内容へ

目次へ

ビルマ

ビルマ

ビルマ

ビルマは草木のおい茂る絵のような国で,チベットの高い山々から熱帯の海インド洋まで南北約2,100㌔に及んでいます。東西の幅は,バングラデシュとの国境から,ビルマとラオスを隔てるメコン川まで925㌔あります。

馬てい形をしている山脈は自然の強固な国境となっており,その北西にバングラデシュとインド,北にチベット,北東に中国,東と南東にラオスおよびタイが位置しています。ビルマは総面積が67万8,030平方㌔ですから,英国とフランスを合わせたほどの大きさです。

詩編作者は,「エホバよ,あなたのみ業はなんと多いのでしょう。そのすべてをあなたは知恵をもって造られました。地はあなたの産物で満ちています」と感嘆しましたが,この言葉はビルマにぴったりあてはまりそうです。(詩 104:24,新)最北端にはビルマの最高峰で海抜5,887㍍のカカボラジが雪を頂いてそそり立っています。三つの山岳地帯,すなわち西(アラカン)ヨーマ,ペグー・ヨーマ,シャン高原は平行して流れている三本の川,イラワジ川,シッタン川,サルウィン川の峡谷を隔てています。

歴史と宗教

ビルマ人の記録は,西暦前850年にイラワジ川上流にあるタガウンの設立から始まっていますが,ビルマの初期の歴史はさだかではありません。この国の土着の人種は蒙古人種で,その人種からチベット・ビルマ系,モン・クメール系,タイ・中国系の三つの主要な部族が派生しています。初期の部族モン族が先べんをつけて海岸付近に定着し,高度の文化を発達させた後,ビルマ族が太陽の輝く南のこの国へ移住しました。大移住の最後のものとして,13世紀にタイ族が雲南からやって来ました。9世紀に純粋のビルマ人は中央ビルマの乾燥地帯に定住しました。現在そこには昔首都だったパガン,アヴァ,アマラプラおよびマンダレーの遺跡があります。

丘陵地帯では,土地が険しく交通機関が乏しいために主要な3部族が,それぞれ独自の言語を持つ多くの部族に分かれました。100を超す異なる山岳民はいずれもビルマ国民で,カチン,カヤ,コートレイ,シャン各州およびチン特別区に住んでいます。その結果,デルタ地帯と乾燥地帯に人口が集中するようになりました。

宗教的には,純粋のビルマ人,モン族,シャン族はおもに仏教徒ですが,チン族,カチン族,カレン族の大半は名目上のクリスチャンです。また中には精霊崇拝者もいます。

ビルマでは陸上交通路が整備されていません。ビルマと中国を結ぶ,東のビルマ道路を通るのは非常に困難であり,危険を伴います。インドとビルマを結ぶタム道路もやはり楽ではありません。これらの道路を使用するのは密輸業者ぐらいなものです。このようなわけでビルマはもっぱら海と空の交通手段に依存しています。

「良いたより」がビルマに伝わる

しかし,神の王国の音信は様々な方法でビルマに伝わり,今では全国の津々浦々に行き渡っています。

聖書の真理の火花が,神の王国に対するビルマ人の関心を燃え立たせはじめたのは1914年のことでした。その年,二人の聖書文書頒布者がインドのマドラスからビルマへ来ました。二人は首都のラングーンで,ものみの塔協会の初代会長C・T・ラッセルが著した本と小冊子をいくらか配布しました。文書を求めた人々の中で特別な関心を示した人が二人いました。その二人はたちまちものみの塔の出版物を読むことに没頭していました。そして,平易な言葉で説明してある真理を容易に悟り,ほどなくしてキリスト教世界との関係を断ちました。

その当時,新しく関心を持った人々は証言に関する限り何の訓練も受けませんでした。それで新しい兄弟たち,すなわちバートラム・オスカー・マーセリーンとバーノン・フレンチは自分たちだけで証言しなければならず,非公式の証言をする程度でした。

中立を保つ努力

1918年の初め,ビルマを支配していた英国政府は全国民が兵役の登録をすることを命じました。マーセリーン兄弟は法律に従って名前を登録しましたが,自分が良心的参戦忌避者であり,戦闘には加われないことをはっきりと述べました。その結果について同兄弟はこう語っています。「私は陸軍本部に連行され,後に仕事にもどることを許されました。しかし,軍事法廷に出頭して指令を受けるように命ぜられました。軍事法廷に出頭すると,私は“叙任された牧師”ではないので兵役免除を受けられないと申し渡され,裁判所に送られました。……私は裁判官の前で自分がクリスチャンとして中立であり,どちらの側にもつくことができないことを証明しようとしました。しかし,すべては無駄でした。裁判所は軍事法廷の判決を支持しました。ただ,付け加えられた点は,私に非戦闘員の仕事が与えられるということでした。私は世俗の仕事にもどされ,その後の指令を待つように言われました」。―ヨハネ 17:16

1918年3月,マーセリーン兄弟が政府関係者の避暑地だったメイミョーにいたとき,軍当局は,軍事教練に参加し,武器を持って演習するよう同兄弟に要求しました。マーセリーン兄弟は参加しましたが,武器は手にしませんでした。武器を持って演習することをあくまで拒み続けたため,逮捕され,他の囚人たちといっしょに石を砕いたり道路を作ったりする重労働を課せられました。毎日マーセリーン兄弟は二人の武装した護衛兵に守られながら軍法会議に連れて行かれましたが,そのつど監房にもどされました。そしてついに一か月後に釈放されたのです。

証言の拡大

1914年から1927年にかけて,ビルマにおける伝道の業は偶然の証言以外にはほとんどなされませんでした。しかし,フレンチ,クレイ,ウーテン,F・トラットウェインの各兄弟と関心を示す数名の人はマーセリーン兄弟の家で集会を開いていました。マーセリーン兄弟はこう語っています。「祈りで始めてから,『ものみの塔およびキリストの臨在の告知者』を朗読して,質問したり注解したりしました。それから賛美の歌などを歌い,閉会の祈りをしました。出席者は18人から20人ぐらいでした」。

1926年,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会はインドのボンベイに新しい支部を開設しました。この支部はインド,アフガニスタン,ビルマ,セイロン,ペルシャにおける王国の業を監督しました。最初,支部事務所と,ビルマのラングーンにいた少数の神の民とは手紙で連絡を取り合っていた程度でした。

しかし1928年に,ボンベイ支部はジョージ・A・ライトをビルマに派遣しました。その時まで証人の業はラングーン市だけに限られていました。ところがビルマへ来たライト兄弟は,5か月間ほど広範囲に旅行して,「神のたて琴」,「救い」,「聖書研究」双書といった協会の書籍を配布しました。それによって真理の種がまかれたことは言うまでもありません。さらに,以前に関心を示したことのある人々と連絡を取ることもなされました。こうして1928年になって初めて,ビルマで王国の業を拡大することを真剣に努力できるようになりました。

熱心な聖書文書頒布者たちが応援に来る

1930年にボンベイ支部はセイロンでの任務を終えた二人の熱心な聖書文書頒布者,クロード・グッドマンとロナルド・ティピンをビルマに派遣しました。グッドマン兄弟はセイロンからビルマへ行く道中の様子とビルマで払った努力について次のように述べています。

「この近海では土地の人々が“甲板”客室で船旅をするのが珍しくありません。毛布類を持って行って甲板の指定された場所にそれを広げると,それが旅行中の部屋になるというわけです。ロンと私は,英国とビルマ間を航行するかなり高級な船の甲板客室を確保しました……私は,厚さが1㌢余りのマットの上に寝ましたが,船が揺れるたびにマットの上をあちこち滑り,体のそこここが甲板にあたってマットがないも同然だったことをよく覚えています。また,英国人の将校が,土地の人々といっしょに甲板客室で船旅をする私たちを“英国の威信を落とす”と言って軽べつしたことも思い出します。しかし,私たちは少しも動揺させられませんでした。こうしてラングーンに着いたのです。

「私たちはマーセリーン兄弟の住所をもらっていました。当時ビルマで関心のある人といえば,マーセリーン兄弟とフレンチ兄弟,クレイ兄弟,トラットウェイン兄弟,ウーテン兄弟だけでした。それは1930年6月のことでした。セイロンと同様,ビルマでも組織的な証言は行なわれていませんでした。私たちといっしょに日曜日の午前中奉仕に出掛けるようそれらの兄弟たちを少しずつ励ましました。兄弟たちはだんだんそれに応じるようになりました。一人の兄弟が,私たち開拓者を経済的に援助するから代理で証言の業を行なってもらえないかと尋ねたのを思い出します。確かロンは,『代理人に新しい世に入ってもらいたいと言うのでしたら構いませんよ』と答えました。

「ロンと私はセイロンで開発したやり方をビルマでも行ない,ラングーン以外の土地へ行きました。訪問した場所はペグー,タウングー,ピンマナー,マンダレー,メイミョー,シポー,ラショー,シュウェボ,モゴク,バモー,ミッチーナ,マグウェー,バセイン,モールメイン,アキャブその他です」。

真理を見いだした人々

こんな興味深い出来事がありました。ティピン兄弟はラングーンのケミンダインで戸別の証言活動をしていた際,鉄道の駅長シドニー・クート氏に会い,10巻からなる書籍を一組配布しました。クート氏の一番年上の娘は次のように回顧しています。

「その晩さっそく父は『神のたて琴』の一部を読み,その夜のうちにそれが真理だということを母に話しました。2,3日のうちに父はそれが生涯探してきたものであることを悟りました。14歳の少年のとき,父は牧師に三位一体の説明をしてほしいと頼みました。牧師は父に,『お帰りなさい。そんなことを思い悩むには若すぎるよ』と答えました。父は言われる通り帰ってきましたが,三位一体の教理はずっと心に引っかかっていました。ものみの塔の出版物を読んだとき,父の問題はついに解決しました。まもなく,父は教会との関係を一切絶ちましたが問題は何も起こりませんでした。自分たちが答えることができず,答えるつもりもない聖書に関する質問をしつこく尋ねる人物がいなくなったので,教会当局者はほっとしたに違いありません。母も真理の響きを認めるのにそんなに時間はかかりませんでした。ですから今私は父と母がエホバの証人となり,神を愛し神に仕えるように4人の子供を育ててくれたことをエホバ神に感謝しています」。

その当時,「すべてのことを確かめよ」というような本はありませんでした。しかし,クート兄弟はそれに類するものを自分で作り,「それはどこにあるか」という題をつけていました。あらゆる教理の項目を作り,使えそうな聖句を見つけるとその本のふさわしい項目の下にその聖句を書き込んでいました。

次にクート兄弟は協会のインド支部に手紙を書き,ビルマにはほかにもエホバの証人がいるかどうか尋ねました。数人の名前と住所が送られてきました。それを受け取ると,クート兄弟はさっそくその一人一人に手紙を送り,伝道の業がどの程度行なわれているかぜひ知りたいので一日家に来てほしいと招待しました。すると5,6人ほどの兄弟が集まりました。一同は小さな集まりを開きました。ビルマでは戸別の証言がなされていなかったので,クート兄弟は親族全員に手紙を書き,協会の文書を送りました。

クート兄弟の実の姉妹でカトリック教会の信者だったデイジー・デスーザ夫人は,同兄弟から「王国は世界の希望」と題する小冊子を受け取り,それを“むさぼるように”読みました。同夫人は兄弟に手紙を書きほかの本や聖書を送ってほしいと頼みました。まもなく,文書の入った大きな荷物が届きました。デスーザ夫人は夜がふけるのも忘れて,本を次々に読破していきました。これに間違いありません! 真理を見いだしたのです! 夫人は一人で戸別の証言を始めました。子供たちに近所の人々のところへ小冊子を持っていかせました。夫がそれに気づかないはずはありません。最初は猛烈に反対しましたが,「妻はどうして夜中の2時まであのような本を読んでいるのだろう。そこには何かがあるに違いない」と考え始めました。夫は駅の喫茶室のマネージャーで,仕事を終えるのはいつも夜11時半ごろでした。ある晩彼は妻に,「おまえがずいぶん遅くまで起きて読んでいるんだから,きっとおもしろいものなんだろう。ぼくにも読んで聞かせてくれないか」と言いました。妻は二つ返事で引き受けました。デスーザ姉妹はそのときから夫に毎晩読んで聞かせました。まもなく,二人はカトリック教会から脱退しました。

しばらくしてから教区の司祭がやって来て二人を教会に引きもどそうとしました。しかし,その時までにデスーザ姉妹は「霊の剣」という優れた武器を持っていたので,カトリックの聖書を使いながら,同教会の間違いを証明しました。(エフェソス 6:17)司祭は言いました。「地獄とか煉獄といった場所がないことは私も知っています。しかし,そうした教理でも教えないなら,人々はなかなか教会に来ませんからね」。

「あなたが正直な方でクリスチャンであるなら,人々に神に関する真理をお教えになり,神を魔神に仕立てることはなさらないと思います」と,デスーザ姉妹は答えました。それを聞いた司祭はあわてて立ち上がると重い足取りで部屋を出て行きました。別れぎわに司祭は言いました。「長年人々に教えてきた手前,今さら違うことを教えるわけにはいきませんよ」。

「あなたがほんとうのクリスチャンでいらしたら,きっとそうなさると思いますわ」と,デスーザ姉妹は答えました。最後に司祭は彼の教会員に干渉しないようにと姉妹に釘をさしました。

ある日曜日の朝,その司祭は教会員から手に入れることのできたものみの塔協会の出版物すべてと,デスーザ兄弟から借りた数冊の書籍を集め,教会の外で焼き捨てました。しかし,デスーザ家の人々はそれに気落ちすることなく,神のみ言葉を広め続けました。

王国の音信を携えてビルマを旅行する

一方,グッドマン兄弟とティピン兄弟は文書を配布し神の王国の良いたよりを広めながらビルマ各地を旅行し続けていました。旅行の思い出話の一つをグッドマン兄弟から聞きましょう。

「私たちは『ものみの塔』誌の予約購読者がナムツーという銀と銅の鉱山地帯(南シャン州)へ引っ越したという知らせを受け取りました。そこへは,近くの町から出ている,会社私有の鉄道を使う以外に方法がありませんでした。私はその鉄道の使用許可を得るために手紙を書きましたが,私たち二人に来られては困ると言って断わられました。しかしその当時私たちは,断わられてもすぐそのまま引きさがることはありませんでした。そこで私はラショーへ行っていろいろ調べ,ラショーから密林を通ってナムツーへ行く道があることを知りました。しかもタクシーの運転手は喜んでそこまで行ってくれるというのです。それで次の日,私はその運転手の自動車に書籍の入ったカートンをたくさん積んで出かけました。

「ナムツーは山の中に隠れた製錬の町でした。原鉱は数㌔離れた坑道の入口付近から運ばれていました。私は国営の宿泊所に泊まり,そこから町へ証言に出かけました。たくさんの文書を配布し,ついにその町を網らしました。しかし,坑道の入口付近のボードウィンに住んでいた雑誌の予約購読者とはまだ連絡が取れていませんでした。そこへ行くには会社の鉄道によるほか方法がありませんでした。それで私は,会社の取締役社長に証言したあと直接この件を相談してみることにしました。

「社長は,私がその町に入るのを断わられたことを何も知らなかったようでした。彼はがっしりしたオーストラリア人でした。私が事情を率直に話すと(密林の道を通って来たことを話したとき,その人の目がきらきら光ったのを今でも忘れません),社長は応待していた客をあとに残してただちに自動車で私を鉱山の事務所へ連れて行ってくれました。そこで彼の秘書を紹介してくれたのですが,その秘書はカトリック教徒で,私を町に入らせないようにした張本人でした。私の名前を聞いて秘書がぽかんと口をあけたのをまだ覚えています。社長は秘書にこう指示しました。『グッドマンさんをわが社のお客様として扱ってほしい。グッドマンさんには,どこでも行きたいところへ行っていただいてよろしい。君はグッドマンさんのご希望に合わせて特別列車を用意し,グッドマンさんが会社の土地におられるあいだ宿舎と食事を準備しなさい』。それで私は“様”づけで呼ばれ,いつ特別列車が必要か,それぞれの場所にどのぐらい滞在するかを尋ねられました。そのすべてを,音信が人々に伝わるのを妨害しようとした人がしたのです」。

1931年1月ごろまでに兄弟たちはビルマをかなり網らし,シンガポールへ移る用意がありました。ロナルド・ティピンは先に行き,クロード・グッドマンは,途中タボイとメルグイで奉仕できるように沿岸航路の汽船に乗って行きました。

他の人々が業を続ける

ジョージ・ライト,クロード・グッドマン,ロナルド・ティピンといった証人たちによる予備的な業は,1933年にインドから来たイワート・フランシスに引き継がれました。その時までに証言の業はラングーン,マルタバン,マンダレーでよく組織されていました。しかし,フランシス兄弟はインドに呼びもどされ,その代わりとして1934年にランダル・ハプリーとクラレンス・テイラーが来ました。ハプリー兄弟はJ・F・ラザフォードの講演のレコードを持っていました。そのレコードは2,3週間にわたって地方放送局から放送されもしました。ビルマ語の文書の必要を満たすために,「王国は世界の希望」,「王国へ逃れよ」と題する小冊子が1934年に翻訳され印刷にまわされました。他の出版物もビルマ語とカレン語で発行される予定でした。

証人であるハプリーは,まずラングーンの町を集中的に奉仕しました。ラングーンのある通りで証言していたとき,レストランで働いていた若いギリシャ人に文書を配布しました。その若者は聖書の真理をすぐに悟り,もっと知りたいと思いました。それでボンベイ支部に手紙を書いて数冊の本を注文しました。その手紙の中で次のようにも書きました。「この良いたよりを当地の人々に伝道する人をどうして派遣してくださらないのですか。私が知る限り,こちらで良いたよりのことを知っているのは私だけです」。支部事務所はさっそくラングーン会衆に手紙を書き,その青年を訪ねるよう依頼しました。ギリシャ人の青年バズル・ツァトスは兄弟たちとの交わりを通してたくましいクリスチャンになりました。しばらくして彼はラングーン会衆の会衆の僕(主宰監督)として奉仕しました。

1935年と1936年に兄弟たちは,カレン族,アングロ・ビルマ人,アングロ・インド人に集中的に証言しました。その人たちは神の王国の音信に比較的良い反応を示すように思われたからです。カレン族の大半はキリスト教世界のいずれかの宗派に属していることは注目に値します。クラレンス・テイラーはピンマナーで奉仕し,ランダル・ハプリーはマンダレーや他の北部の町々で集中的に奉仕しました。その時までに音信はビルマ北部に広がりつつありました。

ちなみに,当時ビルマはインド政府支配下の一地方にすぎず,一つの国として扱われてはいませんでした。ですからすべての野外奉仕報告は1937年まではインドの報告に含められました。そのころビルマ人の証人が何名報告していたかを示す記録はありません。

支部の監督上の変化

1938年,ビルマの王国伝道活動の監督に変化が起きました。同年の初頭まで,ものみの塔のインド支部がビルマにおける業を監督していました。その後オーストラリア支部にその責任がゆだねられました。そこで1938年にインドから来ていた開拓者たちはインドへもどり,オーストラリアから開拓者たちが来て,すでにまかれていた種に『水を注ぐ』世話をしました。それらの兄弟たちとビルマの王国伝道者たちが忠実に自分たちの責任をはたしたので,神は増加をもたらされました。―コリント第一 3:6

しばらくの間,S・ケルティー兄弟がビルマの王国の活動の世話に当たりました。しかし,オーストラリアに帰らなければならなくなったので,フランク・デワーが1938年の3月から7月までビルマの業を監督しました。

新しい開拓者たちの到着

1938奉仕年度の終わりには,ビルマの三つの会衆と交わる25人の伝道者が報告していました。一方,ヘクター・オウツとフレッド・パトンが業の世話をするためにオーストラリアからラングーンに到着しました。

ラングーンの下町は道が碁盤の目のように走っていてきちんと区画整理されており,大きな通りも小さな通りも,また裏通りでさえ全部名前と番号が組織的に付けられています。市の東端には,事務局と呼ばれる政府官公庁の大きなビル街があります。その界わいの道路はきれいに舗装されており,並木の世話も行き届いています。ラングーンには同じ形の4階建てのアパートが通りから通りへ長い列を成してびっしりと建っています。1930年代のラングーンの交通手段は,市街電車,バス,人力車,一頭立ての馬車などでした。

フレッドとヘクターを受け入れる準備として,フランク・デワーはラングーンのダルハウセ・ストリートにある事務局に面するアパートの2階の部屋を借りました。新しい開拓者たちは録音再生機,音楽のレコード一組,当時のものみの塔協会会長J・F・ラザフォードの話のレコードを持って来ていました。二人はその部屋に入居するやいなや,通りに面した小さなバルコニーに機械をすえ,スピーカーを事務局の方へ向けてオーケストラの曲を流しました。たちまち各階のたくさんの窓から人々は頭をのぞかせました。するとフレッド・パトンはラザフォード兄弟の短い話のレコードの一つをかけました。それは現在の古い体制の厳然たる事実を指摘し,神が約束しておられる新しい体制について述べた話でした。事務局のかなり多くの職員はバプテスト派の信者でした。そのほかにカトリック教徒も大勢いました。また事務局に隣接してカトリックの聖マリア大聖堂がありました。ですからその音信がどれほど衝撃的であったかがお分かりでしょう。

やがてフランク・デワーはビルマを去ってシンガポールへ行きました。デワーは次のように回顧しています。「1938年7月14日,私はラングーンで旅券を更新してもらい,そのあとすぐにフレッドとヘクターに別れを告げ,汽車や自動車でビルマの海岸線を南下しました。タボイからメルグイまで行くのにフェリーに7回乗りました。私は,比較的小さな土地ばかりか,それらの町をも網らして王国の音信を宣べ伝えました。メルグイから汽船に乗り甲板客室で一晩過ごして,ビルマの最南端にある英国の公式の小さな駐とん地ビクトリアポイント(現在のコータウン)に行きました。宿場用バンガロー(旅行する役人の便宜のため昔のインド帝国中のほとんどの町にあった快適な小さい簡易住宅)で一泊してから,私はサンパンという平底船の船頭に1ルピーを払い,ペッチャン川の川口を越えてピナン港入口まで私と荷物を運んでもらいました」。

「良いたより」を広める

そうしているあいだにも,王国の音信はビルマの多くの町に浸透していただけでなく,羊のような人々の心の中にも入って行きました。例えばそのころルビー・ゴフとその子供たちが真理を受け入れました。ゴフ姉妹は最小限の奉仕に満足できず,息子のデズモンドといっしょに開拓者の隊ごに加わりました。二人はビルマ人で最初の開拓者になりました。

開拓者たちは協会の自動車や大きな宣伝カーを使ってペグー,ニュングレビン,タウング,レッパダン,タラワジ,プロームその他の場所で証言しました。市場の近くに自動車を止めてしばらく音楽を流し,それからラザフォード兄弟の講演の一つを放送したものです。市場の大勢の人が音信を聞きました。いうまでもなく大多数の人はそれを無視しましたが,文書を求めに来る人がどこでも大抵数名はいました。

ゴフ姉妹の区域はラングーンから16㌔離れたインセインという町でした。インセインはカレン族のバプテスト派の根強い(今日でもその神学校がある)町です。ゴフ姉妹がその人たちのために携えて行った音信は歓迎されませんでした。あるとき,一日中非常に冷たくあしらわれ,夕方遅くなってから,ゴフ姉妹は「エホバよ,どうか,家に帰る前に一人でも羊のような人を見いださせてください」と静かに祈りました。すると正に次の家で,ド・ムウェ・チャアインという,カレン族のバプテスト教徒で謙そんな婦人に会いました。その婦人は姉妹から聖書を一冊求め,子供たちが家にいる土曜日の午後にまた来てほしいと言いました。その晩,チャアイン夫人はルビー・ゴフ姉妹のことを,あの人はほかの宗教をみなけなしていたから頭が少しおかしいと思う,と二人の娘に話しました。

ゴフ姉妹は再訪問を行ない,ド・ムウェ・チャアインとその娘たち,マ・チュ・メイ(現在のデージー・バ・アイ)およびマ・ニン・メイ(現在のリリー・デワー)と聖書研究を始めました。3人はその音信が真理であることをただちに悟りました。後に娘たちは協会の翻訳の仕事をする貴重な働き人となりました。マ・ニン・メイはゴフ姉妹が行なっていた戸別に訪問する活動に参加して,カレン族で最初の証人となりました。

ある日,タマインの駅で証言をしていたゴフ姉妹は,一人の若者を呼び止めました。その若者はそれまでの人生の大半を浮浪者として過ごし,密入国をしたり貴金属の窃盗を働いたり,サーカス団へはいったり,ボクシング試合に出たりいろいろなことをしましたが,人生から少しも満足を得ていませんでした。若者が寄付をして文書を求めるだけのお金を持ち合わせていなかったので,ゴフ姉妹は親切にも小冊子を若者に贈り,最寄りの王国会館の住所を教えました。それは若者にとって人生の転換点となりました。汽車に乗っているあいだにその小冊子を読み,ラングーン駅に着くまでに小冊子の内容が真理に違いないと思いました。

この若者シリル・ゲイはさっそく次の日にエホバの証人を訪れ,多くの質問をしました。証人のヘクター・オウツはその質問の答えとして,聖書の話を吹き込んだレコードを聞かせました。その時以来,このかつての浮浪者は人が変わったようになり,まもなく開拓者になりました。

開拓者たちは引き続き各地へ「良いたより」を広めて行きました。一度など宣伝カーでヘンザダに乗り込み,そこで開かれていたバプテスト派の大会の出席者に証言しました。しかしバプテスト派の人々は音信を聞くことを望まず,警官の手を借りて首尾よく開拓者たちを追い払いました。それでも開拓者たちは市の立つ広場へ行き,J・F・ラザフォードの講演のレコードを引き続き流しました。そのうえ多くの文書を配布しました。それによって何か良い結果が得られたでしょうか。

しばらくたってから数人の証人たちがその地域に行きました。そこで証言しているときに会った一人のカレン族の男の人は,家に聖書の手引があって私も家族の者も祈るときにそれを使っているから,と言って文書を断わりました。兄弟たちが,それを見せていただけませんかと言うと,その人はものみの塔協会の書籍の一つを持って来ました。

また,こんな例もあります。ヘンザダのある男の人はエホバの証人を探しにラングーンへ行きました。そして,街路伝道で雑誌を提供している証人を見つけました。その人はどうして証人を知るようになったのでしょうか。また,なぜ証人を探したのでしょうか。

開拓者たちが以前にヘンザダに行ったとき,カレン族のカトリック教徒の人が兄弟たちから書籍を数冊求めました。その人はヘンザダから19㌔ほど離れているシンガナインという自分の村へ帰って,書籍を読み始め,そこに書かれていることが真理であるとすぐに認めました。それで彼は村人に「良いたより」を伝え始めました。しかし兄弟たちと連絡を取らないうちに第二次世界大戦が始まったため,自分が持っている文書を用いて集会を開き,自己流で司会しました。日曜日ごとに親族を集め,協会の文書を朗読してカレン語に通訳しました。まもなく,その人の親族のうち12人が,真理を受け入れてカトリック教会から脱退しました。村の司祭はその人たちを自分の「群れ」に連れもどそうとしましたが,その人たちは真理の側にしっかり立ちました。戦争が終わってから,前述の男の人はラングーンにエホバの証人がいるということを聞きました。証人の住所は分かりませんでしたが,証人と連絡を取るために一人の男の人に一通の手紙を託して,その人をラングーンに遣わしました。しかしその男の人は,ラングーンでエホバの証人のことを個々に尋ねているときに,道でばったりエホバの証人に会いました。

このように,宣伝カーを使い,市の立つ場所でラザフォード兄弟の講演のレコードを聞かせるという証言活動は成功したことが分かります。それによって関心のある人々に文書が配布され,その中に真のキリスト教を受け入れた人々がいました。

ビルマにおける最初の大会

1938年にビルマの証人たちは,11月26日から28日にかけてラングーンで大会が開かれること,およびオーストラリアの支部の監督アレックス・マックギリヴァリ兄弟がそれに出席することを聞いて胸を躍らせました。シンガポール,マラヤ,シャム(現在のタイ)の開拓者たちもその大会に招待されました。大会の会場は大きな青銅のとびらの付いた,宮殿のような公会堂でした。

その大会は規模の小さな国際大会のようでした。オーストラリアやタイからも出席者が来ました。タイから来た出席者の中にJ・E・シウェル兄弟とF・デワー兄弟もいました。ラングーンまでの二人の旅は楽ではありませんでした。二人はバンコックを出発し,汽車とバスでラーヘンの村へ行きました。その後の旅行についてシウェル兄弟は次のように語っています。

「私たちはその晩[ラーヘン]にとどまり,次の日の夜明けに大きな丸木舟でメピング川を渡りました。そこから,まだ開拓されていない熱帯の密林の中にある山を徒歩で越える80㌔の長い冒険旅行を始めました。その地域を電話線が横切っていたので,それにそって歩きました。(その電話線はシャムとビルマを結んでいました。)それは,ほかの人にはお勧めできない危険な旅でした。

「私たちは密林にいる野生動物を恐れていました。例えばその地域にはトラが出ると聞いていました。たくさんのサルを見ましたが,トラやゾウや黒クマの姿は見掛けませんでした。その地域には野性の美しいチャボがおり,時折私たちの行く手を横切りました。第一日目が終わったとき,私たちは非常な疲れを感じました。そして二人の運搬人に出合いました。その二人は実は物資を国から国へ運ぶ密輸業者でした。その長い道のりを歩き切るには,夜寝る場所も,必要な時に身を守るすべも知らないので,これから先,様々な困難に遭遇することが十分予想できました。それで,ビルマから空のかごをかついで(棒の両端にかごを一つずつ付けて)もどる途中の二人の密輸業者に,私たちを助けてくれるかどうか尋ねました。二人はわずかな代金でそれを引き受けてくれました。それで私たちは荷物を彼らのかごに載せてそのあとについて行きました。一晩は木の枝にさし渡した板の上で眠り,次の晩は小さな村で寝て,ついにシャムの国境の町メイソトに着きました。そこの川を渡り,さらに80㌔余りを小型のバスで旅行しました。道中は岩はだの山々が連なっていました。その夜私はあるカレン族の村にとどまりましたが,そこの一人の男の人は,親切にも私たちに泊まる場所を提供してくれました。そこからさらにバスで29㌔進み,パアンからは川を走る小さな汽船に乗って65㌔ほど先のモールメインへ行きました。次いでサルウィン川の河口を渡って鉄道の終点都市マルタバンへ行き,そこから汽車でラングーンへ行きました。この旅行に一週間かかりましたが,ラングーンの公会堂の大会はすばらしいものでした」。

マンダレー,マルタバン,インセインその他の土地から兄弟や関心のある人々が大勢大会に出席しました。公開講演は十分に宣伝され,850人の座席のあった会場は収容能力を上回る1,000人の人で一杯になりました。会場整理係はそれ以上人々が流れ込まないように大きな門を閉めようとしました。3回試みてやっと門を閉めることができました。しかし,積極的な若者たちは横の小さな入口から会場に入りました。外には入れない人が1,000人ほどいました。このように記録的に大勢の人が集まったのは,講演の主題と,広範な宣伝のためであったと考えられます。オーストラリアのストラスフィールドから来た支部の監督マックギリヴァリ兄弟は,「宇宙戦争は近い」という主題で講演をしました。成功の理由が何であったにせよ,その大会は確かにビルマのエホバの民の歴史上きわだった出来事でした。

妨害に遭う

1939年の末ごろ,協会のストラスフィールド支部事務所は,ビルマの文書倉庫の責任者としてもう一人の開拓者ミック・エンゲルを派遣しました。それまでにビルマの開拓者数は増加していました。マ・ニン・メイ(リリー)もその一人でした。4人のビルマ人の開拓者はオーストラリア人の開拓者たちと相並んで神のみ言葉を宣明していました。1939奉仕年度が終わったとき,ビルマの三つの会衆で,合わせて28人の証人が野外奉仕を報告していました。

王国の宣明が活発化するにつれ,迫害もその醜い頭をもたげてきました。1940年の末ごろビルマの英国国教会,メソジスト派,カトリック教会およびアメリカ・バプテスト派の僧職者たちは,協会の文書を禁止するよう英国支配者に圧力をかけました。しかし,ラングーンの政府当局者がその命令を受け取る前に兄弟たちはそのことを知りました。どのようにしてでしょうか。

ビルマにある協会の文書すべてを禁止し没収せよという命令が打電されて来たのを,海外電報局に勤めていた二人の兄弟が扱って知るに至ったのです。二人はただちにミック・エンゲル兄弟に知らせました。エンゲル兄弟は文書の大半を,タマインその他郊外地区の友好的なカレン族の人々の家など数か所に隠すよう取り計らいました。

その当時,日本と戦争をしていた,蒋介石を頭とする中華民国政府に,アメリカから膨大な量の軍事物資が送られていました。それらの物資はビルマ北部のラショーに送られたあと,曲がりくねった危険なビルマ道路を経て重慶に輸送されました。数千台もの軍用トラックが,タイヤ,燃料,弾薬その他の軍事物資を積み,じゅずつなぎになってラングーンから北へ進みました。兄弟たちは重慶へ向かうそれらトラックの一台に文書を載せられないものかと考えました。重慶なら文書を没収される心配がないからです。しかしそれは成功しませんでした。

そこでジョージ・パウェル兄弟は,シンガポールへ行って運搬車を手に入れてビルマへもどり,それに文書を積んで重慶へ運ぶことにしました。しかし残念なことに,パウェル兄弟がシンガポールへ着く直前に,自動車の国外持ち出しを一切禁じる命令が出されました。では協会の文書はどうなるのでしょう。没収され処分されてしまうのでしょうか。

その間にエンゲル兄弟はアメリカの高官と会見し,協会の文書の輸送に軍のトラックを使用してよいという手紙を入手することに成功しました。ミック・エンゲルとフレッド・パトンとヘクター・オウツはその手紙を持ってラショーへ行きました。3人が,中国向け物資の大輸送部隊を指揮している役人を訪れ,トラックに空いているスペースがないかと尋ねたところ,その役人は腹立たしそうに,「なんだと」と大声で言いました。「トラックに余分のスペースなどぜんぜんない。緊急に必要な軍事物資や医療品が屋外で台なしになっているし,おまけにモンスーンの雨が近づいている。トラックの大事なスペースをお前たちのくだらない印刷物のために使えると思うのか」。

フレッドは役人を見つめ,間を置いてから書類かばんに手を入れてラングーンの高官の手紙を取り出しました。それを道路の指揮官に手渡しながら,フレッドは,ラングーンの当局者を無視して援助を拒否すれば大変な問題になると言いました。フレッドの論議は相手に有無を言わせませんでした。道路の指揮官は2㌧の書籍を輸送する手配をしただけでなく,運転手と予備の物品をつけて小型トラックをあてがってくれました。こうして大胆不敵な二人,フレッド・パトンとヘクター・オウツはトラックで重慶へ行き,委託輸送した文書をそこで配りました。二人は重慶で蒋介石に会い,彼に証言しました。

日本軍がビルマに侵入し始めると,ほとんどの証人はビルマを離れました。ミック・エンゲルはオーストラリアへ行き,白系インド人と白系ビルマ人はインドへ行きました。クート兄弟は二人の娘とインドへ向かいましたが,インドに着く前に亡くなりました。

1941年の8月から10月にかけてビルマで野外奉仕を報告した伝道者はわずか18名で,その時までに開拓者は一人もいなくなっていました。11月にはシリル・ゲイ兄弟,マ・チュ・メイ姉妹,マ・ニン・メイ姉妹の3人以外のすべての証人はビルマを離れていました。残った3人も非公式の証言をしていたにすぎません。

1942年3月8日,ビルマの首都ラングーンは日本軍の手に渡りました。その後ほかの都市も相次いで陥落しました。それは,英国にとって絶えざる撤退という過酷な記録でした。一方,日本軍にとってはまたとない成功であったはずです。日本軍は5か月間で,国土がフランスよりも広く,人口がオーストラリアとカナダの人口を合わせたぐらい(その当時)の国を侵略し,1942年5月末までにその全土を掌握しました。

日本軍が占領していた1942年から1945年にかけて,「良いたより」を宣明する業はビルマにおいて事実上停止していました。ビルマにいた3人の証人は,出版物が手にはいらなかったため,「ものみの塔」誌の同じ号を何度もくり返し研究し,4年余りの間「1942 エホバの証人の年鑑」を使って日々の聖句を学びました。

しかし,ビルマが日本帝国下にあったのはほんのしばらくの間にすぎず,再び爆撃が始まりました。といってもこのたびは英国による爆撃でした。英国の飛行機は大量の爆弾を投下し,多くの建物を破壊し,おびただしい数の人間を殺しました。1945年までに戦争は終わり,再び英国がビルマを占領しました。

証言の業が再確立される

インドへ避難していた兄弟姉妹たちは戦後すぐにビルマへもどって来ました。こうして証言の業は新たに始まり,1946年4月20日に再びラングーンに会衆が設立され,8人の伝道者が野外奉仕を報告しました。協会のインド支部は戦後しばらくビルマの伝道の業を監督しました。

ビルマに初めて派遣されたギレアデ学校の卒業生R・W・カーク兄弟は,1947年の初めに到着しました。同年,協会の三代目の会長N・H・ノアと秘書のM・G・ヘンシェルが初めてビルマを訪れました。その訪問に合わせて,ビルマの19人の証人のために大会が計画されました。

ノア兄弟とヘンシェル兄弟はシャムから水上飛行機で来ました。二人を乗せた水上飛行機は1947年4月12日にラングーン川の対岸に着きました。二人はそこから電動のランチで川を渡り,さん橋で待っていたバスに乗ってラングーンの中心地へ向かいました。市の主要部分を通って行くと,戦争によってどれほどの被害がもたらされたかが分かりました。道路沿いに竹製の仮小屋が作られ,大勢の人がその,間に合わせの家に住んでいました。市の中心部に着くと,建物はレンガ造りで非常に近代的でした。しかし,その多くは外側が残っているだけで,内部は焼けてしまっていました。

ノア兄弟は日曜日の午前10時に公開講演をすることになっていました。18人の伝道者と当時ラングーンにいた一人の宣教者は,その講演を広く宣伝しました。会場として,ニュー・エクセルシオ劇場という映画館が選ばれました。ところが,講演が始まる一時間前に,その映画館の経営者が心臓発作を起こして亡くなりました。映画館の従業員たちは,社長の死去につきその日は閉館するという告示をしました。しかし兄弟たちは,責任をまかされた人々を説得して講演会を予定通り開く許可を得たので,映画館に自由に出入りできるようになりました。出席者が287人だったことは兄弟たちにとって驚きであり,喜びでもありました。

ラングーンは蒸し暑い町です。午前10時だというのにじっとしていても汗が出て来ます。ノア兄弟は熱帯地方に合った身仕度をして来ていなかったので,公開講演を始めると間もなく汗でびしょびしょになりました。演壇には換気装置が付いておらず,熱気をしゃ断するためにとびらは閉めてありましたから,ノア兄弟は暑さにうだり,講演をしながら汗が背中を伝わってくつに流れ込むのを感じるという珍しい経験をしました。話が終わったときには,なんと兄弟の足はぐしょぐしょにぬれていました。

しかし,ラングーンでぐしょぐしょにぬれたのは汗をかいた時ばかりではありませんでした。旅行者たちは,建てられたばかりの王国会館で行なわれる午後の集会に出席する前に,カルカッタ行きの出発時刻を確かめるため航空会社の事務所へ行きました。その日は,仏教徒が互いに水を掛け合うシンギャン(水祭り)という祭りの初日でした。ノア兄弟,ヘンシェル兄弟,カーク兄弟,ツァトス兄弟はジープに乗り込んで下町に向かいました。祭りの初日とあって元気一杯の若者たちが,給水せんのある通りの両側にずらりと並んでいました。そこを通る歩行者や乗り物はみな,空きかん,バケツ,はち,水鉄砲,ホースなどで水を掛けられました。「ものみの塔」誌は次のように報告しています。

「あまり行かないうちに私たち4人はずぶぬれになりました。しかし私たちはずぶぬれになるたびに笑って済ませるようにしました。航空会社の事務所に着いた時には,イラワジ川に落ちたも同然の格好をしていました。しかしそれは始まりにすぎませんでした。飛行機の切符の手配をすませると,王国会館に行くのに同じ道をもどらなければならなかったからです。

「王国会館の前でジープを降り,体からしずくを払ったときには,すでに何人かの兄弟たちが王国会館に集まっていました。その兄弟たちも私たちと同様の目に遭っていました。しかし,兄弟たちは人々の習慣を知っていたので,水を通さない入れ物に衣類を持って来ていてそれに着替え,さっぱりとした様子をしていました。ところがその午後の話し手であるカーク兄弟,ノア兄弟,ヘンシェル兄弟の3人は雨でずぶぬれになったような格好をしていました。兄弟たちが事情を理解してくれたのは幸いでした。話し手たちはそのままの姿で,聖書に基づく助言や訓戒を与えました。集会の半ばごろ,大胆な若者数人が王国会館の入口にやって来てバケツ一杯の水を掛けましたが,妨害といえばそれ位のものでした。幸い,水はだれにも掛かりませんでした。出席した37人の兄弟たちは話を大いに楽しみました」。

その訪問中,ラングーンに協会の支部事務所を1947年9月1日付で設立することが取り決められました。また,さらに何人かの宣教者をビルマへ派遣する計画も立てられました。

ギレアデからさらに援助者が来る

1947年7月4日,兄弟たちは,ビルマに来た二人目の宣教者ノーマン・H・バーバーを迎えるためにさん橋に集まりました。一人ではなく二人の兄弟が船から降りて来るのを見るのは思いがけないことでした。予告なく到着したのは,兄弟たちがよく知っていたフランク・デワーでした。デワー兄弟はシンガポールでバーバー兄弟に会い,彼と一緒にビルマに行くことにしたのです。

当時ビルマは英国からの独立を求めていました。そして多くの交渉を重ねた末,1948年1月4日午前4時に独立国となりました。そのことはとりわけ証言の業に何らかの影響を及ぼしたでしょうか。ビルマ政府は信教の自由を約束していたので,問題が起きることはありませんでした。

ビルマが独立してからわずか11日後の1948年1月15日に,さらに二人のギレアデ卒業生,R・W・リチャーズ兄弟とH・A・スメッドスタッド兄弟が到着しました。二人が下船したとき,移民局の役人は「旅券はどこにありますか」と尋ねました。「旅券は持っていません」と兄弟たちは答え,カナダ(英国連邦の自治領)を出発した1947年11月にはビルマも大英帝国の一部だったこと,自分たちが独立以前にビルマに到着できると思っていたことを説明しました。旅券がなかったのはそのためです。しかし,役人たちは心を和らげようとしませんでした。今や祖国は独立したのだというわけで,「旅券のない者をどうして入国させられるか」と言って譲りませんでした。長いあいだ考えた末,役人の一人が心を和らげてくれました。新しい宣教者たちはどんなにかほっとしたことでしょう。その問題が解決したので,二人はラングーンのシグナル・パゴダ通り39番に新しく借りてあった宣教者の家へ案内されました。

ビルマ人が一般に近づきやすく友好的でもてなしのよい人々だったことは,宣教者たちにとって思いがけなくもうれしいことでした。ビルマの人々は,見知らぬ訪問者にも茶菓を出して歓待します。

食物について言えば,ビルマ人は揚げ物をするときのにおいをきらいます。家に病人がいる場合はなおさらです。痛みを持つ病人や生まれたばかりの赤ん坊とその母親はそのにおいで死ぬことがある,と言うのです。それを恐れて人々は戸や窓を閉め,においが消えるまで夏でも“においアレルギー”の人に厚い毛布をかぶせます。ですからビルマの主婦は家で揚げ物をするときに大声で近所の人に知らせます。

宣教者たちはビルマ人のそうした習慣に気づきませんでした。それである日,昼食用に揚げ物をしていたところ,2階に住んでいたビルマ人の女性が降りて来て,「いいですか,揚げ物をするときにはまず私たちに知らせてから,道でしてくださいね。分かりましたか」とどなりました。当惑した宣教者たちは土地の兄弟たちから説明を聞くまでその言葉が理解できませんでした。さて,ある日バーバー兄弟が歩道でさかなを揚げていると,驚いたことに,子供たちがお金を手にして兄弟のまわりに大勢集まって来ました。子供たちはさかなを買おうと辛抱強く待っていました。ビルマでは歩道で食物を揚げて売る人をよく見かけます。

不穏な時期

ビルマが独立して間もなく,様々な反対グループや部族が,新たに樹立された政府に対して武装ほう起しました。その者たちは地下活動を行ない,人々をも政府をも混乱させました。橋や鉄道を破壊し,大きな損害を与えました。反乱者の大半はカレン族やカチン族の,アメリカ・バプテスト伝道団の改宗者たちでした。反乱分子が旅客列車を転覆させたとか,町を略奪したとか,水道管を爆破したとかいう話を時折耳にしたものです。

エホバの証人がラングーンで開かれる地域大会に出席するためにメイミョーから旅行したのはそのような情勢の時でした。大会が終わってから,1949年1月19日にフランク・デワーはメイミョーへ行き,そこの小さな群れを援助しました。

1949年2月4日,ビルマ警察はメイミョーに住むカレン人の容疑者全員を検挙してマンダレー刑務所へ送り,後にシュウェボ刑務所へ送りました。2月6日,ビルマ情報局は警察に,カレン族の証人の家に滞在していたデワー兄弟を逮捕させました。兄弟はカレン族の反抗分子側のスパイではないかと疑われたのです。しかし,一晩たって釈放されました。

3月になって,カレン反乱軍はメイミョーとマンダレーを攻撃しました。その結果,反乱軍と政府軍の間に激しい戦闘が起こりました。数日間,人々は,頭上を弾丸がうなりを上げて飛びかうざんごうの中で眠らなければなりませんでした。3月7日に戦いが終わり,カレン族の反乱分子はメイミョーとマンダレー両市を占領しました。彼らは他の多くの町も奪い,首都ラングーンから16㌔離れたインセインにまで来ました。しかし,その激しい攻撃も長くは続きませんでした。再編成され,近代兵器を十分に備えた政府軍は反乱軍を密林へ追い返したのです。こうした戦闘が続いている間,証言の業はラングーン,インセイン,メイミョー,チンガナインだけに限られてしまい,兄弟間の連絡は全くしゃ断されました。

「これこそ真理です」

1948年,一人の王国伝道者はビルマ石油会社に就職し,チャウクの油田へ転任となりました。その伝道者と家族はそこへ落ち着くとすぐ,日曜日と休日ごとに証言の業を行ない始めました。戸別に「良いたより」を宣明しているときに,羊のようなタミール族の人に会いました。証人に出会った同じ週に,その人,M・C・ネイサンはカトリック教会との関係を全く断ち,さっそくエホバの証人になりました。

そのころちょうど,ネイサン兄弟のおいは学校の休暇を同兄弟の家で過ごしていたので,おじさんが家族に証言する王国の音信を聞かないわけにはいきませんでした。その若者はカトリックの司祭になることを考えていましたが,やがて,「おじさんの言われることはほんとうです」と言うようになりました。そして,おじさんが留守の時はいつでも協会の出版物を手に取って読んでいました。その内容があまりにも説得力のあるものなので,「これこそ真理です」と言いました。こうして,その若者モリス・ラージは,1949年12月24日にイラワジ川でバプテスマを受けました。ラージ兄弟はやがて開拓奉仕を始め,1963年に巡回監督になり,1966年には地域監督兼支部の監督に任命されました。

もう一つの有益な訪問

カレン族の反乱後,チンガナインの村は残酷な強盗の一味によって破壊されました。兄弟たちが持ち物や聖書文書や家を失っただけでなく,一人の兄弟は殺されました。残りの兄弟たちは散り散りになり,それらの兄弟たちとの連絡は事実上完全に途絶えてしまいました。後に,4人を除いてすべての兄弟たちがさまざまな苦しい目に遭って亡くなったことが分かりました。

政府が国の大部分で秩序を回復した後,1951年に証人たちは証言活動を再組織することができ,その結果良い進歩が見られました。協会の会長のN・H・ノアとその秘書M・G・ヘンシェルが1947年にビルマを訪れたとき,ビルマにはわずか18人の伝道者と一人のギレアデ学校の卒業生がいただけでした。しかし,このたび1951年4月10日の二度目の訪問が計画されたときには,伝道者は94名という新最高数に達していました。

ノア兄弟とヘンシェル兄弟の世界一周旅行に合わせて大会が取り決められました。二人は空港で盛んな出迎えを受けたあと,王国会館ですでに始まっていた大会に急行しました。二人はどっとわき起こる歓声に迎えられました。まずヘンシェル兄弟が話し,次いでノア兄弟が話しました。二人の話はビルマ語に通訳されました。

水曜日,ノア兄弟はラングーンの公会堂で,集まっていた256名の人々に「全土に自由をふれ告げよ」と題する公開講演をしました。それからノア兄弟は,ヘンシェル兄弟が話をしているあいだにラングーンの国立放送局へ行き,15分間の話を放送しました。その番組は大会会場でも放送されました。大会そのものは翌日まで続き,閉会の話には90名が出席していました。

その訪問中にノア兄弟は,任命されて間もない支部の監督ロバート・W・リチャーズが,反乱で問題のあった北部に住む兄弟たちを訪問する取り決めを設けました。リチャーズ兄弟の訪問はたいへん築き上げる有益なものでした。

それ以前に支部の監督は交替していました。ロバート・W・カーク(ビルマの最初の支部の監督)が開拓者のクレア・デスーザ姉妹と結婚するために支部の監督の立場を離れたためです。1954年,カーク姉妹はギレアデ学校の第22期のクラスに招かれ,同年カーク兄弟は再び支部の監督になりました。1955年から1959年にかけて,ビルマ支部はさらに6人のビルマ人の開拓者をギレアデに送りました。D・J・オニール兄弟とノルマ・バーバー姉妹は1956年に卒業し,ルシャイの特別開拓者ジョイス・ロートは1958年に,ドリンダ・スメッドスタッド,ジョージアナ・レドモンド,ドリス・バ・アイ(現在モリス・ラージ夫人)は1959年に卒業しました。

1956年,東洋の国々を訪問したノア兄弟は,再びビルマを訪れました。このたびは,「創造者のもとに全人類を一致させる」と題するノア兄弟の話に268名が出席しました。公開講演が終わると,ノア兄弟とカーク兄弟は自動車でビルマ放送局に急行し,そこでノア兄弟はインタビューを受けました。ノア兄弟はこの大会でビルマ語の「ものみの塔」誌を発表しましたが,それは注目すべきことでした。

宣教者に対する話の中で,ノア兄弟は特にビルマ語を勉強することの大切さを強調しました。宣教者たちは自分たちのビルマ語が上手でないことを認めていました。しかし,ノア兄弟の話に心を打たれたので,本格的に勉強し始めました。

言うまでもなく,宣教者たちがまず学ぼうとしたのは,戸別の証言活動の際に戸口で何を言うかということでした。それで聖書に関する短い証言と結論の言葉を学びました。「小冊子は一冊4アンナです」という意味のTa-ouk tammaがその結論の言葉でした。ある宣教者が野外でそう言ってみたところ,家の人はへんな顔をして,横にいた女の人に「あの人はなんて言っているの」と聞きました。聞かれた人はすぐに,「卵を売ってるって言っているのよ」と答えました。「いくらで売っているの」と最初の女の人が聞きました。「一つ25アンナですって」という答えでした。その宣教者はTa-oukと言う代わりにTa-ookと言ったので卵を売っていることになってしまったのです。

外国人がビルマ語を正しく発音するのは,実際非常に難しいことです。各音節を正確に発音できないと意味が全く逆になってしまうことがあります。例えば正しく発音しないと,「新しい世」(Kaba-a'thit)は「死んだ世」(Kaba-a'theyt)という意味になってしまいます。ですから,宣教者たちはビルマ語で証言したあと,家の人から「私は英語が分かりませんのでビルマ語で話してくださいませんか」とよく言われたものです。

もう一人の訪問者による励まし

ここで,ものみの塔協会のもう一人の代表者の訪問に注目しましょう。当時協会の副会長だったF・W・フランズ兄弟を乗せた飛行機がミンガラドン空港に着陸したのは1956年12月30日,日曜日の午後5時でした。それからバスでラングーンに向かいましたが,その道中フランズ兄弟のハーモニカの伴奏に合わせて王国の歌をうたったのは実に楽しい一時でした。私たちが王国会館に着いたとき,「ものみの塔」の研究がちょうど終わるところでした。フランズ兄弟はさっそく演壇に招かれ,一時間余りのあいだ旅行の模様を話しました。五日間の大会はその日から三日後に始まることになっていましたが,王国会館に集まった55名の人々はその時すでに大会が始まっているように感じました。

八日間のビルマ滞在中,5名のギレアデ卒業生のいる宣教者の家に泊まったのはフランズ兄弟にとって楽しい経験でした。同兄弟は仏教の国ビルマでも新年の祝いが行なわれるのを知って驚きました。そうです12月31日,月曜日の真夜中に,鉄の輪を12回打って夜中の12時を知らせる夜警が,その最後の一つを打ち終わると同時に,爆竹がはぜ,サイレンが鳴り,ラングーン川に停泊中の船の汽笛が響き渡りました。

大会出席者たちは非常に広範な地域から来ました。そのころ国中が不穏な情勢にありましたから,いつ行く手を妨げられるか分かりませんでした。それでも,家族ぐるみで堅い木の座席に座って,幾百㌔も汽車の旅をしました。しかし出席者たちは無事到着し,大会に間に合ったことを喜びました。出産が大会の時とぶつかりそうだったある出席者は早くラングーンに来て出産し,数日後には赤ん坊を腕に抱いて大会の話を聴きました。

土曜日に11人(それまでの最高数)がロイヤル湖でエホバ神への献身の象徴として水のバプテスマを受けました。その湖には,日の光に金色に輝く相輪をつけたシュエダゴン・パゴダが映っていました。バプテスマ希望者は四つの人種の人たち,すなわち,タミール人6人,カレン人3人,白系インド人1人,グルカ人1人から成っていました。

ほとんどすべての話は英語からビルマ語に通訳され,バプテスマの話は一部タミル語に通訳されました。土曜日に開かれたタミル語の集会では大会の主要な話の要点が扱われました。

木曜日までは,F・W・フランズによる「新しい世の平和は現代に実現する ― なぜ?」と題する広く宣伝されていた講演は,妨害されて行なわれなくなるような形勢でした。しかし全能の神エホバが事を巧みにあやつってくださり,宣伝通りに公の催しを行なう道が開けました。鉄道協会ホールに237人を迎え,1957年1月6日,日曜日の午後四時から公開集会が開かれました。講演の後,「幸福な新しい世の社会」という映画がビルマで初めて上映されました。ホールはあふれるほど満員でした。月曜日の午後10時半,フランズ兄弟はビルマの証人たちに別れを告げ,バンコックへ飛びました。

F・W・フランズの訪問は兄弟たちにとって大きな励ましとなりました。大会が終わり,兄弟たちは霊的に十分養われて家に帰りました。大会後すぐ,数人の開拓者たちは王国の音信を広めるために新しい区域に派遣されました。その時までに証言の業はインセイン,バセイン,メイミョー,タウンジー,その他の土地で順調に行なわれていました。

「黄金の都市」における進歩

特別開拓者に任命された宣教者のロバート・W・リチャーズとその妻は,ビルマで二番目に大きい,人口18万人の都市マンダレーで奉仕するよう割り当てられました。マンダレーは西暦1857年ミンドン王によって設立され,ビルマ人からは,「黄金の都市」を意味するシェウェーマンと呼ばれることが少なくありません。というのはマンダレーの丘の近くにミンドン王が,高くて厚い壁に囲まれ金ぱくの施された木造の壮麗な宮殿を建造したからです。残念ながらその宮殿は第二次世界大戦中に破壊されました。しかし宮殿を守っていた,四角いれんがでできた壁は今でも建っています。

ビルマを訪れる人にとってもう一つの興味深い場所は,頂上にパゴダの建っている高さ300㍍ほどのマンダレーの丘です。大きな仏像が目じるしに所々立っている,覆いのある三箇所の階段を上ると丘の頂上に出ます。そこからはマンダレーとその周辺のすばらしいながめが楽しめます。丘付近のあらゆるものは,そこに幾つかのパゴタを建てたミンドン王を物語っているかのようです。

中でも最も有名なのは,丘のちょうど南東部にあるクソドーパゴダです。そこには実に驚くべき宗教的な作品があります。そのパゴダの中に小さな白いパゴダが幾列にも並んで建っています。それぞれの小さなパゴダは,仏典の一部をパーリ語で刻んである直立した大理石の板を覆っています。その大理石の板は高さが約1.5㍍,幅が約1.2㍍です。一枚の大理石の板に経文を刻むのは非常に骨の折れる仕事だったことでしょう。ところがそうした大理石の板が幾百も立っているのです。その合計は729個もの多数に上っています。この驚くべき作品は西暦1857年にミンドン王の命令によって作られました。王によって宮殿に召された2,400人の僧侶たちは5か月間にわたって仏典を検討調査した末,729枚の大理石の板にそれを彫刻しました。

1957年に,ラングーン以外の土地で開かれる初の巡回大会がマンダレーで予定されました。その大会でバプテスマを受けたのは一人だけでした。カチン族の人で真のキリスト教を受け入れたのはその人が初めてでした。当時知るよしもなかったことですが,その人を通してカチン族のさらに大勢の人が真理を悟るようになり,1978年までには六つの会衆と多くの孤立した群れができていました。その兄弟は後に,カチンのある会衆の主宰監督になりました。

ついでながらマンダレーの気候は極端で,冬は非常に寒く,夏は耐えられないほど暑くて乾燥しています。事実,ビルマの他の土地からマンダレーの大会に出席した兄弟たちの中には暑さにがまんできなかった人もいます。それで寝る前にシーツを水でぬらしたり,しめったふとんで寝たりしました。日中,兄弟たちのシャツは汗でぐっしょりぬれたものです。しかし,カナダ人のロバート・W・リチャーズ兄弟はこのような町で不平一つ言うことなく,妻やビルマ人の開拓者といっしょに証言の業をしました。

他の土地で辛抱する

一方,フランク・デワーと妻のリリーはバセインで一生懸命に働き,やっとのことで会衆を設立しました。バセインは南部にある海沿いの町で,バプテスト派のカレン族の人がたくさん住んでいます。マンダレーにおけると同様バセインでもバプテスト派の牧師は人々に対して大きな勢力を持っています。それでこの土地でも牧師たちは,「なぜあなたがたは仏教徒のところへ行って伝道しないのだ。どうしてわれわれの羊を奪いに来るのだ」と叫びます。フランク・デワーはバセインで「あの白い顔をした羊泥棒」と言われていました。

しかし,たとえ何と言われようとも,ビルマのエホバの証人は,人々が偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから離れるのを助け続けてきました。とはいえビルマの農村部で家から家へ,村から村へ訪問するのは決して容易なことではありません。夏の間,兄弟たちは暑くてほこりっぽい道を歩かねばならず,くたくたになり,ほこりまみれになって帰宅します。モンスーンのあいだは,水のあふれる畑を横切り泥まみれになって帰ります。

ほとんどの農家は竹の柱と竹を編んだ壁でできています。屋根は草ぶきです。家は普通,地面から1~2㍍高いところに作られます。また,竹細工のマットのようなものが竹の“はり”にしっかりとさし渡されて床になっています。ふつう竹か丸太で作られている階段には,水がめとかんが置いてあります。水がめには屋根から流れ落ちた雨水がたまり,人々は家にはいる前にその水で足を洗います。ですから,伝道者も,戸別に証言を行なう際に足を洗ってから家にはいります。その家を去ると再び(季節によって)ほこりの道か泥の道をてくてく歩き,次の家でまた足を洗います。このように,証言の業が終わるまで一日中それを繰り返すのです。

ラングーンの証人は,大抵の場合,区域までバスで行き,区域へ着くと早速4階建てのアパートの階段を上り始めます。アパートには6世帯か8世帯住んでいます。ドアのベルを押すと家の人はドアののぞき穴から見ます。すぐにドアを開けないのも無理はありません。善人のような顔をした訪問者が家の中にはいるなり家人にピストルをつきつけて物を取るということがよく起きているからです。ですから,一つのアパートで一度も家にはいれなかったとか王国の音信を伝えられなかったとかいうことがよくあります。

様々な言語(ラングーンは国際都市なので)の書籍や小冊子と二冊の聖書(英語版とビルマ語版)がぎっしり詰まったかばんを肩からさげることを想像してください。頭から足まで汗をかいてくたくたに疲れてしまうことがあります。しかし他の国のエホバの証人と同じ様に,ビルマの証人も幸福です。「羊」のような人々が,偉大な牧者であられるエホバの声を聞いているからです。

1958年,ロバート・W・リチャーズ兄弟とその妻はカチン州に割り当てられました。二人はビルマ北部のバモーという町を基地にして活動しました。リチャーズ兄弟はこう述べています。

「バモーの住民はカチン族,カレン族,中国人,少数のシャン族およびビルマ族から成っていました。まわりに散在している村の住民の大半はシャン族とカチン族でした。カチン族の約半数はカトリック教徒とバプテスト派で,残りは精霊崇拝者でした。妻と私は二人とも自転車を持っていたので,最初の週の大部分を近隣の村々の訪問に費やし,日曜日には町で奉仕しました。私たちはどこでも親切に迎えられました。村人の多くはにわとりを飼っていましたから,私たちが帰ろうとすると,有り難いことに卵を持ってきてくれたものです。

「関心を示した人を次の週に再び訪問することにしました。ところが村人たちは全く意外な態度を示しました。友好的であることには変わりありませんが,『この土地での伝道を許可する牧師連盟の署名の入った手紙を持っていないなら,あなたがたと宗教を論じ合うことはできません』ときっぱり言ったのです。なんということでしょう。キリスト教世界の僧職者が,エホバの証人に耳を貸さないように自分の群れにせっせと警告していたのです。私たちは何をすべきでしょうか。ところで,イエス・キリストが私たちの立場だったらどうされるでしょうか。……私たちは伝道し続けました。

「少なくともカチン族のバプテスト教徒の間で広く普及していたヘブライ語聖書のカチン語訳には,エホバというお名前が何百回も出ています。キリスト教世界の僧職者は,その栄えあるお名前に対してどんな態度をとっていたでしょうか。ほどなくしてそれを知る機会がありました。私は英語の上手な退役陸軍大尉との聖書研究を取り決めました。その人の家族には教会へ行っている人が何人かいました。ある日,カチン族のバプテスト派の牧師がその家を訪問したので,家族の一人が勇気をふるい起こして,エホバの証人をどう思うか牧師に尋ねました。牧師の答えはショッキングでした。『そのエホバという名前を聞くとすぐ人糞のにおいをかぐような気がします』と言ったのです」。

カチン州の州都へ旅をした時のことをリチャーズ兄弟は次のように書いています。

「妻と私は,バモーから険しい山道を北西に185㌔行ったところにあるミッチーナへ,最後となるはずの訪問をすることにしました。荷物を満載したジープで6時間走るのは退屈なことでした。それで私たちは朝早く出発することにしました。

「その朝に限って何もかもうまくいかないように見えました。町の始発の旅客ジープに乗れず,3番目のジープにやっと乗れた私たちは時間を無駄にしたことでいらいらしていました。遅れたおかげで,捕まって誘かいされるか,悪ければ殺されるところを免れることになるとは夢にも思いませんでした。バモーから100㌔ほどの,とりわけ寂しい所で反乱者たちがひそかに道路わきにざんごうを掘って隠れていたのです。一味は私たちより先に出かけた2台のジープを奪いました。次は私たちの番でした。ところが突然,反乱者自身も驚いたことに,強力な護衛を従えた将校が反対の方向から偶然に通りかかったのです。反乱者たちは先頭のトラックに発砲し,兵士に数名の死傷者が出ました。しかし,後続部隊が反乱者を撃退しました。私たちは,負傷した兵士を乗せたジープから,止まれ,道路が片づくまでしばらく待て,と命令されました。私たちはその通りしばらく待ち,遅くなりましたが無事ミッチーナへ着きました。そのようにして助けられたことをエホバに心から感謝しました」。

チン丘陵とその付近における成果

1959年まで「良いたより」を宣明する業はもっぱらカレン族,カチン族,モン族を対象にして行なわれていました。しかし1960年11月に,インドとの国境に近い西部の処女地チン丘陵で証言の業を始めました。その区域は実に産出的な土地であることが分かりました。現在そこには20の会衆があります。その区域へ行った特別開拓者の一人,モリス・ラージの話によれば次の通りです。

「タハンはチン丘陵のふもとのほこりっぽい平原にあり……全く無秩序に広がった村でした。当時そこの人口は約5,000人で,その大半はインドから来たルシャイ族が占め,丘陵出身のチン族も少数いました。ルシャイ族はキリスト教世界の様々な宗派に属しており,チン族はカトリックとバプテスト派,残りの住民は精霊崇拝者でした。

「ルシャイ族とチン族は聖書をたいへんよく読んでいて,宗教を論じ合うのが好きです。私たちがタハンに着いたその晩に,40人ほどの人が聖書を討議するために集まりました。私たちの到着をどのようにして知ったのか分かりません。しかし,ともかく,それぞれ自分のルシャイ語の聖書を持ってそこに来ていたのです。そして,私たちに次々と質問を浴びせました。その人たちはビルマ語も英語も話せなかったので,私たちは通訳を用いなければなりませんでした。その人たちは夜の11時か真夜中まで座って質問したものです。それが何日も続きました。

「しばらくして夜の集まりに出席する人の数は減り,本当に関心のある人だけが数名残りました。私はさっそくその集まりを五つの定期的な集会に変えました。集会は通訳の助けを借りて行なわれました。

「一か月後には5名の人が野外奉仕に出ていました。協会は,タハンで私といっしょに働くようもう一人の特別開拓者の兄弟を派遣しました。……私たちは区域まで歩いて行く道すがら,互いにルシャイ語を話す練習をし合ったものです。それと同時に,戸口での証言を通訳してもらえる人がいないか捜しました。ある日私たちは乳牛の番をしていた少年を見つけ,ビルマ語が話せるか,また私たちの通訳をしてくれるかどうか尋ねました。少年は二つ返事でそれに応じてくれ,数軒で通訳をしたあと自分で証言し始めました。(2年後,私が巡回監督としてタハン会衆を訪問したとき,私が開拓者だったときのパートナーで主宰監督をしていたジェイムズ・ザビア兄弟は,見覚えのある活発な若い伝道者に私の注意を促しました。それは私たちの通訳をしてくれたあの少年でした。)

「7か月後,特別開拓者の姉妹二人がタハンに派遣され,私はラングーンに呼びもどされました。一年後には開拓者たちはルシャイ語を流ちょうに話していました……業は急速に進み,会衆が設立され王国会館が建てられました。それはビルマでエホバの証人により建てられた最初の王国会館でした。この会衆は13名のルシャイ族の特別開拓者を生み出しました」。

チン州で発展が見られた結果,1960年にビルマの王国伝道者は201名という最高数に達しました。同年,バプテスマを受けた人は38人を記録しました。1962年に伝道者数は増加し,216人という最高数に達しました。

その年の3月2日,兄弟たちがモールメインで巡回大会に出席しているときに,クーデターが起きたというラジオ放送がありました。むろん,エホバの証人はクリスチャンとして中立を守ります。しかし,政権が変わると証人の業にどんな影響があるかが疑問でした。新しい政府はさらに多くの宣教者がビルマに来るのを許すでしょうか。特別開拓者がギレアデ学校に出席するのを許すでしょうか。1961年,先の政府は二人の特別開拓者がギレアデに行くのを許可しませんでした。旅券を手に入れる二度の試みも失敗しました。しかし今度はどうなるでしょうか。

新しい軍事政権は信教の自由を保障しました。宗教が政治に干渉しなければ,自分たちも宗教に干渉しないという方針を取っています。政府から要請があったので,私たちはエホバの証人の業に関する十分の情報を提出しました。

エホバの証人の「永遠の福音」大会

当時王国伝道者が200人そこそこだったビルマのエホバの証人にとって,神の民の世界一周大会の一つを自分たちが開催するのは胸の躍るようなことでした。証人たちは1963年8月にラングーンで開かれることになっていたその「永遠の福音」大会を本当に楽しみにしていました。集会を開くことや拡声装置を使用することは厳しく規制されていたため,警察の特別許可をもらう必要がありました。かなり前から申請していたにもかかわらず,必要な許可は下りませんでした。あらゆる方面から当局に働きかけましたが,効を奏しませんでした。支部の監督は,大会のプログラムを印刷していた友好的な仏教徒と話しているときにたまたまその問題のことをもらしました。するとその人は助けになってあげましょうと言って必要な連絡を取り,時間に間に合うように許可をもらってくれました。

大会はラングーン市の公会堂で開かれました。簡易食堂を設ける際,“揚げ物のにおい”と普通言われているビルマ特有の問題にぶつかりました。先に説明した通り,ビルマの人々は,揚げ物のにおいが健康,特に病気の人の体に悪いと信じ込んでいます。兄弟たちは調理室として予約した部屋で料理することを許されましたが,公会堂付近には多くの事務所があったので,“揚げ物のにおい”を出さないようにと職員からきつく申し渡されました。そこで調理に当たった兄弟たちのうちの何人かは,“揚げ物のにおい”が朝8時過ぎには残らないようにするため午前4時前から仕事を始めなければなりませんでした。そうしなければ,恐らく抗議が来て,簡易食堂を開けなくなったことでしょう。兄弟たちのお陰で公会堂付近の人々との間には何の問題も起きませんでした。ちなみに,公会堂の一職員は,公会堂の中で調理するのを許されたのはエホバの証人が初めてだと語りました。

大会は忘れることのできないものでした。一度にそれほど大勢の外国の兄弟姉妹たちと会ったのは,ビルマの証人にとって初めての経験でした。訪問者の中にはN・H・ノア兄弟,F・W・フランズ兄弟,グラント・スーター兄弟もいました。

大会は8月8日に,310人の出席者を迎えて開かれました。その夜の感動的な結びの話の中で,スーター兄弟は長く待たれていた,「失楽園から復楽園まで」と題する本のビルマ語版を発表しました。

土曜日の午後6時にノア兄弟は「神が全地に王となるとき」という講演をしました。その時までに出席者数は603名という最高数に達し,兄弟たち全員が喜びました。そのうち推定100名は外国の兄弟,約200名はビルマの兄弟でしたから,一般の人が300名ほど出席していたことになります。それは実にすばらしいことでした。

その夜,ビルマで奉仕する10人の宣教者は,ノア兄弟とフランズ兄弟との会食を楽しみました。興味深い経験を交換したあと,宣教者一同は「忠実に働き続け,兄弟たちを築き上げ続ける」ようにとのノア兄弟による的を射た教訓を熱心に聴きました。ノア兄弟は,ビルマの証人の組織が迫害の火のような試練に耐え得るかどうかは主としてその時組織がどれほど円熟しているかにかかっているという点をはっきり指摘しました。

大会最終日には,「世界 ― 神の働く畑」と題する顕著な講話がF・W・フランズによって話されました。短い休憩の後,フランズ兄弟は2時間の話と結びの祈りをして,忘れ難い大会を閉じました。

外人宣教者の国外追放

ビルマの王国宣明者は1965年に270人の最高数に達し,証言の業は着実に発展していました。ところが1966年の5月に衝撃的なニュースがはいりました。外人宣教師は1966年6月30日までにビルマを去るべし,という政府からの通達が支部事務所に届いたのです。エホバの証人の宣教者だけでなく,キリスト教世界の宣教師も同様の通達を受けたことは言うまでもありません。そうした処置が取られたのは,キリスト教世界の宣教師たちがビルマの政治に干渉したためであることが,後日明らかになりました。カーク兄弟が英国へ去り,同兄弟の病身の夫人とそこで落ち合うようにし,バーバー兄弟とリチャーズ兄弟は夫人とともにインドへ去るよう取り決める以外になすすべがありませんでした。フランク・デワーとその家族はタイへ移りました。

ではビルマにおける業はどうなるでしょうか。外国人の兄弟はみなビルマを去りました。土地の証人たちは業を続行できるでしょうか。

兄弟たちは驚きましたが,失望しませんでした。エホバ神が自分たちとともにおられることを知っていたのです。(歴代上 28:20)協会はただちにモリス・ラージ兄弟を支部の監督に任命し,ダスタン・オニール兄弟は巡回奉仕をすることになりました。そうです,ビルマの神の民はそれまで通り活動しました。事実,証人の業は引き続き前進し,エホバの手が短くないことを示しました。―イザヤ 59:1

業の拡大

1966年の末ごろ,支部事務所はビルマ北部のカチン州の州都ミッチーナでの証言活動を開始しました。カチン族の大半はキリスト教世界のどれかの宗派に属しています。しかし他の場所におけると同様,そこでもキリスト教世界の諸宗派は人々を暗やみに導いています。それらに所属する若い人々の多くは反乱者に加わり,橋の爆破,旅客列車の転覆,その他を行なって密林地帯に混乱を引き起こしていました。しかしカチン族のある人々,特に年配の人々はほかの場所に導きを求めていました。エホバの証人が神の王国の音信をそうした人々に宣明するのは時宜にかなっていました。

ミッチーナへ行ったカチン族出身の特別開拓者,ラバング・ガムは非常に熱心に働き,最初の数か月間,朝から晩まで戸別に証言しました。牧師が気づいたときには,協会の雑誌が町にあふれ,人々はみな証人のうわさをしていました。そのあと攻撃の波が押し寄せて来ました。どの教会でも日曜日ごとにエホバの証人を攻撃する説教が行なわれました。人々は,開拓者と話してはいけない,開拓者から文書を受け取ってはいけないと申し渡されました。それにもかかわらず,関心は高まって行きました。実際,開拓者一人では関心のある人々の世話がしきれないほどだったので,もう一人の開拓者が援助者として派遣されました。増えてゆく人々の世話を二人でも見きれなくなったとき,さらに何人かの開拓者が派遣されました。半年してミッチーナ会衆が設立され,1968年には王国会館が建てられました。

ミッチーナ会衆の大勢の伝道者が特別開拓者に任命され,モンヒン,バモー,カサ,プタオに派遣されました。ラショーへ行った開拓者たちは大きな成果を収めたので,一年たたないうちに会衆が設立されました。ラショーの証人たちは王国会館も建てました。それは,草ぶき屋根で竹のマットを敷いた会館です。現在カチン州では9か所で証言の業が行なわれています。内陸部のカチン族の人々は非常に強い関心を示しているのですが,反乱者がいるために開拓者をそこへ派遣できないでいます。

1966年12月,支部の監督は広範な旅行を行ない,すべての会衆と孤立した群れのほか幾つかの新しい土地を訪問しました。多くの特別開拓者たちが新たに任命され,未開拓の区域に派遣されました。その結果,証言の業は引き続き拡大して行きました。

勤勉な地帯の監督からの援助

ここで,ビルマ支部を訪れた地帯の監督たちとその勤勉な働きについて述べるのはふさわしいと思われます。ある時ビルマ政府は,外国からの旅行者を受け入れないことがありました。そのため地帯の監督の一人,ロナルド・ジャカはわずか24時間の滞在しか認めないトランジット・ビザで入国しなければなりませんでした。ジャカ兄弟は午後7時にミンガラドン空港に着き,税関で型通りの手続きをすませたあと午後9時に支部に到着しました。その夜の10時に仕事を始め,支部の監督のラージ兄弟とともに一晩中働きました。二人とも一睡もせず,翌朝の5時に空港へ向かいました。インドのT・H・サンダーソン兄弟が地帯の監督としてビルマを訪問したときにも,同様に徹夜で仕事が行なわれました。短い訪問ではありましたが,地帯の監督の訪問は大いに感謝されました。

異なっていた大会

1969年の「地に平和」地域大会は,いつものラングーンではなくミッチーナで開かれたという点で異なっていました。ビルマの主要な交通機関は汽車か汽船です。乗り物は例外なく混んでいて,乗客が屋根に上ることも少なくありません。協会はミッチーナ行きの列車に車両を増結してもらうよう手配しました。ビルマ鉄道の当局者は非常に協力的で,ラングーンからマンダレーまで2両,マンダレーからはさらに2両を増結してくれました。その取り決めがなかったなら,二日二晩満員の汽車にゆられてラングーンからミッチーナまで1,162㌔の旅をしなければなりませんでした。しかし,それは不可能に近いことでした。

南ビルマからの出席者たちは土曜日にラングーンを出発し,日曜日の朝マンダレーで,チン州とシャン州からの出席者に会いました。一行はその夜遅くマンダレーを出発することになっていたので,戸別の伝道の業が計画されました。

協会は出席者たちがマンダレーとモンヒンで食事を取るように取り決めました。普通,食事どきに汽車が駅に止まると,乗客は食物を買うために駅の売店に殺到します。しかし,食物が売り切れてしまって多くの人は食事にありつけないということが少なくありません。ところが,証人たちは汽車の中で居ながらにして弁当を受け取ったのです。駅の売店の弁当は少なくとも2チャット(約58円)しましたが,その弁当は一食わずか80ピア(約24円)にすぎないことを知って,証人たちはほんとうに喜びました。ある兄弟は感謝の気持ちをこう語っています。「協会の配慮を心から有り難く思っています。うちは八人家族ですから,この取り決めがなかったなら,一食だけで20チャットかかったでしょう。しかし6.4チャットだけで済みました。しかもおいしい弁当でした」。

それら旅行するクリスチャンたちは物質の食物だけでなく霊的な食物の世話も受けました。8人の開拓者が汽車の中で聖書の話をするように割り当てられたのです。

大会のために大きな竹のドームが建てられました。本会場は中心部に支えとなる柱が一本もなく,屋根以外はみな竹で作られました。まず竹の柱が等間隔に向い合わせに地面に打ち込まれると,比較的身軽で敏しょうな男の人たちがそれぞれの柱を登り始めました。柱を曲げるためです。柱を登るこの作業は,非常に慎重にゆっくり行なわれねばなりません。竹が互いに内側に曲がり,先端が中央で会うと,男の人たちはそれらをいっしょに縛りました。縛るひもも竹材が使われました。というのは,竹は非常に薄くそいで水につけると,格好のひもになるのです。熟練した人が竹を薄くけずる手さばきと速さは実に見事なものです。最後に竹のドームには草ぶきの屋根が付きました。

簡易食堂のテーブルも竹と竹製のマットで作られました。そう言えば,近くの井戸から簡易食堂に水を引くといは,縦に真っ二つに割って節をくり抜いた竹が使われました。大会中,竹は水やスープの入れ物として用いられました。

大会出席者たちは十分の報いを受けました。というのは,一つの大会でビルマ語の新しい出版物が三種類も発表されたことはそれまでになかったからです。「心に音楽をかなで…歌いつつ」という新しい歌の本のほかに,「神が偽わることのできない事柄」および「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する本を受け取って,聴衆は大いに喜びました。これらビルマ語の新しい出版物に加えて,五つの新しい英文の出版物も発表され,出席者たちは祝福されました。

三つの聖書劇が上演されました。必要な衣装をどのようにして整えたでしょうか。ビルマの服は驚くほどうまく,古代イスラエルの服に変えられるのです。ルシャイ族のサロンはそれにたいへん適しています。劇の出演者たちはそれぞれ自分の衣装を持ってきました。ところがダニエルの役をする兄弟は衣装を持ってくるのを忘れてしまいました。その中には白髪まじりのひげも入っていたのです。すぐになんとかしなければなりません。

幕が開き,劇が始まりました。そして年老いたダニエルが登場します。“衣装係”の人たちは救護係から綿とばんそうこう2枚をもらい,それを中表にして縫い合わせ,一方を顔につけ,他方には綿をはりつけました。白髪まじりの色にするため,粉炭と灰を料理用の油とまぜ,それを綿にすり込みました。こうして「ダニエル」はステージに出ることができました。

さらに大きな拡大を図る

1970年中,わたしたちは業をさらに拡大することに努めました。当時,ビルマ北西部のナガ丘陵では,神の王国の音信が宣明されていませんでした。それで二人の特別開拓者が4月にカムティに派遣されました。その二人はそこで関心を持つ人々を大勢見いだしました。なんと,わずか一週間後に5名の人が集会に出席していました。

しかし急速な進歩も長くは続きませんでした。兄弟たちは24時間以内にカムティ県(ナガ丘陵)から立ち退くように,さもなければ投獄するという命令が政府から出されたのです。その理由は何も説明されませんでした。開拓者たちは訴えましたが無駄でした。その問題を扱っていた役人は二人がカムティを立ち退くべきだと決めてかかっていたからです。カムティへ行くにもそこから出るにも交通手段は飛行機しかなく,しかも飛行機の便は毎日あるわけではありません。それで兄弟たちは,次の飛行機便は制限時間内にないので,24時間以内に立ち退くことはできないと役人に話しました。

それでも役人は,二人が24時間以内に立ち退かねばならないと言って譲りませんでした。「しかし,どのようにしてですか」と兄弟たちは尋ねました。「竹でいかだを作り,それで川を下るんだ」という厳しい返事でした。急流を何百㌔もいかだで下るのは絶対に不可能なことです。しかし,どんなに事を分けて話しても無駄でした。特別開拓者のウィン・ペ兄弟とアウン・ナイン兄弟は非常な窮地に立たされました。が,エホバは二人を見捨てられませんでした。思いがけなく空軍の飛行機がカムティ飛行場に着陸したのです。それで当局は兄弟たちをミッチーナへ無料で送り返しました。その後,関心ある人々は手紙で援助を受けました。

そのころチン州のティッディムで意外な問題が起こりました。インドのミゾ族の反乱者が国境を越え,ティッディムの幾つかの場所に放火をして自分の国へ帰りました。ミゾ族は,ビルマではルシャイ族として知られています。したがってルシャイ族の多くの人々は,それら外国の反乱者の支持者ではないかと疑われていました。その町で特別開拓奉仕をしていたルシャイ族出身の二人,ラル・チャハナとチャル・リアナは反乱者の手先であると偽って訴えられ,留置場に入れられました。そして6か月間勾留された後やっと釈放されたのです。同じ時,同様の理由で,カンパトの二人の特別開拓者,B・T・ルアラとヴァイ・チュンヌンガはタム刑務所に入れられました。二人は6か月後に無罪放免となりました。

さらに様々な問題にぶつかる

それから間もなく,チン州のバンナの兄弟たちは,クリスチャンとして中立の立場を守ったために反対に遭いました。選挙の投票は強制的なものでした。兄弟たちが,宗教的な信念と,この世から離れているという決意ゆえに政治に参加することを拒否したところ,戸別に証言することが禁じられました。(ヤコブ 1:27)またエホバの証人の子供たちは放校処分を受けました。そのため支部の監督はその地方の兄弟たちに会って励ますために妻を伴って出かけました。ラングーンからカレミョーまで飛行機で行き,カレミョーからハカまでトラックで行きました。その“バス”は22人しか乗れなかったにもかかわらず,車内に50人余りの人がひしめき合い,屋根の上には10人ほどの人が乗っていました。天候の関係で道がたいへんぬかるんで滑りやすかったので,わずか180㌔の道のりを二日かかって旅行しました。海抜1,800㍍から2,400㍍の高さの所を曲りくねった危険な道が走っていました。ハカから,問題の起きていたバンナとマイカに至る最後の行程は馬に乗ったり歩いたりして進みました。土地の様々な当局者と話して,信仰に基づく証人の中立の立場を説明する機会が与えられました。その訪問によって励まされた兄弟姉妹たちは,大いに感謝しました。兄弟姉妹たちは強い信仰を持っており,神に忠節であり続けることを決意しています。

事態がやや収まり,カムティの当局者に移動があったので,そこの関心のある人々を援助するため別に4人の特別開拓者が派遣されました。数か月以内に三つの群れが組織され,16名が野外奉仕を報告するようになりました。

開拓者たちは密林の奥深くまで入って行き,王国の音信を携えてすべての村人を訪問しました。それは明らかにキリスト教世界の僧職者をいら立たせました。彼らは巧妙な言葉と虚言をろうし,兄弟たちが反乱者の手先であると当局者に思い込ませました。いろいろ尋問された後,兄弟たちは七日以内にその地域から立ち退くように命令されました。どう説明しても聞き入れられませんでした。期限の最後の日が来たとき,開拓者たちは州議会の事務所に行き,その日に交通手段は何もなく一日か二日留まらねばならない旨説明しました。しかし当局はその日の日没以前に立ち退くようにと言って譲りませんでした。それで,Z・リアニ姉妹のほかS・デワー兄弟,B・マウィア兄弟,バ・イー兄弟は身の回り品を持って,ただちにカムティを去らねばなりませんでした。一行はその晩村里にたどり着くまで歩き続けました。しかし,あとに残った兄弟たちや関心のある人々は依然として真理に堅く立っており,定期的に「良いたより」を宣明しています。

印刷の問題に対処する

キンミョージン(ビルマ語の「ものみの塔」)の生産は急速に増加し,発行部数は1967年1月に8,500部に達しました。その後,1967年5月号から毎月5,000部に限定するようにという政府からの通達があったために発行部数の増加は止まりました。さらに悪いことに,1972年4月,当局者は5,000部ではなく3,000部用の紙しか供給できないと言ってきました。それは必要な数をはるかに下回る部数でした。どうすればよいのでしょうか。祈りによってエホバ神に問題をゆだねる以外にありませんでした。

支部の監督モリス・ラージは第九貿易会社の支配人に特別の面会を求め,ただちに応じてもらえました。ラージ兄弟はものみの塔協会が外貨,つまり米ドルで紙を買えることを支配人に話しました。それは支配人にとって非常に魅力的なことでした。「ただし,1万冊分の紙をわけていただけるならばの話ですが」と,ラージ兄弟は言いました。その結果はどうだったでしょうか。翌月には1万冊の雑誌を印刷することができたのです。そして1975年1月以降,月に2回発行されるようになり,合計2万冊印刷する特権を得て来ました。

ビルマ語の雑誌がどのように印刷されるかを説明しましょう。印刷予定の号の内容をタイプしたものを4部作成して,承認を得るためにそれを印刷出版局に提出しなければなりません。許可が出るまでに1週間,時には1か月かかることがあります。印刷の許可を得たなら,次に紙の購入許可を申請します。そのためにさらに1週間ほどかかります。紙の管理事務所からもらった許可を持って,紙を購入するために(紙の)倉庫へ行きます。そこで購入する順番を待たねばなりません。

雑誌が印刷されると,それを印刷機から支部事務所に運ぶ前に,17部を印刷出版局に送らねばなりません。そこでは印刷された雑誌の内容が先に提出された写しと一致しているかどうかが検査されるのです。削除したり付け加えたりすることは一切許されません。“オー・ケー”の証明書が出たら,証明書と「ものみの塔」誌5部とを紙の管理事務所に提出します。その事務所は印刷機のところで紙が実際に申請書に書かれている通りに用いられていることを検査します。このような手続きが各号ごとに,来る月も来る月も行なわれるのです。

旅行する監督と共に旅をする

特に1967年以降,証言の業は急速に発展しました。特別開拓者たちや二人の旅行する監督D・J・オニールとJ・T・ザビアを含むビルマのクリスチャンたちにエホバの祝福があったので,4年以内にビルマの証人の数はほぼ2倍になりました。伝道者の増加は1968年に24%,1969年に26%,1970年に18%,1971年に12%でした。その4年間に276人が神への献身の象徴として水のバプテスマを受けました。したがって1971年当時のエホバの証人のほぼ半数は,それまでの4年間にバプテスマを受けた人々でした。同年に巡回区は三つになり,3番目の巡回監督は,1966年に国外に追放された特別開拓者フランク・デワーの息子,ドナルド・デワーでした。

ここで,巡回監督が経験した問題のいくつかをお話ししましょう。信仰の仲間を訪問するために,巡回監督たちは混み合った汽車やバスや船に乗ることがよくありました。時には汽車やバスやランチの屋根の上に乗ることもありました。反乱者たちが橋を爆破したり,道路に地雷を敷設したりする所もありました。チン丘陵の旅行はほとんど徒歩です。しかも海抜2,400㍍の高さまで登らねばならないのですから,それは楽なことではありませんでした。山岳部にある会衆全部を訪問するのに,旅行する監督は800㌔ほど歩かなければなりません。また監督たちは道中,炊事道具ばかりか食糧も運ばねばなりません。さらに野獣に襲われる危険もあります。例えばジェイムズ・ザヴィアはトンザングからティッディムまで一人で旅行していたときにヒヒの群れに出会いました。一番大きなヒヒにじっと見られたとき,ザヴィア兄弟はひどくおびえました。兄弟はそのときのことをこう語っています。「私はつえを持ち上げ,あらん限りの大声で叫びました。ヒヒの群れが少し動いたとき,私はできる限り早く歩きました。そのあと雨が非常に激しく降って来ました。道中のある村にたどり着いたとき,私は寒さの余り力が尽きそうでしたが,とても親切なバプテスト派の牧師の家で雨宿りをさせてもらいました。温まりながら,私はその牧師と聖書について良い話し合いをすることができました」。

ドナルド・デワーは,チン州のハカからレイタクまで68㌔の道のりを一日で歩いてしまうのがよいと考えました。夜明け前に起きて弁当をバナナの葉で包み,出発しました。デワー兄弟と連れの兄弟は途中あまり休みを取らずに,速足で歩き続け,幾山も越えて行きました。最後の5㌔は,非常に険しい岩はだの山をずっと登り続けなければなりませんでした。デワー兄弟は,大変苦労しながら連れの兄弟に助けられてやっと予定通り旅を終えましたが,次の日には起き上がるのが精一杯でした。

ビルマでは所によりバス旅行でさえ楽ではありません。ある日,ビルマの有名なルビーの採れるモゴクから乗客を一杯乗せたバスが曲りくねった道を下っているときに惨事が起きました。ドナルド・デワーや他の多くの乗客はバスの屋根に乗っていたのですが,運転手が突然ハンドルを切りそこねて事故を起こし,数人の人が致命傷を負いました。その時デワー兄弟は足を折ってマンダレーに行くことになりました。

しかし,ほかにも危険がありました。ジェイムズ・ザヴィアはこう語っています。「トラック[つまりバス]でロイコー(カヤ州)からタウンジー(シャン州)へ行く途中,乗ったトラックが政府軍と反乱軍の銃撃戦にぶつかりました。私たちはトラックから飛び降りて,戦闘がやむまでトラックの下に隠れていなければなりませんでした。あとで私たちは兵隊の死傷者を近くのシサイング村の病院へ運びました」。

統治体の成員による援助

統治体の成員による訪問は非常に有益で励ましのあるものでした。それらの兄弟たちの示す謙そんさや神の民に対する愛ある関心は,ビルマの兄弟たちに深い感銘を与えました。例えば,1973年1月24日から27日にかけてビルマを訪問したM・G・ヘンシェルは,ビルマの兄弟たちと進んで交わりました。どの人もその謙そんさに打たれました。

N・H・ノア兄弟とF・W・フランズ兄弟は1975年1月にビルマを訪問しました。二人はラングーンのガンジー記念ホールで話をする予定になっていましたが,当局が公の会館での集会を禁止することが直前になって分かりました。ウ・タント故国連事務総長の葬儀に関連して急進的な学生と悪質な分子が騒動を起こしたためです。それで,すでにガンジー記念ホールに集まっていたおよそ500名の兄弟や関心のある人々は,近くの王国会館へ移るように求められました。王国会館の収容能力はわずか150人ほどでしたが,その晩は270人がひしめき合い,ノア兄弟とフランズ兄弟の話を聞きました。200名余の人は話を聞かずに家へ帰らねばなりませんでした。しかし続く二日間,600名を超す人々はエリック・マーセリーンの家の庭に集まり,ピクニックのような形で木の下に座りながら霊的食物を楽しみました。ビルマの証人たちは訪問者のために種々の出し物から成る優れた余興をしました。それにこたえて,F・W・フランズはハーモニカを演奏し,旅行の同行者たちは歌をうたいました。

1977年3月,統治体のジョン・ブースは,ブルックリンのベテルの成員であるドン・アダムズ兄弟とアダムズ姉妹と共にビルマを訪れました。その訪問もビルマのエホバの民にとって楽しい機会になりました。訪問に合わせて,ラングーンから約16㌔離れたインセインのシオンの丘で大会が開かれ,ビルマの北部から大勢出席しました。この時も,ビルマの証人たちは,訪問者のためにたいへん興味深い余興をしました。

統治体の成員による最近の地帯訪問は,1978年1月のL・A・スウィングルによる訪問でした。オッカラパの大会に集まった302名の人は,神の預言者エレミヤのように忍耐するようにというスウィングル兄弟の励みとなる話を聞きました。訪問中,同兄弟は新しいベテルの家の献堂式でも話をしました。その時の出席者は248名でした。ところで,その建物を入手したいきさつをお話ししましょう。

新しいベテルの家の購入

ある日曜日,支部の調整者は野外奉仕に携わったあと,一人の兄弟を訪問しました。二人の会話の中で,N・H・ノア兄弟が1962年の訪問の時以来新しい支部とベテルの家の施設を見つけることを望んでいたという話が出ました。協力的な精神にあふれていたその兄弟は,すぐ近くにとても良い所を知っていると言いました。支部の調整者ラージ兄弟がその兄弟について行ってみると,そこは20アールの敷地にある2階建ての建物で,非常に適した所でした。建物は将来の拡大にも間に合うほど大きく,十分の寝室と事務所用の部屋もあり,王国会館に使えそうな所もありました。

翌日,調整者は支部の他の成員たちをその建物に連れて行きました。調整者の妻ドリスは,建物の持ち主の夫人が学校友だちだったことを知って驚きました。ラージ姉妹はまもなくその家の子供たちとの聖書研究を始めました。ラージ兄弟が両親に研究を勧めたところ,母親は,「勉強しますが,宗旨を変えるつもりはありません」と言いました。カトリック教会にすっかり失望していた父親の方は,どちらでも構わないという態度でした。こうしてラージ兄弟は両親との聖書研究を始めました。3か月後,二人はそれが真理だということを悟りました。そして家の中にあった宗教関係の像を処分し,教会へ行くのをやめました。次の地域大会で両親と長男はエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けました。後にその家屋はエホバのクリスチャン証人の名儀で正式に登録されました。1978年1月,スウィングル兄弟はビルマのベテルホームと事務所のための献堂式の話をしました。

業は前進し続ける

種々の妨害にもかかわらず,証言の業は前進し続けました。1972奉仕年度の終わりまでには644名の王国伝道者を数え,7%の増加を示しました。1974年には5%の増加にあたる762人が野外奉仕を報告し,111人が神への献身の象徴としてバプテスマを受けました。1975年中,ビルマの兄弟たちは一生懸命に働き,14%の増加をもって祝福されました。その年,108人がバプテスマを受け,王国伝道者は822人という最高数に達しました。1976奉仕年度も845人という伝道者の最高数をもって終わりました。協会の本部で開かれた支部委員の集まりに関連して,同年10月にモリス・ラージ兄弟姉妹はニューヨークのブルックリンにある協会の本部に滞在する特権にあずかりました。

1977奉仕年度中,ビルマの王国伝道者の数は1%減少しました。ビルマのエホバの証人の歴史上減少を見たのはその時が初めてでした。何が原因だったのでしょうか。

インフレが一つの原因だったと思われます。例えばほんの数年前までコーヒー1㌔は約15チャットでしたが,1978年の初頭までにそれが187チャットにもなりました。これは実に1,114%の上昇です! したがって多くの証人や関心のある人々は生活費をやりくりするため非常に忙しく働きました。そのために,ある人々は霊的な事柄に対する認識を失ったものと思われます。

また,喫煙やビンロウジの実をかむことをやめていたのに再びその汚れた習慣にもどった人もいます。1975年から1977年にかけて,その理由だけで32名の人が排斥されました。

期待していたことが1975年に起こらなかったのでエホバの証人と交わるのをやめた人々もいました。それらの人々は,神の約束に対する関心を失うと,この世的な関心に心を奪われました。このようなわけで,1977奉仕年度が終わったとき,ビルマの王国伝道者の数は1%減少していました。

とはいえ大部分の兄弟たちは霊的に弱くなったりはしませんでした。神聖な奉仕に忙しく携わり,多くの祝福を受けました。1978奉仕年度の初めに区域全体で証言活動が再び拡大し,毎月王国伝道者の新最高数が得られました。1977年の9月に4.3%の増加がありました。10月に5%,11月に8%,12月に11%の増加があり,その月には903名が野外奉仕報告を出し,初めて900名台になりました。そのために,ビルマで四つ目の巡回区を作ることが必要になりました。

ビルマのエホバの僕には様々な種類の人々がいます。例えばT・タマングはヨガを行なっていた筋金入りのヒンズー教徒でしたがエホバのクリスチャン証人となり,過去20年間監督を務めています。タマング兄弟の努力を通して多くのヒンズー教徒が,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンを離れて真の神エホバの賛美者となるように助けられました。―啓示 18:1-5

前途を見る

聖書の真理の光がビルマで輝き始めたのは1914年のことでした。しかし,王国の業がふさわしく組織されたのは1926年になってからでした。第二次大戦中に業はすっかり止まってしまいましたが,戦後1946年に8人の王国伝道者をもって再び開始されました。最初1947年と1948年に外国の宣教者がビルマに派遣されましたが,彼らは1966年に追放されました。1946年から1977年12月に至る32年間に伝道者数は8人から903人になりました。1978年の3月中その数は905名という最高数に達しました。同年3月23日に行なわれたイエス・キリストの死の記念式にビルマ全国で2,174人が集まったのは大きな喜びでした。

現在の邪悪な体制に終わりが臨む前に,神は羊のような人すべてをクリスチャン会衆の交わりに必ず導き入れられる,ということをわたしたちは知っています。イエスは「王国のこの良いたよりは……宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と言われました。(マタイ 24:14)したがって,この業は果たされた,と神が言われるまで,わたしたちは揺らぐことなく王と王国を宣伝し続けます。そして将来,ビルマの真のクリスチャンにもたらされる祝福を見ることを心から待ち望んでいます。

[36ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

インド

中国

バングラデシュ

ラオス

タイ

ビルマ

プタオ

カムティ

ミッチーナ

カレミョー

ラショー

メイミョー

マンダレー

ヘンザダ

ラングーン

バセイン

モールメイン

タボイ

メルグイ

ベンガル湾

アンダマン海

シャム湾