人は起訴されて刑務所に入れられました。起訴の件数は全部で500件に上りました。それらのクリスチャンは何らかの悪行の罪に問われたのでしょうか。そうではありません。エホバの証人であるという理由だけで罰せられたのです!

その禁令は一般の人々から非常に厳しい批判を受けました。謙そんなクリスチャンたちを攻撃する運動が不当きわまりないことは,政府職員を含め多くのカナダ市民の目に明らかでした。バンクーバー出身の国会議員,アングス・マックイネスは下院でこう述べました。「私はあらん限りの熱意を込めて次のことを申し上げたいと思います。すなわち,カナダの法律を盾にエホバの証人を告発し迫害することは,我が国にとって,司法省にとって,またカナダ国民にとって永久に消えない恥辱であるということです」。

ついにエホバの証人は禁令に異議を申し立てる機会を得ました。1942年下院の特別委員会は禁止を検討し,チャールズ・モレルとロバート・マックノールがエホバの証人のために,政府による浅薄な告発に答えることを許可しました。

1942年7月23日,特別委員会は満場一致で禁令の解除を勧告しました。国会の公式の討論で特別委員会の委員が述べた言葉の一部を次に掲げます。

「いかなる時にもエホバの証人を不法組織とすべきであると述べた法務省は,委員会に一つの証拠も提出していません」。

「人々がその宗教的信条ゆえに,これら気の毒な人々が告訴されているような仕方で告訴されることは,カナダ自治領の恥であります」。(下線は発行者。)

こうした勧告にもかかわらず,当時の法務大臣ルイス・セント・ローラントは依然として禁令の解除を拒否しました。(セント・ローラントは,1941年11月に死亡したラポアンテの後任。)一年後も禁令は効力を持っていました。1943年7月21日,政府は,エホバの証人の合法化拒否の件で下院において再び攻撃されました。

アカディア出身のビクター・クウェルチ議員は次のように述べました。「エホバの証人に対する処置が,彼らの破壊的な性質によるのではなく,主としてローマ・カトリックに対してとっている態度によるものかどうかということが疑問視されるところです。……それはカナダ全国で疑問視されており,私はカナダのいたる所でそのことを質問されました」。

クレラー国防相はその提言を激しく否定してこう述べました。「エホバの証人に関する政府の方針は,証人がローマ・カトリック教会を攻撃していることに起因しているのではないかと,クウェルチ議員は疑問を起こしておられます。……そうした推測は,それこそ何の根拠もないことであります」。(下線は発行者。)

しかし,公式記録が一般に公開されるに及んで,クレラー氏が間違っていたことが証明されました。禁令措置を取らせたのは,実際に,カトリックのヴィレノベ枢機卿の公邸からラポアント法務大臣に発信された手紙だったのです。次に掲載するのはその手紙を日本語に翻訳したものです。

ケベック大司教管区

行政局

1940年6月27日 ケベックにて

拝啓

ものみの塔もしくはエホバの証人の出版物に関する,同封したケベックの指導的な論説に,エルネスト・ラポアント法務大臣の注意を促していただければ,枢機卿は喜ばれることでしょう。

最近再び郵便で託送されている幾つかの書籍と小冊子,特に「慰め」と題する定期刊行物はいずれも風紀を非常に乱し,我が国の霊的強さをはなはだ損なうものばかりです。

この手紙を考慮していただけることに対し,あらかじめお礼申し上げます。

敬具

司教区尚書係 ポール・バーニア

オンタリオ州オタワの

エルネスト・ラポワント法務大臣個人秘書殿

この手紙は,枢機卿がラポワントにエホバの証人を非合法化するように命じた手紙にほかなりません。ラポワントは自分の職権が枢機卿に依存していることを知っていましたから,ただちに応じました。この秘密と陰謀のドラマの次の見物は,一週間後にラポワントの個人秘書からヴィレノベ枢機卿の尚書係あてに送られた次に掲げる手紙(フランス語からの翻訳)です。

親展

1940年7月4日

ケベックにて

枢機卿の大司教管区公邸の尚書係

ポール・バーニア大司教殿

拝啓

6月27日付の貴殿からのお手紙を受け取るとただちに,ものみの塔とエホバの証人と「慰め」誌に関して「カトリック活動」に掲載された論説に対してだけでなく,貴殿の説明に対しても大臣の注意を促し,枢機卿のご要望にそうようにいたしました。

私は,ラポアント氏の許可を得て,お話しのあったエホバの証人の組織を本日不法と宣するという内密の情報を電話でお知らせし,そのことを枢機卿に伝えていただくようお願いいたしました。

この手紙は電話でお伝えした事柄を確認するためのものです。

エホバの証人に関する司法省の命令は,枢機卿にしかるべく伝えられるものと思います。

尚書担当官殿,感謝と衷心からの敬意をお送りいたします。

この手紙には,ラポアントの個人秘書の署名が入っていました。枢機卿の要請があってから禁令が出されるまで,ちょうど一週間でした。枢機卿の公邸には大きな喜びがありました。枢機卿の尚書係は1940年7月8日付でラポアントの個人秘書に手紙を書き送りました。そのフランス語の手紙を翻訳すれば次の通りです。

6月27日付の私の手紙の件をラポアント氏に考慮していただくよう取り計らってくださりほんとうに有り難うございます。

枢機卿は,問題にされている司法省の命令に満足している旨をラポアント氏に書き送られましたから,あのような迅速かつ喜ばしい解決がなされて,私たちがどれほど称賛し感謝しているかは,私が改めて申し上げるまでもありません。

改めて感謝の意と深い敬意を表します。

ポール・バーニア,司祭

したがってG・C・クレラー議員は,公開の議会でカトリック教会の影響を激しく否定しましたが,エホバの証人に対する禁令がケベック市のローマ・カトリックの枢機卿の公邸で直接仕組まれたという事実は,政府の記録から確証されているのです。

しかし,ケベックの枢機卿と法務大臣の権力が強かったにもかかわらず,公正な国会議員や他のカナダ人から政府に圧力が掛かった結果,1943年10月14日付で禁令は解かれました。それは戦争がなおたけなわのころでした。歴史上のその困難な時期にそうした立場の逆転が生じたのですから,もともと禁令の根拠が何もなかったことが認められたわけです。

激しく抵抗するサンローラン法務大臣に,国際聖書研究者協会(1944年6月13日)とものみの塔協会(1945年5月22日)に対する禁令を解除させるにはさらに数か月のあいだ闘争が行なわれ,嘆願状や手紙や準備書面が作成され,訴訟が一度行なわれました。しかし,ついに証人たちは戦後の拡大の用意を整えました。

禁令解除後の戦時中の諸問題

禁令が解かれて,エホバの証人は再び合法的な組織となり,宗教活動を自由に続けられるようになりました。しかし,カナダは依然戦時中でしたから,神の民にはまだ法律上の問題がたくさんありました。二,三の例を挙げれば,エホバの証人の奉仕者の徴兵免除,良心的参戦忌避者である証人を政府の営舎に留置すること,クリスチャンの学童が国旗敬礼を行なわない権利といった問題がありました。禁令が解かれたのとほとんど時を同じくして,トロントのグレン・ハウという若い開拓者はオンタリオ州で弁護士を開業する認可を得ました。ハウ兄弟はその後の多くの裁判で大いに活躍しました。

カナダでは,1940年以来徴兵制が敷かれていました。「宗教家」は徴兵が免除されていましたが,エホバの証人の組織が禁令下にあって違法であると考えられていた間は,エホバの僕で徴兵免除を認められた人は一人もいませんでした。禁令の解除に伴い事態は変化しました。トロントにカナダのエホバの証人の事務所が開かれ,今やエホバの民を代弁する目に見える組織が存在するようになりました。

承認を得るための闘い

1943年11月,証人の特別な資格を持つ全時間奉仕者の徴兵免除を求める声明文が労働大臣に提出されました。政府は免除を認めることを拒否しました。その年,カナダのエホバの証人が催した主の記念式に1万5,000人の出席者があったにもかかわらず,エホバの証人だけが当局から,一人の奉仕者もいないとされていたのです。

それは,法廷で争われるべき問題でした。初めての大きな裁判は,1943年に行なわれたアール・キチナー・スチュアート被告の裁判で,それは,バンクーバーの予審法廷からブリティッシュコロンビアの控訴裁判所に上訴されました。スチュアート兄弟は1938年以来全時間の王国宣明者として立派な記録を持っていましたが,それは何の意味も持ちませんでした。被告側の答弁は却下されて,スチュアート兄弟は有罪とされました。

それにもめげず,エホバの民は再度試みる用意をしました。政府は,トロントの支部事務所の職員(現在統治体の一員)で,1931年以来全時間奉仕に携わっていたレオ・K・グリーンリースを徴兵しようとしました。当局から告発されるのを待たずに,グリーンリースカナダ法務長官という件名で確認裁判が行なわれるように事が運ばれました。レオ・グリーンリースが徴兵の免除を受けられる聖職者であるという宣言を要求する訴訟が起こされたのです。それには,反対者たちもあ然としました。まだ戦争の最中で,軍部に関係のある事柄は神聖に近く,侵すことができないと考えられていました。しかし,そこに禁令を解かれたばかりの組織があり,その組織は,おとなしく引きさがる代わりに,公明かつ正大に扱われることを臆することなく要求していたのです。エホバの証人は舞台にもどっており,だれもがそれを知っていました。

グリーンリースの事件は,オンタリオ州最高裁判所のホグ判事によって十分に審理されました。L・K・グリーンリース,パーシー・チャップマン,ヘイデン・C・カビントンは証言をしました。強力な証拠があったにもかかわらず,予審判事は薄弱でもっともらしい論拠により,訴訟を却下しました。オンタリオ州の控訴裁判所に上訴がなされましたが,控訴裁判所もあいまいな判決を下して,結局,真に法的な問題を処理することを拒否しました。次にカナダ最高裁判所に上訴する許可の申請がなされました。しかし,同裁判所は,それが金銭の要求の絡んだ事件でなく憲法の厳密な条文に照らして上訴の十分な理由がないとして,上訴を棄却しました。

ただ一つ残された道は,英国のロンドンにある枢密院に訴えることでした。1946年10月中に審理が受けられるように,上訴の申請がロンドンで提出されました。しかし,論争が始まる直前に政府は徴兵令を廃止しました。争点となるべき法律がなくなったので,その事件は最終的な判決が下されずに終わりました。少なくともグリーンリース兄弟はそれまでの間保護されてきました。

駐とん地から解放される

大勢のエホバの証人は良心的参戦忌避者とされ,カナダの未開墾地にあった駐とん地で強制労働をさせられました。それは1946年7月15日までの4年間続きました。そうした駐とん地に,ひところ283人の証人がいました。赤十字社に名目的な少額の支払いをすればそこから簡単に出られましたが,ほとんどの証人はそうすることをよしとしませんでした。労働局は,人々に必要な奉仕をさせるのだとしきりに言いましたが,本当の目的は,大抵,エホバの証人の全時間の証人たちが「良いたより」を自由に宣明するのを妨げることにありました。

カナダの良心的参戦忌避者たちは,73人のエホバの証人を除いてすべてが1946年の夏までに釈放されました。他のすべての良心的参戦忌避者が釈放されたのちもそれらのクリスチャンを監禁しようとして同局が取った,専断的で矛盾した態度を明らかにする準備書面が作成されました。そして,その説明の写しが,好意的な国会議員数名に送られました。政府が行なっている事柄を知って,そのうちのある人々は憤慨し,下院で困らせる質問をして労働局を“つつき”はじめました。

1946年7月10日に,ジョン・デーフェンベーカー議員(のちのカナダ首相)は,「エホバの証人はまだ何人ぐらい強制収容所に入れられているのか」と質問しました。こうした圧力に労働局は耐えかね,1946年7月15日にすべての強制労働所を閉鎖しました。こうして,そこに入れられていた若い王国宣明者たちは,戦後のキリスト教の拡大に自由に参加できるようになりました。

国旗敬礼問題

クリスチャンに関係する国旗敬礼問題は,カナダにおいて,アメリカとほとんど平行して起きました。その問題のことがアメリカからカナダに伝わり,1940年ごろからカナダ全国の多くの教育委員会は,強制的な国旗敬礼式を行なわせるようになりました。

国旗敬礼をしたり国歌をうたったりする儀式に強制的に参加させる権利が教育委員会にあるかということを問題にして,多くの訴訟が起こされました。その一つは,アルバータ州のルーマンレスブリッジ事件でした。裁判所は,生徒を強制的に参加させる権利が教育委員会にあると裁定しました。しかし,州議会は自由を尊重して学校法を変更したため,エホバの証人の子弟は何ら妨げられることなく自由に登校できました。

しかし,オンタリオ州のハミルトンで,法律上の重要な試金石となった事件がありました。その件はすぐに決着を見ず,1940年から1945年まで延び延びになりました。国旗敬礼と国歌をうたうことを拒否したために,ハミルトンの27人の学童が放校処分を受けました。子供たちが教育を受け損なうことがないよう,私立の王国学校を設けることが必要になりました。

子供たちが国旗敬礼や国歌をうたう儀式に参加しなくても学校に復帰できるよう,法廷命令を出す旨要請する法的処置が取られました。その件の裁判は,1944年3月30日と31日にハミルトンで行なわれました。予審を扱ったホープ判事は非常に愛国主義的な軍人で,エホバの証人に不利な判決を下し,教育委員会は儀式を行なわせる権利があるばかりか,「その権利を行使する絶対的な義務がある」と述べました。その判決により事実上,オンタリオ州の他のすべての教育委員会は,国旗敬礼や国歌をうたう儀式に参加しようとしないエホバの証人の子弟を放校処分にしなければならなくなりました。

その件はオンタリオ州控訴裁判所に上訴され,1945年3月に弁論が行なわれました。戦争はまだ進行中で,愛国主義の熱は強く,エホバの証人は禁令が解かれて再組織を行なっているところでした。弁論が始まったとき,法廷は敵意に満ちていました。3人の判事がエホバの証人とその信条に関して矢継ぎ早に質問を浴びせたので,エホバの証人は確固とした立場を取ることが必要でした。しかし,最初の敵意はしだいに弱まり,判事たちは非常に公正な審理をしました。のちに満場一致でエホバの民に有利な判決を下したので,証人の子弟は登校を許され,良心に反する儀式に参加しなくても教育を受けられるようになりました。

エホバの証人を激しく攻撃していたハミルトン教育委員会とその弁護士たちは,その判決にたいへんショックを受け,カナダ最高裁判所に上訴しようとしました。しかし,同最高裁はそれを受けつけなかったため,オンタリオ州控訴裁判所の有利な判決が最終的な判決となりました。この優れた判決は,時折り国旗敬礼と国歌の問題を蒸し返そうとした“愛国主義者たち”を撃退するのに30年余りにわたり非常に役立ちました。

ケベックで自由を獲得するために闘う

禁令が解かれ,第二次世界大戦が終わりに近づいていた1944年当時に,ケベックにおける王国の伝道活動を再開する機は熟していました。ケベック州の首相,モーリス・デュプレッシーは,カトリック教会の僧職者とぐるになって働くこうかつで無節操な政治家でした。一歴史家はデュプレッシーを,「ケベック州を適度に安全で立ち遅れていて腐敗した土地にしておくことに意を決していた扇動家」であると述べています。

当時,エホバの証人は,ケベック州全体で300人足らずでした。エホバの証人の福音宣明の活動がモントリオールの地域で始まると間もなく,エホバの証人に対して地方条例に基づく“不法妨害”の告発が行なわれるようになりました。1944年の末までに,そうした事件は40件ほどになっていました。訴追件数は1945年に急速に増加し,カナダ全国の人々の目は同年9月の闘いに向けられました。その月にカトリックの暴徒がシャトーガイとラシーヌで証人たちを襲ったのです。しかし,恐れを知らないクリスチャンから成るその小さな一団は,そうした攻撃に対して確固としていました。―エレミヤ 1:19

1945年の末までに訴訟事件は400件を超えていました。しかし,それがいつまで続くか分かりませんでした。1946年の終わりごろには,モントリオール,ヴァードゥン,アウトレモント,ラシーヌ,ケベック市,シャーブルック,その他の中心的な土地で係争中の訴訟が800件余りもありました。そうした訴訟事件と絶え間ない逮捕は,エホバの民をうんざりさせ悩ますものでした。想像がつく通り,そうした訴訟行為には人間的な面がありました。逮捕,緊張,圧力で裁判が遅れること,侮辱,失業,絶えざる欲求不満を耐えるのはなまやさしいことではありませんでした。

「ケベックの燃える憎しみ」

ケベックの忠実な証人たちを大きな圧迫から解放するために,何らかの処置を取る必要がありました。それで,1946年11月2日と3日にモントリオールで特別の大会が開かれました。ものみの塔のその時の会長N・H・ノアとブルックリンから来た協会の法律顧問H・C・カビントンが出席していました。ノア兄弟の閉会の話は,「わたしたちは何をすべきか」と題するものでした。

ノア兄弟は,今では歴史的な文書となっている「神とキリストおよび自由に対するケベックの燃える憎しみは,全カナダの恥」と題する文を初めて公に読み上げて,その答えを与えました。心を躍らせて待ちうけていた聴衆がそれを聞いたとき,あたりに興奮がみなぎりました。それは強烈な小冊子でした。ノア兄弟は,ケベック州の腐敗政治に対するエホバの告発を,滅びの音信のように,痛烈かつ慎重な語調で宣明しました。その小冊子は,かつて問題とされたことのなかった諸事実を率直かつ強力に述べたものでした。

ノア兄弟は,わずか12日後の1946年11月15日から16日間にわたり,小冊子の無料配布をカナダ全国で行なうことを発表しました。それは活動を促すラッパの合図でした。

デュプレッシーは「情け容赦のない闘争」を布告

「ケベックの燃える憎しみ」の小冊子は,ケベックを含むカナダ全土にたちまち配布されました。今や法廷での闘いが本格的に始まりました。デュプレッシーは「エホバの証人に対する情け容赦のない闘争」を公に布告しました。それで,訴訟事件は800件からすぐに1,700件になりました。デュプレッシーは扇動に関する古ぼけてほこりをかぶったような法律を持ち出してきました。短い期間に扇動罪の告訴は100件余りになっていました。国中の人々は,ケベックで行なわれている闘いに再び注目しはじめました。

1946年12月4日に,デュプレッシーは腹立ちまぎれに,いうなれば法律上のブーメランを投げつけ,それで自分が痛い目にあいました。エホバの証人の一人,フランク・ロンカレッリが経営するレストランのアルコール飲料販売許可を不当にも取り消したのです。人の生計手段に対するそうした攻撃は,カナダ全国の実業家の怒りを買い,モントリオールの有力な市民は大きな抗議集会を開きました。

デュプレッシーの勝手気ままな行動に国民がまた激昂していたときに,ケベック市のローマ・カトリックの判事リコーダー・ジーン・マーシアがもう一つのブーメランを投げました。1946年12月17日に,マーシアは,治安のかく乱という,単なる条例違犯で訴えられていた特別開拓者のジョン・メナード・ハウを審理しました。しかし,リコーダー・マーシアは自分を制することが全くできませんでした。新聞は,「判事,エホバ派をののしり,終身刑にすべきだと述べる」というはでな見出しで書き立てました。一新聞記事は次のように伝えました。「ジャン・メルシェール判事によれば,ケベック警察は,エホバの証人として知られている者や,その疑いのある者を見つけ次第その場で逮捕するようにとの指令を受けているという。また,同判事は,同情するすべての者を引き続き容赦なく追放することを裁判所に誓った」。

このことを語ったのは,公正かつ公平であると考えられていた判事でした。デュプレッシーとマーシアのような人物の行動は,「ケベックの燃える憎しみ」と題する小冊子中の非難の言葉 ― 実際には控え目に述べられていた ― の適切さを証明するものでした。以下に掲げる幾つかの論説の見出しは,報道関係者の典型的な反応を示しています。

暗黒時代がケベックに再来(トロント・スター紙)

とんだ裁判官(オタワ・ジャーナル誌)

異端審問の再来(トロントのグローブ・アンド・メール紙)

ファシズムの悪臭(グレースベイのガセット紙)

エホバの証人は争いから身を引くどころか,「ケベックは人々の期待を裏切る」と題する二つ目の大判印刷物を発表しました。それはデュプレッシーの偽りの告発に対する解答となるもので,1947年1月に配布されました。このたびは,配布の業は夜間に行なわれました。ケベック警察によって相変わらず行なわれていた逮捕を避けるためです。

こうした興奮に満ちる出来事と平行して,ケベック市で非常に激しい法廷闘争がありました。同市にいた少数の開拓者たち,ローリエ・ソームール,ジョン・メナード・ハウ,ジェラルド・バリーおよびラッセル・ハーバート・ヘッドワースが,リコーダー・マーシアの法廷と刑務所を出たり入ったりする過程を矢継ぎ早に何度も繰り返したのです。新聞はそのことを「令条闘争」と呼びました。こうした事柄はみな新聞の種になりましたから,ケベックに関する記事は全国で毎日新聞に載りました。多くの正直な心の持ち主は,エホバのクリスチャン証人の勇敢な態度を賞賛しました。

1947年2月,ケベック市から4人の特別開拓者 ― そのうち3人は保釈出所中だった ― が,ものみの塔ギレアデ聖書学校に第9期生として入学するためにニューヨークのイサカへ行きました。4人がギレアデで勉強している間に,ローリエ・ソームールとジェラルド・バリーの事件はカナダ最高裁判所に持ち込まれました。しかし,最高裁は憲法の厳密な条文に照らして上訴の十分な理由がないのでその審理を拒否しました。その結果ローリエ・ソームールは卒業前の6月にギレアデ学校を去り,ケベック市の刑務所にもどって刑期を終えねばなりませんでした。最高裁がその事件を却下したことにより,そのときまでに1,700件を上回っていた係争中の事件も再びケベックの法廷で審理されることになりました。

ジェラルド・バリーも事件が最高裁に持ち込まれた人で,忠実な人でしたが,1947年5月に亡くなりました。バリー兄弟は1908年以来開拓奉仕を続け,1924年にケベックで奉仕を行ない始めました。確かにバリー兄弟は使徒パウロが「世は彼らに値しなかった」と描写した人々のようでした。―ヘブライ 11:38

自由のための闘いに加わるのはいかがですか

ここまで調べることによって,読者は,ケベック州のエホバの民が勇気と果断さを表わしたことに十分気づいておられることでしょう。ところで,十代の後半にあった二人の,信仰で結ばれた実の姉妹たちのことをここでお話ししましょう。二人はケベックにいる信仰の仲間が迫害を受けていること,その多くが襲撃や殴打や投獄を経験していることを聞いて,「私たちには若さと力と健康がある。しかも私たちは,ケベックの兄弟たちといっしょに自由のための闘いに実際に参加したいと思っているのだから,ケベックは私たちにとって理想的な任命地だわ」と考えるようになりました。

こうして,二人の若い開拓者の姉妹たちは,ケベックで奉仕する任命を受けるという期待に胸をはずませて,1946年5月1日にモントリオールに着きました。そのうちの片方の姉妹ビクトリア・ダグルクは,数年前に次のように書きました。

「それほどたたないうちに,以前読んで知っていたことを自分たちが実際に経験しました。妹は逮捕されて定期的に少年裁判所へ送られ,私は下位裁判所の常連になっていました。ある時,判事は,私ほどやっかいな人間をその裁判所で扱ったことはないと言ったほどです。私たちは裁判所の職員だけでなく他の囚人たちにも証言する機会がたくさんありました。いっしょに投獄を経験した兄弟たちの間には強い愛のきずなが生まれました。特に思い出となるこんなことがありました。私たちは数人いっしょに投獄されました。保釈が成功すると,最年長者か家に家族のいる人がまず釈放されました。最後に私ともう一人の姉妹だけになりました。いつ私たちの番が来るか分からないまま六日が過ぎました。ついに保釈が成功しましたが,それが適用されるのは一人だけでした。私といっしょにいたフランス人の姉妹は『釈放されるなら二人いっしょよ,でなければ私もいっしょに残るわ』と言って,私とともにとどまるために,すぐに自由になれる機会を捨てました。私は,姉妹のそうした態度に言葉では言い表わせないほど感謝しました。私たちをくじこうとするどんな企ても失敗したので,やがて,エホバの証人は,自由のために闘っていることで大いに尊敬されるようになりました。当局が私たちの熱意をくじこうとすればするほど,私たちはその地域で業を続行して羊を見いだす決意をいっそう固めました」。

再び扇動罪に問われる

ケベックの神の民は,エホバの霊の援助を受け,すばらしい愛や信仰や忠節心や果断さをもって敵に立ち向かいました。また,敵は闘いをやめませんでした。「ケベックの燃える憎しみ」の小冊子で厳しく摘発されたデュプレッシーは,脅しと圧迫を加える武器をさらに探すようになりました。おびただしい数の条例違反による告発に加えて,デュプレッシーは,さらに扇動的文書誹毀の容疑で告発するという昔からある手を再び使いました。その種の告発は,シェーブルック,アモス,モントリオール,サント・ジョゼフ・ドゥ・ボースで50人のエホバの証人に対してなされ,それは100件余にもなりました。告発者たちが証拠物件として専ら挙げたのは,「ケベックの燃える憎しみ」および「ケベックは人々の期待を裏切る」と題する二冊の小冊子でした。

扇動の容疑で告発され最初に審理された事件は,誠実で穏和で小柄な,エーム・ブッシェの事件でした。ブッシェ兄弟はケベック市の南部の丘陵地で牛を使って農地を耕作しながら暮らしていた人で,この世の物質には富んでいませんでしたが,愛と信仰に富んでいました。その裁判は,1947年11月に,アルフレッド・サバード判事によりサント・ジョゼフ・ドゥ・ボスで行なわれました。サバード判事はかつて,1940年の禁令を敷いた法務大臣,故ラポアントの法律上の仲間だった人物で,極端に敵意を持ち,陪審員に対して偏見に満ちた演説をしました。有罪の判決が下されたことは言うまでもありません。

ケベック控訴裁判所はその判決を支持したので,カナダ最高裁に上訴がなされました。最高裁はケベックで新たに裁判を受けるようにその事件の差しもどしを命じました。エホバは私たちとともにいてくださり,先例のない再審が認められました。もう一度弁論が行なわれたあと,控訴裁判所は自己の決定を取り消して完全な無罪を命じました。暴力行為を扇動している箇所は一つもないので,エホバの証人の小冊子が扇動的文書であるはずはありませんでした。ですからデュプレッシーによってなされた扇動の容疑はすべて却下されねばならず,有罪判決は一つ残らず取り消されました。エホバはご自分の民を守られたのです!

ブッシェ判決は,恐らく,エホバの民がカナダで得た最も重要な勝訴だったと言えるでしょう。それによって,エホバの証人および他のすべてのカナダ人の自由に対する,教会と国家の力を合わせた攻撃はくじかれました。また,法律は近代化され,カナダにおける扇動の標準的な定義は完全に通用しなくなりました。すべての判例集は書き変えられねばなりませんでした! アルバータ法律大学のディーン・ボウカー学長は,「ブッシェ国王事件のような判決は,言論の自由の権利に関する宣言集に匹敵する」と述べました。

警察の検閲権は敗れた

扇動容疑の事件はすべて却下されました。それはすばらしいことでした。しかし,条例違反で訴えられた1,600件を超す山ほどの事件がまだ残っていました。それらはどうなるでしょうか。そうした事件の根底にあったのは,ケベック当局が,流布される情報をもれなく警察に検閲させようとしたことでした。ケベック市の条例184号はその典型的なもので,そこには次のように述べられていました。「警察署長の書面による許可を事前に得ていない限り,いかなる書籍,パンフレット,小冊子,回状,ビラもそれを街頭で配布することは許されない」。

検閲制度に関するその条例を打破するため,その条例が違法であると宣言することを求める訴訟が,1947年に,ケベック市でテストケースとして起こされました。3人の僧職者 ― カトリック司祭,英国国教会の牧師およびユダヤ教のラビ ― がケベック市側の証人として法廷に立ちました。三人は判事がエホバの証人に不利な判決を下すよう説得に努めました。政治と主要な宗教組織が結託して,神の真の僕に敵対していたことはこのことからも明らかでした!

ソームールケベックと呼ばれたその事件は,やはりカナダ最高裁に上訴され,弁論が七日間続きました。1953年10月6日に,9人の判事から成るその法廷は,5対4の多数決でエホバの証人に有利な判決を下しました。その裁判で勝利が得られたため,ケベック州内の裁判所で係争中の,条例違反で訴えられていた多くの事件に終止符が打たれました。ソームール判決は,カナダにおいて,全国民に益をもたらす里程標となる判決であると認められています。

トロント・テレグラム紙には,そのすばらしい判決に非常に感動したある特別欄執筆者の次のような文章が載りました。

すべての人に平等の権利

「議会の丘で大きなかがり火をたいて,ソームール事件に下したカナダ最高裁の判決を祝うべきである。祝祭にふさわしいかがり火をたいて。カナダの裁判史上これほど重要な判決はなかったと言ってよいだろう。この裁判ほどカナダに益をもたらした裁判もかつてなかっただろう。自由という遺産をより高く評価しているカナダ人が,これほど恩義をこうむった判決は,これを置いてほかにない。……この判決は,どんなに大きなかがり火をもってしても祝えないほどのものである」。

興味深いことですが,その事件の裁判のとき,それが良い結果に終わるよう祈りの中で神に嘆願してほしいという知らせが,カナダの支部事務所からすべての兄弟たちに伝えられていました。その裁判で勝訴することは非常に重要な意義があったのです!(テモテ第一 2:1,2)最終的な結果は,「祈りを聞かれる方」が好意的に答えてくださったことを示しています。(詩 65:2,新)確かに「義にかなった人の祈願は,それが働くとき,大きな力があります」― ヤコブ 5:16

デュプレッシーの最後の抵抗

デュプレッシーが文書に関して設けた条例は,その時までにエホバの証人の勝訴によってすべて無効とされていました。しかし,それでもデュプレッシーはあきらめず,ケベックの議会に圧力を掛けて,彼の主張するエホバの証人の活動をやめさせる新しい条例を1954年1月に通過させました。法案38号として知られるその条例は,1954年1月28日午後5時から効力を持つようになりました。ところがエホバの証人の弁護士は,翌日の午前9時に裁判所の入口に来ていて,新しい条例の合法性について論争し,その実施の中止命令を要求する訴訟を起こしました。

法案38号をめぐる訴訟は10年余りにわたって続きました。そしてその裁判はきわめて興味深いものでした。優れた証人としてケベックに来たF・W・フランズ(現在は,ものみの塔協会の第四代目の会長)は,エホバとその民を支持する優れた証拠を示しました。

エホバの証人の弁護士は,特に気の進まない態度の証人,モーリス・デュプレッシーを呼び出しました。デュプレッシーはエホバの証人の召喚に応じて出頭しなければならないことに腹を立てていました。デュプレッシーにとって大いにいまいましいことでしたが,グレン・ハウは,2時間半にわたり,その尊大で怒りっぽい小柄な人物に反対尋問しました。

やがてカナダ最高裁は,法案38号がエホバの証人に対して実際に適用されたことがないという厳密な法解釈に基づき,その条例の正当性に関する判決を下すことを拒否しました。しかし当局がその条例をいったん適用すれば,最高裁の言う厳密な法解釈に基づいた理由はなくなります。法案38号は1954年以来役に立っておらず,適用されたことがありません。デュプレッシーは確かに最後の抵抗をしました。

1959年,デュプレッシーは,職権を用いて一市民に損害をもたらしたため個人的に賠償金を支払わされた,大英帝国史上初の首相となるという不名誉な経験をしました。カナダ最高裁は,アルコール飲料販売許可を取り消されたレストランの経営者フランク・ロンカレッリ兄弟に約5万㌦の損害賠償金を支払うようデュプレッシーに命令しました。その失意を経験して間もなく,デュプレッシーはついに亡くなりました。

デュプレッシーがガマリエルの優れた助言に耳を傾けていたなら,きっと腹立ちの原因となる多くの事柄を避けられたことでしょう。律法教師だったガマリエルはこう言いました。「この人たちに手出しせず,彼らをほっておきなさい。……さもないと,あなたがたは,実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません」― 使徒 5:38,39

感謝の言葉

カナダの多くの法律解説者は,エホバの証人が同国の法と自由に優れた貢献をしたことを認めています。マックギル大学法学部の前学部長フランク・スコットは,証人の裁判に関して次のように語りました。「私たちはこの国に,国家の圧力を受けながらも自分たちの権利のために立ち上がった人々がいることを喜ぶべきである。彼らの勝利は私たちすべての勝利である」。さらにこのようにも述べました。「過去10年間にその裁判がカナダ最高裁判所に持ち込まれ,我が国の法律の浄化に大いに貢献し,国家の圧力の犠牲者となった5名はエホバの証人だった」。

別の法律解説者は「法学部評論」(トロント大学)の中で,エホバの証人のことを「市民の権利を支持するのに最も貢献したグループ」と述べています。またカナダ最高裁の前判事アイバン・C・ランドは,エホバの証人の裁判の幾つかについて述べた際,「オオカミは群れをなして闘うが,ライオンは一頭で闘う」と語りました。

大勢の敵を相手に闘った少数グループであるエホバの証人が,その勇敢な態度によってカナダにおける自由に大いに寄与したことは,権威者と認められている人々のこうした言葉から明らかです。エホバの証人の勝利は,カナダ国民の自由の勝利です。エホバの証人にかかわる裁判を通して,信教,報道,言論,集会の自由のすべてが擁護されました。

そうです,エホバの証人は,法廷に立って一般の人々の注目を集めたことが確かに証言となったこと,およびそれによりカナダにおいて「良いたよりを擁護して法的に確立する」点で貢献できたことを喜んでいます。(マルコ 13:9。フィリピ 1:7)しかし,証人たちはとりわけ,ご自分の民を常に支えられる偉大な立法授与者であられるエホバに感謝しています。かつてヒゼキヤ王は語りました。「勇気を出し,強くあれ。……彼[アッシリアの王]と共にいるのは肉の腕であるが,わたしたちと共におられるのは,わたしたちを助け,わたしたちの戦いを戦ってくださる,わたしたちの神エホバである」― 歴代下 32:7,8,新。

1960年代へと前進せよ!

カナダのクリスチャンは,こうした法的な闘いのすべてを処理し,熱意に燃えて1960年代へと進みました。開拓者,巡回監督,そして長年の間トロント・ベテルの成員として奉仕していたクレイトン・モレルが1960年4月に支部の監督として新たに任命されました。モレル兄弟は立派な精神を示し,非常に近付きやすい人柄の人だったばかりか,それまで行なわれてきた良い業の続行に取り掛かる,優れた組織力の持ち主でもありました。当時ベテルの家族は44名でした。

カナダ全国には六つの地域,61の巡回区,805の会衆がありました。その年,すなわち1960年には,活発な王国宣明者の数が3万8,382名という最高数に達しました。その結果カナダの人口に対するエホバの証人の割合は,465人につき一人でした。

裁判で有利な判決が下されていたので,1960年6月までには,ケベックで戸別に訪問し聖書を用いて証言したり文書を提供したりする業を再び行なえるようになっていました。今やその点ではケベック州はカナダの他の州と何ら変わらなくなりました。その年の夏にバードムで開かれ,フランス語だけで行なわれた最初の地域大会は,ケベックにおけるクリスチャン活動の発展途上,喜ばしい里程標でした。3,000名を上回る人々が出席し,そのうちの1,000人ほどは関心を持つ人々でした。何という状況の変化ではありませんか。ケベックにおける法廷闘争はほとんど終わり,僧職者の影響や圧力は弱まっていました。同州で,フランス語を話す王国伝道者は英語を話す証人よりも大勢でした。最も大きな都市モントリオールでは,1959年に22の会衆が七つの王国会館を使うほどの発展が見られ,ケベック州全体でさらに幾つかの王国会館が建設中でした。ケベック市にさえエホバの証人自身の王国会館ができようとしていました。

1960年8月1日,カナダで最初のイタリア語の会衆がトロントにできました。その会衆はわずか40名の伝道者で発足しましたが,急速に増加する見込みがありました。ちなみに今日カナダ全国でイタリア語の会衆は33あり,2,000人を上回る伝道者が交わっています。これまでにスペイン語とポルトガル語の会衆が14,ギリシャ語の会衆が12,中国語と韓国語の会衆がそれぞれ一つずつ発足するという発展が見られたのは,実に喜ばしいことでした。

ですから1960年までには,10年間の熱心な活動に備えて,すべての事柄が整えられていました。その期間はだいたいにおいて平和で,また霊的に築き上げる時期でした。

王国宣教学校

1961年1月1日には,カナダで重要な出来事がありました。トロントの支部事務所で最初の王国宣教学校が開かれたのです。同年8月末までに,監督と特別開拓者151名がその課程を終了しました。学んだことに対する感謝の言葉がしきりに聞かれました。四週間のその課程を受けている間に人格が変わったとまで言う人々もいました。1971年までにカナダの王国宣教学校は152クラス開かれ,3,370人の生徒が授業を受けました。したがって,1970年代にそれぞれの会衆で重い責任を十分に果たすことができるように備えさせるその優れた訓練が,大勢の監督と特別開拓者に施されたわけです。

続く数年間,改訂された王国宣教学校課程が設けられて,カナダの諸会衆の長老たち全員が訓練を受けました。一番最近の1977年の課程を受けたのは5,980人でした。王国宣教学校は,1961年に開校して以来,会衆と野外でより良い奉仕ができるように多くの人々を備えさせる上で確かに役立ってきました。

輸血の問題

血の神聖さに関するエホバの証人の態度は,カナダにおいて長年のあいだ非常に悪い評判を受け,たいへん強い反感を持たれてきました。(使徒 15:28,29)事実,エホバの証人の輸血拒否に対する人々の憤まんはしだいに強くなり,1961年に最高潮に達しました。したがって,カナダにおけるエホバの証人の活動に関するこの話の中で,輸血の問題をやや詳しく述べるのはふさわしいことでしょう。

新聞は,病気を治したり命を救ったりする上で効果があるとされている輸血に関して扇動的な見出しを掲げたり,誤解させるような用語を使ったりしました。1950年代以降,輸血に関するエホバの証人の立場に対する一般の人々の反対はあまりにも強く,エホバの証人たちは王国伝道の際に戸口で激しい敵意を示されました。1940年代にアメリカで非常に多くの人が国旗敬礼と戦争に対するエホバの証人の態度を攻撃していた時を除いて,それほど激しい敵意が示された例はほかにありません。カナダでは道理とか敬意とかいうものがわきへ押しやられ,人々は非常に激昂し,脅しさえ交えてエホバの証人を非難しました。

報道機関が無責任にも,問題の両面を正確に知らせず,一般の人々をそそのかした例として,1956年に起きた一つの事件を挙げることができます。ハミルトンで17歳の少女(どんな健康法を行ない,どんな治療を受けるかに関して自分で決定できることが認められている,オンタリオ州における法定年齢)は,地元の医師たちが命じた輸血を拒否しました。その医師たちは,ハミルトン総合病院で,その少女の先天的な病気の治療をしていました。少女は誕生後長く生きられないと考えられたにもかかわらず,その時まで生きていました。それで少女は自分にとって分別があると思える決定をして,クリスチャンの原則を破らずに引き続き治療を受けることにしました。

これは基本的な人権を単に行使しただけにすぎませんでしたが,どんな結果になったでしょうか。さて,1956年2月17日付のトロント・スター紙の第一面には何が載っていたでしょうか。縦の長さが6㌢余りもある大きな文字のトップぬき大見出しで,「17歳の少女は死ななければならないか」と書かれていました。そのような大見出しが使われるのは,普通,世界戦争がぼっ発した時とか世界的な大変災のあった時ぐらいです。その大見出しのそばには,「エホバの証人,輸血拒否」という見出しが出ていました。同じ記事の小見出しは,輸血を拒否したために死ぬかのように,少女のことを「死ぬ運命にある少女」と呼んでいました。その記事の最初の節には,患者の決定が「発端となって,この町に公衆の憤りの波が新たにわき起こるであろう」という言葉が見られ,読者を扇動する意図ははっきりしているように思われました。

スター紙が輸血をしなければ「必ず死ぬ」と述べて,その少女が死ぬことを確信しきっていたのはなぜでしょうか。それは病院の医師たちがそうした印象を与えたからです。医師たちは記者に,輸血をしても「その少女の命が二年以上持つことはまずない」と語りました。人々を扇動するには,(「命を得させる」血というような)不正確な用語を使ってその種のことを述べるだけで十分でした。同記事は,さらに,少女の命の「ともしびが消えそう」であるとも述べていました。

ところで,そのエホバの証人はどうなったでしょうか。少女は輸血を施されませんでしたが,すっかりよくなって退院したのです! しかしそのとき医師たちは新聞記者を呼んで,“すばらしいニュースがありますよ。あの少女が回復したのです。そのことをすべての人に知らせるべきです”と言ったでしょうか。いいえ,そのようなことはありませんでした。少女が退院したとき,医師たちは何も言いませんでした。医師たちは新聞社を呼ぶべきだったでしょうか。そもそも新聞社はそのことをどのようにして知ったでしょうか。

その若い患者が回復して退院したニュースが新聞に載ったのは,ある物好きな記者が少女の病状を尋ねて,少女がすでに退院して家に帰されたことを知ったからでした。トロント・テレグラム紙はそのことを称賛すべき事柄として扱い,ほほえんでいるその若い証人の写真を載せて,少女のことを「健康そのものである」と述べました。彼女は今なお健在で,すでに結婚して子供もいます。

輸血のこの事件についてお話しするのにかなりのスペースを割きました。しかし,これはこの種の問題の非常に代表的な例なのです。まず,新聞が第一面に見出しを掲げ,悲観的な予測をはでに書き立てます。次に一般の人々が大騒ぎをして敵対感情を表わします。それから,偏見のない医師や法律家が事実を考慮して,もっと穏健な見方が取られるようになります。そして最後に,そのことが新聞に載ればのことですが,患者が回復して退院したという穏やかな記事が新聞のあとのほうのページに出ます。むろん例外はありますが,これまでにこうした一連の出来事が何度も繰り返されてきました。

状況を一変させる

しかし,考え深い人々の間では,情況は一変しつつありました。どのようにでしょうか。輸血に関して他の面を伝える事実が幾つかの場所で発表されたのです。例えば「カナダ弁護士ジャーナル」の1960年10月号には,輸血の問題の法律的,医学的および宗教的な面に関する,十分に調査され見識のある記事が載せられました。「カナダの医師」誌は,1960年12月号の24ページの特別付録として,その記事を転写したものを掲げました。その見識のある記事が,事態に有利な影響力を持つ法律関係者と医学関係者に読まれました。

カナダの全国誌,「マックリアンズ」の1961年8月26日号に,「輸血は4件中3件までが治すどころか害になるらしい」と題する記事が載りました。その記事は,医学関係の記事を専門とするシドニー・キャッツというジャーナリストの協力により,ある医師が書いたものでした。その中で不必要な輸血がむやみに行なわれていることが暴露されていました。したがって,輸血は専ら有用で,害も危険もないと信じるよう“洗脳”されていた一般の人々に,その記事は役立ちました。

「カナダ医師会ジャーナル」1961年5月27日号は,マックス・ミナック博士とロナルド・S・ランビー博士が書いた注目に値する記事を掲載しました。エホバの証人は扱いにくい感情的な宗教グループで,輸血の問題が生じるのは“それら軽々しく信じやすい人々”が悪いのだ,という態度を示す医師が少なくありませんでしたが,「エホバの証人の麻酔と手術」と題するその記事が出てから,そうした態度はおおむね見られなくなりました。最初の節で筆者たちは,輸血の問題が起きたとき病院で感情的な場面が生じるのは実際にだれに責任があるかということに触れています。また,「エホバの証人の信条についてばかりか,治療に伴う法律的および倫理的責任についても,かなりの混乱感情的な偏見不寛容無知が存在するという事実が」,幾つかの事例の討議を通して指摘されているとも述べています。(下線は発行者。)記事の後半でミネック博士とランビー博士は,理想的であるとは決して言えない状況に対処しなければならない他の場合に,医師たちは穏健で客観的で忍耐強い態度を示し,そうした状況に対して最善を尽くす,ということを付け加えています。それから次のように述べています。

「しかしエホバの証人の場合,患者の不利な点が身体的なものでなく宗教的なものであるために,外科チームが感情的になり,混乱し,分別を失うことが非常に多い。認められている医術を宗教的な理由で拒否する宗教グループはエホバの証人だけではない。ローマ・カトリックのような他の幾つかのグループも,何らかの形の治療を拒否しなければならないのだが,私たちは彼らの考え方を認めている。エホバの証人の信条に対しても同様に敬意と寛容な態度を示すべきである」。

そのように考えるほうが,ある医師たちのように,「患者の知らないことは患者の害にならない」ことを前提として患者には本当のことを話さず「分からないように輸血」することよりも,ずっと医師の誉れとなります。後者のような態度は非倫理的であるばかりでなく,不正直であり,他人の権利に対する不敬でもあります。事実,ある権威者たちによれば,人間の診断の45%は誤診の可能性があるということですから,人間はもっと謙遜でなければなりません。平衡の取れた一医師,アーサー・ケリー博士(当時のカナダ医師会書記)もその点を次のように述べています。

「医学的にすべての事を知り尽くすということはまずないことです。昨日断定されていた事柄は変更を加えられ,今日の新しい知識に取って代わられつつあります。誇りの気持ちから尊大になったり,また患者の意志を無理やり抑えたりしないようにしたいものです。人が持つ,自分自身の健康を管理する基本的権利と義務を私たちがひそかに損なうよりも,その人が早死にするほうが望ましいと私は思います」。

輸血の問題がからむこうした事柄において医師と患者の関係は,近年着実に改善されてきました。エホバの証人である患者が誠実な気持ちで抱く宗教上の見解を尊重しつつ腕前を発揮して勇気を示してきた外科医は少なくありませんでした。1970年代の初めに,トロントの幾つかの大きな病院に訪問がなされました。それは理事および医師たちと意思の疎通を図るためでした。医学雑誌に載せられた輸血なしで行なえる事柄に関する情報の場合と同じように,訪問した証人たちも非常な敬意を持って受け入れられました。「血,医学および神の律法」と題する小冊子(1961年版)は,それらの人々や多くの医師たちに納得してもらう上で大変役立ちました。興味深いことですが,現在,医学雑誌からさらに情報がないか,と私たちに問い合わせて来る医師がいます。

今日一般の人々が憤慨するのは,幼い子供が医師から輸血を必要とすると言われた場合に限られているようです。しかし,記録が示しているように,エホバの証人の態度が間違っていたことはありませんでした。医師たちの非常に悲観的な予測とは裏腹に,ほとんどの場合,証人の子供たちは命を取り留めました。一方,法廷命令に従って,子供たちに無理やり輸血を施されたことが少なくありませんでした。しかし,残念なことに,それらの子供たちのうち12人は,強制的に輸血をさせられた後冷たいむくろとなって悲嘆にくれる親のもとへ帰されました。

とはいえ,法律関係,医学関係その他の関係の雑誌に載せられた資料や,ものみの塔協会が出版した資料は,良い結果を生みました。また,自分自身と子供たちが受ける治療を決定する権利がエホバの証人にあることを認めるよう,オンタリオ州最高裁に訴えがなされていましたが,幸いにも1960年と1963年にそれが勝訴となりました。

問題を正す

1970年に医師団は,エホバの証人の子供たちに輸血を強制的に施す権威をマニトバ州政府から得ようとしました。提案されたその法律は,家族や優れた医療という観点からすると危険であることを示すため,立法委員会の前に出頭する機会がエホバの証人に与えられました。その委員会の委員のうち二人は,家族の者が最近輸血を受けた後亡くなるという不幸を経験した人たちでした。立法委員会は,グレン・ハウ兄弟の三時間にわたる説明を非常な敬意を持って注意深く聞きました。そのあと,その法律は取り消されました。立派な証言がなされ,たいへん良い評判が得られました。

1976年3月に起きた交通事故に関連して,一検死官は一人の姉妹が輸血を受けなかったために死亡したと間違った報告をしました。しかし健全な考え方の持ち主で偏ぱのないオンタリオ州政府の検死官と話をすることができました。それがきっかけとなって,グレン・ハウ兄弟は,オンタリオ州にいる検死官全員の集まりで話をすることができました。ハウ兄弟は歓迎され,話の内容を印刷したものが出席者全員のために用意されました。その印刷物は,一般の人に誤った考えが与えられ,エホバの証人が,偏見を持つ検死官の意のままにされたり検死の結果与えられる不利な勧告に左右される,というような事態を緩和するうえで少なからず役立ちました。現在では,より客観的な見方が一般的になっています。

同様に,オンタリオ医科大学がエホバの証人の患者には幾つかの新しい裁定を採用する予定であるということが新聞で報道されたので,エホバの証人は自分たちのために同大学へ長文の付託書を提出しました。それは患者の権利を引き続き尊重すること,「その人全体」を扱うこと,および医師が輸血なしで成功した治療の益についてさらによく調べることを求めていました。その付託書にはなだめる効果があったようです。しかしながら,カナダにおいてはこの点で引き続き警戒を怠ることはできないように思われます。

エホバの証人に有利な全国的報道

1977年カナダ放送協会の「面会」という30分のテレビ番組は,輸血の問題が誤り伝えられていることを特集しました。その番組中,カナダ全国の幾百万の聴視者は,予測によれば“死んでいる”はずの3名の人を目にしました。予測に反して3人は死なずに済み,ぴんぴんしていました。それら3人やその親たちは,生命を維持し,クリスチャンの良心を保つために自分たちが取った処置の理由を説明することができました。

次いで二人の医師とのインタビューがありました。そのうちの一方,トロントのC・B・ベーカー博士は,輸血をしないで心臓切開手術を何回行なったかという質問に次のように答えました。

「これまでのところ全部で37回です……」。

「輸血をしないでですか」。

「そうです」。

「それは思わしくない治療法ですか」。

「むしろ有効な治療法ですよ。……重病患者を扱う看護婦たちは,しばしば,『先生,全部の患者を輸血なしで手術してはどうですか。患者はとても早く回復します』と言います」。

「するとこれはエホバの証人に対してだけ行なう手術ではなく,実際にはどの患者にも行なえる手術ですか」。

「特にエホバの証人を治療した経験を生かして,私たちは,現在他の人々にもできるだけこの方法を使います。私たちは,この経験から多くの事を教えられました。つまり,輸血を施す必要のない人々は回復が早いということです」。

その番組で,アメリカのテキサス心臓病院の有名な心臓外科医デントン・クーリー博士もインタビューを受けました。同博士は,約20年間にわたり600人を上回る患者に輸血なしの心臓切開手術を行なったと語りました。

その番組は,確かに一般の人々に感銘を与えました。番組を見たあと明らかに見方が変わったと言う人に会った証人は少なくありませんでした。その公正な内容のおかげで一般の人々の偏見が大いに取り除かれたことを感謝する旨の手紙をCBCに送った人さえいました。同番組の副プロデューサーは,後日,「エホバの証人を扱った私たちの番組に反響があり,どっさり手紙が寄せられ」たが,そのすべてに返事が書けないと語りました。そして,「あなたがたに関する番組は,今シーズン大成功を収めた優秀な番組の一つと言える」と付け加えました。

さらに最近になって,「エホバの証人と血の問題」と題する小冊子(1977年版)が全国的に配布されました。それは,また,医師,病院の管理者,弁護士,判事および看護婦にもれなく配られるように用意されました。その分別のある呼び掛けには良い反応がありました。小冊子の内容を詳しく討議するのに,訪問したエホバの証人が求めた時間は短過ぎる,と語った医師や病院の管理者や弁護士は少なくありませんでした。エホバの証人が血の神聖さに対する敬意を示すために続けている闘いにおいて,その小冊子の配布がもう一つの確実な足掛りとなったことは明らかです。

輸血に関してお話しすることはまだまだたくさんあります。しかし,カナダにおける真の崇拝に関する話の,この問題の部分を閉じる前に,血に関する神の律法に従うため多くの強い反対者を相手に確固とした立場を取った大勢の長老や親や家族の成員に感謝の言葉を述べる必要があります。重病や危篤の状態にありながら,長時間にわたってあざけりや圧力に抵抗しつつ確固とした立場を取らねばならない場合が少なくありませんでした。看護婦,医師,判事その他の人々からの侮辱や脅しに耐えねばならないこともたびたびありました。また,そうした立場を取ろうとする人々を慰め力づけようとして,幾晩も眠らぬ夜を過ごした人々がいます。難しい患者を引き受けてくれる好意的な医者を探すために,どれだけ電話が使用されたか知れません。宿や食事を提供したり,でなければ問題に直面している病人の親族の世話をしたりする面で,信仰の仲間はできるだけのことを行ないました。さらに,自分の子供が連れて行かれて強制的に輸血をさせられたという悲しい経験をした親の信仰を見過ごすことはできません。それを詳しく書き記すなら,一冊の本ができるでしょう。

カナダで起きた数多くの輸血の事件で,看護婦,医師,判事の方々多数が親切と思いやりと愛とを示してくださったことも述べておかなければならないことです。それらの人々の深い同情が見過ごされることはないでしょう。将来どんなことが起ころうとも,カナダのエホバの証人は,『血から身を避けている』という決意をしっかりと守りつつ天のみ父の助けを引き続き仰いでゆきます。―使徒 15:28,29

強める時

ここで再び1960年代の話にもどりましょう。1961年には,貴重な教訓に富んだ,「一致した崇拝者」地域大会がカナダで開かれました。バンクーバーでの英語による大会に,2万8,952人が出席し,606人がバプテスマを受けました。注目に値するその大会中,一冊になった英語版の「新世界訳聖書」が発表され,出席者たちは大いに喜びました。オタワで開かれたフランス語による大会には2,242人が出席し,37人がバプテスマを受けました。

1961年3月,ベテルに再び変化がありました。人々に愛されていたクレイトン・モレルが亡くなったのです。当時王国宣教学校で教えていたユージン・ロザムが次の支部の監督に任命され,約4年間その奉仕を行ないました。

諸会衆を強める目的で始められた業を継続するために,ロザム兄弟はカナダ全国の7か所で特別の集会を開き,巡回監督および地域監督全員と会合しました。7番目の地域が組織されました。活動を一層強化し,王国宣明者たちがさらに優れた経験をすることができ,能力を進歩向上させることができるようにするための努力が払われました。それは良い結果を生み,時の経過とともにカナダの組織がいっそう強化されていくのが分かりました。

長年にわたる事情にもよりますが,エホバの証人の大会に関連した責任を担っていた人々の中には,それぞれの会衆内で監督として用いられていない人や,会衆の監督をやめた人々がいました。しかし,事態は正されて,1962年に11か所で開かれた「勇気ある奉仕者」地域大会(4万4,711人が出席した)以降,巡回大会を含むすべての大会で責任のある奉仕をする人々は例外なく各会衆の監督でなければならなくなりました。適切にも,聖書にかなった資格を持つ人々だけが監督の立場に立つよう求められました。

「最も急速に増加している」宗教

エホバはわたしたちの努力に報いて,成功させてくださいました。増加をもたらしてくださったのです。わたしたちはそのことを知っていました。ところが,他の人々もそれに気づいていました。例えば,ウィンザー・スター紙は,オタワのモーリス・ジェフリスが当時最新のカナダ国勢調査(1961年)の結果に基づいて書いた記事を載せました。その記事の見出しは,「エホバの証人最も急速に増加」という適切なものでした。次のような寸評が出ていました。「国勢調査メモ: 宗教に関する最新の報告によれば,エホバの証人はカナダで最も急速に増加している宗派であり,過去10年間に信徒数が倍に増え,3万4,596人から6万8,018人になった」。

国勢調査でこのように高い数字が出たのは,国勢局が他の宗派の場合と同様に,子供たちや,エホバの証人と勉強中の人々をも「教会員」とみなして数えたからです。それはさておき,弟子を作るというわたしたちの業をエホバが祝福しておられたことは明らかでした。

むろん僧職者の中に敵対的な人々がまだいました。1963年には,ローマ・カトリックの3人の司祭が告発されました。その3人は証人の敵のうち頑強にも残っていた者たちで,ケベックにおける言論と信教の自由を保証した最高裁の判決の効力を認めようとしていませんでした。一人の司祭は暴行のかどで有罪となり,他の二人の場合には上訴がなされました。

辺ぴな区域に伝道する

伝道者は増加し,霊的に優れた発展も見られましたが,それでもなお,1960年代の半ばには,『主の業においてなすべき事がいっぱい』ありました。(コリント第一 15:58)1964年に,カナダの証人の区域の中で最も遠い地方の人々に伝道する努力がなされました。兄弟たちは,北方のエスキモーの人々に多くの手紙を書き,2,930冊の文書を送りました。それはなかなかの成果を上げました。また,マニトバ州北部の孤立したインデアンの村へ飛行機で行くこともしました。カナダの東海岸沖の島々,フランス領のサンピエール島とミクロン島の人々にも伝道する努力がなされました。それらの島に旅行者として行ったクリスチャンは非公式の証言をして,幾人かの関心のある人を喜ばせることができました。その人たちが聖書の真理に対する関心を持ち続けるように,その後重ねて手紙が送られました。

辺ぴな区域に伝道するそうした業は,今日まで続けられています。証人たちは,近年,飛行機やカヌーを使って北の地方へ何度か出掛けました。ある兄弟たちは,それらの区域で奉仕する開拓者たちのために自分の飛行機を提供しました。優れた成果があり,幾百幾千冊もの文書が配布され,手紙による聖書研究が行なわれてきました。インデアン,エスキモー,わな猟師その他の人々も,辺ぴな地域で証言し弟子を作る業にいそしむ熱心で断固とした働き人たちに見過ごされはしませんでした。

サンピエール島とミクロン島で証言の業を続ける試みが何度もなされた後,1975年に協会のフランス支部は,その二つの島へ一組の開拓者の夫婦を任命することができました。二人は難しい任命地で勤勉かつ忠実に奉仕してきました。エホバは二人を祝福され,現在そこには島民に証言する王国伝道者が,彼らを含めて5人おり,集会が定期的に開かれています。

遠隔の地について言えば,ユーコン准州はカナダの一部ですが,1965奉仕年度になって,そこを協会のアラスカ支部の管轄下に移すのがふさわしいと考えられるようになりました。そこへ行く道や地形からしてそう決定するのは賢明なことであると思われました。アラスカ支部のほうが,ユーコン准州における必要物をよりよく備えることができ,そこでの王国伝道の業をさらに十分監督できました。

1965年の初めに,ユージン・ロザムは,病気のためトロントベテルを去って,会衆に直接仕える奉仕にもどることが必要になりました。同年3月からカナダの支部事務所を監督するために,ブルックリンからレオ・K・グリーンリースが呼びもどされました。しかし,1965年10月にケネス・A・リトルがブルックリンで行なわれた特別の訓練を終えてカナダに帰り,支部の監督の立場を引き継ぎました。

ケベックにおける優れた進歩

辺ぴな区域で証言するために進んで犠牲を払った人々は,優れた精神を示しました。しかしほかにも必要の大きな土地があり,カナダのクリスチャンたちはしりごみしませんでした。1968年には,大勢の独身者や家族がケベックに移りました。その人たちは,「良いたより」をフランス語で宣明するのを援助するためにカナダの他の地域から移るようにとの,「王国奉仕」(カナダ版)や地域監督からの呼び掛けに応じたのです。

数年の間,協会は,ケベックに任命された特別開拓者のためのフランス語の教室を時折設けました。その間に兄弟たちは,短期間でフランス語の会話を教えるための独自の教科書と学習システムを考案しました。それは証人たちが伝道や集会で必要とする表現を集中的に教え,それに続いてふだんの生活の一日を取り上げて,その日一日を過ごすのに必要な言葉を教えたのです。教訓者は助手を使って実際の場面を演じ,各場面で使われるフランス語を生徒に言わせました。こうして,フランス語の文章を書くことよりもフランス語で話すことのほうに重点が置かれたので,生徒はフランス語で物事を理解したり考えたりできました。その課程は4週間のものから7週間のものまであり,毎日8時間の授業が行なわれました。このようにして,1,000人を超す人々はケベックでの重要な業に役立つフランス語会話を勉強できました。その中には,「良いたより」を宣明するためにケベック州へわざわざ引っ越した証人が大勢いました。

他の人のために役立とうとするこのような立派な精神は,注目に値します。「1970年の年鑑」(英文)は,さらに多くの証人がケベックの証言の業を援助していることを伝え,「ケベックでの伝道の業の発展には胸の躍る思いがします」と述べています。では,その結果はどうだったでしょう。人々は良い反応を示していました。例えば,一人の人は「とこしえの命に至る真理」と題する本のフランス語版をたった3時間で読み終え,これは確かに真理だと言いました。

「地に平和」大会

1960年代が終わろうとしていたとき,特別な霊の宴,「地に平和」国際大会がバンクーバーの太平洋国立展示場で開かれました。その大会は,出席者が6万5,609人に上り,カナダの大会の新記録を作りました。「1970年の年鑑」はこう報告しています。

「バンクーバー・サン紙に載ったある投書にはこう書かれていました。『私は40年余りもバンクーバーに住んでいて,しかも太平洋国立展示場の近くに家があります。私はエホバの証人の国際大会に感謝を申し上げたいと思います。かつてこれほど小ぎれいで思いやりのある群衆がこの付近に集まったことはありません』。……

「30か国からの出席者がバンクーバーに来ていました。大会会場の大群衆とそこでの行事を撮影していたテレビの一カメラマンは,『私が非常に感銘を受けたのは,5万人を超す大群衆の中で押されたり突かれたりしたことが一度もなかったことです』と語りました」。

キリスト教の出版物が感謝される

これまで幾年もの間,聖書に基づいた協会の出版物は,多くの人から深く感謝されてきました。その中には,「とこしえの命に導く真理」と題する本のように,カナダでの王国伝道の業に多大の影響を与えた出版物があります。「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」(1967年版)と題する本を例にとると,この本は野外で著しい効果を上げました。出版されてから丸一年間に,カナダの諸会衆へ6万4,000冊が発送されたのです。この本は,確かに,一般の人々の間で好評を博しました。巡回監督や開拓者の中には,一軒の家で2,3冊配布できた人もいます。一人のローマ・カトリックの司祭と二人の青年は,「進化」の本を入手するためにトロントの支部事務所へやって来ました。展示してある「進化」の本を見て,司祭は,「ありました。この本です」と叫びました。司祭は,南アフリカから訪れた司教からその示唆に富んだ本を求めるよう強く勧められたようです。

また,1960年代の末に,オンタリオ州トレントンの一論説委員が語った言葉も注目に値します。デスクに届いた協会の出版物について,次のような所見を述べました。

「数多くある興味深い出版物の中に,エホバの証人として良く知られているものみの塔協会から定期的に送られてくる出版物が幾つかある。エホバの証人は,人間のいかなる基準からしても尊敬されるべき組織である。その雑誌は十分研究がなされた上で良く書かれている。説かれている特殊な宗教理論には,必ずしも多くの人が同意するわけではないが,それは全く別にして,同協会の雑誌は,人間生活や,神が人間に与えた世界のあらゆる面を扱っている。また,聖書の原則を奨励し,誉れ,純粋さ,良き市民,申し分のない振る舞いという考えを信者に教え込む。いわゆる自由の曲解によって分裂した社会は,ものみの塔協会の出版物を読むとよいだろう。

「道徳と倫理に関し,説かれている思想は非難する理由のないものである。他にも良い出版物はある。新旧を問わず,印刷された思想の大半が健全であることは有り難いことである。しかし,あらゆる事柄を考慮すると,取り扱い方の健全さや論議の深さの点でものみの塔の出版物に比肩し得る出版物は少ない。そうすることにあまり成功していない人々に参考になると思うのだが,ものみの塔の出版物が唱道している行動の基準に関する論議には常に理由付けがされている。今日独断的な規則は拒絶される。少なくともここに,あらゆる行動に対して確かな理由を挙げている出版物がある。性に狂い,性的な内容で印刷物を汚れたものにしている世代のただ中で,ものみの塔の出版物は心をさわやかにしてくれる強壮剤である」。

1970年代の発展

1970年代にはいり,カナダで光を輝かせてきたそれまでの90年間を回顧するとき,興奮と感動を覚えずにはいられません。丸一世紀間の王国伝道は,何を生み出すでしょうか。拡大と増加は1970年代にも続きました。

1970奉仕年度中に,伝道者の最高数に達した月は7回あり,そのうち6回は連続でした。1969年の12月にカナダの伝道者数は初めて4万5,000人を超えました。同奉仕年度の最高数は,1970年5月に得られた4万6,808人で,それは兄弟たちにとって大きな励ましとなりました。

ところでその後はどうでしょうか。1970年代のこれまでに生じたことから,エホバがこの世代に業を良い結果へと推し進めておられることが確信できます。下の表の数字に表われている増加にどうか注目してください。

増加したことは一目りょう然ではありませんか。確かにそのとおりです。そして記念式の出席者数からは,今後も増加の見込みのあることが明らかです。1978年の主の記念式には,カナダの王国伝道者のほぼ二倍の人が出席しました。

そうした人々はみなどこで見いだされているでしょうか。それは主として,神の言葉の教えに答え応じる謙そんな心を持つ普通の人の中に見いだされるのです。その多くは,聖書と聖書の義の原則を軽く見る偽りの宗教制度に幻滅を感じるようになりました。また,それらの人は,キリスト教世界が,希望を与える霊的な滋養物のない無意味な宗教儀式を毎週繰り返しているにすぎないということに気づいています。「1971年の年鑑」は,カナダに関する報告の中でその良い例を挙げてこう述べています。

「ある婦人は,約120㌔離れた所で巡回大会が開かれるというニュースをラジオで聞きました。その婦人はそれまで一度もエホバの証人と接したことがありませんでしたが,バスに乗って大会に行きました。会場で婦人は『真理』の本と聖書を求め,自分の家に訪ねて来てくれるという開拓者に会いました。開拓者の兄弟が,最初の聖書研究を司会するためにその家に行ったところ,家の主人は自分と同じように教会に不満を感じていた,近所の人々に26冊の聖書をすでに配布していました。その主人は最初の聖書研究のあと喫煙をやめ,2回目の聖書研究のあと家の中にある偶像を全部処分して『ものみの塔』と『目ざめよ!』誌の予約購読を申し込みました。また,会衆の集会は40㌔も離れた所で開かれていたにもかかわらず,3回目の研究をしたあと,どうすれば会衆の集会に出席できるか尋ねました。5か月たったときには,そのご夫婦と,15歳になる長男は野外奉仕を始めていました。そして,12人の子供のいる別の夫婦を助けて,聖書に関心を持たせていました。その2番目の夫婦も現在聖書を学んでおり,75㌔余りもあるにもかかわらず,会衆の集会に出席しています。最初の夫婦は,その地域の王国会館を建てるための木材を提供したいと申し出ており,真理の道を歩む点でも進歩しています」。

テレビが神をたたえる時

近年,カナダではテレビを通して「良いたより」を広める様々な機会がありました。1966年の出来事はその一例です。「1967年の年鑑」は次のように伝えています。「カナダにおける今年の主な行事は一連のすばらしい大会でした。兄弟たちは確かに祝福され,『神の自由の子』地域大会に感激しました。その一連の大会のことが全国的に伝えられたのは,注目に値します。際立っていたのは,カナダ放送会社と提携している47の放送局を結ぶ全国的なテレビ放送網で,それを通じてカナダ全国のエホバの証人に関する優れたプログラムが放映されました。さらに,提携している11の放送局を結ぶ別のテレビ放送網もあって,エホバの証人を扱った30分の番組が放映されました。ですから,一般のカナダ人はテレビを通してエホバの証人の組織について学ぶところがあったに違いありません」。

輸血の問題を好意的に扱ったごく最近のテレビ番組のことを先にお話ししました。しかし,テレビはエホバをたたえるためにさらに別の方法でも用いられてきました。すなわち有線テレビ放送用の番組が作成されてきたのです。様々な地域社会を対象に再送信の役務提供を行なっている有線テレビ会社は,有線放送局を開設し,地域社会の人々から提供される番組を放映することを法律によって義務付けられています。5年ほど前になりますが,エホバの証人が夏の地域大会を宣伝するためにトロント有線テレビ放送局を利用したところ,その番組がとてもよくできていたのでそこの経営者は非常に喜び,その種の番組をもっと作ってほしいと言ってきました。

こうして,今日まで続いている一連のテレビ放送が始まりました。しかし,一つの放送局で放映されてから,そうした番組を扱う放送局は増え,カナダ中で54局にもなりました。これまでに200ほどの番組が作成され,その中には例えば,「子供の訓練に喜びを見いだす」,「アルコール中毒 ― 国際的な重荷」,「宗教における女性の役割」,「畏怖の念を起こさせるわたしたちの宇宙」,「人種の違いは問題となるか」といった主題の番組がありました。そのほとんどは英語の番組ですが,イタリア語とフランス語の番組もいくらか作られました。番組は30分間のカラー番組で,ゲストを招いて行なう討議を補うためにスライドや映画も使われます。

アパートにかぎを掛けて閉じこもっている人々は,テレビの番組を通して伝道を受けています。近所の人の目を恐れてエホバの証人と話そうとしない人々も,近所の人に知られずに家の中でエホバの証人の番組を見ることでしょう。その結果,そうした地域で証言すると,何軒かの家でドアを開けてもらえます。人々の思いがすでに開いているからです。人々は,そのテレビ番組を見て考えさせられたことを認めます。テレビを使って得られるもう一つの益は,クリスチャンである妻の話をこれまで聞こうとしなかった未信者のご主人でその番組を定期的に見るようになる人が大勢いるということです。それによってご主人たちはエホバの証人が実際に何を信じているのか知るようになりました。その結果ある人々は態度を変えて,配偶者が集会や大会に行ったり,子供たちに聖書の真理を教えたりすることに反対しなくなりました。

支部の施設の拡大

カナダのクリスチャンの,王国を宣べ伝えて弟子を作る活動が盛んになるにつれて,支部事務所を拡大する必要も大きくなりました。ですから,工場に2階建ての建物を増設し,トロント・ベテル・ホームの北側に新しい王国会館を設ける許可をエホバの証人の統治体から受け取った日は,喜びの日でした。それは,エホバの祝福が注がれた結果拡大が見られたことの明白な証拠でした。とりわけ緊急に必要とされていたのは工場を拡張することでした。建設工事は1974年11月に始まり,1975年6月に終わりました。1975年の6月28日の“公開日”には2,000人を上回る訪問者が見学を行ない,6月29日にはN・H・ノア兄弟が献堂式の話をしました。

品の良い演壇のある,暖かい色調の新しい王国会館は,英語,イタリア語,スペイン語の三つの会衆が使用する優れた集会場になっています。また,工場が増設されて1,486平方㍍広くなったのは実にうれしいことでした。当初それはずいぶん広いように思えましたが,一年たたないうちに増設部分も全部使用され,またも手狭になりました。実のところ,ベテル・ホームそのものも手狭になっていました。どうすることができるでしょうか。

施設が手狭になったこと,すぐ脇を走る14車線の高速道路の騒音と自動車の排気ガスによる汚染の増大を合わせて考えると,別の場所が必要なことは明らかでした。しかも,現在の敷地内でこれ以上増築することは無理でした。ですから,協会のトロント支部を移転させることが1977年2月に許可されたとき,兄弟たちはまたもや大きな喜びを味わいました。

許可が下りると,早速土地探しが始まりました。約6か月間土地探しがなされ,さらに数か月間交渉が行なわれた末,オンタリオ州のホールトンヒルズという新しい地区に田園風の適当な土地が見つかりました。1977年11月に建築許可の申請が出されました。

兄弟たちは興奮に包まれました。大勢の熱心な自発奉仕者たちは工事の開始が待ち切れないほどでした。主要な大工事は専門の建築業者に任せることになっていましたが,比較的簡単な内装の仕事と仕上げの仕事の多くは,エホバの民の愛のこもった腕と労力によって行なわれる予定でした。

エホバの証人は建築物を必要以上に重要視しませんが,その新しい建物はエホバの善良さを思い起こさせてくれるものとなるに違いありません。エホバがカナダの王国伝道者をすばらしく増加させてくださり,そうした増加の結果それまでよりも広い施設が必要となったのです。

共に忠実に奉仕する

現在,カナダでは66人の兄弟が巡回の業を行なっており,7人の長老が地域監督として奉仕しています。また,1978奉仕年度中に1,671人が正規開拓者として,286人が特別開拓者として奉仕しました。

カナダ支部で働いている全時間奉仕者についてここで少しお話ししましょう。現在トロントベテルの家族は105人の男女から成っています。平均年齢は37歳ですが,家族の大部分を占めているのは若い人々です。全時間奉仕に携わっている平均年数は14年です。しかし,カナダのベテル家族の年齢や円熟度の全容をさらにはっきり示すと次のようになります。80歳台の成員が2人,70歳台の成員が4人,60歳台の成員が11人います。ジャック・ネイサンは,54年の間全時間奉仕の様々な分野で働いてきました。ローラ・フレンチは51年間,ジャネット・マックラエは48年間,ラルフ・ブロディーは45年間,それぞれ全時間奉仕に携わっています。そのほか20年以上全時間奉仕をしている人が27人います。また家族のうち7人は,自分がイエス・キリストの油そそがれた追随者であることを表明しています。ですから,全時間奉仕者から成るこの家族に優れた霊的な安定性があることはきわめて明らかです。

カナダ全国では,会衆の献身的な伝道者たちが一団となって,「良いたより」の宣明を引き続き熱心に行なっています。わたしたちすべてが共に忠実に奉仕して,天のみ父をたたえるのは,実にすばらしいことです。

「勝利の信仰」国際大会

1978年の大会が「勝利の信仰」という主題の国際大会であったことは,実に時宜を得ていました。クリスチャンの活動はほぼ100年間に及び,エホバがわたしたちに世を征服する信仰を与えてくださったことの証拠は数多くありました。その証拠の一部を見るのにケベック州のモントリオールほどふさわしい場所はありませんでした。考えてもみてください。エホバの証人を断固根絶しようとする当局者から反対され,激しい憎しみを受けた時代がありましたが,今では市や州の当局者のりっぱな協力を得られるようになりました。わずか数人の証人しかいなかったモントリオール市が,国際大会の開催地となり,8万8人の出席者を迎えるまでになりました。全く時代は変わったものです。

有名なオリンピック・スタジアムが英語を話す出席者で,また,競輪場もフランス語を話す出席者でそれぞれ満員になり,オリンピック競技場の他の建物にも大勢の人々が詰めかけているのを見るのは本当にうれしいことでした。大会は7か国語で行なわれました。

プログラムが優れたものであったことは言うまでもありませんが,いつまでも記憶に残るのは,モントリオールの人々の家庭を訪問する業だったに違いありません。その業は,大会開催中の金曜日の午前中に取り決められていました。その日にはどこへ行っても,戸別の訪問をしたり,人通りの多い街頭に立ったりして,一般の人々のために特別に作られた文書を提供し,人々を大会に招待しているエホバの証人の姿が見られました。新聞は異句同音に,どこを見ても証人たちがいると報じました。あるラジオ放送者は,人々はエホバの証人の話に耳を傾け,提供される文書を求めるべきだと述べました。そしてこう言い添えました。「そうしたからといって,証人に善を施すことになると考えてはなりません。エホバの証人はその情報をあなたに伝えることによって,あなたに善を施しているのです」。モントリオールの人々は実に良い反応を示しました。友好的で受け入れる態度を示したのです。年配の人々の多くは,数十年前と現在との違いをきっと考えたことでしょう。かつては襲撃され投獄されていた証人たちが今では,信教の自由を完全に得て,歓迎される客としてモントリオールに来ているのです。クリスチャンの信仰は恐ろしい敵をものともせずに勝利を得ました。

では,エホバの証人は今や状況の変化につけ込むようなことをするでしょうか。そのようなことはありません。なぜなら,モントリオールの警察はエホバの証人のことを,これまで扱った団体の中で“一番訓練の行きとどいた”団体であると述べたからです。その訓練のほどが特に目立っていたのは,兄弟たちがオリンピック・スタジアムに近い場所に設けた45ヘクタールに及ぶ良く組織されたトレーラーとテントの宿泊施設でした。そこには1万5,000人の出席者が五日間宿泊しました。

結果としてモントリオール市にすばらしい証言がなされました。25時間を超えるテレビとラジオの放送および500ほどの新聞記事を通して,大会のことが大々的に報道されました。

マニトバ州のウィニペグ,ブリティッシュコロンビア州のバンクーバー,アルバータ州のエドモントンでも国際大会が開かれました。四つの大会の出席者の合計は14万590人でした。クリスチャンとして神への献身を表わすためにバプテスマを受けた人は1,226人でした。

エホバは,正しい業における忍耐を祝福される

1880年代の初めにカナダに差し込み始めたかすかな霊的光は,真昼のように明るくなりました。カナダには,現在,「良いたより」の非常に活発な宣明者が6万5,000人近くいますが,最初は一人か二人だけでした。1940年に禁令が敷かれたときから1977年にかけて,活発な証人はなんと902%も増加しました!

しかし,統計よりもずっと大切なのは,カナダのクリスチャンの霊的な状態です。彼らは苦難に遭い,禁令を乗り越え,一般の人々の敵意を耐え忍びました。言論の自由の問題で彼らの味方になってくれた人はほとんどいませんでした。ところが今日,識者はエホバの証人がケベックで僧職者の独裁的な支配を打ち砕いたこと,また証人たちが行なった法廷闘争はカナダ人すべての自由を守る結果になったことを認めています。初期クリスチャンの場合と同様,カナダのエホバの証人は世の反対を受けてもがん張り続けます。「エホバのみ手」が自分たちと共にあることを知りつつ,信仰を抱いてそうするのです。―使徒 11:21

当然のことながら,カナダで王国の音信を宣明する業に力を注ぎ一生をささげた人々をここでもれなく挙げることはできませんでした。自己犠牲と献身の手本すべてを挙げるには時間が足りません。カナダ国内の働き人のほかに,755人のカナダ人は宣教者として海外に派遣されました。そのうち198人は今も外国で奉仕しており,さらに130人はカナダにもどって全時間奉仕に携わっています。海外に派遣された人々はすばらしい特権を与えられました。

確かに,カナダにおけるエホバの証人の過去100年間の活動は,個々の信仰の感動的な物語です。では,将来はどうでしょうか。すばらしい見込みがあるのです! 1978年の主の晩さんの祝いにカナダで12万60人が出席しました。ですから,エホバの祝福の下に,カナダの王国宣明者の数は引き続き増加するものと思われます。―コリント第一 3:6-9

したがって,証言の業は現在の古い事物の体制が終わる前に行なわれている,と喜びをもって言うことができます。弟子を作ることは,イエスの言葉通り続いています。(マタイ 24:14; 28:19,20)カナダのクリスチャンは光を輝かせ,何万人もの人がそれに答え応じました。―マタイ 5:14-16

全地における「良いたより」の宣明について最後の章が書き記されるとき,現在カナダと呼ばれる野外のこの地域の働き人たちは,よく奉仕したとエホバにみなされ,それゆえに神の是認と恵みを受けられますように。カナダの王国宣明者は今までに次の言葉の真実さを証しすることができました。「エホバの祝福 ― それが人を富ませるものであり,彼はそれに痛みを加えられない」― 箴 10:22,新。

[165ページの図表]

年 伝道者最高数 会衆 記念式出席者数

1970 46,808 788 93,503

1971 49,204 790 97,518

1972 50,166 797 100,755

1973 52,773 863 104,707

1974 58,452 919 110,847

1975 60,759 979 114,744

1976 62,880 1,011 120,533

1977 63,090 1,033 120,958

1978 61,836 1,035 120,060

[77ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

カナダ

ノースウェストテリトリーズ

アイヌヴィック

マッケンジー川

ユーコン

ブリティッシュコロンビア

バンクーバー

ビクトリア

太平洋

アルバータ

カルガリー

サスカチェワン

サスカツーン

レジャイナ

マニトバ

ウィニペグ

ハドソン湾

オンタリオ

オタワ

ニューリスカード

ハミルトン

トロント

ケベック

ケベック

モントリオール

ニューファンドランド

ノバスコシア

トルロ

ハリファクス

大西洋

[171ページの図版]

初期のころ,「良いたより」は

― 有蓋自動車で

― 船で

―“カブース”と呼ばれる馬ぞりで広められた